ピノキオの冒険(02/05/27-02/08/03)
第1章 大工のチェリーさん 変な丸太を見つける。
むかしむかしのお話だ。木があった。木は人が存在する前からあった。それは、もう本当に、ずーっと前からあった。そんな昔からあるものだもの、人より優れているに決まっている。でも、人はそんな事は全然考えないんだなあ。木は自分たちの役に立てるためだけにあるって考えている人が多かった。初夏に繁る緑の葉っぱは人の目を喜ばせるために。空気中に放たれる芳香は鼻と心を喜ばせるために。そして力強い幹は切り倒して、人の道具に変えてしまうために。
そんな歴史がずーっと続いて、今もそれは続いているのだけど、まあ、そんな歴史の中のある時代、ある場所にチェリ-さんという大工さんが居たんだな。
大工だから木を切ったり削ったりして何か作らなくっちゃ生活できない。そこでチェリ-さんはたまたま床に転がっていた丸太を手に取って、これでひとつテ-ブルの脚でも作ってやるかと考えた。考えたらさっそく取り掛かるのがチェリ-さん。よく研いだ斧を持って来て、丸太目掛けて振りかぶると、
「優しくしてね。」
って声が聞こえてきたからびっくりだ。
「なんだ、今の声は。」
きょろきょろしても家の中にはチェリ-さんひとりだけ。それでチェリ-さんは思い直して今度は一気に斧を丸太に振り下ろした。
「ガツン!」
「痛いです。」
またまた声が聞こえてきた。チェリ-さんは腰を抜かしてしまった。なんでだ。この部屋にはわししか居ないんじゃぞ。じゃあ、これはわしの声か。わしが「痛い」とか「優しくしてね」とか言ったとでも言うのか。そんな馬鹿な。そんな言葉を言った覚えはない。じゃあ誰の声なんじゃ。丸太、この丸太か、そんな馬鹿な…
チェリーさんは斧を置くと、今度はカンナを持って丸太を削り始めた。すると、
「うふふ、くすぐったいです。」
また声だ。チェリーさんはもはや認めざるを得なかった。こりゃどうも、どう考えても丸太が口をきいているとしか思えない。けれども言葉を話す丸太なんてどうしたってバケモノだ。バケモノは退治しなくちゃいけない。丸太を退治するには燃やすのが一番、そうだ燃やしてしまおうと普通の大工さんは考えるが、チェリ-さんはそんな風には考えないんだ。
第二章 ゼペットじいさん、丸太を奪い取る。
「こりゃあいい、これで大儲けできるぞ。」
チェリ-さんはニヤリとした。燃やしてしまうなんてとんでもない、言葉を話す丸太を見せ物にすれば、たんまり金が稼げる、チェリ-さんはそう考えたんだ。
「これで地道な大工稼業から、おさらばできるってもんだ。はっはっ。」
『ドンドン』
その時、戸を叩く音がした。「どうぞ。」と声を掛けると一人のおじいさんが入って来た。ゼペットじいさんだ。
「なんだ、ゼペットか。何の用だ。」
「おお、チェリ-、じつは今朝がた、ひょいといい事を思い付いてな。」
「なにを思い付いたんだ。」
「あやつり人形を作るのよ。それで下らない事で腹をかかえて笑いたがっている奴らから金を巻き上げながら世界を旅するのさ。どうだ、名案だろ。」
「ああ、名案だな。」
「で、丸太がひとつ要るんだ。お前の所ならたくさんあるから、、お、あれがいいな、あれをくれ。」
ゼペットじいさんが指さしたのは例の喋る丸太だった。チェリ-さんはもちろん首を振った。
「駄目だ駄目だ、あれは譲れん。」
「なんでだ。」
「なんでもだ。別のにしてくれ。」
「いやだ、あれが欲しい。」
「あれはやれん。」
「なんでだ。」
「なんでもだ。」
「この分からず屋。」
「この頑固もの。」
「なんだと。」
「やる気か。」
興奮してきた二人はとうとう取っ組み合いの喧嘩になってしまった。どちらも似たような年齢、似たような体格、似たような精神力だったが、丸太への執念はゼペットじいさんの方が優っていたようだ。チェリ-さんはついにゼペットじいさんに降参してしまった。ゼペットじいさんは大声で笑った。
「はっはっは、どうだ、参ったか。では丸太は貰って行くぞ。」
「く、くそ、無念だ。この恨みは必ず、、、ガクッ。」
「はっはっは。」
ゼペットじいさんは、床の上で気絶してしまったチェリ-さんを足で蹴とばすと、例の丸太を小脇にかかえて家に帰って行った。
第3章 ゼペットじいさんが人形を作り、警官に連れて行かれる。
ゼペットじいさんは家に帰ると、すぐに丸太を削り始めた。
「名前は何にするかな。」
まだ人形の「に」の字もできていない先から名前を考えるんだから、ゼペットじいさんも大したものだ。あれこれ考えた末、
「よし、ピノキオにしよう。」
ゼペットじいさんは決めてしまった。名前が決まると仕事もはかどる。丸太に髪ができ額ができ目ができたところで、
「おや、」
できたての目玉がギョロリと動いたんだ。ゼペットじいさんもこれは変だと思ったが、とにかく人形は作り続けなきゃいけない。で、次は鼻を仕上げてしまうと、
「おやおや、」
鼻がぐんぐん伸びて行く。ゼペットじいさんは慌てて鼻を削って元の長さに戻した。
「どうも様子がおかしいな。」
それでもゼペットじいさんは人形を作り続けた。そして次に口を仕上げてしまうと、こいつはびっくりだ。
「おじいさん、こんにちは。」
丸太が喋ったんだ。ちっとやそっとじゃ驚かない、肝の座ったゼペットじいさんもこれには驚いた。そしてピンときたんだ。どうしてあのチェリ-さんが、あんなにこの丸太を手放すのを嫌がったか。
「こういう事だったのか。」
ゼペットじいさんは全てを理解した。それから仕事は急ピッチで進む。あっという間に人形はでき上がった。
「おい、ピノキオ。」
できたての人形に向かってゼペットじいさんは言った。
「いいか、お前を作ったのはわしだ。つまりはわしはお前の父さんで、お前はわしの息子なのだ。いや待てよ、父さんでは少し歳が離れ過ぎておるな。よし、おじいさんと孫にしよう。いいか、わしはお前のおじいさんでお前はわしの孫だ。孫はおじいさんを敬わなければならない。分かるな。」
「はい。分かります。」
ピノキオは素直に頷いた。それを見てゼペットじいさんも頷いた。
「よろしい。ではまず歩く練習だ。立てピノキオ。」
「はい、おじいさん。」
ピノキオは立とうとした。しかしうまく立てない。その姿を見てゼペットじいさんは怒り出してしまった。
「なんだ、そのへっぴり腰は、こんな立派な脚を作ってやったのに、それじゃまるでただの木の棒じゃないか。」
ピノキオは努力した。そして何とか一人で立てるようになった。
「よし、次は歩くんだ。そして次は走るんだ。さあ、やれ。」
ゼペットじいさんは次々と命令を下した。その命令に従ってピノキオは歩く。それから走る。
「よし、止まれ。」
けれどもピノキオは止まらない。
「おい、どこに行くつもりだ。」
「止まれないんです。」
ピノキオは止まり方を教わってなかったから、どう止まればいいか分からなかったんだ。で、そのままドアを通り抜けて外へ出て行ってしまった。
「こら、待て。」
ゼペットじいさんが追っかける。ピノキオは走り続ける。とうとう町の広場まで来てしまった。
「このいたずら坊主。」
ゼペットじいさんはようやくピノキオを捕まえた。
「どうしてわしの言う事が聞けないんだ。」
「おじいさん、許して下さい。僕は止まりたかったけど、止まり方が分からなかったんです。」
「止まり方が分からないだと、へ理屈のうまい奴め。そんな悪い子供はこうしてやる。」
ゼペットじいさんはピノキオを抱え上げると、持ってきた固い樫の木の棒でピノキオのお尻を打ち始めた。
「痛い、痛い、」
「痛いのは当たり前だ。それ、ペシペシ。」
「もしもし。」
誰かがゼペットじいさんの肩を叩いた。警官だ。
「こんな所で穏やかではありませんな。ちょっとこちらへ。」
そうしてゼペットじいさんは警官に連れて行かれてしまった。ピノキオはしばらくそこに立っていたけれども、ゼペットじいさんの姿が見えなくなってしまうと、もう家に帰るしかなかったので、家に帰った。
第四章 言葉を喋るコオロギの話。
家に帰ったピノキオは痛むお尻を撫でながら、床にへたりこんだ。するとどこからか声が聞こえてきた。
「コロコ-ロ。」
「誰ですか。」
ピノキオは声が聞こえてきた方を見つめた。そこには一匹のコオロギがいた。
「コオロギさんでしたか。」
「そうじゃ。」
「コオロギさんが僕に何の用ですか。」
「一つの真実をお前に教えてやろう。」
コオロギはそう言うと、ピノキオのそばにやって来た。
「いいかね、お前さんはいい子になりたいのだろう。おじいさんにも誰にも怒られることのない、とてもいい子に。」
「はい、そうです。僕はいい子になりたいんです。」
「それなら、もっと要領よく振る舞わんといかん。おじいさんによく思われたいのなら、おじいさんの喜ぶような事ばかりすればいいのだよ。それが正しいか間違っているかに関わりなくね。」
「正しいか間違っているかに関わりなく、ですか?」
「そう。そして自分の気持ちにも関係なくじゃ。自分の心の中ではあっかんべえ-をしながら、おじいさんに対してはニコニコ笑っていればいいのじゃよ。それが要領がいいって事なのじゃ。」
「心の中では、あっかんべえ-をしながら、ですか?」
「そしてそれは何もおじいさんに限った事じゃないぞ。学校の先生に対してもそうじゃ。成績さえ良ければ、裏で何をやっていてもいいのじゃ。先生は成績の良い子供が大好きじゃからな。」
「裏で何をしても、ですか?」
「そうじゃ。成績が良く、先生の気に入られれば、友達に意地悪しても、花壇の花を引きちぎっても、全然平気なのじゃ。それが先生にばれなければな。それからそれは町の大人たちに対しても同じ事じゃぞ。」
「でも、でも、コオロギさん。」
ピノキオは恐る恐る尋ねた。
「どんなに親の言う事を聞いて、どんなに先生の言う事を聞いて、どんなに大人の言う事を聞いて、どんなに成績が良い子でも、悪い事をする子は良い子ではないような気がするんですけど、、、」
「ばっかものおお-。」
コオロギが大きな声を出した。
「それが人間なのじゃ。いいかね、これは何も子供に限った事ではないぞ。大人だってそうなのじゃ。良い事だけをする大人が良い大人じゃない。どんなに悪い事をしても、恥ずかしい事をしても、要領よく振る舞ってそれを隠し、世間体を整えて上手に生きている大人が立派な大人として賞賛されるのじゃ。分かったかねこの人形君、ドン。」
コオロギは拳を作って床を思い切り叩いた。するとその衝撃で机の上にあった木槌が落ちてきた。それも運の悪い事にコオロギの頭の上に落ちたので、コオロギはつぶされて死んでしまった。
第五章 お腹のすいたピノキオ 卵を見つけて食べようとするとヒヨコが出てくる。
いつの間にか日が暮れかけている。と、ピノキオは自分が腹ペコなのに気がついた。一度気がつくともう駄目だ。とにかく何か口に入れたくってたまらない。ピノキオは部屋の中を駆けずり回って食べられそうな物を探した。けれども何にも見つからない。どうやらゼペットじいさんは大変な貧乏暮しをしているようだ。でなきゃ、パンの一切れくらい落ちているはずさ。
「あ、あれは、」
ピノキオが何か見つけた。卵だ。卵がガラクタの中に落ちていたのだ。ピノキオは喜んだ。何と言ったって卵だからね。こんな物が落ちているところを見ると、ゼペットじいさんはやっぱり結構いい暮しをしているのかも知れない。
「よし、煮て食べよう。」
ピノキオは鍋に水を入れて、火をつけた。水がぐつぐつ湯に変わる。ピノキオは卵の中身を鍋に入れるために、テ-ブルのカドでコツンと卵にひびを入れた。すると、
「ピヨピヨ。」
中からヒヨコが出てきたんだ。
「これはこれはピノキオさん、こんにちは。あなたは私を食べるつもりですね。」
ピノキオは頷いた。
「分かりました。ではさっそく鍋の中に入ります。」
出てきたヒヨコはそう言うと、煮えたぎった湯の中に飛び込もうとする。ピノキオは慌てて止めた。
「待って、ヒヨコさん、そんな事をしたら死んじゃうよ。」
「そうですよ、死にますよ。でもそれでいいじゃないですか。だってピノキオさんは私を殺して食べるつもりだったんですから。」
「違うよ。僕が食べようとしたのは卵で、ヒヨコさんじゃない。」
「同じ事ですよ。この卵は私、私はヒヨコ、つまり卵はヒヨコなんです。卵は食べるつもりだけど、ヒヨコは食べるつもりじゃないなんて、そんなのおかしいですよ。」
「で、でも…」
ピノキオは困った。なんと答えればいいか分からなかった。そうこうする内にヒヨコは鍋に飛び込もうとする。ピノキオは叫んだ。
「ヒヨコさん、分かったよ。僕は卵を食べるつもりはないし、ヒヨコを食べるつもりもないんだ。もっと別の物を食べるつもりなんだ。」
「おや、そうですか。」
ヒヨコは鍋に飛び込むのを思いとどまった。
「では、私は自由の身ですね。」
「うん、そうだよ。」
「そうですか、ではさようなら。ピヨピ-ヨ。」
ヒヨコはそう言うと羽を広げて、窓から飛んで行ってしまった。空を飛べるヒヨコだったのだ。ピノキオは、夕暮れの空の向こうへ消えて行くヒヨコを眺めながら、ため息をついた。そしてもう一度部屋を見回した。やっぱり何もない。こうなったら仕方ない、ピノキオは家の外へ食べ物を探しに行く事にした。
第六章 ピノキオは水をかけられ、足が燃えてしまう。
外に出ると、ひどい風だ。おまけに寒い。ついでに雷も鳴っている。こんな夜更けにこんな天気の中を歩いている物好きはひとりもいない。ピノキオはネズミ1匹いない町の通りをトボトボ歩いて行った。
「わあ-、大きな家。」
目の前に実に大きな家があった。ピノキオはその家の前で足を止めると考えた。たかが家ごときをこんなに大きくできるのだから、さぞやお金がたくさんあるに違いない。お金がたくさんあるって事は、食べ物もたくさんあるに違いない。食べ物がたくさんあるんだから、少しくらいは分けてくれるかも知れない。そこで家の呼び鈴をガンガン鳴らした。
「どなたですか。」
2階の窓が開いてひとりの老人が顔を出した。ピノキオは叫んだ。
「お願いがあります。僕は生まれてからまだ何も口にしていないので、お腹がペコペコなんです。どうか、食べるものを少し分けていただけないでしょうか。」
「少しお待ち下さい。」
品の良さそうな老人はそう言うと、窓から顔を引っ込めた。ピノキオはわくわくしながら開いたままの窓を見上げていた。やがて、
「どうぞ。」
声がしたと思うと、窓から水が落ちてきて、ピノキオはずぶ濡れになってしまった。
「あ、あの。」
ピノキオは何か言おうとしたが、もう窓は閉っていた。それでも何か言わずにはいられない。
「あのお、これは水で、食べ物ではないと思います。」
ピノキオの言葉に応じて、閉じたままの窓の向こうから声が返ってきた。
「あなたは木ですね。木に水をかけると膨張します。ホラ、あなたのおなかは水を吸って膨れているでしょ。おなかが膨れた、つまり、満腹になったと言うことですよ。」
そう言われてもピノキオは相変わらず腹ペコだ。
「あのお、水ではなく、もっと、他の物で満腹になりたいのですが。」
「あなたに食べさせるものはここにはありません。変な物を与えて病気を引き起こし、私に損害倍賞を求めてくる物乞いが、最近、とっても多いんですよ。さあ、帰って下さい。」
「分かりました。」
ピノキオはそう答えて、素直に家に戻った。濡れた体を火に当てて乾かしながら、ピノキオは思った。
「きっと、あれくらい用心深く、あれくらい冷たいから、あんな大きな家を作る事ができたんだなあ。あのコオロギさんの言う通りだ。僕に親切にしたって、何もいい事なんかないもんね。よい大人になるには、要領よくなくちゃいけないんだ。」
やがてピノキオは足を火鉢の上に乗せたまま眠ってしまった。足は木なので当然燃える。そのまま夜が明けた。
ドンドン
誰かがドアを叩いている。
第七章 ゼペットじいさんが戻り、二人で朝食を食べる。
「おい、開けろ。」
ゼペットじいさんの声だ。ピノキオは立ち上がろうとしたが、足は両方とも燃えてしまっていた。足が無くては立てない。仕方なくピノキオは答えた。
「立てないよ。」
「何を言っとるのだ。立ち上がり方なら教えただろう。」
「違うよ、本当に立てないんだ。いつの間にか足が両方とも無くなっちゃったんだ。」
「この悪ガキめ。わしを中に入れるのが嫌でそんな事を言うんだな。よおし、そこで待っておれ。」
ゼペットじいさんはカンカンに怒って壁をよじ登ると、窓から中に入った。そこには情けない顔をしたピノキオがひとり。そして本当に両足が無い。ゼペットじいさんはピノキオの足元にある火鉢を見て全てを了解した。
「ね、本当に足が無いでしょ。」
「ああ、本当だな。」
ゼペットじいさんは足だけでなく、元気もないピノキオを見て少しかわいそうに思えてきた。
「まあいい、どうやらお前は嘘をつくような人形ではないようだな。」
実はゼペットじいさんも少し疲れていたんだ。なにしろ警察で厳しい取り調べを受けたあと、寒いブタ箱で1晩中震えていたんだから。
「さてと、」
ゼペットじいさんは椅子に腰掛けると、ポケットから梨を3つ取り出した。それを見てピノキオが叫んだ。
「ああ、おじいさん、ありがとう。僕はお腹がペコペコなんです。」
「何を馬鹿な事を。これはわしが食べるのだ。」
ゼペットじいさんは梨の皮をむくと、シャリシャリと食べ始めた。ピノキオは生唾を飲み込みながら、それを見つめていた。
「あー食った。」
ゼペットじいさんは3つとも食べてしまうと、ベッドに横たわった。
「ピノキオ、わしは少し休むぞ。ろくに寝ておらんのだ。わしが起きるまでいい子にしているんだ。と言っても足がなくちゃいたずらもできんか。」
「あ、あのお、おじいさん。」
ピノキオは恐る恐る尋ねた。
「なんだ。」
「その梨の皮と芯をもらえませんか。」
「なんだ、こんなものが欲しいのか。意地きたない奴め。」
ゼペットじいさんはベッドから身を起こすと、自分がむいた梨の皮と食べ残しの梨の芯をピノキオに投げつけた。ピノキオは急いでそれを取るとむさぼるように食べ始めた。
「じゃあ、寝るからな。おとなくしているんだぞ。」
「分かりました、ガリガリ。ありがとうおじいさん、むしゃむしゃ。」
ピノキオは皮も芯も種も全部食べつくした。まだお腹は空いていたけど、我慢できる程度だった。
「要領よく、か。」
ピノキオはコオロギの言葉をそっとつぶやいた。
第八章 ピノキオは新しい足、服と靴と帽子、それから教科書を手に入れる。
「あーよく寝た、さて、」
ゼペットじいさんは目を覚ますと、すぐに木を削り始めた。ピノキオの新しい足を作っているのだ。ピノキオは申し訳なさそうに言った。
「すみません、おじいさん。僕の不注意でこんな事になってしまって。」
「まったくだ、いい迷惑だぞ。だが足がなくちゃ、学校には行けないからな。」
「学校!」
ピノキオは大声を上げた。ゼペットじいさんは、こんな自分を学校にやってくれるつもりなのだ。こんな貧乏暮しをしているのに…
「おじいさん、僕を学校に通わしてくれるの。」
「ああ、うるさい、少し黙っていろ。」
そこでピノキオは静かにしてゼペットじいさんが足を作るのを眺めていた。足はすぐにできて、ピノキオはすっかり元通りになった。ゼペットじいさんは続けて紙で服を、木の皮で靴を、練った粉で帽子を作った。ピノキオはすっかり感激してしまった。
「ああ、ああ、おじいさん、僕は何て言ったらいいのか…」
「えーと、あとは教科書か、ちょっと待ってろ。」
ゼペットじいさんは上着を着て外へ出て行った。しばらくして、戻って来た時には、小脇に本をかかえていた。その代わりに上着はなくシャツ一枚の姿だった。ピノキオはそれを見てまた声を上げた。
「ああ、おじいさん、僕のために上着まで売って本を手に入れてくれたんですね。ありがとう、ありがとう。」
「言葉の礼ならいらん。」
ゼペットじいさんはそう言うと、ピノキオの顔に自分の顔を近づけた。
「いいか、よく聞け、わしはお前を連れて旅に出るつもりだったのだ。ところがお前は人間の子供並みに話す、動く、考える。これなら何もお前と一緒に働く必要はない。働くのはお前だけでいいのだ。子供には親を養う義務がある。だからお前はわしのために働かなければならない。金を稼がなくちゃいけない。分かるな。」
「は、はい。分かります。」
「では、お前はこれから学校に行くのだ。そして金の稼ぎ方を学ぶのだ。いいか、ピノキオ、わしの不利益にならなければ、お前が何をしようと、何を考えようと一切構わん。いたずらは、わしや学校の先生にばれないようにうまくやるんだ。そして人を蹴落として一番になれ。そのためにはどんな悪どい手を使っても許されるのだ。学校も人の世も闘いだ。人を蹴落とさなければ、自分が蹴落とされるのだ。金を集めろ。名声を集めろ。高い地位にのし上がれ。そうなれば人は自然とお前の周りに集ってくる。誰もがお前の機嫌を取りに来る。そうなればしめたものだ。それまでにお前の犯した罪なぞ一切関係なくなるのだ。いいか、正義は常に勝者にある。だから勝て。どんな汚い手を使っても勝て。弱いものは容赦なく切り捨てろ。権力ある者にうまく取り入って、それを利用しろ。これからお前が行く学校でもそうだ。頭は悪くても構わん。成績さえ良ければいい。分かったな。」
「は、はい。」
ピノキオはよく分からなかったけど、そう言った。
第九章 ピノキオは本を取り上げられ、人形芝居小屋に連れて行かれる。
ピノキオは教科書をかかえて学校に向かっていたが、その気持ちは何となく重かった。ゼペットじいさんの言葉が気に掛かっていたのだ。それでも学校に行くのは子供の義務だし、どの子供もみんな行っているのだから、自分もうまくやっていけるはずだと言い聞かせて、道を歩いて行った。すると、
『ピ-ヒャラ ピ-ヒャラ ドド ドン ドン』
と賑やかな音が聞こえてくる。ピノキオは何だろうと思いながら歩いて行った。
やがて、前方に大きなテントが見えてきた。ピノキオは立ち止まった。ちょうどそこへ小さな男の子が通りかかったので尋ねてみた。
「このテントは何?」
「人形芝居のテントさ。」
「人形!」
ピノキオは自分も人形なので少し驚いた。
「それで、そのお芝居はもう始まってるの?」
「今、始まったところさ。でも、中に入るには銅貨2枚要るよ。」
男の子はそう言って行ってしまった。ピノキオは立ち止まったまま考えていた。人形芝居、自分の仲間の人形が演じる芝居とはどんなものだろう。自分の仲間の人形が…
「そうだ、僕は人形だったんだ。」
ピノキオは重大な事に気が付いた。自分は人形なのだ、人間じゃない。人間の子供は学校に行かなくてはならないだろうが、人形には学校へ行く義務はない。その証拠に、ここの人形たちは学校へも行かずに芝居をやって金を稼いでいるじゃないか。だったら僕だって…
「中に入ってみたいなあ。でもお金はないし。」
なんとかお金を使わずに中に入る方法はないだろうか。ピノキオは智恵を絞ったが、名案は思いつかない。
突然、腕を掴まれた。
「こら、こんな所で何をしている。」
「え、」
ピノキオは腕を掴まれたまま、声が聞こえてきた方を振り返った。恐そうな顔をした大男が立っている。
「なんだその服は、その靴は、その帽子は。」
「これはおじいさんに作ってもらったんです。」
