早春賦(第1幕)

早春賦(第1幕)

 冷え込みの厳しい朝だった。
明菜はベッドの横にあるテーブルを引き寄せると昨夜沸かしておいたポットの湯を湯のみに注いだ。
『─白湯のほうが躰にいいからね』月、木と週に二度訪れるヘルパーの忠告を受け素直に従っている。
「やっぱり旨いもんじゃないね─」半分ほど飲んだ後、溜息混じりにそう呟くとワゴンに備え付けの引き出しから預金通帳を取り出した。
見直す度減るだけの打ち出しの数字を眺めていると自然に眉間にも皺が寄る。
『─あのねアッキー。健康には笑うことが一番なんだよ。むつかしい顔してないでさ。ほら、何か楽しいこと考えてみて─』そう言いながら頭を撫でつけるヘルパーの雅代の声が蘇る。子供をあやすようなその態度にはむかっ腹が立ったりもするが屈託のない開放された笑顔には憎めない愛嬌があり、好意を抱いていた。
雅代は女にしてはがっしりした体躯をしていて明菜を軽々と浴室に運んだりもする。
「─何だよ。いいよいいよ、ちょっとくらいなら歩けるんだからさ─」抱き上げる太い二の腕に半ばしがみつくようにそう言うと、
「─いいのよ、あたしがいる時はいつでも抱っこして上げるんだから。この方が楽でしょ?─」
そう応え満面の笑顔で見下ろしてくる。
笑うと「ビリケンさん」によく似ていて、
「─いいねえ、あんたは福顔をしてるよ」そう心から褒めたりもする。
「─ねえ羨ましいなあ、アッキーの名前」浴室で背中を流してくれながら雅代が言う。
「明菜、なんてさ─あたしは雅代、だよ。どっちがお婆ちゃんか分かりゃしない─」そんなため息混じりの声に、
「─いいじゃないの。日本の女らしい名前だよ」目を閉じてそう応える。
何人かのヘルパーに面倒を見てもらったが雅代の介護が一番詳細で献身的だ。特に入浴に際しては文句のつけようがない。背中を流してくれる時の力加減は絶妙でマッサージ同様の心地よさに思わずうつらうつらしてしまう。
「─若い頃、随分モテたでしょ?」湯の温度を調整しながら雅代が言った。
「─ああ。温泉街で芸者もしてたからねえ」そう正直に応えた。
「なら、彼氏もたくさんいたんでしょ?」雅代の問いに、
「─そりゃあね。男なんて取っ替え引っ替えだあね。こう見えてもね引く手あまただったんだ。肌の艶と色白は界隈でも評判だったよ。お座敷のかからない日は一日たりとなかったからねえ─随分と浮名も流したっけ─」明菜は湯気の立ち上る換気窓を見上げ、懐かしい想いでそう応えた。
「─ふうん。いいなあ。うらやましいなあ。─ねえアッキー、あたしって幾つぐらいに見える─?」ふと手を止め神妙にそう訊いて来た。
訊かれてみれば雅代の年齢など気にしたこともなかった。
「─三十歳?」少し考え、明菜が答えた。
見た目よりも若く言ったつもりだった。
「─そうよね。見えるわよね─。でもね、まだ二十三なのよ」明菜は思わず後ろに首を回すと、
「あ、ごめんごめん。あたしゃ歳寄って目が悪いからね」そう言い慌てて取り成そうと大仰に手を振って見せた。
「─いいのよ。顔もニキビ跡が目立ってエラも張ってて老け顔だし、身体つきもこんなだもん─。昔つけられたあだ名は親方、だし─」雅代は半ば諦めたようにもう一度深くため息をつくと薄く笑った。
「─大丈夫だって。あんたのその顔はほんとに福顔だよ─。それになんたって若いんだからさ、これからだよこれから。お金だって結構貯てんだろ─?」そう声を潜め顔を近づけると彼女は黙って首を振り手を止め、
「─家はお母ちゃんが早くに死んじゃって、お父ちゃんも躰が弱くて働けないの。あたしのお給料だけで食べてるんだから」沈んだ声でそう応えた。
「─そうなの。そりゃあ大変だ─。ごめんね。知らなかったもんだから」明菜は神妙に詫びた。
雅代は笑ってもう一度首を振り、
「─でもね、こうやってアッキーとか色んな人の面倒見てるとお母ちゃんの世話してるみたいで、何だかほっとして気持ちが晴れるんだ─」そう言い元気な声を戻すと鼻歌交じりに再び背中を洗い始めた。
♪─山には 山の 愁いありー
   海には 海の 悲しみや─ ♪
「─あら、あざみの唄。古い歌よ。よく知ってるねえ」明菜が感心して首を回した。
「─死んだお母ちゃんが好きだったの。カラオケが好きでね。良く、この唄歌ってたんだ」雅代が応えた。
♪─ましてこころの 花園にー
   咲きし あざみの 花ならばー♪
「─懐かしいわあ、いい声してるねえ、あんた」褒める明菜の声に応えるように雅代が声を張った。
♪─高嶺の百合の それよりもー
   秘めたる夢を ひとすじにー
    くれない燃ゆる その姿― 
 あざみに深き 我が想い─♪
浴室に響く雅代の歌声を聴いている内に不意に半生が胸に蘇ると自然に目から涙が零れ落ち、明菜はそれを悟られまいとそっと指先で拭った。

