紅緋色光る夜に

紅緋色光る夜に

-闇の中で-


彼は闇の中を逃げ惑っていた。
いまが何時なのかそれすらもうわからなくなっていた。
黒い闇だった。
彼は闇の中を少しずつ近づいてくる≪それ≫からひたすら逃げ続けていた。
なぜ追われるのかわからない。
いや≪それ≫が何者なのかということさえ彼にはわからなかった。
彼がいくら走っても≪それ≫は、じわり、じわりと彼に近づいていた。
≪それ≫の白い手がもうすぐそこにあった。
「う、うわあああ。来るな。来るな」
彼はそう叫びながら夢中で手に持っていたバス釣り用のベイトキャスティングロッドを左右に振り回した。
今、誰かが彼を見たとしたら『ひとりで滅茶苦茶にバス釣り用のロッドを振り回しながら叫んでいる精神に異常を来した男』にしか見えなかっただろう。

だがしかし彼には見えていた。
彼にだけははっきりと見えていた。
恐ろしい異形の者の姿が…

≪それ≫の姿はひと目でこの世の者ではないことがわかる姿をしていた。
≪それ≫は白いワンピース姿をしておりまだ少女のように見えた。
だがその表情ははっきりとは見ることができなかった。
まっすぐな長い髪がその磁器のように白い顔を覆い隠していたからだ。
しかし長い髪の間からほんの一瞬見ることができた。
今にも「ひひひひひ…」と下品な笑い声を上げそうな口角が吊り上がった真っ白な唇。
意外なほど整った鼻。
血の涙を流しているかのように真っ赤に充血した眼。
≪それ≫の紅緋のように赤い眼がじろりと彼を見た。
それはこの世の者の形相ではなかった。

陽が沈んでからずっと≪それ≫に追われ続けていた彼はダムの堰堤に出た。
そこは左右に逃げ場のない長い長い直線道路だった。
右側は30メートルはあろうかという高さのダム湖までの垂直の壁。
左側はさらに高い放水口がある垂直に近いスロープのような壁。
どちらも安全のために高さ5メートルの金網フェンスが張られていた。
このまま直線道路を走ってももう逃げ切れそうにないと考えた彼は堰堤右側のダム湖への金網フェンスに手をかけて登り始めた。
ダム湖にガシャッ、ガシャッという金属音が小さく響いた。
高いフェンスの最上部あたりまで登ったときだった。

「…ネ。………マエ」

という不気味な声が彼の耳元でめてくれよ。なんなんだよ」
彼はパッと後ろを振り返った。
≪それ≫は彼のほんの目の前にいた。
驚き大きく眼を見開いている彼の耳元に真っ白な唇を近づけてぼそりといった。

「シネ…。シンデシマエ…」

背筋が凍るようなくぐもった声だった。
彼はすべてを諦めた表情を浮かべて、金網フェンスの上部に足を乗せた。

「シネ…。シンデシマエ…」

彼はフェンスを蹴ってダム湖への深い暗い闇へダイブした。
どこまでもどこまでも落ちていく彼が見たものは闇に浮かぶ紅緋のように赤い二つの眼だった。

下弦の月が彼が落ちた後の波紋をいつまでも照らしていた。

「家鳴り」


昭和が終わる前のことだった。

僕の実家は相当な田舎だった。
バスで1時間以内の場所に高校がなかったくらいの田舎だった。
僕たちは高校生になると入学した高校のある町に必ず下宿して通学していた。
僕が住んでした下宿というのがまた群を抜いて古かった。
江戸時代から建っているんじゃないか?と思うくらいに薄汚れて老朽化していた。
最低築百年は経過しているはずだ。
大きな屋敷で部屋数は十はあったはずだ。
内庭には小さな汚い池と自然に戻りつつある築山があった。
母屋から少し離れたところにはひと間だけの離れがありここも下宿生に提供していた。

よくいえば古式豊かな雰囲気のある旧家という風情だが、端的に言うとただのボロ家だった。
あちこちが白蟻の被害に遭っていたし一度などは蛇の抜け殻が天井から落ちてきたこともあった。
頻繫に「ピシッ」とか「バシッ」とか「ギーッ」とか気持ちの悪い家鳴りがした。
心霊マニアだったら「ラップ音がっ!」と色めきたちそうな大きな音がすることもあった。
僕自身この家鳴りが気にならなくなるまでには相当の時間を要したし常に下宿生達をビビらせていた。
そしてここには僕と同様の田舎者たち十数人が共同生活をしていた。

