酒と詩、そして戦闘機

酒と詩、そして戦闘機

【1】詩と俺

 俺のまだ短い、冴えない人生の中で一つだけ誇れるものがあるとしたら、それは「詩」だと思う。
 「詩」。和歌とか短歌とか、もちろん普通の詩とか、言葉で紡がれる世界の一欠片のことだ。残念ながら、俺はあんまり賢くなくて、母国語の詩しかわからないけれど、それを誰よりもじっくり読めることが、俺の密かな自慢だ。
 密かな、というのは、卑下なんかじゃない。単に恥ずかしいから言っているだけのこと。清楚で奥ゆかしい文学少女だったならまだしも、二十代も半ばのオッサンが「詩」が好きだなんて言ったら、どんな迫害を受けるかわかったもんじゃない。
 「詩」は、密かに、己の内でこっそりと楽しむのが良い。それが俺のやり方。いかがわしい動画の方がよっぽどオープンに楽しめる趣味。それで良い。
 綺麗な月の晩、あるいは、気怠く晴れた土曜の昼下がりに、苦労して手に入れてきた読めないラベルのお酒やコーヒーをちびりつつ、こっそり自分だけの宇宙を練り上げる。俺は自分で「詩」を書くことはできない。俺はただ、どこかの誰かが書いたことを噛み締めるだけ。何度も、いつまでも。
 さっきも言ったが、俺は馬鹿だ。あまり長い物語は読めない。小学生の頃、宿題でむりやり読書感想文を書かされた時に、仕方なく選んできた本が「こどものための名詩集」だった。(反則スレスレだが、我ながら良いチョイスだと思ったものだ)それが俺と「詩」との出会い。
 俺は特に解説も無い、その詩集一冊読み切るのに、一カ月もかかった。お気に入りの綴りを見つける度に、俺は長いこと立ち止まってそれを眺めた。喉の奥で繰り返し唱えて、頭の中にぼんやりとした絵を描く。本当に紙に描くとひどいものだから、頭の中だけで、気が済むまで幾度となく思い描く。そんなことをしているうちに、気付くと自分がその中に立っている。会ったことも無い誰かが――――それは時に美しい女の人であり、時にはちょっと怖い男の人でもあった――――振り返って、俺を呼びかける。俺は気まぐれにその人について行ったり、無視したりする。
 そんなこんなで、いつの間にやら陽が落ちてしまう。そしたら俺は本を閉じて、また別の遊びに勤しむ。遊ばないと、なぜかちっとも良い絵が描けない。俺は俺なりに、「詩」を楽しんでいた。
 そうして、提出期限の新学期初日を大幅にオーバーした後に、俺はどうにか感想文を書き上げた。内容は惨憺たるものだった。作文用紙に、たった一言。「けしきがあたまにうかんできて、きれいでした」。言葉を連ねれば連ねるほど、せっかくの自分だけの遊び場が、ちっぽけで、狭苦しい、それこそ言い様も無いぐらいにつまらないものになっていく気がして、物凄く気分が悪くかった。
 「違う、こんなんじゃない」俺は書いては消しゴムをかけ、また書いては消して、考え詰めた挙句、ついに何も書けなくなった。
 結局、担任の先生に愛想を尽かされて、感想文は半端なまま許された。俺はもう二度とこんなものは書くまいと心に誓い、事実その通りにした。
 一方で、「詩」への熱は、後々までくすぶった。
 俺は相変わらずの味わい方を続け、小学生のあの頃とは比べ物にならないほどたくさんの絵を繋げてきた。それはあたかも線路の沿いの景色のように、どこまでも伸びやかに、連綿と広がっていく。俺はお気に入りの嗜好品を片手に、フラリとやってきた幻の汽車に飛び乗る。そして俺の名を呼ぶ誰かに、会いに行く。

【2】幼馴染と通訳

 幼馴染の話をしよう。
 そいつとは家が近所で、ずっと同じ学校に通っていた。実のところ、そんなにしょっちょうつるんでいたってわけじゃないんだけれど、なぜかお互いに、独特の立ち位置ってものを保っていられた間柄だった。
 何でも知り合った仲ではなかった。むしろ、ロクに知らないことの方が遥かに多かった。何を知らなくとも気楽に過ごせる。興味の方向が大体一緒で、動くときの呼吸がやけに合っている。今日遊ぶ予定について話していたら、そんなことを話す時間なんてあっさり無くなった。
 ただ、俺は馬鹿だったけど、アイツは一つ聞けばたちまち十理解する、そういうヤツだった。俺はたまには、そんなアイツを密かに妬んだりして、でもちっとも敵わなくて、みっともない気分に陥っていたりしていた。
 そのうちに俺は、完全に自分に呆れてしまった。小さい頃から、親の教育方針で色んな習い事をさせられていたのだけれど、どれもちっとも身につかないし(初見の幼馴染の方が上手なんてことは、ザラだった)、どう工夫しても叱られてばかりだしで、俺自身、自分の溜息で窒息しそうだった。
 情けない話だけれど。俺がこそこそと「詩」を読み進めていたのも、描かれた世界に惹かれたからだけでは無かった。何もできない、しょうもない自分と向き合うために、ああいう静かな隠れ家がどうしても必要だったのだ。(それは今の俺にとっても、同じことだ。俺は、イモリが空気を求めて、こっそり水面へ呼吸しに行くように「詩」を求めている)
 アイツは身長も高くて、誰にも物怖じしなかった。暴力に暴力で立ち向かうことを全く躊躇わなかった。ふと見たら、しょっちゅう誰かと喧嘩していた。俺とこそ一切争わなかったが、アイツはいつもギラギラしていた。
 よく覚えているのは、中学の修学旅行の時。京都の繁華街の、何たら通りで、同じ学校のタチの悪い連中とアイツが諍い始めた。連中が何かアイツの気に障ることを言って、無視すればいいのに、アイツがそれに応じた。言い争ううちに、逆上した相手が先に手を出す。アイツは殴られたその瞬間、フッと短い笑みを漏らした。全身の血が一瞬で凍つくような、押し殺した笑顔で、悦びにも似た奇妙な情熱を迸らせていた。俺は人だかりの中で眉を顰めた。
 そこから先は目も当てられなかった。アイツはよろめきから立て直ると、すぐさま相手を殴り返した。相手の仲間やら班の連中やらが彼を止めに入ったが、アイツは意にも介さず、執拗に標的と定めた相手を殴り続けた。倒れれば蹴り、逃げれば追い詰めて、さらに蹴る。殴る。息も上がらない。何一つ喋らない。爬虫類みたいな真顔で、アイツはひたすらに、ひたすらに暴行を加えた。彼自身もひどく殴られていたが、それも霞んでしまうぐらいに、凄まじい気魄で拳を振るった。
 取り巻いているクラスの女の子が、ギャンギャンと泣いていた。アイツとも、殴られている男とも大して関係が無いはずなのに、それはもう大袈裟な声で喚いていた。街の人は迷惑そうに(しかし、少しだけ面白そうに)見守っていた。ヤバイんじゃないの、という囁きが細々と交わされ始める。
 俺はと言えば、あまりに馬鹿馬鹿しいので黙って顛末を眺めていた。
 アイツは賢いヤツだったけど、時々どうしようもなく愚かになった。アイツはあれで、正気なのだ。怒りに我を忘れているなんて、可愛い状態じゃない。
 アイツはわざとらしい狂気を狡猾に演じて、言葉にできない、アイツだけの黒いわだかまりを爆発させる。それは時として暴力となり、時として容易には真似できない才気(アイツは文字通り、死ぬほど勉強した。血が滲むほど努力した)となり、噴出する。泣くよりも、愚痴るよりも、妬むよりも、「詩」を読むよりも、彼はそうした「暴力」を何よりも好んでいた。
 俺は頃合いを見計らって近寄り、声をかけた。アイツはそんなとき、決まってうざったそうに(本当にうざったそうに)こちらを見やると、バツが悪そうに言うのだ。
「コウ、そんな目で見るな。…………わかってるよ」
 別に責めてなどない。だが、そんな風には見えたかもしれない。
 修学旅行の日、アイツと俺は一緒に事情を弁解しに行き、そのまま宿に帰った。帰り道、アイツはふてているんだか、反省しているふりなんだか知らないが、一言も口を利かなかった。
 なぜ俺がついて行くんだと言ったら、それが俺の立ち位置だからとしか答えようが無かった。アイツがたまにしでかす、説明のしづらい、この上もなく厄介な憂さ晴らしに、尤もらしい理由をつける。そんな感情の「通訳」が、この俺の役目だった。
 慣れた俺は淀みなく、担任に告げる。
「…………はい、そうです。タナカたちが最初に、ヤガミの家のことを揶揄したんです。母子家庭で、収入も無くて、どうやって修学旅行に来たんだ? って、そんな感じで突っかかっていました。あと、弟さんの病気や、おばさんの身体のことも言ってました。障碍者がどうのこうの…………って。この辺りは本当に最低で、多分、一緒にいたオイカワさんたちもよく覚えていると思います。
 …………元々、サッカー部の連中とヤガミとは折り合いが悪くて、何かと絡まれることが多かったんです。ずっと聞き流してきたんですが、今回はさすがに…………」
 影の溜まったバスの車内で、ヤガミは夕焼けに染まる街を眺めながら、まるで透明な音楽に耳を澄ましているかのような顔で黙っていた。

