トライアスロン秘話ヒストリア

トライアスロン秘話ヒストリア

1974年サンディエゴで始まったトライアスロンが1978年ハワイのアイアンマンレースで火がついて、世界中に広まって行きます。日本では1981年鳥取県の皆生温泉で初の大会が開かれ、2つ目の大会は1984年南紀串本の大会、そして1985年から始まる宮古島、琵琶湖の大会で爆発的なブームとなります。串本大会からトライアスロンに参加し、競技団体の設立や、県協会の立ち上げ、オレンジトライアスロンの創設、そして審判、メディカル、ドーピングなどのいろいろな分野で関わり、今も現役トライアスリートを続けるドクターTの眼から見たトライアスロン秘話をまとめました。

ことの起こりは酒の席から始まった?

ことの起こりは酒の席から始まった?

 トライアスロンは水泳(スイム)・自転車(バイク)・マラソン(ラン)の3種目を続けて行う競技ですが、1種目だけでも体力を消耗する競技なのにそれを3種目続けて行うと言う馬鹿げた発想はアメリカ海兵隊の兵隊さんたちが、酒の席で体力の自慢話をしたのがことの起こりであると言われていました。それは1977年のことです。ハワイにはホノルルマラソンと言うフルマラソンとオアフ島1周自転車レースとワイキキラフウォータースイムと言う3つの競技があり、それぞれに出た海兵隊員が、それぞれ体力の自慢話をしていて、誰が一番強いのか3つを続けてやって見ようということになり翌1978年にハワイのアイアンマンレースが誕生しました。その距離はスイム3.8km、バイク181km、ラン42.195kmでこの距離で行われるトライアスロンをアイアンマンレースと呼びます。その後アイアンマンはWTC(World Triathlon Corporation)の登録商標となり、勝手に使うことは出来なくなりました。トライアスロンの発祥を考える上で面白い話ですが、実は1974年にカリフォルニア州サンディエゴでもう少し短い距離でのトライアスロンが行われており、それが本当の始まりであるとされています。始まったころのトライアスロンは物好きのゲテモノスポーツとされており、参加者もそれほど多くはありませんでした。それが爆発的に愛好者が増えた訳は、1982年ABCテレビがハワイアイアンマンを放映した時です。女子のトップを走っていたジュリー・モス選手がゴール前で意識朦朧となり、這ってゴールするシーンが放映されたことでブームに火がついたのです。ジュリー・モスは1985年から始まったアイアンマン・ジャパン in 琵琶湖の第2回大会に確か招待されて、私もその時一緒に走っています。その後、丁度行われた花巻のファミリートライアスロンにも招待されて出ていました。その大会は短い距離のバイク・ラン・プールでのスイムと言う変則の大会でしたが、最初のバイクではジュリー・モスを押さえて何と私が1位でゴールしました。

日本でのトライアスロンの拡がりと私が始めるきっかけ

日本でのトライアスロンの拡がりと私が始めるきっかけ

 日本で初めてトライアスロンの大会が行われたのは1981年8月20日鳥取県の皆生温泉でした。皆生温泉旅館組合青年部の人たちが皆生温泉を売り出すイベントを何か誘致したいと思っていたところ、ハワイでトライ何とか言う競技が行われていることを知り、日本ではまだ何処でも行われておらず、当時熊本CTC(クレージー・トライアスロン・クラブ)の永谷誠一氏と堤貞一郎氏が参加したことを聞きつけ話を聞いたことから始まりました。そして、アドバイザーに両氏を迎えて、ハワイアイアンマンの資料を取り寄せて検討を重ね、大会開催にこぎつけたと言う訳です。その時のチャレンジャーは53名、優勝は歌手の高石ともや氏(39才)と下津紀代志氏(22才)が手をつないでゴールし分け合いました。今まで、手をつないでゴールする競技が他にあったでしょうか?順位を競うのではなく、お互いの完走を讃え合う姿は見ている人たちにも感動を与える出来事でした。もちろんアドバイザーの永谷誠一氏(54才)と堤貞一郎氏(57才)も参加して完走しています。
 当時、私は30才を過ぎて、メタボと体力の衰えを感じて、スイミングに通い出したところでした。小学校時代には学校にプールもなく、海や近くの池で泳ぐくらいで、顔を上げて泳ぐ平泳ぎしかしたことがなく、神宮前に出来た名鉄のスイミングでクロールを習い1年ほどでクロールでどれだけでも泳げるようになりました。体重も陸上をしていた高校時代に戻り、市民マラソンの大会にもあちらこちら出るようになりました。そんな時にランナーズと言う雑誌を読んでいたら、皆生トライアスロンの記事が載りました。クロールで泳げるようになり、3種目続けてやる競技に興味を持ちましたが、何しろ日本では皆生でしか大会はなく、しかもその距離はスイム2km、バイク103.6km、ラン40kmと言う長い距離で行われていて、いきなり出るには尻込みする距離でした。でも串本でもっと短い距離(スイム2km、バイク33km、ラン16km)で新しい大会が始まると言う記事が載り、当時名鉄病院での研修を終えて大学の医局へ戻る時期でしたが、名鉄病院での退職金15万円をつぎ込んでロードレーサーを購入しました。そして、知多から鶴舞までの自転車通勤が始まり、1984年第1回串本トライアスロンに初参加しました。参加者は120名ほどでしたがいきなり10位入賞の好成績を残しました。マラソンの大会、自転車のロードレース、水泳大会にも出ていましたがそんな好成績を出したことはありません。3種目平均して出来れば結構上位に食い込むことが出来る競技だなと言うのがその時の印象でした。そしてその翌年に宮古島トライアスロンと琵琶湖のアイアンマンが始まり、日本でのトライアスロンは隆盛のきっかけをつかみます。

愛知県トライアスロン協会の立ち上げ

愛知県トライアスロン協会の立ち上げ

 日本にトライアスロンが入って来て、競技人口が徐々に増えて、大会も少しずつですが増えてくると最初は全国にクラブ・チームが出来て来ました。最も古いのは日本に導入するきっかけを作った熊本CTC(クレージー・トライアスロン・クラブ)ですが、静岡県の矢後潔省氏がクラブを全国組織に発展させようとしてJTRC(ジャパン・トライアスロン・レーシング・チーム)を作りましたが、その流れは神奈川県の清水忠治氏を会長として日本トライアスロン協議会を経て1985年日本トライアスロン協会(JTA)の設立でトライアスロン競技者の公益に資すると言う立場が明確となりました。JTAから出された全国の都道府県に各ひとつの加盟地区協会を作るようにと言う呼びかけに呼応して各県での協会設立の動きが出て来ました。愛知県でも1985年に始まった宮古島や琵琶湖に出た人たちが集まって発起人となり、何度か集まって相談しました。中心となったのは國分孝雄氏(現JTU副会長)と名古屋市北区で自転車店を経営する吉田隆雄氏(現JTU理事)で、会長には元享栄学園校長の青山米男氏(マラソン校長として有名でした)を招へいし、國分氏と当時愛知県での最長老であった平松要介氏が副会長に、理事長に琵琶湖アイアンマンに出ていた広川 健氏、事務局長(専務理事)に吉田隆雄氏、私は副理事長として1987年に6番目のJTA加盟団体としてスタートしました。協会は登録選手の公益のための活動をする団体で、登録選手から3000円の会費を集めて運営します。JTAの加盟団体ですので、そのうちの1000円をJTAに上納しなければなりません。残りの2000円分のお金でいかに登録選手にメリットを還元するかが協会維持のための一番の重要な仕事でした。協会ニュースを作り、記録会や練習会を企画しましたが、最初の目標は愛知県選手権の開催でした。公道や海・池・川を使って行う多人数の大会となると関係各機関や自治体の許認可を取り、協賛企業を集めると言う大変な作業があり、1989年10月第1回のオレンジトライアスロン開催にこぎつけるまでに2年を要しました。

トライアスロン伊良湖大会について

トライアスロン伊良湖大会について

 愛知県トライアスロン協会が発足して、何処かで愛知県選手権開催の可能性を模索していた頃、伊良湖でトライアスロン大会を企画する人が現れました。その方は中部トライアスロン連盟を名乗る土田氏で、右腕の清水氏とともに二人で渥美町に働きかけていました。土田氏はもともとトライアスリートではなく、トライアスロンの大会運営を通して営利を目的とする方でしたが、その話を聞いて理事長の広川氏が何度か接触して話を聞きました。1985年に宮古島、琵琶湖が始まった時に、参加者は200~300人規模で行いましたが、土田氏はいきなりAタイプ・Bタイプのふたつのタイプを設けて1000人規模の大会にしたいと言いました。その話を聞いて、広川さんもこの話は何か眉唾ものだと思い、愛知県協会は手を引くことにしたのです。最初の年(1987年)6月開催で選手募集を始めましたが、警察の許可が降りずに、延期となり「やはりな~。」と二人で話をしていましたが、10月に曲がりなりにも実施されました。観光の目玉を作りたかった渥美町も肩入れして、ロケーションのよいコースであったためにその後人気の大会となり、城本徳満選手や谷 新吾選手なども招待されたりして人気に一役買いました。大会が軌道に乗ってくると、協会としても無視するわけには行かず、マーシャルなど運営面で協力するようになり、私も2度ほど選手として出場させていただきました。ただバイクコースは農道を周回するコースで直角のコーナーが多く、スイムは内海でしたが、引き潮だと足の着くところが多かったり、鮫騒ぎのあった年にはネットを張って行うなど若干コース面での問題もありました。

にっぽん音吉トライアスロン

にっぽん音吉トライアスロン

 知多郡美浜町の斎藤宏一町長は美浜町出身の漁師、音吉が江戸時代末期に漂流してアメリカに流れ着いて、活躍したのにちなんで、音吉生誕100年を記念してトライアスロン大会を誘致したいと考えました。この時は軌道に乗って活動していた愛知県協会に相談がありましたので、コース設定から警察の許可を取るまで相談に乗りました。半田JCも協力し、私も何度か町長について県警本部の交通規制課に行きましたが、息子くらいの年の係長に「今までトライアスロンでどんな重大事故が起きているか知っているか?」といじめられるのを助け船を出したりしていました。一番の問題は海で泳ぐのはよいとして、バイクコースが取れる場所まで移動するのに国道をどうしても横切る必要がありました。そこで一計を案じて国道を横切る小さな川の橋の下に仮設の歩道を設けて横切ると言うことにしました。バイクトランジッションからすぐにバイクコースに乗り出せず、100mほど歩くことになるのですが、皆同じ条件で競技をする訳ですから問題はありません。競技距離は、当時標準距離となりつつあった51.5kmで行いました。1992年の第1回大会は成功裏に終わり、終了後のアワードパーティは地元の食材もふんだんで愛知県では伊良湖に劣らない人気大会となりました。私も2度ほど選手として出場させていただきましたが、残念ながら町長が替わるとともに大会も中止されてしまいました。 

名古屋港トライアスロン

名古屋港トライアスロン

 愛知県協会が出来て、県選手権を何処かで出来ないか模索している時に、突然降って湧いた企画が名古屋港トライアスロンです。これは海の祭典と言う持ち回りのイベントの第3回がたまたま名古屋港で行われることになり、それを請け負った大手広告代理店の電通が名古屋港でトライアスロンが出来ないかと協会に話を持ち込んで来たことから始まりました。当時県協会の副理事長をしていた私は、義父が知多市の教育長をしていたので、義父を通じて近藤庄吉市長に応援を頼んでもらいました。知多市では埋め立てが進んで、海が残っているのは新舞子のマリンパーク(海浜公園)の辺りだけですが、その当時はまだマリンパークの埋め立ては完成していませんでした。南浜荘の横に大きなスロープを造り、スイムから上がって、現在高校駅伝で使っている西知多産業道路の西側にある臨海道路と一部企業用地を借りてバイクとランを行う51.5kmのトライアスロンでした。最後は知多市の陸上競技場がゴールでした。私は準備で忙しく出ることは出来ませんでしたが、その頃女房も唆してトライアスロンをさせていたので、女房が出て完走しました。この付近でのスイムとバイクは現在行われるようになったハーフアイアンマンでも使っています。この時に大会の準備から設営までをしていたのが、電通の桜庭さんと言う方で、ほとんど一人でしているのには驚きました。後に始まるオレンジトライアスロン(愛知県選手権)では地元の新東通信と言う広告代理店に頼みましたが、たいていは2~3人がかりの仕事でした。最近になって電通社員の過労死が問題となって、会社の過重労働を強いる体質が報道されていますが、なるほどと言う感じでした。

蒲郡ウルトラバイアスロン

蒲郡ウルトラバイアスロン

 私が、蒲郡市民病院に外科部長として赴任した時に、県協会理事長の広川 健さんが蒲郡でスイム10km+フルマラソンのウルトラバイアスロンをやりたいと言い出しました。バイアスロンと言うとオリンピック種目にあるクロスカントリースキーと射撃を組み合わせた競技がありますので、その後デュアスロンと呼ばれるようになりますが、その当時はトライアスロンからスイムを除いた2種目の競技をバイアスロンと呼んでいました。広川さんはトライアスロンはロングでなければトライアスロンではないと言う考えの持ち主でしたからそんな長い距離のバイアスロンを企画したのです。そこで、警察の許可を取らずに出来るように、三谷の海で泳ぎ、蒲郡緑地公園に移動してフルマラソンを行うと言う設定として、三谷で海の家を経営していた廣中さんに監視艇を頼みました。ランナーズにも広告を出しましたが、集まったのは25名ほどでした。その中に当時奈良医大の学生だった笠次良爾氏(現JTUメディカル委員長)がいました。笠次氏から学生で金がないから泊めて欲しいと言われて家に泊めてあげました。また長男、鉄平は中学2年生でしたが、大人に混じって参加しました。この時、スイムは海に500mのロープを張ってそれを周回すると言うことにしましたが、3時間を過ぎて全員がとても10kmを泳ぎ切るには時間がかかり過ぎると言うことになり、3時間を超えて新しい周回には入らないと言うことに変更しました。結局一番たくさん泳いだ人で8kmくらいだったと思います。このスイム、ランを場所を変えて別々に行う方法は記録会のスタイルとして定着することになります。

蒲郡トライアスロン記録会

蒲郡トライアスロン記録会

 蒲郡で愛知県選手権開催の準備を進める中で、その練習とそれまでのアスリートの大会出場要求を満たす目的で蒲郡トライアスロン記録会を企画しました。オリンピックスポーツクラブ(後のコナミ)のプールを借りてスイム1.5kmを行い、蒲郡緑地に移動してバイク40kmとラン10kmを別々に行い、3種目の記録を合計して順位をつけると言うものでした。これならば公道を使わずに出来ますので、警察の許認可は要りません。プールは25m、6コースのプールで、コースを移りながらジグザグに泳ぎます。もちろん一斉スタートは出来ませんので、5秒ごとに時差スタートさせて、追い越しは右側からとしました。自転車は蒲郡緑地の1周1kmあまりの周遊道路を周回します。時々、公園内のグランドに入る一般の利用者もいますので、そのような場所に監視員を立たせて注意を促します。それでも一度に参加出来る人数は50人くらいまでが限界でした。参加料を3000円集めて、プール使用料、飲み物、パン、バナナなどを買い、役員は全てボランティアでしたので、毎回黒字で、多い時には5万円ほど余ったこともあります。それは協会の収入としました。記録会は2~3か月に1回、10回ほど続きました。トータルで600人ほどの方が参加したと思います。この記録会を通じて、私が一番したかったのはトライアスロンの記録を取るシステムを作ることでした。まだネオシステムなどない時代、記録を取るのは従来の陸上競技でやってきたようにストップウォッチを使って一人ずつ記録を取ると言う方法しかありませんでした。でもこれからはパソコンの時代です。3種目それぞれのゴールでレースナンバーを入力すれば、自動的にタイムを合計して記録を出すのはパソコンを使えば簡単なことです。私はまだデスクトップしかない時代にそれを現場に運んでパソコンで記録を取り始めました。使ったのはデータベースIIIplus と言うソフトで、それをコンパイルしたものです。人数が増えて来るとゴールでのレースナンバーが追い付かずに、将来はバーコード入力か無線チップによる入力が必要になるだろうと予測はしていました。

蒲郡オレンジトライアスロンの誕生

蒲郡オレンジトライアスロンの誕生

 私は1987年、蒲郡市民病院に新進気鋭の外科部長として赴任しました。その時に今度来た外科部長は知多から片道46kmを自転車で通ってくるそうだと話題になりました。確かにこの頃は月に1000km近い距離のバイク練習をしていました。赴任して理事長をしていた広川さんが降りてしまったので、私が理事長を引き受けることになり、いよいよ蒲郡での愛知県選手権開催に向けて動き出しました。実はその前に蒲郡のJCがトライアスロンの大会を誘致しようと言う動きがありました。JCの小池高弘さん(現蒲郡商工会議所会頭)や塩野さんたちが、コース案を作り、鈴木克昌県会議員(後蒲郡市長から衆議院議員)を頼み、警察に相談しましたが、そのコース案は51.5kmよりももっと長い距離(ハーフアイアンマンくらい)で西浦半島の先端までバイクコースを設定すると言うもので一般交通へ与える影響が大きすぎて、警察が相手にしてくれませんでした。その当時マラソンの大会でも総量規制をされて、新しい大会を創るには古い大会をつぶさないと出来ないような状況でした。そこで、私が考えたのは浜町の埋め立て地区でバイク・ランを行うと言う案でした。ここには一般住民がいませんので、会社が休みの日曜日は比較的影響が少なく、また2~3本の道路が走っていますので、周回コースが作りやすかったのです。それでも浜町には100社ほどの企業が入っていて、日曜日でも営業するガス会社やバス会社などもありました。そういった企業から1社ずつ同意書を取り付け、蒲郡市、蒲郡市教育委員会の後援をもらい、開会式・表彰式の会場に無料で市民会館を借りて、Jcにも協力を仰ぎました。そして、何と言っても、企業からの協賛金集めが一番の問題でしたが、市民病院に来ていた眼科医療機器メーカー、ニデックの宣伝マンに頼んで浅井企画部長に面会してお願いしました。後にニデックはトライアスロンの企業スポンサーとなり、細谷はるなと枇杷田美幸、コーチで中込英夫を擁するチームを作ってくれましたが、第1回のオレンジトライアスロンには何と100万円の協賛をしてくれました。かくして1989年10月、市民会館の前の入り江を使って泳ぎ、浜町でバイク・ランを行う51.5kmのオレンジトライアスロンが誕生しました。成功裏に終わって表彰式の行われた市民会館の中ホールで、檀上稲石教育長が私の労をねぎらう言葉をかけてくれて、思わず涙が止まらなくなってしまいました。一緒に壇上に登っていて、疲れて居眠りをしていた吉田専務理事とともに今でも語り草になっています。

