とうりょう 下
松造は長いこと完全に意識を失っていたわけではなかった。
気がつくと一定の調子で身体が揺られていて、辻駕籠に乗せられてどこかへ運ばれているのが分かった。ただ、ものを考えたりすることがおそろしく億劫で、すぐに、夢を見ているのか、それとも目覚めているのか判然としない状態へと逆戻りしてしまった。
やがて駕籠から降ろされて、どこかの家の中に担ぎ込まれ、布団の上に寝かされたのが分かった。
──ようやっと家に帰ってきたんだ。
朦朧とした意識の中で、そう感じた。しかしささやかな安心感に包まれたのも束の間で、すぐにまた火事のただ中へと放り出されたように感じ、なんとかそこから抜け出そうともがき苦しんだ。
あとでチョロから聞いて分かったことだけれども、このとき彼はすでに高熱を出していて、さかんにうわごとを言ったり、布団のなかで頭を両手で抱えたり、胸元をかきむしったりしていたのだという。
けれども断片的には周囲の様子も見えたり聞こえたりしていた。チョロと、もう一人誰かに両側から抱えられて布団に寝かされたあと、すぐにおそよがやってきて、
「ちょっと、どうしたの、いったい」
と言ったのは、はっきりと耳にした。そしてそのあと、おろおろしているチョロに、おそよが水を汲みに行かせたり、湯を沸かす準備をしたりと、彼女一人がてきぱきと動き回っているのも、ぼんやりとではあるが気付いていた。
「寒い」と松造がしきりに口にするので、彼が高い熱を出していることにすぐに気付いたおそよは、どこからか厚手の掛け布団を抱えて持ってきて、すっぽりと身体を暖かくくるんでくれて、額には濡れ手拭いをのせて冷やしてくれた。
そうして松造が長屋へと運び込まれてから半刻ほどしたあたりで、ようやく様子も落ち着いてきて、彼は寝息を立てて眠るようになった。
ただこの間、彼は眠っていても目覚めていても、まるで子どもの頃の自分に戻ってしまったように感じていて、心細さや孤独感にずっと苛まれていた。佐兵衛店へやって来てから少しずつ身に付けていった、自信や気持ちの強さといったものを、きれいに剥ぎ取られてしまったかのようだった。
棟梁への報告もかねてチョロはすぐに茅町へと戻り、おそよがしばしば様子を見に来るほかは誰もいなくなって、松造は部屋の中で一人きりになった。さっきまでばたばたしていたのが噓のように周囲もしんと静かになり、彼は一刻ほど眠っては目覚め、また一刻ほど眠りに落ちる、というのを繰り返した。そして幾度めかで目覚めたとき、おそよが枕元にいて、松造の顔を上からのぞき込んで、「目が覚めた」と訊いてきた。もう夕刻なのだろう、部屋の中は薄暗かった。
「……ああ」
「何か食べたいものある」
そう尋ねられて、彼は眉間に皺を寄せ、「いや」と言って、かすかに頭を横に振った。
「何か食べたくなったらそう言って」
おそよの顔には目立った表情はなかったけれども、声は優しかった。
「……ずいぶんと静かだな」
「お昼から外は雪になったのよ」
「そうか」
と言って彼は目をつむり、再び眠りに落ちた。そうして翌日の昼近くまで眠り続けた。
目を覚ましてから最初に思ったのは、昨日おそよは雪が降ったと言っていたが、助次という紺屋の小屋は無事だっただろうか、ということだった。
布団の上で起き上がると、枕元には箱膳が置いてあり、粥と、大根などの香の物が入っていた。きっとおそよが用意してくれていたのだろう。ただすっかり冷めているようだったので食べる気にもならず、ちろりに入っていた湯冷ましだけを、湯飲みに淹れて飲んだ。部屋の中には火の気がなく、空気はすっかり冷えきっていた。尿意をもよおしたので、彼は綿入れや半纏などそこらにあるものを着かさねてから、大儀そうに立ち上がった。
歩いてみると、たった一日ばかり寝込んだだけなのに、急に足が萎えてしまったかのようにふらふらした。表の戸を開けて外へ出てみると、空はまだ曇り空だったものの、雪は心配したほどでもなく、屋根にうっすらと積もっている程度で、地面の雪はおおかた溶け、すっかりぬかるんでいた。
「……この程度の雪なら大丈夫だな」
そう呟いて、松造が下駄を履いて、屋根の軒から落ちる雨だれを避けながら長屋の奥の厠へと歩いてゆくと、孤児たちの家の中から男の子と女の子が一人ずつふいに外へ飛び出してきて、彼と出くわすとびっくりした顔をしてすぐに家の中へと戻ってしまった。
厠で用を足して表へ出ると、孤児たちの家の戸口にたあ坊がひとり立っていて、松造の顔を見つめて、「大丈夫かい、おじさん」と小さな声で言った。
彼が近づいていって右手を伸ばすと、たあ坊は殴られると思ったのか、怯えた表情ですっと頭を引っ込めた。彼はぎこちなく苦笑いをして、しゃがみ込んでたあ坊の顔を下からのぞき込んだ。そうして、その細い二の腕のあたりにそっと片手を触れて、「ぶちゃあしねえよ」と言った。
「心配してくれてありがとうよ」
ほかに言うこともないので、立ち上がって自分の家へ戻ろうとしたところへ、今度は向うからやってきたおそよと出くわした。
「しょうちゃん、もう歩いたりして大丈夫なの」
「なに、厠へ行っただけさ」
おそよは片手で鍋を抱えていた。「ちょうど良かったわ。これからお粥を温めてあげようと思っていたところなの」
彼女の屈託のない表情を目にして、彼は自らを恥じる様子で「済まねえな」と言って顔を背けた。
「なに言ってるのよ」
そう口にしたおそよの顔をあらためて見ると、もはや彼に対しては、なんのわだかまりも持っていないように見えた。彼は首をすくめてみせてから、「まだふらふらするんだ」と言った。
おそよは「顔が赤いから、まだ熱があるのよ」と言って、松造の額にいったん手を伸ばしかけてから、すっと引っ込めた。
「家へ戻りましょ。それに何か食べなきゃ」
それから、まだ戸口に立っていたたあ坊にふと視線を向けると、「たあ坊も家へ戻りなさい。おじさんなら大丈夫よ」と声をかけた。
部屋に戻って布団の上に座り込むと、たしかにまだ熱は下がり切っていないらしく、どっと疲労を感じ、身体の節々が痛いことにも気付いた。
おそよは火鉢に火を入れてから、箱膳に用意してあった粥を鍋に戻して温めなおしてくれた。松造は彼女のすることを眺めていて、まるで自分が少年の頃に戻ったように感じ、またおそよのことも少女の頃に戻ったみたいに感じていた。
膳をふたたび用意してくれたのを前にして、始めは食べられるかと思っていたものの、実際にはあまり食べることはできなかった。
「……済まねえ、どうやらもう食えそうもねえ」
半分以上を残して箸を置いた松造に、おそよは「無理しなくってもいいわよ、またあとで持ってきてあげるから」と言った。
急に照れくさくなった松造は、「おれのことは放っておいてくれていいんだぜ」とぶっきらぼうに言ったのに対し、おそよは膳を片付けながら、
「長屋の子の面倒を見るのは、あたりまえのことよ」
と素っ気ない口調で言った。それからふいに思い出したというふうに、「そうだ、正六さんがけさ訪ねてきたわ」と、大きな眼をこちらに向けた。
「しょうちゃんがぐっすり眠っていたから、あたし言伝を預かっているのよ」
「なんだい」
「昨日はあのあと雪になったから、仕事は打ち切りになったっていう事と、今日は現場には棟梁が来てくれることになったから、心配はしないでくれって言われたの」
「……そうか」
おそよは気遣わしげな視線を松造に向けて、「お父さんも言ってたけれど、しょうちゃん、火事のあとずっと働きづめだったから、きっと疲れが溜っていたのよ」と言った。
──そんなことじゃねえんだ。
と心の中で呟いて、彼はうつむいた。けれども思っていたことは口には出さずに、彼はしばらく黙ったあと、まったく別のことを口にした。
「おそよちゃん、正太のことは……」
「そのことは言わないで」
ぴしゃりとした口調でそう言われたので、彼はそのまま口をつぐんだ。
やがて立ち上がったおそよは、思い直したみたいに表情を変えて、「またあとで来るわね」と言って部屋を出て行った。
少し横になれば仕事に行けるか、などと彼は頭の片隅で考えていたものの、ふたたび布団に入ってうとうとすると、無理だということがすぐに分かった。夕方になってからはまた熱が上がってきたようで、暗くなってからおそよがまた粥などを用意してくれたものの、彼は「食べたくない」と言って断った。
眠りに落ちては目覚め、ということを幾度も繰り返すなかで、彼はそのたびごとに異なった夢を見た。夢は時間の配列もばらばらで、夢の中で彼は子どもに返ったり大人になったりした。まっ暗な部屋の中でふと目を覚ますと、辺りは気味が悪いほどしんとしており、彼はこの世にたった一人だけ取り残された者のように感じた。けれども紺屋町で気を失ってから、彼の中で続いてきた一連の現象は、やがて夜が明けるとともに終わりを告げて、朝になって正六が「あにい、起きてるかい」と言って訪ねてきたときには、松造はもう熱も下がり、すっきりとした気分に戻っていた。
「ああ、起きてるぜ」
そう答えた松造の顔を見て、正六は目を丸くし、ひゅっと短く口笛を吹いた。彼は部屋の中へと勝手に上がり込んできて、火鉢を前にして掻巻にくるまって座っている松造の前で、どっかとあぐらを組んだ。そして膝のあたりを両手でぴしゃりと叩きながら、
「おとといおれの目の前であにいが突然ぶっ倒れたときにゃあどうしようかと思ったが、どうやら元に戻ったみてえだ。安心したぜ」
そう言ってチョロは、松造のことを上から下まで眺めまわした。
「なにしろ突然のことだったから、助次の野郎もびっくりしてよう」
「おれをここへ運んでくれたのは、お前と助次だったのか」
「ああ」と頷いてから、正六は少し思い出すような表情を見せた。
「初めは若棟梁を戸板に載せて、二人で運ぼうと思ったんだ。けど、いざ戸板を借りてきて、あにいを載せてみたら、予想以上に重くって」
そう言って彼はくすくすと思い出し笑いをした。
「こりゃあ福井町まで運ぶ前に、こっちが先にくたばっちまうと思って、それで辻駕籠をつかまえに行ったんだ。なにしろ紺屋町から福井町まで人ひとりを戸板で運ぼうなんて考えたんだから、いま考えれば可笑しくて笑っちまわあ。こんなことは少し考えりゃあ分かりそうなもんだが、ああいう時は慌てちまって、まともに考えられなくなっちまうもんだな」
嬉しそうに勢いよくしゃべる正六に対して、松造は顔をしかめてみせた。
「お前が来るとうるさくっていけねえ。けどまぁ、お前にも助次にも世話になったようだな、礼を言うぜ」
実際のところ、もしも自分一人でいて突然に倒れたとしたら、はたしてここへ無事帰り着くことができたかどうかさえ怪しいのだから、チョロに対する感謝の気持ちは心からのものだった。それからふと思い出したというふうに、「気になっていたんだが、助次の仕事場の普請の話は、お前のほうから棟梁には話してみたのか」と彼は尋ねた。
「ああ……それとなく話してはみたんだけれど」と言って、チョロは首をかしげて頭を掻いた。
「どうやらおれが言ったんじゃあ駄目らしいから、あにいの口からも棟梁に言ってもらえねえだろうか」
正六の表情を見ていると、彼は自分の口利きさえあれば棟梁は首を縦に振ると単純に考えているらしく思われた。松造はため息をついて、「……やっぱりそうか」と言った。
「けど、簡単じゃねえぞ。今は材木はどれだけあったって足りねえが、売る側は値段を吊り上げる一方だ。そんななかで、こんな話はそうおいそれと受けられるようなもんじゃねえ。棟梁だって、きちんと採算が取れる仕事をこなしていかなけりゃあ、とてもやっていかれねえんだからな」
正六は「ほう」とでも言いたげな、少し驚いたような表情で話を聞いていたけれども、「あにいは熱を出して寝込んでいた間に、ずいぶんと賢くなったみてえだ」と、冗談めいた口調であいの手を入れた。そして、「材木の仕入れの話で思い出したが」と続けた。
「十軒店の普請が始まる直前に、あにいと、山正の下働きとの間で喧嘩があったてえのは本当の話かい」
「おれもよくは覚えてねえんだが……どうやら本当のことらしいな」
「らしいって、何も覚えていねえのかい」
「ああ」
するとチョロは、「あにいらしくもねえ」と呟きながら、眉根を寄せて少しばかり神妙な顔をした。そしてしばらく考えてから、声をひそめてこう言った。
「若棟梁が覚えていねえのは厄介だな……実は、山正の若旦那がこのことを意趣に思ってか、あれ以来工一には材木を卸さねえって言ってるらしいんだ」
そう聞いて松造はぽかんと口を開いた。
「そんな馬鹿げた話があるか。おれもあとから聞いたことだけれども、あの時はおれが一発殴られてすぐに伸びちまったって話だろう。そりゃあその前におれのほうも、酔いにまかせて山正の悪口を言ったりしたのかもしれねえが……そんなことの意趣返しに材木を卸さねえなんて、そんな乱暴な話があってたまるか」
顔を真っ赤にした松造を見て、「ちぇっ、冗談じゃねえ、か」と、チョロは彼の口調を真似て言った。
「てめえ」
「おっと、怒っちゃいけねえ」
そう言ってチョロは座ったままおどけた様子でさっと後じさりをした。「おれも清さんからちらっと話を聞いただけで、よくは知らねえんだ。だから、詳しくは棟梁に聞いてくんねえ」
「これが怒らずにいられるか」
眉間にしわを寄せて、なおも松造が言うのに対して、チョロは軽い口調で「そんなに怖い顔をすんなよ、あにい」と言った。
「言い忘れてたが、今日はお客を連れてきたんだ。だから、おれはこの辺でずらかるぜ。あにいが元気になったみてえで、おれも安心したよ」
そうしてチョロはさっさと立ち上がった。
「おい、ちょっと待て」
「今日は現場にゃあ清さんが来てくれるんだ。だからあにいは今日もゆっくり休んで構わねえって棟梁が言ってたぜ」
そう言ったことでもう自分の用は済んだとばかりに、チョロは身軽な様子で家を出て行った。そうしてその後を追うようにして松造も戸口まで出てゆくと、そこにはうつむいて立っているお勝の姿があった。
「あ」と松造が声を上げると、お勝も目を上げて、二人の視線が合った。
「ごめんなさいね、わたしどうにも心配で……昨日も来ようと思ったんですけど、まだ熱が下がってないようだからって言われて……」
見ると、お勝は鴇色の長襦袢と緋縮緬の下着の上に、黄八丈の振り袖を着て、きちんと化粧をしていた。また、差し入れでも持ってきたのであろうか、手には小さな風呂敷包みを下げていた。そして戸口に立ったまま、部屋の中にさっと視線を走らせた。
「あの、わたし、お邪魔だったでしょうか」
口を開いてぼうっとしていた松造は、「邪魔だなんて、とんでもねえ」と言ってあわててかぶりを振った。
お勝がここへ、この佐兵衛店の自分のもとへとやって来たことがこれまでにあっただろうか、と彼は考えた。いや、あるはずがない。これが初めてのことだ。彼は家の戸口で、お勝の姿を直視することができず、どぎまぎした様子で「散らかっていて申し訳ねえが、上がっておくんなせえ」と言った。そして先に立って部屋へ上がり、掻巻など身の回りにあったものを枕屏風の陰に押し込んだ。
火鉢のそばの箱膳には、今朝おそよが持ってきてくれた粥を彼が食べたあとや、額を冷やすのに使った手拭いや桶などもそのまま残されていて、松造が部屋の中を片付けているあいだに、お勝はちらりとそれらに目をやった。
「もう熱は下がったんですか」
彼の部屋には敷くものが何もないため、お勝は畳の上にぺたりと座って言った。
「ああ、いや、もう大丈夫です」
「そう、良かった……正六さんからは、すいぶん高い熱を出したって聞いたから」
「心配をかけて相済みません、今日これから棟梁のところへ挨拶に行こうとは思っていたんです。けどまさか、お勝さんが見舞いにくるなんて、思いも寄らなかったもんで……あの、うちには茶もねえんですが、せめて白湯でも出しましょう」
そう言ってそわそわと腰を浮かせた松造を、彼女は「いえ、どうぞ座ってらして下さい」と制止した。「わたしのことならお構いなく」
そしてお勝はうつむき加減でしばらく黙り込んだ。そんなお勝を見て、彼もどこを見てよいのか分からずに、自分の部屋で視線を泳がせた。そんな状態が続いたのち、まるで長いこと水中に潜っていた蛙が、呼吸のために水面に上がってきたみたいに、松造が「あの……」と言うのと同時に、お勝も同じ言葉を口にした。
「どうぞ」と松造が一揖すると、
「これは」と言って、お勝は持参した風呂敷を膝の上で解いた。
「ひょっとして松造さんが一昨日から何も食べられずにいるのかと思って、食べやすいものを持ってきたんです。けど……どうやら必要なかったみたいね」
そう言ってお勝は火鉢の脇にある箱膳をちらりと見た。
「ああ、これは」
と、松造はどもりながら言った。
「ここの大家の娘がおせっかいなやつで、要らねえっていうものを、せっせと粥なんか持ってくるもんだから、しょうがなしに食っていたんですが……」
「おそよさんっていうんでしょ」
お勝の口からおそよの名を聞き、彼は不思議なくらいに狼狽した。赤面しているのが自分でも分かり、「ええ、そうです」と言ってから二度ほど咳払いをした。
それからしばらく、沈黙が続いた。お勝は所在なげに風呂敷を膝の上でゆっくりと畳み始めた。松造はそんな彼女のほっそりとした指を見つめていた。話をするなら、いまではないのか。お勝と二人きりで話をする機会など、そうあるはずがないではないか。やがてお勝が風呂敷をたたみ終え、弁当箱の上に音を立てずにぽんと置いたのが合図であるかのように、彼は「あのう」と口を開いた。
お勝が目を上げて彼の顔を見つめると、松造は居住まいを正して座り直し、しんけんな表情で「ひとつ、聞いていただきたいことがあります」と言った。
「はい」
「この間、茅町で棟梁から、お前は大工仕事は速いが、それ以外のことがどうにものろま過ぎると言われました。ほら、お勝さんが茶を持ってきてくれた時のことですが、覚えておいでですか」
お勝は黙ったままうなずいた。松造は生唾を飲み込んで、また咳払いをした。
「お勝さんの気持ちを汲んでやれ、とも言われました。あっしは、もちろんずっとそのつもりでいました。お勝さんがこのことをどう思っているかは分からねえが、あっしはそのつもりでいたんです。ほんとうです」
彼は、「ほんとうです」と言いながら、お勝の目をじっと見た。そしてこれまでに、こんなふうに彼女の顔を見つめたことはなかった、と思った。お勝のほうも緊張した様子で話を聴いてくれていて、その美しい眼差しがこちらに向けられていることを意識すると、話を続ける勇気を挫かれてしまいそうだった。
──えいくそ、だらしがねえぞ。
彼は心の中で自分を罵って、怒ったような口調で続けた。
「あっしはここで」
そう言って、松造は軽く振り返ってみせた。
「この長屋で大きくなりましたが、子どもの頃からずっと、棟梁になりてえと思っていました。なぜそんなふうに思いつめたのかは分からねえ。ただ、とにかく工一で修行をしていれば、いつかはなれるもののように思い込んでいました。けど、このままじゃあ、どうやら自分が思っていたようなものにはなれそうもねえってことが、分かってきたんです」
お勝はすこし怪訝な顔をした。
「話が飛び飛びで申しわけねえが、去年の大火事のあと、おれはひょんなことから男の子を一人、ここでしばらく預かるようなことになりました。名を正太ってえますが、この正太から、あっしは言われたんです。──おじさん、おいらの家を元通りにしておくれよ、ってね。
込入った話はしませんが、その時あっしは正坊と約束をしたんです。きっとお前のもといた長屋が元に戻せるよう、請け負ってやるって。言うまでもねえが、おれは大工です。このくれえの約束が果たせねえはずがねえって、頭っからそう考えていました。
けど、その長屋の普請の話が出たときに、棟梁からは、採算の合わねえ仕事だから引き受けるわけにはいかねえって、そう言われました。おれは正坊との約束を果たしたいから、なんとかこの仕事をやらせてもらえねえかと頼みましたが、棟梁からはけっきょく断られました」
松造は膝の上で両手の拳をぐっと握りしめた。
「……きっと、棟梁の言うことが正しいんだと思います。棟梁はこう言いました。同じ採算の合わねえ仕事でも、請け負うに足る仕事と、そうでねえ仕事があるってね。それも分かります。棟梁の言いたいことは、痛いほどよく分かるんです。けどねえ」
そう言って彼は顔を上げ、お勝の目をじっと見た。「おれはなんとしても、正坊の願いを叶えてやりてえんでさ。今はもう、あいつもここを飛び出しちまった後だし、あいつのいた八百八店が元どおりになったところで、あいつを引き取ってくれる親も知り合いもいねえんです。それでもおれは約束を果たしてやりてえ。なぜかって……あいつの願いは、おれの小さい頃からの願いでもあるってことに気が付いたからなんです」
ここまで話して、彼は深く息をついた。まるでこれまで息をするのを、ずっと我慢してきたみたいだった。見ると、お勝は緊張した面持ちのままでいた。彼は、薄く白粉をはたいた彼女を白い額を見、そして少しだけ白い歯をのぞかせた口元を見た。紅を差した唇は、いまもなにか言いたげな表情をたたえていた。彼は急に気持ちが萎えそうになるのを感じ、ふたたび怒ったような表情になって話を続けた。
「……うまくは言えねえが、それを叶えてやれるのが、おれの思っていた棟梁なんです。おれはそういうものになりてえ。ずっとそう思っていたはずなのに、いつの間にかそのことが分からなくなっちまっていたみてえだ。
けれども、工一の棟梁というのは、そういうものではねえようです。あっしも、そのことをどうこう言うつもりはねえ。人にはそれぞれ、与えられた役割みてえなものがあるようですから、それを一所懸命に果たすほかねえと思うんです」
そう言いながら、彼の頭に浮かんだのは、おそよの顔だった。「ただ」と言いかけて、彼はどもった。
「ただ一つだけ確かなのは、あっしがもしこのまま茅町に婿入りをして、お勝さんと夫婦になったところで、どうも自分が望んでいたような棟梁にはなれそうもねえってことです」
するとお勝は眼を大きく見開いた。
「あっしは棟梁からこうも言われました。もしおめえが一人前の棟梁になりてえと思うんだったら、てめえでひとつひとつ掴んでいくよりしようがねえって。だから……」
お勝は終わりのほうはほとんど聴いていないようだった。彼女がとつぜんに身体を折り、くっくっと小さく声を立てて咽ぶようにしたので、松造は驚いて話すのを止めた。
彼女がそんなふうにしていたのはほんの短い時間だったけれども、彼にはずいぶん長く感じられた。彼はまるで首筋から冷水を浴びせられたような気持ちで、お勝の様子を見つめた。
やがて、咽びながらもお勝が何か言ったように聞こえたので、松造が「え」と聞き返すと、すこし間を置いてから彼女は顔を上げた。「わたしはどこにいるのかしら」と、小さな声で彼女は言ったようだった。いったいどういう意味で言ったのだろう。眼には一杯に涙がたまっていたけれども、口元はややへの字に曲がっていて、泣いているとも笑っているともつかない表情であり、それは彼がこれまで見たことのないようなものだった。
胸元に手を当ててしばらく嗚咽をこらえるようにしたのち、お勝は洟紙を出して目元を押さえてから、「ごめんなさいね、急に笑ったりして」と言った。
「わたしって、よっぽどぼんやりしてたみたいね」
そう言ってから、まるで自棄になった者のように、彼女はとつぜん、本当にはははと笑い出した。
「あなたの話の中には、わたしのことはちっとも出ては来ませんでしたね。あなた、それに気付きませんでしたか」
松造はまったく予想もしないことを問われて言葉に詰まった。
「松造さんが棟梁になるかならないか、それも工一の棟梁になるのかならないのか、今のあなたのお話に出てきたのは、そのことだけでした。ねえ、まだ気が付きませんか。あなたのお話の中には、わたしはどこにもいなかったのよ。きっと……」
そう言いかけて、お勝は彼の顔を訝しむような表情でじっと見つめた。
「きっと、あなたはわたしのことなんか、初めからなんとも思っていなかったんでしょう。そんなことにも気が付かずに、こんなにも長いこと過ごしてきたなんて、わたしは馬鹿な女だわ」
松造がなにか言いかけたのを、彼女は睨むような視線で制した。今は眼もいくぶん吊り上がっており、頬も紅潮していて、かっとなっているのがはた目にも分かった。ふだんおっとりした印象の彼女のこんな表情は、彼はついぞ見た記憶はなかった。