【3】家族の形

 家族のことを、話そうか。
 とは言っても、実は、俺は自分の家族についてすら、そんなに多くを語れない。生まれたときから何となく一緒にい続けて、どことなくわかってもらえている? そんな関係がダラダラと続いている。
 まぁ、世間一般に言えば、とても健康的な家庭なのだと思う。俺がいい歳してフリーターだってことを除けば(でも、これって悪いことかな?)、むしろ、テレビドラマにだって出てきそうな、理想的な家庭とすら言えるのかもしれない。仕事熱心だけど家庭も顧みるお父さんと、明るくて優しい、多才なお母さん。健康で家族思いの兄妹。
 まぁ…………内実はもう少し複雑ではある。誰もあえて立ち入ろうとしないだけで、ちょっとでも深みに手を伸ばせば、今見えているものよりもずっと入り組んだ、根深いものが見えてくるはず。
 そうだな。例えば、俺と父さんのこととか、捩じれているポイントだろう。俺の父さんは基本的に海外にいる人だ。物心ついた頃から、まるである種の神様みたいに、遠くから俺や母さんたちにお告げを降らしてくるだけの存在だった。お告げの内容は大体正しくて、いつだって俺たちがする以上に俺たちのことが考え抜かれている。俺は父さんを尊敬こそすれ、反発はしなかった。
 だけど、これがもし普通の家庭のように、父さんが毎日家にいたらとなると、事情は違っていただろう。「お前は、何がしたいんだ?」会う都度尋ねられるこの質問を、毎日顔を合わせる度にされていたらと思うと、気が気じゃない。
 父さんが思い描いている「家」と、俺が生きてきた場所とは、きっと結構異なっている。それは、母さんにも、妹にも言える。その齟齬が表面化してくる時、本当に健康的な「家」なのかどうかが試される。俺はそう思わないこともない。
 …………ついでに思い出してしまったから、幼馴染の家のことを話そう。その方がいくらか「詩」に近い気がする。
 ヤガミの家のことは、無関心な俺でも少しぐらいは知っていた。小さい頃に本人から直接聞いたのと、母さんたちが話していたのを小耳に挟んだ程度のことではあった。だが、それでもアイツの家が、いわゆる「貧乏」であることはよくわかっていた。
 ヤガミの家は、外国から来たそうだった。(そう言えば、ヤガミは少し外国人っぽい顔をしていた。彫りが深めで、端正な目鼻立ち)父親はおらず、母親とアイツと弟の三人暮らしだった。薄幸そうな面立ちの色白のお母さんが、遊びに来た俺をいつも優しくもてなしてくれていたのが懐かしい。おばさんは細い声を、さらに切なげに細くして、こう俺に言ったものだった。
「コウ君。セイをよろしくね。…………ずっと、仲良くしてあげてね」
 俺は大きく頷いて答える。「もちろんだよ!」
 おばさんが仕事に出ている間、ヤガミは幼い弟の世話を任されていた。仕事が昼の日には、俺もついて行って世話をした。懐かれていたのかは知れないけれど、案外仲良くやれていたつもりである。ヤガミはまだよちよち歩きの弟をからかったり、小突いたりしながら、無邪気に笑っていた。それは風のように屈託の無い笑顔。京都のときとは、似ても似つかない笑顔。
 俺は夕方になると、自分の家へ帰る。帰りしなに、「一緒に夕飯食べる?」と、何度か誘ったけれど(母さんが、誘いなさいと強く言っていた)、彼らがついて来たことは一度として無かった。ヤガミはいつも、大人びた微笑みを浮かべて返す。「また明日。学校でな」
 俺の家には毎日、母さん(か、俺)のお手製の温かいご飯が並ぶ。幼い頃から、大人になった今日も変わることなく。俺はいつだって勢いよく手を合わせて、美味い食事にありつく。
 煌々と明るいリビングの灯の下で、たまにヤガミのアパートのことがよぎる。アイツの家の、暗がりになった流し台の、古びた清潔な景色。あんまり使われていなかったんだろうなと、今ならわかるのだ。台所の隅の方に、こじんまりと積まれたレトルト食品やフルーツが、今も俺の心の内にしんみりと色づいている。
 兄弟が慎ましく、夜遅い母親の帰りを待つ間、子供の俺は、友達と一緒にご飯を食べたなら、きっともっと楽しくなるだろうと無邪気に残念がっていた。

