僕の春の大冒険

春になったら

あのとき、僕は誰のために泣いたんだろう。
聞くまでもない。
それは間違いなく自分のためだ。自分のためだけに僕は泣いた。
自分の惨めさに、寂しさに、満たされない心のために。
自己愛? 利己主義? 結局僕らは、自分のためにしか生きられない?


その後で少し優しい気持ちになったのはなぜだろう。



それで、春は、僕のもとにもやってきてくれた。
ふわふわ優しい春の風が吹く度に、遠くへ行こうという気分にさせられる。遠く、知っている人なんか誰一人もいないような。それはセンチメンタルな現実逃避とかじゃなく、新しい、ポジティブな何かをつかめるんじゃないかというある種の希望に基づいたものだ。きわめて前向きなもの。



「僕らはどこへでも行ける。」
春になると、僕はこの言葉を思い出し、つぶやく。
僕はこの言葉をぎゅっと抱きしめなければならない。そうしないと、あいつの存在を忘れてしまうから。恐ろしくて理不尽でかわいそうなあの男の事を。僕はこの言葉の意味を、間接的にではあるけど、あの男から教わった。大切な事はいつだって苦しくて、恐ろしくて、吐き気がするほど嫌なものから学ぶ。




僕は、お金など持っていなかった。シャワーは二日に一回ですまし、電車は使わず、基本は自転車で移動した。食事に関しては、朝飯は抜きで、昼飯は八百屋でもらったキャベツの葉っぱとマヨネーズで味付けしただけのパスタ。それをタッパーにいれて大事に学校へ持っていった。ほぼ毎日だ。奇妙な目で見られていたのは明らかな事実で、雨の降る、切なく気怠い日曜などにはそれを思い出して涙さえ流したものだ。夜は、白米と実家から送られてきた、ちょっとしたお惣菜。それでお腹いっぱいになる事などあるわけもなく、常に腹をすかせていた。
バイトは週6でなんとか、本当になんとか暮らしていた。つぶれかけの個人塾で、はなたれの小学3、4年生に算数と国語を教えた。いや、教えたというか、はしゃぎ回る子供たちを制していただけだったかもしれない。

もちろんそれだけでお金が足りるはずもなく、アパートから歩いて3分くらいの所にある古本屋でも、僕はアルバイトをした。名前は「樋口書店」。通路は大人一人がぎりぎり入れるくらいで、振り返って後ろの書棚を見るのは骨の折れる作業だった。店長の樋口じいさんが裏のこたつから出てくるなんて事は、滅多になかった。ずっとテレビを睨みつけ、たまに爆笑し、静かに昼寝をした。こたつから出てくるとすれば地震のときくらいだった。どんなに小さな地震でも、じいさんは必ずこたつから出てきて「地震だ、地震だ」とわめいた。そのときの哀れな顔といったら、大好きなリンゴを横取りされた子供のチンパンジーみたいだった。
客などほぼ来ない。町で唯一の純文学を扱う古本屋なのに(だから)誰も来ない。適当に積み上げられたそれらの本は、表紙と背表紙を密着させながら、変わらない毎日を慰め合いながら過ごしているようだった。そんな風だったから、僕はカウンターでじいさんの使い古された黒いリクライニングチェアに深々と腰掛け、並んでいる本を片っ端から読み進めていった。時間も体力も、掃いて捨てるほどあった。僕は次々に、味方になってくれる素敵な作家を見つけ出し(特にヴォネガットとアーヴィングは当時の僕のヒーローだった)、この書店にない分を他の古本屋で買いためた。その度にじいさんの顔が脳裏をよぎったけれど、それは決まってテレビを見ながら爆笑する顔だったから何の意味もなさなかった。
そんなふうに僕は何の躊躇もなく本を買いまくり、気づけば部屋はいっぱいの本で埋め尽くされた。本以外に僕の部屋に価値のあるものなんか何もなかったと思う。机もなかったし、冷蔵庫もなかった。そうやって残ったお金は、中学生のお小遣い分くらいだった。それでも僕はこのバイトを止めなかった。
樋口書店はある種の暖かさに包まれていたように思う。例えば秋の午後には、この小さな古本屋はどこよりも切なく、優しい場所になる。秋の涼しく心地よい風が、書店の隣に植えられた照れ屋の女の子みたいに紅色に色づき始めたポプラの木々を、ふんわりなでる。その度に赤・黄の鮮やかな葉が、どこかあきらめたみたいに、どこまでも透き通った青空へ舞った。日曜日などには小さな子供たちがその小さな両腕いっぱいに葉を抱えて、僕のところへ持ってきてくれた。
僕は本屋を通り過ぎてゆく様々な人々をガラス越しに眺めて過ごした。ベビーカーを押しながら楽しそうに笑うシングルマザーや、孫と歩く老夫婦、無垢な笑顔ではしゃぎ合う高校生のカップル。僕は素直な気持ちでみんなの幸せを願えたし、過ぎてゆく時間を大切に思えた。そんな風に、この樋口書店では少しセンチメンタルで素敵な秋を過ごす事ができた。けれど、その幸せそうな光景は、同時に世界は僕とじいさんだけを置いて回っているようにも思わせた。バイトだけの生活で大学なんか行かなくなっていたから友達も少なく、他には何もしていない。そしてその友人たちも暖かい彼らの居場所へと、振り返る事もなく、最後には僕を置いて戻っていく。ずっとこのままかもしれない、何一つ変わらないかもしれないと、何となく思ったりもした。
「じいさん、僕はこのままでいいのかな?」
僕は不安になるとしょっちゅうじいさんに尋ねた。
「無理はせんほうがいい。変えるということは、何より大変なことだからな。」
じいさんは薄い昆布茶をすすりながら、いつもそう言った。





