街(02/03/30-02/05/19)
冬 日 挽 歌
僕の部屋の炬燵
布団は雪に濡れている
湿った空気
講義室の椅子の上
花瓶が置いてある
偶に起こる笑い
歩く道はない
入口は締まってる
どこかへ行こう。でもどこへ? そして、
気がつくと
僕は消え失せていた
人々の喧噪
人々の嘲笑
街のスケッチ1
「ホラ、早く行けよ。」
地下街を歩いていた僕は後の人に押されてしまった。
「ぐずぐずしてるんじゃないよ。」
皆、なんて早く歩くんだろう。とてもついて行けない。僕は人込みの中でまごまごしていた。地下街には歩道も車道もないから、皆てんでばらばらに動くのだ。僕は自分の行きたい方への流れには乗れず、いつの間にか流れと逆向きに動いている。迷惑そうな顔が幾つも僕の前からやって来て、僕の後へ消えて行く。いつしか僕はまた流れに沿って歩いている。僕の腕や肩にぶつかりながら人の背中が遠ざかって行く。
「あ、危ない。」
僕は叫んでしまった。一人のお婆さんが流れを横切って歩こうとしているのだ。無謀な、ここは片道2車線の道路を横断するよりももっと危険なのだ。このままでは大変だ。お婆さんを思い止まらせなくてはいけない。僕はお婆さんの近くに寄ろうとした。けれども、それはそう簡単ではない。なにしろこうやって立っているだけでやっとなんだから。
その時、
バン!
「ああ、」
なんて事だ。一人のおじさんが勢いよくお婆さんにぶつかったのだ。お婆さんは床の上に倒れてしまった。けれどもおじさんはそんな事はお構いなしだ。まるで何事もなかったかの様にさっさと行ってしまい、やがて流れの中に消えてしまった。
「ひどい。」
でもそう感じているのは僕だけなのだ。その証拠に地下街を歩いて行く人たちは、倒れたお婆さんなんかまるで気にしないのだ。道端の石ころみたいにどうでもいいような物。踏んづけて行く人さえいる。僕はあまりのひどさに腹を立ててしまった。そして、なんとか倒れているお婆さんに近付こうとした。でももちろんそれは不可能だ。この流れの中を直角に横切るなぞ、筏で大西洋横断するのと同じくらいの危険性がある。その間にもお婆さんは滅茶苦茶にやられている。僕は茫然としてしまった。
「ああ、なんてことだ。」
僕は自分の力の無さを痛感した。遅い、という事がこれほど僕を卑屈にさせるとは思いもしなかった。その間にも周囲の人間たちの移動速度はどんどん速くなっていく。僕は空ろな目で周りを見回した。今ではもう人の姿とは判別出来ないくらいに速い。あまりの速さに、それは無数の光の帯となって僕の周りを通過して行くのだ。僕はその帯の間をふらふら漂っているだけなのだ。
「さっきのお婆さんは、どうなったんだろう。」
なぜこんなに速いんだろう。お婆さんは消えてしまったのだろうか。もう、がやがや言う騒めきも聞こえてこない。あるのは鋭いカミソリの刃の様にうごめく光の帯だけ。と、
「仲間だ!」
僕は叫んで目を凝らした。いくつもの光の帯の向こうにひとりの人が困った顔をして立っているのが見えたのだ。その人もまた周りの人間たちのあまりの速さについていけなくなっているのだ。つまりは僕の仲間だ。僕は大声を出した。
「おお-い、こっちだ、こっちだよ。」
だがその人は気づかない。相変わらず光の帯に気を取られているようだ。もっと近付かないと駄目なのだろうか。
「おお-い、おお-い。」
僕は叫びながら少しづづ動き出した。その人の周りにも僕の周りにも危険な光の帯が取り巻いている。キラメク無数の帯に遮られ、僕はなかなか近づけなかった。ふと、その人がこちらに顔を向けた。
「こっちだ、こっち。」
僕は手を振った。するとその人は不意に嬉しそうな顔した。気が付いてくれたのだ。この時、僕の顔にはその人と同じ笑みが、にっこり浮かんでいたに違いない。その人の右手がゆっくりと上がった。
『お-い。』
と呼びかけるように、その人の口が動いた時、
バン!
激しい音がして光の帯がその人の体を直撃した。
「な、、、」
僕は息を飲んだ。その人の体は光に貫かれ、一瞬のうちに粉々に砕け散ってしまったのだ。僕の上に再び孤独が落ちてきた。
「なんてことだ。」
僕たちはあまりに遅過ぎたのだ。そしてあの人は焦って、その一歩を踏み出し過ぎてしまったのだ。僕は視線を床に落とすと、体の力を抜いた。僕の体に前後左右上下から容赦なく光の帯が突き当たる。けれども僕はあの人のようには砕けなかった。僕の体は少しづづ削り取られながら、もう何処へとも知らぬ所へ運ばれて行くのだった。気が付くと削り取られた僕の体は完全な球になって、濁った池のほとりに転がっていた。
やがて最後の光の帯が僕の体を池の中へと落としこんだ。僕は少し安堵を覚えながら、自分の体がボロボロと崩れて水中深く沈んで行くのを感じた。
街のスケッチ2
先輩と二人で歩く道の上に雪が落ちてきた。
「ああ、あそこだよ。」
先輩が指差す先に公民館みたいな建物がある。僕は顔を上げただけで答えなかった。寒さと眠気で口を開くのも億劫なのだ。観劇の趣味のある先輩に誘われて、バイトと実験に疲れた目をこすりながら、こんな所まで来てしまった。何でも劇と映画の両方を上演、上映してその違いを感じてもらうのが主催者側の意図なのだそうだ。全体、僕は劇には全く興味がない。映画はテレビで放映されるのを時々見るが劇はまるで見ない。どうして見ないのか分からないが、とにかく好きじゃないのだから仕方がない。むしろ嫌いな方かも知れない。それなのにこんな所までやって来たのは、先輩に強く頼まれたからと、劇の内容が僕の好きな作家の作品だったからだ。もう辺りはひどく暗くなっている。僕たちはようやくその建物の前にたどり着くと、体を震わせながら中へ入って行った。
こぢんまりとした部屋に僕たちは入った。中は暖かかったが講義室みたいに小さい。前方に舞台が設えてあるだけ。部屋の中には椅子も無いので、各々勝手に床に座り込んで劇を見るのだ。部屋の中には数十名。先輩の顔見知りは一人も居ないようだ。僕たちは後の方に座ると、始まるのを黙って待った。
しばらくして主催の挨拶。そして劇が始まった。劇の中身はよく見る劇と同じ、大袈裟な身振りや言い回し。演技であることがありありと分かる。そしてなにより大変なのは、僕たち観客も演じなくてはいけない点だ。僕たちの役回りは、もちろん役者の演技に見入っている観客。役者の世界が本物だと騙されている観客。その演技をせずにてんでに騒いだり、批判したり、意味もなく声を上げたりすると、劇その物が成り立たなくなってしまうだろう。僕が劇を好きになれないのは、きっとこんな所に理由があるんだと思う。それはなにも劇に限った事ではなく、落語でも大道芸でも講演会でもコンサ-トでも、とにかく観客にまで演技を要請し、 それが破綻すれば全てが破綻する様な芸術は何とも好きになれないのだ。その点、映画はいい。読書もいい。絵の観賞もいい。こちらが何をしようと、その事によってその世界が壊れはしないからだ。「下手だなあ」という一言、あくび、馬鹿笑い、何をしても自由だ。隣の観客に迷惑は掛かるかも知れないが、作品それ自体には何の影響も及ぼさない。作品の世界はもう完成されているからだ。それを僕が、勝手に、自由に、気ままに楽しめばいいだけ。こちらには何の強制もない。
けれども今見ている劇はそうはいかない。僕たちも一緒に作り上げて行かなくてはいけないのだ。拍手すべき所では拍手。驚きの場面では歓声、ため息、掛け声。観客自身も観客の演技を強制させられているのだ。窮屈で仕方がない。芝居を演じるのが好きな観客ならそれもいいだろうが、僕は嫌だ。だからと言って自分勝手に振る舞えば、それだけで、もう劇の世界は崩れてしまうのだ。だから我慢して舞台の役者の顔色を伺い、ああ、ここで拍手をして欲しいんだなという所では拍手をし、ここで笑って欲しいんだなという場面では笑ってあげて、皆と一緒に場を盛り上げているのだ。 僕にはそれが苦痛で仕様がない。もっとも他の人たちはきっとそれが楽しいだろう。嬉しそうな顔でやっているのだから。それともこれも演技なのだろうか。
「…」
不意に舞台が静かになってしまった。今、二人の役者が問答形式で話を進めている場面だ。そのうちの一人が言葉に詰まってしまったのだ。どうやらセリフを忘れたようだ。大根役者は顔に汗を流しながら手だけを動かしている。相手方もまた口を半開きにして突っ立ったままだ。その時、僕は、はっとした。舞台の上の静寂。いや舞台だけではない。この部屋全体を満たす静寂と、えも言われぬ緊張感。困惑しているのは舞台の上だけではないのだ。セリフを見失ったのは、彼らだけではなく僕らもまた…
「なんだ、つまり君は火星から来たとでも言いたいのか。」
「そ、そ、そうなんです。」
もう一人の役者が助け舟を出した。それでその場はすぐに治まって、劇は続いていった。けれども僕の興奮はすぐには治まらなかった。あの一瞬の静寂は得がたい緊張感だった。セリフを忘れた役者の仮面の下、きっと彼は普段は普通の月給取りなのだろう、その素顔を垣間見た興奮。 だがそれ以上に僕を惹き付けたのは観客の仮面が外れかけた時だ。セリフを忘れた役者にどう対処すべきか。囃し立てるのか、拍手するのか、暖かく見守るのか、そして自分の選択は正しいのか。観客たちは一瞬戸惑ってしまったのだ。そしてそれはこの部屋の中で僕たちが支えてきた劇の世界の小さな崩壊だった。あの時、あの一瞬、この世界は確かに壊れようとしていた。もう一人の手慣れた役者によってこの綻びはすぐに繕われたけれども、僕の中にはあの新鮮な感覚がいつまでも残っていた。非日常的な空間の中に現れた日常的な空間、けれどもそれこそが真実なのだ。僕の中で自分の世界観が少し変ったのが感じられた。この見方で日常を見るのも悪くないと思った。
「…映画には意志の疎通は全くないのです。そして、両者を見比べる事でその違いがはっきり分かると思います。では、これから映画を始めます。」
いつのまにか劇が終わって映画が始まっていた。見た事のない映画だったが、真剣に見るまでもない娯楽映画だ。しばらく眺めていたが、やがて僕は床の上に仰向けになると、とろとろと眠ってしまった。もちろん、だからと言って、 劇の方が優れているとは言えないだろう。
僕がようやく学生寮に帰ったのは、もう真夜中に近い頃だった。すぐに自分の部屋へ戻ると、棚からタッパ-を二個取り出す。一つは御飯、もう一つはおかず用だ。時計を見るとまだ十二時前。少し安心して食堂へ向かう。僕の住む寮には放食制度があって、夜中の十二時を過ぎると、食堂に残っている料理は自由に食べることが許されている。僕は食費を浮かすために執行部の賄い部に入って、毎日この制度を利用している。階段を降りて一階の食堂に入ると、すでに数人の学生がいる。十二時になるのを待っているのか、夜中にぶらついているだけなのか、それは分からないが、僕は彼らには目もくれずに棚へ直行して中を覗いた。盆に乗った食器がまばらに見える。なるほど今日は魚か。僕の顔が知らぬうちに弛んだ。人気のない料理は残る確率が高いのだ。これがトンカツや牛肉炒めなどの人気のある料理だと、まず残らない。残ったとしてもほんの数個だから、そうなると奪い合いだ。しかし今日は大丈夫だろう。僕は棚から離れると椅子に腰掛けて十二時になるのを待った。
「S君やないか。」
振り向くと賄い部の部長が立っていた。大阪出身で僕より学年が一つ上だ。
「相変わらずやなあ、また放食狙っとるんか。」
にやりと笑った顔はいつもと同じだ。手の平でポンと僕の肩を軽く叩くと、僕の返事も待たずにそのまま棚の方へ歩み寄り、中を覗いて料理の乗った盆を取り出した。