競艇場を借りる

競艇場を借りる

 1回目のオレンジトライアスロンは10月に行われましたので、市民会館の前の水も比較的綺麗でしたが、2回目の時は蒲郡まつりに合わせて7月に行いました。その時期の市民会館の前の海は濁っていて、ゴミも多く浮いていました。また岸壁から海面までの高さがあって、上がる時にスロープが傾いて登りにくい状況もありました。何かよい案はないかと思っていましたが、仕事帰りに地下の❝志な乃❞で飲んでいる時に蒲郡競艇の看板塔、河合二男さんがいました。「そうだ!河合さん、競艇場をトライアスロンで借りれないかな?」「えっ、それなら日曜日で絶対に蒲郡競艇のない日があるよ。隣の浜名湖が周年記念をする時は遠慮して蒲郡は開催しないんだ。来年の予定はもう判るよ。」もちろん水質検査をして海水浴場の基準で「快適」ではないが「適」であること、施工者は蒲郡市だけであったことも幸いしてトントン拍子に話は進み、市はスタンド前の通路をバイクコースにするためにわざわざ舗装をしなおしてくれました。そして第3回は競艇場をメイン会場にして、スタンドで3種目とも観戦することが出来る、見るためのトライアスロンのスタイルが完成します。さらにもっと水質を綺麗にしようと養魚場などでしているように水車を回して酸素を送ると言うこともし出しましたが、それは大変な問題を引き起こします。確かに透明度はよくなったのですが、日の光が奥まで届くようになり、藻が繁茂して肝心の競艇の時にプロペラに絡んで出遅れ返還事故が多発したのです。それから水車を回すのは中止となりました。トライアスロンだけ恩恵を受けていてはいけないと思い、それから競艇の研究を始め、「儲かる舟券の買い方」を著し、競艇の愛好会、愛艇クラブを立ち上げました。

ワールドカップ、世界選手権の誘致

ワールドカップ、世界選手権の誘致

 愛知県選手権として始まった蒲郡オレンジトライアスロンは その頃競技として標準距離になろうとしていた51.5kmのオリンピックディスタンスで行ったこと、第3回から競艇場を借りることによって、スタンドで3種目観戦出来ることが、参加する競技から観る(観せる)競技を模索していたITU(国際トライアスロン連合)のレス・マクドナルド会長の興味を引くことになります。マクドナルド会長は元々スキーの選手の出身で、JTUの会長として迎えられた猪谷千春会長とは旧知の間柄であったこともあり、ワールドカップの誘致はトントン拍子に話が進みました。周回数を増やして、何度もスタンドでレースを観戦出来る新しい形式は2000年のシドニーオリンピックのコースレイアウトにも採用され、2003年のワールドカップ蒲郡大会が誕生します。猪谷会長が皇族関係の付き合いもあったことから故高円宮殿下をお迎えして盛大に行われました。トライアスロンの草創期にはバイクでのドラフティング禁止が当たり前でしたが、マクドナルド会長のドラフティングの判定は難しくかえって不公平になるとのツルの一声でエリートレースではドラフティングOKルールとなり、周回数を増やしてバイクでラップされた(周回遅れとなった)選手は失格となること、1周ごとのトップにプリモと言う特別賞を出すことなど次々と新しい試みが取り入れられて行きました。一般のレースを午前中に行った後にエリートレースを行って、観客を増やすと言うのもその後色々な大会で取り入れられました。2005年にワールドカップシリーズの最終戦である世界選手権が来ることになり、2004年のプレ大会のコースを一度だけラグーナ~三谷に移したことがあります。これもマクドナルド会長のBudda(弘法さんのこと)が見えるコースがよいと言うマクドナルド会長のツルの一声で決まりましたが、この時は女子選手3人が急傾斜の石畳コースで転倒するアクシデントがあり、結局世界戦は競艇場に戻されました。その後蒲郡はワンランク下のアジアカップとなり、ワールドカップは横浜、大阪、宮崎などに譲りましたが、ワールドカップの新しいスタイルを作るのに大きな貢献をしました。

キッズトライアスロン

キッズトライアスロン

 トライアスロンを発展させるためには、大人の大会だけでなく子供が出られる大会を創ることが必要です。私がトライアスロンにのめり込むようになると、うちの子供たち4人にも将来トライアスロンをさせようと思い出しました。それにはまず幼いころから水に親しむ必要があると考えて、全員3歳になるとスイミングスクールに入れました。その当時はまだスイミングスクールと言うのが殆どなく、一番近いスイミングでも名古屋の北の岩倉と言うところでした。友達もいない遠くのプールへ通わされた子供たちは最初は嫌で泣いたりしていましたが、それも最初の1~2回のことで、慣れて来ると進んで通うようになりました。私も、女房も共働きでしたから子供を連れて行くのは義父の役割でした。さて、子供たちが泳げるようになり、私のトライアスロンに付いて出かけることも多くなり、子供たちもトライアスロンに興味を持つようになりましたが、大人の大会でも少ない時代ですから、まだ子供の大会が殆どありませんでした。嬬恋でチーム・ケンズがやっていた大会とか、花巻のファミリートライアスロンなど大会を探しては連れて行きました。愛知県選手権を蒲郡で始めることが出来た時に、次は子供の大会を創ることがトライアスロンの発展には欠かせないことだと皆で相談しました。子供の大会ならば距離も短いので、プールのある公園のようなところで警察の許認可なしに出来そうだと言うことで、最初に企画したのは碧南市にある臨海公園です。そこで、県協会の理事に入っていた碧南市の加藤高峰氏が中心となって公園の管理者である碧南市との交渉など準備を進めて、プール開きの期間の最後の日曜日に開催しました。この大会は数回続きましたが、残念なことにマンモスプールの老朽化でプールを取り壊すことになり出来なくなりました。次に行ったのは幸田町にあるハッピネスヒルと言うところです。ここにも屋内プールがあり、周辺に一般交通にあまり影響を与えない道路があります。幸田町のJCが取り上げてくれたこともあり、その頃水畑宏之氏についでトライアスロン大会の設営に目覚めつつあった理事の鈴木貴里代氏(現JTU理事)が準備を進めました。この大会もJCの協力が期間限定で2年でなくなります。その後はラグーナでのプール開きに合わせて行う大会とか小野浦でのアクアスロンなど誕生しますが、大人の大会にも小学生や中学生の部を設けると言う手法が定着し、またJTUの行う記録会でも小中学生参加が徐々に増えて来て、トライアスロンは子供から大人まで楽しめるスポーツとなりました。

日本トライアスロン連盟

日本トライアスロン連盟

 日本でのトライアスロンは皆生、宮古島、琵琶湖と比較的長い距離のトライアスロンで始まりましたが、世界ではアメリカで主としてトライアスリートのプロフェッショナルを対象として、USTS(アメリカ合衆国トライアスロンシリーズ)がショートタイプのトライアスロンを始めました。日本でも宮古島、琵琶湖と同じ1985年、天草で51.5kmのシリーズ戦が始まります。USTSのコンセプトを導入し,賞金レースではありませんでしたが国際大会と銘打ち、海外のエリート選手を招請すると共に、中山俊行を始めとする我が国トップ・トライアスリート集団“チーム・エトナ”を結成、参戦させるなど、華々しいスポーツ・イベントが演出されました。この時仕掛け人となったのが、現JTU専務理事・ITU理事の大塚眞一郎氏と現JTU常務理事の中山正夫氏で、長嶋茂雄氏を会長に迎えて日本トライアスロン連盟を作って、華々しく行われました。皆生大会から始まった日本のトライアスロン大会が地方自治体や民間スポーツ団体などによる町興し、村興し的な様相を呈していたのに対し、天草大会はアメリカ流の商業的色彩を帯びたビジネス・モデルとして日本へも上陸した訳です。その後、このシリーズ戦は長良川、日本平、仙台などでも行われ、プロ集団だけでなく、一般参加者も募集して、トライアスロン隆盛の一翼を担うことになります。私も、長良川に2回、日本平に1回出場して長良川では年代別入賞もしています。51.5kmのショートタイプはインターナショナル・スタンダード・タイプと呼ばれるようになり、その距離で世界選手権シリーズ、さらにはオリンピック種目として発展することになり競技としてのトライアスロンが確立して行きます。

日本トライアスロン協会の誕生

日本トライアスロン協会の誕生

 1985年日本トライアスロン連盟が出来て、USTSシリーズの日本版、日本トライアスロンシリーズ(JTS)が各地で始まった頃、競技者の利益を守るための競技者自らが作る全国組織の必要性が痛感されるようになります。矢後潔省氏が立ち上げた日本トライアスロンレーシングクラブ(JTRC)は同好会的なものでしたが、1984年神奈川県の清水忠治氏を会長として複合耐久種目全国協議会が誕生し、翌1985年全国トライアスロン協議会から日本トライアスロン協会と名称変更し、翌1986年全日本アマチュアトライアスロン協会と合併して新生日本トライアスロン協会(JTA)となり、清水仲治氏が会長となりました。その呼びかけに応じて各都道府県での協会設立の機運が高まり、JTAの加盟団体として登録すると言う形で全国組織が整備されていきました。愛知県でも1987年に愛知県トライアスロン協会が6番目のJTA加盟団体として設立されたことは前述の通りです。この時各県の組織は協会と言う名称と連合と言う名称のどちらでも使用可と言うことで、例えば岐阜県トライアスロン連合のように連合と言う名称を使っているところもあります。日本トライアスロン協会の最初の目標は加盟団体を47都道府県に全て作ることと日本体育協会へ加盟すること、日本選手権を開催することでした。東海3県でも愛知県と岐阜県の加盟団体設立は早かったのですが、三重県がまだでしたので、愛知県が中心となって岐阜県と三重県に呼び掛けて東海ブロック協議会を立ち上げて、三重県協会が出来るまで愛知県で県選手権を同時開催するなどサポートをしました。私も1989年から理事として加わることとなり、日本トライアスロン協会はその後順調に加盟団体を増やして行きましたが、47都道府県にほぼ加盟組織が出来たところで、理事長が広井武昭氏になり、この時東海ブロック選出理事として國分孝雄氏(現JTU副会長)と私も引き続き理事として参加することになりました。

日本トライアスロン連合(JTU)の誕生

日本トライアスロン連合(JTU)の誕生

 1989年に国際トライアスロン連合(ITU)が出来ると、フランスのアビニヨンで第1回の世界選手権が行われることとなり、日本も代表選手を派遣することとなりましたが、日本には日本トライアスロン協会(JTA)と日本トライアスロン連盟(JTF)がありました。JTAに属する我々は日本の代表組織はJTAだと思っていましたが、国際的には認められていませんでした。そこで暫定国内統一団体としてJTAとJTFが世界選手権への代表選考をするために日本トライアスロン委員会(JTC)を作ってITUに加盟して世界戦のたびに協議して代表を決めると言うことが数年続きました。第1回の世界選手権には宮古島のチャンピオンであり、ミスタートライアスロンと称された中山俊之氏(現JTU理事)らが代表として派遣されましたが、なんと中山氏はバイクラックにバイクをかける前にヘルメットストラップを外してはいけないと言うルールに抵触して失格となってしまいます。その時にはトライアスロンのルールって意外と厳しいものなんだなと日本トライアスロン界に衝撃が走りました。さて、日本の組織もいつまでも2本立てではいけません。統一組織を作るための準備を始めます。1993年5月に「日本トライアスロン連合設立準備委員会」が発足し、同年6月には「日本学生トライアスロン連合」(JUTU)が設立されました。1994年4月16日に「日本トライアスロン連合」(JTU)が発足し、初代会長に猪谷千春(元アルペンスキー銀メダリスト)副会長に石毛氏、その後三宅義信氏(東京オリンピック重量挙げ金メダリスト)に替わる、理事長に佐々木秀幸、副理事長に國分孝雄氏(現JTU副会長)、事務局長に大塚眞一郎が就任し、私は東海ブロック代表理事として参加しました。JTUは日本体育協会(体協)と日本オリンピック委員会(JOC)に準加盟が認められ、同年9月には国際オリンピック委員会(IOC)総会で2000年のシドニーオリンピックからトライアスロンがオリンピックの正式種目として開催される事が決定しました。その後もJTUの組織整備は進められ、1998年3月には体協、1999年10月にはJOCへの正式加盟が認められました。1999年7月には文部省管轄の社団法人として認定されました。2009年、JTU設立以来15年間会長を務めた猪谷千春氏が名誉会長に退き、新会長に参議院 議員の岩城光英氏が就任しました。

宮古島トライアスロン出場は❝燃えよドラゴン❞でブルース・リーが島の武道大会に出る雰囲気

宮古島トライアスロン出場は❝燃えよドラゴン❞でブルース・リーが島の武道大会に出る雰囲気

 1981年、皆生でアイアンマンを模して、日本最初のトライアスロンが行われてから1984年に串本の大会が短い距離で行われましたが、本格的な日本での幕開けとなる1985年、宮古島のストロングマンレースと琵琶湖のアイアンマンレースが始まりました。このときは体力の限界に挑む耐久競技と言うのが一般的な理解で、第1回の宮古島大会は241名の参加者でしたが、飛行機を乗り継いで宮古島へ渡る時には、如何にもそれと判る体型の猛者が全国から集まって来ていて、一緒に来た女房などは、あの人強そうだよとか、あの人には勝てそうだとか言ってました。それは当時流行っていたブルース・リーの「燃えよ、ドラゴン」の中でブルース・リーが島に渡るシーンのようでした。このころ私は初期研修を終わって大学の医局に通っていたころですが、片道26kmの通勤バイクを主としてそれなりのトレーニングを積んでいました。第1回は参加者241名で総合33位、第2回は参加者412名で総合22位、第3回は参加者516名で総合29位(年代別3位)と思った以上の成績を上げることが出来ました。ちなみに第1・2回の優勝は中山俊行、第3回は前田芳久でした。第2回大会の時には、NHKがこの長いレースを生中継してそれがトライアスロンの爆発的流行と宮古島人気のきっかけとなりました。しかし、最初の頃は東急リゾートくらいしかまともなホテルがない島で、選手、応援の家族が泊まる宿泊施設が足りないためにそれが参加定員の規定要因となりました。一時は民泊なども行われましたが、徐々にホテルも増えて、毎年平均100人くらいずつ定員を増やし、1500人くらいになったところで、コース・管理体制が規定要因となって、それ以上は定員を増やさなくなりました。その後も、国内で1、2を争う人気大会で、いつも申込者が定員の2、3倍はあると言う状態が続いています。

琵琶湖アイアンマンは日本でのアイアンマンの始まり

琵琶湖アイアンマンは日本でのアイアンマンの始まり

 トライアスロンを知った者にとって、ハワイのアイアンマンレースに出ることはひとつの夢でした。1985年4月に宮古島でストロングマンとなった私は、アイアンマンの称号も得るべく、6月30日の日本で初めて行われるアイアンマンレースにも申し込みました。世界中でアイアンマン・ハワイの予選会となる大会を創りたいと考えていたアイアンマン・コーポレーションのバレリー・シルク会長とハワイアイアンマンに出場し、日本でもアイアンマン大会を創りたいと考えていた矢後潔省氏や故市川祥宏氏(JTRC会長、副会長)が候補地として日本のほぼ真ん中の琵琶湖を選び、交渉役として電通の西郷隆美氏が武村正義滋賀県知事に働きかけました。かねてから滋賀県は琵琶湖の恵まれた自然環境と豊かな文化遺産を活用したプロジェクトを推進する「国民休養県構想」の実現に取り組んでいたため、その目玉となる事業と考えて、すぐに県庁内に準備室が設置されました。こうして2市11町に及ぶ日本初のアイアンマンレースの概要が決定したのが、その年の2月、募集開始は宮古島の終わった4月でしたが、宮古島で始まったブームの影響か、参加申し込みはすぐに400名を超えて、皆生大会、宮古島大会を上回る規模の大会となりました。
 台風6号の近づく中、アイアンマンの称号を求めて集まった我々432名の中には海外招待選手として、ミスターアイアンマンことデイブ・スコット、トライアスロン隆盛のきっかけを作ったジュリー・モスらもいました。7時の号砲を待つ間、主催者とバレリー・シルク氏やアドバイザーとして来た国際競技部長アール・ヤマグチ氏の間で琵琶湖の水温が低く(3層の平均水温は19℃であった)距離の短縮を提言されましたが、主催者は何としてもアイアンマンディスタンスでの実施にこだわり、結局その後の水温上昇予想を加味して午前6時の水温は21℃と発表して大会実施を決定しました。我々選手の方はそうとは知らず、やけに冷たいな~と思い、湖に足をつけただけでウォーミングアップもしませんでした。事前にウェットスーツ着用の許可は出ていましたが、その頃はトライアスロン用のものはまだ売ってなくて、ウィンドサーフィンなどで使うショートジョン(半袖半ズボンタイプ)を着ての参加でした。3.8kmのスイムをデイブ・スコットやスコット・ティンリー、ジュリー・モスらは1時間を切るタイムで泳ぎ切りますが、スイムの遅い選手ほど長い時間低水温にさらされることになります。結局スイムでは47名ものリタイアが出ました。私はと言えば、1時間30分32秒で何とか泳ぎ切りますが、冷え切った体が温まるのはバイクで奥琵琶スポーツの森から余呉湖周回道路へ入る頃でした。バイク180.2kmを6時間29分45秒で走り切った後、奥琵琶スポーツの森にバイクを置いて最後のフルマラソンに入りました。その頃から台風6号の影響で雨が降り出しゴールの彦根城に近づくにつれて風雨が増して来ました。歩き出したくなる衝動を抑えながら、ゴールが近づくにつれて増えてくる応援の観客の声援に励まされながら最後のフルマラソンを4時間5分54秒で完走しました。デイブ・スコットがハワイの記録を破る8時間39分56秒でゴールしてから3時間26分15秒後、完走366名中総合67位でのゴールでした。この大会はアイアンマン・ハワイの予選として行われたので、総合100位以内で完走したものは出場権が得られたのですが、その頃は忙しくて、前日受付に来てとんぼ返りして当日は日帰りで来る状態でしたので、とても休みを取ってハワイまで行ける状況ではありませんでしたし、またいつでもいけるさ~と高をくくってハワイへの申し込みはしませんでした。

