死後と私と私の日常
赤く焼ける視界と叫ぶ声、それらが焼き付いた自分の意識が鮮明に残っている。
だから私は、今日もこの世界を歩いている。
差し伸べる手が、誰かに届くのならば。
私は今日もこの世界を、歩くのだろう。
一人いなくなっても、何も変わらない世界で。
生きていた証を、刻むために。
*
やや大人しくなり始めた蝉時雨が響く、夕暮れの公園。
遊具の影が長く伸び、どこかもの悲しさを感じる。
残暑はまだ厳しく、むわりとした湿っぽい熱が少し不愉快に感じさせる。
コウちゃん、そろそろ帰るわよ。
はーい。
砂場で砂の城を作る男の子。それをベンチで待つ母親らしき女性。
帰ると言っているのに、男の子は一向に手を止める気配が無い。
私はぼんやりと、女性のひとつ向こうのベンチに座ってそんな二人を眺めていた。
ベンチで佇んでいると、夕日に染まる私の視界に、ふと目の前に黒い影が見えた。
「やっと見つけた」
その言葉を聞き、辺りをきょろきょろと見回す。
私は誰にも見えない筈なのに、目の前にいる女の人は、私のことをじっと見つめていた。
「あなたの他に誰がいるのよ」
「え、私?」
「そう、迎えに来たわよ。帰りましょう、彼岸に」
「私が見えてるんですか?」
「ええ、よく見えてるわ」
声をかけてきたのは年の頃は二十代くらいの、黒いコートを着た女の人だった。
秋が近づいて涼しくなってきたとはいえ、まだコートを着るには早すぎる時期に、彼女は汗ひとつかいていない。
涼しげな表情は、どこか冷たささえ感じる。
まるで、この世界から切り離されたような空間にいるようだった。
もっとも、それは私にも言えることだろう。
だから私は思い切って、そんな世界から隔絶されたような彼女に、声をかけてみることにした。
「もしかして、死神?」
「死神ねえ、そうかもしれない」
話しかけてきたのはそちらなのに、彼女は、面倒くさそうに溜息をついた。
「……そっか、死神の噂って、本当なんだ」
「誰かに聞いたの?」
そういうと、彼女は私の隣に座った。
「私と同じように残されたおじさんがいて、その人に教えてもらった。
私が死んでいるってことも、残ってしまった人を迎えに来る死神がいるってことも」
「そう、その人も、あとで迎えに行かなきゃね」
「おじさん、もう少しここに残りたいって言ってましたよ」
「だめよ。死後の人間はここにとどまってはいけないんだから」
「私、死にたくて死んだ訳じゃないんだけど……」
「そんなのどうでもいいの。で、あなたはどうなの?」
「どうって……何がですか?」
なんとなく、強情な感じの女の人だ。
強情だけど、発する声は冷たい。
けど、怖いという感情は不思議と生まれず、むしろ、安心できる声。
不思議な感じの、大人の女性だ。
「いずれは連れていくけれど、百歩譲って我儘を聞いてあげる。今帰るのであれば連れていくし、待ってほしいなら少しだけ待ってあげる」
「いきなりそんなこと言われても困るんですけど……」
「今すぐ決めて。帰るか残るか。死後の人間は、本当は残っちゃいけないんだから」
「初めて会った人に唐突すぎませんか」
「で、どっち?」
有無を言わさないその態度は、拒否する権利を与えてはくれない。
戸惑いながら、えーととか、うーんとか唸ってみせる。
そうこうしているうちに、五分ほど経過しただろうか。
「ちょっと、待って欲しいんだけど……」
やっとのことでそう答えた。
「まだ、やり残したことがある気がする」
「そうね、みんなそう言うわ。死者がこの世界に残ること自体ありえないことなんだからね」
何か言い返したかったけれど、いい言葉が見つからない。
仕方なく口をつぐんでいると、彼女は言葉を続けた。
「まあ、その感じならまだ忘れていることも少ないだろうし、いいでしょう。
ただし、三日間。それだけなら待ってあげる。けれども――」
彼女は目の前に立って、ゆっくりと顔を覗き込む。
「条件があるの。一つはこの公園から半径二キロメートルより先に行かないこと。遠くに行くと、帰ってこれなくなるから。
もう一つは自分の家に行くこと。誰にも見えないけれど、一度行ってきなさい。あなた、家族にも会ってないんでしょ?」
「なんで知ってるんですか……?」
