マルボロメンソールの後を追う


《ばらけて消える》


手慣れた仕草で、カシャリと音を立てながら銀色のジッポの火を点け、マルボロメンソールの煙草を吹かす。

いい気分だ。気怠い心地良さが、身体中を支配している。達成感…と表現してもいいものだろうか。概ね計

画通りに事は運び、目的は果たされたされたのだから、慎ましくも、そんな感覚に浸るのは構わないだろう。

確かに俺はやり遂げたのだ。肺に入れた煙を、ゆっくりと吐き出しながら、そう思う。

一応、失敗も念頭に入れていたし、もっと手間取るものだと思っていたが、予想していたよりは計画は円滑

に進んだ。何一つ躊躇うことなく、冷静に作業に徹することができたのが、決め手となったのかも知れない。

或いは、浅野繭の怨念が後押ししたのか…。

いや、浅野繭には恨みや憎しみの類の感情はなかっただろう。恐らくではあるが、浅野繭は感情が他人へ向

く種類の人間ではない。だからこそ、究極的な自己完結を迎えたのだ。

そう考えると、やはり俺の行為は無意味で、余計なお世話だったのだろうか…とも思う。余計なお世話どころ

か、迷惑も甚だしいかったかも知れない。その辺りは会えるものであれば、本人に直接訊いてでもみなければ

判らないことだろう。結局、俺は浅野繭の姿を拝みはしたが、出会ってはいないのだし、交流はあったものの

話をしたことがあったわけでもないので、浅野繭の性格だって想像の限りだ。実際は、強い憎悪をひた隠して

いた可能性だってある。だとしたら俺は、いい土産話を持って浅野繭に会いにいけるだろう。

そう、土産話でも用意しなければ、とても会いにいけたものではない。とても追い着けはしないのだ。

追い着くだなんて、それもまた滑稽な話に過ぎないが…。

視界には、輪郭のはっきりとした入道雲が鎮座する青空が広がっており、緩やかな風が吹いていた。遠景には

連なった山々の緑も濃い。ちょっとした風景画のような清々しさだ。

肩越しに後ろを振り向くと、フェンスの向こう側には、小池菜々子が革製の赤褐色の手帳を抱き、力なく地面

にへたり込んで泣き崩れている。恐怖故か、それとも亡き友人を想ってのことなのか、俺には判らない。小池

菜々子の胸中を察するには、俺には色々なものが欠けている。手帳の中身にも、それなりに目を通したが、出

来事のみが淡々と書かれていて、自身の気持ちに関する描写はなかった。言うまでもなく、意図的なものなの

だろうが、その理由だって俺には判らない。

何もかも判らない。他人の気持ちなんて、何もかも。浅野繭の気持ちも、小池菜々子の気持ちも、俺には判ら

ない。自分自身の気持ちだって、疾うに判らなくなっているのだ。他人の気持ちなんて、判る道理はないのだ。

今更ながらサイレンの音が聴こえてきた。随分と愚図愚図としたものだな。救急車なのかパトカーなのか判別

はできないが、どちらにしても、もう遅い。

正面に向き直して、煙草を指で叩き灰を落とすと、すぐに風に吹かれて、ばらけて消えた。その様子を眺めて、

行き着く先は同じなのだと、祈るように思う。どんな気持ちを抱えていようと、最後は灰になり、ばらけて消

えるのだ。

最後に一服、煙を肺に溜めると、俺は、指をぴんっと弾いて、煙草を宙に投げた。


《遅刻》


片肘を付いて、田圃ばかりの流れる景色を眺める。平日の昼間の電車には人気は少なく、閑々としていた。彼

これ二時間電車に揺られているが、退屈はしなかった。呆けて時間を潰すのは得意だった。そこに単調に流れ

る景色が加わわれば、俺は何時間でも無為な時間を過ごせた。

目的の駅に到着する。観光地ではあるが、特に目を瞠る名所があるわけでもなく、強いて言えば、そこそこ大