そんな僕の日々はあっけなく、何か思いを残す暇もなく、突然に終わりを告げた。個人塾は少子化に伴う塾生の激減のためにあえなく経営破綻してしまった。樋口書店はじいさんの老衰により、45年の長い歴史に幕を閉じた。そのせいで21歳のクリスマスとお正月は何とも惨めな事になってしまった。でも、そんなことより一番こたえたのは、自分の居場所がなくなったみたいに感じた事だった。僕は金銭的な問題で、サークル活動とかクラブ活動には参加しなかった。サークルなんかしていたら僕は3週間ほどで飢え死にすることになる。だから樋口書店が最も大きな、僕と社会をつなぐパイプだった。樋口書店を通して、僕は様々な人と知り合い、つながり、少なくとも何かの役には立っていることを確認できた。誰かの心に永遠にしみ込んだ物語が、また誰かのささやかな毎日を救う。その一過程に自分が少なくとも立ち会っているという事が、何よりもうれしかった。けど、僕はもうそこにはいれない。また僕はどこかに属する事ができないで、放り出されたのだ。そう思うと本当に悲しくなった。
それからの僕の毎日は、平べったくのっぺりした、つまらないものになった。自分がいったい誰の役に立っているのか、それを考えるたび少し怖くなった。それでも時間はただ、猫のあくびみたいに静かに、穏やかに流れていった。


バイトはもちろん始めた。始めるか、飢え死にか。僕に残された選択肢はそれだけだったから。そしてなんとなく大学近く、都内のジョナサンでバイトした。特に理由なんてない。ただ生きるためだった。
昼時には殺人的に忙しくなった。子供たちが泣きわめき、女子大生が下品に笑い転げ、近所の暇なマダムたちは飽きる事なく誰かの悪口をささやいた。でも、その殺人的な忙しさはある意味ではありがたかった。その間僕は何も考えなくてすんだからだ。やってくる料理や皿を運び、ただいらっしゃいませだのありがとうございますだのを唱えていればいい。思想的にはまったく空っぽな作業だ。何も考えないこと。それは僕がこのバイトで得た何より大事な、そして唯一の教訓だった。



老衰とは言っても、樋口じいさんは死んだ訳ではもちろんなかった。ただ脚を悪くしただけだ。毎日裏のこたつで寝ながらテレビを見ていた。正直じいさんの生活は閉店前とあまり変わっていない気がした。唯一変わったのはじいさんの一人娘(53歳の初老)がじいさんと一緒に暮らし始めた事だけだった。僕がたまにじいさんの家に様子を見に行ったとき、彼女は台所で食事の支度をしていた。突然の事だったので僕は少し驚いてしまった。
「あなたがバイトしてくれていたっていう大学生ね。少し上がってらっしゃい。」
そう言って、ぼくを家に上げてくれた。鶏とレンコンの煮物と、けんちん汁、アジの開き。久しぶりの手作りの夕飯を食べさせてくれた。信じられないくらいうまかった。
「そうだ、お前に頼み事があったんだ。」
じいさんの娘がこたつで大きな赤ん坊みたいに寝息を立てて眠りだした一服のひとときに、じいさんは言った。
「なに?」
「本、全部お前さんにやるよ。邪魔で邪魔でしょうがないんだ。あのスペースを使って犬でも飼おうと思ってな。」
僕はとても驚いた。まさか僕にくれるとは思ってもいなかったからだ。
「だけど僕の部屋も相当狭いから、置くスペースなんてないよ。」
確かにそうだった。僕の6畳一間の部屋に、そんなスペースはなかった。
「じゃあせめて半分でも持っていけばいい。今日とは言わないが、好きなのを選ばしてやるからよ。」
そう言ったじいさんの口調には、なんと言うか少し悲しい、冷たい風が吹いているように思えた。
帰り際、僕は書棚で少し本を見ていった。改めてこの古本屋の信念のなさに呆れたというか感服したというか。「ズッコケ三人組」の隣に「純粋理性批判」があり、その向かいには、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」のブックカバーの「海辺のカフカ」があった。「かいけつゾロリ」は13冊あり、フォークナー全集は3巻と7巻しかない。これはじいさんがどんな本も絶対に買い取ったからだ。買い取らない事は絶対になかった。