「多分後悔するわよ、あのままだと」
まるで、全てを見透かしたような言い振りだ。
「死んだ人間はどうあがいたって、生きている人間とは交われないんだもの。
未練がなければ、あなたは残る理由なんてないでしょう。だから、行ってきて」
それだけ言うと、真っ黒なコートを着た女性は去っていった。
再び静けさを取り戻した公園で、私は深いため息をついた。
奥村 真琴。高校1年生。
私は、二週間前に交通事故で亡くなった。
事故の数日前、期末考査の点数のことで母親と口論になって、それから母親と口を聞くことなく、とある帰り道に赤信号を飛び出してきた車にはねられた。
この世界に残ってしまった後も、家には一度も帰っていない。
帰ったら自分が死んだという事実を突きつけられそうで。
そして何より――
「……はあ」
もう一度、大きなため息をついた。
お母さんのことはあまり考えないようにしていたのに、とんだおせっかいな人にあったものだ。
死んだ人間は、生きている人間とは交われない、か。
「お嬢ちゃん、ここにいたのだね」
ふと、男性の声が聞こえる。
声のする方向に目を向けると、
「あ、こんばんは」
そこにいたのは、柔和な笑みを浮かべるあの時のおじさんだった。
「死神の女の子には会ったかね」
そう言うと、おじさんは私の横に座る。
私は、はいとうなずく。
「ちょっとだけ、待ってくれることになりました」
「そうなのだね、相変わらず優しい死神さんだ」
「あの人のこと、知ってるんですか」
「知らないよ、ただ私も君のように、帰るのを待ってもらっているだけだ」
コウちゃん、ほんとに帰るわよ。
はーい。
母親と子供の他愛ないやりとりはまだ続いている。
だが、砂場の男の子はその言葉にやっと重い腰をあげた。
女性のもとに走っていくと、二人は手を繋いで公園から去っていく。
後に残されたのは、命の無い私達だけ。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
「奥村 真琴です」
「そうか、私は吉原 哲(さとし)。六十二で死んだ。かれこれ待ってもらって三年になるがね」
「長いですね」
「本当は残って欲しくないそうだ。ただ、残る理由があるのなら、それを妨げることはできないそうだと、見逃してもらっているのだよ」
「……」
「君は、どうして残っているのかね」
「……分かりません。だって、死んで二週間ですよ?」
「死神のお嬢さんは、君になんと言ったのだね?」
「ちょっとだけ待つから。あとあんまり離れるなって。あと、家にちゃんと帰れって」
「家に帰れと言ったのだね」
「はい」
「君は家に、何か未練を残しているのかね」
「そういうわけではないんですけど、ただ、死んだちょっと前に母親と喧嘩して、それで」
「それで?」
「それで私……あれ」
母親と仲直りしたいことが、私の未練なのだろうか。
なんだか、大切なことが思い出せない。
「私たちは生前のことを忘れていく。家族のことも、自分のことも、関わったすべてのことを忘れていく。
死神のお嬢さんが昔言っていたよ。大切なものほど、死後の人間は先に忘れていく。だから、与えられた時間を大切にしてほしいと」
おじさんは立ち上がり、私の方を見る。
「大切なものを忘れる前に、早く行動することだ」
*
そう、おじさんは言っていたのに――
私はまだここにいる。
ただぼんやりと、夜が明けるのを待っている。
はじめは食欲も、睡眠欲もあったはずなのに。それすら忘れつつあるということなのか。
私は、誰もいない公園のベンチで、座り続けている。
言い訳を考えることすら放棄していた。
今さら家に帰ったところで、お母さんやお父さん、宏太に会ったところで。
「……はあ」
死後の人間になってから、ため息が増えた気がする。
「あなた、まだここにいたの?」
「ぎゃああああ!」
「ちょ、ちょっと、大きな声出さないでよ」
「あ、ああ、死神、さん」
俯いていた顔を覗きこまれ、悲鳴をあげてしまう。
心臓なんてものはもう止まっているはずなのに、ばくばくとした鼓動が、私の中に広がっていた。
それはあくまで感覚だけなのだと思うけれど、その感覚に、一瞬だけ、生きている心地がする。
