瀬戸内センチメンタル
「この島が俺たちの育った場所。そして、俺たちの帰ってくる場所」
瀬戸内センチメンタル
目次
第一章 白兎の夢
第二章 灰色雪のクリスマス
第三章 少年少女は海を渡る
第四章 苛々プラネタリウム
第五章 Your own road
第六章 チョコレート紛争
終章 再来
第一章 白兎の夢
冬の寒空の下、俺は飛んでいったボールを探して校舎の陰になった所まで駆けていた。
「ったく、あのバカ」
コントロールが最悪なミッドフィルダーの顔を思い浮かべて俺は毒づく。冬場でただでさえ寒いのに、日陰とくれば尚更だ。ジャージの袖が指先を隠すまで伸ばして、俺はさっさとその場を離れようとボールを探す。
冬なのにしぶとく伸びた雑草のせいで、よく見えない。かき分けながら探していると、校舎を囲む塀の側に植えられた楓の木の根本にボールが落ちているのを見つけた。
「どこまで飛ばしてんだよ・・・」
ぶつくさと文句を言って、駆け寄る。それをつま先ですくい上げるようにして胸に持つと、俺は来た道を戻ろうと振り返った。
その時、校舎の陰から出てくる女の子に俺は気がついた。向こうも気づいたようで軽く会釈してくれる。ドキリと胸が鳴ったのは気のせいではないはずだ。
「カッキー、何してるの?」
問いかける声に、俺は手に持ったボールを見せた。
「純がまたぶっ飛ばしたんや。あいつ、コントロール悪いくせにロングパスしようとするから」
「そっか、大変だね。もう引退したのに、後輩指導もしてるなんて」
手に何か大きな袋を持った少女、上原はそう言って気持ちのよい笑い声をあげた。
「別にそんな大したもんちゃうって。ただ、俺らが入らんと、十一人にならんから、練習試合もろくにできひんくなんねん」
「そっか。来年は入るといいね、新入部員」
そやな、と俺は半ば切望するように呟いた。どうか、部員が十一人を越えるように、と。
瀬戸内海に浮かぶ小さな島。そこにある唯一の中学校では、三学年を合わせても生徒は百人足らず。学年にクラスは一つしかない。三年間、同じメンツと過ごしていると、気楽で楽しいのだけれど、少し刺激に欠けるところはある。
だから、東京から転校してきた上原は、十二月という中途半端な時期という事もあって、一躍クラスの人気者になった。
だけど、上原の周囲は数少ない八人の女子が取り囲んで楽しげに話していたため、俺たち男連中はほとんど口をきくこともできないまま、その様子を遠巻きに眺めていた。
最初に見たとき、可愛いという感情はもちろん抱いた。少し幼さの残る顔、笑うとできるえくぼや、垂れ下がる目尻はホッとさせる温かみがある。
けど、時々浮かべる何かを堪えるような表情が、俺は不思議だった。
だけど、話しかけることもできず、最初に一週間は過ぎていった。
それに変化があったのは、それから少ししてからだった。
上原を取り囲んでいた女子たちも、徐々に元のように戻りだした。しかし、決して派閥的なものを作り出したわけではなく、ただ何となく仲がいいグループが出来ていっただけだ。
上原は橘詩織と樋口祐子という二人の女子と一緒にいることが多くなった。詩織も祐子も、俺の近所ということで、上原を引き連れてやってくることもあった。昼飯を一緒に食うこともある。
十二月も半ばを過ぎたある日のことだった。
「ねぇ、カッキー」
授業終わりで疲れた脳を休めようと、目を閉じていると、不意に後ろから髪を引っ張られて、俺は椅子にもたれながら仰け反った。
「何?」
逆さまに見える純の童顔を見上げて問うと、
「浩平が数学教えてくれるって。浩平ん家でやるけど、来るやろ?」
小首を傾げて尋ねる純に、俺は少し考えてから頷いた。
「俺も数学ヤバいしな」
ちらりと隣の男を伺った。目つきの悪いそいつは、口に紙パックの牛乳をくわえながら俺を見返して、
「カッキー、こないだの進路指導で散々言われたって言うてたもんな」
そう言ってニヤッと笑みを浮かべた。
「だって、あのジジイ、このままじゃ島の高校もヤバいとか言い出すしよ・・・」
お前大丈夫か、と平然と言いやがった担任の顔を思い浮かべる。
「まぁ、カッキーは島内でC判定やもんな。志望校の欄に灘とか洛南とか書いたら判定不可って出るんちゃう?」
「浩平!それはいくらなんでもカッキーに失礼やろ。Z判定かもしれへんけどさぁ・・・」
いまいちフォローになってるのか分からない純の言葉に、浩平は広い肩を竦めた。
「まぁ、ええわ。俺としてもお前らと高校に行けへんくなんのは困るし、協力したる」
何だかんだ言っても、浩平は面倒見がいいんだ。困ってる奴を放っておけない兄貴肌なのかもしれない。
純が急に立ち上がった。
「わぁー。サンキュー、浩平!大好き、愛してる!」
飛びついてくる純の低い頭を押さえて、
「キモいから止めぇ」
呆れたように浩平は俺を見た。
「カッキーはどこやる?関数か?三平方か?」
「えっと・・・んじゃ、三平方」
大がつくほど嫌いな図形を思い浮かべて、俺はため息を吐き出す。
「やったら、俺ん家で待ってる。さっさと来いよ」
「はーい」
元気よく返事した純の横で、
「頼んます」
俺も呟くように言った。
「へぇー、あんたたちが真面目に勉強するなんて。やっぱ、人間追いつめられると本気になるんやね」
そう言って、前の席から振り返った目力の強い女は俺に好奇の目を向けてきた。
「んだよ・・・」
言うと、髪を翻してそいつは俺に顔を近づけて、
「だって、あんたバカやし」
「うっせぇ・・・」
語尾が小さくなってしまうのは、やはりそれが否定できないからか。
「純も大丈夫なん?カッキーほどじゃないにしても、あんたも結構ヤバいんやろ?」
おい、と突っ込みたくなるが、事実は事実なので俺は仕方なく口を噤んだ。
「やから浩平に教えてもらうんやんか。言っとくけど、浩平の方が詩織より頭いいんやで」
自分のことのように胸を張った純に、詩織は微かに肩を竦めて頷いた。
「それは認める。あたしもそれなりに成績には自信あるけど、浩平には敵わへんわ」
まぁ、確かにそうだよな。
頭の良さでは浩平は多分、このクラス内で一位だ。詩織も成績優秀だけど、浩平はそれを上回る。どっちにしても俺には遙か上の人間なんだけども。
「でも何か、あんたたちだけが勉強してんのも腹立つな。祐子、椎香。あたしらもやらへん?」
「いいよ」
「うん」
仲良く頷くのは祐子と上原。今では上原もすっかり馴染んでいる。その点、女子の適応能力ってスゲーよな。
「ねぇ・・・」
不意に上原が口を開いた。ポニーテールが揺れる。
「みんなは幼なじみなんだよね?」
「まあね」
俺たちは自然と互いを見る。純のくりくりとよく動く瞳が、祐子の穏やかな光を湛えた瞳孔が、詩織のやたらとデカい目が、浩平の鋭い眼が、そして、俺のも。それぞれの視線が複雑に絡まり合った。
「まぁ、ずっと同じ島にいるわけだしね」
「私たち、家も近所だから」
島の小さな商店街に住む俺たちは、本当にちっこいガキの頃から一緒だった。幼稚園や保育園なんて無かったけれど、お互いの家で俺たちの見守りをするシステムは出来上がっていた。それを、東京の会社で社長をしている純の親父さんは昔のいい制度だって言ってたっけ。
小学校は隣の島の学校に通っていた。そこでも、俺たちはもちろん一緒だったわけだ。
「いいなぁ・・・」
ぽつりと呟いた上原の言葉に、純が歯を見せて笑った。
「やろ?!俺たち、生まれたときからほぼ一緒やで。もう家族みたいなもんやしな」
随分と極端な意見だが、誰も反論しないのはそれがあながち間違っていないという意志の現れなのかもしれない。
「上原は幼なじみとかいないの?」
純が問うと、彼女は困ったような笑顔を浮かべて首を傾げた。
「私、ずっとマンションに住んでたから、いないんだよね」
な・・・マンション!
そう思ったのは俺だけじゃなかったみたいだ。
純も祐子も、普段は東京話に興味なさげな浩平でさえ目を見開いていた。
「上原ってマンションに住んでたん?」
「スゲー」
「てか、マンションとかマジであるんや。東京ヤベぇ」
思わずにじり寄った俺たちに、上原は苦笑いを浮かべながら、手をあげて、まぁまぁ、とでも言うように俺たちを制した。
「そんなこと言っても、そんな大きいとこじゃないし。それより、私はこっちの家の方がスゴいと思うよ。すごく懐かしい気がする」
そんなこと言われても、俺たちからしてみれば時代の最先端を行く東京の方が遙かに輝かしく見えてしまう。当然だよな。こんな古めかしい島に魅力は感じない。
俺たちが一斉に感嘆する中で、詩織だけは無感動な顔で俺たちを見つめていた。いつもなら、真っ先に会話に飛びつくのに。変だよな・・・。
そう思ったとき、音の割れたチャイムが鳴った。
詩織はくるりと元の体勢に戻り、純は慌てて自分の席に駆けだし、浩平は俺の隣で自席の引き出しの中を探り始め、祐子は詩織と上原に笑いかけて戻っていった。
俺は引き出しの中をのぞき込んで国語の教科書とノートを探しながら、ちらりと上原を見やった。
窓の外を見つめていた彼女の横顔に、不意に暗い影を落ちたように見えたのは気のせいだったのだろうか。
その表情が、妙に印象的で、俺は上原が自分の席に歩いていくのを呆然と見送っていた。
気づけば、担任教師が入ってきていた。それすら気づかないほど、俺は上原を視線で追っていたんだ。
それからというもの、彼女の存在が俺の中で、少しずつ大きくなっていった。
「上原は・・・生物部やったっけ?」
冬空の下、寒さに身を縮めて俺は上原に聞く。
「うん。部員は三人なんだ」
だから大変、と呟いて上原は歩きだした。手に持った袋は餌か何か何だろう。かなりの重さに違いない。抱えあげられたそれは、華奢な上原の体をふらつかせている。
気づいたら呟いてた。
「持とか?」
え?
驚いたように俺の顔を見た上原は、すぐに首を振って笑う。
「悪いよ。部活の途中なんでしょ?それに重たいし・・・」
重たいなら一石二鳥じゃん。
「スゴいね、カッキー。力持ちじゃん」
「ま、まーな」
そんな会話が脳内で再生される。
人を気遣えて、さらに腕力あるって上原に思わせる、いわばイイ男アピールする絶好のチャンスなのだ。
何でそんなこと考えてるのか、って思う。だけど、そんな理由、簡単だ。
分かってる。
「いいって。貸してみ?」
ボールを小脇に抱え、上原から袋を受け取った。あ、結構重い。それに何かゴツゴツしてる。
何とか抱えあげて、上原に笑いかける。
「スゴい。良かったぁ、ホントはちょっと辛かったんだよね」
そう言って笑った顔に心臓が高鳴ったり。
もうクリスマスだね、と呟く時に微かに尖る口元に見とれたり。
気づいてる。分かってるさ。
けど、それをどうにかするような勇気が俺には無くて。
「ほい」
「ありがと」
毎日、何か手助けが出来たら、と思って。彼女のポイントの積み上げがいつか何かになる、なんて下らない妄想をしていたり。
「みんな寒そう」
上原はウサギ小屋の鍵を開けて、隅で縮こまっていたウサギたちの背を撫でた。
「上原って動物好きなんや」
「うん。猫とか犬とか可愛いでしょ?」
その問いに曖昧な返事を返した。正直なところ、どっちも好きじゃない。猫には昔引っかかれた記憶があるし、犬は小さい頃、大型犬に飛び乗られて死にそうな思いをした。
「私ね、将来は動物に関われる仕事がしたいんだ」
そう言った声が僅かに陰った気がして視線を落とす。
ウサギを抱き上げて暖めるように胸に抱いた上原の表情は、やはり暗かった。あの日と同じ。
「カッキーは何かしたいことあるの?」
不意に問われて俺は戸惑った。
将来の夢。
担任からも言われた。何かやりたいことがあれば、それに向かって一直線に駆ける力が出る。だから、何になりたいのかよく考えろって。
だけど、そんなもん、すぐに思いつくもんちゃうやろ、って思ったり。大体、俺たちはまだ中学生なんだ。自分の将来を思い描ける奴なんて何人いる?
浩平は両親の跡を継いで医者になるって言っていた。詩織は薬関係に興味があるそうだ。だけど、それってあいつらが特別なんだよな。
俺は別に普通だ。将来なんて、まだ早いんだ。
「何か、全然決まってへん。スゲーよな、上原は。俺なんか高校いけるかすらヤバいって言われてんのに」
「大丈夫だよ。カッキー、やる時はやってくれそうだし」
何て事無い、ただの誉め言葉なのに、それがとても嬉しくて。俺が何でこんなに嬉しくなるのか。理由は本当に簡単なんだ。
最初から上原にこんな感情を抱いていたわけじゃない。最初は単なる東京から来た美人の転校生って程度だった。
いつからだろう。やっぱり、あの瞬間。上原の悲しげな表情を見たとき、在り来たりでバカバカしいと思うかもしれないけれど、側にいたいって、そう思った。
「あ、ごめん。チョビにあげる人参取ってくれない?その袋の中のやつ」
不意に頼まれて、俺は置いてあった袋を開いた。あのゴツゴツした何かは人参だったのか。
「おばあちゃんの畑で取ったんだ。収穫なんてはじめてやったよ」
ミミズが出てきたときはびっくりしたなぁ・・・、と呟きながら、上原は人参を無造作に割った。パキッと小気味良い音がする。
「はい、チョビちゃん。ご飯だよー」
腕の中のウサギにそう言って人参の欠片を見せると、茶と白の斑のウサギはもそもそと口に入れた。その背中を愛おしそうに撫でる姿に俺は目を細めた。
いっそのことあのウサギと変わってやりてぇ、なんて思ったのは一瞬だ。考えて気恥ずかしくなる。
「カッキー、シロにもご飯あげてくれる?」
ウサギ小屋の中を見回して、シロとおぼしきウサギを見つけた。本当に名前の通り真っ白なやつだった。
「このまま・・・やったらあかんねんな?」
「うん。あんまり大きいと食べにくいからね」
サッカーボールを脇に置いて、大きな人参を割る。あっと・・・意外と力いるんや。
何とか砕いたものをそいつの前に見せると、縮こまっていたそいつは俊敏な動きで飛びかかってきた。
「うおっ・・・」
飛び退くと、なおもシロというウサギはジャンプを繰り返す。
「手の中に入れてあげて。そしたら大人しく食べてくれるから」
言われた通り、手で器を作り目の前に見せると、シロは俺の手の中に顔を突っ込んできた。
餌をやってみて気付いた。ウサギは思ったより口が下にある。何となく、鼻のすぐ下にあるように思うけれど、そうでもない。口と鼻じゃ結構間がある。
「上原が毎日餌やってんの?」
「まぁ、そうかな。水槽の魚たちは二年生の子が育ててくれてるし、鳥小屋はもう一人の二年生に頼んでるの。で、私はこのウサギたちの面倒を見ることになってるんだ」
上原の持つ人参に寄せられたのか、ウサギたちが次々と集まって来た。
それを全部抱き寄せた上原は、胸にふかふかとした雪玉を持っているようにも見える。
「ウサギってね、臆病なんだよ。ちょっと勢いよく近づいただけでも逃げちゃうの。だから、カッキーてスゴいよね。私でも、シロが飛びついてくれようになるのに一週間もかかったのに」
褒めてくれてる。そのはずなのに。
上原は寂しそうにウサギの背を撫でた。
「私ね、動物関係の仕事に就きたいの。どんな形であっても、動物を助けたりできるような。でも、無理」
「何で?」
今からなら十分間に合う。それに、好きなものなんだろう?
