痛君の話

「どがあ-ん。」
 大きな音がした。交通事故だ。交差点の真ん中で車の横に別の車の頭が突っ込んでいる。いわゆる出会い頭の事故のようだ。どちらの乗用車もそれぞれ前と横が大きくへっこんでいる。現代は車社会なので、よく事故が起こるけど、江戸時代にだってこれと似たような事は沢山あったんだ。今回の様な車同士の事故ならば、たまたま出会った浪人同士が些細な事でもめ事になって、そのまま斬りあって共倒れになったというようなものだし、また例えばこれが車同士の事故ではなく、バイクとトラックの事故となると、夏の夕暮れ、どっかの町人が道に水を撒いていた所へ、お役目の終わった御家人が通り掛かってその水が御家人にかかってしまい、さらに運の悪い事にはその御家人は今日はまことに気分がすぐれず、いつもならばそんな事では腹も立てないものの、その日は柄にもなく頭にかっと血がのぼって、うむを言わさずその町人を切り捨ててしまったようなものだろうし、また例えばこれが今年喜寿を迎えたお爺さんと大型タンクロ-リ-の事故となると、大名行列に突然横から飛び込んできて、あっという間にたたっ斬られた近所のハナタレ坊主の様なものだろうし、また例えばこれが戦闘機に撃ち落とされた旅客機となると、隼に喰われた雀みたいなもん(それは昔だけじゃなくて今でもあるだろ!)、、、とにかく昔も今も事故というものはいつでも起こっているのだ。
「よいしょ。」
「う-ん。」
 ぶつかったそれぞれの車から男の人がはい出てきた。どちらも一人しか乗っていなかった様で、彼ら二人以外は出て来ない。一人は若い兄ちゃんでもう一人は少し髪の毛が薄いおじさんだ。兄ちゃんは頭をフロントガラスにぶつけたらしく、額が割れて血が出ている。かなりの出血量だ。顔も服も真っ赤になってそれでも血は吹き出し続けている。おじさんの方は右腕の骨を折ったらしく、肩から下がプラプラで、手の平が正面を向いている。ズボンの右足にも血がにじんでいる。と、ここまではよくある事故の風景。ただ一つ、どうも奇妙な所がある。それは二人とも突っ立ったままなのだ。血の吹き出ている頭を押さえるでもなく、折れた右手をかばうでもなく、ただぼんやりと相手の顔を見つめたまま何も言わずに立っているだけなのだ。
「だ、大丈夫ですか。」
 近くで事故を見ていた人が心配そうな顔をして駆け寄ってきた。それでも当の二人はぼんやり突っ立ったままで、
「え、ええ。」
「どうやら、おかげさまで、」
 と、取留めも無い事を喋っている。駆け寄ってきた人もさすがにおかしく思ったようだ。怪訝な顔をしている。
「でも、不思議ですねえ。」
 頭から血を流している若い兄ちゃんがつぶやいた。
「全然痛くないんですよ。」
 すると、右手の折れているおじさんも、おやっという顔つきで、
「あなたもですか。実は私も痛くないんです。」
「あったりまえだあ。」
 『あったりまえだあ』と言ったのは、少し離れた所でこの二人を見ている痛君だ。痛君は事故が起こった時、兄ちゃんの頭とおじさんの右腕に一旦入ったものの、すぐに出て来てしまったのだ。痛君は痛さの源。全ての痛みは彼によって引き起こされるのである。その痛君が出て行ったのだから痛まないのは当たり前。それで二人で顔見合せてぼんやりするという事態に陥ってしまった次第。でも普通の場合ならこんな事は滅多にないんだ。一度入った痛族はよっぽどの事がなければ傷から出ないし、仮に一人の痛族が抜けても別の痛族がすぐに入るからだ。
「あんなちっぽけな傷は、この俺様には似あわないぜ。」
 痛君は腰に両手を当てると目を細めながら二人を見た。急に二人の様子がおかしくなった。