茫然と彼女の顔を眺めていると、ふうとため息をついて口を開く。
「ここにはあなたの未練はないわよ」
「だって、あんまり遠くに行くなって言うし、あと、小学校の時よく遊んでた公園だから」
「ふうん、まだ覚えてるんだ」
「あ、あの。明日、家に行きます。朝のうちに行こうかなって」
「早いわね、話が早くて助かる」
「忘れる前に行動しろって、おじさんが言ってたんです」
「おじさん……ああ、あの人ね」
「見て来ます。少し怖いけれど」
怖い。
私が死んで、何かが変わっているだろうか。
家族はどうなっているのだろうか。
お母さんは、お父さんは、ちゃんと仕事に行っているのだろうか。
何も変わっていなかったら。
お母さんなんて、あんな別れ方した後だ。死んでせいせいしたとか思われているかもしれない。
その思いは、無意識に私の体に出てしまっていたようだ。
「大丈夫? 手、震えてるわよ」
「あ……」
死んだ後も体は正直だ。体の感覚なんてものはもう無いはずなのに、生きていた証拠は、こうして私の中に刻まれている。
「何も変わってなかったら、逆に嫌だなあ、って思うんです」
「どういうこと?」
「私が死んで、お母さんやお父さんや弟が悲しむのは、嫌なんです。
かといって、何も変わっていなかったら。私という存在が無かったことになっていたら……」
「……それはないから大丈夫よ。そうそう、あなたに言い忘れてたことがあるの」
彼女は私の隣に腰を下ろす。すぐそばにいるのに、まるで気配を感じない。私と一緒で、彼女もまた生きた人間でないことを、改めて自覚させられる。
「ここに留まっていたら、どんどん色んなことを忘れていく。好きだったことも、見知った人の名前も。
私はあなたの未練を知っているけれど、それは自分で思い出して欲しいの。
だから明日、必ず母親に会いなさい」
お母さん……そうだ、謝らなきゃ。
「謝る他に、あなたが思い出さなきゃいけないことがあるはずよ。頑張って思い出して」
一言謝らなきゃ。それはまだ覚えてる。
けど、他にも何か引っかかっている。
それこそが、私がやり残したことなのだろうか。
「死後の人間は忘れやすい。ぼんやりとして、やがて空っぽになって彼岸へ帰っていく。あなただって、知らないうちに色々なことを忘れていっている。
けどね、大切なことは、心で覚えているはずだから」
その時、右手にかすかな何かを感じた。
人の温もりにしては、軽すぎる感覚。
けれど、わずかに温かい。
これは、生きている者にはない、あまりにも軽すぎる感覚。
「まだ伝えられるから。怖がる必要は無いの。だから、頑張って」
「あ、ありがとう、ございます」
お礼を伝えると、目頭がつんと熱くなった。
「あ、あれ、なんか目に入ったかな」
「まだ泣けるのね。泣く理由はないとは思うけれど」
「なんか、私にも分かんないです……」
「私ね。けっこうな人の未練を見てきてるの。その中にはやり直せないものだってあったのだけれど、やり直せるものなら、その手助けくらいはしてあげたいって思う。
あなたはその中の一人なだけ。何も特別なものではないわ」
彼女は立ちあがる。
「じゃあね。伝わるといいわね。あなたの最期の思い」
夕方の時のように彼女は去っていく。
「あ、あの!ありがとうございます!」
少しだけ振り向いた彼女はばつが悪そうに目を反らしていたが、礼を言われることはしてないからと言ってそのまま姿を消してしまった。
ぼんやりと公園を見つめて、眠ることもなく、ただ夜が開けるのを待つだけの日々に、少し光が指したような気がした。
最期に、伝えられなかったことを伝えよう。
「きっと、大丈夫だ」
夜明け前の真っ暗な静寂に、そう呟いた。
*
午前7時。私は自分の家の前に立っていた。
お葬式の形跡ももう無くなり、普段通りの家がそこにはある。
家の車はあるから、誰かはいるのだろう。
そうだ、私は死んでるんだから、普通に玄関を開けられるのだろうか。
開けたとしたら、誰もいないのに扉が開くのか。
そんな考えてもしょうがないことに思いを巡らせていた、その時だった。
ガチャン。
扉のほうに目を向ける。
「車、出すって行ってるのに」
「いいよ、バスで行けるし」
視界に飛び込んできたのは、開けられた扉と、弟の宏太と、お母さんだった。
