夢(02/08/19-02/11/17)
序
夢がどれほどの意味を持っていようと、意識の構成に夢が何らかの価値を有すると我々は結論できない。睡眠様状態で、全ての外的刺激に対し行動上無反応に留る患者は、何人の定義によっても意識がない状態とみなされる。
『昏迷と昏睡の診断』 F.プラム著 川村純一郎訳
第一章
気が付いたら真っ暗な宇宙空間をぼんやり漂っていたんだ。
「なんだ、まだ夢を見ているのか。しかし、宇宙を漂う夢とはえらくスケールの大きな夢だなあ。」
僕はここは宇宙空間に違いないとすぐに思ったんだ。だって僕の周りは真っ暗だし、遠くには小さな星、いや星じゃなくてただの光かも知れないけど、それがものすごく沢山、点々と散らばっているんだから。それに何と言っても、一番宇宙っぽく感じるのは、体がふわふわした感じだからだ。水の中から空を眺めているだけなのかも知れないけど、でも水の流れは感じない。水の揺らぎさえない。となれば何も無い空間を漂うしかないって訳だ。宇宙遊泳ってのもきっとこんな感じなのかなあ。宇宙に行く夢なんてそんなに見た事もないし、もちろん実際に宇宙に行った事もないから断言はできないけど、まあ夢の中の出来事なんだから、どう考えようと僕の自由だよね。
「本当に真っ暗だ。きっと、まだ真夜中なんだろうなあ。でも、こんなすごい暗闇なんてそんなに体験した事ないや。さすが宇宙空間だ。今じゃどこへ行っても何らかの灯りが輝いているんだから。電球が発明される前なら、地上でだってこんな暗闇は当り前だったのかなあ。それにしても何とも奇妙な夢だな。頭もぼーとしてるし。」
僕はぼんやりした頭で昨日の事を思い出そうとした。ええっと、ああそうだ。確かいつもの様に大学の研究室で酒を飲んでたんだっけ。僕たちは毎晩その日の実験が一区切り付くと、「今日も一日御苦労さん」という主旨で一杯やる事にしてるんだ。いつもは文字通り一杯しかやらないけど昨日は少し飲み過ぎたなあ。先輩が実家から送ってきたナポレオンを持って来てくれたもんだから。あんな高級なアルコールは滅多に飲めるもんじゃないから、調子に乗って、ぐびぐび飲んじまったんだ。
「ああ、本当にちょっと飲み過ぎたな。」
僕は酒を飲んでから後の事をもっとよく思い出そうとしたが、最後の方はどうにも思い出せない。かなり泥酔してしまったようだ。あの後どうしたんだろ。確か下宿に戻った気もするけど、もしかしたら、そのまま研究室で寝ちゃってるのかも知れないなあ。まあそんな事はどうでもいいや。研究室で眠り込むなんてよくある事なんだから。それにしても、やっぱりどうも頭がぼーとするな。かなり酔ってるんだな、こりゃきっと。だからこんなふわふわした感じで宇宙を漂うなんて変な夢を見てるんだ。
「やれやれ。これからは酒も少しは控えなくっちゃな。」
僕は暗闇の向こうに目をやった。遠くで光る星はぎらぎらと輝いている。針で目を刺されるような感じだ。これもアルコールの影響だろうか。すごく鋭い光り方だ。
「いや、これは地上で見るみたいに、空気を通して見てないからあんなふうにぎらぎら見えるんだ。おっと、見えるだなんて、ちょっとおかしいか。実際に目を通して見ている光景じゃないんだから。宇宙ではきっと星はあんな具合に光って見えるんだと僕自身が思ってるから、その思ってる通りにこの夢の中でも見えてるって事なんだろう。それにしても本当に全然、瞬かないや。」
僕は自分の顔を動かして、正面だけでなく左右の星も見ようとした。でも少し動かしにくい。頭に何か被ってるみたいだ。
「ははあ、ヘルメットを被ってるんだな。そう言えば、写真で見た宇宙飛行士もヘルメットを被ってるもんな。」
僕は右手を顔の前に持ってきた。丸い物が手に当たる。やっぱりヘルメットを被ってるんだ。撫でてみると、つるつるした感触がする。感触と言っても直接手の平に伝わる感触ではなく、ただ手の動きが滑らかなのでそう感じるだけなんだ。両手にも分厚い手袋をはめているようだ。
「結構、現実的だなあ。ちゃんとヘルメットを被ってて、手袋もはめてるんだから。夢の中なんだからもっと破茶滅茶でもいいのに。僕って割と几帳面な性格なのかも知れないなあ。」
この几帳面さから判断して恐らく宇宙服も着ているはずだ、と思った僕は両手で体を摩ってみた。何かの手応えがあるものの、摩られているはずの体には何の感触もない。顔を下に向けようとしても、ヘルメットのために視野が限られていて自分の体は見えそうにない。もっとも、ヘルメットがなくても見えはしないだろう。真っ暗なのだから。遠くで輝く星の光は、たとえそれが無数にあっても、僕の体を照らすほどの光量を与えてはくれないのだ。
僕は両手を左右に動かして自分の体の大きさを計ってみた。普段よりも二回りくらい大きくなっている感じだ。何かの服を身に着けているのは間違いない。叩いてみると、もこもこした感じ。酸素で与圧されて膨らんでいるのだ。
「やっぱりだ。夢の中にまでこれほどの現実性を求めるなんて、考えてみればつまらない話だな。いやちょっと待てよ、体に触る前に宇宙服も着ているはずだと思ったから、宇宙服を着ているという結果になったのかも知れないな。触る前に、下はパンツをはいているだけだと思ったなら、そうなっていたのかも知れない。ああ、惜しい事をしたな。」
僕はダボダボの宇宙服を摩りながら少し後悔した。そしてその後すぐに吹き出してしまった。ヘルメットと手袋をだけを付けて、下はパンツ一枚の人間が宇宙を漂っている姿を想像して、その余りの滑稽さにおかしくなってしまったのだ。
「馬鹿な想像しちゃったな。でも夢の中の自分がまた想像するってのも変な話だ。だって夢自体がすでに僕の想像なんだから。想像の中に居る自分がもう一度想像するって事か。複雑だなあ。まあ、夢の中でまた夢を見るって事もあるんだから、それと同じかな。」
僕は暗闇の中、なおも自分の体を両手でまさぐった。腹から胸にかけて大きく出っ張っている部分がある。何か付けているようだ。四角い箱の様なもので、その箱自体も凸凹している。腕を後に回そうとすると何かに当たる感じがある。背中には相当大きな物を背負っているようだ。僕の体の幅よりも大きいので、荷物を背負っていると言うより僕がその荷物にくっ付いていると言った方がいいかも知れない。それくらい大きく感じる。
「なんだかえらく大きいな。きっと酸素とかが入ってるんだろうな。しかし、こんな巨大な荷物を背負っていても、少しも重量を感じないんだから。無重力ってのは凄いや。」
その背中の荷物からはちょうど腹の辺りで前方に出っ張っている部分もある。肘掛け椅子の肘掛けのような感じで、両腕を置くとしっくりと落ち着く。もしかしたら荷物などではなく、何らかの移動装置に乗っているのかも知れない。
だが、それはあくまでも僕の想像だ。実際、何がどうなっているのかはさっぱり分らない。とにかく本当に真っ暗なのだ。こんなに暗いと誰かに鼻をつままれても全然気が付かないだろう。
僕は体を触るのを止めて目の前に広がる暗闇を見た。じっと見ていると距離感がなくなって、どこに焦点を合わしているのか分からなくなってくる。
「あーあ、こう暗くちゃどうもこうもしょうがないなあ。」
僕は両手と両足を思い切り伸ばすと目を閉じた。今まで見えていた沢山の星が消えて目の前は本当の真っ暗闇になった。その中に落ち込んで行くような深い闇だ。僕は目を開ける。星が輝いている。もう一度目を閉じる。真っ暗になる。こんな事を繰り返す内に、また奇妙な感覚に襲われた。これは夢を見ているんだから夢の中の僕は目を開けたり閉じたりしていても、実際の僕はずっと目を閉じているはずである。
「それなのに夢の中の僕が目を開けたり閉じたりすると、異なった景色を脳が知覚するのはなぜだろう。実際に見え方が変わっている訳でもないのに。」
でもそんな事を奇妙に思うのもおかしな事だとすぐに気がついた。夢の中で見える物とは実際に目を通して見る物ではないのだ。音を聞く夢もあるけど、それだって実際に耳を通して聞こえる音ではない。もちろん実際の音や光が夢の中に出てくる時もあるけど、そうでない時の方が多いんじゃないかな。夢なんて、結局は全て頭の中で勝手に創り出したものなんだ。だから何が現れようと、どんなものが見え、聞こえ、起ころうと、別に不思議はないのだ。それに、今、僕がやっていた目を閉じたり開いたりする行為。これだって僕の想像に過ぎないのだから。
「そうだよな。それが夢ってものだよな。だから今とは逆に目を閉じた時に星が見えて、目を開けた時に真っ暗になるなんて事が起きてもいい訳だ。そっちの方がよっぽど夢らしくていいけど。」
僕は目を開けたままで、又ぼんやりと暗闇の底にへ張り付く無数の星を眺めた。自分の目の中に墨汁でも垂らし込まれたかのような、本当の暗闇。星以外は自分の姿さえ見えない。そして何も触れず、何の動きも感じられずに、ただ浮いているだけの感覚。僕はため息をついた。
「なんて退屈な夢なんだろう。」
毎晩見ている夢なんてこんな物なんだろうか。夢なんて起きてしまえば忘れてしまうから、余り記憶に残ってはいないけど、でもこれじゃあんまり単調すぎる。星しか見えないし、何も聞こえない。自分の喋る声は一応聞こえるけど、でもそれだって、耳栓をして大声で話すような聞こえ方だ。空気の振動によって伝播される音ではなく、直接脳が感知しているような音。それはもう音ではない。
どうしてこんな夢なんだろう。僕が今までに見た夢でまだ憶えている夢と言ったら、もっと色々な、馬鹿げた、不思議な出来事が起きる、そんな夢ばかりなのに。それともそんな夢は本当は少なくて、大部分はこんな単調な物なんだろうか。僕は毎晩こんな夢ばかり見ているんだろうか。僕の創造力はこんなにも貧困なんだろうか。
「こんな真っ暗な夢なんて、見ていたって面白くもなんともない。こんな夢だったら見ない方がよっぽどいいや。」
僕は大きな声でそう叫んだ。遠くに輝く星を眺めながら暗闇を漂うだけの夢。自分がこんな夢の中に置かれているという状況に、僕は次第に腹立たしいものを感じてきた。もちろんこんな夢を見させているのは他の誰でもない自分自身なのだから、腹立たしくなるのもおかしな話だ。でも真っ暗な夢なんて夢とは言えない。暗闇を見ているだけなら何も見ていないのと同じ事だもの。こんな夢を見ているくらいなら一刻も早く目を覚まして、テレビでも見た方がよっぽどましだ。一体、この真っ暗な夢というのはどういう事なんだろう。なんだって僕はこんな夢を見ていなくちゃいけないんだろう。これは僕の夢だって言うのに。
「僕の夢、待てよ。」
その時、僕の頭の中に名案が浮かんだ。
「そうだよ、これは僕が見ている夢じゃないか。だったら、この夢は僕の望むようになるはずじゃないか。僕がこうなりたいと思ったら、その通りの出来事が起きるはずじゃないか、この夢の中で。」
僕は自分の企みに少し興奮を覚えた。夢の中に居る自分が、今自分の居る夢をどうにかしようと考えるなんて、何とも楽しい思い付きだ。
「自分の創造力が貧困だと言う前に、自分の創造力を働かせて、もっと楽しい夢にしてしまえばいいんだ。誰がなんと言ってもこれは僕の夢なんだから、何だって僕の思う通りになるはずだ。よーし。」
僕は大きく息を吸ってあれこれ考え始めた。
「そうだなあ、とにかくこんな暗闇はもう終わりにしたいなあ。例えば、うん、こうしよう。これはプラネタリウムを見てるんだ。それで、もうすぐ上映時間が終わって明るくなるって事にしてしまおう。でも待てよ。プラネタリウムだと解説があるはずだから、ちょっとおかしいかな。今は何も聞こえてないもんなあ。ああそうだ、ヘルメットを被ってるから音が聞こえないって事にしちゃえばいいんだ。よしそれで行こう。」
僕はさっそく目を閉じて想像した。これはプラネタリウム。僕が目を開けると、明るくなった丸いドームが見えるはずなんだ。その後、被っていたヘルメットを取ると、解説者の「今回の上映はこれで終わりです。本日はありがとうございました。次回の上映は十三時からです。」っていう声が聞こえてくるんだ。さあ、合図と一緒に目を開けたら、僕の思った通り、目の前に丸いドームが出現するんだぞ。
「いち、にの、さん。それっ!」
僕は掛け声をかけて目を開けた。その僕の目の前に広がっていたのは………プラネタリウムの丸いドーム…ではなく、暗い闇と、ぎらぎらする沢山の星。目を閉じる前と全く同じ風景。僕はため息をついた。
「ふ、やっぱり駄目か。考えてみりゃ自分が見たいと思ってる事を夢の中で見られるなんて滅多にないもんな。」
そう、これはもう分かっていた事なんだ。夢の中の出来事なんて憶えているのはひどい物ばかり。何かに追いかけられたり、崖から下へ落ちて行ったり、本当にろくでもない事ばかりなんだから。自分の思い通りになった事なんて一度もないんだ。その点では現実とよく似ている。いや現実の方がよっぽど自分の思い通りになるんじゃないかな。少なくとも現実でいきなり宇宙空間に連れて来られるなんて、まずあり得ないんだから。
「ああ、それにしても、自分の夢なのに自分の思い通りにならないなんて、なんて理不尽な話なんだ。」
つまり、夢というものを支配しているのは自分自身ではないのだ。だってもし自分によって夢を見ているんだったら、自分の好きな夢を見られるはずなんだから。でも実際はそうじゃない。そしたら一体何によってこの夢は見せられているんだろう。
自分じゃなければ他人なのだろうか。しかし自分の夢でさえ支配出来ないのに、他人の夢を支配できるとは到底考えられない。すると、やっぱり自分自身によって見ているのだろうか。僕の心のずっと奥の方で、こんな暗闇を漂わせるような夢を見せる原因があって、それによってこんな夢を見ているんだろうか。それならば、その原因を取り除いてやればいいって事だけど、自分自身でさえ、その原因が何なのか分からないんだからどうしようもないや。そんな原因があるって事さえ僕には信じられないんだから。
あるいは、こんな思考自体が無意味なのかも知れない。例えば目が覚めている現実の世界にしても、これは僕の人生なのに僕の思う通りにはならない、だから僕の人生は僕が支配しているんじゃないんだ、なんて事を考えるだろうか。僕が支配しているのでなければ他の誰かが支配しているという事になるけど、自分の人生も支配出来ないのに、他人の人生を支配できるんだろうか、なんて考えるだろうか。僕のもっと奥深い所で、自分の人生はこうなりたいと思わせる原因があって、それが自分の人生をこんな状態にしているんだなんて考えるだろうか。現実でさえ考えない事を夢の中で考えるのは馬鹿げてる。
でも夢と現実ではやっぱり違うんだ。だって、夢というのはまさに自分にだけ起こる現象で、現実は、自分と他人との関係の中で起こるのだから。だから現実は自分の思い通りにならなくても仕方ないのかなあ。じゃあ、やっぱり夢は自分だけに関して起こるんだから、自分の思い通りになって当然なんじゃないのかな。それなのに今は思い通りになってない。いや、だから、自分でも気付かない自分の思い通りになっているのかも。しかしそれなら現実で思い通りに行かないのだって、自分では気付いていない自分の思い通りになっているのかも知れないじゃないか。つまり夢でも現実でも、どちらも思い通りになっていないようでも、実は思い通りになっているって事? じゃあ自分で気付かない自分って一体何だろう。本当にそんなのがあるのだろうか。いや、その前に、自分というもの。自分で気が付いている自分というのは何だろう。僕は本当に自分自身に気付いているんだろうか。
今、僕はこの暗闇を嫌っているけど、本当に嫌っているんだろうか。この夢の中だけじゃない。目が覚めている現実の時においても、僕の思う通りにならなかった色々な事柄。そう、例えば時間に遅れて電車に乗れなかった時、僕は本当にその電車に乗りたかったんだろうか。
いや、こんな例では要素が多すぎて分かりにくい。もっと簡単な事。そうだ、昨晩、酒をがぶがぶ飲んでしまった事。僕はこんなに酒を飲んじゃいけないと思ってたんだ。それなのに実際は沢山飲んでしまった。本当の自分はどちらだったんだろう。酒を飲む行為は、ほとんど自分自身の行為と言ってもいいはずだ。飲め飲めと勧める友達もいなかったし、飲まなければいけない理由もなかった。それは全て僕の意志だったのだ。コップを手に取り口まで運び、口を開けてコップを傾ける。中の液体を喉に流し込む。全ては僕自身の意志によって行われる。なのに、僕は酒を飲んじゃいけないと思っていた。すると僕の体をして僕に酒を飲ませていたのは何だったのだろう。
現実だってそんな事が起きてるんだ。考えてみればたくさんある。タバコを止めたくても止められない人、何かをしようと思っても、しないでのらくらしてしまう人。自分の体を自分の意志通りに動かすという、そんな事も出来ていないのだ。
もちろん、そりゃあ、自分の体だからと言っても何でも自分の意志通りに動くわけじゃない。心臓止まれっと言ったて、止まるわけじゃないし、髪の毛よ逆立てと言っても逆立つわけでもない。でも、自分の意志で何とでもなる事でさえ、自分の意志と反してしまう事もあるじゃないか。禁酒したけりゃ飲まなきゃいい。禁煙したけりゃ吸わなきゃいい。何かしたいのならその通りに体を動かせばいい。でも、出来ない。
自分の体でさえもそうなのだ。自分の感情、自分の考え、悲しみたくなくても悲しみ、怒りたくなくても怒りが込み上げる。こんな夢を見たくなくても、見なければならないというのも、これと同じ事なのだろうか。自分で自分を誤魔化しているだけで、やはりその底には別の自分が居て、その自分こそが自分自身の本当の支配者なのだろうか。すると僕の見ているこの夢。これこそ僕が本当に望んだ夢、望んだ? 僕が僕に望んだ? そしてその通りになってる? でも僕はこんな夢はやっぱり嫌だ。でもそれを望んでいる僕も居る? でも僕は望んでない。ああ、どちらが正しくてどちらが真実なのだろう。それにしても宇宙は本当に真っ暗だなあ。
「あーあ。」
僕は大きなあくびをした。変な事を考えている内に眠たくなってきたのだ。頭は相変わらずぼんやりしたままだ。
「まあ、いいや。難しい事をあれこれ考えていても仕方ない。やがて、この夢も覚めるだろう。そしたらこんな夢を見ていた事も、あれこれ考えていた事もきれいさっぱり忘れちゃうのさ。どうせ忘れちゃうんだから、真面目に考えるだけ馬鹿馬鹿しいってもんだ。どれ、目が覚めるまで一眠りするかな。ふあーあ。」
僕はまた思い切り手足を伸ばした。体がふわふわしているので実に気持ちがいい。これもきっと昨日の酒のせいだな。これなら心地好く眠れそうだ。でもなんか変だな。もう眠っているのにまた眠るなんて、なんだか、、、いや、もうあれこれ考えるのはやめよう。そんな事、考えたって仕方ないんだから。僕は両腕を左右の肘掛けみたいな部分に乗せると、静かに目を閉じた。
「えっ、」
僕は驚いた。目を閉じた瞼の向こう側に、微かではあるが橙色の光を感じたからだ。
「こ、これは一体、」
最初は何かの錯覚の様な気もした。しかし橙色の光は瞼の裏全体に広がって、だんだん強くなってくるようだった。そして光が強くなるにつれ、間違いなくこれは光であるという確信も強くなって行った。
「そうなんだ、夢ってのはやっぱりこうでなくっちゃ。」
僕は夢の中で起こったこの新しい展開に、驚きと同時に喜びを感じていた。そしてようやくこの暗闇から解放されるという安堵感が胸の中に広がった。
「これでこの夢も少しはましになるな。でも、これ、何の光だろう。」
僕は光の正体を確かめるため、閉じていた目を開けようとしたが、一瞬、躊躇した。目を開けた途端にこの光がなくなって、また元の暗闇に戻るような気がしたからだ。僕の心を再び不安が捕らえた。
「待てよ、あんなに頑張っても何も見えなかったのに、どうして急に光なんか見えてきたんだろう。もしかしたらこの光は夢の中で見ている夢なのかも知れないぞ。目を開けた瞬間なくなってしまうのかも。」
それはありえそうな事だった。目を閉じる前の夢の中では本当にこんな光は全然見えなかったんだから。それなのに今は光が見えている。目を閉じた瞬間にこの光は見え始めたんだ。この光は目を閉じた事によって発生したのだろうか。
「でも、さっき目を開けたり閉じたりしていた時は、瞼の裏にはこんな光は見えなかった。それに夢の中で見ている夢にしてはあんまり急すぎるんじゃないか。目を閉じてすぐだもの。こんなに早く夢が始まるってのもなんか変だ。まあ、夢の中だから、変な事が起こってもおかしくはないんだけど。この光は本当に、今、目を閉じている瞼の裏だけの光で、目を開けると無くなってしまうのだろうか。そうではなくて瞼の向こうからやってくる光じゃないんだろうか。そして、眠っているはずの現実の僕自身を照らす朝の光じゃ、、、」
僕はひどく慎重になっていた。それはこの光を失って、また元の暗闇に戻ってしまう事が堪らなく嫌だったからだ。橙色の光は瞼の裏側で次第に強くなっている。しかしそれは明るさを感じるだけだ。ちょうど、目を閉じて蛍光灯に顔を向けているように、眩しくは感じるが何の光景も見えないのだ。そして、光だけを感じて何の光景も見えない事が、目を開けたいという僕の欲求を一層強くした。