七月二十日。
それは高校二年の一学期の終業式があった日だった。
下宿の住人の中にはその日のうちに実家へ帰省する者も少なくなかった。
こういう下宿は当時は賄い付きというのが当たり前だった。
この日の晩ご飯も先に実家へ帰った者たちを除いた全員が揃って食べた。
食後、自分の部屋でラジオを聴きながら漫画を読んでいると、離れの部屋を借りている中島中が遊びに来た。
「上から読んでも『なかじまあたる』下から読んでも『なかじまあたる』といいます」
という自己紹介で一発で名前を覚えてもらえる得なヤツだった。
僕は「名づけた両親に感謝すべきやな」などと言って笑ったものだった。
中島は僕の通う高校とは町の反対側にある高校の生徒だった。
いつもそうなのだが、中島はわけのわからない派手な図柄のプリントTシャツに短パンをだらしなく穿いていた。
僕は人見知りをするほうで友人の数も少ないのだが、中島はその数少ない友人の中の一人であり一番気が合う男だった。
中島は食後ときどき僕の部屋にやってきてはヒマつぶしをしているように思えた。
勉強などしている雰囲気はまったくなかった。

明日からは補習はあるものの午後からは休みという気楽さからか夜遅くまでくだらない話をして過ごした。
寝たのはもう午前2時を回っていたかもしれない。
当時はよほどの金持ちでもない限りエアコンなどなくて夏は暑いのが当たり前だった。
しかしそれでもその日は湿度が高く、特に暑くて寝苦しい夜だった。

寝ようとして一時間くらい経っただろうか?
パイプベッドの下で寝てしまった中島の寝息が聞こえてきていた。
「こいつ、よく眠れるなあ…。しかも他人の部屋で…」
そう思った直後、パイプベッドの枕元のすぐ後ろで


「ミシリ……」


という音がした。
そのときは「いつもの家鳴りだ」と思った。
そして数秒後


「ミシリ……」


また音がした。
音は少し移動したように感じた。
このとき僕は身体に経験したことのない異変を感じた。
何かに縛られたように身体がピクリとも動かない。
「なんだこれ?」
驚いたと同時にものすごい恐怖が身体を支配した。
「どうして動かないんだ?」
このときはまだ《金縛り》とは思っていなかった。
そしてまた数秒後


「ミシリ……」


今度は右肩のあたりで音がした。
僕はもうこれは霊のものに違いないと確信していた。
すぐそばに寝ている中島を起こそうにも声が出ない。
腕も足もまったく動かない。


「ミシリ…ミシリ…」


音は僕のベッドと中島の間を通るようにゆっくり足元へ向かって移動していく。


「ミシリ…ミシリ…ミシリ…」


止まった…。
僕の右足の少し下で音は止まった。
『金縛りにあったら決して目を開けてはいけない。なにか怖いものを見てしまうから』
そんなことはあとで聞いた。
僕は恐る恐る目を開けた。
そしてはっきり見た。

≪それ≫は僕の足元に立っていた。
白いブラウスを着た長い髪の少女だった。
俯いた顔は大部分が長い髪がばさりとかかっていてよく見えなかった。
いやよく見えないほうがむしろ良かったかもしれない。
長い髪が少し分かれた隙間から真っ赤に充血した眼と口角の吊り上がった口がほの見えた。
≪それ≫はニタリと不気味に嗤いながら眠っている中島の顔をじっと眺めているようだった。                    
それが見えた瞬間、僕はパニックに陥った。
「う、うう、あっ、あっ」
出なかった声が少しだけ音になった。
なんでもいいから音を出して中島を起こさないと……
「う、うっ、うわあああああっ…」
ようやく声が出た。
「なんや、なんや」
中島が驚いて飛び起きた。
「あれ、あれ見ろ!」
僕は寝たまま右手でそれが座っている方向を指差した。
しかし僕が指差すところにはもう暗い闇しかなかった。

その日はもう眠ることなんて出来なかった。
あんなものを見てもう一度電気を消して眠られる人間がいたら紹介してほしいくらいだ。
僕は中島にたったいま起きたことを早口でまくしたてた。
「寝ぼけただけやろ。帰って寝るわ…」
中島は呆れた顔をして自分の部屋へ帰っていった。

