思春期における病的思考症候群

プロローグ


 二〇XX年。日本。
 政治家たちは青少年の健全なる育成、をお題目に掲げ、青少年からマンガを、アニメを、ゲームを、音楽を、映画を、あらゆるサブカルチャーを不健全の名の下に取り上げていった。
 しかし、政治家たちの思惑は思い通りにいかなかった。
 そもそも汚きものを遠ざければ、清き人間が育つ、という考えが浅はかだったのである。青少年は、政治家が望んだようには成長しなかった。
 政治家たちにとっての想定外は、それだけでは終わらなかった。
 日本には正体不明の伝染病が蔓延した。
「思春期における病的思考症候群」
 サブカルチャーを奪われた青少年たちが、突然「壊れた」のだ。
 ある者は、自分は伝説の勇者であり、復活した魔王を倒さなくてはいけないと思い込んだ。ある者は、自分は亡国の王女であり、祖国を復興させることが自分に与えられた使命であると思い込んだ。また、ある者は、自分には制御が困難なほどの大きな力が秘められていると思い込んだ。
 そう思い込んだ者たちは、自分たちの使命を果たさんと、思い思いに行動を始めた。冒険という名目で家出をする者。冒険のため、と他者の家に侵入。タンスなどから金品を奪う者。レベル上げ、と言いつつ通勤途中の社会人に襲いかかる者。
 彼らは、ふざけてそうしたわけではない。そうしなくてはいけない、と完全に「思い込んでいた」のである。彼らは真剣だったのだ。
 特定の年代に突然発症するその病気は、あっという間に勢力を拡大。中学生、高校生の年代の九割もの人間を巻き込んでいった。
 通称「厨二病」と呼ばれるようになったその病気は、日本の医師が総力を合わせて原因の解明に努めようとした。しかし、その原因は明かされることがなかった。
 いや、それは正確ではない。
 原因はおおよそわかっていた。「青少年の健全なる育成」の名の下に行われてきた政策だ。それが原因ではないか、と多くの人々が口にした。しかし、責任を認めることで自分の政治的キャリアに傷がつくことを恐れた政治家たちは、政策と厨二病の因果関係の調査を認めなかった。
 それでも、自らの使命感に燃え、調査しようとした医師もいなかったわけではない。しかし、その医師がことごとく閑職に回されたり、嫌がらせにあったりした。酷い者は、全治数ヶ月の重傷を負った者もいた。
 結果、誰も原因を突き止めることが「できなくなった」のである。
 心ある医師たちは、それならばと治療法の解明に力を注ぐことにした。カウンセリング、投薬などと言った治療が試みられた。しかし、その努力が実を結ぶことがなかった。
 結局、個人差はあるものの、一定の年齢に達することで治療することが判明したことで、「発症したら、治るまで放置」とされることとなった。
 「治るまで放置」という方法は、子どもの時分に学習に取り組めないことで、教育を受けることができず、結果日本の国力の低下に繋がる問題はあった。しかし、「厨二病」が発症すると、現実世界の状況を正しく受け入れられないこと、確実で、即効性のある治療法が見つからないことから、そうせざるを得なかった。
 政府は各市町村に、学校以外に「厨二病患者管理施設」を作り、厨二病患者をそこに収容した。始めは、我が子と別れることに拒否反応を示す親もいたが、結局「厨二病」に感染した我が子の扱いをどうすることもできず、結局施設に頼るしかなくなった。
 そこで、子ども達は、病気が完治するまで、個室に閉じ込められ、夢を見続けるようにされた。妄想が終わるまで、ただひたすら。



第一章


「おはよう」
 遅刻ぎりぎりで教室のドアをくぐる。僕が教室を見回すと、まだ担任の教師は来ていないようだった。担任の佐藤はいつも時間ぴったりで教室に入ってくるが、まだ廊下でも姿を見なかった、と言うことは珍しく遅れているのだろう。遅刻を宣言されると覚悟していた僕としてはラッキーだった。
「おはよう」
 ドアの一番近くに座った少女からの挨拶。
「またぎりぎりだね、颯」
 少女は組んだ手のひらの上にあごを載せ、上目遣いに僕の方を見ていた。爽やかで聞き慣れたその声に、僕は笑顔で応えた。。
「おはよう、朱音」
「また、遅刻ぎりぎりだよ」
「ぎりぎりでも、遅刻じゃないから問題はないよ」
 これが僕と朱音のいつものやりとり。九年間同じクラスだった僕と朱音の約束事。今では、これがないと学校が始まった、と言う気がしない。
「確かに遅刻じゃないけど。今日はラッキーだっただけだよ?早く来た方がいいんじゃない」
 朱音は苦笑い。僕は肩をすくめる。
「まぁ、早く来なくちゃいけない日は早く来るさ」
 心の中で、「たぶん」と小さく付け加える。実際、そんな日が来たとしても六割くらいの確率で遅れるのが僕という人間だ。これまでの人生経験でそのことは僕も痛いほど分かっている。
 そして、そのことは朱音もよく分かっている。僕の言葉に対して苦笑いの度合いを深めている。
「颯がそう言うんだったらいいけど……」
 朱音の言葉と合わせて、廊下から人の足音が聞こえてきた。廊下に顔を出してみると、それは担任の佐藤だった。
「先生が来たみたいだね」
 朱音が背筋を伸ばして、優等生モードに入る。彼女は基本、学校で先生が目の前にいるときはこの優等生モードで通している。先生がいないところではそれを解いているし、猫をかぶっているのはバレバレだと思うのだが、彼女はそのことを気にしていないようだ。どうも、先生に優等生の姿を見せている自分の姿が好きなようだ。
「そうみたいだ。じゃあ」
 僕は短く言うと、自分の席の方へ向かっていった。僕のその姿が合図になったように、教室で思い思いに時間を過ごしていたクラスメイトが自分の席へと着席をはじめる。全く、自分は合図代わりじゃないんだぞ、と口をとがらせたくもなるが、こればかりは仕方がない。
「おはよう。今日は少し遅れた。すまないね」
 佐藤がドアを開けて入ってくる。生徒の出席状況を確認しながら、教卓へと向かう。
「うん、今日も全員来ているみたいだね」
 そう言うと、脇に抱えた出席簿を机の上に置いた。
「颯くんも今日は遅刻じゃなかったみたいだね」
「先生、それは僕が毎日遅刻しているみたいじゃないですか」
「でも、ここ2日続けて遅刻してきたじゃないか」
 クラスの中でドッと笑いが起こる。ここで笑われるのは本意ではない。しかし、そう言われれば、と僕は思い出し、赤面する。
「それは先生の判定が厳しいんですよ」
 悔し紛れの抗議。が、僕に分がないことはわかりすぎている。
「先生。颯くんのことは放っといて始めて下さい」
 ここで狙ったかのように朱音の声が割り込んでくる。さすが優等生モード。不真面目な生徒に先生が対応することで進行が遅れていることに対して怒りを感じているような雰囲気が、声に混じっていた。
 そこまでしなくてもいいのになぁ。
「あ、朱音くん、ごめんなさい。それでは健康観察ですが」
 そう言ってクラスを見回す。
「全員元気そうですね」
 そう言って、さらさらと健康観察簿にメモをする。それでいいのか、と思うが、たかだか五人のクラス。改めて確認することもないだろう。
 たかだか五人。そう、僕たちのクラスには五人しかクラスメイトがいない。そして、この学校に在籍する中学三年生が五人、ということである。
 この学校は小規模な町にあるので、そもそも生徒数が少ない。一年生は二クラス、六十人くらい在籍している。僕たちの学年も同様で、本来中学三年生として学校に通うべき生徒は六十三人である。だから、本来ならばクラスメイトは三十人程度であるのだが、ここであの病気が出てくる。
「厨二病」
 突然現れたその病気(とは言っても通称だが)に、僕たちの学年も例外なく巻き込まれ、結果五十八人もの人間が管理施設に入れられることになった。
 そして、幸いにして厨二病に発症することがなく普通の学校生活を送っているのがここにいる五人、と言う訳だ。
 ちなみに、一年生はまだ厨二病の発症者は一桁にとどまっているが、二年生はすでに半分以上が厨二病に感染している、という状況だ。まだ、夏前だというのに、恐ろしい勢いである。僕達の学年と同じ状況に陥るのも時間の問題だろう。
「それでは本日ですが、三時間目の社会の橋本先生が体調を崩しておやすみをとられましたので……」
 教卓の佐藤の言葉を聞き流しながら、僕は考える。
 今、厨二病に感染していない生徒が五人。しかし、この病気の恐ろしいところは、いつ感染するかわからない、というところである。発表によると、三十二歳で厨二病を発症した人もいる、ということで安心はできない。また、おたふく風邪や百日咳のように、一度罹患したからもうならない、というものでもないらしい。数は少ないらしいが、二度以上罹患することもある、とのこと。
 予防法としては、青少年が抱きそうな幻想を抱かない、ということらしい。しかし、そんなことできるなら苦労はしない。誰だって、自分は世界の中でも特別な存在だと思いたいに決まっている。それが中学生というものだ。自分は社会の歯車に過ぎない、と思い込んで生活する中学生がいたら、そいつはさぞ暗い生活を送っているに違いない。
 とはいうものの、僕も感染はしたくないので、極力妄想することは避けている。一生終わらない夢の中で活躍できる、と言うのならば僕も感染することはいやではないが、実際はいつか終わりを迎える病気である。その時、自分の妄想で赤面し、死にたくなるのは想像に難くない。
 果たして、こんな日々がいつまで続くのか。僕は嘆息して、窓の外を見上げた。