「宏太! お母さん!」
そう叫んだはずなのに、二人と目線が合わない。
見えていないんだ。
「学校行ってるほうが気が楽だし、大会も近いしさ」
「そう……」
「母さんこそ、早く仕事行きなよ」
「うん、そうね……けど、真琴の部屋を片付けなきゃいけないから」
その言葉を聞いて、私は家の状況を知った。
私が死んで以来、お母さんは仕事に行ってない。
少し躊躇した後、私は一歩を踏み出した。
宏太の脇をすり抜け、家の中へ足を踏み入れる。
お母さんの顔は、ひどくやつれていた。
それは誰のせいなのだろう。
なんて言うまでもない。一人しかいないのだ。
「じゃ、行ってくる」
静寂が立ち込める室内に、お母さんだけが取り残されている。リビングのテーブルで頭を抱え、ただ静寂の中に身を委ねている。
片隅に一筋の煙があがっていて、私の写真と位牌がある。
いつの写真なのだろう。そこには笑顔の、私の写真がある。
死んでしまったのに笑顔とは、いったいどういうことなのか。そんなくだらない考えが、一瞬だけ頭の中をよぎってしまった。
けど、すぐ目をそらす。
写真と位牌。
私は、もうここにはいない。
死んでしまったという事実を、改めて自覚せざるをえなかった。
「真琴……どうして死んじゃったのよ」
違う。私はここにいる。
どうあがいても、その言葉は届かないのだ。
「真琴……」
「お母さん……」
そう呟いたのは、ほぼ同時だった。
「もう2週間よ……夢なら醒めてよ……」
夢であれば、どんなに良かったのだろう。
けど、ごめんなさい。
この現実は、決して夢なんかじゃない。
感傷と胸の痛みを忘れたくて、私は部屋の周りをきょろきょろと見回した。
ふと、カレンダーが目についた。
ばつ、ばつ、ばつ。ばつ印が続いている。
「そうだ」
お母さんは、日付が経過するとばつ印をつけていくことを思い出した。
日付をよく忘れるから、すぐに今日が何日か分かるように。昔そんなことを言っていたのを思い出す。
八月のカレンダーに途中まで赤いばつがついているが、ある日付から、空白になっていた。
ばつ印と空白の境の日付は、ぐちゃぐちゃに、赤く塗りつぶされている。
もう九月なのに、ここだけ、時が止まってしまっているようだ。
私は近づくと、そっと、カレンダーの表面に触れた。
「あれ?」
あることに気づいた。
塗りつぶされた日に、黒のボールペンで何かが書いてある。
その文字を見て、鳥肌が立った。
「そうだ……」
そこに書かれていたのは、今まで忘れていたこと。
お母さんの誕生日が、私の命日になってしまったこと。
そして、あの時の忘れ物のこと。
私は台所のテーブルを見回す。ここには、無い。
息を吸い込んでから位牌を見た。だが、そこにもそれらしいものは見当たらない。
二階へ向かってみる。慌ただしく駆け出したが、足音は立たない。
目当ての部屋の引き戸に手をかけようとしたところ、
「わっ!」
予期しないことに、体のバランスが崩れた。
すり抜けてしまった。物音は一切立てず、私はバランスを崩して片膝をついた。
「いったあ……」
思わずそんな言葉が出たのだが、痛みなんてなかった。
少しだけ気持ちを落ち着かせ、私は眼前に広がる光景に目を向ける。
「あ……」
その瞬間、時が止まったような感覚に包まれた。
あの頃と同じだった。
あの頃、私が生きていた頃と同じものが、そこにはあった。
私がいたのは、生きていた頃の私が過ごしていた部屋だった。
どくんと、良く分からない鼓動が広がる。
じくじくと、私の中の何かを蝕むような痛みが広がる。
生きていた頃の、私。
今の私は、ここにはいられない。
だって、今の私は──
「だめだ! だめだだめだ! しっかりしろ私!」
止まった時間を力任せに動かす。
こんなことを思い出して、動揺している場合ではない。
部屋を見回す。使っていた教科書、参考書、筆記具、テニスの道具、好きなバンドのCD。
女子の部屋にしては物が少なく、引き出しらしい引き出しがない部屋は、探し物をするにはうってつけだった。強いて言えば、衣装棚くらいだろう。
「ない……」
この部屋にも無い。家にはないのだろうか。
思い当たる場所を、頭に浮かべる。
あるとすれば、あとは宏太の部屋と、あと...
