夏の日、残像
ドアが開いた瞬間、肌にまとわりつくような暑さと、けたたましい蝉の声が私を出迎えた。
ホームに降り立ち、丁度眼前に立っている、古ぼけた駅名標を見る。それはかつて何度も私が見つめ、そして見返していたものに疑いなく、天井の無いホームの隅っこで立ち尽くすそれは、赤錆の露出した冴えない風貌をしていた。
「すみません」
懐かしさに鷲掴みにされていた私を夏の暑さに引き戻したのは、ホームに降り立ったサラリーマンの一人だった。何でしょう、と返しつつ、額に汗の滲んだ、ワイシャツにスラックスというどこにでもいる出で立ちの細身の男性を見つめる。……見つめる。
「……もしかして」
「やっぱり!」
男性は嬉しそうに私の肩を叩いた。元気にしていたか。そっちこそ。私と彼はお互いに肩を叩き合った。やがてホームが無人となった頃、私たちはようやく連れ立って歩き始めた。
「小学校以来だよな?」
「多分な。しかしお前、よく思い出せたな。二十年ぶりくらいだろ?」
改札を出て、バスロータリーを横目に、私はかつてを思い出す。かつて――そう、ここは私が幼少の頃に住んでいた街だ。父の仕事の都合で引っ越したきり、戻ってくることは無かった。
「お前こそ。今日はどうしたんだ? 仕事か? 今、何してるんだ?」
私たちはつらつらとお互いの身上を話しながら、ひび割れる一歩手前のような古いアスファルトの歩道を歩いた。歩道と道路は段差で隔てられているものの、雑草でその境はひどく曖昧だ。蝉の声と傍を走る車の排気音が協奏している。空には入道雲が胸を張る様に広がっており、いずれ来る夕立を彷彿とさせたが、今は太陽がこれでもかと言わんばかりに熱で自身の存在を主張している。話す間に私たちの額からは汗が滲み、頬を伝っていく。それでも私たちは話し続けた。二十余年ぶりの再会だ、そうもなろう。
彼は昔から変わらずこの街で暮らしているらしい。小さな事務用品の会社で営業をしているそうだ。家は変わったらしい。まだ小さいが子供も居る。言葉の端々に滲み出る仕事の愚痴は、かつて私と共にこの辺りを駆け回っていた、幼く、しかし闊達な少年、時間という栄養を経て、彼が青年、そして働き盛りの父と化したことを如実に物語っている。
「それで、結局お前、いま何してるって?」
あまりの暑さに音を上げて、近くにあったコンビニエンス・ストアに逃げ込んだ頃、ひとしきり自身の身の上を話した彼は――そうだった、いつも気づいたら話すのは彼で、私は聞き手に回っていたのだ――私を興味深く眺めた。週刊誌のコーナーを特に意味も無く見つめながら、私は返した。ビー玉を作ってるよ、と。
「ビー玉?」
「そう、ビー玉。正確に言えば、ビー玉を作る機械の設計だな。まぁ、受け持つ仕事によって設計してるものは変わるけど――要するに、お前と同じ歯牙無きサラリーマンさ」
私は笑いながら続ける。
「今日は休暇を取ってね。一人旅が好きなもんでな、朝から適当に電車に乗って……気づいたらここに来てたよ」
「休みの日でもその恰好なのか?」
彼は自身と同じような恰好の――つまりはワイシャツにスラックスという個性ゼロの恰好の私を見て、訝しげに言った。そう言われても、と私は返す。服なんて考えるのも面倒だろう、と。
「それにしたって、休みの日くらい……まぁそれはいいか。今日はいつ頃に帰るんだ? もし良かったら今夜、一杯どうだ? 色々話したいこともあるだろ」
私は自分の住む町を告げ、それなりの時間までは滞在できることを告げた。彼はそれを聞き、嬉しそうに「じゃあ決まりだな」と告げた後、数か所に電話を掛ける。私が煙草を買う間に、どうやら根回しは終わったようで、再び夏の熱に苛まされながら店の外で煙草を吸い始める私に、彼は言った。「今日の仕事は終わった」と。
「終わらせたんだろ」
私は苦笑した。彼は悪戯っぽく笑った。その顔は確かに、私が幼い頃によく見ていた少年の笑顔の、その面影を宿していた。
私たちは車の排気音と蝉の鳴き声の中、どこへでもなく歩き出した。飲み屋に入るにはまだ早いし、何より、ただ歩いているだけで十分だった。彼は次々に、この二十年余りで起きた、街の経年変化を告げた。商店街にあった本屋は酒屋になった。別の酒屋はコンビニエンス・ストアに鞍替えした。小学校は建て替えられたが、どうもウサギ小屋は当時のままのようだ。そんなどうでもいい話の数々が、どうしようもなく懐かしい。
「そう言えば、ビー玉ってどうやって造るんだ?」
かつての学び舎へ続く坂道を何となく辿りながら、彼が尋ねる。私は製造方法をざっと説明した。原料を熱で熱し、作業炉でカットされたガラスは、ぐるぐると溝の刻まれたロールの上を転がる。最終的に球状となって時間をおけば出来上がりだ。
「ただただ転がってる球を見るのはな、最初の内は楽しいが、その内、寝てる時すら転がってる音が聞こえてくるぞ」
「大袈裟だな。延々と転がってるのを見続けてるわけじゃあるまいに」
「設計後のテストがあるからな、見続けなきゃならん時もあるさ。……それより」
坂道の傍、神社へ続く石段の先を見上げながら、私は立ち止まった。