「この光に照らされた外の景色はどんなだろう。」
この光は夢の中で目を閉じている僕が見ているもう一つの夢の中の光ではなく、夢の中の僕全体を照らす光ではないのだろうか。夢の中で輝いている光が、目を閉じている瞼を通して、この橙色の光になっているんじゃないのだろうか。光の見え方も何だかそんな感じなのだ。僕は決心した。
「いいや。思い切って開けちゃおう。この光は夢の中の夢じゃなくて、目を開けても消えない光だと思うんだ。自分でそう信じれば、何と言ったってこれは僕の夢なんだから、ある程度は僕の意志が尊重されて、暗闇に戻るような事はないだろう。それに目を開けた瞬間、今居る夢も飛び越えて、一遍に目が覚めるって事もあるかも知れない。よし、開けてみよう。」
僕はゆっくりと目を開けた。そこはもう以前の暗闇ではなかった。初めは明るい光に少し目が眩んだが、やがて、自分の体の左側に巨大な弧を描く橙色の光があるのが分かった。その光の中心は弧の端に、一際明るく輝く小さな丸い橙として存在していた。僕は顔を左に傾けてその弧の内側を見た。巨大な明るい青、あちこちにある白いもの。僕の口からひとつの言葉が転がり出た。
「地球だ。」
なぜそう思えるのか自分でも分からなかった。しかし暗黒の宇宙空間とその中に浮かぶ青い巨大な球らしき物体の一部。僕の知識を総動員しても、地球以外に思い浮かばなかった。
「これは地球だ。間違いないや。でもよかった。」
それは美しい光景だった。地球の端の雲は赤く染まっている。そして、端から離れるにつれてだんだん色が変って行く。青から紺、濃紺、その先には宇宙の深い闇。闇に煌く星々。僕は初めて宇宙から見る地球の夜明けにしばらく心を奪われていた。
「そうか、僕は地球の周りを回っていたのか。そう言えば、」
ふと、僕は自分の姿が気になった。まだ暗闇に包まれていた時に、手で触って大体の感触は分かっていたのだが、やはり実際に見て、現在の自分の状態をきちんと確かめておきたいと思った。僕は地球を見るのはやめて自分の足の方に目を向けた。
「おお、これこそまさに宇宙服。」
僕の目に映ったのは、両脚を包む銀色のズボンだ。そのズボンも、これまで雑誌や科学館で何度も見た事のある、お決まりの宇宙服だった。ズボンのもこもこした布が太陽の光を反射している。脚の上部は見えない。体の前に大きな箱が付いているからだ。それもただの単純な箱ではなく、窓、バルブ、触った時感じたでっぱり。そんな物がいっぱい付いている。
「何だかごちゃごちゃしてるなあ。」
腹の両横には、暗闇の中で触った時、想像した通りの肘掛けが二つ、背中から伸びている。その肘掛けの先端にはジョイスティックのような棒が取りつけられている。恐らくこの背中の装置を制御するものなのだろう。それから顔の横にも何か付いている。とにかくすごい装備である。
「宇宙飛行士ってこんなに体に色々くっ付けてたっけかなあ。それとも宇宙に出るにはこれくらい必要なんだという僕の思い込みかな。」
宇宙は危険な所だ。とにかく空気も水も無い。そんな所へ行くからには重装備でないといけないという僕の常識みたいなものが、夢の中の僕にこんな格好をさせているのかも知れない。そう思うと少しおかしくなってしまった。
「これじゃ、パンツ一枚で宇宙を漂うのと同じくらい滑稽な姿だな。」
僕はそんな自分の姿を眺めるのをやめて、もう一度地球を見た。今では光が当たっている範囲はかなり大きくなっている。そんな青い地球を眺めながら、これまで僕を縛り付けていた緊張が氷を溶かす様に消失していくのを感じた。
目を開けても元の暗闇に戻らなかった事、そして、僕の前に展開されていた光景は青い地球の夜明けであった事、考えてみればありふれているが、そんな何でもない事に僕は不思議なくらい安堵の気持ちを味わわされていたのだ。
僕は地球の方向とは逆に顔を右に傾けて明るい光を見た。この光が太陽である事は間違いない。太陽はすでに地球を離れて、黒い宇宙空間へ昇り始めていた。
「昇る?でもおかしいな、太陽は動かないはずだもんな。地球は動いてるけど、僕は地球に居るわけじゃないから、地球の動きは関係ないし。ああ、そうか、僕も動いているんだ。」
太陽は次第に高く昇っていく。それにつれて地球の青い部分が少しずつ広がっていく。いや、正確に言うなら僕が地球の昼の部分へ動いているのだ。僕の移動速度は非常に早かった。明らかに地球の上を飛んでいる、そんな感じだった。
写真やテレビで何度も見た事がある地球の姿が、僕の体の左側に広がっている。僕は身を捩って、地球に向き合おうとした。この暗闇の夢の中に現れた地球の姿を、顔の正面でしっかりと見てみたいと思ったからだ。今地球に向いているのは左側だ。体を九十度捩れば、ちょうど地球と正面で向き合う事になる。
「よいしょ。しかし、突然、地球が出てくるとはなあ。これも僕が心の底で地球が見たいなんて思ってるからなのかな。よいしょ、よいしょ、」
体の向きを変えるのはなかなか難しい。手や足で空間を掻いても、何の手ごたえもないのだ。僕はしばらくの間、何もない空間で手足をばたばたさせていたが、体はまるで思うように動かない。本当に空気も何もない、無重力の空間に浮かんでいるようだ。
「えい、なんて事だ。宇宙空間だから仕方ないとはいえ、こんな点まで忠実に守る事もないのに。まったくなんて律儀な夢なんだ。」
僕は向きを変えるのを諦めると、顔を左に傾けて地球を眺めた。すると不思議な事に気がついた。最初と今で地球の見える方向が、わずかではあるが違っているのだ。さっきは地球は体の左側、真横にあったはずである。それが今は少しずれて左肩の下あたりに見える。
「変だな。」
僕は地球をじっと見つめた。その理由はすぐに分かった。僕自身が回転しているのだ。ちょうど自分の腹を軸にして、ゆっくりと側転運動しているのだ。このまま回っていれば、やがて地球は僕の頭の上に来て、さらに時が経てば僕の体の右側に見えるようになるだろう。ただ、この回転はかなり遅いので、そうなるには大分時間がかかりそうだ。
「僕は回転していたのか、でもちっとも気が付かなかったな。」
しかし、動いていると分かった今でも、自分が動いている感覚はない。もちろんこれは夢の中の事であって、眠っている自分が実際に動いているわけではないのだから、動いている感覚がないのは当然の事かも知れないが。
「こんな回り方だと、ますます地球が見え難くなるな。どうせなら体が地球の正面になるように回ってくれればいいのに。」
本当にこの夢はわがままだ。わざと僕に逆らっているみたいだ。僕は不満な顔を左上に傾けて地球を見た。太陽に照らされている部分はだいぶ広くなっている。大陸と思われる茶色い部分も見える。それから視界の端の、まだ太陽の光が当たっていない黒い部分には、星とは違う光の密集が見える。たぶん大都市の光なのだろう。その光を見て僕は首を傾げた。
「おかしいな。地上の光なら、暗闇の中に居た時でも見えたはずなのに。どうして気付かなかったんだろう。」
僕は左上に傾けていた顔を今まで通り、正面に向けてみた。太陽はもう、視界の右の端まで来ている。視界の左側にあるはずの地球の姿はほとんど見えない。
「ははあ、正面を向いていると地球は視界に入らないんだ。だから見えなかったんだな。でも、それでもおかしいぞ。だって僕は正面ばかり向いていたわけじゃなくて、左右に顔を振った時だってあったんだ。その時に地上の光に気付いたっていいはずじゃないか。そしたらその時点で、ただの宇宙空間に居るんじゃなくて、地球を回っているんだと分かっただろうに。自分の回転運動のためだろうか。それともその時はたまたま何の光もない地点、例えば、海とか砂漠とかそんな場所の上を飛んでいたから、見えなかったとでも言うんだろうか。」
僕は自分で自分を問い詰めた。それは、この夢は何もない宇宙空間を漂っている夢なのだと信じ切って、地上の光に全く気が付かなかった先程までの自分自身が許せなかったのだ。地上の光だけではない。地球を回っているのなら、恒星の位置だって変わっているはずだ。なのにどうしてそんな事にも気付かなかったのだろう。
「いや、でも待てよ、何もさっきと今を結び付けて考える必要はないんじゃないのかな。今、地球を回っている夢を見ているからと言って、その前に見ている夢も地球を回っている夢でなければならないって事はないはずだ。さっきは本当に何も無い宇宙空間を漂っていたんだ。そして、その夢はもう終わって、今は新しく、地球を回る夢が始まったんだと考える事だってできるじゃないか。寝ている間に見る夢は一つだけじゃないんだから。」
僕の中には、あくまでも自分のミスを認めたくない気持ちがあるようだった。しかし、どちらにしても愚かな事だ。夢の中で辻妻を合わせようとする事自体無意味なのだ。なぜなら夢とはもともと辻妻の合わないものだから。そう、たとえ暗闇の中にいた時に地上の光に気付いたとしても、次の瞬間にはそれが蛍になってあちこち飛び回るかも知れない。突然それがネオンサインになって、大都会のど真ん中に立たされるのかも知れない。夢の中なら何が起ころうと、何も不思議ではないのだ。そして今はたまたま暗闇の次に地球が来ただけなのだ。それが余りにも理に叶った展開だったので、僕はさらに理に叶った解釈をしようと、心を砕いてしまったのだ。夢の中で夢の解釈をしようだなんて、
「なんて、愚かな、」
そう考えると、あれこれ理屈をこねるのが実に馬鹿馬鹿しくなってしまった。夢の中で頭を働かせたって仕方ないんだ。夢は眠る時に見るもの。眠りは頭を休めるためのもの。その眠りの中で頭を働かせるなんて、これはどう考えても自然の摂理に反している。そうだ、せっかくこうして地球を回る夢を見させてもらっているんだから、素直にこの夢を楽しめばいいんじゃないか。
「さあて、それじゃあ、地球を回る夢をじっくり見せてもらうとするかな。こんな夢を見るのも初めてだろうなあ、きっと。」
僕は顔を左上に傾けて地球の姿を見た。それは今まで僕が様々な媒体を通して何度も見た事がある地球とそっくり同じだった。もちろんこれは僕の夢なのであるから、僕の思っている通りの地球だとしてもそれは仕方のない話だ。僕が地球はこうあるべきだと思っているので、夢の中でもその通りの地球が出てくるのだろう。
「やれやれ、地球の姿まで現実通りなのか。まあ現実通りと言っても僕は実際に見た事はないから、本当に宇宙から見た地球はこう見えるのか、それは分からないけど、でも、もうちょっと独創性に溢れていてもいいんじゃないかなあ。例えば、海が汚染されて青じゃなくて真っ黒になってるとか、木を切り過ぎて、緑が無くなって、大陸は全て茶色になってるとか、おっと、これもどこかで見た環境保護のポスターみたいだなあ。」
口ではこんな事を言っていても、僕の内心はとても浮かれていたのだ。出現した地球の姿はありふれてはいるが、それでもさっきまでの暗闇だけの夢に較べれば、百万倍も楽しめる。それに地球の青さには心をほっとさせる何かがあるのだ。僕は暗闇の中に浮かぶ目に沁みるような地球の青さに何か不思議なものを感じた。そしてその時、僕は今まで僕が知っていた地球と今見ている地球との、絶対的な違いに気が付いた。
「地球は動いている。」
僕はそう感じたのだ。いや、地球が動いているのは当り前なのだ。自転もしているし公転もしている。しかし僕が感じた動きはそんなものではなく、それは地球自身についてだ。地球の白い雲、青い水、それらがゆっくりと、しかし着実に、まるで生きているかの様にうねりながら動いているのが感じられたのだ。実際動きを見たのではない。僕が感じたのはそれらの動きの可能性、そしてその奥にある一つの意志の様なもの。そう、考えてみれば僕が今まで見た事がある地球と言えば、いつも静止したものでしかなかった。だから、地球とはどっしりとした、文字通り大地の如く不変で不動なものと思っていた。しかしここから見る地球はまるで違っていた。あたかも一つの生き物の様に、その姿は一時として同じ状態を留める事はない様に感じられた。
「すごいなあ、地球は一つの生物だって言うけど、ほんとだなあ。」
雲も水も動いているのは、地上に居る時にだって分かっていた。だが、ここから見た動きはそんな無機的なものではなかった。本当に生きている様に、全てが何かの計画に基づくように動いている、それは宇宙に浮かぶ一つの生物と言ってもいいだろう。
「僕はあの青い地球から来たんだなあ。そして、又、あそこに帰る。それがつまり目が覚めるという事かな。」
僕の目の下には何千万、何十億という人間が寝たり食べたり笑ったりしているのだ。そして、それぞれが自分のしたい事をして、家を作ったり、車を走らせたり、いや、人間だけじゃない、動物、植物、バクテリアに至るまで数えたら、一体どれだけの命がこの地球の上で息づいているのだろう。そして、その地球は今まさに僕の目の下に、まるで僕の所有物の様に展開している。
「自分があそこに居たなんてまるで嘘みたいに思えるなあ。だって手を伸ばせば触れそうなくらい近くにあるように見えるんだもの。地球が大き過ぎて距離感がおかしくなっているんだな、きっと。」
僕は地球の巨大さをしみじみ実感した。こうして見ていても、生物の姿はおろか、人間の作ったものですら何も見えないんだから。すると僕はとても可笑しく思えてきたんだ。人間なんて自分の姿も知らないくせに、なんて威張っているんだろう。僕は一つの寓話を思い出した。
それはこんな話だった。『あるところに牛がいた。そしてその牛の尻には蚤が住んでいて、牛の血を吸って生きていた。ある時、蚤はこう思った。こんなに牛の血を吸って牛は大丈夫だろうか。なぜと言って、もし自分が牛の血を吸いすぎて牛が死ぬような事にでもなったら、その時には自分も死んでしまうからだ。そこで蚤は牛に尋ねた。こんなに血を吸っているけど大丈夫かい。それとも血を吸うのはもう少し控えようか、と。蚤の問いに牛は答えた。ああ、誰かと思えば蚤か。お前の好きにすればいいさ。俺はお前が生きようが死のうが、そんな事には興味はないんだから。牛はそう言ってしっぽで蚤を叩いた。蚤はあっと言う間もなく死んだ。』
そうだ。こうして宇宙から見れば、人間なんて牛のお尻にくっついたこの小さな蚤よりももっと小さい。それなのにもっと地球を労わろうとか、地球に優しくしようなんて言っているんだもの。それはまるでこの話の中で、牛のお尻の蚤が「こんなに血を吸って牛さん大丈夫かなあ。」なんて思っているのと同じ事だ。
地球に優しくじゃなくて、人間に優しくなんだ。地球を汚して困るのは地球じゃない、人間なんだ。汚しているのは地球じゃない。人間の生息に適した環境を汚しているんだ。困るのは人間。困らせているのも人間。それはちょうど自分で自分の首を絞めているのと同じだ。そんな愚かな自分の姿を見るのが嫌なので、地球が悲しんでいる、自然が悲鳴を上げている、なんて事を言って自分達の利己的な考え方を誤魔化そうとしているんだな。自分達が生息するのに最も適した環境を持った地球が一番良い地球であって、そうでない地球は悪い地球なのだと勝手に決めつけているんだから。
「なんて身勝手な考え方。」
絶滅する動物を救おうとか、皆で守ろう地球の仲間とか、もっともらしい事を言うけど、それこそ偽善的な言葉だ。森林が減少すれば、大気中の酸素放出量が減るから人間が住み難くなる。つまりは自分達が困る。綺麗な花がなくなればその美しさを楽しめない。つまりは自分達が困る。動物が滅びれば、罪もない生き物が人間によって滅ぼされたのだという罪の意識が発生する。つまりは自分達が苦しむ事になる。考えているのはいつも自分達人間の事ばかり。それ以外の事は決して考えない。その証拠に癌細胞や天然痘のウイルスは目の敵にしてるじゃないか。自然を守ろうと言うなら、そういう病原菌でさえ自然のままに守るべきなのだ。その事はどこかの宗教の本にも書いてある。
その人はとても親切で良い人だった。皆から慕われ、信仰心厚く、それゆえ財も成した。けれどもひどい病気になる。温和な顔は赤く腫れ、たくましい体も醜く爛れてしまった。周りの人は皆悲しんだ。そして不思議に思った。どうしてこんな善良な人がこんな目に会うのだろう。なぜこんなに信仰深い人を神は苦しめるのだろうと。でもそれは違うのだ。神の心に叶っていたからこそ、その人はそうなったのだ。自分の体を自分だけでなく自分を必要とするものの為に与えたのだ。村人に対して尽すのと同じ様に、病原菌に対しても尽した、ただそれだけの事だ。病原菌も敬虔な村人も神の目から見れば同じ生き物に過ぎない。周りの人にはそれが分からなかった。そして今も分からない。
人間が守ろうとするのは自分達には害がない生き物だけ。そういう罪もないー人間に対してのみ罪がないー生き物を殺す事によって自分達の心の中に生じる罪深さを味わうのが嫌なので、生き物を守ろうなんて言っているだけなのだ。だから自分たちに害をなす、たとえ殺しても自分達に罪悪感を生じさせない生き物は、情け容赦なく殺してしまうのだ。いつも考えるのは自分達の事だけ。自分達の暮しが乱されないように、自分達の健康が損われないように、自分達の感情が乱されないように、それだけしか考えていないんだ。動物たちが本当は何を望んでいるのか、人間達に監視されてまで絶滅を防いで欲しいと本当に願っているのかどうか、そんな事には何の興味もないのだ。
「ああ、なんて自分勝手。」
そしてその考え方は地球にまで及んでいる。こんなに青くなくたって、海陸空の生物が全滅しちゃったって、地球は全然構わないんだぞ。だって、ほら、こんな真っ暗な宇宙空間に地球だけがこんなに青く綺麗な星でいるなんて、どう考えたって不自然じゃないか。地球の本来の姿はこんなんじゃないんだ。地球が生まれた頃は、硫酸の雨、火山の爆発、汚染された大地、無機質だけの海。原始の地球には生命の欠片もなかった。そして光合成が出来る生物が出現するまで、大気中には酸素もなかったじゃないか。しかも過去から現在に至るまでに、地上に現れた生物の99%は滅亡してしまっている。それこそが地球の本来の姿だ。なのに人間は地球を守ろう、地球は悲しんでいるだなんて、自分達が地球を壊せるとでも思っているんだろうか。百歩譲って人間の為に地球が全く汚されて生物が死に絶えたとしても、地球は悲しみもしないし、そしてそれは取り返しのつかない事でもない。そのように汚染された地球もやがては膨張した太陽に飲み込まれて元素の段階にまで分解され、また新しい星になるんだから。それはちょうど地面に落ちた蝉の亡骸が蟻に運ばれ食べられて綺麗になるのと同じ様に、全く自然の摂理なんだ。
人間は、自分達は自然の外に居ると考えて、自分達の作ったものは人工物、それ以外は自然物なんて区別しているけど、それこそ大きな間違い。自然を守ろうなんて言っているけど、それも間違い。自然と共存しようだなんて、何を馬鹿な。人間は自分達は自然ではないとでも思っているんだろうか。自分達のしている事は自然な事ではないとでも思っているんだろうか。人間が一から作った物なんて一つもないんだ。こうして宇宙から見ていれば、でっかいビルも鳩の巣も同じ物。どちらも自然の中の材料を使って作られたものだ。化学調味料と蜂蜜も同じ物。どちらも自然の物質から作られているから。でも人間は片方は人工物、片方は自然物として区別している。おかしな話だ。自分たちの作った物は、鳩や蜂や花が作った物よりも優れているとでも思っているんだろうか。鳩は確かに大きなビルは作れない。しかし人間も蜂蜜の一滴さえも作れない。
そして人間が地球を汚すのもこれまた自然な事。自然の一部である人間がする事だもの、それは自然に決まっている。たとえば自然の一部である大木が、毎年秋になって葉を全部落としても地球を汚染しているなんて言われないのと同じ様に、人間が地球上を自分達の不要物で覆って、どうして地球を汚染しているなんて言えるだろうか。自然の一部である木がする事は自然な事。ならば、自然の一部である人間がする事もこれまた自然な事。その為に地球上の生物が死に絶えても、これまた自然な事。獰猛な軍隊蟻が手辺り次第に生物を食べ漁って、その地域の生き物を全滅させてしまうのと同じくらい自然な事。人間が、地球という一地域を全滅させ自ら滅んでも、やっぱりそれは自然な事ではないか。蟻の行動は自然に基づいて行われる。人間の行動も自然に基づいて行われる。地球を住み難くする行動さえも自然なのだ。宇宙から見れば地球の一つなぞ、そこらの野原よりもっと小さい。イナゴに食い荒らされた野原も時が経てば元に戻る。人間によって全滅させられた星も、やがてはガスになり、再び新しい星に蘇るはずだ。同じだ、どっちもまるで同じだ。
「それなのに人間は、どうして他の生き物と自分達を区別したがるんだろう。どうして自分たちの作った物を人工物なんて言うんだろう。どうして地球を汚す事を自然な事と考えられないんだろう。」
僕はそんな事をつぶやきながら、同時に自分がこんな考えを抱いた事に違和感を覚えた。こんな考えは今まで一度も持った事がなかったからだ。僕は改めて地球を見た。所々に白い雲を浮かべた地球の青い色が、目を通して僕の心の中まで染み通って来るようだ。きっと、この暗闇に浮かぶ尋常ならざる青さが、僕にこんな考えを想起させたのだろう。今ではその地球も僕の頭の上近くに見えている。自転している僕の体は、最初に較べると六十度位回転しているようだ。地球を見ようとすると顔を左上、それもかなり上に傾けないといけなくなっている。
