朝焼け

朝焼け

どうやら私の命は風前の灯火らしい。
医師の説明を一緒に聞いた主人は気の毒なほど落ち込んでしまい、しっかりしなさいよと私に励まされる始末だった。
「ごめんなさいね」
家に戻ってから主人に謝った。
主人は涙の浮かんだ目で私を見つめ、何も言わず頭をなでてくれた。
「あと、1ヶ月だなんて、信じられないよ」
主人の体温を感じながら目をつぶった。私だって信じられない。お酒や煙草とは無縁の生活で、運動だってしている。でもね、腎臓が悪いんだって。
もう治らないんだって。
あと1ヶ月で私はこの世界からいなくなっちゃうんだって。
笑っちゃうよね、笑いすぎて涙が出ちゃう。

病院で出された薬の苦さには閉口したが、私が薬を飲むと主人が喜んだ顔をするので、何も言わずご飯と一緒に飲み込んだ。
日課だったウォーキングにも行った。いつもの時間、いつものコースを一緒に歩いた。途中、主人がぼんやりとして立ち止まってしまったので、無理矢理引っ張ってやった。
「おいおい、速すぎるよ、元気だな。おまえ本当に……」
主人はまた立ち止まってしまった。顔を伏せ、体を震わせている。
私は主人を見ない振りをして、ようやく昇り始めた朝日に向かって叫んだ。
「おーい朝日よー。あと何回会えるかなー」
大きな声を出したら気分がさっぱりした。
振り返ると、主人の顔も朝焼けに照らされていた。私と目が合うと、照れ笑いを浮かべ、再び歩き始めた。

余命宣告を受けて1週間。私がいなくなった後、主人はちゃんと生きていけるのだろうか、そのことだけが心配だった。今はまだいい。一緒に病と闘い、濃密な時間を共有している間は大丈夫だろう。でも私はもうすぐいなくなってしまう。今までみたいに一緒に笑うこともできなければ、仕事の悩みを聞くこともできない。あなた、ひとりになっちゃうんだよ。ちゃんとわかっているの?

その若い女は唐突に現れ、当然のように我が家で暮らし始めた。今日から一緒に暮らすことになったからと、突然主人に言われた私は戸惑った。主人の説明はそれだけで、女は私に挨拶すらしなかった。怒りにかられた私は噛みついてやろうかと思った。
 女の行動はいちいち私の感に障った。ある時など、私のお気に入りの場所でのんびりとくつろいでいた。そこに座らないでと怒ったが、女は私の怒りなどどこ吹く風、知らん顔を決め込んでいる。どだい私とは種族が違う女なんだ。私は女を無視することに決めた。女は私の目の前で主人に甘えた。体をすり寄せながら、こちらを見下したようにちらりと見る。私は目を閉じ、耳をふさぎ、はやくお迎えがこないかなと嫌みを言ってやった。
 翌朝、私は主人をウォーキングに誘った。女はまだ主人の部屋で寝ている時間だ。この時間だけは私が主人を独占できる。昨日は変なことを言ってごめんなさいと言ったが、主人には聞こえなかったようだ。玄関を飛び出し、夜明け前の空気に体をさらした。夏のすがすがしい空気にお互い自然と笑顔になる。
最初の曲がり角で、異変を感じた。体が急に痺れたように重くなり、転倒してしまった。
「あなたアスファルトって冷たいのよ。知ってた?」
軽口を叩こうとしたが、口まで回った痺れにうまく話せなかった。主人が私を抱え込み家に向かって走り出した。だいじょうぶか、しっかりしろ、遠くなる意識の中で、あぁ、もうあの朝焼けを見ることはできないんだなと思った。私にはもう時間が残されていないんだ。

転倒してしまった日から、私の体調は急速に悪化した。立っていられず、ほとんどの時間を寝て過ごした。食事もとらないことのほうが多い。もうすぐ、余命宣言の一ヶ月になる。
「医者の診断って結構当たるのね。あの先生にぴったり賞あげないとね」
冗談を言ったが、主人は笑わず、私の体をさすり続けた。いつまでもさすり続ける主人の手の温かさに不意に涙が溢れた。やせ細った私の体のどこに存在していたのか、涙は止めどなく溢れた。一緒に過ごした楽しい時間が走馬燈のように脳裏に映し出され、私は笑った。笑いながら、泣き続けた。もう本当に、残された時間はない。

混濁した意識の中、女が目の前に座ったのがわかった。珍しいことだった。犬猿の仲という言葉があるが、そもそも私が一方的に怒っているだけで、女は私のことなど相手にしていなかった。この女は私が死ぬのを待っているんだ。
「あんた、後は頼んだわよ。あの人はああ見えてすごく繊細な人で、傷つきやすい人なんだから。ちゃんと面倒みてあげないと駄目になっちゃうんだから」
大きな声で言ったつもりなのだが、ぜえぜえという声が出ただけだった。女は何も言わず、ただ聞いている。
今までに感じたことのない痛みが襲ってきた。体の芯から突き上げるような痛みに悲鳴をあげる。痛みが引いていくのに合わせて、強烈な虚脱感に捉えられる。全てを無にし、赦される世界がそこまで来ているのが分かった。
「お願い、主人を呼んできてちょうだい」
恐らく、声にはなっていなかっただろう。口を動かすことさえままならない。目を開けることさえ困難な中、愛しい人の声を聞いた。
「おい、大丈夫か、しっかりしろ」
目を開けると、涙でぐしょぐしょに濡らした主人の顔が間近にあった。
変な顔ねと笑いたかったが、もう私の筋肉は力を失っている。閉じられようとする目の端に、女がいるのが見えた。彼女が主人を呼んできてくれたのか。
私は笑おうとした。笑いながら言いたかった。笑顔で言ってやったと信じたかった。
「さっきのこと頼んだからね。しっかりやらなかったら承知しないわよ」
女と目が合った。
「ニャン」
女が初めて返事をした。言葉は通じなかったが私は満足した。
「おい、どこか痛いのか、大丈夫か」
愛する主人の声が遠くなる。ごめんなさい、もう時間がないみたい、私がんばったよね。しっかり戦ったよね。一緒にいられて楽しかった。私はいなくなるけど大丈夫。しっかりと念押ししておいたから、安心していけるわ。
主人が私の名前を呼んでいる。
私は最後の力を振り絞って、尻尾を振った。
頭の中で光が急速に縮まり、スパークした。すごくきれいだった。あなたにも見せてあげたいくらいよ。今までありがとう。あなたに逢えて良かった。

かすかに動いていた尻尾が動きを止めた。男は愛犬の体をさすりながら言った。
「ポチ、俺もおまえに逢えて良かった」

朝焼け

朝焼け

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-27

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