無題ダダイズムからの詩片
我々ダダイストは芸術的アナーキズムとほぼ等しい関係にある。既存の芸術・未来の芸術の意味あるものをすべて否定する。また商業主義ベースにある芸術を親の仇のように看做している。ゆえにアンチポップにならざるをえない。なぜならポップはコマーシャリズムにおいて目的を履き違えた集団であるゆえだ
ダダイストたる先端KANQ38が意味なき地平に根拠地を置いたのは明確な理由がある。意味なき地平のアーティスト、作家・画家等の創作者はコマーシャリズムを必ずしも意図しないむ無益集団であるが故である。才能の潜在性が眠り可能性を秘めているからだ。つまり我々の賛同者がそこに存在している。
すべての無益集団たる諸君、集おうではないか、アンチコマーシャリズムの旗の下に。既存の商業主義ベースに対して反旗を翻してやろうではないか。無意味にこそ究極の意味がある。構築を破壊し、脱構築をも決別し、究極の無意味のうちに飛躍するのだ。やりたいことをやろう。やれることをやろう!
「ゆるがない 決して 神を 賛美しない 祈りもしない 地図は いま 描く」
我々のダダイズムは
唾棄されるものでなければならない
ダダイズムは本質的にゴミなのだ
すべてのアートがこの基本にある
基本が忘れられている
意味なき地平で作品を流すのは
大量消費型の典型
だがこの流れの中に
あまたの才能が眠っている
それは無欲であるがゆえに
基本的にダダなのだ。
「色仕掛け 屍骸の山さ メガシティー 生き残ったら 詩を突っ込んで」
教養などいらない
むしろ不要
必要なのは
モチベーションのみ
完全性はいらない
むしろ半端な方がいい
とにかく道具を取ること
健常さはいらない
むしろアウトキャストであるべき
健常なところには
芸術は必要ない
何のために作るのか
作りたい衝動があるから。
「存在は 神を知るには 人が要る 君を知るには 君だけが要る」
戦術はなくていい
ただし戦略はあった方がいい
偶発性で出来た作品を
どのように
どんな対象に
どういうタイミングで 見せるか
そういうものがなかったら
作品が無駄になる
無駄にしていいのは発想だけだ
効果を狙うことは必要だろう
それがダダにはなかったネオダダのやり方だ。
「沈黙が 饒舌になる 夜の城 人を欺き 地の涯てを行く」
自由に作るということは
一つにと留まらないということだ
出来るだけ多作で
なお作風を変えていった方がよい
信用できる仲間と
信頼しあえるフォロー関係が必要だ
下らない拡散懲罰を働くザコメディアを相手にしてはいけない
作品を交換し合えるモチベーション関係が必要
それもダダイズム。
「賭けしよう すべての舗石 愛すから 僕が敗れて 生き延びたなら」
意味なき地平において
創作するならば
その同志足りうるもの以外は
フォローすべきではない
かえって創作の邪魔になるばかりか
目的を履き違える可能性がある
自由な創作環境は
ストイックな創作でしか生まれない
ダダイズムは無意味に好きに作ること
しかしそれは全く怠惰を意味しない。
「伝説が 頬の血 拭い 疾ったんだ 赤い砂丘に 轍 残した」
創作に方法や規約などない
あるのは「こうでなければならない」というのを
捨て去る方法と規約である
仮にあなたがそのように
誰かに言われたとして
あなたは書けるだろうか
描けるだろうか
ダダイズムは規約を無視する。
方法を限定しない。
「こうでなければならない」を破壊する。
「雨の中 舗道 見ていた 成り行きを 愛が走った 誰かが死んだ」
便器さえもモチーフになるように
世界はそれ自体インスピレーションである
理性で捉えてはならない
直感を信じること
数コマのフレームさえも
あなた自身の直感に委ねられている
それは運命を決する
作品の未来を決める
あなたが作品の生殺与奪の支配者なのだから。
「カード切り 瞬時に選ぶ いつの日か その分かれ目で 歌が聞こえる」
描けないことはまったく問題にならない
描かないことに罪責がある
モチベーションと
インスピレーションが
揃ったら
ツールに向かうべきだ
瞬間が大事なのである
作品は瞬間を待ち望んでいる
意味づけられることを待っている
無意味に作られた作品であってもだ。
「1秒の 詩描きの生は 夜を堕ち 明け方生きる ロジックは死なない」
我々は単純に
重力に縛られた存在ではない
その発想と態度によって
地球から少しだけ突起する
書けること
描けることこそが
内実を決める
能力があるなら行動するべきであることは
言うまでもないし
描きたい衝動や欲があるならば
表現者が始まっている。
資格のない人間はいない。
「弾丸が 計画的に 跳ねていく 扉壊して 月を汚した」
一人の賛同を勝ち得たら