【4】夢見る時間

 俺は毎朝妹の弁当を作るのだが、お天道様の几帳面なことには、頭が下がると同時に心底ウンザリする。たまにはちょっとぐらい遅れて昇ったって、誰も怒りはしない世の中になれば、戦争だって無くなりそうなものなのに。俺は常々、もっと世界が大らかになれば良いと思っている。
 学生時代、そんな俺はよく遅刻をした。道草食う程の道中ではないので、単純に寝坊が原因だった。それにその頃、俺はちょうど自分のコンピューターを貰っていた。
 夜中まで夢中になってパソコンをいじっているうちに、遅刻が目立つようになっていった。インターネットが自由に使えるようになり、それまでよくわからなかった「詩」の意味がわかるようになってきて、いよいよ止め時が掴めなくなった。(もちろん、そんな高尚なことだけが理由なわけはない。俺はもっと欲求に忠実に、色んなものを漁っていた)
 妙な話、俺はぼちぼち勉強するようになったのだ。知らない街の、知らない景色。知らない物語。自分じゃない誰かの人生。今まで見知ってきた馴染みの世界とは別の世界を、めくるめく、見続けて、俺はちょっとずつ自分を変えていった。
 俺の興味は「詩」だけに尽きなくなった。相変わらず小説はロクに読めなかったけれど(いや、正確に言えば、読めはするが物凄く時間がかかった)、音楽や絵にも興味を惹かれるようになっていった。写真も格好良いと思った。一瞬が切り取られているもの。そういうものに俺は、生のきらめきを感じる。
 俺はネットで調べた情報を元に、こそこそと塾帰りに図書館に通うようになった。当時は今みたいに、あっという間に画像や音がダウンロードできなかったから、自分の足で取ってくる必要があった。(ついでに言えば、通信料も馬鹿にならなかったし)瞬く間に、幾つもの夜が更けていった。
 そんなに急いで生きなくてもいい。色んなものからそう教わった。この世界は美しく、広い。だが汚いところもある。どうしようもない袋小路に陥ることもある。まるで機械のように巧妙に出来ているかと思えば、てんで滅茶苦茶な、こんがらがった蜘蛛の巣みたいなこともある。だからこそ面白かった。「お前は、何がしたいんだ?」そんなこと、ちっともわからなかったけれど、それでも、楽しかった。自分のことなんて、死んだ後にゆっくり考えれば良い。本当にそう信じていた。誰にも譲る気が無かった。
 …………長くは続かない、夢のような浮遊感だったけど。

【5】相棒をポケットに

 夢の終わりは、きっと何度でもやって来る。ならばまた、何度でも夢を見れば良い。大人になった今ならそう言い切れるが、幼いうちは、そんな余裕が無い時もある。
 中学生の俺が現実に引き戻されたのは、自分も含めて、誰のせいでも無かった。俺はあくまでも現実を生きている。「お前は、何がしたいんだ?」この世界で生きていくためには、この質問からは決して逃れられない。死んでから考えようなんていう甘いスタンスでは、中学の進路指導室の中でさえもやっていけなかった。
 俺はその冬、透明な自分のドッペルゲンガーと日々鼻づらを突き合わせて、メビウスの輪じみた迷路に陥っていた。「お前は、何がしたいんだ?」ええと、勉強? 「お前は、何がしたいんだ?」だから、進学? 「お前は、何がしたいんだ?」わかっている。馬鹿だし、あまり良い高校は向いてないよな? 「お前は、何がしたいんだ?」ええと、それは…………。
 間の悪いことに、そんな折に父さんが家に帰って来た。父さんはうだうだと足踏みする俺を見るなり、当たり前のように俺の進路面談へ乗り込んでくると、あたかも商談でも進めるかのような調子でザクザクと俺の志望校を進学校に決めてしまった。
 反抗期? なにそれ、美味しいの? 覚えたての馬鹿げたネットスラングが右から左へ頭をよぎる中、俺は諾々と父さんに従った。従うしかなかった。父さんの語り口が巧妙だったせいで、表面的には俺が自発的に、地域一の進学校を望んだような形になった。
 不満は無かった。確かに、自分には荷が勝ち過ぎる難度の学校に願書を出すのは気が引けた。だが、だからと言って反対する理由も見つからなかった。そもそも、どこへ行きたいだなんて希望はこれっぽっちも無かったわけで…………それでいいのかなと、悩んではいたけれど…………願書の宛先が変わったぐらい、なんのことは無かった。
「お前なら大丈夫だ。努力しなさい」
 父さんが面談の最後に俺の肩を叩いた。つられて、担任の先生が追い打ちをかけた。
「ミナセ君の遅刻は、家が遠いせいもあるでしょう。これさえ気をつければ、ミナセ君の普段の態度ならば、全然狙える範囲ですよ。…………こと勉強に関しては、ヤガミ君に劣らない、努力家ですからね」
 誰も彼も、一体俺の何を見ていたんだろう。俺が努力家? ただ「嫌だ」と言えないだけで、目的も無く学校と塾に通っているだけなのに。…………成果なんて、微塵も出てないのに、どうして嘘を塗るんだ? 「家が遠いから遅刻した」? どうしてそんな、聞こえが良い風に訳せる?
 俺は。
「…………はい、よろしくお願いします」
 俺は、全てを飲み込んで、静かに頭を下げた。善意だと知っていたから、他にしようがなかった。
 自分はダメなヤツなんだなという諦観が、いよいよ強まってきていた。ヤガミと比べてだけでなく、他の誰と比べても、俺には何かが欠乏している。自分の内の空白が徐々に拡がってきているのが、ひしひしと感じられた。そしてそれが最早、「詩」では…………いや、他の何によっても、埋められないということも。
 俺は自分がイモリなんだか、トカゲなんだか、さっぱりわからなくなった。馬鹿言ってんじゃねぇ、お前は人間だと、何度も自分に言い聞かせようとしてみたけれど、自分の愚かさが身に染みるばかりだった。
 そうして俺は、だらだらと学校に通い、塾へ行き、図書館には足を運ばなくなった。代わりに何をしていたのかと言えば、ロクでもないことに、酒を飲んでいた。
 俺は父さんの書斎からウィスキーを、グラスにほんのちょっとばかり頂戴してきて、舐めた。最初は喉が焼けるような感じがして、すごく不味かったが(今から思えば、何て罰当たりな)、そのうちにあの何とも言えない、甘いような、爽やかな香りが癖になって、美味く感じられるようになった。父さんも、アルコールの酩酊も、まだ少し恐かったから、あまり量は増やさなかったものの、手当たり次第に色んな種類を試していった。父さんが好きだったので、封の空いているものをかなり贅沢に選べたのだ。
 今から思えば、ちっぽけな反抗心に他ならない。いっそ溺れるまで飲んでやろうかとも考えた。酒がもったいなくて、できなかったけど。
 パソコンを開いても、もう何も面白くなかった。自分からページをめくっていくことが億劫だったし、苦痛ですらあった。どうしても知りたいことなんか、何一つ無かった。
 呆れて電源を落とすと、俺は小学生の頃からずっと使っている相棒のカッターを手に取った。カチカチと適度に刃を伸ばしたら、その辺にある紙へ添わせる。後はもう何も考えず、全部、黙々と正方形に整える。メモ帳も、裏紙も、進路希望調査のプリントも。何もかも、折り紙に変えてしまおう。
 紙を切り裂く爽快な音と、灰色の刃の鈍いきらめきが気分を落ち着かせる。延々と続けていると、催眠術みたいだった。心が宙に浮いて、チカチカしたモニターの残光がゆっくりと遠ざかっていく。
 折り紙は鶴にしたり、風船にしたり、小舟にしたり。レパートリーは少なくとも、どれか一つ作れれば満ち足りた。気が済んだら、適当なカバンの中か、でなければ上着のポケットの中へカッターを放り込む。学校でも塾でも、便利で頼りになる相棒とは常に一緒だ。折り上がった鶴だの玩具だのは、妹にあげるか、即ゴミ箱へ。誰も傷付けない、ごく平和的なストレス解消方法。可哀想なのは、ゴミ箱の中でなおも健気に羽を広げる鶴だけ。
 綺麗だったはずのものが、どんどん灰色になっていく。その止め方はネットのどこを探しても見つからない。むしろ、ものは漁れば漁るだけ色味を失っていく。日に日に増えていく広告も、致命的にウザかった。
 とある真夜中、革命的でセンチメンタルな、息が詰まるぐらいに繊細なピアノの音色を聞きながら(タイトルは忘れてしまったけれど、今でも時々聞きたくなるような曲だ)、ロシア語のラベルが巻かれた酒を飲んでいたら、携帯が鳴った。
 ヤガミだった。
「…………寝てた?」
「寝てた」
「嘘吐け。そんな声じゃない」
「寝ようと思ってたんだよ。何の用?」
「別に。暇そうなヤツにかけた」
「…………切っていい?」
「あのさ」
「何?」
「死にたくなったことって、あるか?」
 不意を突かれて、俺は口を噤んだ。
 透明な、水みたいに澄んだ濃い酒を一口飲んで、それから答えた。
「…………無いけど」
「死んだら、どうなるんだろうな?」
「何だ、酔ってるのか?」
「俺は素面(しらふ)だ。…………なぁ、どうなると思う?」
「知らない。…………何も無いんじゃないか」
「何も無い」
「ああ、全部終わり。ただの無」
「天国とか、生まれ変わったりとかは?」
「子供みたいなこと聞くなぁ。…………あってもいいだろうけどさ」
 俺はもう一口分、グラスを傾けた。
「無い、って思ってた方が、気が楽じゃん? 裏切られる心配が無くて。後腐れなくてさ」
 言うとヤガミは少し間を置いてから、
「…………そう、かもな」
とだけ、呟いた。
 ヤガミが、そして俺自身が、あの時どれだけ本気だったのか。それは永久にわからない。俺の景色に残るのは、くすんだ丸いおぼろ月と、子供には少々強過ぎた、悲しいぐらいに透き通った酒の揺らめきだけだ。
 働きづめのヤガミのおばさんが職場で倒れて、ヤガミが学校を早退したのは、次の日だった。