「あれ。」
地球の向こう側から奇妙な物が昇ってきた。黄色く笑っている目のような、しかし僕にはそれが何かすぐに分かった。
「ははあ、あれは月だな。」
月の形もきちんと太陽のある方が黄色くなっている。僕は苦笑した。
「月まで出現させるとはね。ここまで現実性にこだわるとは、やっぱり僕は几帳面な人間なんだな。それもありふれた三日月。兎の一匹くらい踊っていてもいいのになあ。ふうー。」
僕は自分の真面目さに少し呆れ果てていた。きっと夢の中でも、現実に矛盾するような事はしたくないというのが僕の本心なのだろう。
「それでも昔はもっと支離滅裂な夢だって見ていたのに。」
そう、確かにそうだ。でもそれは憶えている夢がそうだったに過ぎない。むしろそんな変わった夢だからこそ覚めた後も憶えていたのであって、憶えていない大部分の夢は、こんな具合に極めて現実的な夢だったのかも知れない。そんな在り来りな夢だからこそ覚めた後はすぐ忘れてしまい、結局、記憶にあるのは奇妙な夢だけになってしまっているのだろう。
「よし、僕はこの夢は絶対に忘れないぞ。目が覚めた後も必ず憶えていて、今度こんな夢を見た時にも慌てないようにしておくんだ。」
僕はもう一度太陽を見ようとした。しかし太陽はすでに僕の視界の外に行ってしまっている。僕は目を閉じた。瞼の裏に先程と同じ橙色の光が広がった。
「でも、不思議だなあ。どうしてあの暗闇から急にこんな光が見え出したんだろう。夢の中では地球を回っている僕が、太陽の見えない側から見える側へ動いたって事なんだろうけど、こうして明るさを感じるようになったって事は、もしかしたら、」
目を閉じたままの僕の心の中に、ある一つの不安が浮かび上がった。僕はふとつぶやいた。
「もう、何時なんだろう。」
僕は目を開けると、何の気なしに左手を自分の顔の前に持って来た。腕時計で時間を確認しようという訳だ。もちろん腕に時計をはめているかいないか、そんな事は分からなかった。
「お、ついてる。」
僕の左手首には時計がはまっていた。簡素な時計で、デジタルとアナログの両方の表示が付いているが、時刻表示以外は日付も曜日も無い。時刻を見ると午前6時12分を示していた。途端に僕の頭の中の不安が爆発した。
「た、たいへんだ、もう6時を過ぎているじゃないか。」
僕は大きな声で叫ぶと、両手で頭のヘルメットを抱えた。
「やっぱりそうだ、この光は朝の光だったんだ。夜が明けて朝日が差し始めたから、夢の中でも明るくなったんだ。ああ、早く起きなくちゃ。又、販売所のおじさんに怒られちゃう。」
僕の頭はパニックを起こしかけていた。6時に起きていたのでは、新聞配達に行くには余りに遅すぎる。僕が早朝の新聞配達のバイトを始めてから、もう半年だ。だいぶ慣れてきて販売所での信頼も獲得しつつあるこの時期に、何故か最近たて続けに遅刻ばかりしているのだ。この前遅刻した時には、『S君、もういい。やりたくないのなら辞めてしまえ。』って、えらい剣幕で叱られたっけ。あれからまだ一週間も経っていないのに、今日遅刻したら本当にクビになってしまうだろう。
「おーい、誰でもいいから僕を起こしてくれ。殴っても叩いても何をしてもいいから。ああ、何とか早く目が覚めないかな。」
僕は手足をばたつかせたり、手袋に覆われた両手を拳にしてヘルメットを叩いたりした。何か衝撃を与えれば目が覚める様な気がしたのだ。夢の中で衝撃を与えても余り意味はないだろう事は分かってはいたが、それでもそうせずにはいられなかった。
新聞配達のバイトの職を一つ失う事は、それほど重要な事ではなかった。その気になれば、学費を稼ぐバイトは他にも沢山あるのだから。それより僕にとってもっと重要なのは、販売所のおじさんたちの信頼を裏切る事だった。やっぱりあいつはやる気がない、無責任でいい加減な奴だったんだなと思われるのが、僕にとっては最も我慢出来ない事なのだ。
僕はもう一度時計を見た。時計の表示はすでに6時20分になっている。僕は何ともやるせない思いだった。この時刻では、今すぐ飛び起きて販売所に向かったとしても、僕を待ち切れなくなった販売所のおじさん達が、僕に割り当てられた新聞を配り始めているはずだ。そこへのこのこ姿を現しても、失笑を買うばかりだろう。
「ふうー、おしまいだな。」
僕は少々、自嘲気味にそうつぶやいた。が、その言葉と一緒に笑いも込み上げてきた。僕は小刻みに笑いながら、ふと、ある事に気付き、今度は大声で笑い出した。
「ははは、なんて事だ。僕はまた馬鹿をやってしまったぞ。」
僕はようやく気が付いた。夢の中の時刻など無意味だという事に。夢の中の時計が6時20分を指しているからと言って、現実の時刻も6時20分になっているなんて、そんな事を思ってしまうなんて、早とちりもいいところだ。それは夢の中で宇宙服を着ているから、現実の僕も宇宙服を着て眠っているんだと思ってしまうくらい滑稽な事なのに、こんなに簡単にだまされてしまうなんて。
「やっぱりこの夢があんまり現実的だからなんだろうなあ。それとも、これも僕が今の時刻は6時20分だと心の底で思っているから、夢の中でもそうなったのかな。ははは。」
僕は笑いながら左腕にはめている時計をじっと見つめた。秒針が断続的に動いている。デジタル表示の方も、時と分の間を区切る二個のピリオドが針の動きと同期して点滅している。この一回の動きの時間間隔が一秒を表しているのだ。もちろん夢の中の時計の動きであるから、正確な一秒であるはずがない。それに一秒一秒が現実の時計の様に、厳密に正確に同じ間隔で動いているとも限らない。この夢の中の時計が示す一秒は、一秒は大体これくらいの時間間隔だろうと僕自身が思っている一秒を表しているのだろう。僕はその一秒を示す、針の動きやデジタルの点滅をじっと見つめた。その動きは夢の中とは思えないほど極めて正確である。そしてその時間間隔も、僕がいつも現実の世界で時計を眺めた時に感じる一秒の長さと大差ないように思えた。
「この一秒、現実の一秒と較べてどの位違うんだろう。現実より長いんだろうか、短いんだろうか、それとも、もう較べるのが無意味なくらい違っているんだろうか。でも、僕にとってはこの一秒は現実の一秒にとても近いものに思える。夢の中の感覚だから、いい加減なものだとは思うけど。」
僕はこの夢の中で流れている時間について、さらに考えなければならないと思った。僕の見ている夢、この夢を見ていると気付いた時から、もうどれ位経つのだろう。僕の感覚では、せいぜい30分程度の様に思える。しかし、それはあくまで夢の中の僕の感覚なのだ。夢の中の感覚など信頼出来るものではない。
「でも、時間の様な感覚まで本当に信頼出来ないのだろうか。」
いや、時間の様な感覚だからこそ信頼出来ないのだ。現実の場合にだって、楽しい時は早く過ぎ、つまらない時はなかなか終わらないって事はよく経験するじゃないか。現実でさえもそうなんだ。夢の中の時間など有って無きに等しい。今、この夢も一瞬の内に見ているのかも知れないし、それこそ一晩かけて見ているのかも知れない。あるいは夢の中の感覚通り30分程度の夢なのかも知れない。でもそんな事は分からないんだ。
「そうしたら夢の中には現実の様な絶対的な時間の流れは無いのだろうか。夢の中では時間の流れ自体が不正確なのだろうか?」
いや、そうじゃないんだ。夢の中でだって時間はきちんと流れているはずだ。でも、それを知る手段がないって事なんだ。眠っている人自身が計るのは不可能だし、夢の外から現実の誰かが計るわけにもいかない。夢はレム睡眠中に見るって言うから、レム睡眠に陥っている時間を夢を見ている時間と考えてもいいかも知れないけど、レム睡眠だからと言って夢を見ているとは限らないし、その時間を知るのは必ず目が覚めてからだ。一旦目が覚めてしまえば、夢の中で流れていた時間の記憶なんてあやふやになってしまうだろう。知りたいのは夢を見ている、今、この瞬時の時間の流れなんだ。
「出来るのかなあ、そんな事が。」
ため息混じりの言葉が僕の口からこぼれた。どう考えても不可能に思われた。夢の中に正確な時計を持って行く事は出来ない。全ては空想の中の出来事なんだから。夢の中で流れている時間と現実に流れている時間の比較、それは同一人物が同時に両方の場に存在出来ない以上、永遠に不可能な比較なんだ。
「ああ、そうだなあ、、、」
僕はそれでも何だか腑に落ちないものがあったのだ。それなら、現実ではどうやって時間を計っているんだろう。それはもちろん時計だ。でもその時計は本当にきちんと動いているんだろうか。今、僕はこの夢の中で、この時計は夢の中の時計だから、きちんと動いていない、だから信用出来ない、と結論づけた。それなら現実の時計は、なぜそれが現実であると言うだけで、きちんと動いていると結論出来るんだろう。それだけで正しいと言えるのなら、この夢の中の時計も、やはり正しいと言えるのではないか。なぜなら今のこの状況を夢であると断定出来る証拠は何一つないのだから。「これは現実だ」と言い切ってしまえば、今、僕が手首にはめている時計も正確であると結論づけられるはずだ。現実の世界では常にそうなのだから。
もちろん、現実であるというだけでは信頼出来ないだろう。たとえ現実の時計でもきちんと設計されて、機械的に誤差何%以内で動くような構造を持っていなければ正確であるとは言えないはずだ。
「そうしたら、僕が今この夢の中の時計を分解してみて、きちんとした構造を持った時計である事が分かれば、やはりこの時計も信頼出来るんじゃないか。たとえ夢の中でも。」
いやそれだけでは不充分だ。さらにその時刻の同一性も問題になるかも知れない。その時計の示す時刻は自分一人だけでなく、他の人に対しても共通の時刻を示さなくては、やはり信頼に足るとは言えないだろう。
「じゃあ、今は一人だけど、もし夢の中に沢山の人が出てきて、各個人が持つ時計の示す時刻、時計の刻む時間間隔が全員一致すれば、やっぱり信頼出来るっていう事? 現実の世界と同じ様に、夢の中でも?」
僕は俄かには結論を出せなかった。時間の流れを時計だけに頼るのではなく、そう、例えば自然現象でそれを計ってみる場合を考えてみたらどうだろう。太陽や星の動きでも、時間の流れは分かるのだから。
「でも、それも夢の中でも分かる事だ。夢の中でお日様が昇って沈めばそれで半日が過ぎたって事じゃないか。」
いや、違うんだ、夢の中では何もかもきちんとしてないんだ。たとえ構造的に現実の時計と全く同じだったとしても、夢の中では正確に動くとは言えないんだ。お日様が昇って沈んでも、夢の中ではそれが現実世界の昼寝の30分間で起こる事だってあるんだから。
「それじゃあどうして、現実では、構造的にきちんとしているというだけで正確に動いていると言えるんだろう。お日様はきちんと昇って沈んでいるとどうして言えるんだろう。どうしてセシウムが放射する電磁波の周期はいつも同じだと言えるんだろう。現実で言える事が夢の中ではなぜ言えないんだろう。」
それは夢はその人の空想だから。もちろん空想の中でも時間は間違いなく流れているはずだ。ただ、空想の中でも、また現実においても、一番重要な事は、人はその時間の流れを直接見る事は出来なくて、時計や自然の動きの様な間接的な物でしか時間を把握する事が出来ない点だ。つまり正確に作った時計が10分経ったから、時間も10分経ったと判断する。地球が自転を一回したから、時間の流れも一日を過ぎたと判断する。セシウムの電磁波周期の約91億倍したから時間の流れも一秒経ったであろうと思う。でもそれはあくまでもその間接的な物が示した時間の流れでしかないんだ。時計が10分経ったからと言って、本当に時間も10分経ったと判断出来るのだろうか。
今、僕は夢の中の時計が10分経過したから現実でも10分経過したと考えるのはおかしいと判断した。それならば現実の世界においても同じ事が言えないだろうか。現実世界の時計が10分経過したからと言って、宇宙の底を流れている時間も10分経過したと結論づけられるのだろうか。
たとえば、その時知ろうとする時間の流れが澱んだり、速くなったりしても、時計がそんな事にはお構いなくこれまで通り正確に時を刻んでいたら、その時間の流れの狂いは分からないから、時計の示す通りに時間は正確に流れていると過って判断してしまう事になる。そして反対に、時間の流れはきちんとしていても、時計や自然の動きがおかしくなったりしたら、それでもやっぱり過った判断をしてしまう事になる。そしてその判断が正しいのか間違っているのかを知る手段もない。
だから、夢の中で半日を過ごして、目が覚めた時、眠ってから30分しか経っていないからと言って、直ちに夢が間違っていたとは言えないんだ。夢の中の時計が間違っていたのじゃなくて、実際に狂っていたのは現実の時計、現実の自然の動きの方なのかも知れないじゃないか。そして本当の時間の経過は夢の中で示された通り、30分じゃなく半日だったのかも知れない。
「なんだ、じゃあ、夢も現実も変わらないじゃないか。」
夢の中の時計は夢の外で流れている現実世界の時間をきちんと示しているのか示していないのか分からない。現実世界の時計も本当に正しい時間の流れを把握しているのかどうか分からない。そして、現実ではそれで満足している。それが、宇宙の底に流れる時間の流れを本当にきちんとモニターしているのかいないのか、そんなのはどうでもいい事なのだ。いや、元々、時間の流れなんて事自体無意味なのかも知れないな。時間は流れないで止まっているのかも知れない。時間という物は、それはきっと一歳の僕と二十歳の僕を区別するために考え出されたんだ。一つの僕を違う僕に分けてしまおうって寸法さ。でも結局はどちらも同じ僕なんだから、時間はどちらも同じ。つまり止まっているっていう訳。
「本当に、人間は区別する事が好きだなあ。」
そういえば、運動する人それぞれに対する時間の流れ方が違う事は、現実の世界でもよく知られている事実だ。そうしたら、この時間間隔が本当の一秒かなんて、それもまた下らない事だなあ。人によって一秒の長さが違うんだから。僕は僕の時計をじっと見た。時刻はもう6時30分になっている。
「で、一体、今、現実には何時なんだろう。夢の中で明るくなったんだから、やっぱり現実でも明るくなった、つまり朝が来たと考えるべきじゃないんだろうか。そりゃもちろん、真っ暗闇の中で明るい夢を見る事もあるだろうけど。」
いずれにしても、そろそろ目を覚まさなくてはいけないのではないだろうか。意識はこんなにはっきりしているのだから。
「とにかくこんな夢の中で、あんまりのんびりとはしていられないぞ。そうだ、僕はバイトに行かなきゃいけないんだから。」
バイトの事を思い出した僕の頭は、今が何時かに関わらず早く目を覚まして現在の時刻を確認したい気持ちで一杯になってきた。
「時間の事はどうでもいいや。今の僕が一番しなくちゃいけないのは、一刻も早く目を覚ましてバイトに行く事、これなんだ。でもどうやったら目を覚まして、この夢から抜け出る事が出来るんだろう。」
それが一番難しい問題だった。眠りから覚めるために、夢の中で何をすればいいのか。僕は自分の中に残っている目を覚ました瞬間の記憶を、なんとか思い出そうとした。目を覚ました時の記憶。それは目覚まし時計の音や、誰かの怒鳴る声、あとは何となく自然に目が覚めたり、息苦しかったり、暑かったり寒かったりして目が覚めた事もあったっけ。でも、それらは全て外的な要因だ。夢の中で「ああ、そろそろ起きようかなあ。」と思って目を覚ました事は今まで一度もない。しかし、今までに一度もないからと言って、そのような事が不可能だとは言い切れないはずだ。何か手段がないものだろうか。
「やっぱり、衝撃を与えるのが一番かなあ。駄目かも知れないけど、もう一回やってみるか。」
僕は両手を固く握り締めてヘルメットを叩いたり、あるいは両方の肘掛けを掴んだり、平手でだぼだぼの宇宙服を叩いたりした。しかしヘルメットは堅くて何の衝撃もないし、肘掛けはびくともしないし、宇宙服はモコモコするだけで、体には何の感触も伝わらない。両手の手の平を思い切って叩きあったりしても、よっぽど手袋の布地が厚いのだろうか、叩いているという感じは全くない。手足をじたばたさせたり体を捩ってもそれは何の効果も生み出さない。僕は体に衝撃を与えるのを諦めて、今度は大声で叫んだ。
「おーい、S、起きろお。いつまで寝てるんだあ。早く起きないと、バイト、クビになっちまうぞお。」
僕はあらん限りの大声を出したつもりだった。しかし、その声は遠くで響く雷の様にかすかにしか聞こえなかった。いや、聞こえたと言うよりも感じたと言った方がいいかも知れない。耳を通して伝わるのではなく、頭の中だけで鳴り響いている音のように感じたのだ。僕はため息をついた。これだけ努力しても何も起こらないのだから、やはり夢の中で自分自身の目を覚まそうとしてもそれは不可能なのかも知れない。僕は顔を足の方に向けると、黒い宇宙空間に空ろな目を向けた。その時突然、僕の目の前を何かが横切った。
「おっと、」
僕はびっくりした。それはものすごい勢いで僕の足の方からやって来たかと思うと、僕のすぐ目の前を通過し頭の方へ飛んで行った。
「な、何だ、今のは。」
僕は顔を上へ向けた。僕の体は回転しているので、最初は左側に見えていた地球も、今では僕の頭の上にあるのだ。先程の物体はもう全く見えない。が、飛んで行ったと思しきあたりに、すぐに小さな青白い光が発生した。
「あ、」
と思う間もなく、その光も瞬時に消えてしまった。頭の上には以前と同じ青い地球があるだけ、まさに一瞬の出来事だった。僕はぼんやりと青白い光が消えた地点を眺めながら、さっきのは一体何だったんだろうと考えた。
「分かったぞ、あれは隕石だ。隕石が飛んで来て地球に落ちていったんだ。」
僕の出した結論はそんな単純な事だった。もちろん隕石じゃなく人工衛星の破片とか、もっと別の物か、あるいは夢の中だから何もそんな現実的な物でなくてもいいんだけど、その時の僕にはそう思えたんだ。
「しかし、すごい速度だったな。危ないところだったぞ。何しろ僕のヘルメットをかすめるように飛んで行ったんだから。もうちょっと位置がずれて顔にでも当たってたら、大変な事になっちゃってたかも知れないな。」
僕は隕石に当たらなくてよかったと思った。夢の中で隕石に当たって死んでしまったなんて笑い話にもならない。いや待てよ、夢のなかで隕石に当たって死ぬなんて事あるんだろうか。僕はそんな馬鹿な事を考えた自分がまたおかしくなった。
「そんな事あるはずないよね。むしろ当たってた方が良かったのかも知れないぞ。その衝撃で目が覚めてたかも知れないから。あ、そうだ、もしかしたら、」
僕の頭が閃いた。あの隕石は僕が望んだから出てきたのではないのだろうか。衝撃が、目を覚ますような激しい衝撃が欲しいと願ったから、あの隕石が出てきたのだ。もしそうなら、当たらなければいけなかったんだ。あの隕石に当たっていれば、目を覚ます事が出来たのかも知れないんだ。そう考えると僕は歯ぎしりするほど悔しかった。
「ああ、なんて事だ。せっかく僕の夢が僕の思う通りになりかかっていたのに。」
僕はヘルメットを叩いて悔しがった。しかしそのように悔しがるのもまた意味のない事であった。あの隕石は僕が望む望まないに関わらず出て来たのかも知れないし、もし隕石に当たっていたとしても目は覚めなかったかも知れない。いずれにしても隕石が消えてしまった今となっては何を考えても無駄である。
僕は隕石が消えて行った地球を眺めた。さっきの隕石も地球から見れば一つの流れ星となって見えたであろう。もちろん隕石が消えて行った地点では時刻は昼であるから、流れ星に気付いた人はそんなに居ないはずである。あるいは光が弱過ぎて全く見えなかった可能性もある。でも、一人くらいは気が付いて、何かお願い事をしたりしたかも知れない。
「いいなあ、僕も光が見えている間にお願い事をすればよかった。早くこの夢から抜け出させて下さいって。」
僕は声を低くしてつぶやいたが、心の中ではもう諦め切っていた。夢の中では何をやっても無駄なのだ。現実の僕を夢の中から操作するなんて不可能なのだから。こうなったら余計な努力はせず、現実の僕が独りでに目を覚ますのを待ち続けるしかないだろう。
それにしても、なんて怠惰な現実の僕だろう。こんなに意識がはっきりしているのにまだ惰眠を貪っているなんて。僕は眠っている自分を叱ってやりたいような気持ちだった。
「夢の中の僕はこんなふうに足を動かしたり、大声を出したりしていても、現実の僕はきっと今頃はまるで丸太の様に身動きもせず、よだれを垂らしてぐーぐー寝ているんだろうなあ。まったく、」
