花たちが咲うとき 七
花たちが咲(わら)うとき
第七話 ~皆仕尽~
―― ジリリリッ
電子音にしては古い印象をもたらす通知音で艸の意識は引き寄せられた
夜、近くのコンビニに足を運んだ帰り道だ
建物の合間に挟まれるように佇む電話ボックスが、必死に艸を引き留めようと喚き続けている
偶然か必然か、艸の周りには人っ子一人いない
艸は嫌な予感を感じながら、ギシギシ軋む電話ボックスの扉を開いて受話器を取った
※※※
「あれ?」
素っ頓狂な声を玄関から聞きつけた紅は、そちらへ足を向けた
玄関に座り込んでいる茨の背中は大きいはずなのに、服の上に浮き出た骨のせいで頼りなく見える
「どうしました?」
「あ、先輩。札剥がしました?」
そう言って茨は紅から貰った白い傘を振って見せる
「いえ?」
「でも、無いですよ」
茨は白い傘をポンと開くと、内側を紅に見せる
確かに傘の軸に巻いておいたはずの札が見当たらない
「おかしいですね……。確かにこの辺りに……」
紅が不思議そうに茨から傘を受け取るが、その瞬間に顔色を変えた
「ネズ!」
「は、はいっ!」
紅の張り上げた声に、ネズは慌てて駆け寄る
「前に香(きょう)君に渡すように頼んだ傘はどこから?」
「え、そ、そこに立て掛けてあったやつ……じゃったと……」
そう言ってネズは玄関の隅を指差した
紅はそれを聞くと顔を手で覆ってしまう
ネズはオロオロと迷子のように情けない表情を浮かべて落ち着きがない様子だ
「すみません、茨……」
紅は地に沈みそうなくらい重たい声で謝罪すると、覆っていた顔を上げた
「仕事を頼みます」
「えぇー……」
茨は情けない声をあげて天井を仰いだ
「つまり、ボクの傘と香ちゃんの傘が入れ替わったと……」
「えぇ。同じ白い傘だったのでネズが取り違えたようです
あの札の効力はまだ残っているはずです。問題が起きる前に回収してください」
「はぁ。でも一か月近く前のことでしたよね? それって
問題が起こってないほうが奇跡じゃないですかぁ?」
茨と香の傘が入れ替わることが可能だったのは五月初旬に二人が紅の屋敷を借りに訪れたあの時くらいだ
それ以降にも香はこの場所を訪れていたが、どの日も雨は降っていなかったと記憶している
茨は現状をかんがみて、普段は香や来客が来た場合は蔵に隠れていた
そんな風に凌ぎながら日々を過ごしているうちに、気が付けば一か月近くこの屋敷の外に出ることなく日々を送っていたのだと思い知る
そして、そろそろこの地を離れるかと思った矢先にこれである
「それの確認も兼ねてお願いします。少し前に香君がここに来た時の様子と、『天司』の動きに変化がなかったことを考えると何も起こっていない可能性のほうが高いですが……」
「分かりましたぁ。でも、あの傘が無いとボクも外を出歩けないんですが……」
「……。
そうでした。私も外には出られませんし、ネズはこの敷地から出ると一般人に視覚化できません。茱萸は……――」
「話せませんしねぇ……」
とうとう二人揃って溜息をついてしまった
茱萸とネズはそんな二人を遠まわしに見守っている
「あ」
と、短い声と共に顔を上げた茨は、さっきまでと打って変わって楽しそうな笑みを浮かべた
「あの子がいるじゃないですかぁ」
「? あの子?」
首をかしげる紅を他所に、茨は親指と小指を立てた拳を自身の耳横で小さく揺らした
「先輩、ここって電波あります?」
※※※
夜中だというのに直ぐに来いと言われ、指定された場所に行くとネズと茱萸がいた
茱萸の手には白い傘が握られている
人気のない場所に呼び出されたので何事かと思ったが、少し理由が分かった気がする
人目のつく所では茱萸はともかくネズと会話はしにくい
かといって茱萸だけで来させると事情説明をする奴がいないといったことだろう
茨がなぜ来られないのか艸に理由は分からない。先程貰った電話では息災に感じたが
「久しいな。艸殿」
そう言われてみれば確かに久しい
以前あの寺に香と訪ねたのが五月初旬、気がつげは月をまたぎ六月になっているのだから時間が経つのは早いものだ
「……そうだな
……で? 電話ではきちんと説明が無かったんだが、その傘をどうすればいいんだ」
「ふむ、説明が必要じゃの」
香と茨の傘が入れ替わってしまったこと、その傘に術が施されているため明日中に回収して欲しいこと
大体の説明を聞いた艸は溜息をつきたくなった
ネズが叱られた子供のごとくうなだれる
「まこと、申し訳ない」
「いや……」
ネズを責める気は無いのだが、艸はどうしても気が乗らない理由があった
「……、明日か……」
そのつぶやきはネズにも届いてしまったらしい
「用があったか?」
「……いや、気にするな」
いつの間にか茱萸は傘を置いていなくなっていた
茨のところへ帰ったのだろう
思えば、茨ともかれこれ二か月は会っていない
「茨は、何かあったのか?」
「茨殿か?
儂が雑巾がけしたところから泥足で歩き回ったり、紫陽花を折ったりと元気が有り余っているようじゃが?」
ガキか、というツッコミは心の中でしておくとして、艸は少し怪訝そうにネズに問う
「茨は、最近あの寺に居るのか?」
「う、うむ。そんな事もない、と思う……」
ネズは少し慌てた様子で頭を掻いて言葉を濁すが、艸の視線に観念した様子で説明を始めた
「何やら厄介なものに追われておるらしい
普段は問題ないそうじゃが、今は外を出歩いたり術を使えば居場所がバレてしまうそうじゃ。
旦那の敷地内にいれば安全らしい故に儂らが代わりに来た次第じゃ」
「……まぁ、あいつは罪人らしいしな」
「なんとっ!?」
艸とて詳細は知らないが、艸は茨と共犯締結のようなものを結んでしまっている
少なからず、茨に何かあっては困るのは艸も同じだった
金をむさぼり取られようが、こき使われようが、艸にはどうしてもあの男に居てもらわなければならない
「とにかく、分かった。取り替えたらあの寺に行けばいいんだろ?」
「うむ。連絡をくれれば迎えに行く」
「わかった」
ネズはペコリと頭を下げると「風呂の準備をせねばならんゆえ」と言って走って行ってしまった
すっかり紅の召使いになってしまったようだ
※※※
今朝の葵は珍しく目覚まし時計のアラームに叩き起こされる前に目をさまし、いつもより十分も早く学校に来て席についていた
さながら遠足を間近に控えた小学生のようだ
昼になるとその気持ちはさらに高まって、昼食のラーメンもあっという間に完食してしまうと、手持無沙汰にラーメンのスープに浮かんだ油を箸の先で弄んでいる
「じゃあ、そろそろ……」
そう言って前に座っていた香が席を立とうとしたのを見て、葵は思いっきり椅子を引いて立ち上がった
「よし、行くか!」
あまりの勢いのよさに香が一瞬ぽかんとしたが、直ぐに笑みを浮かべて口元を手の甲で隠した
「そんなに三限目の授業が楽しみなのか?」
「……え? あ、三限あったっけ?」
「うん」
葵は自分の勘違いに気が萎えるのを感じながらも、恥ずかしくて顔を手で覆った
「いや、なんていうか……」
「そう楽しみにしてくれるのは嬉しいけど、本当にただの家だぞ?」
「いやぁ、分かってる、分かってる」
「それならいいけどなぁ」
葵は返却口にラーメンの器を返して、香と共に食堂を出た
つい三日前、葵は香から家に遊びに来ないかと誘われた
五月も始まったばかりの頃の、ただの世間話の中で交わされた約束だ
忘れたと言われてもしょうがない様な事だったのだが、葵の想像よりも早くその約束は果されるようだ
しかし、香は少し乗り気でないのかその話になると不安げな表情を垣間見せる
やはり、無理を言ってしまったのだろうか
そんな事を考えると葵は胃に穴が開いてしまったかのような寒気に襲われるのだが、せっかくの誘いを断るのはなお悪い気もする
本当に嫌だったら忘れたフリをすればいいのだから、香のことは何か別の要因があるのだと思いたい
授業は相変わらず気だるいが、居眠りせずに居れそうだと葵が意気揚々と歩いていた時だ
「おい」
低いがしっかり通る声に二人は振り返った
香は驚きを、葵は驚きと同等ほどの嫌悪を顔に浮かべた
「ゲッ」
「君影? こんにちは」
「……」
艸は視線を合わせず軽く顎を引くと、まず香に四角い風呂敷包みを押し付けた
香は直ぐにそれが何か分かったらしく、ぱぁと表情を輝かせる
「おいしかったか?」
「……。もう作ってこなくていい」
「おいしくなかったか?」
「……いちいち返しに行くのが面倒だ」
「じゃぁ、今度は俺から取りに行くよ」
「……」
話についていけない葵と、眉間のシワを一層濃くした艸と、どこか嬉しそうな香
ちぐはぐな三人の周りを生徒達が行きかっていく
艸は小さく溜息をついて、本題に入った
「お前、あの寺から白い傘を持って帰ったろ」
「ん? うん。一か月くらい前だな」
「取り違えたらしい。こっちがお前のだ」
そう言って白い傘を差し出した艸に、香は困ったように視線を下げた
「そうだったのか? すまない、全然気がつかなくて……」
「とにかく、お前が持って行った方を返して欲しいんだが」
「それが……」
香いわく、その傘は元々借り物で既に持ち主に返してしまったらしい
「誰だ?」