「─今日はね、ちょっとご馳走だよ」台所で味噌汁の出汁をとりながら雅代が言った。
「あんた、お料理上手だもんね」首だけ伸ばして様子を窺うように明菜が応えた。
「─ホントにもったいないねえ。もうちょっと器量よしだったら言うことないのにねぇ」立ち込めてくるいい匂いに刺激される空きっ腹を意識しながら、小さな声でそう呟いた。

「─どう?美味しいでしょ。あのね、よく炙った後お酒で蒸し焼きにするんだよ」かき込むように鰻の丼を食べる明菜の様子を、楽しげに見つめながら雅代が言った。
「ホント美味しいわあ─!」鰻を頬張ったまま明菜は何度も頷いた。
「ゆっくり食べなよ、胃に良くないよ─」雅代は笑いながらお茶を勧めた。
「─あのさ、これまた自腹かい─?」上目遣いで明菜が申し訳なげにそう訊くと、
「いいのよ。スーパーの特売品だもん」屈託ない笑みを浮かべ雅代が応えた。
「─でも悪いねえ。あんただって余裕がある訳じゃないのにさ」明菜は丼鉢に残った飯粒を丁寧に箸で拾い口に運びながら言った。
ヘルパーは基本、規定外の行為を禁じられていて利用者にもその事は周知してある。余分な食品の提供などもその一つだが慣れ親しくなるに連れ雅代はしばしば身銭を切って明菜の好物を買ってくる様になった。
「─慣れ合いは駄目だってこないだも所長に言われたんだけど─。アッキーは他人の気がしなくてさ。いいじゃんね少しぐらいさ」雅代は顔の前で大きな掌をひらひらさせながら笑った。
「─でもあんた偉いよねえ。大変だろうに、爺さんや婆さんの世話焼きは。下の世話までしてもらっても人間歳寄るとわがままンなって言うこともきかなくなるなるしさ─。あんたもうこの仕事長いんだろ?サンケー(3k)とか言うんだっけ?どうしてまたこんなえらい仕事についたのさ─?」明菜がまた訊くと、
「─ここよ、ここ。あたし体力には自信あるけど頭が良くないの」雅代は自分の頭を指さして笑いながら、
「どっかの会社の事務員なんて似合う訳もないしさ。掛け算ぐらいしかできなくて数字にも弱いし、─かと言って男みたいに土木の仕事までは無理だし。ない頭で色々考えて漸くこの仕事見つけたの─。あたしなんかでもきっと誰かの役に立てると思って─」そう続けた。
「─ふうん。ホントに偉いねえ」明菜は感嘆する風に雅代を見つめ直すと、湯気の立った茶を啜った。

 明菜は一度結婚したが母胎に問題があるらしく子宝には恵まれなかった。
一度だけ妊娠を診断されたが胎内で育ち切らず辛い堕胎手術を体験した。
たった三月だったが初めての懐妊を心から喜び、絶えず腹をさすりながら授かった生命を慈しんでいた。
だがある晩突然の出血を伴う下腹部の激しい痛みがあり緊急で受診した時には既に胎児の反応が無かった。
「─どうやら育ちきれずに胎盤の中で溶けてしまった様です」淡々と診断を告げる医師の言葉を聞いた時の絶望と深い悲しみは例えようもなかった。
老いた今でも時折、あの瞬間を思い返すと耳の奥でドクンドクン、と胎児の胎動が蘇り思わず腹を擦ってしまうことがある。
その後夫婦関係は自然に上手く行かなくなり夫はやがて他に女をつくって出て行った。
元々戦災孤児として育ち身寄りもなく離婚以来、独り身で生きてきた。
喜寿を過ぎ天涯孤独の老いた境涯に週に二度訪れる雅代の温かい心遣いは心から有り難かった。
「─あたしみたいなお婆ちゃんの娘にしちゃったらあんたに悪いけどさ。あたしもあんたが気に入ってんだ。面倒見てもらう方だけど、何かあったら、話しておくれ。相談しておくれよ、ね。─」明菜は心からそう言った。
「─うん。ありがと」不意に声を詰まらせ何度も頷く雅代の目に光るものがあった。
 その晩、明菜は仏壇の引き出しから濃紺の袱紗に包まれた包みを取り出すとベッドに戻りワゴンの引き出しにしまい直した。
「─え、と、木曜は、─うん。丁度大安だ」眼を凝らしカレンダーを見、そう確かめると灯りを消し目を閉じた。
「─美味しかったねえ」呟くと昼間の鰻の香ばしい味が口中に蘇ってくる様だった。
幼い頃から辛酸を舐め尽くして生きてきた。人を見る目には一日の長を自負している。
「─うん。やっぱりあの娘はいい娘だよ」明菜はもう一度そう呟くと深い眠りに引き込まれていった。