きな湖があるくらいで、訪れる客と言えば釣り人だけだった。秋の深まるこの時季、その釣り人の姿もなく、

構内を抜けて外へ出ても、通行人すら見掛けることはなかった。

…そういう場所を選んだのだから、そうでなければ困る。

駅の正面にあるバスターミナルの横に設置された案内図の前に集合…とのことだったが、先述の通り誰もいな

い。すっぽかされたわけでもなければ、一番早くに到着したわけでもなく、単純に俺が遅刻してしまっただけ

だ。約二十分の遅刻だ。辺りを見渡してみるが、やはり誰もいない。

湖のほうから、落ち葉を撒き散らしながら、冷たい風が吹いた。身を竦めて思う。

置いていかれてしまったか…。

人生を分かつ、こんな大事なときにすら、時間にだらしない自分に失笑してしまう。

待ち合わせをしたのは、二人の男に一人の女の計三人。俺を含めて四人が行動を共にする予定だったが、どう

やら俺は外されてしまったらしい。ここへきた目的が目的だけに、俺を待つという選択肢は、彼らにはなかっ

たようだ。ケータイ電話の番号も聞いていないので、連絡のしようもない。だが俺は、どうしても合流したか

った。ここで踵を返すわけにはいかない。

二十分の遅刻。仮に彼らが十分でも待っていてくれたのであれば、実質の遅れは半分の十分だ。湖の近くにい

る筈なので、道具の用意を含めれば、間に合わない時間ではない。

今回の発案者である男が、事前に下見をして、その場所の詳細を伝えていたので、とりあえず湖の畔までタク

シーで走り、そこからは徒歩で、該当する場所を探すことにした。

湖は、山に囲まれており、山道でも支障なく走行できるよう用意する車の車種はジープだと言っていた。見掛

ければ、すぐにでも判る筈だが、湖が見渡せる人気のない場所…というヒントだけでは、さすがにピンポイン

トで捜すには難しかった。

湖の回りの地形からして、西側が小高くなっているので、方向的には間違っていないと思うが…。

捜索から十五分が経過した頃、山道にジープらしきタイヤ跡を発見した。湖を一周する、アスファルトで舗装

された本道ではなく、地面が土である山道をわざわざ通っているのだから、これで正解だろう。後は、このタ

イヤ跡を辿っていくだけだ。

山道を登りながら、考える。

だらしのない自分。約束に無頓着な自分。心が麻痺している。愚鈍で、無責任。言い換えれば、何に対しても、

無関心だということだ。どうでもいい。どうしようもなく、どうでもいい。地球が引っ繰り返っても、動じな

いくらいに…。

十四歳の頃、地球ではなく、両親と妹の乗った車が引っ繰り返って、実にあっさりと三人とも即死した。あっ

さりとし過ぎていて、俺には現実感などまるでなく、親戚が執り行った葬式も滞りなく進行し、予定調和のよ

うに、両親と妹は冷たい墓の下に這入った。

全てが、一夜の夢のようだった。

現実を受け入れることができなかった俺は、悲しむ余地もなく、次第に悲しみがどういった感情なのかも判ら

なくなっていった。心は真空状態のように、空虚な穴がぽっかりと空いたまま圧縮され、笑うこともなくなっ

た。そして、そんな自分に順応し、それが普通になった。それが当たり前で普通の、十九歳になった。

実際のところ、家族の事故なんて関係なく、俺は最初から、何に対しても無関心な人間だったのかも知れない。

だから、悲しむこともなく、涙の一つも流せなかったのかも知れない。

三つの棺桶が並ぶ葬式の最中も、案外、どうでもいい…と、俺は思っていたのかも知れない。

どうしようもなく、どうでもいい…と。

二十分程山道を登り、そろそろ太腿が痛み始めたので、軽く一服でもしようとしたところで、不意に木々の向