「誰って言うか……、どこ?」
「あ?」
「ほら、以前話した……」
その香の態度で艸は何となく例の学生マンションであると察した
道理で詳しいと思ったら、そこで借りた傘らしい
「ごめん。三限目が終わったら取りに……」
「いや、いい。僕が行く」
想定外の言葉だったのか香は少し驚いたようだったが、艸は別のことを考えていた
なにせあそこには例の傘を置いていったのだ
置いていったといっても入り口のドア付近に立てかけただけなので、もしかしたら捨てられたかもしれないし、誰かに持っていかれたかもしれない
しかし、せっかく近づかないように香には釘を刺したのに行かせる訳にもいかない
「でも――」と引き下がらない香に、艸は少し苛立たしそうに言葉を吐き出した
「いいっつってんだろ!」
思っていたより大きめな声が出て、香も艸自身も少し驚いた表情になる
周りを歩いていた学生達の視線を少し集めてしまったが、何事も無いように流れていった
艸は少しバツが悪そうに俯き前髪に触れる
「あ、いや……」
「……。
わかった。じゃぁ、頼んでいいかな?」
「……あぁ」
予鈴が鳴って周りを歩く生徒たちが少し慌しくなった
「香。授業が……」
普段の葵ならばこのまま授業サボるか。なんてふざけていただろうが、この空気の中さすがにそんなことを言う度胸はなく、授業でも何でもいいから言い訳をつけてこの場を離れたかった
葵が少し急かされた様子で香の名を呼ぶので、香は軽くうなずく
艸もこれ以上引き止めるのは良くないと思ったのか、背を向けた
香がいつもの様子で微笑んだ
「よろしくな」
「ん」
艸が短く返事を返し、ちらと香の様子を窺うように視線をやると、先程の気まずい空気は気のせいだったのかと感じさせるほどの笑顔を見せる香がいた
「お礼に、次のおすそ分けは何がいい?」
「……いらん」
相変わらず何かにつけて他人の面倒を焼きたがる男だと、艸は内心呆れながらも不思議と嫌な気はしない
互いに軽く手を挙げて、それぞれの向かう方へ歩き出した
※※※
先日届いたばかりのダンボールを開き、懐かしい物達に顔をほころばせる
薊はその中から鈴の付いた橙色の猫じゃらしを取り出して軽く振ってみる
リンリンと鳴る鈴が、記憶をまた少し呼び起こす
他にも小さい釣竿の先にボールが付いたものや、ネズミの形のぬいぐるみなどが詰まっている
飼っていた猫が帰ってこなくなってから、たいして痛んでもいないこのオモチャたちを見るのも辛くて物置にしまっていた
それを少し前に実家に電話して送ってもらったのだ
その猫じゃらしを鞄に入れて、傍らのメモとしっかりアイロンがけされたハンカチを手に取った
「私はクロちゃんに会いに行くだけなんだから……」
そう呟くと、薊はメモを片手に部屋を出た
「おでかけかい? 薊ちゃん」
「えぇ」
管理人のおじいさんがひょっこり顔を出す
「しかし雨が降ってきたぞ」
「え、うそ。天気予報では雨が降るのは明日からって……」
エントランスのガラスには確かに雨粒が付いている
クロも今日は居ないかも知れないと思ったが、今日を逃すとしばらく暇がない
少しの雨なら行ってみるだけ行ってみてもいいだろう
「仕方ないわね。部屋から傘を……」
「なんじゃったらここの持ってお行き」
「あぁ、それもそうね。お借りするわ」
おじいさんが指差した傘立てには様々な色合いの傘が立っている
ふと手に取った傘は綺麗な浅緑色に、レースで白い花があしらわれている綺麗な傘だった
「珍しいわね。ビニール傘とかならともかく、こういう傘がここにあるの」
「あぁ、一か月前くらいかの。外に立てかけてあったんを見つけたんじゃよ
外の人のか、ここの学生のか分からんが、取り合えず保留でそこにおいてある」
「へぇ」
「せっかくじゃしさしてくかいの?」
薊は少しの間その傘を眺めた後に、それを傘立てに戻した
「いえ、こういう可愛い傘は私にはもったいないわ」
「そんな事はないと思うがのぉ」
「ありがと。でもこっちでいいわ」
そう言って傘を一本引き抜くと薊は「いってきます」と手を振った
「気ぃつけてのー」
そう言って手を振り替えしたおじいさんは、薊の背中を見送ってから管理人室に戻った
エントランスを出た薊はその白い傘をポンと開き、歩き出したのだった
※※※
やはり香を連れてくるべきだったか
そんな事を考えながら艸は学生マンションのガラスドアから中の様子を窺っていた
ここから傘立てを確認することは出来るのだが、白い傘が多すぎる
ああなると一本一本開いて確認しなければならないのだが、そうなると目の前にいる管理人にはどうやったって気づかれる
香を連れてくれば適当に言い訳を考えてくれるだろうし、こちらが何をしていても悪事でなければ大抵の事は流してくれる
しかし、香が三限目を追えるまで待つのも面倒である
香を頼るという考えは早々に諦めた
ここでその言い訳役を艸自身がするという考えが浮かばないあたりが艸らしいところだが、本人は全く意識していないのだろう
艸は慎重にドアを開くと何やら声がする
「うーん、ここはどうすべきか……」
管理人のおじいさんの声だ
身をかがめて様子を窺いながら更に耳をすませると、どうやらテレビを見ているようだ
将棋の番組を見ているようで、老眼鏡をかけて手元に将棋の本を開き真剣にテレビと見比べている
これ幸いと、艸は身をかがめたまま慎重に傘立てに近づき、まずは手前の白い傘を一本抜き取ろうと手を伸ばす
「何をシテおるのダ?」
急に聞こえた声に、危うく手にしていた傘を取り落とすところだった
この傘の存在を完全に失念していたのだ。やはりまだあったのか
「黙ってろ」
「?」
例え艸以外には聞こえない声でも心臓に悪いので、艸は小声で黙るように言って傘を一本抜き取る
ビニールが擦れる音ですらやたら耳について、いつ気づかれるかと気が気でない中、艸は札の貼ってある傘を探した
※※※
雨は小雨
傘に弾かれる音すらしない優しい雨が、世界を包むかのように降り落ちてくる
バス停が薊の目に捉えられた時、丁度背後からバスが走ってきたので薊は小走りでバス停の前まで駆け寄った
―― ナイスタイミングね
しかし、そう思ったのもつかの間
バスはそのまま薊の前を通過していったのだ
シャァッと水の跳ねる音が遠ざかっていくのを耳にしながら、しばしその場に立ち尽くす
呆気にとられたのは一瞬で、直ぐにバス停の時刻表を確認する
もしかしたら直行か、別のバスだったのかもと、時刻表の数字の羅列を追うがやはり先程のバスで間違いない
「なんなのいったい! 職務怠慢もいいとこだわ!」
怒りを抑えられない薊だったが、怒ってバスが戻ってくるわけではない
ふぅと息を吐いて後に会えるかもしれないクロの事を考えて気を静めると、傘を閉じバス停の待合所に腰を下ろして次のバスを待つことにした
次のバスには乗れたものの、その後も薊は散々な目に会った
横断歩道を渡れば車に轢かれそうになり、道を歩けば車が跳ね上げた水溜りの水で靴を濡らし、人とすれ違いざまに傘同士がやけにぶつかった
「何なのいったい……」
全く無い出来事ではないが、こうも連続して起きると些細な苛立ちが積もるものだし、不安も生まれる
「もしかして、今日は行くなっていう何かのお告げ……――」
そこまで言って、薊は首を大きく横に振った
「そんなもの無いわ。私が浮かれて注意力散漫になっているだけよ!
大体、誰のお告げよ! 馬鹿馬鹿しい!」
薊はフンと息を吐いて、いつもより慎重に歩き始めたのである
※※※
全ての傘を調べ終えた艸は思わず呆然としてしまった
どの傘にも札なんて付いていなかったのだ
香がこんな嘘をつく理由はない
茨にからかわれたのか、しかしこんな手の組んだことを流石の茨もしないだろう
となれば、最悪の可能性が残る
外に目をやれば、いつの間にか雨がしとしとと降っている
誰かがその傘を差して出かけた可能性だ
「……おい」
「ン? 黙ってイナくて良いのカ?」
「白い傘を持っていったまま返していない奴は居たか?」
少し沈黙を挟んだ後に、傘は答えた
「ウむ。いたぞ。今さっき出て行った女ガ、白い傘をさして行った」
「なんで言わねぇんだよっ」
「貴様が黙レと言ったロ……。聞かれてもおらン」
「どんな女だ?」
「髪の長い、腕に飾りの付いた輪っかを通しておったが……」
「? ブレスレットのことか?」
「ぶ、ぶれ……?」
「……いや、もういい。邪魔したな……」
艸は音を立てぬようエントランスを飛び出し、念のため辺りを見回すがそれらしき人はいない
こうなれば致し方なしと、艸は電話ボックスへ走ったのだ
※※※
猫缶を買って行こうと思い至り、コンビニに向かえば駐車場から出ようと動き出した車に衝突されそうになり、自動ドアに入店を拒否され、微動だにしないドアの前でしばらく立ち尽くす羽目になった
とことん今日は厄日らしいと、薊は小さく溜息をついた
何とか無事に買い物を終え、コンビニから出ると見慣れた人達が前から来る
同じ学科の同級生で、友人だった
薊は軽く手を上げて声をかけようとした
「こんなところで、奇遇――」
「でさー、テストの範囲がメチャ広くてさ」
そんな薊の横を同級生達はすり抜けていった
―― 無視?!
