〈鏡家サーガ〉なんとか編(忘れた)。2作。

※佐藤友哉の鏡家サーガを読んでいないと意味がわからないかもしれません。フリッカー式のネタバレを含む。

Aqua

「プラトニック・スゥイサイドですね」
「ダブルプラトニック・スゥイサイド」――(或阿呆の一生/芥川龍之介)

 * *

 心中とは一種の性行為である。
 そういった甘い響きに代表されるように、時として人間は不器用だ。
 ……夏。
 河川敷で練習をする吹奏楽部を橋の下に見ながら、私は帰る。
 家から高校までは自転車で二十分。今年も太陽は女子高生に遠慮することを知らないで、私は毎日制服から汗が滴り落ちそうになりながら帰る。家に帰るなり制服と靴下を脱いで洗濯機に放り込む。
 下着をとって鏡の前に立つと、しょうもない身体がある。
 つまらない。
 熱いシャワーで汗を流す。至福のひととき。冷水でもいいけど、熱湯のほうが私は好きだ。身体の老廃物とか嫌なこととか、全部流してくれる気がする。シャワーの音がこの街の喧噪をかき消して、私は世界と遮断される。車の音も鳥の声も子供たちのはしゃぐ声も。目をつぶって窓から差し込む光も。体温は湯の流れの中に紛れる。
 でも、全部消そうとしても、体に染み付いた匂いは取れない。
 気持ち悪い。
 あの男の匂い。私の精神にへばりついて離れない。
 気持ち悪い。
 風呂から出た私は着替えて自分の部屋へ。
 机の一番上のひきだし。鍵を開けてKOOLを取り出す。お香用に使っているライターで火をつける。ベッドに寝転がって一口吸う。この煙が少しはあの男の匂いを消し去ってくれる。ぼんやりと一人で無為な時間を過ごすことによって私は生を感じる。閉めきった部屋。淀んだ空気。日当たりが悪いため、夏でも少しひんやりしている。吸い込んだ煙が私の血液に溶けて、体中で騒ぐ。手を伸ばしても意外と天井は高い。意識を煙に乗せて浮かべたら……。逆にここが海の底だったら楽に浮いていけるのに。煙草の灰をクッキーの空き缶の中に落とし、もう一度くわえる。私は意識の中を潜水して。遠く懐かしい音が聴こえる。優しい旋律。記憶の片隅に流れる名前も知らないピアノ曲。誰の曲かもわからない。サティ? ドビュッシー? どこで聴いたのかも覚えていない。でも、生きてるって感じ。
 りんろん。
 玄関のチャイムが私の時間を台無しにする。現実を取り戻す。
 煙草を缶の中で押し潰し、体を起こす。
 りろん。
 わかったから、うるさい、だまれ。
 部屋を出て玄関に近づくほど夏の空気がまとわりつく。
 覗き窓から外を見ると、キム・ディールのTシャツを着た青年が一人。宗教の勧誘とかでは無さそうだ。そっと、ドアを開ける。
「あ、どうも。お届けものです」と云うそのお兄さんはにこにこしている。
 差し出された白い包みには、宛名も差出人の名もない。この人も宅配業者にも見えない。
「あの、どちら様でしょうか」
「お届けものです」笑顔を崩さない。
 ずい、と差し出され、私は思わず受け取ってしまった。
「これは……?」
「お届けものです」
 怖い。
「あ、ハンコとか」
「いいです。それじゃあ。アディオス」
 青年はくるりと向きを変え歩き出す。
「え、ちょっと!」
 唐突に意味のわからないものを渡されて困惑している私をよそに、青年はすたすたと歩いて行く。
 私はさらに引き止めようとしたが、その後ろ姿にかける言葉が出て来なかった。死体から引っぺがして貼りつけたような笑顔。どこかで見たことがある気がするのだ。だから余計に怖い。向こうが私のことを知っていてストーカーみたいなのだったらと思うと、関わり合いになりたくないので、なんと声をかければいいかわからなかった。さらに云えば、この暑いのに汗ひとつかかずに長袖のTシャツを着ていたのが不気味だった。
 私はとりあえず、その包みを持って家の中へ。
 とても暑いはずなのに、私は気味悪さから少し寒気を覚える。
 なんだろうこれ。妹がレイプされてるビデオとか……? 妹いないけど。それとも、食人鬼の食べ残し……? 線路の切れ端とかパンダのぬいぐるみとかだったら……。どれも嫌だ。気持ち悪い。
 包みのサイズはA5ぐらい。メフィストとかいう怪しげな雑誌でも入っていそうな厚さ。
 爆弾とかじゃ……ないよねまさか。耳を近づけてみる。
 ……何も音はしない。
 とりあえず開けてみようと思う。危険物じゃないだろうし、そうだった場合は警察に届け出るだけだ。もちろん開けないで警察に届け出るのが一番かもしれないけど、あの人がストーカーで私の恥ずかしい写真とかが入っていたらなどと思うと嫌だ。
 びりびりっと包みを開け、出てきた紙の箱をそっと開ける。
 そこにはDVDが一枚。
 それからティッシュで包まれた謎の物体。開いてみると、親指大の直方体の容器に入った液体が出てきた。
 それだけ。残りは、隙間を埋めるように緩衝材が入っているだけ。……と思ったら、折れた煙草が一本入っていた。
 なにこれ……DVDよりも煙草よりもまず、私は謎の液体が気になった。
 この容器はなんだろう。大きさからいって、吸光度を測るやつみたいだ。石英セルだっけ? でも密閉されてる。
 中に入っている液体はなんだろう? 水? 重さ的にはたぶん水と同じぐらいの比重だ。色は無色透明。ガソリンとか……? アルコール? ニトロ? いや、そんな危険物を普通に持ち運んだりしないか。この液体は、濁りはなくすごく綺麗だ。微生物の侵入を一切拒否しているのだろうか? あまりにも綺麗すぎる。
 光にかざしてみると……なんだこれ。すごい屈折率。私の目がどうかしちゃったんじゃないかというぐらい光が歪んでいる。このまま眺めていたら異次元にでも吸い込まれてしまいそう。そうなればいいのに。でも、その先が馬鹿げた世界だったらお断りだけど。そんなことを思いながらも私は目が離せない。角度を変える度に不思議な光が次々に私の目に飛び込んでくる。昔観た映画のワンシーンがよみがえる。2001年なんてとっくに過ぎたのに。ある角度で、光は散乱を始める。オレンジの光が通り過ぎ、黄、緑、青、紫……様々な光が少しずつ私の網膜に刺さる。やがて視界がぼやけてくる。私は私の感覚を失う。音が消え、温度も消える。自分が自分でなくなっていく。それは恐怖ではない。喜びや悲しみを超越したなにものとも描写しがたい感情。平衡感覚すら曖昧になる。指先を意識できなくなる。理性や感情を虚無へと捧げて――そう、これは溶けていくと表現すべきなんだろう。私と世界の境界が薄弱に。自我がどの宇宙にも属さなくなる。思惟も延長も溶けて、消えて――。