「だって・・・うん」
何を考えたのか、一人納得したように上原は頷いた。
「とにかく無理なの」
上原の言葉には、どこか強引で押さえつけるような響きがった。
「ねぇ、カッキー」
「ん?」
不意に呼ばれて振り返る。
「獣医の条件って何だと思う?」
聞いておきながら。上原はそれだけ言うと、空になった袋を持ってウサギ小屋を飛び出していった。
俺はそれを呆然と見送るしかなかった。
「何やねん・・・一体」
呟く俺の足元にウサギが数匹集まって来た。
「おい、カッキー!」
不意に声がした。
金網の向こうに見慣れた色黒の顔が見える。
「・・・浩平か」
「何してんねん、ウサギ小屋の中で。練習中に腹減って、食ったろうとか思ったんとちゃうやろうな?」
茶化すような浩平の言葉に、
「アホ。んなわけないやろ・・・」
小さな声で反論することしかできなかった。
「なぁ、浩平」
「あ?」
頭を屈めてウサギ小屋の扉を開けた浩平は、首を傾げた。
俺の足元にいたウサギたちが、浩平から離れるように壁際に逃げていく。
「何だと思う?」
あの表情(かお)の理由は。
そう口にする前に後頭部をはたかれた。
「ええから、さっさと戻って来いよ。遠くに蹴ったせいで、ボール取りに行ったカッキーが泣いてるかもしれへん、って純がオロオロしとったで。監督も、垣内はどこ行ったんやぁ、言うて探してはったし」
「泣いてへんわい」
浩平の腹に軽く拳を入れてみる。すぐに硬いものに押し返された。相変わらず、腹筋硬ぇ・・・。
「行くで」
「へいへい」
先に出ていった浩平に続いて小屋を出る。鍵を下して、閉まっているのを確認してからボールを抱えて浩平に並んだ。
「なぁ、浩平」
「何や」
「将来って分からんよなぁ・・・」
きょとんとした顔で見下ろされる。ったく、デカいやつは嫌いだ。自然と見下されてる気がする。
「何言ってるんや。カッキーらしくもないこと言って」
俺らしいって何やねんとか思いながらも、俺は空を見上げた。
冬なのにな。
冬なのに雲一つ無い、良い天気だった。
第二章 灰色雪のクリスマス
十二月も下旬になった。あと一週間で冬休み。そして、明日にイヴを控えた島には、地味ながらもクリスマスの雰囲気が漂い始めた。商店街の店は、赤と緑のデザインを多用し、店先に小さなツリーが並び、古びたケーキ屋にはクリスマス用のケーキが陳列されるようになる。
「いやー、もうクリスマスかぁ・・・。カッキーは何買うてもらうん?」
「俺はやっぱあれやな」
そう言ってカッキーが答えるのはつい先日発売されたばかりの流行のゲームの名だった。俺も俺も、と純も答えた。
前を行く二人は、ダッフルコートのポケットの中に手を突っ込んで、白い息を吐き出しながら楽しげにクリスマスの話題に花を咲かせていた。
俺は首に巻いたマフラーを締め直す。温暖な瀬戸内海とはいえど、冬は冷える。もう十二月も末なんだ。寒くないのは国内だったら沖縄ぐらいだろう。
不意に視界に入ったのは、祐子の店だった。親父さんとお袋さんとで和菓子屋を営んでいる祐子の家は、節分祭で出す団子と、彼岸の時の餅が旨かった。昔は、よくカッキーや純と遊びに行ったもんだ。
「なぁ、浩平は何もらうん?」
不意に振り返って純が問う。カッキーも振り返って、少し垂れ目でそれでいて意志の強そうな輝きを宿した瞳を瞬いた。
「えっと・・・?」
一瞬、何を問われているのか分からなかった。
すると、純が口を尖らせる。
「聞いてへんかったん?クリスマスに何買うてもらうか、って話やん」
あぁ、さっきの続きね。
納得した俺は、そのことを全く考えていなかったことに気づいた。
そう言えば、親からも何が欲しいのかって聞かれてた気がする。色々と忙しくてすっかり忘れてた。
「全然考えてへんかった・・・。ていうか、もう中三やし、そろそろ逆にこっちが贈らなあかん時期ちゃうん?」
見ると、ぽかんと口を開いたカッキーの純の顔が見えた。
「浩平・・・偉っ」
「マジ?ていうか、そんなんせなあかんの?」
何も買ってへん、と慌て出す二人に、俺は二人の肩を掴んだ。
「いや、別に知らんで?俺ん家は、姉貴がそうやったからやし・・・」
今では東京で一人暮らしをしながら、キャンパスライフを楽しんでいるであろう三つ上の姉貴がプレゼントをもらう側から贈る側になったのは中三のクリスマスだった。だから、俺もそうしなければと思っていたのだけれど。
「やっぱ、浩平ん家は大変やなぁ・・・」
ため息と同時に吐き出した純に、
「家が医者やもんな。そりゃ、大変に決まってるやん」
カッキーが頷いた。
それに俺は苦笑する。
確かに家は、島で唯一の病院ではあるけれど、そこまで厳格な家庭という自覚はない。
むしろ、姉貴が出ていって以降、両親、特に母親がやたらと構ってくる。俺としては、いい加減止めて欲しいんだけど。
「由里さんも頭ええしな」
「優しかったもんな」
優しいもんか。
のんびりと言う純とカッキーに心の中で毒づいた。
医者になれとうるさかった両親に辟易して、自分だけでも安穏な日々を送ろうと島を出ていったあの人が。ろくに手紙も寄越さないあの人が。優しかったのは外向きだけだ。だから、こんな島にも愛想を尽かし、決められた将来への道筋へも捨てて出ていった。
だけど、気づけば自分も姉貴と同じ道を歩もうとしている。クリスマスのことだってそうだ。姉貴がしたから自分もする。
思わず苦笑してしまった。
「ん?」
「どないしたん?」
不思議そうに呟く二人の肩を叩く。
「んなこと言ったら、二人ん家も大変やろ?」
言うと、カッキーと純は顔を見合わせた。
父親はミステリー作家で母親はホラー作家のカッキーと、父親が本土の会社の社長で、母親はベーカリーの店主の純は、どっちも大変な生活をしてるのを知ってる。カッキーは、ほとんど家事をしない親に変わって何から何までしているそうだし、純は、親父さんが単身東京で生活しているから、母子二人で生活してる。
家に帰っても、勉強するぐらいしか考えつかない俺と違って、二人は苦労してるはずだ。
「俺は別に普通やで。料理とか洗濯とかも、大抵は母さんか父さんがやってくれるし」
あ、そうなんや。でも、カッキーが俺たち一般の中学生よりは家事能力が高いのは間違いないんだろうな。
純は、と俺たちが視線を向けると、当の本人はどこか遠くを見つめていた。視線の先は何もない、ただの水平線だ。
「おい、純」
カッキーの呼びかけに、純が驚いたように俺たちを見た。
「あ、ごめん。何やったん?」
「家の話や。お前も大変やなって」
「あ・・・あぁ。まあな」
ちゃんと聞いとけよー、とヘッドロックをかけるカッキーに、痛い痛いと純も笑い声をあげながら歩いていった。
気をつけろよ、と言いかけたとき、背中をドンと押された。
突然道ばたで背後から人を殴るなんて狼藉をはたらく奴は、俺は一人しか知らん。
振り返ると、案の定、詩織だった。その後ろには祐子と上原もいる。
「なぁ」
「あ?」
唐突な呼びかけに首を傾げる。背後で、カッキーと純が立ち止まった振り返ったらしい気配がした。
「明後日のクリスマスの日、あたしの家でパーティーやんねん。来るやろ?」
来れる?ではなく、来るやろ?と聞くあたりが詩織らしい。
俺は背後の二人を見た。
「俺は行く」
カッキーが小さく手を挙げた。
「んじゃ、俺も」
そう言って俺も声をあげる。
「祐子と椎香も来るって。純も来るやろ?」
詩織が俺の影からひょい、と顔を覗かせて純を見た。
一方の純は、困ったように眉尻を下げる。
「や・・・俺はええわ。ほら、詩織ん家もぎょうさんで押し掛けたら迷惑やろ?」
歯切れ悪い純の口調に、俺は違和感を抱く。
いつもなら真っ先に手を挙げそうなのに。
そう思ったのは俺だけでは無かったようで、
「どうしたんだよ、純」
お前らしくもない、と言いたかったんだろうカッキーの横顔に、俺も頷いた。
「だってさ・・・」
「ええから、うちはそんな広くもないけど、狭くもない。ちょっと古いだけや」
胸を張って言い放つ詩織に、俺はまたも苦笑いを浮かべた。
確かに詩織の家は、築五十年以上の木造の家だけれど、それを悪いこととは思ってないみたいだ。前に、古さは家の強さや、と言っていたことを思い出した。
「それに、明日のイヴはあんたの誕生日やろ?それも兼ねて、パーティーやろうや。盛大なメニューにするから」
詩織の家は食堂をやってるので、昔から俺たちメンバーの誕生日は詩織の家で祝うことになっていた。その時は、何か一品を各自で持ち寄ってたりする。
「とにかく、決定。ええな?」
拒否は許さん、とばかりに詰め寄る詩織に、純は気弱な笑みで頷いた。
よし、と詩織は頷くと、祐子と上原の肩を叩いて歩いていった。
「じゃあ、明後日の夜七時、あたしん家ね!」
そうだけ言って走り去る女子三人組を見送って、俺はため息をついた。白く湯気が出る。
「あいつら、ほんまに元気やなぁ・・・」
こんな寒い日に、よくもまあ走ることができるよな。
そう思っているうちに、カッキーの家の前に着いた。まだ比較的新しい二階建ての家では、二階の親父さんとお袋さんの部屋に電気が点いていた。今も仕事の真っ最中らしい。
「んじゃ、また明日」
「おう」
「バーイ」
小さく手を挙げて、別れの合図。
真っ暗な玄関の中にカッキーは消えていった。
ただいまー、と声が聞こえる。
「なぁ、純」
「ん?」
小柄な純が俺を見上げた。黒い瞳の中に星空が映る。
「何か、カッキー変わったと思わへん?」
「思う」
即答。やっぱり、俺だけじゃなかったか。
「それは、やっぱ・・・」
「上原やろうなぁ」
純も気づいてた。
最近、妙にカッキーの視線がどこかで止まっていたり。いつものメンツで喋っていても、上原と話すと照れたように視線を逸らせることがあったり。
本人は気取られてるとは思ってないんだろうけれど、あっさりと分かってしまう。みんな分かってるはずだ、多分。本人が単純だってのもあるけど、それ以上に、ちょっとした変化でも気付くほど、俺たちの仲は深い。
「正味、どうよ?上原」
突然の純の問いかけに、
「ま、普通に可愛いんとちゃうか」
思った感想を素直に話す。
「東京育ちで」
「美人で」
「乱暴じゃなくて」
不意に浮かんだのは詩織の顔。純の言う、乱暴じゃないってのは、詩織っぽくないっつーことなんだろうか。
「カッキーも奥手やなぁ・・・」
さっさとせーへんと、他の奴に取られんで。この場にいないカッキーに忠告でもするかのように純は唇を尖らせた。
気づくと家の前だった。
「ほんじゃ」
「おう」
片手をあげて返事をする。
「なぁ、浩平」
去り際に純はそう言って立ち止まった。
「もう・・・高校やねんな」
そりゃそうだ。もうあと三ヶ月ほどしたら、嫌でも高校生になってしまう。
まぁ、正確には中学生ではなくなるんだけど。
「浩平は島のガッコに行くんやろ?」
「そりゃ・・・な」
今俺が島を出るなんて言い出したら、母親が半狂乱に陥るのは目に見えている。姉が島を出ると言い出したときでさえ、泣いて引き留めたのに。そして、その制止を無視して姉は家を出ていった。
「そっか」
そうだけ呟いた純は、じゃあ、と言うとさっさと走って行ってしまった。翻るマフラーの端が風になびいている。
俺は暗闇の中に消えていく純をしばらく呆然として見送った。
「さびっ・・・」
さすがに冷えるな・・・。
そう思いながらポケットに手を突っ込む。
「あいつ・・・何が言いたかったんや?」
いや、今はそれよりも。
勉強やな、勉強。
んでもって、純の誕生日用のプレゼントも何か買いに行かんといかんし・・・。
考えるだけで忙しく思えてきた俺は、早々に暖かい家の中に逃げ込んだのだった。
「おっそいなぁ・・・」
詩織がそう呟いて、壁に掛かった茶色い時計を見上げた。
祐子と上原が顔を見合わせる。
「あかん・・・腹減って死にそうや」
カッキーが腹を押さえて呻く。
俺はちらりと窓の外を見た。まだ待ち人の姿はない。
「あたし、ちょっと見てくるわ」
不意に詩織が立ち上がった。
「あ・・・んじゃ俺も行く」
純は連絡もなしに遅れてくるような奴じゃない。
立ち上がると、上原が携帯電話を取り出した。
「私、純君の家に電話かけてみる」
「うん。お願い」
詩織と顔を見合わせて、俺たちは外に出た。
吹き抜ける風に身を震わせた。マフラーを置いてきたことを後悔する。
「やっぱ冷える・・・」
詩織も首を竦めて身を抱いている。だが、ついと空を見上げて目を細めた。
「あ、マルカブ」
呟く声に、俺も夜空を見上げた。幾つもの星が、明太子スパゲティの明太子のように散っている。
そう考えて腹が鳴った。
「腹減ったな」
「・・・・・・そう」
呆れたように笑って詩織はもう一度空を見上げた。
「で、マグカップが何だって?」
「マグカップじゃなくて、マルカブ。ペガスス座のアルファ星」
そういや・・・詩織は天文学部員だったか。
「綺麗やね・・・」
「そうやな」
カッキーほどじゃないにしても、空腹で辛い身としては、詩織のように純粋に星空を愛でる気分になれない。
まだかよ、と思った時、上原が出てきた。
「もう家は出たってお母さんが」
言うと同時に、
「ごめんー!」
慣れ親しんだ声が夜闇の向こうからした。同時に荒い息を伴って走ってくる奴がいる。
「純!」
ホッとしたように詩織と大原が息をついた。
純は駆け込んでくると、俺の肩に手を置いて屈んだ。
「わ、悪い・・・。ちょっと色々あって」
「ええから、早く入り」
そう言った詩織の言葉に、俺たちは揃って詩織宅に入った。
畳が敷かれ、掛け軸と壷も置かれた完璧な和室の中で、カッキーが空腹のあまり寝転がって悶絶していた。
「大丈夫か?」
「あかん・・・死にそう」
腹を押さえてカッキーが掠れ声をあげた。
祐子が苦笑する。
「カッキー、ずっとこの調子なんよ」
ごめんな、と純が謝りながら座った。俺たちも卓袱台を囲むようする。
「さっさと食べよ。ほら、運んで」
大皿に盛られたポテトサラダやエビフライや何やらを運んでくる詩織に、慌てて上原と祐子が立ち上がった。
俺も腰を上げて手伝う。
「おっしゃー、飯だ!」
カッキーが狂喜乱舞しそうな勢いで歓声をあげた。
「何か手伝えよなー」
人数分のグラスを抱えながらカッキーに言うと、
「・・・分かったよ」
渋々ながら立ち上がると、上原が運んできた寿司の皿を受け取った。
純と祐子がそれぞれの取り皿を机に置き、詩織が俺の持ってきたグラスにジュースを注いで回る。
「ところで詩織。おっちゃんとおばちゃんは?」
今更のようにカッキーが問うと、詩織は扉の向こうを指さした。
「店。何か、お父さんの知り合いが飲みに来てるらしいんよ」
詩織の家は、昼間は食堂、夜は居酒屋に変わる。それなりに有名な酒もあって、地元では結構人気らしい。
「あ、そうや。これ」
純が持ってきたリュックから袋を取り出す。
「家のバケット。母さんが焼いてくれた」
そういや・・・。
俺も自分の鞄を開けた。
「これ、母さんが持ってけって」
「あ、私も」
「俺も」
「みたらし団子。人数分あるよ」
それぞれ、皿にラップかけたり、パック詰めにしてきたものを机の上に出す。
ただでさえ量が多かった食い物が、さらに華やかになった。
「椎香は祐子の店の団子は初めてやんな。めっちゃ美味しいんやで」
「へぇ・・・そうだんだ。楽しみ」
楽しげに笑う上原に、カッキーが純の持ってきたバケットを指さした。
「純のトコのパンもいけるで。あと、浩平の肉じゃが」
「詩織の作る炒飯も旨いよな」
口々に言う俺たちに、上原は穏やかな笑みを浮かべた。
「みんな凄いなぁ・・・」
詩織がケーキを運んできた。商店街の店のやつだ。
俺とカッキーで蝋燭に火をつけていく。祐子がハッピーバースデーとメリークリスマスの二つの言葉が並んだ板チョコをのせた。
「ほれ、純」
カッキーが純の肩を軽く叩いた。
「一気にいっちゃって」
電気を消す。
蝋燭の火に浮かび上がるお互いの顔を見つめあって、自然と笑った。
「ハッピーバースデー、純!」
そして、
「メリークリスマス!」
クラッカーが鳴る。
同時に純が思いっきり息を吸って、それから火を一気に吹き消した。一瞬の暗闇。すぐに詩織が電気を灯けた。灯籠のような形で、オレンジの電球が入っているやつだ。その暖かな光が部屋いっぱいに広がった。
「さてと」
詩織が座ると同時に俺たちは手を合わせた。カッキーがうずうずと身じろいでいる。
「いっただっきます!」
同時にフォークを持ったカッキーが、純が、詩織が、皿に手を伸ばす。
俺たちも慌てて戦闘参加した。そうじゃないと、食うもんが無くなってしまう。
食事の時間はあっと言う間だった。
次々と皿の上のものを平らげていく。
カッキーや純がよく食うのは知ってたけれど、以外と女子陣も食べることに気づいた。
「おい、詩織。あんまり食うと太るんとちゃうん?」
からかうように言ったカッキーに、
「アホ。店の手伝いで十分な運動してんの」
詩織がカッキーの腕を軽くはたく。その様子を見て上原と祐子が笑った。
純も屈託のない笑みを見せる。だが、その笑みが伏せられた瞬間、暗いものに変わった。
不審に思って純を見ると、見上げた純と視線が交錯した。同時にその瞳が揺れる。
「浩平?」
首を傾げられる。
どうしたの、と問う声。だけど、聞きたいのはこっちだ。
「お前こそ、どうした?」
「え、俺?」
何でもないって。
手をひらひらと前で振った純は、笑みを深める。だが、やっぱりそれが少し無理のある笑顔のようで。
「あ、そうや」
カッキーたちが鞄の元に寄っていく中、俺はまだモヤモヤとした思いを抱きながらも前を向いた。
「はい、純」
カッキーが差し出したのは歪んだ包装紙に包まれた箱だった。包み方はお世辞にも綺麗とは言い難い。多分、カッキーが自分で包んだんだろう。それでも、面倒くさがりのカッキーが自分で包んだだけども気持ちがこもってるってもんだ。
「はい」
「私も」
「これはあたしから」
女子三人は綺麗にラッピングされた箱。リボンやコサージュでアレンジしてあるのが三人らしい。
俺も鞄から出した袋を渡す。この中だと、一番無骨な気もしないではないが・・・ま、いいよな。
「ほい、純。ハピバっつーことで」
全員からのプレゼントを受け取って、純ははにかんだ笑みを見せた。
「みんな、サンキューな」
次いで、俺たちはもう一個のプレゼントを出した。今度は純も用意する。
「じゃ、恒例のクリスマスプレゼント交換ってことで」
それぞれのものを机に置くと、詩織が適当に一から六まで書いてある紙を上に乗せた。
「ジャンケンで勝った人から順番に、一番から取っていくっていう、いつものでええやんね?」
揃って頷く。
カッキーがシャツの袖を捲った。どうやら本気みたいだ。別にジャンケン頑張ったって、何が当たるかは最後まで分かんねーのにな。
「自分のが当たったらやり直しね」
手を出す。
「ジャンケン」
声が重なる。
カッキーと祐子はチョキを、詩織と純はグーを多用する癖がある。上原はまだ知んねぇけど、ここは確実に勝つためにもグーを選択するのが得策か・・・って、俺もいつのまにか本気(マジ)になってんじゃん。
「ポン!」
出される六本の手。
詩織の手は予想通りグーだった。ただ、意外だったのはそれ以外の奴らもグーだったことだ。
そして、その中で唯一のパー。
「スッゲー、純ついてるやん!」
ラッキー、と純が笑った。どうやら、今日の運は純に向いているようだ。
「はい、純」
詩織が箱を渡す。一番は・・・祐子のだ。
「さ、あたしらも残りのジャンケンしよ」
結局、俺は六番。おかしい。全員の癖を考えた上でのチョイスだったのに。
それぞれに渡されるプレゼント。
俺が受け取ったのは詩織のだった。
「何なんや・・・これは」
出てきたのは底の抜けた球。そして、細かく打ち込まれた穴という穴。何だ・・・これは。笊か?
「あ、それプラネタリウム。モーターに電池つないで、中に電球入れたらどこでも見れるで」
ふーん、こんなもん作れんだな。まぁ、何気にテクいからな、この女。
「天文学部はこんなことやってんのか?」
「まさか。普段は天体観測ぐらい。これは単なるあたしの趣味」
ふーん。
そう思ったとき、
「そうや、写真撮ろ!折角やし」
祐子がカメラを出してきた。
そして、上原と詩織に両サイドから、純を中心に真ん中に押し込められた。
カメラのフラッシュが光る。
「ね、高校入ったらみんなはどうすんの?」
フレームを覗きながら祐子が問う。
その瞬間、微妙な空気に変わった気がしたのは俺だけだろうか。
上原が顔を俯かせ、詩織が窓の外を見、純がカメラから視線を外した。
カッキーと祐子だけが戸惑ったように視線を動かす。
「あの・・・えっと・・・」
祐子が言い繕おうと声を出したとき、
「ごめん、俺やっぱ帰る!」
唐突に純がそう叫ぶと、荷物をひっつかんで飛び出して行った。
「おい、純!」
カッキーが叫ぶ。
弾かれたように詩織と祐子が立ち上がった。
「浩平!」
カッキーの声と同時に俺も純の後を追って飛び出していた。
冷たい海風が吹き寄せてくる。そこで、コートを忘れてきたことに気づいたが、そんなことは今はどうでもいい。
純は商店街の外に走っていった。
隣にはカッキー。後ろで祐子と上原のやってくる気配もある。詩織が出かけてくると親に告げているのが聞こえた。
「浩平君、先に行って!」
俺が後ろを気にしていたのに気づいたのか、祐子が叫んだ。
カッキーが走る速度を上げた。俺も後ろに一度頷いてから全力疾走にギアチェンジした。
風が耳元でうなる。潮の香りが鼻をついた。
カッキーの荒い息がする。お互い、食ったばかりでしんどい。けど、それは純も同じはず。
「カッキー・・・」
何とか吐き出した声で呼びかける。
「行くで」
「・・・おう」
カッキーの声も荒い。それを聞き届けたと同時に、俺たちは前を走る小柄な背中を追って足を前に出し続けた。
神社の横を抜けて、古い家の横を駆け抜ける。
純は小さな山の登山道に入っていった。山といっても二十分もあれば俺たちなら平気で上れるような山だ。だけど、こんな夜に上るのは危険すぎる。
「純!」
カッキーが叫ぶ。
だが、純はそれすら聞こえていないのか真っ直ぐに山を駆け上がっていった。
小さい頃はよく上った山は、途中にいくつも沢があって、小さな丸太の橋がかかっている。木で作られた案内は、朽ちかけてボロボロだ。木々の間に背の低い植物が密生して、その下には蛇だの蛙だのトカゲだの、色々な生き物が棲んでいる。
暗闇でも道を間違うことが無いほどに慣れ親しんだ山の中を、俺たちは走り続けていた。
闇になれた目が純の姿を捉える。少しずつその背中が近づいてくるのを感じて、俺は最後の底力を振り絞ってダッシュした。
木が抜け、星の輝く空が開けた。もうあるのは展望台とは名ばかりの開けた高台ぐらいだ。
純の吐息が聞こえる。同時に手を伸ばす。純の手はあっさりと掴まえられた。
なおも逃げようとする手を強引に引き寄せる。
「こう・・・へい・・・」
「・・・あ?」
自分でも不機嫌になっているのは分かる。そりゃそうだ、詩織の家からここまで走らされたんだから。
「足・・・速・・・」
「アホか・・・サッカー部員なめんなよ」
切れ切れに返す。急な全力疾走は思ったよりも負担が大きかったようだ。
「俺も・・・サッカー部やねんけど」
「そうやったな」
カッキーが追いついてきた。
アホー!とカラスの鳴き真似かと思うような声で純の背を叩いた。それが思いの外強かったらしく、パシンと小気味良い音がした。
「何でいきなり逃げんねん!」
「・・・ごめん」
そうまで言って、純が俺に顔を向けた。
「いい加減離してぇさ。手、痛いやん。もう・・・逃げへんから」
あ・・・そういえば。
手を離す。そこだけ赤くなっていた。
「どうしたんや、突然」
随分柔らかくなった声でカッキーが問う。夜風で少し落ち着いたみたいだ。
「・・・うん」
純はそう言って眼下に町を見渡す展望台の柵に寄った。一瞬、飛び降りでもするつもりじゃ、なんてバカバカしい考えに胸をひやりとさせたが、そうじゃなかった。
「ちょっと・・・高校のこと考えたらしんどくなって」
「高校?」
首を捻る俺の横で、カッキーがハッとした顔をした。
「お前・・・まさか島の高校上がるんもヤバいって先生に言われたんかっ?!このままやと、行ける高校ないでって・・・」