そう思ったのもつかの間、友人の一人の傘が薊の傘とぶつかって弾かれた
「きゃっ! 何?」
そう驚いた友人が後ろを振り返って薊と視線を交わした
いや、交わしたと思ったのは薊だけだったらしい
「?」
「どうしたの?」
「ううん。何かにぶつかった気がしたけど、気のせいだったみたい」
そう言って彼女達はコンビニへ入っていってしまった
薊は現状が全く読み込めず、その場に立ち尽くしていた
そんな薊のすれすれを駐車場に停めに来た車が突っ込んできて、危うく接触するところだった
バランスを崩して手を突いてしまった薊に、車から降りてきた運転手は気づく様子も無く立ち去ってしまう
薊は何がなんだか訳も分からず、逃げるようにその場から走り去った
※※※
「茨、小箱が震えています」
「先輩、箱じゃなくて携帯電話ですよ。ちょっと普通の物とは違いますが……」
「けーたいでんわ……」
「ボク達は霊波に声を乗せて遠方の者と会話しますが、人間には電波というものがあってそれを繋ぐ固体同士によって会話をするようです」
「ほう……」
床に寝転んで頬杖を突いたままの状態で、茨は茱萸から受け取った携帯電話を耳に当てた
「はいはーい」
―― 例の傘だが、少し面倒なことになった ――
茨が内心「やっぱりか」と思っていた時だ。頭を掴まれた感覚と共に白い光が一筋茨の眼前を流れた
近い気配に視線だけを動かして状態を確認すると、紅が身をかがめて茨の電話に耳を寄せている
「ほほぅ、確かに艸君の声が……」
「先輩、重いです……」
―― ……何の話だ? ――
「あ、こっちの話ぃ」
茨が紅の流れ落ちた髪を少し邪魔そうにはらって、改めて電話に意識を戻す
「それで? 誰かに使われちゃったの?」
―― あぁ、そうみたいだ。 しかもその傘は月下のものではなくて…… ――
「あ、やっぱりねぇ」
―― やっぱり? ――
「なんでもなーい。じゃぁ、誰が持っていったかも分からないの?」
―― あぁ ――
「ふーん。……じゃ、そっち行くから。待っててねぇ」
―― は? おい、まっ ――
茨は一方的に電話を切ると、体を起こす
「で、先輩。ここに戻ってきたって事は出来たんでしょ? 『除』の札」
「えぇ、感謝してください」
紅は短く息を吐くと、胸元から懐紙入れを取り出しそのまま茨に手渡す
「いやぁ、助かります。それと……」
「矢立ですね」
「旦那、お持ちしやした」
ネズが持ってきたのは一見パイプのようにも見えるが、筆と墨壷を組み合わせた携帯用の筆記具だ
「墨はその札と同じものなので、艸君が使っても良い結果が出るでしょう」
「至れり尽くせりですねぇー」
「間違っても貴方が術を使ってはいけませんよ。あくまで艸君に使わせるように」
「へいー」
「もうしばらく我慢してください。あと数日経てば『天司』の警戒も薄れます」
「どーも
先輩がここに張った結界が受動結界じゃなきゃボクももう少し自由が聞くんですけどねぇ」
「じゅどーけっかい?」
少し離れたところで掃除を再開していたネズが、聞きなれない言葉に口を挟む
「言葉通りです。この敷地に張っている結界は、誰かが入ってきたり何かしらの術が触れると発動し、隠すものです
能動結界は常に結界を張るので安全性は高いですが、負担も大きいですし、怪しく思われやすいので……」
「でもねぇ、受動結界は内側からの術は基本素通りだから、ボクが術を使うと奴らにモロバレってこと」
「な、成る程?」
「思ったんすけど、先輩は大丈夫なんですか? 普通に術つかっちゃって」
「えぇ……」
紅は一瞬表情を消したが、直ぐにいつもの笑顔を作った
「それより、『除』の札を使って、艸君は貴方を認識できるでしょうか?」
「ま、大丈夫でしょう。あの子、異様に目が良いんで」
「……そうなのですか」
「はい。んじゃま、失礼しますよーっと」
「……お気をつけて」
のっそりと立ち上がった茨に寄り添うように、茱萸が駆け寄った
背の高い茨と子供の茱萸が並ぶと茱萸は茨の腰ほどの背丈しかなく、異様に小さく見えた
「茨」
「はい?」
紅の声に振り返った茨が見たものは、伏せられ表情がはっきり読み取れない紅の横顔だった
「……貴方は、私のことが憎くないのですか?」
茨は少し驚いたように目をむいた
眉が上がったせいか、目の周りの骨が少し浮き出て目が落ち窪んで見える
ネズはこの場に居てはいけない気がして、掃除のフリをしてその場を離れた
茨は顎に手を当て、少し考えるような素振りの後に
「よく、分かりませんが……」
そう呟いて、いつものニヒルな笑みとは少し違った笑みを浮かべて笑った
「先輩を恨めしいなんて思ったら、天罰が下りますねぇ」
いつも猫のように曲がった背中が、天を仰ぐように反らされた
あはは、と笑い飛ばしながら、茨はその場を後にしたのだった
※※※
三限目の授業を追えて、香と葵は帰路についていた
いつもなら手を振り合う分かれ道も二人で通り過ぎ、香と雑談をしながら進むのは葵にとって少し不思議な感覚だった
「家に帰る前にスーパーに寄って行くけど、いいかな?」
「おぅ、いいぜ」
「ありがとう。葵は食べ物は何が好きかな?」
「え? うーん、ラーメンかな?」
「ラーメンかぁ、それは茹でる意外にどうしようもないなぁ」
「え?」
「ん?」
「え? もしかして夕飯? 食っていっていい感じ?」
「え?! う、うん。都合が悪かったか……?」
「いやいや、マジで? ゴショーバンに預かりまーす!」
「そうか、良かった……」
良かった、と言って表情を緩めた香だったが、やはりその顔には言葉とは対になるようなものも混ざっていた
近所のスーパーに行くと、時間帯のせいか年配の人や奥さんらしき人達で賑わっていた
「あらぁ、香君! こんにちはぁ」
「こんにちは、谷崎さん」
急にカートを押していたおばさんに声をかけられ、驚く葵に対して香は笑顔で答える
「今日は卵が安いってねぇ」
「はい。俺もそれが狙いで
あ、でもパートの秋山さんが、今日の十六時から刺身に半額シールを張るそうですよ」
「え! それ本当!?」
驚愕の声をあげたのは別のおばちゃんだ
この人とも香は知り合いらしい
「はい。パートの山田さんに伺いました」
「あらぁ、いいこと聞いちゃったわぁ」
「ほんとほんと、香君はいっつもお得情報知っててびっくりよぉ」
「パートさんたちにお知り合いが多いからですかね
後は、葉っぱものが明日一気に安売り棚に並ぶとか……」
「へぇ」
なんだかんだしているうちに香はおばちゃんや奥さん達に囲まれてしまっていた
買い物をする最中も、おばさんたちがおしゃべりしながら付いてくる始末
どうして女と言うのはこうも会話があれこれ出てくるのか
それに対応し続ける香に感心しながら、葵は少し肩身の狭い思いで香の隣を離れないようについて回っていた
しかし、ずっと付いて回るわけにも行かず香に頼まれた卵を取りに向かった時におばちゃん達に囲まれた
「君は香君のお友達?」
「あ、は、ハイッ!」
「あらぁ、最近の子はほんと派手ねぇ」
「香君にはいっつもお世話になってるわぁ」
「あ、オ、オレもっす」
「この前なんてねぇ、私が大安売りに乗り遅れて取れなかったお魚を半分分けてくれたのよぉ」
「へぇ」
香は少し向こうで野菜の選別をしている
その最中にも、隣の奥さんと野菜の選別方法を話し合っているようだ
「ほんと若いのにしっかりしてて優しいのよぉ」
「急にあんな姿になったときはびっくりしたけどねぇ」
「え……。それってあの頭……」
葵が恐る恐る零した言葉に、おばちゃんはうんうんと頷く
「そうそう! ほら! よく言うでしょ?
普段いい子だって言われる子のほうが、突然グレちゃったりねぇ……。犯罪とかねぇ……
始めはそれかと思ってびっくりしちゃったわよぉ」
「じゃぁ、元々は……」
「ええ、普通に黒い髪で。目はアレ、ほら、最近テレビで流行ってる……」
「からこん、かしら?」
「そう、それ! そのからこん? を付けてるのかしら
元々は兄弟みんな黒髪黒目だったのよぉ」
「しばらく顔を出さないかと思ったら急にあんなになっちゃって……
香君ももう直ぐ成人でしょう? 大丈夫なのかしらぁ」
「親もアレですしねぇ……」
話が完全に盛り上がる前に、葵は遠慮気味に口を挟んだ
「あ、あのっ、香の頭っていつ頃から……」
「えー、いつだったかしら……」
おばちゃんたちが首をかしげている最中、葵は香にこの会話が聞こえてしまっていないか気が気でなかった
葵が香と出合った時には既にあの見た目で香自身も地毛だと言っていたので、全く疑っていなかったわけではないが、それなりにそうなのかと納得していたのだ
「そうよ、確か寒くなってきた頃に急に姿が見えなくなって……」
「あぁ、そうそう! 春ごろにあの姿で来てね、高校進学おめでとうって話とかしたわねぇ」
「そ、そうっすか……」
「葵? 卵はあったか?」
気づけば香が戻ってきていてハッと息を飲んだ
頼むからこれ以上香のことは口に出さないでくれという葵の思いが通じたのか、普段から楽しい会話の極意を極めている井戸端会議の先達者ゆえか、おばちゃんたちは先程までの会話など無かったように内容を切り替えた
「あらぁ、香君の家は今晩すき焼きかしら?」
「はい!」
「あらあらいいわねぇ。弟君たちも喜ぶわねぇ」
「食べ盛りですから」
なんて会話を楽しんでいた
香のリュックから出てきたエコバック二つのうち、一つを担当して葵は中に買った物をつめていた
しかし、詰めても詰めても買い物籠から商品がなくならない
それも当然だ。香は買い物籠二つ山盛りに商品を買ったからだ
「買い過ぎじゃね?」
「え? まぁ。ほら。弟達がいるし……、葵もいるし……」
「いや、オレの胃袋破裂させる気デスカ……?」
「あはは」
エコバックは結局三袋使って、全ての商品を詰めることが出来た
香はその三つを持って歩くと言っていたが、香の細腕といつものドジを考えるとそんな事は当然承諾できず、葵が二つ持って歩いた
いつの間にか雨も降ってきたので、片手の開いている香が傘をさして二人で入って歩く
しかし、香の家まで思った以上に距離があるようで途中で葵の息が上がり始めた
「葵、少し休もう」
「お、おう……」
緩やかな下り坂に差し掛かって、そこに並べられているベンチを香が指差した
並木の葉が広がっているおかげでベンチはそれほど濡れていない
葵は既に見栄も張れない状態で、一番近いベンチに腰掛ける
「はぁ、流石にしんど……
……? 香も座ったら?」
「え? あ、うん。ありがとう」
香はもう少し坂を下った先のベンチを眺めてぼうっと立っていたが、葵の声で我に返ったのか慌てて腰を下ろす
向こうのベンチが良かったのだろうか?