宮古島・琵琶湖10年連続完走

宮古島・琵琶湖10年連続完走

 1985年に始まった宮古島トライアスロンと琵琶湖のアイアンマンは日本におけるトライアスロンブームの幕開けとなった大会で、それぞれストロングマンレース、アイアンマンレースの愛称で親しまれています。この2つの大会には若干の性格の違いがあります。宮古島大会はさとうきびとタバコと泡盛くらいしか産業がなく、観光客も少ない宮古島が島興しとして始めた大会でこれが大当たりしました。NHKが大々的に取り上げ、島を挙げての歓迎ぶりが人気を呼び、年々参加者も増え続け、宿泊設備も整備され、海外からの参加者も50名以上となり、国内すべての都道府県から参加者が集まり、応募者は定員の3倍と言う人気の大会となりました。一方琵琶湖のアイアンマンはハワイのアイアンマンレースと提携を結び、日本におけるアイアンマンレースの予選と言う位置づけで観光と言うよりも競技性を重視した大会でした。コースが広域の市町村に渡り、一部国道も使用しているため交通規制の問題がネックとなり一時距離が短縮されました(第2回~4回)が、第5回からまたフルトライアスロンに戻されました。人数制限も厳しく定員は第4回から増やされていないし、海外からの参加者も100名を超えるほどでした。日本人の優勝がないのが残念ですが、デーブ・スコットやマーク・アレンと言ったトライアスロンでは神様と崇められる世界のトップ・アスリートを間近に見られるのもこの大会の魅力でした。宮古島大会10年連続完走は10名、琵琶湖アイアンマン10年連続完走は9名、両大会を10年連続完走したのはプロトライアスリートの城本徳満と私だけでした。完走するよりも出ることの方が難しいと言われる人気の両大会を10年連続完走するのは平坦な道のりではありませんでした。風邪で体調を崩していたり、直前の練習でバイクで転んで怪我をしたり、前日の夜まで学会の原稿を書いていて睡眠不足で出たり、終わって夜遅く帰り、翌日は朝早く家を出て10時間の手術をしたり、レース途中の転倒やパンクなどのアクシデントもありました。いくつかの危機的状況を乗り越えて、この偉業を成し遂げることが出来たのは家族、同僚を始めトライアスロンを愛する皆さんの応援・励ましのお蔭と思い、1994年11月24日、市民会館の結婚式場を借りて披露パーティを行い、120名以上の方に参列いただきました。以下に全10回の記録を載せておきます。
全日本トライアスロン宮古島大会
    スイム  バイク  ラン   総合記録  順位  完走者数  優勝者   優勝記録
    3km 136→155km 42.195km
1985 1:10:13 4:42:11 4:01:00 9:53:24 33 220 中山俊行 8:08:52
1986 0:54:11 4:13:31 3:52:56 9:00:38 22 392 中山俊行 7:45:47
1987 0:55:56 4:17:18 3:37:06 8:50:20 29 498 前田芳久 7:35:54
1988 0:55:43 4:03:49 3:44:00 8:43:32 61 595 山本光宏 7:22:24
1989 0:58:32 4:18:04 3:52:09 9:08:45 129 654 ルベン・チャピンズ 7:15:25
1990 0:57:30 4:13:56 3:49:42 9:01:08 139 783 宮塚英也 6:45:59
1991※0:58:17 4:54:55 3:52:50 9:46:02 122 774 ポール・ハドル 7:32:00
1992※0:57:50 4:54:28 4:11:46 10:04:04 179 805 宮塚英也 7:39:21
1993※1:03:02 5:37:37 4:37:59 11:18:38 431 934 ポール・ハドル 7:59:49
1994※0:55:58 5:20:43 4:36:54 10:53:21 381 1073 ローター・レダー 7:45:11
※1991年以降バイク距離が136kmから155kmに変更
アイアンマン・ジャパン・イン・琵琶湖
    スイム  バイク  ラン   総合記録  順位  完走者数  優勝者   優勝記録
    3.9(3.2) 180.2(162) 42.2(32)km
1985 1:30:32 6:29:45 4:05:54 12:06:11 67 366 デーブ・スコット  8:39:56
1986☆ 1:05:39 5:19:11 2:58:46 9:23:36 64 537 マーク・アレン 6:56:26
1987☆ 1:03:34 4:59:59 2:46:31 8:50:04 61 588 スコット・ティンリー 7:09:15
1988☆ 1:09:06 4:50:11 2:48:06 8:48:06 99 732 レイ・ブラウニング 7:02:48
1989 1:18:55 5:56:34 3:53:01 11:09:30 189 707 デーブ・スコット  8:01:32
1990 1:25:15 5:43:22 4:44:12 11:52:50 378 716 レイ・ブラウニング 8:37:06
1991 1:23:12 5:47:55 4:16:07 11:27:14 284 712 ポール・ハドル 8:34:15
1992 1:13:34 5:47:32 4:09:44 11:10:51 335 733 グレグ・ウェルチ 8:07:39
1993 1:19:30 5:53:12 4:18:47 11:31:29 414 721 スコット・ティンリー 8:39:14
1994 1:14:03 6:42:25 4:57:55 12:54:25 637 1073 グレグ・ウェルチ  8:30:47
☆スイム・バイク・ランは()内の短縮距離で実施

トライアスロンマーシャルとは?

トライアスロンマーシャルとは?

 日本トライアスロン連合(JTU)が設立され、47都道府県の加盟団体が出来、組織としての体裁が整って来ると、次の大きな目標は競技としてのトライアスロンの確立でした。その中心となったのはトライアスロンのルールや運営規則を整備する仕事で競技本部が出来、初代本部長として理事の島田文武氏が就任しました。氏は会長推薦の理事として入りましたが、トライアスロンジャーナリストを名乗っていました。氏の書いた「日本トライアスロン物語」は日本のトライアスロンの歴史を知る上で貴重な資料となる力作です。氏は初代競技本部長として、トライアスロンの審判員制度を確立すべく今までJTA、JTFで審判業務に就いていた人たちを公認3種審判とし、その上でこれまでの実績を加味して、2種を認定する講習と試験を始めます。そして、JTU主催・共催・後援大会では審判長、技術代表、審判を公認マーシャルが担当するようになりました。私も3種、2種を取り、マーシャル業務も行いましたが、島田氏は現場のマーシャルからは不評でうるさいので、その頃流行った中村美津子の「島田のブンブン」を歌って揶揄するものもいました。次に、技術委員会が独立して技術委員長を引き継いだのは、トライアスリートではありませんが、島田本部長の下で技術代表を務め、世界のトライアスロン情勢に詳しく、ITUの技術委員長とも親しい中山正夫理事でした。中山氏はITUのルールブックを日本仕様に改編した日本版ルールブックを作り、2種上級審判、1種審判制度を作ります。2種上級の試験には論文審査があり、私も受験し何度か中山氏に差し戻しを受けました。中山氏は顔に似合わず、神経の細かい方で、マーシャルは華麗に立ち居振る舞いをしなければならないとか、競技者の目線だけでなく主催者側の思惑にも配慮をした設営を心掛けるなど大きな進歩がありました。故水畑宏之氏、鈴木貴里代氏が審判として活躍したのもこの頃のことでした。新しいトライアスロン用具の開発などでルールブックの改定はちょくちょく行われますが、始まりから一番大きかった改定はドラフティングに関するルールです。でも私が一番疑問に感じているのはドラフティングルールです。エリートレースではドラフティングがITUのマクドナルド会長の鶴の一声で解禁となりましたが、他の競技でエリートと一般でルールが変わる競技はありません。本当の意味で公平を期するならば、一般のトライアスロンでもドラフティングを解禁すべきだと思っています。

トライアスロン事故史からみたルールの変遷

トライアスロン事故史からみたルールの変遷

 この章は私が2種上級審判の論文として提出したものです。
 私がトライアスロンに関わりを持つようになって、すでに18年ほど経ちますが、この間トライアスロンが物好きな人たちの体力への挑戦からオリンピックの正式競技となるまで、目まぐるしい発展・変貌を遂げました。その間に組織も現在の社団法人日本トライアスロン連合に統合整備され、ルール面でも大きな進歩発展がありました。この陰には過去に起きたいろいろな事故の歴史があります。しかし、事故というマイナスのイベントはとかく、真実を隠そうというバイアスがかかり、一般の耳に入ってくることが少なくなります。医療事故でも1件の死亡事故の陰には、30倍の死亡にいたらない事故があり、300倍のニアミスがあるといわれています(ハインリッヒの法則)。いったん事故が起きると、当事者・家族の不幸は言うまでもありませんが、その責任問題が発生し、大会の存続そのものも危うくなってきます。警察も大会の開催許可を出すのに一般交通に与える影響以外に大会中の事故の危険について大きな関心を寄せています。私は現在、技術とメディカル両委員会に関わりを持っていますが、毎回メディカル委員会でも重大事故については報告され、その原因と予防措置について討議されています。公正と安全のためにあるトライアスロンの競技規則が現在のものになった経緯には過去の事故の反省から創意改正された歴史があり、過去の事故の歴史をもう一度振り返ってみることは、今後のトライアスロンの発展のためにもかかせないことだと考えて、このテーマを取り上げた次第です。
まず、具体的な例をひとつあげるならば、第2回のハワイアイアンマンレースでジュリー・モス選手が這ってゴールをするシーンが全米に放映され、大勢の人に感動を与え、トライアスロンブームのきっかけとなりました。当時ランの移動方法として、走ること・歩くこと・這うことが認められていました。しかし、その後意識もうろう状態で這っているのは、重症の脱水症(熱中症)であり、現実に死亡例が出るようになったために、這うことはルール上禁止されました。それでは各パートごとにどのような事故が過去に起こり、そしてそれがどのようにルールを変えていったかをみてみましょう。
【スイム】
1.1983.7.27 第3回皆生トライアスロン大会 Tさん(59、外科医)溺れて意識不明の重体となり、1988.5.28意識が戻ることなく、心不全のため熊本地域医療センターで死去。氏は熊本CTCのメンバーでわが国のトライアスロンのパイオニアでした。
2.1986.7.20 第2回串本トライアスロン大会(スイム、2km) Iさん(59、京都)水泳1400m地点で溺れて意識不明となり、4日後に死亡。(TJ誌2(7),p70,1986)この大会は私も参加しており、流れもあり水温も低かった記憶がある。当時まだウェットスーツは普及していなかったし、この大会ではウェットスーツの着用は禁止であった。この後ウェットスーツの着用がローカルルールで義務づけられる大会が多くなった。この事故は遺族が主催者である町の責任を追及して提訴したが、地裁、高裁とも安全配慮義務違反はなかったとして請求は棄却された。(「トライアスロン競技中の突発的な心臓停止による死亡事故と、競技主催者の安全配慮義務、医師、看護婦の配置義務」日置雅春、臨床スポーツ医学;p1222-1224,1994)この事故の後、和歌山県ではトライアスロン大会は10年間開催されていない。
3.1987.7.12 第3回あらさとタフネスマントライアスロン大会(宮古島) Kさん(選手)、Fさん(救助船救助員)の2名が水死。台風接近で高波があり、波浪注意報発令中、湾内だからということで大会を挙行し、引き潮(大潮)で湾外に流され高波に飲まれる。救助にいった救助船も転覆した。(TJ誌3(10),p31-33,1987)この事故の後、大会主催者の気象状況に対する判断の重要性が言われるようになり、大会1時間前の実施検討委員会が義務付けられ、いくつかの大会でスイムを中止したり、短縮したり、コース変更したり、場合によっては大会そのものが中止されたりするようになりました。
4.1995.7.2 びわこミニトライアスロンin高島 Tさん(33、彦根)スタート後35分後うつぶせ状態で発見。即刻心肺蘇生を行うも救命できず、45分後死亡、診断書は急性心不全。(TJ誌11(15),p58-60)
5.1995.9.3 レイバーデイ・スプリント・トライアスロンin MCAS(山口県岩国市) 49才会社員、替え玉出場。スイムスタート5分後に海上で浮いているのを発見され、病院に運ばれたが心不全で死亡。(J.T.U.news No.7)
6.1999.5.9 (静岡県修善寺、CSC) 47才男性が水泳競技中に心筋梗塞でなくなる。(JTU Magazine No.14 p14)
7.1999.6.27 神奈川県選手権大会 55才男性、大会はその後の荒天もあり、途中で中止となる。(JTU Magazine No.14 p14)
8.2000.8.27 第11回トライアスロン・イン珠洲大会(Aタイプ) Kさん(47才女性、奈良)スイム競技終了間際に溺れ、迅速な救助の後、病院で治療を受けるが、意識が戻らないまま、11日後に死亡。(JTU Magazine No.21 p14)
9.2001.7.29 第16回長良川国際トライアスロン大会 Tさん(55才男性、大阪府堺市)ゴール前100m地点で急に泳ぎがおかしくなり、水没。近くでみていた高校生がすぐ助けあげたが、心肺停止状態であった。私も10分後には現場に到着し、心肺蘇生をしながら病院に運んだが、救命できず、約12時間後に死亡。水泳中の心臓発作と思われた。
10.2002.4.21第18回全日本トライアスロン宮古島大会 Yさん(41才男性、那覇市)スタート後50分頃、ゴール手前100m付近でコースをはずれ、一旦逆に泳いだあと、Uターンして泳ぎ始めた直後、動きが止まった。近くにいたダイバーらが引き上げたが心肺停止状態であり、心マッサージをしながら病院へ搬送したが、救命できなかった。翌日死因を調べるため司法解剖されたが、溺死であった。また同大会でMさん(71才男性、大阪府)もスタート後300m付近で円を描くように泳いでいたため、監視員が近づいたところ、動きが止まり引き上げたら心肺停止状態であった。病院へ搬送し、集中治療が行われたが意識不明の重体となった。この2ケースは溺れる前に方向感覚を失ったような異常な泳ぎがみられ、錐体内出血による急性平衡失調の関与が疑われた。
水泳中の事故は即重大事故につながりますが、原因を分類すると選手の泳力不足、主催者の気象判断の甘さ、突然の内因性疾患があります。内因性疾患については防ぐことは難しいですが、これも致命的なものでなければ、救護体制がしっかりしていれば助かる場合もあります。最初の泳力不足はウェットスーツの着用、監視体制の強化で防げると思います。主催者の気象判断の甘さや監視体制の不備が原因で重大事故につながった場合には主催者の管理責任が問われることになります。
【バイク】
大会中のバイク事故では死亡事故は起こっていないが、練習中の事故では死亡事故も起こっています。練習中の事故も含めて述べたいと思います。
1.1988.7.17 アイアンマン・ジャパン・インびわ湖 30才、男性、在米日本人。レース中に転倒し、右上腹部を強打。下大静脈損傷を伴う重症肝破裂で翌日ショック状態となり、緊急開腹、肝右葉切除により救命できたが、2ヶ月半の入院治療を要した。(「肝後面下大静脈損傷を伴う重症肝破裂の1治験例」奥村 悟ほか、日消外会誌22(11):2720-2723,1989)
2.1994.7.17 野尻湖カップトライアスロンジャパンオープン 替え玉出場の外人選手がバイクで転倒、脊髄損傷のため下半身麻痺となる。(資料不明)
3.1999.8.22. レイク・ハマナ・トライアスロン大会(静岡県選手権) バイク同士の正面衝突事故が起こり、双方が重症を負った。センターラインオーバーが原因と思われた。一方の選手に重い後遺症が残り、同じクラブ員同士であったが、補償問題で係争中。
この他、レース中の転倒による擦過傷は日常茶飯事で、大骨折も枚挙にいとまがありません。1987年にスコットバーが出始め、練習中の重大事故が相次ぎました。
4.1987.8.13 北海道 Tさん、青年医師。練習中トラックに追突され、腰椎骨折のため下半身麻痺となる。その後復活をかけた懸命なリハビリも叶わず、2年後に血行障害のため右下肢切断、車椅子の生活となり、さらに2年後自ら命を絶ちました。Tさんについての紹介記事はTJ誌 2(5):50-51,1986 にあります。
5.1988.7.8 千葉県 Nさん。無灯火、ノーヘルで頭蓋骨骨折で即死。(TJ誌 4(13):38-39,1988)
6.1988.9.3 千葉県 Oさん(47才)。頭蓋骨骨折で即死。(TJ誌 4(12):27,1988)
7.1989.8.13 千葉県 山本光宏選手。頚椎骨折の重傷、その後懸命のリハビリを続け、競技者として復活。
8.1993.6.27 静岡県 Sさん。クラブ練習会で駐車中のワゴン車にノーブレーキで追突、即死。(TJ誌 9(11):60-61,1993)
海外でもクリスチャン・ブストスやマーク・アレンといった有名選手までがバイクで交通事故により大怪我をしている。また2002.1.12オーストラリアの若手で今後の活躍が期待されていたルーク・ハロップ選手(24才)が早朝練習中に無謀運転の車に跳ねられて亡くなるという痛ましい事故の報告がありました。交通規制のかけられた大会中でさえ危ないのに、交通規制のされていない公道でエアロポジションで乗ることはまさしく自殺行為であるという認識を持った方がよいと思います。大会中だけでなく、大会前にもヘルメットをかぶらずに乗っている選手が失格の対象となるというルールは厳しいようですが、選手自身の安全と大会の存続のためには当然のルールであろうと思います。
【ラン】
ランに入って起こる事故で最も重大なものは、脱水症あるいは熱中症とそれに続いて起こる多臓器不全です。過去に3件の死亡事故が報告されています。
1.1988.8.21 第3回酒田トライアスロンおしんレース全国大会 地元の選手がゴール直前に脱水症で倒れ、心不全で死亡。(TJ誌 4(12):31,1988)(TJ誌 4(13):75,1988)
2.同じ年、やはり東北の方のレースでもう1件の死亡事故が報告されているはずですが、資料不明。
3.1995.8.6 ジャパン・トライアスロン・エキデンin新旭 Hさん(吹田市、35才)。ラン9km地点で倒れ、10分後に救急車が到着、心肺蘇生を行いながら病院へ搬送するも、約1時間後に死亡を確認。死亡診断書には「不整脈による急性心不全」と記された。(TJ誌 11(15):58-60,1995) 
4.2002.7.7 富山新港・海王丸トライアスロン2002大会 Nさん(67才男性、富山県)ランゴール手前30mでよろめいて、倒れる。直ちに本部にいた医療チームがかけつけ、心マッサージを行い、新湊市民病院へ搬送するが、蘇生せず。「急性心不全」による病死と診断される。気温30℃、湿度は高かった。家族の話や本人が周囲に語っていた内容では、心臓病の持病があり、春先から通院していたという。(実行委員長高安氏の報告書より)
 鬼束らは長良川大会の経験から熱射病(熱中症)に対する対策を重視している。(「トライアスロン競技における熱射病の血液生化学的検討」鬼束惇義ほか、日救急医誌 3(5):342,1992)(「トライアスロン競技における熱射病4例の検討」荒川博徳ほか、日救急医誌 2(5):840,1991)(「トライアスロン大会の医事運営-7回にわたる長良川国際大会における経験を中心として」渡辺郁雄ほか、岐阜県医師会医学雑誌 7(1):408,1994)
勝村先生はレースの総距離が短いほど全障害の中で外傷の占める割合が多くなり、総距離が長くなるほど脱水症の割合が増加すると述べている。(「トライアスロンにおける障害と救護体制」勝村俊仁ほか、日救急医誌 2(5):840,1991)
 松原らは皆生大会で競技前後の心電図変化を調べて50才以上のトライアスリート20名中3名に異常心電図がみられたと述べている。(「トライアスロン競技前後の心電図変化-50才以上の高齢トライアスリートについて-」松原康博ほか、臨床スポーツ医学 12(4):433-437,1995)
 中野はまだトライアスロンでは報告がないが、横紋筋融解症の起こる可能性について警告している。(「トライアスロン競技を観て想う-急激な運動後に起こる横紋筋融解症」中野 徹、新医療 13(8):19-20,1986)
私も1994年蒲郡オレンジトライアスロンで多数の脱水症を経験し、東三医学会で報告しました。(東三医学会誌 17,p6-9,1995)
ランにおける脱水症対策は選手への啓蒙が重要ですが、当日の気象状況に注意し、発生が予測されるような場合は医療テントの位置、十分な点滴の準備、また救急車の進入経路や病院への搬送経路などについて事前のシミュレーションが必要です。
まとめ
以上のように日本におけるトライアスロンの事故史を振り返ってみると、現在あるルールがなぜ出来たのか納得がいく部分が多々あるかと思います。エアロバーという新しい器材が開発されて、その使い方が慣れていない時に起こった悲しい事故を経て、その乗り方、形状についても細かいルールが決められていったわけです。現在のルールも決して完全ではないわけで、新たな器材の開発で新たな問題が起きることも十分考えられるわけです。そのときに、大事なのは安全への配慮であることで、最後はそこに戻って考えるという姿勢を持ち続けたいと思います。
論文要旨
トライアスロン事故史からみたルールの変遷
      愛知県トライアスロン協会 竹内元一
 日本におけるトライアスロンで過去に各パートごとにどのような事故があり、それがルールをどのように変えてきたかにスポットを当ててみた、いわゆる日本におけるトライアスロン事故史の集大成です。競技規則は公正と安全のためにあるわけですが、大会の存続のためにはまず安全の確保が最重要課題です。現在のルールは完全でも絶対のものでもないわけで、ルールを議論するときには最初に原点に戻って安全の確保のためにはということをいつも考える習慣が必要だと思いこのテーマを取り上げました。 