「その男の子との約束とかなんとか……そんなまどろっこしいことを言わないで、いっそはっきりと言っていただいたほうがすっきりするわ。松造さんにはこちらでの暮らしがあって、それにもう、おかみさんのようなかたまでいらっしゃるんだから、わたしなんかそもそも必要じゃないのよ」
「いや、そんな、とんでもねえことを」
「いいえ、わたしには分かります。松造さん、あなたは、最初からそのおそよさんというかたのことが好きなんです。それに、おそよさんだって、きっと同じお気持ちですわ」
話がとんでもない方へ逸れてしまったので、彼は慌てた。
「そんな乱暴な話をされちゃあ困りますぜ、お勝さん、だいたいあなたはおそよと会ったこともないでしょう」
「たとえ会ったことがなくったって、女には分かるんです。そこにあるものを見れば」
そう言った彼女の視線の先には、箱膳や桶、女物の絞りの手拭いなどがあった。
「これは……」
とどもりながらも、頭の中では、そういえば自分が礼を言ったとき、おそよは何か言っていたな、と彼は考えていた。あいつはなんて言ってたろう。……そうだ、あいつは「長屋の子の面倒を見るのはあたりまえよ」とかなんとか言っていた。そうか、長屋の子の面倒を見るのはあたりまえ、か。
すると、お勝はすでに腰を上げていた。
「わたし、もう帰ります。でもその前にひとことだけ言わせて下さい。わたしは、松造さんから、たった一つの言葉だけを待っていました。小さい頃から、ずっとです。でもあなたは、結局それを言ってくれませんでしたわ。こんなこと言いたくありませんけれど、あなたは……いっそ男らしくないおかたです」
そう言うと、お勝はくるりと背中を向けて家を出て行った。彼女の後ろ姿を見つめながら、彼は追いかけなければいけない、と思ったけれども、なぜだか立ち上がることができなかった。そうしてしばらくの間、彼はそのままの場所で、畳の上のある一点を見つめながら座っていた。本来彼が伝えようと思っていたことからは主旨が逸れ、ずいぶんと話がこぐらがってしまったため、いま何をすればよいのかが、さっぱり分からなくなってしまった。
彼女は「たった一つの言葉を」と言っていた。これまで彼はお勝のことをとらえどころのない存在として見てきたけれども、今日の彼女は生身の女として、ともかくも自分に心の内を話してくれたのである。その言葉が意味するところは、自分がどんなにぼんやりとした男であっても理解できる。
松造は見つめていたもの、畳の上に置き去りにされた風呂敷と弁当箱を手に取って、ふたを開けてみた。中には、お勝がみずから作ってくれたのだろう、巻寿司を食べやすく切ったものや、蕗を煮たもの、卵焼きなどがきれいに収まっていた。彼は、彼女がこれを作ってくれているところを想像して、どうにも切ない気持ちになった。
彼女にどのような言葉をかければよいのかは分からない。しかしこのまま帰してしまっていいはずがないだろう。そう思い、松造はにわかに立ち上がって戸を開けて表へ出た。するとそこには、あさ彼のもとへ来たときと同じ前掛け姿で、鍋を両手で抱えたおそよの姿があった。
二人は一瞬だけ目を合わせたのち、ばつが悪そうに足もとへと視線を落とした。しかしすぐにおそよの方が顔を上げて、
「しょうちゃん、あんた馬鹿よ」
と言った。
「馬鹿よ……あんた、こんなに小さかった頃から言ってたじゃないの、おいらはいつかきっと棟梁になるんだって。それを忘れたの」
松造はおそよのすがるような視線を受けて、しばしたじろいだ。なぜここにお勝ではなく、おそよがいるのか、まずそれが飲み込めない様子だった。おそよは彼の戸惑った表情を見て、ふと我に返ったように目を伏せて、「……ごめんなさいね、あたし、立ち聞きするつもりなんてなかったのよ」と小さな声で言った。しかしすぐにふたたび目を上げ、「でもね」と言葉を続けた。
「いま工一を飛び出したら、これまで一生懸命やってきたことが、みんなふいになっちまうのよ。それでもいいの。そりゃあたしも、正坊がここを飛び出したあとは、しょうちゃんに対して腹を立てたわ。でも正坊との約束のことで……こう言ってはなんだけれど、たかが子どもとの約束を意固地になって守るために、棟梁になるのをあきらめるだなんて、そんなの絶対に駄目よ」
「ちょっと待ってくれ」
そう言って、松造は長屋の木戸の方へちらりと目をやった。
「おめえがどこから話を聞いていたのか知らねえが、おれはべつに棟梁になるのをあきらめたとか、そんなことは言っちゃいねえんだ。ただ、ものごとには順序ってもんがある。おれにとっちゃあ、まずは正坊のもといた八百八店の裏長屋を建て直すところから始めねえと、てめえの中で筋が通らねえんだ。ここできちんと筋を通しておかねえと、おれは名ばかりの棟梁にしかなれねえ。そのことが分かっているから、さっきお勝さんに話をしたんだ」
「だからって、お勝さんと夫婦になることもあきらめる必要はないでしょ」
そう言われて、彼はわれ知らずかっとなって、「うるせえ、そんなことはおめえの知ったことじゃねえ」と怒鳴りつけた。
おそよは傷つけられた表情で口をつぐみ、「そうね……あたしの知ったことじゃないわよね」と呟いてうつむいた。
松造はおそよの化粧っ気のない額の辺りを見て、口の中で「ちぇっ」と小さく舌打ちをしてから、さもいまいましそうに頭を振った。「まただ」と彼は心のなかで言った。おれは幾度同じことを繰り返せば気が済むというのだろう。そうして彼は気を逸らすように辺りに目をやった。
今日は朝からきれいに晴れていて、おととい降った雪の跡はもうほとんどなかった。ただわずかに路地のところどころがぬかるんでいて、そのぬかるみには、子どものものらしき足跡がいくつも重なって残っていた。その足跡を目で追っていくと、孤児たちの家の戸口には幾人もの子どもたちの姿があって、みな黙ってこちらを凝視しているのが見えた。
おそよはさっき、きっと偶然にここを通りかかって足を止めたのに違いない。鍋を手にしているのを見ると、孤児たちの家から自分の家に戻るところだったのだろう。彼女はもう三月もの間、彼らの姉や母親の役割をして過ごしてきた。それは誰から頼まれたのでもない、おそよみずからが、自分の役割をこうと定めて行動してきたのである。このことは彼の目から見ても、とても清々しく、そして潔い姿だった。
──それなのにこのおれはなんだ、と松造は思った。お前はいつでも些細なことにすぐにかっとなって、怒鳴ってばかりじゃあないか。
彼は目の前のおそよに対して、また路地の向うからの子どもたちの視線を感じて、自らを恥じた。
「すまねえ……いい過ぎたようだ。勘弁してくれ」
「あたしに謝る必要なんてないわよ。しょうちゃんが謝らなきゃいけない相手は、別にいるわ」
そう言われて、彼はふたたび長屋の木戸に目をやった。お勝はきっと、もう茅町へ戻ってしまっただろう、と思った。そしてふと気付くと、いつの間にかたあ坊が目の前にやってきていて、おそよの袖を引いていた。
「ねえ、みぃちゃんが呼んでるよ」
おそよは「すぐ行くわね」と言って、たあ坊の手を取ってその場を去ろうとした。その様子を見て、松造は「ちょっと待ってくれ、おそよちゃん。話したいことがある」と言って彼女を呼び止めた。
「なに」
「すぐに済むから、中に入ってくれないか」
おそよはしばし彼の表情を計るように見つめた。そして素っ気ない口調で「いいわよ」と答え、「たあ坊は家に戻っていてね。おみよにはあとで行くって言っておいてちょうだい」と言った。たあ坊は何も言わずに、素直に皆のもとへと駆けて戻っていった。
松造が先に立って部屋へ上がり、さっきお勝が座っていたところにおそよを座らせると、彼は一度ふかく息を吸って、すこし気を静めてから、「さっきも言ったが、おれはべつに棟梁になるのをあきらめるとか、そんなことは言っちゃいねえんだぜ」と言った。
「おれには大工仕事以外のことなんかできゃしねえんだし、それに、まだまだ学ばなけりゃあいけねえことが山ほどもあるんだ」
「だったらそれを工一で続ければいいじゃないの。あたししょうちゃんに話したでしょ、正坊は、八百八店に戻ったところで、帰る家も迎えてくれる人もいないのよ。そんなところの普請にこだわる理由が分からないわ」
松造はそう話すおそよの口もとと、一途な眼差しを見て、──これは駄目だ、これではいつまで話しても堂々巡りだ、と思った。彼はふと気付いたとでもいったふうに「寒いな」と言い、ふたたび立ち上がった。そして台所から炭を取ってきて火鉢にくべて、消えそうになっていた火の具合を火箸で直した。
おそよは彼のすることを黙って見ていたけれども、彼が口をつぐんだまま、いつまでもじっと火鉢を見つめているので、やがて何か言いたそうに口を開きかけた。するとまるでそれを見ていたかのように、おもむろに松造が顔を上げて、「おれの実の父親は紺屋だった」と言った。
「え」
おそよは眼を大きく見開いて松造を見つめ、彼はそんなおそよに向かって、「そうなんだ」と言って小さくうなずいてみせた。
「……思い出したっていうことなの」
「いや」と言って彼はかぶりを振った。
「もちろん全部は思い出しゃしねえ。ただきっかけはあったんだ。この間おれがぶっ倒れてここへ担ぎ込まれた日に、おれはチョロの幼なじみとかいう人のところへ連れていかれたが、その助次という名の人の商売が、たまたま紺屋だった」
「あのとき正六さんと一緒に来た人のことね」
「そうだ。おれはあの日、暗い仕事場の中で助次の丸い背中を見ていて、まるで別の人の後ろ姿を見ているような、妙な気分になったんだ。……今なら分かるが、きっかけはあの藍の匂いだったのに違えねえ。あの少しすえたような、独特な土臭いような匂いを嗅いで、それから真っ黒に染まった助次の二の腕を見ているうちに、おれは親父の後ろ姿を思い出したんだ」
「……で、どんな人だったの」
すると松造はため息をついて下を向いた。
「それが残念なことに顔までは思い出せねえ。おれが思い出したのは親父の後ろ姿だけだ。……それに、未だにおふくろのこととなると、なんにも思い出せねえ。きっと、こっちのほうが思い出すのが辛えんだろうな。けど、親父のことは間違いねえ。なにしろ親父の仕事場でもあった、おれが育った家のことを、それこそ間取りや雰囲気から、匂いまでも思い出したんだからな」
すると彼の脳裏には、藍染めの着物にたすき掛けをし、両腕を真っ黒に染めて、藍の甕に向かってしゃがみ込んでいる父親の姿がありありと浮かんだ。そして彼に向かってくるりと振り向いて、「仕事場へ入ってくるんじゃねえ」と言うのが聞こえたような気がした。しかし不思議なことに、そこまで思い出しているのにも関わらず、顔だけは今でも思い出すことができないのであった。
「それまではずっと、なんにも思い出せなかったんでしょ」
そう問うたおそよの声で、彼は現実に引き戻された。
「ああ、そうだ」と言って、彼はめまいでもするみたいに軽く頭を振った。
「ちょうど、正坊を預かったあたりから……いや、違うな、十月の火事があったあたりから、時々妙な気分になるようになって、それでだんだんと思い出していったんだ。でも、はっきりと色々な光景を思い出したのは、おれがここへ担ぎ込まれた、あの日のことだ。
おれも初めは、夢に見た光景を、本当にただの夢だとばかり思っていたんだ。なにしろ、これまで一度も見たことがねえはずの光景を、起きたり夢を見たりするたんびに、次から次へと見せられたんだから」
「あなた、ずっとうなされたり、うわごとを言ったりしてたわよ」
そう言われて松造は、熱を出して寝ていたとき、「目が覚めた」と言ってこちらをのぞき込んだおそよの顔を思い出した。そうしてさらに、熱のために頭はぼうっとしていたけれども、おそよの顔を見て、なぜか安心して眠りについたことも思い出した。
なぜなのだろう。そう考えると、こうしたことは今度が初めてではなかったのだということに、すぐに気が付いた。自分がまだとても小さかった頃、おそらくはこの長屋へやってきてまだ間もない頃に、やはりおそよが枕元に座って、自分の顔をのぞき込んできたことがあったように感じた。
すると不思議なことに、いま目の前に座ってこちらを見ているおそよの顔は、七八歳の少女の頃のおそよの顔と重なって見えた。
「そうか」と呟いて、彼は嘆息した。
「……きっと、これで二度目か三度目だったんだな」
おそよは怪訝な顔で「なにが」と問うた。
「おめえに看病してもらったことがさ」
そう言われても、おそよはまだぴんとこない様子でいた。けれども幼かった頃のおそよを思い出したことが呼び水になったように、これまでばらばらであった夢の、というよりも過去の記憶が、あるまとまりを持って繋がってゆくのを松造は感じていた。
「ああ」と彼は首を垂れて小さくうめいた。
あの日、彼は独りで逃げてきたのではなかった。そのことをふいに思い出したのである。
誰かは分からないけれども、自分の手を取って、いっしょに逃げてくれた人が傍らにいたのだ。あれは誰だったのだろう。その誰かと一緒に走って、そして川べりまで辿り着いたのだ。
彼は下を向いたまま、目を閉じて、掴みかけた記憶の糸口を必死でたぐり寄せようとした。
あの川は大川だったのに違いない。広々とした水面には、火から逃れようとする人々が大小様々な舟を漕ぎ出していた。猪牙舟や屋根舟、荷足り舟など多くの舟が川の上を右往左往していた。そして振り返ると、空はどす黒い煙に覆われていて、火の粉がいたる所でぱちぱちと音を立てながら、風に舞って渦を巻いていた。
「ここからは、お前ひとりで逃げておくれ」
かたわらにいた誰がが、しゃがんで自分の顔を見て、こう言っていた。「とにかく川上に向かって逃げるんだよ、いいね」そうして手近にあった桶か何かで、川の水を汲んできて二人の頭の上からざぶりとかけて、そのあと自分の身体をぎゅっと抱いたのを思い出した。あれがおっかさんだったのだろうか。しかしここまで思い出しているのにも関わらず、その顔を思い出そうとすると気が散って思い出せないのであった。
なんとか思い出すことができたのは、そのあと彼女が自分を置いて、あちこちで火の手の上がっている町並みの中へと走り去ってゆくのを見たことと、独りぼっちになったことで、どうしようもなく心細くなったことだった。
その後、どうやってこの福井町まで逃げてきたのかは、まったく覚えていなかった。おぼろげに思い出せるのは、橋の上(おそらくは両国橋だろう)が人で溢れかえっていたこと、また橋の上からや川端から、人が川の中へどぶん、どぶんと飛び込むのを見たことだった。しかし飛び込んだ人々の多くは、水面を埋めるように浮かんでいる舟へと取り付こうとすると、すでに人で一杯になっている舟の上から、櫓や竿などで小突かれて舟の上に乗ることはできず、やがて水の中へと沈んでしまうのであった。
「おっかさん、こわいよう」という声を、彼は自分の頭の中で聞いた。
その後の記憶はなかった。どこをどうやって逃げたのか、どの橋を渡って神田川を渡ったのか、また逃げているあいだ、ずっと独りぼっちだったのか。まったく思い出すことはできなかった。その次に覚えているのは、朝になっておそよと出会って話しかけられたことだった。
「ねえ、しょうちゃん、大丈夫」
「……ああ」と呻くように答えて、松造はようやく顔を上げた。これ以上はもう何も思い出すことができないようだった。彼は一度深く嘆息してから、気を変えたようにして、こうおそよに問うた。
「おそよちゃん、おめえは二十年前の火事のことを覚えているかい」
「ええ」
そう言っておそよは彼の目をじっと見た。
「あの時はたしか、一晩中燃え続けたんだったわね」
おそよの口調はまるで、その時の光景をそっくりどこかから取り出してきて、松造の目の前にぽん、と置いてみせたようだった。
「とにかく、午過ぎから半鐘がじゃんじゃん鳴ったのをよく覚えているわ。なにしろあんなに続けざまに打つのは、聞いたこともなかったから。それから外の様子を見に行ったあとに、お父さんが米蔵を閉めに行って。
あたしの家では、お父さんとお母さんが一晩じゅう寝ずの番をして、あたしはおばあさんに抱かれて夜を過ごしたのよ。あたし、その晩に祖母が作ってくれた塩むすびの味を、今でも覚えているわ。
そうして朝になってから、火事もようやく収まってきたようだからって、番頭さんが浅草橋の方へ様子を見に行って、真っ青な顔をして帰ってきたのよ。それからお母さんや長屋の女たちが総出になって、焼け出された人たちに配るために、大慌てでお米を炊いておにぎりを作っていたわ。大きな飯台にいっぱいのおにぎりを、幾つもよ。お昼になったら、裏の井戸場の辺りが、焼け出された人たちで一杯になったわ。
……そういえば、しょうちゃんを見つけたのは、さらにその翌朝になってからのことだったわね。あなたは、それまでどこでどう過ごしていたのかしら」
「ちょっと待ってくれ。おれを見つけたのは、火事の翌朝じゃあなかったのか」
「そうよ、あんたはその日のことは覚えてないの」
「ああ、覚えちゃあいねえな」
そう答えて、松造は頭をひねった。これまで彼は、自分がここへやって来たのは、火事の翌朝のことだったとばかり思っていたのである。だから、丸一日の空白があることを知って少し驚いた。しかし何も覚えていないので、このことをこれ以上は何も考えようがなかった。
「あんた、真っ黒だったわよ。どこをどうして逃げてきたのか、着物だってあちこち焦げてたり、破れていたりして。覚えてなんかいないでしょ」
「ああ」
「正坊がここへ来たときと、たいして変わりゃしなかったのよ」
そう言っておそよは彼に向かってかすかに微笑んだ。
松造はそんなおそよを見ていて、心の中では「ここにいちばん大事なものがある」と感じていた。言葉では誰にもうまく説明できないが、自分が幼い頃からそう思い続けてきた何かが、今のおそよとの会話の中に隠れているように思った。
彼は何かを思い出したというふうに、ふと真顔になり、「そうだ」と言って立ち上がった。そして正太に使わせていた行李を棚から下ろすと、中から正太が作った模型を取り出した。それは、いったんは壊れてしまっていたものを、彼自身の手できれいに元どおりに直してあった。
「こいつを見てくれないか、これはな、正坊がここにいた時に、あいつが自分の住んでいた家を、自分の手で再現したものなんだ」
そうして彼はおそよに模型の屋根を外して中を見せてやり、おそよが「これを、正坊が」と感嘆の声を上げるのを見て、われ知らず満足そうな表情を見せた。
「以前に正太はおれにこう言ったことがある。おじさんは大工なんだろ、だったら、もしおじさんが棟梁になったら、おいらのかわりに、おいらの家を元に戻しておくれよ、ってな。おれもここへ引き取られて、源蔵親父と一緒にここへ住み始めた頃には、おんなじように思っていたに違えねえんだ。だから、おれにはあいつが言っていたことの意味が分かるような気がするのさ」
松造はここまで言って、いったん言葉を切った。外からはときおり子どもらの声が聞こえてくるくらいで、辺りは静かだった。彼の脳裏には、ごみ捨て場の中に打ち捨てられていた正太の模型が西日を浴びているのが、ふと浮かんでは消えた。
「思うんだが、きっとあいつが元に戻してほしいと言っていたのは、何も八百八店の長屋の建物のことなんかじゃねえ。あいつがおっかさんや、それにひょっとするとおとっつぁんと一緒に暮らしていた、そんな幸せだった頃に戻してほしいと……きっとそういう意味で言っていたに違えねえと思うんだ」
「だったらなおさら、その長屋の普請にこだわることはないじゃないの」
そんなおそよの問いに対して、彼は表情を変えずに首を振って、「違うんだ、おそよちゃん」と言った。
「だからこそ、おれはあいつとの約束を破るわけにはいかねえんだ」
おそよは松造の眼をじっと見つめた。彼の口調には、普段よりもはるかに力があった。彼女には彼の言葉の意味するところはよく分からなかったけれども、その口調と表情とに、何かを感じ取ったようだった。
おそよは急に少しばかりはにかんだ表情になって、「分かったわ、じゃあもうよけいな口は挟まないけれど……でももう一つだけ言わせてちょうだい」と言った。
そうして彼女は、火鉢の脇に置かれたままになっていた弁当箱にちらりと目を遣った。
「さっきお勝さんがここを出て行くときに、あたしと目が合ったのよ。初めて会ったっていうのに、あたしすごい目で睨まれちゃった。でも無理もないと思うの。
ねえ、しょうちゃん、お勝さんがどんな思いでそのお弁当を作ってきてくれたと思う。あんたには分からないかも知れないけれど、女のあたしにはそれが痛いほどよく分かるわ」
おそよはそこで少し言いよどんでから、こう続けた。
「あんたはお勝さんのその気持ちに、応えてあげなきゃ駄目よ。どんなに考えてみたって、しょうちゃんとお勝さんが夫婦になるっていうのが、いちばん自然な成り行きだもの。それなのに、あたしのことを誤解したことがきっかけで話が壊れてしまうなんて、そんなことになったら、誰にとっても悔いが残ることになると思うわ。
だから、あたし、茅町へ行って、お勝さんに説明してくる。あなたは誤解をしてますって」
そうしてそそくさと腰を浮かしかけたおそよを、彼がずっと見つめたままでいたので、彼女はどぎまぎした様子で松造から眩しそうに目を逸らした。「なによ」とでも言いたそうな表情だった。
そんなおそよに松造は、微笑みながら軽く頭を振ってみせ、「それも余計なことだ」と言った。いま見るおそよの顔は、さきほど思い出した、彼がここへ来たばかりの頃の少女時代のおそよの顔でもあり、二十歳前の娘盛りの頃の顔でもあり、いま現在の顔でもあった。
「おめえはちっとも変わっていねえな。けどたぶん、おれも同じなんだろう。変わったような気になっていたが、実際にはここへ来た頃と、ちっとも変わっちゃいねえんだろうよ。そのことが、今になってよく分かったぜ」
彼はこうしておそよと話したあと、これからどうすればいいのかを迷う必要はないと感じていた。
「悪いけど、おれはこれから出かけなくちゃならねえんだ。茅町へ行かなけりゃあならねえのは、おそよちゃん、おめえじゃねえ。おれのほうだ」
おそよはもう何も言わなかった。彼女の中でも、何かの変化が起こったようだった。おそよは「分かったわ」と小さな声で答え、そっと目を伏せて彼の家を出て行った。
「それで、話てえのをうかがいましょうか」
と、始めのうち安吉は柔和な顔で松造を見ていた。
しかし松造の話が先に進むにつれて、次第に渋い表情へと変わってゆき、やがて彼の話が終わる頃になると、腕組みをしながら口を尖らせて、「そいつは難しいな」と言った。
「駄目でしょうか」
「駄目とは言わねえが……とにかくわたしの一存で決められることじゃあねえ。茅町の棟梁へきちんと筋を通さねえうちは、わたしの口からは何も言うわけにはいかないね」
そうして安吉はじろりと松造を見た。
安吉は小柄なうえに、普段はにこにこと笑っていることが多い人物なのだが、この時の彼の眼つきには迫力があり、松造は目の前に座った安吉棟梁の姿がにわかに大きく感じられて、思わず眼を逸らして畳へと視線を落とした。
松造が安吉に話をするためにやってきた堀川町は、その名のとおり、四方を仙台堀などの掘割と、大川とに囲まれた狭い土地の中にある。ここは木場からも近くて河岸もあり、また冨ヶ岡八幡宮や深川の花街から近いせいもあって、気っ風のいい土地柄だった。その中にあって安吉は、いかにも深川の大工らしい気質の棟梁だと、あらためて松造は感じた。
「わたしは茅町の一之助という人を、それなりには知っているつもりだ。もちろん同業者だからということもあるが」と、安吉は言葉を続けた。
「先代はとても腕のいい棟梁だった。わたしの父親と、茅町の先代は、同じ棟梁のもとで修行をしたこともあるそうだ。一之助という人は、その先代の名に恥じぬようにと、文字どおり、一所懸命に修行を積んで、今のようになったお人だよ。
だがわたしは違う。およそ一つところに落ち着くということができなかった。それでふらふらしているうちに、年ばかり食ってしまって、ようやく家を建てるということが少しは分かるようになってきたと思ったら、このとおり、じじいになってしまっていたというわけだ」
安吉はふと松造の手元に目をやり、「ときに、おまえさんは煙草はやるかい」と訊いてきた。松造が「いや、やりません」と答えると、「そうかい、そりゃいい。わたしも昔はやったが、大工はたばこなんざやらねえほうがいいな」と言った。
「酒もあんまり飲まねえようだね」
続けざまにそれまでの話と直接関係のないことを訊かれたので、松造が「はい」と答えつつも怪訝な顔をしていると、
