狭間

 時々呪いのような考えに襲われる。波は仕事をしている時にやってくる。頭を使わなくてもいい単純作業が多いからだ。気がつくとノイローゼの犬のごとくぐるぐると同じところを回っている。
 私は一体何をしているのだろう。同じ年くらいの人たちは順調にいっていれば、とっくに就職先で新人の立場を脱している頃だろう。自分の稼いだ金で自立して生きているはずだ。私は彼らが手の届かない存在に思える。昔からそうである。彼らの姿に追いつこうとして、一度も手が届いたためしがないのだ。
 まず小学生の頃から学生生活につまずいている。学校に行けなかったのである。それは小学五年生から中学三年生まで続いた。高校に進学できたはいいものの、すぐに退学するはめになり、一年間行きたくもないフリースペースで過ごした。再入学した高校でも友人に心を開くことができず、大学生、社会人になってもそれは変わらなかった。初めて就職した会社は接客ができずパニックになり、一年で部署を三度も変えられ、最後は半ば酒浸りになって辞めたのである。上司に「お前が被っているのは猫ではなく仮面だろう」と言われたのを覚えている。その通りであるがこの仮面は脱げないのである。
 学生生活には憂鬱な思い出しかない。心から人と笑いあったことがないような気がする。人そのものが嫌いなわけではない。コミュニケーションが苦痛なのである。相手が優しく接してくれてもうまくゆかない。彼らが嫌いなわけじゃない。私も楽しく話がしたい。しかし緊張で顔が引きつってくる。相手の表情をいちいち気にしてしまう。唇が歪んだ瞬間身を縮め、何をしているんだと失笑する。本心を喋ることができないし、無表情を打ち破れない。一時期私は周りを分厚い硝子に取り囲まれているように感じていた。叩いても叫んでも相手に私の声は聞こえないのだ。そんな経験を積んでいるうちに人付き合いを避けるようになった。誰だって痛いのは嫌だ。
 どうしてこうなってしまったのか、分析しようとすればできる。時は不登校になりたての小学五年生の頃にさかのぼる。当時家庭は荒んでいた。母は私の前で「どうしてあなたを産んだのだろう」とか「どうしてこんな風に育ってしまったのだろう」とか世にも悲しい顔をして言い続けたし、祖父母は私を「できそこない」と呼んだし、将来は「ひきこもり」か「役立たず」になると決めつけてくれた。学校に行きたくないなどと言える雰囲気ではなかった。皆古い価値観に縛られていたし、焦るあまり長い眼でものを見ることができなくなっていたのだろう。今なら分かる。
 だが当時の私には分からなかった。私はストレスで少しおかしくなった。朝になれば玄関先でうずくまって動けなくなったし、突然腰がぬけて匍匐前進で移動したり、訳もなく胸がギュウッと痛んだりした。天気がよくても視界は暗く澱んでいた。であるから記憶はいつでも曇り空である。嫌々引きずられて教室に入るとなぜか夜のように真っ暗で、猫のような金色をした巨大な目がギョロギョロと浮いていた。夜になると母や祖父母に言われたことを思い出し、悲しみではちきれそうになった体は破裂しそうなほど痛かった。
 つまり私は親という絶対的な存在に否定された経験のせいで、自己否定感を育んだ挙句人を恐怖するようになってしまったのだろう。本音を伝えれば(学校に行きたくないと話せば)責められると学んだため、本心を口に出せなくなった。また世界は自分を傷つけるものだということも学んだ。将来は暗いと言い聞かせられたため希望を持てなくなった。要するにあの頃の不信感を今でも引きずっているというわけだ。
 こんなことは全て理解している。自分にほとほと愛想を尽かした私は、心理学の本をかたっぱしから読み漁り、過去を分析する作業に没頭したからだ。もちろん治療法も学んだ。自己肯定感を育てるといいらしい。何かを達成したら一つずつ書き出して、自信がなくなった時に何度も見返してみるだとか、頭の中で自分を褒めてあげるだとか。だが分かっていてもうまくできない。認知の歪みがあるからである。認知の歪みとは自分を全否定する癖や、全てを白黒つけて考えてしまうなどの思考の偏りを指す。それが邪魔をして褒め言葉をかけようにも打ち消してしまう。どうにも這い上がれない。
 カウンセリングを受けたので自己否定する癖は随分よくなったが、未だにコミュニケーションには恐ろしさを感じるし、うまく社会生活に馴染めない。人と人とは傷つけ合うものだという思い込みは恐ろしいもので、男性関係にも影響を及ぼす。わざと相手を突き放す行動を繰り返し、自滅するような形で関係を終わらせてしまうのである。であるから結婚にも自信がない。
 そこで「私は一体何をしているのだろう」が始まるのである。こんな人格を引きずってどうやって生きていけばいいのかという、浅はかな悩みに片足を突っ込んでしまうのだ。
 大学の頃ガスを買い込み吸ったことがあった。車で山に行き、誰もいない見晴らしのいい広場に車を止めた。助手席に移動し、精神薬をたくさん飲んで、袋を被り缶のコックを捻った。ガスくささが広がり私は意識を飛ばした。視界がすうっと白くなってゆき、死ぬ時はブラックアウトではなくホワイトアウトなのだと思った。
だが私は目覚めた。フロントガラスに雪が積もっていた。助手席にいたはずが後部座席に移動していた。寒かった。上着を脱いでいた。失禁していた。袋ははずれていた。コックを捻る時必死だったからか手を切っていた。体が痺れて感覚がなかった。麻痺が残るのは嫌だとさっき死にたかったはずなのに思った。意識がもうろうとしてものがよく見えなかった。運転席に這ってゆきやっとのことで落ち着くと、しばらくぼうっとして、普通に運転して家に帰った。ガス缶などの道具は大学のゴミ捨て場に捨てた。家に帰るとしこたま怒られた。その日は卒業制作の最終提出日で、私はそれをすっぽかしたのであった。私が死のうとしたのを誰も知らずに日々は過ぎてゆく。不思議である。
 病院でそれを話すと医者は怒り、しっかりと手を握り「生きろ」と言われた。カウンセラーは生きていてよかったね、本当によかったと言った。
 私のつまづきは教訓を作らない。ただつまづいたという事実があるだけである。「私は一体何をしているのだろう」生きているのである。ただ生きているだけで年月は過ぎてゆく。私は年をとり、未だここに「在る」。不思議である。

狭間

狭間

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-17

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