僕は家に帰り、部屋の広さを確認した。やっぱりこの部屋には本以外、全く何もない。ベッドだけが恥ずかしそうに横たわっている。あれだけの大量の本を置くとしたらベッドの下か、玄関しかない。でもそんな事をしたら僕はますます生きづらくなる。部屋の出入りは難しくなり、さらに窓際には頑丈な本の壁が出来上がり、この部屋にはもう日の光が届かなくなる。それでも僕は本をもらう覚悟を決めていた。うすうす感づいていた。もうじいさんは長くないのだ。じいさんが残せるものと言えばあの大量の本くらいなのだ。本を受け継ぐ事で、そしてそれらを読む事でじいさんの役に立てるのならば、もらうしかない。そう考えると久しぶりにほっとした。良かった、まだ僕は誰かの人生に関わっているんだ、と。そしてまた、いつもどおり、虚しくなった。









ある夜、本を読んでいる僕に、突然に、何の前触れもなく、ある一つのイメージがおよそこの世のものとは思えないような暴力性を伴って襲いかかってくる。
それは中年の男のイメージだ。サングラスをかけ、深緑のセーターを着ている。片腕で、口元は冷たく笑っている。その男のイメージは僕の根本にある何か、芯とでも言うべきものに、とてつもない恐怖を与える。僕は震え、冷たい汗をかき、逃げるように毛布にくるまる。その暴力に、理由などない。信じられないくらいに理不尽で、横柄で、圧倒的な恐怖だ。何かが完全に間違っている。間違っている。こいつはこの世に居てはいけない、と思う。辺りは真っ白い壁に閉じ込められる。無としての白。あまりに真っ白なので、どこまでも空間が続いているように錯覚する。どこへも行けるのに、どこへも行けない。僕は数十秒の間、気を失う。


目を覚ますと、いつもの部屋だった。それでも、僕はありありとあの男のイメージを思い出す事ができた。胸はまだ早く、強く、ごきごきとこわばったように脈打った。肩や背中の筋肉もつっぱって、固まっていた。下半身に違和感を感じ、見ると失禁していた。訳が分からなかった。急いでシャワーを浴び、ようやく落ち着いたところで、それについて考えなくてはならなかった。あのイメージについて。
何だったんだろう、あれは? 夢だったんだろうか。でもそのとき僕は寝ていなかったよな。ただこの閉じられた世界の中で頭が狂ったのだろうか。分からない。あのイメージをもう一度思い返す。何から何まで思い出す事ができる。つり上がった冷たい目。ごわごわした固い髪質。無かった右腕。まるでその男が僕の目の前にいたかのように。これは夢ではない。僕はそう結論づけた。だとしたらあいつは存在するのかもしれない。まさか。分からない。


その日僕はうまく寝付く事もできず、ぼんやりと小学校の頃を思い出していた。嘘をついて友だちを泣かせてしかられたこと、市の絵画展で金賞を取った事。林間学校で誰かが女の子の部屋に行ったこと。助けてほしいと思った。抱きしめてほしいと思った。けど、僕の携帯は鳴らない。玄関のベルは鳴らない。月の光も届かない夜の完全な闇の中で、僕は一人だった。ただひたすら、僕はベッドに横たわり、夜明けを待った。












夜が明けて、僕は外に出た。何かを見つけなくちゃいけない気がした。
樋口のじいさんに
「本か? もう決まったか?」
と聞かれた。
じいさんの娘には
「ちょうど昼ご飯できたけど、食べてく?」
と聞かれた。
久しぶりに大学へ行くと、何人かが僕に気づいた。
「お前ほんとくずだな。」
と笑った。僕も笑った。
帰りによったスーパーで、可愛い店員に
「ポイントカードのご利用はどうされますか。」
と聞かれた。
玄関につくと、ちょうど隣のタニさんが脚を引きづりながら出てきて
「おおお、久しぶりだな。今度こっち遊びおいでよ。あいつもう家出てったからよ。」
と言われた。



どうなんだろう、僕は。
僕はこの世界のどこかに居るのだろうか。





次の日、僕はつぶした段ボール箱を3つ持って、じいさんのところへ行った。これでもおそらく5分の1も入らないだろう。僕はじいさんと一緒に最後の本の山を切り崩しにかかった。想像以上に、本は重みを持っている。それぞれの物語を、薄っぺらい紙切れの奥深くにずっしりと隠し持っている。汗は滝のように流れ続け、僕の頬をゆっくり伝っていった。いつの間にかじいさんは裏のこたつへ戻って昼寝をしていた。
結局僕はその日、確か250冊を選び段ボール箱を二つ抱えて、ジョナサンへと急いだ。