「飲みなれてもいねえ酒を飲んでおだを上げて、木場の若い衆とけんかになったそうじゃないか」と、安吉はにやにやしながら言った。
思わず松造が首をすくめると、安吉は「お前さんは、まだまだ自分のことが分かっちゃいねえようだ。だからこそ、わたしのところになんかやって来たんだろうがね」と、彼の目をじっと見つめながら言った。
「けど、茅町の棟梁は、おまえさんのことをよく分かっているようだ。おそらくは、初めに会った時に、もう見抜いていたんだろうね。そうして、お前さんの将来を見込んで、またおまえさんの気質もよくわきまえた上で、今まで育ててきたというわけだ。まるで我が子のようにね。
それをわたしが、とんびが油揚をさらうみたいに、茅町からおまえさんを引っこ抜くなんて、そんなことができるわけがないじゃないか。そうは思わないかい」
そう言って安吉はいったん言葉を切った。そうして、松造が返答に窮しているのを見たうえで、「今日、茅町でどんなことを言われたか、よく思い出してごらん」と言った。
今日、おそよを帰したあと、午過ぎに松造は着替えをして茅町へ行ってきたのであった。格好はいつも仕事へ行くときと同じで、股引を穿き、腹掛けの上から着た仕事着は尻端折りをし、その上から襟に工一と入った半纏をはおっていた。いつもと違うのは、大工道具の入った道具箱を右肩に担いではおらず、その代わりに、お勝に返すつもりの空の弁当箱を手にしていることくらいだった。
おそよと話したことで、彼はとてもさばさばした心持ちになっていた。これから棟梁に話すことによって、たとえどんなことになろうとも構いはしないという気持ちでいた。
茅町に着くと、一之助はまるで松造が来るのを待っていたと言わんばかりの様子で、十畳の部屋で火鉢を前に座っていた。そうして松造が前に座ると、身体の具合はもういいのか、と彼のことを労ったあと、「何かおれに話すことがあるんだろう」と、上目遣いに松造を見つめながら言った。
「おめえの顔にそう書いてあるぜ」
「はい」
松造はまず、山正のことを尋ねた。すると一之助は、たしかに山正は材木の卸を渋っているがと言い、「けれどもそれは山正に限ったことではない」とも言い添えた。
「……あっしが木場の職人なんぞとけんかになったせいだと聞きましたが」
そう松造が遠慮がちに尋ねると、「おれは理由は知らねえよ、おれは山正の若旦那でも大旦那でもねえんだから。でもそんなことは気にするな」と一之助が事も無げな様子で言ったので、彼はだいぶ救われる思いがした。
「しかし、あっしが山正につまらねえ言いがかりをつけたことが、そもそものけんかの原因だったことは間違いないようです。それからそのあとに、この忙しいなか幾日も仕事を休んだりして、とんだご迷惑をおかけしました」
そう言って彼は低頭した。
「なに、いいってことよ」
一之助は火鉢の上に手をかざして、揉み手をしていた。松造はそんな一之助の太い指先を見つめた。すると、「おめえは、そんな話をしに来たんじゃねえんだろう」と、一之助はふいに目を上げて、ぎょろりと彼を睨んだ。
「はい」
彼は、棟梁に率直に話したところで、正直なところ、自分の気持ちを理解してもらえるとは思ってはいなかった。しかしたとえ怒鳴りつけられてもしょうがない、と覚悟を決めて、「さっきお勝さんがあっしのところへ見舞いに来てくれました」と語り始めた。話は正太との約束のことや、どうして自分が大工になりたいと思ったのかということにも触れ、このままお勝と夫婦になったところで、自分はいっぱしの棟梁にはなれそうもない、というところにも及んだ。
彼が話し始めてすぐに、お吉も裏の家から出てきて、一之助の隣に座って彼の話を聴いていた。一之助の方はというと、ときおり眼を閉じたり、火箸で火鉢の炭の具合を直したりしながら終始黙ったままでいて、途中ではいっさい口を挟むことはなかったけれども、松造の口が止まったところでおもむろに顔を上げて、
「それで、どうしてえんだ」と言った。
二拍子ほど間を置いてから、松造は重い口を開いて、「工一を辞めさせてください」と、絞り出すような口調で言った。一之助は眉一つ動かさなかったけれども、お吉ははっと眼を見開いて彼を凝視した。
「お勝さんとの縁談もなかったことにして下さい。あっしもこんなふうに言いたくはありませんが、どうしてもそうしなけりゃあならねえんです。そうしねえと、おれはいっぱしの棟梁にはなれそうもねえ。
それでひとまずは、堀川町の棟梁に頼んで、八百八店の長屋の普請に、手間取り大工として使ってもらおうと思っています。そのあとのことは、またその時に考えます」
思い切ってそう言うと、少し心のつかえが軽くなった気がした。自分が間違った選択をしている、という意識はまったくなかった。ただ一つ、気がかりだったのは、お勝のことだった。すると一之助はまさしくそのことに触れて、「いまおれに話したのと同じ話を、お勝にもしたんだな」と、念を押すように尋ねた。松造が視線を逸らさずに「はい」と答えると、一之助は首を振ってから、「よし、もういい」としゃがれ声で言った。
「てめえみてえな馬鹿は見たことがねえ。そんなに要らぬ苦労をしてえんだったら、てめえの好きなようにするがいいさ。そのかわり、二度とこの工一の敷居をまたぐんじゃねえぞ」
お吉は何か言いたそうに松造と夫の顔を交互に見た。しかし一之助はうむを言わさぬ口調で、「分かったらとっとと出て行け」と言った。
「あなた」
お吉の問いかけに一之助は一切答えず、松造の顔を注視したままだった。
「聞こえなかったのか」
「十軒店の普請は……」
そう松造が言いかけても、一之助は厳しい表情のままで「そんなことは、もうてめえの知ったことじゃねえ」と言い、まるで犬でも追い払うように、戸口へと顎をしゃくって、松造に出て行くように促した。彼はこれ以上何も言うこともできず、畳の上に額をついて詫びたあと、黙って工一を辞した。
「──要らぬ苦労を、と茅町はそう言ったんだね」
と安吉は問うた。
「はい」
そうして安吉は松造の顔を長いこと見つめた。その間、松造は息もできない心持ちでいた。やがて耐えきれずに彼が息をついた直後に、「わたしもそう思うね」と安吉は言った。
「松枝町の長屋の普請は、そうまでして関わらなければいけないのかい。このことは誰が聞いたって、納得のいく話じゃあないように思うがね」
「そうかもしれません……しかし、あっしにとっては譲れないことなんで、他人からどう言われようと、決心が変わることはありません」
「わたしが断ったとしたら、どうするね。そのことは考えなかったのかい」
そう問われて、松造は言葉に詰まった。正直、断られることは想像していなかったのである。そこで彼は正直に、「それは……考えていませんでした」と答えた。
安吉はにやりとしながら、松造の顔をまっすぐに見つめていた。
「もう一度訊くが、茅町の棟梁のもとを飛び出すという思案は、あくまでも変わらないのかい」
「はい」
「ずいぶんと回り道をすることになるかもしれないよ。それでもいいのかい」
松造は、一之助や安吉は齢を重ねているぶん、自分の将来を見越して色々と言ってくれているのだということが、痛いほどによく分かった。けれどもそうかといって、考えを変える気にもならなかった。「おれはなにも意固地になっているわけじゃあないさ」そう彼は胸の内で呟いた。
──もし仮に安吉棟梁から断られて、また茅町へも戻れなかったとしても、別に構いはしない。おれ一人が食っていかれればそれでいいのだ、大丈夫、なんとかなるさ。
そんなふうに考えると、少しは気持ちが楽になった。頭の中では幾度も正太と、それから心配そうなおそよの顔が浮かんでは消えた。
「はい」
沈黙の後、緊張した面持ちでそう答えた松造の表情を見ながら、安吉は、はははと大きな声を上げて笑った。
「なるほど源さんのいうとおり、こいつはどうしようもない、いっこく者だ。そんなに言うんだったらしょうがない、明後日からおれのところへ来るといいよ。けどね」
と言って、安吉はいったん言葉を切った。
「わたしはあくまでも、おまえさんを茅町から預かるんだ。これから先、どこでどんな経験を積んでゆくのであれ、これまでおまえさんが茅町の棟梁から受けた恩は消えることも変わることもない。そのことだけは肝に銘じておくがいいよ」
そして安吉はなおも笑いながら立ち上がって、神棚に向かって柏手を打ち、頭を下げて何ごとか口の中で呟いた。それから振り返って、
「明日わたしは茅町へ挨拶に行こう。おまえさんがここへ来るのは、明後日からだ。それでいいね」と言った。
松造は、安吉の人柄に救われる思いがして、「ありがとうございます」と言って深々と頭を下げた。
すっかり暗くなってしまった堀川町からの帰り道を、松造は今日の出来事を振り返りながら歩いた。ずいぶんくたびれたように感じるのは、考えてみれば、あさチョロが来たところから始まって、一日のうちに色々なことが起こったためで、自分で思っているよりも病み上がりの身体には応えたのであろう。
しかし一之助とのやり取りにしても、また安吉から言われたことにしても、自分のことを思ってのことであることは、骨身に沁みてよく分かった。
すると突然に、どん、と前から歩いてきた人と勢いよくぶつかってしまい、彼はびっくりして目を上げた。
「おい、気をつけやがれ。どこを見て歩いてやがる」
見れば、中年の職人風の男が彼の前に立って、自分の顔をじろりと睨みつけていた。松造は目を覚まさせられたような心地で、「相済みません」と素直に謝った。ぶつかった男はぶつぶつ言いながらすぐに立ち去っていったものの、彼は少しめまいがするような気がしたので、橋の欄干にもたれてしばし息をついた。自分が両国橋の上を歩いていたことすら意識していなかったことに、いま初めて気が付いた。
「……どこを見て歩いてやがる、か。本当にそのとおりだ」
そう呟いて彼は目を上げ、足早に目の前を通り過ぎてゆく人の流れを、見るとはなしに眺めた。
時刻はそろそろ七ツ半を過ぎた頃だろうか。橋の上から御城のほうに目をやると、西の空は夕焼けで茜色に染まっており、反対に東の空はとても暗い青で、もう夜の色をしていた。今日は天気は良かったものの、空っ風が強く吹き付ける一日で、日没直前のこの時刻ではとくに、橋の上を通り過ぎてゆく商人や女たちなどの多くは、襟巻きの中に顔をうずめて頬かむりをし、背中を丸めて道を急いでいた。
──おれの決断は、はたして間違ってはいなかっただろうか。
彼はそう考えて、思わず身震いをした。周りの全ての人の反対を押し切ってまで、工一を出ようとしていることは、本当に正しかったと言えるのだろうか。そんな疑念がひとたび頭をもたげてくると、まるで自信がないことに改めて気付かされ、ぞっとする思いだった。
松造は橋の欄干にもたれた姿勢のままで眼を閉じた。背後の海からは、冷たい風が途切れることなく吹き付けてきていた。彼はしばらくのあいだじっとして、耳元で鳴っているひゅうひゅうという音に、そして自分の前を通り過ぎる人たちの足音や話し声に耳を澄ませた。彼らは、彼自身とはなんの関わりもない人たちであった。こうして自分の前を通り過ぎてゆき、ふたたび会うこともない。でもおのれの見知った人たちとても、結局のところは同じではないのか。そんなふうに考えながら、彼はいま、まるで少年時代に逆戻りしたかのように、独りぼっちだと感じていた。
そうなふうにして感じる孤独感は、胸が苦しくなるほどのものだった。
こうして眼を閉じていると、彼はいつか感じたみたいに、茫漠たる枯れ野を前にして立ちすくんでいるような感覚にとらわれた。じっとしていると、その中に迷い込んでしまって、進むべき方向を完全に見失ってしまいそうだった。
やがて彼は大きく眼を見開いて、前を見た。
しかし結局は、おのれの信じたように歩んでゆくほかはないのだ。それよりも大事なことが、果たしてあるだろうか。何が嫌かといって、自分自身に噓をつくことほど嫌なことはない。
おれは正太との約束は、必ず果たしてみせる。この約束を守るということは、幼い頃の自分自身との約束を守るようなものだ。そのことが誰にも理解されなかったとしても、それはそれでしょうがないことだし、八百八店の普請のあとの身の振り方についてはまったくの白紙だけれども、これもその時になってから考えればいいことだ。
だからまずは、八百八店の仕事を精一杯やることにしよう。なにしろ、安吉棟梁や源蔵親父から学べることは、まだまだ沢山ありそうなのだから。
そう考えて、松造は自分に言い聞かせるかのように「よし」と口に出して言ってから、福井町の家に向かって再び歩き出した。
翌日、松造は十軒店の普請場へと赴いた。清二や正六に詫びるためである。
現場を訪れてみると、普請の作業そのものは、彼がいなかった間にもだいぶ進んでいて、施主への引き渡しももうすぐのようだった。現場の指揮を執っていた清二に訊くと、雛市まであと数日しかないため、左官の仕事も入らないような本当の仮普請の状態で、ひとまずは引き渡しにするようだった。松造が見たところ、仮普請とはいえ、仕上がりはまずまずのようだったので、少し安心をした。
そのあと松造が事の次第を話して、もうここの仕事に関わることができなくなったことを頭を下げて詫びると、清二はそっけない口調で「悪いがそのことについちゃあ、おれには何の思案もねえんだ」と言った。
「お前がこうと決めたんだったら、信じたようにやり抜くよりほかはあるめえ。そのことで、おれの口からは何も言うことはねえよ」
そう言ったあと、清二は松造の肩をぽん、ぽんと節ばった手で叩いてから、仕事に戻っていった。眼尻にしわを寄せてはいたけれども、けっして笑顔ではなかった。
それから松造はあちこち動き回っていたチョロを捕まえて声をかけたけれども、
「おれにゃあなんの相談もねえんだな」とひとこと言ったきりで、ぷいと顔を背けて、ほとんど口を利いてもくれなかった。
「そうか、こういうことか」と、松造は心の中で呟いた。彼が立ち止まってあらためて普請場を見渡すと、ほとんど誰も彼と目を合わせようとはしない様子だった。中でも手間取り大工の勘太は、一瞬だけ彼と目が合ったあとに、抜けた前歯の間からちっと音を立てて、脇へ唾を吐いてみせた。
──そういうことは仕事の区切りがついてから言いねえ、それが筋ってもんだろう、そう言っているかのようだった。
今や彼はおのれの立場をはっきりと自覚した。無理もない、もしもおれが彼らの立場だったら、むしろ怒鳴りつけているところだろう。そう思い、彼は普請場にいる全員に向かって無言で頭を下げ、振り返らずにその場を辞した。
松造は安吉から言われたとおり、その翌日から八百八店の普請に加わって働き始めた。安吉はとくに彼のことを現場にいる他の人々に紹介はしなかった。特別扱いをするつもりはない、という意思表示のようだった。ただ彼にはそのほうがありがたかった。彼はここでは新入りなのであり、これから教えを乞わなければならない立場なのだから。
驚いたのは、ここの普請場に、以前に工一を出ていった手間取り大工の泰三がいたことであった。これから松造が一緒に働くことになることを知ると、むしろ泰三のほうが眼を丸くして驚き、やがて「じゃあこれからは、おんなじ立場ってことになるのかい」と言った。
彼には泰三が何を言いたいのか、よく分かった。「そうだ」と答えたのち、
「これからよろしく頼みます」
そう言って松造は頭を下げた。泰三は「へっ」と言って冷笑したけれども、彼は心の中で「なにくそ」という気持ちでいた。
まだまだこれから色々なことがあるだろう、こんなことは序の口だ。彼はそう思った。
実際に安吉や源蔵と働き始めて、松造はあらためて彼らの技術と経験値の高さには驚かされた。とくに棟梁の安吉はあちこちを渡り歩いてきているため、北国の農家や武家の屋敷など、様々なものを手がけてきたと聞いている。そんな噂に違わず、安吉はどのような状況にも対応できる知識と技術を有していた。
また以前にも源蔵が彼に語ったとおり、使える木材が少ないため、実際に安吉は近在の農家の庄屋から櫟や松などを仕入れていたり、また材木問屋を通さずに、川越の舟運業者を通じて杉の間伐材や質の劣る材などを安く仕入れて普請に使用していた。これらの木材は木がとても堅かったり、脂が多かったり、またどうにも性質が悪くて反りや割れが出やすかったりと、材料として使うには大変だったけれども、安吉らはそうした欠点を見事に計算に入れて家を建てていた。
松造が作業に加わった初日にも、こんなことがあった。
彼が棟梁の付けた墨線に従って枘穴を穿ったあと、あまりにも荒削りな材の梁だったため、手斧で仕上げをしようとしたところを、「ちょっと待て」と、いつの間にか彼の背後にやって来ていた安吉から止められたのである。
「木目をよく見てみねえな。おまえさんがそこを削っちまったら、あとから木が反って、枘の位置で五分は狂っちまうぜ」
そうして安吉はその梁材をしげしげと見つめて、「そればかりじゃあねえ。ここに節もあるだろう。ここを中心に捩じれも出るから、下手に手斧なんか使うと、柱に組めなくなっちまうな」
そう言われて木目を読めば、たしかに言われたことは理解できるのだけれども、材をぱっと見てそうした判断ができるかというと、松造にはまだ無理な話だった。
「おまえさんはこれまでに、こんな性悪な木材を使ったことなんかないんだろう」と、安吉はにやりとしながら言った。
「こういう性の悪い木材も、うまく使えばちゃんと役を果たしてくれるもんだ。けど、下手に見栄えを気にして削ったりすると、すぐに暴れて手が付けられねえようになっちまう。人とおんなじさ。
いいかい、おれのところじゃあ、手の込んだ数寄屋なんか建てねえんだから、そのつもりでいてくれねえじゃあ困るぜ。だから、見た目をきれいに仕上げることよりも、あとあと暴れたりしねえように、うまいこと木を案配してやることのほうが大事なんだ。そのことをよく覚えておいてくれよ。
それから、おれのところで使う木材はこんなのばかりだからね。よく木目を見極めてから刃を入れるようにしねえといけねえよ」
一之助のもとを離れて、安吉棟梁のもとで働くというのは、日々あらたな経験の連続だった。たしかに建てているのは、見慣れたトントン葺きの安普請の長屋に過ぎないのだけれども、しかしそれはこれまで彼が見たり建てたりしてきたものとは、まったく別のもののように思われた。ここでは彼は新米の見習い大工のようだった。加えて、ともに働く大工のほとんどが彼よりも年齢も経験も上の者たちであったこともあり、これまで若棟梁と周りから言われて過ごしてきたことがどういうことであったのか、松造はあらためて考えさせられる思いだった。
それから彼にとって嬉しかったのは、本当に久し振りに源蔵とともに働くことができたことだった。
源蔵は毎朝早くに現場へと足を運んでくる。そうして傍目にはとても坦々とした調子で作業を続け、決まった時刻に飯を食い、また決まった時刻には道具箱を担いで帰ってゆく。それは何も源蔵だけではない。堀川町の大工は年寄りが多かったから、皆が同じような様子でいた。もし彼が茅町にいたままであったなら、こんな様子を見たら鈍重な印象しか持てなかっただろう。しかし、彼らとともに働いてみて、そんな考えが奢りであったことがよく分かった。
彼らは無理の利かない身体であることを、自らがよく知っているからこそ、毎日続けられるよう、あえて無理をせずに仕事をしているのである。松枝町の普請場では、誰かが声を荒げたり、できもしない予定のもとに急いで作業をしているところなど、ついぞ見られなかった。しかし一緒に働いてみて分かったことだけれども、彼らはけっして仕事が遅いわけではなかった。たんに急がないだけなのである。そうして彼らは一日が終わると、湯屋に寄って汗を流してから、行きつけの店で一杯やりながら夕飯を食い、家に帰ったらさっさと床に入るのだ。
松造は八百八店の現場に通うようになってからは、仕事が終わったらたいてい源蔵とともに湯屋に行ったり、行きつけの小さな居酒屋とか一膳めし屋に足を運ぶようになったけれども、そうした生活を続けているうちに、いかにそれまでの自分がせかせかとしていたかを痛感するようになった。
「手が八本もあるわけじゃあねえんだ」
普請場で源蔵はよく、冗談めいた口調でそう言った。
「つづきは明日やりゃあいいのさ。さっさとけえるぜ」
決まった時刻になると、そう言って源蔵らはさっさと帰り支度を始め、実際に現場から帰ってしまうのである。そしてそれは、棟梁の安吉とても例外ではなかった。以前の彼ならば、今日できそうなことは、今日のうちに目一杯詰め込まなければ気が済まなかっただろう。しかし、必ずしもそんな仕事の仕方がよいわけではないのだと、彼はここへきて初めて知ったのである。
彼は安吉のもとへ来て、技術や知識を得ただけではなかった。わずか数日を過ごしたばかりで、それまでとは異なった立場から、仕事というものを眺めることを学んだように思った。
そうして二月に入って十日ばかりが過ぎて、八百八店の長屋の普請もだいぶ進んだある日、この仕事の元請けである常盤町の棟梁のもとで進められていた表店の上棟式が行われることになった。
その前日の夕刻に松造は初めて、この長屋の大家であり、普請の施主でもある八兵衛を間近に見た。普請の進み具合を見に来たらしいのだが、下請けの棟梁である安吉に、使っている材料がどうとか、もっと丁寧に仕事ができないのか、などと注文をつけているのが彼の耳にも聞こえてきた。たしかに今回の普請は柱も梁も荒削りで、素人目に見れば江戸の町人長屋の建物というよりも、近郷の農家の納屋のように見えるのであろう。ところが実際には納屋どころか、数寄屋並みに手の込んだ建物なのである。
「仕事の内容については、わたしに任せてもらいましょう。五年や十年でぶっ倒れるようなものは決して建てませんから」
最後に安吉がにこやかに、しかしきっぱりとした調子で応じると、八兵衛は安吉の表情に気圧された様子で、それでもぶつくさ言いながら帰っていった。その様子を見て、
「なるほどこれじゃあ、おそよが怒るのも無理もねえ」と、松造は小さく呟いた。
また、一之助棟梁が八兵衛のことを、「吝い男だ」と言って仕事を断ったのも、これならしょうがないとも思った。
八兵衛はみずからの店である角の八百屋の普請場には足しげくやって来て、材料にも仕上げ方にも色々と注文をつけてくるので、常盤町の棟梁もほとほと閉口しているらしい、と源蔵から聞いていた。その日八兵衛は珍しく長屋の普請の進み具合を見に来たのであるが、裏長屋の普請については、ようするにとにかくかねをかけないで建てるようにと、安吉棟梁に釘を刺しに来たのである。そのくせ材料や建て方についてなどは半可通に知ったかぶりをするので、どうにも手に負えない男だった。
──たとえ正坊がもといたところへ戻りたいと言ったとしても、こんな大家のところへ戻したんじゃあ、正坊がかわいそうだ。
そう思った。表店の作業がなかなか進まないのも、途中で幾度も八兵衛が口を挟んでくるためで、長屋の普請のほうが先に行っているのもどうやらそのせいらしかった。
八兵衛が帰ったあと、「上棟式は午過ぎからだから、来たけりゃあおまえさんもその頃に来ればいい」と安吉から言われたので、「はい」と答えて、仕事が終わると松造は、いつものように源蔵とともに一膳飯屋に寄ってともに夕飯を食った。
その日、珍しく源蔵は酒を一合ばかり飲んだあたりで、ふと真面目な顔になって松造の顔をじっと見た。
「おめえが堀川町へ来てから幾日も経つが、仕事ぶりには慣れてきたか」
「うん」と答えつつも、少しばかり怪訝な表情で源蔵を見返すと、
「茅町とはずいぶんと勝手が違うだろう」
「ああ。けど、一緒に働かせてもらうようになって、あらためて安吉棟梁には頭が下がる思いだぜ。なにしろ毎日勉強になることばっかりだからな」
飯茶碗と箸を床几の上に置いて、松造はそう答えた。本心からそう答えたのである。半月ばかりの間にも、彼は自分が日々新しいことを学びながら仕事をし、己が成長してきていることを実感していた。それはとても久し振りに感じる感覚であった。
すると源蔵はふと沈んだ表情になって、徳利から猪口に酒を注ぎながら、「何事も経験だなんて言うけどな……」と呟くように言った。
「おめえくれえの年で、していい経験と、そうでもねえ経験ってものがある。棟梁が心配してるのは、そこのところだ。いいか、木ってものは、山から切り出してきたばかりでは、何にでも姿を変えることができる。けど、いったん挽いて材木になっちまうと、もうその後の行く末を選ぶわけにはいかねえ。材木を、切り倒す前の木に戻すわけにはいかねえんだ。