【6】カーテンの奥

 天気が変わるように、人生の色合いもくるくると変わっていく。俺も中学生だった頃から、今に至るまで、地味ながら変わってきたと思う。自分の酒は堂々と自分で買いに行けるようになったし、二日酔いにならない飲み方も覚えた。家族との距離の取り方も上手くなったし(妹のお弁当を作ったりね…………)、自分の空っぽとの付き合い方は、未だによくわからないが、まずまずのところで落ち着いている。
 生きていると、本当に色んなことが起こる。俺のバイト仲間にも、結婚したり、子供が生まれたりするヤツらがチラホラ出てきた。おめでとうと言ってお祝儀を包む度に、財布の風通しが良くなるのにも、もう慣れてきた。
 だが当然ながら、人生は良いことばかりとは限らない。中には、どうしてそんなに…………ってぐらい、不幸な目にばかり遭う人もいる。
 俺の知る限りでは、あの優しい、ヤガミのおばさんこそが、まさにそんな人だった。
 ある時期から、おばさんを見かけなくなった。それまでは近くのスーパーや図書館(あのおばさんはよく、夜遅くまで図書館で資格の勉強をしていた)で度々顔を合わせていたのに、いつの頃からか、パタリと姿を消してしまった。俺は母さんに言われて、初めて「そう言えば」と気付いた。当時は俺も塾に入り浸りだったのだ。
 それから俺は駅からの帰路、それとなくヤガミのアパートの様子を窺うようになった。確かにいつ見ても、家のカーテンは隙間無く閉じられていた。忙しいという印象はあったが、あんなにも連日、家に人気が無いのは妙だった。ヤガミや、弟のソラ君はどうしているんだろうと、さすがの俺も心配した。ヤガミはおばさんが倒れて以来、グレて(あるいは、年を誤魔化してアルバイトでもしていたのかもしれない)すっかり学校に来なくなっていたので、聞き出す機会も無かった。ヤガミはともかく、あの小さなソラ君がぽつねんと暗い部屋の中に置き去りにされているのだと思うと、胸が痛んだ。
 母さんが持病の心配性を大いに発揮して、何とかヤガミと連絡を取るようせがんだ。近所では自殺だなんて噂も囁かれているらしく、尋常でない様子だった。俺は大袈裟な、と思いつつも、仕方なく電話をかけた。8回かけて、ようやく繋がった。
「…………コウか?」
 電話に出たアイツの、ぞっとするほど大人びた声は、強く印象に残っている。俺はヤバイかなと思いつつも、単刀直入に尋ねた。
「ああ、俺。おばさんって今、どうしてる? ウチの母さんが、気にしてる」
 ヤガミは「ああ」と、えらく気の無い返事をすると、拍子抜けするほど淡泊な調子で短く答えた。
「かえったよ」
「帰った? 帰ったって、海外の実家に?」
「…………もう戻って来ない」
「えっ、マジ? じゃあお前は今、どこにいるんだよ? あっちの家? ソラ君は?」
「…………知らねぇよ。こっちが聞きてぇぐらいだ」
「オイ、どうしたんだよ? お前は、どこにいるんだ?」
「暗いところ」
「どこだって?」
「…………。あの人さぁ、ずっと隠してたんだ。元の旦那から逃げてんの。死んだって、ずっと聞かされてたんだけど」
 ふいに始まった語りに、俺は言葉を返しそびれた。ヤガミは構わず話し続けた。独り言か、あるいは呪詛のように。
「…………あの人さぁ、いつも何も言わねぇんだよ。いっつも、独りで抱え込んでさ。大丈夫だから、っつって、何も大丈夫じゃねぇし。しょっちょう病気して倒れて、たまに死にかけて、マジで迷惑だった。
 それでも…………這って、出てって。…………必死になって、働いて。馬鹿みたいに外国の言葉覚えてさ、ロクに懐きもしねぇ知恵遅れのガキと、クソ生意気な人間のまがいもの養ってさ、挙句の果てに、何もかも奪われて、惨めに捨てられちまった。
 …………あの人さ、一体何の為に生まれてきたんだ? 何が楽しくて、生きてたんだ? 何も報われなかったじゃねぇか…………」
 怒りなのか。哀しみなのか。俺は震える声に、恐々と言葉を挟んだ。
「ヤガミ。大変なのは、わかった。でももう少し、わかるように話してくれないか? もしかしたら、助けになれるかもしれない」
「わかるように? 馬鹿言うなよ。お前、頭良いんだから、もうわかってんだろう。いつだって全部、見透かしてる。俺もお前みたいだったら…………もっとちゃんとした人間だったら、もっと早く気付けたんだ。こんなことにならなかった」
「…………どうしようもないこともある。いいから、どこにいるのか教えてくれよ」
「…………言えるわけ、ない」
 電話は途中で切られた。その後は、何度かけても通じなかった。
 俺は膨大に膨れ上がった不安を抱えたまま、出来るだけマイルドな表現を選んで、母さんに聞いたことを伝えた。母さんは卒倒しかねないぐらいに蒼褪めていたが、しばらくして落ち着きを取り戻すと、静かに、俺にヤガミ家の隠れた事情を話してくれた。ごくかいつまんだ話ではあったものの、ようやく俺にも、彼の言っていたことが理解できた。
 ヤガミのおばさんは、ひどいDVから無一文で逃げてきたらしい。途方に暮れていた彼女に、最初に声をかけたのが母さんだった。元々おばさんは心臓の病気を患っていて、その上DVが原因で、足がうまく動かなかったので、働き口を見つけるのにすごく苦労していたという。
 母さんは仕事を見つけるのを手伝い、家も探してあげた。
「セイ君のこともね…………大変では、あったの」
 母さんは躊躇いがちに話を続けていった。
 ヤガミは、おばさんの本当の子供では無かったそうだ。元夫の、前の奥さんとの間にできた子供で、虐待されていたのを見兼ねて、一緒に連れて逃げてきたのだとか。
「セイ君ね、「誘拐」されたことになっちゃってたの。だから、お母さんたちと一緒に普通に暮らせるようになるには、かなり揉めちゃって。お父さんのお友達の弁護士の方に協力してもらって、ようやく何とか今の状況を作った、っていう感じだったのよ…………」
 おばさんの苦労は、まだ続く。
 彼女の実子であるソラ君は発達障害で(これは俺も、薄々気付いていた)、しかも、おばさんと同じように、心臓に重い病気を抱えていた。その治療費がうまく工面できずにいたのを、父さんと母さんが相談して、お金を貸していたそうだ。
「ウチにいらっしゃい、って何度も言ったんだけど、ちょっと押しつけがましかったかしらね…………」
 母さんがしょんぼりと肩を落とす。俺は何も言えなかった。「見透かしてる」なんて、とんでもないことだと思った。俺が酒を盗んでフラフラしている間に、あの薄いカーテンの奥で、何が繰り広げられていたかなんて、思いも寄らなかった。知ろうともしなかった。俺はヤガミの背中しか見ていなかったと、今更になって気付いた。
 俺はリビングの明るい灯の下で、涙ぐむ母さんを見ないように、じっと俯いていた。