ロッカーのある休憩室に入ると、顔なじみでない女の人がいた。端正な顔立ちの、小柄で、引き締まった素敵な脚を持つ女の人だった。彼女のその透き通った美しい瞳がはじめて僕をとらえたとき、僕は段ボール箱を二つ抱え、汗を滝のようにかき、はあはあ息を切らしていた。そんな男が、いい印象を与えられるわけない。
「あの…」
と彼女は困惑気味に僕に話しかけてきた。
「私、今日からここでアルバイトで働かせていただく事になりました。オダです。よろしくお願いします。」
「ああ、こちらこそ…。」
「あの、その段ボールはいったい何ですか?」
会話を続けようと彼女が尋ねてきたけど、僕はなぜか本当の事を教えなかった。
「ああ、これですか。ただの服です。古着屋に持っていこうと思って。」
そう言って僕は更衣室へ逃げるように向かった。
白状します。
僕は彼女のかわいさにどうする事もできなかったのだ。ただ一刻も早く彼女の前から一旦姿を消さなければいけないと思った。そして訳の分からない嘘をついた。
ホールを回っている間も、どうしても僕の視線は彼女のほうへ向かってしまった。始めてのアルバイトでおずおずと働く様子はすごくいじらしかった。こぶりな低めの鼻が猫みたいで可愛かった。笑うときにできるえくぼが素朴な優しさをかもしだしていた。
休憩の時間に僕らは少し会話した。静かに丁寧にしっかり人の目を見ながら話すオダさんのまっすぐな姿が、僕の冷えきった心を、じんじん暖めた。


それからの日々、アルバイトをしつつ僕はただ本にしみ込んでいった。朝の光も届かない、完全に閉鎖された部屋で、僕はいろいろな世界を知り、旅をし、自分を完全に壊し、再構築した。世界はどんな風に回っているのか、その気になれば法則さえもつかめるんじゃないかとも思った。全世界を支配する自然の法則のようなもの。
しかしそれは僕の完全な思い違いだった。アルバイトに行くたび、オダさんに会う度、彼女の笑顔が、仕草が、声が、その壁を、そして再構築した僕さえもぶち壊し、0にした。この世界を支配する法則など存在する訳がない。この世界を回しているのは、ぐにゃぐにゃでゆらゆらな、目を離せば別のものに変わってしまうような不完全な感情だった。そしてまた、彼女以外のすべてが、僕にとって何の意味も持たないようにも思えた。
彼女が僕の世界に現れた事は、僕の毎日に意味を与えた。今までの、授業(滅多に行かないけど)、バイト、本、眠りという単調で退屈なリズムに鮮やかな音楽を付け足してくれた。眠る前に思い浮かべるその日の彼女との会話や彼女の仕草が、僕の全てだった。冗談抜きで僕はそのためだけに生きていた。



僕は恋をしていた。
見るもの全てにありったけの優しさを注げる気がした。夜空をふと見上げて笑ってみたりした。瞳を閉じて、ホットコーヒーを飲んでみたりもした。もしかしたら僕はひとりじゃないのかもしれない。気持ちが悪いね。




樋口のじいさんは本があったスペースを使って、子豚を飼い始めた。潤んだ目の、可愛い子豚だった。
「犬飼うって言ってなかった?」
僕は思い出してじいさんに聞いてみた。
「いやー、犬ってあんな高いとは思わなくてな。ばかばかしくなった。こいつは知り合いからもらったんで0円だ。」
そう言って笑った。じいさんはこの豚に名前を付けなかった。おい、とかお前、とか言った。それでも豚は、楽しそうに部屋を駆け回った。
「犬だろうと豚だろうと、そんなに変わりはないさ。一番重要なのは、生きて一緒にいてくれるってことだ。」
じいさんは言った。
僕はよく、バイト帰りにオダさんを誘って、豚に会いにいった。僕にはそれくらいしか、デートに誘う口実がなかった。でもオダさんは喜んでくれているみたいだった。彼女ははこの小さな豚を見て、世界で一番、優しく笑った。
「でも名前がないなんてかわいそうですよね。」
ある金曜の夜にオダさんは本当に申し訳なさそうに言った。
「確かにそうだよね。でも、なくても不自由はしてなさそうだけど。」
「不自由するしないの問題じゃないですよ! 今すぐ付けてあげましょう!」
「わし忘れちゃうよ。」
じいさんはめんどくさそうに言った。
「ほら、おい、こっちこい。」
キャベツの葉っぱを見て、豚はうれしそうにじいさんのほうに駆けていった。
確かになんだかそこに愛情は感じられないように見えなくもない。
「やっぱり何かが違う…。だめです! 私たちだけでも、名前を付けてあげましょう!」
オダさんはなんだか楽しそうに言った。