おれもこの年になると、もうちっとましな生き方ができなかったものかって、毎日のように思うんだ。おめえにはまだ分かるめえがな。ただ、おめえはあんまり余計な経験を積む必要もねえんじゃねえかって、棟梁もおれも、そう思うんだ」
松造にも、源蔵が言おうとしていることは、おぼろげに理解することができた。しかしなんとも答えようがなくて黙っていると、
「いま関わっているこの八百八店の仕事は、そうまでしても関わらなけりゃあいけねえのか」と、親父は安吉と同じことを問うてきた。
「おれにも、おめえの気持ちはよく分かるんだぜ。けどなあ、しょう坊、おめえにもおれと同じようなことをさせてえとは、どうしたって思われねえんだ」
松造には、源蔵が普段思っていても口では言わずにいることを、なぜいまあえて言ってきたのか、よく分かった。なにしろ久し振りに共に仕事をし、毎日彼の様子を見ているのである。きっと、このままではおれがねじ曲がった木のようになってしまう、そんなふうに親父は心配しているのに違いない。
けれども分かるがゆえに、それ以上親父の口からは言わせたくないとも思った。だから「いいんだ、親父」と、松造は努めて笑顔で答えた。
「おれのことは心配しねえでくれ。おれだってもう青二才じゃあねえ、自分のやっていることはよく分かっているつもりだ。ほんとだぜ」
そう言って猪口に残っていた酒を飲み干すと、気を変えるように「明日は表店の棟上げだな」と明るい調子で言った。
「本当は正坊にも見せてやりてえところだが、そういうわけにもいかねえから、おれが代わりに見てやることにしよう」
そして、まだ腰の重い様子でいる源蔵に向かって、「さて、そろそろ帰るとするか」と声をかけて立ち上がった。
そうして松造が自分の家に帰ってきたのは六ツ半過ぎであった。その日は一日中重たそうな曇り空だったので、明日が雪にならないか心配された。本所から両国橋を渡って帰ってくるときも、彼は襟巻きに顔をうずめて、福井町まで急ぎ足で震えながら帰ってきた。
松造からすれば、じっさいのところ、表店の建物が棟上げをしようとどうしようと関心はなかったのである。けれども、八百八店の裏長屋の普請が安吉の采配のもと、おそろしく低い予算であるにもかかわらず、きちんと形になってきていることが嬉しかった。安吉のもとで働き出してから、彼は家に帰ってくるときまって、正太が作った模型を行李から取り出して、行灯の明かりに照らしながら眺めるのが日課になっていた。
考えてみれば、彼はこれまで、そこに住む人のことをそんなにも考えながら家を建てたことはなかったのである。先々正太がこの八百八店に住むようになるとは正直思われなかったが、彼にとってみれば、それすらどうでもいいことだった。
その晩も、彼は源蔵と交わした会話を思い出しながら、正太の模型を暗い部屋の中でじっと見つめた。正太がかつて暮らしていた家、それがどのようなものであったか、彼には知る由もない。しかし、以前に正坊が見取り図を見ながら、嬉しそうに話していた様子を思い浮かべると、それが分かるような気がした。
いまの彼には、工一を飛び出して、安吉のところで働いていることに迷いはなかった。それどころか、今は初めて一之助のもとで大工の見習いとして働き始めたときのような心持ちでいた。以前に一之助から、「棟梁になりたかったら、かねの工面ができるようにならねえと駄目だ」と言われたことはよく覚えている。安吉の姿を見ていても、前よりもいっそうその言葉のとおりだと思うようになったけれども、同時に彼は、工一にいて次第に忘れていってしまったものを、取り戻しているという実感もまたあったのである。
──もう少しだな。あと半月もすりゃあ、埒があく。待ってろよ、正坊。
正太が使っていた布団は、まだ部屋の隅にたたんだままだった。模型を行李の中にしまったあと、彼はその布団をじっと見つめながらそう思った。
安吉からは「午過ぎから」と言われていたけれども、翌朝松造は普段どおり朝早いうちに目を覚まし、朝風呂を浴びに行ってから五ツ半には松枝町へと出向いた。現場には誰もいなかったので、改めて表店の普請場の様子をのぞいてみると、なるほどたしかに彼が関わっている裏店に比べると、普請の進み具合は少しばかり遅いように思われた。
彼は常盤町の棟梁とは、未だ直接の面識はなかった。けれども表店の仕事ぶりを見ていると、どんな棟梁のもとでここの普請が進められているのかがよく分かった。彼はあごを撫でながら、建物の土台の隅の部分の仕口の仕事ぶりをしげしげと眺めた。現在の材木不足を考えれば、とても良い材料を使っているし、仕上げもとても丁寧だった。けれども安吉のもとで働き始めた今は、表店と裏長屋のどちらが本当にいい仕事をしていると考えるのか、それはものの見方にもよるな、とも思った。
「早いじゃねえか」
そう声をかけられて振り返ると、そこにはにこにこしながら立っている安吉の姿があった。
「今度はこっちの仕事をやりたくなったのかい」
「まさか」と言いながら、松造もつられて笑みを浮かべた。
そうして昨日の棟梁と八兵衛とのやり取りを思い出し、「けど、普請の施主もいろいろだから、棟梁も大変ですね」と言うと、安吉は意外な問いだとでも言わんばかりに眼を丸くして笑い、「なに、大変なことなんかあるもんか」と言った。
「わたしらは大工だ。家を建てるのが仕事だ。だから、そのほかのことは大したことじゃあないのさ。まぁ、そのうちお前さんにも分かるようになるだろうよ」
安吉の言葉に、松造は驚かされた。以前に源蔵の口から聞いた言葉と似たせりふだけれども、安吉の口ぶりには、より説得力があった。この人は、今のおれから見れば、はるか遠くにいる人だな、と感じた。
安吉は腰の後ろで手を組んで表店の普請の進み具合を眺めながら、「いい木を使ってるなぁ」などと独りごとのように呟いていたけれども、ふと振り返って松造を見て、
「もうじき常盤町の棟梁がかしらや施主と一緒に帰ってくるよ。そうしたらお前さんを常盤町にも紹介してやろう」と言った。
常盤町の棟梁は名を嘉一といい、想像していたよりも若い棟梁だった。年の頃は三十二か三くらいだろう。額が広く鼻柱の細い男で、生一本な印象の男だった。あとで安吉に聞くと、一昨年に父親から跡を継いだばかりということだった。そういえば普請場で幾度か見た顔だとは思ったけれども、まさかこの男が棟梁だとは思わなかった。
そしてまた、向うが自分のことを知っていたことにも驚かされた。安吉から紹介されるとすぐに嘉一は、「ああ」と言ってうなずいたのである。
「そういえばどこかで見た顔だとは思っていましたが……そうですか、茅町の若棟梁でしたか」
そして簡単に自己紹介をしたあと、
「長屋のほうの普請は堀川町にお任せしてあるんで、若棟梁にも、ひとつよろしくお願いします」と言って、ぺこりと頭を下げた。
存外好人物であったので、あとで聞いてみると、嘉一はむかし安吉のもとで修行をしたことがあるらしく、そんな縁もあって、長屋の普請をもとの師匠に頼んだということのようだった。
上棟式には型どおりに施主の八兵衛と町内のかしら、それから普請の棟梁である嘉一が顔を並べ、神酒を捧げて行われた。またこの三人のほかに松枝町の町役人や八兵衛の息子などもやってきており、松造自身が手がけた十一月末の岩本町の普請のそれよりも賑やかなものとなった。工一ではここのところ、松造は一之助の名代として仕事をしてきた。それがこうして気楽な身分で上棟式を眺めていると、見慣れたはずの光景がこれまでとはまったく違ったもののように見えるので、彼は不思議な気がしていた。
そして、嘉一とかしらが母屋の上にのぼる頃になると、普請場にはいつしか大勢の人が集まってきて、建物を取り囲むようにして人垣ができるほどになっていた。そして二人が「そうら」と言って、おひねりなどを撒き始めると、人びとの間から「わっ」と歓声が上がって、辺りはいっそう賑やかになった。けれどもそうした喧噪を前にしても、松造は不思議と気分が高揚することはなく、逆にふさいだ気持ちになっていった。
それは、おりしも小雪がぱらつき始めたせいなのだろうか。それとも、ここの普請が完成したところで、肝心の正坊がここに住むことはない、という思いが先にあるせいなのだろうか。上棟式というと、晴れがましく喜ばしいもの、とこれまで頭から思い込んでいたのに、撒かれているおひねりやみかんなどを我先にと拾い集めている人々を見て、むしろ少なからず寂しい思いにとらわれてゆくので、彼は少し困惑してしまった。
隣をふと見ると、安吉は母屋の上から嘉一らが撒いているものを見て、
「なんだ、八百屋だけあってみかんを撒くのはいいけれども、すいぶん皺くちゃのみかんばっかりだな」などと小声で言って、にやにやしていた。
たしかに銭を包んだおひねりはまばらで、多くは売れ残りのみかんを撒いているようにも見えた。しかし松造はそんなことよりも、さっきからなんだか落ち着かない様子で、周囲にきょろきょろと視線を走らせていた。
八百八の表店の普請場の前では、通りを半分塞ぐようなかっこうで、大勢の人が集まって棟上げの式を見物していた。それらの人々の中には、もともと八百八店に住んでいた者もいるだろうし、この近所の者もまた多いだろう。ただひょっとしてこの中に、正太の姿がないだろうか、そう思って松造は見ていたのである。もし正太がこの八百八店のことを覚えていて、自らが生まれ育ったところへ帰りたいという思いがあれば、この上棟式をのぞきに来てもおかしくはない、そう考えていた。
けれども一生懸命に袖や懐にみかんを押し込んでいる子らの中にも、またこれらを遠巻きにして見ている浮浪児らしき子らの中にも、正太の姿はなかった。
──やはり、正太はここのことを覚えていないのだろうか。
そう思って見ているうちに、嘉一らは用意していたものは配り終えて、するすると母屋の上から下りてきてしまった。
「降ってきたな」
隣でふいに安吉がそう言ったので、松造も空を見上げると、確かに上空は朝よりも白い雲に覆われているように見え、さきほどよりも大粒の雪が舞い降りてきていた。
「止んでくれりゃあいいが。降り続くようなら、午後の仕事は難しいな」
「……そうですね」
そう答えて、松造は落胆した表情で前へと向き直った。もう正坊の顔を見ることもないのだろうか、そんな思いが頭をよぎった。しかしそれでもまだあきらめ切れずに、帰り始めた見物人たちを見ていると、大人たちの間に、ひときわ黒い顔をした少年がいるのが見えた。彼が「あっ」と思うのと、その少年が人陰にすっと姿を消すのとが同時だった。
松造はものも言わずにぱっと走り出すと、人垣を分けて少年の姿が見えた辺りへと駆け込んだ。そこは八百八の表店のはす向かいで、傘屋がすでに普請を終えて店の営業を再開していた。しかしそこにはすでにそれらしい姿はなかった。ひょっとすると、隣町の横丁へ入ったのかもしれない。そう思って、傘屋のもう一軒先の路地へと飛び込んで、その後もいく筋かの横丁を捜しまわってみたけれども、さきほどの正太とおぼしき少年の姿を見出すことはできなかった。
──あれは本当に正太の顔だったのだろうか。
走りながら彼は心の中でそう自問した。そして正太の顔を思い出そうとしてみると、普段は苦もなく思い出しているはずのその顔が、なぜか正確には思い出せないのであった。
──そんなはずはねえ。おれが正坊の顔を忘れるなんて、そんなことがあるはずがねえ。
そう考えて自分でも意外なくらいに動揺した彼は、走るのをやめて、立ち止まって息を整えた。とっさに正太の顔を正確に思い出せなかったということが、彼と正太との距離が離れてしまったことを如実に物語っているような気がした。路地をすれ違う数人の人々はみな、松造のほうを見ると、何ごとかといったふうに眉をひそめ、足早に通り過ぎていった。けれども彼はそんなこともまったく目に入らない様子で、荒く息を吐いて、肩を大きく上下させながら、地面の一点をじっと睨んだままでいた。
──本当にそうだろうか。おれはもうあいつの顔を見ることはないのだろうか。
いきなり走り出したせいなのか、下を向いたままで胸に手を当てると、想像以上に心臓がどきどきしていて、そして少しばかり脇腹が痛かった。雪はまだらに地面を白く染めていて、彼の吐く息もまた真っ白だった。やがて松造は口惜しそうな表情で身体を起こし、前を向いた。
彼が立ち止まった場所では、何かの商家の普請が行なわれていて、屋根屋のまだ若い見習いが、屋根の上にいる親方に瓦を手渡しで渡しているところだった。見ていると、
「ばか野郎、横着をしねえで、もっとていねいに渡しゃあがれ」
「へえ、すいません」
などと大きな声で言い合っているのが聞こえた。ごくありふれた光景ではあったが、見るとはなしにその様子を見ていると、松造はなぜか正太が作った模型のことを連想し、次いで彼がその模型のことを褒めたとき、得意げな顔で「まあね」と答えた時の正太の顔も、鮮明に思い出した。
さっきちらりと見かけた少年の顔と、いま思い出した正太の顔は重なりはしなかったものの、あの少年は正太だったのに違いない、と彼は確信をした。理由は分からなかったけれど、疑う余地もない、と思った。そして、もしそうだとすれば、少なくとも正坊は生きているということになる。
──それが分かっただけでもいい。正坊は必ず帰ってくる。
そう考えながら、松造は八百八店の普請場まで戻ってきた。すると、安吉が嘉一と表店の前で立ち話をしているのが見えた。先ほどまでの人垣はきれいになくなっていて、八兵衛や町役人の姿も見当たらなかった。松造が近づいていくと、安吉はくるりと振り向いて、
「午後から仕事にかかるぜ」
そうひとことだけ言って、空を見てみろと言わんばかりに、顎をくいと空に向けてみせた。確かに今は雪もほとんど止んでいて、表店の普請場の職人だけでなく、裏店の普請場でも安吉のもとで働いている大工たちがもうだいぶ集まってきていて、仕事にかかろうとしているのが見えた。
そして仲間と話をしていた源蔵が松造の姿を認めると、何気ない様子でぶらぶらと彼のもとへと歩んできて、「この分じゃあ、雪も大したことあるめえ」と言って、松造のすぐ隣に立って一緒に空を見上げた。そして続けて、
「どうした、正坊は見つかったか」と聞いてきた。まるで今し方の光景を一部始終見ていたかのような口ぶりだった。
「いいや」とだけ答えて、松造はかぶりを振った。
「……そうか」
「けど、大丈夫だ」
松造は源蔵の視線を避けるようにして、ぶっきらぼうな調子でそう答えた。
──大丈夫だ、あいつはきっと帰ってくるから。
あとの方は口に出して言ってはいけないような気がしたので、言わずにいた。彼は咳払いをしてから源蔵に向き直って、「じゃあ仕事に取りかかるとするか」と言って、歩き出した。
それからも八百八店の普請は順調に進んでいった。はじめのうちこそ戸惑っていたものの、今では松造も安吉棟梁のもとでの仕事の進め方にだいぶ慣れてきていた。
もともと彼は刃物を使うのがとてもうまかったため、鋸や鑿を使ってほぞを刻む作業に関しては、源蔵を始めとした年季の入った職人たちにもけっして引けを取ることはなかった。
ただその反面、これまで下働きの大工に任せていたような作業に関してはからきし下手だった。とくに今回の普請は、大家の八兵衛からもかねをかけずに建てるようにと再三に渡って念押しをされているため、普通なら左官や屋根屋に頼むような作業も極力自分たちの手でやっていた。だから壁を作るのに、割竹を細縄で組んで木舞壁の下地を作ってゆく作業や、屋根の野地板の上に薄板を並べて葺いてゆく作業など、むしろはたから見れば簡単に思える作業に彼は手間取ってしまい、まわりの年寄りの大工たちから、「若棟梁はどうやら生粋の大工のようだね」などと揶揄される始末だった。なかでも松造と一緒に作業をさせられることが多い泰三は、松造が思わぬところで足を引っ張るので、あからさまに嫌な顔をすることがあった。
「これじゃあ、おれまで仕事が遅いみてえに見えるじゃねえか。勘弁してくれよ」
実際にそう口に出して文句を言われることもあった。けれども松造は気にかけるふうもなく、難しいことや手順の分からないことは、泰三を含めまわりの職人たちに率直に問いかけをし、あくまでも新入りの大工として仕事を進めていった。
二月も暮れに差し掛かり、今年はふだんの年と比べると遅かった梅の花も、ようやく盛りを迎えた頃の夕暮れどきに、松造は仕事を終えてから堀川町の安吉棟梁のもとを訪れていた。
安吉から見れば十五も年が若い女房のおしゅんから酒肴を出されて恐縮したあとに、型どおりに安吉と杯のやり取りをすると、彼は形を改めて、「今日は実は棟梁にお願いがあります」と言って、畳の上で低頭した。
「松枝町の普請もだいぶ目鼻が付いてきたと思います。そこでご相談をさせていただきたいんですが、あっしの知り人で、去年の大火事で仕事場とふた親を亡くした者がおります。名を助次といって紺屋をやっていますが、今にもぶっ潰れそうな小屋を一人で建てて、いまはそこで仕事をしております。
あっしとはひょんなことで知り合ったんですが、この助次の仕事場の仮普請を堀川町でなんとか請け負ってもらえまいかと、そのご相談でうかがいました」
「ほう」
安吉は魚の煮付けや漬け菜などを肴に酒をちびちびと飲みながら、目もとに笑みを浮かべて松造の話を聞いていた。
この堀川町の安吉の自宅は、もともとは河岸に隣接して造られた商家の倉庫のような建物であったらしい。それを安吉がみずから建て直して人が住めるようにし、材木などを置く場所と棟続きにして住んでいるのである。建物の間口は四間半あまりあって、倉庫の部分も含めて南側に開いていた。そして道を挟んですぐに河岸になっているので、荷を出し入れするのにはまことに都合のよい作りになっていた。
安吉は普段からこの倉庫に、材木を一定量置くようにしていた。そのお陰で材木不足のときにも、よその大工に比べれば困らずに済んでいるのである。普請の際、堀川町では、材木は必要に応じて新たに材木屋などから仕入れをしたり、この倉庫から出したりして家を建てていた。
安吉の女房のおしゅんは、むかし柳橋で芸妓をしていたらしい。ただ安吉とはどこで知り合ったのかなど、詳しいことはよく知らなかった。年はもう四十代の半ばにもなろうかというのに、いまだにほっそりとした腰と瑞々しい目もとをした女で、さきほども彼女が酒を持ってきたときに、頬にえくぼを寄せた笑顔を向けられ、松造も少しどきりとしたくらいであった。
時刻はもうじき暮六ツ近くになるので、近所の河岸もほとんどが仕事を終えていて、辺りは静かだった。普段から多く飲まない安吉は、猪口に二つほど飲んだだけで早くも目もとを少し赤らめて、松造の話をじっと聞いていた。
「それで」
そう安吉に先を促されて、松造は助次と知り合ったきっかけなどを語った。何もあのとき世話になったから恩返しをしたい、ということだけではない。初めに助次と会ったときに彼が語った言葉が忘れられず、自分もなにか彼の役に立ちたいと思ってのことなのだ、と松造は言った。
「この仕事であれ、若棟梁のところの仕事であれ、なんにしても時間がかかるのは承知のうえです。けど、上手くは言えませんが、あっしの仕事だって、なんとか仕事を再開していかねえと、困る人だっていると思うんでさ」
そう助次は、少し照れたような口調で言っていた。あれからもうひと月以上経つ。
チョロと一緒に会ってから、松造は一度、松枝町の仕事の合間を縫って、助次のもとを訪れていた。掘っ建て小屋のような仕事場ではなかなか仕事もはかどらず、かといって仮普請を請け負ってくれるところも見つからないため、自分で仕事場の手直しをしながら細々と仕事を続けているのが現状であった。
「じゃあ茅町でも仮普請を請け負うことはできねえって、チョロがそう言っていたんですね」
「へえ、そのことについちゃあ、正六にも無駄足を踏ませちまって、悪いことをしたと思っています。ただ、あっしのところは、今のところなんとか暮らしたり仕事をしたりできていますし、なにぶん他人様に頼むのも申しわけのねえような半端仕事ですから、どこかの棟梁が手の空いた時にでもやってくれりゃあ、と思っています」
小屋の中では暗くて話もできないので、二人は外に出て言葉を交わしていた。助次は空っ風に吹かれて、鼻の頭を赤くしながらそう答え、笑って毛のそそけた鬢のところを掻いていた。けれどもそのすぐあとに、途方に暮れたような表情を見せたことが、全てを物語っているように松造には思われた。
妻を娶って家業を継ぐ前に火事でふた親を失ってしまい、なんとかして一人で仕事を再開しようとはしているものの、今の状況のままでは先行きが暗いのは明らかだった。彼は松造よりもさらに年下だったけれども、身の回りのことにかまう暇がないのか、方々に継ぎの当たった着物姿で、髭も月代も伸びていて、現在請けている程度の仕事をまわしているだけでは、火壷にくべる炭を工面するだけでも精一杯なのだろうと思われた。
──隣の大店の紺屋は再普請も済んで、職人を幾人もかかえて忙しそうにしているのに。
そう思いながら助次を見ていると、胸がふさがれる思いだった。
彼の職人としての腕前については分からなかったけれども、せめてもう少しまともに仕事のできる環境が得られなければ、このままでは助次は駄目になってしまう、と思った。そして自分に何かできることがあるとすれば、それは大工としての自分の身を役立てること以外にはないのだ、そう思って助次のもとを辞したことを、彼は安吉に語った。
「この話は茅町も断ったんだと言ってたね」
「はい」
「それをどうして、わたしなら請け負うと思ったのかね」
安吉は片手で猪口を持ったまま、松造の眼をじっと見てそう尋ねた。顔はすでにいい色に染まっていたけれども、言葉遣いには酔った様子も見られなかった。松造が返答に窮しているのを見ると、安吉は猪口を膳の上に置きながら、「茅町もわたしのところも、商売で大工をやっているのは同じことだ」と言った。
「だからもし、この仕事がまったく算盤の合わない仕事なんだとしたら、おれも首を縦に振るわけにはいかないね」
松造はしばらく黙っていたけれども、やがて「棟梁のおっしゃるとおりです」と言った。そして懐に手を入れて、一枚の紙を取り出して、安吉の前に置いた。
「ここに、あっしの描いてきた仮普請の見取り図があります。助次と話して、最低でもこれくらいのしつらえは必要だろう、というものです」
これを描くとき、彼は知らず知らずのうちに、自らの生まれ育った家のことを思い出していた。紺屋の仕事場には何が必要なのか、いちいち助次に訊かなくとも、記憶をたどることで分かった。助次の仕事場をなんとか建て直してやるために、という目的があったおかげで、結果的に彼は自分の家を思い出すのに、さほどの苦痛を覚えずにすんだのであった。
「もしこれを建てるのに、当り前に材料を材木屋から仕入れていたら、今の相場ではかなり高いものになってしまうでしょう。でももし、松枝町の普請のような建て方をするのであれば、話は別だと思います」
安吉は視線を落として、見取り図をじっと眺めていた。そしてふいに顔を上げると、口を半開きにして何か言いかけた。しかし松造の顔を見ると呆れたような表情になって頭を振り、「もう決めているのかえ」と言った。そうして見取り図を折り畳むと、松造に放ってよこした。
「でも、おれはやらないよ」
そう言われると、松造の口もとはぐっと引き締まった。
「ただ、お前さんが自分でやるというのなら、話はまた別だ」
続けてそう言った安吉の眼には、まるでこの話を面白がっているような、いたずらっぽい光が宿っていた。
「いいかえ、ここが大事のところだ。お前さんがこれからどんな大工になるのか、ここで決まると言ってもいい。だから、よく考えて、どうするのか決めねえといけねえよ」
「……あっしが自分でやるとは、どういう意味でしょうか」
「お前さんだって、ちっとは算盤くらい使えるだろう。だったら、自分で見積もりを立てて、その助次さんとやらと話してみたら良かろう。それでもし、出来そうだと踏んだのであれば、自分で采配を振るってみたらどうかね」
「あっしが普請の棟梁として、ということでしょうか」
「そうだ」
「……あっしにはここで仕入れている材木の相場が分かりませんが」
「月が代わったら、また川越の方へ材木の仕入れに行くつもりだが、なんならお前さんも一緒に来るかい」
「はい」