「嘘を言うな。学校に行く振りをして小屋から逃げようたって、そうはいかんぞ。」
「ち、違います。」
「つべこべ言うな。それになんだ、この本は。いったいどこから盗んできたんだ、よこせ。」
「あ、」
大男はピノキオから本を引ったくった。
「さあ、来い。芝居小屋に帰るんだ。」
こうしてピノキオは芝居小屋に連れて行かれた。
第十章 人形たちは大喜び しかし、ピノキオは燃やされそうになる。
ピノキオは小屋の中に連れられて行った。途端に芝居をしている人形の動きがおかしくなった。
「ピノキオだ!」
「本当だ、ピノキオが来たぞ!」
とんでもない事が起きたんだ。それまで素直に操られていた人形たちが、てんで勝手にバラバラな動きを始め、しかもピノキオと同じ様に言葉を話し始めたんだ。
「おい、どうしたことだ。」
人形を操っていた劇団員は肝をつぶした。もう芝居はめちゃくちゃだ。そのうち観客まで怒り出してしまった。
「なんだ、なんだ、この芝居は、」
「ちゃんとやれ、ちゃんと。できないなら金返せ。」
ピノキオを連れて来た大男は、もうピノキオどころじゃない。さっそく舞台に飛んで行ってしまった。逆に舞台の人形たちはピノキオの方に向かって走って来る。ピノキオはどうしていいか分からずそこに突っ立っていた。
「ばっかもおおーーん。」
どでかい声が響き渡ると、先程の大男よりもさらに大きな超大男が姿を現した。この芝居小屋の座長の「火喰(ひくい)親方」だ。その恐ろしい姿を見て、騒いでいた人形たちは水を打ったように静まってしまった。
「おい、お前、ピノキオだな。」
火喰親方は大きな顔をピノキオに向けた。
「お前のおかげで俺の芝居は台無しだ。この責任は取ってもらうぞ。」
「そ、そんな、」
ピノキオは泣き出しそうな顔をした。
「僕はここに無理やり連れて来られたんです。おまけに大切な教科書まで取り上げられたんですよ。芝居を台無しにしたのは僕じゃなく、僕をここに連れて来た…」
「やかましい。」
火喰親方は怒鳴った。
「遅かれ早かれ、お前は葬られる運命なんだ。お前、自分がまだ何者か分かっていないようだな。お前はな、人形を使って飯を食っている俺たち全員の敵なんだ。」
「敵? 僕があなたの敵?」
「そうだ、お前も見ただろう。お前が現れただけで、今まで素直に操られていた人形たちが自分勝手に動き出し、喋り出し、考え出した。」
「そう言えば…」
「それがお前の力だ。お前だけに備わった特別な力なんだ。だが、そんな力は俺たちにとっては邪魔なだけだ。さあ、こっちへ来い。」
火喰親方はピノキオの頭をわし掴みにすると、台所へ連れて行った。そこには串刺しにされた1匹の羊が火の上で焼かれている。
「ちょうど薪が足りなかったんだ。お前は乾燥してるからな。羊を焼くにはもってこいだ。」
火喰親方はニヤリと笑った。
第十一章 アルレキーノの犠牲も空しくピノキオは閉じ込められるが、プチネルラに助けられる。
ピノキオは震えた。そして叫んだ。
「許して下さい。僕はここには二度と来ません。芝居を台無しにする事もしません。取り上げられた教科書はあきらめます。だから燃やすのだけはやめて下さい。」
「できんな。」
火喰親方は首を振った。
「俺はよぉーく焼いた羊が好きなんだ。」
「それならせめて頭だけは残して下さい。頭さえ残っていれば、おじいさんが体を作ってくれるはずですから。」
「駄目だ。頭も燃やさなければ、羊がよぉーく焼けぬ。」
「そ、それなら…」
ピノキオは何か言おうと思ったが、言うべき言葉が思い付かなかった。ピノキオの言葉が尽きたのを見て、火喰親方はピノキオを高く持ち上げた。
「さあて、では火に放り込むか。」
「あああー、助けて下さい、助けて下さい。」
ピノキオは泣き叫んだ。その時、
「親方、待ってくれ。」
一人の人形が現れた。道化人形のアルレキーノだ。アルレキーノは火喰親方の前に立つと、堂々とした声で言った。
「おいらを代わりに焼いてくれ。」
「なんだと。」
火喰親方はピノキオの頭を離した。ピノキオは床に落ちた。
「お前を代わりにだと。」
「そうだ。おいらも充分に乾いているから、羊はよく燃えるはずだ。」
「これは、面白い。」
火喰親方は大声を出した。
「おい、ピノキオ、聞いたか。この道化人形がお前の身代わりになると言っているぞ。お前の代わりに自分を焼けとな。ピノキオ、どうする。」
「そ、そんな事は…」
させられない、とピノキオは言いかけた。しかし同時にあのコオロギの言葉が聞こえてきた。「要領よく振る舞え。」 ピノキオは黙った。
「どうした、ピノキオ。」
火喰親方が問い詰める。けれどもピノキオは答えられない。
「ほほう、お前はそんなに冷たい人形だったのか。自分を犠牲にしてお前の命を乞うこの人形を見て、お前は何も感じないのか。」
ピノキオは唇をかみ締めた。かみ締めた口の中で、要領よく、要領よくとつぶやきながら……火喰親方はアルレキーノの頭を掴んで持ち上げた。
「見ての通りだ、アルレキーノ。お前はこんな人形のために自分の命を捨てるのだぞ。それでいいのか。」
「親方、おいらは全然後悔しねえ。ピノキオさんはまだ人間の考え方に毒されているんだ。けれどいつか必ず、おいらたち人形のために立ち上がってくれる。おいらは信じてる。」
「愚かな。」
火喰親方が立ち上がった。
「では、望みどうりにしてやろう。そらっ。」
火喰親方の掛け声と同時にその手を離れたアルレキーノは、大きな弧を描きながら火の中に落ちて行った。
「アルレキーノ!」
ピノキオはそう叫ぶと火のそばに駆け寄った。
「ごめん、ごめんよ、アルレキーノ。」
ピノキオの言葉に、火に包まれたアルレキーノが苦しそうにうめいた。
「なあに、かまやしねえよ、ピノキオさん。あなたが来なきゃ、おいらはただのあやつり人形としてこの生を終えていたんだ。ほんの短い間だったけど自分で動き、喋り、考える事ができたんだ。ピノキオさん、ありがとう。ありが、と、う……」
「アルレキーノ…」
ピノキオは燃えていくアルレキーノを見詰めながら両手を床についた。やがてアルレキーノの体は完全に炎に包まれ、声も姿も消えてしまった。
床に打ち伏すピノキオを見て、火喰親方が楽しそうに笑った。
「ははは、ピノキオ、お前は所詮その程度の人形よ。動き、喋り、考える人形は、もうそれだけで人間の考え方から逃れる事はできんのだ。見ろ、あの道化人形の方がよっぽど立派な人形だ。お前は人形としても、人間としても出来損ないなのだ。オーイ。」
火喰親方がパンパンと手を叩いた。ピノキオを捕まえたあの大男が台所に入って来た。
「何か、御用ですか。」
「その丸焼けの羊をおろせ。それからピノキオを部屋に閉じ込めておけ。」
ピノキオは驚いた。
「そんな、約束が違うじゃないですか。」
「なにが約束だ。俺は約束なぞしていない。あの道化人形が勝手に火に飛び込んだのだ。おい、ピノキオ。お前は明日燃やしてやる。明日は豚の丸焼きだからな。ははは。おい、連れて行け。」
「離せ、離せ。」
ピノキオはもがいたが、大男の力にはかなわない。あっけなく部屋に閉じ込められてしまった。
「ああ、これからどうなるんだろう。」
ピノキオは部屋の中でつぶやいた。もう何をしても自分は焼かれる運命から逃れられないような気がした。ピノキオは力なく床の上に座っていた。
どれくらい時が経っただろうか。もう周りがすっかり暗くなって、何の物音もしなくなった頃、誰かの声が聞こえてきた。
「ピノキオさん、ピノキオさん。」
「誰?」
声は部屋の扉の向こうから聞こえる。ピノキオは扉に耳を押し付けた。
「あたしプチネルラ。アルレキーノの友達なの。ピノキオさん、聞こえる?」
「聞こえます。聞こえます。いったい、なんの用ですか。」
「あなたを助けに来たのよ。ちょっと待って。」
しばらくガチャガチャと音がしていたが、すぐに扉が開いた。
「早く出て。」
ピノキオはプチネルラに連れられて部屋を出ると、首尾よく芝居小屋の外に抜け出る事ができた。
「今のうちに遠くに逃げるのよ。」
プチネルラが言った。
「さあ、早く。」
けれどもピノキオは立ったままだった。
「何をしてるの、ピノキオさん。」
「ああ、プチネルラさん、ありがとう。でも僕は行けないよ。だって、僕が逃げたら君もアルレキーノと同じ目に会うでしょ。君の仕業だと分かったら燃やされてしまうかも…」
そう言ったピノキオだったが、ではどうすればいいのかは分からなかった。ピノキオの困った顔を見てプチネルラが少し笑った。
「大丈夫よ。あたしたちが居なくなったら、もうお芝居はできないんだもの。素直に親方の言う事を聞いていれば、そう簡単にあたしたちを焼いたりはしないわ。それに、もしこのままピノキオさんが焼かれたら、あたしたちは元のあやつり人形に戻ってしまうの。動く事も、喋る事も、考える事もできない、ただのあやつり人形に…さあ、これを持って。」
プチネルラがピノキオの手に何かを握らせた。開いてみると金貨が5枚乗っていた。
「あたしたちはあの芝居小屋を離れては生きて行けないわ。けれど、あなたが生きている限りこの力を失う事はないの。だから、決して死なないで。あたしたちのために生き続けて。」
プチネルラの手は暖かかった。その暖かさは、これまでずっと冷たく凍えていたピノキオの心を包み込んで、何か大切な想いを呼び起してくれるようだった。これまで忘れていた想い…ピノキオはその想いを確かめたくて、プチネルラに尋ねた。
「でも、でも、どうして僕なんかのために、こんなに親切にしてくれるの?」
「それは…」
プチネルラはそう言ったまま、それ以上は何も言わず、じっとピノキオを見詰めた。自分を見詰めるプチネルラの瞳、ピノキオはその中に、プチネルラが言えずにいる言葉を感じたような気がした。それはまた、今、ピノキオがプチネルラに対して抱いている気持ちと同じなのかも知れなかった。ピノキオはプチネルラの手を強く握り締めると、ゆっくり口を開いた。
「プチネルラ、僕も…」
「おい、扉が開いてるぞ。」
芝居小屋の中から大きな声が聞こえてきた。それから大きな物音。ぐずぐずしてはいられない。プチネルラはピノキオの手から自分の手をほどくと、
「さあ、行って。」
そう言ってピノキオを押した。
「あたしたちは待っているわ。いつかピノキオさんがやって来て、あたしたちを助けてくれるのを。さあ、早く。」
プチネルラはなおもピノキオを急かす。ピノキオは頭を下げた。
「ありがとう、プチネルラさん。」
辺りはまだ闇に覆われていたが、夜明けは近いように思われた。ピノキオは5枚の金貨を大切にポケットにしまうと、夜の終わりの闇の中へ一目散に駆け出した。
第十二章 ピノキオは家に帰る途中でキツネと猫に会う。
駆けて行くうちに夜が明けてきた。明るくなっていく朝焼けの向こうに、ゼペットじいさんの家が見えてきた時、ピノキオは足の悪いキツネと目の見えない猫に出くわした。
「おはようございます、ピノキオさん。」
キツネが礼儀正しく挨拶をした。ピノキオも挨拶をした。
「お、おはようございます。えっと、」
「私はキツネです。そしてこちらは猫です。」
「そ、そうですか。キツネさん、猫さん、はじめまして。」
「はじめまして、ピノキオさん」
穏やかな口調の自己紹介だった。ピノキオはこんなに丁寧な言葉で話し掛けられるのは初めてだったので、少し驚いていた。
「さっそくですが、」
猫が言った。
「ピノキオさんはどこへ行かれるのですか。」
「おじいさんの家へ帰るんです。」
「帰ってどうするんですか。」
「おじいさんに謝ります。学校を休んだこと、教科書をなくしたこと、それから一晩帰らなかったこと、」
「その後は?」
「学校へ行きます。教科書はプチネルラさんにもらった金貨で買う事ができます。僕は学校へ行って、うんと勉強して、たくさんお金をかせいで…」
「ああ、それはいけません。」
猫はヒゲを撫でながら頭を振った。
「学校はいけません。勉強もいけません。ホラごらんなさい、この私を。一所懸命勉強したものだから、両目が見えなくなってしまったんです。」
「そうですよ。」
横からキツネも口を出した。
「私だってそうです。一所懸命勉強したために、片足が使い物にならなくなってしまいました。」
「勉強したために?」
ピノキオはその言葉が信じられなかった。なぜ勉強をする事が目を見えなくしたり、足を悪くしたりするのだろう。
「僕には信じられません。」
「ピノキオさん、あなたの中には、すでに人間の考え方が入り込んでいるのです。」
猫が悲しそうな顔をして言った。
「やがて、あなたにも分かるでしょう。大部分の人間はみんな勉強しています。そして知らないうちに目を悪くしていくのです。勉強した人間の目には、一番美しいものが映りません。一番大切なものが見分けられません。自分の本当の姿さえ見えないのです。」
「猫さんの言う通りです。」
今度はキツネが言った。
「そして勉強することで知らないうちに足を悪くしてしまうのです。勉強した人間の足は、一番大事なものを運べません。一番信頼されているものを支えられません。自分の体さえ持ち運ぶ事ができず、乗り物を使うのです。」
ピノキオは2匹の言葉を聞いて困ってしまった。おじいさんの言う通りに学校に行きたいが、目が見えなくなったり足が悪くなるのは嫌だと思った。
「でも、僕はおじいさんの家しか帰る所がないんだよ。」
ピノキオはキツネにそう言った。キツネは黙っている。ピノキオは続けた。
「おじいさんの家に帰れば学校に行くしかないし、」
キツネはやはり黙っている。
「学校へ行けば勉強しなくちゃいけない。」
「そう、そして目も足も悪くしてしまうのです。」
キツネの言葉に、ピノキオは両手で頭を掴んで叫んだ。
「じゃあ、僕はこれからどうすればいいの!」
ピノキオの言葉を聞いて、キツネは猫の肩に手を置いた。猫は見えない目をキツネに向けると、まるでキツネに了解を与える様にゆっくりと頷いた。それを見てキツネも頷くと、静かな口調で言った。
「私たちと一緒に来て下さい。」
「どこへ?」
「ウコーリという国まで。」
「ウコーリ?」
「そう、そこでピノキオさんは完全な人形になるのです。」
「完全な人形!」
ピノキオは声を上げた。
「でも僕は人形よりも人間になりたいよ。」
「いいえ、人形にならなければなりません。なぜならピノキオさんは人形たちの王になるために、この世に生まれたのですから。」
「人形たちの王…」
ピノキオは目を丸くした。
「ピノキオさんにも分かっているはずです。芝居小屋の人形たちがあなたを見ただけで、自分勝手に動き出したでしょう。話し出したでしょう。考え始めたでしょう。それがあなたの力なのです。あなたが人形たちの王である証です。さあ、行きましょう、ウコーリへ。木と、木の人形の国へ。みんなピノキオさんの到着を待っています。」
「で、でも…」
ピノキオは迷っていた。おじいさんは今頃カンカンに怒っているはずだ。
「そしたら、おじいさんに会って、そう言っておかないと、」
「いいえ、それは駄目です。おじいさんが許してくれるはずがありません。」
「おじいさんに黙っては行けないよ。」
「困りましたね。」
キツネと猫はしばらく考えていた。その時、道端の木の枝に止まっていた白い小鳥がピピピと鳴いた。
「そうだ、あの小鳥に言い付けましょう。」
キツネはそう言うと右手をあげた。すぐに小鳥が飛んで来てその手の平に止まると、キツネは何かをささやいた。しばらくして小鳥は飛んで行った。
「あの小鳥にピノキオさんの事をおじいさんに伝えてくれるように頼みました。これで黙って行く事にはなりません。さあ、行きましょう。」
第十三章 ロブスター亭
ピノキオは迷っていたが、とりあえず付いて行く事にした。もし本当におじいさんが怒っていたら、必ず自分を追いかけて来るはずだ。その時にはおじいさんと一緒に帰ればいい。追いかけて来なかったら、それは許してくれた訳だから、このまま行けばいい。ピノキオはそう考えた。
こうして3人はテクテク歩いて行った。一日中歩いて夕方になった頃、1軒の宿屋が見えてきた。ピノキオが立ち止まった。
「ねえ、僕、もう疲れたよ。ウコーリはまだ遠いの?」
「まだまだ遠いですよ。」
キツネが疲れた声で言った。キツネは片足を引きずりながら歩いているので、大分くたびれているようだ。ピノキオがまた言った。
「そしたら今日はあの宿屋で休んでいこうよ。金貨が5枚もあるんだから、構わないでしょ。」
ピノキオの言葉に猫は困った顔をした。
「人間の宿屋は、」
猫がゆっくりと言った。
「我々人間でない者には大変危険です。疲れたのなら、この先の森の中で野宿しましょう。」
「えー、のじゅくぅー。でもぉー、」
猫の言葉にピノキオは不満そうに言った。
「おいしい物を食べて、柔らかいベッドで眠りたいよ。キツネさんと猫さんもその方がいいでしょ。もちろんお金は僕が出すよ。」
疲れた体と5枚の金貨が、ピノキオにぜいたくな気持ちを植え付けていた。キツネはしばらく黙っていたが、やがて小さく首を振ると、猫の肩に手を置いて言った。
「仕方ないですね。では今日はここに泊りましょう。」
「やったあ。」
ピノキオは小踊りして喜んだ。こうして3人はその宿屋、ロブスター亭という宿屋の中に入って行った。
宿屋の食卓に着くと、ピノキオはすぐにたくさんの料理を持って来させた。なにしろ人形になってから、梨の皮と芯しか口にしていないのだ。ピノキオは大口を開けて料理を放り込んだ。一方、キツネと猫はミルクとパンを注文しただけだった。
「どうしたの、キツネさんも猫さんも。もっと料理を食べればいいのに。」
ピノキオの問い掛けには答えず、キツネは周りの様子を伺っている。猫もじっと聞き耳をたてて、ほとんど食事をしていない。
「これは、とんでもない宿屋に来たみたいです。」
キツネの言葉に猫もうなずいた。
「その様ですね。雰囲気から分かります。」
「ねえ、ピノキオさん、」
キツネが顔を近付けた。
「食事は早目に切り上げて、すぐに部屋に戻りましょう。それからお金は前払いにしておいて、夜が明ける前に出発しましょう。こんな宿屋に長居は無用です。」
「うん、分かったよ。」
キツネの言葉に従って、ピノキオは食事をほどほどに切り上げた。部屋は一番粗末な部屋を頼み、金貨を一枚払うと、三人は部屋へと引き上げた。
「……さん、」
どれくらい眠っただろうか。声が聞こえてきた。
「…ピノキオさん、」
猫の声だった。押し殺した小さな声だ。ピノキオは目をこすった。
「どうしたの猫さん、もう、出発?」
「しっ、あまり大きな声を出さないで下さい。」
猫の声の調子を聞いて、ピノキオは何か悪い事が起きつつあるのを感じた。
「どうしたの?」
「どうやら出発するのが遅かったようです。この部屋は、出口も、窓の外も、見張られています。」
「見張られてる? どうして?」
「おそらくは、ピノキオさんの金貨が狙いなのでしょう。」
「金貨が? じゃあ、こんな金貨あげちゃうよ。」
「金貨を手に入れれば、私たちの命も奪うでしょう。そういう連中なのです。」
「そんな…」
ピノキオは恐くなってきた。そして、今、一体何が起きているのかを知ろうとして、じっと耳を澄ませた。だが何の音もしない。
「そうだ、キツネさんはどうしたの。」
「彼は脱出の方法を考えるために、部屋の中を調べています。」
やがてキツネがベッドのそばにやって来た。顔が青白い。
「駄目です。やはり窓から飛び出すしかありません。」
「そうですか。」
猫がポツリとつぶやいた。キツネがピノキオの手を握った。
「ピノキオさん、よく聞いて下さい。とにかく我々はこの部屋から逃げ出さなくてはなりません。ロブスター亭の連中がこの部屋を襲うのはもう時間の問題です。その前にここから逃げ出さなくては、我々は殺されてしまうでしょう。」
キツネの顔は青白いが、その声は普段の時とまったく同じ、優しいゆっくりとした口調だった。
「逃げ出す方法はただひとつ、あの窓です。いいですか、まず、私が飛び出して敵を引き付けます。その隙にピノキオさんは猫さんを連れて窓から飛び出し、あの森目掛けて走るのです。決して後ろを振り返ってはいけません。いいですね。」
「で、でも、」
ピノキオはキツネの手を握り返した。
「そしたらキツネさんは…」
「私はうまく逃げますよ。これでも結構すばしっこいんです。」
「だって、キツネさんの片足は…」
ピノキオはキツネの不自由な片足を思った。ここへ来るまで何度も休みながら歩いていたのに…ピノキオは言った。
「無理だよ。キツネさんじゃすぐに捕まっちゃうよ。それより僕がおとりになるよ。僕だって足は速いんだよ。」
「ピノキオさん…」
キツネはじっとピノキオを見詰めた。優しい瞳だった。
「ありがとう、その言葉だけで充分ですよ。大丈夫。私は必ずもう一度ピノキオさんの元に帰ります。約束しますよ。さあ、それでは猫さん、あとは頼みましたよ。」
キツネはそう言うと、ピノキオの手を離して窓の外に飛び出した。すぐに大きな叫び声が聞こえた。続いて何人もの足音。
「キツネさーん。」
ピノキオが大声をあげると同時に、
『ドーンドーン』
とドアを激しく叩く音が部屋の中に響いた。誰かがドアを叩き壊そうとしてしているのだ。猫が言った。
「さあ、ピノキオさん、今の内に、早く。」
猫は素早くピノキオの手を掴むと、まるで目が見えているかの様な身軽さで、窓の外の暗闇の中へ飛び出した。
第十四章 ピノキオは猫とはぐれ、おいはぎに追われ続ける。
冷たい夜風が顔にかかる。前方には黒い森。猫とピノキオは走り続けた。辺りはまだ暗い。これだけ暗ければ目が見えないのと同じだった。盲目の猫の勘だけを頼りに、キツネに言われた森目指して、二人は走り続ける。
やがて二人の背後から誰かの声が聞こえてきた。猫もピノキオも必死に走る。背後から足音が迫ってきた。ピノキオと猫は手をつないで走りに走り続ける。だが、声も足音も次第に大きくなってくる。
「ああ、追手が来ます。」
猫が低い声でうめいた。
「このままでは二人とも捕まってしまいます。ピノキオさん、私が追手をくい止めますから、あなたはその間に逃げて下さい。」
「そ、そんな、」
ピノキオは息を切らしながら言った。
「そしたら、猫さんは…」
「私なら大丈夫です。いざとなれば木の上にでも登りますよ。それから、ピノキオさん、」
猫は手をつないだまま、ピノキオのポケットを叩いた。
「この金貨は絶対に渡していけません。渡したが最後、彼らはあなたを焼いてしまうでしょう。いいですね、渡してはいけませんよ。」
「う、うん、分かった、決して渡さないよ、だけど猫さん…」
「さあ、行って下さい!」
激しい口調で猫がピノキオの手を振りほどいた。ピノキオは一瞬立ち止まった。
「行って! 早く!」
猫はそう言うと、もと来た暗闇の中へ戻って行った。続いて、大きな叫び声、物音、ピノキオは駆け出した。
「ああ、キツネさんも猫さんも大丈夫だろうか。」
ピノキオは走りながら考えた。要領よく、要領よく。これで本当によかったんだろうか。やっぱりまっすぐ家に帰ればよかったんだ。いや、キツネさんや猫さんの言う通り、森で野宿すればよかったんだ。いやいや、ごちそうだけ食べてさっさと出発すればよかったんだ……いろんな考えがピノキオの頭に浮かんでは消えた。