「あれ、まだ食べてなかったんですか。」
「いや、もう食うたで。」
部長は平然とお盆をテ-ブルに置くと、僕の隣に腰掛けた。
「でも、そしたらまだ十二時前ですよ。」
「ええよ。もうあと数分やろ。今日なんか誰も食いに来おへんで。ようけ余っとるし。」
そう言いながら皿の上の魚にもう箸を付けている。御飯は食べずにおかずだけ摘むつもりのようだ。
「S君も、もう取ってええで。」
「いや、まだ十二時前ですから。」
「ふ、真面目やのう。」
真面目。確かにそうだ。その時、僕の頭の中に先程の考えが浮かんできた。劇の最中に気付いた見方。そしてそれは直ちに今の僕に応用された。なぜ僕は十二時にこだわるんだろう。なぜ僕は真面目なのか。 それはつまり僕が規則を守る真面目な人間を演じようとしているからではないのだろうか。それこそが自分の役回りだと思っているからではないのか。僕はたちまちこの考えに取り付かれた。部長は僕が何も言わないの見て、自分もお喋りをやめて箸を動かしていた。しばらくして、
「ほら、十二時やで。」
促されて時計を見ると十二時になっている。僕は立ち上がった。棚を開けて料理を取り出し、持ってきたタッパ-に空ける。料理は何種類かあるが、面倒臭いから全部一つにしてしまう。おかずが終わるともう一つのタッパ-を持って大きなアルミ製の保温容器に近付く。ふたを開くと白い湯気が立ち込める。しゃもじで湯気を追い払いながら、少し黄色くなった御飯をタッパーの中にぎゅうぎゅう詰め込む。その間も僕の頭はぼんやりしていた。-十二時の男-それが僕のあだ名だ。十二時には必ず食堂に居るから付けられたのだが、けれども、それも実は僕の演技に過ぎないんじゃないか。
いや、十二時にここへ来るのは仕方ないんだ。食費を浮かさないと、バイトだけの収入じゃ苦しいんだから。 しかし、食費を浮かすためなら、もっと別の方法もあるだろ。今やっている新聞配達の他にも、もっとバイトを増やせばいいじゃないか。現に幾つもバイトを持って、初任給くらいの額を稼いでいる奴だっているし、ギャンブルで結構儲けている奴もいる。親に無心したっていいじゃないか。なのに、どうして毎晩十二時に来て残り物を漁るような事をやってるんだ。それはお前がそれを演じたいからじゃないのか…貧乏で実直な苦学生の役を……ふと見ると、部長はいつの間にか立ち上がって棚の上に掛かっている名札をひっくり返している。それが僕の思考を中断させた。
「あれ、今週は当番でしたか。」
寮の食事は食べたい者が食べたい日を申し出る事になっている。従って毎日食事の数が違ってくる。賄い部の日常の業務は二日後に用意する夕食の数を炊夫さんに報告し、翌日の食事を希望した者の名札を棚の上に掛ける事だ。そしてそれは一週間毎の当番制なのだ。
「いや違う。」
「そしたら、どうして。」
「Tの奴が熱出してダウンしよったんや。あいつ沖縄出身で初めての冬やろ。ここの寒さが応えたんとちゃうか。」
部長はそう言いながらひっくり返された名札を元に戻している。部長。この部長もまた賄い部の部長という役を演じているのではないのだろうか。他の部員に当番の交代を命令してもいいのに、そうはせず、熱を出した部員の仕事を自分で引き受ける頼りになる部長という役…そして、僕もまた、部長を助ける親切な部員という役を演じてしまうのだ。
「僕も手伝いましょうか。」
「すまんな、頼むわ。」
僕は食器を流し場に片付けると寮食簿を持って来て、今日食事をして明日は食事をしない者の名札をはずしていく。その後、今日食事をしないで明日は食事をする者の名札を掛ければ、それでおしまいだ。
「そう言えばS君、おらなんだな。夕方。」
「夕方、何かありましたか。」
「もう忘れてるわ。今日は水曜日やで耳パンの日やろ。買いに来てなかったがな。どないしたん。」
しまったと思った。寮の売店では毎週一回、耳パン十枚ほどを袋に入れて十円で売っているのだ。僕はこれも欠かさず買っている。しかし今日は先輩と劇を見る約束があって買えなかったのだ。
「ちょっと、用事があって。」
「ふ-ん。」
それ以上は何も聞かない。が、すぐに、
「俺、買うたで売ったろか。二十円でええで。」
僕は返事に詰まった。この言葉は親切な部長というイメ-ジからは、あまりにも懸け離れているではないか。
「ははは、冗談や、冗談。」
部長は笑いながら、僕の背中を強く叩いた。なるほど、親切で冗談の好きな部長という役回りだったのか。僕は少し苦笑した。
「なあ、S君。ええこと教えたろか。」
部長は名札を裏返す手をとめると、僕の方に顔を近づけてきた。
「なんですか。」
「あのなあ、耳パンや。」
「耳パン?」
「そうや。耳パンなんか、なにも寮の売店で買う事なんかないんや。ほら、K町にパン屋があるやろ。なんて言うたかな。」
「Gベ-カリ-ですか。」
「ああ、それや。あそこに売ってるで。」
「買った事、あるんですか。」
「ない。」
部長の顔はいつもと同じ、にやりと笑った顔だ。
「買った事がないのに、どうして分かるんです。」
「なんでって、あそこでは自分とこで作ってるやろ。だから絶対あるはずなんや。そうやろ。」
「そうかも知れないけど、」
「今度聞いてみ、耳パンありますかって。絶対あるはずや。」
ただの親切心で教えてくれるのだろうか。それともまた何かもっと別の役を演じたいのだろうか。僕には分からなかった。部長と別れて自分の部屋に戻った後もそれは分からなかった。そして僕はどうすべきかも分からなかった。部長の役も僕の役もなかなか決まらない。しかし眠たくなった頭にはそれもどうでもよいように思えてきた。僕が何をするかはその時の気分だ。その時になってみなくては分からない。取り敢えず、パン屋に行ってみようか。
次の日の放課後もいつもと同じ曇空だった。ひどく陰気で、かと言って雨が降るでもない空。僕は背を曲げてK町を歩いた。繁華街なので人通りが多い。道行く人の姿を眺めながら僕は思っていた。例えばブ-ツを履いたあの女の人だ。どうして安い長靴じゃなく、あんな高価なブ-ツを履いてるかって、それはそれが彼女の役だからだ。自分は長靴を履いた女ではなくブ-ツを履いた女を演じたいからなのだ。そしてあの髪の長い男。どうして長髪にしているのか。彼の中の演出家がそう決めているからだ。皆、自分の脚本と自分の演出を持っている。出演者も、もちろん自分だ。衣裳係もメイクアップも全て自分でやるんだ。ファ-ストフ-ド店でたむろしている若者たち。彼らはただ単にそういう若者を演じているに過ぎない。それが今、自分が最も演じたい若者の役なのだ。その役どころを決める参考になるのは、テレビや情報誌なのだろう。その中の出演者に擬えて、彼らは自分の演出をする。その役割をきっちり演じる。ぺっちゃんこの学生鞄。だぶだぶのズボン。短いスカ-ト。彼らは少し不良っぽい役を演じたいのだ。それが彼らが決めた自分の役なのだ。分厚い鞄できちんと学生帽をかぶったあのメガネの学生にしてもまた同じ事。それが彼が演じたい自分なのだ。けれどもどうして自分がその役を選んだのか、彼らには説明出来るのだろうか。
「え、やっだあ-。でも、ねえねえ聞いてよ、」
「まじかよ。だっせえなあ。」
脚本を書くのは自分たち。その台詞は常套句。どこかで誰かが使っている言葉を真似して、自分の台本に載せて喋っているだけ。いや、もしかしたらテレビや雑誌が直接彼らの台本に書き入れているのかも知れない。その台本をそのまま鵜呑みにして、その台本の通りに喋り、装い、演技し、そんな事に自分のエネルギ-を費やしている彼ら。その台本を吟味する事はしないのだろうか。それが優れた台本だと思っているのだろうか。ああ今、転んだ人。すぐ起き上がって辺りを見回すと、
「地震か?…」
そうつぶやいてそのまま行ってしまった。用心深い人はアドリブまでちゃんと用意してある。今日の僕はずっとそんな思いに駆られていた。誰を見ても自分を見ても今日の僕の目には必ずそう映ってしまうんだ。けれどもこの僕の思いは間違いではない。彼らは皆自分の意志で行動し、自分の好きな格好をし、自分の言葉を喋っている。つまり誰もが監督であり演出家であり脚本家であり俳優なのだ。自ら進んで脇役に徹する人もあるに違いない。
「みんな、完璧だ。」
通り過ぎて行く人たちの演技は完璧だ。それは上辺だけを繕っているという意味ではない。街では物分かりの良い紳士だが、家に帰れば暴君になる男性でも、そういう二重人格の役を見事に熟していると言えるのだ。見かけは綺麗に装って本当は意地の悪い女性も、見た目は平凡だが中身もやはり平凡な会社員も、皆、見事にその役を演じている。省みればこの僕だってそうだ。きっと僕が演じているのは、貧乏でお人好しで少し変っている学生、と言ったところだろうか。冬はコ-ル天のズボンとジャンバ-、夏はGパンとTシャツ。一般の学生お決まりの格好だ。背広とネクタイで決めようと思えばそう出来るのにそれをしないのは、僕の中の演出家がそれを許してくれないからだ。いや、許してくれないと言うのは変だ。僕の中の演出家、それ自身も僕なんだから。
僕が作り、僕を演じさせている僕の台本…しかし、それは本当に優れた台本なのだろうか。あそこで騒いでいる若者たちの台本よりも、もっと優れていると言えるのだろうか。そこまで考えると、僕は空を見上げてため息をつくしかなかった。その僕の目の前にはコックさんがパンを持って笑っている絵が描かれた看板がある。そして店名、Gベーカリー…
「ああ、ここだ。」
店の中に入ると数人の客がいて、結構混んでいる。レジを見るとお盆にパンを乗せた客が何人か並んで列になっている。繁盛しているのだ。
「どうしようかな。」
耳パンがあるかどうかを聞くためにあの列の後に並ぶのは馬鹿らしい。と言ってレジでお金を払っている客の横からそれを尋ねるのも厚かましいように思われた。少し迷った末、僕は何も待たずにその列の後に並ぶ事にした。
列の最後尾からぐるりと店内を見回す。店の入口にはお盆と、パンを挟む道具。それを持って店内を回るお客。レジの前の行列。それが今このパン屋で進行中の劇だ。お盆を持って店内を歩いて下さい、なんて事はどこにも書いてないし誰も言ってない。パンを二、三個鷲掴みにしてレジに行ったって構わないんだ。なのに皆がそうしないのは彼らの台本にそう書いてあるからだ。『パン屋ではお盆を持って店内を歩き、その上に欲しいパンを乗せてレジに並ぶ事。』この一文はどのお客の台本にも書いてある。その台本の通りに彼らは行動するだけ。普通のパン屋のお客を演じるにはそうしなくちゃいけないんだ。だから、ホラ、僕の後に並んだお客の変な顔。それはそうだ。お盆を待たずに、パンさえ持たずにレジの前の行列の中に居るんだもの。彼には僕の役回りがさっぱり理解出来ないに違いない。僕は少し楽しかった。大根役者を眺めているみたいな気分だ。
その間に僕の番がどんどん近付いてくる。レジの女の子も僕が何も持たずに行列に並んでいる事に気付いたようだ。少し変な顔で、時々ちらりとこちらを見ながら指はキ-を打っている。やがて僕の前の客がお釣を受け取って外に出て行くと、やっと僕の順番が回ってきた。レジの前に立つ。女の子が不安そうな目で僕の顔を覗き込む。さあ、言おう。
「耳パンありますか?」
「え、」
その時、僕は見た。レジの女の子の顔。驚いた顔。あの懐かしい感覚。僕はもう一度ゆっくりと言った。
「パンの耳、ありますか?」
「パ、パンのミミ!」