トライアスロン菌をばら撒く

トライアスロン菌をばら撒く

 私は色々な菌を持っています。キノコ菌、山菜菌、競艇菌、囲碁菌、とりわけ感染力が強いのがトライアスロン菌です。私の周りにいる人たちにいつの間にかうつってしまいます。どうも空気感染のようです。大学の医局に戻った時に宮古島、琵琶湖を目指して知多から片道26kmを自転車通勤していましたが、研究室の何人かにうつって、今井常夫先生(現愛知医大教授)、吉田信裕先生、杉浦勇人先生(前碧南市医師会長)はロードレーサーを買い、杉浦先生は一緒に修善寺トライアスロンに出るほどに重症でした。蒲郡でもオリンピックのプールで水泳の練習をしていましたので、プールに来ていた何人かにうつり、記録会、練習会を介して蔓延して行きました。もちろん、一緒に住んでいる家族にもうつらない訳がありません。音楽が唯一の趣味で小学校から運動音痴の女房にうつった時にはびっくりしました。長良川国際大会には一緒に2回出て完走し、名古屋港トライアスロンも完走し、ついには第3回宮古島トライアスロンに一緒に参加することになります。この時にはスイムを上がってから後尾車に伴走され、マラソンの折り返しで時間切れリタイアとなりますが、今でも誰も信じられない経歴となりました。子供4人も大会に一緒について行くうちに自然に感染し、全員一度は大会に出ることになりますが、一番重症で未だに完治しないのが、長男鉄平です。大学時代から夢中になり、企業スポンサーであるアラコ→トヨタ車体にトライアスロン競技部員として優遇入社し、オリンピックを目指して強化指定を受けますが、夢かなわず日本選手権2位、日本ロングディスタンス選手権優勝が最高の成績でした。戦力外通告を受けて、それで終わるかと思ったら、独立してトライアスロンスクール”あすたま”を創ったり、株式会社”トライアーティスト”を設立して、トライアスロングッズの販売や、大会設営などもするようになり、自転車操業を続けています。

JTUメディカル委員会

JTUメディカル委員会

 トライアスロンのメディカルで最初に足跡を残したのは東京医大公衆衛生学教室の故岩根久夫教授です。きっかけはハワイのアイアンマンに出る人からこういう競技に出場したいのですが、診断書を書いて欲しいと相談を受けたからです。真面目な先生はどんな競技かも解らずに診断書を書くことは出来ないとトライアスロンのことを研究するようになり、トライアスロンに関していくつかの論文を発表します。岩根先生が亡くなられた後、それは同じ教室の勝村俊仁先生に引き継がれます。日本トライアスロン連合(JTU)が発足して技術委員会によってトライアスロンの競技・運営規則が整備されると次はメディカル委員会を構築して、医療面でトライアスロンをサポートすることが次の課題となりました。トライアスロンを始めた医師の中には日本体育協会の公認スポーツドクターの資格を取って、トライアスロンのメディカル面でも協力したいと思うドクターが全国各地に現れ始めました。私も愛知県トライアスロン協会の推薦で日体協の公認スポーツドクターの講習を2年間にわたって受けて、取得しました。JTU発足と同時に審判の傍ら、メディカル委員としても活動するようになりました。トライアスロンを専門的に研究して来た訳ではありませんので、メディカル委員長は東京医大の勝村先生がすることになりましたが、間もなく加盟団体である東京都トライアスロン連合で不祥事が起こり、東京都の役員もしていた勝村先生はその責任を取り委員長を辞任されたので、私に委員長が回って来ました。メディカル委員会が果たすべき役割はいろいろあります。まずトライアスリートのメディカル面のサポートでエリート選手の競技力向上のための助言もありますが、一般競技者の大会での安全管理のための提言、重大事故が起きた時の原因の究明とその対策、国際大会へ派遣される選手団の帯同など多岐に渡ります。全国で100以上の大会が行われるようになると大会医療班まではとても手が回らず、日本選手権やワールドカップ以外のローカル大会では主催者に地元での医療班編成をお願いすることとしました。まずはメディカル委員会に協力してくれるドクター探しから始めましたが、全国に散らばっているドクターをまとめるのは大変なことで、まだ資金のないJTUからメディカル委員会に会議用の出張費も出してはもらえません。そこで大きな大会の時に近隣のドクターに集まってもらって相談すると言う有様でした。それでも手弁当で協力してくれる勝村先生はじめ、宮崎の押川紘一郎先生、奈良の笠次良爾先生、広島の川堀耕史先生、鹿児島→東京の牛島史雄先生などに支えられて何とかやっていました。しかし、医者としての仕事を持ち、ボランティアで続けることは限界があります。広島の川堀先生などはシドニーオリンピックの派遣選手団に1か月近く帯同しましたが、その間仕事は出来ず、選手の使い走りのようなことまでさせられては情熱も冷めてしまいます。これからはスポーツ医学を専門にしている先生(奈良の笠次先生、東京の牛島先生、村瀬先生など)にお任せすべきだと考えて、私は相談役に引退して笠次先生に委員長を替わっていただきました。

大会医療班

大会医療班

 色々なスポーツ大会で大会中の事故や病気の発症に備えて医療班が編成されます。私も日本体育協会の公認スポーツドクターを取り、愛知県スポーツドクター協議会に入っていますので、色々なスポーツ大会の医療班の募集や国体の帯同などの仕事にも応募したことがあります。しかし、医療班と言っても、救急箱を用意してもらい、現場に行って見ているだけでたまに転んで擦り傷をした人が来るくらいでほとんど仕事がないのが普通です。しかし、トライアスロンの医療班は結構な仕事があります。スイムでの死亡事故も1~2年に1件くらいの割で起こっていますし、自転車での転倒での骨折や擦過傷、最後のランでの脱水、熱中症の発生などです。昔はロングの大会だと終わって脱水がひどくなくても疲労回復に点滴を受けにくる選手までいましたが、流石に今では必要のない点滴は断っています。用意する機材も、AEDからアンビューバッグやシーネ、包帯、消毒薬、ガーゼ、綿球、点滴などたくさんあります。どこで、受傷者が出ても対処出来るように動線の確保と後方医療機関の確保なども必要です。蒲郡オレンジトライアスロンの副実行委員長として医療面の設営をしていた時には、蒲郡市民病院と日赤の両方からドクター、看護師さんの派遣を要請し、消防署にも待機を要請していました。1994年7月31日蒲郡オレンジトライアスロンで学生選手権の部を設けたのですが、学生が頑張り過ぎて無理をするのか、気象条件が悪かったのか17名の脱水症が出ました。重症の場合意識がなくなり痙攣を起こすこともあり、救急蘇生のABCを実践することになりました。幸い死亡例は出ませんでしたが、4人の重傷者は入院治療が必要でした。熱中症の対策にはセルフチェックと大会前の注意喚起が重要と言うことで笠次先生がセルフチェックシートを作ってくれて、熱中症の発生は随分少なくなりました。

皆生の海に消えたトライアスロンのパイオニア

皆生の海に消えたトライアスロンのパイオニア

 熊本の堤先生は創意工夫に富んだ心臓外科医でした。熊本で病院を開設して、心臓の独創的な手術にもチャレンジする一方で、趣味のランニングでは日医ジョガーズの産みの親となります。その独創性はそこでも発揮されました。マラソンの段級位を考えたのです。30歳を超えるマスターズのランナーが目標とするのは10kmを自分の年齢と同じ分数で走れるかどうかで、自分の年齢と同じで走れればマラソン初段、それより1分速ければ2段、遅ければ1級と言う具合です。私は今68歳ですから10kmを68分で走れれば初段と言う訳です。確かに35歳の頃には35分台で走っていましたが、今は60分を切るのは難しくなっています。毎年三河湾健康マラソン10kmの部で初段が取れるかどうかが目標となっていました。
 堤先生は日本でまだ始まっていなかったトライアスロンにもチャレンジします。熊本CTC(クレージートライアスロンクラブ)の会長となる永谷誠一さんとともにハワイアイアンマンに挑戦しました。その頃、皆生温泉の旅館組合の人が、何か新しいイベントを作って観光の目玉にしようと言う話が出て、日本ではまだ行われていなかったトライアスロンに注目しました。そして、堤先生と永谷さんがハワイアイアンマンに挑戦したと言う話を聞きつけて、アドバイザーとして迎えました。1981年8月2日、日本で初めてのトライアスロンが53名の物好きを集めて行われました。
悲劇が起きたのは第3回(1983年)大会の時でした。2kmのスイムの途中で、日本初の事故が起きたのです。それも堤先生ご自身(当時59歳)が溺水され、助け上げられましたが、意識不明となり、その後意識が回復することなく、約5年後に転送先の熊本地域医療センターで心不全のため死去されました。私がトライアスロンに初めて出場したのは1984年の第1回串本トライアスロンですから生前に先生とお会いする機会はなかったのですが、その勇名は伝え聞いていました。
 その後、JTUの役員、メディカル委員長となり、大会中の事故の原因とその対策についての研究に携わるようになり、泳げる人の溺死の原因について、いろいろなケースがあることが解ってきました。意識を失うような突然の内因性疾患の発症以外にも、低水温による迷走神経反射、錐体内出血による急性平衡失調、海水誤嚥後の急性肺水腫、過換気症候群、パニック症候群などなどです。今年、残念なことに皆生の第35回大会で、同じ愛知県の外科医が溺水で亡くなりました。まだスイム事故をなくせないのかと堤先生に怒られそうです。私が、皆生トライアスロンに出たのは第20回の記念大会の時でしたが、この時には永谷さんも一緒に出ていました。残念ながらバイクの途中でワラビを採っていたためにマラソンの途中で時間切れとなり完走出来ませんでした。

トライアスロンにおけるドーピング検査

トライアスロンにおけるドーピング検査

 スポーツに高額の賞金が出たり、あるいはオリンピックやワールドカップなどで国を挙げてのメダル獲得競争が激化してくると、正規のトレーニングで力をつけるよりも健康を害しても薬を使って競技力を高めようと考えるアスリートや競技団体、国が現れるようになりました。そうしたドーピング違反を取り締まって、ペナルティを課すための検査を行うルール作りを行う機関が必要となり、1999年に世界アンチードーピング機構(World Anti-Doping Agency:WADA)が出来、各国にWADAと批准を交わした機関が出来ました。日本には2001年に日本アンチドーピング機構(Japan Anti-Doping Agency:JADA)が出来て、2003年には WADA code に従って国内の検査をするようになりました。ドーピング違反とは禁止薬物や禁止方法を使って、競技力を高めようとする行為や禁止薬物、禁止方法を隠蔽しようとする行為などが含まれます。禁止薬物は毎年WADAが発表していますが、いたちごっこのように新しい禁止薬物が出て来ます。禁止薬物にはカフェインやエフェドリンといった、コーヒーや風邪薬にも少量含まれている興奮剤や射撃系の競技で心拍数を抑えるためのβーブロッカーや短距離や投擲、重量揚げなどで筋肉を増強するために使われる蛋白同化ステロイド、持久系競技で持久力を高める(酸素運搬能力を高める)目的で使われるエリスロポイエチンや血液ドーピング(自己血を保存しておいて競技直前に輸血する)などと、禁止薬物を隠蔽するために使われる利尿剤や蛋白分解酵素などがあります。トライアスロンは持久系の競技ですので、使われるとしたらエリスロポイエチンか血液ドーピングですが、血液検査が必須で当時尿検査しか方法がなかったので、1件の違反も見つかりませんでした。WADAとJADAが出来る前には競技団体の心ある人たちが独自に検査を行っており、日本におけるトライアスロン競技でも勝村先生が琵琶湖のアイアンマンで実施したのが始まりだと思います。私もJADAが出来てドーピングコントロールオフィサー(DCO)養成が始まると資格を取って、最初は五島(福江島)のアイアンマンや石垣島のワールドカップなどの競技会検査のDCO責任者として行ったこともありますが、そのうちにJADAの方針としてその競技団体に属するものが検査を行うと公平さを欠く恐れがあると言う理由で他競技からのDCOが派遣されるようになり、自然とDCOから足が遠のくようになりました。しかし、アンチドーピングはJTUにとって重要なテーマであることに変わりはなく、啓蒙と競技会外検査を受けるための選手の居所情報登録のサポートやTUE(治療目的の薬物使用)申請のサポートなどをメディカル委員会で行っています。

幻の島豆腐

幻の島豆腐

 1985年、宮古島トライアスロンの第1回大会に子供3人を連れて行きました。鉄平が小学校1年生、純平はまだ3歳くらいでした。私のゴールを待つ間に純平は疲れて競技場で寝てしまいました。女房は困ってしまいましたが、そのとき西原の部落の池間さんの奥さんが純平を見てくれたのです。それが縁で、池間さんのお宅にゴール後お邪魔するようになりました。2年目の時でしたか、近くに美味しい豆腐屋さんがあるからと連れて行ってもらいました。地元でも幻の豆腐と言われて、あまりたくさん造らないので、地元の市場にも出しますがすぐに売り切れてしまうという話でした。
 その豆腐屋さんは小学校の横の道を入ったサトウキビ畑の中にありました。石嶺豆腐です。石嶺勇太郎さんとシゲさん夫婦が棲んでいました。昭和22年小さなユクタギ部落の石嶺家長男の勇太郎さんは軍服姿で西原部落から風呂敷ひとつ持ってきたモンペ姿のシゲさんを嫁に迎えました。勇太郎さん22才、シゲさん24才でした。勇太郎さんは生みの母を知らず、シゲさんは父を知らず、二人とも片親に恵まれない環境で育ちましたが、二人は初夜の日に誓い合いました。「明るく楽しい家庭を築こう!!」と、・・・。やがて、正直で働き者の二人は1男5女の子宝に恵まれて、子供たちは大きな病気をすることなく、すくすくと育っていきました。勇太郎さんは農業(さとうきび)と養豚で生活を立てていましたが、6人の子供を育てるには生活も苦しく、シゲさんは43才のときに少しでも生活の助けになるようにと豆腐作りを始めました。昔ながらの生絞り、釜戸で薪を燃やして、呉汁を煮て、海水で固めるという作り方です。たちまち島で人気の豆腐になりましたが、海水汲みと薪の準備はおじいも手伝いますが、作るのはおばあ一人ですから、午前4時ころに起きて2鍋つくるのが精一杯でした。
 私が、石嶺豆腐にお邪魔するようになったのは、子供たちも独立して、落ち着いた生活ができるようになったころでした。おばあも豆腐でそんなに儲けなくてもよいのだけれど、島の人たちに人気があってやめられないと言っていました。何しろ本土の豆腐よりでかくて締まっている。大きさで倍、目方では4倍くらいはある。でも1丁が140円でした。最初に行ったときにまず出来たてのゆし豆腐(型に入れて固める前のおぼろ豆腐)をいただきました。海水で固めるので、塩味がついていますが、甘いのです。3~4年、毎年伺ってはご馳走になり、帰りに豆腐をお土産にもらってきました。そのために、おばあはいつもより早く起きて一鍋余分に作ってくれます。何度も伺っているうちに自分で豆腐が作れたらいいなと思い、おばあに作り方を教えてとお願いしました。おばあは気よく教えてくれました。それでは、作り方を説明しましょう。
 まず、にがり代わりに使う海水を汲んでくるのはおじいも手伝います。週に1回くらい西平安崎辺りへ汲みに行き、外のポリタンクに貯めておきます。大豆は国産がよいですが、それほど豆にはこだわっていません。前の日に水に漬けてポリバケツの中に入れておきます。
一晩水に漬けた豆をグラインダーにかけて磨り潰します。これが呉汁です。これを大きな脱水機の中に入れて絞り、生豆乳と生オカラに分けます。十分にこなれてないオカラはもう一度水を加えてグラインダーにかけると、もう少し豆乳が採れ、オカラもより細かくなります。
そうしてできた豆乳を釜戸の大きなアルミ鍋に移します。
釜戸はふたつあり、おじいが準備しておいた薪をくべて沸かします。
ふきこぼれないように見張りながら、おじいが育てている豚のラードを消泡剤に加えます。沸騰しかかった頃合を見計らって、びっくり水を加えて少し温度を下げたところで、にがりの代わりの海水を少しづつ混ぜて行きます。
すると豆腐が固まり、水と分離してきて、ゆし豆腐ができます。
それを型に入れて、・・・。重石をします。重石の重さと、時間によって、硬さは調節できます。
出来上がった豆腐を切り分けて、・・・。袋につめて出来上がりです。ゆし豆腐も人気があるので、半分はゆし豆腐のままで袋につめます。また、温めた豆乳をニガリを入れずに温度を下げていくときに表面に張ってくる蛋白質が湯葉ですが、湯葉も少し作ることがあります。
以上が私がおばあから伝授された豆腐作りです。私は海水の代わりに天然にがりを使っているのと、消泡剤のラードを使っていない点が違いますが、その他は同じです。
 おばあが70才を超えて豆腐作りが少しえらくなってきた時に、四女の洋子さんがご主人の山村日出男さんを連れて宮古へ戻ってきました。1993年のことです。それからおばあの豆腐は山村夫婦に受け継がれ、パーキンソン病を発症したおじいの世話も忙しくなったおばあに代わって作られるようになりました。平成15年3月29日おじいが突然亡くなりました。その年のトライアスロンで訪ねたとき、おばあが一人でさみしそうにしていました。1年経たないうちに後を追うようにおばあも逝きました。
 その後、宮古島に行くたびに石嶺豆腐は訪ねますが、山村夫妻に受け継がれた幻の豆腐は健在です。入口にはおじいの好きだったユウナ(オオハマボウ)の花が咲いています。