二つ返事でそう答えた松造の表情がぱっと明るくなったのを見て、安吉はいよいよ呆れ顔になった。そこへおしゅんがやって来て、「あなた、もう一本つけますか」と聞いてきた。安吉は赤い顔を妻へと向け、「いや、もうたくさんだ」と答えた。
「あなた、あんまり若い人を虐めちゃ酷よ」
おしゅんは夫の隣にふと座り込んで、徳利にどれくらい酒が残っているのか、確かめるように軽く振ってみながら、そう言った。安吉は妻からの言葉には答えずに、
「酒はもういいから、湯冷ましを持ってきてくれ」と言った。
するとおしゅんは夫と松造の顔を交互に見て、松造には軽く目まぜをするような視線を向けたあとに、すっと立って台所へと去っていった。松造がそんな彼女の後ろ姿を見送っていると、
「算盤はあとで弾くとしても、お前さんはこの普請をどれくらいでやるつもりでいるのかね」と、安吉はふいに問うた。
「材料が揃えば、期間はひと月ほど、人手はあっしを含めて三、四人いれば十分だと踏んでいます」
「そうか、まあ、そんなもんだろうな」
そう言って、安吉はじろりと松造を見た。
「誰を使うつもりだえ」
「棟梁さえよければ、源蔵親父と、泰三を貸してもらいてえと思っております」
「……源蔵はともかく、泰三はどうだかな」
そう呟くように言ってから、安吉はふいに相好を崩して、「それにしても、呆れた奴だ」と言いながら松造を見た。
「はなっから自分でやるつもりでいたんだな、そうだろう……どうやらお前さんは、まっすぐな道を行くことはできねえらしいな」
そこへおしゅんが台所から戻ってきて、湯飲みに入った湯冷ましを夫に手渡した。安吉はそれをひと口飲んで口を湿してから、続けてこう言った。
「ただし忘れてもらっちゃあ困るが、大工だとて商売であることにゃあ違いはねえんだ。だからどんなにこっちにやる気があったとしても、できない時だってあるってことは、覚えておくがいいぜ。このことは、これから先もずっと、お前さんの頭を悩ませることになるだろうからな」
「分かりました」
たしかにそのとおりだろう。安吉の言葉は、松造の心に、打ち水が地面にすっと染み込むように入ってきた。しかしそれと同時に、なんとかしてこの仕事をやってやろう、という気持ちが、力強く湧いてくるのを感じた。
松造が帰るとき、安吉とともに、おしゅんも戸口まで見送りに出た。深々と頭を下げてから歩み去ってゆくその後ろ姿を見ながら、おしゅんは「いい人じゃないの。わたし、あの人のこと好きよ」と言った。
「ああ」
並んで立つと、草履履きの小柄な安吉よりも、駒下駄を履いて立つおしゅんの方が少しばかり背が高かった。二人はしばらくの間、白い息を吐きながら、松造の後ろ姿を見送っていたけれども、やがて安吉が「さ、中へ入ろう」と言って先に家に入り、続いておしゅんも襟元を掻き合わせながら後に続いた。
また松造のほうも、堀川町からの帰り道、背中を丸めて歩く道すがらに幾度も思い出したのは、安吉の言葉だけではなかった。「忘れてもらっちゃあ困るが」と言われていた時に、棟梁の隣にはおしゅんが座っていた。彼女は二人の話に口を挟むでもなく、また関心の無さそうなふうでいたわけでもなく、目もとに笑みを浮かべて松造を見つめ、ただそこに座っていた。彼女のそんな様子が不思議と彼の心につよく残ったのである。
二月末の宵闇の大川端を、北風はときおりごうと音を立てて吹き抜けていった。向島あたりでは梅の花がちょうど見頃だと人の話に聞いてはいるものの、朝晩はまだまだ底冷えのする寒さが続いていた。
「それでも、桜が咲くのももうじきだ」
今夜は月明りがないからと、堀川町で手渡された提灯を前にかざして、急ぎ足で歩きながら、松造は口の中でそう独りごちた。
松枝町の普請場の一角の井戸の脇には、一本の紅梅が焼け残っていた。ところどころの枝が焼け焦げたうえに、全体に煤を被ってしまったその姿を見て、誰もが「もう咲くまい」と思っていたものを、普請が始まったのが合図であったかのように、花芽の残った幾本かの枝が花をほころばせ始めたのだ。その梅の木も、そろそろ花弁を井戸端に散らし始めていた。
暦の上ではもう晩春になろうかというのに、今年は寒い日がいつまでも続いていて、どうやら梅が咲くのもずいぶん遅かったようである。
けれども南風が吹くようになるのも、もうじきだ。三月三日には、干潟になった深川や佃島沖に、大勢の人々が浅蜊や蛤を取りに海へ出るようになるだろう。昨年の火事からまだ半年も経っていないため、町並みはまだまだ元通りというにはほど遠い状態であったが、それでも汐干狩りは毎年恒例の行事なので、人々で賑わいを見せるに違いない。
安吉とおしゅんの佇まいを思い出すと、松造の心の中では、もう目の前まで来ている春のことが連想されるのであった。
それから八日のちに、八百八店の裏店の普請が無事終わり、表店に先立って施主への引き渡しが行われることになった。
大川の堤では桜が咲き始めたと人の口の端にかかるようになり、気の早い者はもう花見に出かけているようだなどと言われるようになってきていた。松造も松枝町の普請場へと向かう道すがら、柳橋付近の土手沿いにかろうじて焼け残った柳の木が、萌黄いろの花芽を付けた枝を風に吹かせているさまを見て、いよいよ春が来たことを実感するようになっていた。
引き渡しの前日の午後に強い東風が吹いたせいで、普請場の井戸端の梅の木は、残っていた花びらをあらかた散らしてしまっていた。いまはもう、萎れかけた花弁を、細い枝先にごくわずか残しているのみであった。そして葺いたばかりの長屋の屋根の上では、春の訪れを高らかに告げるように、シジュウカラが澄んだ声でさえずっているのが聞こえた。
安吉らとともに普請場にやって来た松造は、その梅の木の周りに幾人かの人びとが集まっているのを見て、おやと思った。よく見ると、どこかで見たような顔があったので、考えてみたら、──ああそうか、表店の上棟式のときに見かけた顔だったな。とすると、彼らは裏長屋の住人たちか、と思い当たった。
松造は引き渡し前の最後の確認作業を行いながらも、彼らの様子をそれとなく窺っていた。すると、老若男女数人が集まったなか、巷で噂される春の便りとは裏腹に、彼らの表情が一様に重く沈んでいるのが彼の気にかかった。
それもそのはずで、彼らは長屋に戻れるのを喜んで集まっていたのではなかったのである。
ことの発端は、この裏長屋の元の住人の一人で、豆腐の振り売りを生業としている吾一という名の一人住まいの老爺が、再普請を終えた後のこの長屋に戻ることはならぬと、家主の八兵衛から一昨日告げられたことから始まっていた。吾一は昨年の火事で焼け出されたあと、葛飾の在の親戚筋のもとに身を寄せていたが、田舎で豆腐の振り売りをするわけにもゆかず、半年近く肩身の狭い思いをして、ようやく元の暮らしに戻れると喜んでいた矢先のことだった。
吾一からわけを問われると、八兵衛は、吾一はこれまでに店賃を半年分ほども溜めたままになっており、このかねを耳を揃えて出さない限りは、新しく建て直した長屋に元のように住まわせることはできないと答えたのであった。
店賃を溜めたままであることは、むろん悪いことに相違ない。しかし、この半年近く稼ぎがなかったのだから、とても半年分もの店賃を一括で払うことなどできようはずもない。暮らしが元に戻ったら一生懸命稼いで、溜った分の家賃も少しずつ返すようにするから、なんとか元のように住まわせてほしいと吾一は手を合わせたけれども、八兵衛はこの願いをあくまでも突っぱねた。
「これまでも店賃の催促をするたびに、お前は同じようなことを言っては払わず、けっきょく店賃を溜めてきた。酒手に回すかねはあるが店賃に回すかねはない、というのは理屈に合わないし、こんな押し問答をいつまでも続けていてもしょうがないから、今回はわたしも心を鬼にしてこう言うのだ。この長屋の普請だとて、わたし自身も方々から借銀をしてなんとか建て直しているのだから、お前にも相応の覚悟を決めてもらわないと困る」
そう八兵衛は言った。確かに言っていることは八兵衛のほうが正しい。けれども吾一もこの期に及んで、またぞろ葛飾の親類の家に権八を決めこむわけにもいかず、さりとて他に行くところもないのだから、いったいどうしたらよいだろうと途方に暮れて、もと同じ長屋で隣に住んでいた刷毛職人の弥五郎とその妻のおせんに相談に行った。すると、「そりゃあ大家もあまりに不人情だ。うちだって三四ヶ月は店賃を溜めているから、この分じゃあおれ達も長屋に戻れなくなるかもしれねえ」そう言って弥五郎は吾一を連れて、八兵衛のもとに掛け合いに行った。
ところがミイラ取りがミイラになるの譬のとおり、「今後はきっちりと店賃を払うことができる者以外は、うちの長屋には置くことはできない。それは弥五のところも同じことだ」と八兵衛から決めつけられてしまい、二人はすごすごと退散するほかない結果に終わってしまった。これが昨日の昼までの出来事である。
しょんぼりと帰ってきた二人を見て怒ったのは、勝ち気な質の女房のおせんであった。
「お前さんたちじゃあ埒があかないよ。だらしがないったらありゃあしない」
そう言って彼女は午後いっぱいの時間を使って、いまは方々に散らばって住んでいる八百八店の元の住人に声をかけて回った。すると店賃を溜めていたのは彼らだけではなく、長屋の住人の半分にも上ることが分かった。普請が終われば、元のように長屋に戻れると誰もが思っていたため、みなにわかに色をなして、「このままでは、この春から住むところが無くなってしまう。なんとかしなければ」と言い合い、住人たちが結束して家主の八兵衛に交渉をしよう、それには普請が終わって引渡しになる前のほうがいい、ということになったのである。
「……おれのせいでとんだ騒動になっちまって、すまねえな、みんな」
しょんぼりした様子でそう吾一が言うと、すぐにおせんが、
「なに言ってんだよ、吾ぉさん、みんなおんなじ立場なんだ。気にすることなんかないよ」と答えた。
ここに集まったのは、一人暮らしの吾一と弥五郎夫婦、錺職人の藤次夫婦、それから海苔屋に通い奉公をしている千吉夫婦であった。弥五郎夫婦には二人の子がいて、藤次夫婦の子は一人立ちをしたあとで、それから千吉夫婦にはまだ幼い子が一人いた。
弥五郎とおせんの二人の子らはいたずら盛りで、新しく建て直されたばかりの長屋の建物が物珍しいようで、しきりにあちこちを走り回ったり、開いた戸口から中を覗き込んだりしていた。千吉の子はまだ乳飲み子のため、女房が背中におぶっていた。
「それにしても、集まったのはこれだけかえ」
呆れたような顔で藤次がそう口にすると、集まった人びとは互いに顔を見合わせた。
「おおかた面倒事には掛り合いになりたかないんだろう」
「ちぇっ、意気地のねえ話だな」
忌々しそうに弥五郎が言うと、「本当だ」と皆が口々に答えた。
「店賃を溜めてたのはここにいる皆だけじゃあないんだよ」
おせんが口を尖らせてそう言った。
「それなのにいざ掛け合いをしようとなると、これだけしきゃ集まらないなんて、情けないったらありゃあしないよ」
するとここに集まった人びとはみな同じ思いでいるらしく、全員がおせんに向かってうなずいてみせた。
「あたしが腹が立つのはね」と、藤次の女房のおきわが口を挟んだ。
「店賃を溜めたのも、手前勝手な理由ばかりじゃあなかったってことだよ。みんな、覚えてるかい、以前にお石さんが病に臥せっちまった時だって、その面倒を見たのはあたしたちだけだっただろう。大家は指一本動かさなかったし、びた一文出さなかったんだよ。お石さんの葬送だって、あたしたちが万事手配をしたんだし、その後の正坊の面倒だって、あたしたちだけで見てやっていたんだ」
「そうだよ」と、おせんが勢い込んで言った。
「正坊があんなに悪たれ坊主になっちまったのだって、あの大家があんまり邪険にしていたからじゃあないか」
「正坊かぁ」千吉がそう言って溜息をついた、「……どこかで生きていてくれりゃあいいけどなぁ」
するとしばらくその場はしんとなった。しかしやがて、ふいに藤次が「そうだ、おれはあいつを見かけたぜ」と言うと、皆が彼の顔を見つめた。
「どこでだい」
「ほら、このあいだの棟上げの日よ。皆がおひねりを拾うのに夢中になっていた時に、見物人の中で一人、顔の真っ黒ながきが遠巻きにして見ていたけれども、あれはたぶん、正坊だったのに違えねえとおれは思うんだ。おれが、おい正坊、って声をかけようとしたら、すっとどこかへ隠れちまったんだけどな」
「まさか藤さんのいつもの法螺じゃあないだろうね」
「違わぁ、こりゃ正真正銘、本当の話よ」
「もし本当なら、正坊はまだ生きてるってことになるよ」
おせんは顔を輝かせてそう言った。「あの火事の最中に姿が見えなくなっちまったから、てっきりもういけないかと思っていたけど……もし藤さんの話のとおりだとしたら、まんざら悪い話ばかりでもなかったってことになるね」
「……けどよう」と千吉が言った。
「あいつが生きていたとして、誰がその面倒を見るんだい。以前ですら手一杯だったんだぜ。それに、肝心のおれたち自身がここへ戻れるかどうかすら分からねえんだ……とすりゃあ、この期に及んで正坊の面倒を見るなんてこたぁ、とても無理な話なんじゃああるめえか」
「……そうさなぁ」
そう言って皆うつむき、ふたたび井戸の周りはしんとしてしまった。
松造は先ほどからずっと、長屋のうちの井戸端に近い一軒の戸口の陰で、板戸の立てつけや天窓の開け閉めの具合などを見ながら、彼らの会話を聞いていた。全部が全部聞き取れたわけではなかったけれども、おおよそは聞き取ることができたため、ここへきて黙っていることができなくなってきた。──正坊は死んじゃあいねえぜ、そう言おうと思って、皆のもとへと出て行こうとしたら、暗がりのなかで彼の袖を引く者があったので、驚いて下を見ると、いつの間にか二人の子供が彼のすぐそばに立って、こちらを見上げていた。そして人懐っこそうな顔をした年かさのほうの少女が、「ねえ」と話しかけてきた。「おじちゃんはだあれ」
ちょうど同じ時に、八兵衛が一人で裏長屋の普請場へとやってきていた。八兵衛は木戸をくぐると、路地で腕組みをしながら建物の仕上がりを確認していた安吉の姿を認めたので、「棟梁」と言って彼のもとへと歩んでいった。すると安吉の後ろから長屋の住人がばらばらと出てきたので、少しく驚いた顔をした。しかしその中に昨日話したばかりの吾一と弥五郎がいるのを認めて、彼らがなぜここにいるのか、すぐに理解したらしかった。
「八兵衛さん、聞いたよ」
と、初めにおせんが勢い込んで口にしてから、そのあとの言葉を飲み込んだ。何から話せばよいのか、混乱しているような様子だった。八兵衛は紅潮したおせんの顔を見ると、いかにも迷惑そうな表情になった。
「吾ぉさんに、ここに戻ることは許さないって言ったんだってね。するとなにかい、店賃を溜めた者はみんな、この長屋に戻ることはできないってことになるのかね」
「……なにも全員とは言っちゃあいないさ」
「全員でなけりゃあ、誰が戻って、誰が戻れなくなるんだい。それを教えてもらおうじゃないか」
おせんの言葉を聞き、八兵衛はむっとして口を引きむすんだ。そして、改めて自分に注がれている皆の視線を意識した様子で、
「そんなことは、今日ここで立って話すようなことじゃあない。明日改めてゆっくりと話すことにしようじゃないか」と言った。
「明日ゆっくりとだなんて、冗談じゃあねえ。おれたちがここへ戻れるのかどうかが、かかっているんだ。今日はっきりとした話を聞けるまでは、おれたちもここを動くつもりはねえぜ」
藤次がそう言うと、昨日とは違い、弥五郎も「そうだ」と言って、ぐいと前へ出た。
「おれたちだって、なにも溜めた店賃を踏み倒すとかなんとか、そんなことは言っちゃあいねえんだ。なんなら誓言を立ててもいいぜ、溜めた店賃はきっと払うから、ひとまずは全員をここへ戻らせて欲しいって、それを言いてえだけだ。それを言うためにみんなでここへ集まったんだよ」
二人の口調は想像よりも激しいものであったらしい。八兵衛の表情は急に強ばったものへと変わった。彼は「ふむ」と言ってため息をついてみせてから、自分の周りを取り囲むように立っている長屋の住人を、今度は数でも数えるようにじろりと見回した。それから再び弥五郎と藤次に視線を戻して、
「……誓言を立てるのもいいが、ほかの店子の店賃のことも、弥五が保証でもしてくれるのかね」と言った。
そうして八兵衛はちらりと吾一のほうを見た。すると吾一は首をすくめて下を向いた。
「さぞかし意地の悪いことを言っていると思うだろうが、わたしも遊びで差配をやっているわけじゃあないんだ。吾一にも言ったが、わたし自身、ここの再普請は方々から借銀をして、ようやっとの思いでやっているんだ。それがどういうことだか、お前さんたちには分かるかね。利子の付いたかねを借りるというのは、つけや店賃を溜めるのとはわけが違うんだ」と言って八兵衛は、いったん言葉を切った。
「それがどういうことか、お前さんたちには分かるかね」
「……じゃあよう」と、だいぶ間を置いてから千吉が口を開いた。
「おれたちはこれからどこに住めばいいんだい」
千吉の途方に暮れたような声は、長屋の住人たちのいま置かれている立場を象徴するものだった。すると今度は八兵衛のほうも返す言葉が見つからず、黙り込んでしまった。
「そうだよ、八兵衛さん、あたしたちだって、ともかくも住むところがなくっちゃあ、返すものだって返せないんだよ」
おきわの声は悲痛なものだった。しかしその声にかえっていら立ったような様子で、八兵衛は「うるさい、そんなことはこっちだって、重々承知してるさ」と答えた。
そこへ、「ちょいと失礼します」と、松造が長屋の住人の後ろからおもむろに声をかけた。
「あっしは先ほどから皆さんのお話を聞かせてもらっていたんですが、……どうでしょう、なんとかこちらの皆さんを、まずは長屋へ戻してもらうわけにはいきませんでしょうか」
見知らぬ男から突然声をかけられたので、八兵衛は怪訝な顔をして、「誰だね、お前さんは」と問うた。また住人たちも、みな振り向いて彼を見た。
「あっしはここの長屋の普請に関わった大工で、松造と申します。差し出がましい口を利くようですが、お話をうかがっていれば、たしかに大家さんの言うことはごもっともだ。けど、周りをよく見て下さい、これだけの大きな火事のあとでは、まっとうな理屈ばかりが通るわけじゃあねえ。大家さんにもいろいろ事情も都合もおありでしょうが、ここは人助けだと思って、ひとまずは皆さんを長屋へ戻してあげていただけませんでしょうか」
「お前さんは、……お前さんはいったいどういうつもりで、この長屋のことに首を突っ込むのかね。聞けば、ここの普請の棟梁ですらない、たかが手間取り大工のようじゃあないか。悪いが、そんな者に余計な口を利いて欲しくはないね」
にべもない口調で八兵衛にそう言われ、松造は頭にかっと血が上るのを感じた。たかが手間取り大工だって。何を言いやがる、そのたかが手間取り大工が集まって、材料も予算も限られたなかで、この長屋を建てたんじゃあねえか。そんな言葉が喉元までこみ上げてきて、われ知らず両手の拳をぎゅっと握りしめた。
──しかしここで頭に来たら、全てがぶち壊しだ、ここで怒っては駄目だ。
そう思い直して、いちど深呼吸をしてから、「……あっしは縁あって、火事のあとにこちらの長屋にいた正太をしばらく預かっていました」と言った。その言葉を聞いて、八兵衛も皆も再び松造を注視した。
「そうしてあっしはその正坊と約束をしました。お前のいた家を、きっと元どおりにしてやるってね。だから、まんざら関係のねえ者でもないんです」
「じゃあ正坊は生きて、お前さんのところにいるんだね」
おきわにそう言われると、松造は目を伏せた。「それが面目のねえ話ですが、今年の始めにおれがつまらねえことであいつを叱りつけたばっかりに、正坊はぷいと出て行っちまって……それっきり戻っちゃあこねえんです」
そう聞いて、いったんは明るい表情になりかけていた長屋の住人たちから、ため息が漏れた。また松造自身も正太のことを話したことで、正太が出て行ったときのことを思い出し、きゅっと胸を締め付けられるような心持ちがした。
「……正坊が戻ってくるかこねえか、それは分かりません。けどいずれにしても、おれたち大人の都合で、子どもたちの居場所がなくなっちまうのは、間違っていると思うんです……青臭いことを言うようだが、あっしはそう思います。皆さんもそうは思いませんか」
そう言って松造は、自分の前に立っていた二人の子らの肩に手を置いた。
「おうめ」
と、おせんが子どもの名を呼んだ。
「付け火でもあったんでねえかぎり、火事が起こったのは誰のせいでもねえ。だから起こったことを、今さらどうすることもできねえでしょう。大事なのは、そのあとのことだ。せめて、親のある子にも、それから火事で親を失った子にも、住むところくれえは用意してやるのが、おれたち大人のすべきことなんじゃあねえでしょうか」
すると皆の背後から、ぽんぽんと手を叩くものがあった。松造も振り向いてみると、「まずまず、いい話を聴かせてもらったな」と言って、安吉が笑顔をこちらに向けて立っていた。
「しかし大家さんをあんまり困らせてもいけねえ。お前の言うとおり、大人にはそれぞれの立場も都合もあるんだ。だからそう簡単に決められる話でもあるめえよ」
そう言いながら安吉は笑顔のままでこちらへ歩いてきて、「ねえ、八兵衛さん」と仏頂面の八兵衛に声をかけた。「このことは、ここの町役人とも話してみたほうがいいんじゃあないでしょうか」
安吉は、八兵衛が何か言いたそうに口を開きかけたのには構わずに、松造の前に立った。そしておもむろにしゃがみ込んでから、少女の両腕に自らの節ばった手を添えて、「ところで、おまえはおうめちゃんと言うのかえ」と尋ねた。少女が黙ってこくりと頷くと、
「おうめはここへ戻りたいと思うかえ。それともいま住んでいるところの方がいいと思うか、どっちだえ」と重ねて訊いた。
おうめは柔和な笑顔を向けている安吉の顔と、仏頂面の八兵衛の顔、それから心配そうな表情の両親の顔を順繰りに見た。そして松造の顔を最後に見上げると、松造はおうめに向かって頷いてみせた。
「……早くお家に帰りたい」
そう小さな声で言って、おうめはつないでいた弟の手をぎゅっと握り、弟は顔をしかめた。
おうめの答えは、問われたことへの回答にはなっていなかった。けれども、そこにいた者みなが彼女の言葉の真意を理解した。
「よしよし、そうか」
そう言って安吉は、おうめの頬を左手の甲でそっと撫でた。するとおうめは、
「ねえ、いつまでお話してるの。早くお家に入りましょうよ」と言った。
安吉はおうめに向かってもう一度にっこりと笑いかけ、「よしよし」と言った。それからおもむろに立ち上がって、「じゃあ八兵衛さん、いつまでも立ち話もなんだ、ここらで引き渡しをさせてもらいましょうか」と言った。八兵衛は依然として渋面のままだったけれども、安吉はまるでその理由が分からないとでも言わんばかりに柔和な笑顔を向けた。
長屋の住人と八兵衛との話が終わったわけではなかった。しかし安吉に促されてその場から歩み去ってゆく二人の後ろ姿を見送ったあと、互いに顔を見合わせた弥五郎や藤次らに向かって、松造は「心配するこたぁねえさ」とでも言いたげな表情を向けた。それからおうめに向かって微笑みながら、もう一度頷いてみせた。
「若棟梁からなんと言われようと、おらぁご免こうむるぜ」
そう言って泰三は、右手に持っていた猪口を膝のところまで下ろして、松造から視線を逸らした。
松造はしばらくの間、黙ったままで相手の顔を見つめていた。泰三は幾度かちらちらとそんな松造に視線を走らせたのち、やがてそのように見られていることにも我慢がならないといった様子で、「だいてえなあ」と言って赤い顔を松造に戻した。
「松枝町の普請だってそうだぜ。引き渡しの日にあんたが差し出がましいことを言い出したばっかりに、棟梁は……いや、安吉棟梁だけじゃあねえ、常盤町までが施主から嫌な顔をされる羽目になったんだ。それもこれも、全てはあんたに原因があるんだぜ。ぜんたいあんたは、そのことを本当に分かっていなさるのかね」
そう言って泰三は、八百八店の引き渡しの時のことを引き合いに出した。安吉棟梁がわざと町役人の名を口にすることにより、たとえ理由があったにもせよ、大火事の後に店子を追い出すような行動を取るのは黙許されないのではないかと、暗に八兵衛に伝えたことを言っているのであった。お陰で住人たちは後日、吾一も含めて全員が建て直された長屋に戻ることが許されたけれども、八兵衛は余計な行動を取った松造や安吉のことを快くは思っておらず、最終的にはこの普請全体の棟梁である常盤町の嘉一の顔をも潰す結果になってしまったのだ。