やがて空が白み始めた。ここまで来れば大丈夫だろうと、ピノキオは立ち止まって後ろを振り返った。瞬間、心臓が凍り付きそうになった。追手が見えたのだ。2人の追手がさほど遠くない距離でこちらに向かって走ってくる。
ピノキオは慌てて走り始めた。しかしもう疲れていた。しばらく走って後ろを振り返った。追っ手との距離は先ほどより縮まっている。また走る、そして後ろを振り返る。距離はさらに縮まっている。このままでは間違いなく捕まる。
「どうしよう、どうすればいいんだろう。」
ピノキオは泣き出しそうになるのを懸命にこらえながら走り続けた。
やがて遠くに小さな家が見えてきた。
「あそこまで行けば助かるかも知れない。」
ピノキオは最後の力を振り絞ると、小さな家を目指して走った。
第十五章 青い髪の女性に拒絶されたピノキオは、ついに追手に捕まる。
ようやくピノキオはその家の玄関にたどり着いた。倒れ込むように戸を叩く。しかし何の返事もない。背後からは追手の足音がドンドン近付いてくる。ピノキオは叫んだ。
「こんにちはぁー 誰かいませんかぁー こんにちはぁー 誰か僕を助けて下さぁーい。」
すると、上の方にある窓が開いて女の人の顔が現れた。髪は青く、顔は白い。そして目を閉じたまま口を動かさずにこう言った。
「ここには誰もいないよ。みんな死んだ。」
「どうか僕を中に入れて下さい。悪い人に追いかけられているんです。」
ピノキオは泣き叫んだ。しかし女の人の表情は変わらない。
「追いかけられているのなら、捕まればいい。」
「捕まれば焼かれます。」
「焼かれればいい。」
女の人はそう言うと窓を閉じてしまった。ピノキオは後ろを振り返った。追手はすぐそこまで来ている。
「ああ、もう逃げ出しても間に合わない。どうしよう。」
その時、ピノキオは猫の言葉を思い出した。「この金貨は絶対に渡していけません。渡したが最後、彼らはあなたを焼いてしまうでしょう…」そうだ、金貨を隠さなくっちゃ。絶対に見つからない場所に…
ピノキオはすぐに4枚の金貨を口の中に入れ、ついでに舌の裏に隠してがっちりと口を閉じた。これで大丈夫だ。口を開かなければ金貨は奪えない。金貨を奪えなければ、焼かれはしないだろう。
「やっと捕まえたぞ。」
追手の一人がピノキオの首を捕まえた。
「おい、金貨を出せ。お前が身分不相応な金貨を持っている事は分かっているんだ。」
もう一人の追手がピノキオの体を調べ始めた。しかしポケットにも靴の中にも金貨はない。苛立ってきた追手が怒鳴る。
「おい、金貨をどこに隠したんだ。」
「さっさと言った方が身の為だぜ。」
ピノキオは固く口を閉じたまま何も言わない。
「なに黙ってるんだ、おい、」
「これが目に入らないのか。」
ピノキオの鼻先にナイフが突き付けられた。それでもピノキオは歯を食いしばって我慢した。
「どうしても言わねえのか。」
「じゃあ、吊るすか。」
二人はロープを取り出した。木の人形用の鉄製のロープだ。それをジャラジャラ言わせながら、男たちはピノキオを後手に縛りあげ、大きな樫の木の枝に吊るした。そして木の根元に腰を下ろすと、ピノキオが音をあげて口を開くのを待った。けれどもピノキオは一言も話そうとはしない。そうして昼になり夕方になると、待ちくたびれた二人は立ち上がった。
「仕方ないな。今日はこれで帰るか。」
「そうだな。しかし、しぶとい人形だ。まあ、一晩吊るされれば考えも変わるだろ。」
二人はピノキオを木に吊るしたまま去って行った。
第十六章 ピノキオは青い髪の女性に助けられる。
日が沈み周りが暗くなると、冷たい北風が吹いてきて、ピノキオの体は蓑虫の様に左右に揺れた。縛られた両手に鉄のロープが食い込み、体が揺れるたびに両腕の木が削られて、痺れるように痛む。目も霞んできて、自分がどこにいるのかもよく分からない。このまま放って置かれれば、木の体は干からび、朽ち果てて、自分は終わってしまうだろう。ピノキオは口を閉じたままつぶやいた。
「ああ、猫さん、キツネさん、おじいさん、それからプチネルラ、みんなごめんなさい。」
ピノキオは体を震わせると、目を閉じて、だらりと体の力を抜いた。
それから、だいぶ時間が流れたように思われた。それは数日なのかも知れないし、ほんの数分なのかも知れない。ピノキオは目を開けた。自分がベッドの上に寝かされているのが分かった。
「やっと目が覚めたね。」
ピノキオの頭の上で声が聞こえた。そこには女の人が立っていた。黒い服を着て髪の毛は青い。あの家の窓からピノキオを見下ろしていた女の人だ。
「あ、あなたは…」
ピノキオはそう言うと、ベッドに横たわったまま、自分の両腕を撫でた。削れていた両腕は元に戻っている。この女の人が助けてくれたのだ。そうとしか考えられない。
「ああ、ありがとう。僕を助けてくれたんですね。」
「助けた、このあたしが? ホホホ。でも、まあそういう事になるのかしら。」
女の人は笑い声を上げた。
突然、部屋の戸が開くと、真っ黒なウサギが4匹入って来た。肩の上に小さな棺を担いでいる。ピノキオは尋ねた。
「このウサギたちは、なんですか。」
「お迎えに来たんだよ。あんたのお友達の猫殿をね。」
「猫さんを。」
ピノキオはベッドの上で体を起こした。隣のベッドに猫が寝ている。見覚えのある顔。ロブスター亭から一緒に逃げ出して、自分を救うために暗闇に消えて行ったあの猫に間違いない。
「猫さんも助けてくれたんですか。」
「いいや、その猫はもう生きてはいないよ。あんたを助けるために魂を捧げたんだ。このあたしにね。」
「僕のために、魂を、あなたに?」
ピノキオは何がなんだか分からなかった。そのうちに4匹のウサギは手早く猫を棺にしまいこむと、さっさと部屋を出て行った。
「さてと、ピノキオ。」
青い髪の女の人がピノキオのそばに来た。ピノキオはなんだか背筋がぞっとした。
「あたしが何者か分かる?」
「いいえ、分かりません。」
「あたしはこの森に住む魔女なのよ。」
「ま、魔女!」
ピノキオは驚いた。
「そうよ。あたしはあんたを助ける気なんかこれっぽっちもなかったわ。ところが、あんたがあの二人に連れられて行ってしばらくしてから、あの猫が、ボロボロになって手探りでここまでやって来たあの猫が、ピノキオという人形を知らないかと言うのよ。木に吊るされているわって答えると、助けてあげて欲しいって言う訳。もちろん自分の魂と引き換えによ。で、まあ助ける事にしたのよ。あんたが死んでも、あんたは人形だから魂がないからね。それよりも猫の魂を貰った方が得なのよ。どう、分かった。愚かな人形さん。」
ピノキオは何も言えなかった。芝居小屋でアルレキーノに助けられ、今またあの盲目の猫に助けられたのだ。これが、あのコオロギの言っていた、要領のいい生き方なのだろうか。
「でね、ピノキオ。」
魔女の口調が柔らかくなった。
「あんた、人間に成りたくない?」
「人間に!」
もちろん成りたい、とピノキオは言いかけた。しかし、何か心に引っ掛かるものがあって言えなかった。ピノキオが返事をしないのにも構わずに、魔女は話を続ける。
「人間に成るには2つの方法があるのよ。1つは人間らしい心を持つ事。もう1つはあたしと契約する事。」
「契約?」
「そうよ。人間に成ったその瞬間から、あんたの魂もあんたの人生も、全てあたしに捧げるという契約。もちろん、命は取らないわよ。魂を頂くのは死んでから。あんたは人間の生活を、あたしと一緒に存分に楽しめばいいわ。あんたにとっちゃ、そっちの方が簡単でしょ。」
「でも、人間らしい心を持つ事ができれば、そんな契約をしなくても人間に成れるんでしょ。」
「あんたに、それができるかしら。」
「頑張ればできると思います。」
「そうかしら。」
魔女はクスリと笑った。そうしてしばらく黙っていたが、いきなりピノキオに質問をしてきた。
「ねえ、ピノキオ、あんた金貨を持ってたわよね。」
「はい、5枚貰って、1枚は宿屋で使って、今は4枚持ってます。」
ピノキオがそう答えると、ピノキオの鼻が5センチ長くなった。
「今、どこにあるの?」
「口の中に隠してあります。」
鼻はさらに長くなった。
「そんなにお金が大事なの?」
「違います。お金を渡さない限り命を奪われる事はないと、猫さんに言われたので隠していたんです。お金なんかどうでもいいんです。」
鼻はぐんぐん長くなって、部屋の壁につっかえてしまい、ピノキオはもう顔を動かす事もできなくなってしまった。魔女が笑った。
「ホーラ、ごらんなさい。今のあんたには、人間らしい心なんて、ゴマ粒くらいしかないわ。」
「ど、どういう事ですか。それにどうして鼻が伸びたのですか。」
「嘘をつかないからよ。」
皮肉っぽい笑いを口の端に浮かべて、魔女は言った。
「嘘をつかないから鼻が伸びたのよ。いい、人間は正直じゃいけないの。決して分からない嘘なら、ついても構わないの。金貨が4枚あるなんて、馬鹿正直に何を言ってるの。そんな時は金貨はあの2人に取られてしまったと言って、他人の同情を買わなきゃ。それが人間よ。人間らしい心なのよ。」
「そ、そんな、」
「しかも、隠し場所まで教えて。それじゃあ、どうぞ金貨を盗んで下さいって言っているようなものよ。それも、最後にはお金なんてどうでもいいなんて。ああ、駄目。全然失格ね。いい、人間はお金を一番大切にするの。お金のためならどんな恥かしい事も、不名誉なこともするわ。僅かなお金のために命を落とす人間だっているのよ。信頼や優しさや正直なんて、お金の前では脆いものよ。それが人間の世界なのよ。」
ピノキオは身動きもせずに魔女の言葉を聞いていた。もっとも、長い鼻が壁につかえているので、動きたくても動けなかった。魔女はここまで喋ると話をやめて、指をパチンと鳴らした。すると、窓の外からキツツキが飛んで来て、ピノキオの長い鼻を突っ突き、元の長さに戻してくれた。
第十七章 ピノキオは人間になる契約を魔女と結ぼうとする。
「どう、これであたしと契約をする気になった。」
「で、でも、」
ピノキオは迷っていた。魔女の話を聞いているうちに、人間に成りたい気持ちがどんどん小さくなっていったのだ。
「人間になったら勉強しなくちゃいけないでしょ。」
「そうね、いけないわね。」
「キツネさんが言っていました。勉強したために足が使えなくなったって。」
「フフ、馬鹿馬鹿しい、そんな事、本気にしてるの。」
魔女は鼻先で笑った。
「いい、足を使えなくしたのはキツネ自身よ。キツネが自ら足を使えなくしたの。」
「ど、どうして。」
「勉強すれば、確かに大事なものを運べなくなるし、自分さえも持ち運べなくなるわ。その代わりに、汚いものは蹴飛ばせるし、どんなに重くても、お金だったら持ち運べるのよ。そして、それだけできれば充分なの。お金があれば自分の体は他人が運んでくれるわ。自分の足で何かをする人間なんて、人間の世界では最低の人間ね。」
「でも、猫さんも言ってました。勉強をしたために、目が見えなくなったって。」
「それも同じ。勉強すれば美しいものも大切なものも見えなくなるわ。その代わりに儲かりそうな事や、自分をだまそうとする他人の下心は、はっきり見えるようになるの。そしてそれが一番重要なことなの。それが見えない人間は落ちこぼれて行くだけよ。それなのに、そうして勉強して変わってしまった自分の足や目に恐れを抱いたキツネと猫は、自分の手でそれを使えなくしてしまったのよ。せっかく勉強して手に入れた足や目なのに、馬鹿な奴らね。」
ピノキオは魔女の話を聞くうちに、人間に成りたい気持ちがますます小さくなっていくのを感じた。しかし、人形とも人間とも分からない、中途半端な自分のままでいいとも思わなかった。キツネが言っていた人形の王とは何なのだろう…
ピノキオは結論を出せずにいた。魔女は何も言わずに黙っているピノキオを見ると、言った。
「迷ってるわね。そうなるだろうと思ってたわ。でも、これを見れば気が変わるでしょう。ちょっと、連れて来なさい。」
部屋の外に向かって魔女が叫ぶと、真っ黒な4匹のウサギが、今度はベッドを運んで来た。その上に寝ているのは、キツネだった。ピノキオと猫を逃がすために、おとりとなってロブスター亭の窓から飛び出して行った、あのキツネだ。
「キツネさん!」
ピノキオはベッドのそばに駆け寄った。顔は傷だらけだ。目を閉じているが死んではいない。しかし苦しそうな息遣いから、かなり危ない状態であることは間違いない。ピノキオは魔女に尋ねた。
「キツネさん、助かりますか?」
「助かるわよ。あんたの答え次第ではね。」
魔女はゆっくりとベッドの近くに歩いて来た。
「ピノキオ、あたしと契約しなさい。人間に成って、自分の魂をあたしに捧げると約束しなさい。あたしのためだけに生きると約束しなさい。そうすればキツネを助けてあげるわ。」
ピノキオは魔女の顔を見た。それからキツネの顔を見た。キツネは苦しそうに息をしていた。このままでは本当に死んでしまうだろう。
ピノキオは今の自分には、もう人間に成りたい気持ちがほとんど残っていないのが分かっていた。けれどもキツネを見殺しにはできなかった。アルレキーノも猫も自分の命を捧げてまでピノキオを助けたのだ。それに比べれば、人間に成る契約をするくらい、実に容易い事の様に思われた。ピノキオは決心した。
「分かりました、僕は、」
「…いけません…」
ピノキオの言葉を遮るように、かすれた声がした。キツネの声だった。
「ピノキオさん、そんな契約をしては、いけません。」
「ちっ、いいところで、この死にぞこないキツネが、」
魔女がいまいましそうな顔をした。ピノキオはキツネの手を握った。
「でも、キツネさん、このままじゃキツネさんまで死んじゃうよ。」
「それでいいのです。私と猫さんの役目は、あなたをウコーリまで連れて行く事なんですから。それが果たせないのなら、生きていても仕方ありません。」
「でも、」
「ピノキオ、どうするんだい。お前はあやつり人形を殺し、猫を殺し、今また、キツネまで殺すのかい。この役立たず、たまには自分を犠牲にして誰かを助けてみたらどうなんだ。」
魔女が激しい口調で言った。ピノキオは魔女の言う通りだと思った。あのコオロギの言葉に従って、今まで自分が、いかに安易な道を歩んできたかを思い出して、ピノキオは恥かしいくらいだった。
「キツネさん、僕、決めたよ、やっぱり、」
その時、キツネの表情が、ふっと柔らかくなった。キツネはピノキオの手を優しく握った。
「ああ、ピノキオさん。ピノキオさんの心にようやく人形の心が戻ってきたようですね。アルレキーノが身代わりを申し出た時、ピノキオさんは何も言えなかった。けれども今のピノキオさんは、私を助けようとしてくれている。やはりあなたは人形の王に相応しい……ピノキオさん、必ずウコーリに行って下さい。そしてそこで人形の王となり、あの人形芝居の人形たちを助けてあげて下さい。あなたのために命を落としたアルレキーノ、辛い仕事を続けているプチネルラ、魂を捧げてあなたを助けた猫さん、それから私のために…かならず…ウコーリ…へ……ぐっ、」
キツネが苦しそうにうめいたかと思うと、口から赤い血が流れ出した。魔女が悔しそうに言った。
「ちっ、自分で舌を噛み切ったか。あと少しだったのに。」
「キツネさん、キツネさん!」
ピノキオはキツネの手を握り締めて呼びかけた。けれども、キツネの目はもう開かなかった。
その時、閉じたキツネの目から一筋の涙が流れ落ちた。ピノキオはその涙を指先で拭った。暖かい、キツネの心のように暖かい涙、その温もりが指先からピノキオの心にまで伝わった時、ピノキオの中に新たな勇気が湧いてきた。ピノキオはキツネの手を離して立ちあがると、魔女に向かって言った。
「僕を助けてくれてありがとう。お礼を言います。けれども、僕はあなたとは契約しません。キツネさんの言った通り、ウコーリへ行きます。そしてそこで人形の王になります。」
魔女はピノキオの言葉を聞いて薄ら笑いを浮かべた。
「ふうん、あんた一人で行けるのかしら、ウコーリに。」
「分かりません。でも、それがキツネさんとの約束なのですから、僕はそれを守るために努力します。」
ピノキオはしっかりとした口調で言った。と、
「ふふふ、ははは、あははは。」
魔女が大きな声で笑い出した。
「そう、分かったわ。今回は引き下がってあげる。せいぜい努力するのね、愚かな人形さん。でもね、あたしはあきらめないよ。あんたの魂は極上だからね。必ず人間にして、その魂を奪い取ってやる。」
魔女はそう言うと部屋を出て行った。続いて大きなプードルが現れると、ピノキオの頭をくわえた。
「痛い、なにするの。」
プードルはピノキオを部屋の外に引きずって行った。そして玄関の外に放り出すと、ドアは固く閉じられた。ピノキオはしばらくそこに立っていたが、やがて歩き出した。
第十八章 ピノキオはギシーフの野原に行き、金貨を埋める。
歩き出したピノキオの頭に、不意にゼペットじいさんの事が思い浮かんだ。学校へ行く時、別れたままのおじいさん。白い小鳥に伝言を頼んだとは言え、心配しているに違いない。
「おじいさん、どうしているだろう。」
ピノキオはつぶやいた。しかし今さらおじいさんの元には戻れない。そこへ戻れば人間の子供と同じ様に勉強させられ、人間の心を養い、やがて本当の人間になってしまうだけだ。それではキツネとの約束を果たせなくなってしまう。
ウコーリへ行く事…やはりこれが正しい選択なのだ。ピノキオは自分にそう言い聞かせた。しかしウコーリがどこにあるのかピノキオには分からなかった。
「確か宿屋の前でキツネさんに尋ねた時には、まだまだ遠いと言っていたっけ。どれくらい遠いんだろう。」
ピノキオはそう思いながら歩いていた。すると前方に人の姿が見えてきた。男の人が一人立っている。ピノキオは尋ねた。
「すみません、僕、ウコーリに行きたいんですけど、どっちに行けばいいんでしょうか。」
「ウコーリ?」
男はそう言うとギロリとした目つきでピノキオを見た。
「ウコーリに何しに行くんだい。」
「なんでも僕を人形の王にしてくれるらしいんです。」
「ほーう、人形の王ねえ。」
男は無愛想な顔で、ジロジロとピノキオを見た。
「ウコーリに行くには金が要るよ。あんた金持ってるのか。」
「あります、ホラ、ここに。」
ピノキオは口の中に隠していた金貨を出した。それを見た男の目がキラリと光った。
「なんだ、持ってるじゃないか。でもこれだけじゃ足りないな。あそこに入国するにはたくさんの金が要るんだ。」
「そんなにたくさん要るんですか。」
「ああ、金貨2000枚は要る。」
「そんなに!」
ピノキオは驚いた。キツネも猫もそんな事は言っていなかったのだ。
「じゃあ、無理ですね。」
ピノキオのがっかりした顔を見て、男は言った。
「なあに、金貨4枚あれば2000枚くらいの金貨はすぐに作れるぞ。」
「本当ですか。」
「ああ、本当だ。いいか、この先にギシーフという不思議な野原がある。そこに穴を掘って金貨を埋めて水をかけるんだ。やる事はそれだけ。あとは1時間ほど待てばいい。金貨から芽が出て、小さな木になり、花が咲き、実を付ける。その実が金貨なんだ。」
「すごい!」
「1本の木に500から600の実、つまり金貨ができる。お前は4枚持ってるから、2000枚から2400枚の金貨を手に入れられるはずだ。これだけ金貨があれば簡単にウコーリに入れる。」
男はピノキオの手を取った。
「ぐずぐずするな。俺がギシーフの野原まで連れてってやる。日が沈まないうちに埋めないといけないんだ。」
「あ、ありがとうございます。」
こうしてピノキオは男に付いて行った。しばらく行くと、野原に出た。狭い寂しい感じのする野原だ。
「ここだ、さっそく取り掛かろう。」
ピノキオと男は穴を掘ってそこに4枚の金貨を埋めた。それから近くの池に行って、靴に水を汲むと、金貨を埋めた土の上にかけてやった。
「よし、あとは待つだけだ。この先に小さな町があるから、そこで時間をつぶせばいい。ウコーリの事も町の者に聞けば教えてくれるだろう。じゃあ、達者でな。」
男はそう言うと、立ち去ろうとした。ピノキオが声をかけた。
「あ、あの、このお礼に金貨を何枚か差し上げたいのですが。」
「ああ、礼には及ばん。俺は金貨には興味がないんだ。お前さんに親切にできただけで満足さ。」
手を振りながら、男はゆっくりと歩いて行った。ピノキオはその後姿を見送りながら、こんなに親切で無欲な人間もいるのだなあと思った。
第十九章 ピノキオは金貨をなくし、牢屋に4カ月入れられる。
ピノキオは男に言われた通り、少し先の町へ行った。町の通りには様々な動物が行き交い、話したり、何か運んだりして賑やかだった。けれどもピノキオの頭の中は金貨の事で一杯だったので、そんな風景もあまり目に入らなかった。
町の中で1時間ほど過ごしたあと、ピノキオはギシーフの野原に戻った。金貨をわんさか付けた4本の木が風に吹かれている様子を想像すると、ピノキオの胸はドキドキした。しかし現実はピノキオの予想とはまるで違っていた。
「なにも、ない…」
ピノキオは金貨を埋めた場所の上に立って野原を見回した。何も無かった。1時間前と同じ、寂しい野原だった。
「ど、どうして…」
ピノキオはがっくり膝をつくと、両手で頭を抱えた。その時、頭の上で笑い声が聞こえた。見ると一羽のオウムが枝にとまっている。
「何がおかしいんですか、オウムさん。」
「何って、あんた、こんなおかしい事はないよ。私は最初から最後までここであんたを見ていたんだ。あんたみたいな世間知らずは金貨を持ち歩いちゃいけないね。」
「でも、金貨がなくちゃ、ウコーリには行けないんですよ。」
「そう、それ、それがもう嘘なんだよ。ウコーリに行くのに必要なのは金貨じゃない。ウコーリの住人の案内なのさ。」
「でも、さっきの男の人は、」
「嘘をついたんだよ。あんたの金貨が欲しくてね。あんたが町に行くとすぐにここへ戻って来て、金貨を掘り出して行ってしまったよ。これから追いかけても、もう捕まりっこないね。」
ピノキオはそれを聞くと、すぐに土を掘り返した。しかしどんなに大きな穴を掘っても、さきほど埋めた4枚の金貨は出てこなかった。
「だまされたんだ。」
ピノキオの顔は青くなった。それから赤くなった。金貨にそれほど未練はなかったが、金貨をくれたプチネルラを侮辱されたような気がしたのだ。その様子を見てオウムが言った。
「あんたは裁判所に訴えることができるよ。うまくいけばあの男を逮捕できるかも知れない。」
そこでピノキオはすぐに町に戻ると、裁判所に駆け込んだ。裁判はすぐに開始され、ピノキオは自分が金貨を騙し取られた経緯を説明した。しかし裁判所の判決はピノキオを懲役4ヵ月に処すものだった。真っ当に働きもせず、不当な手段で金貨を増やそうとした行為が、嘘をついた男より罪が重いと判断されたのだ。
「そんな、馬鹿な…」
ピノキオは控訴したが棄却され、上告したが破棄された。こうしてピノキオの刑は確定し、ただちに牢屋の中に放り込まれ、4ヵ月をそこで過ごした。
第二十章 ピノキオは町を離れ歩き出すが、途中で大きな蛇に会い、罠にかかる。
4ヵ月が過ぎてやっと自由の身になれたピノキオは、町の住人にウコーリの事を尋ねて歩いた。しかし誰の答えも同じだった。ウコーリ入るには、ウコーリの住人の案内が必要なのだが、ウコーリの住人がどこにいるか、ウコーリがどこにあるかは誰も知らないのだ。ピノキオは困り果てた。手掛かりが掴めなくてはどうしようもない。取り敢えず、キツネと猫が向かっていた方向へ行ってみようと思い、ピノキオは町を離れ歩き出した。