第二章


「颯くん」
「ん?なんだ朱音」
 夏休みももうすぐと迫った七月。昼休みに教室でぼんやりと窓の外を眺めていると、朱音から声をかけられた。
 幼なじみの腐れ縁だが、僕が朱音に話しかけることはあまりない。ひとえに僕が恥ずかしいからである。
 それは朱音も同じで、朱音から僕に話しかけることは、朝の挨拶以外だと、必要最小限のことだけだ。
 幼なじみが成長して、だんだん相手を意識して距離感が生まれて、やがて耐えられなくなった二人がお互いの気持ちをさらけ出して結ばれる、と言うシチュエーションがあるが、まさにその状況に誓い。
 そのシチュエーションに憧れを抱いていた僕には願ったり叶ったりなのかもしれない。しかし、こうして実際その状況に置かれると、なかなかに心苦しいものがある。
 だから、こうして朱音が話しかけてくるのは、とても嬉しい。内心ではそんな事を思っているのだが、今日も僕はそんな事をおくびにも出さずに朱音と会話をする。そんな内心を見抜かれると、やはり恥ずかしい。
 顔を上げて朱音を見ると、朱音の表情が少し沈んでいるようだ。朱音は基本的に元気が売りだ。そこら辺の元気娘みたいに暴れ回る、ということはない。しかし、病気はしないし、周りがどんなにきつそうにしているときでも、笑顔で周りを励ましてくれるような人間だ。だから、クラスでの信頼も厚い(とはいえ、僕を含め四人からの信頼だが)
 その朱音であるので、今の表情はちょっとした驚きだった。彼女がこんな表情をしていたのは、一体いつ以来だろう。腐れ縁の僕でもちょっと思い出せない。
「私、もう駄目かも知れない」
 次に朱音から発せられた言葉はさらに僕の度肝を抜いた。朱音の弱気。一体どうしたというのだろうか?
「ど、どうしたんだ、朱音?」
 僕は慌てて立ち上がった。こんな僕に何ができるのだろうか。頭をフル回転させるが、良さそうな手がなかなか思い浮かばない。こんな時にかっこよく手を差しのべることで、自分の好感度が上がるのだろうが。なんとふがいないことである。
「ここでは、あまり話せないことだから……」
 朱音は周りを気にするように、あたりをちらちら確認している。
 その言葉を聞いたとき、僕は雷に打たれたような衝撃を受けた。
 朱音の顔が優れなかったために、何か良くないことを想像していたが、もしかして違っていたのか?まさかの大逆転の展開なのか?僕大勝利?
 僕は朱音が好きだ。幼なじみとして同じ時間を過ごしてきた、という面は多分にあるとは思う。しかし、彼女の明るさや元気さ、細やかな心遣いに僕が助けられたことは両手両足の指では数えるのに足りない。
 朱音の気持ちははかりきれなかったが、普段の感じからして、僕に特別な感情を有しているとは思えなかった。心の中で苦しさを抱えて、それでも今はこのままでいいか、と思っていた僕は、あえてアプローチをすることはなかった。へたれなのだ。
 ところが、朱音は僕に気持ちはない、と思っていたのは僕の計算違いだったのかも知れない。
「私、もう駄目かも知れない」
「ここでは、あまり話せないことだから……」
 この二つの言葉から、僕は普段想像しないようなことを想像してしまった。いやいや、時期尚早だ。期待するのは早すぎる。ここで期待しすぎると、違ったときのダメージは大きい、と警鐘を鳴らす僕も心の中に存在していた。しかし僕は、まさかの展開に対する期待を抑えることはできなかった。
 当然だ。この展開は、ずっと期待していたことなのだから。想像していたような場面が目の前で繰り広げられているのに期待するな、と言うのは酷すぎる。
「そ、そうか」
 僕は内心の高ぶりを押さえて、努めて冷静に応えた。だが、声が若干うわずっていたことは、僕にもハッキリと分かった。
「じゃ、じゃあ図書室にでも行こうか」
「……うん」
 僕はとりあえず人がいなさそうな所、ということで図書室を選択した。この時代、青少年の健全なる育成の名の下に、青少年が興味を持ちそうな本をことごとく除外した結果、いかにも大人が子どもに読ませたい!という本しか図書室には配架されないようになっていた。自然、図書室に通う生徒は本当の本好きしかいなくなり、どこの学校の図書室も閑古鳥が鳴いているような状態だ。
 一応、生徒が殆ど来なくても必ず誰かいるために、いかがわしいことに使おうという生徒はいないのも幸いする。
 結果、いつも本が好きな生徒が数人しかいない図書館がそこにできあがる。誰かに聞かれたくない話をするのには、これ以上適した場所はないだろう。
「それじゃ、僕先に行ってるから。後から来て」
 へたれな僕は、それでも二人で一緒にどこかに行くのを見られると恥ずかしい、との思いから、一人で図書室に向かって歩き出した。
「分かった……」
 朱音はそれに対して、弱々しく応えた。