眠っている僕は、こんなに夢の中で苦しんでいる僕を知っているんだろうか。それとも、こんなに苦しんでいる僕は実は偽物の僕なんだろうか。僕は自分の右手を顔の前に持ってきた。僕は今、右手を上げている。しかしもちろん寝ている僕は右手を上げたりしてはいないだろう。僕は腕をふり動かした。僕の腕が動いているという確かな感覚がある。しかし、現実の僕はおそらく腕を振ったりはしていないはずだから、この感覚は偽物である。僕はもう一度、右手を目の前に持ってきた。僕の右手、僕の右手はここに確かに存在している。しかし、これは夢の中なんだ。夢の中の物は実際には存在しないものだ。つまり、今、僕が見ているこの右手は実際には存在しないのだ。右手だけじゃない。この地球も宇宙服を着た僕も実際には存在していないのだ。僕は存在しない地球を見たり、存在しない僕の右手を見ているんだ。
するとまた一つの疑問が浮かんできた。目が覚めていた時の現実の世界では、見たり聞いたりして対象物が何らかの観測に掛かっただけで、それは存在するものとして認められる。でもそれは本当に存在するものなんだろうか。だって、この夢の中では僕は間違いなく右手を見ているし、地球を見ているし、自分を感じている。でもこれらの物は間違いなく存在していないのだ。見たり聞いたり感じたりする事が、その物の存在証明にはならないのだ。
「これが夢だ」という前提を持ってくるだけで、たとえ観測可能でも存在が証明できないのなら、現実の存在はなんと脆いものなのだろう。現実だって「これは現実だ」と言い切れるだけの確たる証拠など何もないのだから。それは今僕が見ている夢が「間違い無く夢である」と証明出来ないのと同じ事だ。現実が現実と証明出来ないのなら、存在さえも危うい。夢の中の僕の右手の様に。
「僕が見ていたのは何だったのだろう。」
夢の中で僕が見ているものは決して存在しない。そしてもちろん、この宇宙空間に浮いている僕自身さえも存在しないもの。
「その存在しない僕が頭に描く思考も、当然存在しないものなのかな。すると、今まであれこれ考えてきた事、それも存在しないって事になるのかなあ。」
いや、考えているのは宇宙に浮かんでいる僕ではなくて、現実の世界で眠っている僕なのではないだろうか。現実の僕の思考が夢の中の僕を通して、こうして夢の中に現れているのでは、、、それじゃあ、現実の僕に言ってやらなくっちゃ。
「おーい、現実の僕、下らない事を考えるのはやめてくれえー。」
僕は叫びながら、ヘルメットを両手でぼこぼこ叩いた。もちろん何の痛みもない。そう言えば、夢か現実かを判断する方法として、ほっぺたをつねるというのがあったっけ。ほっぺたをつねって痛ければ現実、痛くなければ夢。もしこの判断方法が正しいのなら、夢の中では痛みを感じないって事になる。とすれば、夢の中で衝撃を与えようとしても無理なんだ。ほっぺたをつねって、その痛みで目を覚まそうとしているようなものなのだから。
「でも、本当に痛くないんだろうか。」
現実でほっぺたをつねっている人は見た事あるけど、夢の中でほっぺたをつねった事のある人ってのは居るんだろうか。夢の中ではほっぺたをつねっても、本当に痛くないんだろうか。僕は不思議に思った。今まで見た夢の中で痛みを感じた夢はなかっただろうか。暑さや寒さを感じた夢はあるんだ。それなら痛みを感じた夢があってもおかしくはない気もする。
いや、暑さ、寒さを感じたのは、それが実際に暑かったり寒かったりしたからかも知れない。眠っている僕が布団を蹴飛ばして体が冷えたり、朝日に照らされて顔が火照ったりして、その現実の体の感覚が夢に反映されただけかも知れない。とすれば、眠っている僕のほっぺたを誰かがつねったりしない限り、やっぱり、夢の中では痛みを感じないのではないだろうか。恐れや、悲しみや、喜びや、そういう精神的なものは夢の中で味わえても、暑い寒い痛いというような肉体的な感覚は、現実にそうでない限り、味わえないのではないだろうか。つまり夢の中の肉体的な感覚は全て現実に起こっている感覚と一致するという事、、、
「ほんとうに?」
そのように考えるのもまた納得のいかない事だった。なぜなら見たり聞いたりする事、これは明らかに肉体的な感覚ではないか。だが、夢とはまさに見たり聞いたりする事なんだ。そして、その見えたり聞こえたりしている事は現実に起きている事とはまるで関係ない事、あるいは関係あるにしても、現実に起きている事がそのまま夢の中へ現れるわけではないのだ。そんな事ですら夢の中では平気で起こるのに、たかが痛みを感じるくらいの事が、現実に痛みを感じなければ夢の中では起こらないなんて、、、
「変だよなあ、痛みだけをそんな特別扱いするなんて。」
酸っぱい梅干を見ただけで酸っぱさを感じたり、注射を射たれている人を見て自分の腕に痛みを感じたり、寒そうな格好をしている人に会っただけで思わず身震いしたり、実際には自分の肉体に起きていない感覚が生じる事は現実にだってよくあるだろう。
「だから、もちろん夢の中でも充分あり得る事だ。」
となれば、ほっぺたをつねって痛みを感じたからと言って、今自分は現実の中に居るのだと断定する事は出来ないって事になる。夢の中でだって、ほっぺたをつねって痛みを感じる事はあり得ない事ではないのだから。
「そしたら逆にほっぺたをつねって痛くなければ、それは夢だと思ってもいいのかな。」
いや現実でも痛みを感じない場合はある。深酒をして泥酔している時とか局部麻酔で感覚がない時とか特殊な場合には、、、つまり痛みとはその有無に関わらず、それのみで現状が現実か夢かを判断するのは不可能な現象なのだ。同様の事が他の感覚についても言えるはずだ。
「人間の感覚なんていい加減なものだもんなあ。」
それにしても、この夢はきわめて現実的だから、もしほっぺたをつねる事が出来れば、あるいは痛みを感じるかも知れない。そして逆に言うと、現実的でありたいという僕の気持ちが、わざわざこんなヘルメットやだぼだぼの宇宙服を着せているのかも知れないな。つまり、もしこの夢の中でほっぺたをつねる事が出来れば、痛くないかも知れない。そうすると、その時点でこの夢の現実性が薄れてしまうので、それが嫌でわざとこんな格好をさせて、ほっぺたをつねるような行為をさせないようにしているんだ。もし痛みを感じなくても直ちにこれは夢だと断定は出来ないものの、現在の状況でその理由を説明するのは困難だ。まさかほっぺたに局部麻酔をして宇宙を漂っているとは考え難いだろうから。だから衝撃や痛みを感じさせないように、宇宙空間を漂わせて、僕を肉体的感覚から遠ざけているのだ。これだけ体全体がすっぽり覆われていたら、痛みも衝撃も何も感じなくても全く不思議ではない。つまり僕の心の中には、それだけこの夢の現実性に強く拘る気持ちがあるのかも知れない。
「現実性か。」
その言葉を口にした途端、ふと、恐ろしい考えが僕の頭に浮かび上がった。いや、その考えはずっと以前から僕の頭の中にあったのだ。ただ、それは余りにも突拍子過ぎて、無意識の内に頭のずっと奥の方へ押し込めようとしていたのだ。
「まさか、」
僕はその考えを打ち消そうとした。だが、一度浮かび上がったその考えを、再び底へ押し沈める事は出来なかった。それは僕の頭の中で徐々に成長し、もはや無視する事は不可能なくらい大きく膨らみ始めていた。
「まさか、夢じゃなくて、」
夢じゃなくて現実? まさか。一体どうしてそんな考えを抱くのか。
「それはこの夢が余りにも現実的だから。」
そうだ、確かに現実的だ。しかしそれだけで、これは夢ではないとは断定出来ないだろう。逆に夢の様な現実だって存在するんだ。現実の様な夢が存在しても何の不思議もない。
「そ、そうだよね。それに現実と考えるのはかなり無理があるんだから。だって、昨日まで大学の研究室でうだうだしていた一人の学生が、次の日突然地球の周りを一人で回っているなんて、いくら科学が発達したと言ったって99%あり得ないよな。」
例えば僕が宇宙飛行士で、昨日まで訓練を受けていたとでも言うのであれば、これが現実ではないかと疑うのにもまだ少しは理がある。しかし今まで宇宙とは何の関係もなかった僕がこうして宇宙に浮かんでいる、この状況を現実ではないかと思うなんて、
「また、変な想像しちゃったなあ。」
しかし、僕の頭はまだモヤモヤしていた。なぜこんな違和感を抱くのだろう。この夢が現実的過ぎるのもあるけど、とにかくおかしいんだ。夢であるのは間違いないのに、どうしても自信が持てない。これが夢だと言い切れる確かな物が何もない。
「そうだ、それだ。」
僕はようやくこの頭のモヤモヤが何なのか分かりかけてきた。夢の中で夢だと思ってはいるが、これが夢であるという確たる証拠が無いのだ。証拠も無いのに信じているから、どうもすっきりしないのだ。それならその証拠を見つけ出せばいい。間違いなくこれは夢なんだという証拠を。
「で、その証拠というのはどんなものだろう。」
何でもいいんだ。夢というのは現実には起こらない事が起こるわけだから、現実ではあり得ない事、物、現象、そういったものを見つけたり、起こしたりすればいいんだ。
「とは言うものの、どんな現象をどうやって起こせばいいのだろう。」
僕は今までの夢の中の出来事を、夢の中に居ると気付いた時から思い返した。その中で現実と矛盾するような事が起こらなかったかどうかを確かめようと思ったのだ。最初は、暗闇の中。その中で光る星。それは今も輝いている。それから、地球が現れたんだ。青い地球。腕にはめた時計、だぼだぼの宇宙服、隕石。僕はこれまでの事を色々思い出した。しかし、これが夢だという事を積極的に支持してくれる現象はどうしても思い浮かばなかった。あまりにも現実的過ぎるのだ。それは眠っている僕自身が現実性に拘っている所為なのかも知れないけど、地球の周りを回っているというとんでもない現象を除けば、その他の事は全て現実と信じるに値する事ばかりだ。これが夢であると証明するのは不可能なのだろうか。なぜなら、この夢を見せている僕自身が余りにも現実性に拘り過ぎている様子なのだから。
「でも、」
そう考えても僕の気分は晴れなかった。そして、これが夢であるという証拠を求める気持ちはますます強くなっていった。僕の気持ちは固まった。
「よし、それなら、現実と違うような現象を僕が造り出してやる。これはどうしたって夢であると考えざるを得ないような現象を、この夢の中から引き出してやればいいんだ。」
なにも現象が起きるのを待っている事はないのだ。自分で現実と矛盾する事柄を造り出せばいいのだ。
「とは言うものの、どうすればいいのかな。」
僕は周りをきょろきょろ見回した。しかし何もない。宇宙空間だから何もないのは当然なのだが、これではどうしようもない。
「何か、いい方法はないかなあ。」
僕は自分の身に着けている宇宙服に目をやった。銀色に輝く表面、腹から胸にかけて取り付けられた器材、左右の肘掛け、その先端の操縦桿のような物。
「この棒は何だろう。」
僕は肘掛けに付いている操縦桿をいじくりまわした。しかし、左右にある操縦桿はまるで動かない。押しても引いても、何をしようと全く動かない。
「なんだ、まるで動かないじゃないか。これはただの飾りなのか。」
しかしただの飾りの棒を宇宙服に付けるというのは現実的ではない。とすると、やはり夢。
「いや、そうとは言えないぞ。壊れているのかも知れない。だいたい宇宙飛行士がこんな所を一人で漂っているという事自体異常事態なんだから、装置が壊れてても不思議じゃないや。」
操縦桿が全て動かないのは奇妙だったが、現実にあり得ない事ではない。操縦桿の動きが全く駄目になるような事態が発生したとも考えられるから、これを以って現実ではないとは言い難い。僕は操縦桿を諦めて、他に何かないか体をあちこち探し続けた。
「おや、」
背中に背負った箱の左肩の近くで小さな出っ張り物を感じた。指で摘まんで捩るとくるくる動く。引っ張るとするりと抜けた。そのまま顔の前に持って来る。長さ5cm位の小さな破片だ。
「何だ? これは。」
僕は破片が取れた辺りを触ってみた。だいぶ凸凹している。右肩の同じ辺りを触ってもそのような凸凹はない。
「左肩の所が壊れているみたいだな。どうして壊れているんだろう。」
それは僕には分からなかった。しかし、宇宙飛行士がこの様な状況に置かれている事を考えれば、装置の一部が壊れているとしてもそう不思議ではない。むしろ、何か大きな事故があった事を裏付ける一つの証拠になるかも知れない。その事故の為に僕はこんな宇宙空間へ一人だけで放り出されたと考えられるからだ。つまりこの左肩の破損も現実性の一つの現れと言える事になる。僕は破片を見ながら考えた。
「この破片で何か出来ないかな。」
僕は破片を宙に浮かせた。破片は静かに浮いている。今度は指で回してみた。くるくる回ってなかなか止まらない。回っている破片を手に取って回転を止めると、今度は右手に握って左手に向かって投げたりもしてみた。ゆっくりと、手品のように左手へ移動していく。左手に当たると跳ね返って、僕の体を目掛けて飛んでくる。僕はそれを右手で受け止めた。
「駄目だな。」
今起きた現象に不自然なところはなかった。もちろん宇宙でこんな事をするのは初めてだから、これが本当に正しい動きなのかどうかは自信が持てなかった。だが僕の科学的な知識と照らし合わせてみても、明らかに違和感を感じる動きであるとは言えなかった。僕は首を振った。
「やっぱり無理なんだ。だって、これは僕が見ている夢なんだから、きっとどんな事をやったって、現実的な結果になるに決まってるんだ。僕の知っている事は僕の知っている通りになってしまうんだから。僕の現実性への拘りを考えれば、この夢の中で僕の科学的知識に矛盾するような現象を、現実の僕が起こそうとするはずがない。」
じゃあ自分の知らない事をやってみればどうだろう。それなら結果がどうなるか知らない訳だから、僕の思った通りになる事もないだろう。いや駄目だ。自分の知らない事だと出てきた結果が正しいか間違っているかの判断がつけられない。正誤を判定出来るのはその答えを知っている者だけなのだから。つまり何をやってみても駄目なんだ。
「ああ、なんて事だ。」
それでも僕は諦められなくて、破片を曲げようとしたり、両手で押し潰そうとしたりした。こんな堅い破片が曲がったり潰れたりすれば、明らかにおかしい現象となるからだ。しかし期待している結果は何一つ現れてこない。もう何をやっても駄目だと分かると、僕は親指と人差し指で破片を挟んだ。そして地球目掛けて弾き飛ばしてやった。
「そら、地球へ帰れよ。」
破片はゆっくりと回りながら地球に落ちて行った。地球は今、僕の体の右側に見えている。破片を弾いた時の反作用で僕の体の運動に若干の変化があるはずだが、それは明確には分からなかった。破片の質量が僕の質量に比べて小さ過ぎるからだ。
「一体何なんだ、この夢は。」
僕にはこの夢が分からなかった。なぜこんなに違和感があるのだろう。とても夢とは思えないような夢。でも夢である事に間違いない夢。なぜこの夢だけ、こうも奇妙な感じを受けるのか。
「それはこの夢が現実的だから。現実的、現実的?」
その時、僕の頭の中にまるで正反対の考えが浮かんだ。違うのだ。現実的だからおかしいのではないのだ。だって、考えてもみてよ。夢を見ている間はいつだってその夢は現実だと思っているんだ。そして、それが夢だと分かるのは夢から覚めた後なんだ。夢の中に居る時からこれは夢だなんて思う事はあり得ない。どんなに馬鹿げた、現実とかけ離れた事でも、夢を見ている時はそれは紛れもなく現実なんだ。「昨晩までは確かに自分の部屋に居た。それなのに今は崖から飛び降りて空を飛んでいる。これはあり得ない事であるから、現在見ているのは夢である」というような思考は夢の中ではあり得ない。夢の中では全てが常に現実なのだ。現実だと思い込んでいるからこそ、本気で怖がったり悲しがったりするんだ。そして夢から覚めた後、ああ、夢だったんだ、現実じゃなかったんだと気付く。あんなに馬鹿げた出来事を現実だと信じ込んでいた愚かな自分に気付く。そう、夢だと気付くのはいつだって夢から覚めた後なんだ。
「それなのに、この夢では夢の中に居るうちに夢だと気付いている。」
そしてその事こそがこの夢の一番奇妙なところなんだ。夢の内容が現実的か現実的でないかは関係ない。夢の中で夢だと気付いているか、気付いていないか、それが最も重要な点なんだ。
「でもそしたら、一体なぜ僕はすでに夢だと気付いているんだろう。どうしてそんな奇妙な夢を見ているんだろう。今回に限っていつもと違う夢を見なければいけない理由は何なのだろう。」
昨晩の酒がそんなに多かったのだろうか。飲み慣れない酒を飲んだからか。それとも僕の心理状態がこんな夢を見せる状況にあって、それで、、、
『ピッピッ』
「えっ、」
僕の体が一瞬凍りついた。そしてそれを逃すまいとでもするかの様に、僕は自分の両手をヘルメットの耳の部分に押し当てた。
「今のは確かに、」
音だった。何の音かは分からないが確かに音が聞こえたのだ。僕はそのままの状態で耳を澄ませてみた。しかしもう何も聞こえない。
「空耳だったのだろうか。」
空耳は現実でもよくある現象だから、意味のない音がしたというだけでは、夢であるという証拠にはならないだろう。僕は首を振って、さっき弾き飛ばした破片を見た。破片はもう点のように小さくなっている。このまま大気圏へ突っ込むのか、あるいは地球の周りを回り出すのか、破片の運動の初期条件と、加えた力の向きと大きさが分からないので何とも言えなかった。
『ピッピッ』
「まただ。」
また音がする。さっきと全く同じ音だ。
「空耳じゃない。確かに音がするんだ。でもなぜ。」
不思議だった。今まで何の音も聞こえなかったのだ。そして音の事などはこれっぽっちも考えていなかったのに、どうして突然こんな音が聞こえてくるんだろう。
「音がする。宇宙空間で音がする。これはどう考えても現実的じゃない。それも急に音が発生するなんてどう考えても変だ。つまりそれはあり得ない事なんだ。あり得ない事が起こっているのだから、これは夢だと考えざるを得ないな。」
だが僕はまだ疑っていた。空耳が何度も続く事はあり得ない事ではないし、ヘルッメトになんらかの通信機能が備っていないとも限らない。それが、何かのはずみで機能を回復したとも考えられる。結論は急がない方がいいかも知れない。それにしてもこの音をどう解釈すればいいのだろうか。
「さっき、光が見えてきた時、あれはどんな時だったんだろう。」
僕は光が見えてきた時の事を思い出そうとした。あの時も今に負けず衝撃的な出来事であったのだから、音が聞こえてきたという今回の現象の解釈に何か役に立ちそうな事があるかも知れないと思われたのだ。
「あの時、僕は暗闇を嫌っていた。本当に一刻も早くここから逃げ出したかったんだ。やがてそれにも諦めて目を閉じた。そしたら見えてきたんだっけ。」
今、この音が聞こえてきた時、暗闇を嫌っていた時のように何も聞こえない事を嫌っていただろうか。何か聞きたいと願っていただろうか。いやそんな事はない。もちろんこの夢が僕の意志通りになるものではない事は分かってはいたが、それでも光が見えてきた時には暗闇から抜け出せたという喜びがあった。光が見たいという僕の願いが叶えてもらえたという気持ちも少しはあったのだ。だが、今は驚きしかない。全く予期せぬ出来事だ。この音に必然性でもあるのだろうか。この夢の中でこの音はどんな役割を与えられているのだろう。電子音の様な規則正しい音は全く正確に聞こえてくる。もはや空耳とは考えられない。この音はこの夢の中で確かに存在しているのだ。
『ピッピッ』
僕は耳を澄ました。と、その時だ。その電子音の後から別の音が聞こえてきた。それはこれまでのこの夢の概念を大きく覆す、全く僕の意識の外にある驚愕すべき音だった。
『生命徴候は、、、』
「こ、声だ!」
聞こえてきたのは声だった。人の声だ。
「なぜ、声が、人の声が、」
僕の頭の中は立て続けに起こる新しい出来事に掻き乱されて、もうごちゃごちゃになっていた。
「声が聞こえる、これも空耳? それとも現実? いや、こんな所で声が聞こえるなんて、現実にはどう考えたってあり得ない。夢なんだ。やっぱりこれは夢。」
僕はなんとか落ち着こうとした。落ち着いて、もう一度冷静に考えてみようと思った。声はなおも続いている。
『確認しました。患者は、』
『変化ありません。完全に昏睡状態です。』
『3-3-9度方式でお願いします。』
「患者、患者だって、、、」
その声は確かにそう言った。患者って誰の事だろう。この夢の中で誰か病気になった人でも出てくると言うのだろうか。
『レベル300です。』
『脳波は、、、ややノイジィーですが平坦状態です。』
一体何だろうこの声は。最初に聞こえた規則正しい電子音も休みなく聞こえている。
「何だか病院みたいだぞ、でもどうして声だけ病院なんだろう。僕はこうして宇宙に居るのに。」
『では続けてください。瞳孔は、』
その時、僕の頭の中に全てを理解する一つの恐ろしい考えが浮かんだ。どうして僕はこんな奇妙な夢を見ているのか。どうして普通の夢とは違い過ぎると感じているのか。それは現実の僕自身の状態が、いつもの正常な状態ではないからではないか。僕自身が普段とは違うなにか特殊な状態に置かれているので、その状態で見る夢も今までに見た事もない夢になってしまったのでは、、、
『はい、固定ですね。瞳孔径お願いします。』
では、正常ではない特殊な状態とはどんな状態なのだろう。僕の置かれている普段と違う状態とは何だろう。それはたとえば精神的、もしくは肉体的に僕自身が異常をきたしているという事ではないのだろうか。