【7】「言えない」、「わからない」

 電話から数日後、ヤガミは意外にも、平然と学校にやって来た。二限目の数学の最中、おもむろに教室に入ってきたアイツを見て、俺は目が覚めるほど驚いた。
 ヤガミは幾分暗い雰囲気を湛えてはいたものの、外見上は特に変わった様子もなく、至って普段通りの様子であった。ヤガミは教壇に軽く会釈すると、無言で窓際に移された自席に着いた。ヤガミの成績は悪くない…………どころか、ずば抜けて良かったので、特に誰も彼を咎めなかった。「家庭の事情」。皆、いつの間にか暗黙の内に納得していた。
 俺はと言えば、だが、ちっとも釈然としなかった。俺はすました顔で座るヤガミをこれでもかと睨み付け、事情を話せとじりじり圧力をかけた。「俺たち、友達だろう!? 何でも話せよ!」…………なんて、青臭いことを言うつもりはさらさら無かったけれど、流していい問題では決して無かった。
 アイツは迷惑そうに(本当に迷惑そうな表情をする)こちらを見ると、親指をクイと持ち上げ、「屋上」と口を動かした。どこか虚ろな眼差しが、かえって正直で、無防備だった。俺は「わかった」と返事をし、難解で退屈な数学の授業へと戻った。(余談ながら、俺の成績はロクに上がっちゃいなかった)
 残りの授業中、アイツはいつものように、遠い目をして何かに耳を澄ましていた。何となく机に置かれた数学の教科書やレポート用紙の素っ気ない青い表紙が、俺の景色の片隅にいつまでも焼き付いているのは、間違いなくアイツのせいだ。アイツの影が落ちると、なぜか周囲の景色が全て、モノクロ写真みたいに陰影深く滲んで、そのまま焼き付いてしまう。
 そう言えば、ヤガミは時々写真を撮った。特に趣味でもないくせに、カメラを向ける時には、やけにこだわりたがっていた。どこぞで貰ってきたらしい、古いけど大仰な一眼レフカメラをこれ見よがしに大切に手入れしていて、気が向いたら撮ったものを現像して渡してくれた。去年、「売った」とか言っていたけれど。
 …………アイツも俺も、悪い意味で、よくいる今時の子供だったと思う。人の言うことをよく聞く良い子で、言葉にできない虚しさをいつも心に抱えている。…………いや、虚しさを言葉にするのが、絶望的に下手で、諦めて、下手なりに生き抜こう、って、さっさとスタンスを決めようとしていたんだ。あの頃の俺に言っても絶対に受け入れないだろうが、本当は俺とアイツとで違うところなんて、どこにも無かったんだろう。二人とも、虚しさからどうにか脱却したがっていた。…………でも、できなくて。
 今の俺にしたって、そんな自分から少しでも変わったとは思っていない。「お前は、何がしたいんだ?」どれだけ問われても、答えに似たものは一つしか見つからない。「生きたい」。極端な話、本当に自分の魂が生きているんだと腹の底から思えるのなら、死んだって構わない。諦めることが大人だなんて、信じたくない。
 …………俺は思っている。ヤガミは、たとえ自分自身のことは諦めるにしても、お母さんのことは「生かして」あげたかったんじゃないか、って。昔、ソラ君と一緒にいた時に見せたあの笑顔を知っていれば、自然とそう思えてくる。俺がアイツについて知っていることなんて、あれが全部だと言ってもいい。アイツは「生きている」ものが好きだったんだ。ごく当たり前の、ありふれたものばかり自分のファインダーに収めようとしていた。誰より勉強熱心だったのだって、時々たまらなくなってキレたのだって、何よりも「生」に執着していたからなんだ。
 子供たちの渇望。あどけないそれは、まず間違いなく、まともな言葉にはならない。「通訳」の俺をもってしても。
 一際空の高い、十五歳の秋の日に、俺はアイツが泣くのを初めて目の当たりにした。アイツは欄干に突っ伏して、声を押し殺して泣いた。
 誰も来ないよう…………彼の哀しみが、せめて今だけは、何にも汚されないよう、俺は一途に祈っていた。
 アイツの話は滅茶苦茶だった。とどめていた感情が堰を切ったように溢れて、抽象的で、どこまでいっても形にならなくて、臆病で、自己完結しがちで、俺には…………というより、この世界の誰にも立ち入れないってことが、痛いほど伝わってきた。本人だって自分の言葉の愚かしさに完全に参っていた。話しているうちに、自家中毒的に毒が回ってしまったのか、終いには、崩れ落ちるように口を噤んでしまった。
「…………忘れてくれ」
 ヤガミが最後に呟く。
 俺はその時、声をかけたかな。もしかけたとしたら、それはどうしようもなく上滑りした、愚にもつかない言葉だったろう。
 いずれにせよヤガミは、高らかに鳴り響いたチャイムを潮に、あっという間に涙を拭い去った。そうして俺を振り返ったアイツの顔は、いつもの、すかした生意気な表情だった。俺の答えなんか一切求めていないと、目で語っていた。
「…………帰る」
 アイツは低く、投げ捨てるように言うと、さっさと屋上から出て行った。俺は残りの授業に出て、塾にも行った。それから帰って初めて、台所のワインに手を付けた。これがきっかけで、ワインが本当は美味しいものだと知るのに、その先十年近くかかる羽目になるけれど、やたらに煽るなら、あれ以上にふさわしい飲み物は無いと思った。