 ことん。

 私の持っていた容器が机の上に落ちる音。私は呼吸をしている。私は私だ。自我や実存といったものの失われた世界じゃない。戻ってきた。
 なんで? あんなにも素晴らしい……。
 私は気づく。――日が落ちている。部屋の中は真っ暗だ。いつの間に……? いや、時間の感覚も私は失っていたんだ。ということは何時間も容器を手に持って光にかざし続けていたのか。不思議に腕は痛くない。ん? 不思議ではないか。先ほどの体験を思うと。
 部屋の明かりをつけ、もう一度容器を拾って光にかざす。
 ……しかし何も起こらない。太陽の光じゃないとダメなんだろうか? 残念。
 でも、私の求めていたのはこれだと悟る。シャワーでも煙草でも私を導いてくれなかった地点。
 私はその超小型モノリスもどきを箱に戻す。
 時計を見ると、そろそろ親が帰ってくる。
 少し悩んだが、その箱を自分の部屋に持っていく。DVDは後で観よう。案外、『2001年宇宙の旅』そのものだったりして。
 しかし、食後に観たそのDVDは決してそういうものではなかった。

 *

 未央はラッキーストライクを一本取り出すと、それを口にくわえた。
「こら! 未央。あんた未成年でしょ」
「くわえとるだけやん」
「それでもダメだよぉ」
「どして?」
「未成年は持ってるだけで犯罪なんだよ」
「麻薬じゃないねんからそんなわけないやん」
「とにかくやめてよ。あんた三年ぐらいずっと寝てたんでしょ?」
「三十八ヶ月」
「それなのにまたそんなことになっちゃうよ」
「私はええねん」
 なにが、ええねん、なのか。というか私は煙草自体といういより、あの丸いパッケージ(ラッキーストライクという銘柄らしい)が嫌なのだ。丸いものを長時間見ていられない。とても恐怖を感じる。なぜかはわからない。たぶん幼い頃に何かトラウマがあるんだと思う。
 未央は煙草の箱をくるくるといじっている。
「早くしまってよ」
「うん」
 未央はくるりと手の甲で箱を回すと、すっ、と箱が消えた。
「トリックだよ」
「そう」
「ノリ悪い……」
 ここは縁川(えにしがわ)の橋の下。いつも私が通学に使う、あの橋だ。川に向かって段差があり、川の手前には柵がある。その上から二番目の段に私たちは腰掛けている。私は隣の十九歳の女子高生を観察する。綺麗な顔をしているけど、どこか元気がない。生気がないというか覇気がないというか。でも、その横顔はどこか幼くも見える。成長期に三年間も寝ていたんだから、しかたがないのかもしれない。
「三年間も寝ているってどんな感覚なの?」
「うーん……ふふっ」
「どうしたの?」
「幽体離脱したことある?」
「あるわけないよ」
「私もないけど、たぶんその感覚に近い。なんかな、意識はあるけど意識はないっていうか。わからへんやろうけどずっとそんな感じ」
「ずっと?」
「うん。昏睡状態で私は全然起きへんかってんけど、ノンレム睡眠の時に夢を見とる感覚?」
「知らないよ。てことはずっと夢見てたの?」
「夢じゃないよ。いや、夢なんかな」
 あの映像……。未央と同じ顔。
「未央は三十八ヶ月ずっと寝っぱなしだったんだよね?」
「たぶん。私はその間に起きた記憶はない。それに脳波とか調べたらわかるんちゃん? 私が起きたっていう報告は受けてないけど」
「そっか」
 じゃあ私が見たのはいったい……?
「でもずっとそんなんやったから、あんま寝とったって感覚がない」
「覚えてるの? その、夢みたいなの」
「うん。えっとなぁ……」