そんな考えが葵の頭をよぎったが、もう立ち上がることは出来なかった
葵は疲れを体から追い出そうとするように息を吐いた
「ふぃー」
「ごめんな。疲れたろ?」
「あー、いや。そんなことも……ある?」
「あはは、ごめん。夕食前の運動と思ってもう少し頑張ってくれ。今度は俺が二つ持つよ」
「うー、頼んだ……」
そう言って、がっくり背もたれに寄りかかった葵に、香は苦笑いを浮かべる
「ちょっと買いすぎたかなぁ」
「いや、どう考えても買いすぎだし」
「あははは」
そんな二人の前を授業が終わったのか、制服姿の中学生達が歩いていく
ここは通学路になっているようだ
葵が通っていた中学校ではないが、同じ部活で強い奴が居たところがこの先の中学だったことを思い出す
「そういえばこの先って中学あったな」
「うん。そうだよ」
「やっぱり。……なぁ、これってモミジ?」
ふと視線を上げると、坂を挟むように木々が並んでいる
その独特の葉の形に葵はメジャーな名前を思い浮かべたが、香がやんわりと首を横に振った
「いや、カエデだな。まだ青いけど」
「へぇ……」
きゃっきゃとガールズトークに花を咲かせる女子中学生に、ふざけあっている男子
そんな様子を見ていると葵は急に歳をとったかのような錯覚を覚える
一応葵自身もまだ学生の名が付く一員だが、大学は義務教育と全く違う
葵自身も入学してからあまりの違いに驚いたものだ
授業の在り方や方法、先生たち、そして何より自分たち学生、その全てが自由すぎて困ってしまうときもあるほどだ
香も感傷に浸っているのか、空を仰いで懐かしげに話し出した
「ここで、あいつと会ったんだ」
「?」
「俺はこの坂で躓いて、勢いが付いてな
あそこから、向こうまで……。駆け下りていったんだ」
香は坂の上を見上げて指差し、すっと坂の中腹くらいまでをなぞった
「それはもう、死ぬかと思ったなぁ」
なんて、笑ったのだ
※※※
「うーん、高校かぁ。どうしよう……」
学校で配布されていた高校のパンフレット数冊を小脇に、香は通学路を歩いていた
香がパンフレットに一通り目を通し、黒い頭を抑えて溜息を一つ吐いた時だ
足元の注意力が疎かになっていたのかもしれない、とんっと軽くつま先が地面にぶつかって歩調が崩れた
「あ、わっ、わ、わ、わわわわ!」
その場所が悪かった
踏みとどまろうと足を前に出していくうちに、いつの間にか下り坂を駆け下りるような形になってしまっていた
鈍足の香だ、坂を降りきる前に転ぶ自分の姿が頭に浮かんだ瞬間に横道から飛び出した人影を見た
「わっ!」
「っ!?」
バサバサとパンフレットが転がる音に対して、香は自身の体にそれほど衝撃が無かったことに恐る恐る目を開いた
紺と緑の縞々のネクタイと学校の校章が目に入って、香は少し向こうの私立中学の名前が頭をよぎった
「ご、ごめんなさいっ! 大丈夫!?」
「……」
焦げ茶色のうねった髪の少年はブレザーの上着を軽くはたいて立ち上がった
香よりも背が高く、顔は前髪で隠れていたが、鋭くもまっすぐな瞳が垣間見えた
香と同じ中学生のはずだが、少年というには大人びて青年というには若く感じる男子生徒に、香はどことなく自分とは違うものを感じて視線をそらす
足元は悲惨なもので、香のパンフレットや少年のものと思われる私物が転がっている
香は地面に落ちた自分のパンフレットを拾い上げようとしたとき、自分のものではない本が落ちているのを見つけた
パンフレットよりも大判で、しっかりとした作りの表紙の本に香は見覚えがあった
香の弟妹が最近気に入っている錯視を使った絵本だった
見たことのない絵柄の表紙だったから最近新しく発売されたものだろう
ついさっき買ったばかりだったのか、本屋のレジ袋から飛び出していたそれに香が見入っていると、少年は慌てた様子でそれを拾い上げ隠すように袋に押し込んだ
中学生にもなって絵本を買っているところがバレて恥ずかしかったのか、少年はそそくさと地面に散らばったものをかき集める
香はそれを手伝いながら、少し微笑んでみせた
「その絵本、新しいのが出てたんだ。俺も買って帰らないと」
「……」
少年は少し驚いたように顔を上げて、手を止めた
香は拾い集めたパンフレットを眺めながら、ここしばらくはこういった本しか目を通していなかったことを思い出す
「俺も好きなんだ、その絵本
いつも弟たちが先に読んじゃってて俺はちゃんと目を通したことがないんだけど」
「……」
「人の目って不思議だよねぇ」
「……」
「あ!」
香が急に声を上げて少年の手を取ったので、少年がひどく驚いた様子で身を引く
「手! 血が出てる!」
「……」
少年も今気が付いたのか、小指の付け根から手首までを擦りむいて赤く滲んでいる自身の手を見つめた
「ちょっと待ってて!」
「……?」
香は自分のリュックと荷物を近くのベンチに置いて、どこかに駆けて行ってしまった
少年はその様子を唖然と見送っていたが、落ちたものを全て拾うとベンチに腰掛けスクールバックに詰め直し始める
そうこうしているうちに香がハンカチを濡らして戻ってきた
そこからの処置は早かった
香は少年の隣に座ると、慣れた手付きで傷口を拭い、リュックの中から消毒液まで出してきて大判の絆創膏を傷口に貼った
「これでよし!」
「……慣れてるな」
少年の初めて聞く声は声変わりを終えて低く通った声だった。香は一瞬驚いた表情を見せたが直ぐに嬉しそうに笑う
「弟妹がやんちゃ盛りでな。よく怪我したりするから道具一式持ち歩いてるんだ」
「……」
「あ、いや、ごめんな。俺が走ってきたせいで怪我までさせちゃって」
「……いや、こっちも周りが見えていなかった……」
そう言うと、少年は急に顔を上げて正面を見据えると小さく舌打ちをした
香がビクリと肩を揺らしたのに気付いたらしく、少年は小さく詫びる
「お前じゃない。気にするな」
「あ、うん……」
香は先ほど少年が見ていた方向を見てみるが、道を挟んでベンチとカエデの木が並んでいるだけだ
その景色を眺めていると、不意に香の手の甲にコンと固いものが当たった
絵本だ
「?」
「見るか?」
少年がそう言って買ったばかりの絵本を差し出してきたのだ
「え? で、でも。悪いよ。俺も明日には買おうかなって思ってるし」
「……でも、家じゃ読めないんだろ」
香はそう言われてそれもそうだなと、どこか他人事のように思った
買ってきたばかりの本やおもちゃは大抵弟妹達が先に使ってしまう。香の手元に戻ってくるのは使い倒されてボロボロになった後だ
それを嫌だと思ったことはない
ボロボロになるまで使ってくれるのは買ってきた方としても嬉しいことだ
しかし、目の前に差し出された新品ピカピカのそれを丁重にお断りできるほど、香もまだ大人ではなかった
「じゃ、じゃあ、少しだけ……」
当然だが、新品の本の表紙はピシッとしていてどこも傷んでいない
触れると痛いくらいの本の角を指の腹でつついていると、隣に座る少年は不思議そうに首をかしげた
「……何をしてる?」
「え? あ! ご、ごめん!」
「?」
ページをめくると紙が眩しいほどに白く、どこも掠れたり汚れたりしていない黒い文字が並んでいる
ただの目次のページを楽しそうに眺めている香に、少年はやはり首をかしげていた
「……お前、変わってるな」
「へ? そ、そう?」
「……。いや、悪く言うつもりとかじゃなくて……」
「う、うん」
香はようやく本題のページをめくってジッと紙面を見つめていた
特にすることのない少年も横から紙面を眺めている
「うーん、リス……、かな?」
「……」
一瞬、少年の瞳が揺らいだことに香は気づかない
「こっちは……、おーすごい! チューリップが浮き出てる!」
そう言って嬉しそうに紙の上を撫でる香を、少年はただただ隣で眺めていた
気が付けば空が赤くなってきて、絵本は途中だったが香が慌てて顔を上げる
「ご、ごめん。こんな時間まで……」
「……いや」
「ありがとう。すごく楽しかった」
「……なんだったら、持ってけ。貸す」
「え?」
少年があまりにも意外なことを言うので驚いてしまった香だったが、さすがに自制心が働いた
「そ、それはさすがに悪いよ!