「アホか。カッキーと一緒にすんな」
思わず呟いてしまった。
同時にカッキーが握り拳で肩をどついてきた。
「俺もそこまでは言われてへんわいっ!」
多少なりは言われたらしい。自分でもそのことに気づいたのか、続く攻撃を手で受け止める俺と、怒り顔で俺を見上げるカッキーは同時に吹き出した。そのまま純にちらりと視線を動かした。だが、
「俺・・・みんなと一緒の学校に行けへんかもしれん」
え、と聞こえた声は俺とカッキーとどっちのものだったのだろうか。
顔を下に向けた純の声が小さく聞こえる。
「ど、どういうことやねん・・・」
驚いた声のカッキーに、純は一度俺たちを見て、それからまた下を向いた。
そのとき、何かの滴が跳ねて月光に輝く。
「親が・・・離婚するんやって。もうおかんが限界やねんて。二人とも、電話してても喧嘩ばっかしよるし」
純の親父さんは東京にいる。それを俺たちは一種の単身赴任だと思っていた。
だけど違ったんだ。あれは、言うところの別居状態だったんだろう。ただ、社長という仕事柄、会社を離れることができないから仕方なく本土にいるお父さん、という印象が俺たちの間にあった。
「親父が、離婚が成立したら一緒に来いって。あっちの方が学校も多いし、将来のためにもええって言うねん。おかんもその方がええって言い出すし」
後半は途切れ途切れで聞きづらかった。
だけど、聞かないといけない。これが、最近純の表情が優れなかった理由に違いないのだから。
「そう考えたら、みんなとおるんが辛くて・・・。なぁ、浩平、カッキー。俺、どないしたらええんやと思う?」
救いを求めるような、答えを請うようなその視線に、俺は息を詰まらせた。喘息にも似た息苦しさが喉を締め付ける。
カッキーは純の向こうの町を睨みつけるように目を細めた。
「俺はみんなと一緒に高校に行きたい。やけど、俺にはどうにもできひん」
そう、大人はいつもそうだ。
妙に納得してしまう自分に気づく。
大人はいつもそうなんだ。自分の理想とする子にするために、子供の意志などお構いなしに何でもかんでも押しつける。建前ではお前のためだ、なんか言っておきながら、自分の果たせなかった夢のために子供を操り人形のように装わせようとする。
「離婚なんかするんやったら・・・初めっから結婚すんなって思うねん」
自分たちの都合で物事を決められて、それが周囲に及ぼす影響を何も考えちゃいない。
「もう・・・何か嫌なんや」
俺もだよ、純。
心の中で頷く。
目元を何度も服の袖で拭う純を見て、それに心底同情できた。
冴え冴えとした感情が胸を包み込む。冬の凍てついた冷気にも似た思いが心を嵐のように吹き荒れる。
だから、
「アホ」
背後から響く声に鋭い衝撃を感じた。外界から声が届いてくるような不思議な感覚。
振り返ると詩織だった。肩で息をして、辛そうに立っている。見ると、ヒールの高い靴を履いていた。その足でここまで上ってきたのだ。
「嫌々言うて何になんねん。どっちにしても選ばなあかんのやったら、決めればいいだけの話やろ」
おい、とカッキーが口を挟む。
詩織がカッキーを見た。詩織に劣らない鋭い視線。だが、詩織はそれを正面から受け止めた。
「何?」
「純の気持ち考えたれよ。親が離婚するんやで」
「だから何なんよ。純がしてんのはその選択から逃げてるだけやろ」
純がビクッと震えた。それを庇うようにカッキーが詩織の正面に立った。
「そやからって・・・その言い方はないやろ!」
「どんな言い方してもしても、純は何も決めへんやろ。周りに流されるだけや。そんなん、ずっと周りに迷惑かけ続けるだけ」
また二人が睨み合った。
「どんなに抗がっても・・・流されるだけや」
声がした。それが自分の口から出ていることに気づくのには少しかかった。
詩織が怪訝な顔をする。
「何、浩平?」
「詩織はそんなこと言うけど・・・大人の決めたことに逆らうのは無理や。俺らには何の力も無いんやで」
詩織は気づいてないだけだ。どんなに強い意志を持っていても、高い理想があっても、それは大人の軽い力によってあっさりと折られ、崩され、ねじ曲げられる。
すっげえガキの頃、俺は医者に対して素直な憧れを持っていた。人を救うあの仕事に。だけど、それは。あれも、結局は親が語る医者について、一方的な理想を抱いていただけに過ぎない。
人を救うのなら、日々医者になれと呪文のように告げられる日から我が子を救い出せないのか。
「・・・意外」
「あ?」
「浩平がそんなこと言うんやな」
そう言って笑う詩織は、諦めと落胆の入り交じった表情をしていた。
だがすぐに、まあええわ、と切り捨てて、詩織は純を見た。
「あんた、一度でも自分の意志を伝えたんか?」
「言うてるやん、純は・・・」
「カッキーは黙ってて」
きっぱりと言われ、カッキーはムッとしたように口を開きかけた。
俺はそれを制する。
「浩平!」
「ええから」
俺たちじゃ駄目だ。
夜の山道をあの靴で駆け上がってきた、大人に逆らえないと伝えた俺に落胆した顔をした、俺たちとは違う考えの、詩織じゃないと駄目だ。誰よりも強くて、真っ直ぐで、普通の少女なんかとは違う、特別製の少女である詩織じゃないと。
「あんたは離婚させへんことだけを考えて、言ってきたんやろ。でも、それは畑違いやで。親の意志はあんたが首を突っ込んでいいここと違う。あんたがせなあかんのは、あんたがこの先どうしたいかを伝えることや」
純が叱られた時のように身を縮める。その肩を軽く叩いて詩織が歩きだした。
「カッキー」
「・・・あんだよ」
さっき言われたことをまだ根に持ってるのか、不機嫌そうに応じたカッキーに詩織が笑いかける。
「ごめん、ちょい言い過ぎた」
「・・・おう」
毒気が抜かれたようにカッキーが返して、山を下りようと純を促す。
不意に、展望台ゴミ箱のの陰から祐子と上原が姿を現した。
「別に盗み聞きしたわけとはちゃうからね」
そう弁解する祐子に、分かってる、と純も頷いて目元を擦った。少し赤くなった目も夜では目立たない。
「俺、今日母さんと話してみる」
純が呟いた。
「俺はやっぱりみんなと一緒に学校に行きたい」
一瞬、みんなが黙り込んだ。だが、次の瞬間にはカッキーが純に飛びつく。
「おっしゃ、頑張ろうな」
そう言ったカッキーに、
「それやったら、カッキーは勉強やね」
すかさずツッコんだ祐子に俺たちは笑った。
カッキーが純の背中を押して歩いていく。その横には祐子。
上原は一度、展望台からの町を見下ろして、すぐに三人の後を追って歩いて行った。
「やっぱ靴。ちゃんと履いてこれば良かった。これ痛い」
「んな高いの履いてくっからだろ」
「しゃあないやん。とっさに目に入ったんがこれやったんやから」
唇を尖らせる詩織に俺は苦笑する。こいつも結構焦ってたらしい。
「やっぱこの島は星が綺麗やわ」
詩織が空を見上げる。俺もつられて空を見た。
「カシオペア座」
指さす先には星の群。その、どの星がカシオペア座なのかは知らん。でも、形は分かる。あのWみたいな形のやつだ。
「あと三ヶ月やね」
卒業まで。
ぽつりと呟かれた言葉。そこで初めて、もうそんなになるのかと気づく。
「三ヶ月・・・か」
何をそんなに三ヶ月に拘るんだ。
どうせ同じ高校になるのに。
「やっぱり、自分でちゃんと決めなあかんねんな」
独り言のように詩織が言う。多分、純に向けられた言葉だ。当の本人はずっと先でカッキーに押されたり引かれたりでよろけているが。
詩織が歩き出す。
その背中に向けて言葉を吐き出した。
「俺たちが何を決めても、結局最後は大人なのにな」
第三章 少年少女は海を渡る
「ほんまにええんやな?」
この問いに答えるのは今日で何度目だろう。さすがに苛立ってきて、俺は鷹揚に頷いた。
「何度も言ってるやん」
俺はここに残りたい。
生まれてから、と言っても、たったの十五年しか過ごしていない島だけれど、俺にとって故郷であることに変わりはない。そして、この島にはその十五年を一緒に歩んできた大切な仲間がいる。
「東京に行った方が、色々と良いのは分かってる・・・けど、俺はやっぱりここにいたいねん」
詩織に言われたこと。
あの冷ややかな表情で紡がれる言葉は、間違いなく俺の思いを言い得ていた。
決断から逃げて、どうにもならないことばっかりに時間を費やして。
だけど、詩織たちが教えてくれたから。
何をすればいいのか分からず、一人で悩んでいた俺に救いの手を差し伸べてくれた。
あの後、一度だけカッキーに、相談してくれれば良かったのに、と恨み言のように囁かれた。
ごめん、と素直に思った。だけど、親が離婚するなんて話、到底人に言えるはずもなくて。それが、親しい友人だったら尚のこと。
だから、みんなの前で不覚にも泣いてしまったことは結構恥ずかしい。それ以前に泣いたのは・・・いつだったか。たしか、小学校の時だ。浩平と喧嘩して負けたときだった。
その時のことを思い出して苦笑してしまう。
だって浩平ってば、手を全く出してこないんだ。人が殴るのを躱して、ただ言葉だけで人の間違いを正してくる。
ああいうのが一番腹立つ、と昔に詩織が漏らしていた。
「・・・分かった。お父さんとももう一度相談してみるわ」
母さんがそう言って立ち上がった。
そして、俺を見る。身長はもう大して変わらない。だけど、浩平はもっと高い。母さんより高くなったのは小六の春だった。
やっぱ、身長が高い奴は羨ましいよ。だって、俺、チビだし。
「じゃあ、お母さん、お店に出てるから。何かあったら言って」
母さんが出ていく。そろそろ開店の時間だから、準備に行くんだろう。今も、オーブンからパンの焼けるいい匂いがしてる。
扉が閉じられた音。
さて・・・と。今からどうしようか。って、まずは冬休みの宿題をなんとか終わらせないと。カッキーほどじゃないにしても、結構成績がピンチな身としては、そろそろちゃんとしないと危険だ。いや・・・入試間近のこの時期じゃ遅いような気がするけど。
だけど、やらないよりはマシだ、ってことで教科書を開いたと同時に俺の携帯電話が細かく振動した。電話だ。
画面を見ると、カッキーからだった。さっき店の前で別れたばっかりなのに、何の用だろう。
「もしもし、純か?」
俺の携帯なんだから、聞かずともそうだろうに。
「そうやけど、何?」
「何や、詩織が重大発表があるから祐子ん家に集まれって言ってきたんやけど・・・。祐子がスゴいって言ってた」
「へぇ・・・」
何だろう。祐子だから・・・新しい和菓子でも考案して、試食会をしようとか言うんだろうか。
どっちにしても、宿題なんかするより、みんなで集まった方が楽しそうだ。
「分かった。すぐ行く」
「おう。じゃーな」
電話を切ってズボンのポケットに突っ込んだ。コートを着て、マフラーを付ける。よし、完全防寒。
んでもって、ノートを閉じる。宿題は中止。出かけるのが優先だ。
「ちょっと出かけてくる」
母さんにそう声をかけて家を出た。
ドアを閉じた途端に吹き出す風に身を縮める。寒っ・・・。
商店街は今日はクリスマス本番ということで、相変わらずのクリスマス仕様だ。
一方で、正月飾りを売り始める店もある。
「何か、冬やなぁ・・・」
呟く。
その時に白く染まる息だとか、剥き出しになった木の枝だとか、些細なところにも冬が来ている。
「よー」
古くてすっかり立て付けの悪くなった詩織の家の扉を開けると、よく見知った面々の顔があった。
昨日も来た場所だ。少しだけ苦い記憶が蘇った。だけど、もう大丈夫。
「おはよ」
祐子と上原さんが軽く会釈してくれた。と、同時に後ろの扉がもう一度開く。驚いて横に退くと、きょとんとした顔でカッキーが顔を覗かせた。
「れれっ・・・俺が最後?」
憮然と浩平が頷いた。上原さんが苦笑する。
「クッソー、純より先に着いたろうって思ってたのに!」
「俺とカッキーじゃ家までの距離が違うから」
必然的に俺の方が早いだろう。
だけど、カッキーは今更納得したように手をポンと打ち鳴らした。
「そっか」
そやそや、と一人頷きながらカッキーが入っていく。
俺もその後に続いて中に入った。
「で、重大発表って何なんや」
不機嫌そうに浩平が言う。どうやら、浩平たちにもまだ知らされてはいないらしい。
それを受けて、詩織が祐子の肩に腕を回して前のめりになった。
「実は・・・」
「実は・・・?」
カッキーも前のめりになった。ノリがいいよな。浩平は既に呆れた風になっている。だけど、短気な浩平が、呆れた帰る、とか言って出て行かないあたり、興味はあるんだろう。
詩織が再び口を開いた。
「祐子の書道の作品が大阪で展示されることになりました!」
おー!
俺とカッキーの歓声と上原さんの拍手が聞こえる。浩平も驚いたような顔をしてる。
「何でも、結構有名なコンクールで金賞とったらしくて、明日と明後日に展示されるんやって」
そっか。祐子は習字やってたもんな。
字も一番綺麗だった。
「でな、ここはあたしらで見に行かなあかんと思うねん」
何となく話の展開が読めてきた。そう思ったのは俺だけじゃなかったらしく、
「要するに、一緒に大阪まで来いってことか?」
「そういうこと!」
質問した浩平に対して、詩織はウインクして見せた。目がデカいこいつがウインクすると、バチンと音がするような気がする。
「行くのは明後日の朝。魚屋の岩田さんに聞いたら、良平兄ちゃんが大阪まで船出してくれるって。やから、朝に出かけて、祐子の作品見て、ちょっと大阪の観光して帰ってこよう?」
良平兄ちゃんというのは、魚屋のおじさんの息子で、今は跡継ぎとして毎朝漁に出ている。昔はよく遊んでもらってた。
「けど日帰りで大阪はキツないか?」
本島に渡るときは一泊覚悟で出ないといけないのがこの島の習慣。天気が荒れたりして、ちゃんと船が行き来できるか分からないからだ。
カッキーの言葉に、詩織はひらひらと手を振る。
「最悪の場合はビジネスホテルに一泊することになるけど・・・大丈夫やって。天気もいいみたいやし」
確かに流しっぱなしになっている朝のニュース番組の天気予報も明後日は晴れだと告げている。うん、大丈夫そうだ。
「じゃあ、時間厳守で集合な」
詩織がそう言うけれど、それですぐにお開きになるはずもなく。
他愛もない話をしているうちに昼になり、そのまま詩織の家で昼飯をご馳走になり、帰ったときには一時を過ぎていた。外は、太陽が弱いながらも光を送ってくれるおかげで少しだけ寒さが和らいでいる。
コートのボタンを外して歩いてみても、身を切り裂くような寒さは侵入してこない。
大阪か。
関西に行くのは小学校六年の冬以来だ。あの時は大阪南港の海遊館に行きたいという詩織と祐子に付き合って、カッキーと浩平も含めた五人と詩織の家族で出かけた。
そして、今回は上原さんもいる。
五人のメンバーも楽しかったけど、やっぱり人は多い方が楽しい。彼女がいると、場が和むんだ。雰囲気が明るくなって、自然と楽しくなる。カッキーがあんなにぞっこんなのも分からなくもない。
「おっしゃー!」
空に向かって叫んでみる。幸いにも商店街には誰もいない。
まだまだ解決しないといけないこととか、問題だらけだけど、今は大阪のことを考えよう。
大阪にみんなで行って、祐子の習字を見て、色々見て回って帰ってくる。
それが終わったらすぐに正月。
楽しみなことでいっぱいだ。
詩織の予想するとおり、当日はこの上無い快晴だった。冬のくせに、というと語弊があるかもしれないけれど、本当にいい天気なんだ。
そんな中で、俺たちは港の桟橋に集合した。
「よっしゃ、行こっか」
詩織がそう言って停泊されているボートに乗った。操舵席からは見慣れた兄ちゃんが顔を出す。
「相変わらずお前ら仲ええな・・・」
若干苦笑混じりで笑う良平兄ちゃんに、祐子と上原さんが顔を見合わせて、すぐに笑い返した。
「って、あれ?君は・・・?」
上原さんの顔を見て良平兄ちゃんが首を傾げる。
「今月の始めに転校してきた上原椎香です。初めまして」
そう言えば、上原さんが来てからまだそんなに経ってないんだ。だけど、ずっと前からこのメンバーだったような気がする。多分、ずっと同じなんだと思う。これまでも、これからも。
そんなことを考えている間に船が動き出した。
漁船だから、網やら生け簀やらでゴチャゴチャしてるけれど、どうにかスペースを見つけて思い思いに腰を下ろした。
女の子たちは積まれた何に使うのか分からないゴムのタイヤの上に座っている。
カッキーは縁から身を乗り出して海の中を見ている。落ちたらどうするんだろう、とは思ったけれど、一応、救助道具もあるし、今日は波もそんなに高くないから放っておくことにした。
で、浩平と俺は船の縁に座ってぼんやりとしていた。
浩平は船の向かう、太陽の輝く水平線を、目を細めて見つめている。潮風に短い髪が微かになびいていて、何だかその姿が妙に様になっている。強面なくせに、何気にロマンチストなところもあるんだ、この人は。
「お、純!見てみ!メバルや!」
カッキーに言われてのぞき込むと、確かに見慣れた魚の背が光に反射するのが見えた。
「ほんまやな」
そう言ったとき、
「え、どこ?」
ひょいと隣から祐子が顔を覗かせる。上原さんもカッキーの横に立って下を見ている。
「ほら、あれ」
カッキーが指さした先でまた光った。
他の場所でもキラキラと光。
「まだ見れるんね。もう三月やのに」
「そうやな」
祐子の言葉に頷く。メバルはここらじゃ二月が一番大きくなって旨い時期だ。三月になってからじゃ岩田のおじさんの店にも並ぶのは珍しい。
「ていうか、あれだけで分かるの?」
驚いたように振り向く上原さんに、今更にその距離が近いことに気づいたのか、あいっ、とか訳の分からない声をあげてカッキーが少し下がった。そんな大げさな動きしたら逆に分かるのに。
カッキーが何か呟くようにボソボソと言ったけれど、聞こえなかったようで、上原さんは首を傾げるばかり。仕方なしに、
「見慣れてると分かるもんやで。俺らも昔から岩田のおっちゃんの船に乗っけてもらってたし」
あの時は、カッキーが船から落っこちたり、俺が網に絡まったり、波が高くて全員で酔ったり、色々あった。
「へぇ、すごいね。私、メバルって名前自体あんまり聞かないよ」
「魚屋行ったら置いてあるやん」
「お魚屋さんに行ったのも、ここに来たときが始めただったんだ。あっちじゃ、スーパーで安いのを選んで買うだけだったし。生きてる魚を見るのも水族館以外だったら初めて」
スーパー・・・何か都会的な響き。いいよなぁ。だけど、同時に都会に対する若干の侮蔑も抱いたり。東京じゃ、魚の名前もロクに覚えないんだなって。魚は切り身なんじゃなくて、海の中で泳いでるもんなのに。
ちらりと横を見ると、上原さんとカッキーが何やら話し込んでいる。とは言っても、カッキーの方は結構どもったり、語を濁したりで、会話と言っていいかどうかは分からないけど。どうせ、上原さんの前でいいカッコしようとか企んでるんだろう。
祐子はまた詩織の所に戻っていった。何か考え込んでいる風だった詩織は、すぐに笑顔を浮かべる。
「なぁ、純」
「ん?」
不意に浩平の低い声がして見上げると、顔を動かさずに浩平が問うてきた。
「何や、よう分からんけど、最近、詩織と上原、ちょっとおかしないか?」
そうだっけか?
思い返してみる。それが、イブの日で止まった。そういえば、あの時に詩織と上原さんも悩むような顔をしていた。だけど、イマイチ覚えてない。
「ごめん、あんまし覚えてへんわ。俺も自分のことでいっっぱいいっぱいやったし」
どうしていいか分からなくて、一人パニクってた。
言うと、
「そやったな」
すまん、忘れてくれ。
そうとだけ言って、浩平は口を閉じた。
俺も釈然としないながらも、久々に乗る漁船の風景に興奮して、いつしか忘れてしまっていた。
そして、遠くに高いビルが見えてきた。港の近くは、そこまで言うほどのビル街ではないと詩織は言っていたけれど、それでも十分なほどにビルが建ち並んでいる。
送ってくれた良平兄ちゃんに礼を言って、それから電車の駅に向かった。電車を二つ乗り継いで、それから少し歩く。三十分ほどで、梅田に到着。
「やっぱ・・・スゲェ」
カッキーがそう言うのも分かる。
港でも十分スゴかったけど、今見てる景色は全然違う。道と道の間にビルがあるんじゃなくて、ビルとビルの間に道があるんだ。
「狭苦しいとこやな」
苦々しげに言う浩平に、
「何言ってんねん。これが真の都会。俺たちの田舎とは全然違うやん。やっぱ、こーゆー風に便利な方が絶対ええよな」
恍惚と語るカッキーの横で、詩織が持ってきた地図を広げる。
「えっと・・・ここが、このビルやろ。やから・・・」
眉をしかめて地図を凝視する詩織の横からのぞき込んでみたけれど、俺にもさっぱりだ。何せ、特徴的な店とか道ばっかりの島とは違って、地図の全てが、何とかビルって名前でややこしい。
悶々と俺たちが悩んでいると、
「ほれ」
浩平が携帯を差し出してきた。画面には、今広げてる地図と同じのが広がっていて、現在地に赤いピンが立っている。
「ほんで、行き先がこれ」
ゴツゴツとしたデカい手に付いた人差し指が、画面の右上を指し示す。
「行くで」
歩きだした浩平に、詩織が乱暴に携帯を押しつけた。
「何や?」
折角教えてやったのに、と不機嫌そうな浩平に、詩織は同じくらい不機嫌そうに、
「何か、腹立つ」
知るかよ、と呆れたように浩平が歩きだした。
俺と祐子で、まだあちこちに視線を巡らせて頬を紅潮させているカッキーを回収して、あとに続いた。
祐子の作品が展示されているというのは、大きなビルの最上階だった。下は保険会社のオフィスになっているそうで、上から三フロアは、大学合同の説明会とか、集会とか、多目的に使えるスペースになっているらしい。
「エレベーターってやっぱり気持ち悪い・・・」
「何か、ズンッてくる感じが変やんな」
そんなことを言っているうちに、最上階に到達した。遙か下に人とか車とかが見える。前に一度、父さんが東京タワーに連れていってくれたけれど、あの時の風景と似ている。
「こっちこっち」
赤い絨毯が敷かれて、妙に気品漂う廊下の人はまばらだった。
中にはいると、俺たちの年の奴らはほとんどいなくて、圧倒的にじいさん、ばあさんが多かった。どうやら祐子は、子供から大人まで参加できる大会で入賞したらしい。やっぱスゴい。
だけど、こんなにも人が少ないのは、冬休みなのにこんなものを好き好んで見に来るような人がそもそも少ないからだろう。今いるのも、ほとんどが今ここに自分の作品が飾られているか、それともその家族か、くらいのはずだ。
「祐子のはどれ?」
詩織が聞いても、祐子はきょろきょろと辺りを見回して首を傾げた。
「どこやろ・・・。先生は、中学生のコーナーにあるって言ってはったんやけど・・・」
そもそも中学生コーナーがどこか分からない。何せ、全国からの優秀作品が所狭しと並べられているのだから。
「しゃーないな。手分けして探そ」
浩平がそう言って通路を歩いていった。カッキーと上原さんが続く。
次いで、俺。詩織と祐子は反対方向を探しに行った。俺もみんなが探してなさそうな方向へ動く。そっちの方が断然早い。
だけど、学校の体育館を四つ会わせたぐらい広いスペースの中から、そのコーナーを探すのは結構大変で。
俺がそこを見つけたときは、既に探し始めた時から十分が経過していた。
すぐ後ろは高校生のコーナー。どうやら、学生は一番奥にあったようだ。
ふと、その高校生コーナーで足を止めている詩織を見つけた。
「おい、詩織。こっちやで」
呼びかけると、驚いたように瞠目した。
「分かってる」
そう言いながら、こっちに歩いてきたもう一度詩織が眇めたのは一枚の半紙だった。花鳥風月、と書かれたそれを詩織は見て、少しだけ目を伏せる。寂しげで、少し辛そうなその顔に、俺は疑問を感じた。
「詩織?」
「ん、何?」
「いや、どうしたんかなって・・・。知ってる人のやつ?」
「ううん、違うで。何でもない。行こ行こ」
詩織が裏側に回っていった。俺は詩織が見つめていた作品を見る。何てことのない、単に上手な習字だ。別段、あんな表情をするほどのものじゃない。
花鳥風月。桃花大附属高校二年、吉良佐和子。そう書かれただけのこの作品の、何が詩織に・・・?