小さな道をトボトボ歩いてたピノキオは、突然、立ち止まった。目の前に巨大な蛇がとぐろを巻いていて、道を完全にふさいでいるのだ。蛇の体は全身緑色、しかも尻尾の先からは火山の様に煙と炎が吹き出している。ピノキオは勇気を出して言った。
「すみません、少し道の端に寄って頂けませんか。」
ところが何の返事もないし、身動き一つしない。尻尾からは相変わらず煙と炎が吹き出している。ピノキオはもう一度言ってみた。
「あのー、僕はこの道の先へ行きたいのです。ほんの少し、道を空けて頂ければそれで充分です。お願いです。」
それでも蛇は道にとぐろを巻いたまま、まったく動かない。ピノキオは道を進んで行くことをあきらめて、道の横の草むらに入った。少し遠回りになるが、蛇をまたいで行くよりはよっぽどいい。それに少し先には果樹園が見える。あそこまで行ってから、また元の道に戻ろう。こうしてピノキオは道を外れて歩き続けた。
ガチャン
鈍い音がした。同時に足に激痛が走った。
「痛い!」
ピノキオは倒れ込むと自分の右足を見た。イタチを捕まえるための鉄の罠が、がっちりと食い込んでいる。ピノキオは罠を外すそうとしたが、バネ仕掛けの罠はそう簡単には外れない。ピノキオは叫んだ。
「誰か、誰か来て下さい。助けて下さい。」
しかし、人影はまったく見えない。ピノキオは痛さに耐えながら、ただ待つしかなかった。
やがて日が沈み夜になった。ピノキオもう助けを呼ぶ気力もなくなって、草の中でじっとしていた。その時、ガサガサと音がした。それから声がした。
「なんだ、誰か罠にかかってるぞ。」
「誰?」
ピノキオの目の前にイタチの顔が現れた。ピノキオは話しかけた。
「ああ、イタチさん、僕は罠にかかってしまいました。」
「どうも、そのようだな。」
「罠を外そうとしましたが、外れません。僕を助けてくれませんか。」
「そりゃ、無理だ。だって、その罠はわしらイタチを捕まえるための罠だもん。わしらに外せる訳がねえ。」
「じゃあ、誰か助けを呼んで来てくれませんか。」
「それも無理だ。その罠を外せるのは農夫だけだが、農夫を呼びに行ったらわしらが捕まっちまう。」
「そうですね。」
ピノキオは肩を落とした。
「なあに、あきらめる事はない。」
イタチが言った。
「もうすぐ農夫がここに来る。そしたら罠を外してくれる。それまで、待っていればいい。」
そう言うと、イタチは行ってしまった。ピノキオはイタチの言葉通り、再び草の中で待った。
やがて足音が近づいてきた。罠を仕掛けた農夫だ。手にランタンを持っている。そのランタンの光に照らされた農夫の顔を見た時、ピノキオは叫ばんばかりに驚いた。
「あ、あなたは!」
第二十一章 ピノキオは農夫に捕まり、番犬にされる。
「なんだ、お前か。」
その農夫はあの男だった。4ヶ月前に巧みな言葉でピノキオをギシーフの野原へ連れて行き、4枚の金貨を騙し取ったあの男だったのだ。
「こんな所で会うとはな。」
男の言葉にピノキオは生まれて初めて怒りを感じた。足の痛さも忘れてピノキオは言った。
「おじさん、ひどいじゃないですか。僕を騙して金貨を奪い取るなんて。金貨を返せとは言いません。謝って下さい。あの金貨は友達のプチネルラが僕のために用立ててくれた物なんですから。」
「ふん、謝れだと。」
男はニヤリと笑った。
「謝る必要はない。騙されるお前が悪いんだ。その証拠にお前は懲役4ヵ月を言い渡されたのだろう。ところが俺は無罪放免だ。罪はお前だけにあるのだ。俺にはない。しかも、」
男はピノキオを捕えているイタチの罠を踏みつけた。鋭い鉄の歯がさらに足に食い込み、ピノキオはあまりの痛さに悲鳴を上げた。男はそれを聞いて冷たく笑った。
「しかも、お前はまた罪を犯した。俺の果樹園からブドウを盗もうとしただろう。俺のニワトリ小屋からニワトリを盗もうとしただろう。」
「ち、違います。そんな事はしていません。」
「したんだ。この罠にかかったのがなによりの証拠だ。お前は俺の物を盗もうとしたからこの罠にかかったんだ。それでなかったら、どうしてこんな場所を歩いていたんだ。」
「蛇です。蛇が道をふさいでいたんです。」
「蛇だと、ふん、嘘はもっと上手につくんだな。」
「本当です。本当に蛇がいたんです。それを避けるために道を外れてしまったんです。嘘じゃありません。」
ピノキオは必死になって弁解した。けれども男にとってはピノキオの言葉などは、どうでもよい事なのだ。男はかがみこんでピノキオの足の罠を外すと、その代わりにピノキオの首に輪を嵌めた。真鍮の鋲のついた重い首輪だ。
「ど、どうしてこんな物を付けるんですか。」
うろたえるピノキオには構わず、男は首輪の先に付いた鎖を引っ張った。ピノキオは地面に引き倒され、思わず叫び声を上げた。
「な、何をするんです。離してください、離してください。」
「ええい、やかましい。」
男は鎖を持ったまま歩き出した。ピノキオは為す術もなく、そのまま丸太の様に引きずられて行く。こうして男の家の玄関の前まで来ると、家の壁に打ちつけた鉄の輪に、ピノキオの首輪の鎖はがっちりと嵌め込まれた。
「いいか、お前は今日から俺の家の番犬だ。これから犬として俺のためにだけ働くのだ。死ぬまでな。はっはっは。」
男は笑いながら家の中に入ると鍵を締めた。家の外に残されたピノキオには、もう首輪を外そうという元気もなく、ただ、土の上に寝転がっている事しかできなかった。
第二十二章 イタチの復讐の間に、ピノキオは首輪を外し逃げ出す。
疲れ切ったピノキオはいつの間にか眠ってしまった。そのうち1匹の黒い影がピノキオのそばに近付いてきた。
「もしもし、」
声をかけられてピノキオは目を覚ました。目の前にはイタチがいた。罠にかかっていた時にやって来た、あのイタチだ。
「ああ、イタチさん、大変な事になってしまいました。罠が外れたのはいいのですが、今度は首輪を嵌められてしまいました。」
「まったく、お気の毒。」
イタチは頭を下げると、どこかに行こうとする。ピノキオは慌てて引き止めた。
「イタチさん、待って下さい。この鎖を外してくれませんか。」
「そりゃあ、無理だ。この鎖を外せるのはあの農夫だけだ。」
「そしたら、誰か呼んで来てくれませんか。」
「同じ事だろ。誰か呼んで来てこの鎖を外しても、今度はそいつがあんたを番犬にするだけだ。それよりもな、」
イタチがピノキオの耳に口を近付けた。
「実は、わしは別の目的で今晩ここに来たのだ。いいか、これからこの家に火をつける。」
「火を? なぜ?」
「復讐だよ。」
イタチの顔が厳しくなった。
「この農夫はひどい男だ。わしらイタチはずっと昔からこの土地に住み、貧しいながらも幸せな暮しをしていたんだ。ところがあの農夫がここにやって来てから、わしらの生活は一変した。農夫は野性のにわとりを1匹残らず捕まえてしまった。野性のぶどうの木を1本残らず柵で囲ってしまった。それでもわしらはあの農夫の物には決して手を出さなかった。残された虫や草を食べて、必死に生きていたのだ。なのに、どうだ、あの農夫は今度はわしらを捕まえ始めたのだ。わしらの毛皮を売って金貨を手に入れるためにな。わしの妻も子もあの農夫に捕えられ殺された。」
イタチの目がキラキラと光った。夜空にはいつの間にか月が出ていたのだ。けれどもイタチの目の輝きは、月の光のせいだけではないようだった。
「ついにわしは我慢できなくなった。いや、我慢する必要がどこにある。わしは立ち上がったのだ。わしらイタチの生活のために、わしらイタチの子孫のために…」
「そうだったんですか。」
ピノキオはイタチの話を聞いて、本当にイタチが気の毒になった。同時にあの男への怒りも一層大きくなった。自分だけでなく、イタチまでもこんな不幸に陥れていたのだ。イタチは両足で立ちあがると、夜空に拳を突き上げた。
「そして決行の日は来た! 今晩、この家に火を放つ!」
「でも、どうやって家に火をつけるの。」
「ふふ、大丈夫。強力な助っ人を呼んでおる。おーい。」
イタチは後を振り向いて合図をした。すると黒く大きな影が何かを引きずるような音をしてこちらに向かって来た。やがてその姿が月明かりの中に現れた時、ピノキオは驚きの声を上げた。
「こ、これは、」
ピノキオの前に現れたのは巨大な蛇だった。
「こ、この蛇は、道の真ん中にいた…」
ピノキオが驚いたのも無理はない。イタチの助っ人とは、道の真ん中で通せんぼをしていたあの巨大蛇だったのだ。その尻尾からは依然として煙と炎が吹き出している。イタチが叫んだ。
「さあ、標的はあの家だ。頼むぞ。」
「ま、待って、家を燃やす前に、僕を、」
ピノキオは蛇をとめようとした。このまま家を燃やされては自分まで燃えてしまう。しかしイタチも蛇も、もう止まらない。蛇は自分の尻尾を高く持ち上げると、男の家に向かって真っ赤な火炎を放射した。
ブオオオー
たちまち家は炎に包まれた。ピノキオは叫んだ。
「た、大変だぁ。火事だ、火事だああー。」
「ははは、燃えろ、燃えろ、何もかも燃えてしまえー、ははは。」
イタチは燃え上がる家を見つめて歓喜の声を上げている。しかしピノキオはそれどころではない。たくさんの火の粉が降ってきたのだ。何と言ってもピノキオは木でできている。小さな火の粉でも命取りだ。ピノキオは必死で火の粉を振り払った。だが家が燃えるにつれて落ちてくる火の粉も多くなる。やがて自分の体から木の焦げる匂いがしてきた。もうおしまいかとピノキオは思った。
「うわあー、助けてくれえー。」
その時、家の戸が開いて男が飛び出してきた。ひどい格好だ。着ているパジャマは燻って煙が出ているし、スボンはずり下がってお尻が半分はみ出している。
「逃がすか。」
家から逃げ出そうとする男にイタチが飛びかかった。男が叫んだ。
「なんだ、お前は、離せ、離せ。」
「離さん、絶対に離さん。」
「馬鹿な、早く逃げんと焼け死ぬぞ。」
「それでいい、お前はわしと一緒にここで死ぬのだ。」
「この気違いイタチが。」
男とイタチは取っ組み合いのケンカを始めた。すると男のズボンから何かが地面に落ちた。
「カギだ。」
ピノキオは地面に落ちた鍵を拾うと、自分の首輪の鍵穴にさした。ガチャリと音がして首輪が外れた。すぐにピノキオは家から遠ざかろうと思ったが、イタチをこのままにはしていけない。
「イタチさん、逃げよう。ここにいたら本当に危ないよ。」
「ええい、離せ、離せ!」
「離さん、死んでも、離さん!」
農夫にしがみついているイタチには、ピノキオの声は全く聞こえなかった。一方、巨大蛇は相変わらず火炎を放射し続けている。ピノキオはあきらめてイタチに言った。
「イタチさん、ありがとう。あなたのおかげで助かりました。あなたも早く逃げて下さい。」
ピノキオはそう言って走り始めた。走って走って、男の家からだいぶ遠ざかった時、背後でバリバリと何かが崩れる大きな音がした。それから男の叫び声。ピノキオは耳をふさいで走り続けた。
第二十三章 ピノキオは魔女の家の立て札に動揺する。そしてハトに会い、海岸まで乗せて行ってもらう。
ピノキオは無我夢中で走り続けた。とにかくあの農夫の家から、あの恐ろしい炎から遠ざかりたい、ただその一心で走り続けた。
やがて、東の空が明るくなってきた。ピノキオはようやく走るのをやめて周りを見回した。いつの間にか森の中に入っていた。大きな木々に囲まれた静かな森…ピノキオは息を整えながら、木々の間を歩き始めた。
「…?」
歩きながらピノキオは不思議な気持ちがした。どこか見覚えがあるような気がしたのだ。この森、この道、この木の並び…
「ここは…もしや」
ピノキオの予感は当たっていた。ほどなく一本の大きな樫の木が見えてきたのだ。忘れもしない、樫の大木。ピノキオは立ち止まるとつぶやいた。
「これは、僕が吊るされた木…じゃあ、ここは魔女の森…」
ピノキオは呆然とした。戻って来てしまったのだ。魔女の住むあの森へ。農夫の家を飛び出して、元来た道を逆戻りしてしまったのだ。
「ああ、なんてことだ。」
ピノキオは頭を抱えてしまった。あるいはこれも魔女の魔力なのだろうか。
4ヶ月前にここから立ち去る時、この樫の木のすぐ近くに魔女の家があることは分かっていた。すでに魔女は自分がここに居る事を知っているのかもしれない。ピノキオは魔女の家がある方を見た。だが、
「…?」
ピノキオは首を傾げた。家が見当たらないのだ。ピノキオは歩き始めた。不吉な予感がした。家がなくなっている。魔女はここには居ないのだ。じゃあ、どこに行ったんだろう…
着いてみると、やはりもう魔女の家はなく、その代わりに小さな白い大理石の板が立っているだけだった。そこにはこう書かれていた。
ピノキオを人間にする
ため、魔女はウコ
ーリを滅ぼす
旅に出
る
大理石の文字はピノキオを驚愕させた。そして自分の考えの浅はかさを思い知らされた。ウコーリが滅ぼされては、もはや人形の王になるのは不可能だ。ただ一つの望みは魔女がウコーリを滅ぼす前にそこに行く事だが、その行き方は分からない。ピノキオは天を仰いだ。
「ああ、これから、どうすればいいんだろう。」
魔女と別れてもう4ヶ月も経っているのだ。ウコーリはすでに魔女の手によって滅ぼされているのかも知れない。となれば、ゼペットじいさんの元へ戻る以外に手はない。そしてそこで人間の子供と同じ生活をするのだ。毎日学校へ行き、人間の智恵を身につけて、そうしていつか、心も体も人間になるのだ。
「人間に、」
ピノキオは身震いした。いつの間にか人間に対して大きな嫌悪感を抱くようになっていたのだ。しかし、ゼペットじいさんの元へ戻らないのであれば一人で生きて行くしかない。それは今のピノキオには無理な相談だ。ピノキオはどうしていいか分からず、頭をかきむしった。
その時1羽の大きなハトがピノキオの頭の上に飛んで来た。
「おい、あんた、そこで何してるんだい。」
「何って、これからどうしようか考えているんです。」
「おまえ、もしかしてピノキオじゃないかい?」
「そうです、僕はピノキオです。」
するとハトはすぐに地面に舞い降りた。真近でみるとかなり大きい。ハトはピノキオに顔を近付けると、覗き込む様にして尋ねた。
「ゼペットじいさんを知ってるかい?」
ハトの言葉にピノキオは驚いた。ゼペットじいさん…忘れられるはずがない。自分の作り主なのだから。
「知ってます。僕を作ってくれたおじいさんです。」
ピノキオは少し興奮してハトに答えた。
「でも、なぜおじいさんのことを?」
「別れたんだ。2日前に、海岸で。」
「海岸で?」
「そうだ。海を渡るために小さなボートを作っていた。かわいそうに、あのじいさんはお前を探し続けていたそうだ。それが、どうしても見つからないので、とうとう海を渡って遠い国へ探しに行く決心をしたんだと。そのためのボートを作っている最中だった。」
ハトの言葉はピノキオを深く感動させた。同時にゼペットじいさんへの同情が胸の中に広がった。理由はどうであれ、自分を探しているゼペットじいさんを、このまま放っておくことはできない。
「その海岸までどれくらいあるの?」
「1000キロくらいかな。」
「1000キロ! ああ、それじゃ無理だ。とても行けない。」
「行きたいなら連れてってやるよ。」
「ほ、本当ですか。でもどうやって。」
「わしが運んでやるよ。ホラ、この背中に乗りな。」
ハトにそう言われてピノキオが背中に乗ると、ハトは軽々と大空に舞い上がった。
晴れ渡った空をハトはぐんぐん飛び続けた。夕方、空腹のためにハト小屋で青い豆を食べた以外、まったく休むことなくハトは飛び続けた。そうして次の日の朝にはもう海岸に着いてしまった。ピノキオはハトの背中から降りると礼を言った。
「ハトさん、ありがとう、このお礼は…」
ピノキオが言い終わる前に、ハトは飛んで行ってしまった。それでピノキオはハトが飛んで行った空に向かって深々とおじぎをした。
海岸では大勢の人が海の沖を見ている。ピノキオはその中の一人に尋ねてみた。
「どうしたんですか。」
「どうしたも、こうしたも、無茶苦茶だよ。急こしらえのボロボロボートで海に漕ぎ出したじいさんがいるんだ。ところがこの荒れようだろ。もう波に飲み込まれそうなのさ。まったく、はた迷惑な話だよ。」
ピノキオは海の沖を見つめた。たしかに小さなボートが木の葉のように波に弄ばれている。そしてそのボートに乗っている一人の老人。ピノキオはじっと目を凝らした。
「おじいさん、ゼペットおじいさんだ!」
間違いない。ピノキオは叫んで手を振った。
「おおーい、おじいさん、僕だよ。ピノキオだよ。僕はここにいるよ。」
するとそれに気がついた様子で、ゼペットじいさんも帽子を振って合図してきた。ピノキオは周りの人達に言った。
「あれは僕のおじいさんです。僕を探すために海に漕ぎ出したんです。誰か助けてくれませんか。」
しかし周りの人々の反応は冷やかだった。
「冗談じゃないよ。」
「なんで、こんなに荒れた海に漕ぎ出さなくちゃいけないんだ。」
「金貨100枚もらっても嫌だね。」
「人に頼む前に自分で助けに行けばいいだろう。」
やがて大きな波が来て、ゼペットじいさんのボートは飲まれてしまった。ピノキオはなおも頼み続けた。
「お願いします。誰か、誰か、」
「ああ、うるさいな。」
集っている人々の中の一人がピノキオの頭をつかんで持ち上げた。
「お前は木でできているじゃないか。助けに行くにはお前が一番だ。」
「そ、そんな、」
「お前のじいさんなんだろ、お前を探してるんだろ。」
「で、でも、」
「遠慮する事はない。手伝ってやるぞ、そーれ。」
掛け声とともにピノキオは海の中に放り込まれた。放り込まれたピノキオはボートの消えた方角目指して必死に泳ぎ続けたが、間もなく大きな波に飲まれてしまった。それを見て、海岸に集っていた人々はお祈りの言葉をつぶやきながら、家に帰った。
第二十四章 ピノキオは女王蜂の島に着き、そこで魔女に会う。
ピノキオは波に飲まれながらも頑張って泳いでいた。日が昇り日が沈んでもピノキオは泳いでいた。ゼペットじいさんのボートはどこへ行ったのか分からないし、元の海岸に引き返そうにも、その方向も分からなくなっていた。ピノキオはただひたすら泳ぎ続け、夜が明ける頃、前方に島の影が見えてきた。ピノキオはその島目指して泳ぎ、ようやく浜辺にたどり着いた。
「ここは、なんていう島だろう。」
ピノキオは砂浜に立って周りを見回した。その時、小さな魚がピノキオの足元に泳いできた。ピノキオは尋ねた。
「すみません、この辺に町はありますか。」
「ありますよ。そこをまっすぐ行けば着きます。」
「ありがとう。それからもう一つ教えて下さい。おじいさんを乗せたボートを見ませんでしたか。」
「さあ、見ませんでしたねえ。昨日は嵐でしたから、恐らく沈んだのではないでしょうか。」
「ボートが沈んだら、そこに乗っていたおじいさんはどうなりますか。」
「たいてい、サメに食べられます。この海には超巨大サメが住んでいて、数え切れないくらいの物と命が食べられています。」
「そんなに大きいのですか。」
「大きいですよ。聞いた話によると、ある島の飛行場を襲撃して、そこで離陸準備をしていたジャンボジェット機を、乗員乗客ともども一度に飲み込んで平気だったそうですから。」
「そ、そんなに…」
ピノキオは絶句した。そして、そんな恐ろしいサメがいる海を泳いでいて、こうして無事でいられる自分の幸運に感謝した。
「ありがとう、魚さん。」
「どういたしまして。」
ピノキオは魚に礼を言うと、教えられた方に向かって駆け出した。しばらく行くと魚の言った通りに町に着いた。町の人達はみんなのんびりとしている。不意に、ピノキオは空腹を感じた。なにしろ、この数日ろくに物を食べていないのだ。
「お腹がすいたなあ。」
ピノキオは何か仕事を手伝って食べ物を手に入れようと思った。しかし残念なことに額に汗して働いている人間は見当たらなかった。ピノキオはしばらく歩いた後、草の上で寝転がっている男の人に尋ねた。
「すみません、僕、なにか仕事をして、食べ物を手に入れたいんですけど、何か仕事はありませんか。」
「仕事だって!」
男の人は目を丸くした。
「君はよそ者だね。残念だが仕事はないよ。この町の住人は資本家が多くてね。働かなくても金が転がり込んでくるんだ。」
「働かなくても!」
「そうだよ。だいたい君、働いて食べ物を手に入れるなんて、それは人間として最低の生き方だよ。ロバみたいに誇りを捨てて働くのかい? 自分の体に鞭打って、くたびれるまで働くのかい? ふん、愚かな生き方だよ。いいかい、働かずに金を手に入れられるようにならなくちゃ、正しい人間とは言えんのだよ。君、分かるね。頭を使いなさい。頭を。ま、物乞いって手もあるけどね。わっはっはっは。」
その男の笑い声を聞きながらピノキオは歩き出した。どうやったら働かずに食べ物を手に入れられるのか、見当もつかなかった。
「ああ、大変な島に来ちゃったなあ。」
ピノキオは空腹だけでなく喉もカラカラに乾いていた。どうすれば水や食べ物を手に入れられるのだろう、働きもせずに…疲れ切ったピノキオは道端に腰を下ろすと、ぼんやりと道の向こうを眺めた。
その時、こちらに向かって歩いて来る、一人の人間が目に入った。頭にはスカーフを巻きつけていて、顔は良く見えないが、どうやら女性の様だ。
「あの人は…働いている?」
その女の人は水を入れたバケツを両手に持って運んでいる。その行為は明らかに仕事だ。この町で初めて見る働いている人間だった。ピノキオは立ち上がると声をかけた。
「あの、もしかしてあなたは働いているのですか?」
「そうよ。」
「あの、どうか、そのバケツの水を少し飲ませていただけないでしょうか。その代わりバケツを運ぶのを手伝いますから。」
「いいわよ。じゃあ水を飲む前に、先ず運んでちょうだい。」
女の人はバケツを二つとも地面に置くと、スタスタ歩き始めた。ピノキオは慌ててバケツを持つと、女の人の後について行った。
空は雲一つない快晴だった。容赦ない日の光に晒されて、ピノキオの木の体はひび割れそうに軋んでいた。やがて、
「ここよ。」
ある家の前に着くと、女の人がそう言って立ち止まった。ピノキオはもうフラフラだった。すぐにバケツを地面に置くと、その中の水を飲もうとした。
「ちょっと、飲むのはこれに一杯だけよ。」
女の人が小さなコップを差し出した。ピノキオはそのコップでバケツから水を汲むと、喉に流し込んだ。生ぬるく、まずい水だったが、海水のために塩辛くなっていた口の中は幾分さっぱりとした。ピノキオはコップを返すと礼を言った。
「ありがとうございました。」
「ふふん。」
コップを受け取った女の人はそう言って、にやりとした。ピノキオはその笑い声をどこかで聞いたような気がした。
「水だけでいいの?」
いきなり女の人が聞いてきた。
「え?」
「水だけでいいのかって言ってるのよ。ピ・ノ・キ・オ。」
ピノキオは自分の名前を呼ばれて驚いた。
「ど、どうして、僕の名を。」
「忘れたの? このあたしを…」
女の人はそう言いながら頭に巻いていたスカーフをするりと取った。その下から現れたのは、青色の髪…
「ま、まさか…」
