だれかの終焉

だれかの終焉

彼は、私の心の真ん中の、やわらかくて頼りない場所に、土足で踏み入ってくるような男だった。ノックも、声をかけることもしないで。思えば私はずうっと振り回されていた。だけど、私はこの男のことが大好きで大好きで仕方がなかった。一度大きくなった彼への気持ちに抗うことなどできなくて、どうしようもなかった。
「別れよう」
低くて落ち着きのある、聞き慣れた彼の声。彼に動揺が伝わるのがイヤで、ゆったりとしたバスの揺れに身も心も委ねるふりをする。彼の顔など見れるはずもなかった。窓で区切られた景色を眺めることを私はやめない。
 彼の気持ちが離れていることは気付いていたし、心の準備もできているつもりだった。だが今の私はどうだろう。鼓動が早くなって、嫌に緊張している。それでいて諦めと絶望とがゆっくり私を飲み込んでいくような感覚を持ち、泣きたいのか怒りたいのかよくわからない。振られる瞬間っていつになっても慣れない苦しくて呆気ないものだなと心の中で思う。
いたずらや冗談なんか言わない彼だということは私が誰よりも知っているはずなのに、悪い冗談はよしてよ、いたずらはやめて、心臓に悪いから。自分に言い聞かせるように、頭の中でそう繰り返す。おまじないを唱える小さな女の子みたいに、何度も。
彼に返す言葉が思いつかずに俯くと、彼が私の誕生日にくれたダスティピンクのヒールが目に入った。このプレゼントを選んでいるときの彼はまだ私のことを好きでいてくれたんだろう。私は一体どこでなにを間違えたの。
顔を上げて彼へ視線を向けるが、目に入ったのは横顔だった。眉にも口角にも感情があらわれない、まるでポーカーフェイスを絵に描いたような横顔。彼もまた私に顔を向けられないのだろうか。申し訳ないと思っているのか。一体どんな感情で彼は今ここにいるのか。教えて欲しかった。この瞬間ほど、人の心を読むことができたならと願ったことはない。
「他に好きな人ができたんだ」
その薄い唇から出た鋭利な刃は、私を殺すには充分すぎるものだった。私は脆い。彼に対してなら尚更そうで、だからすぐに、本当にすぐに、そして自分でも信じられないほど呆気なく、彼からの最後のとどめを受け入れた。
「おめでとう」
零れた言葉がこんなにも優しいことに、零した私自身が驚く。もっと刺々とした、彼の記憶にこの私を焼き付けてやるような言葉だって言えたはずなのに。なんでこんなにも温かでささやかな言葉なの。
やっと結び付いた視線。私を見る彼の瞳の底には温度を感じ取ることができなかった。冷たく、静かに私を突き放そうとしている瞳だった。
「ありがとう」
ふっと鼻で笑って彼はそう言った。そのありがとうに込められた意味や感情はきっとたくさんあって、だけどそれら全てを理解したいとは思わなかった。私はまだこの男のことを好きでいる。
彼の最寄りのバス停を告げるアナウンスが流れて、つかさず私は目の前の降車ボタンを押していた。まるで身体に染み付いてしまったように、それはなんの違和感もない自然な動作だった。悔しくて、堪らなくなって彼の横顔から逃げるようにして窓の外へ視線を戻した。
喉の奥にこみ上げるすべての感情に押し潰されてしまいそうで、でもここで泣きたくなんかなくて、ぐちゃぐちゃになった行き場のない感情はいくら呑み込んでもバカみたいにあっという間にせり上がる。声も涙も、この期に及んでまだ彼のことが大好きで堪らない私の心も、全部綺麗に潰してどこかへ飛んでいけばいいのに。もう一生、戻ってこれないような、遠い遠い世界の端っこまで。
窓に映る景色の流れが止まると同時に、先ほどまで感じることのできた彼の温もりは、聞き慣れた足音とともに遠ざかっていく。バスが再び出発するまで、私の目は窓の外に広がる景色から離れなかった。
あの広い彼の背中をもう一度見たら、呑み込んだ言葉が出てきてしまいそうで怖かった。

だれかの終焉

だれかの終焉

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-14

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