明け方に歩く
朝方の澄んだ空気が好きだ。暗かった世界がだんだんと明るくなっていく。光の中に、薄い桃色の粒子が浮いている。まだ誰も起きていない世界は静かで、この景色を私の為だけに見せてくれている気がする。絶望も否定も夜と共に流れ、優しさと希望に溢れているように感じる。己が肯定されているように思える。この世と云うのは美しい。そう思えるから明け方の散歩が、私は好きだ。
私は散歩が好きだ。散歩好きを自称するほど散歩をしているとは思えないが、それでも散歩が好きだ。散歩は移ろいゆく季節や時間を感じられ、五感が贅沢をする時間だと思う。それぞれの季節や時間に良さがあるのだが、今回は明け方の散歩の良さの話をしよう。
特に記憶に残っている明け方の散歩がある。明け方の散歩、と云ったが実は明け方に出発した訳ではない。夜中の散歩が長引いて、朝方まで散歩したというのが正しい表現だ。私はふらふらと生きているので、その時は一応次の仕事の目処は立っているものの、無職だった時期だと思う。ふらふらと生きているとは云っても、別に好きでふらふらと生きている訳ではないので、不安やなんかもあった。働いていない事への焦燥感や、己への絶望感、決まっている仕事への期待と不安、などなど。そういった思いを抱えていた6月から7月の間の事だった。そんな状況だったので生活習慣も狂いに狂っていた私は、ある夜中思い立った。そうだ、散歩へ行こう、と。
初夏とは云えど北海道、夜はまだ肌寒いので上着を羽織り、iPodとヘッドホンを持って散歩へ出かけた。iPodで好きな音楽をガンガン流し、歌いながら歩く。どんどん歩く。初めは小声でぼそぼそ歌っていたのだが、歌いながら歩くうちにテンションが上がっていき、随分と大きな声で歌いながら歩くようになってしまった。道路沿いのお宅にはさぞかし迷惑であっただろうと思う。あと、偶然見掛けてしまった人はさぞ薄気味悪かったであろう…。しかしその時の私は好きな曲を聴きながら歌いながら、ずんずんと歩いて行くのが気持ちが良くて、あまり深くは気にしていなかった。不安とか、焦りとか、情けなさとか、絶望とか、そういうものを発散するかのように歌いながら歩いた。歌いながら歩いている間は考えずにいられた。そのまま歌いながら歩けば、全て消えてしまうような気さえしたのだ。重ねて云うが、道路沿いのお宅と偶然見てしまった人には申し訳ないと思っている。一応公園とか、住宅の少ない道を選んではいたのだが。
とにかく私は歩いた。歌いながら歩いた。当時住んでいた場所の側が小高い丘のようになっており、そこを登りながら歩いた。区役所を越え、公園の隣の道、高校の横、そして普段は来ないような場所まで私は歩いた。見慣れないファミレス、ガソリンスタンド、公園。その辺りは起伏が激しく、道が登ったり降りたりしていた。そんな道を歌いながら歩いたものだから、うっすら汗ばんだと記憶している。
そうしているうちに、街灯の明かりだけが頼りだった世界がうっすらと明るくなり始めた。薄いブルーの明かりの中にいた。彼は誰時というやつだ。うっすらと見える、でも誰だかはわからない、かはたれ、彼は誰。こんな時間に誰かと擦れ違ったとしたら、もしかしたらその相手は人じゃないかもなぁなんて考えたものだ。その時は誰とも擦れ違わなかったが、今思うと人の事を云えたものではない。
その頃には私も疲れ始めていたのだが、どうせなので朝日が見たいと思った。朝日に照らされ起きてゆく世界を見ようじゃないか、と。見やすい場所を探してまた暫く歩き、高台にある公園の東屋に座った。山の斜面にあり、高低差のある公園の、一番上の東屋ならば朝日が見えるのではと期待したのだ。残念ながら朝日が昇る様は見えなかったが、だんだんと明るくなる街並みが良く見えた。その日は良い天気で、光の中に桃色と云うか、黄色と云うか、そういう暖かい色の粒子が舞っているように見えた。良い眺めと好きな曲、初夏の匂い。世界って美しいと素直に思える景色だった。それを見ながら私は生きていけると思ったし、頑張らねばと思えた。私の不安や焦燥感は、歌いながらの散歩と朝日によって、次への活力とまさかの進化をしたのだった。
だから私は明け方の散歩が好きだ。こんな私でも生きていていいと思えるから、世界が肯定してくれているような気がするから、私は明け方の散歩が好きだ。人生に迷った時は、また明け方に歩いてみたいなと思う。
明け方に歩く