新品の本を俺が先に読んじゃったし、まだ君が読んでないだろ?」
「……別に、読みたくて買ったわけじゃない」
「? そうなの?」
「……ただ。……」
少年の表情は長い前髪で隠れてしまっていたが、茶色っぽい髪が夕日に照らされてさらに赤っぽくキラキラ光っていた
「ただ、手元に置いときたかっただけだ……」
「……」
香は少し考えたが、本を閉じて少年に返した
「じゃぁ、ちゃんと持っていた方がいいよ」
「……」
「それに、俺の家に持って帰ったりしたら返す時にはボロ雑巾みたいになっちゃうぞ」
そういって笑う香に、少年は差し出された絵本を受け取った
その表情は少し寂しそうに見えたのは、夕日のせいかもしれない
そのまま少し、二人は黙ってベンチに座っていた
「また……」
「うん?」
少年は今にも消えそうなか細い声でつぶやいたのだが、そこで少年の声は聞こえなくなった
ピーピーと機械音が、少年の声を遮ったからだ
少年は少しやかましそうに口元をゆがめ、ズボンのポケットから携帯電話を取り出した
香はまだ携帯も持ち歩いていなかったので、少し興味が湧いて少年が耳にあてた携帯電話を眺めていた
「……。……もう、帰る。……分かってる」
それだけ言うと少年は苛立ったように電話を切った
「おうちの人?」
「……まぁ」
「引き留めて悪かったな。早く帰った方がいいよ、親御さんを心配させちゃだめだ」
「……」
「ご両親には俺のせいだって言っといてくれればいいから。本当にごめんな」
「……いや。……」
「それじゃ、気を付けて」
「……」
手を振る香に背を向けて、少年は去っていく
この時、香は思いもよらなかっただろう
次の日もその少年がこの場所に腰掛け、絵本を持って待っていることなど
想像もしなかっただろう、この数十分の積み重ねがどれだけ意味の在るものになるかなど――
※※※
「香?」
「……え?」
「どうした? ぼーっとして」
「あぁ、ごめん……。少し、黄昏てた」
「あぁ、なんか分かるわー。その気持ち……」
仲良く黄昏始めた二人を現実に引き戻したのは、少女の声だった
「あら、キョウ兄さん!」
「あ、お帰り。若菜」
香を兄と呼んだその少女は、長い黒髪をサラサラと揺らし、大きく丸い黒色の瞳をきらきらとさせてこちらに駆け寄ってくる
清廉潔白そうな容姿と、セーラー服が恐ろしいくらい噛み合っていて、小さな花が付いた白いカチューシャが若菜と呼ばれた少女の可憐さをより一層際立てている
香がそもそも童顔で、その妹と聞いて葵は少なからず期待していたのだが、想像以上だった
はっきり言わせて貰うならば
「かわいい……」
葵の感想は声に出てしまっていたらしく、若菜と呼ばれた少女は頬を赤くしてそれを隠すように両手で頬を包むと、視線を下げてしまった
「そ、その……、ありがとうございます……」
「あ、いや、その……。ドウイタシマシテ……」
「若菜、こちらは俺の友人の葵だ」
「まぁ、彼が? 何時も兄がお世話になっております。妹の月下 若菜です」
「ど、ども」
ついつい葵も恥ずかしくなって脳みそが正常に働くのに時間がかかったが、不意に「アレ?」と葵は首をかしげた
「でも香、妹の名前は確か「真赭」……」
一瞬、やっぱり彼女とか別の女だったんじゃ、という思いが浮かんでしまった葵だったが、若菜の言葉が否定してくれた
「あ、それは私の姉の名です」
「あ、そうなの?」
「はい。私の自慢の姉さんですわ!」
そう言ってニコニコ笑う若菜は、やはり少女らしい可愛らしさがある
―― 歳の差って、何歳以上でロリコンになるんだろう
そんな事を考えてしまう葵であった
「あ、それは今日の夕食の食材ですね! 私も一つ持ちますわ!」
「あ、でも重いから若菜には無理かな……」
「そんな事ないです!」
そう言って袋の一つを両手で持ち上げるのだが、若菜は立っているだけでふらふらしている
香が慌てて若菜を支えた
「ありがとう、若菜。じゃあ、半分持ってくれるか?」
「はい!」
そう言って、香の持つエコバックの持ち手のもう片方を若菜が持った
葵は自分が疲れていたことなどすっかり忘れた様子で、元気よくベンチから立ち上がる
両手がふさがっている香に、今度は葵が傘をさしてやる
少し羨ましそうに、微笑ましそうに、葵は二人が仲良く歩く様子を少し後ろから眺めて歩いた
※※※
雨は静かに振り続けている
艸は取り敢えずキャンパス内の電話ボックス近くにあった喫煙所で雨宿りしていた
四限目の最中ということもあり、人気の少ないキャンパス内をぼうっと眺めながら茨の到着を待っている
茨がどうやって艸が今いる場所を見つけて来るつもりか知らないが、何とかして来るだろうという確証もない自信があったので出来るだけその場を動かずに待っていることにした
それよりも追っ手の方は平気なのかという思いのほうが強い
茨を心配しているわけではなく、あくまで艸が巻き込まれたくないだけだ
いや、既に巻き込まれていると言えなくはないのだが、金の請求や茨の雑用と言った表面上隠せる面倒ならともかく、追い回されたりするのは御免だ
うっかり家の人間に見られたら、言及されて最悪家に連れ戻される可能性もある
そんな事を考えていたらいつの間にか眉間にシワがよってしまったらしい
「お、恐ろしや……」
そんな声が聞こえて思わず目を向けてしまった
雨が降る中、睡蓮の葉を笠代わりにかぶった子供が立っていた
作務衣姿に、なぜか左足にだけ下駄を履いている。右足は裸足だ
かぶった葉の切れ込みから白目のない大きな真っ黒な瞳が底のない穴のように虚ろに覗く
そして何より、両手で大切そうにもった提灯のような物が薄ぼんやり灯っていて幻想的であった
しかし、艸は直ぐに視線を反らせた
人ではない。気づいてないフリを通そうとしたのだ
子供のほうも艸に対して好印象を持っていないようだったので、無視で通せるかも知れないと思ったのだが、子供は恐る恐るといったふうに艸に近づいてきた
「も、もし……」
「……」
「もし? その、聞こえているのだろうか……? 視えているだろうか……?」
それでも無視を続けた艸に、子供は気のせいかと溜息をついた
「人にそうそう視えるわけないか……
しかし困った……。あの下駄が無ければ大変なことに……」
そう呟いて子供は歩きにくそうにとぼとぼと去っていった
「大変なこと」その言葉が少し気にかかったが、艸は子供の背中が見えなくなってホッと息をついた
思わず溜息が出て、額を自分の膝においてうな垂れた
いろいろ気を張ったせいか、少し疲れてしまったらしい
肉体労働で疲れたと感じることはあまり無いのだが、精神的なものだとあっという間にだめになってしまう自分が恨めしい
ふと、嗅ぎ覚えのあるタバコの匂いが艸の鼻をついた
「どしたの? 疲れてるね」
「……茨」
似合わない番傘をさして、くわえたタバコがふらふらと上下している
紫煙が生き物のようにうごめいていた
いつの間に来たのだろうか、人の気配や視線にはそれなりに敏感だと自負していた艸だったが全く気がつかなかった
それほどまでに疲れていたのだろうかと、艸は内心首をかしげながら言葉を返す
「いや、何でもない」
「そう? ……。……なんか雨臭いね」
「? 当たり前だろ、雨降ってんだから」
「それもそうだね」
そう言って笑うと、茨は吸っていたタバコを灰皿に押し付けた
艸はその様子を何となく目で追いながら、久しく見る茨の顔をしみじみと見つめた
相変わらず人を馬鹿にするような笑みを浮かべた顔はこけ落ちて、血色が悪い
ふと茨が今さしている番傘の他にもう一つ手に持っていることに気がついた
浅緑色のレースで花があしらわれた女物の傘を――
「お、前。その傘……」
「あぁ、ちょっとそこで見つけてきたの」
「……」
「ん? どしたのぉ?」
「……いや」
茨は探している傘がある場所を知っていた
香がネズから傘を受け取る時に、ネズにこの場所の話をしていたため茨の知るところとなった
しかし、それを聞く前から茨は香の元に白い傘が無い可能性に思い至っていた
香に白い傘が返されたの日の夕方、茨は香と会っていた。その時に香は緑の傘をきちんとさしていたからだ
傘が返されたのはその後の夜
緑の傘が折り畳み傘だったならいざ知れず、普通の傘を常に二本持ち歩く人間はそういない
そのため、緑か白のどちらか一方は香の物ではない可能性に気づいていた
それで茨は艸の元に行く前に、ネズから聞いていた場所を探し当てて訪れていた
茨は新しい札を紅から借りた番傘に張ってさして歩いていた
それをさしたまま学生マンションの中に入るが、管理人の老人は全く茨の存在に気がつかない
一生懸命な様子で手元の本とテレビにかじりついている
茨は艸が見落とした可能性を考慮して、傘立てにある白い傘の持ち手を一つ一つ触れていった
そして例の傘が無いと確認し終えると、不意に浅緑色の傘の柄を掴んだ
「ん、なんか変なの混じってるねぇ」
「……」
「そう警戒しなくていいよ。一応回収していくけどねぇ」
「……ッ」