『右、6ミリ、左は5ミリです。』
しかし精神的におかしくなったとは考えられなかった。僕は自分自身では極めて冷静な判断をしているつもりだったから。
「という事は、、、」
僕は昨晩眠る前までの事を必死で思い出した。酒を飲んでいて、先輩が先に帰って、僕はそれでも飲んでいて、それから、誰も居なくなって、それから僕も帰ろうと思って、その後、僕も下宿に帰った? いや、そのまま研究室のソファーの上で?、、、
「ああ、思い出せない。」
どうしても最後まで思い出す事が出来ないのだ。僕は両手でヘルメットを抱え込んだ。
『脳幹反射お願いします。』
僕が特殊な状況に置かれているとすれば、そしてそれが精神的なものでないとすれば、肉体的に僕の身に何かがあったとしか思えなかった。それは充分あり得る事なのだ。僕は酒を飲んでいたし、眠る直前に何をしていたのか覚えていない程酔っていたのだから。そして今聞こえているこの声、明らかにこれは病院の医師の声だ。
『対光反射、角膜反射、診ましたか?』
『消失です。ああ、変わらないですね。毛様脊髄は、、首の皮で、、、』
「つまり、僕の身に何かがあって病院に運び込まれた、、、」
僕はそんな自分の考えをとても信じたくはなかった。しかしこの現実。夢の中で起きているこの現実は、この考えを強く支持するものだった。おそらく下宿へ帰る途中、あるいは研究室の中で、酒に酔った僕はなんらかの事故に巻き込まれてしまったのだ。
「車にはねられたとか、川に落ちたとか、あるいは酔ったまま実験室に潜り込んで高圧電流に感電したとか、」
考えてみれば全て起こり得る事ばかりだ。そして、病院に運び込まれて、今、こうして医師の言葉を聞いている。医師の言葉が僕の耳を通して、意識の戻らない僕が見ている夢の中に入って来ているのだ。
「実に見事な解釈だ。」
そう言った僕の声は震えていた。
『眼球頭反射はどうですか、、、はい、OKです。』
『前庭反射は、冷水と温水の両方を、、、』
僕の心は完全に凍り付いていた。もう何も考えたくなかった。僕は顔を右側に向けて地球を見た。青い地球、その青さが優しいほどに僕の心に染みてきた。そして心の底から本当にあの青い地球に戻りたいと思った。
『咽頭反射、咳反射、、、消失、、、以上ですね。』
僕はこの夢の中で何をしてきたのだろう。どうしてこんな簡単な事に気付かなかったんだろう。あれこれ馬鹿な事ばかり考えて一番重要な事に気付かなかったなんて。
『脳波は、、平坦、、はい。』
『自発呼吸チェックして下さい。純酸素は、』
『準備出来ています。』
『CO2もいいですね。じゃあ、診てみます。』
だがたとえ気付いていたとしても何が出来ただろう。ただこの夢の中でもがき喘ぐだけの事ではないか。それなら夢の中で楽しめた分だけ気付くのが遅れた方が良かったのではないか。いや、こんな事には気付かない方が良かったんだ。夢か現実か分からないままでいた方が、いつかはこの夢も覚めるだろうと思っていた方が、、、
「ああ、でも僕の状態はどんなだろう。大分ひどい怪我なのだろうか。それともたいした事もないのに、意識が戻らないのだろうか。」
『停止です。』
『数値的には、、、一回目とほとんど変化なしですね。』
僕は目線をずらして自分の体を見た。夢の中の自分の体に悪い所はどこも見当たらない。だが、これまでに自分の体をあんなに叩いたり殴ったりしても何の痛みも衝撃も感じなかった事を思い出すと、僕の体の状態はよほど悪いのではないかと思わずにはいられなかった。それはつまり現実の僕自身の肉体が何の感覚も持ち得ていない事を意味するのだから。
『判定基準は全て満たされています。』
その時、今までになく緊張した声が僕の耳に響いてきた。僕は不吉なものを感じて、聞こえてくる声に耳をそばだてた。
『以上によって、○時○分、この患者は脳死と診断します。』
「な、なんだって、」
僕は自分の耳を疑った。脳死、つまり死んでいるっていう事、
「そ、そんな、そんな馬鹿な、、、」
僕は顔を左側に向けた。黒い、真っ暗な宇宙空間が無数の星を鋭く光らせながら、口を開けて待っている。僕は何か強力な恐ろしい力が、僕をその中へ引き摺り込もうとしているのを感じた。それは僕が現実の世界でいつも心の中で脅えていた、得体の知れない不安によく似ていた。
第二章
『では家族の方に、』
今、確かに脳死という言葉が聞こえた。つまり僕は死んでいるって事なのだろうか。
「そんな馬鹿な。」
そう、それはおかしな事だった。死んでいるのならこんな風に思ったり考えたり出来るはずもないからだ。
「僕の聞き間違いだろうか。」
僕は耳を澄ました。しかし人の声はもう聞こえてこなかった。最初にこの夢の沈黙を破ったあの電子音が、規則正しく聞こえているだけだ。さっきまで喧しいくらいに聞こえていた声や物音が嘘のようだ。
「おや、」
僕は地球の姿が変わっているのに気が付いた。僕の視野の一番左端に見える地球の一部が橙色になっている。理由はすぐに分かった。太陽が沈みかけているのだ。
「夕焼けか。」
それはこの夢に初めて光が現れた時、地球の周りを回っていると初めて認識出来た時と全く逆の現象だった。
「つまりこれは、僕が地球を半周したって事なんだな。さっきは夜の部分から昼の部分への移動だったけど、今はその逆で日の当たる部分から日の当たらない部分へ入って行くところなんだ。」
地球を回っている以上、昼と夜が交互にやって来るのは当然考えられる事だ。これまで見えていた地球上の景色から、僕の軌道はほぼ赤道上であること分かっていたので、これは充分理に叶っている。
ふと僕はある事に気付いた。左手を上げて時計を見ると、6時55分を示している。
「最初に時計に気付いたのが6時10分頃。それから45分経っている。明るくなってから時計に気付くまで少し間があったから、50分程度で地球を半周したという事か。合ってるな。」
確かスペ-スシャトルは90分で地球を一周すると聞いた事がある。ここから見える地球の大きさと考え合わせれば、この50分という時間も現実的な数値だ。僕はこの夢の余りの厳密さに、少しがっかりして、そしておかしくなった。
「ははは、夢であると分かったのに、まだこんなに現実性に拘っている。本当に馬鹿正直な夢だなあ。」
太陽の姿は地球の向こうへ消えていく。まもなくこの夢は元の暗闇の夢に戻ってしまうだろう。もちろん夢だからそうならないかも知れないが。
「暗闇か。あるいは今度暗闇がやって来た時が、、、」
僕は言いかけて首を振った。何故そんな事を考えるのだ。僕はもう一度考え直そうと思った、この夢を。とにかく今の僕にはもう考える事しか出来ないんだ。暗闇が僕の背後からゆっくりと忍び寄って来る。
「何れにしても僕の身に何か重大な事が起きているのは確かなんだ。そしてその異常さゆえに、この夢が今までにない内容になっているという事も。」
問題は最後に聞こえた言葉だ。脳死、つまり僕は死んでいるという事。これだけはどうにも納得がいかない。死んでいるのならこの様な夢を見るはずがないのだから。それも体が死んでいるのではなく脳が死んでいると言うのである。夢とはまさに脳で見るものであるから、これは明らかに矛盾だ。つまり最後の言葉は現実的な言葉とは思えない。
「最後の言葉だけ僕が聞き間違えたんだろうか。いや、そんなはずはない。あの言葉だけは他の言葉と違ってはっきりと聞き取れたんだから。それともさっきまで聞こえていた人間の言葉、あれは全て夢の中の言葉であって、現実の言葉ではないと言うのだろうか。」
現実の言葉でないのなら、医師に君は死体だと言われようが、脳だけ死んでいると言われようが何の矛盾もない。
「でもさっき聞いた医学上の言葉は、僕の知らない言葉ばかりだ。僕の夢の中で僕の知らない言葉が出てくる事なんてあるんだろうか。自分の知らない言葉を空想の中で出現させる事が出来るのだろうか。」
それは考え難い様に思われた。幼稚園の子供が微積分の方程式を解く夢を見るようなものだ。もちろんさっき聞いた言葉が本当に正しい言葉なのかどうかを判断する事も出来ないわけだから、断定は出来ない。いかにも医学用語らしい言葉を僕が頭の中で勝手に造り出して、それを夢の中へ出現させていると考える事も出来るのだ。そう考えれば、先ほどの言葉も何もかも全て夢の中の事で、僕が病院にいる事、あるいは、何かの事故で肉体的ダメージを負っているらしい事、これらは全て不確かな事になる。実際は下宿の蒲団の上でいつもの通りに眠りながら、真っ暗な宇宙を漂いながらもっともらしい医者の声を聞いているという、一風変わった夢を見ているのだと考える事も出来るのだ。
「でもそれならこの夢の特異性は、」
この夢はいつも見る夢とは違い過ぎるのだ。しかし、それは僕が事故...恐らくはかなり重大な事故だったのだろうが...に遭って、その影響が夢にも出てしまったのではないかと考えた事で、一応僕は納得していたのだ。今、全てが夢だと言うのなら、その考えはどの様に修正されるのだろう。
「いや、いつもと違い過ぎると考えるのがおかしいのだ。夢の中の判断なんて、いつだっておかしいんだ。夢の中でこの夢はおかしいと判断するのには無理がある。全て夢なんだ。この電子音も医師の声も、何もかも、、、」
僕は頭を振った。違うのだ。こんな事を言っても駄目なのだ。僕は自分で自分をだまそうとしているのだ。自分が置かれている状況を信じたくないのだ。理屈ばかりこねて真実を見ようとしない僕の態度。もういい加減に諦めるべきなのかも知れない。最もありふれた、そして最も真実味のある結論...これが夢が現実かと問われれば?
「夢だ。」
そう。そしてこの夢が奇妙か奇妙でないかと問われれば?
「普通とは違い過ぎる。」
そしてその違い過ぎる理由は?
「うわ!」
僕は大声を上げた。それは突然だった。見えていた地球の姿が暗闇に飲み込まれたかと思うと、真っ黒な宇宙空間が再び僕に覆い被さってきたのだ。
「ああ、そうだった。地球を半周して夜の部分に入るところだったんだ。すっかり忘れてた。」
僕は地球が見えていた辺りに目をやった。小さく光るものが見える。地上の光なのだろう。
「また、暗闇に逆戻りか。」
この暗闇はまるで僕自身の心の中を表しているように思えた。僕は暗闇ではなく絶望に包まれているのだ。今の僕はもう全てを受け入れていた。現在の僕の状態も。この電子音もあの医師の声も。ただあの一言だけを除いて、だが。
「考えてみればこの宇宙服。これだって意味があるじゃないか。」
そう、医師の話し振りから、僕の脳のダメージは相当大きい様子だ。つまり何の痛みも感じない、感触もない、そういった僕の肉体的な状態を、この宇宙服は表現しているのではないのだろうか。叩いても殴っても何も感じないように、わざわざこんな宇宙服とヘルメットが夢の中の僕の体に装着されたのだ。
「でもこの夢の中で光は感じた、話し声も聞こえた。つまり目と耳はまだ大丈夫って事なんじゃないだろうか。」
しかし、暗闇の中でも明るい夢を見る事は出来る。静寂の中でも騒がしい夢を見る事もある。夢の中でその機能が生きていると言って、現実の肉体の機能も生きているとは言い難い。
「光は確かにそうかも知れない。でも僕が聞こえたのは実際の医師の話し声なんだ。夢の中の音じゃなく現実の音を捕えられたんだ。それなら現実の僕の耳もまだ大丈夫って事じゃないか。それに僕はまだ生きている。こうして考えていられるんだから、これこそ生きているって事じゃないか。」
そう、この事。この事実だけがどうしても理解出来ない点なのだ。僕は今までの夢を思い返した。あの電子音。それは今も鳴っている。おそらく何かの治療装置の音なのだろう。あの時、何故この音はあんなに急に聞こえてきたのだろう。これほど連続して鳴っている音なら夢の最初から聞こえたっていいはずじゃないか。なのに音が聞こえ出したのは夢の途中からだ。これは何を意味するのか。
「僕の聴覚機能はあの音が聞こえるまでは確かに消失していたのだ。しかし、何かのはずみで突然聴覚機能が回復した。そして音が聞こえるようになった、そう考えられないだろうか。それにこの夢だってそうだ。僕の身に何かが起こって、すぐに夢を見始めた訳ではないはずだ。少なくともこの夢は病院で然るべき治療を受けた後に始まったに違いない。つまり最初は僕の体は夢を見られるような状態ではなかったが夢を見られるまでに回復し、さらに時間が経つうちに、聴覚機能までも取り戻したんだ。つまり僕の体は確実に回復に向かっているんだ。」
もしそうならまだ望みはある。医者の声はあの時、確かに脳死だと言っていた。しかし、もう駄目ですと言われても治癒した人だって何人もいるはずだ。しかも僕は明らかに回復しつつある。夢も見始めたし、音も聞こえ始めているんだから。そのうち完全に意識を取り戻す可能性も充分にある。僕は宇宙空間に目をやると無数に煌く星々を見た。消えかけていた僕の中の希望の光が、僅かではあるがその輝きを取り戻し始めたような気がした。
「それにしても、この暗闇。また元の暗闇に戻ってしまったのはどうしてだろう。せっかく得た光を失うなんて。」
それは僕の中の拘りだ。地球を回っているのにいつまでも明るいままじゃおかしいという僕の常識みたいな物が、もう一度この暗闇を呼び寄せたんだ。光を感じる機能がなくなったという訳じゃないはずだ。
「そうだ、僕は病院にいるんだもの。このまま目が覚めないなんてあるはずないじゃないか。僕の耳が聞こえている事も医師にはすぐに分かるはずだ。さっきは耳が聞こえ始めてまだそんなに時間が経過していなかったから、分からなかっただけなんだ。そして僕が夢を見られるくらい回復している事だって分かるはずだ。よし、目が覚めたら言ってやるぞ。僕の事をもう死んだなんて言っていた医師がいたでしょ、ちゃんと聞こえてたんだよって。皆びっくりするだろうなあ。」
僕はすっかり楽天的になっていた。これは現実ではなく夢である事がほぼ確実になった事。自分の今の状態がしっかり把握出来た事。バイトに遅れてもこれで言い訳が出来る事。もう申し分のない事ばかりだ。あとは目を覚ますだけ。それが出来れば何も言う事はない。そして病院で治療を受けている以上、それはそう遠くはないように思われた。
『こちらです。』
また声が聞こえてきた。それは先ほどまで聞こえていた医師たちの声ではなかった。丁寧で謙った、それなのに妙に自信に満ち溢れた口調の男の声だ。こうして声の質まで聞き取れるのだから、やはり僕の耳の機能はかなり回復しているようだ。
『ご無理を言って、申し訳ありません。』
「この声は、」
聞き覚えのある声だった。
「ああ、分かった。母さんの声だ。なるほど、家族が呼ばれたんだな。」
僕は、ベッドに横たわっている僕を見詰める母さんの姿を想像した。きっと、心配そうな顔で僕を見ているんだろうなあ。
「よし、この事も目が覚めてから言ってやろう。」
『いえいえ、とんでも御座いません。ドナーの家族の方々に充分理解して頂くのも、私たち移植コーディネーターの使命ですから。脳死については最初にご説明差し上げた通りです。あの説明で納得されない個所が御座いましたら、何度でも説明させて頂きます。』
『でもこうして見ていると、死んでいるとは思えないな。手だってこんなに暖かいし。』
「なんだ、父さんまで来てるのか。御苦労な事だな。」
僕は家族の声を聞きながら、楽しくて仕方なかった。二人とも僕が聞いているなんて知らずに話しているんだろうなあ。それにしても皆、早く気付いて欲しいなあ。
『最初にも申しました様に、これは人工呼吸器によるものなのです。この装置によって、呼吸もし、心臓も動いていられるのです。これを外せば、すぐさま呼吸は止まり、やがて心臓も止まります。もはや機械の力なくしては生きられなくなっているのです。』
『ええ、分かっております。あの時は確かにそれで納得して、脳死判定の承諾もしたのです。』
『はい。ありがとうございます。』
『でも、なんだか、時間が経つ内に、その、どうしても、死んでいるとは思われなくて、、、こうしてご無理を言って、ここに入れて頂きました。あの、本当に治らないのでしょうか。こうして治療を続けていれば、そのうち意識が戻るとか。』
「いい事言うねえ。」
僕は母さんの言葉に拍手を送りたい気持ちだった。そう、今の僕はこうして耳が聞こえるまでに回復しているんだ。夢だって見ているんだ。元に戻れないはずがない。
『無理ですね。』
「無理? 何を言ってるんだ。」
男の声が冷たく響いた。僕はむっとした。心臓は一度止まっても心臓マッサージとか電気的なショックとかで再び動き出す事だってあるじゃないか。脳死だって、そういう事があるんじゃないのかな。
『臨床的に脳死と判断された時にもご説明申し上げましたが、脳死は完全に不可逆性の現象なのです。一度機能が停止すればもう元には戻りません。』
『ええ、ええ、それは分かっているのですが。』
『あの時、充分理解して頂けたと思っていたのですが、、、私の説明不足だったのでしょうか。』
『いえ、そんなことは、、、』
この男は誰なのだろう。医師ではなさそうだが医学的な話もしているし、、、だがもちろん質問など出来る訳がない。僕は暗闇の中を漂いながら、聞こえてくる男と家族の会話を聞いているしかなかった。
『あの説明の後、脳死判定承諾書を提出して頂きました。それに基づいて法的脳死判定が行なわれ、今、終了したばかりです。それによれば定められた判定基準は全て満たしています。』
『でも、もしかして、私たちの声が聞こえているって事はないのですか。ただ反応出来ないだけで。』
「それだ!」
僕は小躍りしたくなるくらい嬉しくなった。その通りだよ、さすがは家族だ。あんな測定機器や医師の判断より、肉親の直感の方がずっと当てになる。母さんは僕が皆の会話を聞いている事に気付いているのだ。
『いえ、あり得ません。6時間前には補助検査として聴性脳幹反応も調べられています。これがその波形ですが正常なものとは明らかに違います。聴覚も失われているのです。』
「違う、聞こえてる、聞こえているんだ。」
僕は叫んだ。6時間前? なるほど6時間前なら確かに聞こえてはいなかっただろう。この夢を見始めてからまさか6時間も経ってはいないだろうから。大事なのは今だ。今は聞こえているんだ。どうして今その検査をしてくれないんだ。今、その検査をしてくれさえすれば、僕の聴覚が回復している事も、僕が死んではいない事も明らかになるはずだ。
『でも、胸も動いているし、、、やはり、私にはとても、』
『...分かりました。ではしばらくお待ちください。』
人の足音。そして話し声は聞こえなくなった。それにしてもなんて事だ。僕はこうして生きているのに医師は死んだと判断するなんて。それとも僕は医師やあの男の言葉通り、本当に死んでいるんだろうか。この意識は生きている僕の意識ではなく死んだ僕の意識だとでも言うのだろうか。
「あり得ない。」
そんな考え方は到底賛成出来るものではなかった。意識があるという事は絶対に生きているのだ。死んでも意識があるなんて考えられない。生きていても意識があるかどうかは断言出来ない。でも意識がある以上、絶対に死んではいないのだ。
「にも関わらず、死んだと判定されたのはどういう事なんだろう。」
それが一番重要だった。あの男は定められた基準は全て満たされていると言っていた。それがどんな基準かは知らないが、その基準が満たされれば、とにかく脳は死んだと見做されるのだろう。確かに脳死が人の死だと定められたのはかなり前の事だ。それはもう法的にも社会的にも認められている。
「だけどまさか、それが自分の身に降り懸かってこようとは。こういうのを夢にも思わなかったって言うんだな。それを夢の中で気付くのだから何とも間の抜けた話だ。ああ、こんな事ならもう少し勉強しておくべきだった。」
しかし今さら何を言っても始まらない。僕は暗い宇宙空間を漂いながら、何も知らずに青い地球を眺めていた先刻までの自分を懐かしく思った。
『いかがですか。納得してもらえましたか。』
男の声が聞こえてきた。
『血流は全く見られないでしょう。これは放射性同位元素を使った特別のCTで撮ったものです。毛細血管の先まで血流は全くありません。つまりこの方の脳にとっては血流がない、即ち心臓が停止したのと同じ状態なのです。血が来なければ脳細胞は間違いなく死にます。この状態から助かった例は今まで一例もありません。』
『でも、なんとか脳に血液を流す工夫はないのでしょうか。』
『詳しくは医師にお尋ねになるのが一番でしょう。治療スタッフは最大の努力を払ったはずです。しかし残念ながら、結局は脳死まで進んでしまったのです。』
僕にはどうしても理解出来ない事があった。人が死ぬという事、それはどういう事なのか。生と死のその境は何なのか。それは一枚の薄い紙の様に厳密に仕切られているものなのだろうか。それとももっと幅の広い曖昧なものなのだろうか。そしてその境を越えた事をどの様に判断するのだろう。その判断を下すのは誰だろう。
『では、もう、どう仕様も無いんですか。』
『はい。残念ですが、』