その感覚はあの時、小さな部屋で先輩と一緒に見た劇で感じたものだ。セリフを忘れたあの役者。それは今、レジの女の子だった。彼女は明らかにセリフを忘れていた。今までパン屋のレジ係という役を完璧に熟していたのに、まさにこの時、彼女はセリフを忘れてしまったのだ。そしてそれは彼女だけではなかった。このパン屋にいるお客たちも自分の演技を忘れているのが、僕には分かった。あの時、立ち往生している役者を見てどぎまぎしていた観客の様に、彼らも動揺していた。その動揺は彼らが支えていたパン屋の風景という一つの劇に小さな崩壊を引き起こした。その亀裂から僕が垣間見たのは、日常の中に現れた非日常の空間だったのだろうか。
しかし僕が一番興味を持ったのは、やはり自分の目の前に立っている女の子だった。パン屋のレジ係という仮面が外れた女の子。仮面の下の素顔。レジの係ではないもう一つの仮面…
「し、しばらく、お待ち下さい。」
彼女はそう言うと、レジの奥にある厨房へ入って行った。どうやらそこでパンを作っているらしいのだ。彼女が居なくなると同時に僕の興奮も少しづつ治まってきた。僕の後に並んでいるパン屋のお客たちも、今では「焦らされて順番を待っているパン屋の客」という役を演じ始めている。この空間の崩壊はすぐに治まり、元のパン屋の風景が戻りつつある。
「パンの耳、何枚要るの?」
コックさん特有の高い帽子を被った男の人が、大きな声でそう言いながら出て来た。左手に大きな紙袋を握っているが、あんまり大き過ぎて袋の底が床についている。小麦粉の空き袋だ。その後にはレジの女の子。僕は僕のセリフを言う。
「一枚いくらですか。」
「二円。」
「じゃあ三十枚下さい。」
「三十枚ね。」
太い腕を紙袋に突っ込んでパンの耳を何枚か掴んで取り出す。それを右手に持った小袋へ移し変えて行く。僕は黙って見ていた。
「はい、三十枚。」
男の人は耳パンを入れた小袋を後に立っている女の子に渡すと、紙袋を引き摺ってまた奥に戻って行った。女の子は何事も無かった様にレジの前に戻ると、僕に向かって言った。
「六十三円になります。」
すっかりセリフを取り戻している。だが、以前のレジの役とは微妙に何かが違っていた。僕はお金を渡すと小袋とレシ-トを受け取った。
「どうも。」
「ありがとうございました。」
女の子の声を背にして店の外に出た僕は爽快だった。自分の演技は見事なものだった。台本通りに熟せたのはもちろんだが、劇の世界が崩れる瞬間をもう一度体験できた事、これが僕を喜ばせた。しかも以前のあの劇の時とは逆だった。言うまでもなく、今、これは現実なのだ。そして僕が垣間見たのは非現実の方だった。僕は街を歩きながら考えた。今度はいつ来よう。
その日の放課後は珍しくよく晴れていた。あの耳パンはさすがだった。パン屋で作っているだけあって、大変口当たりが良かったのだ。たぶん上質のバタ-を、それもたっぷりと使っているのだろう。さらに普通の食パンの耳だけでなくレ-ズンパンや、コーヒー味のパン、さらにはサンドイッチでも作る時に付いたのだろうか、チ-ズ片が残っている耳もあった。
「な、言うたとおりやろ。」
そう言って耳パンを食べながら笑っていた部長の得意そうな顔が浮かんでくる。すると今、街を歩いている僕の顔にも、知らず笑みが浮かんできた。それは部長と同じ笑みではなく、恐らくはあのパン屋の風景劇に小さなヒビ割れを起こした事、役者の仮面を剥いだ事、とりわけレジの女の子の表情が僕には印象に残っている。あれから何日か経って耳パンもなくなり、僕はまたあの劇場に立ち寄る事にしたのだ。今日はどんな劇を見せてくれるんだろう。店の看板にはにこやかに笑うコックさん。その向こうに気持ちのいい青空が広がっている。僕は店の前に立ちどまると勢いよくドアを開けた。
「…!」
店に入った瞬間、もう別の劇が始まった事が分かった。レジの女の子と僕の目が合ってしまったのだ。そして相手は明らかに僕を覚えていた。その顔が驚いた表情に変ったからだ。僕はまるで当たり前の様に何も持たずに、レジの前の行列の一番後に並んだ。それを横目で見て、目を丸くしていた女の子がクスリと笑った。僕が何をしようとしているか、これからどんな劇が始まるか、もうすっかり理解してしまったのだろう。周りの役者たちは以前と同じ、面食らったような表情だ。この脚本を知っているのは僕とレジの女の子だけ。すると僕も面白くなってきた。これは一つの劇中劇みたいなものだ。しかも他の役者にはその劇がどうなるかは教えてないのだ。さらに以前は僕一人だったこの劇に、もう一人、レジの女の子が加わったのだ。僕たちは役者であり同時に観客でもあった。レジの女の子はこの役をきちんと熟し、同時に店の客を演じている役者達の演技ぶりを見て、こっそり笑い転げるに違いない。僕は楽しくなってきた。劇を演じるには一人より二人の方が面白いに決まっている。お客の列はどんどん進んで僕の番が回ってきた。僕はレジの前に立つ。さあ、始めよう。
「耳パン下さい。」
「一枚二円ですが、何枚御入用ですか。」
「三十枚お願いします。」
「分かりました。少々お待ち下さい。」
そう言いながら女の子は奥の厨房に消えた。僕は女の子の演技ぶりがとても気に入った。口振りはいかにも演技的でありふれている。しかしそれは女の子の演出なのだ。この部分は演技を感じさせるように演技する事。女の子の台本にはそう書かれていたに違いない。周りのお客の不機嫌な顔。彼らにとっては不愉快な空間。しかし僕たちにとっては愉快な空間だ。お客の驚きも不機嫌も二人の台本にはきちんと書かれているのだから。
「なんだ、また君か。」
先日と同じ男の人が小麦粉の空き袋を持って出て来ると、大きな声でそう言った。僕は小さく頷いただけで何も言わなかった。
「耳パンどうするの?」
男の人は耳パンを小袋に入れながらそう尋ねた。僕が返事をしないでいると、今度はからかう様に言った。
「そのまま食べてたりして。」
「ははは、」
僕は力なく笑った。彼とは演技したくないのだ。三十枚の耳パンを小袋に詰めると、彼はまた奥へ行ってしまった。
「六十三円になります。」
レジの女の子の声が聞こえた。僕は自分の役を取り戻すと、右手に握り締めていた小銭を女の子に手渡した。
「はい、六十三円。」
女の子はそれを受け取り、僕は小袋とレシ-トを受け取った。その時の女の子の役は、もちろん普通のレジの女の子の役ではなかった。僕もまた彼女にとっては、ただのパン屋の客という役ではないはずだ。
「ありがとうございました。」
女の子の声を背に店を出ると、眩しい西日が目に飛び込んだ。その西日が目を通して体の中に染み込んで来るように、僕の心はホカホカしていた。それはまた一つの思いに突き当たったからだ。人と知り合うという事、それはお互いの台本を見せあう事だ。そして人と仲良くなる事、それはお互いの脚本や演出が気に入るという事だ。それは全てにおいてそうだ。自分の台本を人に見せる事ほど勇気の要る事はない。その中には本人の全てが書き込まれている。その人の過去も現在も将来の夢も、主義も好みも志向も全てが書かれている本人その物なのだ。あの時、僕があのコックと演技をしたくなかったのは、彼の台本が気に入らなかったからだ。いや、と言うよりも、彼の台本自体が、僕には分からなかった。彼の役回りも分からなかった。だがあの女の子のは気に入った。あの女の子も僕の台本を気に入ってくれたと思う。でなければあんな演技はしないだろう。むろんそれは僕の思い込みかも知れない。けれども僕の台本にはすでにそれが書き加えられていた。そして僕の中には、あの劇をパン屋の風景の中の小さな劇中劇ではなく、もっと大きな独立した一つの劇に仕立て上げたいという欲望が芽生え始めていた。
「S君、大変やで。」
その日、寮の部屋で、買ってきた耳パンを食べていると、部長がノックもせずに入って来た。
「どうしたんですか。」
僕の問い掛けに何も応えず、部長はベッドに腰掛けると、机の上の耳パンに手を伸ばして食べ始めた。真面目な顔でもぐもぐ食べている。僕はもう一度尋ねた。
「何が大変なんですか。」
「炊夫の削減が決まったらしいんや。」
「本当ですか。」
「ほんまや。今年度いっぱいで終わりらしいで。」
僕は落胆した。ある程度予想はしていたものの、やはり残念だった。寮内はこの一年間、炊夫削減問題で揺れていた。それは文部省通達による受益者負担の原則に従って、現在二名いる公費雇いの炊夫を一名に削減するというものだった。寮の食堂では現在三名の炊夫が働いており、すでに一人は寮生が雇用している炊夫なのだ。それをまた一人削減されるのでは寮生の負担は増大するばかりだ。賄い部だけでなく寮の執行部全体がこの問題に取り組み、学内でのデモ、署名運動、寮に当局者を呼んでの質問会など、とにかく頑張ってきたのだが、やはりそれらは実らなかったのだ。
「もう一人雇わんならんな。今の食事の量やと、三人の炊夫は絶対に必要やからな。金がかかるわ。」
部長の声も重苦しい。自治寮である以上、寮の運営は全て寮生によって行われている。寮生雇いの職員の給与や保険はもちろん、食事の材料費、光熱費など生活する上での諸経費は、全て寮生が金を集めて払っているのだ。
「食事代を値上げしなきゃいけないという事ですか。」
「いや、それは反対する奴もおる。食事の質を落としても値段は据え置けと言う奴もおるやろ。」
「難しいですね。」
「それだけやない。寮の食堂なんか廃止せいと言う奴もおる。晩飯しか出さん食堂なんか要らんと言うんや。まあ、いずれにしても臨時の寮大会を開いて話し合うしかないな。」
部長は引き千切るように耳パンを食べている。
「寮大会の前に賄い部としての意見もまとめとかんといかんやろ。今度の土曜の晩に賄い部の部会を開くけど、ええか。」
「構いませんよ。」
部長は耳パンの最後の一切れを飲み込むと立ち上がった。
「食費の値上げの事はどっちでもええけど、食堂は絶対に存続させないかん。S君も食堂ないと困るやろ。」
そう言いながら部屋を出て行った。僕は部屋の中で一人、耳パンを持って座っていた。そうだ。これが現実なのだ。自分の脚本で決められるのは自分だけ、つまり一人芝居のみが可能なのだ。一人一人が自分の台本を持っている以上それは当たり前だ。台本と台本が食い違う場面ではどちらかが優先される。それはあのパン屋の風景からでも分かる。
けれどもこの時の僕はもっと違う事を考えていた。今度の炊夫の問題は確かに僕たちの思い通りには行かなかった。それは誰かの台本だ。しかしその誰かもやはり誰かの台本に従っているのだ。様々な台本が存在して、それらが部分的に採用されて行くとは僕は考えなかった。むしろ台本は一つなのだ。今回僕たちの思い通りに行かなかったのも、その一つの台本の通りに進んで行ったのだ、と考えたらどうだろう。そして僕の台本も、僕自身が書いているのではなく、実はその一つの台本の持ち主が書いているとしたら……宗教家ならここで神を持ち出すに違いない。しかし僕は無神論者だ。
「もし、ここに僕一人しか居なかったら…」
僕の台本が全てであり唯一となるはずだ。だが本当にそうなるのだろうか…
重苦しい天気だった。今にも降り出しそうだ。しかも雪ではなく雨になりそうだ。冬の冷たい雨ほど憂鬱なものはない。濡れた新聞の重みと次第に濡れてくる軍手。指の先が刺されたように痛み、やがて押し潰された鈍痛に変る。軍手を取っても指はすぐには曲らない。僕は冬の早朝の辛い配達を思いながら街を歩いていた。皆、背を丸めて歩いている。僕も背を丸めている。そして気分もひどく憂鬱だった。