「市立病院の階段で」

僕が住んでいた下宿は当時、当然のように悪ガキどもの「たまり場」みたいになっていた。
態度の悪い仲間がいつもバイクでやってきては、タバコは吸うわ酒は呑むわ騒ぐわ……で近隣の評判はかなり悪かった。
僕自身はまじめな受験生という仮面を被っていたのだが仲間が悪くてやはりあまり良い目では見られていないようだった。
しかし親元から離れている下宿生はだいたいそんなものだと思っていた。

七月二十四日。
雨上がりの湿気がまだ十分に残っていた午後だった。
夏休みが始まったというのに午前中は受験のための補習だった。
しかも僕がもっとも苦手とする数学と英語だった。

「うんざりやな…」
下宿に帰り、勉強机の引き出しからセブンスターを一本取り出し火を点けて一服していると中島がやって来た。
元々、中島はスポーツができそうなタイプではなかったが今日は特に顔色が悪くてなんだか元気がなかった。
中島はパイプベッドを背凭れにして座り込んだ。
「どうしたんや?顔色悪いぞ。どうかしたんか?」
僕はアイスの缶コーヒーのプルトップを引き抜きながら言った。

「ああ。昨日、西本が事故ってな…」
中島はつぶやくようにそう言った。
西本というのは、僕は直接知らなかったのだが中島の話によく出てくる名前だ。
中島とは親友といってもいいくらい仲が良かった。
「理緒……あ、西本の彼女な。夕方、理緒から連絡があって『怪我がかなり酷いみたいやからすぐ市立病院に来て!』っていうんや」
「そうか…ヤバかったんやな」
「ヤバい。ヤバい。それがな……」
中島はいつの間にか冷蔵庫からスポーツドリンクのペットボトルを取り出して一口ごくりと飲んだ。
「お前、勝手に……」
僕はそう言いかけて止めた。
中島の顔つきが普通じゃなかったからだ。
中島は一息つくと昨夜の長い話を語り始めた……

「俺が病院に行くと、理緒が二階の廊下のソファに座ってた。
あの薄暗い廊下にたったひとりやったな。
理緒の顔つきからヤバい状態なのはすぐわかった。
理緒は『手術は終わったけどなんとも言えんて……。お母さんがついてるわ…』と言った。
俺は理緒の隣りに腰掛けた。
事情を聞くと、西本はバイク仲間と56号線を走っていてカーブでスリップしたらしいんや。
頭を強く打っていて脳から出血していて意識がないっていうことや。
今夜が一応の峠やっていうんで、俺と理緒は病室の外で西本の意識が戻るのを待つしかなかった。
俺たちはあまり話すこともなくてしばらく黙って座っていたやけどな、突然理緒が階段のほうを見て
『あれ…?森下くん…?』て言った。『なんでこっち来んのやろ?』
一瞬、俺には意味がわからなかった。
聞くと『今、そこの階段のとこから森下くんがいててこっち見てたんよ。にこっと笑ってた』という。
森下というのは西本の昔からのツレやな。
二人でようバイク転がしてとった。
俺は階段のほうを振り返ったが森下はおらんかった。
俺は一瞬『森下は俺がおるから遠慮したんかな』と思って、階段のところまで森下を呼びに行ったが階段には誰もいなかった。
それにそんな遠慮なんか絶対せんヤツや。
俺が階段の上り口から理緒のほうを振り返ったとき、勢いよくバタンと病室のドアが開いた。
西本の母親が飛び出してきた。
顔つきがハンパなかった。
『な、中島くん!先生、先生呼んで来て!早く早くっ!』
俺はすぐ何が起こっているのかわかった。
俺は大急ぎでナースステーションへ走った。
ナースステーションはすぐそばだった。
バタバタと医者とオバハンの看護士が病室へ駆け込んで行った。
しばらくして看護士が出てきて俺と理緒を中に呼び入れた。
西本の顔は土気色だった・・・
これが死んだ人の肌の色なんやな……なんとなくそう思った。
西本の母親は西本にすがって号泣していた。
理緒も西本の名前を呼んですがりついて泣いた。
俺はひどいショックを受けていたが、すぐ森下のことを思い出した。
『あいつも呼んでやらんと……』
俺は廊下へ出た。
森下はいなかったが、別のバイク仲間がいた。
『西本が死んだ……。さっき森下が来とったから呼んでやってくれや』
俺がいうと、そいつはポカンと口を開けた。
そしてプルブル震え始めた。
『それ、マジか?うそやろ?』
『なんや?』
『前を走っとって先に事故ったのが森下やぞ。森下は先に死んでる……』
『・・・・・・』
俺の背筋にものすごい悪寒が走った。
正直こんなに震え上がったのは初めてや。
じゃ理緒が見たのは何やったんや……?
森下は西本を迎えに来たんか……?」