判断するのはもちろん医師だ。そして医師は死んでいると判断している。しかし判断された僕は死んでいないと思っている。この両者の判断の違いはどうして生じたのだろう。例えば、自分が風邪だと思っていても、よく検査してみたら肺癌だったという事はあるだろう。逆に胃癌だと思っていてもただの腹痛だったという事もあるに違いない。素人判断は往々にして間違っているものだ。それと同様に自分は死んでいないという僕の判断は間違っていて、本当は死んでいるのが正しいのだろうか。
「馬鹿な、、、」
どう考えても死についてだけは同じ様には扱えないのではないだろうか。僕は医学的な知識はないから、自分が風邪なのか肺炎なのか診断する事は出来ない。それは医師の言う通りを信じるしかないだろう。しかし自分が死んでいるか生きているかとなれば話は別だ。いくら僕に医学的な知識が無いからと言って、自分が生きているか死んでいるかの判断ぐらいは出来るはずだ。あなたは末期の癌なので長くとも三ヶ月の命でしょうと診断されるのならまだ信じる事は出来る。しかし、あなたはすでに死んでいます、と言われてもそんな診断は到底信じられるものではない。
『では、もう本当に諦めるしか、、、』
自分が生きているか死んでいるか、それが一番よく分かっているのは自分自身なのだ。だから死んだという判定は、その一番よく知っているところの自分によって為されるのが最良の方法なのではないか。しかし、それは不可能だ。死んでしまった後では、その判定を告げる自分も、判定を受け取る自分も存在していないのだから。自分が存在していない以上、自分の死の判定は自分以外の第三者に任せるしかない。だが、その第三者は僕ほどには僕の生死について詳しく知る事は出来ないのだ。それゆえ両者の判定がくい違うのは仕方ないかも知れない。しかしその場合尊重されるべきは僕自身の判定のはずだ。医師が死んだと判定しても僕自身が死んでないと判定しているのなら、当然僕の判定が尊重されるべきだ。だが今の僕には僕の判断を医師に伝える事は出来ないのだ。僕が生きているという事実を明らかにする事が出来ないのだ。
『はい、お気の毒ですが。』
しかし伝えられないからと言って自分は死んでいると認めるのは絶対に嫌だった。僕は両手で拳を作り強く握りしめた。僕の体の中から、何が何でもこの状態から回復してみせるという、煮えたぎるような執念が沸き上がってくるのを感じた。
「そう、あの判定基準だ。」
医師が僕は死んでいると判定した根拠がどんなものかはよく分からないが、それはなんらかの基準に基づいて行われているようだった。現在の僕の状態はその判定基準を全て満たしている、だから死んでいると判断されたのだろう。
「それならその判定基準を満たしたはずの僕が本当は生きていて、しかも回復したという事になれば、その基準は間違っているという事になるじゃないか。」
そう、そして実際その基準は間違っているのだ。なぜならその基準を全て満たしているはずの僕がこうして生きて、夢を見て、家族の会話まで聞いているのだから。その基準で人の生死を判断する事は出来ないのだ。この事実を何としてもこの医師に知らせる必要がある。
「よし、僕は絶対に死なないぞ。薬漬けになっても半分機械の体になっても何でもいいから、とにかく生き延びて、僕がまだ生きている事を知らしてやるんだ。」
『何度も申しましたがこの方はすでに死んでいるのです。脳死は人の死であると法的にも認められているのです。ですから脳死と判定された時点で、すでに死亡診断書も作成されております。』
「な、なんだって、」
僕の頭の中に衝撃が走った。
『法的にはこの方は死人として取り扱われます。従いまして、これからこの方に対して為される医療行為は死体に対して為される事になります。現在の法律ではこの行為に関しては、一応保険の対象となっておりますが、それも当分の間と明記されておりますので、今後どうなるかは、、、』
『すると、治療にかかる費用が保険の対象外になる可能性もあると、、、』
『確かな事は言えませんが、、、昨今の医療を取り巻く現状を考えればその覚悟も必要でしょう。なにしろ、医療保険というのは生きている人に為される治療に対して適用されるものですからね。死者に施される医療行為は、治療とは言えないでしょう。』
「違う、違う、僕は生きてるんだ。まだ死んでないんだ。」
僕は真っ暗な宇宙空間へ向かって大声で叫んだ。それが無意味な事である事は充分に分かっていたけれども。
『もちろん、だからと言って、今日、明日にでも変更される事はないでしょう。少なくとも、この方に関してはその心配は無用かと思われます。ただそれでも治療費は一般的な場合に比べれば割高ではあります。』
『、、、そうですか。』
『今後どうされるか、これは家族の方がお決めになる事柄です。一旦、脳死判定承諾書に署名され、脳死と判定されたとしても、それを撤回することは可能ですから。やはりこのまま治療を続けたいと望まれるのであれば、それも出来るのですよ。』
『治療の継続を望む方は多いんでしょうか。』
『脳死が現在の様に認められていなかった時には治療の継続を希望される方はおりました。しかし脳死は人の死であると法的に定められた今、法的脳死判定が行なわれた後、治療の継続を希望された例は一件もありません。それに治療を続けられたとしても一旦下された死亡の診断は覆りません。この方は法的には二度と生き返る事はないのです。』
「だめだ。」
僕はうめくように言った。いくら僕が生き続けたいと願っても治療を打ち切られてはどうしようもない。いくら耳が聞こえる程度に回復しているとは言え、ここで人工呼吸器を外されては回復の望みは100%あり得ない。そしてその時、僕はやっと分かったのだ。なぜこの判定基準がこれほどまでに信頼できるのか。この判定基準を満たす者が、なぜただの一人として回復する事が無かったのか。
「死人に口無しとはよく言ったものだ。」
僕は夢の中で目を閉じた。
『よく考えてお決めになってください。治療を続けるにしても積極的な治療だけでなく、消極的な治療を選択することも出来るのですから。』
考えてみれば自分勝手かも知れないな。自分がまだ生きている事を知らせる為だけに、父さんや母さんに大変な苦労を背負わせてしまうんだから。経済的にも時間的にも肉体的にも精神的にも。それも治る見込みはほとんどない僕なんかの為に。
『消極的な治療とは?』
僕は目を開けて真っ暗な宇宙空間に目をやった。最初にこの夢の中で見た、キラキラと輝く沢山の星が今も変わらずに暗闇の底で光っている。僕は顔を反対側に向けた。星とは違う密集した光がそこにはある。いや、見ようによっては星と見えない事もない。
『現状を維持しようとする治療です。つまり新たに薬剤を投与したりせず、現在のレベルのケアを続ける治療です。』
それはたぶん地上の光なのだろう。見える方角は今はもう僕の足元に近い方向だ。この夢の中でこんな状況に置かれていても、僕はまだこの夢の現実性に拘っているのだ。この夢の中で自分は地球を回っている、それを頑に守っているのだ。
「律儀だなあ。」
僕はそうつぶやいた。この夢の中で地球を回っている僕。この夢を支配しているのは僕ではなかった。どんなに頑張ってもこの夢は僕の思う通りにはならなかった。そして、現実の僕の生死を支配する者、これもやはり僕ではなかったのだ。どんなに僕が生きたいと願っても、自分は生きていると叫んでも、全く関係ない何者かによってそれは決められてしまうんだ。現実の僕もこの夢の中で暴れている僕となんら大差はないのだ。そしてその僕ももう死んでいる。この夢を見ている現実の僕はこの世にはすでに存在しないのだ。それはまるで帰るべき星を失った宇宙船と同じだ。今の僕の様に、、、
『やはり、この子の意思を尊重した方がいいのかも知れませんね。』
『臓器移植か。』
「臓器移植!」
思いもしなかった言葉を聞いて僕は叫んだ。淡々とした男の声が、まるで僕の疑問に答えるように続く。
『ええ。この方はドナーカードをお持ちでしたからね。』
「ああ、そうか。」
その言葉を聞いて僕は思い出した。そうだ、あれは入学して初めての冬だった。
「僕は風邪をひいて病院に行ったんだっけ。そして、待合室で診察の順番を待っている時に、、、」
僕はその時の事を思い出した。その病院で僕が受けている講義の教授に会ったんだ。僕の大学付属の病院だったからなあ。そして話をしたんだっけ。臓器移植の重要性とか、献体の意義とか、それが、、、
「そう、あの時は僕は教授の話はもっともだと思った。それでそんなカードを作ったんだっけ。」
『この方は心臓、肺、肝臓、腎臓、膵臓、小腸、そして、眼球の提供を承諾されています。それは最初のご説明の時、臓器摘出承諾書に署名された時にもご説明申し上げた通りです。』
これはどういう事だろう。つまり僕の体から臓器を取り出すって事。でも僕はまだ生きているんだよ。
『臓器提供の意思がなければ法的脳死判定は行なわれません。これらの承諾書に基づいて脳死判定が行なわれ、脳死の判定が下されたのです。本部からの連絡によりますと、すでにレシピエントの最終決定も済んだ模様です。もしご家族の方々に異論がなければ、直ちに臓器摘出が開始されるはずです。』
『は、はい、、、』
『もちろん、一旦脳死下の臓器摘出に承諾されても、それを撤回する権利はございます。心停止下の臓器提供に変更することも出来ますし、臓器を提供しない選択もあります。よくお考えになってお決めください。』
僕の胸には諦めの気持ちが漂い始めていた。なるほど、僕の体はまだ生きてはいるものの、まず助からないような危機的な状況にあるに違いない。医師が死の判断を下したのもあながち間違いではないのかも知れない。だが、それなら、せめて静かに死なせて欲しいと思った。そう、末期癌の患者には、患者本人に「あなたは癌です。助かりません」なんて事を言わずに「大丈夫きっと治ります」って言いながら死んでいってもらっているじゃないか。それなのに僕の場合は、もう死んでいますとはっきり断言されているんだもの。もちろん医師もこの男も家族も、僕が死んでいると信じ切っているし、僕の耳が聞こえているなんて思っていないだろうから仕方ないとしても、それでもあんまり酷いじゃないか。病気を治すのが医者の本来の役目だけど、心地好く死なせて上げるのも、また大切な医者の役目じゃないだろうか。
「そして、今また臓器移植。」
僕は身震いした。僕の体を切り裂いて臓器を取り出すんだ。
「そりゃ、確かに登録したよ。それは意義のある事だと思ったし、僕の体が困っている人の役に立つのなら、それも結構な事だと思ったんだ。」
でもその時の僕は自分の死をもっと安易に考えていたんだ。どうせ死んだ後なんだから、何をされても関係ないと思っていた。死んでいるか死んでいないか、もっときちんと分かると思っていた。まさか、生きているにも関わらず臓器移植の話をされるなんて、、、
「いやだ、いやだ、」
僕は叫んだ。そうだ、誰が何と言おうと僕はまだ生きているんだ。生きている以上、僕の心臓も腎臓も僕の体は僕の物であるはずだ。他の人間に勝手にされるなんて我慢ならない事だった。同時に僕は、あのカードに署名した時の浅はかな自分を後悔した。
僕の体の提供。僕の体によって救われる命。だがそれは臓器移植だけではない。僕の体を焼かずに土葬すれば、多くの細菌や虫が僕の体を食料に出来るだろう。それもまた僕の体によって救われる命ではないか。そしてその方が、たった数人の人間に臓器を分け与えるよりも多くの命を救えるのだ。神の目から見れば人の命も細菌の命も、同じ一つの命に変わりはない。そしてどの命を助けるかの選択権は僕にあるのだ。なぜならこれは僕の体なのだから。あの時、カードを初めて見た時、この事に気が付いていれば、僕はきっと「臓器を提供しない」に丸を付けたに違いない。
「あんな薄っぺらいカードが、これ程の重みを持っていたなんて、、、」
僕の胸は悔やんでも悔やみ切れない気持ちで一杯になった。と、僕は耳を澄ました。何時の間にか、話し声も足音も聞こえなくなっている。電子音は続いているが、人の気配が感じられない。
「どうしたんだろう。」
あるいはこれからどうするか、他の場所で考えているのかも知れない。僕にとって最も都合がいいのは、家族が臓器移植の意志を翻して積極的な治療を選択してくれる事だった。あのカードで臓器提供に同意しておきながら、そんな考え方は身勝手だという気持ちもあった。しかしあれは僕が死んだ後で移植するという条件で合意したのだ。今の僕はまだ死んでいない。医師は死んだと言っているが、それは間違いだ。死んでいないのに移植をするのは明らかにその時の合意に反している。
「だからそれは身勝手でも何でもない。当然の感情だ。」
そうだ。余命幾ばくも無い患者に向かって、「もうすぐ死ぬのですから、今から臓器を移植させて頂きます」と言うのと同じくらい、それはしてはいけない事なんだ。許される事ではないだろう。
「だが、僕がそう考えてもそれは誰にも伝わらない。この夢から出られない限り僕は死んだものと見做されたままなのだ。」
僕はなんとかしようと思った。とにかく僕が生きている証、小さなうめき声でもいい。指一本でも、微かな皮膚の痙攣でもいい。とにかく現実に見える形で生きているという現象が僕の体に起きてくれれば、それだけで僕の考えは伝わるはずだ。死んでいるという判定は誤りである事が明確になるはずだ。
「でもどうすれば、」
この夢の中の僕が何をすれば、現実の僕の体にそのような現象を起こす事が出来るのか、どうすれば生きている事を知らせられるのか、それは僕には分からなかった。夢の中で叫んだり、手足を動かしたり、そんな事はこれまでに何度もしてきた。だが現実の僕はそのような夢の動きには全く関係ないのだ。もはや自分の意志ではどうにもならないのだ。
「だから死んでいるという訳なのか。」
だが僕は諦めたくはなかった。なんとかして今の自分の状態を知らせたい。死んではいない事を知らせたい。しかしその方法は何もない。
『よく分かりました。』
突然、人の話し声がした。これは母さんの声だ。
『移植で助かる命のお話を伺って、その大切さがよく分かりました。本人も望んだ事ですし、やはりこの子の意思を尊重させたいと思います。』
「な、なんだ。何を言ってるんだ。どういう意味だ。」
『私もそう思います。この子の最後の善意なのですから。』
「父さんまで一体どうしたんだ。二人とも何を話してるんだ。」
けれども僕には分かっていた。母さんも父さんも最初の決定を翻さなかったのだ。僕の臓器を提供する道を選んだのだ。
『ありがとうござます。同意してもらえて嬉しく思います。レシピエントの情報はドナーのご家族の方々には明かさないのですが、いずれ新聞報道などで分かってしまいますからね。心臓のレシピエントの方がこの病院の患者さんだとは、私も正直驚いております。この病院ではこれまで心臓摘出、移植、両方の実績がありますからね。今回もきっとうまくいくと思いますよ。』
「心臓移植!」
僕は心臓が止まるかと思った。心臓、僕の心臓を取り出すと言うのか。僕は暗闇のなかで叫んだ。
「待ってくれ、もう一度検査をしてくれ。少なくとも僕の耳はまだ聞こえているんだ。」
『自分の体を役立てる事が出来て、息子さんも喜んでおられると思います。』
「何を言ってるんだ。死人に喜ぶも悲しむもないだろうが。」
僕は自分の胸を押さえた。厚い宇宙服に遮られて心臓の鼓動を感じる事は出来なかったが、僕の体は確かな脈動を感じている。その脈動が僕の心の中に生に対する執念を猛烈に呼び起こした。僕は大声で叫んだ。
「いやだ、誰にも渡さない。僕が生きている限りこれは僕の物なんだ。」
『では最後の確認をしたいので、こちらへ。』
足音がする。皆がここから去って行く足音だ。
「だめだ、ここで行かれてはもうおしまいだ。」
僕の胸の中から熱いものが溢れてきた。自分の両目が潤んでくるのが感じられた。僕は叫んだ。泣きながら叫んだ。
「生きてるんだ。僕は生きてるんだ。もう一度検査をしてもらえば分かるはずだ。こうして夢を見てるんだ。声も聞こえてるんだ。どうして分かってくれないんだ。もっと治療を続けてくれれば、きっと、きっと、、、」
僕の頬に涙が伝わる感触がした。それが本当の涙かどうかは分からなかったが、それはこの夢を見始めてから初めて体験する肉体的感触だった。あるいはこの涙も、涙が流れる感触も、僕が作り出した一つの夢なのかも知れない。自分は生きているのに、それを誰にも分かってもらえない悔しさ。暗闇の中に一人取り残される淋しさ。死に対する恐れ。この涙はそんな僕の感情の一つの表れなのかも知れない。僕は真っ暗な宇宙空間の中で、しばらくの間しゃくりあげていた。やがて徐々に落ち着きを取り戻すと、ひどく取り乱した自分が何とも哀れに思えてきた。
「僕はもう助からないんだなあ。」
心臓を摘出されれば確実に死ぬ。疑いの余地の無い事だ。
「心臓を取られた後、僕はどうなるんだろう。この夢の中の僕の心臓もなくなっちゃうのかなあ。」
しかし何より恐ろしいのは、こうして意識があるうちに摘出手術が始まる事だった。このままの状態で心臓が取り出されるのだ。それは僕にとっては大きな恐怖だった。
「いつ始まるんだろ。今すぐかなあ。痛いのかなあ。」
僕は自分の心臓が取り出される姿を想像した。胸を切り裂かれ、血管を切断されて、ゆっくりと持ち上げられる僕の心臓。暗闇の中でその手術に立ち会う僕。その時も僕はまだ生きているのだろうか。胸にぽっかりと大きな穴を空けたまま。そして用済みとなった現実の僕の体は誰にも省みられる事もなく、そこに横たわっているんだ。調理が終わり皮も肉も剥ぎ取られた魚の残骸のように。その時まで僕は生きているのだろうか。
「ああ、こんな事なら、いっそ本当に死んじゃった方がよっぽどましだ。生きながら心臓を取り出されるくらいなら、今すぐにでも死んでしまった方がよっぽど、、、」
だが死ぬのは心臓を取り出されるよりも、もっと恐ろしい事だった。僕はこの暗闇の中で、何も出来ずにただ待っていなければいけないのだ。早く死にたいと思いながら、それでも死ぬのは嫌だと思いながら、その矛盾に苦しみ、脅え、何も無いこの真っ暗な宇宙空間で、ただ一人。
「酷い話だ。あんまり酷過ぎる。僕が死ぬのは仕方ないとしても、何故こうも苦しまなくちゃいけないんだ。どうしてもっと静かに死なせてくれないんだ。心安らかに死なせてくれないんだ。それが医者の務めなんじゃなかったのか。死ぬ間際の患者をこんなに苦しめるなんて。」
そう、いつだって生き残る方は身勝手なのだ。たくさんのチューブを突っ込まれた体、機械に無理やり動かされている体、それはあんまり患者が可哀相なので早く死なせて上げたいと言う、でもそれは違うのだ。そんな患者を見ている自分が辛いからなんだ。その患者の姿によって自分の心の中に引き起こされる辛さ、悲しさ、やりきれなさ、そんな感情を味わうのが嫌なので、その感情の引き金となっている患者の姿を、自分の目の前から早く消してしまいたいだけなんだ。全ては自分の心を平静に保ちたいが為なんだ。患者の本当の気持ち、こんな暗い宇宙空間で心臓を取り出される恐怖に脅えている患者の気持ちなんかにはお構いなしなんだ。
「なんて、自分勝手な、、、」
そしてそれは地球を守ろう、動物を救おうと叫ぶ人々と同じ身勝手さだ。地球の気持ちも動物の気持ちも考えもせず、ただ自分の気持ちだけを考えて行なう偽善。青く在りたいなんて思ってもいない地球を青く保ち、人に守られてまで生きたいとは思っていない動物を生かし、薬漬けになってもチューブだらけになっても生きたいと願う人間を見捨てる、傍観者の冷酷さ。
「ああ、あの時、あんな記入なんかするんじゃなかった。こんなにいい加減に死を宣告されるのなら。」
僕は両手を自分の頭に当てた。言いようもない憎しみが胸の中から溢れる出てくるようだった。しかしどんなに責めても一番悪いのはやはり自分なのだ。酒を飲み過ぎて事故にあった自分が一番悪いのだ。医師も充分手を尽くしてくれた。家族も、臓器提供が僕の意思だと思い込み、それを尊重してくれた。そしてあの男にしても定められた手続き通りに事を進めたに過ぎないのだ。誰も責められない。どこにも落ち度もない。一番落ち度があるのは僕自身だ。それが分かっているだけに、僕はやり場のない怒りに駆られていた。
その時、ヘルメットに当てていた僕の右手に何かが触れた。小さな突起物だ。暗闇の中なのでよく分からないが、何かのボタンの様にも思える。
「こんな事なら何も聞こえてこない方がよかったんだ。何も知らない方がよかったんだ。現実かも知れないと思って漂っていた方がよっぽど、、、」
僕はそうつぶやきながら、無意識の内にその突起を押していた。途端にそれは聞こえてきた。
【S、S、応答してくれ。S、S!】
僕は驚いて耳を澄ました。最初に聞こえたあの電子音は変わらずに続いている。しかし今聞こえてきた声は、これまで聞こえていた男や医師や両親の声ではない。
「この声は、」
僕がつぶやくと同時に、大きな声が聞こえてきた。
【S、聞こえるのか。やったあ、通じた、通じたぞ。】
僕は驚いた。この声の主には僕の声が聞こえているようだ。何か話そうとしたが、その声はのべつ幕無しに話し続ける。