「事故の……場所……」
そう呟くと、何かがすとんと落ちる感覚がした。
私は扉に向き直り、歩き始める。
まるで何かに引き寄せられるように、足が勝手に動いていた。
行かなきゃ。
時計の針が音も無く動き始める。
止まっていたはずの時間が、少しずつ崩れていく。
確信はないのに、私の心はそこに行くように言っている。
まるで、何かに押されているかのように。
見つけ出したところで私の明日はもうないのに。
急かされるように、私は駆け出していた。
*
「やっぱり、見つからない……」
──謝る他に、あなたが思い出さなきゃいけないことがあるはずよ。頑張って思い出して。
それは、期末考査が終わった数日後のことだった。
喧嘩した後の私は、夕飯の時も、居間ですれ違うことも気まずくて、お母さんに謝ろうと思いその口実を必死に探していた。
そうしたら、もう少しでお母さんが誕生日だったことを思い出したのだ。
今までお母さんの誕生日なんて、お菓子とかちょっと買ってくるくらいだったけれど、友達と遊ぶのに貯めていた貯金で、お母さんへプレゼントを買おうって思った。
そして、プレゼントを買って帰る途中、私は――
「やっぱりないか……」
私は、事故があったであろう横断歩道の近くにいた。
そばの植え込みに必死に目を凝らし、目当ての物を探す、
かれこれ半日と数時間は探している。
それでもやっぱり見つからない。
誰かに持っていかれてしまったのだろうか。
私の直感は間違っていたのだろうか。
「はあ~……」
大きなため息をついた。
二週間前の事故ともなれば、現場はもはやあの時と同じ訳がない。
力なく手向けの花の横に、ぺたんと座り込む。
自分を弔う場の横に、本人がいるなんて変な話だ。
成仏してほしいとか、そういう意味があるのだろうか。
当の私は事故から初めてこの場に来たのに。
こんな花、何の意味も無いのに。誰が備えたのだろうか。
「……何をあげようとしてたんだっけ」
そのまま三角座りで自分の膝に顔をうずめた。
あげようとしてたものも思い出せないのに、私は何を必死に探してたんだろう。
なんだか泣きたくなってきた。
死後の人間は、忘れやすい。
私は一番思い残したことすらさっさと忘れてしまう、そんな馬鹿な人間だったのだろうか。
そう思うとなんだか無性に自分がみじめに思えてきた。
「……もう、やめちゃおうかな」
そんなことを呟いた。
思い出せないものを探すなんて無理だ。
私はもう死んでいるんだ。死んだ後にあがいて、何が変わるというのか。
そう思うと、ふっと荷が降りたような気がした。
そうだ、諦めてしまえばいいんだ。
あの公園に帰って、死神さんと会って、もう帰ります、って言えば、おそらくこの世界とおさらばして、彼岸とやらに行くことができる。
そうしよう。
諦めて、あるべき場所に帰ろう。
そう思って、立ち上がろうとした、その時だった。
「姉ちゃん」
ふと、そんな声が聞こえた。
どくんと、鼓動が動く感覚がした。この声には聞き覚えがある。
見上げるとそこには、弟の宏太がいた。
「花、持ってきたよ。なんか母さんと父さんもここには来たくないってさ。色々思い出すから」
宏太は呆然とする私の側にしゃがみこんだ。
「母さんは仕事に行っていない。俺が帰っても、家に会話がなくなっちゃったよ。
そりゃあそうだよな、俺も父さんも喋るほうじゃないし、いっつも母さんと姉ちゃんがペラペラ喋ってたんだもん」
花を手向けながら、宏太は話を続ける。
「うるさい姉ちゃんって思ってたけど、いなくなると大切さが分かるもんだな」
「余計なお世話だよ」
思わず呟いてしまった。
