愛を抱いて生きている
三時間目の体育の授業の為に体操服に着替えようと体操服袋を覗いて、小学六年生の結衣はため息が出た。真っ白なはずの体操服がデニムと一緒に洗濯をされたせいで薄くブルーになっているからだった。
「ごめんごめん、白いのんと色もんと一緒に洗濯したらあかんのにまたお父さんやってしもうた。失敗や」
そう言っていた父を思い出して、何べん失敗したら分かるねん、そういうとこが嫌いやねん、と腹を立てながら結衣は仕方無く薄くブルーがかった体操服に着替えた。
三か月前に母が突然家を出て行ってから結衣は不自由な生活を送っていた。仕事が忙しい父が家事全般をこなす事は到底無理で、洗濯や掃除は勿論の事食事も総菜屋やコンビニにで買ったものばかりだった。
学校帰りに結衣はいつもの総菜屋で大好きなハンバーグ弁当を買って帰る。ここのハンバーグは母の作ってくれるハンバーグに良く味が似ていた。家に帰ってダラダラ過ごして総菜屋で買った弁当を一人でレンジで温めなおして食べてダラダラして風呂に入ってまたダラダラしていると、早い日だと父が帰って来る。遅い日だと結衣が寝た頃にしか帰って来ない。
世界に自分一人しかおらんのんと違うか、と結衣は思う。
風呂から上がって居間で髪を乾かしていると、父が帰って来た。今日は早い日だ。
「結衣、ごはん食べたか。コロッケ買って来たで」
結衣は返事をしなかったが、台所のハンバーグ弁当のゴミを見つけて父は、なんや食べたんかと一人で呟いている。
「今日は洗濯失敗せんといてや」
「あ、そうやな。今日は失敗せんと…」
父の言葉を全部聞かずに結衣は居間から出て行った。いつまでこんな生活が続くんやろかと思うと結衣は死にたくなって二階の自分の部屋のベッドに潜り込む。
「お母さん、帰ってきてや…」
若い男と不倫をして家を出て行った母が帰って来る筈が無い事は結衣も理解しているしそんな母が大嫌いだったけれど、母を若い男に取られた情けない父の事はもっと嫌いだった。
朝起きて居間に降りて行くと、いつもなら自分より先に起きて朝ごはんのパンの用意をしている父が、今日はまだ寝ているみたいで結衣は苛立った。買って来たパン並べるだけやのにそれもしてないんか、と台所で父が昨日買って来ていたパンをゴソゴソ用意していると、真っ青な顔をした父が台所にやって来た。
「結衣、ごめんな。お父さんちょっとお腹が痛くて…」
額には冷や汗が流れていて、それが普通の腹痛では無い事は明らかだった。
「お父さん、大丈夫?」
「…今からお父さん病院行ってくるから、ごめんやで。気を付けて学校行きや」
ふらふらで一人で病院に行こうとする父を見て結衣は心配になった。一人で行かれへんのんと違うか。
「お父さん、救急車呼ぼ」
「…あかんやろ。お腹痛いだけやのに…
救急車は緊急の時にしか呼んだらあかん」
いまが緊急の時やろ、と結衣は思う。そんなんやからお母さん取られるねん。
「じゃあタクシー呼んで行こ。私学校休んで着いて行くから」
タクシーに乗って近くの個人病院に到着すると父は、急性胃腸炎と診断されて点滴を施されて腹痛も治まってきた。
「お腹の風邪やから心配せんでいいよ」
優しそうな初老の男の先生に言われて結衣は安心した。
「優しい娘さんやな、お父さんに付いて来てあげて。帰ったらお父さんに消化の良いもん食べさせたってな」
父と家に帰った結衣は消化の良いもん、を求めていつもの総菜屋に行ったけれど、どれが消化の良いもんなのか良く分からなかった。
「…消化の良いもんてどれですか?」
「うちは油もんが多いからなぁ…お粥さんでも作ってあげたら?」
お粥さんの作り方なんて結衣は知らなかった。洗濯の仕方も、掃除の仕方も何も知らなかったし父は母が家を出て行ってから一度も結衣に何かをしろとは言わなかった。全部一人で背負っていた。何もかも一人で。一人で背負わんでも良いんと違うか。
コンビニでレトルトのお粥さんやヨーグルトやプリンを結衣は買って帰り、レンジで温めただけのお粥さんにまだしんどそうな父は喜んだ。
「ありがとうな、結衣。ほんまにありがとう。結衣がおってくれてほんまに良かったわ。学校休ませて悪かったな」
「ええよ別に。お父さん体操服の洗濯忘れてたし」
「いつもごめんな。失敗するし忘れるし…」
「そんなんええねん。お父さん、洗濯の仕方教えて。私手伝うから。掃除の仕方とか、お粥さんの作り方とかも」
「…お粥さんの作り方はお父さんもよお知らんなあ」
久しぶりに父が笑う。結衣も笑った。
愛を抱いて生きている