サカレタ
アスファルトの上に、たった今、干からびたミミズがいた。
ジリジリと照りつける太陽が、今、ミミズを殺した。私は、目撃者だ。
誰かに伝えなければ、ここにミミズが死んでいる、と…。私が周りを見回していると、小さな雀が、ミミズを攫って行った。
「あ、ゲテゲテだ。」
沙紀の声は、紫外線に圧殺された。
サカレタ
夏期講習、夏休みに学生を集めて勉強させる、教師たちにとっても苦痛の時間。公民館の一室を借りて勉強するのだ。節電のため、クーラーの温度は28度。
江藤沙紀は、数学が苦手だった。彼女の数学の最高得点は60点、良くも悪くもない。微妙な点数。講習が始まる10分前、沙紀は、長い前髪を三つ編みして時間を潰していた。そんな彼女の行動を見て、
周りの人間は、嫌そうに眼を細めた。気色が悪い、と。
沙紀は、気にせず、何度も何度も三つ編みを編んだ。そして、ニヤリと笑う。綺麗に出来た。
気だるそうに丸眼鏡の老人が入ってくる。先生だ。
皆、席につくと、騒がしかったのが段々と小さくなっていく。沙紀は、この瞬間が好きだった。引き潮のように、波が引くこの瞬間。
もにゃもにゃと、老人の説明が続く中、沙紀は想像をふくらましていた。彼女が幼い時から温めてきた世界。その世界の事を。
その世界にも、海があった。その海を覗くとこの世界が見えるのだ。まるで、海の底に沈んだ大都市みたいに。誰もいなくなったこの世界が、海に飲み込まれて、海だった場所が、次は陸になっている。だから、富士山も、エベレストも、海の底。それを沙紀は見ているのだ。そして、新しい友達、ヤドカリ君やカニ君が沙紀を呼ぶ。
「やぁ。沙紀。おぱよう!」
「沙紀、おぱよう」
「ヤドカリ君、カニ君、おぱよう」
ヤドカリ君も、カニ君も沙紀よりずっと小さい。沙紀はしゃがんで二人を手のひらの上に乗せてあげる。すると、二人は「おぉ!」と嬉しそうな歓声をあげる。
そして、皆で海を見るのだ。
海だけがある世界。ここは沙紀の楽園だった。
でも、沙紀は海が嫌いだった。海の嫌いなところを考えていると、世界がぐらりと揺れて、沙紀は元の世界に戻ってくる。そして、何事も無かったかのように、機械的に黒板の文字をノートに書き写すのだ。これが、沙紀の日常だった。
ある日、沙紀は夢を見た。沙紀の世界の海を泳いでいると、大都市の中に白い尾を持った人魚を見つけた。その人魚は、黒色の髪の毛をたなびかせ、まるで飛んでいるかのように大都市の中を泳いでいく。
沙紀は、夢中でその後を追う。ビルとビルの間を二人は縦横無尽に泳ぐ。フッと気がつくと、沙紀は沈んだ大都市の中にポツンと建っている、自分の家を見つける。赤い屋根の、一軒家。その家の中に、人魚が入ろうとしている。
沙紀は茫然とその光景を見つめていた。人魚は、クルッと沙紀の方を向いた。
そして、言うのだ。
「早くこっちへおいでよ」と。凛と澄んだ声だった。心地よい、響きだった。
沙紀は、一歩踏み出そうとする、そして、やめる。
人魚の顔をよくよく見ると、希美の顔をしていたから。
怖くて怖くて、沙紀は逃げた。そこで、目が覚めた。
希美は、美しい少女であった。クリクリした目に、薄い唇、ストレートの黒髪。
沙紀の妹でもあった、希美。誰からも愛されていたのに、希美は、3年前、自殺した。
女子トイレの個室で、首を吊って死んでいた。大きな目から、眼球が飛び出し、舌がだらしなく垂れていた。穴と言う穴から汁が出ていた。沙紀は、変わり果てた妹を“ゲテゲテ”と呼んだ。昔から、彼女は汚い物、嫌いなものを“ゲテゲテ”と名付けて呼んでいた。
ゲテゲテになった妹を、沙紀は嘆いた。沙紀は、妹が大好きだったのだ。
希美が死んでから、沙紀は、世界を新しく作る事を始めていた。それが、海だけの世界。
ゲテゲテがいては、いけない世界。
サカレタ