はは、と軽く笑い、宏太はポケットに手を突っ込んだ。
「そうだ、これ、さっき植え込みで拾ったんだけど」
どくんと、私の時間が動いた気がした。
だって、その箱は。あの時私が買った。
宏太が取り出したのは、手のひらに収まるくらいの、プレゼントボックス。
「あーーーーーーー!!」
指をさして、私は叫んだ。
「これって、姉ちゃんのなのかな。中身まだ見てないんだけど」
「そう!そうだよ!!」
「けど、拾い物勝手に持っていくのもあれだよな。姉ちゃんのものだって信じて、ちょっとだけここに置かせてもらってもいいかな」
「私のだけど、頼むから持っていって!!お母さんに渡して!!」
「じゃ、置いてくよ」
「お願い!!わ、私触れないから!!持ってってよ!!」
宏太は花の横に、小さな箱を添える。
宏太は、立ち上がった。
私に背を向けて、去っていく。
遠くなってしまう。
「っ宏太! 待ってよ!!」
ぴくんと、彼の背中が動いた。
足が止まり、目線が再びこちらに向く。
「あ……」
訝しげな顔で、宏太は頭をガリガリと掻いている。
「……」
彼の目線は、再び手向けられた花のほうに向いている。
足が、こちらに向く。再び、彼との距離が近くなっていく。
再びしゃがみこみ、彼は小さな箱に手を伸ばした。
「バチあたんねえかな……」
しばらく考えた後、彼は包み紙をそっと剥がし始めた。
「え、ちょ、ちょっと!!」
無言で、彼は包み紙を剥がしていく。
箱の表面に、何かついていた。
「え……これ、姉ちゃんの……?」
お母さん
誕生日おめでとう 真琴
それだけ書かれたメッセージカード。
「あ……」
宏太の手が、震えている。
「母さんの誕生日、姉ちゃん……」
宏太は箱をポケットにおそるおそる入れると、一目散に駆け出していった。
*
あの日、メッセージカードも添えられますよなんて店員さんに促されて、私は小さなカードに、誕生日おめでとうだけ書いて添えた。
高校生の私に不釣り合いな、高級そうな箱に入れられたプレゼントを、さっきの宏太のようにポケットにおそるおそる入れて、家路に着こうとした。
あの時はごめん。私が言いすぎたよ。
そんな簡単な言葉を、何回も何回も心の中で練習して、突っ込んでくる車に気付かなかった。
そして私は──
「ちょっとちょっと!」
「ぎゃああああ!」
「大きな声出さないでよ! 私よ!」
「あ、し、死神さん……」
「ぼやっとしてないで追いかけなさいって! 渡すとこ、見たくないの!?」
「あ、そ、そうだ!」
「ああもう!死後の人間はなんでぼんやりしているのよ!」
そう言いながら、私たちは駆け出した。
夕暮れの光に目を伏せながら、私たちは走った。
急がないといけない。
これが、私の最期にやり残したことだ。
「真琴の字? 宏太、これって……」
「多分姉ちゃん、それを買いに出掛けてたんだと思う。
それで帰りに……」
「あ、ああ……」
リビングには、宏太と、お母さんがいた。
もうすでに、渡した後のようだ。
「真琴……ごめんね……ごめんね……!」
「っあ……」
お母さんの手にあったものは、小さなネックレス。
私が世界から切り離された日に、彼女のために買ったプレゼントだった。
「っあ……おか……」
お母さん。
そう呼びたいのに、喉が詰まって声が出てこない。
さっきまであれだけ喋ってたのに、言葉が出てこない。
手を伸ばして、そこまで行きたいのに届かない。
ごめんね、って。
本当は、私が言わなきゃいけないことなのに。
「あ、ちょ、ちょっと!」
あの場から逃げるように、私は走り出していた。
夕暮れの陽は赤く染まっていた。
胸が締め付けられて、お腹のあたりがぐるぐるする。