【S、正直言ってもう駄目だと思ってたよ。酸素もバッテリーも充分あるはずだが、お前からの通信が全然ないから、何か重大なトラブルが起こったのだろうと誰もが諦めていたんだ。でもモニターではPLSSは正常に作動していたから、俺はお前は絶対に生きていると思って通信を止めなかったんだ。やっぱり無事だったんだな。良かった、本当に良かった。】
これも僕の拘りなのだろうか。地球を回っているというこの夢の現実性を追求するためにこんな現象を発生させたのだろうか。
「これも夢の一部という事かな。」
【おいおい、何を寝ぼけてるんだ。】
その声は明らかに僕の声に反応している。僕の話の内容に沿った受け答えだ。僕は何だか嬉しくなってきた。これまでこの夢の中では、僕の意志、僕の考えは誰にも伝える事が出来なかったのだ。それが今は何者かは分からないがこうして通じている。
【今まで気を失って変な夢でも見ていたんじゃないのか。しっかりしてくれよ。そんな事より準備はいいか。一応緊急事態ケースNo.16でいくからな。】
僕はほっとした気持ちだった。こんな愉快な話を聞いていれば、少なくとも死の恐怖や心臓を摘出される恐怖は感じなくて済む。
「何だか分からないけど、とにかく良かった。最後になってこんな夢が見られるなんて、」
【おい、どうしたんだ。】
声の調子が変わった。心配そうに聞いてくる。
【まさか本当に夢だと思っているんじゃないだろうな。】
変だな、どうしてこんな事を聞いてくるんだろう。僕はその声に向かって答えた。
「夢だよ。夢である事はもう分かってしまったんだから。」
【S、、、】
声が途切れてしまった。おかしな話だ。こうして夢の中で会話をする。僕の夢の中なのだから、僕の話す言葉も、それから相手の言葉も、どちらも僕が作り出した言葉なんだ。つまり独り言を言っているのと同じ事だ。そしてこの声は夢ではないと言っている。そう、確かに僕の心の中には、まだ夢ではないと思っている部分が少しはあるのかも知れない。死を宣告された男の見ている夢だなんて、そんな事、信じたくないと思っている部分があるのかも知れない。そんな気持ちがこの声をこの夢の中に出現させているのだろうか。
【S、聞いてくれ。】
あの声がまた聞こえてきた。
【夢だと思いたくなる気持ちは良く分かる。確かにこれは絶望的な状況だ。それはこちらでも充分理解している。だが、まだ助かる可能性はあるんだ。大きな確率で助かる可能性が。】
「助かる、」
僕は暗闇の中に明るい光を見たような気がした。助かる…この一言が乾いた喉を潤す冷たい水の様に、僕の気持ちを癒してくれた。
「助かる、僕は助かるのか!」
【もちろんだとも。お前が死ぬわけないじゃないか。】
僕は嬉しかった。この夢はこれまで僕がどんなに頑張っても、僕の思う通りにはならなかった。僕を苛立たせ怒らせてきたこの夢。暗闇の後、光が見え、地球が見えた事もあったけど、結局、今は元の暗闇に戻ってしまっている。それなのに今、
「助かる、か。」
それは死を前にした僕への慰めのように聞こえた。この夢が初めて僕に対して優しい態度を取ってくれたような気がした。たとえそれがまやかしの言葉であっても、今の僕には夢が僕を気遣ってくれているような気がしてならなかった。
「よかったなあ、死ぬ間際になってこんな言葉が聞けて。」
僕は心の底から喜んでいた。
【S、】
あの声が聞こえてきた。その響きも穏やかに聞こえる。
【S、少し聞かせてくれないか。お前が今のこの状態をどの様に把握しているのか。】
「ああ、いいとも。」
僕はこれまでの夢を思い出した。そう、あれは真っ暗な宇宙から始まったんだ。
「僕は宇宙空間にいた。星だけが輝く黒い空間。しかしやがて光が見えてきた。そしてあの声も。僕の夢の中に入ってきた現実の声。あの声を聞いて僕には全てが分かったんだ。僕が何かの事故に遭って病院に運び込まれた事。医師によって脳死と診断された事。家族の声も聞いた。家族は僕の心臓移植にも同意した。やがて僕は心臓を取り出され、本当に死ぬ、、、」
僕は不思議なくらい落ち着いていた。まるで自分の事ではなく他の誰かの身に起こっている出来事ででもあるかの様に淡々と話す事が出来た。僕の話が終わった後、やや間があって再び声が聞こえてきた。
【分かったよ、S。それじゃあ今度はこちらの質問に答えてくれないか。】
「ああ、どうぞ。」
僕にはこの声の意図するところが分かっていた。この声はあくまでもこれを現実だと主張したいのだ。それはおそらく僕自身の心の隅にある、僅かな望みが生じさせる儚い願望に過ぎないのだが。
【いいか、S。まず聞くが、医師はお前を脳死と判定したと言う。だが脳が死んでいるはずのお前が、どうしてこうやって夢を見て、俺と話をしたり出来るんだい。】
「医師の誤診なんだ。まだ生きているのに過って死んだと判断したんだよ。」
【了解、S。じゃあ次の質問だ。お前が夢だと判断したのは、どうやら声が聞こえてきたかららしいけど、もしその声がなかったら夢か現実かは判断出来ないんだな。】
「そ、それは、」
そう言われて僕は口ごもってしまった。確かにあの声はこれが夢だと判断する決め手になった。ではあの声が聞こえてこなかったとしたら、、、
【S、少し考えてくれないか。脳死の誤診なんて滅多に起こるもんじゃない。よしんば起きたにしても、それほど重体の患者が、どうしてこんなふうに冷静に言葉の受け答えが出来るんだい。】
その問い掛けに、僕はすぐには答えられなかった。確かにこの夢は現実的だった。その余りの厳格さゆえに、これは夢ではなく現実ではないかと疑った事もあった。そして夢である証拠を探そうとした事もあった。だが結局は見つからなかった。そこへあの声が聞こえてきたんだ。現実の僕の死を告げるあの声が、この夢の中に、、、
「そうだ、あの声が、」
僕は小さくつぶやいた。自分の自信が揺らぎ始めているのが自分でも分かった。そして揺らぎ始めた僕の自信を完全に叩き潰そうとするかの様に、確信に満ちた力強い言葉が僕の上に落ちてきた。
【S、その声こそがお前の見た夢だったんだよ。】
「ゆめ?」
【そう。お前は自分の置かれた状況を信じたくなかった。これは現実ではないと信じたかったんだ。そんなお前の気持ちがその声を生んだんだ。夢であって欲しいと願うお前の心がその声を生んだんだ。そして現実はその声であり、今いる自分は夢であると思い込もうとした。だが違うんだ、S。これは現実なんだ、夢じゃない。お前は夢の中で現実の声を聞いたんじゃない。現実の中で夢の声を聞いたんだ。】
「そんな、」
信じられなかった。僕にはとても信じられなかった。僕は耳を澄ました。最初に聞いた規則正しい電子音は今でもしている。
「でも、この人工呼吸器の音はまだしてるよ。」
【人工呼吸器?】
「うん、ほら規則正しくピッピッって。」
【その音ならここでもしているぞ。それは人工呼吸器の音じゃなくこのシャトルの内部の音だ。ごっちゃになってるんだ。】
「シャトル、、、スペースシャトル?」
【そうだ。数時間前にはお前もここに居たんだ。】
僕はもう一度その音に集中した。やはり最初に聞いたままの音だ。だが、その音が何の音なのか断言出来る自信はなかった。僕の返事を待ち切れない様に、その声は早口で急き立てる。
【S、目を覚ましてくれ。これは現実なんだ。お前は現実にただ一人でこの宇宙空間を漂っているんだ。】
僕は必死で思い出していた。今までの夢を。これが現実だとした時、何か矛盾は起きないか。おかしな点はないか、、、
【S。聞いてるのか、S。】
「教えて欲しい事がある、今何時だい。」
【何時? 今の時刻かい。】
「そうだ。」
【打ち上げ後時刻で言えば、今は7時30分だ。お前の時計もその時刻を指していると思う。】
僕は時計を見たが、暗闇の中では見えなかった。文字盤のライトくらい付いているのだろうが、そのスイッチがどこにあるのかは分からなかった。僕は最後に見た時計の時刻を思い出そうとした。確か、6時55分頃だった。今の時刻が7時30分なのなら、それから35分経った事になる。それは僕の感覚とそれほど異なる数値ではなかった。だが僕はまだ信じられない。
「しかし、もし現実だとしたら、どうして今まで君の声が聞こえてこなかったんだい。君はずっと通信していたんだろう。」
【それはこちらにも分からない。おそらくお前の方で何かがあって通信が回復したと思うんだが。】
僕はこの声が聞こえてきた時の事を思い出した。あの時、そうだ、僕はヘルメットの何かを押したんだ。押した途端に声が聞こえてきた。
「ではあのボタンが、」
しかし僕は以前にボタンというボタンは全て押したのではなかったのだろうか。その時はどのボタンも押せなかったんだ。それともこのボタンだけ押し忘れたのだろうか。僕には分からなかった。全てのボタンを押したという確信が持てなかった。ただ、このボタンに気付かなかった事は、あり得ない事ではないとしか結論づけられなかった。
【納得してもらえたかい。】
「ま、待ってくれ。もし現実だとしたら、まだ引っ掛かる点がある。」
僕はその声に向かって言い放った。
「僕は昨晩まで酒を飲んでいたんだ。それも大学の研究室で。昨日まで普通の学生だったのに、今日になっていきなり宇宙を漂っているなんて、あまりにも非現実的じゃないか。あり得ない事だ。」
そう、今のこの状態を現実だと断定するには、まさにその点が一番の問題点だったのだ。ただのありふれた学生が一日で宇宙に来るなんて、常識では考えられない。
【S、】
やや間があって声がした。何かを哀れんでいるような響きだ。
【S、お前は自分の記憶まで消してしまったのか。】
「記憶、」
【お前はこれを夢だと信じたいが為に、自分の記憶の都合の悪いところを無意識の内に消してしまったんだ。】
「消した、、、」
【思い出すんだ、S。お前は確かに学生の頃、研究室で毎晩酒を飲んでいた。そのまま下宿に帰らないで泊っていく事も何度かあったし、研究室から直接新聞配達のバイトに行っていたのも俺は知っている。】
僕は黙って聞いていた。頭の中はもう何が何だか分からなくなっていた。
【そして大学を終えた後大学院へ進んだ。ドクターを取った後もそのまま研究室に残った。】
「うそだ。」
僕はつぶやいた。とても信じられなかった。
【宇宙飛行士の募集があるのを見てお前は応募した。運よく選抜された後、検査と厳しい訓練を経て、今回の飛行に対して、ミッションスペシャリストとしてその任に就く事になった。】
「うそだ、うそだ。」
その声の話す内容はとても本当とは思われなかった。僕は両手をヘルメットに当てて首を振った。
【S、お前を責めているわけじゃないんだ。こんな真っ暗な宇宙空間にたった一人で放り出されれば、精神的におかしくなるのも分かる。いやむしろそれが当然なんだ。自分をごまかそうとしたって、それは何も恥かしい事じゃない。】
僕は分からなかった。何を信じればいいのか分からなくなっていた。何が真実で、何が間違っているのか。
【聞こえているか、S、S!】
「ああ、聞こえてる。でも、僕には、」
僕は小さくそう言った。すでに僕の頭からは判断力がなくなっているようだった。僕のつぶやくような声を聞いて、その声も少し穏やかになった。
【いや、分かったよ、S。もうこれ以上、これが現実だと信じろとは言わん。お前が夢だと思いたいのならそれでも構わない。だが、とにかく今は俺の言うとおりに動いてくれないか。俺はお前を助けたいんだ。このままではお前は本当に死んでしまう。そして、残された時間もそう長くはないんだ。】
その声は真剣だった。本当に僕を助けたいという気持ちが溢れていた。僕は考えた。今、これが夢なのか現実なのかまた分からなくなってきている。夢ならば僕が死ぬのは時間の問題だ。やがて心臓を摘出されてしまうのだから。しかし夢ではなく現実だとしても状況は変わらない。この声は何も言わないが、おそらく僕の背負っている酸素の残量が僅かなのだろう。どちらにしてもこのままでは僕は確実に死ぬ。だがこの声は助かると言っている。現実ならばもちろん従うべきだし、夢だとしてもこの声の言う通りに動いて、どんな不利益があるだろうか。こうして何もせずに死を待つのも、この声に従って死を待つのも同じ死ぬ事に変わりはない。僕は決心した。
「分かった。君の言う通りにする。僕はどうすればいいんだ。」
僕の言葉に嬉しそうな声が返ってきた。
【ありがとう、S。こちらのモニターでは生命維持装置に異常はなさそうだ。だが、どんな事態が起こっているかの詳細は不明なので、とにかく一刻も早くシャトルに回収したい。】
「どうすればシャトルに戻れる?」
【それはこちらから詳しく指示する。さっそくだがMMUのチェックをしてくれ。】
「MMU?」
僕は首を傾げた。聞いた事のない単語だった。
【ああ、失礼。背中に背負っている移動装置だ。MMUに関してはこちらでは状況がモニター出来なくなっているんだ。恐らくなんらかの異常が発生していると思うんだが、こちらでチェック出来ない以上、お前にやってもらうしかないんだ。とりあえず、窒素ガス噴射ノズルのチェックがしたいので、操縦桿を動かしてみてくれ。肘掛けみたいな部分の先端にある。】
「肘掛け?ああ、分かった。」
背中の荷物は、やはり移動用の装置だったのだ。そして、そこから体の両横に伸びている部分の先端に付いている操縦桿で操作するようだ。
「操縦桿!」
僕ははたと思い出した。あの声が聞こえてくる前に、この宇宙服の隅々を触ってみた事があったじゃないか。でもその時には何ひとつ動かなかったんだ。僕はもう一度両腕を肘掛けに当てると暗闇の中で操縦桿を握った。やはり駄目だ。押しても引いてもびくともしない。
「駄目だ、動かない。」
【動かない? 左右とも動かないのか。】
「そうだ、どちらも全然動かない。」
僕の答えに返事はない。やはり故障しているのだろうか。
【了解、S。おそらくあの爆発のショックでMMUのオートロックが働いたんだと思う。左手の奥にある解除ボタンを押してくれ。】
「左手の奥?」
【左の肘掛け横の内側、体寄りにある。回して押し込むようになっている。】
僕は肘掛けの内側に沿って左手を動かした。小さなボタンの感触がある。
「これかな。」
僕はそのボタンを押してみた。だが堅くて押し込めない。
「駄目だ、押せない。」
【S、回して押すんだ。摘んで回して、】
僕はボタンを摘んだ。左に回転させると、抵抗を感じながら回る。離すと元に戻る。僕はもう一度ボタンを摘んで回して押し込んだ。途端に体全体に小さな振動を感じた。
「押したぞ。」
【よし、それじゃあ、右側の姿勢制御操縦桿を操作してみてくれ。】
僕は右手で肘掛の先端にある操縦桿を握り締めた。手にしっくりと合う。どこかで味わったような感覚。しかしそれを思い出す余裕はない。僕はゆっくりと操縦桿を前に倒した。
「動いた。」
僕が叫ぶのと同時に自分の体が前に回転し始めた。
「うお、」
僕は驚いて操縦桿を元に戻した。回転は依然として続いている。星空がゆっくり回っている。今度は操縦桿をこちら側に倒した。前回りの回転が徐々に止まり、やがて後に回転を始めた。
「動いてる、動いてるぞ。回ってる。」
僕はくるくる回りながら、大きな声を上げてはしゃいだ。 自分の思う通りに自分の体を扱える。それは、この夢もこの体も確かに自分の物であるという認識を僕に与えてくれる現象だった。
【了解。窒素ガス残量はまだ充分のようだな。おい、S、ガスの無駄使いは止めてくれよ。前後左右の回転は試したかい。】
「いや、まだ前後だけだ。これから左右もやってみる。」
僕は後転しながら操縦桿を左に倒した。と同時に現在の動きに左側の側転が加わった。右側に倒すと側転は右回りになる。
「OKだ。左右も正常に動いてる。」
【了解。さて、では現在の状況を手短に説明しておこう。】
声が少し早口になった。
【S、観測によると、現在のお前の軌道はかなり外側にずれている。我々のシャトルも軌道修正しながらお前の軌道に近づいているが、計算によるとシャトルがお前の軌道に乗る前に、お前の酸素がなくなってしまう事が分かった。従って、お前の方でも軌道修正して、シャトルの軌道に少しでも近づける必要がある。】
「了解。」
【ある程度まで近づいたら、こちらからMMUを出して直接お前の救助に向かわせる。ただ、それは昼間でないと出来ないが、次の夜明けまでお前の酸素がもつかどうかもかなり際どいところなんだ。だが、とにかくやってみるしかない。S、頑張ってくれ。】
「よし、頑張ってみるよ。で、次に何をすればいいんだ。」
【左側の肘掛けの操縦桿は軌道修正と加減速用だ。お前が覚えているかどうか分からないが、この最新式のMMUではかなり強力な推進力が得られるから、うかつに操作しないでくれ。左手で握ったか?】
僕は左手で、肘掛けの先端に手を伸ばした。右側より大きな感じの操縦桿だ。
「うん、握った。」
【OK,そしたら今度は右側操縦桿の上部にあるスイッチを押してくれ。】
「分かった。」
僕は言われた通りに親指でその小さいスイッチを押した。いきなり目の前に緑色のディスプレイが出現した。そう、今まで暗闇しか見えていなかった僕の目の前に沢山の数値や文字、目盛りなどが浮かび出たのだ。予想もしなかった出来事に僕は驚いた。
「す、すごいや。どうなってるんだい。」
【ヘルメットのバイザーの内側に透過性のディスプレイがあるんだ。今回の遠距離用MMUの為に、新たに装備されたものだ。文字はきちんと見えているかい?】
「見えてる。」
【了解。じゃあ、その中央に3つの数値があるはずだ。】
その数値はすぐに分かった。大きく浮かび出た3つの数値は動いている。特に右端と真ん中の数値の変化は激しい。
「うんある。3つとも動いている。」
【その数値は方位を表わしている。ジャイロと連動してお前の姿勢がどうなっているかを検出するものだ。操縦桿を操作して、その数値の右側の2つを20.5と130.2に合わせて欲しい。】
「なんだって、」
その数値は目で追えないくらい激しく動いている。それは僕が回転しているからなのであろう。つまりこの数値を合わせるという事は僕の動きをある向きに合わせて止めよという事なんだ。そんな事、
「無理だ。とてもじゃないが無理だよ。」
【S、】
声の調子がゆっくりになった。
【S、出来るはずだ。思い出してくれ。こんな事は地上での訓練で何度も経験済みの作業なんだ。】
「訓練で、」
【そうだ。出来る。とにかくやってみてくれ。】
僕は大きく息を吐いた。ここまで来たらやってみるしかない。
「よしやってみよう。」
僕は右手に力を入れた。操縦桿を向こう側に倒す。後回りの回転は徐々に遅くなり、それにつれて目の前の右端の数値の変化もゆっくりになる。
【どうだ、S。】
「今、右端を合わせている。数値は50ぐらいだ。」
【もう少し前に回転しなといけないな。】
「分かった。」
僕は操縦桿を向こうに倒した。ゆっくりと前に回転し始める。
「40、30、よし、」
今度は操縦桿を手前に倒す。前転が徐々に減速される。
「29、28、止まった。いや、動き出した。29、30、、」
今度はまた後回転を始めてしまった。操縦桿を戻すのが遅過ぎたのだ。
「駄目だ。難しい。」
【焦るな、S。落ち着いてやれ。】
僕は先程の作業をもう一度繰り返した。今度は前に回り過ぎた。数値は10辺りまで行ってしまった。逆の作業をもう一度繰り返す。そのうちに操縦桿の扱いにもだんだん慣れてきた。そして、5回目のやり直しの後、右側の数値がようやく目的の数値に近づいた。
「よし、右端の数値は大体合ったぞ。今20.2と20.7の間で落ち着いている。」
【了解、その調子で真ん中の数値もやってみてくれ。】
今度は操縦桿を左右に倒して同じ作業を繰り返す。操作に慣れてきたためか今度は2回のやり直しで合わせる事が出来た。
「出来たぞ。真ん中の数値は129.7と130.6の間で安定している。右側の数値が少しずれているので、もう一度修正する。」
僕はもう一度操縦桿を前後に倒して向きを合わせ直した。今度は一度でうまくいった。
「よし、いいぞ、2つともほぼ合った。」
【よくやった。次はそのままの姿勢でメイン推進ノズルを噴射する。】
「左側の操縦桿だな。」
【そうだ。そちらも今回新たな機能が追加されている。操縦桿を前に倒せばその間だけ加速されるが、今回は操縦桿を前に倒してすぐに元に戻してくれ。その操作によって、メインノズルからは自動的に5秒間だけ窒素ガスが噴射する。現在お前は進行方向に尻を向けた姿勢をとっているから、この噴射によってお前は減速されて、今より小さい楕円軌道に移るはずだ。ただし、メインノズルが正常に動作するかどうか分からない。充分注意してくれ。】
「了解。もう噴射していいんだな。」
【いつでもいいぞ。両腕はきちんとアームレストに乗せておいてくれ】
僕の両腕はすでに肘掛けの上に乗っている。僕は大きく深呼吸をした。そして左手で操縦桿を握り締めると、思い切りそれを前に倒した。と同時に大きな振動が起こった。
「うわ、」
強い力が僕に加えられるのを感じた。僕は慌てて操縦桿を元に戻した。僕の体は背中の荷物によって、吊り下げられるように頭の方へと引っ張られている。両腕は肘掛けに強く押しつけられ、僕の体は上へ、と言うより頭のある方向へ大きく加速されているのだ。
「すごいや。」