中島は一気に話し終えてタバコに火をつけた。
マルボロライトを持つ手が小刻みに震えているのがはっきりわかる。
「怖いな……・」
僕は中島の青ざめた顔を見ながらそういった。
中島は額に脂汗を浮かべていた。
「怖すぎや。でももっと怖いのはな……
あの瞬間……ちょうど森下が階段からこちらを見ていたのを理緒が見たちょうどその頃な…
意識がないはずの西本が自分で酸素の挿管チューブを噛み切って死んだってことや……」

中島は真っ青になっていた。
僕もショックで同じ顔色になっていたと思う。

「霧の56号線」


次の日は臨時の全校集会があったりマスコミの取材があったりで煩わしかった。、
だが時間が経つに連れていろいろな方面から情報が集まってきた。
知り合い二人が急死したバイク事故の経緯が少しずつわかってきた。

あの日はたしか朝からの雨が上がりどんよりとした午後だった。
中島の親友の西本明は最近買ったばかりのMB50というヨーロピアンタイプのミニバイクでカーブだらけの国道の峠越えの道を走っていた。
西本の前にはバイク仲間の森下哲が走っていた。
森下は親に買ってもらったCB50というバイクに乗っていた。
峠の頂点に差し掛かった頃あたりには霧が濃くかかっていたという。
見通しの悪いカーブが続いているうえにさらに乳白色の霧のため、ライトをつけても視界は狭くかなり走りにくい状況だっただろう。

西本は理由はわからないが少し気持ち悪い感覚に襲われていたという。
峠を越えて、右、左とカーブを重ねながら道路は少しずつ下り始めた。
いくつかのカーブを越えた時、ふと左側の路肩に白っぽいブラウスを着た女の子が立っているのが見えた。
「こんな山の中にどうしてあんなかわいい女の子が…」
西本がそう思った次の瞬間、急にバイクのブレーキが効かなくなった。
道路は下り坂のきつい連続カーブだ。
「うわあああああ………」
西本は必死でギヤを落とし左右に身体を倒してなんとかカーブを曲がり続けた。
最後の大きなカーブを奇跡的に曲がり終えたとき霧を抜けた。
そして突然ブレーキが効いた…
「ああ、よかった」
西本は大きく息を吐いた。
それから速度を巡航速度に戻した。

安心すると今度は若いだけあってすぐさっきの女の子のことが気になった。
「なんであんなとこに立ってたんだろ?乗せてやったらよかったかなあ」
西本はそう思って何気なく後ろを振り返った。
すると…
その女の子がバイクの後部シートに座ってすごい形相で西本にしがみついていたという…
その眼は血のように真っ赤で口を引きつらせるようにして笑っていたそうだ。
その瞬間、西本はパニックとなりハンドルを切り損ね転倒した。

「たいしたスピードやなかったから西本はほとんど怪我してなかったで。でも様子はかなり変だった」
と一緒に走っていた柏木仁が言っていた。
聞くと、柏木は三台目を走っていたそうだ。
つまり森下、西本、柏木の順番に走っていたようだった。
「あれだけ危ない運転したんやから無理ないな」
はじめ柏木はそう思ったらしい。
実際、柏木は転倒した西本のそばに駆けつけたときはそう口にしたと言った。
しかしそこで柏木は前述のような怖ろしい状況を聞かされたという。
さらに柏木は「あのな、森下も変なことをいうとったで」と言った。
「森下は『白い服の女の子がカーブミラーに映った』とか『バックミラーに顔が…』とかぶつぶついうとった…。あいつら絶対とりつかれとったんや」

後日新聞で読んだのだが、三人はそのあと来た道を引き返し市内で別れたそうだ。
ただ森下と西本の二人はそのあとなぜかまた56号線へ引き返して死亡事故に至っている。
柏木がいうように死んだ二人は『白い服の少女』にとりつかれていたのだろうか……