そう考えたのだけれど、カッキーや上原さんたちのやってくる声もして、浩平にも名前を呼ばれたので、俺もすぐに裏に回った。
「おー・・・」
真っ先に出た声がそれ。
水の惑星、と整った筆運びで書かれたその文字の横には、樋口祐子の名前もちゃんとあった。
「すっげぇ・・・」
カッキーが感嘆の声をあげた。まぁ、カッキーの字と比べたら雲泥の差だから。って、俺も人のこと言えないけど。
「じゃ、写真撮ろ」
詩織の提案で、祐子の作品を中心に立って写真撮影をすることに。だけど、いざ撮るぞ、という時になって、一つの問題が浮上した。
誰が撮るんだ?
「私撮ろうか?」
「いや、それやったら俺やるわ。折角やし、女子三人は入り」
上原さんとカッキーがそう言って、
「なら俺やる。お前らは映れ」
「でも、浩平も入った方がええんとちゃう?あたしが撮る」
浩平と詩織もそう言ってカメラに歩み寄る。みんな、お互いのことを気遣ってるんだろうけど。やっぱり、結誰にするか決まらなくて。挙げ句の果てに、祐子が撮るとか言い出して(主役が写らなくてどうするんだよ)、みんなで悩んでいたときに、
「撮ってあげましょか?」
気のよさそうな爺さんが撮影役を買って出てくれた。その好意にありがたく甘えることにした俺たちは、それから三度の場所チェンジを行いつつ撮影を完了させた。
「親切な人がいて良かったね」
下りのエレベーターの中、しみじみと言った上原さんに、誰ともなしに頷いた。
「次はどうすんの?」
尋ねたカッキーに、詩織は祐子と上原さんと視線を合わせて、
「あたしらはデパートに行きたいんやけど・・・。ここら、結構集まってるし」
「いいんちゃう。行って来いよ」
俺らはどっかそこらで適当に時間潰してる、と呟いた浩平に、
「何言ってんの。あんたらも来てってことやんか」
きょとんとした顔で言われ、浩平が眉を顰めた。カッキーと俺は顔を見合わせる。
「何で俺らまで?」
代表して尋ねたカッキーに、祐子と上原さんは揃って苦笑い。その中で、詩織がふんぞり返って、
「荷物持ちがいるやろ」
浩平を伺うと、そんなとこだろうと思った、とばかりにため息をつく。
「折角大阪まで来たんやし、みんなにお土産も買って帰りたいやん?それに、お昼ご飯食べるところも探さなあかんし」
言われた途端、腹が減るのを感じた。そういや、もう十二時を回ってるんだ。
「デパートの上だったら食堂街があるから、そこで先にご飯にしようよ」
「やね」
上原さんの提案に俺たちは頷いた。
にしてもさすがだ上原さん。デパートの内部構造まで把握しているとは・・・。
そんな中、
「腹減った・・・」
カッキーが呻く声だけが降下するエレベーターの中で響いた。ていうか、最近それしかカッキーから聞いてない気がする。
それからデパートの最上階で昼飯を食って、後はあちこちの店を覗く女子三人組に付き合って、だらだらと移動した。
既に俺たちの両腕には買い物袋が二つずつ。どれだけ買えば気が済むんだ、というぐらいに袋の中に詰まっている。さらに、その総合計が大した額じゃないのに驚いた。詩織たちの値段交渉にこんなにも応じてくれるのは、やっぱり関西独特の気風のせいだろうか。
島では気づかなかったこと。女子の買い物は長い。異様に長い。
デパートに入って二時間。
両手に荷物を持った俺たちは、とっくにヘトヘト。持久力自慢の浩平でさえ辛そうに肩で息をしている。何てったって、詩織たちときたら、とにかく気になったところに突っ込んで行く。計画性も何もないから、次々とフロアが変わるのは当たり前で、酷いときは六階から一階まで降りて、今度は七階なんてのもあった。
「もうギブ?情けない」
トイレ横のベンチにへたり込んだ俺たちを、腰に手を当てた詩織が見下ろす。
「お前らが何やらかんやら買うからやろうが」
毒づく浩平を無視して詩織は祐子と上原さんを振り返った。
「今からどうする?」
「私、雑貨屋さんに行きたい」
「本屋かな」
上原さんと祐子が答える。
「あたしは地下に行きたいし・・・そうやな、二人一組で行動しよっか」
まだ買うのか、あんたらは。まったく、その購買意欲の高さはセール品に群がるおばはん並だ。って、実際見たことはないけどさ。
唖然とする俺たちに構わず詩織は組分けを発表する。
結果、詩織と浩平、上原さんとカッキー、祐子と俺、という組み合わせになった。
「詩織ちゃんも悪気があるわけとちゃうから、堪忍な」
本屋で文庫本を手に取りながら祐子が言った。
「あの買い物の量は悪意があるようにしか思えへんけどな」
今頃浩平の両腕には大量の袋が・・・考えるだけで腕が重くなってきた。ご愁傷様。
「詩織ちゃんも苛ついてんねんて。カッキーがさっさと椎香ちゃんに告らへん、って」
なるほど。そのための上原さん、カッキーのペアというわけか。
でも、だったら、もうちょいマシな方法でも良かったんじゃないだろうか。荷物持ちで上手く行くとも思えないけど。
「詩織ちゃん、焦ってるんよ。もう三ヶ月しかないから」
「へ?」
三ヶ月って何や?
問いかけようと思ったら、祐子の姿は無く、レジに並ぶ小柄な少女の姿が遠くに見えた。手に持った本はあいつが大好きな作家のもの。島の本屋じゃ置いてないそうだ。
「純君、戻ろう。そろそろ集合時間」
時計を指さす祐子に、俺も頷いた。
「なぁ、祐子」
「何?」
少し小走りで急ぎながら問いかけると、ツインテールを風に揺らせて祐子が視線だけこっちに寄越した。
「三ヶ月しかないって、どういうことや?」
一瞬の間。
「あれ、聞いてへん?」
「聞いてへん」
そっか、と祐子は前を向いた。
「言っちゃあかんかったのかも。私が言ったのは内緒な。そのうち詩織本人から言うと思うし」
「どーいう・・・」
どういうことなんだよ。祐子、お前は何を知ってんだ?詩織がどうしたって?
聞きたいことは山ほどあるのに、それを聞くのが躊躇われた。
普段、柔和な光を宿す瞳に、不穏なものが漂っているように見えた。引き結ばれた口元は、それ以上の詮索を拒否しているようにも思えて。
俺は黙って祐子に併走した。
「おーい!」
既にエスカレーターの降り口の横にあるベンチにみんな集まっていた。
「ごめん、本見てたら遅くなっちゃった」
お互いの買い物を紹介し合う女子三人の横で、俺は屈み込んだ二人に声をかける。
「大丈夫?」
「そう見えるか?」
答えるカッキーの声は掠れている。一方の浩平は、喋る気力もないようで、目は虚ろ。
多少のことだったらギブアップしないカッキーと、忍耐強い浩平がここまで疲労するんだから、よほどあちこち歩き回ったんだろう。
「さーて、帰ろっか」
暢気に呟く詩織。軽い足取りで、祐子と上原さんを伴って出口に歩いていった。何でお前らはそんなに元気なんだ?
「・・・行くぞ」
地を這うような声で言って、浩平が立ち上がる。両手の荷物はまるで手枷か何かのように浩平の腕の動きを拘束している。
カッキーは半ば引きずるようにして荷物を持っている。どうやら、本屋で時間を潰していた祐子のおかげで、俺の荷物が一番軽いみたいだ。
悪い、カッキー、浩平。心の中で手を合わせる。恨むなよ。全部、詩織の決定だから。
昔から結構強引な面を持った詩織に付き合ってきて、もうとっくに慣れているけれど。それに、そんだけ女王様気質な詩織に飽きもせずくっついてるんだから、俺たちも多分彼女の性格が嫌いな訳じゃないんだ。毎度のごとく驚き呆れはするけれど。
日は少し傾き始め、街灯や人の影も長くなってきている。
「楽しかったねー」
祐子が詩織と上原さんに笑いかける。
「男子諸君もご苦労様」
カッキーと俺は手をあげて返す。浩平は手も上がらないほどの荷物のようで、苦しそうに呻くだけだ。
結局、港に着くまで俺たちは荷物を持ち続けることになった。港の横の小さな公園で良平さんからの到着の電話を待っている時、ベンチに荷物を置いた浩平はあからさまにホッと安堵するような顔をした。
カッキーは即刻ベンチに寝そべり、俺と浩平は水分補給。大阪の街は、島よりも暑い気がする。やっぱり、ひしめき合うビルのせいだろうか。
だけど、ここは海から風が吹いてくることもあってちょっと寒い。コートのボタンを留め直した。
「写真撮ろ。記念に」
詩織が携帯を向ける。今度はベンチに置いて、タイマー機能で何枚も写真を撮ることになった。
「詩織、お前最近、写真撮んの多くないか?」
カッキーが問う。
確かに、ここ数日で何枚も撮ってる気がする。俺の誕生日の日に撮った写真も、祐子から現像してもらったそうだ。
「何で?」
「別に。記念写真は何枚持ってても損せーへんやろ?後から見たら思い返せるし」
「ふーん」
回答が存外平凡だったからか、気のない返事をして、カッキーは再び寝転がった。
俺と浩平はベンチに座って海を見ながら他愛もない会話をし、詩織と祐子と上原さんは、期末試験の内容について予測を立てていた。祐子の山張りは結構当たるから、つい聞き耳を立てて聞いてしまう。
「浩平は期末の山張りとかやらへんの?」
興味なさげに欠伸をしている浩平に聞いた。
すると、
「あー、せえへんな。別に教科書見れば分かるし」
「え・・・全部覚えんの?」
「大した量ちゃうしな。あ、そやけど、社会は結構本気で覚えるかも」
これだから秀才は・・・。教科書を何度見ても、覚えられない俺の身にもなってみろよ。
ちなみに、カッキーに至っては、教科書を開いた瞬間に睡魔が襲ってくるらしい。不便なような、便利なような、訳が分からない機能がカッキーにはあるようだ。
「浩平は何でそんなに頭ええん?」
「別に。普通にやってるだけやで」
「一日何時間?」
「三時間くらいしかやってへん」
それで十分だろうが。俺なんて、一日三十分がやっとだってのに。
「何でそんな勉強すんの?島の高校行くんやろ?」
「そうやけど・・・。まぁ、将来のためって感じかなぁ・・・」
首を傾げながら、浩平は独り言のように呟いた。
「あんな、正直言って、俺もよう分からんねん。姉貴がやってたからやってるだけやし・・・」
いつも柔和な笑みを浮かべていた浩平のお姉さんを思い出す。確か、今は東京の方の大学に通っているはずだ。
「俺はずっと姉貴の勉強してんの見てたから。あいつも頭だけは良かったし」
「ええ人やったやん。綺麗やったし」
あんな美人で優しかったお姉さんの弟が何でこうも無愛想で俺様な人物なんだろうか、とも思ったけれど、浩平も以外と面倒見のいいとこがあるし、あながちDNAが職務怠慢な訳でもないらしい。目元とかも似てるし。
だけど、
「どこがやねん」
吐き捨てた浩平は眉を顰めた。それが心底嫌そうに見えて、不思議に思う。
「何が嫌なん?」
「・・・別に」
何かあるんだろうか。聞いてみたかったけど、若干鋭くなった目つきとか(ただでさえ怖いのに)、夕日で浮かんだ陰影とかが、話しかけるなオーラを放っているようで、仕方なしに口をつぐむ。
「それより純。高校のこと、おばさんとおじさんに話したんか?」
「あ、そのことやけど・・・」
昨日の晩、父さんとも電話で話をした。何度も東京に来るように強く言われて、電話越しに怒鳴られもしたけれど、食い下がってたら、最終的には好きにしろと言って電話を乱暴に切られてしまった。
母さんも最初は東京に行かないことに大丈夫か、と聞かれたけれど、今はもう何も言ってこない。近所のお店の人から聞いた話では、母さんとしても手放したくは無かったらしい。それを聞いてちょっとホッとした自分がいたり。
「俺は島にいたいって言ったら、好きにしろって。やから、俺も好きにすることにした」
浩平が笑ってくれた。
「お、マジか!よっしゃ、一緒の高校やなっ!」
カッキーが背後からのし掛かってくる。
「分かってると思うけど、カッキーの方こそ頑張れよ。もう試験まで二週間やで」
「分かってるって。今度の初詣で五百円入れるつもりやから」
じゃなくて、勉強しろって話だろう?五百円で合格を手に入れるつもりなのか、この男は・・・。
「純も一緒やね。良かった」
祐子が笑う。それにつられて俺たちも笑った。
だけど、どこか引っかかるような気がして。
誰かの表情が本当に笑ってない。苦しそうな笑顔。
でも、誰だ?
一瞬の出来事だったから分からなかった。だけど・・・。
「あ、船が来た」
夕日をバックに、良平兄ちゃんの船が青黒い影を水面に映し込んでやって来るのが見えた。
第四章 苛々プラネタリウム
「どーか、神様!高校合格できますよーに。出来ひんかったら呪ったる!」
さらりと罰当たりなことを大声で言うカッキーの後ろであたしは痛む頭を押さえた。
何でこいつはここまで馬鹿なんだ。そもそも、勢い良く投げた五百円硬貨が賽銭箱に跳ね返って返ってきた時点で、神様から拒否られたかもしれないじゃない。
「ちょっと、カッキー!声デカすぎ!迷惑やろ!」
叫ぶと、眉をしかめたカッキーが振り返った。
「今は俺らしかおらんのやからええやんけ。全員の分祈っといたからな」
左様ですか。
「全員分で五百円もケチな気がするけど」
「みんなの分はおまけみたいなもんやし」
それは御利益があると言えるんだろうか。
まぁ、いいや。どうせ何も考えてないに違いない。
正月の早朝、初詣は、まだ誰も来てない時間に行きたいと言ったカッキーに付き合って(寝坊して遅刻したのもカッキーだ)、あたしたちは島の山手にある神社にお参りに来ている。
島の小さな神社だから、敷地も広くないし、全体的に古びた感じがするけれど、ちゃんとお神楽もあって、神主さんもいる。
境内も綺麗に掃除されているから、今も変わらず子供たちの遊び場になっている。何せ、公園が島には無いからね。
椎香に聞いた話では、公園も大きいところだとアスレチックとかがあるそうだ。小学校の遊具が背丈の低い滑り台とブランコだけだったあたしたちにしてみれば、全く想像がつかない。
「詩織、おみくじ引こうよ」
祐子がちょいちょいと向こうを指さす。百円入れて、勝手に引くだけの簡単なおみくじ。だけど、毎年本気になって挑んだりする。
「おっしゃ、大吉」
早くも大吉を引き当てた浩平が得意満面の表情であたしを見た。そう言えば、こいつは去年も大吉だった。
「詩織は?」
手の中で紙を捻り潰す。
「凶だけど何か?」
「別に」
笑いを堪えるように浩平がおみくじの紙を丁寧に畳んでコートのポケットに入れた。
「二連続~」
歌うように言われた言葉に、その広い肩を殴る。
分かってるわよ、んなことぐらい。
去年、凶を引いたときはちゃんと括って帰ったけれど。
よりにもよって、受験の年に凶が出るとは。
「帰ったら燃やしてやる・・・」
憎悪の目で、くしゃくしゃになった紙を睨めつけると、
「持って帰ると、悪運を持ち帰るって意味になるんやって。諦めて括って帰り」
祐子に諭されて、仕方なしにロープ(っぽいやつ)に結びつける。
「よし、これでオッケー」
「あーあ、末吉かぁ・・・」
ため息と共におみくじを結びつけるのは純。
単なる落胆のため息なんだろうけど、無性に腹が立つのはあたしだけ?
凶からしてみれば、末吉なんて、“吉”って文字が入ってるだけで十分良いじゃないの、ねぇ。
「帰ろうぜー」
境内の入り口で浩平とカッキーが待っている。純と祐子が何事か話しながら歩いていった。
「椎香?」
おみくじを見て立ち尽くしている傍らの少女に声をかける。
すると、驚いたように身を竦めて、次いでおみくじをポケットに仕舞って椎香が駆けてきた。
「どうしたん?悪かった?」
「一応中吉だったんだけど・・・」
「いーなぁ・・・」
羨ましいよ、新年早々に。あたしも、もうちょい良かったら・・・。
大吉とは言わない。神様せめて、吉でもいいから・・・。
「そう言えば、今度の新年パーティー、天文学部は何やるの?」
椎香が言ったのは、毎年うちの中学で行われる新年を祝い会のこと。秋にある文化祭の小さい版ってことで、クラスや部活ごとに屋台を出したり、ショーをしたり、模擬店をしてりしている。
「うちはプラネタリウム。毎年やってるから」
「へぇ・・・。楽しそう」
「まぁ・・・準備は大変なんやけど。生物部は?」
「動物たちは移動させて、ミニ動物園を作ることになってるんだ。空いてる教室借りて」
「なるほど」
昔はもう少し生徒数も多かったらしく、今では使われてない教室が結構ある。あたしたちが使うのもその一つだ。
「サッカー部は体育館でフットサルの試合するんだって。勝つ方を予想して当たったら金券五枚と交換とか言ってた」
そんな賭事まがいのことをしていいのか。まぁ、金券五枚ぐらいだったら・・・いいか。
「楽しみ」
「そやね」
今から準備しないといけないから、結構大変だけど。でも、楽しいのは事実だ。
「一緒に回ろうな」
「うん」
「祐子も一緒に」
「初めてだから、案内してね」
「任しとき」
三年間通ったんだ。もうバッチリ。
神社からの階段を下りながら、あたしは盛大に伸びをした。
手を伸ばす。あと数センチ。
だけど、それが届かない。
つま先立ちして、手を伸ばすけれど、結局指先は空を掻く。
「はぁ・・・」
ため息一つ吐き出して、仕方なく空き教室を出た。
そして、普段の教室を覗く。
あ、いた。
「浩平!」
カッキーと純と、何か話していたらしい浩平が顔を上げた。
こっちこっち、と手招きする。
「・・・何や」
不機嫌な様子を隠すこともなく浩平が見下ろす。その視線を受け止めて、あたしは微笑を浮かべる。
「ちょっと手伝って」
ちょっと、の匙加減は・・・あたしの感覚ね。
「・・・はいはい」
諦めたように浩平が歩きだした。
「いつものとこか」
「うん」
そう言えば、去年も手伝ってもらったっけ。
「ほれ、貸してみ」
差し出される手に豆電球の入った小さな袋をのせる。
「相変わらず大変やな」
「まあね」
脚立に乗った浩平が、天井の黒塗りの板に電球をはめていく。
「それは右から二番目の穴」
「それはそっち」
「それは・・・一番奥」
一等星、二等星とかの明るさ、色、全部がきっちりと書き込まれた計画書の通りに浩平が電球をはめていった。
「それで終わり」
息をつく。
脚立から降りてきた浩平が、空になった袋をテーブルの上に置いた。
そして、そのまま教室の隅に並べられた椅子に座る。
「部活は?行かへんの?」
「今日はパス。あかん、眠い」
「どうしたん?」
「昨日、数学やってたら、もう一時やった。それから色々して、寝たんは二時やったし」
「ようやるわ」
徹夜してまで勉強する気なんて起こらない。どっちかっていうと、早朝からやり始めた方が出来るタイプだ。
「ちょっと寝かしてくれ」
「どうぞ」
同時に、浩平は瞳を閉じて寝息をたて始めた。よっぽど疲れていたらしい。
あたしも手近な椅子を引き寄せて腰を下ろす。
静寂。
時計の針が時を刻む音だけが響く。
静かだ。
学校の中に誰もいないんじゃないかと思うぐらいに。
ふと、窓の外に目を向けると、カッキーや純の姿が目に入った。
立ち上がって、ちょっと窓を開けてみると、寒い風と一緒にグランドで活動するクラブのかけ声が聞こえてきた。相変わらず、カッキーの声は大きい。
引退なんかとっくに終わって、新しいキャプテンが決定した今になっても、熱心に出ては後輩指導をしてる。そんなことをする前に、勉強すればいいのに、と思うけど、それだったら今のあたしも似たようなもんだ。
長い間通った理科室や、毎年のようにプラネタリウムの準備で長い時間を過ごしたこの教室から、離れられずにいる。もう別れの季節は確実に近づいてきているのに。
もしかしたら、二度と見られないかもしれないこの教室の残像を少しでも残しておきたいと躍起になってるのかもしれない。
もう三ヶ月しかないから。
自嘲気味に笑って窓を閉めた。
再び教室に静寂が訪れる。
微かに聞こえる、浩平の寝息と時計の音。そして、あたしの上履きが地面を叩く音。
半分ほど開けた浩平の口からは白い歯が覗く。スポーツする上では歯は大切だとカッキーと純に語っていたのを思い出した。
あれは中一の夏だったかな。あたしが一大決心するよりもずっと前の話だ。まだ、祐子と椎香だけしか知らないこと。
祐子は最初は驚いて、でもすぐに椎香と一緒に賛成してくれた。
椎香が言うには、設備がすごく良いって。女子の憧れだって。
まだ浩平たちには言えない。言ってしまうと、何だかすぐにでも隔たりが出来てしまいそうで。
でも、別にいいよね?