僕の台本。新聞配達をして、賄い部の仕事をして、十二時には食堂へ行く僕の台本。だが僕はその台本に愛着を持っているのだろうか。真面目な学生と思われたいから新聞配達のバイトを選び、寮生なら当然と言われて執行部の仕事を引き受け、十二時の男と呼ばれたくて、今ではさほど必要でもないのに十二時に食堂へ行く。
僕は気付いていた。あの若者たち、町で騒いでいる若者たちの台本。彼らは少なくとも楽しいのだ。自分の台本を演じる事が楽しくて仕方ない、だからこそあそこまで真剣になれる。だが、僕は自分の台本を楽しんではいない。自分の演技も楽しんではいない。その点で僕の台本は彼らより遥かに劣っているのだ。この台本は本当に僕が書いたのだろうか、僕自身が演じたい役、それは一体何なのだろうか…
僕はパン屋に向かって歩いていた。出来損ないの僕の台本の中で唯一明るい照明が用いられている見せ場。なのに、その日はその場面までも、僕の頭の中では暗いイメージに覆われていた。どうしてだろう、これからいつもの劇が始まるのに…僕は店の前までたどり着くと、急いで中に入った。店の中は暖かい。緊張していた頬が緩む。レジの女の子は相変わらずだ。だが、
「・・・」
あの表情はなんだろう。こちらを見向きもしない。並ぶお客を冷静に片付けている。僕はひどく嫌な予感がした。けれども僕は僕の台本に従う。いつもの様に手ぶらでレジ待ちの列に並び、自分の番をじっと待つ。並んでいるお客の反応、近付いてくる僕の順番、レジの女の子、そしてセリフ。
「耳パンありますか。」
瞬間、僕の心は凍り付いた。その時の女の子の冷たい表情。
「お待ち下さい。」
後姿を見ながら、僕は何かが違うと思った。そして自分の台本を一所懸命にめくり続けた。
「ああ、耳パンないよ。」
いつもの男の人が顔だけ出して言った。その後から出て来た女の子の表情。その目の輝き。そこにあるのは共演者の暖かい眼差しではなかった。まるで批評家のような、出来の悪い役者を見つめる冷たい観客のような眼差し。そして、それはもう僕の台本には存在しない役だった。
「一枚もないんですか。」
「ない。一枚もない。」
その時、僕は彼だった。セリフを忘れた彼。役者の仮面を外されどぎまぎしていた彼。あの時の情景が僕の脳裏に蘇ってきた。今、僕一人がこのパン屋の劇の中で完全に孤立していた。そして助け舟を出してくれる共演者も居ないのだ。何処だろう、何処に書いてあるんだろう。僕のセリフは、僕の役は…
客たちの視線、レジの女の子の視線が突き刺さる。大根役者を演じる番が今度は僕に回ってきたのだ。あの女の子、あの子の役は何? あの時、レジ係りの仮面が外れたと僕が感じた時…しかしそれさえもあの子の演技だったとしたら…その場面もすでにあの子の台本に書かれていたのだとしたら…
「じゃあ、いいです。どうも。」
僕は店を出て街を歩いた。僕の役は? パン屋でしくじった間抜けな学生? それくらい何とも思わないタフな男? 毅然とした男? 僕は脚本を探してウロウロした。いつの間にか雨が降っていた。通行人は皆、僕の失敗を知っているんだ。もうあの店に行く事は二度とないだろう。笑っている人、むっつりしている人、お喋りしている人。素晴らしい役者が通り過ぎて行く。僕は街を見上げた。
「この街は何が演技しているんだろう。」
僕は冷たい息を吐きながら、賑やかなK町通りを大橋向かって下って行った。
街 第一章
夜明けの街を自転車で走る。もう東の空が白み始めている。夏の朝の空気が妙に生暖く吹きかかる。僕は必死でペダルを踏んだ。
「ああ、遅刻だ、遅刻。」
口に出して言ってもどうにもならない事は分かっていても、つい出てしまう。独り言が僕の癖なのだ。とにかく今朝は起きられなかった。どうにも夢見が悪かった。遅刻を夢のせいにするのは変だが、なかなか覚めない夢だった。自分でこれは夢だと分かっているのに覚めない夢。しかも僕はその夢の中で、バイトの新聞配達に遅刻する事を心配して、早く目が覚めるように涙ぐましい程の努力をしていたのだ。この夢の中の僕の努力を見れば、新聞販売所のおじさんも僕を許してくれるに違いない。新聞を待っているお客さんたちも同じく僕を許してくれるだろう。だからこんなに急がなくてもいいんだ。さあ、自転車を降りてゆっくり歩こう。
「ばかばかしい。」
ああ、何を下らない事を考えているんだ。こんな考えが浮かぶようでは、まだ僕の頭は完全に覚めてないんだな。自転車は大通りを抜けてN町の町並みの中に入った。この道をしばらく行くと販売所がある。それはすぐに見えてきた。僕はハアハア言いながら自転車のブレ-キを握った。スタンドを立てて戸口にそっと近付く。人の気配は感じられない。ゆっくりと戸を開ける。もちろん誰も居ない。それはそうだ。早い人は三時半にはやって来て配り出すんだ。今頃、人が居る訳がない。中に入ると、作業台の上に新聞紙の束が乗っている。一部づつきちんと広告も入って、五十部毎に互い違いになって積んである。僕は頭を掻いた。いつもなら四時頃に来て、折込チラシの挿入、袋詰め、把束、自転車に積んで配達。ここまでが一人分の仕事なのだ。しかしこの仕事の前半の部分はもうやってある。僕は少し恥かしくなった。販売所のおじさんもまだ学生という事で大目に見てくれているのだろうが…
僕はすぐに作業を始めた。新聞を数えて袋に入れて、ビニール紐で十文字に縛った物を幾つか作る。出来上がると僕は時計を見た。すでに五時になろうとしている。僕の受け持ち区域は小さいので、急いで配れば、配達時間は一時間程度。新聞は六時までに配れと言われているので、頑張ればぎりぎり間に合う。大慌てで準備を整えると、僕はまた自転車にまたがってペダルに力を入れた。僕の前に、目を覚ましかけた夜明けの街が広がっている。
「ただいま。」
汗だくになった僕はそう言いながら販売所のドアを開けた。時計は六時十分。まあまあ許される時刻だろう。販売所の中に入って配達に使った袋や紐を片付け出す。返事がない。
「変だな。」
いつもなら販売所のおばさんかその娘さんが「おかえり。」と声を掛けてくれるはずなのに、今朝はどうした事か返事がない。片付けを終えた後、奥にある事務所を覗いてみた。誰も居ない。
「どうしたんだろう。」
何かの用事で出かけるにしても、この時間は必ず誰か一人は残っているはずなのだ。それに今日は誰か居てくれないと困るのだ。月に一度の給料日なのだから。給料は毎月決まった日に現金で貰う事になっている。今日が今月のその日なのだ。それなのに誰も居ないとは…どうしよう。誰か来るまでしばらく待っていようか。それとも今日は帰って明日貰おうか。僕はしばらく誰も居ない事務所の中を眺めていた。
そんな僕の頭にある朝の出来事が浮かんできた。以前、僕は大遅刻をした事があった。新聞配達のバイトを始めて、初めての試験の時だった。朝、僕は飛び起きた。枕元に置いてあった二つの目覚まし時計は、二つとも遠くに投げ飛ばされて、秒針を刻む音だけが静かに聞こえている。その時計の時刻はすでに六時! 僕は最初悪い夢を見ているような気がした。自分で時計を止めた覚えはないし、投げ飛ばした覚えもない。寮の誰かが僕の部屋に忍び込んで悪さしたのではないのだろうか。そんな考えさえ浮かんできたほどだ。しかし、今は寝坊の原因を考えている時ではない。すぐに服を着替えて部屋を飛び出した。息急き切って戸を開けた販売所の中には誰もおらず、僕の配る新聞も無い。僕は再び自転車に乗って、僕が配る地域へ向かった。すると、販売所のおじさんが肩から袋を下げて、歩きながら新聞を配っていた。「すみません。」僕は後から声を掛けた。その時、振り向いたおじさんの怒った顔と、それに続く怒鳴り声は、今でも僕の中に残っていて、時々言いようのない恐怖を僕に味合わせてくれる。その後の事はあまり思い出したくないが、とにかく誰かが遅刻した時には販売所の家族総出で配る事になっているのだ。
「誰か休んだのかな。」
それは十分にありえる事だ。僕はこのバイトを始めてまだ一年ほどだが、こんな事はよくあるのかも知れない。実際、僕のあの遅刻の時には、販売所の中は今と同じ、誰も居ない状態だったのだ。それに遅刻ではなく急な欠勤だってあるはずだ。僕は迷った。もし販売所の人が配っているのなら、帰ってくるのは大分遅くなるかも知れない。このまま待っていようか、それとも、
「明日にするか。」
お金を貰うのが一日くらい遅くなってもどうと言う事もない。早く帰ってゆっくりした方がいい。僕はそう決めると作業台の方へ戻り、自分の新聞を一部持って販売所の外に出た。
六時を過ぎるともう明るい。朝日がじりじり照りつけて、今日も暑くなる予感を抱かせる。僕の自転車は大通りを走る。まだ朝が早いせいだろうか、車は一台も通らない。気持ちがいいので車道の真ん中をぐんぐん走る。僕の下宿は川の近くにある。このバイトを見つけて収入が安定したので、今まで住んでいた学生寮を思い切って出て、三階建ての家の二階の一部屋で間借り生活を始めたのだ。
僕の自転車は大通りから下宿の町並みの中に入った。家々の屋根の向こうに木のてっぺんが見えてくる。神社に立っている大きな木だ。その神社の正面に僕の下宿がある。一階は大家さん、八十歳を過ぎたおじいさんとおばあさんが二人だけで住んでいる。二階には僕の他に二人の学生。三階には一人、合計四人の学生が住んでいる。
下宿に着くと、僕は自転車を降りて、神社に立っている木を見上げた。大きい。僕が下宿の下見に来た時、初めてこの木を見た時もそう感じた。大きい。こんな所に立っているのが場違いなくらい大きい。そして、その場違いさが僕の中に哀れみの感情を呼び起こした。この木にはもっとふさわしい場所があるはずなのに…僕はこの木を見るたびにそう思った。神社の敷地内とは言え、こんな住宅街に立っている木…たぶん僕はその木に自分の境遇を重ね合わせていたのだろう。
自転車を門の中に入れると玄関をそっと開けた。皆、まだ眠っているはずなので、足音を忍ばせばながら新聞を持って二階の自分の部屋へ行く。そしてまた、そっと自分の部屋の戸を開けて中へ入る。畳が五つ横に並んだ、いつもと同じ僕の部屋。天井には裸電球が一つぶら下がっている。窓側には古道具屋で三千円で買ってきた机と椅子。その横に本棚、これは生協で買ったものだ。机の前に親が持って来てくれたこたつ。目を転じて部屋の反対側の隅には、販売所から貰ってきた新聞紙が積み上げてある。一縛り出来るくらいにたまったら、ちり紙交換に出してトイレットペ-パ-を貰うのだ。
僕は今日の新聞をこたつの上に放り投げると、すぐに朝食の支度に取り掛かった。支度と言っても簡単なものだ。部屋の中にある炊飯器に米を入れる。次にヤカンの水を適量注ぎ、蓋をしてスイッチを入れる。これで終わりだ。最後にスイッチの所にスプ-ンを挟み込むのを忘れてはいけない。最近炊飯器の調子が悪くて、このスプ-ンを忘れると、まだ泡を吹いている段階でスイッチが切れてしまい、芯の残った御飯が出来てしまうのだ。だからこのスプ-ンで強引に通電状態を継続させ、頃合を見てスプーンを抜き、自分でスイッチを切るのだ。
炊飯器をセットした僕は、こたつ机の前に座って新聞を広げた。テレビ欄を見る。僕はテレビを持っていないが、テレビ欄を読むと、テレビを見たような気がしてくるから不思議だ。それから下のラジオ欄。ラジオは持っているが、あまり聞かない。ラジオ劇、朗読、クラシック音楽を聞くくらいだ。ニュ-スも聞かない。それは新聞を読めば分かるし、なにより、つまらないからだ。テレビでは映像があるから見ていて面白いが、あれが音声だけだと、よほど忍耐のある人でなくては聞かないのではないかと思う。とにかくイメ-ジが湧いてこない。近所のおばさんの井戸端会議風に喋ればもう少し面白くなるのかも知れないが。