 戦慄した。……未央の話す内容は、私が見た映像と同じだった。
 どうして?
 あの映像の少女は未央と同じ顔だった。成長期の長期昏睡が顔を幼く見せているのなら、今の未央は十六、七歳ぐらいの顔立ちだろう。映像の中の少女は高校二年生のようだったから、一般的な人生を送っているとしたら、ちょうどその年齢になる。
 未央が云ったように、幽体離脱して、未央はその霊体として意識があり、それを映像に収めた……? でも、幽霊なんて馬鹿げている。
 でも、だからといって、未央の夢の世界を映像になんてできるはずがない。
 それとも、あれは未央の双子か何かで、深層心理でつながってるみたいな……。
 そもそもあれは誰が何のために私に届けたの? あのビデオをつくった人は、少なくとも私と未央の関係を把握していて、私に届けたんだろう。そうじゃないと、映像の中の少女が未央と同じ顔だと気づいてもらえない。でも、だからなんだというの?
 正直不気味だと思う反面、好奇心も強い。気になる。知りたい。
「アヤス……じゃなかった」
「………………」
「あすみん?」
「え?」
「大丈夫? あすみん」
「そんなふうに呼ばないで」
「うん。意識飛んどったで」
「ていうか私そんな名前じゃないんだけど」
「そうやったっけ? ……ああ、似とるんか」
「似てる? 誰に?」
「明日美。夢の中に出てきた娘」
 あの映像に私に似ている人なんていなかった。
 でも、未央の話す内容と映像は同じだった。ということは……、たぶん、あの映像の視点がその明日美さんなんだろう。明日美さんがカメラを持って撮影していたと考えるのが妥当か。
 未央が私の顔を見つめている。
「どうしたの?」そんなに見つめないで。
「や、黙ってなにか考えとると意外とかわいいなって」
「意外とってなによ」
「うふふ」
 そんなに明日美さんに似てるのかな。
「さっきから何かずっと考えとるけど、なんか悩み事でもあるん?」
「え? いや、うん、べつに」
 あの映像のことを話すべきなのか? でも、
 す、と隣の未央が立ち上がる。
 制服のスカートの裾を整えて、川へと続く段差を降りて行く。
 私も立ち上がり未央の様子を見る。
 未央の指には、いつの間にかラッキーストライクが挟まれている。結局火をつけていないそれを、ぴん、と指で飛ばす。少し折れ曲がった煙草は夏の日差しを背に受け、逆光で暗く見える。微分可能な曲線を描いてそれは落ち、水面とキスをして、沈没した。
 え?
 私は浮いて流れていくものだと思っていたのに、いともたやすく沈んだ。
 水面は軽く揺れただけだった。
 静かに流れる川は他にどんな表情も見せない。
「引きずり込まれたな」未央はこちらを見ずに云う。
「うん……? 引きずり込まれた?」
「うん。川には霊が溜まりやすいらしい」
「そうなの?」
「弟が云っとった」
「ふーん。三途の川とかそういうのを連想するからそういう説が生まれるのかな」
「さぁ。でも水っていうんは霊を媒介したりするんじゃない? 『リング2』にそんな感じの設定あったやん」
「知らないよ」
「この川で溺れた人たちの未練が霊をここに束縛してむて成仏できへんのかな」
「川が危ないからあまり近寄らないようにっていうことの方便じゃない?」
「……なんでそんな否定的なん?」
「だってそんなのフィクションの話でしょ。私は霊を見たことなんてないから信じられないよ」
 幽体離脱的な体験をしている未央なら信じられるのだろうか?
 私は未央の隣へ。並んで川を見る。
「この川、『えにしがわ』って名前やんか」と未央。
「うん」
「でもほんまは『ふちかわ』って読むらしいで」
「ほんとに?」
「なんかな、ふちってゆうんはこの世の果てみたいなことらしい。『淵』やったんがいつの間にか『縁』になったみたい。川ん中から手が出てきて地獄の淵に引きずり込まれるねんて」にやにや、と未央。
「やめてよ」
「やったらおもしろいのにな」
 未央は真顔でさらっと嘘をつくことがある。
「ほんまはこの世とあの世を繋ぐ川らしい。亡くなった人たちと生きとる私たちのつながり――文字通りの縁だって。私たちが出会えたんも何かの縁やろ? そういう縁」
「そういう台詞は男の子を口説くときに云いなよ」
「これはほんまの話やのに……」
 それはわかっている。私もちょっと聞いたことある。
『縁』を辞書で調べたら、『つながり』、『えにし』、『ゆかり』、『よすが』、『めぐりあわせ』、というような字義があることがわかる。そういうものがこの川の由来になっているらしい。未央の云うように、この世とあの世を繋ぐ川なのだったら、『ふち』とか、『へり』、という意味で採っても、あながち間違いじゃない。この世とあの世の境界。
 さっきの煙草はどこに行ったのだろうか? あの世に沈んでいったの? それとも、もっと別の世界に?
 あの世とか霊とか、そういうものを私はあまり信じられない。
 すごく客観的な存在な気がする。
 例えば、金縛りは自分で体験できるから、主観的なものだから納得できる。でも、もし霊が見えたとしても、私自身が霊になったことはないから、なんだか納得出来ない。霊を見てる――知覚しているということは、主観的なことかもしれないが、その存在そのものを外から見ているのだから、やはり客観的だ。霊を見ることによって、私の魂が変質してしまうようなことがあるならば、それは信じられるが。
「帰ろ」
 未央は歩き出す。
 少し傾きかけた太陽が眩しい。
 夏草の匂いと熱気を吸い込み、私も未央とともに歩く。