「あ、あれ、何だか急に、頭が、い、いたい。ああ、血だ、血が出ている。」
「おおう、右手が、いかん、折れている。う、いたいいたい。」
 二人は身悶えしながら道路にうずくまってしった。駆け寄ってきた人はびっくりして、
「大変だ。きっと痺れてたんですよ。待ってて下さい。すぐに救急車を呼びますから。」
 そう言うと、どっかへ走って行ってしまった。痛君はフンという顔をした。
「別の痛が入ったか。あんな怪我に入るようじゃまだ小物だな。」
 痛君は細めた目をもっと細めると、いきなり勢い良く空へ飛び上がった。痛君の体が高くなるにつれて、道路にうずくまった二人の姿も、ぶつかった二台の自動車もどんどん小さくなる。
「俺様に相応しいのはもっとでっかい傷だ。わくわくしてドキドキして身震いして、余りの凄さに心臓も止まっちまうような奴だ。あんなかすり傷に腰を落ち着けていちゃあ、この痛様の名が泣くぜ。」
 痛君は痛族の中でもえらくプライドの高い痛族だった。普通の痛族なら怪我を見つけたら、例えそれがどんなに小さな怪我でも入り込んで、そこでひと暴れするものなんだ。けれどもこの痛君はそうじゃない。とにかく痛みを選り好みする。気に食わない奴には入らない。そこが他の痛族とは違うところだ。
「さあて、もっと俺様に似つかわしい傷でも探すか。わくわくしてドキドキして身震いして失神しそうで、、、」
 痛君はぶつぶつつぶやきながら、空の上から下界を見回した。けれどもここはずいぶん田舎で、たまに車が通る程度。人の姿もほとんど見当たらない。痛君は舌打ちした。
「やれやれ、辺鄙な所に来ちまったもんだ。やっぱり都会に居た方がよかったかな。」
 痛君は以前は、人も車もここよりもっと多い大きな都会を寝ぐらにしていたんだ。けれどもそんな所では痛族の数も格段に多くて、よほど素速く入らなければ、すぐに先を越されてしまう。もちろん人の数も多いから入る機会は多くなるけど、みんなすぐに入り込めるようにいつも目をギョロギョロさせているので、痛族同士の仲が悪く、時にはケンカが起きたりする事もある。やむを得ずちっぽけな傷に入り込まねばならない時もあり、自尊心の高い痛君としてはそんな都会暮しが次第に嫌になってしまって、最近この田舎に寝ぐらを変えたんだ。おかげで、入り込む傷の数も減ってしまったが、仲間同士で揉めあう事はほとんどなくなった。
「まあ、しかしこれが田舎暮しのいい所でもあるんだがな。」
 痛君はのんびりと下界を眺めて飛んでいた。

「おや、」
 上空をのんびり飛んでいる痛君の目に二人の姿が目に止まった。川の土手の上の道に男と女がたった二人で立っている。どちらもまだ若くどうやら学生の様だ。
「あれはいけるかもしれんぞ。」
 痛君は二人の近くに降り立った。土手の上の二人は向き合ったまま何も喋らない。男の子の方はうつむいて顔を下に向けているし、女の子の方は厳しい目つきで相手を睨んでいる。固く握りしめた両手が小さく震えている。
「喧嘩別れというところかな。」
 突然女の子が走り出した。痛君は素速く女の子に飛びつくと胸の中に入り込んだ。
「よし、思った通りだ。」
 痛君は胸の中でうなずいた。女の子の胸は張り裂けんばかりになっていたのだ。痛族は身体的な傷だけでなく、精神的な傷にも入り込む事が出来る。そして、精神的な傷は自己増殖的に拡大する事があるので、痛族にとっては格好の獲物なのだ。痛君はまだ小さい傷にそっと触れてみた。見る見るうちに傷が大きくなってくる。と言って、これは痛君が傷を大きくしたのではない。いかに痛族でも自分の力で傷を作ったり、大きくしたりする事は不可能なのだ。この傷の変化は、痛君によってもたらされた最初は針の先で刺されたような取るに足りない痛みが、女の子の頭の中で増幅されて、さらに大きな傷へと変質したのである。見れば、女の子の目からは涙がこぼれ始めている。