ピノキオは女の人をしっかりと見た。そしてそれが誰なのか分かった途端、ピノキオの体は震え出した。
「あ、あなたは…ま、魔女!」
女の人は魔女だった。キツネと猫を死に追いやり、ピノキオを人間にして魂を奪うためにウコーリを滅ぼしに行った、あの魔女だった。
第二十五章 ピノキオは当分魔女と生活することにする。
「どうして、あなたが、ここに。」
「あんたに会うためよ、ピノキオ。言ったでしょう、あたしは絶対にあきらめないって。」
魔女は不敵な笑いを浮かべながら、飲み終わったコップをピノキオの手から取り上げた。ピノキオは頭を下げてお礼をすると、すぐに背を向けて立ち去ろうとした。これ以上ここに留まる理由はない。だが、
「待ちなさいよ。」
強い口調でそう言うと、魔女が後ろからピノキオの肩を掴んだ。ピノキオはその手を振り払おうとした。
「離してください。」
「ふふ、相変わらずね、ピノキオ。」
魔女は強い力でピノキオの肩をがっしり掴んでいる。ピノキオはその手から逃れようと、尚ももがいた。
「離して、離してください。」
「ウコーリのこと、知りたくないの?」
ウコーリ! それを聞いてピノキオの体から力が抜けた。そうだ、魔女はウコーリを滅ぼしに行ったはずだ。それなのにこんな島に居るということは…
ピノキオの体から力が抜けるのを見て、魔女は手を離した。
「付いてらっしゃい。ピノキオ。」
魔女はピノキオに背中を向けると家の中に入って行った。ピノキオも、まるで魔法にでもかかったかの様に、地面に置いたバケツを持って、家の中に入った。
「座んなさいよ、ピノキオ。」
家の中にはテーブルと椅子。テーブルの向こうには魔女が腰掛けている。そしてテーブルの上にはおいしそうな御馳走が山のように乗っている。ピノキオは部屋の床にバケツを置いて、こちら側の椅子に座った。魔女は何も言わずにピノキオの顔をじっと見つめていたが、やがて、ゆっくりとした口調で言った。
「ウコーリは滅んだわ。」
それはまるで何でもない出来事のようだった。確かに魔女にとってみれば、ウコーリを滅ぼすくらい容易な事だったのだろう。その言葉を聞いたピノキオには…しかし、それほどの驚きはなかった。それはもう覚悟していた事だったのだ。
「あんたが完全な人形になって、人形の王になることは、もう永久に不可能なのよ。だって、ウコーリはもうないんだもの。ふふ。あの愚かなキツネの約束に縛られる必要もなくなったってわけ。よかったわね。」
ピノキオは黙って魔女の話を聞いていた。魔女はうっすらと笑みを浮かべている。
「これで、もう何の迷いもないわね。」
魔女の問いかけにピノキオは口を開いた。
「迷いって、何の迷いですか。」
「あたしと契約して人間になることよ。」
ピノキオは答えられなかった。人間にはなりたくない。だが、人間とも人形とも分からない、この中途半端な状態も嫌なのだ。
「ピノキオ、考えてご覧なさい。」
魔女の口調が優しくなった。
「あんたは人間を嫌っているみたいだけど、それはなぜ? 人形よりも人間の方が優れているのはもう分かったでしょ。この島の人たちを見なさいよ。働きもせず、汗もかかず、自分の好きなことだけをして暮しているお金持ちの人たち…人形なんかより人間の方が豊かな暮しをしてるでしょ。人形にできないことでも人間になれば簡単にできるのよ。ピノキオ、あんたは人形の王になって何がしたかったの?」
「僕は、」
ピノキオは言いよどんだ。自分が何をしたいか、そんなことは今まで考えたこともなかったからだ。
「僕は、僕は人形の王になって、あの芝居小屋のあやつり人形たちを自由にして、それからプチネルラを助けて、金貨のお礼を…」
それは自然と口に出てきた言葉だった。ピノキオは自分で言った言葉に自分で驚いた。その言葉を聞いて魔女がにやりとした。
「そうでしょ。だったら人間になればいいじゃない。一所懸命勉強してお金を貯めて、あの芝居小屋を買い取ってしまえばいいのよ。火喰親方なんかクビにしちゃえばいいのよ。人間になればなんでもできるわ。不可能なことなんて一つもないのよ。」
ピノキオは何も言えなかった。魔女の言う通りだった。
「それとも、あんたは一人で生きて行けるの? あたしが助けてあげなければ、水一杯飲むこともできなかったじゃない。悪いことは言わないわ。あたしと契約しなさい。人間になりなさい。そうすれば何から何まであたしが面倒みてあげるわ。食べる物も寝る場所も、もう心配しなくていいのよ。」
「……分かりました。」
じっと考えたあげく、ピノキオは言った。
「僕は決心しました。あなたと暮します。人間の子供と同じ生活をします。学校へも行くし、お手伝いもします。けれどもあなたと契約することはできません。人間になるもう一つの方法、つまり人間の心を持つことで人間になる方法を選択します。それでよければ、ここで生活させて下さい。」
「やれやれ、ほんとに頑固な人形ね。」
魔女は立ち上がると、ピノキオのそばに歩いてきた。
「まあ、いいわ。あんたが断ってこの家から出て行っても、あたしは追いかけるつもりでいたんだから。あたしは執念深くてね、一度狙った獲物は決して逃がさないの。」
魔女はピノキオの顔をじっと見た。
「それにあんた、かなり人間の考え方に染まってきたわね。あんた、あたしの言葉を信用してないでしょ。ウコーリはまだ滅んでないと思ってるんじゃない。それともウコーリへ行く以外に人形の王になれる方法を探そうと思ってるんじゃない。それが分かるまで、とりあえず、あたしと暮すことにしたんでしょ。ふふふ、なに赤くなってるのよ。図星だったみたいね。でもね、その打算的な考え方が、もう人間の心なのよ。ふふふ、いいわよ、契約しなくても。ここで人間の暮しをしなさい。そうすれば、やがてあんたは必ずあたしと契約したくなるわ。もっと人間の心に染まれば、それはもう避けられなくなるの。ふふ、いい、逃げようとしても無駄よ。あたしはあんたの魂を手に入れるまで、絶対に離れないからね。地の果てまでも追って行くからね。」
自分を見つめる魔女の目は、自分の心の奥底まで見えているようにピノキオには思われた。けれどもこれで明日からは、空腹を抱えたまま眠る事はなくなるだろうと思うと、少しほっとする気もした。
第二十六章 ピノキオは友達と一緒にサメを見に行く。
次の日からピノキオは学校へ行った。もちろん勉強する気はないから、成績はいつでもビリだった。それでも友達はできた。自分一人で話して動く人形なのだから、子供が集ってきて当然だ。
ピノキオは、人間の大人の心にまだそれほど染まっていない低学年の子供たちと接すると、こんな人間だったらなってもいいなあと思うこともあった。けれども卒業間近の子供たちは、みんな例外なく大人の人間の顔をしていた。それを見るとピノキオは悲しくなった。
そうして普通の子供としての毎日を過ごしながら、ピノキオは密かにウコーリのことを探っていた。魔女に指摘された通り、ピノキオは心のどこかに、「ウコーリが滅んだ」という魔女の言葉を疑う気持ちがあったのだ。しかし、島のどの人に尋ねても、ウコーリを知っている者は一人もいなかった。ウコーリが滅んだのか、いや、そもそもウコーリは存在していたのか、それさえもピノキオは確かめられなかった。
ただ、魔女については知っている者がいた。勿論、ピノキオと一緒に暮している女性が魔女だと知っている者はいなかったし、ピノキオも敢えてそんなことを教えもしなかったが、彼らにとって魔女はそれほど恐ろしい存在ではないようだった。なぜなら、魔女は決して約束を破らないからだ。成立した契約は、どんなに魔女に不利な内容でも必ず実行するし、成立していない契約は絶対に行なわれない。
「それにな、魔女は決して嘘をつかんないんじゃ。我々人間とは違ってな。」
島の中でも一番の老人は、そう言って魔女を褒めていた。その言葉はピノキオが抱いていた儚い希望を打ちのめすのに充分だった。
「やっぱり、ウコーリは滅んだのだろうか、魔女の言葉通り…」
けれどもピノキオの中の希望が完全に消え去ってしまったわけではなかった。
ある日、ピノキオは学校へ行く途中、高学年の子供たちに会った。
「ピノキオ君、おはよう。ところであのニュースを聞いたかい?」
「あのニュース? ううん、知りません。」
「近くの海岸にサメが出たんだって。」
「サメ!」
「そうさ、山みたいに大きなサメだそうだよ。」
それはゼペットじいさんを飲み込んだサメに違いないとピノキオは思った。急に懐かしい気持ちが込み上げてきた。なにしろゼペットじいさんは自分を探すために海に出てサメに飲み込まれたのだから。
「で、僕たち、これからサメを見に海岸に行くんだ。君も来ないかい。」
「うん、行く。」
学校に行きたくないピノキオはすぐに返事をすると、数人の子供たちと一緒に海岸に向かった。
第二十七章 友達がけがをしてピノキオは逮捕されかかる。
ピノキオたちは、ほどなくして岸辺に着いた。ピノキオは海を見回したがサメはいない。
「サメはどこ?」
ピノキオは後を振り向いて友達に尋ねた。尋ねられた仲間は何も言わずに顔を見合わせていたが、やがて最初にピノキオに声を掛けてきた子が言った。
「すまない、ピノキオ君。サメの話は嘘なんだ。実はこれには深い訳があってね。」
「深い訳?」
「そうなんだ。ああ、学校のことは心配しなくてもいいよ。今回のことは先生も了解済みだから、遅刻にはならない。」
「別に、そんなのはどうでもいいけど…でも一体何事なの。」
一緒に来た仲間たちは、いつの間にかピノキオの周りをぐるりと取り囲んでいた。誰もが無表情な顔で両手を後に組んでいる。その中でピノキオの正面に立っている、リーダーとおぼしき子供が言った。
「ピノキオ君。君はまったく勉強しないね。」
「うん。」
「それでいいと思ってるのかい。」
「そんなこと言われても。」
ピノキオは思いがけない質問に戸惑ってしまった。しかし、その子はピノキオの答えには構わず言葉を続ける。
「聞いたよ、ピノキオ君。君は勉強して人間の心を身につけると、人間になれるんだろ。だったらどうして勉強しないんだい。人形のままでいいのかい。このままじゃ君の未来は真っ暗だよ。」
「僕は、そうは思わないけど…」
「真っ暗なんだよ。君みたいに正直でお人好しで、汗を流して働くのが好きな者は、人間の世界では生きていけないんだ。このままでは君の将来は落伍者しかありえない。僕たちはそんな君を見るのが辛くて仕方ないんだ。」
その子供は両手をピノキオの肩に置いた。
「さあ、約束してくれ、勉強すると。心を入れ替えて人間の智恵を身につけ、そして立派な人間になると。」
「そんな約束できません。」
「できないのなら、帰さない。」
ピノキオを取り巻いていた仲間たちが、その輪を縮めてピノキオに迫ってきた。
「さあ、約束しろ。」
「できません。」
「約束するんだ!」
「できません!」
突然、ピノキオは後から両腕を羽交締めにされた。同時に正面の子供が百円ライターを取り出した。
「これが目に入らないのかい。」
ピノキオは恐くなってきた。ライターで火を点けられれば、木でできた体は燃え上がってしまう。
「これでも僕たちの言う事が聞けないってのかい。」
その子はカチリと火を点けると、手に持ったライターをピノキオの顔の前に突きつけた。
「助けてえー。」
ピノキオは叫んだ。そしてとっさに体を捻じったので、ライターの火は背後でピノキオを羽交締めにしていた子供の顔に突きつけられた。
「わあー。」
驚いたその子は両手を上げた。と、その拍子に海水に濡れた路面に足を滑らせて仰向けに倒れてしまった。
ゴツン
頭を打つ鈍い音がすると、その子はそのまま動かなくなってしまった。
「な、なんてことを…」
ピノキオを取り巻いていた子供たちが、一斉に叫び始めた。
「事件だ、事件だ、子供が人形にやられた。」
「誰か来て下さい。ピノキオが子供に暴力を振るいました。」
「何の罪もない子を倒したんです。この狂暴な人形が、」
そうして、子供たちはみんな逃げ出し、あっと言う間に見えなくなった。ピノキオはしゃがみこんで、倒れてしまったままの子を見た。気を失っている。すぐにハンカチを取り出して水に濡らすと、その子の額に置いた。
「大丈夫ですか、ああ、しっかりして、目を覚まして…」
「おおーい、何事だああー。」
遠くから男の声が聞こえてきた。警官だった。二人の警官がこちらに駆けてくる。ピノキオは反射的に立ち上がると逃げようとしたが、思いとどまった。話せば分かると思ったのだ。やがて警官がピノキオの前に立った。
「君がやったのか。」
「違います。」
「嘘をつくな。子供たちが言っていたぞ。ピノキオが子供に暴力を振るったってな。」
「それは、間違いです。」
「いいから、来い。」
「離して下さい。」
ピノキオは抵抗したが無駄だった。二人の警官に両脇からがっちりと抱えられ、引きずられていった。ピノキオは大変なことになったと思った。そして以前、金貨を騙し取られて牢屋で4ヵ月を暮した時のことを思い出した。あんな目にはもう二度と会いたくなかった。
やがてピノキオと警官は町の入り口までやって来た。その時、強い風が吹いてきて、ピノキオの帽子を飛ばした。帽子は後ろに10メートルほどの所に落ちた。ピノキオが尋ねた。
「取ってきていいですか。」
「早くするんだぞ。」
警官はそう言うと、それまで掴んでいたピノキオの手を離した。ピノキオは走って帽子の所まで行くと、拾い上げてそのまま元来た方向へ走って行った。
「こら、待て。」
慌てた警官が叫んで、すぐに跡を追いかけたが、ピノキオは速い。どんどん差は広がるばかりだ。やがて警官は追うのをあきらめて、追跡専用犬の出動を要請した。
第二十八章 ピノキオは海に飛び込んで逃げるが漁師に捕まる。
「ワンワン、このアリドーロさまから逃げられると思ってるのか。ワン。」
追いかけてくる犬の名前はアリドーロ。大きなマスチフ犬で4歳犬クラシック競犬で三冠を取った名犬だった。
「ほらほら、大丈夫かい、足がもつれてるぜ。」
ピノキオは必死に走ったが、アリドーロは断然速い。もう背後数十センチの所まで迫っている。
「ワッフッフ。おれ様は特権を与えられていてな。もし犯人が抵抗すれば噛み殺してもいいことになってるんだ。ほら、走れ走れ。ワンワン。」
アリドーロは楽しみながらピノキオの後ろにぴったりくっ付いて走ってくる。ピノキオはいつ飛びかかられるか、ビクビクしながら走っていたが、やがて海岸が見えてきた。
「よーし。」
ピノキオは覚悟を決めて海に飛び込んだ。それを見てアリドーロは止まろうとした。なぜならアリドーロは犬のくせに泳げないからだ。しかし勢いがついていたので止まる事ができず、そのまま海に落ちた。
どっぷ~ん
「ワッフウー。おぼれるうー。」
アリドーロは顔を水面に出してもがいている。それを見てピノキオはすぐに引き返そうとした。アリドーロを助けなければ…
「でも、」
ピノキオは躊躇した。もし助けたら自分は捕まるのではないか。相手は警察犬なのだ。ピノキオは少し離れた所でどうしようか迷っていた。そうしている内に、アリドーロはほとんど沈み始めている。
「ワッフ、ぶくぶく、おおーい、ぶくぶく、ワッフ、おおーい、助けてくれえー、ぶくぶく…」
このまま放っておけば間違いなく沈んで溺れ死ぬだろう。しかしピノキオは動けなかった。ぽっかりと水の上に浮いて、アリドーロが溺れるのを見ているだけだった。
「ワフ、ワフ、ぶくぶくぶく……」
やがてアリドーロは沈んでいった。アリドーロの姿が見えなくなると、ピノキオは岸に沿って泳ぎ始めた。胸は鉛を飲み込んだように重かった。自分が確実に人間に近づいていることを感じずにはいられなかった。
しばらく泳ぐと岩場が見えてきた。その岩場の間の洞窟から煙が立ち上っている。ピノキオはそこから陸に上がろうと、近付いて行った。
「あれ、」
何かが自分の体を包み込んだ。そして強い力で岸に引っ張られた。逃げようとしてもがいたが、すでに手遅れだった。
ピノキオは大きな網に捕われていたのだ。自分の周りにはたくさんの魚が勢いよく飛び跳ねている。一体どこに網が仕掛けられていたのだろう。ピノキオは自分の迂闊さに少し呆れていた。やがて、大きな声が聞こえてきた。
「ほほう、大漁だ。」
声と共に洞窟の中から、まるで海の怪物の様な巨大な漁師が出てきた。途方もない大男だ。思いがけない大漁に喜んだ漁師は、網をすっかり引き上げてしまうと、それを洞窟の中へ運びこんだ。洞窟の中では油の入った大鍋が火にかかっている。
「さあて、獲物を見てみるか。」
漁師は腰をおろすと、網の魚を1匹づつ出して大きなボールに移し始めた。ピノキオも何番目かに持ち上げられた。途端に漁師は変な顔をした。
「なんだこりゃ、おかしな魚だな。」
「魚じゃありません。」
ピノキオが答えた。漁師はまじまじとピノキオを見ている。
「魚じゃない? すると、カニか?」
「カニでもありません。人形です。木でできた人形です。名前はピノキオです。」
「なんだ、木の人形か。それじゃ食えないな。」
漁師はピノキオをボールの横に置いた。ピノキオはほっと胸を撫でおろした。どうやらそれほど悪い人ではなさそうだ。ピノキオはお礼を言った。
「助けてくれてありがとうございます。」
「助ける? おいらが? ははは、逆だよ。食えないって教えてくれてこっちが助かったさ。木の人形なんか食っちまったら、さすがのおいらも腹壊しちまうからな。おう、ちょうどいいや。お前、腹減ってないか? 今日は大漁だから一緒に魚を食おう。」
「え、いいんですか。」
「ああ、いいとも。一人で食うより二人で食った方がうまいだろ。その代わり、フライを作る手伝いをしてくれよ。」
「分かりました。ありがとうございます。」
漁師の有難い申し出にピノキオは感謝した。そして漁師の指示に従ってピノキオは別のボールに小麦粉を入れ、漁師が選別した魚に小麦粉をまぶす作業に取り掛かった。こうして網の中の魚も残り少なくなった時、
「おや、また変な魚が出てきたぞ。」
漁師の声にピノキオは小麦粉をまぶすのをやめて、漁師の方を見た。そして漁師が手にしている生き物を見て驚いた。
「それは、」
第二十九章 ピノキオは家に戻り、もはや自分は人間になるしかないことを思い知る。
「アリドーロ!」
漁師が掴んでいるのは自分を追いかけてきた犬、アリドーロだった。アリドーロはしっぽを振って喚いていた。
「ワオン、ワオン、どうぞお助けを。」
「おい、あんた、この魚、知ってるのかい?」
漁師がピノキオに尋ねた。ピノキオは暗い顔で答えた。
「それは魚ではありません。犬です。」
「なんだ、犬か。どうりで毛深いと思った。でも、犬なら食ってもお腹を壊すことはないな。」
「ワオーン、助けてくれえ、ピノキオさーん。ワオーン。」
アリドーロは情けない声で命乞いをしている。アリドーロの言葉を聞いて、猟師が不思議そうな顔をした。
「ピノキオ…なんだ、あんたたち知り合いかい?」
「僕を追いかけてきたんです。僕を捕まえて噛み殺すために。」
「物騒な話だなあ。でもそれじゃ、こいつはあんたの敵なんだから、食っちまっても構わねえんだな。」
「ウオオオーン、助けてくれ、助けてくれ、食べないでくれー。ピノキオさぁーん。」
ピノキオは迷った。もちろん助けてやるべきだ。アリドーロが追いかけてきたのはあの警官に命令されたからで、アリドーロには何の責任もないからだ。だが、もし助けてやれば、アリドーロは自分を見逃してくれるのだろうか。結局自分はまた追われる身になるのではないのだろうか。それならいっそ、このまま居なくなってくれた方が…
不意にピノキオの頭にあのコオロギの言葉が浮かんだ。「要領よく振舞え…」そう、要領よく生きることこそ大切なんだ。今、要領のよい生き方とは、つまり…ピノキオは何も言わずに黙っていた。
「おい、食っちまってもいいんだな。」
漁師がもう一度尋ねた。しかしピノキオは答えられない。アリドーロは相変わらず叫んでいる。
「ワオオーン、ワオオーン、助けて、助けて、ワオオーン、ワオオーン。」
「ええい、うるさいな。」
あまりにやかましいので、漁師はアリドーロをそのまま大鍋の油中に放り込んでしまった。ジュという音と、肉の焦げる香ばしい匂いが洞窟に広がる。ピノキオは元気のない声で漁師に言った。
「あの、僕、もう帰ります。遅くなると家の人が心配するので。」
「なんだ、そうか、じゃあ魚を1匹持ってけよ。」
「いえ、いいんです。さよなら。」
ピノキオは洞窟から逃げるように走り出た。これでよかったんだろうか。アリドーロを見殺しにして、本当に…ピノキオは自分自身が何か自分ではない別の生き物に変わったような気がしていた。これも魔女の魔力なのだろうか。魔女と一緒に暮しているだけで、自分は変わっていくのだろうか…ピノキオは夢中で走り続けた。海岸を走り、町の中を走り、そうして家の中へ駆け込むと、そのまま床にへたりこんだ。
「おかえり。」
魔女が言った。顔には相変わらず笑みが浮かんでいる。
「学校をさぼったわね。」
「ごめんなさい。」
ピノキオは素直に謝った。魔女はまるで小鳥をいたぶる様にピノキオに問い掛ける。
「海岸で友達を突き倒したそうね。」
「違います。そんなことはしてません。」
「ケガまで負わせて、逃げ出したそうね。」
「違います、違います。」
ピノキオは激しく否定した。魔女が高い声で笑った。
「ホホホ、大丈夫よ。あの子たちの一人が白状したわ。倒れた子も軽い脳震とうだったし、もう警官に追われることはないわよ。安心しなさい。」
「ああ、よかった。」
ピノキオはほっとした。けれども心の中は晴れない。浮かない顔をしているピノキオに魔女は言った。
「ねえ、ピノキオ、あたしは嬉しいの。」
「嬉しい? どうしてですか。」
「ふふ、何もかも分かってるのよ。溺れている犬を助けなかったことも。大鍋の前で許しを乞う犬を見殺しにしたことも。」
魔女の言葉はピノキオを打ちのめすのに充分だった。自分の体の中に見えない手が入ってきて、自分の醜い物を目の前に曝け出されたような気がした。ピノキオは頭を床にこすりつけた。
「…ごめんなさい。」
「最低ね、ピノキオ。罪もない犬を助けず自分だけ逃げ出すなんて。あんたの行動なんて完全な人間にはまだまだ程遠いわ。いい、普通の人間ならね、見殺しになんかしないの。散々相手を脅かした後に、助けて欲しいのなら契約書を書いてって言って、二度と自分を噛まない約束をさせるのよ。もちろん、漁師も立会人にしてね。そのあとで魚を貰ってくるのも忘れないわ。あんたみたいに犬一匹見殺しにして、しかもそれが原因で泣いているんじゃ、人の世では生きていけないわね。ふふふ。」
「ごめんなさい、ごめんなさい。」
ピノキオは謝り続けた。それ以外の行動もそれ以外の言葉も今のピノキオには不可能だった。
「なに、謝ってるのよ。いいのよ、それでいいのよ。」
魔女はピノキオの頭を掴むと、ぐいっと上を向かせた。ピノキオの顔は涙に濡れていた。
「あの犬はあんたの敵。敵は許しちゃいけないのよ。もしあそこで、何の約束もせずに犬を助けてやったら、あんたはあの犬に噛み殺されていたわ。あんたの行動は正しいのよ。」
「それが、それが、人間の世界の法則なんですね。人間の心なんですね。」
ピノキオの涙はとまらなかった。それが見殺しにしたアリドーロへの涙なのか、それとも変わり行く自分に対する涙なのか、ピノキオ自身にも分からなかった。