宮古島を走った有名人

宮古島を走った有名人

 著名人でトライアスロンに挑戦する人たちはたくさんいます。宮古島トライアスロンに限って見ても数人の名前が上がります。順番に見て見ましょう。
1.高石ともや氏(シンガーソングライター)
 氏は受験生ブルースで一世を風靡したシンガーソングライターですが、恐らく日本で一番最初にトライアスロンに挑戦した著名人です。39歳の時に日本で最初に行われた第1回の皆生トライアスロンに出場し、見事優勝を下津喜代志氏と分け合います。その後宮古島の第1回大会にも出て6位入賞を果たします。第2回大会、第3回大会でも15位、19位と上位入賞され、私は第1回33位、第2回22位、第3回29位でしたから追い越すことは出来ませんでしたが、第4回大会では私が61位、高石氏が65位と逆転します。
2.古代真琴氏(シンガーソングライター)
 高石ともや氏が最初の頃は開会式やアワードパーティの歌のアトラクションを引き受けていましたが、それを引き継いだのが古代氏でした。私よりも5歳若く、第5回大会ではかろうじて勝ちましたが、第6回大会以降は勝てなくなりました。
3.丘 みつ子さん(俳優)
 最近はお母さん役で出ることが多くなりましたが、宮古島大会に出ていた頃はまだ40歳代でスタイルよくとても綺麗な女優さんでした。一時拒食症で苦しんだこともあり、箱根に移住してスローライフに生活スタイルを変えて、陶芸などにも打ち込むようになったとのことです。
4.峰岸 徹氏(俳優)
 その風貌から、かつて「和製ジェームス・ディーン」と呼ばれた「赤木圭一郎の生き写し」と言われ、『若い季節』や東宝映画へ出演。また、1986年4月8日に投身自殺をしたアイドル歌手の岡田有希子の交際相手だったとの報道があり、時の人となった。岡田の自殺当日夜、仕事先のTBSにて峰岸が記者に囲まれ急遽会見し「正直ものすごいショックです」「僕はアニキのつもりだったが、彼女にはそれ以上のプラスアルファがあったのかも知れない」とコメント。2001年には著書『トライアスロン200キロへの挑戦〜突然ですが、宮古島に行ってきます!』(株式会社ランナーズ刊)を出版、2008年肺がんで65歳で亡くなるまで宮古島大会にエントリーされ、私より7歳年上ですが、負けた年もありました。
5.近藤真彦氏(俳優、レーシングドライバー)
 ある年の宮古島大会の時、ランの10km地点くらいで背の高い若者に追い越されました。沿道から「マッチー!」と声がかかり、初めて近藤真彦だと気が付きました。氏はショートの大会にもよく参加されて、2015年にはエージクラスで世界選手権に出場するほどになりました。
6.天宮 良氏(俳優)
 宮古島トライアスロンを題材とした映画「太陽(ティーダ)」の主演をしました。最近では相棒や科捜研の女にも登場します。
宮古島トライアスロン以外の大会まで含めるともっと多くの著名人が挑戦しています。リサ・ステッグマイヤー(JTU国際広報委員)、スターにしきのあきら、東野幸治、菊池弁護士、本村弁護士、ヒロミ、堀江貴文など「えっ、この人が!」と言うような人も挑戦しています。
  

悲劇の青年ドクタートライアスリート─田辺冬樹─

悲劇の青年ドクタートライアスリート─田辺冬樹─

 君と初めて出会ったのは宮古島トライアスロンの第3回大会の時でした。宮古島東急リゾートのエレベーターに乗った時に、少し天然パーマのかかった髪に日焼けした黒い顔、クリクリした眼が印象的でした。その時に言葉を交わして、徳洲会病院で研修をしているドクターであることを知り、お互い翌日のレースの健闘を誓い合いました。私はその頃全盛期で総合29位、年代別3位でゴールしましたが、君もその10分ほど後に総合36位でゴールしましたね。その後、第10回アイアンマン・ハワイに君が出ているのをテレビで拝見しました。フラフラになりながらゴールしてもインタビューされて、もう1回走りましょうか?とおどけて答えていた君の姿が眼に浮かびます。
 その翌年、君が練習中のバイク事故で脊髄損傷の重症を負い、下半身マヒになったと伝え聞きました。その当時スコットハンドルと言う名前でエアロバーが出始めた頃で、練習中の重大事故が相次ぎました。私の知っている限りでも死亡事故2件、脊髄損傷による下半身マヒ2件が起きました。人伝てに君がリハビリ入院している福島県の病院へ手紙を出したところ、車いすトライアスロンでの再起を目指してリハビリ中であるとの返事をもらいましたね。でもその翌年には血行障害で右下肢切断、そしてその翌年に車いすで電車にはねられて、若い命を絶ったと聞いて言葉をなくしました。スポーツでも仕事でもこれからと言う時に、同じ宮古島で完走した仲間として残念でなりません。
 私が、その後JTUのメディカル委員長となり、トライアスロンでの重大事故とその対策をまとめて書き、公道上での練習中にエアロポジションをとることは自殺行為であると警鐘を鳴らし、練習中の事故が格段に減ったのはそれから10年ほど後のことでした。

それでも宮古島を完走出来たのは?

それでも宮古島を完走出来たのは?

 宮古島トライアスロンには第1回大会から連続出場を続けていましたが、2000年のシドニーオリンピックでオリンピック正式種目となった年に同じ日に蒲郡で代表選考会のひとつとなるアジア選手権が開かれることとなり、大会副実行委員長の私がいない訳にはいかず、宮古島を欠場することになり、連続出場が途切れることになります。2001年から気を取り直して、また宮古島に通いましたが、年々記録が落ちる一方で、2008年を最後に完走出来なくなりました。いずれもバイクゴールまでは行くのですが、最後のランで折り返し以降の関門に引っかかるようになりました。2010年からは制限時間が30分短くなったこともあり、ランの途中でゴール関門終了の合図で打ち上げられる花火を見ては来年こそはと悔し涙を流していました。宮古島は第1回から参加者の年齢上限を65歳までと設定していました。日本では上限年齢制限をしている大会は他になく、高齢トライアスリートからの要望も多く、2002年に一度制限を撤廃した年がありましたが、その年に不幸なことに2人のスイムでの死亡事故が起こり、そのうちの一人が72歳だったために翌年からまた65歳定年制が復活してしまいました。従って66歳となった2016年以降は出たくとも出られませんでした。最後の完走となった2008年の時のことです。スイムを上がるとバイクのタイヤの空気が抜けていました。原因は判りませんがパンクしているようです。スペアタイヤを1本持っていますので、すぐに交換してスタートしますが、運悪く来里間大橋に差し掛かったところでまたパンクしてしまいます。もうスペアタイヤはなく、バイクゴールまではまだ90km近くあります。昔、琵琶湖のアイアンマンでは両輪パンクした状態で50kmほど走り完走したことがありますが、そんな元気もなく、パンク状態ではスピードもガタッと落ちますので完走することは難しいでしょう。途方に暮れていかにも悲しそうな顔をして過ぎゆくアスリートを眺めていたら、何と停まって「どうしたんですか?」と訊いてくれた選手がいました。確か東京の方から来ていた新地さんと言う方だったと記憶しています。世の中にはよい人がいるものです。訳を聞いてもしパンクしたら今度は自分が困ることになるのが判っているにもかかわらず、自分のスペアタイヤを貸してくれました。こうなれば、新地さんのためにも完走しない訳には行きません。最後のランでは歩き出したくなる衝動を抑えながら何とかぎりぎりでゴールしました。ゴール後もちろん新地さんを訪ねてタイヤは返しましたが、絶対絶命のピンチを乗り切ることが出来たエピソードです。ちなみにトライアスロンは他人の助力を仰いではいけないと言うルールがあり、本当はこれはルール違反です。昔、グレッグ・ウェルチが琵琶湖のアイアンマンで途中バイク故障で停まっていたところ、後から来た婚約者の女子選手のバイクを借りて走り、2位でゴールしましたが、他人の助力を仰いだということで失格になった事件がありました。たまたま落ちていたタイヤを拾って使ったと言うことで勘弁して下さい。その後、トライアスロンが競技としての体裁が整って来ると選手の責任でないメカトラブルで競技が出来なくなるのは気の毒だと言うことで、メカニックサービスが始まります。フランスのツールドフランスなどではサポートカーが伴走してタイヤ交換や自転車交換などは当たり前のように行われています。

フリムン先生との出会い

フリムン先生との出会い

 ランナーズで皆生トライアスロンの記事を見て、しばらくしてからフリムン先生の記事が載りました。フリムンとは与那国島の方言で変人とか気違いの意味だそうで、与那国島の診療所に勤める清水利恭先生です。清水先生は年は私よりふたつほど若いのですが、名大医学部の2年先輩で、アフリカへ渡ってシュバイツァーのような医者になるのが夢でしたので、まず僻地医療を勉強するために無医村であった与那国島へ渡ったのです。先生はマラソンも好きで毎日島中を走り回っていたようです。そしてトライアスロンにも挑戦するようになり、第2回宮古島トライアスロンで初めてお会いし、第3回の時には年代別の表彰で宮古島の舞台に一緒に上がりました(清水先生が1位、私は3位(総合29位)でしたが)。その後も僻地医療の夢は捨てずにフランス語の勉強にフランスに渡り、JICA(国境のない医師団)に入って、アフリカではありませんでしたが、南米のボリビアで僻地診療をされました。その後東京のJICA事務局に帰って来たころに一度東京でお会いしました。そして、2013年頃から蝶の撮影に毎年、清水先生が若いころに10年ほど過ごした与那国島を訪問するようになりました。フリムン先生のことを空港の売店の小母さんに尋ねたら、よく覚えて見えて、その頃は島の人にも慕われていたようです。迷蝶を追いかけて、与那国へ通うようになり、蝶屋が集まる与那国ホンダの西條さんのお宅にお邪魔した時に、トライアスロンをしている西條さんの写真が飾ってありましたので、フリムン先生のことを知っているか訊いて見ました。そしたら西條さんはもともと短距離が得意だったのですが、フリムン先生の影響でマラソンを始めるようになり、サブスリーも達成し、石垣島のトライアスロンにも挑戦したそうです。そしてフリムン先生の失敗談も聞いてきました。ある時に、事故で指を切断してしまった人がいて、その接合手術を沖縄本島の病院に頼んだのですが、何と切断した指を氷水ではなくホルマリンにつけて送ったのだそうで、それ以来島の人の信用は失墜してしまったとのことでした。与那国へ行くと夜の8時に与那国ホンダの西條さん宅に集まって飲むのですが毎回その話で盛り上がります。西條さんはまだマラソンを続けていて毎日ジョギンングは欠かしません。ともあれ、清水先生は私がトライアスロンを始めるきっかけを作ってくれた先生です。 

トライアスロンで生活するには?

トライアスロンで生活するには?

 誕生してからたかだか50年に満たない競技ですが、競技として確立し、オリンピック、国体の正式種目にも採用されると、この競技を趣味だけでなく生活の糧にしたいと思う人たちが現れます。トライアスロンで最初にプロと自認したのは城本徳満選手でしょう。氏は始めた頃はバイクの実業団選手として活躍していましたが、会社からのサポートを受けて、宮古島や琵琶湖のトライアスロンに出場し、好成績を上げればボーナスが出ると言う環境でしたが、そのうちにトライアスロンだけで生活することを考えてトライアスロンショップシロモトを立ち上げ、ウェットスーツやトライアスロン用バイクの製作販売を始めます。競技者目線から用具を開発することはトライアスロンの進歩につながりますし、選手として活躍すればするほど商品の売り上げも伸びると言うことで各地の大会に出て宣伝をしました。ウェットスーツの販売マージンは結構よいようで、鉄平なども水陸両用と鏡花水月を創って販売し、台湾のレースにも行って宣伝しているようです。まだトライアスロンの大会に出てその賞金で生活出来るほどの競技ではありませんので、次は企業スポンサーの開拓でした。これは大会スポンサーの開拓と抱き合わせで例えば蒲郡オレンジトライアスロンに蒲郡の眼科用医療機器メーカーであるニデックに協賛を頼みに行き、最初は100万円の協賛金を出していただけましたが、それがワールドカップに発展するようになると、海外進出を考えていた小澤社長の思惑と重なり、会社の宣伝のために世界を狙える選手を育てようと細谷はるな選手、枇杷田美雪選手、コーチの中込英夫選手の3人を雇い入れます。2000年のシドニーオリンピックには小澤社長とともに細谷はるなの応援に行きますが、残念ながらバイクで転倒して終わってしまいました。企業スポンサーの問題としてはウィンウィンの関係はスポンサードを受けている選手の活躍の具合によっても変わりますが、その企業自体の業績不振によっても終わる可能性があることです。これまでにニデック以外にも帝国警備、トヨタ車体、西京味噌、日本食研などたくさんの企業スポンサーが誕生しています。職業としてトライアスロンに関わるもうひとつの方法としてチームを創ったり、トライアスロンスクールを開校して生徒を募集すると言う関わり方があります。これにはコーチングテクニックを習得することと、練習会、記録会などの企画運営のノウハウが必要となります。飯島健次郎率いるチームケンズから始まり、八尾彰一コーチのチームブレイブ、山倉和彦・紀子夫妻がコーチをする東京ヴェルディトライアスロンスクール、高橋希代子のトライアスロンステーション、松山文人率いるアヤトトライアスロンスクール、宮塚英也率いる宮塚英也スポーツ研究所、中島靖弘、中込英夫コーチの湘南ベルマーレ、西内洋行のNSIトライアスロンスクール、竹内鉄平のあすたまトライアスロンスクールなどなど、日本全国に出来て初心者がトライアスロンを始める環境が整って来て、トライアスロンの発展に貢献しています。もうひとつの関わり方として、大会の企画・設営をする仕事があります。初期の頃には蒲郡オレンジトライアスロンでもそうでしたが、警察の認可、コース周辺の企業の承諾、海を使う場合は漁協や海保の承諾をもらったり、企業スポンサーを探したり、市や教育委員会の後援を取り、開会式・表彰式の会場確保から当日のゴールゲートやスイムスロープの設営から記録を取り、完走賞、記録表作成まで手作りでするか既存の広告代理店に委託するかしかありませんでしたが、そのうちにある程度の必要機材を持ち、その全てを請け負ってくれるトライアスロン大会設営会社が出来てきました。

トライアスロン用バイクの歴史

トライアスロン用バイクの歴史

 日本にトライアスロンが入って来たころにはトライアスロン専用バイクというものはなく、いわゆるロードレーサーと言う自転車のロードレース用のバイクを流用するのが一般的でした。1985年から始まった琵琶湖のアイアンマンではママチャリで出ている選手もいたくらいです。確かに、ママチャリは籠がついていますので、飲み物や食べ物を入れておくのには便利なのですが、変速ギアなしでアップダウンのある181kmを走るのは大変だったでしょう。ママチャリの重量は約13~14kg、ロードレーサーは11~12kgくらいでしたが、トライアスロンの中で、唯一道具を使うバイクはその道具の良し悪しによってかなり成績に影響します。そこからトライアスロン用バイクの研究が始まりました。その流れは大きく3つありました。第一は軽量化です。フレームの素材を何にするかで重量がずいぶん変わります。ロードレーサーのフレームはクロームモリブデン鋼(クロモリ)で作られるのが一般的でしたからどうしても重量が11kg近くなってしまいます。それをチタン、アルミと言った素材を使うことによって軽量化が図られました。第二は風の抵抗を如何に少なくするかでした。軽量化にも関わりますが、カーボンモノコックのフレームが出て、軽量化と同時に風の抵抗を減らす試み、前輪を小さくしたファニーバイク、ディスクホイール、そしてエアロバーの出現です。SCOTTと言うハンドルメーカーが最初に出したエアロバーはお結び形をしていて、何処でも持てるようになっていました。その後はドロップバーにクリップオンバーとしてつけるタイプが一般的になりました。今ではエリートレースではドラフティングOKルールとなっていますが、当初はドラフティング禁止ルールで行われていましたので、単独走でも風の抵抗を出来るだけ少なくすることがタイム短縮の大きな課題だった訳です。しかし、エアロバーが出始めた頃には練習中の事故が続発しました。別の章で紹介した田辺冬樹君の事故もそうでしたし、知り合いの弁護士さんでやはり脊髄損傷で下半身マヒになった方が見えました。結局、エアロバーは前傾姿勢になって、頭を下げると前方不注意になる危険と急な飛び出しなどがあったときに咄嗟のハンドル操作が出来ないと言う弱点があり、完全規制されたレース以外では出来るだけ普通のドロップ部分を持った方がよいと思われます。第三は種々の便利グッズやパーツの開発です。ブレーキ部分にギアチェンジ機能を持たせたり、ギアそのものも前3段にしたり、後ろ9段や10段という多段階変速を可能にしたり、スキーのビンディングのような捻ると外れるバイクシューズ、ペダルの開発、空気入れの代わりのエアボンベ、飲み物を乗りながら摂れるボトルの開発などいろいろありました。今では重量が9㎏くらいまで少なくなり、値段もそれなりに高くなって、およそ30万円台くらいからが普通です。

修善寺トライアスロン

修善寺トライアスロン

 宮古島、琵琶湖の始まった1985年、伊豆の修善寺の山の中にあるサイクルスポーツセンター(CSC)でCSCトライアスロン in 伊豆と言う大会が始まりました。そこには競輪選手を養成する競輪学校があり、競輪選手が練習するバンクのある自転車競技場、1周5kmくらいのアップダウンの激しい自転車コースと50m10コースの温泉プール、子供用の変わり種自転車で遊べる広場などがあり、自転車好きの家族連れが訪れる施設でした。そこで、温泉プールで1km泳ぎ公園内を10km走って、1周5kmのバイクコースを6周回(30km)すると言うトライアスロン大会を(財)日本サイクルスポーツセンターが企画して行いました。当時始めたばかりで何処かで大会はないかと探していた私は体育の日に行われたこの大会にもエントリーしました。153人が参加し、150人が完走しました。この時に優勝したのは宮古島でも2位に入ったことのある田中宏昭選手、また藤原裕司選手が5位に入りました。ハワイアイアンマンにも参加して日本人2位に入った故北村文俊氏は8位、私は女房と知多ランナーズの走る仲間を誘って参加し、2時間6分7秒で完走し、11位に入りました。女房は3時間55分36秒で150位(ビリ)、島田文武氏は114位でした。その後第2回大会は8位、第3回大会は18位、第4回大会は11位と健闘しました。一番苦しかった年は第5回大会の時でしたか、2週間前に出たグリーンピア三木の自転車レースでゴール前で転倒して左鎖骨骨折をしてまだ骨がくっついてないのに出て片手で泳いで完走し、それでも年代別で優勝すると言う快挙を成し遂げました。帰ってからレントゲンを撮りなおしたらまた大きくずれていました。