茨はその傘を引き抜き、揚々と学生マンションを後にしたのだ
「その傘、どうすんだ?」
「ん? 艸ちゃんはそんな事に興味を持つような子だっけぇ?」
「……多少はな」
先程から傘は一言も言葉を発しない
傘が艸を知っているといえば隠すことに意味など無くなってしまうが、空気を呼んで話さないのか、それとも既に茨に何かされてしまったのか無言のままだ
「ま、悪いようにはしないよ。そんな事より……」
茨はそう言うとちょいちょいと左肩を上下させた
何事かと艸が茨の肩に目を凝らしていると、ちょこんと出てきたのは緑色の頭だ
茱萸の姿が見えないと思っていたが、ずっと茨の背中に掴まっていたらしい
茱萸は肩越しに矢立と懐紙入れを茨に手渡した
「何だ、それは」
「懐紙入れと矢立……、って言っても最近の若い子は見たこと無いかなぁ」
灰皿の横に設置された小さいテーブルの上にその二つをおく
確かに艸は目にした事のないものだ
茨は懐紙入れから手のひら程の大きさの紙を一枚取り出し、矢立の壷部分の蓋を空けると筆を取り出して艸に手渡した
「そこに傘の絵を描いてくれる?」
「絵!?」
少し声が裏返った艸を見て、茨は実に面白いものを見たように笑った
「そんなに驚かなくても。下手なの?」
「……分からん。絵なんか描いたこともねぇ」
「へぇ? 学生には図工っていう授業があるんじゃないの?」
「義務教育の間はな。僕は真面目に描いたことねぇが……」
「いい機会じゃない。描いてみてよ」
「……」
渋るように筆を眺めたまま動かない艸に、茨はニヤニヤと笑いながら背を向けて新しいタバコに火をつけた
艸はその態度が少し気に食わない様子で、眉間にしわを寄せて顔を上げた
「お前が描けばいいだろ」
「術に使うから僕は描けないの。ボクが今大変なのは知ってるでしょ?」
「……追われてるんだってな?」
「そう。『天司』……君たちの世界でいう警察みたいなものかな。こっちでは『後神』なんて呼ばれてるだってね?」
「『後神』?」
「そ。まぁ、そんな事より早く描いてよ。言っとくけど、ボクはそこそこ絵は上手いほうだよ」
「……意外だな」
「術者には一定以上必要なものに画力もあるんだよぉ。札や陣を書く時にヘタクソだと上手く術が発動しないこともあるし」
「……、なるほど……」
じゃぁあの女は向いてないな。と失礼なことを思いながら、艸はチラと図書館のある方向に目をやった
そして、溜息を一つ吐いた後に意を決して筆に墨をつけた
「ふーん。思っていたよりはいいかな」
「……、そうかよ」
「んじゃま、それを少し雨に濡らして」
「ん……」
少し身を乗り出して、喫煙所の屋根の外へ手を伸ばす
茨はもう一枚取り出した紙に、何やら書きながらぶつくさ言っている
「探してる傘を艸ちゃんは目にしてないから、失せ物探しの術は使えないしなぁ……
やっぱり寄せの方が……。あぁメンドイ! じぶんでちゃちゃっとやっちゃいたいぃ」
などと一人で喚いては頭を掻いていた
これを番傘をさしたままやっているのだから器用なものである
「濡らしたら二つ折りにして、手のひらのうえに乗せてー」
茨が何やら必死に手を動かしながら指示をしてきたので、艸は言われたとおりにしてみる
「……出来たぞ」
「はいはーい。……、よしっ、と。じゃあここに書いてあることを口に出して読んで
噛まないように気をつけてね」
茨が書いていたのは分かりやすく言うと呪文のようなものだった
茨が口に出すとうっかり術が発動する可能性があるらしいので、文字に書き記していたらしい
その前に、艸にはいくつか聞いておきたいことがあった
「その傘、放っておくと危ないのか?」
「ん? まぁね。人間が使っちゃったら効きすぎてやばいかなぁ。先輩が作ったものだし、なおさら、ね」
「その傘を使うとどうなる?」
「周りから認識されなくなる。一種の消えない透明人間だね」
「……そんなに危ないようには聞こえないが?」
茨は少し艸の顔を見返した後に、わざとらしく大きな溜息をついた
「危なくない術なんて無いよ」
まるで可哀想なものを見るような目で、茨はそう言った
「この世界では人がそう思わずとも日常的に術が溢れてる。照る照る坊主も、民謡も、和歌も、ちょっとした言葉の羅列も、何もかもが術の足がかりになる
人がまじないや占いなんかを迷信と笑えるのは、この世界がそうさせてくれてるってことを忘れちゃいけない」
茨は筆を納め、墨壷の蓋を閉める
「もし、この世界の神気が『天都』の半分でもあれば……」
タバコの灰が崩れそうなほど長くなってきたことに気づいて、茨は手早く灰皿の上にタバコを持っていくと、トントンと軽く指で叩いて灰を落とした
再び口元に収めると、息を吸った茨の呼吸に合わせるようにタバコの先の火が真っ赤に灯る
「死ねと言えば、人が死ぬ」
吐き出した煙が言葉に形を成させたように不気味に揺れた
艸の眉がピクリと震える
艸も気づかぬうちに眉間にシワを寄せてしまっていたらしい、茨はそんな艸の様子を見て笑みを深めた
「ま、例えばの話ね」
茨はそう笑ってタバコの火をもみ消すと、艸と視線を合わせずに呟いた
「姿が見えないって危ないんだよぉ。それは、君のほうがよく理解していると思ったんだけど」
「……」
黙っている艸に、茨は肩をすくませて「うっかり車に轢かれちゃったら洒落にならないしね」なんて笑い、艸に先を促した
「それより、ほら。右手で紙を包むように覆って
で、これ読んで。君じゃ上手くいくかわかんないけど」
そう言ってピシッと紙を鳴らして広げると、艸の前に突き出す
艸は噛まないようにその字の羅列を二、三度黙読してから、小さく深呼吸をした
「よせたまへ よせたまへ
貝を逢わすがごとく 朋為せ
我をとりもたせ」
よく見ると、紙の左端に「×3」と小さく書いてあるのが見えて、慌てて同じ言葉をあと二回復唱した
あらかじめ言っておいてくれても良いのにと茨の顔を睨みつけるが、あまりにも憎たらしい笑顔で返されて艸は怒る気力も失せてしまった
全てを読み終えると、茨がジェスチャーでかぶせていた右手をどけるように指示したので、紙が飛んでいってしまわないように慎重にどけてみた
手のひらの上には、変わらず紙が乗っていた
しばらく二人揃って手のひらの紙を覗き込んでいたが、何の変化も見られない
「……なんとも無いが?」
「んー? おかしいなぁ。艸ちゃんでも大丈夫なように長めの文言にしたのに……」
「……」
さらっとけなされたような気もしたが、事実うまく言ってないのだから茨の予想よりも艸の力が劣っていたということだろう
なぜか負けたような気持ちになって、今日何度目か知らない溜息をついた時だ
「あ」
「あ?」
茨が小さく声をあげた
艸がつられるように視線を戻すと、手のひらの上の紙が微かに動いた
僅かに、本当に少しずつ、中央から親指のほうへ動いている
「おー、出来たね」
「出来たのか?」
「うん」
「……。で、どうすればいいんだ?」
「紙が動く方向に進んでいけばいずれたどり着くよ」
「……」
「……」
「これ、遅くねぇか」
「うーん。君の実力不足ってとこだね。さっさとどっか飛んでいっちゃうよりはよかったでしょ?」
使いようによっては風に飛ばされるかのごとく、飛んでいってしまうこともあるようだ
それを聞くと確かにまだ良かったのかもしれないと思うが、このアリよりも遅そうな動きに合わせて進んでいた何日かかることか
学生マンションで、傘を持って行ってしまった人が帰ってくるのを待っていたほうが早い気もする
さっき茨が言った最悪の事態になったら、帰ってくることも無いので探しに行くべきなのだろうが
「別にそれの動きに合わせて君がゆっくり歩く必要は無いよ」
「?」
「とにかく今は、東に向かって動いているから東に向かえばいい。進んでいるうちに向きが変わったりしだすだろうから、その時その時に向きを変えて歩けば今日中には見つけられるでしょ」
「……、わかった」
「んじゃ、後はヨロシク」
そう言って茨は文言を書いた紙をライターで燃やすと、浅緑色の傘を掴んでとっとと歩いていく
未だ茱萸がくっついている茨の背中に、艸は声をかけた
「蛇結」
「ん?」
「悪いようにはするなよ」
「……」
茨は目をぱちくりさせた後、手にある傘と艸を見合わせて何もかも見透かしたように笑った
「はいはーい」
相変わらず人を信用させてくれない口調で返事を返すと、茨は雨霧でけぶる道の向こうへ消えていった
※※※
葵は我が目を疑った
たどり着いたのは少し大きいが古さのある平屋の一戸建て、そこにずらりと並ぶプランターや植木鉢にも驚いたものだが、これには敵わない
「えっと、じゃあ上から……」
そう言って香はひとつ年下の妹、真赭(まそほ)をさした
「月下 真赭。この家の長女」
それが合図だったように次々に言葉が流れて言った
「次男、潤です」
「三男の、緋汐でーす」
「既に申し上げましたが、次女の若菜です」
「よ、四男、空、です……」
「三女、千草!」
「海丞だよぉ」
「水丞だよぉ」
最後までいったところで香が