こうを目をやると、深緑の車体のジープが見えた。

銜えた煙草に火も点けないまま、足早にそこへいくと、全部の窓に段ボールで目張りされたジープが駐車され

ている。フロントガラスには、マジックで大きく、馬鹿丁寧な文字で、こう書かれていた。

『有毒ガス発生中です』と…。


《自殺願望掲示板》


煙草に火を点ける。肺を煙で満たし、ゆっくりと吐き出した。振り向けば、確かに湖が一望だった。だが、目

張りをしていては意味がないではないか。湖を眺めながら死のうと言っていたのに、何か思うところがあった

のだろうか。

間に合わなかった…。

もう一度、肺を煙で満たし、今度は溜め息と一緒に煙を吐き出す。

車内には、自殺願望掲示板で知り合った男二人と女が一人いる筈だ。今回の硫化水素集団自殺の発案者である

ハンドルネーム『借金ング』と『無口』、それに女の『湯浅ノマ』の三人が…。

借金ングは、その名の通り、借金苦を理由に自殺を望んでいた。闇金に手を出しており、追い込みが激しかっ

たらしい。硫化水素集団自殺を持ち掛けた本人だから、相当精神的に追い詰められ、疲れ切っていたのではな

いだろうか。

無口は、元々何かしらの障害を抱えていたそうだが、自殺願望掲示板に書き込みを始めた切っ掛けは最近発覚

した膠原病にあるらしい。先天性の障害に加えて、どうしてこんな苦しい思いをしなければならないのか…と

自分の運命を嘆いていた。

唯一の女である湯浅ノマは、死にたい理由を具体的には明かしてはいなかった。ただ、死にたい…とだけ。俺

は、むしろ湯浅ノマの感性が、普通だろうと思っていた。死にたい理由など個人的理由に違いないのだから、

他人に説明する必要はないという見解でのことだった。

実際に俺も、今回の硫化水素集団自殺に乗りはしたが、湯浅ノマと態度は同じく、自分のことを話そうとはし

なかった。仮に、死にたい理由を説明するという条件が、借金ングから提示されていれば、俺は、この話を蹴

っていただろう。そもそも、俺は、自分が何故死にたいか、その理由をよく判っていない。今更、両親と妹の

後を追いたいわけでもないだろう。ただ何となく、もういいのだ。生きていくることも、どうでもいいのだ…

と、そう思っているだけで、他人を納得させられる理由らしい理由なんて何もなかった。

遅刻した揚句、置いてきぼりを喰らった俺に、何を言える権利もありはないが…。

まだ車内に硫化水素が残っていたら、俺も死ねるだろうか。すでに硫化水素が薄くなっていて、死にたくても

死に切れないなかったという事態は避けたいが、今ならまだ間に合うかも知れない。

地面に転がっている手頃な石を掴み、後部座席のガラスを部分的に割って、ロックを外そうと思った。石を持

って、狙いを付けたところで、ふと試しドアのノブに手を掛けると、ガチャっと音がした。

ロックされてない…。

僅かにドアを開けると、卵が腐ったような独特の臭気が漂ってきた。温泉の香りに似ているが、もっと鼻を刺

激する感じだ。これだけ臭気が残っているのなら…と、ドアを開けて車内に這入ろうとするが、後部座席に座

ったまま、すでに息絶えているだろう人物を見て、驚いた。

…子供?

オレンジのパーカーに、薄いデニムのスカートを穿いた、黒髪でロングの…少女。中学生か、もう少し歳がい

っていたとしても精々高校一年生くらいか。この幼い顔立ちの少女が、湯浅ノマ…だろうか。

運転席と助手席には、中年の男が前のめりに倒れている。どっちがどっちかは判らないが、この二人が、借金

ングと無口だろう。だが、この少女が、湯浅ノマ? こんな子供が?