 *

 ベッドに寝転がってモノリスもどきを蛍光灯に透かしてみる。
 水は霊を媒介……? 未央はそんなことを云っていた。霊気、霊体あるいは魂――エーテル体やアストラル体と云うの? よく知らないけど。そんなことは甲田学人にでも訊けばいいとして――が水に溶けるのかな……?
 もしそのとおりだとしたら、魂の比重はどうなるんだろう?
 人間は六割方水でできているので、体内の水分に魂が溶けているとも考えられるんじゃないだろうか。水分を失えば、それを溶媒としていた魂の一部も失えるだろうか? それは、どんなにか素敵で美しいことだろう。水と一緒に心中する記憶の悲しみは。
 あの男の匂い。あの男って誰なの? なんで私にはそんな得体の知れない記憶があるの? そのくせに、もっと憶えておいたほうがいいような記憶がなかったりする。意識の海を探しても見つからない。見つかるのは名前も知らない優しいあの曲だけ。
 私はきっと失う水を間違ったんだ。
 モノリスもどきは一向に反応を示さない。
 やはり太陽の光じゃないといけないのか。
 あ、そういえばあの煙草……。
 私は起き上がって箱から煙草を取り出す。
 おそらくこれが、未央が、(読み方は違うけど)私と同じ名前の架空の川に投げ入れたやつだろう。
 それにしても架空の世界を映像化するとは……。いわゆる、予知能力というやつだ。それを私に見せてどうしようというのだろう? 何の警告だ? 架空の世界ということは、そいつの予知はメタファーで表されているということ。あるいは、誰かの見る夢を映像化したものか。しかし、ここに煙草があるということは、あれはもう過去のことだということだろう。
 なんにせよ、そんな気持ち悪いものとはあまり関わり合いになりたくない。未来なんて飽きるほど見た。
 煙草を箱にしまい、手のひらで直方体の物体を転がす。
 でも私はこのモノリスもどきに執着しかけている。こいつなら消え去った過去を教えてくれそうな気がするから。

 * *

 初瀬川研究所に未央からファックスが届く。
『はろー。
 明日美のスペアは元気にやっています。しかし、依然、接続能力は発現されていないみたい。やはり突き刺しジャックさんが人を殺さないといけないのかな。それともやはりスペアには発現しないのかな。まあ、それをテストしてるんだけど……。私は、本体に接続するという説を強く推します。
 私が試作した縁川の水を使用した強制接続器も今のところ効果は薄い模様。改良の余地あり。
 それからビデオ。私が昏睡中にスペアと接続してたという設定に気づいてもらえたかどうかは微妙です。あのビデオが、その(架空の)話の、明日美視点だということには気づいているようです。接続したらああいう風になるんだとわかってもらえたかなぁ? これからまだまだ調査の必要がありますね。
 あ、そういえば、スペアには変な記憶の欠落があるかもしれないです。あと、今日確信したんだけど、なぜか丸いものに恐怖を覚えているようです。このスペアの記憶改変現象(私はプラトニック・スゥイサイドと呼んでるけど)についてもまだまだ調査の必要があります。
 接続による未来視以外にも、予知能力が表れる可能性も考慮に入れないといけませんね。私みたいに未使用のビデオに映像が映し出されたり、夢に出てきたり。
 今日はそろそろ眠いのでこのへんで寝ます。来週までに、縁川の成分についての報告が届くことを期待してます。では。 未央』

 * *

 水の音がする。

(了)

誰かの見た未来

 僕の右の目はもう一度半透明の歯車を感じ出した。歯車はやはりまわりながら、次第に数を殖やして行った。僕は頭痛のはじまることを恐れ、枕もとに本を置いたまま、〇・八グラムのヴェロナァルを()み、兎に角ぐっすりと眠ることにした。――(歯車/芥川龍之介)

 * *

 探偵小説の作者が、作者と同じ名のキャラクタを作中に登場させることがしばしばある。そして大抵の場合、それは、探偵であったり語り部であったりする。
 つまりそう簡単には死なないと云うことだ。犯人である可能性もかなり低いだろう。
 そんなのはフェアじゃない。
 僕はそう思う。
 しかし、だからと云って、フェアな物語と云うのも現実的ではなくて気持ちが悪いものでもある。
『愛は祈りだ。』と舞なんとか云う作家が云っていたが、僕の祈りは愛ではない。
 夜空に架かる虹のような美しさをもった少女の死、あるいは眠りのために僕は祈る。
 十五年前の今日、僕はその記憶を引き戻す。