「お祭りなんだな、今日」
「ああ、そう言えばそうだな。毎年行ってたなぁ、そう言えば」
目を細めて、彼も石段の先を見上げる。鳥居の傍には旗が立てられており、祭りの開催日が今日である旨が記載されている。
「そろそろ始まるだろうな。……あ、そう言えば」
「どうした?」
尋ねても、彼はニヤリと笑って答えなかった。ただ「一杯やった後にここに来よう」と言っただけで。意図は分からなかった。だが、何やら思うところがあるらしい。私たちはそれから駅前に戻り、飲み屋でアルコールを交えて昔話に花を咲かせた。他の旧友のこと。私が引越しした後のこと。彼が中学、高校、大学とどう生きたか。私が中学、高校、大学とどう生きたか。
「お互い色々あったもんだな」
彼は度々、そんなことを言った。それはそうだろう。二十年――赤ん坊ですら参政権を得られるようになる時間だ。何もないわけがない。
「そう言えば、さ。一回、お前の噂が出回ったことがあったよ」
ふと、彼は真面目な顔で言った。どんな噂だ、というと、「お前が死んだって噂さ」と彼はビールを一口運んでから告げる。
「じゃあ何で死んだか、って聞くと、誰も知らなくてさ。二年前くらいだったかな?」
「そうか、俺も死亡説が出回るようになったか」
「何で一種のステータスみたいな言い方なんだ」
彼はまた大声で笑った。私も共に笑った。しかし、姿を見ない芸能人について出回るならともかく、私のようなつまらない男に死亡説とは、初めに言い出した者の意図を問いたいものだ。何が楽しくてそんな説を流したのか。
「まぁ、お陰様でピンピンしてるよ」
「そうみたいだな」
ケラケラと笑う彼は、店を変えようと言った。それに従い、私たちは別の店に向かうことにした。
「さて、もう一軒、のその前に」
彼はそう言って、ぐんぐんと来た道を戻っていく。どうやらあの神社へ向かっているらしい。祭囃子が聞こえ、子供連れの親子やカップルと思しき男女とすれ違ったり、追い抜いたりしつつ、私たちは再度石段の下へやって来た。
「覚えてるか?」
「何を」
「おいおい、困った奴だな。二十年ぶりの借りを返してもらうぜ」
彼は笑って石段を上った。その背中を追いかけながら、私はかつてをふと思い出した。二十年前、私がこの街を去る前――こうして彼と共に祭りへやってきたことがある。あの時は確か――。
「――ああ!」
多くの屋台と色取り取りの提灯が境内を彩る最中、彼は一目散にジュースの屋台へ向かっていく。私は財布を取り出した。苦笑しながら。
「なんて心の狭い奴だ」
「思い出したか。しかし、人聞きの悪い奴だな」
彼はこちらを振り返って言った。
「借りを返してもらうだけだ。さぁ、こいつを奢ってもらおうか」
屋台におかれた氷水のボックスから彼が手に掴んだのは、昔懐かしいラムネの瓶だった。そう、あの時。引越しの決まっていた私に、彼は一本のラムネを奢ってくれたのだ。いや、正確には「いつか奢り返せよ」という一言があったのだから、確かに彼の言う通り、これは私が忘れていた一種の借りなのだろう。あまりにも些細な借りだ。だが、こうして返せる時が来るとは思っていなかった。
私は彼からその瓶を受け取り、店主へ金を払った。そして、いつか幼い頃、彼が私に手渡したように、私も彼に手渡す。手渡した。その時だ。
どよめきが周囲から巻き起こった。
「何だ、どうしたんだ?」
「どうしたもこうしたも……」
彼はマジマジと私を見つめ、言った。
「お前、何か光ってるぞ」
「え」
人間が発光するわけがない、という私の固定観念は、彼の言葉に従って自身の体躯を見た直後、瓦解した。彼の言う通りだった。私の足元からは立ち上る様に光が走り、天へと昇っていく。
「お前さぁ」
彼はぼそりと言った。
「やっぱり二年前、死んでたんじゃないのか」
「だとしたら、何でわざわざ化けて出てるんだ?」
「そりゃ、こうして俺に奢った瞬間に光ってるってことは」
まさか、と私は思った。まさか、忘れていたこの借りを返す為だけに? 化けて出ていたのか? 私が?
「……つまらない男だなぁ」
「そうか?」
彼は静かに笑った。その笑顔は初めて見た。穏やかで、しかし寂しそうな顔だ。
「これ以外に心残りが無かったってなら、幸せだったんだろうぜ」
それもそうか、と私は言った。意識は朦朧としてきていて、どうやら天に召されるまで、もう幾許も無いらしい。
しかし、その前に。一つだけ、言っておくべきことがある。
「謝りたいことがある」
「何だ」
「未だにお前の名前、思い出せない」
「俺もだ」
私たちは二人で大声で笑った。まぁ、小学生の頃の思い出なんて、そんなものだろう――。
「兄ちゃん。さっきのは――」
傍で、ラムネ売りの店主が言った。彼は一つ息を吐いて、手にしたラムネの瓶を暫く見つめてから、やがて天に目を向ける。
「まぁ、盆だからなぁ」
ヤツが何故死んだのかまでは知らない。だが、と彼は思った。
「俺もあんな感じで死ねたらいいな」
呟いてから開けたラムネの瓶からは、炭酸が思い切り噴き出した。
夏の日、残像