憧れ
放課後はまっすぐ音楽室に向かうのがわたしの日課だった。教室のある四階まで階段を上りきり、ドアノブに手をかけたところで、中から声が聞こえるのに気が付く。先客がいたらしい。厚みのある扉を押すと、今度ははっきりと歌声が聞こえてきた。
「……今日こそは一番乗りだと思ったんだけどな」
ぴたりと音楽が止まる。静かになった教室でミチルはひとり、キーボードを運んでいた。
「先生の話が早く終わったの」
「それにしても、電気くらいつければいいのに」
あいにくの曇り空のせいで、教室はぼんやりと暗い。ミチルの白いシャツだけが不自然に浮かび上がって見えた。
「わたししかいなかったし、もったいないかなって」
そう言ってミチルは近くのキーボードを叩いた。ラの音。続いてそれに重なるように彼女の声が響く。わたしも適当にキーボードを引っ張り出して、発声練習を始めた。教室にはグランドピアノも置いてあるけれど、自分一人で使うにはあまりに立派すぎる。
――美しい声は美しい姿勢から。先生が口癖のように言っていることだ。ミチルはその教えを、部内の誰よりも真面目に守っている。今だって、お手本みたいに胸を張って、顎を引いて、ぴんと背筋を伸ばしている。
しばらくのあいだ、わたしたちはそれぞれで練習をしていた。二人きりの教室、お互いに声を出しているのに会話にはならなくて、妙な気分だった。
いつのまにかミチルは発声を終えていたらしく、楽譜を取り出して何やら歌い始めた。聞き覚えのあるメロディーだ。この曲はなんだっけ。なんとなく合わせて歌ってみる。曲名は出てこないのに、不思議と歌詞やメロディーは覚えていた。彼女はソプラノの主旋律で、私はメゾソプラノ。低音パートのいない旋律は不安定で、それでもちゃんと合唱になっていた。二人もいれば、それで十分だった。
合唱をするうえで大切なのは、いかに声をそろえられるかだと聞いたことがある。そういう意味では、わたしの声は合唱向きなのかもしれない。これといったクセもなく、馴染みやすい声。けれど時々、自分はいてもいなくても変わらないんじゃないかと考えることがある。馴染んで、溶け込んで、消えてゆく。個人の声が混ざり合って一つの音楽を作りだす。その瞬間を目指しているはずなのに、どこかにわたしという存在が残っていてほしいと思ってしまう。だから今みたいに、自分の声がそのままで聞こえると安心するのだ。
気が付いたときには最後まで歌いきっていた。まだほかの部員は来ていない。窓の外もどんよりと曇ったままだ。
「やっぱりコーラスが入ると気持ちいいね」
ミチルは、わざとらしいくらい明るく笑いながら続けた。
「ずっとこうしていられたらいいのにね」
「本当にね。もうすぐ引退だなんて、考えたくないよ」
引退という言葉がするりと自分の口から出てきたことに驚いた。もうそんな時期なんだ。あと数か月後には、こんな日常も受験勉強に塗りつぶされてしまうんだ。夏休みになって、最後のコンクールを終えて、後輩に引き継ぎをして、それから……ああそうか。違和感の正体に気づく。
「ねえ、コンクールの曲、やらなくていいの?」
夏のコンクール、わたしたちにとって最後の大会の課題曲には、ソロパートが入っている。合唱は団体戦だが、この瞬間だけはたった一人に注目が集まる。短いとはいえプレッシャーのかかる役割で、ミスは絶対に許されない。そして先生はその大役にミチルを選んだ。本番まで1か月を切った今、彼女がすべきなのは感傷に浸ることではなく、ソロパートの練習のはずだ。
わたしの質問に対して、返事の代わりにミチルはうーん、と目をそらした。答えを探しているようにも、言うのをためらっているようにも見える。
「あの曲あんまり好きじゃないんだよね。もちろん、ソロに選ばれたのは光栄だと思ってるし、嬉しいけど」
あいまいな言葉を好まない彼女にしてはめずらしい、濁した言い方がひっかかった。嬉しいならどうして。聞きたい気持ちをぐっとこらえる。「けど」の続きを話してくれるのなら、わたしはそれを待ちたかった。
防音の壁が雑音をすべて吸収してしまったような静けさだった。すぐ近くにいるはずなのに、薄暗い教室のせいで、ミチルがずっと遠くに立っているように思える。
「わたしは今みたいに、みんなと一緒に歌う方が楽しいから」
ぽつり、とかろうじて聞き取れる程度の呟き。ふと、さっきミチルが歌っていた曲を思い出した。入部したての頃、それこそ一番はじめに練習した曲だ。なるほど、体に染みついているわけだ。
はっきり言ってミチルの声は合唱向きではない。決して歌が下手なわけではなく、むしろ部員の中では一番歌唱力があると思う。けれど彼女の場合、わたしと反対で主張が強すぎるのだ。声質が違うのか、歌い方のせいなのか。なんにせよ、悪い意味で一人だけ目立っていた。そのことと、先生がミチルをソロに選んだこととはおそらく関係ない。けれど彼女は、考えずにはいられなかったのだろう。
かける言葉が見つからなくて「そっか」とだけ返した。ミチルの顔を見ることができなかった。こっちから聞いたくせに無責任な反応だ。正解を探しているうちに廊下が騒がしくなり、他の部員たちが一斉に入ってきた。
あっという間に人口密度が高くなる。いつのまにか電気もついていた。照明の下のミチルは、いつもと変わらず笑っている。置いてけぼりのわたしを除いて、昨日と同じ風景だった。
もしわたしとミチルが入れ替わったら、お互い幸せになれるのかな。……いや、きっとそういう問題ではない。所詮ないものねだりだ。明かりのついた教室から見る窓の外は、さっきよりも暗く見えた。とうとう雨が降り出したようだった。
憧れ