マーク・アレンの自転車

マーク・アレンの自転車

 マーク・アレンの自転車が日本で競売に出されたことがありました。マーク・アレンと言えば、デーブ・スコットと並んで、トライアスロンのレジェンドとしてトライアスリートの憧れの人でした。ハワイのアイアンマン6連覇と言う偉業を達成し、コースレコードを作った時に乗っていた自転車を日本で行われたパワーマンのレースに出た時に置いて行って売りに出されたものです。その記事が雑誌「トライアスロン」に乗って矢も楯もたまらずに、京都のバイクショップまで見に出かけ100万円の値がついていたそのバイクを即金で買って来ました。LOOK のカーボンモノコックのフレームにシマノのデュラエースが使ってあったそのバイクは愛知県トライアスロン協会専務理事(現JTU理事)、二光製作所の吉田さんに新品で作ったらいくらかかりますか?と訊いたら70万円くらいでしょうと言われました。そのバイクは残念ながらエンジンの違う私の足には合いませんでした。パワーマン使用でギア比は軽くしてあったと思うのですが、それでも宮古島ではアウターギアは使えませんでした。それを宮古島に持ち込んだ時には、当時バイクメカニックのテントを出していたボウルダーの椎原勇人君は即座にマーク・アレンの自転車だと言い当てました。その後も乗ってはいませんが、家に置いてあります。一度何でも鑑定団に出そうかと思ったこともありますが、今ではずいぶん錆も出ています。女房からも随分文句を言われ続けています。そんなバイクですが、もし手に入れたいという方が見えましたら相談に乗ります。

御岳スーパートライアスロン

御岳スーパートライアスロン

 トライアスロンはスイム、バイク、ランの3種目を連続でする競技ですが、場所によっては3種目が出来ない土地があります。その時種目を少し替えて行うトライアスロンがあります。3種目で一番ネックとなるのがスイムで、泳ぐのに適した場所がないところではスイムの替わりに登山やカヌーと言った種目に替えて行っている大会があります。一番古いのは小松トライアスロンでしょうか。その次に始まったのが御岳スーパートライアスロンでバイク16km、登山10km、ラン16kmですが、その標高差がスタートから折り返しまでが2000m以上と言うまさに日本一過酷なトライアスロンです。この大会にも1994年第7回大会の時に17歳になった高校生の長男、鉄平と知多ランナーズの仲間を誘って参加します。曜日に関係なく8月13日と決まっていましたので、夏休みの家族旅行を兼ねて行きました。この大会のよいところは、会場近くにある六車に泊まって、前夜祭、アワードパーティ(鉄人祭)に出ることが出来、「あの夏がやって来た!」の合言葉のもとにアットホームな雰囲気の中で交流を深めることが出来ることです。コースは三岳町のお祭り広場をスタートし、ほぼ登りばかり標高差1000m以上の16kmのバイクコースを走り、黒沢口登山道入り口まで登ります。ところがそこに至るまでに私にとっては厳しい関門がいくつもあるのです。山菜好きの私はワラビを見るとついバイクを降りてワラビ採りを始めてしまう悪い癖があるのです。そのために皆生のトライアスロンでも関門にひっかかりましたが、ここは途中で何か所もワラビが採れる場所があります。総合3位までに入るとヒノキで出来た賞状がもらえるのですが、とうとうヒノキの賞状は貰うことが出来ませんでした。しかし、まだ高校生だった鉄平には負けませんでした。この大会は10回で三岳町が主催から下りました。その後御嶽鉄人会が継続して大会を続けていましたが、御嶽山の噴火事故により頂上まで行けなくなり中止されました。

崩れた安全神話

崩れた安全神話

 2002年、17年間無事故で続いていた、日本で最も人気のある全日本宮古島大会で水泳競技中に41才の男性が死亡し、72才の男性が意識不明の重体となるという痛ましい事故が起こってしまいました。一緒に参加していた私としても他人事では済まされないことと思い、ペンを執りました。過去に日本国内の大会で起こった水泳競技中の死亡事故は9件、10人が犠牲になっています。その原因は大きく分けると3つあります。第一は選手個人の健康状態、基礎疾患や体力、泳力など主として個人の問題であり、第二は当日の水温、風、波、潮流などの気象条件、第三は参加人数、コース設定、監視・救護体制など主催者側の条件であります。通常この3つの条件がいくつか重なって不幸な事故が起こるわけです。まず、わかりやすいところから申しますと、気象条件は水温は例年なみでした。私は2年前からウェットスーツなしで泳いでいますが、入ったときに少し冷たく感じる程度で泳ぎ出せば全く冷たくはありませんでした。ただ、風と波は例年より少し強いかなと感じました。でもうねりはありましたが白波が立つほどではありませんでした。潮流は東から西にいつもより強い流れがあり、第二コーナーを折り返してからなかなか前に進みませんでした。私はいつも底の砂の模様をみて泳ぐ方向を決めているので、ゴールに向かって泳いでいるつもりが、横向きに流されてゴールより手前で岸の方に寄ってしまい、10人くらいのダイバーに方向修正をされました。流れに向かって泳ぐ場合は特に泳力の差が大きくなり、遅い人ほど時間がかかり、体力を消耗してしまいます。また、第二コーナーを回ってから間隔がつまり、バトルがまた起こる原因となりました。通常は第一コーナーを回ると殆どバトルらしいバトルは起こらないのですが、今年は一緒に出た複数の選手から後半にバトルがあったという話をききました。
 それでは、個人の条件はどうでしょうか?お二人とも4回の出場経験があり、大会前提出された健康診断書でも特に問題はなかったようです。今回年齢上限が撤廃されて、たまたま72才の方も事故にあわれたわけですが、年齢が事故の要因と考えるのはいささか短絡的であろうと思います。健康状態も問題なく、基礎疾患もなかったとなると、何故亡くなられたのでしょう。これは国内の事故では初めてのことだと思いますが、41才の男性は翌日死因を調べるために司法解剖をされ、その結果溺死であることが判明しました。溺死というのは、呼吸循環が停止する前に海水を肺の中に吸引し、そのために窒息を起こし、無酸素状態となり、意識を失い、その状態が継続することにより脳死となり、心肺停止にいたったものです。意識を失ってから脳死となるまでに約3分から5分あり、その間に心肺蘇生術を施せば助かる可能性があります。また、呼吸運動や水圧により耳管や外耳道から水が入り、頭蓋底の錐体内にうっ血や出血が起こり、そのために方向感覚を失うことがあり、異常な泳ぎ(蛇行、逆行)が見られたり、また意識を失った後も、痙攣様の呼吸運動がみられることがあります。この時点では循環は停止していないので、肺から吸引したプランクトンが血液に入って、腎臓などにみられ、溺死者と死後の死体投棄の鑑別点となります。
 それでは第三の主催者側の条件に問題はなかったでしょうか。コース設定は例年通りです。参加人数も3年前から殆ど変わっていません。監視・救護体制も例年通りで、他の大会が羨ましがるほどの監視船とダイバーの数ですし、エメラルドグリーンの海はどこまでいっても透明で、泳いでいて底のダイバーが見えますし、ダイバーからは泳いでいる選手が逆光ではありますが、よく見えていたはずです。強いていえば、その配置に少し今年の気象条件に合わせた工夫が必要であったかなと思います。それと、17年間続いてきた無事故で安全な大会という油断が救助のタイミングの判断に若干の遅れを生んだかも知れません。これは後だからいえることかも知れませんが、蛇行・逆行など異常な泳ぎをする選手は溺死一歩前の状態である可能性もあるわけですから即座に近づいて声をかけ、返事がなければすぐ救助するということが、重要ですし、意識喪失から3分以内に蘇生術が施せるような体制を作らなければいけないと思います。もちろん、選手自身の自己管理責任が一番大きいわけですが、水の中では予想もしない出来事が起こる可能性もあり、自分だけで対処できないとすると、周囲がそれをバックアップできる体制をつくらなければいけません。むかし、わたしの馬鹿な長男がプールで友達とどれだけ長く潜れるか競争をして、25mプールを往復して、折り返しプールの中央まできて black out (意識を失う)の状態となってしまいました。たまたまそれを見ていた知多市民病院の産婦人科の先生がすぐに飛び込んで蘇生術を施してくれるという幸運がなければワールドカップにもでることはできなかったでしょう。運がよければ助かり、運が悪ければ助からないというのでは悲しすぎます。監視員、レスキュー隊員、ダイバーだけでなく、選手自身も含めてトライアスロンに関わる人たちは簡単な救急蘇生術についての知識と技術を習得して現場に一番近いものがすぐに始めるという環境をつくる必要があると思います。
 以上は当時JTUのメディカル委員長をしていた私が、全国の大会主催者に向けて、スイム中の事故防止のために発表したものですが、この宮古島大会での事故に関しては、2件とも突然円を描いて泳ぎだしたり、異常な方向への泳ぎが見られたことから、恐らく耳管の中に水が入って、錐体内出血を起こして急性平衡失調の状態となり、パニックを起こして溺死したのであろうと推測し、その後私のところに取材に来た沖縄NHKの方に説明しました。1963年に東京都監察医務院の元院長の上野正彦先生が溺死者の解剖をするとその約半数に錐体内出血が見られ、それが泳げる人の溺死あるいは背の立つところでの溺死の原因ではないかと発表しています。バトルや波の影響で水が耳管に入ると、嚥下運動などでその水がピストン運動をして内耳の圧が急変動することにより内耳(錐体内)で毛細血管が破綻して出血し、その結果急性平衡失調が起こり、上下左右が判らなくなるのではないかと言われています。それ以後、スイム監視員は泳ぐ方向がおかしい選手に気を付けるようにと言われるようになりました。

カヌーアスロン&氷上トライアスロン

カヌーアスロン&氷上トライアスロン

 浜名湖の北にある細江町で1989年スーパーカヌーアスロンと言う水泳をカヌーに替えた大会が開かれました。そのニュースを聞いたチャレンジ精神旺盛な私は、翌年の第2回大会に出ようと、まずカヌーの店を探します。一番近い店は安城市にあるサンクチュアリと言うカヌーショップでした。そこでラダー(舵)のついたシーカヤックを購入します。店長にこれこれこう言う大会に出ようと思うんだけれど、・・・。と話したところ、それでは一度一緒に練習しましょうと岡崎の乙川へ付き合ってくれました。最初、パドルの動かし方など店長から指導を受けて、30分もしたら店長より速くなってしまいました。さて、大会当日は最初の種目がカヌーでしたが、浜名湖に注ぐ川の河口からスタートして折り返すコースでした。それを3位くらいで上がると得意のバイクでトップに立ち、最後のランで逃げ切れるかと思ったら、残り1km付近で蒲郡オレンジトライアスロンでも優勝したことのある渥美君に抜かれて2位になってしまいました。でも初めて出るカヌーアスロンで準優勝は立派なものでしょう。その後2~3回続けて出場しますが、カヌーの種類によってハンディキャップをつける方法となり、そのハンデの決め方に疑問があって、出るのをやめてしまいました。今は細江町では開かれていないようですが、2005年から兵庫県の芦屋浜と言うところでカヌーアスロンが始まり現在まで続いています。スイムが苦手だがカヌーならと言う方はチャレンジしてみてはいかがでしょうか?カヌーは免許もいらず、意外と速く水の中を移動出来ますので、車に積んで運び、池、湖、川、海などでの釣りや水遊びにも使えます。
 トライアスロンは通常夏のスポーツですが、冬にするトライアスロンとして、スキー、雪道ラン、スケートを組み合わせたものがあります。最初に行われたのは長野県の小海町と言うところで、小海リエックススキー場でゲレンデの上に行ってスタートし、ゲレンデを滑り降りて、一部またスキーを履いたまま登り、ゲレンデの一番下まで降りて、次にジョギングシューズに荒縄を巻いたものに履き替えて雪道ランを10kmほど行い、最後は松原湖の1周400mのスケートリンクを25周(10km)滑ると言うものでした。このレースにも3回ほど挑戦しますが、結局はスキーとスケートのテクニックで差が着く競技で、上位入賞は出来ませんでした。その後ウィンタートライアスロンとして、北海道などでも行われ、世界中に拡がり、世界大会も行われるようになりました。自転車とスケートは使う筋肉がよく似ており、昔、橋本聖子選手が夏は自転車競技で、冬はスケートでオリンピックに出場したのは有名な話です。トライアスリートがシーズンオフにするクロストレーニングとして取り入れてもよい競技ではないでしょうか? 

バイクシューズを履かない田村選手

バイクシューズを履かない田村選手

 昔、田村嘉規という名選手がいました。東北大農学部畜産学科卒。京都大農学部食品工学科修士課程修了。バイオテクノロジーの研究に打ち込んでいた同氏は西京味噌のスポンサードを得て、プロトライアスリートに転向しました。宮古島トライアスロンでも第10回~21回にかけて活躍し、第14回では見事優勝してみえます。
学究派の彼が当時バイクシューズ用のペダルのついたバイクにランシューズで乗っていたのです。皆は馬鹿にして誰も真似るものはいませんでしたが、そのような乗り方をしてタイムが変わらないことを実証して実践していました。
そもそも、バイクシューズをバイクシューズ用のペダルで漕ぐのは足がしっかり固定されて、引き足が使えるためであると考えられています。引き足というのは、ペダルを上に持ち上げる時に上向きにペダルに力をかけることですが、果たしてそれは正しいのでしょうか
引き足を使うには腸腰筋を主に使います。踏み足では大臀筋、中臀筋と言った筋肉を使います。体幹に近い筋肉ほど白筋の割合が多く疲れにくいからです。しかし、引き足と言っても本当に上向きにペダルに力がかかるほどは使ってないのが普通で、持ち上げる足の重さを軽くする程度の引き足で十分なのです。
それよりも、ペダルに足を固定することのデメリットを考えてみましょう。私の場合、155kmを6~7時間乗り続けなければいけません。固定されていると同じ足の向きに固定されて、同じ動きを6~7時間続けることになります。終わると関節が硬くなってしまっていて、スムースにランニングに移れないのです。またシューズ自体も硬く作ってあるので、足が痛くなります。途中3~4回は自転車を停めて用を足すことがあります。その時にバイクシューズだと固定と取り外しに少し神経を使います。ジョギングシューズならば履き替えの手間もいらず、バイクが終わってすぐにランに飛び出すことが出来ます。
最近は私も田村流を真似してバイクシューズ用のペダルにジョギングシューズで出ています。。

大会中止の決断

大会中止の決断

 トライアスロン大会の募集要項には荒天の場合の競技の変更・中止の可能性が必ずうたってあり、万一大会が中止になってもエントリー費用は返金しないことが書かれています。JTUの大会運営規則では各種警報発令の場合原則大会中止、各種注意報発令の場合はスタート1~2時間前に開かれる大会実施検討委員会(その構成は大会実行委員長(主催者代表)、レースディレクター、技術代表、審判長、医療部門統括責任者など)において検討して決定することが書かれています。こうしたルールが出来たのは過去の苦い経験(事例)があるからです。1987.7.12 第3回あらさとタフネスマントライアスロン大会(宮古島トライアスロンが始まってから行われるようになった地元のローカル大会)で、Kさん(選手)、Fさん(救助船救助員)の2名が水死。台風接近で高波があり、波浪注意報発令中、湾内だからということで大会を挙行し、引き潮(大潮)で湾外に流され高波に飲まれる。救助にいった救助船も転覆した。(TJ誌3(10),p31-33,1987)この事故の後、大会主催者の気象状況に対する判断の重要性が言われるようになり、大会1時間前の実施検討委員会が義務付けられ、いくつかの大会でスイムを中止したり、短縮したり、コース変更したり、場合によっては大会そのものが中止されたりするようになりました。私が参加した大会でも2015年の宮古島トライアスロンでのスイム競技の中止や波崎の日本選手権でのスイムコースの変更などがありました。石垣島でも2015年にはスイム中止でデュアスロンに変更されたことがありますが、スタート直前になっての大会の完全中止はワールドトライアスロン in 広島と今回(2018年)の石垣島トライアスロンの2回だけではないでしょうか?当日はスタート1時間前に雷も鳴る暴風雨となり、最初に1時間前にスイム競技の中止が発表され、デュアスロンへの変更が示唆され雨をしのいでブルーシートをテント替わりにみんなで持って次の発表を待っていましたが、スタート20分前に大会の完全中止が発表されました。雨でバイクでのスリップ転倒事故は予想されますが、一番の決め手は雷が鳴っていたことでしょうか?万一大会を決行して選手が雷に打たれて死亡事故など発生したりすれば、大会の管理責任を問われるのは間違いないでしょうから、賢明な苦渋の決断であったと思います。その日は1日中雨でしたが、雷はスタート予定時間前後だけでしたので、何もせずに帰るのは悔しいのか午後バイクコースを回っている選手は何人か見かけました。​

トライアスロンの練習と目標設定

トライアスロンの練習と目標設定

 我々がトライアスロンを始めた頃は何か単一の競技をしていて、トライアスロンに目覚めると言うのが普通でした。今では、競技として確立して、最初からトライアスロンを目指すと言う場合もあるようですが、多いのはスイム、バイク、ランのどれかをしていて、壁に突き当たりトライアスロンの世界に飛び込むパターンです。私の場合も元は陸上競技(中・長距離)→市民マラソン→フルマラソン→トライアスロンと言う経過でした。トライアスロンは個人の耐久競技で目標は人に勝つことよりも、自分の立てた目標に向かってトレーニングをしてそれを達成することが勝利であると言う競技です。3種の種目はいずれも有酸素運動(エアロビクス)であり、基本は心肺機能を強くすることで、3種目とも底上げすることが出来ます。また1種目だけに偏った練習は故障を起こすことが多いのです。私もフルマラソンに挑戦していた頃には走り込んで練習距離を伸ばすと、膝や足首の関節を痛めることがよくありましたが、トライアスロンを始めるようになってからはランで痛めたところをかばいながら他の種目の練習をすることで心肺機能を落とさずにトレーニングが出来るようになり、故障知らずとなりました。3種目の練習をしてそれがトータルとしてどれくらいの心肺トレーニングになっているかの目安として私はスイムの練習距離を4倍、自転車の練習距離を1/3にして加えることで、ランに換算した練習距離として日記につけています。換算距離で月平均1,000km(時間にして1日3~4時間)の練習している人はだいたい全日本クラス、300km(1日平均1時間)の練習をしている人は一般の大会で上位入賞をするバリバリトライアスリート、100km(1日平均20~30分)の練習をしている人は趣味でトライアスロンをしている人で完走するのが目標と言う感じでしょうか。まず基礎となる心肺機能が鍛えられたところでさらなるレベルアップを図るには苦手種目の克服です。それは受験勉強で目的の大学に合格するために苦手科目を克服するのと同じです。苦手種目の克服には正しいフォームを身に着けることが重要で、心肺機能のトレーニングが一人で出来るのに対して、フォームの矯正は自分では気が付きにくいことですので、コーチに見てもらい矯正してもらうことが必要になります。そんな時に全国各地に出来たトライアスロンスクールが役に立ちます。

無茶な練習

無茶な練習

 トライアスロンはフィールド(コート)のないスポーツです。大会の時には、スイムは海または川または池または湖、時に競艇場で行われますし、バイクとランは通常道路を使って行われます。大会中には安全管理体制がしっかりしていますし、道路も交通規制をされているのが普通です。それでも事故が起きている訳ですから、交通規制のない道路で練習したり、一人で川や海で練習するとなると、自分の責任で安全を確保しなければなりません。私も上位入賞を目指して、トレーニングしていた30歳代後半には月に1000kmほどのバイクトレーニングを公道でしていました。仕事でも忙しい時期でしたから主に通勤バイク、通勤ランでトレーニング距離を稼いでいました。もちろん、公道は他の車も走っていますし、信号もありますので、交通法規を守ってトレーニングしていました。時々ある病院旅行の時には私だけ自転車で行って、バスで行った他の人たちと現地で合流すると言う方法で、長い距離ののトレーニングをしていました。行先としては修善寺(10時間)、蓼科(10時間)、京都(7時間)などがありましたが、1号線はトラックなどもたくさん走っていてヒヤッとする場面も1度や2度ではありませんでした。私の場合、幸い一番大きな怪我は、夜、通勤バイクで家に帰る途中に不法駐車していた軽トラに気づくのが遅れて激突して転倒、擦過傷を負ったくらいでした。私の知る限りでは練習中のバイク死亡事故も2件起こっていますし、脊損で下半身麻痺になった事故も2件起こっています。マラソン練習中に車にはねられる事故も時々聞きますので、安全な練習と言うことならば、エアロバイク(あるいはローラー台)とルームランナーを買って家の中で練習するのが一番よいでしょう。スイムは通常はプールで練習するのが普通ですが、大会に出ると、コースロープはありませんので、まっすぐ泳げませんし、波や流れがあったりしますので、実戦スイムの練習にはオープンウォータースイムの大会などに出て練習するとよいでしょう。また最近の大会では安全のためにウェットスーツ着用推奨または義務が普通ですので、ウェットスーツを着たスイムの練習もしたいところですがなかなかプールで出来るところは多くありません。私も初めてウェットスーツを買った時に一度練習しようと、3月に菅島へ家族で食事に行った時に鳥羽港から飛び込んで泳いで渡ろうとしたことがあります。すぐに通報されて保安署に見つかって止められてしまうのですが、その時の水の冷たかったことと言ったら、あのまま泳いでいたら低体温症で死んでいたかも知れません。

トライアスロン大会を新設するには?

