1分間

1分間という僅かな時間がどんどん重くなってくる物語

佐藤は問題用紙を前に焦っていた。

佐藤は問題用紙を前に焦っていた。たしかに模擬テストで解いたことがある問題なのに、どうしても公式が出てこなかった。のど元まで来ている言葉が出てこないいらだちに似た焦りに冷や汗が伝った。
(最初のきっかけさえあれば出てくるはずなんだ)
第一志望の大学の入学試験ということもプレッシャーになっているのだろうか、
必死に考えるが頭の中は霧に掛かったようにかすんでいる。
チャイムが鳴った。試験終了の合図だ。
はっと思ったとき、霧の中から公式がはっきりと浮かび上がった。
猛然と解答用紙を埋めていく。が、間に合わない、もうすぐチャイムが鳴り終わってしまう。右手を必死に動かしながら心の中で叫んだ。
(神様、仏様、お願いです、僕に時間を下さい)
試験官がマイクを持ったのがスピーカーごしに伝わった。
(お願いです。1分でいいんです。この先、どんなときでも構いません。1分だけ、今この時に回して下さい、お願いします)
試験官の声がしないことに気付いた佐藤は顔を上げた。試験官はマイクを口に当てたまま静止していた。
周りの受験生達も皆、動画の一時停止ボタンを押されたかのように動きを止めていた。
なんだこれは?
一瞬戸惑ったが、これはチャンスだ、今はとにかく解答用紙を埋めることに専念しろ。佐藤が回答を書き終えるのと同時に試験官の声が会場に響き渡った。
「はい、そこまで、ペンを置いて下さい」

大学には見事合格した。日本でも有数の難関校だ。母は泣き、父には肩を叩かれ、高校の先生たちからは握手を求められた。後で先生が調べてくれたところによると、合格ラインぎりぎりだったらしい。あの最後の回答がなければ不合格だったと言うことだ。そのことを聞いた僕は心の底から安堵した。
 得をした、儲かったという心境は、僕の心に変化をもたらした。今後の人生が安泰であることを約束されたチケットを持っているということは、人を傲慢にしてしまうものだろうか。合格を境に、僕は傍若無人になった。もう良い子でいる必要がなくなった。友人達や先生に、家族にさえ見下した態度をとり、彼らが反論してこないことに優越感を感じていた。
 卒業式にはラフな格好で行った。決まった制服がない学校だったが、重要なイベント時は正装というのが暗黙のルールだった。僕は無視した。会場に入った僕の姿を見た人達からざわめきが拡がったが気にならなかった。僕はおまえらとは違うんだ。口には出さないまでも、僕の全てがそう叫んでいた。
名前を呼ばれ校長と正対する。僕の姿を見た校長はあきらかに戸惑っていた。
 佐藤は表情を変えずに校長の手元を指さした。
「それ、くれますか」
卒業証書を奪うように片手でつかむと、校長は縛りがとけたように口を開いた。
「あ、佐藤君おめでとう。君は……」
まだ話している校長に背を向けて壇上から降り立つと、佐藤はそのまま会場を後にした。証書さえ手に入れば、もうこんな所にいる必要はなかった。

 大学生活は満足できるものだったといえるだろう。聡明な友人達に囲まれ、大学名を聞いた女性達は目を輝かせて佐藤と話したがった。周囲からの尊敬と羨望に囲まれていた佐藤には、だが、1つだけ気がかりなことがあった。そう、あの時の1分間のことだ。だいぶ昔のことのように思えるが、アレは確かにあったことだと佐藤は確信していた。であるならば、今後、必ずどこかの時間にアレは現れる。そして1分間の返済を求めてくるだろう。そしてそれは佐藤にとって最も重要なタイミングでやってくるのではないか?
 念のため、日々の生活の中でも佐藤は対策を講じていた。それは最悪を想定し、行動するということだった。道路の横断はもちろん、車の運転もしない、。友人との会話中に時間が飛ぶ可能性もある、だから、飲み会などではあえて固まった振りをよくした。これならアレが来た時もなんだいつもの冗談かと思われるだけですむ。佐藤は面白い奴ということになり、学生生活は更に充実したものになっていった。