テレビ欄をめくって読むともなく眺めて行く。文化欄、地方版、経済欄、政治欄、一面記事。読んではいるのだろうが、全く頭に入らない。車窓から景色を眺めているような読み方だ。少し眠くなっても来る。
「そろそろかな。」
炊飯器の湯気が少なくなって、今はちりちり言っている。僕は挟み込んであったスプ-ンを抜き取った。待ってましたとばかりにカチリと音がしてスイッチが切れた。蓋を開けると白い湯気。箸でつまんで口に入れる。なかなかの炊き具合だ。
「おかずはどうしようかな。」
僕が愛用しているのはレトルト食品だ。冷蔵庫を持っていないので、常温で保存でき、温めるだけですぐ食べられるこれらの商品は重宝している。これを調理する時も鍋に水を入れて煮立てて温めるというような事はしない。炊飯器の上に置いておくだけである。するとそこから漏れてくる蒸気で御飯が炊き上がる頃にはもう温まっているのだ。しかし、今朝はどうもレトルトの気分ではない。
「納豆だな。」
納豆も僕の好きな朝のおかずの一つだ。安いし、御飯がたくさん食べられる。僕はそう決めると丼をこたつの上に置いた。それから四個百円のお徳用納豆の一つを取り出し、中に空けてかき混ぜる。普通の食べ方なら御飯の上に納豆をかけるのだろうが、容器がこの丼一つしかないので、まず納豆を作っておいてその上に御飯を載せるという順番になる。
箸でぐるぐるかき混ぜる。これも好みだろうが、よくかき混ぜて十分に糸を引いているのがお気に入りだ。ひとしきり練った後、添付の醤油を入れてまた練る。少々高い納豆だと辛子も付いているが、この納豆には付いていないのでこれで終わり。さっそく御飯を丼の納豆の上に空ける。その上からシラス干しをぱらぱらかける。これがせめてもの今朝のおかず。準備が出来たらすぐ頬張る。御飯を適当に納豆に絡めてばくばく食べる。食べる時はいつでも一心不乱。すぐに食べ終わって、やかんの水をコップに注いで飲み干す。
「ふう-。」
この時が一番寛ぐ時だ。今朝の仕事が終わり、朝食も終わった後の開放感。時計を見るとまだ七時過ぎ。講義に出かけるには早過ぎる。僕は畳の上に横になった。朝食の後の朝寝も毎日の日課なのだ。
目が覚める。時計を見る。そろそろ準備しなければいけない時間だ。僕は目をこすりながら起き上がって、鞄に本を詰め込み、トイレ、洗顔を済ませて、いつもの出立ちで下宿を出る。眠い。今日は一時間目から講義があるから、あまり朝寝も出来なかった。
僕は歩いて通学している。時間のない時は自転車を使うが、極力歩く事にしている。勿体無い時間の使い方だが、歩くのが好き、と言うか、歩いていると本当にこの街で生きているような気になるのだ。自転車はひたすら前に進み、ただ通過して行くだけだが、徒歩なら横にも後にも寄り道できる自由がある。立ち止まって見知らぬ家の玄関の植木鉢をじっくり眺めることもできる。道端に立っている幼児と目が合うこともある。そしてそんな時、遠くから来てまだ日も浅い自分が、この街に本当に受け入れてもらえたような気持ちになるのだ。
やがて川の音が聞こえてくる。そして徒歩専用の橋。
「今日も暑くなるなあ。」
僕は橋の上から空を見上げた。ここは雪国と聞いていたので、夏、こんなに暑い日が多いとは夢にも思わなかった。やはり夏はどこへ行っても暑いのだ。橋を渡り終えて舗装道路を歩く。ここをまっすぐ行けば目的地はすぐだ。
「…変だな。」
道を歩きながら僕は何となく違和感を感じた。妙に静かなのだ。だが、その原因はすぐに分かった。車が走っていないのだ。街の騒音の大部分は車によってもたらされるものだから、車が走っていないと大変静かに思える。今、歩いている道は片道一車線の道路の端っこで、普段なら車の通りも結構あるのに、今日はまだ一度も車を見ていない。
「なぜだろう。」
僕は首を傾げた。しかしすぐに気を取り直した。別に車が通らなくたっていいじゃないか。それに今日は土曜日だ。週休二日制の昨今だ。今まで土曜日にも関わらず必ず車に会っていた方が変だったのかも知れない。そう思うと変だと思う気持ちもなくなる。変な事に会うと、今までの方が変だったんじゃないかと考える、こんな考え方も僕の一つの癖だ。それに通学途中で車に一度も会わないからと言って、考え込んでも仕方がない。
僕は道をてくてく歩いた。やがて入口が見えてきた。門をくぐって、建物の中に入る。中は薄暗く静まり返っている。いつもと同じだ。廊下を歩いて講義室に入る。
「ああ、居ないな。」
思った通り、誰も居ない。土曜日の一時間目の講義ほど出席率の悪い物はない。特に冬の雪の日はひどい。僕一人しか出席しなかった事もあった。それにこの講義は講師が優しく、試験が出来なくてもレポ-トを出せば単位が貰えるから余計だ。時計を見ると開始十分前。しかし今日は天気もいいから二、三人は来るだろう。
僕は椅子に座ると本を取り出して広げた。ぱらぱらめくる。めくりながら今日は眠ってしまいそうな予感に襲われる。昨晩は遅くまで酒を飲んでいたんだ。それで新聞配達にも遅れてしまったし、今もひどく眠い。当初は朝刊配達に健康的なイメ-ジを持っていたが、最近は変わりつつある。夜、何時に寝ても朝は決まった時間に起きなくてはいけないのだ。むろんそれはどんな仕事でも同じなのだが、起きる時間が早過ぎるので、他人と同じ様に夜更かしすると必ず寝不足になってしまう。それなら早く床に就けばいいのだが、それもなかなか難しい。
遠くでチャイムの音がする。講義の始まりを告げているのだ。ほっぺたを叩いて気合を入れる。周りを見回すとやはり誰も来ていない。これもいつもの事だ。出席するにしても遅刻して来るのが、学生というものなのだ。僕はもう一度本に目をやる。
「…遅いなあ。」
しばらくして僕はため息をついた。学生が遅いのは仕方ないにしても、講師もなかなかやって来ないのだ。もう一度時計に目をやるとすでに開始から十分も過ぎている。講師も遅れてくる事はあるが、これは遅過ぎる。何か事情があるのなら、その旨連絡があるはずだ。
「休講だろうか。」
そうかも知れないと僕は思った。取り敢えず学生課へ行って見てこようか。その間に講師が来たとしても、これだけ遅刻しているのだから言い訳は立つだろう。僕は本や筆記用具はそのまま机の上に置いて、講義室を出た。階段を降りて一階の学生課の前へ行く。休講ならそこの掲示板に張り紙がしてあるはずだ。
「ないなあ、」
休講の張り紙は何枚かあったが、今日の講義ではない。その他にも張り紙があるが、いずれも今日の講義とは関係の無いものばかりだ。僕は学生課のドアをノックした。
「あれ。」
戸を開けようとしたが、ノブは回らない。鍵が掛かっているのだ。今日は職員は休みなのだろうか。
「どうなってるんだ。」
こうなったら仕方ない。講師の部屋へ直接行ってみよう。この講義の担当は二講の助教授だ。再び階段を上がって廊下を歩く。不気味なくらいひっそりとしている。話声も物音もしない。こんなに静かだっただろうか。ほどなく第二講座の部屋の前に着いた。ドアをノックする。返事は無い。鍵は…やはり掛かっている。
「どういうことだ。」
自分が不機嫌になっているのが分かった。僕は廊下を歩きながらあれこれ考えてみた。何の連絡もせずに講義に来ないのだから、余程の事があったのかも知れない。病気、事故…そしてここに連絡しても職員が来ていないので、どうしようもないのかも知れない。僕はもう一度講義室に入った。部屋の中には誰も居ない。僕が置いて行った本と文房具がポツリと机の上に乗っているだけだ。
「どうしようか。」
帰ろうか。しかし、二時間目もあるのだから下宿に戻ってもすぐに引き返して来なければならない。ここで時間を潰そうにも食堂も売店もまだ営業前の時刻だ。僕は自分の席に戻ると他の椅子も使ってごろりと横になった。
「あ-あ。」
こんな時は眠るに限る。いくら僕が真面目だからと言っても、一人で自習に励むほど勤勉ではないのだ。目を閉じると、どっと眠気が襲ってきた。
「…こぉ-ん、かぁ-ん…」
遠くでチャイムの音が聞こえた。僕はガバリと起き上がった。一時間目が終わったのだろうか。時計を見る。違った。二時間目の始まりのチャイムだった。僕は講義室の中を見回した。同じだ。やはり誰も居ない。どうやら僕が寝ている間、この部屋には誰一人、足を踏み入れなかったようだ。講師がやって来たのなら僕を叩き起こすだろうし、学生がやって来たのならもっと手ひどく僕にちょっかいを掛けるだろう。
「あ-あ。」
僕は伸びをした。いずれにしても一時間目は終わってしまったのだ。講師は何かの事情で来る事が出来ず、学生も一人も来なかった。考えてみればありふれた出来事だ。僕は机の前に座り直して、一時間目の本を仕舞い込むと、二時間目の講義に使う本を鞄から取り出した。ぼんやりした目で本をめくる。起きたばかりで頭が重い。こんな状態で講義が頭に入るだろうか。
眠いのがバイトのせいなら、一体何のためのバイトなんだろう。授業を受けるためにバイトをしているのに、これでは妨げになっているだけだ。だからと言ってバイトを辞めては学生生活は続けられない。いつも感じるジレンマだ。僕は頭を軽く振るとまたほっぺたを叩いた。ごちゃごちゃした数式を眺める。
「・・・」
おかしい。僕は時計を見た。開始時間はとっくに過ぎている。頭を上げて周りを見る。やはり誰も来ない。この教官の単位は取りにくいので出席率は結構いいはずなのに、学生が一人もやって来ない。のみならず講師もやって来ないのだ。僕は少し苛立ちを覚えると、立ち上がって講義室を出た。今度は学生課へは行かず、直接講師の部屋へ向かう。ドアを叩く。返事はない。鍵は、やはり締まっている。
「どうして、、、」
僕は廊下に立ち尽くした。二時間続けて誰も来ないなんて余りにも不自然だ。しかも学生はともかく講師までが来ないなんて。不慮の事故や、やむを得ない急用が、二人の講師に同じ日に襲いかかるという事はない事ではないだろうが、その確率は極めて低いはずだ。僕は廊下を見通した。誰も居ない。何も聞こえない。物音も、喋り声も、歩く音も、実験器具の音も、何も……僕は廊下を走り出した。講義室に戻って机の上の本と文房具を鞄の中に仕舞い込むと、講義室を飛び出した。
「教養部に行ってみよう。」
隣の教養部は同じ建物の中にある。教養部は人数も多いし、講義数も多いから、そこになら誰か居るかも知れない。僕は廊下を走った。たんたんと僕の靴音だけが廊下に響く。教養部に着くと講義室の戸を片っ端から開けてみた。居ない。どの部屋にも誰も居ない。自習室、供茶室、戸は開くのに中には誰も居ない。
「そんな…馬鹿な。」
誰も居ないのだ。ここには誰も居ない。僕は最後に入った教養部の講義室の中で茫然と立ち尽くした。今日は何かの休みだったろうか。日曜日?―いや違う土曜日だ。創立記念日?―違う。祝日?―違う。ではなぜ誰も居ないのか。全ての学生が講義をさぼり、全ての講師にやむを得ない事情が発生したとでも言うのだろうか。僕は講義室の窓に近寄るとそこから外を見た。道にもグラウンドにも人影はない。僕はその誰も居ない景色をぼんやり眺めた。
「会館にでも行ってみるか。」
僕の口からそんな言葉が漏れて出た。学生会館には本屋や食堂、売店それからサ-クル部屋まである。講義をさぼっているにしろ、今日が休みであるにしろ、一人くらいは学生が居るはずだ。僕は窓から離れると、鞄を右手にぶら下げてゆっくりと講義室を出た。