あんたたちだって、あたしたちに隠してきたことがあるんだから。
純だって黙ってた。辛いのは分かる。だけど、それを何ですぐに相談してくれなかったのか。妙な見栄なんか張らないで、打ち明けてくれればちゃんと一緒に考えたのに。
それに、カッキーのこともある。
椎香のことをあんだけ気にしながら、結局何も行動しないことに腹が立つ。
周囲から見たらバレバレ、水面に出まくりの恋心を上手に隠し通せていると思いこんで安心していることにも。
気づいてないのはカッキーと椎香ぐらいだ。椎香も結構鈍感な気質のようで、カッキーの分かりやすい(本人にとっては隠してるつもりの)態度にも、気付いてないみたいだ。
ため息。
何で他人事でこんなに疲れなくちゃいけないんだ。あたしにだってしないといけないことが山ほどあるっていうのに。
もう一度、こんどはどっかりと椅子に腰を下ろす。背伸びの連続で疲れた。しばらく動きたくない。
椅子が硬いのが残念だけど、贅沢も言ってられない。古びた教室の木の椅子に比べたら、多少硬くて塗装が剥げていてもクッションのあるパイプ椅子の方が良い。
鞄に入れてあったカーディガンを羽織って目を閉じた。寝入ったことに気付かないほど、疲れていたんだと知ったのは起きてからの話。
「おい」
次に目を開いたとき、正面にはムスッとした顔で半眼で見下ろす浩平の姿があった。
「いつまで寝てるねん。もう完全下校の時間過ぎてるで」
「・・・え?」
視線を窓の外に動かすと、そこには真っ暗は闇。山側に面した窓は、灯り一つ無い黒だった。
「うそっ・・・もうそんな時間!?」
六時近くを指す時計を見て、あたしは慌てて立ち上がった。カーディガンがひらりと床に落ちる。それを拾い上げて、鞄の中に入れると、机の上に置いてあった教室の鍵を掴んで教室を出た。
「浩平も早く!」
手を強く振って手招きすると、呆れたような顔で浩平が歩み寄ってきた。
「早くって言ってるやん!」
「あのなぁ・・・」
苦笑する浩平を教室から引っ張りだして鍵をかける。
次いで職員室に急行した。
「やっぱ結構怒られたなぁ・・・」
帰り道、ぼんやりと空を見上げながら浩平が言った。あたしもその視線の先を追いながら、
「そうやね」
さすがに完全下校を二十分も遅れていたら怒られるか。でも、そこまで怒鳴られなくて良かった。
「冬は星が綺麗に見えるな。よう分かるわ」
「やろ?絶好の観察シーズンなんよね」
またすぐに部員総出で天体望遠鏡を空に向けることになりそうだ。だって、雲がほとんどかかってないから。今日は月がよく見える。天体観測自体は新月の日にやるもんだけど。
「海も凪いでるし」
左側に目を向けると、静かな波音がする。星明かりに輝く銀の海は、眼下に広がる砂浜に静かに波を寄せていた。
「ちょっと降りてみるか?」
珍しく浩平が誘ってきた。いつもは家に直行したがるのに。
「どうしたん?」
「別に。今日は腹減ったって言って、うるさいカッキーもおらんし、久々に側まで行ってみよっかって」
「ふーん。別にええよ」
先週、椎香を連れて祐子と三人で見に来たばかりだけれど、夜の海に来るのは久しぶりだ。去年にみんなで花火をしたのが最後だったかな。
堤防の途中にある階段を下りて、砂浜に降りる。
さくさくと砂を踏みしめながら、泡を生み出す波に近寄ってみた。
「ハマんなよ」
「アホ」
笑って言い返す。
こんな真冬に海に落ちたら、即刻風邪を引くに決まってる。
運動靴の先を水の少しだけ浸けてみる。中に染み込まないギリギリの範囲だけ。
「なぁ、詩織」
「んー?」
今度は反対の足。
砂浜に付いた足が、流されてきたガラス片を踏んだ。
「島・・・出る気か?」
足が止まる。
靴が水に沈んだ。じゃぶり、と音をたてる。
「・・・・・・」
冷たい水が中に染み込んでくる。その気持ち悪さに水から引き抜こうと思うのに、足が思うように動かない。
「島の高校に行く気無いんやろ?」
これだから鋭い奴は。
「まだ言わへんつもりやったのに」
わざとふざけた口振りで言ってみたのに。
「何でや」
あたしのつま先を浸す海水のような、氷水のように冷たい言葉だった。
「何で黙ってた」
答えない。答えたくない。
別にあたしの勝手じゃん。
代わりに足をもっと深く水に突っ込んでみる。地面に靴が埋もれる。
「おい、詩織!」
「言いたくなかったから!」
浩平の声を遮るように叫ぶ。
誰もいない砂浜に、自分の声が思いの外響くことに驚いた。
「言いたくなかったんや。みんなには」
祐子や椎香に話せたのは、同性だったから。椎香とは知り合ってまだ二週間と少しだけれど、それでも妙に馬があって、祐子と変わらないぐらいに仲良くなった。だから、話すことが出来た。だけど・・・。
カッキーや浩平、純には口に出来なかった。だって、
「みんなから遠ざかるのが怖かってん・・・」
言ってしまえば、見えない谷間が生まれるようで。幼なじみの関係が音を立てて崩れていきそうで。
「みんなとは最後まで友達でいたかったし。もう会うことがないかもしれんし・・・」
「何言ってんねん。戻ってこればいいやろ」
「学校が東京なん。やから、そう簡単には戻って来れへん。それに、あっちでは寮に入ることになるから、メールもそんなしょっちゅうできひんし・・・」
関係が疎遠になれば、人間同士の間柄なんて以外とあっさり離れてしまう。今までにも島を出ていった友達は何人もいた。親の転勤とか、祖父母の家にお世話になるとか。そして、その中に今も関係が続いている人は一人としていない。二年ほど、手紙とか年賀状のやり取りを続けていたけれど、やがてそれも無くなった。
だから、だ。
高校の三年間の間に、大切な絆が消えてしまうのが怖い。消えなくても、仮に帰ってきたとしても、みんなは今までと同じように振る舞ってくれるのか。あたしがいない間に、みんなはずっと一緒にいるんだろう。そこに、見えない格差を感じてしまわないだろうか。
それを考えると、何か分からない圧迫感で押しつぶされるような感覚がして。
「これやったら、純と一緒やな。他人のことやったら言えるのに」
結局、あたしだって異性の前ではカッコつけたかった。苦悩する自分の姿を晒したくなかったんだ。
自嘲気味に笑って、反対の足も水に浸ける。ひんやりとした感覚が足全体に広がった。
そのまま、ザブザブと水の中に入る。足首まで水に浸かった。
おい、と浩平が声をかけた。
「何する気だよ」
「別に」
入水でもするかと思ったわけ?
鼻で笑って振り返ると、微かに笑んだ浩平と目が合った。
「何?」
人の顔見て笑うんじゃない、と突っ込もうとしたけれど、
「安心した」
穏やかな声音で紡がれた言葉に遮られて、開きかけた口を閉じた。
「は?」
眉を顰めると、浩平は、いつもは仏頂面の強面の形相をなおも崩した。
「やから、安心したって言ってんの」
「何で?」
今までの会話のどこに、あんたを安心させる要素があった?寧ろ、浩平にとっては鬱陶しいであろう、あたしの独り言に付き合わせてしまったのに。
「お前も俺らと変わらへんのやなって」
「はぁ?」
ますます眉を寄せるあたしと、苦笑いする目の前の男。
「お前も怖がったり、悩んだりするんやなって思ったら、ホッとしただけ」
ますますもって意味が分からない。何故そんな当たり前のことでホッとされる。
「何か、詩織って完璧過ぎるねんな。何があっても一人でやってのけるし。純の時やって、ちゃんと言うべきことを言ったし。あの場面、俺やったら、どうにもできひんかったしな」
「あれは、あたしも同じことで悩んでたから・・・。あっちの高校を受験するって決めたんはあたしやけど、それでもまだモヤモヤしてて・・・」
「それや。俺は、詩織は悩んだりせーへんのかと思ってたから、人間らしいところがあって安心したんや」
何それ。
唇を尖らせて浩平を見やる。
あたしが人間じゃないと言いたげな台詞じゃないですか。
そんなあたしの思いに気付いたのか、手をひらひらと振って抗弁する。
「別に詩織が人型のロボットとか言うてるわけとちゃうねんで?やけど、何か詩織は・・・そう、強い。めっちゃ強い人やなって感じで」
だとしたら気のせいだ。
こんなことに怖がって、一人悩んでたあたしに、その言葉は当てはまらない。
「あぁ・・・そうやな。人間らしいってのは撤回で・・・何て言うんかなぁ・・・」
困ったように眉をハの字にする姿が珍しい。
「女の子らしいところもあるんやなって。色々と一人思い悩んで。そんで結構プライド高くて」
「悪いか」
「別に」
飄々と言い募った浩平に、足下の水を蹴り上げる。
うおっ、あぶねっ・・・。そう言いながら水しぶきを躱した浩平が眉をつり上げた。
「お前なぁっ!制服って潮に弱いのは知ってるやろっ!」
「いいじゃん別に」
あたしはズボンじゃないから水に浸かっても問題ないし。
もう一発蹴ろうと足を上げかけて気付いた。簡単に水から足が上がる。あれだけ冷たかった水が何だか心地よくて。跳ねる水から逃げる浩平のしかめっ面も楽しかった。
「おいコラッ!」
射程範囲外に逃げた浩平が制止のサインを出す。
今度は靴ごと蹴ってやろうかと足を上げた。
刹那、
「スカートで水蹴るんやない!見えるやろっ!」
は?
やがて、浩平の言葉が意味することを悟ったあたしは慌ててスカートの裾を押さえた。
「ふざけるなー!この変態!」
「アホかっ!お前が水蹴ってくるからやろうが!」
「先に言ってや!」
「言う間もなく蹴ってきたのはどいつじゃボケッ!」
水の内外で言い合いをしている様子は、端から見ればシュールな光景だったんだろう。だけど、今はそんなことを考えている間もなくて。
「もう知らん!」
水から上がると、水を吸って重たくなった靴を突っかけて、引きずりながら歩き出す。砂が靴や足首に張り付いて気持ち悪い。靴下まで浸水した水は膝下まで付いていた。
「浩平のアホ」
「お前にアホ呼ばわりされるほど頭悪くないわい」
そうでした。
悔しいことに、こいつの成績はあたしよりも上なんだ。いっつも一歩及ばない。
「で、でもっ・・・あたしの方が家庭科は上やし」
「その分、俺の方が体育が遙かに上やけどな」
はいはい、運動音痴で悪うござんした。
歩く速度を上げる。
堤防へ上がる階段を上がって、いつもの道に戻った。
歩きだしたのはあたしの方が早かった。
気が付くと、隣を歩いている存在に悔しくなる。
「何でそんなに歩くの速いわけ?!」
「どこかの誰かさんは靴の中に水の重石を入れてるからなぁ」
つい、と片方の眉をつり上げて言って、浩平が嫌味に笑った。くっそぅ・・・腹立つ。
「・・・あんたの性格最悪」
苦し紛れに言ったのだけれど、
「まぁ、その分頭良いかんな」
恥じらうことなく言い放ちやがった。
「ホンマにもう・・・」
ため息を吐き出して、それから少し笑う。
上天には数え切れない星々が瞬いている。教室のプラネタリウムの星とは比べものにならないくらいに、綺麗で冴え冴えとした空がそこにあった。
「でも、ありがとうな」
「・・・おう」
仏頂面の無感動屋が珍しく照れたように笑った瞬間だった。
第五章 Your own road
詩織ちゃんが東京の高校に行くことをみんなの前で言ったのは、お正月の三が日が終わって、新年パーティーが終わった翌日のお昼休みだった。
いつもみたいに、六人そろってお昼ご飯を食べている時に、詩織が言った。
「あたし、東京の高校に行くねん!黙っててごめんな」
私と椎香ちゃんは顔を見合わせた。まだ男の子たちには言いたくないと言っていたのに、どういう心境の変化かなって。
ただ、浩平君は無表情でお弁当の春巻きを頬張っていた。どうやら知ってたみたいだ。もしかしたら感づいてたのかもしれない。昔から鋭かったから。
一方で、カッキーと純君はかなり動揺しているようだった。
純君のお箸から卵焼きが落ちて、グラタンの海にダイブする。
お茶を飲んでいたカッキーは、吹き出しそうになるのを口で押さえていた。
「ま、マジかっ?!」
目を剥く二人に詩織ちゃんは頷く。
「な、何で?」
「あたし、薬剤師になりたいねん。あっちには薬学部もあって有名な大学があるし。やから、高校からちゃんと勉強できる環境にある所に行きたいって思った」
その話は私たちも知らなかった。詩織ちゃんから夢の話を聞かされたことは無かった。それは浩平君も同じだったようで、私たちと同じく目を見張っていた。
「やから、みんなと一緒に島の高校には行かへん。入試は来週やから、まだどうなるかは分からへんけど」
合格するんだろう、詩織ちゃんなら。実際、合格圏内に到達しているようだ。それは、少し余裕のある表情からも伺える。
「そっか・・・残念やなぁ」
心底残念そうに肩を落とす純君に、カッキーが首を傾げる。
「何が残念なん?まぁ、確かに一緒に行かれへんのは残念かもしれんけど、詩織が東京に行くんやで?フツーにスゴいやん」
「そやかて、詩織が出ていったら詩織ん家に行く口実が無くなるやん。詩織がおったら、おっちゃんとかおばちゃんについでに何か食いもん奢ってもらえるし。部活の後とかめっちゃ便利やったのに・・・」
純君を除く一同が苦笑い。
詩織は頬をひきつらせながら純君に歩み寄った。
「あたしはあんたの腹を満たすための口実ってことなんか?」
「夏は素麺の残りやし、冬は団子やろ。それから、おばちゃんのお好み焼きとか・・・イデッ!」
純君の頬を抓り上げた詩織は笑顔のまま純君に顔を寄せた。
「あたしは単なる便利な存在ってことなんやね?」
「別にそこまで・・・イデデデデ!痛い、痛い!」
悲鳴をあげる純君を掴んで楽しそうな詩織に、私たちは顔を見合わせてから笑った。何だか、いつもと変わらない風景に、心が落ち着く。
離婚のことで悩んでいた純君がいつものお調子者に戻って、島の外に行くことで寂しそうにしていた詩織が気の強い女の子に戻って。
間違いなくみんな成長しているけれど、いつもと変わらない今がここにある。
そのことが何だかすごく平和で楽しかった。
「でもさ、あんまり私たちも将来の話しないよね?みんなは何になりたいの?」
私の素朴な疑問に、
「俺は・・・何やろ。あんまり決まってない」
そう言ったのはカッキー。横で浩平君が口を開く。
「俺もやな。まぁ、このままやと跡継ぎやろうけど」
「嫌なの?」
椎香ちゃんの問いかけに、曖昧に浩平君は頷いた。
「祐子は?」
詩織ちゃんが私を見た。
「私はこの島特産のスイーツを作ってみたい。お父さんが言ってたんやけどね、人と人を繋いでくれる最大のアイテムは食品、特に甘いものなんやって。甘いものは幸せにしてくれるって言ってた」
食べた人が幸せになってほしい、その思いで毎日和菓子を作ってるってお父さんとお母さんは言ってた。
「確かに、祐子ん家の和菓子旨いもんな。俺は豆大福が一番好きやで」
うっとりとした顔で純君が言う。そう言えば、純君は小さいときから家の豆大福好きだったな。
「あたしは桜餅やけど・・・椎香は三色団子やねんな」
「うん。あの自然な色が好き」
家は添加物一切使いません、っていうのが基本スタイルで、安全だけは保証する。味もなかなかいいけどね。
「そう言えば、祐子、椎香。あたし今日は部活でいつもより遅くなるから、先に帰っといて」
「うん」
椎香ちゃんと二人、頷く。私たちは今日は部活が無い日。帰ったら家の手伝いをしないといけないし。
「そうだ。そうやったら、うちに寄ってく?何か食べてったら?」
言うと、椎香ちゃんの目が輝いた。
「本当?やったぁ!」
嬉しげに握り拳を作る姿に、何だか私も嬉しくなってきた。自分で作ったものじゃなくても、自分の家の商品を人が喜んでくれたら、素直に嬉しいと思うものだ。
「えー・・・羨ましー」
「なぁー」
唇を尖らせる詩織ちゃんと純君に、私は苦笑を浮かべて手を振った。
「大丈夫。みんなの分もあるから。カッキーと浩平君も来てね?」
おー、と二人は手をあげた。
詩織ちゃんと純君も納得したのか、昼食を再開した。とっくに食べ終わっていた浩平君は、食後のお茶を一杯。カッキーは早く外に行って遊びたいらしく、浩平君と純君を急かしている。
「じゃあ、放課後ね」
「うん」
椎香ちゃんと頷き合った。
カッキーたちが出ていく。椎香ちゃんは今日の数学で分からなかったところを詩織ちゃんにノートを開きながら尋ねた。私もそこはよく分からなかったから聞こうと思ったのだけど、
「祐子・・・ちょっとええか?」
カッキーが教室の外で手招きをしているのに気づいた。
詩織ちゃんも椎香ちゃんも気づいている様子がなかった。声をかけようと思ったけれど、真剣にノートを開いている二人に、私は黙ってカッキーの元へ赴いた。
「何?どうかしたん?」
カッキーが私一人を呼びつけることなんて珍しいから不思議だった。普段は三人セットで話題を振られることが多い。
カッキーは一度教室の中を盗み見てから、
「誰にも言うなよ」
こういう言葉で始まることは、大抵言いたくなる内容なことが多いのだけど、黙って聞くことにした。私も誰にも言わないと思う。多分。
「その・・・何か最近な、上原が変やなって・・・。ほら、すぐにどっかに意識飛ばしてボケッとしてたり、ふとしたときに俯いてたり・・・」
さすが、カッキー。椎香ちゃんのことをよく見てるだけのことはある。
私も何となくは感づいていたけれど、カッキーほど詳しく覚えてなかった。やっぱり、日頃からじっくり見てるからかな。
「それで?」
「それでって言われても・・・。やから、何かお前知らんかなって・・・」
「私はよく分からへんけど・・・詩織ちゃんに聞いてみたら?」
私よりも観察力に長けた詩織ちゃんの方が気づいている可能性は高い気がする。
だけど、
「いや・・・詩織はちょっと尋ねるの怖いっていうか。何か、色々聞かれそうで」
確かに詩織ちゃんなら、余計なことまで喋らされそうだ。
「で、私に聞いたと?」
「そういうことやな」
当然、と返されて私は複雑な気分になる。要するに私には大した観察力も無いってことだよね。まぁ、話しやすい間柄ともとれるけれど。
「なら直接椎香ちゃんに聞いてみたら?多分答えてくれると思うで」
「それが出来ひんから聞いてるんやろ」
「カッキーはそういうところあるもんね。どんなに良い切り札持ってても、変なところで疑心暗鬼に陥って、結局何も出来ない」
昔からそうだった。
トランプで七並べをしていたとき、他の人が札を置くのを阻めるようなカードを持っていても、それを真っ先に並べて結果的に負けていたのはいつもカッキーだ。
単純なのか優しいのか。多分、両方。
「お前も結構毒舌やな・・・」
苦笑するカッキーに、私も同じ表情で返す。
「詩織ちゃんほどじゃないと思うけどな」
彼女の時折見せる発言に比べたら大したことじゃない。だけど、カッキーはますます苦笑いを深める。
「詩織はちゃんと毒を出すけど、お前の場合は薬ですって言って毒を出してくるからなぁ・・・」
随分と失礼な言い様だ。
ちょっとムッとして口を開く。
「カッキーが言わせるようなことするからやろ。で、椎香ちゃんが妙やなって思うんやろ?で、その理由が知りたいと」
「そういうことや」
「まぁ・・・聞いてもいいけど。でも、椎香ちゃんだって言いたくないのかもしれへんで?」
「そのときはそのときだ。何か気になるやん?やから、頼むわ」
本当は相談にのってあげたいくせに。私から理由を聞かせたら、きっと必死で解決法を探すんだろう。奥手で単純なカッキーだけど、そういうところは真面目なんだ。詩織ちゃんはそういうところに最近は苛立ってるみたいだけど。
「分かった。機会があれば聞いとく」
「あぁ、頼んだで」
そんな会話をしてから数時間後の放課後。
初めて、椎香ちゃんと二人で帰ることになる。
色々と話が弾んだ。
詩織と帰るときはお互いのお店の話とか、近所の誰々さんのところがどうだとか、そういう話が必然的に多くなってしまう。
それはそれで楽しいし、もちろん三人で帰るときが一番会話が弾むんだけれど、いつもとは違って二人で帰るのは何だか新鮮な気分になる。
椎香ちゃんから、まだ私の知らない東京のことを聞いたり、向こうの学校の話を聞いたりした。
グランドにはちゃんとしたサッカーやテニスのコートがあって、電子機器を存分に活用した授業なんかもあるらしい。凄い、と素直に言うと、椎香ちゃんは少しだけ苦笑いした。
「でも、そういう環境にずっといると疲れるよ。効率最優先、無駄を極力省いたスタイルも」
それは都市全体に共通することでもあるらしい。
だから、この島の落ち着いた雰囲気が好きなんだそうだ。島の外をよく知らない私からしたら、よく分からないけれど、東京には東京なりに苦労があるみたい。
そんなことを言っているうちに家に着いてしまった。
荷物を置いて、玄関先の椅子でお茶を飲みながらお話の続きをする。寒い日には熱いお茶がぴったりだ。浩平君からは、おばさん臭いと言われたけれど、放っといてって気分。これが好きなんだから別にいいじゃん。
「今日も大変そうだね」
店の奥でせっせと粉を練ったり、餡を作ったりしているお父さんとお母さんを見て、椎香ちゃんが呟いた。
「まぁ、いつものことやし大丈夫ちゃう?今日は瞬太と早太も手伝ってるし」
今年で小学校の四年生と六年生になる二人の弟たちも、立派にお父さんを手伝って奥にいるはずだ。玄関にはランドセルが放り出してある。
「いいなぁ・・・。私、下に弟か妹が欲しかったんだ」
不意に羨ましそうに呟く椎香ちゃんに、私は首を大きく横に振った。
「絶対一人っ子が楽だよ。下はダメ。特に弟は。うるさいし暴れ回るしもう大変」
「でも可愛いじゃん」
「それは第三者の目で見てるからだよ」
兄弟を持てば分かるこの苦労。あ、何か標語っぽい。
「だって二人ともちゃんとお手伝いしてるし」
「それはつまみ食いのためだよ」
堂々とつまみ食いしても、度が過ぎることがなければ、試食と言ったら許してもらえるから。おやつがわりに手伝ってるんだ。
そんなことしなくても残った分はもらえるのに。
「でも、祐子ちゃんの家って仲良いよね。みんなで一緒に家の仕事してるって感じがする」
確かに家族総出の作業は多い。だけど、それはそれぐらいしないと作業が終わらないからで。