いや、自殺に年齢は関係ないか。俺だって十九歳だ。湯浅ノマが高校一年生だったとして、十六歳前後だから、

俺と三つくらいしか変わらないわけだ。しかし、自殺願望掲示板の書き込みを見た限りでは、二十歳前半の印

象だった。借金ングと無口だって、そう思っていただろう。案内図の前に集合したときは、さぞかし驚いたの

ではないだろうか。

湯浅ノマが、何かを両手に抱えているのに気付く。…財布? いや、革製の手帳だ。死んでも手放したくない

なんて、よほど大切な手帳なんだろう。…違うか。誰に発見されるかも判らないこんな死に方で、大切なもの

なんて持ってくるわけない。発見されることを前提に持ってきているのなら、遺書か…。

湯浅ノマの両手から、手帳を抜く。まだ死後硬直は始まっていないらしく、簡単にその両手から手帳は取れた。

革製の赤褐色の手帳。開いて見てみると、びっしりと文字が書かれている。予定も書かれているが、どちらか

と言えば、日記に近い。少女らしいイラストもなく、淡々と、その日その日にあった出来事が書かれている。

日比野麻美。加藤恭子。それに小池菜々子か…。これが、湯浅ノマが自殺をした理由…自殺に追い込まれた理

由だろうな。

新しい煙草を取り出し、口に銜えて火を点ける。メンソールのハッカ臭が、咽喉に籠った硫化水素の臭気の厭

味を取り除いてくれる。湖を眺めながら、ゆっくりと、一本の煙草を吸い尽くした。

…やることができた。死ぬのは延期だ。


《準備》


聞き上手な女だと思っていた。自殺願望掲示板に於いて、湯浅ノマの立ち位置は聞き役だった。聞き役とは言

ってもネット上でのことなので、勿論会話ではなく、書き込みなのだが、そうだよね…とか、それは辛いよね

…とか相槌を打ったり、適度なところで質問を入れたり、ときには相手が、こう言って欲しいんだろうことを

予測して書き込んだりしていた。自分のことを訊かれると、角が立たないように、さらっとかわしていた。私

が悪いことだから…と、それだけ書き込むことが多かった。

湯浅ノマ…本名『浅野繭』だ。ハンドルネームは、浅野繭のアナグラムだろう。とある商業高校の普通科に所

属する一年生で一六歳。学校での立ち位置は、弄られ役のようだった。有体に言えば、虐められ役だ。

手帳を読む限りでは、それ程過激なイジメは行われていなかったようで、やはり弄られ役と表現したほうが適

切だと思われるが、浅野繭はすでに自殺しているのだ。弄られていた…では済まされないだろう。自殺を見越

して、誰かに発見されることを前提に手帳を書き綴っていたのなら、浅野繭の性格からして、内容を柔らかく

書いていることだってありそうだし、伏せていることだって充分にありそうだ。浅野繭の性格など、自殺願望

掲示板の湯浅ノマとしての書き込みから推測した程度のものでしかないが、少なくとも内罰的な傾向は強かっ

たんだろう。虐めを行っていた個人名が数名書かれてはいるが、恨みや憎しみの言葉は一つもない。それどこ

ろか、虐めについて、その日その日の出来事について、自身の気持ちに関する描写が全くされていない。書け

ば、済し崩しになって精神的なバランスが取れなくなると思ったのか、それとも第三者の見解を望んでいるの

か、俺には判らない。だから、浅野繭の意図を考えるのは止そう。考えたって無駄だ。意味がない。浅野繭は

もうこの世にはおらず、言ってしまえば、これはすでに終わっている話なのだ。俺は俺の考えで動くしかなく、

俺は俺の責任で動くのだ。それでいい。

浅野繭を虐めていたのは、三人の少女だ。日比野麻美。加藤恭子。小池菜々子。共にクラスメートで、遊び仲

間だと思われる。虐められていたのに仲間とは可笑しなものだが、よくある話ではあるだろう。人間が三人以

上集まれば、内在的に虐めは必ず発生するのだ。倫理観や道徳観で、それは幾らでも歯止めの利くものではあ