学歴のおかげで超一流の銀行に入行することができた。面接中、アレが来たらどうするか悩んだが、幸い杞憂に終わった。来たら来たでその時だと、開き直ったのが良かったのか、高評価を得ることができ、選抜組として採用された。
 学生時代に行なっていたアレへの対策は、銀行ではより大変だった。考え方を変え、1分の失態でもびくともしない信頼を構築すべく全力を尽くした。おかげで上司の覚えも良く出世した。
 しかし、入行5年目でつまづいた。会議中、時間が飛んでないかが気になり集中できなくなっていた。出世することで議事進行を任されることが多くなり、大きな負担となっていた。だんだんと評価は下がっていく。致命的だったのは、役員との会議の中、時計を気にしていたことをとがめられたことだ。私の話は退屈かねと役員に聞かれた佐藤は、返事ができなかった。
 まもなく地方の支店に飛ばされることになった。普通は役職が上がっての転勤なのだが、辞令の役職はそのままだった。明確な左遷である。佐藤は銀行を辞めた。

部屋にこもって時計を見続ける日々が続いた。
 あの時間をクリアさえすれば、社会復帰は可能だという考えにすがりついていた。トイレや風呂にも時計を持って入った。寝るときはカメラをセットし、翌日チェックをした。アレはまだやってきていない。
 そんな日々が10年続いた。
このまま、時間に怯える日々が続くのか。部屋の中でぼんやりと考えることが多くなった。すり潰されそうになる精神は限界に近づいている。なぜあの時、1分間を自分で決めることができると条件を付けなかったのか、悔やんでは泣き、泣きながら時計を見た。
 そんなとき、高校の同窓会のお知らせが届いた。たったの15年前なのに、高校時代がはるか昔のことのように感じられた。ハガキの文面を見ているだけで、涙が溢れた。無性に人恋しくなった。
 佐藤は、目の前の時計を投げ捨てた。時計は壁に当たり、ガチャンという音とともに乾電池をはき出した。床にころんと転がる乾電池を見ていると、頬を流れ落ちる涙はいつの間にか止まっていた。

同窓会の会場はかなり高級なホテルだった。懐かしい顔もあったが、ほとんどは誰だかわからなかった。服装や会話などから、皆、社会的に成功しているように思えた。会話の度に、もがれ、引きちぎられるように感じた。友人達の視線に哀れみと憐憫を感じた佐藤はたまらずトイレに駆け込んだ。
 トイレで薬をのんだ。苦しまずに楽になれる薬。
もうこれ以上苦しまなくてすむ。何年か振りに鏡を見た。僕は笑っていた。
「神様、いや神よ、あんたに振り回された人生だったが、最後の1分は自分で決めさせてもらうよ」
 この薬は服薬後、10分で効く。同窓会は大騒ぎになるだろうが、僕にとっては9分間だ。勝ったという思いが心を軽くした。踊り出したくなる気持ちだった。
「どうした、トイレですっきりしたのか」
知らない顔が話しかけてきた。
「あぁ、もう大丈夫だ」
僕は明るく笑って見せた。席に戻り、冗談を言い、まわりの連中を笑わせた。
先ほどまで華やかな会場で、一人顔を伏せていた僕の変貌振りに驚いていた連中も笑った。しばらくして、目の前の席の男が言った。
「さっきまで死にそうな顔してたのに、やっぱおまえ変わってるわ」
かすかに覚えのある男がテーブルに身を乗り出した。
「変わってるといえばさあ、卒業式での佐藤、傑作だったな」
斜め前の知らない女性が、若作りの顔をへしまげて同調した。
「あぁあれ、本当びっくりしたわ」
「あのことは言うなって。俺も若かったんだよ」
佐藤は苦笑した。堅苦しい式典で無頼を気取るのが格好良いって思っていた。はるか昔の出来事だった。
「そうそう」
懐かしい顔が思い出すように言った。
「名前を呼ばれたのに、佐藤、突然動かなくなって固まってるんだもん」
グラスを持つ手が止まった。
「そうそう、俺、横腹突っついたのにカチコチになって反応しないんだもん。瞬きもしてなかったぞ」
佐藤は腕時計を見た。服毒から9分が経過しようとしていた。
 佐藤は腕時計の秒針を見続けている。
「卒業式の後、皆で話題になったのにおまえさっさと帰っちまうんだもんな」
周りの人達が口々に話しかけてくるが、佐藤の耳には入らなかった。
 テストの時、短いと感じた1分間だったが、以外と長いんだな。
 そんなことをぼんやりと考えていた。

1分間

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-27

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