「別に普通やと思うけどなぁ・・・」
「そんなことないよ。常に協力って感じがすごく良いと思う。それに、やっぱり弟が・・・」
結局そこに行き着くわけですか。
「私も弟がほしかった・・・」
「私としては一人っ子が楽で良いと思うよ?」
「そう?」
首を傾げる椎香ちゃん。だけど、すぐに頭を振った。
「一人はダメ」
「何で?」
反射的に返すと、椎香ちゃんは再び首を振って呟いた。
「寂しいよ、なんか。何でも一人って、楽なように見えるけど、結局何をするにも一人でするしかないんだよ」
そっか。一緒に遊んだり、勉強を教えてもらったり(私の場合は教える側だけど)することも、一人だったら出来ないんだ。
そう思っていると、尚も椎香ちゃんは続ける。
それにね、と彼女は肩を竦めて笑った。
「重いんだよ、一人は。親の期待を背負うのが一人しかいないんだもん」
言われてハッとした。私には瞬太も早太もいる。二人とも一緒に家を継ぐと言ってるし、私はまだ何も考えてない。二人がいつか心変わりするかもしれないし、この島を出ていく時があるかもしれない。
でも、それはあくまで可能性の一つだ。初めから決められた一本道じゃない。
浩平君が言っていた。由里姉さんが島を出ていってから、両親が医者になることを以前よりも強要するようになったって。
それは、椎香ちゃんと一緒なのかもしれない。親の願いを叶えられる人が、家にはもう一人しかいないんだ。
「私、動物に関わる仕事がしたい。コーディネーターでも獣医でも、ペットショップの店員でも、牧場でもいいから、動物に触れてたい」
夢を語る椎香ちゃんの眼は、とても輝いていた。夏の日の海みたいに。だけど、すぐに目を伏せて声を落とす。
「だけど、お父さんもお母さんも、ちゃんとした職に就きなさいって。でも、動物に関わるのだってちゃんとした仕事でしょ?!」
不意に身を乗り出して言った椎香ちゃんの勢いに押されて自然と頷いた。
「そう言ったのに、二人とも頑固なんだから」
「だから、こっちに?」
あっさりと椎香ちゃんは頷いた。
「おじいちゃんとおばあちゃんがこっちに住んでるから、来ることにした」
「親には何て言ったわけ?」
「中学卒業したらちゃんと考えるって。時間が欲しいって言ったら、何とか了承してくれた」
夏休み明けから頼んだのに気づいたら十二月になっちゃった、と椎香ちゃんが笑う。その笑顔が何だか無理矢理なようで、私は小さな笑みを浮かべることしかできなかった。きっと、椎香ちゃんも悩んでるんだ。
「だから、こっちに来て良かった。あっちじゃ、毎日のように将来はどうするんだ、この成績じゃ良い学校には行けない、って呪文のように言われるから。催眠術でもかけてるのかも、って結構本気で思っちゃったこともあったし」
まぁ、再三言われたらそうなるのも仕方ないような気もする。同じような状況だったら、私もきっと同じ風に考えてただろう。
「卒業したらどうするの?」
あと三ヶ月足らずで私たちは中学を出ていくことになる。そうなったとき、椎香ちゃんはどうするつもりなんだろう。詩織ちゃんと一緒に島を出ていくんだろうか。それとも、島に残るのか。
だけど、椎香ちゃんは曖昧な笑顔で首を傾げるだけだった。
「実はまだ全然決めてなくて。帰りたくなんかないけど、でも、いつかはちゃんと親とも話さないといけないし・・・」
椎香ちゃんが自分で決めた期限がある。それ以上は、黙ってこの島にいるわけにもいかない。
「そっか・・・」
行かないでほしい。そう言いたい。詩織ちゃんが島を出ていって、その上椎香ちゃんまで行ってしまったら、私はどうすればいいのだろう。友達がいないわけじゃないけど、でも、やっぱり二人は別格なんだ。出会って一ヶ月ほどしか経っていなくても、椎香ちゃんは詩織ちゃんと同じくらい大切な存在だから。
カッキーや純君、浩平君もいる。だけど、やっぱり詩織ちゃんや椎香ちゃんがいなくなるのは寂しいんだ。
引き留めたい。行ってほしくない。
でも、それを私は行ってはいけない。分かってるよ、そんなこと。椎香ちゃんの問題に、私の勝手な希望を押しつけたりしちゃいけないことぐらい。
そんなことを考えていたとき、
「やっぱり諦めないといけないのかな・・・」
寂しげに呟いた声に、私は何と言っていいのか分からず黙り込んだ。
確かに、椎香ちゃんの親の言うとおりにするしかないのかもしれない。
そこまで考えて、ふと思う。
「親と一度、向き合って話した方がいいんとちゃう?」
「どうせ、無理だって突っぱねられるよ・・・」
「それを説得するのが椎香ちゃんの役目やと思うよ。大丈夫。詩織ちゃんもそうやっておじさんとおばさんと説得したんだし」
詩織ちゃんの両親は、やっぱり詩織ちゃんに家を継いでほしかったんだと思う。せっかく今まで切り盛りしてきた店なんだ。地元の人にも慣れ親しまれた場所。そこを守っていって欲しかったと思う。
でも、詩織ちゃんが島を出るって言ったとき、笑顔で了承してくれたんだって。その笑顔が心からの笑顔じゃないことぐらい、その場面を見ていなくたって想像がつく。それでも、詩織ちゃんに自分の好きなことをさせてあげたかったんだと思う。だって、それは詩織ちゃんが自分で考えて決めたことだから。
浩平君は子供は親の操り人形みたいなもんだって思ってるみたいだけど、私は違うと思う。
自分の子が一人で決断する力を持ったことを、素直に嬉しいと思えるんじゃないのかな。
「椎香ちゃんも話してみたらいいやん。そんなに熱望する夢があるんやったら、叶えへんともったいないって」
私はまだ全然目標とか決まってない。だから、夢を持ってる人をスゴいと思うし、その夢を諦めて欲しくない。
「・・・うん」
椎香ちゃんが小さく頷いたとき、北風が吹いた。焦げ茶色の落ち葉が風に舞ってカサカサと音をたてる。同時に椎香ちゃんが小さなくしゃみをした。
「さすがに冷えるね・・・」
もう一時間近く店先で喋ってたんだ。いい加減暖をとらないと風邪をひいてしまう。
「早太!お茶持ってきてくれへん?」
店の中に声をかける。
すると、ドタバタという大きな音のあと、ふくれっ面で早太がお盆を持って出てきた。
「それぐらい自分でやれよな・・・」
ブツブツと文句を言いながらも、お盆の上には二つの湯呑みと串団子のお皿。何だかんだ言って気遣いの出来る小学四年生の弟にお礼を言って、湯呑みとお皿を一つずつ椎香ちゃんに渡す。
「みんな心配してたよ。最近椎香ちゃんの元気がないって心配してるみたいだって」
冬の空気の中で白い湯気をたてるお茶に息を吹きかけて冷ましながら言うと、椎香ちゃんはお茶を飲んでから眉を下げて、
「そっか・・・。みんなに迷惑かけちゃったね」
肩を竦めて小さく笑った。そして、
「もう受験だね・・・」
海の向こうを見て呟いた。私もそれに頷いて、それから少し不安になる。
先生からは大丈夫、と言われているけれど、やっぱりその時に何が起こるか分からないから安心はできない。
でも、詩織ちゃんはもっと緊張してるんだろう。なんて言ったって、桃花大学の附属高校だ。私でも知ってるくらい有名な、名門の進学校。多くの著名人を輩出してきた伝統のある女子校は、島の高校とは天と地の差があるほどに難しい。そこを受験しようと決めた詩織ちゃんに、今更ながらに尊敬の念を抱く。そして、これは賭けじゃないはずだ。彼女にはちゃんと勝算があるから受験を決めたに違いない。
「みんな遠いな・・・」
少しずつみんなが離れていく焦り。
詩織ちゃんは東京へ。椎香ちゃんは夢のために頑張ろうとしている。純君は島に残ることを決めて、そのためにお母さんとも交渉した。浩平君は頭が良い。カッキーは好きな人のために、色々と心配してる。
みんなが私とは違った大人なところがあって、それがみんなとの距離を感じさせる。
「寂しくなるんよね」
自分だけが取り残されていくようで。
「私がしたいことも分からへんし・・・」
「いいと思うよ、それで」
「そう?」
うん、と椎香ちゃんは笑う。風が少し穏やかになった。雲間から光が弱いながらも夕日が差し込んで、海でキラキラと赤く反射する。夕方だ。そして、もうすぐそこに夜がやってこようとしている。
「私だって、漠然とした動物っていうイメージがあるだけで、はっきりしてるわけじゃないし。それに、祐子ちゃんは字が上手いでしょ?書道の先生とか、色々と出来るのがあるよ」
そう言えば、書道のことなんて考えてなかった。そっか。今得意なことを活かすのもありなんだよね。
「もう五時か・・・。そろそろみんな帰ってくるかな」
部活終わって疲れて帰ってくるみんなにも、何かあげよう。この間突いたばかりのお餅があったはずだ。
立ち上がって、隣に座っていた椎香ちゃんを見る。
「椎香ちゃん」
「何?」
首を傾げる彼女に、私は笑う。
道の向こうから純君の笑い声が聞こえてきた。浩平君の呆れたような低い声も。詩織ちゃんが手を振って走ってくる。その後ろでネットに入ったサッカーボールで遊ぶカッキーの姿。
「椎香ちゃんのこと、一番心配してたのはカッキーやねんで」
「え?」
どういうこと、と続ける椎香ちゃんに私は黙って背を向ける。
そろそろ気付いてあげて。カッキーの気持ちにも。
「お帰りー!」
叫んで手を振る。
空で何かが瞬いた。一番星・・・じゃない、飛行機だ。
紫と赤が溶け合ったような空を、赤と緑の光を点滅させながら飛行機が横切っていった。
第六章 チョコレート紛争
気にしてない、と言えば嘘になる。
何も知らない風を装いはするけれど、でも、ふとした拍子に思い出して。
期待しる、わけじゃない。でも、期待してないのかと言われたら、肯定できない。
でも、仕方ないじゃないか。
朝から商店街のケーキ屋にはあれが並び、祐子の店ではこの日限定の特別商品が陳列される。それだけじゃなくて、他の店もピンクや赤のきらびやかな商品を並べ始めたら、嫌でも意識してしまうだろう。
人々は今日をバレンタインデーと呼ぶ。
「カッキー、おはよー」
「おー」
朝、いつものように純と浩平が家の前にやってくる。俺は窓の外から返事をして、顔を家の中に引っ込めた。
「んじゃ、行ってきまーす」
パソコン画面に向かってえげつない勢いでキーボードを叩く両親を邪魔しないように小さな声で言って、リビングをそっと出る。
ふと思うんだが、聞こえないような声で挨拶するのって何か違う気がする。ま、今更だけどさ。
「はよっス」
「おう」
浩平とも挨拶を交わして、いつものように海の横の道を歩く。
「そう言えば、この間詩織と海に降りたんやって?帰ったら足がずぶ濡れだったって詩織の母さんぼやいてたで」
純が浩平を見上げる。そんな話もあったな、と思って俺も純に倣う。
浩平は俺たちの視線を受けて見返したけれど、何も言うことなく歩きだした。
「おいー、何か言えよなぁ。それとも、何?何か言えへんことでもあんの?」
「別に無いよ」
「じゃあ何で答えへんねん?」
俺が言うと、浩平は顔を海の方に向けて無視しやがった。
何か言いたくないことがあるに違いない。そう確信する俺。だけど、何か浩平の雰囲気がそれ以上の問いかけを拒否しているようで、仕方なく黙ることにした。下手なこと言って殴られるのは嫌だし。何せ、相手は俺よりもずっと背の高い相手だ。振り上げた拳が下ろされたら致命傷を負うのは確実だ。短気なこいつを怒らせるのは危険すぎる。
それは純も気付いたようで、口をとがらせつつも黙り込んだ。
俺は仕方無しに何か別の話題を、と考えていた。だけど、先に口を開いたのは浩平だった。
「詩織がな、島の外に行くんちゃうか、って思ったから答え合わせしてただけや」
諦めたようなため息と同時にボソッと呟かれた低い声に、俺と純は目を瞬かせながら顔を見合わせた。
「浩平・・・気付いてたん?」
怖ず怖ずと聞く純に、あっさりと浩平は頷いた。
「まぁ、何かずっと様子おかしかったし。それに、あいつ夏休み明けたくらいから何度も進路指導室に通ってたしな」
気付かなかった。
そのことに驚きと後悔が胸を押しつける。
てっきり、詩織も一緒に島の高校に行くもんだと思っていた。だから、詩織の告白は本当に驚きだった。
詩織が言ってくるまで、俺は何も気付かなかったんだ。
「何か、結構酷いことしてたかも・・・」
純の誕生日、島の高校の話をした。あの時、純も詩織も気まずそうに視線を外していた。純の行動の理由はその後すぐに分かった。だけど、詩織のことは分かっていなかったし、気にも留めていなかった。もうあれも、詩織が島に残らないことのサインだったんだろう。
「俺も確信を持ったんは詩織と海に降りたときや。それまで何となくの予想でしかなかった。祐子と上原は知ってたみたいやけどな」
そう言えば、詩織が島の外に行くことを伝えたときも、祐子も上原もさして驚いていなかった。きっと女子の間では話があったんだろう。相談なんかもしてたのかもしれない。
「まーでも、詩織も別に気にしてへんみたいやし、ええんとちゃう?」
暢気に言って純と浩平は先に歩きだした。立ち止まった俺に気付くことなく進んでいく。
二人の遠くなっていく背中を見ながら、俺は一人考えていた。
純の誕生日の日、高校の話題をして視線を逸らせたのは純と詩織だけじゃない。三人だった。
上原も顔を伏せていた。
それが何を意味するのか、嫌な予感が水平線に見える入道雲のようにわき起こる。今にも土砂降りを降らせそうな予感が俺の中で何度も細かい拍動を繰り返していた。
「・・・カッキー?」
純が不審げに俺を見た。くりくりとした大きな瞳が小動物のように動く。
浩平は何をしているんだ、とばかりに見下ろしている。
俺は頭に浮かんだ想像を振り飛ばして、急いで二人のところへ駆け寄った。
「おっはよー!」
教室に入るや否や、純が詩織たちのところへ駆けていく。浩平は部室に寄っていくと言っていた。“荷物をわざわざ教室から部室までもう一回持っていくのがめんどくせー”からだそうだ。たった三階なんだからそれぐらい我慢しろよな。まぁ、分かんなくもないけどさ。
「カッキーもおはよ。はい」
目の前に差し出される小さな箱。もし、今日が別の日だったら何か分からずに戸惑うばかりだっただろう。
でも、今はそんなことはない。
「おー、サンキュ」
やっぱ嬉しい。今年で何年目になっても。
「大福の中にチョコクリーム入れてみてん。お父さんは邪道やって喚いてたけど」
まぁ、大福の中に苺を入れることにも文句を言ってる親父さんだしな。
「祐子はどうするつもりなん?家継いだら、やっぱ祐子の好みにするんやろ?」
聞くと、意外な返事が返ってきた。
「やっぱり、家は継がへん。瞬太と早太もいるし、家は大丈夫。だから、私は私のしたいことを探したい。それにね、結果的にうちの店が無くなってもええってお父さんも言ってんの。自分のしたいことを優先しろって」
そうなのか。
頑固そうな祐子の親父さんがそんなことを言うなんて、珍しい。
だけど、もっと驚くことがあった。
「椎香ちゃんと話してたら、私もしたいことを探さなあかんなって思ってん。椎香ちゃんな、動物に関わる仕事がしたいって言っててん」
「・・・あぁ」
それは聞いた。あの冬空の下、ウサギ小屋で。
「やけど、東京の家のお父さんとお母さんはそれに反対してはるみたいやねん。椎香ちゃん、それで悩んでるんやって」
それを聞いて納得できた。あの時の上原の言動の理由が。あいつが何か引っかかるような言い方をした訳が。
「私も椎香ちゃんに色々と相談に乗ってもらったから、何かお返ししたいし。カッキーも椎香ちゃんの手助けになるようなことしてあげて」
言われなくたってそのつもりだ。理由を知らされた以上、何か協力しなければ。それが男ってもんだろう。いや、あんまり関係ないかもしんないけど。
「ほい、カッキー」
前方から飛んでくるビニール袋。本屋の紺色の袋に無造作に入れられた小さな直方体のパッケージ。ケーキ屋で一箱三百円のやつだ。
「今年は抹茶ミルクやからな。中に抹茶クリームが入ってるんやって」
ふーん。
「どーも」
「あんまり感謝の思いが感じられへんけどなぁ・・・。あ、浩平!」
詩織が俺の背後に手を振る。
そして、その手から俺に渡されたのと同じ袋が浩平に向かって放たれた。
「あぶねっ・・・」
「ナイキャ」
見事にキャッチした浩平は、
「人のぎょうさんおる場所で物投げんなよな・・・」
ぶつぶつと文句を言いながら詩織から受け取ったものを机の上に置いた。そして、もう一方の手に抱えていた数々の箱やら袋も下ろした。ピンクや赤のリボンで丁寧にラッピングされたそれは、言わずもがな、この日限定の贈り物だ。
「うわー、これ全部もらったん?」
「え、あー、これ?何か靴箱開けたら入ってたんや。人の靴箱をゴミ箱と勘違いしてるんとちゃうか・・・」
ダルそうに呟く浩平の台詞が、嫌味にしか聞こえないのは俺だけだろうか。
「いいですねー、モテる奴は」
半眼で見上げると、驚くほど純粋に訳が分からないという表情で見下ろす浩平の目があった。
「今日は俺、別に誕生日とちゃうで」
この世の男子に二月十四日の意味を知らない奴がいようとは思わなかった。
衝撃の雷を受けて立ちすくむ俺たちの中で、浩平はぱちぱちと普段は鋭い光を放つ瞳を瞬かせた。
「あ、そうだ。はい、みんなの分」
上原が思いだしたように鞄を開く。
「昨日祐子ちゃんの家で一緒に作ったんだぁ」
通りで三人とも授業が終わるや否やさっさと帰ったわけか。納得。
そして、上原の言葉に一番敏感に反応したのは俺だと思う。待ってました、みたいな感じに思われてないかと少し不安になる。もちろん待ってたんだけど。
「冬だから大丈夫と思うけど・・・ストーブの側とか置かないでね」
教室の中央に鎮座するそれを示して上原が苦笑いした。確かにあいつの側に置いといたら、箱の中は大惨事になってるだろう。
「何入ってんの?食ってええ?」
教室の中で堂々と箱を開こうとする純を慌てて上原が押し止めた。
「待って、ダメ。教室は不味いよ」
「純、やめとき」
詩織にも言われ、渋々ながら純が引き下がる。
「なぁ、みんな。一体これ何なん?」
尚も不思議そうな浩平が黙殺されたのは言うまでもない。
放課後になり、みんなが部活に向かう頃には朝方のバレンタインムードは消え去り、いつもの寒い冬の夕方の景色が校舎を包んでいた。
今日は部活も早く終わったから、久々に早く帰れるなー、とか考えてた。なんだけど、
「カッキー、お疲れ」
純が頭の後ろで手を組んで笑った。
「よっぽどヤバいんやな。今年入って三回目やろ、進路指導室に呼ばれたん」
「四回や」
「あり、そうやっけ?」
忘れちった、と一人笑い声を上げる純の横で俺は渋面を作る。
「人事だから笑えるんだろうけど、俺にしたらちっとも笑えへんのやからな」
「そーやな」
あと一ヶ月をきった入試までの日。そうなった今でさえ担任に心配されるってのはどうなんだろう。不味いんだよな。
「カッキー、大丈夫?」
「それは俺の体を気遣ってんのか?それとも俺の頭を心配してんのか?」
じっとりとした目を向けると、あっけらかんと笑う純が俺の肩を叩いた。痛ぇーよ。
「頭に決まってんやろ!体の丈夫さだけが取り柄のカッキーの体なんか心配するだけ無駄やんかー」
「だけ、とか言うなアホ」
「違うん?」
否定はできませんが・・・。だが、それを認めるわけにもいかない。多少、本当に多少とはいえ、俺だって最近はちゃんと勉強してるんだ。
「見てろよ。お前より先に合格してやる」
「受験に順番なんかあらへんで」
そうだった。
「とにかく、お前より良い点で合格したる」
「ふーん。ま、絶望しないように精神力を鍛えとくことやな」
ケタケタと笑って歩き去っていく純の小柄な後ろ姿を恨めしげな視線で見送ってやる。
だが、ふと思い立った。
「そういや、浩平は?」
「浩平?あぁ、先帰ったで。カッキー待ってたら日が暮れるって」
いくら何でもそれはないだろ、とここにはいない浩平に異議申し立てをしてから俺も帰り支度をする。
「お前はどうすんの?」
「俺は残ってるわー。祐子が書道室の掃除手伝えって言ってたから。ほら、俺昨日掃除当番すっぽかしてたし。あ、そうや。カッキーも来て、手伝ってぇさ?」
「パス。じゃあな」
何だよー、と後ろで喚く純の声を無視して歩き出す。
掃除サボった奴の分まで働く義理はない。
すっかり陽は海の向こうに沈んで、さっきまで残っていたオレンジの光は水平線を微かに染めるだけだ。
「日暮れるの早いな・・・」
一人呟く。
何となく淋しい気がするのは、この寒々しい冬の夕方のせいだろうか。
コートのチャックを首もとまで押し上げる。マフラーの隙間から漏れる吐息が白く空気を濁らせた。
波音を聞きながら前方に目を細めると、見慣れた後ろ姿があった。あのポケットに手を突っ込んだシルエットといい、背に背負ったでっかい鞄といい、間違いない。
「こうへっ・・・」
叫ぼうとした刹那、あることに気づいて口を閉じる。あげかけた手が下にだらんと落ちた。
間違いなく先を歩いているのは浩平だ。でも、その隣にいるのは・・・。
何か話す度に動く髪。さらさらとして艶やかな黒髪を後ろで一つに束ねている。
遠くまで聞こえる澄んだ声。
スカートからすらりと伸びる足。
上原だ。
そう気づくのは簡単だった。
だけど分からない。
何で浩平と上原が一緒に歩いてるんだよ。
頭の中にクエスチョンマークが大量に浮かぶ。それらがぐるぐると回って、視界を歪ませた。
何で、上原が浩平と?あり得ないだろ。
何があった?相談ごとなのか?でも、何で俺じゃないんだよ。
続く疑問と否定の繰り返し。その中で、一つだけ浮かぶ嫌な考え。朝に考えついたこととは全く別の。でも、同じくらいに不安にさせる思いつき。
浩平と上原って、そういう関係だったのか・・・。
俺の知らないところで。
冬の夜道に、上原の柔らかな笑い声がやけに大きく響いていた。
翌朝。昨日と同じように純と浩平がやってきた。
「おっはよー、カッキー!」
バカみたいにデカい声で叫ぶ純も、軽く手を挙げて会釈する浩平も変わってない。
だけど、浩平と目を合わすのが怖かった。
浩平は俺が昨日、上原と帰っていくのを後ろから見ていたことは知らないはずだ。既にあの時は周囲は暗くなっていたし、二人から二十メートルは離れたところを歩いていた。気づかれたことはないだろう。