外はもう夏の日差しだ。目も肌もちくちくする。構内の石垣と緑の葉の対照が僕は好きだ。木の葉が風に揺れている。誰も居ない。
「居ないなあ…」
階段を登って会館の中に入った。最初に食堂に入る。誰も居ない。隣の本屋。居ない。人は誰も居ない。けれども変だ。何か違和感を感じる。もう人が居ないのには慣れてきたけど、この違和感は何だろう。
「電灯だ。」
それはすぐに分かった。電灯が点いているのだ。休みなら電灯など点けないだろう。それに入り口にロープも張っていない。閉店後は必ず『閉店しました』という札の付いたロープが張られ、それは開店まで張られたままなのだ。ところが今、僕の目の前にある本屋はロープもなく、電灯も点けられ、レジに誰も立って居ない事を除けば、いつもと同じ風景だ。
「つまり、人が居たんだ。」
誰かが、ロープを取り去り電灯を点けなければならない。それが僕ではない以上、他の誰かがやったのだ。思い返せば全てそうだ。講義室に入室出来たという事は、鍵を開けた誰かが居たという事だし、建物の中の灯りも点いていた。食堂の灯りも点いている。それならばそれを点けた誰かがどこかに居るはずだ。
「すみませーん、誰か居ますかあー。」
僕は大声を出してみた。返事はない。どこか別の場所に居るのだろうか。だとすると何故ここに居ないのだろう。お客が居ないのはともかく、店は開けておいて店員が一人も居ないなんて無責任過ぎる。一体何が起こったんだろう。こんな事は初めてだ。僕は本屋を出ると食堂に戻った。誰も居ない。がらんとしたテーブル。厨房の音も聞こえない。テレビも消えている。
「テレビ!」
僕はテレビに近付いた。点けてみよう、何かの事件があったのならやっているかも知れない。いや、ニュースはやっていなくても人の姿を見る事は出来るだろう。僕はスイッチを入れた。画面をじっと見る。次第に明るくなるブラウン管。しかしそれだけだ。テレビには何も映らない。砂の嵐も映らない。灰色に光るだけだ。僕は音量を一杯にした。しかし何も聞こえてこない。雑音さえ聞こえない。今度はチャンネルを変えてみた。しかしどのチャンネルも同じだ。番組は全くやっていない。
「どうしてだ。」
僕は少しいらいらしていた。テレビ局が放映をしていないのだろうか。それともアンテナの調子が悪くて映らないだけだろうか。いや、それなら映りの悪い映像が少しは映るだろうし、雑音も入るだろう。けれどもこの画面は全くの灰色だ。それも映りのいい灰色だ。テレビ局がこの灰色の画像を流しているとしか思えない程の灰色…でも、どうして。
「どうして?」
僕には分からなかった。テレビが壊れているのかも知れない。それとももっと別の理由があるのだろうか。僕は食堂の中を見回した。誰かやって来ないだろうかと思いながら、しばらくそのまま立っていた。だが誰も来ない。つけっ放しのテレビも灰色のままだ。
「別の所に行ってみようか。」
別の場所なら人は居るだろうか、テレビはちゃんと写るだろうか。いや、無駄だろう。構内には誰も居ないのだ。僕は自分で結論を出した。そしてテレビも番組をやっていないのだ。その理由は分からない。だがそれが事実なのだ。構内に人が一人も居ず、テレビも番組をやらない、あるいは全局が何かの理由で電波を流せなくなっている、そういう時があるのかも知れない。僕もそこまでは何となく認めようとしていた。
けれども、それなら何故、人が居る気配があるのだろう。灯りも点いているし、鍵も開いているのだから。それが不思議だった。人が居ない以外は全ていつもと同じなのだ。なぜ今日いきなりこんな事になってしまったんだろう。皆が僕を驚かせるためにやっているのだろうか。学生も職員も教官もテレビ局の人達も、皆で協力して、この僕ただ一人を驚かせるために…
「僕みたいな平凡な学生を?」
それはあまりにも考えられない事だ。ではこの事態は何なのだろう。学内の僕を除く全員に急病、事故、急用などが突然発生したのだろうか。全員が一度に? 考えられない事だ。ではどうしてここに居ないんだろう。僕には分からなかった。いずれにしても会館の中にこれ以上居ても無駄だろう。僕は再び外に出た。
眩しい夏の太陽がもうだいぶ高く昇っている。外に出ると出入り口の前にある自動販売機が僕の目に止まった。急に何か飲みたいという欲求が込み上げてきた。僕はズボンのポケットから財布を取り出すと、販売機に硬貨を入れボタンを押した。ガチャリという音と缶が落ちる音。いつも聞き慣れている音。しかしこの音は今の僕にはひどく懐かしく思えた。自分の行為に応えてくれたこの音。僕は一瞬この販売機は生きているのではないかと思った。そう思うくらい、僕の周りには生き物の姿が無かったのだ。
僕は販売機の横のベンチに腰掛けると、一口飲んで空を見上げた。眩しい青空に白い雲。鳥は一羽も飛んでいない。もう一度講義室に戻ってみようか。それとも図書館か体育館か別の学部に行ってみようか。僕は頭を振った。同じ事だろう。構内には誰も居ないのだ。自分で結論を出したところじゃないか。その証拠に僕の周りはあまりにもひっそりとしている。誰の話し声も物音も聞こえない。僕の耳に入るのは何だろう。風の音だろうか…足下のごみ箱を蹴ってみる。ゴンという鈍い音。僕の立てる物音は残っているんだ。
「お-い。」
聞こえる。僕の発する声も残っている。けれどもそれ以外は何も聞こえてこない。石垣から生えている大木の枝が揺れている。でも、葉擦れの音は聞こえない。空缶をごみ箱に捨ててみた。カンカンという乾いた音。僕が関係する音だけは聞こえるのだ。僕は立ち上がった。
「街に行ってみるか。」
独り言。それも僕の癖だ。周りに人が居る時、僕の独り言は二つの種類があった。一つは本当に無意識の内に出る独り言。くそ、とか、やった、とか。もう一つは他人に聞かせる独り言だ。さあ行くか、とか、分からないなあ、とか。それはきっと僕の自己主張から出ているものなのだ。僕がどう思い、どう行動しようとしているかを他人に分からせるために、そんな言葉が出ていたのだ。それは僕自身も気付いていた。気付きながらもこの独り言は止められなかった。
そして今また僕の口からそんな言葉が出てきた事に僕は驚いた。僕はこの言葉を誰に聞かせるつもりなのだろう、ここには誰も居ないのに。それとも僕の中には、まだ僕の言葉を聞いている誰かがどこかに居るのではないか、という思いが残っているのだろうか。
僕は口を噤んで歩き続けた。自分の学部の前を通り過ぎ、門をくぐって構外へ出た。街も静まり返っている。
「朝からそうだったじゃないか。」
静まり返った街を歩きながら、僕は今朝からの事を思い返していた。朝、販売所に行く時…誰とも会わなかった。でもそれはいつもの事だ。朝の五時に人に会わなくても別段不思議はない。販売所には…誰も居なかった。下宿に帰る途中、登校する時…誰とも会わなかった。構内でもそして今も…
では昨日はどうだったろうか。最後に会ったのは誰だったか。僕は昨晩の記憶をたどり始めた。確か講義が終わった後、先輩たちと酒を飲んでいたんだ。来年の卒論のゼミに選ぼうと決めている講座の先輩が誘ってくれたのだ。僕は厚かましくもそのゼミの研究室で、先輩の実家から送って来たというブランデーを四年生や院生の人達と一緒に遠慮なく飲んでいたんだ。そう、その時には人は居た。声も物音もあった。それから僕は下宿へ帰ってきて寝たんだ。寝るまでは全くいつもと同じだった。何も変わらなかった。
すると寝ている間に何かおかしな事があったのだろうか。その間に何があったと言うんだろう。僕はもう一度記憶の糸を手繰り始めた。寝ている間…夢…僕の頭の中に昨晩の夢が切れ切れに浮かんできた。ひどい夢だった。僕は宇宙服を着て真っ暗な空間を漂っていたんだ。しかもなかなか目が覚めなかった。どんなに努力しても駄目だった。最後にようやく目が覚めたものの、あんなに後味の悪い夢を見たのは初めてだった。初めて見るひどい悪夢。しかしだからと言って、昨晩の夢が現在の事態を招いたなどとは結論づけられるはずもない。
「どうなってるんだ。」
学外の町並みを歩きながら、不意に僕は激しい衝動に駆られた。こんなに簡単に人が誰も居なくなるはずがないじゃないか。偶然なんだ。たまたま会わなかっただけなんだ。人間なんかどこにだって居るんだ。僕は歩くのをやめて道の右側にある民家に入って行った。きちんと表札が出ている。
「ごめんください、ごめんくださ-い。」
チャイムを押しながら戸を何回も叩く。返事がない。誰も出てこない。チャイムの音も聞こえない。戸を開けようとしたが、鍵が掛かっている。すぐに隣の家へ行く。
「ごめんくださ-い。誰か居ませんか、ごめんくださ-い。」
僕は手当たり次第にチャイムを押し、戸を叩いた。しかし何軒やっても結果は同じだった。返事は無く、誰も出て来ず、鍵が掛かっている。それでも僕は結論を急がない。しばらく行くと郵便局がある。そこに入ってみよう。
「土曜日でも、もちろん誰か居るはずだ。」
その郵便局は土曜日でも開いている郵便局なのだ。やがて建物が見えてきた。入ってみる。局内は照明が灯り明るい。中を見回す。お客さんは居ない。職員は…やはり居なかった。
「すみませ-ん。」
遠慮がちな声で呼んでみる。何の返事もないし誰も出て来ない。無人の窓口へ行っても仕方ない。僕はATMのコ-ナ-へ行ってみた。動いている。鞄の中から通帳を取り出す。通帳は毎日持ち歩いているのだ。払い戻しを押して、慎重に機械に差し込む。受け付けてくれた。暗証番号と、引き下ろす金額、これはいつでも千円だ。いつもの操作、いつもの表示。やがて蓋が開いてお金が出てくる。完璧だ。機械はちゃんと動いているのだ。人間以外の機械はいつもと同じ通りに動いている。同じでないのは人間が居ない事だけ。しかしそれは変だ。機械が動作可能になるには人間の手が必要だ。誰の手も借りずに機械が動き始める事はない。僕はもう一度叫んでみた。
「すみませ-ん、誰か居ますか。」
しかしやはり返事はない。僕は出てきたお金と通帳を手に取るともう一度機械を見た。右側に職員呼び出しボタンがある。押してみようか。しかし何も異常が無いのに押してもいいのだろうか。僕は躊躇した。悪戯になってしまう。なに構うもんか。だいたい窓口に人が誰も居ない事からして、もうおかしいんだ。もし怒られたら、窓口に誰も居ないから押しましたと言えばいい。僕は覚悟を決めて、人差し指でそのボタンを押し込んだ。
「…」
僕が押したのと同時に機械が取扱中止になった。僕は一瞬驚いた。画面は『しばらくお待ち下さい』になっている。人がやって来るのだろうか。僕は息を潜めて機械の前で待った。ついに人の姿を見られる。僕の胸は期待でどきどきした。どれくらい時間が経ったろうか。不意に、
「え、」
と思う間もなく取扱中止の表示が取扱中に変わってしまった。画面も元の通り『いらっしゃいませ』だ。そのまま何も変わらない。ボタンを押す前の状態に戻ってしまったのだ。僕はしばらく呆気にとられていた。何か見逃しただろうか。いや、僕の周りには何も現れなかった。完全に機械だけの動きだった。あの時間、僕が機械の前でぼんやり待っていたあの間に、この機械は自動的に点検されてしまったのだろうか。
「もう一度、やってみようか。」