【8】天国の在処

 ヤガミはおばさんに、「一体何の為に生まれてきたんだ?」と訴えていた。「何が楽しくて生きてたんだ?」とも。
 俺はおばさんのプライベートなんて何一つ知らなかったけれども、彼女の人生に、本当に何も無かったとは思わない。
 ソラ君のことが、真っ先に思い浮かぶ。あの子は、いつまで経ってもあどけない顔をした、天使みたいに奔放な子だった。おばさんそっくりの青白い顔色で、それこそ身体さえなければ、どこまでも、どこまでも、どこまでも心だけで世界を突き進んでいってしまうような、そんな少年だった。
 気が付くと、いつも何かに熱中していた。挑戦しているといった方が的確だったかも。彼の白熱ぶりたるや、文字通り熱を出すほどで、ヤガミはしょっちゅう、持ち前の迷惑顔をさらに迷惑そうに(…………とても嬉しそうに)顰めていたものだった。
 何かに夢中になるということ。それは俺の永遠の憧れでもあった。もちろん、赤ん坊のそれと大人のそれとが違うってことはちゃんとわかってはいたけれども、それでも俺は、あの子の熱に中てられると、羨ましく思ってしまった。熱を帯びた風は決まって、俺の空洞を軽やかに吹き抜けて、後には何も残さないが。
 俺は、おばさんは、そんなソラ君と、それを見守るヤガミと一緒にいる時間…………仕事に追われて、とても短い時間ではあったろうけど…………を、生きがいにしていたんだと信じている。彼らに会うために生まれてきたんだと、それぐらいは本気で考えていたと、真剣に思っている。たとえ自分には何もなくとも、彼らがいる。彼らには明日がある。それだけで嬉しかったんじゃないか。
 俺にヤガミのことを頼むおばさんの瞳には、それだけの力がこもっていた。ソラ君を抱く時のおばさんの横顔は、地上に降りた女神のように優しげだった。俺の心にも、そして多分、ヤガミの心にも無かった確かな火を、彼女は灯していた。
 …………心を照らす灯。命を焦がす情熱。そんなものは幻想だと、ひねくれた大人は言うだろう。でも俺は、たとえそれが幻だったとしても、大切に守っていかなければならないと強く思う。むしろ幻だからこそ、真に尊いのだ。
 いずれ、どこかへ向かって踏み出さなければならない。生きるというのは、結局そこに落ち着く。中学生の俺は自習室の片隅で、黙々と英単語帳をめくりながら、そんなことを歌う古い流行歌を延々とリピートしていた。「お前は、何がしたいんだ?」父さんの言葉が、寄せては返す波の如く俺に飛沫を浴びせていた。折悪しく面接対策なんていうものも始まっていた時期で、半ばノイローゼ状態だった。
「父親の仕事に憧れていて、将来は海外で働きたいと考えています。そのためには、語学力が必要だと思い、英語教育に力を入れている貴校を…………」
 別にまるっきり嘘を捲し立てているわけでも無かった。だが、本心でないのはよくよくわかりきっていた。「海外」って、具体的にどこ? そこへ行って、何するつもりなの? 地酒でも飲みに行くの? 仮に言語が喋れたところで、俺には話したいことなんて何一つない。…………俺がこの目で、耳で、舌で味わう、どんな「詩」も、内側へ内側へ染み込んでいくばかりで、外へは流れていかないのだ。
 俺は、夢や情熱なんて馬鹿馬鹿しいと、早く切り捨てた方がかえって楽になれると思い始めていた。いつかヤガミに問われた「死んだら、どうなるんだろうな?」に対する自分の答えが、悪性の癌みたいに身体中に転移していっていた。天国なんて、生まれ変わりなんて、初めから諦めておいた方が、無駄に苦しまないで済む、と。
 それは無論、世間知らずの浅知恵の産物だ。ちっぽけな自分を守るしか能がない、ズルい子供の、精一杯の抵抗だった。
 俺は自ら灯を探しに行く努力を放棄する言い訳を、尤もらしく繕い続けた。「一体何の為に生まれてきたんだ?」生まれたから生きている。「お前は、何がしたいんだ?」特にこれといってしたいことは無いけど、やれることやって、だましだまし生きていくんだ。それが大人になる、ってことなんだろう? …………
 …………それで一生食べていけるぐらい、甘っちょろいのだったら、そもそも天国も地獄も、生まれ変わりも、必要無いって言うのに。

【9】戦闘機の空

 最近の話だけど、飛行機のシミュレーションゲームをやらせてもらった。速くて強い、ナイフみたいな翼の戦闘機を飛ばしそうとして、俺はあっという間に墜落してしまった。
 ゲームを貸してくれた友人が言うには、戦闘機というのは、あえて安定しにくいよう作られているものらしい。普段乗る飛行機には大方ついている、飛んでいる時の姿勢を崩れにくくするような仕組みが、わざと施されていないのだとか。
「ただでさえ危ないことをするのに、なんでそんなことするんだ?」
 俺が尋ねると、友人はわかってないなとばかりに肩をすくめた。
「コウ。戦闘機ってのはな、いつだって相手を撃てなくちゃならない。安定性なんてのは、そんなヤツには邪魔なんだ。戦いたい時に、すぐに動けなくなる」
 俺は戦う前に墜ちたけれど。愚痴ると、友人はエースパイロットのような顔つきで俺から操縦桿(型のコントローラー)を取り上げるなり、「見てろよ」と、実にきれいに機体を繰ってみせた。その動きはまるで鳥のよう…………なんかでは全く無く、どちらかと言えば、餓えた猛獣のようだった。追っかけて追っかけて、敵から逃げて逃げて、ほんの一瞬の隙を狙って、執念深く、命をも焚き尽くして、飛んでいく。優雅なダンスなんてとんでもない。狂気の沙汰でしかなかった。
 ヤガミっていうのは、そういう点では、戦闘機みたいなヤツだったなと思う。格好良いけれど、ただ生きるにはあまりにバランスが悪かった。あんなに強いなら、もっと上手く飛ぶことができただろう、というのは、さっさと墜ちて地上から見上げているだけの、ド下手くそのぼやきであって、現実はきっともっと無情だったのだろう。性根からしてああいう風に作られていたのなら、アイツの墜落は必然だった。
 崩壊は唐突にやってくる。