でも、浩平のいつもの仏頂面に何か意味があるように思えて、曖昧な返事しか吐き出すことができなかった。
「何か早いなぁ・・・。もう一ヶ月もしたら卒業やろ?」
純がしみじみとした様子で空を見上げ言った。
「そうやな」
浩平が返す。俺は黙って二人に並んで歩いていた。
「そう言やさ、渡辺が石川に告ったんやって。やっぱ、卒業とか近くなったら人恋しくなるんかなー?」
「そうかもな」
気のない返事をする浩平に、純はむぅと顔をしかめた。
「適当な返事すんなよなー。カッキーもカッキーで全然喋らへんし」
ぶつぶつと文句を垂れる純を聞き流して、浩平が俺を見た。
「どうした。体調悪いんか?」
「別に・・・」
体は別に何ともない。ただ、気分は最悪だった。
「浩平は好きな人おるんか?」
不意に尋ねた純の質問に、ドキリとしたのは俺の方だった。そっと浩平の顔を見上げると、憮然とした様子で前を睨みつけているだけだった。
「いーひんけど」
「えー、おるやろ?誰?」
「だからおらんって言ってるやろ」
嘘やー、と純が喚く。それをうるさそうに聞きながら、浩平はさっさと歩きだした。
「じゃあ、一番好きに近い女子って誰?」
「何でそんなん言わなあかんのや?」
「だって知りたいもん?誰?」
「教える気ない」
どこまでも強情な浩平に痺れを切らしたのか、純は浩平のバッグにしがみつくという強行作戦にでた。
「重いから・・・離せよ」
「教えてくれたら離したる」
何とも一方的かつワガママな言いようだが、そうされてはどうしようもないので、渋面を作ったまま浩平が立ち止まった。
「誰?」
「うちのクラス」
「それやったら分からへんやん!名前言ってや!」
クラスに女子が少ないとはいえ、そこから探すのは確かに大変かもしれない。
「イニシャルやったらええ」
「・・・まぁ、ええわ。ほんで、何?A?F?X?あれ、Xから始まる人っておるんかな・・・?」
一人悶々とする純を放っておいて、俺と浩平は先に歩き出す。
慌てた様子で純が駆け寄ってきた。
そして、
「S」
ぼそりと呟かれたそのアルファベットが、俺の中で瞬時に変換された。
Sika
上原椎香。あいつの名前のイニシャルはSだ。
分かった。分かりたくなかったけど。
「ごめん、俺先に行ってるわ」
後ろで困惑したような声をあげる純を無視して、俺は先に駆けだした。
(やっぱり・・・上原だったんだ)
浩平が好きな人も。
古い木造校舎は曇り空の下ではより一層古びて見えた。陰鬱なその建物に入って、ぎしぎしと不気味な音をたてる階段を駆け上がると、見慣れた教室が目に映った。
「あれ、カッキー。おはよ」
自席で本を読んでいた祐子が顔を上げた。その正面に座っていた詩織も俺にちらりと視線を向けた。
「上原は?」
「椎香?ウサギ小屋行くって言ってた」
そっか。あいつは生物部だ。
「どうかしたん?」
「いや・・・別に」
同時に背中に強い衝撃。
「どないしたん、カッキー?いきなり走り出して」
背中に張り付いた純が肩越しに問う。それを引き剥がしてから純に振り向く。
「何でもない。走りたかっただけや」
「ふーん」
それ以上は興味はない様子で純は詩織と祐子の間に座った。俺も鞄を自分の机に置いてから三人の所に寄る。
「あ、みんな。今更やけど、高校の合格した。ごめんな、言うのが遅なって。そんで、協力してくれてありがとう」
詩織がそう言って微笑しながら礼を言った。
俺たちは揃って顔を見合わせた。大した協力は出来てないし、いや、むしろ勉強の迷惑にしかなってなかったかもしれない。だけど、それでもお礼を言われると嬉しいようなくすぐったいような感じがする。
「おめでとう」
「まぁ、詩織ならいけると思ってたけどな」
「そやな」
俺たちの言葉に、詩織も小さく笑った。
「ありがと」
ちょっと照れたような笑顔が、いつもの高圧的な態度と違って、その様子が珍しかった。
「桃花大ってどこらへんにあんの?」
「品川区。東京湾がすぐやねん」
「へぇ・・・」
「やから、今との違いで悩まへんかな、とも思ってんの。今やって海と近い生活してるわけやし」
確かにそうかもしれない。
いきなり生活が一変したら、そりゃ混乱するだろう。だけど、どこか一箇所でも慣れ親しんだ部分があれば、気も少しは楽になると思う。まぁ、こんなド田舎から都会に出ていくだけで、俺は十分混乱しそうだけど。
そんなことを考えているとき。
廊下の向こうから聞こえる声。透明で涼やかな声と、低くて少し掠れたような声。
「あ、来た来た。おーい、コーヘイ!上原!」
純が教室の窓から顔を出して手を振る。
「純、顔出すな。危ないやろ」
呆れた風に注意する浩平に、はいはいと適当な返事をしながら純が顔を引っ込めた。同時に浩平と上原が並んで教室に入ってくる。
「聞いた?詩織が高校合格したって」
「え、スゴい!おめでとう!」
顔を綻ばせる上原の表情に、ドキッと胸が高鳴った。浩平も微笑した。
「良かったやん」
「・・・うん」
浩平の言葉に詩織が少し遠い目をしてから頷いた。
「ちょっと淋しいんやけどな」
その切なそうな表情に、一瞬だけ俺たちも目を伏せた。
だけど、次の瞬間には詩織はいつも通りの強気な顔に戻っていた。
「ま、あたしが決めたことやし。頑張るから」
「おー!」
純が勇気づけるためか、詩織の肩を叩いて頷いた。
その様子に、祐子と上原が顔を見合わせて笑った。
「私たちも頑張らないとね」
振り返る祐子に、俺たちも互いの顔を見る。
「俺は大丈夫やで。浩平もな?」
「まあな。祐子もやろ?」
「私も何とか大丈夫そう」
頷く三人の横で、俺の背中を冷たい汗が流れる。
純が俺を見る。祐子が困ったような顔で俺に視線を向けた。
浩平が俺を横目で見る。
「まぁ、一番ヤバいんはカッキーやろうな」
ギュッと手を握りしめる。
俺が一番危険だって?分かってるよ、んなことぐらい。
「昨日も呼び出されてたしな」
純がニヤッと笑った。詩織が呆れたような顔をする。上原は顔を下に向けた。それが、笑われたような気がして、体が冷えていく。
「何か最近、カッキーのこと心配やわ」
「ま、俺がカッキーに負けることはないわな」
勝ち誇ったような浩平の言葉が、冷たくなった俺の体を一瞬で熱くさせた。冷や汗じゃなく、熱による汗が背中を流れる。顔が燃えるみたいに熱くなる。
「そりゃそうやろうな。何でもかんでも、何もせんでも完璧な浩平には勝てへんし。俺とは格が違うからな」
精一杯に嫌味を込めて言ってやると、浩平が俺の正面に向いた。
「何もせんでもってどういうことや?」
「そのまんまの意味や。元から頭良かったからって、人のこと見下すなよな。まぁ、天才のお坊っちゃんには俺らのことなんか分からへんやろうけどな」
上から下ろされる鋭い視線を受け止めて、その眼を見つめ返す。怖じ気付きそうになるのを足に力を入れて抑える。
「お前は俺のことをそんな風に思ってたんか?」
素直な問いかけだった。
俺を傷つけるような意志が全く伺えないほどに清らかで純粋な疑問。だけど、その清廉さが、美しさが、逆に俺の苛立ちを募らせる。
「何か悪いか?何でもかんでも思い通りになる浩平に、どこに否定できる要素がある?」
純がオロオロと視線を俺と浩平の間でさ迷わせる。祐子と上原が俺と浩平の間に入った。だけど、身長差で見たら俺たちの方が上。
二人の頭の上で睨み合うことになった。
「大体、このまま良い大学行って、医者になるつもりなんやろ?親に言われるままに」
浩平が驚いたように目を見開いた。
知られてないと思ってたのか。アホが。
「医者になるのが、お前にとって諦めた道ってのが腹立つねん。理想のコースを歩いていけるのに、それが残念なことみたいにして。大人の言うこと聞くのが当たり前みたいな良い子に俺のことが分かるかい!」
「っざけんなよ!何も考えてへんカッキーに言われとうないわっ!適当に過ごしてるお前が!カッキーこそ俺のことが分かるんか?姉貴がおらんくなって、俺には親の跡継ぐしか道が無いんや」
ぐぅ、と喉の奥で声が出る。唸るように浩平を見ると、牙を剥いた肉食獣のような表情をした顔がそこにあった。
「俺が適当に過ごしてるって?」
「違うんか?純は親のことで悩んでた。詩織も進学のこと。みんな、それぞれ悩みがあるし、それのフォローもしてきた。けど、カッキーはいっつも何もできひんかったやんか!」
「そんなこと言うたら、詩織はめっちゃ頑張って受験して、自分の道切り開いたのに、浩平はそのまま島の高校やろ?浩平の方が適当やろ!」
浩平の目がつり上がった。筋肉の付いた逞しい腕が翼のように動き、そのまま振り上げられた。
祐子の短い悲鳴が聞こえる。純が狼狽したように手をバタつかせた。
俺は来るであろう衝撃に身を縮める。だけど、それは俺の体にくることはなかった。
その代わり、
パンッ
本当に小気味良い音がした。そして、左の頬に火傷のような痛みが走る。
「いい加減にしいや!」
肩を怒らせて荒い息をする少女の姿があった。
呆然とする浩平の頬も赤くなっている。
「あんたらで喧嘩するのはええけど、あたしらのことまで巻き込んでまでやる必要ないやろ!それに、どっちもどっち。どっちもアホや!」
珍しく激昂する詩織の様子に、今までは知らぬ振りを決め込んでいたクラスの奴らもちらちらと俺たちに視線を向けてきた。だけど、それを気にする様子も無く、詩織は俺の学ランの襟を掴んで引き寄せた。
「浩平を侮辱するんは、あたしも許せへん。今まで一緒に過ごしてきた身として、そういうことは絶対に言ったらあかんと思う」
襟を強引に押されて、俺はそのまま背後の机に座り込んだ。
次いで、詩織が浩平の袖を掴んで下ろす。
「浩平もや。自分のことでモヤモヤしてるんを、カッキーにぶつけるのは筋違いやで。アホなことせんといて」
さすがの浩平も、詩織に言われては言い返せないようで黙ったまま俺を睨んでいた。
そして、
「アホはカッキーの方や」
ぼそりと呟くだけだった。
「あ?何か言ったか!」
はっきりと聞こえたさ。
どうせ、俺はアホだろうよ。高校受験すら危ぶまれるような。でも、そのことで浩平にバカにされるのは嫌だ。
「親に自分の気持ちも伝えられないような奴にアホ呼ばわりされたない!」
「それはこっちの台詞やな。好きな人に何も言えへんような奴に」
これには何も言えなかった。
気づかれてたんだ。そのことが悔しくて、爪が食い込むぐらいに手を強く握った。
そして、同時に理解した。
俺が何でこんなに浩平に腹が立つのか。
「好きなんやろうが」
上原のことが。言われなくても分かってる。
そして、俺は浩平に嫉妬してたんだ。あれだけの距離を普通に歩ける浩平に。やたらとモテるこの男に。
「あんたらホンマにいい加減にしいや!」
詩織が叫ぶ。そして、血走った目で俺を見た。
「あんたが何も言わへんのも悪いんや!あたしもそれにはイライラしてた。でも、浩平!それを言うのもアウトやろ!」
そっぽを向いたまま浩平は上原を見た。
「上原、気づいてるんか?」
「・・・え?」
突然話しかけられた上原は戸惑ったように俺たちを見た。
まさか・・・。俺のその予感より先に、浩平は口から効果絶大の爆弾を放っていた。
「カッキーが好きなんは上原なんやで」
純が口をパクパクさせる。祐子は目を伏せた。
その中で、上原は時間が止まったように動かなかった。だが、その口が徐々に開いていき、狼狽えたようすで周囲を見回した。
俺は何も出来ず、浩平に怒鳴る気力すら起きず、その場にへたり込んだ。
「浩平!」
短く叫ぶ詩織の視線を受け流し、浩平は天井を見上げる。
「わ、私・・・でもっ・・・」
上原は首をガクガクとさせて、何度も俺たちを見回した。そして・・・。
「椎香!」
開け放たれた教室の扉。その向こうに消えていく上原の姿。
その様子を俺は呆然と見送った。だけど、ぼうっとしていたのも一瞬だった。
「椎香が動揺すんのは目に見えてたやろ!あんた、何がしたいん?!」
詩織が浩平に怒鳴る。浩平はそれを黙って聞いているだけだ。
「カッキー・・・」
祐子が泣きそうな顔で俺の隣にしゃがんだ。
「椎香ちゃんな、別にカッキーのことが嫌わけやないと思うねん。けど、ずっと悩んではって・・・」
祐子が要領を得ないながらも、絞り出す言葉。俺はもう一度強く唇を噛みしめた。チリチリと頬が痛む。
予想はついてた。そして、その悩んでいる内容は・・・あの時々浮かべる暗い表情とやっぱり無関係じゃなかったんだ。
「今なら・・・間に合うやろか」
呟く。
今なら上原に追いつけるだろうか。逃げるあいつを捕まえることが出来るだろうか。
「俺を追っかけたあん時のペースやったら大丈夫。カッキーめっちゃ怖い顔してたから、ビビられんように気ぃつけや」
純がにひっと笑って見せた。
祐子が小さく頷く。
「先生には上手く言っとくから」
詩織に頷いて、俺は教室を飛び出した。
出ていき様に見た浩平の顔が、どこが傷ついたような落ち込んだような顔つきで、俺もちょっとした後悔を抱く。言い過ぎた、と胸がちくりと痛んだ。
だけど、すぐに頭を振って上靴を放り投げて靴箱から運動靴をひっ掴んで門を出る。
上原の後ろ姿は道の向こうで小さく見えた。だけど、届かない距離じゃない。
今走り出せば、絶対に間に合う。追いつく。
いや、追いついてみせる。
まだ何も俺から伝えてないのに逃げられるなんて、絶対にごめんだ。
灰色の海がテトラポッドにぶつかって砕ける。白い飛沫が堤防を濡らす。制服に数滴飛んでくる。
天気は悪い。けど、雪が降りそうなほどに曇ってるわけじゃない。
冷える手を強く握ると、チリッとした痛みが走った。掌を見ると、爪の形に切り傷ができていた。さっき握ったときにできたらしい。
三日月型の血がすっと滲む。
その形を崩すようにして手を握りしめると、すっかり点になってしまった影に向かって全速力で駆けだした。
第七章 約束
もうここに来て二ヶ月以上も経つのに、地理を全然覚えていない。あて無き冒険、と言うと格好いいけれど、実際はとにかくひたすらに走っているだけだった。
せめて上にコートを着てくるんだったと走りながらに後悔する。
首筋や足首を吹き抜けていく風がどんどん体温を奪っていく。
どうしよ・・・。
混乱した頭のままで何も考えずに飛び出してきてしまったけど、その後のことなんか考えてなかった。
どうしよう。
さっきから何度も繰り返した疑問が頭の中で点滅する。
(カッキーが・・・私のこと)
冗談なんて思えない雰囲気だった。だけど、言われてる内容は冗談でしょう、としか言いようがなくて。
だって、だって・・・。
そもそも、カッキーがそんな素振りすら見せたことがなかったのに。それがいきなり、そんなこと言われたら。
(どうしたらいいか、分かんないよ・・・)
今までそんな風に見たことがなかった。ただ、仲のいい男友達だと思っていたのに。
その思いを受け止めたとき、どう返せばいいのか分からなかった。自分に向けられた感情を怖いとさえ思ってしまった。
今、どこを走っているんだろう。
羅針盤が壊れた船のように、行くあてなど無く走り続けていた。学校の行き帰りと、近くの店までの道のりしか覚えていない。ここはどこなのか、見当がつかない。
「海だ・・・」
田んぼと家しかなかった風景が一瞬で灰と白に変わった。波の音が急に強くなって、潮の香りがつん、とした。
そして、目の前には白い灯台が孤立していた。辺りには人の気配がない。
同時に数ヶ月前の記憶がフラッシュバックした。
沈んだ気持ちで見つめた海の向こうに見えたあの灯台は、これに間違いない。寂しげに、灰色の海に突きだして立っていた。それを自分と重ねていたことも蘇ってくる。
灯台の下には、ちょっとしたスペースがあって、すっかり塗装のはげ落ちたベンチが風に吹かれていた。
制服が汚れる、と気にするよりも先に腰を下ろしていた。
古びたベンチは座った途端に軋んだ音をたてた。
寒い。けど、動く気にもなれなくて、私は寄せては返す色あせた海を眺めていた。
ケータイ、持ってこれば良かった。
何も考えずに飛び出してきた自分を呪った。それ以前に、好きだと言われて逃げてきた自分が恥ずかしくなる。
頬にかかった髪を払って、前を向くと、遠くの方で何かが光った。
何だろう・・・。
よく見ようと目を細めたとき、
ガシャッ
金属の何かが乱暴に動かされたような音がした。驚いて振り返ると、私に向かって走ってくる誰かの姿。
「んなとこにいたんかよっ・・・!」
身を強ばらせる。
だって、前にいたのは・・・、
「カッキー?」
「あ?」
息を荒げながら睨みつけるように顔を上げたカッキーに、私はベンチに座りながら後ずさりした。とはいっても、ベンチの長さなんてせいぜい一メートルと少しぐらいしかないから、自然とベンチから離れる形になってしまった。
カッキーはというと、相変わらず何度も早い呼吸を繰り返して息を整えてから、
「上・・・原・・・」
地獄の底から聞こえてきたんじゃないかと思うぐらいに低い声音で吐き出された言葉に足が竦んだ。だけど、それも一瞬のことで。
逃げたい。
なぜだか分からないけれどそう思った。逃げたい。この場から。一刻も早く。
「ごめん、カッキー!」
短く叫んで体を反転させる。走りだそうと足を踏み出したとき。
「待たんかい、コラッ!」
怒声と共に腕を乱暴に捕まれた。悲鳴をあげそうになるのを何とか堪える。
「・・・何で逃げんねん」
さっきと変わらず低い声。だけど、そこに悲しそうな響きもあって。振り返ると、静かなほど凪いだ目がそこにあった。
「何でや」
全ての感情を押し殺したような静かな問い。だけど、そこに込められたものが虚無じゃないのは私にだって分かった。
それに私は、何も言えずに俯くことしかできなかった。重苦しい、冬の空みたいに重量のある空気が降りた。その間、頭の中を色々な思いが浮かんでは消え、浮かんでは消え、何度も何度も連鎖を繰り返す。
私はどうしてこの人が怖いんだろう。今まで何とも思わなかったのに。仲のいい友達だったのに。
なのに、今はこんなに恐怖を感じる。目を合わせるのが怖い。捕まれた腕から体が冷えていく気がする。
ぐるぐると回転を続ける思考と、ぐんぐんと冷えていく身体。
助けて。
詩織ちゃん。祐子ちゃん。誰でもいい。今、この恐怖を取り除いてくれるなら誰だっていい。
ねぇ、誰か。
目を閉じたとき、詩織ちゃんの必死の形相が脳裏をよぎった。カッキーと浩平君の喧嘩の仲裁に入ったさっきの姿が。
それで分かった。
私が怖かったのが何なのか。
「怖いの・・・」
「怖い?何が?俺のことか?」
違う。違うんだよ、カッキー。
私が怖いのはカッキーじゃなかったんだ。
「カッキーのね、感情が怖いの」
真っ直ぐに刺さってくる感情が。
何の迷いもなく、誤魔化しのない思いが。
何の準備もできていな私の心には重すぎたんだ。
突然、浩平君から告げられた時、カッキーの目を見て、それが嘘じゃないんだって分かった。分かったからこそ怖くなった。
「真っ直ぐな思いがね」
言動だけじゃなくて、純粋な感情だって人の心に直接的な傷をつける。それがどんな感情でも、たとえ愛情や友情であろうとも、剥き出しの思いはやっぱり怖い。
カッキーは分かってくれるかな。
少しだけ顔を上げて、彼の表情を伺おうとすると、不意に手が離された。熱かった手首が一瞬で冷たくなる。
「怖かったんやったら・・・ごめん」
「や、違うの!カッキーが悪いんじゃなくて・・・」
むしろ、私の方こそカッキーを傷つけてしまった。でも、向けられた思いの強さにまだ慣れずにいる。
「私、本気で人と向き合うのが無理なの。怖い、って思っちゃって、結局何もできないから・・・」
将来の話をするお父さんやお母さんに、ちゃんと話せなかった。私のしたいことを伝えることもできなくて、結局この島の祖父母の家に逃げるように来てしまった。
「親にも、何も言えないし・・・。期待されてるって思ったら、なんだか苦しくて」
よくないことなのくらい分かってる。でも、それでも、そうせずにはいられなかったんだ。人と真正面からぶつかっていくことなんて、私にはできない。
「上原」
強く、普段のカッキーの声よりずっと重くて強い声が聞こえた。
驚いて竦んだ私の体を抱くように腕を組んでみる。指先に力が入って制服に皺を作った。
「でも、それもどうしようも無いんや・・・。上原に怖いって思われるんは嫌やけど・・・、でも、そんぐらい、その・・・」
カッキーの視線が波打つ海に向いた。いや、逸らされたと言った方がいいかもしれない。不自然に視線を動かしたカッキーは、それでも私にもう一度視線を戻した。正面からぶつかりあった視線同士が一瞬だけチリッと爆ぜた。また恐怖が蘇ってくる。目の前にあるのは、何でもない本気の目だ。
「俺は・・・好きなんや」
上原のことが。
分かってた。浩平君に言われたときから。どのくらい本気なのかも。
「でも・・・私・・・」
そのまま下を向く。その真っ直ぐな目を避けるように。向き合う恐怖から逃れるために。
「言ってたやろ、お前。将来動物関係の仕事に就きたいって。あん時のお前やって、強い目をしてたやん」
「でも、あれは・・・」
「上原はちゃんと叶えたい夢があるんやろっ!そんだけ強い想いがあるんやったら、本気でぶつかってくる相手を、何で怖がる必要があんねん!」
突然激しくなったカッキーの口調に身が竦む。そのことに気づいたのか、カッキーも一度口を閉じた。
そして、一度息をついて私の前に立った。
「どうするんや?ずっとここにいるつもりか?」
逃げ続けるのか、そう聞きたいんだ。
分かってるけど。
「自信がなくて・・・。私がそんなこと言ったら、みんな困るから・・・」
「自分のしたいことやればええやろ。誰かにずっと気ぃ使ってくなんて間違ってんで。上原は俺と違って、ちゃんとしたいことがあるんや。せっかく持った夢を押し殺すなんてことすんなよ」
「うん・・・」
「それにな、上原が東京に戻ったとしても・・・」
少しだけカッキーの声が小さくなった。何でだろう。不思議に思って顔を上げると、後ろを一瞥してカッキーが笑った。
「俺らはちゃんと待ってるから」
椎香ちゃーん!