 *

 不眠症の彼女は森で眠る。

     1

 飛行機でたまたま隣に座っていたやつが、引用癖のある男だったと云うところから僕の不幸は始まる。
 しかもそいつは、僕に窓際の席を譲れとぬかしやがった。初対面なのに。
「『貴方お一人?……お仲間は?……』」と訊くので、「一人ですが」と答えると「『むろん僕一人じゃありません。十二人ばかりの同志があります』と答えてくれなくちゃ困る」などと云う。「は?」こいつはいったい何を……。「おいおい、夢野久作だよ。これだから文学的教養のないやつは」と、初対面の僕に云う。いや、僕でも夢野久作ぐらい知っているが、仮にその作品を読んでいたとしても、そんな細かいところまでいちいち覚えていないだろ普通。
 つまりこいつは普通じゃないのだ。
「で? 席を譲ってくれないのか?」
「どうして譲らないといけないんです?」
「『何をそんなに怒っていらっしゃるの? 何もそれほどお怒りになることないじゃありませんか。何がいけないの?』」
「いや、べつに怒ってるわけじゃぁ」
「おいおい、僕が引用したら君も引用してくれないと困る」
「………………」知るか。
「すまない。僕は引用癖があるんだ。それもここ最近、見境がなくなってきて始末が悪い」
「あ」
「いいんだ」
 なんだかよくわからないが彼には彼なりの事情があるのかもしれない。それにしても、こんなに非常識なやつに出会ったのは生涯初めてだし、最後になるように願いたいものだ。
 結局僕は席を譲らなかった。それが第二の不幸。だって、この引用男の隣に、あんな美少女が座るなどとは夢にも思わないじゃないか。
「ところで、あの鞄の中には何が入っているんだい?」僕がさっきしまった鞄について言及しているのだ。
 何か気の利いた答えはないものか……。そうだ、
「猫だよ。ジンジャーエールを飲む」と僕は応える。
「そうか。夏への扉が見つかるといいね」
「そいつはどうも」
「うん、いいよ。わかってるじゃないか」
 そいつは満足したように頷く。
 これでゆっくりできる。と思ったらまだ話しかけてきやがる。
「君、名前はなんて云うの?」
「………………」無視してやろうか。
「失礼、僕から名乗るのが礼儀だね。僕は鏡。傑作だろ? 鏡クンと云っても決してミラーマンじゃないぜ。君は?」
 やれやれ。
「木村彰一」
「あっはは。いや失礼。分裂しそうな名前だな。ご愁傷様」
 ここに来るまでにすでに疲れている上に、こいつの相手をするのがめんどくさくなってきた僕は誰か来てくれないかと切に願った。
 僕の願いが届いたのか、ちょうど、鏡の隣に誰かが座った。
 若い女の子だ。それもおそらく十代。
「こんにちは」
 鏡はその少女に声をかける。
「どうも」
 と覇気のない声で少女は答える。ちらと鏡を見て、それから僕も見る。どうも、と僕も頭を下げる。
「君はひとりかい?」僕にしたのと訊き方が違うじゃないか。かわいい女の子だからって。こう云うやつが一番嫌いだ。
「私が二人にも三人にも見えるんなら眼科に行った方がいい」
「『そうかもしれない』。僕は鏡。鏡創士と云う。余談だが、泉鏡花の本名は鏡太郎と云うらしい。その鏡だ。で、こっちが木村彰一」
「そう、よろしく。私は縁川央(えにかわよう)って云うの、変な名前でしょ」
「鏡と縁川か、モンタギューとキャピュレットじゃなくてよかったよ。それにしても珍しい名前だね」お前が云うな。どうせ僕は平凡な名前ですよ。「久しぶりだよ、こんな珍しい名前に出会ったのは。『朱舜水の建碑式以来だろう』」
「……。『そうだ、あのシュシュン……』」と縁川が応える。
「もしかして『朱舜水と云う言葉を正確に発音できなかった』?」
「そうよ」
「驚いた」
 僕には何のことだかさっぱりわからなかった。
 縁川は荷物の整理をしている。
「『美人ですね』」と鏡が僕に云う。
「ああ、そうだな」と応えると、
「『ええ、中々美人ですね』と応えるんだよ」とダメ出しされる。やってられん。
「今のはなんだ? 彼女とのやり取りは」
「まさか、芥川龍之介を知らないってんじゃないだろうな?」
「芥川ぐらい知っている。アメリカの大統領の名前を知らないやつでも知っているぐらいだ」
「『歯車』は読んでいないのか?」
「知らない」
「そいつは残念だ。僕は全文暗記しているから唱えてあげようか?」
「遠慮しとくよ」
「ふン。人が親切にしてやっていると云うのに」
 親切? ならもう少し黙っててくれ。僕は疲れているんだ。
「君もそう思うだろ?」と鏡は縁川に声をかける。
「どうでしょう。川端康成とかが芥川の最高傑作だとか評してるけど、『歯車』なんて普通の人は読まないんじゃないかな。芥川の筋のない小説の到達点みたいなことを云われてるように、筋を読む読者にはあまり受け付けないんじゃないかしら」
「そうだ、『小説なんか初めからしまいまで読む必要はないんです』」
「なんで?」と僕が訊く。
「『なぜと聞きだすと探偵になってしまうです』、だから『普通の小説はみんな探偵が発明したものですよ』ってことだよ」
「?」縁川も疑問に思っているようだ。
「この人は引用癖があるみたいなんです」僕は縁川に説明する。
「そう。今のは何?」
「夏目漱石の『草枕』。お札に載ってる人の小説ぐらい読みなよ。まぁ、僕も漱石のことはよく知らないけど」
「へぇ」縁川の微笑みからは感情が読めない。
 この縁川と云う少女はこんな男のことをどう思うんだろうか? 外見だけなら鏡に敵わないが、頭の中身なら僕の方がまともだ。
「それがあなたの趣味なの?」と縁川が尋ねる。
「そうかもね。丸善に行って爆弾に見立てた檸檬を置いて帰る趣味より立派だろう?」
「素敵ね」
「君は?」
「『わたしはアイスクリームとフェラチオが好きです』」
 何を云っているんだこの女は、と僕は思わざるを得なかった。
「何だいそれは?」と鏡が云う。
「『ジャン=ジャックの自意識の場合』よ」
「そんな小説は知らないな」
「当たり前よ。だって、まだ発売されていないもの。私は未来が見えるの」
「なんだ、そんなことか」
「え?」なんで鏡は納得しているんだ? 今、とんでもないことを云ったような気がしたが。
 そんなことを思っている間に飛行機は離陸する。
(中略)
 雲の上に出ると、僕はうとうとし始めた。
「君は寝ないの?」と鏡が縁川に尋ねる。
「縁川央は眠らない」
「『僕もこの頃は不眠症だがね』」
「『僕も?――どうして君は『僕も』と言うのだ?』」
「『だって君も不眠症だって言うじゃないか? 不眠症は危険だぜ。……』」
「うふふ」縁川が笑う。「『「不眠症」のショウの発音を正確に出来ないのを感じ出した』?」
「その通りだ。いや、君は素晴らしいね。僕の家族はみんな狂っているけど、君も充分だ。まさか知り合いに鏡なんてやつはいないだろうな」
「あなたしか知らないわ」
「そうか。ところで、さっき未来がどうとか云っていたけど、君も未来が見えるんだね?」
「他にもいるの?」驚いた、と云うような縁川。
「僕の素敵な姉さんがね」
 未来が見える? それはある意味では不幸かもしれない。
「私は寝たら未来が見えてしまう。だから寝たくないの」
「本当に不眠症なんだな。それは辛いだろうね」
「そう云うものかな」
 ちょうどその時、なにか飲み物はいるかと客室乗務員がやってきたので、鏡と縁川はアップルジュースを、僕はグレープフルーツジュースを頼んだ。後ろの席の男もグレープフルーツジュースを頼んだ。
 後ろの席の男がそれを受け取るのとほぼ同時に、前方の席がざわつき始めた。
「どうしたんだろう?」
 僕の疑問に鏡が冗談で応える。
「毒でも入っていたんじゃないか?」
「おいおい」
 しばらく様子をうかがっていると、どうやら、グレープフルーツジュースを飲んだ乗客が、気分が悪いと訴えたそうだ。なんだそれだけか、と僕は思う。
「ほらやっぱり毒が入っていたんだ。君もそれを飲まない方がいい」と鏡が茶化す。
「え?」もう飲んでしまった。もっと早く云ってくれよ。
「だから、僕達と同じアップルジュースにすればよかったのに」
「え?」と戸惑う僕をよそに、縁川は笑っている。笑い事じゃない。
「大丈夫だよ」と後ろの男が言う。この男も退屈なんだろう。「グレープフルーツジュースはCYP3A4と云う有名な酵素を阻害する作用があるんだ。それで、薬の作用が強く出ちゃうことがある。薬をもらった時にそう云う注意を普通は受けているはずだけど、まあ、それを失念していたあの人の自業自得だな」
「そうなんですか」
「まあ、あの人がそのせいで気分が悪くなったのかどうかは知らないけど」
「え?」
「でも、毒が入っていたらもっと騒ぎになるはずだよ。あの人しか被害がないと云うことは、コップの方に毒が塗ってあったか、さっき云ったみたいに薬のせいか、ジュースは関係ないか」
「ですよね、よかった」僕はグレープフルーツジュースを飲む。おいしい。
「君も彼みたいに冷静に考えられるようになった方がいい」と鏡が云う。
 冷静ってなんだ。
「大きなお世話だ」
「文学的教養がないからそうなるんだよ」
「関係ないだろ」たぶん。
 僕は窓の外を眺める。しかし、文学的教養のない僕にはその景色を描写する言葉が見つからなかった。僕の最大限の皮肉。
 キング・クリムゾンの『Fallen Angel』と云う曲を聴きたいな、と思った。あの曲を聴きながら死にたいと思う日がある。なんであんなに美しいメロディラインを作れるんだろう? 人間の能力はどこまでもすごい。人間はあんなに美しい曲を作ることができるんだから、未来が見える少女がいてもなにも不思議はないのかもしれない。あいにく、僕にはそんな能力はどちらもない。グレープフルーツジュースの話だってもちろん知らなかった。もっと本を読めと云うことか。空港についたら本屋に行こう。
 視界の端で蝶が飛んでいる。