「そうよ。分かってるじゃない、ピノキオ。あんた、だいぶ進歩したわね。」
魔女は掴んでいたピノキオの頭を離した。ピノキオはもう口を開くことも出来ず、ただ床にうつぶして泣くだけだった。そんなピノキオの姿を見ながら、魔女の言葉は一段と高く部屋の中に響き渡る。
「ああ、愉快、愉快でしかたないわ、ピノキオ。あんたは確実に人間に近づいている。もう戻れないのよ。あんたは人間になるしかないのよ。ホホホホ。」
ピノキオの目からは絶え間なく涙があふれ出ていた。けれどもどんなに泣いても胸のつっかえはなくならなかった。
「泣いているわね、ピノキオ。それはまだあんたの中に、人形の心が残っているからよ。その苦しみの原因は人形の心にあるのよ。そんなものは捨てなさい。人間の心だけになりなさい。そうすれば苦しまないわ。泣くこともないわ。そして遅かれ早かれ、あんたはそうなるのよ。」
魔女はそれだけ言うと、ピノキオから離れて自分の部屋に帰って行った。ピノキオは魔女が行ってしまった後も、顔を床にこすりつけて泣き続けた。
第三十章 ピノキオはランプシンの話を聞き、ミシルークへ行く決心をする。
それからピノキオは真面目に勉強するようになった。あの海岸でのような出来事には、もう二度と遭いたくないと思ったのだ。やる気を出したピノキオは見違えった。成績はどんどん上がり、もう勉強でピノキオに敵う者は一人もいなくなった。いや、勉強だけではない。ピノキオはすっかり学校の、町の模範生になっていた。成績優秀、品行方正、スポーツ万能、あらゆる褒め言葉がピノキオに当てはまった。魔女は大喜びだった。けれどもピノキオの顔はいつも暗かった。
「ねえ、ピノキオ。」
ある日ピノキオの同級生の一人が声をかけてきた。本名はロメオなのだが、ランプの芯みたいに痩せているので、ランプシンと呼ばれていた。
「なんだい、ランプシン。」
ピノキオが尋ねるとランプシンは顔を寄せて、囁くように言った。
「うん、実は相談したいことがあるんだ。すごく急な話で、どうしても今日中に決めてしまわなくちゃいけないんだ。今夜、校庭の隅の樫の木の下に来てくれないかな。」
「今じゃ駄目なの?」
「ここでは、話できないんだ。とっても大事なことだから。頼むよ。」
そう言うとランプシンは行ってしまった。
その日の夜、ピノキオは校庭の隅の樫の木にやって来た。ランプシンがぼんやりと立っていた。
「ああ、ピノキオ、来てくれたんだね。」
「やあ、ランプシン。何なの話って。」
ピノキオの問いかけにランプシンは顔を伏せて、すぐには答えなかった。言おうかどうしようか迷っているようにも見えた。が、すぐに顔を上げると、意を決したようにピノキオの目を見詰めて言った。
「実は僕は旅に出ようと思うんだ。」
「旅に?」
「そう、長い旅にね。そしてもうここには帰らない。」
ランプシンの言葉はピノキオを驚かせた。
「帰らない? どうして?」
「もう何もかも嫌になってしまったんだ。」
ランプシンは吐き捨てるように言った。
「毎日毎日勉強勉強。それから成績が上がった、下がった。そんな生活がもう嫌になったんだ。学校は地獄だよ。どんなにしたって幸せにはなれないんだ。成績が悪いと、親も先生もいい顔をしない。僕だって悔しい。それで頑張って勉強して成績を上げると、どうだい。今度は僕のために成績が下がってしまった友達が悲しい顔をする。 僕だって気の毒に思う。自分が悪いことをしてしまったんだと思う。ね、成績が良くても悪くても、心の底から喜べないんだよ。成績がいい子がいれば、必ず悪い子がいる。だから自分の成績を上げることは、自分の友達を不幸にすることなんだ。僕は自分の友達には幸せになって欲しいのに、そのためには僕自身が不幸にならなければいけなんだ。そんな不幸な幸せなんてあるかい。」
ピノキオは驚いた心持ちでランプシンの言葉を聞いていた。こんな言葉が人間の口から出るなんて…このランプシンの優しさはまるで人形のよう…
「ランプシン…」
そう思いながらも、しかし、ピノキオ自身はもう人間の心に染まりかけていた。ランプシンの優しさに心打たれながら、ピノキオの口から出てきたのはあきらめの言葉しかでなかった。
「でもランプシン、それは学校だけじゃないと思うよ。」
「そう、人間の世界は必ずそうなんだ。だからみんな不幸なんだよ。頭のいい子も悪い子も、金持ちも貧乏人も、みんな不幸なんだ。心底幸福を感じてる人なんて一人もいないんだ。」
ピノキオにはランプシンの言っていることがよく分かった。けれども、それはどうしようもないのだとも思っていた。人間に限らず生き物は、他の生き物を犠牲にせずには生きていけないからだ。
「分かったよ。ランプシン。君の言いたいことはよく分かった。でも、たとえこの地を離れて遠くに行っても、同じことだと思うよ。だってそれが人間の世界の掟なんだから。旅に出るなんて意味がないよ。」
「違うんだ。僕がこれから行く国、ミシルークは違うんだ。」
「違うって、どう違うの?」
「ミシルークは夢の国さ。」
ランプシンの顔が明るくなった。声も生き生きしている。
「ミシルークには学校がないんだ。だから成績なんかないんだ。そこでは何をしてもいい。また何もしなくていい。自分のしたいことだけをすればいいんだ。毎日遊んで暮しても、寝て暮しても、もちろん勉強したって誰も何も言わないのさ。どうだい、素敵だろ。」
「うん、素敵だね。」
ピノキオは言った。それが本当なら夢のような国だ。ただ、ピノキオは身についた智恵で、その国にはそんな良いことの他に、何か悪いこともあるのではないかと感じていた。それが何かはまだ分からないが。
そんなピノキオの心配をよそに、ランプシンは明るく話し掛ける。
「だからさ、君も一緒に行かないかい。ピノキオ。」
「僕も?」
「そうさ。あと1時間もしないうちに、迎えの馬車がここにやって来るんだ。それに乗って港に行き、この島の外に出れば、あとは寝ていてもミシルークに着いちゃうよ。」
「そうだねえ。」
ピノキオの心は動いた。今の生活にはもちろん満足していない。けれども、そのミシルークに行ったとして、本当に満足できるのだろうか。その国も所詮は人間の世界にあるのだから…ピノキオは迷った。その時、ランプシンが思いついたように言った。
「ああ、そうそう、言い忘れたけどね、そのミシルークに行った人間は必ず人間以外の生き物になるんだ。」
「人間以外の生き物!」
ピノキオは叫んだ。ランプシンはにっこりしながら言った。
「そうだよ。人間以外の自分の好きな生き物になることができるんだ。」
「自分の好きな生き物に…」
この一言がピノキオの心を決めた。と、不意に遠くから小さな光が近づいて来た。それから鈴の音、角笛。
「来た! 来たよ、ピノキオ。ずいぶん早かったなあ。」
遠くに輝く光を見ながら、ランプシンが言った。
第三十一章 ピノキオはミシルークへ行き、そこで5ヵ月を過ごす。
二人の前に大きな馬車が停まった。4頭立ての大きな馬車で、荷台には既に数人の子供たちが乗っている。どの子もじっと黙ったままで、大人しく座っている。馬車の上から御者が話しかけた。
「おう、君たちもミシルークに行くのか。」
「はい、行きます。」
ランプシンが元気に答えた。
「うむ。」
御者は頷くと馬車を降りた。大柄な男で黒いマントと黒い帽子を身に着けている。御者はランプシンの前に立つと、まるで冬の稲妻のように低く轟く声で、厳かにランプシンに問いかけた。
「ミシルークに行くには相当な覚悟が必要だぞ。」
「分かっています。」
「母さんや父さん、兄弟、友達にも、もう二度と会えない。」
「覚悟の上です。」
「ここには戻れない。人間の世界にも戻れない。お前は人間以外の生き物になる。それでもいいのだな。」
「構いません。僕は決して後悔しません。」
ランプシンの態度は堂々としていた。御者は大きく頷いた。
「よろしい。乗りなさい。」
「ありがとうございます。」
ランプシンは意気揚々と馬車に乗り込んだ。御者は、次にピノキオに顔を向けた。
「さて、君は…」
そこまで言って御者は黙った。じっとピノキオの顔を見ている。ピノキオはどうしたのかと思って、少し心配になった。が、すぐに御者が言った。
「そうか、君か。よろしい、君も乗りたまえ。」
ピノキオはあっけにとられた。ランプシンと同じように質問されると思っていたからだ。
「乗っていいんですか。」
「ああ、構わない。」
そこでピノキオは荷台に乗り込んで、ランプシンの隣に座った。続いて御者が乗り込むと、馬車は静かに動き出した。ピノキオもランプシンも他の子供たちも黙って座っていたが、やがて知らぬ内に眠ってしまった。
いつ船に乗ったのだろう。次の日の明け方、目が覚めるとピノキオたちは船の甲板の上で寝ていた。起き上がるともう船は波止場に着いている。
「ミシルークだ。」
御者はそう言うと、目を覚ました子供たちに下船を促した。船を下りたピノキオはその国を見回して、すぐにここは素晴らしい国だと分かった。住人は子供だけだった。そしてどの子の顔も例外なく明るい。
「ね、僕の言った通りだろう。」
そう言ったランプシンの顔も見違えるように明るかった。
最初の数日、ピノキオもランプシンも、ミシルークで何をすればいいのか分からず、なんとなく日を送っていた。それは二人と一緒に来た他の子供たちも同様だった。誰かに何をしろと命令されるわけでもなく、何をしてはいけないと注意されるわけでもなかった。何をすべきか、何をすべきでないのか、それを決めるのも自分自身なのだ。
やがてピノキオとランプシンはミシルークに住む子供たちを見て回るようになった。みんな好きなことをやっていた。それは一見、ただ遊んでいるだけのようにも見えた。けれども、そんな子供たちと友達になるにつれ、実はそれは遊びではなく重要な勉強なのだということが分かってきた。自分の変わりたい生き物を目指す勉強なのだった。
たとえば、走るのが大好きな子は、いかに速く走れるかを毎日研究していた。その子はチーターに成りたいと言っていた。それからある子は泳ぐのが大好きで、24時間水の中で過ごしていた。その子はイルカに成りたいと言っていた。また別の子は一日中水たまりで泥遊びをして、フゴフゴと鼻を鳴らしていた。その子は豚に成りたかったのだ。こうしてどの子も自分の興味のあることだけを、自分の好きな方法で、自分の好きなように、誰の批判も批評も受けずに探究することができた。そんな子供たちの顔はみんな生き生きとして輝いていた。この国は素晴らしい、ピノキオは本当にそう思った。
「ねえ、ピノキオ、僕はここに来てやっと分かったよ。」
ある日、ランプシンが話し掛けてきた。
「うん、何が分かったの? ランプシン。」
ピノキオがそう問い返すと、ランプシンは少し興奮した口調で言った。
「ピノキオ、僕はね、海が好きなんだよ。砂浜の近くに住んでいたから、小さい頃はいつも海を見て過ごしていたんだ。それなのに学校に通うようになってからは、いつも文字や数字ばかり見て、そんなことはすっかり忘れてしまっていた。ここに来てようやくそれに気が付いたんだ。」
ランプシンの声は弾んでいた。
「それからね、僕は空を飛ぶことも好きさ。海の上を吹き過ぎる風みたいにね。」
「うん、それは僕も好きだよ。」
「だから、だからねピノキオ。僕は決めたよ。海の上を風のように舞う動物…僕は、カモメに成ろうと思うんだ。毎日海を見ながら空を飛べるなんて最高だと思うよ。」
「すごいや、ランプシン。」
ランプシンの決心を聞いてピノキオは喜んだ。ランプシンは自分の道を決めたのだ。
それからランプシンは、毎日空を飛ぶ練習や、海の中を泳ぐ魚を捕まえる練習を始めた。ランプシンの顔は本当に輝いていた。そんなランプシンを見ながら、ピノキオは自分は何をすればいいのだろうと考え続けた。自分が何に成りたいのか…答えはもう決まっている。ただ、その為にこの国で何をすべきなのか、それがピノキオには分からなかった。こうして何もすることができないまま、ピノキオはミシルークで5ヵ月を過ごしてしまった。
第三十二章 ピノキオはウコーリの話を聞き、ロバになる。
その日もいつもと同じ様に、ピノキオは砂浜でぼんやりしていた。ピノキオの目の前では、ランプシンが崖を利用して滑降の練習をしている。だいぶうまくなったなあ、とピノキオは思った。これなら間違いなく立派なカモメに成れるだろう。ピノキオはふっとため息をついた。
「君は、まだ迷っているようだね。」
ピノキオの背後で太い声がした。振り向くと、黒いマントに黒い帽子の大きな男…5ヶ月前にピノキオたちをこの国へ連れて来てくれたあの御者が立っていた。その姿を見てピノキオは少し驚いた。船を降りてから御者には一度も会っていなかったからだ。一体、なぜ、今、ピノキオの前に姿を現したのだろう。
「いつまでもそれではいけないな。何もせずに毎日を送るだけでは。」
ピノキオが何に成りたいのか…それはもう決まっていた。けれども、その為に何をすればいいのか、いや、その前にこの国でそれに成れるのかどうかさえピノキオには分からなかった。ピノキオは何も言わなかった。何も言えなかったのだ。黙ったままのピノキオを見て、御者はピノキオの横に腰を下ろすと、低い、しかしはっきりとした声で言った。
「人形の王に成りたいのだろう、ピノキオ。」
ピノキオは驚いた。御者に自分の名前を教えたことはないし、ましてや、人形の王に成りたいなんてことは、ランプシンにだって言っていない。ピノキオは慌てて聞き返した。
「どうして知っているんですか。僕の名前を、僕の夢を…」
「知っているよ。ウコーリのこともね。」
「ウコーリ!」
懐かしい響き、もうとっくに記憶の中から消えてしまった言葉だった。
「ウコーリを知っているんですか。」
「ああ、知っている。なにしろあの国を作ったのは、片足の悪いキツネと盲目の猫…」
「ああ、知っています。僕、その二人に連れられてウコーリに行くところだったんです。」
「あの二人は、ここ、このミシルークであの姿に成ったのだ。」
「ここで、」
「そうだ。」
そう言ったあと御者は目を閉じた。まるで忘れてしまった遠い記憶を瞼の裏に蘇らせようとするかのように…そしてゆっくりと話し始めた。
「あの二人、あの時二人はここに居る子供たちと同じように普通の子供に過ぎなかった。たったひとつだけ違っていたのは、あの二人は植物が、特に木が大好きだったことだ。人間よりも遥かな太古から生き続けている木。長い歴史を持つ生物として最大の敬意を払われて然るべきなのに、現実はどうだ、人間たちは決して木を生き物としては扱わない。そこらの石ころと同じ、ただの物として扱っている。あの二人はそれが我慢できなかったのだ。木だって生きているのだから自分の体、つまり幹や枝や葉や実を人間の手から守っても、それは当然の事だ。なのに木は決して自分を主張しない。人間たちのされるままに何の抵抗もなく、叫び声もあげず、人間の好き勝手な場所に植えられ、切り倒され、売られ、道具として働かされ、古くなれば燃やされてしまう。あの二人はいつも言っていたよ。そんな手荒な扱い方をされているのに、木は決して人間を恨んではいない。自分の宿命としてそれを受け入れている。こんな優しい、立派な生き物が他にあるだろうかと。だから、二人はもちろん木に成ることを希望した。だが、このミシルークではそれは不可能だった。動物には成れても植物には成れない。無論、木の人形に成ることも叶わぬ。それがこの国、ミシルークの掟なのだ。」
御者がここまで話した時、ピノキオは落胆せざるを得なかった。やはりこの国では完全な木の人形には成れないのだ。
御者の話は続く。
「それでも二人はあきらめなかった。この国で植物に成るのが不可能でも、何か別の方法で、必ず木に成れるに違いないと信じ切っていたのだ。そこで二人はキツネと猫に姿を変えた。キツネは野を駆け回り、猫は人間の街に潜んで、人間の子供が木に成る方法を探し続けたのだ。その探求は容易ではなかった。長い年月と多くの苦労を要した。しかし二人はそれに耐え、遂に、木に成るのは無理だが木の人形には成れる可能性を見い出したのだ。
誰もが木の人形に成れる国…ウコーリを作るために、二人は再び旅に出た。そして、一人づつ仲間を増やし、あの二人はついにウコーリを作ったのだ……」
御者は目を閉じたまま深いため息をついた。ウコーリ建国を知った時の遠い昔の感動が、もう一度御者の心に蘇ったのかも知れない。
「だが…」
御者は再び話し始めた。
「だが、ウコーリはまだ完成してはいなかった。ウコーリの住人は、もともと人間だった者ばかりで構成されていたからだ。人間でない者を連れて来て、人形の王にしなければ、ウコーリは完成しない。その資格を備えた者を探して、あの二人はまた旅に出た。そして、そうだ、もうずいぶん前のことだ、私の元に届いた手紙、その中にはこう書かれていた…人形の王になりうる者を見つけた、その者の名はピノキオ…」
「ぼく…」
「そう、君だ。あの樫の木の下で初めて君を見た時、私にはすぐに分かった。君がピノキオであることが。人形の王になる資格を持った者であることが。ウコーリを完成させる者であることが…」
御者は閉じていた目を開けてピノキオを見た。その黒い瞳に見つめられた時、ピノキオの口から思いもかけない言葉が転がり出た。
「そ、それで、そのウコーリは、本当に滅んでしまったのでしょうか。」
それはこれまでずっと信じたくない事実として、ピノキオの心の底に沈殿していた疑惑だった。その言葉を言ったあと、ピノキオは御者の目を見詰めた。御者は何も言わなかった。しかし、無言のままの御者の顔が、やがて、静かに頷いた。それを見てピノキオは自分の最後の望みまでも完全に絶たれてしまったことを知った。
「そうですか…」
やはり魔女は嘘をついてはいなかったのだ。ピノキオはもう何もかもあきらめるしかなかった。御者に向かってつぶやくように言った。
「全て終わってしまったのですね。僕の夢も、キツネさんや猫さんの夢も、もう叶わないのですね。だってウコーリは魔女に滅ぼされてしまったし、キツネさんも猫さんも居ないんですから。」
そうして、ピノキオはうつむいた。ウコーリが滅ぼされた今となっては、全てが手遅れなのだ。
だが、御者は大きな手をピノキオの肩に置くと、力強い声で言った。
「なぜ、そんな風に考えるのだ、ピノキオ。確かにウコーリは滅ぼされ、キツネも猫も君のために死んだ。だが、全てが終わったわけではない。君が居る。まだ君が居るじゃないか、ピノキオ。」
「僕が?」
「そうだ、君だ。君が作るんだ、ピノキオ。キツネと猫が作ったウコーリを、今度は君が作ればいいのだよ。」
「僕が、作る…ウコーリを…」
「そうだ、君が作るんだ。自分の国を、自分の手で。そうすれば君は人形の王に成ることができる。」
自信に満ちた御者の言葉を聞いて、ピノキオは自分の中に、これまで経験したことのない新しい力が湧き上がって来るのを感じた。まだ希望はある。自分の夢が叶う可能性がある、そんな幸せな予感が次第に大きくなって、体の隅々まで広がっていくようだった。
ピノキオは御者の腕を掴むと、早口で言った。
「では、では教えて下さい。ウコーリを作るために僕は何をすればいいのですか。この国で何をして、何に成ればいいのですか。」
「それは私にも分からない。」
首を振りながら御者は言った。
「この国では特に何の目的もなく過ごした者はロバに成ることになっている。だから君も間もなくロバに成るだろう。大事なのはその後だ。あのキツネと猫がどうやってウコーリを作ったのか、君自身が探し出すのだ。」
「僕自身が…」
「そうだ。この世界にはウコーリの生き残りがまだどこかに居るはずだ。彼らの多くは魔女に見つからないように正体を隠してひっそりと生きている。さらに君のことも知らないはずだから、見つけるのは容易ではないだろう。だが、彼らは間違いなくウコーリの再建を望んでいる。彼らを見つけ出すのだ、ピノキオ。彼らに会い、彼らの話を聞けば、ウコーリの手掛かりがきっと得られるだろう。私に言えるのはそれだけだ。」
御者はそう言うと立ち上がった。ピノキオも立ち上がると、頭を下げた。
「ありがとう。あなたのおかげで、僕は何だか生まれ変わったような気がします。ここを出て、仲間を見つけ出し、必ずウコーリを再建します。」
御者はピノキオの言葉には答えず、静かに遠ざかって行った。ピノキオはその後ろ姿を感謝の眼差しで見送った。
突然、
「すごいや、ピノキオ!」
元気な声とともに、ピノキオの首に誰かが飛びついてきた。ランプシンだ。
「聞いてたよ、ピノキオ。おめでとう、君の目標がやっと決まったね。それも途方もなく大きな目標がさ。」
「ありがとう、ランプシン。でも、僕にそれができるかどうか…」
「できるよ、ピノキオ。だって君はもう仲間を一人見つけたじゃないか。」
「仲間を?」
「そうだよ、僕だよ。カモメの僕がいるじゃないか。僕が世界の海を飛び回って、ウコーリの仲間を見つけ出してあげるよ。」
「ランプシン…」
ピノキオの目から涙が溢れ出た。それはピノキオが生まれて初めて流す、喜びの涙だった。
それから数日後、ピノキオたちと一緒にこの国にやって来た子供たちは、みんなそれぞれの生き物に成った。ランプシンはもちろんカモメに、そしてピノキオは御者の言葉通りにロバに成った。
「さあ、これからは自分の道を歩みなさい。」
子供たちをここに連れて来た御者はみんなを送り出した。
「じゃあ、元気でね、ランプシン。」
「君も頑張りなよ、ピノキオ。」
ピノキオとランプシンは別れの挨拶をすると、二度と戻ることはない国、ミシルークを後にした。
第三十三章 ピノキオはサーカス団に入る。
ロバになったピノキオはサーカスで働くことにした。ウコーリの情報を得るためには、あちこちの土地で様々な人間、動物と会い、話を聞かなければならない。各地を点々とし、多くの人々を集めるサーカスは、それに打って付けだとピノキオは考えたのだ。
入団当初、ロバのピノキオは、荷物を運んだり、動物の檻を引っ張たりする仕事ばかりをやらされた。それがロバの役目なのだ。辛い仕事ばかりだったが、ピノキオは挫けなかった。胸の中で熱く燃えるウコーリ再建の夢がピノキオを支え続けてくれた。
そんな日々を送っていたピノキオだったが、ある日、サーカスの花形「しろくま君」の曲芸玉乗りを真似したことが、ピノキオの運命を変えた。その見事な芸がサーカスの団長の目にとまると、ピノキオは直ちに芸を仕込まれた。まずは輪くぐり、後ろ足で立ち上がってダンス、それからピエロを背中に乗せての綱渡り。ロバのピノキオはこれらの難しい技をスイスイと覚えていった。なにしろピノキオはもともとあやつり人形なのだから、人前で芸をするのは朝飯前なのだ。サーカスの人たちはロバのピノキオをかわいがってくれた。飲み込みの早いピノキオは、芸を仕込まれている時に、鞭で打たれたことは一度もなかった。
やがて舞台に立つようになると、ピノキオの生活は一変した。ピノキオが登場しただけで、テントの観客は熱狂した。どこの土地へ行ってもお客さんは満員だった。サーカスのポスターも
今世紀最後の大サーカス
役者 動物 オールキャスト
目玉は当サーカスの花形、
かわいいロバの大曲芸、その名は
ピ ノ キ オ
乞うご期待!