しかし同じ事だろう。僕は通帳とお金を手に持ったまま外に出た。何としても人間は現れないのだ。人の居る気配はする。いや絶対に人は居なければならないのだ。なのに居ない。姿を現さない。どうしてなんだろう。僕は歩きながら財布を取り出し、手に持ったままの千円札をしまってポケットに入れ、続いて通帳を鞄に入れようとした時、何気なくその通帳の中を覗いた。お支払金額の欄には1000が打たれている。僕はお金を下ろす時はいつでも千円なのだ。新聞配達のバイト代は月五万。それでやっていくには無駄遣いしない事、そのためには余分なお金は持ち歩かないに限る。しかしその上を見て僕は驚いた。今日の1000の前に50000が打ち込んである。入金の欄だ。
「五万。」
昨日の日付で五万円が振り込まれているのである。こんな事は初めてだった。親が振り込んでくれたのだろうか。いや違う。50000の横には'給与'と書かれている。
「バイト料だ。」
それしか考えられなかった。実際、今日はバイトのお金を貰う日で、朝は貰えなかったのだから。しかしいつの間に現金ではなく口座振込になったんだろう。どうして僕の郵便貯金の口座番号を知っていたんだろう。その番号を教えた記憶はなかったし、口座振込になるという話も聞いていないのだ。しかし、この五万という数字はバイト料以外には考えられない。僕は頭を抱えた。
「ああ、どうしてこうも訳の分からない事ばかり起きるんだ。」
僕は自分の通帳をしばらく眺めていたが、それを鞄にしまった。理解し難い事ばかりだ。今から販売所へ行っておじさんに訳を聞いてみようか。しかしおじさんは販売所に居るだろうか。
「電話だ。」
僕は郵便局へ引き返した。携帯電話なぞ、もちろん持っていないが、郵便局の前に公衆電話ボックスがある。そこから販売所へ電話をして聞いてみればいい。そうだ、なにも人間が現れるのを黙って待っていなくても、こちらから人間を自分の前に引きずり出せばいいんだ。僕はボックスへ入り鞄からメモ帳を取り出した。続いて財布から十円硬貨を出し、投入する。
「…」
僕は落胆していた。いつもなら硬貨を入れた時点でツ-という音がするはずだ。しかし受話器の向こうからは何も聞こえてこない。それでもせっかくだから、番号を押す。そのプッシュ音も聞こえない。番号を押し終わって待つ。同じだ。受話器の向こうからは何も聞こえない。僕は受話器を置いた。十円が落ちてくる。その音も聞こえない。さっき自動販売機の音がしたのが不思議に思えるくらいだ。僕はボックスを出た。電話の故障? いや違うだろう。電話が利用不可なのも今日の不可解な現象の一つにしか過ぎないのだ。きっと販売所へ行ってもおじさんは居ないだろう。僕の前から全ての人間が消えてしまったのだ。その生の痕跡も見せてくれないのだ。人が居なくても動いている街。
「だから、振込なんだ…」
僕は思った。そういう事だったのだ。なるほど、おじさんは居ないのだ。今までの例から考えて、おじさんはもう僕の前には姿を現さないに違いない。けれどもお金は渡さなくてはならない。姿を現さずにお金を渡す。そのためにこの様な方法、僕の口座に振り込むという手段が取られたとしたらどうだろう。僕の前に誰も人間の姿を現さずに済むように…しかし何故そんな必要があるんだろう。僕に何の承諾も得ず、どうしてそんな事が可能なんだろう。まるで迷路の中を歩いているようだった。
「戻るか。」
一旦、下宿に戻った方がいいのかも知れない。こうして街を歩いて変な考えに耽るより、下宿で落ち着いて昼寝でもすれば、何か納得のいく考えも浮かぶだろう。それにそれほど深刻になる事もないのかも知れない。人が一人も居ないからと言って、僕がどうなる訳でもない。反って伸び伸びしてていいじゃないか。誰も見掛けないからと言って何を悩む必要があるんだ。むしろ喜ぶべき事なんじゃないか。通行人に気を使う必要もないし、車に驚いて道の端に寄ったり、下らないお喋りを聞かせられたり…そんな事から一切解放されるんだ。一体何をそんなに苛ついているんだ。僕は自分にそう言い聞かせながらおかしくなった。こんな考え方も僕の一つの癖だろう。でもそう思うと僕の気持ちも少しは晴れ晴れしてきた。それと共に空腹も感じてきた。時計を見るともう十二時前だ。
「市場を回ってくか。」
すぐ近くに有名な市場がある。僕がこの街へ引っ越して来た時にはよくこの市場で買物したものだ。今はその市場の向かいに出来た大型ス-パ-を愛用しているものの、それでも時々この市場を歩いてトンカツや唐揚げを買ったりする。それに買う気はなくても市場を歩くのは楽しいものだ。
僕は道を左に曲るとその市場向かって歩いた。とても大きい市場なので入口はたくさんある。そのうちの一つから中へ入る。ひっそりとしている。予想通り誰も居ない。通行人も店の人も。けれども商品は台の上に威勢よく並べられ、傘のかかった裸電球は、まだ昼なのに煌煌と輝いている。全員が一度にお昼の休憩を取ったような感じだ。
「不気味だなあ。」
それは確かに気味の悪い光景だ。何もかも元のままなのに人は一人も居ないのだ。購買意欲を誘う大きな文字。緑色の篭。魚屋の看板。氷の入った発砲スチロ-ルの箱。魚屋の店先には、切れ身、干物、バラバラになった蟹の足…久し振りに見る生き物の姿。しかしそれらは完全に死んでおり、尚且つ生物の一部分でしかなかった。いつもなら陳列されているはずの、生きていた時のままの姿の食材は、そこには一つもなかった。それらもまた消えてしまったのだろうか。
僕は首をすくめて市場を歩いた。とても買物をする気にはなれなかった。台の上の商品がまるで紛い物の様に見えた。ロウ細工で作られた贋物の様な気がしてならなかった。そして僕は見世物小屋を歩いているたった一人の見物人だ。あるいは僕自身もまた街が作り出した見世物の一部なのかも知れなかった。
市場を抜けてすぐ交差点に出る。道路の向こうには大型ス-パ-。車は一台も来ないから信号を無視して向こう側に渡る。信号はきちんと動いているのだ。スーパーの入口は開いていた。僕はその中に入った。ク-ラ-が効いてひんやりする。
「静かだなあ。」
店内は静まり返っていた。人はもちろん誰も居ないのだが、いつも鳴っている音楽が鳴っていない。今日のお買い得品をお知らせする放送もやっていない。しかしそれ以外はいつもと同じだ。僕はエスカレ-タ-に乗って地下の食料品売場に行く。ここでも普段なら今日の割引商品をお知らせする放送が煩いくらいに鳴っているのに、今日の売り場は沈黙している。
「いいじゃないか。」
僕はこの静けさに慣れ始めていた。人間は環境に適応する生き物だ。この静かさの中に居ると、どうして以前はあんな騒音が我慢出来ていたのか不思議に思えるくらいだ。
僕はカゴを持つと店内を物色し始めた。朝の納豆がもう無いから納豆。今日のお昼はラ-メンにしておくか。それから夜の分も買っておこう。豆腐にするかな。ああ、モヤシも安い。これも買っておこう。そんな調子で一通り売場を回ってレジの所へ来る。
「はて?」
支払いはどうすればいいんだろう。誰も居ないのだ。自分で計算してお金を置いて行くのだろうか。
「ええい、めんどうだ。」
僕はそのままレジを通過した。勝手に袋を取って中に商品を詰め込む。周りを見回す。咎める者は誰も居ない。袋を鞄に押し込むとカゴを返してエスカレ-タ-に乗る。そのまま何食わぬ顔で外に出る。何も起こらない。街は静まり返っている。喉の奥から笑いが込み上げてきた。
「ははは。」
これはいい。実にいい。これならもうバイトの必要なんかないじゃないか。お金を払わなくてもいいんだ。素晴らしい事じゃないか。欲しい物は何でも手に入る。食べ物も、立ち読みしていた本も、新しいズボンも、何でも。僕は楽しくて仕方なかった。こんないい事があったんだ。どうしてもっと早く思いつかなかったんだろう。人が居ないというだけで悲観的になって、こんな単純な事を忘れていたんだ。これで僕はもう何でも出来る。講義が聴けないのは残念だが、それは本を読めばなんとかなるだろう。実験室の装置も思いのままに扱えるのだ。自分の興味のあるテーマだけを自由にやればいい。欲しい装置は、製造元から運んでくればいい。予算なぞ気にせずに。
「すばらしい。」
素晴らしい事だ。きっと貧乏な学生を哀れんでくれた神か仏が、僕にこの様な幸せを与えてくれたに違いない。僕はズボンのポケットから財布を取り出した。お金。これに僕は今までどれほど振り回されてきたことだろう。いつもこいつの機嫌を取り、顔色を伺いながら生きてきたのだ。でも、もうそんな暮しとはおさらばだ。僕は財布を捨ててやろうと思った。もうこんな物に用はないのだ。
「でも…」
僕は財布を握って振り上げていた腕をゆっくりと下ろした。何かが引っ掛かっていた。本当に僕の思っている通りなのだろうか。何か見落としている部分はないだろうか。こうも簡単に街がその機能を放棄するとは思えなかった。声や映像などの人間に絡む街の機能は確かに死んでいる。その証拠にテレビも電話も使えなかった。だがその他の機能はそのまま生きているはずだ。自動販売機は使えたし、バイト料の振込も…
「振り込み!」
僕は駆け出した。今度は市場など通らず、まっすぐ郵便局へ向かう。中へ入るとATMの前に立ち、乱れた呼吸が整う暇もなく鞄の中から通帳を取り出した。
「もし、そうだとしたら…」
僕は通帳記入を選択して機械に通帳を入れた。音もなく通帳は飲み込まれて行き、やがて音もなく通帳が出てくる。印字されたページを見る。先刻ここで下ろした1000の数字。そしてその下には660という数字とスーパーの名前…
僕の体から力が抜けた。買った品物をチッェクするまでもなく、それは今の買物の料金に違いない。引き落とされていたのだ。あのスーパーのレジを出た瞬間に、僕の買物の料金は計算され、僕に何も告げずに直ちに決済されていたのだ。僕の口から笑いが漏れてきた。
「はは、ははは、、、」
考えてみれば当たり前のことだった。僕に何の承諾も無く、バイト料を振込にしてしまうのだ。それならば僕に無断で、僕の買物の料金を引き落としてしまう事くらい、この街にとっては朝飯前のはずだ。そんな事にも気付かずに有頂天になっていた自分が愚かに思われて仕方なかった。僕は自分で自分を笑った。だが、
「だが、それなら…」
僕の頭にある企みが浮かんだ。もし、そうなら、こうすればどうなるんだろう…僕はさっきとは別の笑みを浮かべながら、ATMの引き出しを選択した。通帳を差し込む。引き出す金額は、もちろん全額だ。僕は出てきた通帳を見て、残高が千円未満になっているのを確認すると、再びスーパーに向かって駆け出した。
「試してみよう。これで、どうなるのか、街はどう反応するのか。」
スーパーに着く。中に入ると、今度は昇りのエスカレ-タ-に乗り込む。一段飛びにエスカレ-タ-を駆け登る。静まりかえった店内にカンカンという音だけが響く。右手に持った鞄が重い。
「はあはあ、」
一番上は電化製品売場だ。僕は扇風機が欲しかった。本当はク-ラ-が欲しいのだが、あの下宿には取り付けられないだろう。
本当にこの街の暑さは予想外だった。それに僕の部屋は窓の外がすぐに隣の家の壁なので、風通しが極めて悪い。真夏の僕の部屋は蒸し風呂状態だ。親から送ってもらおうにも、実家にも扇風機は一台しかないから送ってもらう訳にも行かない。暑くて眠れない夜は濡れタオルを額に乗せて寝ているのだ。
「これにしよう。」
僕は小さめの扇風機を掴んだ。定価は4800円。通帳の残高では払えきれない金額だ。それが僕の企みだった。残高不足の場合は、街はどう反応するつもりなのだろう。
僕はその扇風機を掴んだまま、箱にも入れずそのままエスカレ-タ-の方へ向かった。邪魔立てする者は何も無い。
「む、」