るが、逆に倫理観や道徳観が希薄であれば、歯止めなど全く利かず、外部からの防止の余地などないのである。

残念なことに、虐めは楽しく、誘惑的だ。虐める側は、薬中のように嬉々として相手を攻撃し、そして、そん

な自分を抑制できはしないのだ。

日比野麻美、加藤恭子。この二人が主犯である。小池菜々子は、この二人に指示され、浅野繭に対して虐めを

実行していた。或いは、小池菜々子も虐められていたと言ってしまってもいいだろう。小池菜々子は、主犯の

二人の指示に苦しんでいたようだ。浅野繭に対して虐めを行うことに、相当気を病んでいたように思える。浅

野繭と小池菜々子は、元々から友人だったようで、そこに日比野麻美と加藤恭子が後から割って入ってきた感

じなんだろうが、手帳は、途中から始まっているので、四人が集まる切っ掛けまでは書かれておらず、詳細は

不明だ。

小池菜々子からは、何度となく、謝罪の言葉が出ている。

ごめんね…と。

友達なのに…と。

この辺りに、浅野繭の手帳に自身の気持ちに関する描写が全くされていない理由があるのではないかと思った

が、いや、考えまい。手帳を読むのもここまでだ。俺が行動する為に必要な情報は得た。それだけで充分だ。

煙草を取り出し、口に銜え、銀色のジッポで火を点ける。肺に煙を溜め、ゆっくりと吐き出す。

…さて、準備に取り掛かろう。


《前日》


事は急を要していただろう。できれば、浅野繭の遺体が発見されるまでに、計画を実行したかった。いや、発

見されてしまえば、計画は頓挫だ。何もかも、中途半端に終わる。それだけは、どうしても避けたかった。

しかし、いざ準備に取り掛かると、拍子抜けするくらいに順調に進んだ。唯一懸念していた、浅野繭の通って

いた商業高校の制服も、ネットオークションで問題なく落札できた。学校の校舎案内図も、防犯対策の観点か

ら一般公開はされていないものだと思っていたが、普通にホームページに掲載されていたので、プリントする

だけでよかった。入学案内書を取り寄せる手間が省けた。後は、百円均一で小道具を購入して準備完了だ。

…背後に、浅野繭の気配を感じるのは気のせいだろうか。どうにも事が順調に運び過ぎている。俺にとっては

勿論好都合だ。何だっていい。早く終わらせられるものなら、それに越したことはないのだ。

浅野繭の通っていた商業高校は隣県の県境にある。近くだった。車で三十分も掛からない距離だろう。遠目か

ら、下見に行くことにする。

レンタカーを借りて、国道を走らせる。喫煙OKの車を借りたので、誰憚ることなく、煙草に火を点ける。

校舎案内図を見ながら何度もシュミレーションしたが、成功以外に考えられない。一応、失敗のシュミレート

を立ててみたが、どうにも要領を得なかった。失敗のシュミレーションこそ荒唐無稽であり得ない。世間から

見て、それなりに大層なことをしようと理解しているわりには、楽観的ではないか。どう考えても、俺の目的

は達成され、多少手間取ることもあるかも知れないが、最終的には成功を手にする以外にはないだろう。

…もしかしたら俺は、目的の可否すら、どうでもいいと思っているのだろうか? だから、楽観的に、安易に、

考えているのかも知れない。しかし計画を実行に移したのに、目的が達成されなければ俺はきっと後悔するだ

ろう。この計画に対して、どうでもいいとは思えない筈なのに…。

まるで、成功を予知しているかのようだ。計画に疑念はない。目的は必ず達成される。

窓を開け、外に向けて、ふうっと煙草の煙を吐き出す。

やはり、どうでもいいのだろうな。

成功以外にないのなら、そこまでの道筋など考える意味がない。すでに計画は立てられ、実行を待つばかりだ。

現地に到着して、正門や校舎を眺めると、その気持ちは強くなるばかりだった。校舎案内図を見て、想像した

