Without haste, but without rest.
急がずに、ただ休まずに。
ここはどこだろう。
傍らの家からもれる、温かな光と夕飯のにおい。
願わくはキミの作ったカレーを食べたいなんて。
道が途切れ、見上げた月に照らされて、ようやく自分が独りだと気がついた。
「しばらく留守にするから」
ドレッシングを持った手は一瞬だけ止まって、もう一周サラダに円を描いた。
「…そう」
言いたいことは山ほどあっただろう。
それらは全てカレーと一緒に一杯の水で流し込まれた。
食器を洗っていると目に入った一枚のメモ。
すりごま、砂糖、醤油、酢、マヨネーズ。
そこに加えられる時間こそが美味しさの秘密なんだと思う。
ひとり残された部屋に微かに香る彼女の気配が心地よかった。
言葉が足りないとか後先を考えないとか、昔から散々言われてきた。
形にならないだけで、どれも何かしらの理由があったはずなんだ。
自分に言い訳をしながら、鞄に財布とパンツと手のひらサイズの文明を突っ込んだ。
あとは夢や希望をと言いたいけれど、迷いや不安で既にパンパンに膨れ上がっていた。
一日、一週間、一ヶ月。
ただ宛もなくその日暮らしを続けた。
知らない土地で、誰にも知られず生きた。
寒い夜には自分を抱きしめて眠った。
歩き疲れ、公園のベンチに腰を下ろした。
少し横になろうか考えて、何か引っかかった。
揺れる銀色のリング。
ない。
鞄につけていたお揃いのキーホルダーが。
どうして気づかなかったんだろう。
いつの間にか途切れた鎖の残骸が、必死にすがりついていた。
俺はその日、大切なものを失う怖さを知った。
初めて、誰かを想って泣いた。
呼び出し音が三回鳴って、キミに繋がった。
言いたいことが言葉にならずに胸の中を渦巻いた。
「寒くない?」
「…大丈夫」
「会社の人が連絡とれなくて心配してたよ」
「…うん」
「有給中でも電源は入れとけって私が怒られちゃった」
「…ゴメン」
「今回はさすがに別れたらってみんなが言うの」
「…そう、だよな」
「でもね、誰かに認められたくて貴方に恋したわけじゃないから」
「……あのさ」
「うん」
「…俺、幸せにする自信は、正直ないんだけど…」
「うん」
「…独りは寂しいからさ、一緒にいてよ」
「月が綺麗だよ」
「…ほんとだ」
「気を付けて、帰ってきてね」
同じ月を見て、互いを想った。
隣に座ってる誰かより、離れているキミが近い不思議。
多分これが、愛しさというものなんだ。
扉を開けて、キミが振り向く。
背伸びをして俺の垂れる頭に腕を伸ばす。
「幸せにしようなんて考えなくていいよ」
子どもにするそれのように、温かい手が心を撫でる。
「勝手に幸せになっとくから」
右ポケットの中、千切れたキーホルダーの輪っかを取り出し、キミの細い指に通す。
「大きすぎ」
泣きながら笑うその顔は今までで一番キレイで、いつの間にか俺もつられて泣いていた。
最初からずっと待ってくれていた。
しょうがない人ねっていつも笑って許してくれる人。
キミのいない世界はどんなふうだったかな。
迷子になったって、どんなに回り道をしたって、俺はここに帰ってきたい。
この先、泣きたい夜が幾度となく襲うだろう。
そんな時は、キミを抱きしめて眠りたい。
僕の未来は、君の今になる。
Without haste, but without rest.