トライアスロン大会を新設するには?

 私は愛知県トライアスロン協会の役員と言う立場でいくつかの愛知県内のトライアスロン大会の新設に関わって来ました。その経験から得た大会を新設するためのノウハウについて書いておこうと思います。まず最初にその大会は誰がどんな目的で作りたいのかをはっきりさせておく必要があります。競技者団体である愛知県トライアスロン協会が競技者のために新設したいと思って創った大会としては蒲郡オレンジトライアスロン、碧南や幸田町で行った子供の大会があります。自治体が町おこしのために創った美浜町の音吉トライアスロン、イベント会社が自治体に働きかけて自治体も町おこしのためにその気になった渥美町で始まった伊良湖トライアスロン、イベント会社が海の祭典のイベントとして1回限りで行った名古屋港トライアスロン、アイアンマンの権利を持った白戸太郎代表取締役の(株)アスロニアが自治体と協会に働きかけて実現したハーフアイアンマンなどがあります。通常トライアスロン大会では実行委員会が組織されて、主催団体である自治体や観光協会、JC、ライオンズなどと主管団体としてJTUやJTU加盟団体から実行委員が選ばれて準備を進めます。JTUあるいはJTU加盟団体が主管をするのは、登録競技者を管理しており、審判員も大勢抱えており、競技やコース設営上生じる問題を解決するのに一番詳しいからです。最初にするべきことは大会コースの設計です。大会コースとなる、水面やバイク・ランで使用する公道などは使用許可を海上保安署や漁協、警察へ申請しなければなりません。公園内の遊歩道などですとその公園の管理者の許可で使えますが、公道ですと警察に道路使用許可申請をして許可が下りないと使うことが出来ません。代替道路のない生活道路や交通量の多い国道などはまず使用許可が下りません。また広い範囲の道路使用は難しいので、最近では周回数を増やして狭い範囲の規制で出来るようなコース設計を考えることが多くなっています。道路使用許可が下りる目途がついたら、次にスポンサー探しです。この部分は広告代理店に委託することが多いのですが、プログラムに広告を載せたり、大会当日のいろいろな場所への広告掲示、あるいは現物協賛など様々な形で協賛企業を探します。大会参加料は距離により異なりますが、51.5kmの標準距離で15,000円~20,000円くらいですが、これだけで大会の様々な構築物やプログラム、選手への支給品からボランティア・審判への手当などまかなえるはずがありません。予算の手当がついたら、いよいよ大会の要項を発表して選手募集を始めます。ロケーションのよい大会、地元との触れ合いのある大会などは人気があり、すぐに募集定員が集まりますが、実績のない新規大会ではなかなか集まらない場合もあります。JTUの後援をもらい(その代わり選手はJTU登録選手に限る)、JTUの大会カレンダーに載せてもらったり、商業誌(トライアスロン・ルミナなど)に載せてもらったりして宣伝します。次にプログラム作成、スイムスロープやゴールゲートなどの構築物の準備、当日のテントや看板、コース誘導用のコーンの準備などをして、前日の受付、選手説明会の会場、終了後のアワードパーティの会場などの準備、そしてマーシャル(審判)募集、ミーティングなどと当日の記録を取る準備もあります。今ではそういった大会設営を請け負ってくれる会社も出来、記録を取る会社もありますが、第1回のオレンジトライアスロンではそのほとんどを手作りでしましたので、大変でした。

不世出のレースディレクター

不世出のレースディレクター

 2月4日にJTU(日本トライアスロン連合)とATA(愛知県トライアスロン協会)からメールで訃報が届きました。水畑宏之氏(享年58歳)です。3月18日には東京で、3月31日には名古屋でお別れ会が開かれ、私は両方とも出席しました。名古屋で挨拶した白戸太郎東京都議会議員も言っていましたが、水畑さんの写真を探すとまともに写っているものがほとんどないのです。数多くのJTU主催大会、国際大会のレースディレクターをしていましたが、裏方に徹していて記念写真などにはほとんど入らないのです。
 水畑さんは国分さん(現JTU副会長)や私、吉田理事らが発起人となって愛知県協会を設立してから愛知県協会に登録し、最初は選手として第1回オレンジトライアスロンでは総合10位、第2回オレンジでは137位(私はこの時51位)の成績を残しています。当時30歳くらいでしたが、商社マンとして海外勤務の経験も長かったように思います。その後選手からトライアスロンの審判や運営業務に関わるようになり、仕事を辞めてセカンドキャリアとして当時まだだれもやっていなかったトライアスロンディレクターの仕事をするようになりました。日本で最初にトライアスロン2種上級審判資格を取ったのも私と同時でした。その後私はJTUのメディカル委員会の方へ、水畑さんは事業企画委員会の方へ進みました。
その後水畑さんは数多くの国内主要大会や国際大会のディレクターを務め、鈴木貴里代を始め、息子の鉄平など後進のレースディレクターを育てました。水畑さんはトライアスロンの大会は美しくなくてはいけないと言うのが持論で、会場では一人もくもくとコーンを綺麗に並べたりしていましたが、水畑さんの功績として特記されるのは蒲郡のワールドカップで氏が考案した水畑式独立バイクラックです。それまでは(今でも一般の大会では使われていますが、・・・)パイプで組んだ物干しのようなバイクラックでかけるのに少し手間がかかり、通行の妨げにもなるものでした。水畑さんは常に競技者の目線から使いやすいもの、見て美しいものを工夫していました。その後水畑式バイクラックはITU(国際トライアスロン連合)の公式グッズとしても採用されました。
 水畑さんがレースディレクターを始める最初のきっかけとなった事件があります。水畑さんの呼びかけでその当時愛知県で自転車の強い選手4人を集めたバイク練習会を企画したのです。その4人と言うのは、第1回オレンジ優勝の横井信之、第1回オレンジ2位、第2回オレンジ優勝の桜井要、そして水畑さんと私(私もその頃月に1000kmほど自転車に乗り込み宮古島や琵琶湖ではバイクパート50位以内の常連でした。後に愛知万博会場となる青少年公園に集まり、無茶をしたものですが自動車専用道路であるグリーンロードの料金所を猛スピードで突っ切り力石インターから香嵐渓を通り伊勢神峠まで登り、帰りは力石を通り過ぎて猿投から御菓子司福岡屋まで走り右折して八草インターまで戻り青少年公園へ戻ると言うコースでした。最後は後にアメリカ大陸横断レースに挑戦する桜井要が1着、私が2着でゴールしました。
 東京のお別れ会では岩城JTU会長、中山常務理事、鈴木貴里代理事、高崎JTUカメラマン、飯島健次郎、ネオシステムの清本氏らが挨拶と思い出を語りました。名古屋のお別れ会では國分JTU副会長・愛知県協会会長、鈴木貴里代JTU理事、吉田隆雄JTU理事、白戸太郎(株)アスロニア代表取締役、友人代表として後藤氏、アスリート代表として庭田清美さん、そして私が挨拶と思い出を語りました。誰とは言いませんが、憎まれっ子が世にはばかる中で、58歳と言うのは惜しまれる年齢です。

古武士の風貌のマラソン校長

古武士の風貌のマラソン校長

 青山米夫先生は享栄学園高校の校長をしていて、マラソン校長として勇名を馳せていました。1986年に愛知県トライアスロン協会を立ち上げた時に、会長をお願いしたところ快く引き受けていただけました。協会はトライアスロン競技者の団体として作ったのですが、その当時まだスポーツとしての認知度は低く、これから普及を図ろうと言う時に、すでに他競技で名の知れた方を会長にお願いすると言うことがよくありました。JTUでも立ち上げの時にはスキーの猪谷千春氏を会長に、重量挙げの三宅義信氏を副会長にと言った具合です。
 青山先生は小柄でしたが、古武士の風貌がある先生で、豊根村の出身で、協会の10周年記念式典の時でしたか、豊根村の花祭りの鬼の舞いを披露してくれました。鬼の面をつけて、2kgほどもある大ナタを振り回して踊る激しい踊りでした。
 70歳を過ぎていたと思いますが、チャレンジ精神が旺盛で、「会長、一度トライアスロンに出て見ませんか?」とお勧めしたところ、その気になって、一緒に修善寺のCSCで行われたミニトライアスロンに参加したことがありました。ミニと言っても自転車はアップダウンのある1周5kmのコースを5周回するもので、タフなコースで、下りでは漕がなくても60kmほどは軽く出てしまいます。ところが、新調した自転車のハンドルのネジが緩かったのか下りのスピードが一番出ている時にブレーキをかけたらハンドルが動いて転倒すると言うアクシデントに見舞われます。骨折はありませんでしたが、打撲と捻挫でその後1年ほど歩くのも不自由をされました。その時もそそのかした私を含め誰も責めたりしませんでした。
 75歳を過ぎたころでしょうか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまずに「奥の細道」の旅に出られます。芭蕉が歩いた道を、走って(歩いて)2か月ほどかけて、完走されました。それが青山先生のマラソン人生の総決算であったようです。軌道に乗った愛知県トライアスロン協会の会長職を國分孝雄会長に譲り、いっさいの公式行事から引退されました。今、生きてみえれば、100歳を超えるくらい、協会の誰もが青山先生のその後を知りませんが、2010年の享栄高校同窓会記録を見ると評議員として名を連ねて見えますが、その後、名前が出てくることはありません。まさに老兵は消え去るのみを地で行った先生で、今頃は天国で走り回って見えることでしょう。 

日本でのアイアンマン

日本でのアイアンマン

 1978年、スイム3.8km、バイク180km、ラン42.195km(フルマラソン)と言う距離で始まったハワイのトライアスロンはアイアンマンレースと呼ばれるようになり、その後アイアンマン世界選手権(Ironman World Championship)に発展し、その予選会が世界各地で行われるようになりました。この距離で行われるトライアスロンのことをフルトライアスロンあるいはアイアンマン・ディスタンスと呼び、その半分の距離で行われるトライアスロンをハーフ・アイアンマンと呼びます。日本でも1985年からアイアンマン・ジャパン in 琵琶湖として始まります。しかしこの大会も2市11町と言う広域に及ぶこと、一部国道を使用せざるを得ないなどの問題で、1997年第13回を持って継続開催が出来なくなりました。その後しばらく空白期間が続きますが、2001年に五島長崎の福江島で五島長崎国際トライアスロン大会として復活します。口蹄疫が流行った時に中止となった年もありますが、日本で唯一のアイアンマン世界選手権の予選会として、現在まで続いています。距離はアイアンマン・ディスタンスですが、アイアンマンは商標登録されていて、権利を買わないと使うことは出来ませんので、アイアンマンと言う名称は使われていません。北海道の洞爺湖周辺で2013年~2015年までアイアンマン・ディスタンスでアイアンマン・ジャパン北海道が行われましたが、3年で中止されました。宮古島はスイム3km、バイク136km→157km、ラン42.195kmで行われており、ストロングマン・レースと言う名称を使っています。一番古い皆生大会はスイム3km、バイク140km、ラン42.195kmでこれもアイアンマンより少し短い距離で行われています。佐渡ではロング・ディスタンスの日本選手権を行っており、最初はアイアンマンより短い距離でしたが、今はAタイプはスイム4km、バイク190km、ラン42.2kmとアイアンマンよりも長い距離で行われています。以上が日本におけるロングディスタンスの大会ですが、アイアンマン・ディスタンスの半分の距離で行われるアイアンマン70.3(70.3はマイル表示で距離はハーフアイアンマンとも言います)が愛知県の知多半島で2010年から始まりました。これは日本でアイアンマンを開く権利を買った白戸太郎代表取締役率いる(株)アスロニアが企画したもので、第1回はセントレア中部国際空港のある空港島にゴールを設定するために空港へ入る唯一の高速有料道路を1車線仕切って借りるという荒業をやってのけ、そのために1千万くらいの費用がかかったと聞いています。その時のレースディレクターは故水畑宏之氏で、私も医療班で駆り出されました。流石に第2回からはコース変更されましたが、知多市新舞子の海で泳ぎ、知多半島の広い範囲を走り回る大会は人気となり、現在でもアイアンマン70.3セントレア知多半島ジャパンとして続いています。私も一度だけ選手で出ましたが、ランで時間切れとなっていて、そのうちにリベンジしたいと思っています。白戸太郎氏は白戸家の犬として有名ですが、もとは一流トライアスリートとして活躍した白戸3兄弟の長兄で、その後トライアスロン大会企画をする(株)アスロニアを起業しました。昨年、東京都議会議員に小池派から出馬して当選しました。

ネオシステム

ネオシステム

 トライアスロンが日本に入って来て、大会で記録を取るのが大変になって来ました。マラソンは1種目だけですから、手動計時でもそれほど大変ではありませんが、トライアスロンとなると3種目あり、さらにトランジションもあって、それぞれのパート毎の記録を取りしかもゴールすると合計タイムを計算して順位までつけるとなるとパソコン処理が必須です。私はその当時まだノートパソコンもなかったので、デスクトップを持ち出して、データベースIIIplus と言うソフトをコンパイルして、記録を取るシステムを作りました。それを蒲郡の記録会からオレンジトライアスロンを通じて少しずつ改善していったのですが、最初は記録を取る地点を通過するときにレースナンバーを入力すると、その時の時刻がそのレースナンバーの選手の通過時刻として記録されるシステムでした。しかし、参加人数が増えて来ると数人一緒に通過して、レースナンバーの入力が間に合わないという事態が発生するようになり、通過タイミングだけをリターンキーで入力し、レースナンバーは人海戦術で記録し後で照合してレースナンバーを入力するシステムに変更しました。その時に思ったことは、バーコード入力あるいは無線チップ入力に将来変わるであろうと言うことでした。第3回くらいまでは私の作ったシステムで記録を取っていましたが、毎回終わってからの記録整理が大変な作業で、手伝ってくれた鈴木由昭先生と夜遅くまでかかって整理していました。ある時など私が選手で出ていて、途中でバグがあって、記録が取れない事態が発生したことがありました。その時には豊橋のビデオ製作会社、パルメックがゴールのビデオを時計とともに映していたので、それを借りて後で記録を作るという荒業を使ったこともありました。日本トライアスロン協会が出来た頃に私も理事として大会運営に参加したことがありますが、伊豆大島の大会では確か河合理事がエクセルをコンパイルしたソフトを使って記録を取っていました。最初におおがかりな記録を取るシステムを作ったのはランナーズ社が RUNTES と言うシステムを作りましたが、記録を取るのに選手一人当たり1,500円くらいかかりました。このころ連盟が行っていた51.5kmのシリーズ戦では確か RUNTES を利用していたと思います。比較的値打ちに記録を取るシステムを作ってくれたのは清本 直氏が始めたネオシステムでした。蒲郡オレンジトライアスロンも途中からネオシステムに委託することになり、私の負担は少なくなりました。清本氏は小柄で、いつも記録を取るところしか見ていなかったので、まさかトライアスリートだとは思っていなかったのですが、ある時宮古島の大会に出ていてしかも好記録でゴールしていたので驚きました。 

最悪の一日

最悪の一日

 2015 年7月19日に行われたトライアスロンの大会でスイム競技中、二人の方が亡くなりました。ひとつは鳥取県の皆生で行われた日本で一番古くから行われている第35回全日本トライアスロン皆生大会、もうひとつは山形県鶴岡市の第30回温見トライアスロン大会です。
どちらも亡くなられた方は男性医師で、健康管理にはプロのはずなんですが、一体何が起きたんでしょう
かって、私がJTUのメディカル委員長をしていた時に、トライアスロン大会中の事故を纏めて報告したことがあります。その時には水泳中の事故は10件で11人の方が亡くなっていましたが、その後もどんどん増えて2015年には6件の事故が発生しました。まさしくその日は史上最悪の日となりましたが、嘆いてばかりではいけません。その後の調査で、1件目のケースでは一度えらそうにブイにつかまり休んでいるところを、監視員が声をかけていますが、本人が競技継続の意思を示したと言うことでその場を離れました。その1分もたたない後に浮かんでいるのが発見されたとのことで、プロである外科医が判断を間違うような急激な変化が起こったことが考えられ、私はこれまでのスイム中の事故原因に加え、海水誤嚥後の急性肺水腫の発症を考えました。それを追加して、2015年7月30日に、スイム中の事故原因と対策について纏めたのが次の文章です。
 JTUメディカル委員会はトライアスロンをメディカル面からサポートするのが仕事ですが、大会での重大事故の原因究明とその対策を考えるのも重要な仕事です。10年ほど前に、大会で起こった重大事故を纏めてその原因を考察しました。近年では4年前から毎年3月のフォーラムで死亡事例についての検証と提言が行われ、HPでも公表されています。(私の後を継いでメディカル委員長をしてくれている奈良医大の笠次先生が纏めてくれました)
http://www.jtu.or.jp/news/2015/pdf/jtuforum_medical_20150727.pdf