「─わあ、きれいねえ」雅代の目が輝いていた。
「昔もらったもんなんだよ─」目を見張る雅代を嬉しげに見つめ明菜が言った。
広げられた濃紺の袱紗に美しく煌めくネックレスが乗っている。
「ペンダントは小さなダイヤがあしらってあってね、チェーンは二十四金だよ─」そう言うと掌に乗せ雅代に差し出した。
「─あんたに上げるよ」明菜は満面の笑みを向けた。
「え、えッ─?」雅代は驚いた目を上げ、明菜を見返した。
「─こんな躰ンなってもう、こんなもの着けて出かけることもないしさ。捨てるには惜しいしね。あんた貰っておくれよ、ね」明菜が言うと、
「─な、何言ってんの駄目だよ駄目ッ、こんな高価なもの貰えるわけないじゃない─」雅代は差し出した明菜の掌を制して頬を紅くした。雅代は気持ちが昂ぶると痘痕の四角い顔の広い面積の頬を直ぐに紅く染める。
「いいんだよ。あたしはもう老い先短いんだ。別れちまった亭主から貰った最後の金目のもんなんだ。女つくって出て行っちまったからね。悔しくて後のもんはみんな売っぱらっちまった─。あたしが死んじまえばどうせ誰かが勝手に処分するんだ。あんたが着けてくれるのが一番いいんだよ─。いいからちょっと、屈んでご覧─」そう言いながらチェーンの引き輪を外し雅代の太めの首に掛けてやると、
「─うん。似合ってるよ。長めのチェーンがあんたに合わせてあつらえたみたいだ」満足気にそう言い目を細めて笑った。
「─ホントにいいの?」雅代は指先で愛でるようにネックレスを撫でると、潤んだ目を上げた。
その日以来、雅代は訪問の度にネックレスを着けてくるようになった。
「─律義だねえ。あんたも随分」そんな様子を見て明菜がそう言って笑うと、
「宝物だもん、あたしのたった一つの─」そう言って頬を紅らめた。
週二回の雅代の訪いは明菜にとって一層待ち遠しく、ますます大切な日々になった。本当の身寄りの様に遠慮無く、それでいて互いを気遣う関係が心地良かった。

 師走に入った小春日和のある日、訪問日でもないのに雅代が突然訪れた。
「─今日はお休みなんだけど、ちょっと近くに用事があったから」何故かはにかんだようにそう言った。厚手のコートから艶やかな色彩の服がのぞいている。明菜は思わず雅代の顔を見つめた。
腫れぼったい一重の目の並びの良くない睫毛にマスカラをつけ分厚い唇からは真っ赤な口紅が微妙にはみ出している。明らかにいつもと違う雰囲気に、
「どうしたん─?」訝しげに雅代の顔を覗き込むようにしてそう訊いてみた。
「─ちょっと、いい?」雅代が遠慮勝ちに眼を上げた。
玄関に上がりざまぷん、とコロンの香りが漂った。
「─ハハァン」何となく勘が働き明菜が呟いた。
「─どうしたんだい今日は?随分とおめかししてるじゃないか」茶葉を急須に入れながら明菜がニヤついて言った。
「─うん。─実はね」雅代は大きな躰をもじつかせ上目遣いで明菜を見つめた。