「ふふふ。この調子だぞ。俺の手でこの傷をもっと素敵な物に変えてやるからな。ふふふ。」
 女の子は右手で涙を拭いながら走り続けている。その間も痛君は胸の中で暴れ続けているので、傷はどんどん大きくなるばかりだ。傷が大きくなればなるほど、傷から供給される痛エネルギ-は増大する。このエネルギ-こそが痛族が活動するための源なのだ。痛君は暴れまくった。
「どうやら、この子の頭の中は悲しみで一杯になったようだぞ。このままで行けば自殺にまで発展するかもしれんな。ふふふ。」
 痛君は胸の中でほくそ笑むと、あの時の事を思い出した。あれは痛君の今までの中でも一番思い出深い物の一つだ。
「確か、浅野とか言ったっけ。」
 はるか昔、浅野とかいう侍が切腹を申し渡された事があった。なんでも刃物を出してはいけない廊下で刃傷沙汰におよんだんだそうだ。痛君は運良くその侍に入り込む事が出来た。その時のあの傷の大きさ。胸の中は無念さに彩られた怨恨の情が渦巻いて、莫大な痛エネルギ-を発散していた。痛君はそれだけでも目を回しそうになったが、さらに印象に残ったのが割腹の瞬間だった。その時放出された痛エネルギ-は、さすがの痛君も気を失いかけたほど、大きく、悲しみと怒りに満ちた甘美なものだった。その後しばらくの間、痛君は傷に入り込んでエネルギ-を補充しなくても十分活動できるくらい、その時の傷は大きかったのだ。
「まあ、あれほどの事はないにしても、期待は出来るな。」
 女の子は走り続けている。息が切れて少し苦しくなってきたようだ。その痛みが胸の疼きと相俟って傷は広がる一方だ。痛君はわくわくしてきた。
「おや、」
 急に女の子が走るのをやめた。道の上で立ち止まると、はあはあ言いながら肩で息をしている。
「どうしたんだ。」
 女の子は、はあはあ言ったまま川の方を見据えると、口に両手を開けて大声で叫んだ。
「バカヤロオ-。」
「な、なんだって。」
 痛君はびっくりしてしまった。この女の子がこんな行動を取るとは思わなかったからだ。
「い、いかん。傷が小さくなりかかっている。」
「バカヤロオ-。」
 さっきまで大きく広がっていた傷がどんどん小さくなり始めている。痛君はなんとか傷を大きくしようと、女の子の胸の中で暴れまくったが、いっこうに埒があかない。痛族の力では傷を大きくする事は出来ないのだ。
「バカヤロ- バカヤロ-。」
 女の子が叫ぶ度に傷はどんどん小さくなっていく。傷が消えれば痛族はそこに留る事は出来なくなる。痛君は舌打ちすると、女の子の胸から外へ飛び出した。
「やれやれ、なんてこった。」
 女の子は痛君が出た後もしばらく叫んでいたが、やがて、
「ああ、すっきりした。」
 と言うと、さっぱりした顔で道をすたすたと歩いて行ってしまった。胸の傷はもうすっかり無くなってしまったようだ。
「ふん。」
 痛君はその後ろ姿に向かって吐き捨てるように言うと、再び空高く飛び上がった。
「とんだ思い違いだったな。俺とした事が情けない。」
 痛君は頭をかいた。結局、痛君が吸収出来た痛エネルギ-は、ほんのわずかだったのだ。
「今日はついてないな、まったく。さあて、じゃあまた別の傷でも探すとするか。」
 痛君は再び舞い上がると、新しい傷を求めて空を飛び始めた。
 

 それから痛君は空を飛びながら、目を皿の様にして傷を探し回った。けれどもどういう訳か、今日はさっぱり見つかない。そのうちに痛君は疲れてきた。考えてみると比の所、満足に傷の上に腰を落ち着けていないのだ。それは傷の数が少ないのは勿論だが、一番の原因は痛君が傷を選り好みする事だ。痛君はさっきの交通事故の傷を少し残念に思ったが、そこは武士は食わねど高楊枝の痛君。頑張って傷を探し続けた。が、