そうしてオダさんと僕は深夜のマクドナルドでポテトを半分ずつしながら、豚の名前を考えた。
「ねえ、やる気あるんですか。ブーちゃんなんてあり得ませんよ。」
言うまでもなく、僕には豚の名前なんてどうだってよかった。僕は、ただただ一生懸命な彼女の顔を眺めていた。彼女はぶつぶつつぶやきながら、豚の名前を決めるのに二時間もかけた。
「りんたろうに決まりましたよ!」
深夜二時のマクドナルドで彼女は叫んだ。
「可愛い名前ですよねえ。」
彼女はにっこり笑った。
「りんたろうがりんたろうを好きになってくれますように。」
願い事をするように、丁寧に、大切にそうつぶやいた。
「どういう意味があるの? りんたろうって。」
「意味ですか。意味は特にありませんよ。りんたろうの雰囲気と、語呂で決めちゃいました。」
「なんだよ! 深い意味でもあるのかと思ったじゃんか。」
僕は笑って言った。彼女はひと呼吸おいて、少しだけうつむきながら言った。
「私の下の名前、知ってますか?」
「もちろん。エミコでしょ?」
「そうです。エミコ。笑顔が美しい子です。」
彼女は言った。
「これ、私が付けていい名前じゃないんですよ。」
といって少し笑った。
「私、二歳くらいのとき、お母さんが死んでしまったんです。だからなんていうか、母さんの形見みたいに思って大切にしようって。別に母さんとの思い出がある訳じゃないんですけどね。ただ、唯一お母さんが遺してくれたものだったから。要はお母さん意外に誰もいなかったってだけなんですけどね。大きくなってその意味を知って、笑おう、笑おうって思ってきたんです。でも、うまく言えないけれど、嫌な事がいっぱいあった。泣きたい事が多くなった。高校も中退した。なんにもうまくいかなくなった。笑うなんて上手にできなかった。父も私をあきらめたみたいで、新しい人と結婚した。そして一切私と話さなくなったんです。父の声を最後に聞いたのは、『この16年の事は、俺の人生でなかったことにしたい』って言われたときでした。それで、この名前を愛さなきゃ、母さんがこの世から一生忘れられてしまうって思って。」
彼女はうつむいたまま続けた。
「だからもっともっと笑おうって。でもね、私、父が死んだとき笑ったんです。今までの21年の人生で、一番笑ったんです。楽しくてもうまく笑えなかったのに、気づいたら笑ってたんです。」
僕は何も言えなかった。
「私の笑顔なんか美しくないんです。
だから、」
オダさんは顔を上げて言った。
「りんたろうには何にも気にしないで、何も背負わないで無邪気に生きてほしいなって。だから意味は考えませんでした。」
「おかしいですかね?」
「いやいや、全然おかしくなんかないよ。」
その後に続けて何を言ったらいいのか、僕には分からなかった。オダさんはうつむいたまま、何かを考えているように見えた。店内には終電を逃したサラリーマンのいびきだけが響いていた。ふと窓を見ると、空はぼんやり青くなり始めていた。
「ねえ、オダさん。」
彼女は顔を上げて、僕をまっすぐ見た。
「何ですか?」
「僕はエミコって、オダさんにぴったりだと思うよ。あんなに優しく笑う人なんて、そんなにいない。」
オダさんは少し微笑んだ。
「いちばん苦しい人が、いちばん優しいんだって。何かの本で読んだよ。」
「ありがとうございます。」
やっぱりオダさんは、世界でいちばん優しく笑った。


ある夜に、それはまた、突然に、唐突に、襲ってくる。
それは僕の存在を揺るがし、真っ白な世界へと僕をさらっていく。頭がひどくいたむ。どこへ行けばいい。どこへでも行けるよ。でも、ここには何もない。ただの白が、永遠に続く。僕はどこへも行く事ができない。
僕は肩を大きくふるわせ、泣く。だめだ、吐き気がする。我慢できずに僕は、吐き出す。全て、吐き出す。吐瀉物は僕の口から流れ続け、床一体を埋め尽くす。膨張し色を変え、形を変え、何かになる。男、深緑、片腕、サングラス。その姿は、僕にとどめの一撃を与える。
怖い。助けてほしい。


それは何かしゃべっている。僕はその声をはっきりと聞き取る。小さな子供のような、薄く、高い声だ。
「気分はどう? 苦しいかい? 寂しいかい? そうだろうな。そうだろう。」
僕は立っている事ができない。
「君はどこにも行けない。分かっただろう。どこへも行けないんだ。」
僕はオダさんとじいさんを思い浮かべる。
そんな事はない。僕の居場所はある。だって…。
口にしようとするが声にはならない。
「でもさ、彼ら、僕が前にここへ来たとき助けに来てくれたかい? 来てないよね?」
僕はもう一度、吐く。もう嫌だ、嫌だ、吐く。
「吐いてばかりいないでさ、何か言ったらいいのに。もしかして僕が誰なのかも分かってないんだろう。ばかだなあ。」
僕は震えと涙が止まらない。すっと意識が無くなりかける。
「おいおい、それはずるいよ。君、いつもそうやってきたじゃんか。逃げるなよ。」
僕は男のたった一つ残った左腕で、背中を強くたたかれる。
「ちゃんと立てよ。ほら早く、証明してごらん。君はどこへ行ける?」
男はサングラス越しに、少し笑う。
「そうだろう。君はどこへも行けないだろう? だから僕は生まれるんだ。君みたいな、どこにも行けないやつのところにね。どこにも行けないやつってさ、いっつも祈ってるのな。ここがその場所でありますようにって。やっと見つけた! なんつってさ。ほんと諦めが悪くてかっこわるいよ。なんだか哀れだよな。実際どこにも行けないのにね。そういう勘違い、困るんだよな。僕の存在価値ってそこにあるからね。」
違う、違う、違う。じいさん、オダさんは。
声にはならない。
「いやいや、信じたって無駄だから。あそこは君の居ていい場所じゃない。お前なんか必要とされてないんだよ。」
男はしゃがみ込み、自分の顔を倒れ込んでいる僕の顔に近づける。
「もう、めんどくさいな。人殺しなんかしたくないんだけどさ、君が勘違いしてるもんだから…。」
そう言って片腕で僕の襟元を強くつかみ、引きずっていく。白い空間から一転、真っ暗な部屋に連れて行く。不意にスポットライトが、何かに当てられる。人だ。
「さて、この人は誰でしょう。」
樋口のじいさんが寝ている。
「悪いね、本当に。」
小さなナイフを振りかざす。そして胸元に強く突き刺す。三回。
あっという間だった。