「山田池の釣行」


七月二十六日。
西本と森下の事故から三日が過ぎた。
僕はなんとなく重苦しい気分を晴らそうと釣りに出かけた。
僕はルアー釣りが唯一の趣味だった。
その頃はバス釣りはまだ黎明期であり、ブラックバスという魚はどこででも釣れるという魚ではなかった。
同好の趣味を持つ釣り人がゲリラ放流するとバスはほとんどの場合何処ででも大変な勢いで増殖した。
56号線の峠の途中に≪山田池≫という小さな野池があった。
池の周囲はまだ整備されておらず、木々や背の高い雑草が生い茂っていて自然が残っている釣りをしていて気持ちの良い池だった。
僕は落ち込んでいる中島も誘おうと思っていたが、あの事故以来部屋に閉じこもっているようで声をかけることができなかった。
しかたなく夕方一人でバイクで山田池に向かった。

ブラックバスという魚は夕方陽が落ちた後や陽が昇る前の早朝がよく釣れた。
僕の場合、朝はちょっと起きれなかったのでいつも夕方から夜にかけてゴールデンタイムだった。
この日もいつものようにアメリカ・ヘドン製のトップウォータープラグを岸際にキャストし続けた。
トップウォーターの釣りというのは実にわくわくする。
水に浮かべたルアーを目がけてバスが水面を割って出てくる瞬間は何物にも変えがたい興奮をもたらす。
ただこのバスという魚は明るいうちは陽陰に隠れていてなかなか釣れない。

この日も釣れ始めたのは陽が落ちてからだった。
驚くほど大きいサイズは釣れなかったが数はぼちぼちで飽きない程度には釣れ続けた。
釣れるたび、僕は横たわったバスのそばにメジャーを置いて写真を写した。
バスはそのあとリリースした。
僕は暗くなっていく周囲の不気味さにちっとも気づかずルアーを投げ続けていた。
ふと気づくともう水面のルアーさえ確認しづらくなっていた。
繁った草叢の間から不気味な動物の声や何かが動く気配がしていた。
夕方から夜に変わるなんとも気持ち悪い時間帯だった。
そのとき、ジュボッ!というバス特有のバキューム音がしてルアーが沈んだ。

「今までのバスとはサイズが違う」
僕は手ごたえを感じて忍び寄っている恐怖を忘れた。
数分間のやり取りの果てにその大きなバスは岸際の僕の足元に寄って来た。
とてもそのまま抜き上げられるサイズではなかった。
僕は手でキャッチしようとしてハンドランディングの態勢をとった。
バスはもう暴れていない。
「いまだっ!」
左手でロッドを持ち右手を水面に差し出した。
その刹那……

真っ白な女の子の手のようなものがいきなり水面から出てきて僕の手を掴んだ。
その女の子の顔は明らかに水面下にあったが、口角を吊り上げてニタリと不気味に嗤っていた。
その顔は真っ白だったが眼は血のように赤かった。
この世のものではない怖ろしい形相だった。
僕はそのまま水中に引きずり込まれた。
どこまでもどこまでも沈められていく怖ろしい感覚……
「い、息ができない。殺される……」

そう思った瞬間、何者かに引っ張り上げられた。
僕は岸の上に倒れて水を吐き出しながら助けてくれた人のほうを見た。
中島だった。
僕は偶然あとからバス釣りをしにやってきた中島に抱えられ水中から助け出されたのだった。
聞くと「お前がバスをランディングしようとしているのが見えた。ところがそのまま一分くらいお前の動きが止まりそのまま自分から飛び込むようにして水中に入った」ということだった。
中島は僕が見た少女は「そんなものは見えなかった」と言った。
あの少女は何者なんだろう。
僕はあの金縛りにあった夜見た≪あれ≫と同じ眼だったようにも思えたが……

「見えていた見えざる者」

高校二年生のあの夏は、本当にいろいろなことが起きた不思議な夏だった。

夏休みが始まる直前に起きた金縛り。
そのときに見た紅緋色の眼の少女。
中島の二人の友人の死。
その死にまつわる二つの怖ろしい話。
山田池での恐怖体験。

本当に不思議な夏だった。

カレンダーは八月に変わったが、僕はまだ実家へ帰省していなかった。
この薄汚い下宿に今居るのは僕だけだった。
「ひとりだけのためにご飯炊くのも面倒臭いんだよねえ」
僕の食事を作っている大家のあばあさんは少し迷惑そうに言った。
「すいません。補習と部活とバイトが忙しくてなかなか…」
僕はいい加減な返事をしておいた。
実家は帰ったら帰ったで「勉強、勉強」と煩くて居づらくなるのは目に見えていた。