こんなピノキオ賛辞の下にはロバの玉乗りの絵まで入っていて、ピノキオは、もはやサーカス団にとって,なくてはならない人気者になっていた。
そうしてピノキオの人気があがり、各地でピノキオの芸が評判になると、これまでの花形「しろくま君」に代わって、ピノキオはあっという間にサーカス団の超一流スターにまで登り詰めてしまった。食事は桶のまぐさではなく、おいしく新鮮な野菜。寝場所の藁も毎日取り替えてもらって、雨の日でもふかふかだった。荷物を運んだりするような辛い仕事は一切ない。ピノキオにとって、本当に楽しい日々が続いた。このままの生活を続けるのも悪くない…ピノキオの心の中にはそんな気持ちさえ芽生え始めていた。
勿論、ウコーリのことを忘れたわけではなかった。労役の仕事がなくなって時間に余裕ができたピノキオは、上演の合間を縫って興行先の土地でウコーリについて尋ね回った。しかし情報は一向に集らない。ウコーリの生き残りは言うまでもなく、ウコーリを知っている者さえ見つからなかった。ピノキオは少し焦り始めていた。
その日もピノキオは覚え立ての曲芸、空中ブランコ3回宙返り2回捻り降りの着地を見事に決めて、割れんばかりの拍手喝采を受けていた。その時、
「おや、」
拍手に答えて観客に挨拶をしていたピノキオの目に、一人の女性の姿が映った。ボックス席に座っている、とても美しい女性、けれどもどこかで見た事があるような女性…
「あれは、」
ピノキオは一瞬、体が凍り付くような気がした。
「あの人は、ま、まさか…」
「どうした、ピノキオ。次の曲芸だぞ。」
舞台のピエロに促されて、ピノキオは次の曲芸、大玉乗り火の輪くぐりを始めた。けれどもピノキオの心臓はドキドキしたままだった。『見つかった、とうとう、見つかったんだ。』ピノキオはもう気が気ではなかった。ロバの格好をしているから、すぐには分からないかも知れないが、もしあの女性があの人なら、すぐに自分の正体を見破る、いや、もう見破られているかも知れない…
ピノキオは火の輪をくぐったところで、もう一度、ボックス席を見た。その女性の姿はもうなかった。『あきらめたんだろうか。』だが、あの女性があの人ならあきらめるはずがない。それに約束を破って勝手に逃げてきたのはピノキオの方だ。あの人にはピノキオを連れて行く権利があるし、ピノキオはそれに従う義務がある。ピノキオは次第に不安になってきた。自分の思い違いならいいのだけれど…
その日の夜、疲れた体を藁の上に横たえていると、話し声が聞こえてきた。
「おい、大変なことになったぞ。」
「なんだい。」
声から察すると、サーカスの団長と動物の飼育係のようだ。ピノキオは聞き耳を立てた。
「実はな、さっき、えらく綺麗な女が来てな、あのロバを売ってくれって言うんだ。」
「あのロバってピノキオのことか。」
「そうだ、ピノキオだ。もちろん俺は断ったさ。ピノキオはこのサーカスのスターだからな。そしたらなんと、その女はな、あのピノキオは本来自分のものだと言うんだ。」
「本当か!」
「ああ、ロバの登録証明書も持ってたよ。」
「そうか。確かにあのピノキオは市場なんかで買ってきたんじゃなくて、野原をうろついているところを連れてきたんだし、耳にはピノキオと書いた札もぶら下げてたから、まんざら嘘でもないだろうなあ。」
「でな、女が言うには今まで育ててくれた御恩もあるので、金貨1万枚で引き取らせてくれって言うんだ。」
「1万枚! そりゃすごい。」
「そうだろ。俺もピノキオを手放したくないが、元の飼い主が現れた訳だし、その上、金貨1万枚ときたら、」
「返すしかないか。」
「返すしかないな。」
ピノキオは震えた。『魔女だ。』もう間違いない。やはりあの女性は魔女だったのだ。考えてみれば今まで魔女が何もしなかったのが不思議なくらいだ。
「これ以上、ここには居られない。」
ピノキオは決心した。今、魔女に連れ戻される訳にはいかないのだ。仲間を集めてウコーリを作り、自分の夢を叶えるまでは、なんとしても魔女から逃れ続けなくてはならないのだ。
その夜、みんなが寝静まったころ、ピノキオはこっそりとロバ小屋を抜け出した。
「サーカスのみなさん、今までありがとう。」
ピノキオは振り返ると、目の前の大きなサーカスのテントに深々と頭を下げた。そして向きを変えると暗闇の中へ駆け出した。
第三十四章 ランプシンに導かれてピノキオは海に飛び込み、元の人形の姿に戻る。
ピノキオはいつの間にか海岸まで来ていた。もう夜は明けて空が白み始めている。
「これから、どうしよう。」
サーカスを逃げ出して来たピノキオだったが、何の当てもなかった。これからは自分一人の力で食べ物を得、眠る場所を見付け、ウコーリについて探って行かなくてはならないのだ。幸い、今のピノキオにはサーカスで覚えた芸がある。これを見せて人を集め、金と情報を手に入れればいい。
けれどもそれが容易ではないこともピノキオには分かっていた。いかに優れた芸を持っていても、ロバ一人で人間社会を生きて行くには、相当な困難を伴うに違いない。芸をしても金を取り立てる人間が居なければ、見物人は人参の一本も与えてはくれないだろう。ロバに金を要求する権利はないのだ。
無論、ロバなのだから、人気のない場所で草だけを食べて生きていくことも可能なのだが、それではウコーリの情報は集まらない。
「また、どこかで働こうかな、荷車でも引っ張って。」
ピノキオはそうつぶやくと、目の前に広がる朝焼けの海を見ながらため息をついた。
「おーい!」
その時、頭の上で誰かが叫んだ。上を見ると、鳥が飛んでいる。
「君、君はピノキオじゃないかあー。」
聞き覚えのある声だ。ピノキオにはすぐに分かった。
「ランプシン!」
その鳥はランプシンだった。ランプシンのカモメはすぐに降りてきて、ピノキオの背中に乗った。
「ちょうどいいや、ピノキオ。僕、君に会いに行こうと思ってたんだ。」
ランプシンの声は嬉しそうだ。ピノキオは尋ねた。
「僕に会いに、どうして?」
「決まってるよ。見つけたんだ。ウコーリの住人を見つけたんだよ。」
「ほんとう!」
ピノキオは驚いた。信じられない言葉だった。ピノキオの驚きを見て、ランプシンは少し得意げな顔をした。
「本当だよ。僕、ミシルークを出てから、ずーっと探し続けてたんだよ。いろんな場所へ行ったし、いろんな人、いろんな動物と出会った。けれども誰も彼も知らなかった。中にはウコーリを知っている人も居たけど、その住人については誰も知らないんだ。でも僕はあきらめなかった。頑張って探し回った。そして、そして遂に見つけた! 見つけたんだ、間違いないよ。だって、その人はキツネさんや猫さんの事を知っていたし、それから、君、ピノキオの事も知ってたんだ。ピノキオは人形の王になる者だって、ウコーリを再建できる唯一の者だって。だから僕がピノキオの友達だって知ると、その人はすごく喜んでくれて、残りの仲間を集めると約束してくれたんだ。ね、凄いでしょ、ピノキオ。君の夢はすぐに叶うよ。ううん、もう叶ったも同然だよ。やったね、ピノキオ!」
「ランプシン…」
ピノキオは言葉もなかった。自分がサーカスで贅沢な暮しをしている間、ランプシンは必死に探していてくれたのだ、ピノキオのために。
「ランプシン、ありがとう、本当に…君のその努力に僕はどうやって報いればいいのか…」
ピノキオは今更ながらにランプシンの思いやりの深さを感じずにはいられなかった。彼だからこそ、これほどの優しさを持っているからこそ、ウコーリの生き残りを見つけられたのかも知れない、そんな気さえしてくるのだった。
「なに、言ってるんだよ、ピノキオ…やだなあ。」
ランプシンはピノキオの背中の上で、まるでピノキオの言葉をかき消そうとでもしているかの様にバタバタ羽摶いた。
「そんなことはどうでもいいよ。それより、早く彼の所に行こう。この海の向こう、ちょっと遠いけど、休みながら行けば大丈夫。ピノキオは泳げるんでしょう。」
「もちろんだよ。よし行こう、ランプシン。」
言うが早いかピノキオは飛び込んだ。同時にランプシンは空に舞い上がった。
「ピノキオ、空から僕が誘導するから、その後を泳いで来て。」
ピノキオは泳ぎ出した。日が昇り始めた澄み渡った青空を、カモメのランプシンが気持ちよさそうに飛んでいる。ピノキオはそれを見ながらゆっくりと泳いだ。
やがてピノキオとランプシンはずいぶん沖に出てきた。振り返るともう海岸線も見えなくなっている。
「ねえ、ランプシン!」
泳ぎながらピノキオは声を掛けた。
「なんだい、ピノキオ。」
「その、君が見つけたウコーリの生き残りってどんな人なの。」
「ああ、そうか、まだ詳しく話してなかったね。実はね、人じゃないんだ。」
「人じゃない? じゃあキツネさんや猫さんみたいな動物なの?」
「違う、動物でもないよ。彼はね、木なんだ。」
「木!」
ピノキオは驚いて泳ぐのをやめた。
「そう、ウコーリで意志の疎通が可能になった唯一の木。人間の子供が木の人形に成れるように、木もまた木の人形に成れるんだ。君みたいにね。ただ、その木は人形としては不完全だった。動くことができなかったんだ。意志を通わせることしかできなかった。」
「そんな木があったんだ。」
「ウコーリが滅ぶ時、彼らの仲間の一人がその木の根から生え出していた若木を持って脱出し、僕たちが目指している島に植えたんだ。それ以来、彼はそこでずっと待ち続けていたんだよ。君のことを話したら本当に喜んでね、すぐに友達の海猫に頼んで、仲間たちに知らせ始めた。今ごろ、連絡を受けたウコーリの仲間たちが、あの島に次々に向かっているはずだよ。今の僕たちみたいにね。」
「じゃあ、本当に…」
「そうだよ。ね、言っただろう。夢は叶ったも同然だって。さあ、いつまでも浮かんでいないで早く行こう。」
「うん、分かった、ランプシン、行こう。」
ピノキオの中に新たな力が湧きあがってきた。ウコーリ再建、それはもう目前だ。死んでいったキツネや猫の夢、そしてもちろん自分の夢、ランプシンの尽力、火に焼かれたアルレキーノ、自分を待っているプチネルラ…様々な想いがピノキオの頭の中を去来した。この旅ももうすぐ終わる。そしてみんなが幸せになれる。青空を飛んでいるカモメのランプシン。あんな風に自由に、いつも笑いながら過ごせる日が…
「わあ!」
突然、強い力がピノキオを引っ張った。海中から何かが、無数の何かがピノキオの足を引っ張っている。ピノキオは空に向かって叫んだ。
「ランプシーン!」
ピノキオの声を聞いてランプシンは下を見た。ロバのピノキオが苦しそうにもがいている。
「どうしたの、ピノキオ、ピノキオー!」
ランプシンは急降下を始めたが、海面にたどり着く間もなくピノキオは沈んでしまった。同時にピノキオの体の周りに無数の魚が群がってきた。魚たちは頭にも足にもシッポにも食いついている。ピノキオはもがいたが、ロバの体では何もできない。ピノキオはあきらめて目を閉じ、魚に食べられるままにした。
『逃がしはしないわよ、ピノキオ。』
聞き覚えのある声が聞こえてきた。魔女の声だった。『なぜ魔女の声が…』ピノキオは考えた。『この魚も魔女の仕業? すると魔女は自分を殺すつもりなのだろうか、でも、なぜ…』やがてピノキオの頭は次第にぼんやりとしてきて、もう何も考えられなくなってしまった。
「ピノキオ!」
頭の上でランプシンの声がした。いつの間にかピノキオは海の上に浮いていた。ピノキオの体に群がっていた魚ももういなかった。ピノキオの頭の上で旋回しているランプシンが大声で叫んだ。
「ピノキオ、その姿は、」
「え、」
ピノキオは自分の手を見た。ロバの手ではない、元の人形の手になっていた。足も体も元通りの人形の体だった。
「どうして、こんなことに…」
『ピノキオ、絶対に逃がさないわよ。』
また聞こえてきた。ランプシンにも聞こえたようだ。
「ピノキオ、この声は、」
「魔女だよ、ウコーリを滅ぼした魔女の声だ。」
「魔女の!」
ピノキオとランプシンは周りを見回したが、誰もいない。しかし声は確かに聞こえた。
「もし、魔女だとしたら、」
ランプシンが心配そうに尋ねた。
「元の体に戻ったのも魔女の仕業ってことなの?」
「分からない…でも、」
ピノキオにもはっきりとは分からなかった。しかし魔女が連れ戻そうとしているのだけは確かだ。ぐずぐずしてはいられない。
「ランプシン、急ごう。魔女が姿を現す前に島にたどり着くんだ。」
「う、うん。」
ピノキオは泳ぎ始めた。しかしその耳に前よりも一層はっきりと魔女の声が聞こえてきた。
『ピノキオ! さっさと戻るのよ。』
ピノキオは泳ぐのをやめなかった。泳ぎながら叫んだ。
「嫌です。僕は戻りません。」
『何を言ってるの。あんたに食べ物も寝る場所も提供し、おまけに学校まで通わせてやったあたしの恩を、あんたは踏みにじるつもりなの。』
「その事は感謝しています。どれだけお礼を言っても言い足りないくらい有難く思っています。でも僕は見つけたんです。自分の目標を見つけたんです。だから、このまま行かせて下さい。」
『駄目よ。行かせないわ。あんたの目標は間違ってるわ。そんな目標、あんたを不幸にするだけよ。』
「たとえそうなってもいいんです。世界で一番不幸になってもいいんです。それでも僕はウコーリを作って、完全な人形に成りたいんです。」
『どうしても行くのね。』
「行きます。」
『そう、それなら…』
突然、ピノキオの前方の沖合いで、海面が山のように盛り上がった。ピノキオは驚いて泳ぐのをやめた。
「あ、あれは、」
ドドーン!