 図書室に入った僕は、カウンターから一番遠い席に腰をかけた。間には胸の高さほどの書架があるため、大きな声を出さなければ目立つこともあるまい。
 また、今日は図書室を訪れている生徒はいないようだ。これ以上内緒の話をするのに適した場所はないだろう。
 と、こうして場所を確保してみると、今度は場所が図書室で良かったのか、という思いがわいてくる。勘違いだと思うけれども、もし、万が一にも朱音が僕に対して告白しようとしているのだとしたら。この場所はあまり雰囲気が良くないのではないか?ロマンティックさが足りない、というか。
 僕の理想としては、学校帰りに、昔二人が遊んだ公園でお互いの気持ちを確認したい、というものである。昔話に花を咲かせながら、次第に現在の話になっていき、そして「あの頃から、ずっと好きだった」と言う流れが最高だ。ちょうど夕焼け時で、あたりがあかね色に包まれていたら言うことはない。
 そこからすると、昼休みに当番はいるものの、基本的に人気のない図書室で告白、というのはあまりに味気なさ過ぎるのではないだろうか?
 そう考えると、僕のチョイスはあまりにミスチョイス過ぎた気がする。かといって、他に場所はないし。
 僕が悶々と自分の判断を後悔していると、目の前に人の気配が感じられた。視線を上げると、まずスカートが目に入った。女性か。
 一瞬、当番が見回りをしているときに僕に気づいて近づいて来たのか、と考えた。
 僕はゆっくりと視線を上げていく。あたかも怒られている最中の子どものように。
 次に目に入ったのは、すらりとしたウエストラインだった。それからほどよいバストが目に飛び込んできた。実に僕好みの大きさだ。やはり中庸が一番だ。
 そして、顔。そこには腐れ縁の少女のものがあった。僕の大好きな人の顔だ。ただ今は、表情が少し硬い、というか沈んでいるようなのが気になるところである。告白するとき、こんな表情になるものだろうか。疑問であるが、僕はいい方に考えることにした。
「ごめん、待った?」
 朱音は苦笑いをして僕の前に座った。おそらく、彼女としては普通に笑ったつもりなのであろう。ただ、いつもの笑顔とは違う。
 彼女が望まずして苦笑いを浮かべている、と言うことが彼女の現在の心境を物語っているように思えた。
「ぜ、全然待ってないよ」
 見ていたのが朱音だ、ということを確認した僕は、その表情に少し動揺しながらも、応えた。
「そう、ならいいけど」
 朱音はそう言うと、僕の目の前の椅子を引いて腰をかけた。
「図書室に来るの、久しぶりかも」
 朱音はあたりを見回しながら、そう言った。
「そうなのか?」
 僕はその言葉が意外だった。
「優等生モードの朱音なら、図書室に足繁く通っていそうなものだけども」
「そんな事ないよ。読みたい本がない図書室なんて、優等生でも通わないでしょ」
「それはそうだ」
 朱音の答えに、僕は納得した。全く、青少年の健全なる育成のため、か何か知らないけども、その青少年側からしたら迷惑な話だ。そのせいで面白いものに触れることなく、厨二病におびえながら妄想を抱かないように過ごす青春に一体どれほどの価値がある、と言うのか。
 僕は心の中で悪態をついた。自然、ため息が漏れた。
「ため息をすると、幸せが逃げるよ?」
 朱音が僕のそれに反応する。
「それ、迷信だろう?それに、今更幸せが逃げたって、なんてことないさ。そもそも、こんな時代に生まれたのが不幸だって言うのに」
「そうかもね」
 僕の言葉に、朱音もため息混じりの言葉で答えた。
「昔の人って、どんな青春時代を送っていたんだろうね?」
 其の昔、朱音と何度となく繰り返してきた想像。「青少年の健全なる育成」が始まる前の青春時代。きっと、自分の興味のあることに思い思いに触れることができ、たくさんの知識を得、厨二病におびえることのない青春を送っていたのだろう。
 しかし、そんなものを知っているのは、僕の両親より少し上の世代になる。そんな人と関わる機会もないし、たとえ質問する機会を与えられたとしても、そのことを青少年に話すのは、健全なる育成の妨げになる、ということで話してくれない。
 だから、僕達はそのきっと楽しかったであろう日々を想像することしかできない。かつてあったであろうその日々を、羨むことしかできない。
「考えても無駄さ」
 考えても、決して僕達に得られるものではないから。キツネが決して手に届かない葡萄を「どうせあの葡萄は酸っぱくてまずいだろう」と捨て台詞を吐くように、僕達は「当時だって、きっと今より良くない青春時代だったはずだ」と捨て台詞を吐くことしかできない。
「そうだね」
 そして、朱音も同様だ。
 二人の間に、沈黙が訪れる。お互い、顔をうつむけている。気まずい。
「と、ところでさ」
 僕の方が先に沈黙に耐えきれなくなった。
「なぁに?」
 朱音が、僕の言葉に顔を上げる。
「話したいこと、あるんじゃなかったの?」
 僕は努めて平坦に言葉を発した。現金なもので、先ほどまで決して手に入らないで落ち込んでいた気持ちが急に吹き飛んでしまった。
 その代わり僕の心を覆ったのは、期待である。
「そうだった……ね」
 ところが、朱音の顔はやはり優れない。きっと僕の表情は期待とそれを隠そうとする気持ちとで変な顔になっているに違いない。しかし、朱音は先ほどとあまり変わった様子がない。いや、むしろ気持ちがさらに重くなってしまったようにも見える。
「あと十分くらいで図書室閉まっちゃうから。どうしても話しにくいようだったら、また後で話を聞くけど」
 我ながら、話を急かすようで最低の言葉である。しかし、朱音の様子に戸惑う僕には、普段の朱音のように細やかな心遣い、と言うのを発揮するのは無理だ。そもそも、心遣いが苦手なのだ。
「うん……」
 朱音はその言葉に少し頷こうとしたが、そこで大きくかぶりを振った。
「ごめん、やっぱりなし。ここで聞いて欲しい。颯に聞いて欲しい」
 朱音は覚悟を決めたように顔を上げた。そういえば、僕の名前を「颯」と呼び捨てにしていた。学校で優等生モードをとっているときは、決してそう呼ばない呼び方で。小学校に入学する前の、誰よりも一緒に遊んだときの呼び方で。
「うん、分かった」
 朱音の真剣な表情に釣られ、僕は背筋を伸ばして静かに話を聞くことにした。
「で、話したいことって何?」
 僕のその態度に、朱音も安心したのか、弱々しくあったが、ようやくいつもの笑顔を見せた。
 朱音が背筋を伸ばす。僕は、朱音が言葉を発するのを黙って待った。その視線は、真っ直ぐ朱音の顔に向けた。
「そんな見つめられると、照れて話しづらくなるかもね」
 朱音から発せられた言葉は、まずそれだった。
「そうだよね。見つめられたら、話しにくいよね」
「そうだよ。お見合いじゃないんだから」
 僕の軽口に対して、朱音が苦笑いで答える。しかし、朱音のその言葉は僕の心にちょうどクリーンヒットした
「お、お見合い!」
 少し声が大きくなったかも知れない。当番に聞かれると、なんと思われるかわからない。言いふらされたら最悪だ。
 しかし、幸いにして何の反応もないようだった。僕はほっと胸をなで下ろした。
「そんなに慌てなくていいのに」
「だって、お見合いって」
「もののたとえ。冗談だよ」
 朱音はなんだか楽しそうだった。先ほどまでの様子から比べると、いつもの調子が戻ってきたようだ。。
「うん、いつまでこうしていられるかわからないし、話しちゃうね」
 僕はその言葉に違和感を感じた。いつまでこうしていられるかわからない?僕は、朱音の次の言葉を、固唾を呑んで待った。
「私、厨二病にかかったみたいなの」
「えっ?」
 さっきと比べものにならないほどの大きな声が、僕の口から発せられていた。それでも、当番は反応しないようだから寝ているのかな、とどうでも良いことが頭の中をよぎった。
 しかし、それは重要なことではない。朱音が厨二病にかかったかも知れない。それは僕にとって最悪のニュースだった。
 それは、朱音が施設に入る事を意味する。朱音との別れを意味する事だから。
「そんな大きな声出さないでよ」
 朱音は僕の反応に、困ったような顔をした。
「それにしても、当番の人寝てるのかな?結構大きな声が出たのに、注意もないなんて」
 朱音が立ち上がってカウンターの方を見て、当番がどうしているか確かめている。朱音がそうしている間、僕の心の中は嵐が起こったようにかき乱されていた。
「やっぱり、寝てたよ」
 朱音は椅子に座ると、面白そうに笑っていた。
「そんな事、どうでも良いよ」
 朱音の報告に、僕は声を荒げた。
「朱音、ちゅう……」
「言わないで!」
 朱音が僕の言葉を遮った。普段聞かれない朱音の大声に僕は戸惑い、続きの言葉を失ってしまった。
「ごめん。でも、他の人の口からその言葉を聞きたくないの」
 朱音の辛そうな表情が、そこにはあった。それを見て、僕は自分のうかつさと、朱音にそんな顔をさせたことを後悔した。
「ごめん……」
 僕はその言葉を紡ぎ出すのがやっとだった。知らず顔がうつむいてしまう。
「うん、私も大きな声を出してごめん」
 朱音も僕と同じように顔をうつむける。
「でも、どうして?」
 僕は顔をうつむけたままそういった。
「どうして、って言われても。専門家が原因がわからないんだから、私も理由がわからないよ」
 朱音は困った声。
「そうじゃなくて……」
「うん、分かってる」
 僕は顔を上げて、朱音を見つめた。朱音はそれを真っ直ぐに受け止める。時間にして数秒の沈黙が流れた。僕にはその沈黙の時間が数十倍にも感じられた。でも、僕は待つことにした。朱音の言葉をきちんと受け入れられるように、荒れる心を落ち着かせようとした。
「ありがとう」
 僕の態度の意図に気づいたのか、朱音が短くお礼の言葉を告げた。
「ここ最近の話なんだけど」
 朱音は静かに語り出した。僕は、全身全霊をその言葉に傾けた。
「ふと自分が何をしているかわからなくなることがあったの。まるで、夢を見ているかのようにふわふわした気持ちでいる、と言うか」
 朱音はそれからここ最近自分に起こったことを話してくれた。
 それに気づいたのは、二週間ほど前。最初は、自分が夢の中にいるような感覚でいることが起こるようになった。その時は、寝不足なのか、と思って睡眠時間をいつも以上に確保するようにした。しかしそれでは解決しなかった。
 それどころか、その頻度が増え、ついには自分の意識が途絶えるようになっていった。始めはその時間は一,二分程度だったらしいが、それが五分、十分と増えていき、最近は一時間以上になっていった。
 意識が途切れているときのことは基本的に覚えていないのだが、かすかな記憶を掘り起こしてみると、自分が物語の主人公として、役を演じているような記憶が残っている。
 幸いにして、学校ではその症状が出ることがない。しかし、家でその時のことを聞いてみると、何かいつもと違って変だった、と両親は話してくれた。まるで、何かの妄想に取り憑かれているかのようだった、と。
 ここに来て、朱音は自分が厨二病にかかって、その初期症状が出ているのではないか、と思うようになったらしい。
 最近では両親もそのことに感づいてきているらしく、母がどこかと連絡を取っているような様子が見られる。
 自分は、管理施設になんて行きたくないが、それも時間の問題だろう。
 彼女の言葉を
まとめると、そういうことらしい。話し終わった朱音は、悲壮な顔をしていた。そんな顔を見てしまっては、僕はなんと言葉をかければいいのか全く分からなかった。
 そうやっていると、予鈴が図書室に鳴り響いた。さすがにその音に当番も目を覚ましたのか、寝ぼけた調子で「鍵を閉めます」呼びかけていた。
「教室、戻らないとね」
 朱音が立ち上がった。それを見て、僕も慌てて立ち上がった。
「そうだね」
 この予鈴は、僕にとっては救いの鐘となった。ハッキリ言って今の僕は、朱音に対してなんと声をかけていいかわからない。しかし、沈黙を保ったまま過ごすわけにも行かないだろう。かといって、下手なことを言うことはできない。
 このまま何も言わずに、というのもどうかと思うが、とりあえず授業中は話す機会もないわけで、時間稼ぎにはなる。時間を貰ったところで、かける言葉が見つかるとも思えないので、結局は問題の先延ばしにしかならないような気がするけども。
「話を聞いてくれて、ありがとう。少し楽になったかも」
 朱音は笑っていた。しかし、その笑顔は寂しそうなものだった。近いうちに別れが訪れていることを覚悟しているような。
「朱音」
 だから僕は、何かしなくてはいけないと思った。何ができるかわからないけども。
「今日は一緒に帰らない?」
「颯からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。びっくり」
 朱音は、僕の言葉に目を見開いて驚いていた。
「たまにはいいだろう」
 恥ずかしい、と言う思いはある。しかし、このままだと何もしないうちに朱音とお別れをしなくてはいけない、と言う思いに僕はとらわれていた。だから、思い切って勇気を出すことにした。ここで勇気を出さないと、一生後悔しそうな気がしたから。
「そうだね」
 朱音の表情が少し明るくなった気がした。それはあくまでもささやかなもので、もしかしたら僕の勘違いかも知れない。
「とりあえず、教室に戻ろう。早くしないと授業が始まっちゃうし」
 朱音の言葉に急かされた僕は、頷いて図書室を後にした。