【10】赤く染まる日

 俺は今も、あの日見た風景をうまく思い描くことができない。何度辿っても、どこから眺めても、不思議といつも、真っ赤な血のような夕陽に全てが吸い込まれて行ってしまう。陽を負って影に染まったヤガミと、俺の足元に縋り付いて、小刻みに震える俺の妹の姿だけが断片的に浮かんでくる。
 部屋でかじかむほど寒い日だった。学校は休みだった。俺は出掛けるのが億劫で、家で勉強していた。ちっとも捗らなかった。英語も、数学も、国語も、理科も、社会も、何もかも大嫌いだった。酒だって少しも美味くなかった。延々と繰り返される、流行歌のちゃちなフレーズ。俺の耳は単語だけをむやみに拾っていく。希望。明日。光。友達。翼。夢。
 ふいに血相を変えた妹が、何か叫びながら飛び込んで来た。俺と十違いの幼い妹。尋常でなく取り乱していた。俺は泣きじゃくる彼女が何を言っているのかもわからぬまま、急いでコートに袖を通して外へ出た。
 ――――早く。
 ――――死んじゃう。
 支離滅裂な言葉の切れ端が、俺の不安を掻き立てた。
 妹を追って、近所の高台へ向かって走る。沈みかけの陽が照らし出す坂道の凹凸が、鮮明に脳裏に焼き付いている。日頃の運動不足のせいで、かなり息が上がった。妹は興奮しきっていて、白い息を吐きながら、それこそ戦闘機さながらの勢いで坂をすっ飛んでいった。
 ――――セイ兄ちゃんが、刺した。
 ――――おじさんを。
 ――――セイ兄ちゃんの、パパを。
 少しずつまとまってきた妹の言葉が、俺の鼓動を跳ね上がらせた。まさかと、腹の底が冷え込んだ。
 俺は駆け続けた。掴んできた携帯を片手に、汗まみれになりながら、止まらず駆けた。本当にやったのか? 疑いがぐるぐる回る。行ってどうするつもりかなんて、これっぽっちも考えちゃいなかった。行かなければ取り返しのつかないことになると、それだけがハッキリしていた。
 駆けて、駆けて。ようやく俺たちが展望台まで辿り着いたとき、そこにはヤガミだけが立っていた。鮮烈な赤い陽が丘に差し込む。ヤガミがじっと、こちらを見据えていた。怯えた妹が俺に縋り付き、震えながら隠れた。俺は肩で息をしつつ、割れんばかりに携帯を握り締めた。
「ヤガミ。何をした?」
 ヤガミは軽く目を細め、低く答えた。
「…………その子から聞いてくれ。俺からは、言えない」
「ふざけるな! 親父さんのこと、お前…………」
「コウ。お願いだから、帰ってくれ。俺たちのことは、放っておいてほしい」
 遮ったヤガミの声は不気味なぐらい淡々としていた。幾重にも厚く塗り重ねられた緊張が、かえって彼の調子を凪がせていた。アイツの手には包丁に似た、見慣れない刃物が頼りなげにぶら下がっていた。錆のこびりついた大きな刃面を、じっとりとした暗い液体が伝っていく。
 ヤガミはこちらへ歩み出して、静かに語り継いだ。
「こうするしか無かったんだ。その子には気分の悪い思いをさせたと、反省してる。…………偶然、その子が通りがかったんだ」
 妹が首を振って、俺を見上げた。俺は何も言わずに妹を抱き寄せ、ヤガミを見返した。ヤガミは相変わらず、深い影の中に沈んでいた。
「…………警察に連絡しよう。俺も行くから」
 ヤガミが無言で刃物を握る手に力をこめる。背筋に一筋、冷たいものが走った。彼はわずかに上擦った、掠れた声で続けた。
「コウ。だから…………俺は行けないんだよ。俺はもうお前の言葉に…………いや、誰の言葉にも、染まりたくない。自分の行動が、お前のまっとうな言葉で言い換えられていくうちに、俺は動けなくなっちまう。だから何度も、繰り返しちまう。
 …………コウ。お前は良い奴だよ。お前と、お前の家族に、すごく感謝してる。お前が知ってるかどうか知らないが、俺は今までずっと、その恩に報いたくて、生きてきたよ。…………だけど」
 妹が何か小声で呟く。俺には聞き取れなかったが、ヤガミはちらりとだけ彼女に目を向けた。彼はそれから、少し疲れた口調でこぼした。
「それももう、限界なんだ。俺は所詮、人間のまがいものだ。どれだけ上辺を取り繕ったところで、性根が腐っている。自分でわかる。治らない。…………あの人だって、ずっと間違っていたんだ。どんなに親切に面倒見たところで、愛情なんかかけたところで、俺は裏切る。あの人を守れなかった。今だって、そうだ! 俺はあの人の頼みを、無視して、自分を抑えられなかった。アイツを目にした瞬間、何もかもが狂っちまったんだ!」
 ヤガミがまた一歩、俺に近付く。震えながら持ち上げられた刃の先端が、夕陽を鋭く反射した。血走った目が、食い入るように、汚れた刃面と、俺とを映していた。
「コウ。お前、わかるか。…………タガが外れて、一気に自分が馬鹿になる…………陰鬱さが。お前には、もしかしたらわかるんじゃないか、って、俺は勝手に思い続けてたよ。わかんねぇヤツが、あんな目を向けると思えなかった。…………でも、お前は俺と違って、どこまで行ってもちゃんとした人間だった。絶対に誰も殴らない。どんな感情も、衝動も、器用に受け流して、当たり前みたいに生き抜こうとしてる。お前が正しい、お前みたいに生きるのが強いんだって…………よくわかってる。だけど俺は、お前のようには、生きられない…………」
 「違う」と言おうとして、言葉が出なかった。ヤガミの突き出した刃が、何よりも強い言葉となって、俺の目の前に突きつけられていた。
「コウ。頼むから、これ以上俺に関わるな。お願いだから…………ここから消えてくれ。もう俺を見透かさないでくれ」
 俺はヤガミを見続けた。俯いたら消えてしまうものが、わかっていた。
「…………できないよ」
 妹がもう一度、今度は慌てた様子で何か騒いだ。彼女が泣き喚き、乱暴にコートの裾を引く。俺は携帯と一緒に、妹を後ろへ突き飛ばした。ヤガミの目の色が変わる。冷たい風が心臓まで凍てつかせる。
 ――――…………俺は今も、あの日見た風景をうまく思い描くことができない。何度辿っても、どこから眺めても、不思議といつも、真っ赤な血のような夕陽に全てが吸い込まれて行ってしまう。
 影に落ちたヤガミの、表情はわからない。妹が俺の足元まで戻ってきて、声も無く震えている。涙と鼻水で、ぐしゃぐしゃだった。
 刃物が地面に落ちる、場違いに軽い、甲高い音が冬の菫色の空に響く。
 滴った血のくっきりとした丸い形が、「詩」の最後。
「…………セイ、ごめんな」
 俺はポケットに入っていた相棒で、ヤガミを刺していた。