それでも今年に入って6件と異常な数の死亡事故が起こっており今、緊急の対策を立てなければいけない時期になっています。JTUとして纏まったレポートを出すのは各加盟団体に事故のアンケート調査を依頼し、その結果を取りまとめてという手順を踏んでいくとまだまだ先のことになりますので、取りあえず私の私見ですが、原因と対策についてのまとめを出しておきたいと思います。
日本のトライアスロンの歴史の中で30件以上の死亡事故が起こり、そのほとんどはスイム中の事故です。今回はスイムでの事故に限って述べたいと思います。
スイム中に起こる事故の原因として今までのところ考えられる全てを挙げますと、
1.荒天
2.低水温
3.サメなどの有害生物
4.クラゲなどによるアナフィラキシーショック
5.スタート時やコーナーでのバトル
6.体力消耗、体力不足、体調不良
7.過呼吸
8.錐体内出血による急性平衡失調
9.海水誤嚥による急性肺水腫
10.内因性疾患の急性発症
などがあります。
まず、1.と2.ですが、日本でのトライアスロンの歴史を見ると、創設期はロングの大会で始まり、体力への挑戦、自然への挑戦と言う意味合いが強く、多少の荒天や低水温をものともせず、ウェットスーツもまだありませんでしたが、着ること自体軟弱だと考えられていました。しかし、初期に起こった宮古島の地方大会で台風が来ているにも関わらず湾内だから大丈夫と挙行された大会で選手1名と救助船の救助員1名が亡くなると言う事故が起こり、大会前の協議実施検討委員会が必須のものとなりました。その後、荒天時にはコース変更やスイムを中止して第一ランに振り替えたり、場合によっては大会そのものを中止にする場合も出て来ました。また6.とも関係しますが、ウェットスーツは安全面で必須アイテムと考えられるようになり、一般の大会では着用義務あるいは着用推奨の大会がほとんどとなりました。
3.は日本での大会中にはまだ報告がありませんが、アメリカではトライアスロン練習中にホオジロザメに襲われて死亡した例もありますし、昨年三河湾ではトライアスリートがサーフィン中にサメに襲われて何十針も縫うけがをしたこともあります。また伊良湖のトライアスロンが行われる前に漁師がサメに襲われて死亡する事件があり、ネットを張って行った時もありました。宮古島の前浜はサメの多い海域としても有名です。
4.はクラゲやおかしな生物が大発生することがあり問題となることがあります。この点もウェットスーツの着用によりかなり防げるようになりました。選手への事前アンケート調査項目にもアレルギー体質についての質問が入れられるようになりました。
5.スタート時のバトルは私も伊良湖で恐い目にあったことがあります。泳げないどころか息継ぎも出来ない状態になることがあります。伊豆大島の2回目の大会でしたか宮塚英也がスタート時のバトルでリタイアしたこともありました。その後、スタートラインを広く取る、第一コーナーまでの距離を長く取る、泳力順の並びをさせる、ウェーブスタートの採用などバトル解消の対策が取られ、現在ではどの大会でもそれほどひどいバトルはなくなってきています。
7.何らかの原因で呼吸を必要以上に行うことがきっかけとなり発症します。パニック障害などの患者に多くみられますが、運動直後や過度の不安や緊張などから引き起こされる場合もあります。過換気症候群は、呼気からの二酸化炭素の排出が必要量を超え動脈血の二酸化炭素濃度が減少して血液がアルカリ性に傾くため、息苦しさを覚えます。そのため、無意識に延髄が反射によって呼吸を停止させ、血液中の二酸化炭素を増加させようとします。しかし、大脳皮質は、呼吸ができなくなるのを異常と捉え、さらに呼吸させようとします。また、血管が収縮してしまい、軽度の場合は手足の痺れ、重度の場合は筋肉が硬直します。それらが悪循環になって発作がひどくなっていきます。ひどくなると、頭がボーっとしたり、まれに失神したりすることもあります。そうなると海水誤嚥から窒息を起こし死に至ります。意識して呼吸をゆっくりにして治ればよいですが、出来なければ、ブイにつかまり救助を要請しましょう。
8.は2002年に宮古島で起きた2件の死亡事故で2件とも突然円を描いて泳ぎだしたり、異常な方向への泳ぎが見られたことから私がその原因として発表したものです。1963年に東京都監察医務院の元院長の上野正彦先生が溺死者の解剖をするとその約半数に錐体内出血が見られ、それが泳げる人の溺死あるいは背の立つところでの溺死の原因ではないかと発表しています。バトルや波の影響で水が耳管に入ると、嚥下運動などでその水がピストン運動をして内耳の圧が急変動することにより内耳(錐体内)で毛細血管が破綻して出血し、その結果急性平衡失調が起こり、上下左右が判らなくなるのではないかと言われています。それ以後、スイム監視員は泳ぐ方向がおかしい選手に気を付けるようにと言われるようになりました。
9.は最近私が注目している原因で、バトルや波などで海水を誤嚥してしまった後に起こる変化です。海水は体液の10倍ほどの塩分濃度があり浸透圧が高いために肺胞に入った海水が体液の水を吸って急激に膨張します。1ccの海水が体液の濃度と同じになるために約10ccに膨張すると考えられます。誤嚥した量にもより、その発現速度は違って来ますが、スイム中に急速に進行する場合もバイク・ランに移ってからだんだん進行する場合もあります。重要なことは進行とともに血液の酸素飽和度が下がってきて、そのうちに意識障害が出てくることです。スイム中だと意識障害→海水誤嚥→窒息→脳死→心停止にいたります。本人は意識障害が出るまでその重大性に気が付かない可能性があり、たとえ医師でも判断を誤るかも知れません。もし海水を誤嚥したら、出来るだけ咳をして海水を出すこと、競技を中止して救助を要請すること、スイム監視員は咳をしている競技者を見つけたら眼を離さないこと、もし意識を失う兆候があれば即救助して、岸まで連れて行く前に呼気吹き込みなどの強制換気を始めることが必要です。
10.はいろいろな外因を除いて最後に残るであろう原因ですが、心筋梗塞や不整脈などの心疾患、大動脈瘤破裂などの大血管疾患、脳卒中などの脳血管疾患などが原因となりますが、トライアスロンで特に頻度が高いものとは思われません。しかし、スイム中に起こった場合にはその時点では呼吸をしていますので、意識消失が起こると、海水誤嚥→窒息→脳死→心停止に至ります。陸上ならば救命可能な発作でもスイム中であるが故に致命的となります。死亡事故が起こると当然警察による検視が行われますが、東京都23区を除き、日本では死因究明のために解剖までされることはありませんので、原因が内因性疾患であっても最終的に溺死とされる場合もあります。今までに大会中の死亡事故で解剖をされたケースは宮古島の1件だけでこの場合は溺死でした。
いったん事故が起こると、管理責任を問われて遺族から提訴され、その後の大会開催そのものが出来なくなることがあります。串本での事故の後、和歌山県では10年以上にわたり大会開催が出来ませんでした。
以上、これまでの事例から起こりうるスイム中の事故原因を挙げ、その対策について言及しました。トライアスロンに参加される選手の皆さん、自分の身を自分で守るために、また大会主催者の方は起こりうる事故を未然に防ぐようにしっかりとした運営体制を築いて下さることを祈念します。
私は愛知県トライアスロン協会副理事長から理事長、副会長となり、日本トライアスロン協会理事、日本トライアスロン連合理事を歴任し、JTUではメディカル委員長も4年ほど務めさせていただきました。(2015年7月30日) 

トライアスロンは最強の生涯スポーツ

トライアスロンは最強の生涯スポーツ

 酒飲みの体力自慢から始まったトライアスロンは、完走すればアイアンマンと呼ばれ人々から崇められる体力の限界に挑む過酷な耐久競技と言う認識が一般的でしたが、果たしてそうでしょうか?2016年日本人、稲田弘氏(83歳)がハワイのアイアンマンを最高齢で完走しました。私は琵琶湖。宮古島を10年連続完走し、宮古島には65歳まで出場を続けましたが、2008年(58歳)を最後に完走出来なくなりました。しかし、その後も51.5kmのトライアスロンには毎年出ていますが、関門にかかることなく余裕で完走しています。人間は加齢とともに活動能力が低下しますが、それは神経細胞、筋肉、骨量の3つが減少するトリプルペニアが原因と考えられます。これらは絶えず負荷をかけることで、その進行を遅らせることが出来ます。スイム、バイク、ランの3種目はそれぞれ使う部位が違いますので、トライアスロンによってバランスよく負荷をかけることが出来ます。そのことはトライアスリートの体を見れば、他のスポーツ競技者と比べて最も均整のとれた体をしていることで判ります。そして重要なのは3種目とも有酸素運動(エアロビクス)であると言う点です。有酸素運動は特定の部位に過度の負担をかけることなく、活動のための基礎的な心肺機能を維持出来、認知症にもなりにくいと言われています。大会出場を目標に頑張ることは長生きのために一番重要な気力を与えてくれます。日本人の平均寿命は年々伸びて、男女とも80歳を超えました。今世紀末には女性は100歳近くまで届きそうです。しかし健康寿命はと言うと、そうは行かず、男性で平均9年、女性で12年と言う介護を必要とする期間があります。私の父は出血性脳梗塞で90歳で他界、それまで元気でしたが、5日間ほど入院しました。私の母は3年ほど施設に入所しましたが、95歳で他界しました。比較的長生きの家系であると言えますが、目標は100歳までトライアスロンに出て、ピンピンコロリと逝くことです。

子供をトライアスリートに育てる

子供をトライアスリートに育てる

 私には4人の子供がいます。長男鉄平、長女さくら、次男純平、三男勝平です。みんな私がトライアスロンにのめり込んだ時に出来た子供ですから、子供たちにもトライアスロンはして欲しいと思うのは親の独りよがりでしょうか?私がしたことは取り合えず、水泳は小さい時に覚えなければ駄目だと思いましたから、3歳になると4人ともスイミングスクールに通わせました。最初のうちは近くになくて、名古屋を超えて岩倉にあった名鉄のスイミングに入れて毎週1回通わせました。初めのうちは嫌がって泣いたりしていましたが、2~3回目には慣れて進んで通うようになりました。その後神宮前、知多と徐々に近くに出来たスイミングに変わりました。後は、強制することはなく、私のトライアスロンに連れて行ったり、子供の出られる大会を探して嬬恋や花巻まで連れて行きました。私が1985年第1回の宮古島トライアスロンに出た時には4人とも連れて行きましたが、鉄平8歳、さくら7歳、純平4歳、勝平1歳でした。中学、高校は全員水泳部に入り、知多中学の校内マラソンでは鉄平は学年で1位、さくらも女子1位、純平1位、勝平2位でしたから足もまずまず速い方でした。勝平などは学年2位でも竹内家の面汚しと虐められていました。鉄平は南山大学の時に水泳部から新しく出来たトライアスロン部に移り本格的にトライアスロンを始めました。さくらは邦楽(長唄)の道に進みスポーツから遠ざかりましたが、純平は医学部に入り医学部水泳部で東医体の記録をほとんど塗り替える活躍をしましたが、トライアスロンは趣味で続ける程度になりました。鉄平は勝負根性がありましたが、純平は人がよいので、人と争う勝負根性に乏しく、トライアスロンの才能は鉄平よりあると思うのですが、大会に出るとなかなか活躍出来ません。勝平はゲーム好きで、水泳は続けていましたが、無難に教職の道を選びました。4人とも大学以降の進路については強制することなく、好きなことをやらせた結果がそうなったと言うことです。結局トライアスロンの道を選んだのは長男鉄平だけでしたが、卒業する時にアラコから会社にトライアスロン競技部を創るから来ないかと酒井吉信部長(当時愛知県トライアスロン協会副理事長)からお誘いがあり、渡りに船と入社します。そこそこの成績を上げて、JTUの強化指定をもらって、オリンピック目指して頑張りましたが、結局日本選手権2位、日本ロングディスタンス選手権優勝が最高の成績で、オリンピック出場は適いませんでした。会社からも戦力外通告を受けて、優遇措置はなくなりますが、そのまま会社に残って働くか、それとも地元(知多市)へ戻って来て転職するか黙って見ていましたが、何と会社を辞めてトライアスロンを続ける茨の道を選びました。三好スイミングを借りて、あすたまトライアスロンスクールを始め、あちらこちらで練習会を企画したりしていましたが、さらに(株)トライアーティストを創り、マラソン、トレイルラン、ミニトライアスロン、ロゲイニングなどの大会企画運営、さらにはウェットスーツ、水陸両用と鏡花水月を作って販売を始めました。愛知県トライアスロン協会にも理事として入り、協会のバックアップを受けて、2013年伊勢志摩里海トライアスロンを立ち上げます。この企画運営には水畑宏之氏や鈴木貴里代氏の影響も随分あると思いますが、2017年にはトライアスロンルミナの51.5kmのトライアスロンの部で人気ナンバー1大会となりました。しかし、実際には自転車操業のようで、補助金が降りてくるまでに家に借金に来るのはいつものことです。いつまで続くかは判りませんが、鉄平はトライアスロンに関しては私に似てマルチタレントですので、心配はしていません。

トライアスロンの将来へ向けてのメッセージ

トライアスロンの将来へ向けてのメッセージ

 トライアスロンと言うスポーツがアメリカで起こり間もなく45年、日本に入って来て間もなく40年が経とうとしています。この間、多くの大会の新設と(社)日本トライアスロン連合の設立で競技スポーツとしての地位を確保しました。2000年のシドニーからオリンピック正式種目となり、国体の方は少し遅れましたが、2016年の岩手国体から正式種目となりました。JTUが当初目的としていた登録会員5万人計画も3万人ほどとなり、競技人口は5万人を超えていると思います。今までの日本のトライアスロンの歴史の中で起こったいろいろなエピソードを取り上げて、その歩みを見て来ましたが、このスポーツの50年後、100年後を見据えて、私からの提言を述べて見たいと思います。JTUは強化指定選手制度を作り、何とかオリンピックでメダルを獲れる選手を育てたいと努力しています。確かに看板スターを育てることで、スケート、テニス、水泳の例を見るまでもなく競技人口は飛躍的に増えます。私はそれよりも国民スポーツ、生涯スポーツとして定着させるには、学校教育の中にこのスポーツを取り入れる必要があると思います。以前、学校用の入門書をJTUが作って配布したことがありました。しかし、学校教育の場にいまだに溶け込まないのは道具の問題とフィールドがないと言う問題です。昔はスイムだけをとってみても、プールのない学校が殆どでしたし、現在でも温水プールがあって年中泳げる学校は少ないでしょう。以前三重県協会の主催でスイミングスクールの施設を使い、プールで泳ぎ、エアロバイクを漕いで、周辺でランをすると言う大会が行われて私も出場したことがあります。学校にもエアロバイクを導入すればプール、エアロバイク、校庭を使ったトライアスロンを体育の授業ですることが可能になるのではないでしょうか?そして、生涯スポーツとしてのトライアスロンをする環境としては大会をこれ以上増やせない状況を考えると、プールと1周1kmほどのサイクリングロードを備えたトライアスロン場を、今斜陽となったゴルフ場を転用することで全国に造り、誰がいつ行っても51.5kmの記録が取れるようなフィールドを作ると言うアイデアはどうでしょうか?

トライアスロン秘話ヒストリア

トライアスロンと言う競技が始まり間もなく半世紀が経とうとしています。トライアスロンの草分けと言われる人たちがだんだん鬼籍に入り、日本におけるトライアスロンの発展の歴史が忘れ去られようとしています。それを何とか文献として残しておこうと書き溜めたドクターTの眼から見たトライアスロン秘話ヒストリアです。島田文武氏が遺した「日本トライアスロン物語」は氏の調査による歴史的事実に氏が脚色を加えたもので、素晴らしい出来栄えだと感心はしましたが、私は私自身がトライアスリート、審判、DCO(ドーピング・コントロール・オフィサー)、協会・連合役員、メディカル委員長を経験する中で、別の視点から見たトライアスロンの歴史を書き残しておきたかったのです。
【國分孝雄氏推薦文】
トライアスロンは今でこそオリンピック正式種目となり、近代的競技スポーツの代表的なスポーツとして認知されていますが、我が国においては、当初は主に地域の活性化の起爆剤のイベントとして各地で大会が開催されていました。これを本格的な競技スポーツとして発展させるべく、都道府県単位で競技団体設立の動きが芽生え始めていました。
私が竹内さんと初めて出会ったのは、確か30数年前の愛知県トライアスロン協会設立準備に関わっていた頃と記憶しています。当時、竹内さんは全国各地で開催されていた大会で常に上位で表彰されていた異色の外科医トライアスリートとして知る人ぞ知る存在でした。竹内さんは日本におけるトライアスロンの黎明期から、現在でも役員や選手としてもトライアスロンに関わっておられます。言い換えれば、日本のトライアスロンの歴史と共に歩んでこられたと言っても過言ではありません。竹内さんのこの間の競技者として、また役員としての経験や医師としての知識が 我が国のトライアスロンの発展に大いに寄与したことは申すまでもありません。
今回、これらの身をもっての体験や経験を後世に伝えるべく、「トライアスロン秘話ヒストリア」として本書を出版されることはご同慶の至りです。
公益社団法人日本トライアスロン連合筆頭副会長
愛知県トライアスロン協会会長          國分孝雄

トライアスロン秘話ヒストリア

生涯現役トライアスリートを自認し、審判、アンチドーピング、メディカル面でJTUとも深く関わり、蒲郡オレンジトライアスロンの創設にも尽力したドクターTの眼から見たトライアスロン秘話ヒストリアです。

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-20

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC-ND
  1. ことの起こりは酒の席から始まった?
  2. 日本でのトライアスロンの拡がりと私が始めるきっかけ
  3. 愛知県トライアスロン協会の立ち上げ
  4. トライアスロン伊良湖大会について
  5. にっぽん音吉トライアスロン
  6. 名古屋港トライアスロン
  7. 蒲郡ウルトラバイアスロン
  8. 蒲郡トライアスロン記録会
  9. 蒲郡オレンジトライアスロンの誕生
  10. 競艇場を借りる
  11. ワールドカップ、世界選手権の誘致
  12. キッズトライアスロン
  13. 日本トライアスロン連盟
  14. 日本トライアスロン協会の誕生
  15. 日本トライアスロン連合(JTU)の誕生
  16. 宮古島トライアスロン出場は❝燃えよドラゴン❞でブルース・リーが島の武道大会に出る雰囲気
  17. 琵琶湖アイアンマンは日本でのアイアンマンの始まり
  18. 宮古島・琵琶湖10年連続完走
  19. トライアスロンマーシャルとは?
  20. トライアスロン事故史からみたルールの変遷
  21. トライアスロン菌をばら撒く
  22. JTUメディカル委員会
  23. 大会医療班
  24. 皆生の海に消えたトライアスロンのパイオニア
  25. トライアスロンにおけるドーピング検査
  26. 幻の島豆腐
  27. 宮古島を走った有名人
  28. 悲劇の青年ドクタートライアスリート─田辺冬樹─
  29. それでも宮古島を完走出来たのは?
  30. フリムン先生との出会い
  31. トライアスロンで生活するには?
  32. トライアスロン用バイクの歴史
  33. 修善寺トライアスロン
  34. マーク・アレンの自転車
  35. 御岳スーパートライアスロン
  36. 崩れた安全神話
  37. カヌーアスロン&氷上トライアスロン
  38. バイクシューズを履かない田村選手
  39. 大会中止の決断
  40. トライアスロンの練習と目標設定
  41. 無茶な練習
  42. トライアスロン大会を新設するには?
  43. 不世出のレースディレクター
  44. 古武士の風貌のマラソン校長
  45. 日本でのアイアンマン
  46. ネオシステム
  47. 最悪の一日
  48. トライアスロンは最強の生涯スポーツ
  49. 子供をトライアスリートに育てる
  50. トライアスロンの将来へ向けてのメッセージ