第三章


 結局、午後の授業は先生の説明をバックグラウンドミュージックとして聞き流しながら、これからどうすればいいか僕は考え続けた。放課後までたった二時間。時間が迫る中、漠然とした僕の気持ちを何とかまとめようと頑張った。ありきたりな言い方をすれば、それは砂漠に落ちた一本の針を探すような、とりとめのない作業だった。
 だから、と言う訳ではないけれども、結局僕は考えをまとめることができなかった。僕は自分の情けなさに泣きたくなってきた。しかし、朱音の置かれている状況を考えると、自分が泣いてしまう、というのはあまりに申し訳ない気がしてきたので、涙はこらえることにした。
 こうなってしまっては、もうぶっつけ本番である。僕は貧困なボキャブラリを総動員して立ち向かおう。そう決意した。
「それじゃ、帰ろうか?」
 僕が自分を奮い立たせていると、朱音が自分から近寄ってきてくれた。
「うん、行こう」
 笑顔の朱音の表情からは、昼休みまでの固さは見られなかった。しかし、どことなく憂いを帯びているように見えてしまうのは、僕が彼女の悩みを聞いてしまったからだろうか?
 何にせよ、自分から誘っておきながら、結局は決心が必要で、結果として朱音から声をかけさせることになってしまった。こんな時まで決まらない自分のふがいなさに、絶望してしまいそうになる。
 しかし、僕の情けなさなんてたいしたことない。今日は、朱音だ。僕にはどうすることができないかも知れない。
 しかし、もしかしたら。万が一に。僕に何かできることができるかも知れない。こういうのこそ、厨二病的思考なんだろうなぁ、となんだかおかしくなってくる。
 そもそも、どうして朱音なのだろう?こんなことなら、いっそ僕が厨二病になっていれば良かったのに。朱音なんて、厨二病的な妄想からは縁遠い存在であるはずなのに。
「どうしたの?」
 考え込んでいると、朱音が僕の顔を覗き込んでくる。その距離感の近さに僕はどきりとしてしまう。好きな人の顔が間近にある。それがこんなに恥ずかしいことなんだなぁ、と僕はその時思った。
 僕がこれだけ意識してしまうのに、朱音は気にしていないそぶりということは、朱音は僕のことを意識していない、ということだろうか。それを考えると、ちょっと哀しくなる。
 しかし、すぐに気持ちを切り替える。このままリードされたままではいけない。今日は自分がリードする側なのだ。
「ごめん。ちょっと考え事していた」
 僕は照れ笑い。
「一体何を考えていたの?」
 今度は僕を上から見るような姿勢で、朱音が尋ねた。その視線は、あたかもお姉さんが弟を見守るような、優しいものだった。
「……今日の晩ご飯」
「なにそれ、おかしい」
 テンパった僕は、口から出任せを言った。てっきりあきれられるかと思ったが、朱音は本当におかしそうにコロコロと笑っていた。
「そんなにおかしい?」
 朱音がこうやって笑ってくれることに嬉しさを覚えた。朱音の気持ちが、今この瞬間だけはいやなことを忘れている、ということだから。
 しかし、それでも少し抗議はしたくなる。僕はやはり子どもなのだろう。こんなすねた言い方をしてしまった。
「だって、自分が作るわけじゃないでしょ」
 何とかおかしさを押さえたようだ。目尻を指でぬぐいながら彼女は答えた。
「そうだけどさ」
 朱音の言うことはもっともなので、僕は何も言い返すことができなかった。だから、僕は話をうやむやにするように言った。
「それはいいからさ、帰ろう」
「はいはい」
「そんな子ども扱いみたいな返事をして」
「そんなことないよ」
「そうなの?」
「そう」
 心なしか、朱音が楽しそうに見えた。こんなに楽しそうにしている朱音を見るのは、いつ以来だろう。僕と帰れることが嬉しいのかな?なんて思い上がりたくもなるが、それは些末な問題だ。
 朱音が笑顔でいられる。厨二病という問題を抱えた彼女が、少しでも楽しくいられる。これが僕にとって、何より大切なことのように思えた。
「行こう」
 だから僕は、恥ずかしさをこらえて朱音に手を差しのべた。
「颯、なんだか気障だよ」
 それに対して、朱音は笑いながらそれに答えてくれた。周りにはクラスメイトがまだ残っているけども、それは気にしない。
 だって、後悔をしたくないから。もしかして、これで終わってしまうかも知れないから。だから、僕はどんな恥ずかしさにも耐えられる。