それでも、溶けるような夕焼け空の下を駆け続けていた。
やりきれない思いが、私の中で渦巻いている。
私が変な意地を張ってたから。
意固地にならないで、ごめんねって言って、それで解決するはずだったのに。
私がお母さんに言わせているのは、もっと悲しいものだ。
私はここにいない。
私のせいで全てが壊れていく。
「っはあ……はあ……」
息が切れる。死んでいるはずなのに、人間らしいところは残っていて、たまらなく悔しい。
どうせなら、こんな思いも全て忘れさせてくれればいいのに。
どこまで走ったのだろう、さすがにもう走れない。
夕暮れに染まるコンクリートの道路に、影を残さずに立ち止まった。
「ちょっと!待ちなさいって!」
私のせいで全てが壊れていく。
私が起こしたささいなことで、家族が壊れていく。
そう思ったら、喉が焼ききれるような熱い何かに包まれた。
「待ちなさいって!っはあ……もう、死んでるのに、疲れる感覚だけは残ってるって、ほんと損だわ……」
「……私が……」
「え?」
ぽろぽろと、崩れていく。
必死に保とうとしていた感情が、溢れ出ていく。
「私が……もっと大人だったら、ちゃんとその場でごめんねって伝えられていたら。こんなことにならなかったんだよ。
私のせいで、全部崩れちゃった。私のせいで、お母さんを泣かせちゃった」
喉が熱い。
頭がぐるぐるとして、うまく思考が回らない。
「……真琴……」
「っ全部、全部私の、せいだっ……」
握る拳に力が入る。息が荒くなって、うまく呼吸ができない。
「……違うわよ」
かけられた言葉の先に目を向ける。
悲しみも後悔も詰め込んだ私の顔はきっと、ひどい顔をしていたのだろう。
それでも彼女は眼を背けず、私のことを見据えて口を開く。
「あなたが自分を責めることなんてない。人間は死に方を選べないんだもの。未来に起こることなんて分からないから楽しいし、時に後悔もする。
あなたのせいなんかじゃない。誰のせいなんかではないのよ」
「じゃあ、私は、誰にこの思いをぶつければいいんだよ!」
その言葉を放った時、私の中の何かが崩れた感覚がした。
頬を熱い涙が伝う。
溢れていく心の波が、止まらない。
手のひらで覆ってみても、止まらない感情は、嗚咽になって、誰にも聞こえない声になって響き渡る。
「っあ……」
「っお母さん、お母さん……。ごめんなさい!ごめんなさい!」
私の目の前に立っていた彼女の胸に、体を委ねる。
ほんのり暖かい彼女の体に触れると、あふれ出る感情が、流水のようにいつまでも流れ出ていく。
「……あのね、真琴、聞いて」
彼女の体に身を埋めたまま、優しい声が聞こえた。
「人間の傷は、残酷だけれどどんなに深くても時間が解決してくれるの。何年、あるいは何十年もかけて。
お母さんは生きてるんだもの、大丈夫。
あなたのことは、絶対に忘れない。これからも前を向いて生きてくれるはずよ」
ぶっきらぼうだった彼女の声色だったが、とても温かかった。
なんだか子どもをあやすような、そんな風にも聞こえた。
「ねえ真琴、喧嘩しちゃったこと、後悔してる?」
それは、してる。
「プレゼントを買いに行ったこと、後悔してる?」
それは、絶対にない。
「お母さんはとっくに許しているわよ。だから、もう残る必要なんてないの。
時間っていう概念はもうないけれど、あなたの心の傷もいずれ癒えてくれるから」
そう言って、静かに肩を抱いてくれた。
彼女の胸で、私は声をあげて泣いた。
私がやり残したことは、お母さんと仲直りすることでも、あの時のプレゼントを渡すことでもなかった。
伝えたいことを、伝えずに過ごしてきた私自身のこと。
