甘い彼女と甘くなる彼
二月十四日、それは、特別な相手から特別な想いを受け取る日
「藤崎くん、悪いんだけど今日残業お願いしてもいいかな?」
『はい、大丈夫ですよ』
「ありがとう、すごく助かる。少し整理してから資料渡すわね」
そういうと橘部長は、緩いカールがかかった髪から甘い香りを残して自分の席へと戻っていった。
少し下がった眉尻、俺が返事を聞いたあとに浮かべた安堵の笑み、そんな顔をされて断れるはずがない。第一、恋人でもある彼女の頼みを断るわけがないと思いながら自分の席に戻った。
彼女は俺の直属の上司でもあり、俺の社内恋愛の相手でもある。
素直になれない彼女からイエスの返事を聞くのに、自分でも驚くほどモーションをかけた。彼女に思いを寄せてから数年、ようやく片思いにピリオドを打てたときは、嬉しさと同時に安堵感に包まれていたことを今でも覚えている。
自分の席に戻り、途中だった資料を見ながらパソコンに向かうと、隣から甘い声がした。
「藤崎くん、今日残業なの?」
『はい。先程部長から言われました』
「えー、今日の夜飲み会やるのに藤崎くんいないのつまらなーい」
隣の席の野島さんが、つまらなそうに頬づえをついてこちらに何かを差し出した。
「実はね、今日の飲み会で渡したかったんだけど、ここのお店の方と知り合いで、特別に買えたの。藤崎くんにあげる」
差し出された赤い包装にゴールドのリボンがかけられた箱は、先日テレビで見た予約すらもとれないショコラティエのものだった。
いかにも高級そうな箱に、俺の頭の中に浮かんだのは奈緒子さんの顔だった。
一見クールなキャリアウーマンに見えるが、彼女の本性は少々天然が入っている大の甘党だ。
横目で彼女のほうを見ると、マグカップに口を少しとがらせて冷ます仕草をした。多雨あのカップの中身はブラックコーヒーではなく、砂糖とミルクが3杯ずつ入ったもはやコーヒーとはいえない飲料だろう。
緩んだ横顔に、つられて口元が緩みそうになり、とっさに意識を戻した。
『すみません、長野さん。こんな高価なもの受け取れません』
「そんなこと言わないで?せっかく藤崎くんのために買ったんだもん。ね?受け取って?」
上目遣いで呼吸の間もわかるほど近づいてきた長野さんに戸惑いつつ、少し椅子をずらして不自然にならないように距離を取った。
『俺、お返しするとか、まめじゃないですし、』
「そんなこと言わないでよぉ~、私が一方的にあげたいだけだから」
『とても嬉しいですが、お気持ちだけ頂いておきます。ありがとうございます』
そう言うと長野さんは、「悔しい~」と言いながら夜の飲み会に向かって意気込みを叫んでいた。
今日のイベントの効果なのか、オフィスにはいつの間にか俺と彼女しか残っていなかった。
『奈緒子さん、資料のほうはどうですか?』
「わっ、ちょっ、藤崎くんっ、ここ会社っ!」
近づいて声をかけると、慌てたようにフロアを見回した奈緒子さんは、勢いあまってペン立てを倒した。
『もう誰もいませんよ。昼間言ってた資料まとまりました?』
笑いを噛み殺しながら聞くと、短い返事をして机上を整理すると帰り支度を始めた。
「帰るよ、藤崎くん」
『あれ?残業は?』
「そんなのないわよ。」
『?』
奈緒子さんを見つめると、一瞬戸惑ったように瞳が彷徨った。
「……今日はなんの日?」
『………えっと、N社見積もり提出日、ですか?』
うちの会社でも大手の取引先で、奈緒子さんもかなり気合を入れていつも以上に仕事を詰め込んでいた。
「……違う」
『………?……あ、S社の企画書提s「仕事バカ。資料の提出日だけ憶えててどうするのよ」
遮られた言葉に、奈緒子さんにだけは言われたくないと返そうと口を開いた瞬間、口の中に甘味と奈緒子さんの髪と同じ香りが広がった
。
目の前にいるのは奈緒子さんで、だんだん口の中で溶け始めるその正体に口元が緩むのを抑える。
『………チョコ、ですか?』
「………っ、今日は、バレンタイン、でしょ?」
そう言って俺の手の上に箱を置くと、赤く染まった頬を隠すよううつむいて出口に向かった。
髪から甘い香りがする要因はこれだったのかと納得した。
「ほら、帰るわよ」
『奈緒子さんを持ち帰っても?』
「明日も仕事なので『嫌は聞きません』
「ちょっ、絶対だめー!」
叫んでいる彼女の後を追った俺の顔はだらしないほどに緩んでいるだろう。
お部屋にて:
『甘いにおいが充満してますね』
「………うるさい(何回も作り直したとは言えない)」
甘い彼女と甘くなる彼
この二人で何かとお話を書きたい。