泰三が言っていることは実際のところそのとおりだった。安吉はこのことについて、松造には何も言わなかったけれども、安吉のもとで働いている大工たちの中には、新入りのくせに棟梁の面目を潰すような行動を取った松造のことを快く思っていない者があるようだし、なかでも泰三はそのことをはっきりと態度で示すことを厭いはしなかった。
その泰三を、今夜松造は「一緒に飯でも食わねえかい」と言って誘い出したのである。松造は以前に安吉から言われたとおり、自身が棟梁として紺屋町の助次の仕事場の仮普請を請け負うことを決めており、その仕事でともに働いてもらうつもりの大工を三人、呼び出したのであった。
そのうちの一人は源蔵親父であり、一人は源蔵よりも少し年下の孝次という名の大工で、もう一人がこの泰三である。
源蔵には、技術的なことに関してあらゆることを相談することができた。もう以前のようには手が動かなくなってきてはいるものの、それでも堀川町で働く者のうちでも源蔵はもっとも有能な大工の一人に数えることができた。
それから孝次は、源蔵とは全く異なった能力の持ち主だった。無口な男で、茅町でいえば清二に似ていると言えよう。源蔵が経験に裏打ちされた勘を頼りに仕事をするのに対して、孝次は普請全体を見渡しながら、碁盤の目を埋めるように仕事を進めてゆくことができる大工で、本来なら彼こそ棟梁の名代を安心して任せられるような大工であった。
そして泰三は、これまで松造に対しては反抗的な態度を見せることが多々あったものの、下職的な仕事はとても上手にこなす男だった。なのでこの三人とともに仕事をすることができれば、まずまず順調に仕事をはかどらせることができる、と松造は考えたのであった。
「あんたは余計なことに首を突っ込みすぎる。それがあんた一人に関わりのあることならいいが、大抵は周りの者にも迷惑がかかるんだ。とばっちりを食う側からすりゃあ堪ったもんじゃあねえ」
そう泰三は続けて言った。もうだいぶ酔いもまわってきているらしく、言葉遣いにも遠慮会釈はなかった。
「しかもあんたは、周りにどれだけ迷惑をかけようとも、最後までやらなけりゃあ気が済まねえんだ……そら、その眼だ」そう言って泰三は松造の顔を指差した。
「そんな眼をして、おれをこの話に引きずり込もうってんだろうが、その手は食わねえよ。あんたと一緒にいると、ろくなことにゃあならねえんだ」
松造は泰三の言葉を聞いても、べつに腹は立たなかった。むしろ彼の言うことがいちいち図星を指しているので、内心おかしくてしようがなかった。そして思わず松造がくすりと笑みをもらすと、泰三はいっそう顔を真っ赤にして、そっぽを向いてしまった。
そこへ孝次が、「話は分かったが、この普請について、あんたの方で算盤は弾いてみたのかね」と問うてきた。
「ええ、あっしはこっちの方は得意じゃあねえんで」そう言って、松造は算盤を使う手真似をしてみせた。「幾度も計算をし直してみましたから、まず大丈夫だと思います」
「しかし決して儲けの出る仕事じゃあねえな」
そう言って孝次は苦笑した。つられて松造も笑顔を見せて、
「ええ、そのとおりです、決して儲けの出る仕事じゃあありません。けれども、赤字にはならねえようにしますので、そこのところはあっしに任せて下さい。初めにざっとお話ししましたが、工期はひと月、関わる職人の数は、あっしも含めてここにいる四人だけです」
「材料の手配はできているのかね」
「はい、足りない材木は三日前に棟梁と一緒に仕入れに行ってきました。本来なら……」と言いかけて、松造は苦笑いをした。
「家を建てるのに使えるような代物じゃあねえ。けど、川越から新河岸川、大川を下ってきて堀川町まで、積み替えなしで高瀬舟で運んでくれるので、すぐに普請に取りかかれます」
「そこまで手配ができているんだったら、問題ねえだろう。おれの方は構わねえよ。源さんだって異論はあるめえよ、なあ」
「ああ」と源蔵が相槌を打つのと同時に、下を向いていた泰三がおもむろに顔を上げて、再び「おらぁご免こうむるぜ」と言った。
「なあ」と、松造は泰三に向き直り、落ち着いた声で語りかけた。
「おれのことで面白くねえことがあるのは分かっているが、ここはなんとか我慢をしてもらえねえだろうか。今回の普請を、できるだけ少ない人数でやろうと思うと、どうしても今日ここに呼んだ源さんと孝さんと、それからお前さんの手が必要なんだ。おれは松枝町の普請であんたと組んで仕事をしてみて、改めてあんたの腕が分かったんだよ。だから、この工期で普請を終わらせようと思ったら、人選からあんたを外すわけにはいかねえんだ」
そう言われて一瞬、泰三はまんざらでもないような顔になったものの、皆の視線が己に注がれているのにふと気付くと、「いや、その手には乗らねえよ」と慌てたように答えた。
「おれにとっちゃあなあ、あんたは疫病神なのさ。茅町を出たあとにここへやって来て、これでせいせいすると思ったのに、あんたが後から追っかけてきて、しかもまたぞろあんたの指図のもとで仕事をしなけりゃあならねえなんて、へっ、冗談じゃあねえ。おらぁもうこれで帰らせてもらうぜ」
そう言い残して、泰三は立ち上がってふらつく足取りで店を出て行った。
──やっぱり駄目だったか。
半分予想はしていたものの、ここまではっきりと拒絶されると、さすがに松造も気を落とした。すると彼の背後でくすりと含み笑いをする声が聞こえたので、誰かと思って振り向いてみると、おそよが「いまの人、お正月のときのあんたとよく似てたわね」と言ってそこに立っていた。
そうか、ここは井筒屋だったな、とそのことに改めて気付き、ついでにおそよのことも思い出した。
「おれと似てたって」
「ええ、冗談じゃあねえって、大きな声で何度も言ってたわ」
松造は「そうかい」と言って頭を掻いた。「そうかな、そうかもしれねえな」そう言ってから、彼は声を立てて笑った。
「確かに、おれが言いそうなことだ」
おそよに酒と肴を追加で注文したあと、孝次が松造の顔を見てこう言った。
「茅町でのことだが、泰三とは、何か遺恨でもあったのかい」
「いや、特になにかがあったわけじゃあねえので。たぶん、馬が合わねえということなんでしょう。……もっとも、こっちでは覚えがなくっても、向うでは何度も嫌な思いをしてきたのかもしれませんが」
「そうかい」
そうして松造は、正六が「冗談じゃあねえ」と言って、おどけて彼の口真似をしたときのことも思い出していた。チョロともあれから一度も顔を合わせてはいないのだ。泰三だけではない、チョロとも、このまますれ違いのままになってしまうのだろうか。
「ひとまずは泰三のことはあきらめて、別の者を使うことにしたほうがいいかもしれねえな」
そう源蔵が口を開いた。
「あんまりぼやぼやしてると、普請が終わるよりも前に初鰹売りの声を聞くようになるぜ」
「ちげえねえ」
孝次がそう間の手を入れると、三人は笑った。
その後、松造はもうすこし紺屋町の仮普請のことを詳しく話し、泰三の代わりの人選について二人の意見を聞いた。そうしてけっきょく、年寄りが多い堀川町で働いている大工のうちでは、経験も年格好も泰三に近い、鉄造という四十歳を少し過ぎた大工に声をかけることに決めた。泰三を使えないとすると、松造がやらなければならない仕事が増えることが予想されたが、この際やむを得なかった。
「はい、お待たせ」
そう言っておそよが注文した肴を持ってきた。そして松造の顔をのぞき込むようにすると、「ねえ、あんた、おそよさんとは仲直りしたの」と尋ねてきた。
「おそよと、仲直りだって」
「そうよ、この間の様子だと、おそよさんと喧嘩でもして、それで落ち込んだり自棄になったりしてるような感じだったわよ」
「止してくれ、おれはべつにおそよとは……」
そう言いかけて、松造はふと口をつぐんだ。それからにこりと笑って、「心配してくれてありがとうよ。だがあれから、お陰でちゃんと仲直りできたから心配はご無用だ」
「あら、そう。残念だわね。もし仲直りできてなかったら、あたしが名乗りを上げようかと思ってたのにさ」
「ほんとかい」
「噓よ、馬鹿ねえ」
そう言っておそよは松造の肩をぽんと叩いた。それからふいに松造の耳元に口を近付けると、「ねえ、あんた、あっちを見ちゃ駄目よ」と小声で言った。おそよはそう言いおいてすぐに去っていったし、そう言われても松造にはなんのことやらさっぱり分からなかった。
「堅物だと聞いていたのに、若棟梁も隅に置けねえなぁ」
孝次からそう冷やかされ、彼は分からないながらも、おそよにそう言われたことでかえって気になったふうに、幾度も振り返って指されたほうをちらちらと見た。すると、離れたところに陣取った職人ふうの一群のうちの一人の男と幾度も目が合い、そこでようやく彼は気が付いた。
──そうか、あの男はあの時の山正の木場職人か。
そう思うと、考える間もなく彼はすっと立ち上がっていた。
「おい、松造、止めておけ」
源蔵親父は始めから彼らの存在に気付いていたのだろう。松造が立ったのを見ると、すぐに彼を制止したけれども、「いや、大丈夫だよ」と彼は言い、狭い店の中を縫うようにして、他の客の背中にぶつかりながら、彼らのもとへと歩んでいった。
むこうはもちろん松造のことを覚えていたのであろう、彼がやって来るのを見て、「来やあがったか」といった表情で立ち上がり、仲間らしい四人ばかりの人びとの会話もぴたりと止まった。
松造は相手の顔をほとんど記憶していなかった。けれども男の前に立つと、半纏と腹掛けの間からのぞいた彫り物にはっきりと見覚えがあったので、ああ、この男だったな、と確信をした。
「なんだ、てめえ」
と、男は赤い顔を歪ませて、けんか腰で言った。
すると松造が、「おい、あにい、この間はすまなかったな」と落ち着いた声でいきなり謝ったので、男は毒気を抜かれたような顔になってぽかんと口を開いた。
「あの時は酔った勢いで、いろいろと益もねえことを言っちまったようだが、悪気はなかったんだ、このとおり、勘弁してくんねえ」
そうして松造は男に向かってぺこりと頭を下げた。
「誰だって自分のところの主の悪口を言われりゃあ、頭にくるにきまってらあ。だから殴られたのはおれが悪かったんだ。けれども今はもう、おれは茅町を出て、別のところで仕事をしてるんだ。だからあの時のことは水に流してくれねえか」
「茅町を出たって」
「そうさ、おれがあんまり余計なことに首を突っ込むもんだから……」と言いかけて、ついさっき泰三から言われたことを思い出し、自嘲的にかすかに笑った。「だから工一から追い出されたのさ。こうして罰も当たってるんだ、そのことに免じて、なんとかこの間のことは水に流してくれ」
そう言って松造は、男の手を両手でぎゅっと握った。そうして相手が口を開いて何か言おうとするよりも前に、男の二の腕をぽんぽんと叩くと、「ありがとうよ。さすがあにいだ、恩に着るぜ」と言った。それから松造は振り返ることもなく、さっさとその場を去り、「じゃあ親父、それから孝さん、そろそろ帰るとしようか」と二人に声をかけた。
勘定をしてから井筒屋を出ると、いくぶん酔ってもいるので、顔に当たる夜風が心地良かった。桜は見頃を過ぎたけれども、路傍の草花が(松造はほとんどその名も知らなかったが)目を楽しませてくれるようになってきていた。春本番になってきたということは、それらあらゆる草木が育つために雨が多くなる、つまりは、天候が不順になるということでもある。じっさい、今夜も曇り空で、これからしばらくは雨が多いことを覚悟しなければならないだろう。
松造が夜空を見上げていると、孝次が彼の考えを読んだかのように、「これから雨が多くなるだろうから、ひょっとするとひと月じゃあ難しいかもしれねえなぁ」と呟いた。
「そうですね」
松造は少し思案する表情になり、続けてこう言った。「今回は紺屋の仕事場の再普請ですから、藍の甕を動かすわけにはいきません。たしかに雨は心配なので、まずは甕が雨に降られても濡れたりしねえように養生をしてやって、それから仕事に取りかかることになります」
それから松造は二人に向かってぺこりと頭を下げた。
「それじゃあ明後日から、よろしくお願いします」
「まあ、お天道様の機嫌には注文はつけられねえんだ。焦ったってしょうがねえ、ゆっくりやるとしようや」
そんな源蔵の声に送られて、松造は二人とは別れ、御船蔵の脇をしばらく歩いたのち、夜の両国橋を渡った。
自分を殴った山正の男に詫びることができたのは良かった。けれども与一郎に頭を下げてまで、茅町との取引を再開してくれるように頼むつもりはさらさらなかった。今は売り手の立場のほうが上なので、向うのいいようにあしらわれているのかもしれないが、これが江戸市中の再普請がひと段落したのちには、今度はどんなに安くしたってなかなか材木が売れないようにだってなるのだろう。いつか一之助が、「おめえには分からねえことがまだまだ沢山ある」と言ったことの一つが、彼はぼんやりとではあるが分かったような気がした。
それにしても泰三との関係がなかなか思うようにいかないのは残念だった。チョロとのことだってそうだ。こちらに悪意がなくっても、所詮はいったんこじれてしまった関係は回復できないということなのだろうか。彼はそうは思いたくなかった。
松造は橋を渡りながら、黒々とした水面のむこうに見える家々の灯りを見た。右手の浅草方面にはかつてのままに灯りが見えているけれども、向かって左手はいまだに暗いままで、手前の武家屋敷も含めて、灯りはぽつりぽつりと見えているだけである。
それでも少しずつは、人びとの暮らしが戻りつつあると言えなくもない。あの中には、彼が直接関わった岩本町の酒屋や、松枝町の八百八店の長屋の灯りもあるのだ。ただ、紺屋町の助次の仕事場の灯りが、本当の意味で点されるのはこれからのことだし、さらにはあの灯りのどこにも、おそらく正太の居場所はないのである。そう考えると、どうにもせつなかった。
正太は、再普請の終わった八百八店に、けっきょく姿を見せずにいた。もちろん佐兵衛店にも戻ってきてはいない。だから上棟式の時にちらりとその姿を見かけて以来(彼はあの少年を正坊だと確信していたが)、松造と正太との再会は叶わずにいた。
──正坊が八百八店に戻らないのは、結局のところ、おれが正坊との約束を果たせなかったせいなんじゃあないのか。
松造の頭にふとそんな思いがよぎり、彼は暗い橋の上で立ち止まった。長屋の再普請に関わったことにより、自分なりには約束を果たしたつもりでいたのだ。けれども、正坊は違った眼で見ているかもしれないではないか。そう考えると、途端に自分の行動に自信が持てなくなった。こんなことで本当に、たとえ少しずつでも、前に進んでいると言えるのだろうか。こうして立ち止まって考えると、失ったもののほうが多いように思われてしかたがなかった。
──駄目だ、考えていてはだめだ。考えていると、一歩も前へ踏み出せなくなってしまう。
松造は、ともすると逡巡しがちな思考を振り払うように頭を振った。いまは目の前の、助次の仕事場を建て直すことに集中しなければならない。結果を気にかけ始めたら、何もできなくなってしまう。そう自分に言い聞かせるようにして、松造はまだ冷たい春の夜風に吹かれながら、家路をたどって再び歩き出した。
うららかに晴れた午どきに、おそよは風呂敷包みを両手で持ち、下駄を突っかけて米屋の勝手口から表へと出てきた。昨日は日中に冷たい雨が降って、袷ではとてもいられないような肌寒さだったけれども、今日は日が高くなるにつれて良い陽気になってきていた。数羽の雀がしきりに鳴きながら長屋の屋根の上を渡っていて、陽の当たった井戸端では猫が気持ち良さそうに寝ていたが、おそよはそうした周りのことはあまり目に入らない様子で、気遣わしげな表情で路地の奥へと歩いていった。
実は二日前からたあ坊が熱を出しており、おそよはずっとその世話を焼いているのである。見たところただの風邪のようではあるが、なにぶんまだ幼いので、真っ赤な顔をして苦しそうに息をしているのを見るのは辛かった。
さらにこれと時を同じくして、ここ数日の間に孤児たちの行く先がだんだんと決まってきていて、七人いた子らのうち、三人がもといたところへ引き取られることが決まり、たあ坊を含めた残りの四人も、今後どうするのか、町役人と佐兵衛との間で再度話し合いがなされていたのである。行く先の決まった三人のうち、昨日までに二人がすでにここを出て行った。そして高い熱を出して寝ているたあ坊も、まるでそうした事情を全て承知しているかのように、しきりに寂しがって彼女の手を焼かせていた。
しかし、寂しいのはおそよも一緒であった。昨年のうちにきいちろうが長屋を飛び出し、続いて正月には正太もここを飛び出してゆき、そのあとにも一人また一人と引取先の決まった子どもたちがここを出て行くのを見ていると、心の中の穴がどんどんと大きく広がってゆく思いでいた。
──みんないつまでも、ここにいるというわけにはいかないのだ。
そう自らに言い聞かせはしているものの、ふと気付くと、洗濯や料理の手が止まってぼんやりしていたりすることが多くなってきていた。かれら一人一人の幸せを願い、行く末を案じることと、情の移った子どもが手もとを離れていくということは、まったく別の話であることぐらい頭では分かっているのに、気持ちが沈みがちになってしまうのを、おそよは自分でもどうすることもできずにいた。
「ねえ、お姉ちゃん、正ちゃんは帰ってくるかな」
と、寝床でたあ坊はよく口にした。「そうね、きっと戻ってくるわよ」そう明るい調子で答えてやることぐらいなんでもないはずなのに、ついいらいらした様子を見せてしまう自分にも腹が立った。
昨年の暮れに松造が長屋の壁をぶち抜いて部屋を広くしてくれたのも、今となっては、子どもの人数が少なくなるにつれてがらんとした雰囲気が強まるばかりなので、恨めしく思うくらいであった。その広い十二畳のうち、今は片側の六畳に枕屏風を立ててたあ坊一人を寝かしていて、残りの六畳にあとの四人が寝起きをしていた。
あたしがしっかりしなくては駄目だ。あたしが不安な顔をしていたら、みんなも不安になってしまう。しょうちゃんを見習わなきゃ。そう思いながら路地を歩いていたら、
「おや、おそよちゃん、たあ坊の具合はまだ悪いのかい」
そうすれ違いざまに長屋の住人の女房から声をかけられ、おそよは我に返ったように顔を上げて立ち止まった。
「あら」
「あんた、ずいぶんと思い詰めたような顔をしていたよ」
どぶ板ごしにそう言われて、おそよは「そうかしら」と言って首をかしげた。
「あんまり一人で抱え込まないようにおしよ。」
続けてそう言われると、はたから見て自分がどんな様子でいるのかが、あらためて分かった。
「ありがとう。困ったときには相談させてもらうわ」
それじゃあ、と言って、おそよは彼女とは別れて歩いてゆき、子どもたちの家の前に立って、ひとつ深呼吸をした。そうしてたあ坊を起こさないようにと、おそよは戸をそっと開けて、家の中へ入った。
たあ坊はかすかに寝息を立てて寝入っている様子だった。おそよはその枕元へ行って座ると、額の上に乗せてあった手拭いが落ちてしまっていたので、盥の水で手拭いをしぼり直してから、たあ坊の小さな額の上にそっと乗せた。するとたあ坊はゆっくりと眼を開けて、「ねえ、お姉ちゃん、正ちゃんが帰ってきたよ」とかすれた小さな声で言った。
「え、いつ」
「……おいらが寝ていたら、正ちゃんがここへ来て、ほらって言って、柿をくれたんだよ」
赤い顔をしてたあ坊がそう言うのを聞いて、この子はきっと夢を見て、それを本当のことと思い込んでいるのだ、とおそよはすぐに理解した。だいたい今の季節に柿などあるわけがないではないか。
彼女はたあ坊の言うことには逆らわずに、「そう」と言って、彼の前髪の辺りを右手で優しく撫でた。
「おいしかったよう」
そう呟くと、たあ坊は再び眼を閉じて寝息を立て始めた。
たあ坊以外の四人の子どもたちは外に出ているため、部屋の中は静かだった。また、たあ坊が熱を出してからというもの、しょっちゅう彼の様子を見にきていたおみよの姿も今はなかった。正月の破魔弓の一件以来、勘太と孤児たちとの間には溝ができてしまったのに、妹のおみよはなぜか足しげくここへ出入りするようになっていた。そのことをおそよは不思議に思っていたが、たあ坊が寝付いてからその理由が分かった。おみよは、たあ坊のことを心配しているのだ。
おそよは風呂敷を解いて、たあ坊の寝巻きの替えを取り出すと、この子が起きたら着替えさせなきゃ、と思いながらそれを枕屏風に掛けた。すると彼女が入ってきたのとは別の入り口の戸口で物音がしたので、誰か戻ってきたのかと思い、そちらに目をやった。
けれどもそれきり物音は止んでしまい、誰も入ってくる気配はなかった。誰も遠慮などするはずもないのだから変だなと思い、立ってそちらへと歩いてゆき、「だれ、おみよなの」と、わずかに開いた戸口に向かって小さく声をかけた。
「若棟梁、ちょっといいですかい」
そう助次に声をかけられて、「なんだい」と言いながら、松造は櫓の中から身をかがめて這い出てきた。「櫓」というのは、藍を染める甕が雨で濡れないよう、小屋の中で甕をすっぽりと覆うように、屋根を付けた一間四方ほどの櫓状の囲いをまず始めに建てたものである。時刻はもう七ツ半近くになるので、そろそろ作業を終えなければならなかった。
昨日雨に降られたせいで全てが一日ずれてしまったものの、雨が上がった今朝の早いうちに、当座に必要な木材を堀川町から運んできていた。そうして先日に源蔵や孝次に語ったとおり、まずは櫓状の覆いを組み立てて藍の甕を養生したのちに、助次が自分で建てた掘っ建て小屋を解体する予定であった。
助次のあとについて松造が外へ出てみると、材木を乗せた馬の脇に正六が立っていたので、彼は驚いた。チョロはばつが悪そうな顔をしており、松造と目が合うと、慌てた様子で目を逸らして、「この材木はどこから仕入れてきたんだい」などと言い、材木をぽんぽんと手で叩いた。
「見れば分かると思うが、そいつは材木屋から仕入れたんじゃあねえ。堀川町の棟梁の知り合いの庄屋から譲ってもらっているんだが、そんなことよりもおめえ……」
するとチョロはおもむろに腰を深く折って頭を下げ、「あにい、すまねえ」と言った。
「おれはまさかあにいが助次の仕事場の普請を請け負ってくれるなんて、思いもよらなかったんだ。三日ばかり前に助次からこのことを知らされて、おらぁ本当にびっくりしたんだぜ。
恥ずかしい話だが、おれは茅町の棟梁にここの普請の話をして断られてからは、正直この仕事は半ば諦めていたんだ。まさかに自分で音頭を取ってやるわけにもいかねえし……そう思ってぐずぐずしていたら、助次の野郎からあにいの話を聞いてよう。
友達のこのおれが諦めちまっていたのに、あにいがこの話をちゃんと覚えていてくれて、それからまさかあにい自身がこの普請を請け負ってくれるなんて……」
松造は「止してくれ」と言って、荒っぽくチョロの話をさえぎった。
「おれはなにも、そんなつもりでこの仕事を請け負ったんじゃあねえ。普請にかかる費用だって、あとでちゃんと助次から受け取るつもりでいるんだから、おめえに限らず、誰からも礼を言われるようないわれはねえんだ。だから湿っぽい話は無しにしてくんねえ。そんなことよりも、おめえ、こんなところへ来ていていいのか」
そう言われても、チョロが目を丸くして「なんのことか」といった顔をしているので、松造は「おれは茅町から追い出されたようなもんなんだぜ」と言った。
「そのおれのところへ出入りするのは、おめえにとってあんまり良い話じゃあねえだろう。違うか」
「そんな、水臭えことを言うなよ、あにい」そう言って、チョロは腕組みをし、松造の眼を初めてまともに見返した。
「十軒店の普請の後に、おれは他所の普請場の手伝いに行ってたんだけど、そこもそろそろひと段落しそうだから、そうしたらおいらもあにいの所で使ってもらおうと思ってるんだ。なにしろ助次の仕事場の普請をやるのに、このおれが指一本動かさねえなんて、そんなことがあっていいわけがねえ。だからたとえあにいがなんと言ったって、おれはここの仕事に加えさせてもらうぜ」
すると松造はにこりともせずに「駄目だ」と答えた。
「そんなことをしたら、おめえの為にならねえ。気持ちは分かるが、おめえまで茅町の親父を困らせるようなことはしねえでくれ」
チョロは「へっ」と言ってから、鋭い視線で松造を見上げた。