忘れないでいてほしいということ。
やり直したかった、私自身の全てのこと。
「帰りましょう、今のあなたがいるべき場所に」
ぐちゃぐちゃになった顔で、私は、うんと頷いた。
*
ガチャン。
扉の前に目を向ける。
そこには彼女の母親と、弟の宏太が立っていた。
「気を付けてね」
「母さんも、気を付けて仕事行ってね」
「ええ」
母親の胸元には、白く煌めく綺麗なネックレスが添えられている。
彼女の最後のプレゼントだ。
「いい加減仕事に行かないと。宏太のためにも、真琴のためにも、頑張らなきゃね」
「張り切りすぎて、寝込んだりしないでよ」
「大丈夫、それにいつまでも落ち込んでたら、真琴に顔向けできないもの」
「そっか、じゃ、行ってくる」
扉が閉まったのを確認し、あの少年は勢い良く駆けていった。
「もう大丈夫そうね、あの家族は」
扉を見つめていると、背後から声が聞こえる。
その声の主を、私は知っていた。
「彼女が帰ったのはいいものの、プレゼントがどうなったのか確かめたかった。そんなところかな?」
「……違います」
「ケイ先生、君に助けられる死後の人間はたくさんいる。けれど君を助けてくれる人間はどこにもいない。
いつまでそうやって、優しい死神を演じているつもりですか」
「何を言っているのかさっぱりですね。死後の人間は忘れやすいですから」
「なら何回でもお伝えしましょう。
五年前、この地区の保育園が、園児の在園中に全焼した事故があった。
お迎え待ちで園に残っていた園児二名と、当直の職員一名が死亡。
職員の名前は 柴野 桂(けい)。二七歳という若さで亡くなってしまった。
とても優しい女性でした。けれど園児を気丈に叱ることもある。園児からも親御さんからも慕われていた職員でした」
「誰のことだか」
「生前の私は後生大事にあの時の新聞記事をとっていてね。おかげで先生を忘れずにすみました」
「……園長先生も早く、死後の世界に帰ってくれませんか」
「桂先生、それは私のお願いでもあります」
死後の人間が、唯一忘れないものがある。
それは大切な思い出でも、自分のことでもない。
死後の世界への帰り道。
それは絶対に忘れない。
私はただ、帰ろうと背中を押してあげているだけ。
私だって、本当は帰らなければならない死後の人間にすぎない。
死後の人間は全てを忘れていくはずなのに。
「……忘れやすい園長先生のために、また話しますね。
私は死んですぐ、助けられなかったあの子たちの親御さんのもとに向かったんです。
ごめんなさいって、そう伝えたくて」
「……ケイ先生、もう、やめましょう」
「ヒメちゃんのお母さんも、ダイ君のお母さんも、なんでうちの子が。うちの子が死ななきゃいけなかったの、て言うんです」
「……」
「あの子たちに、ココア、作ってあげようとしてたんですけど、お湯を沸かしてたコンロ、開けっ放しにしてうとうと眠っちゃって。
……馬鹿ですよね。本当に、馬鹿ですよね。
お母さんたち、何て言っていたと思いますか?
私のこと、人殺しって、言ってたんです」
「ケイ先生、もう、帰りましょう。もう、後悔するのは、やめましょう」
赤く焼ける視界と、あの子たちが叫ぶ声と、自分の意識がどうしても忘れられない。
だから私はこの世界に残されてしまった。
自分という存在を忘れるまで、大切なものを助けられなかった罪を償うために。
「ごめんなさい、そのお願いは聞けません」
私は、歩き出した。
この世界には、まだ残されている人たちがいる。
その人たちが、せめて最後に幸せに帰れるように。
私は、今日もこの世界を歩いていく。
死後と私と私の日常
死後と私と私の日常