 「厨二病」と言うキーワードに、お互いが触れたくなかったからだろう。帰り道は、思い出話から始まった。
 まずは、初めて出会った公園の話。あのとき僕はどうしようもなく意地悪で、滑り台を独り占めしていた。そこに現れたのが朱音だった。「独り占めは良くない」と僕に説教してきた。その時の僕は今よりもっと子どもだったので、朱音に対して手を出した。それに対して、朱音もお返しをした。そう、今では考えられないけども、当時の朱音はまだまだやんちゃだったのだ。そして、二人でけんかをした。
 結局負けたのは僕だった。
 出会いは最悪だった。だけど、それまでの意地悪と、女の子にけんかで負けたことから、僕は仲間はずれされるようになった。
 そんなとき、手を差しのべてくれたのは、朱音だった。困っている人を放っておけない性格だから。
 直接的には根本的な原因は僕なのだけれども。でも、それを認めたくなかった僕は、はじめ朱音の差しのべる手を跳ね退けた。拒絶した。ほんと、今思い出しても子どもだった。でも、朱音は諦めずに何度でも僕に手を差しのべてくれた。
 だから、僕はそれにとうとう負けた。それから、僕と朱音は友だちになった。
 そういえば、あの時は朱音が手を差しのべてくれたんだったな、と話をしながら僕はふと思い出した。あのとき、朱音の手があったからこそ、今の僕がある。
 だから、今度は僕が朱音に手を差しのべなければいけない。朱音が苦しんでいる今だからこそ。
「どうしたの?」
 急に立ち止まった僕に、朱音は不思議そうに尋ねた。
「手」
「手?」
「握ろうか?」
「ふえっ?」
 恥も外聞も捨てた僕は、いつもだったら考えられないことを口に出していた。いつも言わないことを、僕が言っていることがわかる朱音は、普段の朱音からは考えられない間抜けな声を上げた。
「ほら、あのときの僕たち、よく手を握って一緒に帰ったじゃないか」
 我ながら意味がわからない。しかし、そんなことはどうでも良かった。
「あのときはあのときだよ」
 朱音は顔を真っ赤にして顔をうつむけた。
「そうだよね」
 僕は、右手で頭を掻いて、笑った。
「……でも、それもいいね」
「えっ?」
 今度は僕が度肝を抜かれる番だった。
 キュッ
 朱音は、右手を差し出すと、僕の左手の袖をつまんだ。
「っ」
 朱音の大胆な行動に、僕は戸惑ってしまった。自分から言い出したことながら、まさか本当にすることになるとは思っていなかったから。
「袖じゃなくて、手」
 朱音は顔をうつむけたまま呟いた。
「あ、うん」
 これに応えないと僕も男として立つ瀬がない。僕は左手で持っていた鞄を右手に持ち替えて、左手を開いた。
 それを確認すると、朱音は僕に左手を握った。
「何か、恥ずかしいね」
 朱音は顔を伏せたまま、上目遣いに僕の顔を覗き込んだ。僕はその仕草と、朱音の手から伝わる手のぬくもりで、心臓が爆発しそうだった。
「うん」
 そう答えるのが精一杯。
「……」
「……」
 それから、暫く僕たちは黙っていた。いや、言葉を発することができなかった、と言うべきか。朱音がどんな気持ちでいるか、僕には計り知ることはできなかったが、僕はと言うと、ドキドキしすぎて、何を言っても訳のわからないことになりそうだった。下手したら、日本語以外の別の言語が出てきそうな恐れすらあった。
 周りのから僕たちはどう見えるだろうか?僕はふと気になって。初々しいカップル?バカップル?リア充爆発しろ?もう僕の心臓は本当に爆発しそうだ。
 そんなことを考えつつ、この沈黙がずっと続いたまま家に帰り着くかと思っていた頃、朱音が口を開いた。
「ほんと、昔はこうやってよく手を握ったよね」
 懐かしいね、と朱音。
「そうだね」
 と僕。
「あのときは、楽しかったよね」
「本当に」
 それから僕たちは、思い出話に花を咲かせた。きっと、二人とも「厨二病」と言う現実から目を背けたかったのだと思う。小学校の時、お互いが同じクラスだとわかったときの驚き。発表会で、朱音はお姫様の役だったのに、僕は木の役だったこと。運動会で、僕は朱音にずっと負け続けたこと。修学旅行で、二人で道に迷って、クラスに迷惑をかけたこと。中学校に入って、だんだんお互い話す時間が減っていったこと。
 たくさんの思い出が掘り返された。次から次に。それは、中学校に入ってからお互いが話さなくなった分、それを取り戻すかのようだった。
「もうすぐ、私の家だね」
 この時間が、永遠に続けばいい、と思っていた。でも、終わりはいつか訪れる。
 僕と朱音の二人の時間は、もうすぐ終わる。
「そう……だね」
 そして、終わりを避けることはできない。朱音の厨二病の感染を止めることができないように。
「今日は、楽しかった」
 僕の気持ちに相反するように、朱音の声色は明るかった。
「ほんと、久しぶりだったね。私、ずっとこうしていたかった。……ううん、違う」
 僕が朱音の顔を見ると、声色に反してその顔はいかにも崩れそうなものとなっていた。
「朱音?」
「こうしていたかったし、こうしていたい」
 朱音の言葉に、僕は心臓を捕まれるようだった。
「知ってた?私、颯くんのこと。颯のこと好きだったんだよ」
 意外な告白。
 思いもよらなかったその言葉に、僕は頭の中が真っ白になった。
「僕のこと?」
「そうだよ。ずっと、ずっと大好きだった。だから、中学生になってちょっと距離が開いて、寂しかった」
 朱音は真っ直ぐに僕を見つめ返してくれた。
「このままだと、いつかそのまま関係が消えてしまうんじゃないかと思って。だから、毎朝挨拶するようにしていたんだよ。知らなかったでしょう?」
 そうだったのか。毎朝遅刻ぎりぎりに登校してくる僕に、まず最初に挨拶してくれたのは、確かに朱音だった。それが当たり前のことになりすぎて、僕は全然意識しなくなっていた。
「もっとたくさん話したいことがあったけど。でも、颯がいやがるだろうから我慢するようにしていた」
 そう、朱音は本当に必要なことがなければ、話しかけなかった。昔は、どんなことでも話してくれたのに。
「だから、今日は本当に嬉しかった。昔に戻ったみたいで」
 ずっと昔のままでいたかったけど難しいね、と朱音は弱々しく笑った。
 僕はその朱音の姿を見て、胸が苦しくなった。
 そうだったのか。朱音の気持ちを知ってしまった僕は、自分の行いを後悔した。僕もずっと昔から、朱音のことが好きだった。だけど、それを冷やかされるのがいやだった。朱音に迷惑をかけるようで。そして、僕が気持ちを知られるのが、何となく気恥ずかしかったから。
 だから、朱音と話す機会がだんだん少なくしていった。そう、距離を置こうとしていたのは、僕の方なのだ。朱音のことだから、僕のその気持ちは伝わったのだろう。だから、朱音は自分から距離を取ってくれていたのだ。
 本当の気持ちを隠して。
「朱音、ごめん」
 朱音の気持ちを知ってしまった以上、僕は謝ることしかできなかった。
「ううん。謝らなくていいよ」
 朱音はかぶりを振った。
「それは、私がしたことだから。颯に嫌われたらどうしよう、と思ってそれまでと同じように接することができなかった私が悪いんだから」
 違う。それは僕がさせたことだ。朱音は僕の気持ちを酌み取っただけだ。
 だけど、それを言葉にすることは、どうしても僕にはできなかった。
「それに、最後に気持ちを伝えられて良かったよ」
 朱音は泣きそうになりながら、でも笑顔でそう言った。
 でも、それ以上に気になることがあった。
「最後に?」
 僕は聞き返した。
「そう。最後に」
 朱音はますます泣き出しそうだ。
「私ね、今日、管理施設に入ることになったみたい」
「えっ?」
 あまりに急すぎる。僕は焦った。
「さっきね、お母さんからメールが来たの。今日、施設の人が迎えに来る、って。まだ初期症状だけども、厨二病は避けられないから、って」
 朱音は一つ一つ、言葉を絞り出すように言った。そういえば、休み時間に朱音が携帯電話でメールをチェックしていた。朱音が学校で携帯を取り出すこと自体珍しいことだったから、僕はちょっと不思議に思ったのだった。
「管理施設って、初期症状の人のための施設もあるんだって。知らなかったよ」
 笑う朱音。しかし、笑おうとすれば笑おうとするほど、彼女の表情は辛そうなものとなっていった。
 そして僕は、やっぱりかけるべき言葉が見つからなかった。
「だから、大丈夫だって。本格的な厨二病に進行したら、それぞれ個室に入って管理されることらしいけど」
 管理。なんていう言葉だろう。実際は隔離なのに。一部の偉い人たちが自分の失敗を認められないために作った隔離施設。自分たちの過ちを隠蔽するために。
「でも、良かった」
 僕の、どうしようもない憤りを、朱音の言葉がかき消した。
「こんなことがなかったら、たぶん颯に気持ちを伝えられなかったから。好きだって」
 僕はその時の朱音の顔を忘れることはないだろう。涙をこらえながらも、一生懸命笑おうとする朱音の顔を。その笑顔は、何よりも尊くて、美しいと僕は思った。
 でも、情けないことに僕はそれでも何も言えない。朱音はもうすぐ管理施設に入ってしまうのに。
 僕も朱音が好きだ。その一言を言うべきだ、と思った。しかし、それを言ったところで何になる。朱音は管理施設に行きたくない、と言っていた。しかし、それでももう行くことを決めている。きっと、親に迷惑をかけたくない、と思っているのだろう。朱音はそういう奴だ。
 そんな朱音に、僕が自己満足のその一言を言ったところで、朱音の決心を鈍らせることにしかならないのではないか。そう考えると、僕は自分の気持ちを伝えることができなくなっていた。
「優しいね、颯は」
 その僕の気持ちが分かったのか、朱音が呟いた。
「そして、魔法の時間が終わる、十二時の鐘がもう鳴るみたい」
 左手が急に空になるのを感じた。朱音の言葉に僕は顔を上げる。
 そこは、朱音の家のすぐ近くだった。そして、家の前にはスーツ姿の男が二人立っていた。一人は、いかにも事務方、といった感じの線が細い中年で、もう一人はがっちりした体の青年。
 朱音を迎えに来た施設の職員に違いなかった。
「山階朱音さんですね」
 線の細い男が、朱音に声をかけた。
「はい、そうです」
 朱音は折り目正しく、肯定の返事をする。優等生モードに入ったようだ。
「初めまして。わたくし、管理施設から参りました、護田と申します」
 男は右手を差し出し、挨拶をした。手には名刺があり、それには、管理施設の証となるマークと、名前が書かれていた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 朱音は名刺を受け取り、頭を下げて挨拶をしていた。
「これはこれはご丁寧に。ちなみに、これは火口と言います」
 護田と名乗った男は、後ろに立つ男を紹介した。紹介された男は、視線をこちらに回して、軽く頭を下げた。
「そちらは、彼氏さんですか?」
「違います。幼なじみです」
 護田が見た目と反した、軽い調子で問いかけてきた。それに、僕はイラッとしながら、淡々と応えた。
「そうですか。いいですよね、幼なじみ。私、そういう知り合いがいないので、憧れちゃいますよ」
 護田は僕の言葉に全然気にしたそぶりもなく、楽しそうに言った。
「朱音!」
 護田の言葉を遮るようにして、朱音の家から両親が姿を現した。朱音のお父さんは仕事で忙しいはずだけれども、今日のお別れのために早く帰ってきたのだろう。
 朱音の両親は朱音をサンドイッチするように抱きしめる。
「ごめんな、朱音。こうするしかなかったんだ」
「ごめんね、朱音ちゃん」
 二人は、ただただ泣くだけだった。
「大丈夫だよ、私は大丈夫。それに、ちゃんと帰ってくるから、ね。だから泣かないで」
 朱音は、そう言いながらも泣いていた。今生の別れとはならない。しかし、いつ帰ってこれるかわからない。
 気持ちでは割り切っても、感情は抑えきれない。朱音とその両親は、別れの哀しさを抑えることができないのだろう。
 それから、どれくらい時間が経っただろうか。僕と護田さんと火口さんは三人を黙って見ていた。
「やっぱり、こんな感じなんですか?」
 僕は護田さんに思い切って質問をしてみた。
「そうですね。やっぱり、法律だとわかっていても、自分たちにはどうすることもできないと分かっていても、肉親の別れは哀しいもののようです」
「だから、その時間は満足行くまで取る。それから施設へ案内する。それが俺たちの仕事だ」
 護田さんの言葉を繋ぐように、火口さんが口を開いた。てっきり、無口な人だと思っていたので、それはちょっとびっくりした。
 