ふと中島が借りている離れの部屋のほうが気になった。
見るとはなしに見た。
中島の部屋の前に見かけない夫婦がいた。
歳は僕の両親と同じくらいだろうか…?
中島の部屋から荷物を運び出している。
僕は「中島の両親だな」と直感した。
母親と思しき女性はときおり手を止めて涙を拭っているように見えた。

「中島君のお母さんですか?」
僕は人見知りをするほうなので、こういうふうに人に声をかけるのは苦手だったがこのときは不思議と自然に聞いていた。
その中年の女性は「そうです」というふうに頷いた。
僕は二人が荷物を運び出していることをが不審に思えたので聞いてみた。
「中島君、どっかへ引っ越すんですか?」
母親は涙声で答えた。
「知らないの?」
「えっ?」
「先月、中が自分で死んだの知らなかったの?」
彼女は少し詰問調に言った。
僕が何も知らないのを怒っているようだった。
「…………」
僕はそんなことよりもたったいま中島の母親から言われたことがすぐには理解できなくて茫然自失していた。

この人はいま「中島が死んだ」って言ったのか?
自分で死んだって?自殺したってことか?
いったいいつ?
どこで?
そして、なぜ?
僕は何も聞いてないぞ。

様々な疑問がいっぺんに噴き上がってきた。
わけがわからなかった。

今度は父親のほうが口を開いた。
「七月二十三日やった。夏休みになってすぐのことやった。ダムに飛び込んだんや。自殺や」
父親は一言一言を自分に言い聞かせるように僕に言った。
「そ、そんなことって……」
僕はそういうのが精一杯だった。
あの中島が死んでしまうなんてまったく信じられない。
しかも自殺なんて。
そんな素振りもなかったのに……

……七月二十三日…?

二十三日って言ったか?

父親が間違えるわけないよな。

その翌日、僕は中島に会ってるやん……
市立病院での話を聞いたのはたしか二十四日だった。
そして二十六日に山田池で僕を池の中から救い上げてくれたのは中島だった。
どういうことなんや?
何が起きてたんや?

僕は急いで近くの公衆電話に飛び込んだ。
つてをたぐってなんとか理端の家の電話番号にたどり着いた。
すぐにその番号にかけると運良く理緒が出た。
僕は簡単に事情を説明した。
中島が自殺したことには触れず、西本の事故の日のことを聞いた。
「中島と市立病院のソファに座ってたんだよな」
理端は不思議そうにいった。
「えっ?なんでそんなこと聞くん?わたしだけやったよ」
理端は「意味がわからない」と続けた。

僕は『自分が見ていたものが見えるはずのないものだった』ということを初めて確信した。

「家鳴り」 -エピローグ-

八月の終わり。

その夜も熱帯夜だった。
夏の初めのじめじめ感はなくなっていたが蒸し暑い晩だった。
パイプベッドに寝転がりタオルケットを腹にかけただけの僕は眠るために暑さと闘っていた。
僕は何度も何度も左右に寝返りを打っていた。

どれくらいそうしていただろう。
墨のような暗闇の中で不意に音がしたような気がした。


「ミシ……」

 ん……?

「ミシリ……」

 ……

「ミシリ……」

 ………
 
「ミシリ……。ミシリ……」


今夜もまた家鳴りがした。


- 了 -

紅緋色光る夜に

初めて書いたホラーです。
ミステリーの味付けをしてみました。
試みが成功していると嬉しいのですが…
どうでしょうか?

紅緋色光る夜に

遠い遠い昔。 高校2年の夏。「僕」を襲った連続する恐怖体験。 紅緋色に光るものとは? ジャンルでいうとミステリー・ホラーというところでしょうか。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-07-25

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. -闇の中で-
  2. 「家鳴り」
  3. 「市立病院の階段で」
  4. 「霧の56号線」
  5. 「山田池の釣行」
  6. 「見えていた見えざる者」
  7. 「家鳴り」 -エピローグ-