「しかたない。」
 やがて痛君はあきらめた様にそうつぶやくと、大きな建物に向かって行った。これだけ傷が見つからなくては、自分の中に今あるエネルギ-を、まもなく使い果たしてしまう。エネルギ-を使い果たしてしまったら、もう痛族は消え去るしかないのだ。
「背に腹は変えられぬな。」
 痛君が向かったのは病院だ。傷が見つからない痛族がよく利用する場所なのだ。痛君はここを利用するのはあんまり好きではなかった。心が踊るような凄い傷にお目にかかる事はしょっちゅうなのだが、そんな傷にはここへ患者が来る前に、すでに別の痛族が入ってしまっているので、結局自分が入れるのはちっぽけな傷だけになってしまうのだ。痛君は病院の中をきょろきょろしながら飛び回った。
「がちゃん。」
 どこかのドアが開いて、一人の患者が台に乗せられたまま出てきた。ドアの上には手術室と書いてある。
「しめた。」
 手術中の患者の体内には、麻酔族という痛族最大の敵がいるので入る事は出来ないが、どうやらこの患者は手術が終わって出てきたものらしい。まだ別の痛族は入っていない。
「よし、こいつだ。」
 痛君は患者の足に傷があるのを見て取ると、すぐにその中に入り込んだ。が、そこにはすでに誰か立っている。麻酔族だ。この患者はまだ完全に麻酔から覚めていなかったのだ。
「だ、だれ?」
 少しひ弱そうな麻酔族だ。だいぶ力をなくしているようだ。麻酔族は傷の中に入ってもエネルギ-を補給することが出来ないので、長くそこに留っていると、力がなくなってしまうのだ。
「勝てる。」
 痛君はそう確信すると、その麻酔族に近寄って両手で抱え上げた。
「あ、何をするんです。」
 情けない声を無視して、痛君はその麻酔族を傷の外へ放り出した。
「一丁上がりだ。」
「看護婦さん、足が痛くなってきました。」
「麻酔が切れてきたようね。」
 患者と看護婦さんがモソモソ話している。傷からは少しづつではあるが、痛エネルギ-が発散し始めている。
「やれやれ。これで少し落ち着けるぜ。」
 痛君はほっとため息をついた。傷の中で横になると疲れがどっと覆い被さってくる。痛君はうとうとし始めた。

「ああ、痛い痛い。」
 患者のうめき声で目が覚めた。どれくらい眠っていたんだろう。
「痛いなあ。」
「なんでえ、情けない。」
 痛君は傷の中で起き上がった。だいぶ元気が出てきたようだ。
「これくらい痛がる傷でもないだろうが、まったく最近の若いもんは。」
 元気になった痛君は傷の中で少し暴れてやった。患者のうめき声がさらに大きくなった。
「どうしたの。痛む?」
 しばらくして看護婦さんがやって来た。あんまり痛いのでナ-スコ-ルを押したようだ。
「さっきから、ずきずき痛み出して。」
「座薬使いましょうか。」
「け、座薬か。」
 痛君は傷の中で独り言ちた。鎮痛用の座薬を使うつもりらしい。
「ちょうどいいや。疲れも取れたし、寝起きの運動にはうってつけだ。」
 痛君はそう言いながら傷の中で寝転んでしまった。やがて座薬の処置が為されると、痛君の居る傷の中に鎮痛族がやって来た。
「おい。」
 傷の中に入って来た鎮痛族が痛君に呼びかけた。けれども痛君は平気な顔をして寝そべっている。座薬で入って来た鎮痛族はあまり強くない事を痛君は知っていたからだ。鎮痛族は自分の言葉が無視されているので、少し怒ったようだ。
「おい、そこの痛族。この傷から出て行け。」
「出て行くのお前だよ。」
 痛君は寝そべったままで答えた。それを聞いて、鎮痛族はますます怒ってしまったようだ。顔が赤くなっている。