今は勝利だと思って
我々は表現している
百年後に理解されうるものであるために
創作している
だから現在の評価など
恐れはしない
恐れることがあるとすれば
表現の牙の向き先と
表現しないことで
失われる価値についてだ
時間を失う覚悟で創っている。
「域 廃る 詩描きのコンマ 跳躍の 弾みの際で 陵辱をする」
「これが詩だ」
「これが映像だ」
このフレーズで宣言は足りる
他の言葉は必要ない
表現者が規定するものであって
批判される謂れはない
シンプルに受け取る対象のみを
配慮すること
その対象は
昔の自分を思い描くこと
救われた経験を思い返すこと
対象とはそういうもの。
「真実は ここにはいない きみだけが 世界の 終わり 話していた」
批判者を恐れてはならない
孤立を恐れてはならない
むしろ
対象だけを怯むこと
失望させないこと
それは表現の挫きについて
妥協してはならない
かといって疾走もよくない
60%で達成とすること
作品は完全にコントロールできない
逸脱する効果は想定できない
それを待つこと。
「詩のカイエ 死とギリギリで 眠らずに 夜を 聴いてた 世界 編んでいた」
我々がノイズ的な手法を選んだのは
手近であること
一人でもやれること
我々の状態に迫られた選択だと思う
稚拙だろう
しかし稚拙は恐れない
誰もが方法を知らないところから始めた
もしあなたのなかで
方法について真っ白であるなら
それは誇りにすべき
芸術の無知は恥ではない。
「人が去り あの語句の意味 死んだなら カトレアの そば 葬ってくれ」
ダダイズムは
直感・思いつきに
全面的に信頼を置く手法と言える
方法があるとすれば
それだけ
だが直感の確かさは
既存の方法に頼るより
よほど信頼に足ると思う
ただ直感だけに頼りきってるわけではない
偶然得られたものを
手法にしていくこと
偶然の効果を
目で磨くこと。
「放たれた 世界の重さ 耐えられず やけくそに切る 数ミリの髪」
挫ける余裕があるなら
作品を作らなければならない
作品があなたを待つ
あなたの芸術は
あなた一人で完結しない
作品もまた生き物である
作品は息を吹き込まれるのを
待ち望んでいる
100年後の誰かを想定すること
100年後の自分の作品を信じること
芸術は永久の生き物。
「孤高の知 一人眺める 荒廃は 詩の誕生日 詩が生きる午後」
他者のセンスに脱帽することも大切だ
だが自分のセンスを信じること
誰もあなたの作品を批評する力はない
時間だけが作品の有効性を審判する
時間に耐えうる創作を信じること
現在のために創るのではない
未来の誰かの切望のために創る
誰かは魂の空腹をあなたによって満たすだろう。
「喪失の 隠喩の廃墟 銃を取り 君 誇らしく 前髪を 裂く」
誰にでも創れるものを
誰も必要としていない
あなたにしか創れないもの
それを誰かが拾うのを待ち望んでいる
特定の誰かしか創れないものにこそ
魂は救われないのだ
時代は多くが要求するものしか拾わない
すべての孤独な魂はそれを唾棄したい
真に拾われる創作は多くはないのだ。
「物語 疾走する街 彼 彼女 衝動だけを 携えて」
自由な空気を吸うこと
そのような空気を求めること
自由は孤立からしか生まれない
孤立した芸術は
孤高の芸術を目指すこと
誰かへの幸福を創作の目標にしてはならない
結果だけが誰かを解放する
まず自らを解放すること
創作で自らを満たすこと
孤立を恐れないのは作品への信頼のみ。
「詩描きは 真夜中に 生きる トークショー 人生 決して 瞬かなかった」
あなたの命が朽ち果てても
作品は生き残る
作品があなたの遺言になる
遺言は世界に刻むだろう
あなたの生の証を
あなたは伝達される
魂から魂への疾走
作品の疾走
なんの為に創るのか
究極は自己証明か
違う
あなたは描かねば生きられない
創作を受け取る側がそうであるように。
「詩を書いて 言葉 途切れて 行き倒れ そんなものだな 人生っての」
誰かに届くかどうか分からない我々の言葉を
なぜ虚空を掴むように
我々はあなたに語るのか
創作の孤独を知っているためだ
その孤独だけが
その深みだけが
時間があなたを試す要素
時間に耐えうる言葉や絵なのか
あなたや我々は問われる
あなたが時間の審判に耐えうることを祈る。
「エチゾラムは この日を鎮め 待ってくれる もう充分 生きたと 言える日」
無題ダダイズムからの詩片
最近、純然たる詩が書けない。
だからこういう詩を選んだ。
作者が所属するアートユニット「先端KANQ38」のアカウントを作りました。
映像製作を主に行ってます。遊びに来てください。
先端KANQ38ツイッター https://twitter.com/kanq38