あらぬ方
社員食堂は、ほぼ満席だった。野菜炒め定食の載ったトレイを受け取り、空席がないか見回していた千野は、思わずニヤリと笑った。千野がひそかに好意を寄せている、秘書課の鮎原美絵の前の席が空いていたのだ。千野は、「どっか空いてないかなあ」と聞こえよがしに呟きながら、彼女の前に移動した。
「ここ、空いてますか?」
一瞬、「え?」という表情になった鮎原だったが、すぐに笑顔を見せた。
「どうぞ」
「ありがとう。いやあ、今日は混んでますねえ」
せっかくのチャンスなのに、緊張のため何を話せばいいのかわからない。彼女の気に入るようなトピックはないかと千野が考え始めた、その時。
突然、鮎原があらぬ方を向いてしゃべり始めたのである。
「この男は千野光昭、三十四歳。ウダツの上がらないサラリーマンで、この歳になっても何の役職にも就いていません。社長秘書であるわたくし、鮎原に恋心を抱いているのですが、果たして彼の思いは届くのでしょうか」
一気にそれだけ言うと、鮎原は何事もなかったように食事を続けた。
鮎原がしゃべっている間、呆気にとられて聞いていた千野だったが、次の瞬間、カーッと恥ずかしさと怒りが入り混じって込み上げてきた。
「ちょ、ちょっと、どういうことだい。いくら何でも、今の言い方はヒドイじゃないか!」
再び、鮎原は「え?」という表情になった。
「わたくしが何か申しましたでしょうか?」
あまりに平然とした相手の態度に、それ以上言い返す気力が失せた。
「もう、いいよ!」
千野はトレイを持って席を立ち、振り返りもせずに隣の喫煙室に向かった。
ここに入るのは、タバコをやめて以来である。幸いまだ誰もいなかったので、座って野菜炒め定食を食べ始めた。怒りとタバコ臭さで、まるで味がしない。それでも持ち前の貧乏性で残すことができず、あらかた平らげてしまった。
早くここから出ようと腰を浮かせた時、喫煙室のドアが開き、「よう、千野」と声を掛けられた。
「お、山崎じゃないか。久しぶり」
入って来たのは、同期入社の山崎だった。営業で外回りが多い千野は、庶務の山崎とは顔を合わす機会が少ないのだ。
「ああ、本当に久しぶりだな。おまえ、タバコやめたんじゃ、あ、そうか。やっぱり、やめられなかったんだな」
山崎はうれしそうにニヤリと笑った。
「違う違う。たまたま食堂に座る場所がなくてさ。それより、ちょっと聞いてくれよ、山崎。実は」
ところが、千野が話しているのを完全に無視し、山崎もまた、あらぬ方を向いてしゃべり始めたのだ。
「さて、社長秘書の鮎原にフラれた千野は、同期のおれ、すなわち、山崎丈太郎に愚痴をこぼす。それがさらなる悲劇につながるとは、この時の千野は知る由もなかった」
暗記しているセリフのように淀みなくそう言うと、山崎は何もなかったようにタバコを吸い始めた。
最初、唖然とした顔で山崎を見ていた千野は、やがて苦笑し、「ははあ、そういうことか」とうなずいた。
「ドッキリだな。誰か仲間が隠れて撮影してるんだろう。飲み会の余興にでも使うのかい?」
だが、鮎原同様、山崎も何を言われているのかわからないようで、キョトンとしている。
「どうした、千野。あわててメシを食ったんで、腹でも痛むのか?」
何をしゃべったか自覚がないらしい様子に、千野は少し気味が悪くなってきた。
「あ、いや、別に何でもないよ」
怪訝な顔の山崎を残し、そそくさと喫煙室を出た。
千野が事務所に戻ると、すぐに課長の席に呼ばれた。
「この出張精算書は何だ!」
先日の出張で、みみっちく電車賃を水増しして請求したのがバレたらしかった。
「あれれー、ぼく計算を間違えちゃったみたいですね。すみませーん」
ところが、千野の見え透いた言い訳を苦々しい顔で聞いていた課長が、ふいに無表情になり、あらぬ方を向いたのである。
「この千野という部下は、毎回このようなつまらない誤魔化しをやる。本当にセコイ男である。その彼があんなことをするとは、わしには想像もできないことであった」
棒読みのようにそう言ってこちらに向き直ると、再び苦々しい顔に戻り、「今度こんなことをしたら承知しないぞ!」と叱責を続けた。
呆然と自分のデスクに戻った千野は、やがて何かを決意したようにうなずき、あらぬ方を向いた。
「さて、不可解な事態に陥ったウダツの上がらないサラリーマン、千野光昭。今後の運命やいかに。乞う、ご期待!」
だが、予想と違い、オフィスにいた全員が、こいつ何を言ってるんだという驚きのまなざしで千野を見たのである。
千野は情けない顔で、あらぬ方に向かって叫んだ。
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ!」
(おわり)
あらぬ方