「海丞と水丞は双子で、海丞がお兄さんだ」
と、補足した
ずらっと並ぶ香の兄弟達を前に、葵は以前友人が話していた香に対する噂話を思い出していた
「豪邸とか、全員白髪のほうがまだ信じたわっ!」
今この場に居ない友人達にツッコミを入れて、葵は盛大に床に膝をついた
既に名前を忘れてしまったが、一番気の弱そうな四男が「ひっ」と声をあげて三男の後に隠れた
香が心配そうに葵の横に膝を突いて覗き込む
「ご、ごめん。びっくりしたよな」
「あ、いや。謝んないで……。ただ……」
「ただ?」
葵は恐る恐る顔を上げて香に懇願するように小さい声で告げた
「全員は、名前、覚えられないから……、しばらくは、続柄で、呼ばせてクダサイ……」
そう言って頭を下げたのだった
四角いテーブルを二つならべて、ガスコンロと鍋が二つずつ煮立っていた
あっちこっちで肉の取り合いになっていたり、野菜も食べろと声が上がったりしている
香は一番幼い双子の小皿に肉と野菜を取ってあげていた
なるほど、これを見たらあの買い物の量も納得だ
それにしても――、と葵は箸で卵に沈む肉をつついた
香が料理の準備をするために艸から渡された風呂敷包みを持ってキッチンに向かってからというもの、どこか浮かれているように見える
今も楽しそうに鍋の具材を弟妹達によそう係りに徹している
「葵も遠慮しないで食べてな? いっぱい買ったから」
「お、おう! ちゃんと食ってるよ」
「名前は覚えられそう?」
「と、取り敢えず女の子は覚えた」
その言葉に葵の左隣に座っていた三男、緋汐が噴き出した
「おにーさん、素直!」
「あはは……」
「ま、女子から覚えるよなぁ」
「だよなぁー」
葵はこの緋汐とはタイプが似ているらしい
案外話が合う
緋汐は頭に巻いたバンダナの位置を少し整えて、葵の顔を覗き見る
「ん? 何?」
「いや、頭カッケーって思ってさ。やっぱ金髪いいなぁ」
「おー、やっぱ染めるなら金がいいよなっ!」
「なっ! ピアスもオサレ!」
そんな二人に冷たい視線を送っているのは次男の潤だった
葵はその視線に口を閉ざす。弟を悪い道に誘っているヤンキーにでも見られてしまったかもしれない
緋汐も気づいているのか、わざとらしく大きな声で言ってのけた
「気にしなくていいよ。人のこと見た目と頭でしか判断できない兄だから」
すっと腹が冷えた葵だったが、潤は聞こえなかったことにしたのか三女の小皿に野菜を入れてあげている
葵は初めて兄弟間の不和と言うものを間近で実感した
なにより葵と気の合いそうに無いのがこの次男だった
見てくれは香に一番そっくりで頭を白くしたら見間違えそうなほどだが、香には決して向けられたことの無い静かで冷ややかな視線をこちらに向けてくる
警戒されてしまっているのだろうか、顔も涼やかでニコリともしない
性格や態度は香と正反対だ
「ねー、キョウ兄ぃ。俺も金髪にしたい!」
「いいぞ。高校を卒業した後でなら」
「ぶーぶー」
緋汐と香の関係はそれほど悪くないように見える
歳の近い兄弟ほど喧嘩しやすいと聞くが、事実なのだろうか
そんな事を考えていると、緋汐が人懐っこい笑顔で葵に振り返った
「ね、ところでさ。おにーさんて、葵さんって言うんだよね?」
「あ、うん。よろしく」
「じゃぁ、アオ兄ぃだ!」
「え!?」
「あ、それいいね」
そう口を挟んできたのは長女の真赭、葵が始め香の彼女では疑った女性だ
セミロングに少しふんわりした髪に、前髪を右耳の上あたりでピン留めしている
次女の若菜とは違って、サバサバとしたクールな感じの女の子だ
先程女子剣道部の主将だと聞いた。高校も剣道のスポーツ推薦で行っているそうだから結構強いのだろう
運動音痴の香とは大違いだ
「葵、いいか? 嫌なら断っとかないと家族みんながそう呼び出しちゃうぞ?」
「へ? あ、いや、嫌じゃねぇよ」
香に少し心配そうに尋ねられた葵は、ぶんぶんと首を横に振った
「どっちかってと、嬉しい、かも。オレ、一人っ子だし」
「え!? マジ!? すげー羨ましい!」
緋汐が食いつくように身を乗り出した
兄弟達の前でそういうことを言っていいものなのか、葵は少し困ったように笑うことしか出来ない
「いやぁ、一人ってのもイマイチだぜ?」
「そんな事無いだろ? こっちなんか服は兄貴のだっさいお下がりだし、飯だっていつも取り合いだし、うっさいし!」
「いやいや、一人だと親がうっさいぜ!? 顔合わせると宿題しろとか、ゲームばっかすんなとか、なにかにつけて怒られんの!」
お互いの無いものねだりに花を咲かせたときだった
今まで以上に冷たい視線が葵を刺した
一瞬のど元に刃物を突きつけられたと錯覚してしまい、情けない声をあげそうになってしまったほどだ
慌てて視線のほうに目をやると、やはりと言うべきか潤だった
その表情も視線も、葵が潤のほうを見た瞬間に消え失せたが、一瞬見せた表情に葵は寒気が抑えられなかった
おそらく香と顔が似ているせいなのもあっただろう
香は絶対あんな顔はしない、あんな視線を送らないという気持ちが、例え本人からじゃなくても似ている顔と言うだけで本人から拒絶されたような恐怖を呼び起こすのだろう
葵は慌てて自分の発した言葉を振り返る
何か気に触るようなことを言ってしまっただろうか
しかし、潤以外の兄弟はこれと言って葵に何かしらの感情を向けてきている気はしない
葵の被害妄想だったのだろうか
「よーし、お肉第二波 いくぞー!」
「おー!」
香の声でワッと食卓が盛り上がる
葵は先程の嫌な感覚は忘れることにして、この一家団欒を噛みしめることにした
※※※
薊は自分の置かれている状況を信じられずにいた
読み込めていないわけではない、ただ嘘であってほしいと思ってしまうのだ
あれから道行く人に声をかけてみたり、交番に行ったりしたがどれも良い結果を残せなかった
バスも止まってくれないので帰ることすら出来ない
最悪歩いて帰ることも出来るが、帰って管理人のおじいさんや知人にまで気づかれなかったらと思うと怖くて帰る気にもなれずにいた
日もすっかり暮れ、民家の明かりがぽつぽつと灯って夕飯の美味しそうな匂いがすきっ腹に堪える
降る続ける雨のせいで足先も指先もすっかり冷えてしまった
それにしても普段の薊ならもう少しまともな行動と選択が出来たはずだが、この度薊に起こった出来事は薊を動揺させ理屈の通らない行動をさせてしまうには十分なことだった
気がつけば、薊は本来の目的地に向かっていた
「……クロちゃん」
塀に立てかけるように子供用の傘が開いており、その下にクロが丸くなっていた
そっと覗き込んで手を伸ばす
すると、クロの瞳が開き金色の瞳が月の様に光を宿して覗いた
薊がクロの頭を撫でると、クロは不思議そうに頭を振って辺りを見回す仕草を見せる
「貴方には何かいるって、分かるのかしら……」
そう呟いてみるが虚しくなるだけだ
クロは薊の手首に下がっているトンボ玉のついた髪ゴムに、すんと鼻を寄せるような仕草をした
そういえば以前、初めてクロにあった時もこの髪ゴムをいたく気に入った様子だった
「やっぱり、丸い物が好きなのかしら……」
一時的に現状を忘れていた薊だが、不意に強くなってきた雨の音に現実に引き戻される
これからずっと誰にも見つけてもらえないままになったら、どうなってしまうのだろうか
誘拐かと勘違いされ親に迷惑をかけてしまう。また、悲しませてしまう
最後に会った管理人のおじさんにも大変な思いをさせてしまうだろう
まるで、幽霊にでもなった気分だ
「……馬鹿馬鹿しい」
そう呟いた横で、引き戸が引かれる音がした
薊が慌てて顔を上げると、ラフな服装をした香が小皿を持って出てきた
思わず身構えて数歩下がった薊だったが、自分の置かれた状況に呼吸を整える
「クロ、遅くなってごめんな。ご飯だぞ」
「んにゃ」
開いた玄関と香自身からすき焼きの独特な甘くどそうな匂いがした
立ちすくむ薊に香は気づかない
分かっていたことだったが、薊は異様に胸を刺されるような痛みを感じた
「……。……ばか」
食事中のクロの頭を撫でている香を見下ろしながら、薊は鞄からコンビニで買った猫缶を取り出そうと鞄を漁った
その拍子に一緒に鞄に入れていた猫じゃらしが鞄からこぼれ落ちる
「あっ」
ぽとんと水溜りにそれが落ち、鈴がチリンと悲しげに鳴った瞬間
クロがそれに飛びついた
それを呆然と見下ろしていた薊を、さらに驚かす出来事が起こった
「……利根さん?」
「え?」
香は空になった皿を片手に驚きの表情で薊を見つめていた
「驚いた。クロに会いにきてくれたの?」
なんて笑う香に、薊は一瞬言葉を忘れたが慌てて返す
「え、あ。そ、そんなところよ」
「ありがとう。クロも喜ぶよ」
「つ、ついでよ。たまたまこの辺に……」
おかしいことなど一つも無いのに、薊は会話が成り立っていることに違和感を覚えていた
どこか言葉がつっかえて苦しい
雨に濡れたわけでもないのに視界が歪んでいる気がする
「? 利根さん?」
「な、何!? あんまり見ないでくれる!?