 やがて涙が涸れ果てた頃。
「お願いします」
 朱音が両親を最後に抱きしめて、護田さんの前に自ら歩み出た。
「もう、いいのですか?」
「はい。これ以上別れを惜しんでも、しょうがありませんから」
 朱音は気丈に応えた。朱音としては、これ以上一緒にいると別れられないと思ったのかも知れない。だから、施設に行くことを決めたのだ。
「朱音……」
 僕は、朱音に言葉をかける。
「ばいばい、颯。また、いつか会えるといいね。その時、さっきの答え聞かせてくれると嬉しいな」
「あっ……」
「今はいいよ。聞くのが怖いから」
 朱音は弱々しく笑う。そして、護田さんに導かれるように、駐車された乗用車に向かう。
 その時、僕の心は平静ではいられなかった。僕は何をしているのだろう。僕は自分が情けなかった。こんな時にでも、何もできないなんて。恥も外聞も捨てたはずなのに。それなのに、朱音の一世一代の告白に答えられないなんて。
 だから、僕はふがいない僕と別れを告げる。
「朱音!」
「何?」
「こっち!」
 僕は、朱音の右手をつかんで、そのまま走り出した。
「待てっ!」
 それに、火口さんが素早く反応する。しかし、僕は彼の脇をすり抜けて走りだす。
「どうしたの、颯?」
「いいから、ついてきて!」
 戸惑う朱音に、僕はそう短く答えた。そして僕たちは、あてもなく走り出した。
 不思議なことに、火口さんや護田さんが追いかけてくることはなかった。