     2

 少し寝ていた。それが五分か十分かはわからないが、まだ空の上にいることは確かだ。
 ふと隣を見ると鏡がいない。
 縁川は本を読んでいる。
「鏡は?」
「トイレとか、と云ってどこかに行ったわ」
「そっか」
「ねえ、木村さん。訊いてもいいかしら?」
「うん、なんでもどうぞ」
「何しに行くんです? 北海道に」
「うん? ちょっと知り合いに会いに行くんだよ。そう云う君は?」
「私は、羊をめぐる冒険に」
「?」
 僕は未年生まれだった気もするけど、違うかもしれない。
「うふふ、ごめんなさい。今のは冗談。詳しくは言えないけど、ちょっと探しものをしているの」
「そうなんだ。見つかるといいね」
「見つかりそうな気がする……」と云う縁川の目には少し寂しげな光が。
「なぁ、未来が見えるってどんな感じなんだ?」
「気持ち悪いわよ」
「そうなの?」
「まわりがぼんやりしている夢の世界で、一部分だけはっきりしてるの。被写体――未来にだけピントが合ってて背景がボケてるみたいな。そうだな……『シンドラーのリスト』って映画観たことあります?」
 僕は少し頭を探る。
「……ああ、スピルバーグ」
「そう。あの映画の演出みたいに、モノクロの映像なんだけど、火とか、赤い服の少女とか、一部分だけが色がついてる。そんなイメージ」
「へえ」
「あ」縁川は僕越しに窓の外へ目を遣る。
「どうしたの」
「あれみて」
 僕も窓外へ目を遣る。そこは夜空だが虹が。
 縁川は身体をこちらへ乗り出してくる。
「きれい」
「うん。……不思議だね」
「素敵」
 夜空にも虹が架かるとは知らなかった。
 黒より藍に近い夜空に、白い月。観客は星々。夜空に架かる虹は淡く静かで幻想的。音速で移動する僕達は特等席を手に入れたが、人工の余計な光を撒き散らしてしまう。そして夜空は僕達の身勝手が切り裂く。そこにあるはずのなかった風は何を思うだろう。でも、もう少し人類が優しければ、この出会いもない。
「なんでこんなことになるんだろう……」
「月の光のせいじゃないかしら」
「ああ、そうか。でも虹が出るってことはそれだけ空気中に水分が多くないとダメだよね。ある程度の月の光もないとダメだし」
「しかもこの小さな窓から見つけたんだから、すごい偶然ね」
「そうだね」
 こんな美少女と一緒に見れたのもすごい偶然だ。鏡がいないのも……
「何してるの君たち」いた。
「おかえりなさい」縁川は自分の座席へ戻る。
「外に何かあるの?」
「虹を見てたんだよ」
「ふぅん」鏡は少し何かを考える素振りを見せ、「二人で?」
「そうだけど」
「光を分散させるプリズムってあるだろ?」
「それがどうしたの」
「あれって三角形だよね」ピンク・フロイドの『狂気』を思い出す。
「それで?」
「いや、虹を作るのには三つの頂点が必要なのかなって。いや、プリズムは三角柱か、六つの点が……」
 何を云っているのだこいつは。
「何が云いたいの?」縁川が同じ疑問を口にする。
「水滴によって、うまいこと光が散乱したら虹になるのか。でも水滴は概ね球だ」
 鏡はあたりを見回す。
「なるほど」
 なにがなるほどなのか。
「?」縁川も同じような感想らしい。
 鏡が席につく。
 そのとき、がたがたがたと機体が揺れる。乱気流にでも入ったか、子供の騒ぐ声。
「あ」鏡が声を出す。何かしら驚愕の表情。
「どうしたの」縁川が訊く。
「バミューダ・トライアングルって云うのはもちろん三角形だよね」
「そうだけど。べつにそんなところ飛んでないわ」
(中略)
「なあ、僕はさっきなんて云った?」
「は?」
「僕は、さっき、なんて云ったかを訊いているんだ。僕の科白を引用してくれ」
「『概念としての仮想三角形がつくるプリズムは何を分散させることができるのか。SF小説のタイトルみたいだ』」縁川が引用する。
「そうか」
 SF小説はそう云うタイトルの本があるのか? おそらくない。鏡の錯覚。
「覚えていないの?」
「覚えていない? ……そうかもしれない。『あるいは』」
「大丈夫?」
「眩暈がするんだ。時々。そして気がついたら時間が飛んでいる感覚がするんだよ。読書に集中していて気づいたら日が暮れてたなんてことがあるだろう? 特になにもないのにその感覚に陥るんだ。必要な部分だけを引用するために中略を挟んでいるようなとでも云えばいいのかな。引用病が高じて中略症状に陥っているんだ」鏡は自嘲気味に笑う。「べつにナルコレプシーとかではないよ。ちゃんと起きてる。読書に集中していたら周りで何かがあっても、余程じゃない限りあまり気にしないだろ。そんな感覚だよ。うまく説明できないな」
 スタンド攻撃でも受けているのか、とバカみたいなことを考える僕の頭。現実逃避で正気を保て。
「歯車が見えるわけではないのね」
「うん。まだ見えないよ」
「見えたらどうする?」
「わからない。芥川がそのせいで自殺したのかは知らないけど、僕もそうなるかもね。あるいは、歯車は彼にとっての死兆星のようなもので、僕の場合は何かもっと別のものかもしれない」
「未来が見えるよりいいわ。知りたくもないものばかり見てしまうもの」
 しかし、落ちていく鉄の塊の中では僕にそんな会話をする余裕などはなかった。

