大雨の夜
三題話
お題
「ひく」
「雨」
「たまる」
その日は大雨の夜だった。
私はいつも通り残業を終わらせて、自宅へ戻る途中だった。
この住宅街の狭い路地を通り抜けると近道になるから、いつも利用している。
疲れていて早く横になりたかった私は、制限速度をあまり意識していなかったと思う。十字路での徐行もしていなかったかもしれない。
だからなのだろう。気が付いたときにはもう黄色いカッパを着た女の子が目の前にいて、まるで突然ソコに現れたかのように錯覚したほどだった。
大雨の中でも響き渡るけたたましいブレーキ音。そして女の子を轢いた衝撃と、へこんだボンネット、ひび割れたフロントガラスが現実を私に知らしめた。
情けないことに私は、事故に気が付いて外へ出てきた近所の人に声を掛けられるまで呆然と、頭も体も完全に停止していた。
初めてのエアバッグはとても熱くて、とても痛かった。だけど女の子はもっと痛かったのだろう。
それから誰かが通報した警察と救急隊が到着して、私は事情を説明することとなった。
だけどここでおかしなことがあった。
轢いたはずの女の子が見付からなかったのだ。今となっては、それが女の子だったのかさえ曖昧なのだが。
頭まで黄色に覆われたその子供は、水玉模様のかわいらしい傘も差していたような記憶がある。だから女の子だと思ったのだろう。だけどどこにも見当たらない。
ただ事実として、私の車が破損しているということがあるだけ。
後日知らされたことだが、付近で行方不明になった児童もいなかったそうな。
…
壁に突っ込んだわけでもなく電柱にぶつかったわけでもなく、私が起こした事故は事故でもなんでもなく、ただ車が破損しただけということで決着した。
したのだが、私は。
私の心は、子供を轢いてしまったという確かな実感で苛まれていた。
夜、目を閉じると繰り返される光景。
はね上げたときに一瞬だけ見えた、女の子の顔が。
どうしようもなく、歪んでいる。
醜く崩れた無表情が、脳裏から離れない。
水玉模様の傘。
黄色のカッパ。
小さな女の子。
そして、その時の衝撃が、再び蘇る。
「――――はぁっ」
カチカチと規則正しく音を刻む掛け時計の針は、二時十五分を指していた。
◇
一週間が過ぎ、一月経ち、そして半年一年と月日が過ぎて、いつからか私はちゃんと朝まで眠れるようになっていた。悪夢を忘れることはできないけれど、意識しなければ思い出さなくなるほどに記憶を薄れさせることが、ようやくできるようになった。
それでも、まだあの瞬間を鮮明に思い出すことが出来る。
脳内のフィルムに焼き付けられたその光景は、色褪せることなく残留している。
問われない罪が、どうしようもなく枷になる。
あの事故からしばらくは車の運転をしなかった。いや、できなかった。
運転席に座るだけで動悸がする。久しぶりの運転はハンドルを握る手が震えた。
今ではもう、以前のような生活をすることができるようになったけど。
今日はあれからちょうど一年。
同じ日の同じ時間。
同じ……大雨の夜。
私は同じ道に来ていた。
…
残業を終わらせて、自宅へ帰る途中。
近道の住宅街を抜けてゆく。
今夜は大雨で、視界がとても悪い。
幾晩繰り返されてきた悪夢が、脳裏をよぎる。
無人の十字路をいくつか通り過ぎ。
あの場所へ差し掛かる。
時間は午後十時二十二分。
これもあの時と同じ。
だけど、一つだけ違うことがあった。
ざざざざーっ。
こうしてすぐに止まれる徐行運転だった。
「――――っ」
十字路の真ん中に、子供が立っている。
ハイビームに照らし出された、水玉模様の傘と黄色のカッパ。
それは紛れもなく一年前に見た姿で。
「…………」
振り返りこちらへ近付いてくるが、フードを被っていて顔は見えない。けどあの子だという確信があった。
運転席のところまで来て、こんこん、と窓を小さな拳で叩く。
私は窓を下げて、顔を出した。
こちらを見上げるその子は、やはり女の子だった。
「――こんばんは」
口を開いた女の子は無表情のまま。
私は何て返せばいいのかわからなくて、黙っていた。
「ごめんなさい」
その一言だけを残して、女の子は歩いて行ってしまった。
サイドミラーに映るその子の姿が見えなくなるまで、私は動くことが出来なかった。
◇
その日の夜、久し振りにあの場所での夢を見た。
私は車で通り掛かり、女の子が十字路の真ん中に立ち尽くしている。
でも雨は降っていないし、外はまだ明るい。
オシャレなブラウスとチェックのスカートで、何か特別な日なのだろうかと想像させる。
女の子が見ている方向から、母親らしき人が小走りでやってきた。
車の存在に驚いたようだが、私が先に行くように促すと、その母親はこちらへ小さく会釈をしてから女の子と二人で横切って行った。
その後、安全を確かめてから十字路を抜ける。
事故は起こらず無事に帰宅することができた。
大雨の夜