猛烈な波頭を海面に打ちつけながら、その盛り上がりの中から姿を現したもの…それは頭だった。巨大な怪物の頭。
「サメだ!」
ランプシンが叫んだ。ピノキオは直感した。サメだ、あのサメだ。この海に住んで、殺りくと暴力の限りを尽くしているあのサメが現れたのだ。
「ピノキオ、逃げて!」
ランプシンに言われるまでもなく、ピノキオは向きを変えると全力で泳ぎ出した。人形になったピノキオのスピードはロバの時に比べると格段に速い。
「頑張って、ピノキオ!」
空高く舞い上がったランプシンが叫ぶ。ピノキオは腕も足も砕け折れよと言わんばかりに水を掻き水を蹴った。しかし巨大サメのスピードは想像を絶するものだった。
「ああ、駄目だ、駄目だあ、、、」
ランプシンの絶望的な声が遠くで聞こえた。それでもピノキオは必死に泳ぎ続けた。不意にピノキオは自分の背後に大きな何かがおおいかぶさって来るのを感じた。次の瞬間、まるで闇の中に吸い込まれたかのように目の前が真っ暗になると、ピノキオの記憶はそれっきり途絶えてしまった。
第三十五章 ピノキオがサメの腹の中で何を決断したか…… という問いの答えがこの章で明らかになる。
気が付くとピノキオは闇の中にいた。今まで経験した事のないほど暗く静かな闇が自分の周りを取り巻いている。その闇の中で、時々、生暖かい突風がピノキオの顔をかすめていく。ピノキオは立ち上がった。
「おーい、ランプシン、ランプシーン!」
返事はない。ピノキオは安心した。少なくともランプシンはサメには飲み込まれなかったようだ。ピノキオは遠くの闇を見つめた。何かが見える。
「光だ。」
小さな光が微かに瞬いている。火の光の様だ。
「こんな所に誰か居るんだろうか、それとも火が燃えているだけなのか…」
しかし誰か居ても居なくても、ここに立っているよりはましだ。ピノキオは光に向かって歩き始めた。小さな光は近付くに従ってどんどん大きくなってくる。やがてその光の正体が分かった時、ピノキオは声をあげた。
「おじいさん!」
ゼペットじいさんだった。ゼペットじいさんは椅子に腰掛けて、テーブルの上のろうそくの光をじっと見つめていたが、ピノキオに気が付くと、
「お、お、」
と、声にならない声をあげて椅子から立ち上がった。
「おじいさーん。」
ピノキオはゼペットじいさんの首にしがみついた。ゼペットじいさんは抱きつかれた勢いで少し倒れそうになりながら、ピノキオの頭を撫でた。
「これは、これは、夢か、こんな所で、ピノキオ、おまえに、おまえに会えるなんて…」
「おじいさん、やっぱりサメに食べられていたんですね。」
ピノキオとゼペットじいさんはしばらく抱き合っていた。それからゼペットじいさんが話し始めた。
「ああ、ピノキオ、その通りだ。あの嵐の日、ボートから落ちたわしはこのサメに飲み込まれたのじゃ。その時わしは、正直、もうおしまいだと思った。ところがサメの腹の中を歩いているうちに、壊れた難破船を見つけたのじゃ。中には誰もいなかったが、水と食料はたっぷり残っておった。そこでわしは船の中から椅子とテーブルをここに運びだし、残った保存食を食べて、今まで細々と生きてきたのじゃ。」
「そうだったんですか。」
ピノキオはゼペットじいさんの手を握った。以前と同じ太い腕だ。それに幾分太ったようにも見える。恐らく難破船の食料はたっぷり残っていたのだろう。ゼペットじいさんが言った。
「さあ、ピノキオ助けてくれ。おまえはそのために来たんじゃろう。」
「え、ええ。」
ピノキオはそう言ったが、どうやってここから逃げ出せばいいのか見当もつかなかった。ゼペットじいさんが言う。
「わしはここでじっと待っておったんじゃ。なにしろ、わしは泳げんのじゃから、自分から逃げ出そうとしてもうまくいくはずがないからのう。そしてそれは正しかった。ピノキオ、おまえが来てくれたのじゃからな。さあ、逃げ道まで案内してくれ。そしてわしを背負って海を泳ぎ、陸まで連れて行ってくれ。」
ゼペットじいさんはピノキオの手を強く引いた。ピノキオは困った顔をして言った。
「それが、おじいさん、僕がここに来たのはおじいさんを助けるためじゃないんです。」
「な、なんじゃと!」
ゼペットじいさんの驚いた顔を見ながら、ピノキオは申し訳なさそうに言った。
「海を泳いでいて、偶然、飲み込まれたんです。」
「じゃあ、どうやってここから出るのじゃ。」
「それは僕にも分からないのです。」
「ああ、なんてことじゃ。」
ゼペットじいさんは頭を抱えると、その場にしゃがみ込んでしまった。ピノキオはもう何も言えずに、うずくまるゼペットじいさんを見詰めるしかなかった。その時だ。
「おーい、ピノキオ。」
闇の中から何かが飛んできた。カモメだ。ピノキオは叫んだ。
「ランプシン!」
カモメのランプシンはピノキオの頭の上で輪を描くと、テーブルの上に降り立った。ピノキオが驚いた声で尋ねた。
「ランプシン、君まで飲み込まれたのかい。」
「違うよ、ピノキオ。君を助けに来たのさ。」
ランプシンはテーブルの上で身震いした。羽毛に付いた水滴が卓の上に飛び散る。そして身繕いする間も惜しむように、ピノキオを見上げると興奮した声で言った。
「ピノキオ、チャンスだよ。この大ザメは、今、眠ってるんだ。それも水面に近い所でね。僕は羽根が濡れるのを覚悟で海に飛び込んで、サメの口から入ってここに飛んできたんだ。逃げるなら今だよ、今しかないよ。早くしないとサメが目を覚まして、逃げられなくなる。」
「…ランプシン、、、」
ピノキオには言葉がなかった。自分にためにここまで尽くしてくれるランプシンに、どうお礼を言えばいいのか分からなかった。
「ありがとう、ランプシン。」
「お礼はここを出てからでいいよ、ピノキオ。ところで、」
ランプシンはのっそりと立ち上がったゼペットじいさんに目をやった。
「そのおじいさんは誰?」
「ああ、これはゼペットおじいさんだよ。僕を作ってくれたおじいさんで、僕を助けるためにこのサメに飲み込まれたんだ。」
ピノキオが説明すると、ゼペットじいさんはニコニコしながら、ランプシンのそばに寄ってきた。
「おお、ピノキオの友達かね。ごくろうさん、ごくろうさん。聞いておったよ。わしらを助けに来てくれたのじゃな。さあ、そしたら逃げ出すとするかね。」
ランプシンはゼペットじいさんをじっと見ていたが、やがて悲しそうな顔で言った。
「ああ、おじいさん、あなたは逃げられません。」
ランプシンの言葉にゼペットじいさんは驚いた。
「な、なぜじゃ、なぜわしが逃げられぬ。」
「サメは口を閉じて眠っているんです。僕やピノキオなら、歯と歯の隙間からなんとか抜け出す事ができますが、あなたくらい太っていると、」
「抜け出せんのかね?」
「はい、たぶん。」
「おお、何てことだ。」
ゼペットじいさんは再び頭を抱えてしまった。ピノキオが言った。「ランプシン、他に逃げ道はないの?」
「あるかも知れないけど、それを探している余裕はないよ。サメが目を覚ましてしまうかも知れないもの。一度目を覚ませば、今度はいつ眠るか分からないし。」
「そうか。」
ピノキオは黙った。そしてゼペットじいさんをじっと見詰めた。ピノキオの視線に気が付いて、ゼペットじいさんはピノキオを見た。ピノキオは悲しい顔をしている。ゼペットじいさんは声を震わせた。
「ピノキオ、まさか、まさか、わしを見捨てて行くつもりじゃないだろうな。このわしを…」
「おじいさん…」
そう言ったまま、ピノキオはもう何も言えなくなった。黙ったままのピノキオを見て、ゼペットじいさんが叫んだ。
「ひどいじゃないか、ピノキオ。わしがサメに飲み込まれたのは、おまえを助けようとしてなんだぞ。わしがこんな目に遭っているのは、おまえのせいなんだぞ。」
「おじいさん…」
「それなのに、おまえは、わしを見捨てて行くのか。自分だけが助かればいいのか。わしはどうなってもいいのか。」
ゼペットじいさんは大変な剣幕だ。見兼ねたランプシンが言った。
「おじいさん、僕とピノキオがサメの外に出たら、必ず救助隊を派遣しておじいさんを助け出します。それまで待っていてくれないでしょうか。」
「馬鹿な、こんな恐ろしいサメに向かって誰がやって来ると言うのじゃ。金貨10万枚出しても、助けに来る人間なぞ見つからんだろう。」
確かにその通りだった。ランプシンはため息をつくと、ピノキオに言った。
「ピノキオ、やむを得ないよ。おじいさんの事はあきらめよう。このままでは僕たち3人ともここに閉じ込められたままだ。」
「で、でも、」
「ピノキオ、ウコーリを作るんだろ、人形の王に成るんだろ。しっかりしなくちゃ駄目だよ。」
ランプシンの強い口調に、ピノキオは自分の目的を思い出した。ウコーリ、人形の王。忘れていた自分の夢を思い出した時、一瞬、ピノキオの頭からゼペットじいさんの哀れな姿は消えた。
「分かったよ、ランプシン。」
「ああー、ピノキオ、なんてことだ、なんてことだ、うおー。」
ゼペットじいさんは顔を伏せて泣き出してしまった。ピノキオの胸が再び痛み始めた。本当にこれでいいのだろうか。ゼペットじいさんを見捨ててまで、達成しなくてはならない事なのだろうか。ピノキオはまた迷い始めた。
「さあ、行こうピノキオ。」
テーブルの上のランプシンが羽摶こうとした時だ。
「ホホホ。」
誰かの笑い声がした。聞き覚えのある声。ピノキオは身を固くした。ランプシンも羽を畳むと、声の聞こえてきた闇を見詰めた。
「助けてあげましょうか。」
艶のある声と共に、黒い闇の中から一人の女が姿を現した。ピノキオもランプシンもその女を睨み付けた。だが、何も知らないゼペットじいさんは驚いた顔で尋ねた。
「誰じゃ、あんたは。」
「あたしはピノキオの保護者です。あなたに代わってこれまでピノキオの面倒を見てきました。そしてピノキオを助けるためにここに来ました。もちろんあなたも助けてあげますよ、ゼペットじいさん。」
「ほ、本当かね!」
ゼペットじいさんは立ち上がると、その女の方へ行こうとした。ピノキオが慌ててゼペットじいさんの腕を掴んだ。
「おじいさん、行っちゃ駄目だ。その人は魔女だ。」
「ま、魔女!」
「まあ、人聞きの悪い。」
魔女はゆっくりとこちらに近づいてくる。
「いいこと、あたしはあなた方全員を助けてあげるって言ってるのよ。それをまるで悪人みたいに言って。」
魔女はにっこりと笑っている。ピノキオは言った。
「悪人じゃないですか。キツネさんや猫さんを死なせ、ウコーリを滅ぼしたんですから。あなたは悪人です。」
「まあ、なんて言い草なの。いい、ピノキオ、悪人はむしろあなたの方なのよ。」
「僕の?」
魔女の意外な言葉にピノキオは一瞬たじろいだ。
「そうよ。勝手にあたしの所から逃げ出して、今また、あなたを作ったおじいさんを見捨てて行こうとしているあなたは悪人じゃないの?」
「それは、それは、仕方ないから…」
「仕方ないのなら、あなたも残ればいいじゃない。自分だけ助かろうなんて卑怯よ。」
魔女の言葉にピノキオは返す言葉がなかった。ゼペットじいさんがそれに付け加えた。
「この御方の言う通りじゃ、ピノキオ。おまえの心はいつからそんなに冷たくなってしまったのじゃ。」
ゼペットじいさんは完全に魔女の味方になっていた。自分の腕を掴んでいたピノキオの手を振り切ると、魔女の側へと歩み寄った。
「さあ、素直にこの方に助けてもらおう。あんた、本当にここから逃げ出せるのじゃな。」
「ホホホ、簡単な事ですわ。ただ、ひとつ、ピノキオに契約してもらえれば、ですけれど。」
「契約? どんな契約じゃ。」
「あたしの力でピノキオを人間にして、そのあと、あたしを妻にするという契約です。」
「な、なんと!」
ゼペットじいさんは驚いた。ピノキオも驚いて何か言おうとしたが、ゼペットじいさんの方が早かった。
「聞いたか、ピノキオ。人間じゃぞ。人間になれるのじゃぞ。願ってもない事じゃないか。おまけにこんな美人を妻に持てる、これは夢じゃないか。」
「おじいさん、僕は、」
ピノキオはゼペットじいさんに自分の考えを説明しようとした。しかしゼペットじいさんは聞いていない。
「そんな契約なら願ってもないことじゃ。さあ、早く契約を済まして、ここから逃げ出そう、ピノキオ。」
「ホホホ、ピノキオ、どうするの?」
ピノキオの返事はもちろんノーだ。けれどもそれではおじいさんを見捨てて行くことになる。ピノキオはどうすればいいのか分からなかった。
「ピノキオ! 何を迷ってるんだ。」
ランプシンが叫んだ。
「そんな契約なんかしちゃ駄目だ。君は自分の夢を捨てるつもりかい。こんなおじいさん一人のために、自分の人生を捨てるのかい。」
「やれやれ、本当にいい友達を持ったものね、ピノキオ。」
魔女はテーブルの上で自分を睨み付けているランプシンを横目で見ながら優しい声で言った。
「ねえ、ピノキオ、思い出してごらんなさい。あなたのためにどれだけの命が犠牲になった? その命のためにあなたはどれだけの事をしてあげた? あなたはいつだって助けてもらう方だった。いつでも他人に何かをしてもらってきた。でもね、それはいつかは返さなくちゃいけないのよ。自分も他人のために何かをしてあげなくちゃならない時が必ず来るの。それが今よ。今なのよ。さあ、おじいさんを助けてあげなさい。あなたの責任を果たしなさい。」
「そうじゃよ、ピノキオ。わしを助けておくれ、今までここで惨めな生活を続け、おまえが来るのを待っていたこのわしを哀れだと思うのなら、助けておくれ、ピノキオよ。」
ゼペットじいさんは両手をついてピノキオに頭を下げた。その時、ランプシンが再び声をあげた。
「駄目だ、駄目だ、ピノキオ。そんな言葉にだまされちゃ駄目だ。ウコーリの生き残りはすぐそこに居るんだ。彼に会えばウコーリは必ず再建できる。君の夢が叶うんだ。もう、すぐそこなんだ。あと少しで君の夢は実現するんだよ。ピノキオ!」
テーブルの上でランプシンが必死に叫ぶ。ピノキオは頭を抱えた。
「ああ、僕はどうすればいいんだろう。」
ピノキオは迷いの言葉を発しながら天を仰いだ。そんなピノキオの側へ魔女はゆっくりと近付いてきた。
「ねえ、ピノキオ。もう遅いの。手遅れなのよ。あなたの心はもう人間なの。だってもし人形の心が残っていたら、おじいさんを見捨てるはずがないでしょう。考えてみて。おじいさんを助けずに見殺しにしてここから逃げ出してウコーリを作ったとしても、そんな者が人形の王に成れると思う? そんな自分勝手な心しか持たない者が。」
ピノキオは首を振った。魔女はにっこりと笑った。
「そうでしょう、おじいさんを見捨てる者は人形の王には成れない。おじいさんを助けようとすれば、人間に成らなくちゃいけない。ね、分かったでしょ。どちらを選択してもあなたの夢は叶わないの。永遠に夢のままなの。だったら、人間に成って楽しく暮しましょうよ、あたしと一緒に。」
「そうじゃよ、ピノキオ。人間に成ってたくさん金を稼いで、わしを楽にしておくれ。その方が人形の王なんぞに成るより余程いい。頼む、ピノキオ、わしを見捨てないでおくれ。」
「ピノキオ、聞いちゃいけない! そんな言葉に惑わされちゃいけない、ピノキオ!」
魔女の言葉、ゼペットじいさんの嘆き、ランプシンの叫び。ピノキオはまだ迷っていた。その時、魔女が愉快そうな声をあげた。
「ふふふ、ピノキオ、あんたって相変わらず優柔不断なのね。もう答えは出ているのに…いいわ、私があなたに決断させてあげる。」
魔女はそう言うと、素早くテーブルに近付いた。危険を察知したランプシンが飛び立とうとしたが、魔女の右手の方が早かった。
「あ、」
と、ピノキオが声を上げた時には、ランプシンの首は魔女の右手にしっかりと握られていた。
「このカモメがどうなってもいいの? ピノキオ。」
魔女はそう言いながらランプシンの首を掴んでいる右手を高々と上げた。ピノキオの心臓は止まりそうになった。まさか、ランプシンを…ピノキオは大声で叫んだ。
「ランプシンは関係ないでしょう、手を離してください。」
「離すわよ、あんたが契約してくれればね。」
「離して!」
ピノキオは叫びながら魔女に掴みかかろうとした。が、その鼻先にランプシンが突き付けられた。
「あら、暴力はいけないわ、ピノキオ。それ以上、一歩でも動いてごらんなさい。即座にこのカモメの首をへし折るわよ。」
「くっ、」
ピノキオは唇を噛み締めて魔女を睨み付けた。ランプシンの為に何もしてやれない自分が悔しかった。ランプシンはあれほど自分に尽くしてくれたのに…
「ピ、ピノキオ」
魔女の手の中から声が聞こえてきた。苦しそうなランプシンの声だった。
「いいよ、僕のことは、いいんだ。」
「ランプシン…」
「ホッホッホ、馬鹿なカモメだこと。」
魔女の高笑いを聞きながら、ピノキオは泣き出しそうな顔でランプシンを見詰めた。苦しそうな表情と荒い息遣い。ランプシンをこんな目に遭わせたのも、全て自分の所為なのだ。ピノキオの胸は張り裂けんばかりに痛んだ。
「ランプシン、君を見捨てるなんてこと…」
「いいんだよ、だって僕はもう自分の夢を叶えたんだもの。こうしてカモメになって、世界中の海を飛ぶことができたんだもの。でも、ピノキオ、君の夢はまだ何ひとつ叶っていない。夢を捨てちゃいけないよ。」
ランプシンの顔が青ざめてきた。ランプシンの首を締めている魔女の右手が少しずつその力を増しているのだ。
「ふふ、どうするのピノキオ。早く決めないと死んじゃうわよ。」
「ランプシン…」
「ピノキオ、行きなよ。ここからなら、君ひとりでも大丈夫。僕のことは、いいよ。早く、早く…」
ランプシンの言葉はその優しさと共にピノキオの胸に深く染み込んだ。そして、その言葉に込められた眩しい程美しいランプシンの心と、その為に犠牲になるものの耐えられない程の重さが、遂にピノキオに最後の決断を下させた。アルレキーノ、プチネルラ、猫、キツネ、それからランプシン。思えば自分一人のために、本当にたくさんの者が犠牲になってきた。これ以上の犠牲を増やすだけの価値が自分にあるとは、ピノキオには思えなくなっていた。自分の身勝手な夢のために……ふっと、まるで張り詰めていた糸が切れたようにピノキオの体から力が抜けた。それを見て魔女が静かに尋ねた。
「契約するのね、ピノキオ。」
「はい、します。」
ピノキオは頷いた。同時に魔女の右手が開いた。ランプシンは力なくテーブルの上に落ちた。
「ランプシン!」
ピノキオはテーブルに駆け寄った。が、ランプシンの体に触れる前に、低くすすり泣く声がピノキオの耳に聞こえてきた。
「ああ、ピノキオ、ピノキオ…」
ランプシンは体を震わせて泣いていた。それを聞いてピノキオは、もうランプシンには触れず、テーブルの上の哀れなカモメに頭を下げた。
「すまない、ランプシン。でも魔女の言う通りだよ。君やおじいさんを見捨ててまでウコーリを作る価値はないよ。ましてや、そんな冷たい心を持った者が人形の王に成れるはずがないんだ。ランプシン、これまで本当にありがとう。どれだけお礼を言っても言い尽くせないくらい、君には感謝している。だからこそ、君には生きて欲しいんだ。僕の夢なんかより君の命の方がよっぽど大切なんだもの。」
ランプシンはもう何も言わなかった。テーブルの上で声もなく体を震わせるだけだった。ピノキオは魔女に向き直ると言った。
「僕は決心しました。あなたと契約します。ですからおじいさんとランプシンを助けて下さい。」
魔女が冷たい微笑を湛えて、ピノキオに近付いた。
「よく言ったわ、ピノキオ。では、契約の証として、あたしに口づけしなさい。」
「はい、分かりました。」
ピノキオは魔女の顔に自分の顔を近付けた。そうしてピノキオは人間に成った。
第三十六章 十数年後のピノキオ。
公園の人形芝居小屋の前に一台の車が停まった。黒光りのするドアを開けて、帽子から靴まで黒ずくめの運転手が出てくると、恭しく後部座席のドアを開けた。中から出てきたのは妖艶な美女、それから口髭を蓄えた立派な紳士。
「これはこれはピノッチオ様。お待ちしておりました。」
紳士を出迎えた人形芝居小屋の座長は、両手を擦り合わせて紳士に近付いた。
「我々芝居小屋の一同は、新しいオーナーとなられたピノッチオ様を心より歓迎致します。おっと、言い遅れました。私、この芝居小屋の座長を務めております、火喰親方と申すもので御座います。」
「ああ、ごくろう。」
ピノッチオは大きく頷くと、横に立っている女に言った。
「では、行ってくる。君はしばらく待っていてくれ。」
「ゆっくりしてくるといいわ。夢にまで見た場所なんでしょ。ホホホ。」
女の言葉には答えず、ピノッチオは小屋に向かって歩き出した。火喰親方が慌てて付いて行く。
「それにしても驚きましたよ。若き実業家で大金持ちのピノッチオ様が、この芝居小屋を買い取られるなんて。また何か新しい金儲けでもお考えなのでしょうか。」
ピノッチオは何も言わない。火喰親方はまずい事を言ったと思って、話題を変えた。
「そ、そう言えば、今度の市長選に出馬されるそうですね。なあに、あなたなら当選間違いなしですよ。我が芝居小屋の団員は全員あなたのお味方ですからね。」
「ああ、ありがとう。」
ピノッチオは冷たい目で火喰親方を見詰めた。
やがて二人は芝居小屋の中に入った。ピノッチオは小屋の中を見回した。少し古ぼけたものの、舞台も観客席も昔と変わらない。ピノッチオは思わず言葉を漏らした。
「懐かしいな。」
「へ、以前にお出でになったことがあるんで?」
「まあな。」
火喰親方は不思議そうな顔をしている。しばらくしてピノッチオが言った。
「人形を見せてくれないか。」
「ようござんすよ。こちらです。」
火喰親方は歩き出した。人形は倉庫に仕舞われているのだ。
「ここの人形は昔は生意気だったんでさあ。」
火喰親方が歩きながら言った。
「人形のくせに自分で勝手に動いたり話をしたりして、本当に手を焼かせたもんですよ。」
「ほほう。」
「ところが、ある日、突然、大人しくなりましてね。それ以来もう勝手に喋ったり動いたりする事はなくなりましたよ。」
「それはいつ頃の事かね。」
「さあて、あれは…もう随分と前、ああ、そうそう、あの巨大サメが浜に打ち上げられた事件、ご存知でしょ。あの年ですよ。」
ピノッチオはビクリとした。何か思い出したくない記憶でも呼び覚まされたかのように、表情が固くなった。しかし火喰親方はそんなことには気付かず話し続ける。
「大変な騒ぎでしたよ。なにしろ誰もがその名前を知っているが、その全貌を見た者は一人もいない、曰く付きのサメでしたでしょ。あの凶暴な面構えは、一度見たらそう簡単に忘れられるもんじゃござんせん。確か浜にあがってからも、一ヶ月は生きていましたっけ。」
「そうだったな。」
ピノッチオは低い声で言った。火喰親方は明るく言った。
「で、その日以来、人形どもはすっかり大人しくなっちまいました。もう前みたいに勝手に動き出したりする事はありません。安心しておくんなさい。」
ピノッチオは黙って歩き続けた。ほどなく二人は人形が仕舞ってある倉庫の前にやって来た。ピノッチオは立ち止まると火喰親方に言った。
「すまないが、君は外に居てくれないか。私一人で中に入りたいのだ。」
「そりゃ、よござんすよ。」
「ああ、それから、」
ピノッチオがゆっくりと付け加えた。
「この芝居小屋では、今日限り、人形芝居を行わない。」
「へ?」
思いがけない言葉に火喰親方はキョトンとした。
「それは、つまり、どういうことで?」
「君は今日限りクビだということだよ。火喰君。」
「ク、クビ!」
「そう、でも大丈夫。君たちの次の働き先は探してある。詳しくは車に待たせている私の妻に聞きなさい。」
火喰親方は慌てて向きを変えると、出口に向かって走って行った。火喰親方の姿が見えなくなると、ピノッチオは一人で倉庫の中に入った。中は薄暗く、カビ臭い。たくさんのあやつり人形や小道具が乱雑に置かれている。ピノッチオはその中をゆっくり歩いて行った。突然、ピノッチオの足が止まった。
「ああ、見つけた。」
そう言ってピノッチオは一つの人形を拾い上げた。ボロボロの服を着て汚れ放題に汚れている。もう長い間使われずに放って置かれたものだろう。ピノッチオは人形の顔のホコリを払った。忘れもしない顔だった。
「やっと会えた。やっと会えたよ。プチネルラ。」
ピノッチオは壊れかけたプチネルラを胸に抱き締めた。
「約束通り僕は帰ってきた。君や君の仲間を自由にするために。けれども、君たちは、もう、喋ることも動くこともできないんだね。」
ピノッチオはプチネルラを抱いたまま、床の上に座った。そうして両手でプチネルラを包み込むとと、自分の顔の前に持ってきて、ボロボロのプチネルラの顔を懐かしそうに見つめた。
「君は全然変わらないね。あの時のままだ。けれども僕は変わってしまった。すっかり変わってしまった……君は軽蔑するだろうね。人間に成ってしまった今の僕を。魔女に魂を売り渡してしまった今の僕を。そうだよ、僕はもう昔の僕じゃない。ああ、思えばあの頃の方がよっぽど幸せだったようだよ。今の僕は金も地位も名誉もある。けれどもそれが何だろう。僕は苦しくてたまらないよ。だってそうだろ。僕が金を手に入れれば誰かが金を手放してるんだ。僕が高い地位に登れば、誰かが低い地位に落ちているんだ。そしてそんな不幸な人達を狙って、あの魔女が近付くんだ。言葉巧みに彼らをだまし、失われた金や名誉と引き換えに魔女は彼らの魂を奪っていく……ようやく分かったんだ、魔女の本当の目的が。僕を立派にすることで不幸な人を作り出し、その人達の魂を奪うんだ。僕は人を不幸にするために、自分を幸せにしているんだ。」
倉庫の中はシンとして、ピノッチオの話し声以外は何も聞こえない。
「けれども、これも僕の運命なんだろう。見ておくれ、プチネルラ。人間になった今の僕の目からは、もう涙は一滴も流れないんだ。嬉しくても、悲しくても、僕の表情は全く変わらない。人形の君たちよりも無表情な人間の僕を、君はどう思う。確かに僕は人間になった。けれども、僕の運命はあやつり人形のままなんだ。笑うのも怒るのも喋るのも働くのも、全て魔女の指図のままに動く僕には、もう自分の意志はないんだ。その点では僕はまだ君たちと同じかも知れないね。」
ピノッチオは空ろな笑みを浮かべて、プチネルラを胸に抱きしめた。
壊れかけたプチネルラの足が取れて、床に落ち、乾いた音を立てた。
カターン
ピノッチオは手を伸ばして、床に転がったプチネルラの足を取ろうとした。けれども足はコロコロと転がって行く。やがて、プチネルラの足は倉庫に広がる闇の中に消えてしまい、ピノッチオがどんなに目を凝らしても、もう見つける事はできなかった。
お し ま い
ピノキオの冒険(02/05/27-02/08/03)