     11

 彼女はこの未来が見えていたのだろうか?
(中略)

     12

 僕は一種の催眠のようなものにかかっていたのではないかと時々思う。飛行機の中なのに、僕は度々蝶が舞うのを視界の端に目撃している。
 あるいはそれが僕にとっての歯車だったのかもしれない。何を暗示していたのかは知らないが。
 安易な思考をすると、あれが全て夢だと暗示していたと云う答えになる。
 蝶の羽のカラフルな模様や鱗粉に人は幻想的な、神秘的なものを感じ、世界各地で神話や霊的な存在としてしばしば扱われる。荘子の『胡蝶の夢』と云う有名な故事があるが、それもそのひとつだと僕は思う。蝶になる夢を見たから夢と現実の境界を疑ってしまった。蝶の幻想的な姿にそのような妄想を抱いてしまったのだと思う。蜂や蚊ならたぶんそんなことを思わなかった。
 詳しいことはフロイトに尋ねるとして、夢は自分の無意識の世界だと云う考え方があるが、もしそうだとして、僕には蝶に対する前述のイメージがあった。
 それともう一点。(そう)()は人の名だが、彼の書物は(そう)()だ。そうじ――つまり鏡創士に通じる。ただの音だが、音が頭のどこかで連想を導いた。ばかばかしくてどうかしているかもしれないが、僕の無意識下では鏡創士から蝶へと線が繋がっていて、つまりそれが、あれは無意識の連想の産物――夢だと云う思考の補強に繋がる。
 でも、もちろんあれが夢じゃないことは知っている。夢だと思いたいだけだ。
 だから催眠だと思うことにする。
 ゲームや漫画等でしばしば見受けられる蝶あるいは蛾(つまりそのような外観をしたもの)のイメージとして催眠がある。蝶のモンスターの鱗粉によって眠らされたり操られたりする。本当にそんなことがあるのかは知らないし、それも人類が持っている神話的イメージなのかもしれない。そんなことはユングに訊けばいい。
 ともかく、催眠だと思うことにより、僕は、僕が奇跡的に生きていることを自分に納得させようとしている。
 催眠の有名なものに、鉛筆を皮膚に当てただけなのに火傷したと云うのがある。まず、暗示をかけ、熱い鉄の棒を当てると被験者に思い込ませ、実際にはただの鉛筆を当てる。すると、火傷などしていないはずなのに、被験者の皮膚には水疱ができ赤く腫れる。実際にそんなことが起こるのか真偽の程はともかく、これは被験者の思い込みによってそう云う現象が起こっていると云う解釈が一般的だ。人間の思い込みと云うのは侮れない。精神状態によって体調が悪化したりするように人間はできている。気が滅入ってるとやられる。「病は気から」と云う言葉もある。それを拡張したのがこの催眠だと思う。
 ならば、逆に、熱くないと思い込めば、少しの熱なら火傷しないのではないだろうか……? 「心頭滅却すれば火もまた涼し」と云う言葉もある。そして、それを大袈裟に拡張すれば、死ぬと思った時に人は死ぬと云うことになる。キルケゴール的な意味ではなくて。
 つまり僕はそう――死なないと思い込まされていたから死ななかった。そう解釈し、思い込むことで、自分の生を納得している。
 どうしてそんな催眠にかかっていたか――。もちろん、それはグレープフルーツジュースだ。
 生存者の多くはグレープフルーツジュースを飲んでいたらしい。そして飲まなかった彼等は死んだ。
 そこに探偵小説的な因果関係を僕は求めない。彼女が死んだことに変わりはないのだから。
(中略)
 でもこれで彼女はもう不眠症に悩まされずにすむ。
 彼女の眠る森からはこの虹が見えるだろうか。