「いやだ、おれはなんと言われたって、ここの仕事を手伝わせてもらうぜ。もちろん手間賃なんか要らねえし、どんな半端仕事だってやらせてもらうつもりだ。たとえあにいが来るなと言ったって、おれは明日っからここへ来るんだから、そのつもりでいてくんねえ」
腕組みをしたままのチョロの口調は、まるで啖呵でも切っているような激しいものだった。さすがに松造も持て余して、「なんとか言っていただけませんか」と助次に救いを求めた。
「……あっしも気持ちだけで十分だって言ったんですがね」
顔を見れば、助次自身も持て余しているのは明白だった。松造が再び正六に眼を向けると、チョロは五条大橋の上の弁慶のような格好で仁王立ちをしたままでいた。そうか、こいつは助次のことでこんなにもしんけんになっているんだなと思い、彼はなんだか嬉しいような気持ちにもなって、暮れ始めた空を見上げた。すると、東の空を雁の群れが飛んでいるのが目に入った。
──そうか、そろそろ雁が北へ帰る季節になったんだな。
そんなことを考えていたら、松造は腹の底から力が湧いてくるのを感じた。世の中にはこうして大火事が起こったような時に、これ天佑なりと言わんばかりに欲心を働かせる輩もいるが、そうかと思えばおそよのように、またはこの正六のように、私心にとらわれることなく、その身を役立てようとする者もあるのだ。この世の中だって、まんざら捨てたもんじゃあねえ。そう彼は思った。
「よし、分かった」松造はチョロに視線を戻してそう言った。
「とは言っても、おめえまで茅町を追ん出るような真似はおれが許さねえ。だからおめえは、茅町での仕事は今までどおり続けるんだ。そうしながら、仕事が休みの日にだけ、ここへ手伝いに来てくれ。おめえもあれだけ啖呵を切ったんだ。半月やひと月ぐれえ休みなんか要らねえだろう。なあ、チョロ、これでどうだ」
「ここの普請の工期はひと月かそこいらだって助次から聞いたぜ」
そう言って、彼は不満げに口を尖らせた。
「とすりゃあ、おれが手を貸せるのは六日くれえがいいところだ。それじゃあ仕事をするうちに入らねえよ」
「うるせえ、文句を言うな。おめえにはちゃんと大事な仕事をしてもらうように按配をするから、余計な心配をするんじゃあねえ。そんなことよりもなあ」
そう言って松造は、チョロの脇の材木に顎をしゃくって見せた。
「堀川町が普請で使う材木はそこに積んであるような代物だ。茅町での仕事のようにはいかねえんだから、覚悟しておいたほうがいいぜ」
そう言いながらも彼はふと、泰三から「勘弁してくれよ」と文句を言われた時のことを思い出して、わずかに苦笑いをした。
「もっとも、おれも偉そうなことを言えた義理じゃあねえが」
チョロは腕を組んだまま、しばらく「ううむ……」と唸って考える素振りを見せた。そしてちらちらと松造に視線を走らせ、相手が自分をじっと凝視しているのを認めると、やがて観念したようにこう言った。
「そうしたら、さしあたっておれはいつここへ来たらいいんだい」
「そうさなあ……」
そう言って松造は再び上を向いて考えた。そうして指折り数えて「九日後だ」と言ってから、明日の作業のための準備をしていた孝次に声をかけた。「なあ、孝さん、明日から十日間で棟上げまで行くだろうか」
「雨さえ降らなけりゃあ、まず大丈夫だろう」
松造はチョロに視線を戻して、「そういうことだ」と言い、白い歯を見せた。「ひとまずおめえには棟上げに立ち会ってもらうことにしよう」
「そいつはいいや」と助次も笑顔を見せた。
「よし、分かったら、今からせいぜい道具の手入れをしておくがいいぜ。おめえの鑿じゃあ、そこにあるような節だらけの材木を相手にするのに、さぞかし骨が折れるだろうからな」
「はいはい、分かりましたよ」
そう言いながら正六は、地面に置いていた自分の道具箱を肩に担いだ。
「なにかってえとすぐに小言だ。いやんなっちまうな」そうぼやきながらも、彼の声は少し弾んでいるように聞こえた。
「それじゃあ、おれは帰らせてもらうけど、あにいのところにゃあ九日後の朝に迎えに行くからな。それまでしっかりと仕事を進めといてくれよ。じゃあな、助次」
そう言い残して、のしのしと歩み去ってゆく正六の後姿を見送りながら、松造と助次は互いに顔を見合わせて、「これじゃあ誰がこの普請の棟梁なんだか分かりゃあしねえ」と言って笑った。けれども松造は、胸のつかえが取れたような心持ちだった。
堀川町で仕事をするようになって、これまでとは違い、松造は文字どおり寄せ集めの材料で家を建てることを学ぶようなった。けれどもそれぞれの種類の木を、使う場所をあやまたずに組み合わせてやれば、きちんと家は建つのだということを、改めて安吉から教えられているように彼は感じていた。そうしてこのことは、人との関わりもきっと同じことなのだ。
これまで苦労をして枘を削ってきたものを、いざ組み上げるという時に、柱や梁、桁などの全てが気持ちよくすとんと組み上がったような心持ち、とでも言うのだろうか。いつもこんな風な気持ちにさせてもらえるわけではないだろうけれど、とりあえず今回は、助次やチョロとの関係は収まるべきところに収まったな、と松造は思った。
仕事を終えたのち、紺屋町の普請場からの帰り道で、松造はふと「そういえば親父」と源蔵に話しかけた。浅草御門の少し手前で、松造は浅草橋を渡って福井町へ帰り、源蔵ら三人は両国橋を渡って川向こうへと帰る間際でのことであった。
「おれがまだ子どもの頃、鑿を誂えてくれたのを覚えているかい」
問われて源蔵は、しばし目を細めて考える表情を見せていたが、やがて「ああ……」と言って頷いた。「そんなこともあったっけな」
「なんだ、忘れちまってたのか。今でもこの道具箱にちゃんと入ってるんだぜ」
「そんな昔のことをいつまでも覚えていられるわけがねえ」
「それもそうだな……じゃあ、どうしておれにこいつを呉れる気になったのか、なんてこたぁ覚えているわけもねえか」
少しばかり不平がましく松造にそう言われると、源蔵は眼尻にしわを寄せながら「それなら訳もねえ」と言って、松造の顔を見た。
「どんなものをお前にやったのかは覚えてねえが、なぜやったのかは簡単だ。そりゃあお前が暇さえあれば、木切れを削っていたからさ。何を作るというわけでもねえ、お前はふんふん独りごとを言いながら、放っておけばいつまでも木を削って過ごしていたぜ」
その言葉を聞いて、孝次や鉄造も大笑いをした。
「てえしたもんだ、やっぱり若棟梁は大工になるべくして生まれてきたんだな」
そう孝次から冷やかされ、松造は「ちぇっ」と言って口ごもった。「……余計なことを訊かなけりゃあよかった」
しかし彼は皆と別れてから、一人で近所の一膳めし屋で夕飯を食いながらも、源蔵の言葉が呼び水になったように、昔のことを思い出していた。初めて鑿と槌を使って木を削ることを覚えた時のこと、また源蔵親父が鉋をかけて、きれいな削りかすを見せてくれた時のこと。遊びで使っているうちに少しずつ鑿の刃がこぼれてしまったのを、砥石を使って研ぎ上げることを教えてくれたのも源蔵だった。
──刃物を研ぐときにはなぁ、こうやって、角度を一定にして研がねえといけねえ。そうしねえと、だんだんと刃先が丸くなっちまうんだ。
そう言いながら、親父は彼を後ろから抱くようにして、両手を彼の小さな手元に添えて、刃を研ぐのを教えてくれた。
──行って戻って、また行って戻る。始めのうちはゆっくりで構わねえ。ただし力を入れ過ぎても駄目だ。こうやって同じ調子でやることが肝心なんだ、分かったか、しょう坊。
刃物は常にきちんと手入れをして、最高の状態に保っておかないと、いい仕事はできない。そのことを教えてくれたのは源蔵親父だった。さっきチョロに小言をいったのをきっかけにして、思わぬことを思い出したけれど、彼はそこからさらに連想して、あの鑿を正坊がくすねたとき、自分が叱ったことを思い出していた。叱ったこと自体は間違えてはいないと今でも思っているけれども、この鑿は正坊にやっても良かったのかもしれないな、と彼は思い直していた。
どのみちまったく使っていない道具なのだ。それを自分がそのままただ持っているよりも、むしろ正坊に使わせてやるほうが良かったのかもしれない。彼が源蔵からこの鑿をもらったり、またその研ぎ方を教えてもらったりしたのも、ちょうど今の正坊と同じくらいの年頃のことだったのだ。
松造は払いを済ませてから店を出て、ひと月前よりもずいぶん暖かくなった夜風に吹かれながら、佐兵衛店へと戻ってきた。今日は帰りが少しばかり遅くなったのと、早朝から材木を運んだりしたのでくたびれてしまい、湯屋へ行くのが億劫になってしまった。今夜はさっさと布団に入って、明日の朝一番に湯を浴びに行こうなどと考えていたら、長屋の家の戸をほとほとと叩く音が聞こえたので「誰だい」と言いながら、彼はからりと戸を開けた。すると、そこに立っていたのはおそよだった。
「ねえ、しょうちゃん、ちょっと入ってもいいかしら」
松造はおそよの声音や表情になぜかどきりとしながら、「ああ、構わねえよ」と言って、彼女を家の中へと招き入れた。
「実はね、今日、正坊がここへ戻ってきたのよ」
松造の前に座ったなり、おそよはこう切り出した。そうして、口を半開きにして何も答えられずにいる松造に向かって、彼女はやや緊張しているものの落ち着いた口調で、「午過ぎころだったわ」と続けた。
「子どもたちの家の戸口で物音がしたから、あたしが様子を見に行ったら、あの子が外の壁際に隠れるようにして立ってたの。ほら、長屋の建物の端とゴミ捨て場との間よ。あたしが近寄ると後退りしたから、すぐに駆け寄って両手でぎゅって捕まえたわ」
そう言われて、彼にはその時の様子を、まるでいま目にしているかのように想像することができた。「……正坊が、帰ってきたのか」
そう言って松造は、まるで正太がいまここに戻ってきているかのように、部屋の中をぐるりと見回した。そうして小さな声で彼が「本当か」と問いかけると、おそよはしんけんな表情でこちらをじっと見つめ、囁くような調子で「そうよ」と答えた。
「あの子、ここへ来たばっかりの時みたいに、真っ黒で、痩せていて、そのうえとてもおどおどしていて、ついさっきまでほとんど口も利かなかったのよ。今までどこに行ってたのって訊いたら……」
「どこにいたんだ」
松造は思わず身を乗り出した。けれども、彼女は黙って首を振ったあと、「詳しくは分からないわ」と答えた。
「でもね、どうやらここの近所を点々としていたみたいなのよ。だって、ここへは幾度も戻ってきていたみたいだから。でもどうしても、戻らせてほしいって、あたしに言うことができなかったのね。それで二月半もの間……幾度も凍えて死にそうになりながら過ごしてきたらしいわ」
そう言うと、おそよの眼からは涙がはらりとこぼれ落ちた。それは、行灯の明かりに照らされて、一瞬だけほのかに光ってから、顎へと流れ落ちた。
「ねえ、しょうちゃん、あの子をもう叱らないでやってちょうだい。何も言わないけれど、あの子、破魔弓のことは反省していると思うの。それからね……そもそもあたしがしょうちゃんを巻き込んだのがいけなかったんだって、あたしも反省しているのよ。だからあたし、もうしょうちゃんにあの子を預かってほしいなんて言わない。あたし自身がちゃんとあの子の面倒を見るようにするわ。だから、あの子がここへ戻るのを許してね」
おそよの哀願には、思い詰めたような響きがあった。松造は両膝に手を付いて、こうべを垂れた。──あたし自身があの子の面倒を見るだって。それでは佐兵衛店で正太を引き取ることに決めたとでも言わんばかりではないか。そんなことはもちろん、彼女の一存で決められることではないのである。
松造の脳裏には、正太がここへやってきてからの光景が次々と思い出された。そうして、正太がここを飛び出していったあと、おそよから「あんたにできることが、みんなにもできるってもんでもないでしょう」と強い口調で言われた時のことも思い出した。自分の行動がきっかけとなって、苦しい思いをしてきたのは正坊や自分だけではない、彼女もまた、このことでずっと苦しんできたのだ。そのことにあらためて気付かされて、彼は両手の拳を握りしめて、ぎゅっと眼を閉じた。
やがて顔を上げると、いつの間にかおそよは静かにすすり泣いていた。松造は暗い天井を見上げて、しばし黙ったままでいた。下を向いたままでいると、自分も涙を流してしまいそうだったのだ。しばらくして彼は首を振って、「許すも許さねえもねえ」と呟いた。
「あいつはいま、子どもたちの家に居るんだな」
「ええ」
松造がすっと立ち上がって、戸口へと行きかけたのを見て、おそよは「ねえ、あの子、まだ怯えているから、気をつけてやってちょうだいね」と言った。
「大丈夫だ」
いったんはそう答えたものの、彼は思い直したように振り向いて、「……いや、おそよ、やっぱりお前もいっしょに来てくれ」と言った。
松造が子どもたちの家の戸を開けると、手前の部屋にはすでに布団が敷いてあった。けれどもまだ誰も寝てはおらず、奥の方の部屋(たあ坊が寝ていて、行灯が置いてある方の部屋)に、子どもたちはひとかたまりになって、小さな声で話をしていたもののようだった。そしてたあ坊の枕元に、正太の姿はあった。
正太の姿を認めると、松造はまっすぐに彼を見つめながら、家に上がって近寄っていった。そうして部屋の隅に座っている正太まで、畳一枚分のところで立ち止まった。暗い中で見ても、ともに寝起きしていた時と比べて、正太の顔がずいぶん面変わりしてしまったのがよく分かった。顔が真っ黒なのは初めて会ったときと同じだったけれども、以前と比べても、いっそう痩せて頬がこけていた。
正太はたあ坊の枕元で膝をそろえて座っていて、彼の脇には、まるで旅の途中でここに立ち寄っただけだとでもいうような感じで、あの風呂敷包みが置いてあるのが見えた。
たあ坊を除いた皆の視線が自分に注がれるなか、彼はしばらく何も言わずに立っていた。頭の中では、正太にかけてやりたい言葉が次々と浮かぶものの、なかなか口に出していうことができなかった。
「正坊……待ってたぜ」
ようやくそうひと言だけ口にした松造に向かって、正太は唇を歪めて、いやいやをするように頭を振って、「うそだ」と言った。
「噓じゃねえ。おれも、みんなも、ずっと心配してたんだぞ」
できるだけ優しい口調で言ったつもりなのに、じっさいにはぶっきらぼうな調子になってしまったのが自分でも分かった。
「うそだ、どうせおいらはよそ者なんだ」
そう言って正太は、暗がりの中できらりと眼を光らせて、松造の眼を見返した。まるで、自分を殴るなら殴ってみろ、とでも言わんばかりの眼差しだった。その眼を見て、松造は正太がどれほど傷付けられたのかを、改めて理解した。そうして彼は、正坊がここを飛び出してから、どんなふうに過ごしてきたのかをありありと思い描くことができた。想像の中の正太の姿はまるで、人からかっぱらい呼ばわりされて、棒切れで追い回され、いつでも体を震わせている痩せっぽちののら犬のようだった。
正坊をこんなに追いつめたのは、おれのせいだ。そう思い、松造は激しい自責の念にかられた。そして、いまなんとかしなかったら、正坊は二度とここへは戻ってこないであろうと思った。「いや」と松造はかすれた声で言った。
「お前はよそ者なんかじゃあねえ。お前がよそ者だったら、おれだって同じことだ。覚えてるか……おれがいつかお前に言ったことがあるだろう、おれたちは似た者同士なんだってな。覚えているか」
そう問われても、正太はなにも答えなかった。ただずっと同じ睨むような眼差しで、松造を見つめたままでいた。そんな表情を見て、松造も思わず下を向いて嘆息した。いったいどう声をかけてやればいいのだろうか。そうしてどうすれば、正太の心を再び開くことができるのだろうか。
両者の間の溝が想像以上に深いと見て取ったのだろう、それまで黙っていたおそよが松造の腕を取って、もの問いたげな眼差しを彼に向けた。彼はおそよに頷いてみせてから、「ひとつだけ言わせてくれ、正坊」と正太に語りかけた。
「もうここを飛び出していったりしねえでくれ」
それから彼はおそよに向かって、「今夜はあいつと一緒にいてやってくれ」と小さな声で言って、そのまま部屋を出て行った。出て行くときに、いつから起きていたのか、たあ坊がかすれ声で「ね、お姉ちゃん、おいらの言ったとおり、正ちゃんが帰ってきただろ」と言っているのが彼の耳に聞こえた。
ひとり部屋に戻ってからも、松造の頭には様々な思いが去来して、なかなか落ち着くことができなかった。
それにしても、幾度考えてみても不思議な話だった。正坊とここでともに寝起きしたのは、わずか二月あまりのことに過ぎないし、もとは赤の他人同士なのである。それなのにこれほどまでに情が移ろうとは考えもしなかった。もとは一人でずっと寝起きしてきたこの部屋なのに、正坊が飛び出していってからは、むしろその不在が常に気にかかるようになってしまったのだ。
松造はそう考えながら、あらためてほの暗い灯りに照らされた部屋を眺めた。正太に使わせていた行李は、そのまま棚の上に乗せてあり、あの中には彼が作った模型がまだ入っている。下を見ると畳の上には、いつか正太が付けた墨の跡が小さく残っていた。そして柱には、彼自身が子どもの頃に切り出しで付けた傷が、消えることなく残っていた。
──そうか、と彼は心の中で合点がいった。
この部屋は、彼自身がまだ子どもの頃に、源蔵親父といっしょに寝起きした部屋でもあるのだ。だからきっと、こんなふうに寂しく感じるのだ。
彼は自分の布団だけでなく、正太の布団も隣に敷いた。そして行灯の火を吹き消してからも、ながいこと布団の中でまんじりともせずにいた。最近は夜も暖かい日が多くなってきていて、なんだか身体が火照るような、むずむずするような気がして、なかなか寝付かれない晩が多くなっていた。それでも真夜中の八ツ過ぎになって、ようやく彼もうとうとしていた頃、入り口の戸がことりと音を立てたので、暗闇の中で松造はふと目を覚ました。
やがて戸をゆっくりと開け閉めする音が聞こえ、軽く小さな足音が畳の上をこちらへやって来るのが聞こえた。誰が入ってきたのかは疑うまでもないと思ったものの、ここで自分が起きたら彼は帰ってしまうだろうと思い、松造は寝たふりをし続けた。するとその足音の主は、子犬が寝床へもぐり込むように、隣の布団の端をめくって中へともぐり込んだようだった。
そうしてそのまま二人は、ながいことひとことも言葉を発せずにいた。
けれどもいつまで経っても、隣からは鼾も寝言も聞こえてこないので、松造は天井を見上げた姿勢のまま、「正坊」と小さな声で呼びかけた。返事は聞かれなかったものの、彼がこちらに聞き耳を立てているのは間違いないと思った。だから続けて、
「……殴ったりしてすまなかったな」と言った。
それでも返事は聞かれなかった。しかし自分の言葉を聞いていたにしても、またそうでないにしても、正坊がこの部屋を出て行かないのだから、それだけで十分だと彼は思った。そしてじきに、聞き慣れた寝息とかすかな鼾が隣から漏れ始めた。
暗い中で寝返りを打ち、隣を見ると、顔も出さずに正坊はすっぽりと布団にもぐり込んでいるらしかった。その寝息を聞いていて、次第に落ち着いた気分になった松造は、知らず知らずのうちに、再び眠りに落ちていった。
……松造は茅町の十畳の部屋で、一之助やお吉と向かい合って座っていた。そして一之助から、「まずまず、紺屋町の普請が無事に終わって、なによりだったな」と声をかけられていた。それに対して彼が何か言うよりも前に、隣から「ええ、おかげさまで、いい家を建ててもらうことができました」と言う声が聞こえ、声の方を向いて見ると、そこには助次が仕事着を着て座っており、膝に両手をついてかしこまったなりでいた。
助次の仕事着はほうぼうに継ぎがあたっており、月代も伸びて髷の根方も崩れ、あまり見栄えの良い姿ではなかった。そうして下の方を見ると、まったく洗っていないのか、両手は真っ黒に染まったままでいた。助次は松造をちらりと振り返って見てから、
「しょう坊はこちらでちゃんと仕事をしておりますでしょうか」と一之助に問うた。
それに対して一之助は何も答えなかったけれども、かわりにお吉が引き取って「ええ、きちんとやってくれてますよ」と答えた。
「お前さま方からこの子をお預かりした以上は、我が子も同然と思って育ててまいりましたから、ご安心なすって下さいまし」
「しょう坊、ちゃんとこちらさまの言うことを聞いて、真面目に仕事をしなけりゃあいけないよ」
そう声がしたほうを見ると、助次の横顔の向こうから自分をのぞき込むようにして、おしゅんが笑顔をこちらに向けていた。その笑顔を見て夢の中の彼は、──ああ、おとっつぁんとおっかさんが、茅町の棟梁に挨拶に来てくれたのか、と思った。
するとそれまで黙っていた一之助がだしぬけに、「こいつはね」と言った。
「おいらは棟梁になりてえって、わたしにそう言ったんです。こう、睨むような眼をして、わたしにそう言いました。でもまだまだです。そうだな、松造」
そうして一之助からぎょろりと睨まれると、彼は困惑して、なにも言葉を発することができなかった。まるでこれらの人々の中で、彼一人だけが少年に戻ってしまったかのようだった。
しかしそんな彼を尻目に、彼らはその後も火鉢を間に挟んで、楽しそうに談笑を続けていた。その合間合間に彼らが松造のほうをちらちらと見るので、彼は自分のことが話題にされているのに、その会話に自分自身が加わることができないというような居心地の悪さを味わった。そしてふと、いっそここから飛び出していってしまいたいという思いに駆られた。
すると次の瞬間、彼は助次の仕事場にいた。
家はすでに完成しているのか、掘建て小屋ではなかった。甕を中心にして周りには染めの作業をするための横長の作業台や水場、それから干場などもあった。ただどうにも家の中が暗いのが気にかかった。そして不思議なのは、建物が完成しているのに、甕の周りは櫓に覆われたままであることだった。そうしてふと気が付くと、彼の作った櫓を、助次が一心不乱に叩き壊しているのが見えた。
「ちょっと待ってくれ、せっかくおれが作ったものを」
彼がそう叫ぶと、助次は血走った眼でこちらをじろりと見て、「ばかやろう、おめえはおっかさんと一緒に早く逃げろ」と、大声で怒鳴り返してきた。
その張り詰めた表情に、何かただならぬことが起きていることを感じたものの、にわかに心の中で湧き起こってきた恐怖心のために、彼は立ちすくんだまま動くことができなかった。すると、彼が見ている前で櫓をあらかた取り除いてしまったあとに、助次は外から筵を抱えてきて、木の蓋をした藍の甕の上からそれを被せ始めた。一枚だけではなく、二枚三枚と上から重ねて被せていった。そうしてちらりとこちらに視線を向けて、彼がまだそこに立っているのに気が付くと、眼を大きく見開いて「逃げろと言ったのが聞こえねえのか」と怒鳴りつけた。
その声はまるで雷鳴のように彼の耳の中で響き渡り、びくりと彼が身体を震わせると、すぐに後ろから誰かに手を引っぱられた。
──そうか、逃げなきゃいけないのか。
手を引かれるままに走り始めるその前に、彼が最後に目にしたのは、筵の上から桶の水をざぶりざぶりと掛けている助次の後ろ姿だった。それともあれはおとっつぁんの後ろ姿だったのだろうか。
その後、彼は夢で幾度も見てきた火事の狂騒のただ中を走っていた。家々が燃える時のごうごうという音や、人々の怒号が飛び交う中で、彼は人にぶつからないようにしながら必死に走っていた。ときおり顔に吹き付けてくる熱風や煙のせいで、目を開けていることや呼吸すらも困難になるほどであった。そして川のほとりに辿り着いたとき、彼の手を引いて走ってくれていた人はくずおれるようにしゃがみ込み、こちらに背を向けたまましばらく荒い息をついた。それからやがてくるりと振り返り、彼の目をのぞき込んでこう言ったのだ。「……ここまでくればひと安心だ」
夢の中で、おっかさんは、おしゅんの顔をしていた。
「ここから先は、お前ひとりで逃げておくれ。わたしはおとっつぁんのことが心配だ……いいかい、とにかく川上に向かって逃げるんだよ。そうして両国橋まで逃げたら、……の伯母さんのところへ行くんだ。そこで落ち合うことになっているんだから、いいね」
そうして彼女はどこからか桶を拾って川の水を汲んできて、自分自身と彼の頭の上からその水をざぶりとかけた。それから再びしゃがんで彼の身体を両手でぎゅっと抱いたあと、やおら立ち上がると、「道は分かるだろう。さ、早くお行き」と言った。