そ、それと、たまたまのついでに返しておくわ」
そう言って香にハンカチを押し付けた
以前、香が薊の部屋を訪れた時に忘れていったハンカチだった
「あ。ありがとう。無くしたと思ってた……」
「べ、別に、たまたまのついでよ……」
「香ー。何してんの?」
玄関から聞こえてきたのは葵の声で、薊も葵もお互いを確認すると驚いた表情に変わる
「あれっ? 利根さんじゃん! どしたの?」
「い、いえ。私は……」
「クロに会いにきてくれたんだ」
「クロ? あぁ、玄関前にいた黒猫?」
クロは未だに地面に転がった猫じゃらしを前足でつついている
香が思い出したように手を打った
「そうだ、よかったら利根さんも上がってく?」
「は?」
突然のことに片眉を吊り上げた薊だったが、玄関にいた葵が嬉しそうに言葉をつないだ
「これからケーキ食うんだよ。すごいでっかいホールケーキ! 今日さ、香の誕生日なんだって! オレもさっき知ったんだけど」
何か親父ギャグを聞いたような気分になりながらも、薊は言葉の真意を上手く飲み込めなかった
そんな薊を置いて葵は不満げに香に話しかけている
「早く言ってくれればいいのにさー」
「ご、ごめん。自分からは言い出しにくかったって言うか……
気を使わせちゃうから、葵を呼ぶの今日でいいのかすごく迷ったんだけど弟妹達に言いくるめられちゃって……」
「おいおい、長男しっかりしろよな」
なんて会話を繰り広げていた
香の表情がどことなく優れなかったのはこのためだったようだ
香は少し困った表情のまま微笑んで、頬を指でかく仕草を見せる
「それにほら、前に君影のところに行った時、ケーキが食べたいって言ってたから……。今日なら丁度いいかなって……」
「あ、あれは、なんていうか……ちょっとした嫌味って言うか……」
尻すぼみになっていく葵の言葉は香に届かなかったのか、香は不思議そうに首をかしげている
気を取り直して、香は薊に向き直った
「と言うことなんだけど、利根さんも一つ食べていかない?」
「……」
薊は少し戸惑ったように視線をめぐらせたが、腹の虫が小さく鳴いたのを聞いて頬を赤らめた
「い、頂くわ……」
「よかった! どうぞ、あがって」
葵が地面に落ちていた猫じゃらしを拾い上げ、クロもついでに抱えあげる
「こいつも屋根の下入れてやろうぜ。すっかり濡れちゃってるし」
「そうだな。葵、悪いんだけどそこの傘も持って入ってくれ」
「ほーい」
クロのために用意されたらしい傘を回収し、葵は家の中に入っていった
「利根さんも、どうぞ」
「お、お邪魔するわ……」
玄関に招かれた薊は傘を隅に立てかけて靴を脱いで家にあがると、玄関の鍵を閉めている香に向き直った
「月下 香……」
「うん?」
「……その、……」
薊は少し迷った挙句、か細い声で「ありがとう」の代わりの言葉を囁いた
「……おめでとう」
「! ありがとう」
少し照れくさそうに笑った香に、薊も少しだけ微笑んだ
この後、香の家族によって驚かされるはめになることなど、この時の薊は全く想像していなかったのである
※※※
―― カチャリ……
わいわいと賑わいが溢れ漏れ出てくる玄関で聞こえたその音は、家の中に居る者には届かなかった
少しずつ開くドアの隙間から夜の色が入り込んでくる
そこから伸びてきた手は玄関の隅に立て掛けてある白い傘を掴むと、もう一つの傘を代わりに置いて引っ込んだ
―― カチャリ
再び鍵が閉まると玄関の外に居た人物、艸は大きく息を吐いた
その手には目的の白い傘と、銀色の鍵が握られていた
玄関から漏れてくる明かりと賑やかな声に、艸は眩しそうに目を細める
「祝ってあげなくて良いの?」
急に聞こえた声に振り返ると、いつの間に来たのか茨が立っていた
その手にあの浅緑色の傘は無い
「……言うべきことはもう伝えた」
「へぇ」
茨は少し不思議そうにしていたが、これ以上は聞き出せないと踏んで艸から傘を受け取る
「あぁ、札の効力が切れたみたいだね」
そう言うと、茨は効力が切れた札を引っぺがし番傘に貼ってあった札を代わりに貼り付けた
そして番傘のほうを艸に差し出す
「これ、先輩に返しておいてくれない?」
「は? 自分で返しに行けよ」
「悪いけど、ボクはしばらくこの地を離れるから」
突然の言葉に艸は驚きを隠せなかった
「どうした、急に」
「まぁ、ほら。いろいろ追われててね……」
そこまで言って茨は少し身震いをした後、艸に番傘を押し付ける
「先輩にはボクから連絡しておくから、森林公園に向かって」
「……わかった」
「んじゃ、よろしく」
そう言って背を向けて歩き出した茨だったが、不意に足を止めて艸を振り返った
「じゃぁね、艸ちゃん」
そう言ってブラブラと手を振って見せると、今度こそ振り返らずに歩き去ってしまった
艸は少しの違和感に引き止められたが、夜も深くなり空腹も感じてきていた
早く終わらせたい一心で艸は森林公園へ歩を進めた
※※※
木々の間を走るように白が飛び交う
建物の上を、道路を、車の上を――
そうして飛び交う白たちは、引き寄せられるように一か所に集まった
全員が集まったことを確認すると、一つの白が一歩前に出た
「守備はどうだ」
「相変わらずです」
頭と口元をすっぽり覆った姿に、目隠しのように巻いた布には黒で丸の中央に点を書いた目玉のような柄が書かれている
一見、白い忍びのような姿の集団が裏路地に集まっていた
彼らは『天司』
一種の警察のような組織で、現在この一団はとある大罪人を追っていた
「くそ、せっかく顔を出したと思ったのに……」
「以前奴を追い詰めた時に捕縛できておれば……」
「仕方が無い。あの男が連れている少女は『僵尸』だ。子供といえど並の御子が敵う相手ではない
死子が出なかっただけましだ」
そこまで言って皆が口をつぐんだが、先程一歩前に出た天司が声を張り上げた
「顔を上げろ
先程『沙棗』殿がこの地に御降りされたそうで、協力を依頼したところ承諾してくださったとのことだ」
「おぉ!」
途端に歓喜の声が上がる
「これは心強い。あの方がいらっしゃれば百人力」
「まだこの付近に居れば、あの男の悪運も今日までよ!」
「と言うことで、この地は大体調べ終えた。後は沙棗殿に任せ、我らは周囲の地に拠点を移す」
「御意!」
示し合わせたかのように皆が一斉に返事をすると、彼はその場から光が散るように消えうせた
まるで始めから誰も居なかったかのように、そこには暗い路地が伸びているだけとなった
※※※
艸がこうして夜に森林公園を訪れるのは二回目だ
あの時は散々な目に会った
そして、あの日も雨だった
スマートフォンの光を使って例の脇道を探す
丁度そろそろかというところで誰かが立っていた
「艸殿! お疲れ様じゃ」
「ネズか」
「こちらから入ってくだされ」
ネズは雑草の僅かな割れ目に踏み入り、進み始めた
葉の雫を散らしながら艸も後に続く
「わざわざ案内役で来たのか?」
「そうじゃ」
ふと、艸は蜘蛛の巣に引っかかったような感覚に顔や髪を撫でた
「一度来たことあるんだから、別によかったんだが……」
「それなのじゃが――」
「私の結界に無意識ながら気づくとは、そこそこ感覚が鋭いのですね」
急に聞こえた第三者の声は、二人共聞き覚えのあるものだった
いつの間にいたのだろう。暗闇にほんのり灯るように、紅は立っていた
その顔は以前会った時同様に扇子で隠れている
「結界……?」
「今、違和感を覚えていたのでは? 結界に触れたからでしょう」
艸はもう一度髪に触れた。そういえば以前来た時も蜘蛛の巣に引っかかったような感覚があった気がする
「この場所は一般人が迷い込まないように隠されています。ここに通じる道を見つけることも本来なら出来ません
……貴方は違うようですね。これからは案内も必要ないでしょう」
そう言うと紅はクルリと背を向け奥に歩き出す
ネズは慌てて後を追った
要するに普通なら見つけられない道だったからネズを案内役として寄越したということか
そう思い至った時、艸はハッと息を呑んだ
「おい、待て。じゃあ月下はどうやってこの道を見つけた?」
「……」
紅は依然と銀の髪を揺らしながら歩みを進める
ネズは少し戸惑った様子で紅と艸の間で視線を行き来させていた
紅が沈黙の末に発した言葉は、笑みを含んだ音で発せられた
「さぁ、何故でしょう? 茨にでも聞いてみてはいかがですか」
血液に混ざって冷水が流れ込んだかのような冷えと眩暈が艸の体を襲ったが、紅の背中を睨むように歩き続けた
それを知ってか知らずか、紅の扇子に隠された口元は僅かに笑みを浮かべていた
ネズは悪くなった空気を一掃しようと、わざと明るいトーンで紅に話しかけている
「と、ところで旦那? なぜここに?」
「貴方がちゃんと艸君を連れて来られるか心配で」
「うぐぅ……」
ネズはがっくりと肩を落とした
本来は紅と出会った時点で傘を返して帰りたかったのだが、紅の有無を言わせぬ歩みに引っ張られるように後を付いていった
そうこうしている内に、以前訪れた屋敷の玄関口を通される
紅はパチパチと顔を隠していた扇子を閉じた
「わざわざご足労感謝いたします。夕餉(ゆうげ)はお済みですか? よろしければご一緒しませんか?」
「いや、いい」
「そうですか、残念です」
そう言うと紅は艸から番傘を受け取る
その時、紅は少し眉根を寄せて玄関の外へ視線をやったが、直ぐにその表情は笑顔に消される
「どうぞ上がってください」
「……」
「貴方が術に使った紙を処分しますので、取り敢えず上がってください」
否定を許さぬ物言いに艸はしぶしぶ靴を脱ぎ始めながら、紅の顔を見返す
「なぜ顔を隠して出歩く?」
「……一応です」
「?」
紅は番傘を玄関脇に立てかけると、少し視線を巡らせた
「ところで、茨はどうしました?」
「? しばらくここを離れると言っていたが?」
「……」
紅はどうしようもない子供を思うような表情を浮かべ、額に閉じた扇子の先をあてがった
「全く、私の懐紙入れと矢立は何時返してくれるのやら……」
紅が憂いた表情で溜息をついた時だ
「ほう? それなら今返してやるよ」
急に聞こえてきた第三者の声に二人が玄関を振り返ると、血のように真っ赤な着物を大胆に着崩した人物が立っていた
その手には襟首を掴んだ状態で誰かを引きずっている
ゴトンと遠慮なく落とされた体は、力なくぐったりとしてついさっきまでへらへら笑っていた人物とは思えない
「茨……」
紅の呟きは、本格的に降り始めた雨の音にかき消された
花たちが咲うとき 七
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