太陽の眠り
放課後の教室を思い出しながら書いた。
こんな世界もどこかにあったらいいね、っていう話。
黄昏時。
西に沈む太陽、一つ。
オレンジ味の綿飴のような色の雲、一つ。
彼女のため息、一つ。
下校時間を過ぎて、体内時間が凍結された中、動いているのは彼女の長い黒髪と、カーテンだけだった。
「なに黄昏てるの?」
僕は窓を開け、山の向うに落ちそうな太陽を眺める彼女と同じ空間に入る。そしてその教室という空間は、僕という異分子が侵入したことで空気が一色から二色へと変わり、混ざって溶ける。
「あの山がなければ、太陽はもう少しの間あたしを照らしてくれるのかもね」
涼しげな風に黒髪を靡かせながら、すっと頭の中に浸透するような声で彼女は言った。
「詩人になるにはまだまだ遠いね」
僕は茶化すように言う。
「そんなんじゃないって」
彼女は振り向かずに首を振って応える。
僕はできるだけ静かに教室の戸を閉める。
「あの山があるから、太陽はもう君を照らすという今日一日の大変な業務を早めに終わらせられるんだよ」
窓際後方の席に座って、鞄から本を取り出しながら僕は言う。
「その言い方、ちょっと酷くない?」
彼女は振り向かない。なおも刻一刻と沈みゆく太陽を眺め続けている。僕はそうかもね、とだけ応えてから取り出した本の、栞の挟んであるページを開く。
暫くの間、その空間をさらりという僕が本のページをめくる音と、彼女の諦観したようなため息がちょうど同じ配分で配合され、彩った。
「月とバトンタッチだよ。君を照らす仕事は、後は月にお任せってわけ」
僕は活字に目を落としながら彼女に言った。
「月の光だって太陽の光の反射じゃない。太陽の仕事は終わってないわ」
「それを言ったら、太陽は二十四時間ずっと世界の誰かを照らしてるよ」
「大変ね」
と彼女はまた一つため息を吐く。
「太陽の休日っていつなのかしら」
「太陽の休日か」
と僕は本から目を離し、彼女と一緒に山の向こうに沈んでいく太陽を見た。
「そもそも太陽は働いているんだろうか」
「どういうこと?」
「太陽が日光を燦々と降り注いでいるのは、仕事じゃなくてただの趣味かもって話だよ」
僕は本へと視線を戻してから言う。
「それは面白いわね。でも、ただの趣味で夏に暑い日光を差されるのは嫌ね」
「それを言ってしまったら、もともこもない」
そうね、と彼女は振り向かずに頷いた。
「よく考えてみたら、夜に照らされるのなんてまっぴらごめんだわ」
僕はたしかに、と頷いて本のページをめくる。さらり。
そしてまた、暫くの間、今度は僕の本のページをめくる音だけが教室内の空気を染める。
「明日の天気は?」
と彼女が思いついたかのような口調で僕に尋ねた。
「晴れ時々曇り、降水確率十二パーセント。今のところはね」
「傘は必要ないわね」
「もちろん、必要ない」
「明日の日直は誰?」
「山口健治くん、十七歳、誕生日は八月二十二日、趣味は読書と映画鑑賞、好きな食べものはチャーハンで嫌いな食べ物は酢豚に入ったパイナップル」
「山口くんの詳細はそこまで必要じゃないわ」
たしかに、と言って僕は読みかけのページにしおりを挟んで本を閉じた。パタン、と乾いた音が少しだけ響く。
「明日は誰か休む?」
「残念ながら、全員休み」
「山口健治くん十七歳も?」
「当然」
「学校の職員も?」
「勿論」
「学生も社会人も?」
「訊くまでもないだろ」
彼女はまた一つ、今度はひらべったくて長い溜息をゆっくりと吐いた。
「もうそんな時期なのね。気付かなかったわ」
「それが当然だし、気付いたらいけないんだけどね」
たしかにね、と呟いて、彼女は携帯電話を取り出して操作を始める。
「次に起きるのはいつ?」
彼女は携帯電話を操作しながら訊いた。
「その質問に対する答えは、最初に僕が君と出会った時に自己紹介と一緒に添えたはずだけど」
「覚えてないわよ、そんなの」
「簡単だよ、自己紹介の内容と一緒さ」
「さて、なんだったかしら」と彼女はわざとらしく言う。
「何も言えない。ほら、その携帯電話でメモしな」
「もう覚えたから大丈夫」
彼女は携帯電話から顔を背け、風に靡くカーテンを撫でるように触った。
「しかし、なんでそんなことを訊くんだい?」
「アラームでもセットしておこうかと思って」
「その必要はないんじゃないかな」
それもそうね、と彼女は携帯電話を閉じた。
「今回はどれくらい眠るの?」
「詳しくは言えないけど、前よりかはちょっとばかし長くなるかもね」
「それはまたなんで?」
「詳しくは言えない。それを言ってしまうと、物語がちょっとばかり歪むんだ」
「なるほどね」
と彼女は妙に納得したような声で言った。
太陽はもう輝きの半分以上を山の向こうへと隠している。
今日という一日の、最初の終わり。
そしていつか始まる一日までの、最後の終わり。
彼女はそれを見届けることなく、窓を閉めてカーテンをひき、振り向いて言った。
「帰りに書店に寄りましょう」
長い黒髪はまっすぐ床に向かって垂れている。けれど、彼女の両目は前を見ていた。
「なにを買うのさ」僕は本を鞄にしまいながら言う。
「貴方のオススメの本」
「軽く二十冊は超えるよ」
「大丈夫よ」
そう言って彼女は自分の鞄を取って、教室の戸へと歩いて行く。その背中に僕は問う。
「本なんて必要ないだろ」
「貴方がそれを言う?」
「僕だからこそ、だよ」
「本を読むのはぐっすりと寝た後が良いらしいわよ」
彼女は一度立ち止まり、振り向かずに応える。
「一冊で十分じゃないか?」
「溜めておくのよ」
「資金源は?」
彼女は戸を開けて教室から一歩外に出て、振り向いて言った。
「訊くまでもないでしょう」
そして廊下を歩いて行き姿を消した。
凍結した教室内に独り取り残された僕は、何処に向けてでもなくため息を一つ吐いてから、鞄と本を持ち、彼女を追いかける。
太陽はもうすぐ沈む。
そして独りぼっちの夜がやってくる。
それまでは、彼女の側に居ようと思った。
太陽が沈んでしまえば、誰も居なくなった静寂に向けて、僕はきっとこう呟くだろう。
「おやすみなさい。『スリープ』」
陽はまた昇る。いつかきっと。
それがこの世界の秩序であるかぎり。
太陽の眠り