僕は泣き叫ぶ。僕はすべてを吐き出す。僕は床に噛み付く。僕は自分の爪を剥がす。


「分かるよ。分かるよ。ねえ、落ち着けって。君が死んじゃうって。いや、目から血が出てるよ君…。でもさあ、これは君のせいなんだよ。君が中途半端だからさ。ずっと一人ぼっちだって気づいていれば、こんなことなかったろうね。分かってる? こればっかりはしょうがない。僕が生きてくには、君をひとりぼっちにしなきゃならないん

10

気づいたら、僕は部屋にいた。まだぶるぶる惨めに震えていた。体の芯が、冷えきっていた。
そうだ、僕は何かを失った。それは、あまりに優しく、二つは存在しえないもの。僕のすべてを受け入れてくれる大きな人。じいさんが死んだ。
感傷癖の僕はじいさんの笑顔を思い出した。じいさんの声を思い出した。一人にしないでくれよ、と思った。
あの男は僕を一人にしようとしている。完璧に一人にする。そう言った。
オダさんの事を考える。

行かなきゃいけない場所がある。絶対に奪われてはいけないものがある。
そして、確認しなければならない。僕はどこかに行けるよね? 僕はここにいてもいいんだよね?

汗まみれのまま、失禁したまま、血まみれのまま、僕は玄関を出た。階段を転がり落ち、地面にへばり、少し這いつくばって、立ち上がり、歩いた。なんだかうまく立てなかった。中央通りの交差点を渡り、ファミマを通り抜け、歩いた。
ジョナサン。
入り口のドアを開け、昼時の客の群れをかきわけ、探す。おもちゃの棚が、音を立てて倒れた。客の一人が怒鳴った。店員がみんな出てきた。
「ご注文は以上でよろしいでしょうか?」
いちばん奥の四人席にオダさんはいた。
僕は走っていた。飛びついていた。無我夢中で抱きしめていた。
「え? ちょっと…?」
客はぽかんと僕らを見上げた。
「一人にしないでくれ。一人にしないでくれ、オダさん…。どこにも行かないでくれ。ずっと一緒にいてくれ。」


僕は泣いていた。オダさんのぬくもりが、柔らかさが、僕がこの世界にいることを証明していた。店内には僕の泣き声だけが、五時のチャイムみたいに響いていた。客は、僕らを呆然と見ていた。オダさんは困ったような顔をしてから、僕の顔をまっすぐ見た。数十秒の間、僕らは見つめ合った。全てが、見透かされたような気がした。そして微笑みながら、オダさんは言った。
「ねえ、男の子なんだから泣いてちゃだめですよ。こういうときは、私みたいに美しく笑うんですよ。」
そう言って僕を優しく抱きしめた。










11

目が覚めたのは、ジョナサンの休憩室だった。時計の針は午後3時を指していた。僕は3つのパイプ椅子で作ったベッドで寝ていたみたいだった。背中がきりきり痛んだ。
「私、どこにも行ってないですよ。」
「よかった。」
本当に、本当に良かった、と思う。
「じいさんが死んでしまった。」
オダさんは何も言わなかった。ただ僕の顔を見ていた。
「僕は、樋口書店に行かなきゃ。オダさん、一緒に来てくれるかい?」
オダさんはゆっくりうなずいた。
デニーズのシャワー室で汚れを洗い流し、ロッカー室で着替えを借りて、二人で店を出た。
僕はもうすでに、回復していた。まっすぐ歩けるし、吐き気もなかった。そうか、もう春になっていたのか。右も左も桜のピンクが穏やかに散っていた。
僕らは何も話さなかった。何も話す事はなかった。やがて樋口書店の看板が見えてくる。よく見るとこんなに錆び付いてぼろぼろだったんだ。少し傾いているようにも見えた。
玄関に入ると、りんたろうが桜の花びらを巻き上げながら、元気に走り回っていた。何も知らない無邪気な目が美しかった。
その横に、じいさんが仰向けで倒れていた。静かに寝ているように見えた。りんたろうは立ち止まり、じいさんの首元をクンクンした。
「死んでるわ。」
こたつの部屋からじいさんの娘が出てきた。
「今日の9時くらいだったわ。りんたろうにえさをやってる最中に死んでしまった。」
彼女は泣いているような声で言った。本当に泣いているのかは分からなかった。
「よく分からないけど、これは僕のせいかもしれないんです。」
僕はそう言った。片腕の男が言っていた事を思い出す。
〈最初から一人ぼっちだって気づいていれば、こんな事なかったろうね〉
彼女は僕のほうを見ようともせず、走りまわるりんたろうを眺めていた。
「父さんが昨日の夜に言ってたわ。
『あいつがもし明日ここへ来たら言っておいてくれ。なにがあろうとこの本屋はあいつのための世界だ。』って。」
じいさんの娘は顔を上げ、僕のほうを見た。
「なにがあろうと、よ。」