【11】飛ぶということ

 崩壊は唐突にやってくる。だが日々は容赦無く、続く。
 当然ながら、俺は事件のために志望校への推薦を取り下げられた。俺にはどうでも良いことだったが、母さんが真っ青になって、真夜中にこっそりと父さんに電話かけていたのには、ちょっと胸が痛んだ。タイミング悪く飲酒の件もバレてしまって(現行犯だった)、本当に散々だった。「受験のストレス」、「ノイローゼ」、「不眠症」。学校でも、家でも、俺への解釈は妥当を極めた。
 当の俺は、二階の自室で、取り留めもなく色んなことを考えていた。分厚い遮光カーテンをピタリと閉め切って、ベッドの上に屍のように転がって、照明のほの白い素っ気ない灯を眺めながら、日々当て所なく悶々としていた。自分のやったことの是非を考えるよりも、自分の存在自体が、むしろ世界全体が、嘘みたいに思えて仕方なかった。
 俺は推薦の要らない都心の高校に滑り込んだ。ゾンビみたいな時間は、そのまま高校卒業まで続いた。俺は永遠に晴れそうも無い靄の中を、心だけでさまよっていた。
 染み付いた汗の匂い。埃っぽいシーツの擦れる音。静けさの中にキィンと響く、耳鳴りの痛み。カーテンの隙間から差し込む光の無機質さ、美しさ、つまらなさ。机上に無造作に積まれた英語のテキスト。本棚の片隅に縮こまる、枯葉のような色をした詩集。くたびれた床の木目。染み一つ無い、真っ白なカレンダー。四角い部屋の扉。生温くて重たい、俺の身体。
 高校に行く時間も、長い夢の中を歩いているような気分だった。馬鹿なりによく躾けられた身体が、心を差し置いて勝手に、意外な程上手に動いてくれたから、表面上は何の問題も無く通えたのだけれど。
 ヤガミはあれからすぐに引っ越していった。幸い重傷には至らなかったらしい。人づてに、横浜の親戚の家に行ったとか聞いた。親戚なんていたのかと訝しんだものの、俺には尋ねる義理なんてある訳も無かった。
 話そうと思えば、機会は作れたと思う。けれど、そんな気分には到底なれなかった。今もそうだ。携帯のアドレスに残ったアイツの名前を見る度に、俺は否応無しに、十五歳の冬に引き戻されてしまう。灰色の刃が過去の陽をギラリと照り返し、長く伸びた影から低い声が聞こえてくる。「お前は、何がしたいんだ?」大人になれない俺は、急いで今へと逃げ帰る。
 密かな相棒だった俺のカッターは、事件の後、いつの間にかどこかに捨てられてしまっていた。来るべき別れの時が来たのだと、俺は自分に言い聞かせた。新しいカッターは必要無い。相棒は最後に、俺の代わりに「詩」を語って砕けた。それで十分だと。
 俺は相変わらず折り紙を折っている。近頃は専ら、紙飛行機ばかりだ。シミュレーションで華麗に墜ちて以来、俺はかえって「飛ぶ」ということに興味を抱いていた。戦うのではなく、ただ、柔らかく、美しく飛んでみたい。願わくば風に乗って…………見えないほど遠くまで。
 だが、紙飛行機ってのも、中々ままならない。重心がズレてひっくり返ったり、突風に煽られてあえなく押し戻されたり。丁寧に調整してやらなければ、すぐに臍を曲げたり。自由に、いつだって綺麗に飛べるヤツなんて滅多にいなかった。おまけに、落ちて飛び方を覚えるもんだから、傷の無いヤツもいない。
 俺は日夜、改良を重ねながら、明日はもっと滑らかにと、静かに夢を見る。

【12】旅立ちの夜

 「詩」の世界は、相も変わらず穏やかで、伸びやかだ。年々拡がり続ける空白のせいで、昔よりかはだいぶ物寂しい風が吹いてはいるけれど。
 俺は月が昇ると、部屋の照明を落として、月明かりだけを頼りに本を開く。時間も空間も超えた世界に、夜な夜な出掛けていく。傍らには明日飛ばす予定の紙飛行機。良い酒が欲しくなるのは自然のことだ。特に、眠りとの綾目もつかないぐらい深く、甘ったるく酔いたい日には、必ず要る。
 …………俺たちは赤ん坊のように、言葉を知らなかった。言葉の無い人間は、ラベルの無い酒と同じだ。その身を呈する以外に、何も伝えることができない。伝えるものを持たない。あれ以上の誠実が、どうしてあり得ただろう?
 「詩」が、あの日の夕焼けと、揮発したアルコールと一緒になって混じり合い、透明な音楽となって夜へ昇っていくと、やがて汽車が迎えに来る。俺は旅に出る。誰かが俺を呼んでいる、そんな儚い幻を追って。
 満月がしっとりと浮かんだ、一際美しい宵。俺は十五の日以来、ほとんど締め切りにしていたカーテンを開け放った。ついでに思い切って窓も開いた。澄んだ晩秋の風がひんやりと身体に沁みこんできて、奇妙に昂った。
 俺は読みさしの詩集を置き、月に見惚れた。紫紺色のたなびく雲が、ゆっくりと月を覆っていく。
 俺は…………もし自分が、大切なものを預けて旅に出なければならないとしたら、きっとアイツに託して旅に出るんだと思っていた。アイツは血が滲むぐらいに不器用だったけれど、同じだけ、正直なヤツだった。アイツなら、俺の大切なものの魂をわかってくれると信じていた。
 俺は月の光に、まだ空を知らない無垢な紙飛行機をかざした。
 声無き者の、せめてもの「詩」。

(了)

酒と詩、そして戦闘機

 この小説は、筆者が別サイトで書いている長編小説『扉の魔導師<BLUE BLOOD RED EYES>』http://ncode.syosetu.com/n9009dl/の関連短編として書きました。雰囲気が気に入った方や、主人公やヤガミのその後が知りたいなと思った方は、ぜひこちらも覗きに来てもらえればと思います。
 『酒と詩、そして戦闘機』とは違い、かなりガッツリなファンタジー作品となっておりますが、根底にあるものは変わりません。

酒と詩、そして戦闘機

俺には幼馴染がいた。 暴力的で、努力家で、繊細で、まるで戦闘機みたいに危なっかしいヤツだった。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-18

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 【1】詩と俺
  2. 【2】幼馴染と通訳
  3. 【3】家族の形
  4. 【4】夢見る時間
  5. 【5】相棒をポケットに
  6. 【6】カーテンの奥
  7. 【7】「言えない」、「わからない」
  8. 【8】天国の在処
  9. 【9】戦闘機の空
  10. 【10】赤く染まる日
  11. 【11】飛ぶということ
  12. 【12】旅立ちの夜