助言


天井に張った糸を垂らして,逆さまの景色を楽しめる蜘蛛になれたのなら,それは見応えのある一幕として楽しめたと思う。
カーテンがないベランダのドアのせいで,床は舞台に仕立て上げられて,躍動感のある姿が力の限りを尽くして,影のある表現で世界から飛び去ろうとする。上下に動く二本の腕が羽根なら,左右の順番どおりに,交互に前へ,前へと動かされる足は必要な助走を表す。窓枠の近くは光が集まるから(したがって,他の所に影はない),そこだけに,飛び去ろうとする姿が現れては消えていく。昔々の手動フィルムのように,見ているだけで面白くなる。加えて、好印象なのが時刻に合わせた演出で,そのステップは密かに行われるべきと決められている(あるいはもっと強い言葉を用いて,義務付けられている)。ただし,その反動なのか,その動きはすぐに壁にぶつかり,出窓に阻まれて,土の汚れも残っていない植木鉢を転がし,我に返って,慌てて跡を追いかける。その反応は実に子供らしく,また,その背丈に似つかわしくない(クスッとしてしまう箇所ではある)。
その世界は,ただでさえ,その存在感が実際よりも伸びる。そのため,何ひとつ,物を置いていない箱のような空間であっても,その姿に対して狭く見えるし,その姿も,感覚があるのなら,そう感じてしまう(だろう)。影のある表現のために,突き当たった角に合わせて,高さを得たかのように装ったかと思えば,角を逃れて平面に戻ったりしているのは,それと折り合いをつけた結果である。すなわち,四方八方を打ち破って,飛び去る意味を失くしてしまうことは,その意思に背く(何のためにそこに居るのか,何のためにそこに侵入したのか)。また,制限はエンターテイメントの生みの親,という聞いたことがあるような言葉を用いれば,それは努力となる。明るく,暗い悦びのため,姿はその世界に飛び込んで行く。深まっていく。
見上げていなくても降り注いでくる,スポットライトの代わりを果たしているのが自然現象なら,それを利用したのは人工的なシチュエーション。借りられていない空室で,それを行なっている細かい理由が輝いて,後ろめたさが美しく舞い上がる。アンコールがダイレクトにもたらされる,下ろされる緞帳が備え付けられていないから。結末はお先にと,帰宅の途について,冒頭部分はその手を振り切られて,本編だけが残された。だから,繰り返される永遠の運動。起こることと,起こらないことが知られている。それがすべて。予定調和,という批判が鳴りを潜める(それを指摘する意味はない)。忘れる,ということの価値が増す(新鮮味が保たれる)。希望を手懐けられる(叶うも,奪うも,失いも,等しく扱える)。秘密をひけらかすことができる(筋書きは何ひとつ変えられない)。邪魔をすることができる(次はどうするか,なんて考える必要がない)。だから,永遠の運動。飽きない夢。覚めない夢。
おまけに,シャンデリアのように編まれた糸はキラキラと反射して,仕掛けられるのはサプライズ。乾いたシンクが固唾を飲み込み,クローゼットが沈黙を保つ。動いているのはその姿だけ。逆さまでも,見えなくても。
その上で,事態を動かすのは新たなお話。そのつもりでカサカサと移動している。ただしそれも意識をした途端,既に内側の物語。予定された結末に向かうまで,許されているのは,結末に影響を与えない寄り道や,道草だけ。ここまで記してきた一幕については,別の結末を用意できるのはその脚本家。その脚本家は見当たらない(または全ての者が脚本家。となると,問題はその決定権の帰属先。これもまた,きっと決まらない)。
ここまで来ると,その姿にならない限り,逆さまの景色を楽しんできた蜘蛛であったとしても,すっかり飽きる。そこで今度は垂らしたロープに吊るされて,外側の壁を点検する,修理工になってみよう。そこではひたすら風が吹いて,雨が流れて,雲がやって来て,合間を射す光に逢わされる。道具を使い,汗を流して,それを拭った所で,ふと見上げたそこに,欠けた形が観測できて,見慣れた形が横切っていったとすれば,その手を休め,目を凝らす。「あれが叶ったという姿であるなら」。そう呟いて,無理な態勢を取らずに,窓に向かって手を組み,祈る。そこで一言,二言,おやすみなさい。ここでの沈黙は短い。それでまた,さっきの方向へと見上げてみると,きっと何もない。そのことを残念がって,真正面の壁面に視点を移したなら,そこでも這う姿に,焦点が合う。拡大された,ミニマムな世界。凝視し過ぎて,目が疲れる。
ただし重力に従った,この世界にはちゃんと帰って来れる。血の巡りも元に戻る。二本の手,二本の足。軽いマッサージを施したら,あとは温めたタオルで癒すといい。

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-12

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