第四章


 結局、行き着いたのは公園だった。公園に着いたときは、僕も朱音も息が乱れていた。僕としては、遠くに来たつもりだったのだけれども、結局ついたのが近所の公園、と言うのが情けなかった。
「どうしたの?颯」
 呼吸が整った朱音が、僕に問いかけた。
「ごめん」
 僕は、どうしてだか謝罪の言葉しか言えなかった。
「謝ってもわからないよ」
 朱音は困ったように笑った。
「ごめん。朱音の最後の言葉、聞いたら、いてもたってもいられなくなって」
 もう逃げない。そう決めた僕は、一つ一つハッキリと朱音に届けるように口にした。
「聞くのが怖い、って言ったじゃない」
 朱音の弱々しい言葉。
「ごめん」
 僕は今まで朱音を傷つけたくなかった。自分と噂になることで、朱音がいやな思いをするのではないか、と思い込んで朱音を遠ざけた。結果、朱音は傷ついていた。
 だけど、僕はこのまま朱音を傷つけたままにしてはいけない。このままだと、朱音が戻ってきたときに、朱音に顔向けできない気がするから。
 これは僕の勝手なわがままに過ぎないのはわかっている。でも、伝えたい。これが最後の僕のわがままだ。
「朱音。僕は君が好きだ」
 思い切って気持ちを告げた。
「ずっと好きだった。いつから好きだったか、というのはわからない。だけど、気づいたときは好きになっていた。朱音のことばかり見るようになっていた。朱音のことばかり考えるようになっていた」
 僕は思いの丈をありのまま朱音にぶつけた。朱音は、目を丸くしつつも、僕の言葉を黙って聞いてくれた。
「もしかしたら、初めて会ってけんかに負けたとき。もうその時好きになっていたのかも知れない」
 僕は苦笑いをする。
「でも、僕はその気持ちを告げられなかった。僕に勇気がなかったから。そして、僕の気持ちを告げることで、周りから冷やかされて、朱音がいやな思いをするかも知れなかったから。そう考えたら、僕は自然と朱音と距離を取るようになっていた。おかしいよね。心の中では、ずっと朱音と一緒にいたい、と思っていたのにね」
 僕は、自分の思いを全てぶつけた。そうすると、ますます笑うしかなかった。
 そう、今考えてみると本当に笑い事だ。ばからしい。幼い、僕の、思い込み。
「さっき、朱音の気持ちを聞いても僕は何も答えることができなかった。情けないよね」
 一呼吸。
「だけど、朱音が行ってしまう、と思ったら、僕も自分の気持ちを伝えないといけない、と思った。だから、僕は自分の気持ちを伝える」
 僕は朱音の正面に立ち、彼女を真っ直ぐに見つめる。
「大好きだ。朱音。誰よりも。これまでずっと好きだった。そして、たぶんこれからもずっと好きだと思う」
 何の確証もない言葉。だけれども、今の僕の偽らざる気持ち。その気持ちを真っ直ぐに、朱音に届ける。
「……ずるいよ」
 朱音がようやく口を開いた。目からは大粒の涙がこぼれていた。
「だから聞きたくなかったのに。こんなこと聞いたら、離れられなくなっちゃうよ」
 僕はこらえられなくなって、朱音を抱きしめた。
「きゃっ」
 朱音の驚きの声。僕は、だけれども朱音を離さない。ぎゅっと抱きしめる。強く、強く。
「い、痛いよ、颯」
 朱音の声に、僕は少し力を緩める。それでも、離さない。
「ごめん、朱音」
「ううん、いいよ」
 朱音は力を抜いて僕に身を任せてくれていた。
「ずっとこうしていたかったな」
 朱音がぽつりと呟く。
「こうしていられるさ」
「だって、私もう管理施設に入らないといけないから」
 朱音が寂しそうに告げる。管理施設。僕たちを引き離そうとするもの。
「ようやく、お互いの気持ちが通じ合えたのにね」
 朱音は哀しさを紛らわせるように、言葉を紡いでいった。
「寂しいなぁ」
「待ってる」
 僕は、朱音の哀しさを少しでも減らせるようにしたかった。その思いから、自然と言葉が生まれた。
「ずっと待ってる。朱音が管理施設から出てくるまで、ずっと」
「いつになるかわからないよ」
 朱音が僕の顔を見上げていった。
「だから、ずっと待ってる。いつまででも。朱音が出て来る日には、迎えに行くよ」
 僕は、この気持ちを伝える。ありのまま。今まで伝えられなかった分を伝えるために。
「本当に?」
 朱音が不安そうに。
「本当に」
 だから僕は、安心させるように優しく、でも確かな思いを込めて。
「……分かった」
 僕の顔をじっと見ていた朱音は、やがて笑顔になった。
「信じてるからね」
 朱音の言葉に、僕は力強く頷く。
「じゃあ、私あなたが迎えに来てくれる夢を見るよ」
 朱音が笑う。
「それはいいね」
 僕も釣られて笑う。
「自分が見る厨二病の夢だもの。自分の好きなように見られるよね」
 朱音は僕の背中に手を回した。
「あぁ、きっと」
 二人の顔がだんだん近づいていく。
「目覚めるときは、王子様のキスだよね」
「それはできないかな」
「うん、だから我慢する。だけど、施設から出てきたら」
「もちろん。キスで出迎えるよ」
 そして、僕と朱音の唇が触れた。優しく、静かに。僕の、そしてたぶん朱音の、初めてのキス。
 どれくらいのあいだ、キスをしていただろうか。どちらからともなく唇を離した。
「キス、しちゃったね」
 朱音が顔を背けて言った。顔が真っ赤になっているのは、夕焼けのせいだろうか、それとも。
「それにしても」
 朱音が笑いながら僕を見上げる。
「キスで出迎えるよ、って言ってて恥ずかしくないの?」
 意地悪な質問だ。でも、今はそれが愛おしいと感じてしまう。これが、お互いの気持ちが通じる、と言うことだろうか。
「恥ずかしくないよ」
 僕は、だからそう答えた。
「期待しているからね」
「期待していて」
「絶対に忘れないからね」
「絶対に忘れない」
「……嬉しい」
 そして、二度目のキス。今度は一度目よりも長く。
 二人の唇が離れ、じっとお互いの顔を見つめ合う。
「そういえば颯、気づいてた?」
「なにが?」
「この公園って」
「あぁ、僕たちが初めて出会った場所だよね」
 そう、この公園は僕たち二人が初めて出会った場所だ。とりあえず走っていたら、この場所に着いた、というのは何らかの運命かも知れない。それとも、僕が無意識に思い出の場所を求めていたのか。
「初めて出会った場所で、初めてのキスだよ」
「ムードがなかった?」
「違うの。これも、何かの運命なのかもね、って」
「二つ目の初めて、ができたね」
 僕たちは、顔を見合わせて笑った。
「なんだかいやらしい」
「そんなつもりは全然ないけどね」
「分かってるよ、颯だもん」
 少しムッとした僕は、でも朱音の言葉にすぐに骨を抜かれてしまう。なんと情けないことである。
「けんかも負けてるし。告白も先にされちゃったし。僕、一生朱音に引っ張られているような気がする」
「大丈夫だよ」
 僕の言葉に対して、朱音は真っ直ぐに見つめた。
「私が、一生颯を引っ張って行ってあげるから」
 その力強さに、僕は参るしかなかった。
「情けないなぁ」
 そう言われて、まんざらでもない、と思う僕は相当なバカなのかも知れない。
「だから」
 朱音は嬉しそうに笑う。
「絶対に迎えに来てね」
 そして、僕の頭をつかんで朱音の方からキスをした。僕は、参ったなぁ、と思いつつ、この感触を忘れないように心に刻み込んだ。