遠くから声が聞こえる。カッキーの後ろから走ってくる四つの影。
手を振っているのは祐子ちゃんだ。
「ひとまず帰ろう。授業は遅刻確定やけど・・・」
「ごめんなさい」
「や、でも、俺も半ば原因やし・・・」
苦笑いするカッキー。だけど、その表情に少しだけホッとして。
笑う顔を見ると安心するんだ。
「椎香!カッキー!戻るよ」
詩織ちゃんが叫んで手を大きく振る。
私も手を振り返す。
「良かった。カッキーと一緒におったんやな」
安心したように言った純君がニヒッと笑う。祐子ちゃんも首を少し傾けてから笑った。
「カッキー・・・」
「あ?」
浩平君がカッキーを見下ろす。
純君と祐子ちゃんが黙った。
さっきの教室みたいな冷たい空気が下りる。
緊張の糸がぴんと張りつめる。今にも切れそうなその雰囲気に自然と手を握りしめた。今も・・・少し怖い。
でも、カッキーに言われたから。
同じくらい強い思いがあるなら、マジの相手を怖がる必要なんか無いって。
その言葉が私から恐怖を完全に取り除いてくれたわけじゃないけど。でも、人と向き合うことの糸口は見えた気がする。
「悪かった・・・ごめん」
浩平君が言う。いつもの低くて少し凄みのある声が、若干弱くなった。
カッキーも視線を逸らす。
「俺もちょっとカッとして・・・。ごめん」
カッキーと浩平君が揃ってバツの悪い顔をして笑う。
「まったく、素直に謝れないなんて・・・」
あたしがどんだけ苦労したことか。
そう言って詩織ちゃんは腕を組んだ。でも、それもすぐに笑顔に変わる。
「ま、仲直りしたならええわ。戻ろっか」
みんながぞろぞろと来た道を引き返していく。
「行こう、上原」
「うん」
カッキーに促されて、私も歩き出す。
「俺は・・・動物好きやで」
「え?」
不意に呟かれた言葉に反射的に顔を上げたけれど、カッキーは黙って海の方を見ていた。でも、ちらりとこっちを見て、また慌てて海の方を見たから、それが気のせいじゃなかったことに気づく。
それが私に小さな勇気をくれた。拳を強く握りしめる。
「みんな、待って・・・」
先に歩いていく四人の背中に声をかけた。
きょとんとした顔で振り返ったみんなに、私は口を開く。
「わ、私・・・やっぱり一回帰ろうと思う!ちゃんと、ちゃんと家族と話してくる!」
祐子ちゃんが頷いた。
「それがいいと思うよ」
「俺たちずっと待ってるで」
「うん、ありがとう」
家族のところに帰ろう。
ちゃんと話をしよう。
そして、戻ってくるんだ。
みんなが待っていてくれる、この場所に。
終章 再来
いつもと同じ制服。
いつもと同じ靴。
いつもと同じ通学路。
毎日のことで、慣れすぎて、飽き飽きしたことばかり。
だけど、その“いつも”が今日で最後なんだと思うと、途端に寂しくなるっていうのはどういうことなんだろう。
「カッキー、卒業式の日くらい寝癖直して来たらええのに」
腰に手を当てて文句を言う詩織も同じだ。でも、その詩織とも今日が最後。次に会うのはいつだろう。
「ほら、ちょっとじっとしててや」
手早く髪の毛を直す詩織に、相変わらず器用だと舌を巻く。浩平が呆れたような顔をして歩いていく。純と祐子は顔を見合わせてから歩きだした。
「カッキーはそもそも面倒くさがりやねん。もうちょっとやることやらへんかったらあかんで」
「はいはい。ったく、うっさいなぁ」
「何か?」
「・・・別に」
正面から天下の詩織さんと戦おうとした俺が悪かったですよ。
けれど、言われっぱなしも嫌だったから、一矢報いようと口を開きかけた時。
「海がきれいやな。絶好の卒業式日和や」
堤防の上に身を乗り出して純が言う。同じように向こうを見て祐子も頷いた。
「なぁ、ちょっと下りてみいひん?」
詩織の提案に、誰ともなしに階段を下りていた。
よく晴れた空が水平線まで続いている。空と海の境界に船が浮かんでいるのが小さく見えた。あれは本土と隣島を結ぶ連絡船だ。
「三年前の夏にあれに乗って神戸行ったよな」
目を細めて純が言う。
「カッキーと浩平君が迷子になったんだっけ?」
「変なこと思い出すなよなー」
祐子に苦言を呈してみるものの、自分でも懐かしくなってきて。
「今まで、よく船に乗ったよね。何回だっけ?」
「数えられへん。覚えてへんのもあるし」
それでも、俺たちの巣はこの島なんだ。俺だけじゃなくて、この島にいた、みんなの。
春には・・・卒業式までには戻ってくるよ。
島の港から旅立つとき、あいつはそう言って桟橋から船に乗っていった。あれから一月が経とうとしている。その間、一切連絡は無かった。
「戻ってくるで、きっと」
詩織が足下の丸くなったガラスを蹴った。ポシャンと小気味いい音をたててどこからか流されてきた緑のガラスは海に沈む。
「だから、あんたもそんな待ち遠しいような顔やめぇ。待ってるのはみんな同じなんやから」
まったく、勝手に人の心情を想像するのはやめてほしい。人物の気持ちを考えるのは国語の問題だけで十分だ。
「大丈夫。椎香はちゃんと戻ってくるって」
そうとだけ言って、詩織が振り返った。
「みんな、行こう。あんまりのんびりしてて遅れたりしたら洒落にならへんし」
「そうやな。行くか」
流れてきた海藻をつま先でつついていた浩平と純が堤防へ続く階段を上っていく。
スカートの裾が地面につかないように気をつけながらしゃがんでいた祐子も立ち上がった。
「行こっか」
高校はここより山側にある。
だから、この道で学校に通うのは今日で最後。
そのことをみんなよく分かってる。
「なぁ、ちょっと港に寄って行かへん?」
集合時間には結構ギリギリなのに、詩織が突然そんなことを言い出した。
いつもだったら真っ先に俺が反対していた。
だけど、
「ええんちゃうか。行ってみようや」
なんて。
何となく、期待していたんだ。
海の向こうから舞い戻ってくるその姿を。
「ほんまにええ天気やね・・・」
詩織の髪が風に揺れる。それを耳の後ろのかけて、詩織が桟橋に踏み出した。端正な横顔を白い光が照らす。
詩織がここに来たいと言った理由が少しだけ分かった気がした。
旅立つ前に確認していきたかったんだ。自分が羽ばたいた場所を忘れないために。帰ってきたときのために。完璧主義の詩織らしいことだ。
遠くから船が近づいてくる。漁船だ。知らない旗が揚がっている。きっと本島か隣島のだろう。
詩織が凪いだ目で海を見つめている。その様子が、どことなく声をかけ辛くて、俺たちは黙っていた。
「どうすんの?遅れんで」
純が不安そうに忠告するけれど、
「しゃあない。詩織の気が済むまで放っといてやれ」
浩平がそう言って、俺たちは詩織から少し離れた桟橋の隅に座って海を眺めていた。
遠くにいた漁船はいつの間にかすぐそこに来ていた。
そして、それもやがて港に入ってくる。
潮風が一際強く吹き込んだ。
それに煽られて漁船に乗った人物のポニーテールが跳ね上がった。
心臓がとくりと鳴った。
「終わったんやな・・・」
感慨深そうに人もすっかり疎らになった正門前で純が呟いた。
俺と祐子も言葉にこそしないものの、同じ思いだった。
これで俺たちの中学生活は終わったんだ。長い人生のたった三年間でも、振り返ってみれば短い時間でも、今を生きている俺たちにしてみれば、それはとても長い時なんだ。
「そういや、浩平と詩織は?」
きょろきょろと周囲を見回す純に、祐子が海の方を指さした。
「浜辺。何か、式が終わった途端に二人で歩いて行っちゃった」
「ふーん」
純は適当に相づちを打って、ぶらぶらと桜並木の下を歩き始めた。花は満開を過ぎて、少し散り始めているものの、それでも十分に春らしさを見せつけている。目の前を落ちてくる花弁を摘んでは飛ばすことを繰り返していると、校舎の方から見慣れた人影が歩いてくるのが見えた。
「おーい、椎香ちゃん!」
こっちこっち、と手招きする祐子に、上原も手を振る。
この学校の制服を一ヶ月ぶりに引っ張りだしたという上原は、それでもブレザーもスカートも綺麗に整えられていた。
「お待たせ」
そう言って船から下りてきた少女は間違いなく上原だった。この一ヶ月の間、全く見なかったのに、その声を聞いただけで、上原なんだと実感できた。長い時間みたいだったけど、たった一ヶ月。簡単に忘れるはずもない時間だけど、俺にしてみたら長かったんだ。
「やっぱり、みんなと一緒に卒業したかったの。少しの時間だったけど、みんなと一緒にいるのが一番楽しかったから・・・」
それを聞いて、俺たちは顔を見合わせた。みんなのきょとんした顔が徐々に笑んでいく。
「お帰り」
口をそろえる俺たちに、上原も同じ笑顔で返してきた。
「これでみんな揃ったし、行こっか」
詩織が先立って歩いていく。
続いて祐子と椎香。
詩織の背中を見て思った。こいつは、上原が戻ってくることも、全部知っていて、それで港まで行ったんじゃないだろうか。
誰のため?
ひょっとすると、だ。もしかしたら、なんて。
まぁ、あの女王様気質の詩織に限って、そんなことないだろうけど。
俺のために気を遣ってくれたなんて。
「ええんか?みんなと一緒におらんで」
防波堤に座って、海を眺めている傍らの女に声をかける。だが、返事は無い。まぁ、期待してなかったけどな。
卒業式が終わり、クラスでの記念撮影が終わるや否や、詩織は俺に、付いてきて、と一言だけ言ってから、さっさと歩きだした。カッキーや純たちから一緒に写真撮ろうとも言われていたのだけれど、何となく詩織のことが心配で、気が付くと歩きだした。
そして、今に至るというわけだ。
「東京はここよりも星が少ないんやって。椎香が言ってた」
「へぇ」
そう言えば前にあっちにいる親戚に聞いたことがある。空気とか、周囲の光とかが関係するそうだ。
「かなり明るい星やないと、一人で観測するのは難しいって」
「ふーん・・・」
もうちょっと気の利いたリアクションの一つでもしてやりゃいいんだろうけど、生憎ながら俺はそう言った才能を持ち合わせていない。そう言うのは、お調子者の純の仕事だ。
「ねぇ、浩平」
「あ?」
「やっていけると思う?」
何?
意外な言葉に、俺は顔を上げた。
詩織は相変わらず海を見つめている。
「あたし、あっちで上手くやってけるんやろうかな、って。たまに思うねん」
「・・・・・・」
学校の方から聞こえる喧噪が遠くなった。海の音だけが聞こえる。
「なぁ、浩平?」
詩織が顔を向けた。風になびいた髪が顔にかかる。それを払いのけて、詩織が首を横に小さく傾げる。
大きい瞳がどこか揺れているように感じた。水の膜でも張っているかのようにブレている。
「あたしが自分で決めたことや。誰の指図でもない。でも・・・、やからこそ、責任もあって・・・。ほんまは、恐いんや。ここから出ていくんが」
あたしはここしか知らんから。
初めて聞いた詩織の弱音だった。
いつも毅然としていて、余裕たっぷりで、みんなを先導していく詩織が。
だけど、それをどこかしらで気づいていた自分もいる。詩織が何となくそう感じていたことを知っていた自分の存在がある。
あぁ、あれだ。純が島を出ないといけないかもしれないと言ったとき。
詩織だって作り笑いのような顔をしていた。
「あたしにとって、この島の外は何も分からん場所やねん」
受験を決めたその時から、詩織はそれを覚悟していた。
だけど、覚悟していても、それをいざ目の前にすると誰だって怯んだりするだろう。カッキーの目に怯えた上原や、両親の離婚の危機に気づいた純のように。
「見せつけたかってん。あんたに」
「俺に?」
何をだ?
俺がお前に勝てることなんて、数学と英語ぐらいなもんだろうに。
「自分で物事は決めるもんやって。あたしの人生を動かせるんは、あたししかおらんのやって・・・。でも」
それも無理かもしれへん。
無理矢理に作ったような笑顔をする詩織の白い頬に日の光を反射する筋が走った。
透明な滴が防波堤の岩に落ちて、乾いた岩に丸い点を作る。
次々とできていく点が、岩に奇妙な模様を描いていく。
俺の頭はその光景を前に混乱するだけだった。
どうすりゃいいんだ・・・俺は。
そして、その原因も自分にあるような気がしてならない。俺の考えが、こいつに無理をさせていたのだとしたら。
「でも、凄いことやで」
「何が?」
「自分でちゃんと受験して、勉強して、合格したんやろ。親に言われて、姉貴みたいにならんとこって思ってた、俺とは全然違う」
「でも・・・やっぱ勇気出えへん」
「別にお前は出ていくわけとちゃうやろ!」
つい怒鳴っていた。
怯んだように詩織が手を引く。
しまったな、と内心頭を抱えた。
ついつい熱くなるのはカッキーに影響されたんだろうか。落ち着け、俺。
息を大きく吸う。そして、もう一度詩織を見た。
「詩織は出ていくんとちゃうくて、単にちょっと向こうに行くだけやんか。帰ってくる場所は、ここやろ?」
みんなにとって、ここが帰ってくる場所。そんなの、俺たちにとったら当たり前のことだ。
「やから、帰って来いよ。この島に」
詩織がこくりと頷く。幼子のように素直な仕草だった。
「手紙、書くな。向こうは校内で携帯の使用禁止やし、あんまりメールも電話もできひんかもしれへんから・・・」
「うん、分かっとる」
ようやく詩織が顔を上げる。その顔が、ようやく自然に笑んでいることに気づく。
「返事、書いてや」
「分かった」
「ちゃんと読める字で書いてな」
「誠意努力します」
悪かったな、汚くて。
そう呟いて、笑ってみる。
詩織もそれに合わせて笑った。涙の筋を残しながらも、それでもやっぱり詩織は綺麗だった。
美人面に幼いころから慣れ親しんでいた俺は、この先どうすりゃいいんだろう、なんて考えながら海を見る。
そして、立ち上がる。防波堤には誰もいない。釣りに来てる近所のおじさんたちも今日はいない。
同時に携帯がメールの着信を知らせる。
早く戻って来い、というカッキーからのメールだ。
「詩織、帰ろうや。カッキーたちが呼んでるで」
言うと、詩織も頷いて立ち上がる。そして、スカートの裾についた汚れをはたくようにした。
潮風は今日も心地いい。
詩織は少し眉を下げて、
「最後に、ちょっと待って」
そう言って、盛大な深呼吸をした。まるで、この海の空気を肺いっぱいに吸い込むように。向こうに行っても忘れないようにするかのように。
俺も真似して深呼吸してみる。
普段と変わらないはずの空気がひどく清々しい。
卒業式、だからなのだろうか。
「行こう」
「そうやね」
詩織と並んで浜へ戻る。
こいつの旅立ちはもう明日だ。荷造りは済んでるらしい。
そう考えると、心に穴が開いたような気がする。こいつには今まで散々呆れさせられてきたのに。ガキの頃から一緒の、幼馴染、というだけのはずなのに。
「なぁ、浩平」
「何や?」
問うてから下を見ると、強い視線で見上げる詩織と目があった。
「ちょっとでええ。じっとしてて」
同時に詩織が突進してきた。俺はとっさに後ずさろうとするが、足が思うように動かず、その場で動けずにいて。
詩織の頭がちょうど俺の胸の位置にくる。
「ごめんね」
何に対してか分からない。
ただ俺は、どうしようもない両の腕を垂らしながら詩織の髪を見つめていた。果物のような甘い香りが詩織からする。
「どうしたんや・・・」
そう言った瞬間。
詩織の拳が俺の胸に突き立てられた。
「ぐっ・・・」
呻く声と同時に。
ブチっ
何か糸が切れるような音がして。
ブチっ
ブチっ
ブチっ
そんな音が連続して。
何があったんや・・・?
一人当惑する俺を他所に、詩織の体が離れた。
同時に広がる学ランの前。
見ると、金色のボタンが一つ残らず無くなっていた。
「おまっ・・・」
声に詰まる俺に、詩織は肩を竦めて舌を出した。
「ええやろ、もうそれ着るのも今日が最後なんやし」
詩織の両手に握られたボタン。
俺は呆けたように立ち尽くす。
「お守り代わりに持たせてよ」
そう言って詩織が走り出したから。
「第二ボタンだけのつもりやったのに・・・堪忍な」
そんな詩織の言葉が風に乗って聞こえた後、俺の足も自然と駆け出した
「・・・そういうのは、もうちょい早めにしてほしかったわ」
お前が次帰って来るまで、それまで待てっていうことなんか。
「やっぱり凄く反対された。でも、あんまりしつこく言うもんだから、お父さんもお母さんも呆れちゃって。で、浪人なしで大学に合格出来たらいい、って言われたの」
ウサギ小屋の前で上原は言った。
シロは上原からもらった人参を咥えてご満悦だ。
「だから私、やってやろう、って思ったの」
「そっか。良かったやん」
分かってもらえたんだな、親に。
みんな夢に向かって走り出したんだ。
詩織は明日旅立つ。後で寄せ書きを渡す予定だ。
祐子は和菓子作りをする傍ら、詩織の両親に料理も教わっているらしい。
純は色々な仕事を調べてる。前は芸人も面白そうだ、なんて言ってた。
浩平は医者になって小児科を開くと言っている。この島を子供も過ごしやすい場所にしたいそうだ。ちゃんと俺の意思だからな、と詩織に言ってる様子に、前のことを根に持ってるな、と分かって思わず笑ってしまった。
で、俺はというと、まだ何も決まってない。
将来、何になりたいか。そんな未来の自分、全然描けない。
だけど、したいことならある。
この島を守っていきたい。
詩織だけじゃなくて、この先、この島を出ていく誰かが、帰って来る場所があるように。故郷を守っていきたい。
それが俺の夢、なんだと思う。
「ありがとね、カッキー」
澄んだ声は、俺の心をきゅっ、と締め付けて離さない。
おう、だか、あぁ、だか分からない返事をして前を向く。
そしたら、小さく笑う気配があった、上原も立ち上がった。
「行こっか」
「そうやな」
今日は詩織の家で中学卒業&高校全員合格祝賀会だ。料理は詩織の家のおじさん、おばさんが腕によりをかけて作ってくれるらしい。考えるだけでも腹が鳴ってくる。
学校を出て、海の横の道を通る。明日からこの通学路は通らない。高校は山側だからだ。
商店街の反対側の道を通って通うことになる。
「一緒の学校だね」
「やな」
また、上原と一緒に学校に通える。
それがすごく嬉しい。
並んで商店街を歩く。
詩織の家はもうすぐそこだ。
「飯、どんなんやろうな」
「楽しみだね」
そう言って笑い合った時、不意に上原が俺に言った。
「良かったね、やりたいことが見つかって」
「あぁ」
俺の話を、みんな馬鹿にしないで聞いてくれた。
浩平でさえ、ええんとちゃうか、なんて言って笑ってくれて。
「私、ここに戻って来た時、すごく嬉しかった。帰って来たんだって思えたの。この島にいたのなんて、ほんの三ヶ月なのに。だから、他の人にもそう思ってほしい。カッキーの夢、応援するよ」
「・・・おぅ」
素直にありがとうも言えない自分に自己嫌悪。だけど、それでも、上原は分かってくれたらしい。いつもみたいに暖かい笑顔をした。
そして、
「私、今は目標があるよ」
「え?」
思わず立ち止まった俺に、
「みんなと本当に仲良くなること」
「今だって仲良いと思ってるで」
何を当たり前のことを、と思ったのだけれど。
「違うよ。みんなみたいになりたいの。私はみんなと一緒にいた時間なんて、みんなに比べたらほんの少しだけど、だからやっぱり羨ましいな、なんて。カッキーが詩織ちゃんとか祐子ちゃんに話してるのみたら思っちゃうんだ」
そう悪戯っぽく笑った。
そこで俺はハッとする。
何だ、そういえばそうじゃないか。
「おーい、カッキー!椎香ちゃん!」
向こうで祐子と純が手を振ってる。
詩織と浩平も詩織の家から出てきた。
「今行く!」
上原が駆け出した。
俺はその背中に叫ぶ。
「椎香!」
上原の足が止まる。
驚いたように俺を見るその顔に言ってやる。
「これでいいんやろ?」
自信満々に胸を張ると、上原は相貌を崩した。
「ありがとう、カッキー!」
遠くの潮騒が大きく聞こえる。
俺は向こうに見える仲間のもとへ大きく足を踏み出した。
瀬戸内センチメンタル
普段、関西弁を使う者として、西日本の言葉は似ているようでどこか違う雰囲気があるので、チャレンジしてみましたが、結局、かなり違和感のある言葉遣いになってしまいました・・・。言葉についてもっと上手に使いこなせるようになりたいものです。