通りの風景だ。正門へ至る道路の街路樹すら、想像の通りだ。或いは本当に、これは浅野繭の手引きで、俺は

浅野繭の記憶の風景でも見ているのかのようだった。

自宅へ帰ると、パソコンの開いて、幾つかのニュースサイトを閲覧する。硫化水素で集団自殺があったという

記事は見当たらない。これなら大丈夫だろう。実行は明日の昼間だ。それまでに浅野繭の遺体が発見されるこ

とは、まずないだろう。

何となく書き込みをしていた自殺願望掲示板。県内で硫化水素集団自殺を行うというので、その話に乗っかっ

たが、随分と紆余曲折を経てしまった。今となっては、待ち合わせに遅刻してよかったと思っている。遅刻せ

ず集合場所に集まり、生前の浅野繭を見たていたら、俺はどう思っていたことだろう。場合によっては、俺は

浅野繭の自殺を止めたかも知れない。少なくとも、一緒に死ぬのは嫌だった筈だ。…何故だ? 浅野繭が、子

供だからか? …違うな。妹を浅野繭に重ねてしまうからだ。生きていたら、歳の頃は同じだったろう。浅野

繭の息絶えている姿を見た瞬間、脳裏に浮かんだのは妹だった。可笑しな話だが、もう碌に顔も思い出せない

妹の姿が浮かんだのだ。一緒に死ねるわけがない。だから、これでよかった。浅野繭の自殺を止める義理なん

て、俺にはないのだ。だから、浅野繭が先に逝っていてよかった。妹も、両親と先に逝った。俺は最初から出

遅れているのだ。後を追うつもりはないが、気持ちを汲むつもりもないが、それでも、全てが灰になり、いつ

か交わり合うことを想えば、俺は幾らか楽になれた。


《小池菜々子》


夢を見ていた。昔の、ごく有り触れた日常の夢だ。高校生の俺は、制服に袖を通し、学校へ向かう準備をする。

軽くパンを齧り、コーヒーを飲んで、外へ出た。時間にだらしのない俺は、遅刻の常習犯だった。電車に乗っ

て、流れる景色をぼけっと眺めながら、学校に到着するのは昼休み頃だな…と、大して悪びれることもなく思

っていた。

駅を降りて、銀杏の並木道を歩く。正門までは、後五分も掛からない。手荷物は一つだけ。それに加えて、胸

ポケットと、ズボンの両ポケットに入れたものを確認する。…忘れ物はない。

正門を潜って、真っ直ぐ、一年生の校舎へ向かう。教室は一組だ。丁度今頃は皆、教室で昼食を取っているこ

とだろう。一組の教室の前で、二人の女生徒が話をしていたので、俺は尋ねた。

「日比野麻美と加藤恭子は、どこにいる?」

二人の女生徒は、俺のことを上級生だと思ったのか、親切丁寧に、日比野麻美と加藤恭子が座っている席を教

えてくれた。教室の窓側で机を四つくっ付けて、日比野麻美と加藤恭子は横に並んでパックのジュースを啜っ

ている。

「二人の向かい側に座ってるのが、小池菜々子かな?」

女生徒の一人が、そうです…と答えた。

「ありがとう」

人と喋ったせいか、寝惚けていた頭が、やっと覚醒し始めた。俺は高校生でもなければ、この学校の生徒でも

ない。今回に限り、遅刻もしておらず、決められた時間通りに決められた場所へやってきたのだ。

夢ではない。すでに計画は実行中だった。

ズボンの両ポケットを叩く。一応予備も含めて、三本持ってきた。

何気なく教室に這入り、ズボンのポケットに入れてあった、百円均一で購入した果物ナイフをポケットの中で

握り、まずは日比野麻美の後ろに立つと、ナイフを取り出して腕を正面に回し、さくっと、斜めから首に根元

までナイフを突き刺した。すぐにもう一本のナイフを取り出し、向こう隣に座っていた加藤恭子にも同じく、

斜めから首に根元までナイフを突き刺した。その間、十五秒も掛かっていない。

突如、誰かが悲鳴を上げた。

構わず俺は、机を挿んだ向かいにいる小池菜々子の手首を掴み、強引に教室から連れ出そうとした。

一斉に教室内が騒ぎとなった。悲鳴は重なり合って、誰が何を言っているのかも判らない。振り向くと、日比