「お前たち痛族は恥かしくないのか。人間の傷に付け込んで、その傷を大きくしようとし、それによって人間を苦しめ、その苦しみを喜ぶ。そんな事をして恥かしくないのか。」
「なんだと。」 
 痛君は立ち上がった。そして鎮痛族の顔を睨んだ。
「何言ってんだい、人間の手先め。お前たちこそ人間の思うままにこき使われて、恥かしくないのか。人間の痛みを取る事がそんなに重要か。」
 痛君は大きな声で言い放った。
「傷を作ったのは人間だ。俺たち痛族じゃない。傷を作ったのが人間ならその傷の為に自分が苦しむのも仕方ないじゃないか。俺がこの傷から出て行ったって、傷が直るわけじゃないんだ。傷は傷でそのままなんだ。そんな事も忘れて人間は薬を使う。酒を飲む。自分の傷を忘れようとする。そんなごまかしも一度やっただけで一生続くのならそれもいいだろう。だが、やがては覚める時がやってくる。そして傷は傷でそのまま残ってるんだから、その傷の為にまた苦しむ事になるんだ。その苦しみを忘れようとしてまた別の物でごまかす。お前たちはそんなごまかしの片棒を担いでるんだぞ。恥かしくないのか。それを、」
「う、うるさあ-い。」
 憤怒の雄叫びをあげながら、いきなり鎮痛族が痛君めがけて突進してきた。しかし痛君は少しも慌てず、ひらりと身をかわすと、後を向いて鎮痛族の後首に鋭く右手で手刀を入れた。
「むっ。」
 しかし傷に入ったばかりの鎮痛族はまだ力があり余っている。痛君の手刀をものともせずに痛君と向き合うと、二人は両手をがっちり組み合わせた。
「、、強い。」
 痛君は自分の背中に冷や汗が流れるのを感じた。二人はそのまましばらくの間、組み合っていた。全くの互角だった。だが次第、次第に、鎮痛族の顔に疲労の色が浮かび始めた。一方、痛君の方はまだ平気な顔だ。それはそうだ。痛族は傷から出る痛エネルギ-で力を補給できるが、鎮痛族は力を失うばかりだからだ。痛君は鎮痛族の両腕から力が抜けて行くのを感じて、にやりと笑った。そして両腕に渾身の力を込めると、
「うっしゃああ。」
 気合い一番、一気に鎮痛族を足下に叩き伏せ、組んだ両手をほどいて鎮痛族を抱きかかえた。
「消え去れえ-。」
 痛君は鎮痛族を思い切り投げ飛ばした。鎮痛族は叫び声を上げながら、傷の外へ放り出されてしまった。
「ふう-。」
 痛君が深いため息をつくと、また患者のうめき声が始った。
「ああ、痛い痛い。」
「ふん、また痛がってやがる。」
 痛君はどっかり腰を下ろすと、額の汗を拭った。せっかく補給したエネルギ-も今の戦いで使い果たしてしまったようだ。しばらくそのままの状態で痛君はじっとしていた。
「痛む?」
 看護婦さんの声が聞こえた。またボタンを押したんだ。
「さっきよりもひどい痛みです。ずきずきして。本当に痛みって嫌ですね。」
「へん、何が嫌ですね、だ。」
 痛君は腰を下ろしたままつぶやいた。そうだ痛族は確かに嫌われ者だ。さっきの鎮痛族の言葉も、あながち間違っているとは言えないのだ。痛みが嫌だからこそ人間はあんな薬や麻酔なぞというものを作り出したのだ。
「でも、それは違うんだ。」
 彼らは人間の作り出した者。けれども俺たち痛族は違う。もう大昔から存在してるんだ。存在する権利は痛族の方にある。つい最近発生したあんな奴らに大きな顔をされるのは、痛君にとっては耐えがたい事だったのだ。
「痛み止めの注射、打ちましょうか。」
「お願いします。」
「ちっ、注射か。」
 痛君は重い腰を上げた。傷から出なければならない。注射によってやって来る鎮痛族は、座薬による鎮痛族よりはるかに強力なのだ。以前に一度だけ戦った事があるが、全く歯が立たなかった。しかも今は疲れ切っている。早目に出た方が得策だ。
