焦がれ
ジャンルは、敢えていうなら現代劇。
【1】
群青の夜は更けてゆき、今日も僕は一人になった。
「ねえ、あなたって、朝日をまっすぐ見られる人?」
突然右隣から聞こえた問いかけに、僕は驚いて顔を上げた。
向いた視線の先、仕切を越えたあちら側には、隣に住むお姉さんが僕と丸きり同じような姿勢でベランダの柵に寄りかかっている。
「いま、なんて?」
思いがけずこぼれた蚊の鳴くような声、心臓がどくりと跳ねる。
さっきまでの涙を教えてしまったような気がして、顔が紅潮するのを止められなかった。
「私はね、朝日を見たいんだ」
「見れば良いじゃないですか」
「でも私には眩しすぎるから」
「……」
彼女が何を言いたいのか分からない。
だが、それを分かる必要もないと思った。
「寒いので……」
僕は語尾を濁すと、部屋へ通ずるガラス戸を引いて暖かい室内へ身を滑り込ませた。
間違ったことは言っちゃいないし、してもいまい。
今日はこの冬一番に冷えるのだとあいつも言っていた。
大体、泣きっ面の若い男に声を掛けるなんてのが、そもそも大きな間違いなのだ。
「たばこくさい」
目の前の部屋が涙で滲んだ。
あいつの残り香は、いつだって暴力的なくらい僕に寂しさを突きつける。
気の抜けた炭酸が半分くらい残ったグラスをふたつ、流しへ持ってゆき、代わりに冷蔵庫から冷えた缶ジュースをひとつ、掴み出す。
今日はもう、苦い思いはたくさんだ。
かしゃんと音を立ててプルタブを上げると、それでも少しは寂しさが和らいだ気がした。
「あなたって、朝日をまっすぐ見られる人?」
ついさっき耳にした不思議な問いが、目の奥をよぎる。
宵闇のベランダに浮かんだお姉さんのシルエットまで、何となく幻想的に思い起こされる。
あの人は、あそこで何をしていたのだろう。
もしかしたら、泣いていたんではないだろうか。
僕と丸きり同じように。
そんな風に一度でも思ってしまうと、僕は急に彼女のことが気になり始めた。
考えてみたら僕は今まで、彼女を一度だって昼日中に見かけたことがなかった。
今と同じくらいの時間に近所のコンビニへ向かう姿や、仕事帰りらしい派手なドレス姿はたまに目にしたが、太陽が照っている間のお隣はいつもてんで静かだ。
「眩しすぎるから」
彼女はそう言った。
朝日を眩しすぎると言ったのだ。
「まだいるのかな」
眩しすぎる朝日を、それでも待っているのかな。
僕はどうしようもなくそれを確かめたくなって、再びガラスの引き戸に手を掛けた。
「なんだ、また来たの」
やはりさっきと同じ格好で柵にもたれていたお姉さんは、しかし僕の思う通りに泣いてはいないようだった。
彼女の手元にはポツンと赤い炎が点っている。
「今日の日の出は、6時半頃ですよ」
ばつが悪くなった僕はとっさにスマートフォンを点けると、天気予報のアプリをタップした。
「見られないんだってば」
「どうして?」
「どうしても」
悲しげな言葉とは裏腹に彼女の口振りはカラッと乾いていて、少しも湿っぽさがない。
むしろ微かな可笑しさすら感じられるほどだ。
「どうして、朝日が見られないんですか?」
「あなたは見られるの?」
「見られますよ」
「本当に?」
本当に?
……しつこいな、そう思いながらも僕は強い言葉を返すことができなかった。
彼女の言うことがほんの少し分かるような気がしてしまったからだ。
でも僕は違う、そうじゃない。
「見られます」
僕の表情を部屋から漏れる明かりで見て取った彼女は、面白そうに笑った。
「冗談だよ」
【2】
夜は嫌い。
だって私の人生にはそれっきゃないから。
深夜のコンビニにたむろする若い子たちを見てると、猫の集会みたいだなって思う。
何を話してるのか私にはさっぱり分からないけど、なんだか上手く言い表せない不思議な魅力を感じるから。
まだ世間に疲れてない彼ら彼女らの笑顔は、まるで夜の空気に太陽の匂いをまき散らしてるみたいで、私の気持ちを励ましまたひどく憂鬱にもさせる。
「アメスピとピアニッシモ、一箱づつ」
常連の贔屓目で見ても仕事ができるとは言い難い深夜のコンビニ店員に、いつも買う銘柄を指し示しながら、私は軽くため息をついた。
別にこの店員に呆れたわけでも腹を立てたわけでもない。
ただ本当に心の底から疲れてるってだけ。
仕事を終えて帰路につく人間なんてみんなおんなじだろう。
「こんばんは」
マンションのエントランスホールで、偶然隣に住む男性とすれ違った。
物腰柔らかな四十半ばくらいのその人は、成人したかしないかの息子さんと二人で暮らしてるようだ。
たまにマンション内で見かけると、二人とも挨拶してくれる。
お父さんの方はちょこっと前歯の覗く優しい笑顔で。
息子さんの方は少し陰を感じる静かな笑顔で。
「こんばんは」
なんにせよ、挨拶以上の関わりを求められることのない、慎み深い現代日本人の交流だ。
一言返事をすればそれでさよなら、簡素で効率的でほんのりと暖かいコミュニケーション。
それが、良い。
乗り込んだエレベーターから夜の街へ去っていく背中を見送りながら、私はコンビニ前の若者たちのことを思い出していた。
正確には、コンビニ前の若者たちと、私より前にあの背中を見送っただろう一人の若者のことを。
彼のことはあまりよく知らない。
大きくも小さくもない背丈に細い手足、そして、まだ少年の柔さを残した端正な面立ちとそれにそぐわぬ無情動な瞳。分かるのはそれくらいだ。
あの年頃の男の子は、大体みんな目の奥にドロッとした揺らぎを宿してるものだけど、彼はそれを持たない。
まるで透明なガラス玉みたいに硬く滑らかな瞳で私を見る。
珍しいなとは思ったが、それ以上の何かを考えたことはなかった。
冷えた鉄扉に鍵を刺して回す。
やっと帰りついた我が家は、外より少し暖かい気がした。
エアコンと加湿器をつける。
本当は石油ストーブの匂いが好きだが、昼の間外に出られない私には少し難しい。
部屋が暖まるまでベランダでタバコを吸うことにして、コンビニのビニール袋から引っ張り出した黄色い紙箱のフィルムを剥いだ。
部屋と外を隔てた大きなガラス戸は、音もなくするりと開く。
柵に寄っかかってポケットのライターを探った時、左肩の先から小さく鼻を啜る音がした。
「ねえ、あなたって、朝日をまっすぐ見られる人?」
私はただ、珍しく濃い色を帯びた彼の瞳を見て、少しからかってみたくなっただけ。
それだけだ。
焦がれ
完結作っぽくないし続けようと思えば続くけど、当面続きを書くつもりはありません。
人物背景を想像しながら読んで貰えると嬉しいです。