野麻美が首に刺さったナイフを自分で抜いてしまったらしく、こぼこぼと大量の血が噴き出していた。あっと

いう間に制服が真っ赤になっていた。

小池菜々子は絶句していて、身体が動かないので、さらに強引に腕を引きながら、俺は小池菜々子の耳元で囁

いた。

「浅野繭について話したいことがある」

強張らせていた小池菜々子の身体が、浅野繭の名前にびくっと反応した。腕を引くのが幾らか楽になったが、

それでも強引に俺は、さっさと廊下に小池菜々子を連れ出して、そのまま階段を昇った。四階の階段をさらに

昇ると屋上へ出る扉がある。鍵が掛かっていれば、蹴破るか、扉のガラスでも割ろうと思ったが、鍵は掛かっ

ておらず、普通に扉を開けて屋上へ出た。

ぶわっと、風が吹き抜ける。

扉から少し離れて、小池菜々子を解放した。腰を抜かしているのか、手を放した途端、小池菜々子は地面にへ

たり込んだ。涙を浮かべて、ぶるぶると小刻みに身体を震わせている。

友人…かどうかは知らないが、まぁ、友人二人が目の前でナイフで刺されたのだ。動揺するのは当然だろう。

俺は、手帳を小池菜々子の胸に放り投げた。

「見覚えがあるか? 浅野繭のものだ。中身を読め」

端的に伝えると、やはり浅野繭の名前には反応するのか、小池菜々子はすぐに言われた通りに、手帳を読み始

めた。考えてみれば、現状、浅野繭は行方不明扱いになっていて、捜索願でも出されているのかも知れない。

恐らく、話は小池菜々子にも伝わっているんだろう。小池菜々子は必死になって、ページを捲っている。

「浅野繭は死んだぞ」

ページを捲っている手が、一瞬で固まった。小池菜々子は、そう言った俺の顔を、半口を開いたまま、覗いた。

「自殺した。理由は判るだろう? お前だって浅野繭は行方不明になったと聞いて、自殺したんじゃないかと

疑っただろう? 正解だ。浅野繭は自殺して、もうこの世にはいない。俺がこの学校へきた理由も判るだろう。

さっき見た通りだ。日比野麻美と加藤恭子を殺しにきたんだ。確認はしてないが、あの二人も、もう死んでる

だろうな。まだ死んでないにしても、助からないだろう。お前からしてみても、別にあの二人が死んだところ

で、どうだっていい筈だ。…違うか? まぁ、いい気分はしないだろうが、時間が経てば、案外ほっとするん

じゃないか? 浅野繭の遺体は、直に発見されるだろう。その手帳にも、場所は記されてるしな。勘違いしな

いで欲しいんだが、俺は生前の浅野繭に頼まれて、日比野麻美と加藤恭子を殺しにきたわけじゃない。お前に

手帳を渡したのだって、浅野繭の意思じゃない。全部俺が俺の都合でやったことだ。その辺りのことはきっと、

警察が調べても判らないことだろうから、お前に言っとくよ。全部、俺が勝手にやったことだ。全部だ。…小

池菜々子、お前は生きろよ。間違っても、自殺なんかするんじゃないぞ。お前は、浅野繭の生き証人だ。浅野

繭に何が起きたのか、お前が抱えて生きろ。俺なんかは、浅野繭の気持ちを汲んでやれないが、お前にはそれ

ができるだろう? …だからそうしてやってくれ」


《マルボロメンソールの後を追う》


屋上を取り囲む緑色のフェンスによじ登り、俺は一歩踏み込んだら地上まで真っ逆さまの縁に立った。学生服

の胸ポケットから、マルボロメンソールの煙草を取り出し、手慣れた仕草でカシャリと音を立てながら銀色の

ジッポで火を点け、煙で肺を満たし、ゆっくりと吐き出す。

いい気分だ。気怠い心地良さが、身体中を支配している。達成感…と表現してもいいものだろうか。概ね計画

通りに事は運び、目的は果たされたされたのだから、慎ましくも、そんな感覚に浸るのは構わないだろう。

…終わった。これで、本当に終わりだ。やっと楽になれる。空っぽの、真空状態の心を、やっと解放できる。

いつも真空状態の心の中に煙を充満させるイメージで煙草を吸っていたが、そんな気休めも、これが最後だ。