走り去る前に、おっかさんは一度だけこちらを振り向いた。そして「お前は早くお逃げ」と言ったようだった。「おっかさんは大丈夫だから。あとでおとっつぁんと一緒に行くからね」
けれども彼には、行っては駄目だということが本能的に分かっていた。ここで別れたら、もう二度とおっかさんと会うことはできないだろうということが、分かっていた。しかし彼女の後ろ姿は、その後を追ってはならないとはっきりと物語っていた。だから彼は、泣きながら川に沿って一人で歩き始めたのだ。
周囲では人も荷車もみな同じ方へと急いでいて、それらの人々は幾度も彼を後ろからどんと突き飛ばしていった。みなおのれが逃げることに精一杯で、見知らぬ少年のことなど気にかける者は誰もいなかった。そんな中で彼は、彼女が走っていったほうを幾度も振り返って見たけれども、群衆にまぎれてその姿はとっくに見えなくなってしまっていた。
「おっかさん」
そう口にした自分自身の声で、松造は夢から覚めた。
部屋の中はまだ薄暗かった。そしてはっとして隣を見ると、正太の布団はこんもりとしていて、まるでそれ自体が生きているかのように、呼吸の度にその布団が小さく上下に揺れていた。では正太が深夜にここへ戻ってきたのは、夢ではなかったのだ。そう思い、彼は心からほっとした。
そうして正坊の寝ている布団をしばらくじっと見ているうちに、ついさっきまで見ていた夢のことが、鮮明に彼の頭に浮かんできた。
やはり、何度も夢に見ていた火事の光景は、ただの夢ではなかったのだ。そしてけさの彼は、なぜかは分からないが以前とは違って、落ち着いた状態で夢の光景を思い返すことができていた。夢の中で彼がおしゅんのことをおっかさんと呼んでいたのは、面差しが似ていたからなのだろうか。きっとそうに違いない。彼は寝床で上体だけを起こした姿勢のまま、視線を落として両手を見た。そうして無意識のうちに手を開いたり閉じたりしていると、まるでその手の中から湧き出てくるように、ほとんど見も知らぬ光景が脳裏に浮かんできた。
いまや彼は、これまで抜け落ちていた少年時代の火事の記憶の大部分を思い出していた。
あのあと彼は、おっかさんから言われたとおり、神田佐久間町に住んでいた、今は名前も思い出せない伯母の家を訪ねて行ったのだ。しかし火事が治まるまで、その付近にはとうてい近づくことさえできなかった。やむをえず彼が神田川に沿って川下へと戻ってくると、柳原土手の向こう側は、黒い煙と喧噪とで何がどうなっているのかまったく分からない有様だった。そして対岸のこちら側では、延焼を食い止めようと、あちこちの屋根上に鳶が上っていて、天水桶の水を屋根や壁にざぶりざぶりとかけていた。
「新シ橋が焼け落ちたぞう」
そんな声に押されるようにして、彼が浅草橋のたもとまで来ると、橋の向こう側からは、憔悴した様子の人々が、ひっきりなしにこちらへと押し寄せてきていた。ひょっとすると、おとっつぁんとおっかさんがこの中にいるかもしれない、そう思うと居ても立ってもいられずに、彼は人の流れに逆らって橋を反対側に渡ろうとした。すると、浅草御門の役人に押しとどめられて、門を通ることができなかった。無理もない、門の向こうは、いままさに町が猛火に呑まれている真っ最中なのである。だから彼は浅草橋のたもとで、日が暮れるまでずっと、こちらへと次々にやって来る人々の顔の中に、両親の顔を捜して過ごした。けれども、夜になっても二人が橋の向こうからやって来ることはなかった。
その夜を、松造は一人きりであてもなくさまよい歩いて過ごした。寒かったのかどうかは、覚えていない。でも心細くて幾度も泣いて夜を過ごしたなかで、別れる前におっかさんが言っていた言葉、……の伯母さんのところへ行くんだよ、という言葉だけが、希望をつないでいた。
朝になってから、あらためて伯母の家を訪ねていくと、福井町の町地の向こうにある武家屋敷が、こちらへの延焼を食い止めてくれていたようであったが、さらにその向こうの佐久間町の伯母の家のあたりは跡形もなく焼けてしまっていた。まさか彼の両親も、神田川の向こうが火元だったとは考えなかったのに違いない。だから佐久間町の親戚の家に逃げろなどと言ったのだ。しかし火元は、まさにその佐久間町の材木置場だったのである。
独りぼっちになってしまった彼は、なんとかして家に帰ろうとした。しかし浅草御門を通ることができないため、彼は川上に向かって歩き始めた。まだ煙がくすぶっている焼け跡を避けながら、なんとか川に沿って歩いてゆき、和泉橋、筋違橋、昌平橋が焼け落ちているのを見届けた。そしてとぼとぼと、道なりに湯島の聖堂の辺りまで坂道を上ってきた松造は、川の向こうに広がっている光景を目にして、へなへなとその場に座り込んでしまった。日本橋を中心とした町並みのほぼ全てが、焼失してしまっていたのだ。
その時の光景と驚きとを、いま彼は意外にも冷静に思い出すことができた。そして子供ごころにも、あの時に思ったのだ、もう帰るところはどこにも無くなってしまったのだ、と。
「しょうちゃん」
と言って、おそよが慌てた様子で戸を開けて入ってきたので、松造はゆっくりと振り向いて、「ああ」とひとことだけ答えた。外はもうだいぶ明るくなってきていたけれども、彼はまだ布団の上で座ったままでいた。
「正坊が……」と言いながらも、おそよの視線は彼の隣に敷かれた布団のふくらみに注がれていた。だから彼は、隣とおそよとを交互に見て、もう一度「ああ」と言いながら、頷いてみせた。
「正坊ならここにいるぜ」
「良かった……正坊が逃げ出さないようにと思って、寝ずに起きているつもりだったのに、あたしったらついうっかり眠り込んでしまって……」
そう言っておそよは、ほっとした様子で部屋の入り口の畳のへりにすとんと腰を下ろした。
松造は、髪の乱れたままでここへと駆けつけたおそよの横顔をしばらく見ていたけれども、ふと目の前の布団のふくらみに目をやって、「もっとも、こいつが本当に正坊だったらの話だが」と言った。
「え、しょうちゃん、顔を見てないの」と言いながら、おそよは部屋へと上がってきた。
「見てねえさ、なにしろ真夜中の真っ暗闇の中で、ここへ入ってきたんだから」
おそよが制止する間もなく、松造は勢いよく布団をまくり上げた。すると布団の中で、子犬のように丸まって寝ていたのは、まさしく正太の姿であった。
おそよは心からほっとした様子で「ああ、良かった」と言い、正太はいかにも迷惑そうに「ううん」と唸りながら、まだ体にかかっている布団の中へともぐり込もうとした。そしてよく見ると、お腹にはあの風呂敷包みを抱え込んでいるのが見えた。
まだ夢うつつの正坊のそんな姿を見て、二人は布団を間に挟んでにっこりと笑い合った。
「まだ眠いのよ」
「そうだな」
そう言って松造は、ふたたび布団を正太の体にかけてやった。そうしておそよは、いたわりのこもった眼差しを正太のほうへ向けながら、布団を挟んで向こう側にぺたりと座り込んだ。
「この子、ようやくぐっすり眠れたのね」
「ああ」
「それにしても」と言って、おそよはいかにも可笑しそうに笑った。
「みんなと一緒にいるよりも、ここのほうが落ち着いて眠れるなんて。きっと、たあ坊が悲しい顔をするわ」
「そうだな」
松造もつられて微笑んだ。そうしておそよの顔を見つめながら、
「おめえも少しは休んだほうがいいようだな」と言った。
おそよは彼の視線に気が付いてふと我に返ったようになり、横向きになって慌てて髪に手をやって、鬢のほつれを直しながら、「いやだ、あたしったらこんななりで押しかけてきちゃって。ごめんなさいね」と言った。
それから幾度か彼の顔をちらちらと見た後に、こちらへと向き直って、あらためて松造の顔をまじまじと見つめた。
「なにかあったの」
「なんにもねえさ」
そう答えて、本当になんでもないというふうに、松造はかぶりを振ってみせた。「ただな……ゆうべまた夢を見たんだが、それでだいぶ思い出したんだ」
「なにを」
「子どもの頃の火事のことをさ」
そうして松造は夢をきっかけに思い出したことを、正太を起こさないように気を付けながら、低い声でおそよに語ってきかせた。彼女は正太が寝ている布団の向こうで、もともと大きな眼を大きく見開いて、彼の話を聴いていた。
「その後どこをどうさまよい歩いて夜を過ごして、この福井町へとやってきたのかは、よく覚えちゃあいねえんだ。きっと、どこを歩いているのかなんてことは、気にもしていなかっただろうしな」そう言ってから、彼はくすりと笑った。
「いま思ったんだが、なにしろほとんど何も食わねえで、丸一日以上も過ごしていたんだから、さぞかし腹が減っていたろうな」
「そうね」と答えてから、おそよはひと呼吸おいて、もう一度「本当にそうね」と小さな声で言った。
それから再び二人の視線は、彼らの真ん中で布団にくるまって寝ている正太へと注がれた。
松造は表情を変えて、「そういえば、お前が昨日言っていたことで気になっていたことがあるんだが」と、おそよに語りかけた。
「この子の面倒はわたしが見るから、とかなんとか言っていたろう。本気でそう思っているのかい」
目の前で寝ている正太のことを気にしながらなので、彼の声はごく低く、また顔をおそよにぐっと近付けていた。
「ええ、どうして」
なにを当たり前のことを、と言わんばかりにそう切り返されて、彼はしばし言葉に詰まった。
本当は、彼はこう言いたかったのだ。
──もし正太をここで引き取ることにしたら、お前は本当にこいつの母親にならなきゃいけなくなる。お前自身が娘だった頃なら、お前は孤児たちのお姉ちゃんでいられたかもしれない。でも、今の年齢でここで孤児を引き取ってその面倒を見ようと思ったら、お前はもう嫁になんか行かれなくなっちまう。そのことが分かっているのか、と。
けれどもいかに相手が幼なじみのおそよであるとはいえ、そうありのままに口にするのははばかられるような気がして、何も言うことができなかった。彼は唇を舐めて、小さく咳払いをした。そうして再び正太が寝ている布団に視線を落とした。
正坊はこの二月半もの間、夜もろくに眠れない日々を過ごしてきた。そして昨夜ここへ戻ってきて、いまようやくぐっすりと眠っているのだ。このささやかな安息を、どうして取り上げることなどできようか。昨夜のおそよの言葉は、きっとそんな気持ちに根ざしているのであろう。そしてそう思ったらおそらく、もう迷う余地などないのだ。
──しょうちゃんはねえ、あたしが手を引っぱってここへ連れてきてあげたのよ。
おそよの顔を見つめると、そんな言葉が聞こえるような気がした。
「これだから、おめえには敵わねえんだ」
松造は微笑しながら、頭を振ってそう呟いた。
「どういう意味」
おそよからも、顔を寄せてきてそう尋ねられると、彼はどぎまぎした様子で顔を引っ込めて、「なんでもねえさ」と答えた。
「なによ」
「そろそろみんな起き出したみてえだぜ」そう言って、松造は周囲の物音に耳を澄ますような仕草を見せた。
言われておそよも耳を澄ますと、確かにとなり近所の家の住人も起き出して、朝の支度を始めたようだった。話をはぐらかされたことに不満げな表情を見せつつも、彼女は「みんなの朝ご飯の支度をしなくちゃ」と言って立ち上がって、着物の裾を直してから戸口へと向かった。松造もその後を追って戸口までゆくと、おそよは「ねえ、もし正坊が起きたら……」と言いかけた。しかし、すぐに部屋の真ん中へと視線を移して「正坊」と言った。
松造も振り返ると、正太はいつの間にか起き上がっていて、自分の寝ていた布団をたたみ始めているのが見えた。二人が黙ったまま見守っていると、彼は手早く布団をたたみ終えて、部屋の隅につくねると、ぼろの風呂敷を拾い上げて胸のところでゆわえてから、二人のほうを見た。
「まさか、出て行くだなんて言わねえだろうな」
「……おいらはきっと、ここには居ねえほうがいいんだ」
「馬鹿なことを……」
そう言ったなり、松造はしばらく黙ったままでいた。正坊はきっと、途中で目を覚まして、自分たちの会話をどこからか聞いていたのだろう。それでこんなことを言っているのだ。そんな正坊にかけてやりたい言葉が、彼の心の中で次々と浮かんでは消えた。けれども、何から話せばよいのか分からなかった。
おそよはそんな松造の横顔をじっと見つめた。そして、こんなにいたわりのこもった表情をしている彼を見るのは初めてだと思った。
「正坊、昨日も言ったが、お前はよそ者でも邪魔者でもねえ」
彼はようやくそう口にした。それから、
「お前がもしここにいたいと思うんだったら、いつまでもここに居て構わねえんだ。なあ、そうだな、おそよちゃん」と言って、おそよに振り返ってみせた。
するとおそよは松造のとなりに立って、「ええ、そうよ、正坊」と優しく言った。
正太は風呂敷の結び目に手をやって、下を向いたり二人に視線を戻したりと、そわそわした様子でいた。そんな正坊の姿を見て松造は、一つだけ言わせてくれ、とでもいうように右手の人差し指を立ててみせると、おもむろに歩いていって棚から行李を下ろすと、中から正太の作った模型を両手で取り出して、立っている正太の前にそっと置いた。すると正太は一瞬目を見張り、それから初めて松造の顔をまともに見返した。
「いつだったかおれはお前に約束したな、もしおめえの住んでいたところが分かったら、その家を元通りに建て直せるよう請け負ってやるって。覚えているか。だから、おれは約束どおりに、こいつを」と言って彼は、視線で足元の模型を指し示した。
「おれ自身の手で建てたんだ。おれの言っていることが分かるか、正坊」
松造がじっと見つめると、正太は黙ったままこくりと頷いた。正太は彼の言葉を聞いても、驚いてはいないように見えた。
「おれはそれで、おめえとの約束を果たしたつもりでいた。けど……それじゃあ本当に約束を果たしたことにはならねえってことが、あとになってから分かったんだ」
そう言って彼は、両手でそっと正太の細い両腕を抱くようにした。
「以前にも訊いたが、おめえはここが元どおりになったら、ここへ戻りてえと思うか。どうだ、正坊」
松造はそう尋ねて、正太の目をじっと見つめた。以前正坊はこの問いに対して、「うん」と答えたのだ。しかし今回、彼は口をへの字に曲げ、
「おいらは……こんなところへは戻りたかあねえよ」
と、まるで痛いのを堪えているような表情をして答えた。そうして松造の目の前で、真っ黒に汚れた頬に涙をぽろりとこぼした。
ではやはり、正太は自分が生まれ育ったところのことは、本当は忘れてなどいなかったのだ。それからきっと、そこにはもはや自分のおとっつぁんもおっかさんもいないのだということも。松造は正太の棒のように細い身体を、やおらぐいと抱きしめた。
「そうか、そうだろうな。分かるぜ……なにもあんなくそったれ大家のいる長屋になんか、戻らなくったっていいんだ」
おそよはそんな二人の様子を正視していることができずに、彼らに背を向けてその場にしゃがみ込んで嗚咽した。そんなふうにして、しばらくの間、部屋の中はおそよの泣く声がするだけでしんとしていた。
やがて松造は、自分の腹に何かのふくらみが当たることに気が付いて、正太の身体をそっと離して下を見た。そうか、風呂敷包みの結び目が当たっていたのか。それが分かると、
「なあ、正坊、こいつはそこの行李にしまったが良いぜ」
彼は正太の頬を親指でぬぐってやりながら、そう言った。正太はもう泣いてはおらず、涙の痕もほとんど乾いていて、きっと口を引き結んだ表情でいた。彼は黙ってこくりと頷いたあとに、すなおに胸元の風呂敷の結び目をほどいてから下におろし、その場にしゃがみ込んで結わえなおした。
松造はそんな正太を見おろしながら考えた。いま正坊は、以前におそよからもらった綿入れを着ている。いつか初めて一緒に湯屋に行ったときに着替えとして持っていったものだ。ということは、風呂敷の中に入っているのは、ここへ来たときに着ていたものに相違ない。それはおそらく、彼の母親が縫ってくれたものなのだ。そしてそれこそが、いまの正坊にとっては、亡くなった母親のことを思い出させてくれる唯一のよすがなのだろう。それだからこそ、彼はこの風呂敷を宝物のように持ち歩いているのだ。
「これを使っていいのかい、おじさん」
「ああ」
そうして行李の中をのぞき込んだ正太は、「あ」と短く言ってから、中に入っていたものを取り出して、松造を見た。おそよも振り向いて見守っているなか、松造は黙ったまま、正太に向かってうなずいた。正太が手にしていたのは、松造が子どものころに源蔵からもらったあの鑿だった。
「……これをおいらに呉れるのかい」
「ああ、やるよ」
正太は何か言おうとしているみたいに口を尖らせながら、松造の顔と鑿を何度も見返した。
「しかしただやるだけじゃあしょうがねえ。ちゃんとそいつの使い方と、それから刃の研ぎ方も教えてやるよ」
「ほんとかい」
「ああ」
松造は正太に歩み寄り、彼の両肩に手を置いてこう言った。
「なあ、正坊、おれが生まれ育った家は、二十年前の大火事で跡形もなく燃えちまったんだ。それに、おれはいまでもてめえの両親の顔をきちんと思い出すことすらできねえ。ただともかくも、火事のあとどこをどう歩いてきたのか、おれはこの福井町に辿り着いて、その後はこの長屋で大きくなったんだ。だからおれにとっては、おそよや源蔵親父が本当の家族みてえなもんなんだ。
おれがどうして大工仕事に興味を持つようになったのか、自分でもよく分からねえ。ただ親父に教えられて道具の使い方を覚えていって、初めて自分が関わった普請で家が建ったのを見たときのことは、今でもよく覚えているんだぜ」
そう言って松造が笑顔を見せると、まるで正太も同じ体験を味わってでもいるかのように、きらりと目を輝かせた。松造はそんな正太の表情を見て、「よし、うまく言えるかどうか分からねえが、ひとつ聞いてくれ」と言って、唇を舐めてからこう続けた。
「……いいか、大工になってからのおれが建てているのは、全部おれが生まれ育った家でもあり、おめえが生まれ育った家でもあるんだ。おれが棟梁というものになりてえと願うようになってからというもの、おれが建ててきたのは、全てそういうものなんだ。それになあ、もうひとつ言うことがある。
お前が生まれ育った八百八店は、たしかにおれが普請に関わって建て直すことができたが、おめえが住んでいたときのままに戻すことはできねえんだ、そうだろう。たとえおれの大工の腕がどれだけ達者だったとしても、やっぱりおれにもできねえことがあるんだ。ただな」
そう言って、彼はここでいったん言葉を切った。
「もしその気になりさえすれば、おめえにだって同じことができるんだぜ。おめえさえその気になれば、この模型のように、火事の前におめえが住んでいた家を、いつかは自分の手で建て直すことだってできるんだ、おれと同じようにな。おれの言っていることが分かるか、正坊」
正太は下を向いて、手に持っていたぼろきれにくるんだ鑿をじっと見つめた。
「おめえもいつか、そいつで自分の家を建て直すといい。ただそれまでは、ここが」と言って松造は足元の畳を指差した。「ここがおめえの家だ。分かったか」
正太は顔を上げて、松造の顔をじっと見て、それからこくりと頷いた。その表情は、思わずこちらがたじろぐ程の、しんけんな表情だった。この年頃の少年らしいそんな表情にたじろぎながらも、松造は「おれがいま言ったことを、こいつがどこまで理解したかどうかは、怪しいものだな」とも思った。
──けれどもいま分からなくても、いつか分かってくれれば、それでいいのだ。このおれだってそうだったんだから。
すると彼の頭の中では、なぜか冷笑する与一郎の顔が浮かんで消えた。しかし彼は心の中で、その顔に向って「へっ、冗談じゃねえ」と言った。──おめえなんぞに何が分かる。おれはこの長屋で育ったんだ。たとえ誰からだろうと、おれの生き方をとやかく言われる筋合いはねえ。
おそよはそんな二人のやり取りを見ていて、ふたたびこみ上げてきたものを抑えることができずに、両手で顔を覆うようにしながら、黙って部屋を出て行った。そして戸障子を後ろ手に閉めると、その場にしゃがみ込んで泣いた。そして泣きながらも、こんなに泣くのはいったいいつ以来だろう、と思った。そしてすぐに、きっと、おっかさんが亡くなったとき以来に違いない、と考えた。
あたしは、おっかさんが亡くなってお葬式をしたときも、けっして泣くまいと思って、そうして実際に人前では泣かなかったのだ。けれども、あのあと独りの時には幾度泣いたか知れない。でももうおっかさんがこの世にいない以上、あたしがしっかりしなきゃって、ずっとそう思い続けることで、いつしか泣かずにいられるようになったのだ。
この涙はきっと、それ以来の涙だろう。でも、いま流しているこの涙と、以前に流した涙は違うものだ、そうおそよは思った。なぜならこれは、うれし涙なのだから。
「……ねえ、お姉ちゃん」
目を上げると、いつの間にかたあ坊とおみよが、手をつないですぐ前に立っていた。
「……たあ坊、まだ寝てなきゃ駄目じゃない」
そう言って、おそよは目を押さえながらすぐに立ち上がり、たあ坊の額に手を当ててみた。「もう大丈夫だよ」嗄れた声でたあ坊がそう言うとおり、今朝は熱も下がっているようだった。
「ねえ、お姉ちゃん、正ちゃんはどこ」
問われておそよは涙を拭くと、「大丈夫。正坊はここに、……おじさんのところにいるわよ」そう答えてにっこりと笑ってみせた。
「お姉ちゃん、泣いてたの」
おみよから心配そうな顔でそう尋ねられて、おそよは「そうね、久し振りに泣いちゃった」と答えた。「でももう大丈夫よ」
そうして二人の頭にそっと手を乗せて、再び「もう大丈夫」と言ったところで、後ろの戸が開いて、松造と正太の二人が出てきた。
「おそよちゃん、こいつと一緒に風呂を浴びてこようと思うんだが──」
そう言って松造はおそよに微笑みかけた。「帰ったら、正太が着替えられるような袷を用意してやってもらえるかい」
「ええ、そうね。いつまでもそのぼろの綿入れを着てもいられないわよね」
「それからもう一つ、こいつは久しくまともに飯を食っていねえみてえだから、朝飯を用意しておいてやってくれねえか。なにしろおれが作るよりは、おめえが作ったほうがいいだろうからな」
「分かったわ」
「ねえ、おいらも一緒に行くよ」
見ると、たあ坊が口を尖らせて、おそよと松造の二人を交互に見ていた。
「たあ坊はまだ駄目よ、ちゃんと風邪が治ってからね」
「さ、家に戻るわよ。ご飯の支度をしなくっちゃ」と言って、二人をせき立てるようにして長屋の奥の方へと歩を進めた。そして数歩あるいたところでくるりと振り返った。
すると、朝からよく晴れた青空のもと、朝日を浴びながらこちらに背を向けて歩いてゆく、松造と正太の後ろ姿が見えた。二人はぴったりと寄り添うわけでもなく、さりとて手が届かないほどに離れるわけでもなく、けれども不思議と同じ歩調で歩んでいた。
──あの後ろ姿は、以前にも見たことがあるわ。
そうおそよは思った。そして二人が長屋の木戸をくぐって通りへと出て行ってしまってからも、顔にかすかな笑みを浮かべて、しばらくの間そちらを見ていた。しかしやがて子どもたちの家の戸口の方から「ねえ、お姉ちゃん」と声をかけられると、くるりと振り向き、「いま行くわ」と答えてから、声のもとへと歩き始めた。
とうりょう 下
この物語を書き始めるきっかけとなったのは、二〇十一年三月の東日本大震災から二ヶ月ほど経ったころ、山本周五郎さんの『ちいさこべ』を、たまたま手に取って読み返したことでした。震災後に私が考えたことを整理し、普遍化するのには、小説として書き表すことがいちばんであると、『ちいさこべ』は示唆してくれたように感じたのです。
私がこの小説の主なるテーマとして考えたのは、巨大な災害や地異のあと、様々な社会的な制約があるなかで、おのれが正しいと信じた道を市井の人がつらぬくことの困難さです。これは洋の東西や、時代の古今を問わず普遍の問題であると考えています。そんな中で、あえて正道を行こうとする人物を自然に描こうとするならば、時代小説はまことに適した表現形式ではないか、と思いました。
本作を書き始めてから書き終えるまで、ずいぶんと時間がかかってしまいました。しかし書き終えるまでに時間がかかってしまったぶん、かえって、私は自分が時代小説を書いていたにもかかわらず、不思議と登場人物たちと今の時代を共有しながら書いているような思いを味わっていました。
本作を読んでくれたかたも同じように感じていただけたなら、それが書き手としてはいちばんの喜びです。