「─え?この人かい─?」思わず真顔を向けた。
携帯の待ち受け画面一杯に、斜に構えた男が微笑んでいる。歳は三十過ぎ位だろうか。落ち着いた雰囲気に加え端正な顔立ちをしていて思わず繰り返し雅代の顔と写真を交互に見比べてしまう。
「─どうかな?」雅代が甘えるような声で訊いて来た。
「─どうって、─相手はホントに本気なのかい?」そう言うと思わず眉をひそめて目を上げた。
「どう見たって不釣り合いでしょ─?でも、ほら─」雅代は頬を染めて左手の薬指を差し出した。
細いが確かに金と思われる指輪がはめられている。
「一昨日貰ったの。彼とおそろいなのよ」上気した潤んだ目を向けて雅代が言った。
明菜はもう一度男と雅代を見比べ、
「─この人、ホントに初婚かい─?」訝しげな表情を崩さずにそう訊いた。
「─大体いつ、どこで知り合ったのさ」明菜が問いを重ねた。
「─ひと月前。駅前で突然声を掛けられたの」雅代のその返答を聞くと明菜はひとつ大きく息をつき、
「やめときな」ぴしゃりとした口調でそう言った。
驚いた風に雅代が目を上げた。
「あたしゃ賛成できないね。この男はきっと何か魂胆があるよ。あんたを幸せにはしやしない」そうきっぱりと言った。
女としての直感だった。数多の色恋沙汰を経験した女の予感が男を否定していた。
見る間に雅代の顔が歪んだ。意に介さずに、
「悪いこと言わないよ。やめときな、ね」雅代の心に擦り寄るように明菜が繰り返すと、雅代の目から見る見る涙が溢れ出た。
「─あんたもしかしてもう、寝ちまったのかい?」そう言い気の毒そうに詰め寄ると、
「─アッキーに何が分かるのよッ─」大粒の涙を指でこすりマスカラの落ちた半分真っ黒な瞼を吊り上げて雅代が潤んだ声を詰まらせながら声を荒らげた。
「─この人の一体、何が分かるのよッ」
「─あのね、」言いかけた明菜の言葉を遮って、
「会ったこともないくせに、何が分かるって言うのッ─この人すごく、─あたしに、すごく優しいんだからッ─」雅代は半ばそう叫ぶと立ち上がり仁王立ちに天を仰ぎ、オンオンと大声を上げて泣き出した。

「─葛西さん、洗濯物は分けておきますね。下着はここ、まだまだ寒いから羽織るものはここ、ね。─じゃ、時間ですから他に何かなければ失礼しますけど」
雅代に代わったヘルパーは年配で何事もそつなく、てきぱきと行動する。
「─はい。いつもご丁寧にありがとね」明菜は力なく笑みを浮かべ頭を下げた。
ヘルパーが帰ってしまうと部屋の中はすっかり静まり返って閉じられた窓の向こうで囀る四十雀の囀りだけが聞こえてくる。
今にも降り出しそうな曇天の下、雑木に纏わりつくのは夫婦なのだろうか。仲睦まじく木の実をついばんでいる様に見える。
雅代が来なくなってから三月が過ぎた─。
あれから間もなく何の知らせもなしに辞めてしまっていたのだった。
「─どうしたかねえ。上手くいってればいいけどねえ」そう呟くとワゴンに手を伸ばし湯のみに注いだ白湯を啜った。ふと引き出しから出ている濃紺の袱紗に気づき、しまい込もうと取っ手を開けネックレスに気づいた。手に取りじっと見つめていると雅代の声が耳に蘇ってくる。
『宝物だよ。ありがとう─』
「─いい娘だったねえ」目を閉じると不器量だけども優しい笑顔が瞼に浮かんだ。
『返すから、これ─』そう言った激昂し取り乱した化粧の崩れた哀しい顔を思い返す度、胸の奥がちくりと痛む。
「─ごめんよ。あんたを傷つけちまったねえ」明菜は繰り返し呟くと大きく溜め息をついた。
ばらばら、とトタン屋根を叩く音が聞こえた。
「─おや、降りだしたね」呟きと同時に大粒の雨が窓外の芽吹いた若葉を濡らし始めた。
本降りになるのか、目を閉じると強い雨音が耳に心地良かった。
ふと冷蔵庫にしまい忘れた茶葉を思い出した。
『─お茶っ葉もね、冷やしといた方が長持ちするのよ』やはり雅代から聞いた知恵だ。
「─しまおうかね」そう言って杖をつき立ち上がろうとした時、玄関の呼び鈴が鳴った。
「─ちょっと、待ってね─」嗄れ声を張った。
この所、膝の痛みが日増しに酷くなる様だった。
ちょこちょこ、としんどい思いで玄関まで歩き立て付けの良くない少し傾いだドアを開けると雅代が立っていた。
「─あんた!」思わず目を見張った。
庇のない玄関先で濡れそぼり、泣き腫らしたように伏せた細い目が塞がっていた。
「─どうしたんだい─?」声が思わず上擦った。雅代は目を伏せ濡れたままじっと動かずにいたが、
「心配してたんだから─。ホントにぃ─」潤んだ声でそう言うと彼女はようやく目を上げ、濡れそぼったその顔を途端にクシャッと歪めた。


     以下、二幕へ

早春賦(第1幕)

早春賦(第1幕)

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-10

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