やはり、目的は何の支障もなく達成された。日比野麻美と加藤恭子を殺すのに、躊躇いは一切なかった。浅野

繭は除くとして、あのとき湖で、ジープの車内の借金ングと無口の遺体を見ても、何も感じなかったように、

人殺しにも何も感じなかった。単純な作業だった。人殺しに何も感じないなんて、俺は疾うに人間として、も

う駄目だったのだろう。これで自分を終わらせることができて、本当によかった。

日比野麻美と加藤恭子が死ぬところを、浅野繭が見ていたら、どう思っただろうか。やはり俺の行為は無意味

で、余計なお世話だったのだろうか。余計なお世話どころか、迷惑も甚だしいかったかも知れない。

その辺りは会えるものであれば、本人に直接訊いてでもみなければ判らないことだろう。結局、俺は浅野繭の

息絶えた姿を拝みはしたが、生前には出会ってはいないのだし、自殺願望掲示板で多少の交流はあったものの

話をしたことがあったわけでもないので、浅野繭の性格だって想像の限りだ。湯浅ノマと浅野繭が同一人物だ

と言えるのかどうかも知れたものではない。

浅野繭には恨みや憎しみの類の感情はなかっただろう。恐らくではあるが、浅野繭は感情が他人へ向く種類の

人間ではない。だからこそ、究極的な自己完結である自殺を敢行したのだ。いや、実際のところは何も判らな

いのだが…。浅野繭が、日比野麻美と加藤恭子に対して、強い憎悪をひた隠していた可能性だってあるのだ。

だとしたら俺は、いい土産話を持って浅野繭に会いにいけるだろう。そう、土産話でも用意しなければ、とて

も会いにいけたものではない。とても追い着けはしないのだ。追い着くだなんて、それもまた滑稽な話に過ぎ

ないが、いつも出遅れている俺にとっては、笑い話で済まされることではないのだ。

…やはり本当は、追い着きたかったのだろうか。浅野繭と妹を重ね合わせ、俺は本当は、追い着きたかったの

だろうか。判らない。少し違う気がするが、まぁ、考えるだけ無駄だろう。何にしても、これで終わりだ。

肩越しに後ろを振り向くとフェンスの向こう側には、小池菜々子が浅野繭の手帳を抱き、力なく地面にへたり

込んで泣き崩れている。俺のしたことに対する恐怖故か、それとも亡き友人である浅野繭を想ってのことか…。

小池菜々子は小池菜々子で、これから辛い思いをするのだろう。小池菜々子には、随分と勝手なことを言って

しまった。浅野繭に何が起きたのか、お前が抱えて生きろ…か。本当に勝手なものだが、できれば、そうして

欲しいところだ。

今更ながらサイレンの音が聴こえてきた。随分と愚図愚図としたものだな。救急車なのかパトカーなのか判別

はできないが、どちらにしても、もう遅い。日比野麻美と加藤恭子は、もう助からないし、この俺もそろそろ

退場だ。

正面に向き直して、煙草を指で叩き灰を落とすと、すぐに風に吹かれて、ばらけて消えた。その様子を眺めて、

行き着く先は同じなのだと、祈るように思う。どんな気持ちを抱えていようと、どんなに自分の気持ちを見失

っていようとも、最後は灰になり、ばらけて消えるのだ。

最後に一服、煙を肺に溜めると、俺は指をぴんっと弾いて、煙草を宙に投げた。屋上から真っ逆さまに煙草は

地面へ落ちていく。そして空を見上げ、ふぅ…っと煙を吐き出した後、俺は一歩を踏み出して、マルボロメン

ソールの後を追う。

マルボロメンソールの後を追う

マルボロメンソールの後を追う

両親と妹に先立たれた十九歳の主人公は、空虚な日々を過ごしていた…。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-07-24

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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