僕は間違っていなかった。

孤独など、ない。あまりに細く弱い線でも、誰かの世界へと絶対に繋がっている。
時としてその線はあまりに細いから、見えなくなる。でも、ただ見えないだけだ。たいした事じゃない。どうだっていい事だ。
僕らは見えないものを、信じる事ができる。見えなくとも、見る事ができる。






11

僕らは一緒に僕のアパートに帰った。暗い、虚しい部屋だった。
オダさんが僕の部屋に来たのは、これが始めてだった。オダさんは僕の部屋を見て、少しびっくりしながら言った。
「すごい量の本ですね…。これじゃあ窓も開かない。」
「うん。一日中真っ暗だ。分かってる。けど、これ全部じいさんの本屋にあった本だから、どうする事もできなくてさ。」
オダさんは真っ暗な部屋の中で本をゆっくり眺めた。本の湿っぽいにおいがした。
「この中で、いちばん大切な本はどれですか?」
「一番? 一番か…。」
僕も本を眺めて考えた。僕は太宰の「葉」が好きだった。カポーティの「夜の樹」が好きだった。けど、今はそんな気分じゃない。何より明るい、笑える話がいい。誰もがしあわせで、かわいい話がいい。
「これかな、「通りすがりのトイカメラ」。これが今は一番大切な本だと思う。」
「じゃあ、それ以外、全部外に出しますよ。」
彼女は腕まくりをして言った。
「は?」
「こんな部屋じゃだめなんですよ。ぜんぜんだめです。だれでも、どんなに強い人でも太陽の光がなかったら生きていけませんから。」
そう言ってオダさんは本を抱えて、外へ出て行ってしまった。
「早くしてください!」
彼女は外から大声で言った。


それで僕も、本を抱えて彼女についていった。彼女の行った先は、歩いてすぐの公園だった。パンダの遊具とブランコしかない、情けない公園。小学校低学年くらいの女の子2人が、縄跳びをして遊んでいた。彼女は本をどさっと置いて、何も言わないでまた部屋へと歩いていった。
「早くしないと日が暮れちゃいますから。」
僕の部屋には想像していたよりも多くの本があった。そしてそれらの本を僕は読んだんだ。信じられなかった。どれだけの時間を僕は一人で過ごしていたんだろう。
全部の本を出し終わった頃には、もう太陽が傾いていた。腰がずきずきした。
「で、どうするの?」
僕が聞くと、何も言わないで彼女はライターを取り出し、「万延元年のフットボール」に火を付けた。
「ねえ、本なんか、あなたを助けてなんかくれないんですよ。あなたに必要なのは、まぶしいくらいの、まっさらな太陽の光なんです。」


火は少しずつ、少しずつ大きくなった。そして、全ての本にじんわりと届いた。火はゆらゆら揺れて、真っ赤な夕焼け空にすっと飲み込まれていった。桜の木々は静かにそれを見つめ、さよならと手を振るたびに、花びらが舞った。いつの間にか女の子たちは近くに寄ってきていて、きゃっきゃと何かささやき合いながら笑った。彼女たちは桜の花びらを一生懸命集めて、火の中に投げ入れた。花びらは何も言わないで燃えた。女の子たちはまた、楽しそうに笑った。






12

火が消え、5時のチャイムが鳴り、女の子たちはあたたかい家へ帰った。そして僕らも静かな部屋に戻った。夕焼けのオレンジの光が差し込む何もかもが新しい部屋で、僕らは初めて、愛し合った。長く、時間をかけて僕はオダさんを抱きしめた。