「やれやれ、なんて日だ。」
 痛君はゆっくりと傷の外へ出ると患者を見下ろした。もう看護婦さんが注射噐を持ってきて、患者の腕に針を刺している。
「ああ、なんだか痛みが突然無くなったみたいだ。」
「まさか。そんなに早くは効きませんよ。」
「これで眠れそうだ。ありがとう。」
 痛君は二人の会話を聞きながら、ふらふらと病室を出て行った。体は疲れ切ってもうくたくただ。
「俺たちは滅び去る運命なのか。」
 人間がこんなに痛みを毛嫌いする以上、やがては痛みが無くなってしまうのかもしれない。思い起せばいつの時代でも、人間は痛みをなくそうとして頭を絞っていた。痛くて喜ぶ人間なんぞ一人も居なかった。
「そして、あんな奴らを作り出した。」
 鎮痛族ならまだしも、麻酔族にかなう痛族は一人も居なかった。一度麻酔族が患者の中に入ると、その力を失うまで痛族は傷の外でじっと待っていなければならないのだ。その間に力を使い果たして消えて行った痛族を、痛君はこれまで何度も見ていた。このまま痛族は滅ぼされてしまうのかもしれない。痛君は想像した。痛族が滅んだ後の世界。痛みのない体。痛みのない精神。でも傷はやっぱりあるんだ。人間はそんな状態が好きなんだろうか。痛君の頭はなんだかボ-としてきた。
「Sさ-ん、急患!」
「は-い。」
 看護婦さんが何人かばたばた走って行く。痛君はボ-とした頭でその看護婦さん達の後をついて行った。
「頭です。」
「こっちへ、急いで。」
 みんなはICUと書かれた部屋へ消えて行く。痛君も一緒に入って行った。いろんな器具や装置がごちゃごちゃして、何人もの医師や看護婦が患者を囲んでいる。
「反応なし。」
「駄目かな。」
 痛君はまるで吸い込まれるようにその患者の体の中に入った。頭がひどくやられている。傷はかなり大きいが痛エネルギ-は全く出ていない。死にかけているのだ。
「俺も一緒に付きあってやるか。」
 痛君は傷の中で身を横たえた。麻酔族や鎮痛族にやられて消え去るのは癪だが、こうして人間と一緒に死んで行くのならまだ納得できる。
「ふん、これが痛様の最後か。哀れなもんだ。」
 自分の力がもう残り少ないのは分っていた。このまま痛エネルギ-を補給しなければ、完全に無くなってしまうのも時間の問題だった。そして完全にエネルギ-が無くなった時、痛君はこの世から消え去らなければならないのだ。痛君は覚悟を決めて目を閉じた。と、急に周りの様子が変った。
「反応が出てきました。」
「痛みを感じているようです。」
 痛君は目を開けて、身を起こした。傷から弱々しい痛エネルギ-が出ている。
「今、顔をしかめました。」
「これなら大丈夫ですね。」
 傷の中から周りを見回すと、どの顔も喜んでいる。ほっとした表情に変っている。患者は明らかに痛みを感じていると言うのに。痛君は首をすくめた。
「なんだ、ここでは痛みを喜んでいるぞ。全く変な世の中になったもんだ。今の人間は一体どうなってるんだい。痛みを嫌がったり、喜んだり。」
 痛君は、しかし疲れ切っていたので、またすぐに横になって目を閉じた。弱々しかった痛エネルギ-も徐々に強くなってくる。痛君は心地好いそのエネルギ-に身をゆだねて、深い眠りに落ちて行った。痛みを喜ぶ奴らが居るんだから、痛族が滅びるのもまだまだ先の事かも知れんなと思いながら。

痛君の話

痛君の話

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-10

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