終章


「ん?ここは?」
 僕が目を覚ましたら、そこは一面が白い部屋の中だった。ワンルームの部屋のようだった。三畳くらいしかない部屋であるが。
 ギィ
「目を覚まされましたか?」
 目の前に、線の細い壮年の男が立っていた。この人、どこかで見覚えがあるような気がするけども。だけど、僕はそれが誰だか思い出せなかった。
「名前は思い出せますか?」
 男の問いかけに答えて、僕は頭を回転させる。
「僕の名前は、館山颯です」
「今は何年ですか?」
 この人は何を言っているのだろう?僕は不審に思いながらも、思い出す。「今は、二〇XX年です」
「はい。大丈夫なようですね」
 僕の答えに、男は非常に満足そうだった。
「厨二病の夢からお帰りなさい。館山颯さん」
「えっ?」
 僕は始め、男の言った言葉が理解できなかった。え、厨二病?
「何を言われているかわからない、って顔をしていますね。まぁ、他の方もみんな同じなので、心配しないでいいですよ」
 男は軽い調子で話し続けた。
「あなたは、中学校三年生の七月に、厨二病を発症しまして。それで、今まで管理施設で夢を見続けていたわけです。それが今回夢から覚められました」
「僕が厨二病?夢から覚めた?」
 にわかには信じられない。と言うことは、僕は一体どれくらい夢を見ていたのだろうか?
「そうです。館山さんは、十年くらい夢を見られていたようですね。非常に標準的と言いますか」
 それから、男の人から僕は説明を受けた。これまでのこと、これからのこと。
 僕は、中学校三年生の時から厨二病を発症したので、これから中学校三年生の勉強をしないといけないらしい。そこは、専門の施設がある、と言うことだ。それから、希望に応じて、高校の勉強、大学、就職、とステップを進んでいくと言うことだ。
「何かわからないことはありましたか?」
 男は一通りの説明を終えて、最後にこう言った。
「わかりました。いや、わかってないかも知れませんけども」
「はい、どの患者さんもそう仰います。ですが、大丈夫ですよ。もしもわからないことがあれば、こちらに電話をいただければ、いつでもお答えいたしますので」
 そう言って男は、僕に名刺を渡してくれた。そこには、この男のものとおぼしき名前と、この施設の電話番号が書かれていた。
「いつでもご質問下さい」
 それから、僕は施設を出るための手続きをした。現在の両親の住所は、あのときと変わっていないようだ。この施設から歩いて二十分、と言ったところか。これなら十分に歩いて行ける。インターネットで地図を見せて貰ったが、幸いにして大きな変更はなさそうだ。そんな都会でもないし、再開発なんかなかったのだろう。
 手続きが終わると、僕はそのまま玄関に向かった。自分の家に帰るために。
「送っていかなくて大丈夫ですか?」
 男は確認するように言った。
「大丈夫です。十年ぶりの現実世界がどんなものか、確かめたいので」
 僕は笑顔でそう答えた。始めは曖昧だった記憶も、だんだん整理されてきたようだ。
「そうですか。とりあえず、こちらからは実家の方に連絡は入れておりますので。十年ぶりの対面を楽しまれて下さい」
「そうします」
 僕は笑顔で軽く右手を挙げて、ドアから外へ歩み出した。

「まぶしい」
 太陽の光を浴びて、僕は右手で目を隠す。そして光になれてきた頃、僕は大きく花から空気を吸い込み、口から吐き出した。
「十年ぶりの、外の空気、か。よく分からないな」
 そもそも、自分の中では十年間夢を見ていた、と言うのがわからない状況だ。寝て起きたら十年経っていた、と言うのが正確な感覚で、だから感慨深いという感じはしなかった。
 僕は一歩一歩歩き出した。周りの風景を楽しみながら、ゆっくりと。
「颯」
 暫く歩くと、目の前にすらりとした女性が立っていた。
 僕の記憶から比べると、その女性はだいぶん成長していた。髪もいつの間にか、腰まで伸びている。元々綺麗なストレートだったが、それはこの長さになっても変わらなかった。
「速いね」
 僕は短く言った。
「それが再会最初の言葉?」
 目の前の女性は、それが不満だったようだ。
「ごめんごめん。でも、僕が目を覚ましてから数時間しか経ってないだろ?」
「あの施設、患者が目を覚ましたらまず最初に家族に連絡を入れるみたいなの。で、それを教えて貰ってから、飛んできたのよ」
 嬉しそうに笑う彼女。十年ぶりの笑顔は、十年前の面影を残しながら、でも当時より大人になっていた。
 綺麗になったなぁ。僕は素直にそう思った。
「待った?」
「待ったよ。だって、十年よ」
 僕の言葉に、彼女は苦笑いを浮かべた。
「厨二病にならなかったの?」
「ならない。だって、私が厨二病になったら、誰が颯を迎えに行くの?」
 そう言われると困ってしまう。嬉しいやら、情けないやら。
「待たせたね。と言うか、待っていてくれたんだ」
 だから僕は、意地悪く言ってみた。
「待つわよ。約束したじゃない。いつまでも待つ、って」
 この日一番の笑顔。あぁ、やっぱりこの笑顔は十年経っても変わらない。僕が大好きな笑顔だ。
「ありがとう」
 僕は、彼女に一歩近づいた。それに合わせて、彼女も僕に一歩近づいた。
「本当に、待ってたんだから」
 彼女は、僕を見上げて言った。少し、涙ぐんでいる。それを見て、僕はたまらなく嬉しくなってきた。
 だから、僕は彼女を思いっきり抱きしめた。
「ただいま」
「おかえり」
 そして僕は、十年前の約束どおり、朱音と唇を合わせた。
終わり

思春期における病的思考症候群

思春期における病的思考症候群

SF的なワンアイディアで短篇を書こう。そう思いついて書いてみた作品です。 「厨二病」と呼ばれる病気が蔓延した日本を舞台に、普通の男女の普通の恋を綴った物語です。 幼い頃から一緒だった二人。 気づかずに育っていた、相手への思い。 しかし、「厨二病」が二人を引き裂こうとする。 二人の出した結末は。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-07-23

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC-ND