13

一面、真っ白。突然。頭痛。ああ、あの部屋だ、と気づく。
「やあ。」
不意に声がし、後ろから足音がきこえ、片腕の男が近づいて来る。
「また会った。」
声変わりする前の少年みたいな声。サングラスの下の目が冷たくひかる。
「なんだか前よりたくましく見えるね。今日はあんまし震えてない。何かあったの?」
「いや、何にもないよ。」
男はうなずいて、存在しない右腕を大切そうに見つめた。
「どうだった? じいさん死んじゃったけど。苦しかった?」
「もちろん。」
僕は言う。
「でも、その分、大切なものを確認できた。」
「ああ、
「オダさんか。」
僕はうなずく。
男は何かを確かめるように、僕の周りをゆっくり歩く。深緑のセーターが少しだけ、真っ赤な血で汚れている。
「あのさ。この前も言ったんだけどさ、ほんとに君はどこにも行けないんだ。何を信じてるのか知らんけど。」
笑いながら言う。
「大体オダさん一人で何が変わる? いつ裏切るか分からないよ? あしたには彼女はどっかにお前を置いていっちゃうかもよ?」
僕はだまる。
ふうん。
男は深くため息をつく。
「もしオダさんが消えたら、またみっともなく僕を見て泣き叫ぶんだろう?」
「たぶんね。」
うん、多分そうだろう。僕はまた暗い部屋で本にしみ込み、昔を思い出し、しがみついて、死にたくなるだろう。
「でも、僕はあんたと一生、生きていかなくちゃならないと思うんだ。」
男は意外そうに僕を見た。
「ほう。そんな事君が言うなんてな。そうだよ。僕は見えなくはなるけど、君が死なない限り、死ぬ事はない。」
男は言った。
「それなのにみんな僕が見えなくなると、僕が死んだって勘違いするんだ。もう幸せだ、って言い出すやつもいるよ。」
男は続ける。
「この前なんてさ、50歳の無職の男の話なんだけど、長い事彼は僕が見えてなかったんだ。4年くらいかな。4年も僕に会わなかったもんだから、彼は僕が死んじまったと思ったんだね。その間に彼は生きるべき世界を見つけられたんだ。でも、彼の奥さんだかが死んじゃってさ。そのとき僕の三回目の登場にすっかり頭おかしくなっちゃって、包丁もって幼稚園を襲いに行ったんだ。何もかも壊してやるってさ。で、そいつそのときなんて言ってたと思う?」
僕は首を横に振る。
「俺だけこんなに寂しいのは不公平だ、って。」
男は大笑いする。つぶれた右の袖が、笑い声でひらひら揺れる。声は白い部屋にぎりぎりと響く。僕は耳を塞ぐ。
「ごめん、ごめん。」
ふう。
「ところで、僕が誰だか分かるかい?」
男は言う。
「ああ。」
僕は答える。
「やっぱり、聞くまでもないか。」
「じゃあ僕がやらなきゃ行けない事は分かるね?」
僕は一瞬つばを飲む。
「僕を完全に一人ぼっちにする事。」
「その通り。」


14

僕は片腕の男についてゆく。真っ白なこの空間で、この男は何を目印に歩いているのだろう。どこにも行けるのに、どこにも行けない空間。ここでは人は無だ。何の役にも立てないし、何の価値もない。
やがて目の前に扉が現れ、男はその中に入って行った。
真っ暗だ。何にも見えない。
「さて」
「今回は、もう分かると思うけど、オダさんだ。」
スポットライトのような鋭い光が、だれかを照らす。
オダさんが静かに白いベッドで、寝ている。
男は左手で胸元のポケットをごそごそやる。
僕はもう一度オダさんの寝顔を見る。うん、いつもの優しい顔だ。
男はナイフを取り出す。
「さよならは言った?」
言わない。言うわけない。
「じゃあ、いいね?」
男はナイフを高く振りかざす。そしてオダさんの胸元に、強く突き刺す。三回。
真っ赤な血が飛び散り、男はそれを、顔にもろに浴び、悲しげに笑う。



それで、僕は目を閉じる。
『この本屋は何があろうと、お前のための世界だ。』
じいさんが言う。
『そういうときは私みたいに笑うんですよ。』
オダさんの声がする。
オダさんの柔らかさを思い出す。


僕は、信じなければならない。
言葉や、思い出や、優しさや、感触を。
目に見えなくて、曖昧なものを。



僕はポケットに太陽がある事に気づく。
僕はそれを取り出し、光を掬う。
信じた先に何が待っているのか、知らない。知りたくもない。あらゆる可能性が思い浮かぶ。裏切られるのかもしれない。ちっちゃな虫けらみたいに踏みつぶされるだけなのかもしれない。この光の中に、答えはない。
それでも祈らなければならない。何もかも、抱きしめなければならない。
僕にはそれしかできない。

全てはそのようにして始まり、そのようにして終わる。

僕は、目を開ける。








15

自分がどこにいるのか気づくのに、数十秒かかった。それは、あまりに明るかったから。ここは僕の部屋だ。陽の光で満たされた、僕の新しい世界だ。
「ねえ。」
声がする。
「ほら、素敵な朝でしょ。」
隣でオダさんが言った。
僕は立ち上がり、窓を開けた。
心地よい春の風が、部屋に優しく吹き込んだ。
桜の花びらが二・三枚、部屋へ入ってきた。
僕はそれを拾い、オダさんの頭にちょこんと載せた。
「ねえ、今日はどこへ行きますか。」
オダさんは僕に言った。
「どこへでも行けるよ。どこへでも行こう。」
僕らは一日晴れ間が続く事を祈った。
そしてきれいな服に着替え、玄関を出た。
もうすでに、たくさんの人がそれぞれの生活を始めていた。
世界はぐるぐるぐるぐるゆっくりと、でも確実にまわっていた。
オダさんはにっこり笑って大きく深呼吸した。
「いい、天気ですね。」

何もかもが許されるような、穏やかな春だった。

僕の春の大冒険

僕の春の大冒険

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-27

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