 *

 いくらかの推論は立つ。
 例えば縁川央が探していたのは死に場所で、飛行機が墜落する未来を見ていた。グレープフルーツジュースなどではなくて、彼女が催眠を仕掛けたのかもしれない。
 例えば鏡創士の病が伝染したのかもしれない。そのため中略症状に陥り、死の瞬間を中略し、死んだと知覚していないからそう思い込み死ななかった。歯車じゃなくて世界が(中略)で埋め尽くされたら人はどうなるだろう。
 例えば催眠の原因は夜空に架かる虹なら。グレープフルーツジュースにより阻害された酵素が何らかの薬や食べ物の代謝を阻害し効果や副作用が強く出てしまった。その状態で虹を見てそれが脳に僅かな刺激を与え催眠状態になった。芥川がもっていたとされる閃輝暗点のようなものを感じはしなかったか? 芥川には歯車に見えたかもしれないが蝶に見えなかったか? 目や脳が通常とは違う状態にあった可能性は否定できないのではないか。
 例えば、はじめから僕が狂っていたら。引用をする男など存在するのは奇妙だし、それに引用で受け答えする少女も奇妙。いきなり話しかけて知識をひけらかす男も奇妙。全部とは言わないけれど、幻聴や妄想が混じっていたのではないか。自分の生まれの干支も記憶に留めておけない人間だから、僕が正常とは言い切れない。
 例えば三角形が存在していたら。飛行機の左右の主翼と垂直尾翼のそれぞれの頂点が三角形を作る。それとも人間関係における三角形? 鏡の云うそれらの仮想三角形は至るところに存在する。それが何らかの作用をもたらすのかもしれない。フリーメイソンのシンボルや米一ドル紙幣の裏面で有名なプロビデンスの目、三角形に目を描くことで表される。三角形に何か力があると頭のどこかで思っているかもしれない。その無意識の力。
 例えば後ろの男が救ってくれただけかもしれない。瀕死の状態だったのを救命措置を取ってくれ助かった。彼女は間に合わなかった。そんなあっけない結末。超常現象でも幻覚でもなく事故のショックによる混乱。あるいは現実逃避。メディアはPTSDの四文字を氾濫させる。現実はどこ。
 思考の海でもがいて推理にすがりついても、生存の理由も墜落の原因もメタファーの断片たちの意味もわからない。

 どこかで誰かの笑う声がする。
 誰か? もちろん鏡創士だ、と思った? 残念、引用癖のある男は行方不明だし、夜空に架かる虹のような美しさをもった少女は死んだ。なら答えはひとつ。
 そう、縁川央だ。
 木村彰一君(ショウの発音を正確にできない)の小説では縁川央は死んだって? たしかにそうだが、縁川央と云うのは概念の名前なので、通行人Aみたいなものだ。あるいはリチャード・ロウみたいな。彼女が本当に縁川央と云う名前なのかもしれないし、木村彰一君が事故のショックで僕の名前と混同して正確に名前を覚えていないだけかもしれない。もしくは、小説にするにあたって本人や遺族に配慮して仮名を使ったと云うこともあるだろう。
 くだらない?
 そうかもしれない。なら僕は誰だ。後ろの男が縁川央かもしれないし、隣の女が縁川央かもしれない。
 縁川央のペンネームが木村彰一だったら?
 あるいは鏡創士のペンネームが縁川央だったら?
 そんな答えはどこにもない。筋を読んでそんなものを探してしまったら探偵になってしまう。縁川央は探偵の名前じゃない。誰かの名前。
 フェアであってもなくても不眠症の少女は死んだし僕が誰でも構わない。
 やれやれ。
 最後に、また引用をしよう。思い出の夢野久作から。
『この世はソンナ様な神秘めかした嘘言ばっかりでみちみちているんですよ。だから何もかもブチ壊してみたくなるのです。何もない空っぽの真実の世界に返してみたくなるのです』
 僕もそう思う。空っぽなのが真実なんだろう。
 目を閉じる。目蓋の裏で蝶が舞う。

 彼女の声が聴こえる。
『アンタ……それじゃ虚無主義者ね』

(了)

〈鏡家サーガ〉なんとか編(忘れた)。2作。

Aquaというのは坂本龍一の曲です。素敵です。
誰かの見た未来というのは誰かの見た悪夢(積木鏡介)からとってます。名作です。
 鏡創士のキャラはこんなんだったかもしれないと思って書いていたと思われます。ぜんぜん違うかもしれないけれど。
 木村彰一というのは、清涼院流水のあれです。
 縁川央云々というのは、小説のキャラクタの名前を考えるのがめんどくさいから、よくキャラクタの名前につかうという私の性質を知っていたら理解は深まるのかもしれない。

〈鏡家サーガ〉なんとか編(忘れた)。2作。

dNoVeLs閉鎖によりお引っ越し。少し改稿。 鏡家サーガトリビュートみたいなものです。最初に書いたのは2013年らしい。論外編らしい。

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  • ファンタジー
  • ミステリー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-11

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  1. Aqua
  2. 誰かの見た未来