だがその力はあっと言う間に消えてしまった。力を感じなくなったあとには、以前と同じ、ただぼんやりと空間を漂う感覚が戻ってきた。僕は目の前の数値を見た。ゆっくりと変化して、最初に合わせた数値から少しずれている。
【OK、S。成功だ。今、こちらのコンピューターで計算しているから少し待ってくれ。】
僕は目の前の数値を眺めながら考えていた。さっき体に働いた力の感覚。明らかに体に感じた感覚。この様な感覚が夢の中の人間に感じられるだろうか。
「あるいは、これは本当に現実なのかも、、、」
僕は首を振った。
「いや、もう余計な事を考えるのはやめよう。今はとにかくシャトルに戻る事だけを考えればいいじゃないか。夢か現実かはその時はっきりするはずだ。」
【S、聞こえてるか、S】
突然声が聞こえてきた。僕は返事をした。
「聞こえてるぞ。」
【S、どうやら、姿勢検出装置に若干のトラブルがあったようだ。ジャイロは時々較正しないといけないんだが、かなり狂っている。】
「つまり、どういう事だ。」
【もう一度修正が必要だ。どの角度がどれだけ狂っているかは計算済みだ。今度は30.4と110.5に合わせて欲しい。】
「分かった。お安い御用だ。」
僕は先程の操作を行うために右手の操縦桿に力を込めた。もうコツはほとんど飲み込めたつもりでいた。
「おや、」
操作を始めた僕は低くつぶやいた。どうもさっきとは勝手が違う。操縦桿の動きに回転が迅速に反応しない。
「おかしいな。」
僕はさっきと同じ様に操作をしているつもりだった。だが、体の回転の仕方がまるで違う。僕は無言で操作を続けた。
【S、どうかしたのか。】
心配そうな声が聞こえてくる。少しイライラしながら僕は答えた。
「おかしいんだ。さっきと違うんだ。操作性が悪い。」
【なんだって。】
僕は細心の注意を払って操縦桿を扱った。だが駄目だ。先程とは全く違う装置を操作しているようだ。僕は目の前で変り続ける数値を凝視して操作を続けた。やがて目の前に浮かんでいる数値の見え方までおかしくなってきた。薄くなったり濃くなったりしている。消えかかっている蛍光灯みたいだ。僕は堪り兼ねて叫んだ。
「駄目だ。出来ない。それに数字が見えにくい。ちらちらしている。」
僕の叫びに返答はなかった。しばらくの沈黙の後、再び声が聞こえてきた。
【よく分からないが、メインノズル噴射の衝撃で装置の一部に異常を来たしたのかも知れない。本来ならあり得ないんだが、やはりあの爆発で多少のダメージがあったようだな。S、どうしても合わないか。誤差はどれくらいだ。】
聞こえてくる声はずいぶん慌てている。表示される数値は、指定された数値の±30~50の範囲を行ったり来たりしている。僕は答えた。
「30から50もある。」
【了解。】
声が聞こえなくなった。目の前に浮かんでいたディスプレイの表示は、今ではもう薄っすらとしか見えなくなってしまっている。それでも僕は目的の数値に合わせるために必死の試みを続けていた。
【S、こうなったら数値が合ったその一瞬にメインノズルを噴射するしかない。】
切羽詰まった声だ。だが僕は首を振った。
「無理だ、こんなに動いてちゃ、それに数値もほとんど見えなくなっている。」
【それしか方法がないんだ。やってみてくれ、S。】
僕は右手の操縦桿を操作し続けた。だが、目的の数値に合うのはホンの一瞬だ。その一瞬に左手の操縦桿を操作するなんて出来るはずがない。僕の中に焦りの気持ちが生まれてきた。どんなに頑張っても先程の様にはうまく行かないのだ。
「駄目だ、駄目だ、出来ない。僕には出来ない。」
僕が叫ぶのと同時だった。その声が、忘れていたその声が、まるで僕の努力を嘲るかの様に、僕の上に覆い被さってきたのは、、、
『ではさっそく始めさせて頂きます。』
『お願いします。』
僕は手を止めた。体から力が抜けて行くような気がした。
「い、今の声は、、、」
【S、どうしたんだ。】
間違いない。あの男と家族の声だ。でもどうして急に、、、
「聞こえるんだ。」
【聞こえるって、何が?】
『手術室に運んで下さい。』
僕は両手でヘルメットの前を覆った。やはり夢だったのだ。そして現実だったのだ。
「医師の声が聞こえるんだ。摘出手術が始まるんだ。」
僕はつぶやいた。そうだ、僕の心臓が取り出されるんだ。そんな事も忘れて僕は何をしていたんだ。現実に目を背けて、勝手にこれを夢ではないと思い込み、シャトルからの声を作り出して、自分で自分と対話をしていたんだ。そしてこの機械がうまく操作出来ないのも、結局は死から逃れられない事の表れなんだ。
「あの声は、やはり現実の声だったんだ。そしてこれは、夢、、、」
僕のその言葉が終わらない内に、僕の声を打ち消そうとするかの様な力強い声が聞こえてきた。
【S、しっかりしろ。その声は現実の声なんかじゃない。幻聴だ。弱気になっちゃいけない。お前の弱い心がそんな声を生み出しているんだ。】
『レシピエント側の派遣チームは?』
『すでに到着しています。』
僕には信じられなかった。もう何も信じられなかった。シャトルからの声は尚も続く。
【S、返事をしてくれ。俺の声だけを聞くんだ。そんな声は聞いちゃいけない。S、S!】
「もう、たくさんだ。」
僕は暗闇に向かって叫んだ。
「医師の声が幻聴、なるほどそうかも知れない。しかしそれならシャトルからのこの声だって僕が作り出した幻聴かも知れないじゃないか。いや両方とも幻聴かも知れない。いや両方とも本当かも知れない。どちらも夢、どちらも現実、それとも片方だけが夢なのか、」
【S、頼むから落ち着いてくれ。まだ望みを捨てちゃいけない。】
『準備整いましたね。』
声がする。二つとも確かな声だ。そして暗い宇宙。僕はこの暗闇の中を一人で漂っているのだ。
『では、ただ今より臓器摘出術を開始します。』
「誰だ。」
僕は暗闇に向かって叫んだ。
「お前は誰だ。」
暗闇の向こうから、何者かが忍び寄ってくるのを感じた。僕は目を凝らした。もう先程までの数値や文字はすべて消えていた。僕の目に映るのは回転する星空だけだ。だが、その星空の奥深くから、何者かが大きな手を伸ばして確実に僕に向かって迫ってくる。音も無く、姿も無く、暗闇の中を。僕は大きな恐怖を感じた。
「誰だ、お前は誰だ。」
【S、何を言ってるんだ。そこにはお前しか居ないんだ。】
『換気、体温は、、はい、保持してください。』
僕には分かっていた。それは僕を狙っているのだ。その手は僕の心臓を掴もうとしているのだ。僕のこの心臓を。
「やめろ。」
僕はその手を払い除けようとした。でも駄目だ。その手は暗闇の手なのだ。闇によって生み出され、この僕までも黒い闇にしてしまう手。ああ、駄目だ。このままではその手によって僕の心臓は奪われてしまう。もう僕の間直に迫っているのだ。
「そうはさせるものか。」
僕は左手を肘掛けの先端に伸ばした。逃げなければ、この手を振り切らなければ。伸ばした僕の左手の先には操縦桿があった。僕はそれを握り締めると思いきり前へ倒した。途端に僕の体に強い力が働いた。
【S、S、一体何をしてるんだ。】
星空がぐるぐる回る。僕は足元を見た。なんて事だ。その手はまだ追いかけて来る。僕に働いていた力はすぐになくなってしまった。駄目だ、もっと遠くへ逃げなければ。僕はもう一度操縦桿を倒すと今度は倒し放しにした。再び大きな力が働く。
【S、軌道がずれている。やめるんだ。S、やめるんだ。】
『今回は心臓摘出後、直ちに心臓移植術が始まります。皆さん、迅速にお願いします。』
その手は執拗に僕を追いかけてくる。振り切るんだ、逃げ続けるんだ。
「もっと遠くへ、もっと、」
僕は左の操縦桿を倒したまま加速し続けた。こうしなければこの執拗な手からは逃れられないのだ。やがてメインの窒素ガスがなくなったのだろうか。あの大きな力が僕の体に働かなくなってしまった。このままではあの手に追いつかれ、僕の胸に穴を開けられてしまう。僕は左の操縦桿を諦めた。そして今度は右手を肘掛けの先端に伸ばすと、そちらの操縦桿をでたらめに操作した。僕の体は前に回ったり横に回ったり目茶苦茶な動きになった。
「ははは、どうだ、これで僕の心臓を捕まえる事なんか出来ないだろう。あははは、、、」
【S、どうしたって言うんだ、いったい、S、】
僕は笑いながら操縦桿を倒し続けた。僕の体は墜落する飛行機の様に無秩序に動き回る。すぐ近くまで迫っていた手も暗闇の中でこちらを伺っているだけだ。
「え、」
急に僕の回転が緩やかになった。僕は操縦桿を何度も倒したが、新たな回転は始まらない。ちょうど回転の向きが変わるところで止まってしまったのだ。こちらの窒素ガスもなくなってしまったのだろうか。
「動け、動くんだ。」
僕は叫びながら両手で肘掛けを掴むと、激しく体を揺すった。暗闇の向こうで何かがニヤリと微笑んだ。そして黒い手を伸ばしたまま、這うようにこちらに近づいて来る。言いようもない恐怖が闇と一緒に僕を包み込んだ。僕は腕を振り上げると見えない手に向かって狂ったように叫んだ。
「来るな来るな、僕の心臓だ。お前なんかに渡さないぞ。戻れ、暗闇に戻れ。僕を殺そうとしたって、、、」
【S!】
その時、一際大きい声が僕の耳に突き刺さった。
【そうだ、これは夢なんだ。その手も、医師の声も、俺の声も、全てお前が描いた空想なんだ。夢なんだ、夢なんだ!】
それは泣き叫ぶような声だった。誰が泣いているんだろう。
「ゆ、め、、、」
ふと、僕は我に返った。手? いや、そんなものはどこにもない。あるのは真っ暗な宇宙空間と鋭く輝く星だけだ。ゆっくり回転する星空。
「僕は、いったい、」
『ドナーの状態、チェックしてください。』
【S、俺はもうお前に何と言ったらいいのか分らないよ。】
悲しい声が僕の耳に届いた。それから冷たく響く声も。ああ、僕は夢を見ていたんだな。
【状況は絶望だ。軌道を離れ過ぎた。いや、もうこんな事を言うのはよそう。】
僕は夢を見ていたんだ。違う、現実だったかな。ああそうだ、どっちか分からなかったんだ。これが夢なのか現実なのか、僕はそんな事を一所懸命考えていたんだっけ。馬鹿だなあ、そんなの分かるわけないのに。なんて、
「下らないんだろう。」
『血圧と酸素化は、、、OKです。』
現実か夢か、そう、それは絶対に分からないんだ。たとえ現実と違う現象を見つけ出したとしても、それがどんなに理に適わぬ現象であっても、それを以て夢だと決めつける事は出来ないんだ。だって、それは実際に起こっているじゃないか。波動性と粒子性を同時に持つ…そんな馬鹿な。光の速度を越えられない…あり得ない。どう考えたってそんな現象は僕の頭では理解出来かねるものだ。だが、だからと言って、そのような現象があるのだからこれは現実ではなく夢なんだと考えていただろうか。その現象の原因をこれは夢だからですと結論づけていただろうか。いなかった。どんなに信じられない現象が起きても、それが夢としか思えないような現象でも、なんとか理解し、説明するのが現実での態度だ。その現象が今までの考え方と矛盾するものなら、また新しい考え方を作り出す。そんな事は現実の世界では当たり前の様に行われてきた。今ここで、これまで考えもしなかった現象が起きたとしても、それによってこれは夢だと決めつける事は出来ないのだ。夢か現実かは分からないんだ。永遠に…
【S、すまん。結局お前を助ける事は出来なかった。せめてお前の苦しみを和らげるような言葉を言いたいんだが、】
そして夢かどうかは目覚めてみなければ分からないんだ。目が覚めて初めて夢だと分かる。それまではそれは現実なのだ。そしてそれは死についても同じだ。死んでみて初めて生きていた事が分かる。それまではそれは死んでいるのだ。目覚めるまでは夢である事が分からないように、死んでみるまでは生きている事も分からない。
『ドナー、胸腹部正中切開。』
この夢を支配しているのは僕ではなかった。そして僕が死ぬのも。それはこの暗黒の宇宙の奥に居る誰かが支配しているのか。この夢は僕の意志ではなく僕の生死も僕の意志ではない。僕は何だったのだろう。なぜこんな所に居るんだろう。いや、あるいはこれこそが僕の真の姿かも知れない。僕はこの世での存在を開始した時から、こうして宇宙服を着て宇宙空間に漂う存在だったのかも知れない。そして暗闇の中に時々現れる青い地球を見て、あそこに住む己の姿を夢に描いていたのだ。そうだ、僕は地球に住む存在ではなかったのだ。最初からこうして宇宙を漂う存在だったのだ。地球での生活、これまでの人生、それらは全て宇宙を漂う僕が造り出した夢に過ぎなかったんだ。
【こうして話していてもいいかい、S?】
『ヘパリン入れてください』
【お前の酸素が切れるまで、こうして、、、】
『大動脈、肺動脈にカニューレ、、、』
【S、返事をしてくれ、S、】
『保存液、流します。』
ああ、そうだ。僕は何を考えていたんだろう。
「でも君たちはあんまり煩過ぎたんだ。」
僕は右手を振り上げると、頭の横にあるアンテナ状の細い棒を思い切りむしり取った。
バシッ、ツー・・・・
気が付いたら真っ暗な宇宙空間をぼんやり漂っていたんだ。僕は耳を澄ました。何も聞こえない。真っ暗だ。遠くの方で星が光っている。
「僕は、夢でも見ていたんだろうか。」
僕の頭は靄がかかったようにぼやけていた。何か途轍もなく沢山の事が起こっていたのではなかったのだろうか。でも、もう何も思い出せない。
「夢か、それとも、現実か、」
不意に僕は可笑しくなった。ああ、そんな事を考えていた時もあった。それなのにどうしてもっと早くその実験をしなかったんだろう。いつも心の底で思っていた実験。
「きっと僕自身、怖かったんだろうな。」
僕はそうつぶやくと両手を首に当てた。ヘルメットとアッパートルソーとの接続部は直ぐに分かった。
「この夢も、僕自身も、支配しているのは僕さ。」
僕は接続部の留め金をゆっくりと外し始めた。そう、ヘルメットを取っても生きていれば夢、死んでしまったら現実。簡単な事じゃないか。それはとっくの昔に気付いていたんだ。
「でも生きていたらいいけど、もし死んでしまったら結果が分かんないな。いや、生きていたとしても夢とは言えないか。」
そうなのだ。宇宙空間でヘルメット無しで生きている事くらいで、夢だと決め付けられる訳などないのだ。現実でだって常識を超えた非現実的な出来事はいくらでも起こっているじゃないか。それに比べればたかが宇宙空間をヘルメット無しで漂うくらいで、非現実的だなんて言える道理はない。宇宙に対する今までの認識が間違っていただけの事さ。
「生きていても夢か現実か分からない。死んでしまったら、もちろん何にも分からない。」
僕はにっこりと笑った。その結果で何も証明出来ない実験。
「これもまた無意味な実験なんだ。僕の夢みたいに。」
僕の手はゆっくりと留め金を外して行く。無意味な実験。その実験の為に僕は自分の命まで賭けようとしているのだ。可笑しかった。そのちぐはぐさがなんとも可笑しかった。無意味な実験に捧げられる自分の命の無意味さが可笑しくて仕方なかった。僕は目を閉じると声をたてて笑った。
「ははは、」
閉じた瞼の裏に浮かぶ闇。それは僕だけにしか見る事の出来ない僕だけの宇宙。僕だけが窺い知る事の出来る僕の心の闇。
「あ、」
それは突然だった。目を閉じた瞼の裏に微かな光を感じたのだ。
「これは、」
一度どこかで見た記憶があった。そうだ、この夢の中で初めて感じた光と同じだ。暗闇の中を漂っている時、もう暗闇には飽き飽きしていた時、目を閉じた僕の瞼の裏に突然現れた光。
「あの光だ。」
僕にはすぐに分かった。なぜこの光が現れたのか。地球を一周したのだ。あの夜明けの地点へ僕はまた戻って来たのだ。太陽が再び僕の所に戻って来たのだ。そしてあの青い地球も。
「戻って来たんだ。」
僕の胸は懐かしさで一杯になった。僕は目を開けて太陽を見ようとした。しかし将にその時、ヘルメットの最後の留め金が外れた。
しゅ
何かが擦れる低い音がしたと思うと、ヘルメットは彼方へ飛び去った。膨張を感じるのは血液の沸騰のせいだろうか。
「光が、」
僕の目は開かなかった。自分の意識が急速に薄れて行くのが分かった。
「ひか、り、、が、、、」
消えて行く意識の中で、僕は、暖かい太陽の光を感じていた。見上げると青い空の中でいつも輝いていた光。雨の日も間違いなく雲の向こうから照っていた光。それは今ここにある。そしてこの光は、長い眠りから目覚める時にいつも見ていたあの眩しい朝日のようだと、最後の意識の中で僕は思った………
終章
ああ、まぶしいなあ。
「Sさーん、なんしとらいねぇー。」
ああ、そうだ。僕は何を考えていたんだろう。西瓜を運ぶんだ。
僕は夏休みに西瓜のバイトでこの農家へ来ていた。それにしても本当に暑い。直射日光で風は少しも吹いてこない。足下の砂は焼けている。その砂にゴム草履がめり込む。遠く広がる西瓜畑。
「海が青いなあ。」
僕は西瓜で満載の一輪車を押しながら、松並木の向こう一面に広がる海に目をやった。海は空の青を反映して真っ青だ。
「海は空の色を映すんだ。」
晴れている時は青く、曇の日は灰色。雨の日は荒れる。今は空には白い雲もあるので波も白い。
「だけど、どうしてあんなに水平線が高いんだろう。」
海の水平線は松の木の半分ぐらいの高さの所にある。まるでこちらへ押し寄せて来ようとしているようだ。松の木が両手を広げて立っている。
「はよ、しまっし。」
おばさんが二トントラックの横で何か言ってる。ああ、でも腕がだるいなあ、腕が、
そう、腕がだるいんだ。
ガチャガチャ
ああ、そうだ。僕は何を考えていたんだろう。腕がだるいのはこのバーベルのせいだ。
今は体育の時間だったんだ。みんな汗を流しているなあ。それにしてもこのトレーニングは辛い。入学した時の体力検査で平均レベル以下の学生は、全員このトレーニングを半年間やらされるんだ。僕はバーベルを引き上げながら窓から運動場を見た。球を追い駆け回す学生達。
「いいなあ、自由に選択できる奴らは。」
ああ、腕がだるい。顔も背中も汗でびっしょりだ。滑り止めの白い粉が息苦しくてしょうがない。周りを見回す。みんな動いている。機械のようだ。その目は濁ったガラス玉だ。
ガシャガシャ
暑い、本当に暑い。喉が乾いてカラカラだ。
ああ、そうだ。僕は何を考えていたんだろう。喉が乾いているのは炎天下のせいだ。
僕は歩きながら顔の汗を拭った。暑いなあ。
川沿いの道。真夏の昼下がりを歩く。ぎらぎらしているのは川の水だ。
「まぶしい。」
僕は歩いていた。
川には水銀が流れていた。
飛んできた燕が虫を咥えたまま揺らめく陽炎に飲まれてしまった。
僕は歩いていた
遠くの畑で麦が茶色く焦げている 山火事の音もする
建物は棺桶だった 人々はその中で死んでいる
もう 帰ろうか
鉛の靴を履かされた僕
どこまで歩いても擦り減る事もないのに
僕は歩いていた
川沿いの道 麦の穂………
焼けた足と 太陽と 水と………
僕は歩いていた
ああ そうだ 僕は何を考えていたんだろう 僕は………
補足
脳死判定基準
1.脳死の基本概念
①脳の全体としての機能が不可逆的に喪失した状態(全脳死)をいう。
②いったん、脳死に陥れば、いかなる蘇生手段をとっても心停止に至り、決して回復することがない。
2.前提条件
①器質的脳障害による深昏睡、無呼吸を呈している。
②原疾患が確定し、これに対するあらゆる治療の効果がなく、回復性がないと判断されている。
3.除外例
1)15歳未満(竹内基準では6歳未満)
2)急性薬物中毒
3)低体温(体温・直腸温32度以下)
4)代謝・内分泌障害
5)妊産婦
6)完全両側顔面神経麻痺
7)自発運動・除脳硬直,除皮質硬直,痙攣
4.脳死判定基準
①深昏睡:意識レベルは、
Japan Coma Scale 300(刺激に対して覚醒せず、痛み刺激に反応しない。)
Glasgow Coma Scale 3点(開眼なし、発語なし、運動機能がない)
②自発呼吸の消失:これを確認するために無呼吸テストが義務づけられている。
人工呼吸器の酸素濃度を10分間100%にしたのち、
5分間5%炭酸ガスと95%酸素による人工呼吸を行い、10分間人工呼吸器を停止する。
この間、自発呼吸がみられないことを確認する。
この間の動脈血の炭酸ガス分圧が40mmHgであることを確認しておく。
③瞳孔固定:瞳孔が左右とも径4mm以上で固定されている。
④脳幹反射の消失:7つの脳幹反射の消失
(a)対光反射…目に強い光を当てると、瞳孔が縮む反射。
(b)角膜反射…ガーゼで角膜に触ると、目を閉じようとする反射。
(c)毛様脊髄反射…頚部をつねったり、針で刺したりすると瞳孔が開く反射。
(d)眼球頭反射…頭を急に回すと、眼球がそれとは反対方向に移動する反射。
(e)前庭反射…体を一定の角度にして耳に冷水(30度)や温水(44度)を入れると眼球が動く反射。
(f)咽頭反射…喉の後ろの壁を刺激すると吐き出す反射。
(g)咳反射…喉の中にものをつっこむと、それを排除しようとしてせきこむ反射。
⑤平坦脳波:上記①~④がそろった場合、30分間にわたり脳波を記録し平坦であることを確認する。
⑥時間的経過:上記①~⑤が確認された後、6時間経過をみて変化がないことを確認する。
死亡時刻は2回目の脳死判定終了時刻とされる。
脳死判定は脳外科医など移植医療と無関係な2名以上の医師による。
夢(02/08/19-02/11/17)