エスカレ-タ-まであと一、二歩という所で、大変な抵抗を感じた。進めない、前に進めない。周りを見回しても僕の体の周りには何も無い。それなのにまるで何かに引っ張られてでもいるかの様に、僕は前に進めないのだ。
「ええい、くそ。」
僕は力を入れて足を踏ん張った。一歩、足が動いた。続いてもう一歩。僕の片足がエレベ-タ-のステップに乗ろうとした時だ。
「う、」
頭に重い衝撃を感じた。次の瞬間、目の前が真っ暗になり、僕は自分の体が仰向けに床に倒れるのを感じた。
気が付くと僕は冷たいコンクリ-トの上に寝転んでいた。周りは薄暗い。
「ここは、どこだろう。」
その答えは前の鉄格子を見てすぐに分かった。留置所だ。僕は言葉も出なかった。なぜ、こんな所に。一体いつの間に、誰が、どうやって…僕は体を起こした。頭に触る。傷らしいものはない。どうやら殴られたのではないようだ。少しボ-としているが痛みは全くない。その頭の中に記憶が蘇ってきた。
「エスカレ-タ-で、」
頭に衝撃を受けて、気がついたらここに居たのだ。留置場。なるほど、そこに入る資格は確かに僕にはある。お金を払わずに売場を出ようとしたのだから…万引き、もしくは窃盗か。しかし問題は何が僕に衝撃を与え、何が僕をここに運んで来たかだ。
「人は?」
見なかった。何の姿も見なかった。しかし何かの力が僕の体に働かなければ、僕の体をここに存在させるのは物理的に不可能だ。
「街?」
そんな言葉が転がり出た。何か僕の知らない新しい仕組みが発明されたのだろうか。人が姿を見せなくても街の機能を保てる仕組み。その仕組みによって僕の口座は勝手に決済口座にされ、罪を犯した僕はここに運ばれた。けれどもその仕組みを動かす人間は必ず居るはずだ。それは誰なのだろう。
「街?」
僕には分からなかった。考えても仕方のない事の様に思われた。僕は頭を振った。そんな街の仕組みより、今はここから出る事を考える方が重要ではないか。いつまでもここに入っている訳にもいくまい。僕はそう決めると、立ち上がって鉄格子に近付いた。
「おや。」
妙な事に気が付いた。僕の前にある鉄格子。出入り口と思われる所をよく見ると何も無い。試しに鉄格子に手を掛けてみた。
『キ-』
錆びついた音と共に、鉄格子は簡単に開いた。出てもいいのだろうか。僕は恐る恐る外に出た。暗い廊下には誰も居ない。僕はびくびくしながら歩き出した。誰かに見つかったらどうしよう。けれども同時に、僕は何と無くほっとした気分にもなっていた。それは、これで人に会えるのではないかという予感が僕の中に湧いてきたからだ。これから警官による取り調べもあるだろうし、ス-パ-の人にも謝らないといけないだろう。僕は歩き続けた。今に誰かに出会すに違いない。そしてその誰かを僕が目にした時、今日一日僕の周りに起きていたこの非日常的な現象が終わるのだ。
それに僕の罪にしても、周りに誰も見当たらなかったから、ついやってしまったという事でかなり情状酌量の余地がある。売場に店員を一人も置いていなかったス-パ-側にも過失があると言えるから、案外簡単に帰してもらえるのではないだろうか。
そのまま出口と思われる方へ歩く。部屋が並ぶ廊下に出た。どのドアも締まっている。と、その中で一つだけドアが開いている部屋がある。
「入ってみようか。」
恐々中に入ると小さな机と椅子だけが置いてある。殺風景な部屋。しかしその机の上に見慣れた物が置いてあった。
「僕の鞄だ。」
僕は鞄を持ち上げた。その下に紙切れが置いてあった。鞄を持ったままその紙切れを見た。小さく『釈放』と書いてあった。
「釈放か。」
ため息と共に出たその言葉は、安堵より落胆の方が遥かに大きかった。僕はその紙切れを見ながら考えた。やはり僕の前に人は姿を現さないのだ。取り調べ官もス-パ-の人も、全てはこの紙切れ一枚で用済みだ。僕にとってはこれで十分なのだ。
「やっぱり誰も居ないのか…」
儚い希望を持つのは、もうそろそろ止めにした方がよさそうだ。僕は紙切れをそこに置いたまま、鞄を胸に抱きかかえて部屋の外に出た。それから見知らぬ建物の中を歩き回り、何とか外に出る事が出来た。僕の上に再び夏の午後の暑い陽射しが落ちてくる。
「どの辺りなんだろう。」
僕は外の景色を見回した。ちょっとした商店街で道の両側にはいろんな店が並んでいる。どうやら駅の近くのようだ。とすると僕の下宿までは数キロある。うんざりする遠さだが歩いて帰るしかないだろう。僕は道の上を歩き始めた。
「疲れたなあ。」
本当になんという日なのだろう。そしてなんという現象なのだろう。人は一人も姿を現さない。いや、現さないのではない。居ないのだ。僕にはもはやどこかに人が居て、僕の前から姿を隠しているとは思えなかった。こんなに長時間姿を隠し通せるものではない。この街には僕以外の人間は一人も存在していないのだ。
それなのにそれ以外はいつもと全く同じだ。買物をすれば金を取られ、悪い事をすれば警察に連れて行かれる。つまり人が接触するという点を除けば、街としての機能はきちんと生き続けているのだ。人が居ないのに何故それが保たれているのか、それが理解出来ない点だ。街は元々人によって保持されているのではないのだろうか。それなのにこの街はすでに街自体が一人で動いている。
「分からない。」
分からなかった。ただ一つ明らかなのは、僕はこれからも今まで通り生きて行かなくてはいけないという事だ。バイトをして生活費を稼がねば買物が出来ない。誰も出席しない、講師さえ来ない講義にも出席しなければ、きっと単位も貰えないのだろう。これまで通り規則を守り、社会通念に従い…ただ一つ違うのは誰とも会わなくてもいいという事…
急に僕は空腹を感じた。時計を見ればもう一時だ。この空腹を抱えて下宿まで歩くのは苦業以外の何物でもない。鞄の中を覗いても、先程買ったのは納豆やモヤシやラーメンなど、すぐには食べられない物ばかりだ。僕は仕方なく歩き続けた。
「おや、」
道路の向こうのファーストフード店が目に入った。僕は道路を横切ってその店の中に入った。もちろん誰も居ない。誰も居ないカウンタ-に向かって僕は言った。
「ハンバーガーを一つお願いします。」
何の反応も無い。いくら街の機能が生きていると言っても、これは無理な注文だったのだろうか。僕はふっと苦笑いを浮かべて店を出ようとした。その時、僕の前のカウンターの上にいきなり小さな包みが現れた。
「あ、」
驚いた。本当にいきなりだった。まるで何かの手品を見ている様だった。空中を切り裂く稲妻のようにそれは突然で、しかし何の物音も立てなかった。僕はその包みを恐々手に取った。そしてそのままゆっくりと店を出た。お金は僕の口座から自動的に引き落とされているだろう。それくらいの残高は残っているはずだ。歩きながら包みを破って食べる。いつもと同じ味だ。
「もう、間違いない。」
全てではないにしろ、間違いなく街の機能は生きている。死んでいるのは他人と接触しなければならない機能だけなのだ。でもどうしてこんな事に…それが僕の頭を悩ませた。昨日までは確かに人は居た。通行人も車も店員も皆居たんだ。でも今日は居ない…いや待てよ、本当に昨日まで人は居たんだろうか。人は居るんだと勝手に思い込んでいただけではなかったのか。実は今と同じ様に、僕は誰も居ないカウンターに向かって注文していたのではないのだろうか。それで用は足りるのだ。
「馬鹿な。」
馬鹿げた話だった。異常な事に遭遇すると、おかしかったのは今までの方だったと思う僕の癖がまた出てきた。僕は頭を振った。いいじゃないか、人が居ようが居まいが。僕は今まで通り暮して行けばいいんだ。そしてそれは保証されているんだ。きっとあの郵便局でも誰も居ない窓口に『切手を下さい』と言えばちゃんと出てきたはずなんだ。それを『すみませーん、誰か居ますか』なんて下らない事を言うから、何の反応も無かったんだ。
「今まで通りだ。全然変ってない。」
ハンバーガーを食べるにつれ心が落ち着いてくるのが分かった。食べ物の持つ力を改めて思い知らされる。
全部食べ終わると、紙包みを丸めて鞄に入れた。近くにごみ箱がなかったからだ。誰も居なくてもそれくらいの道徳は守らなくてはいけないだろう。道徳とは他人の目を気にしてやるものではない。人が居ようが居まいが街は汚してはいけないのだ。僕は駅前通りをふらふら歩き続けた。
「あそこに入ってみるか。」
二十メートル程先に本屋がある。初めて見る本屋だ。大きな本屋で一階が書店、二階はCDやビデオのレンタルと販売だ。僕は歩いて行くと中へ入った。ひんやりとした空気。冷房が効いている。店内はいつもと同じだ。ただ誰も居ないだけ。隅には積んだままの週刊誌や月刊誌。あれは誰が片付けるんだろう。僕は入口の近くの書架に近付くと、鞄を床に置いて、並べてある男性誌を一冊手に取って中を開いてみた。若い女性の水着の写真。それは久しぶりに見る人間の姿だ。
僕は強い印象を受けた。この印象は何だろう。懐かしい印象? 数十時間ぶりに僕以外の人間を見る事の出来た悦ばしい印象?
「違う。」
そうではなかった。僕はむしろ奇妙に思っていたのだ。人間はこんな形をした生き物だったのだろうか。こんな生き物と一緒に僕はこの街で生きていたのだろうか。そんな印象が僕の頭を駆け巡った。僕はその印象をおかしく思った。だがそれは確かな印象でもあった。僕はもう人間の姿を忘れかけているのだろうか。本のペ-ジをめくりながら、まるで遠い昔に絶滅した恐竜のイラストでも見るように、僕は彼女たちの写真を眺めていた。
「この人たちは今頃どうしているんだろう。」
決して僕の前に姿を現さない彼等。それならば僕にとって、彼等は存在していないのと同じ事だった。生身で見て、実際に声を交わす機会なぞ一度もなかったのだから。絵画の中に描かれた人物と、どれ程の違いがあると言うのだろう。そしてそれは今に限った事ではない。街に人が溢れていた時も今も、何も変わってはいないのだ。
「しかし、実際に接触していた人々は…」
いや、やはり同じなのだ。雑誌の中の人物に限らず、実際に声を交わし、その姿を目の当たりにしていたとしても。なぜなら、その時の彼等は街の中の役割の上での彼等だったのだから。客と店員、学生と講師、他人と他人。真に存在を確かめ合った人間など一人も居なかっただろう。存在を確かめ合っていないのなら、存在していたとは言えないだろう…
僕は雑誌を閉じて書架に戻すと、その雑誌を掴んでいた自分の手を見つめた。この手は明らかに存在している。しかし雑誌の中のあの体は存在してはいないのだ。少なくとも僕にとっては、それは人が消える前からずっとそうだったのだ。僕の右手が僕と一緒にいつも居たようにそれは確かな事だ。僕は鞄を持ち上げると、再び歩き出した。そのまま店内をぶらぶら歩く。ふと僕の頭にある思い付きが浮かんだ。
「二階に行ってみるか。」
僕は二階に上がった。静かだった。真っ直ぐに試聴コ-ナ-に行く。人の姿は消えている、しかし人の声はどうだろう。それが僕の頭に閃いた思い付きだ。テレビは全く映らなかったが、あれは映像を伴っているからかも知れない。純粋に音だけなら、それは元のままかも知れない。そう考えると僕は無性に聴きたくなってきた。
確かに僕は人工の音に飢えていた。自動車の騒音、学生のお喋り、店から流れる歌謡曲、そう言った街の音が大嫌いで堪らなかったのに、今、音に飢えている自分はなんともおかしかった。
適当にCDを持って来て試聴用のプレ-ヤ-に入れる。立ったまま大きなヘッドホンを頭からかぶせてPLAYを押す。手に持ったケ-スを見ると、どうやらジャズのCDの様だ。このさいジャンルはなんでもいい。CDのディスプレイが00:00から動き始めた。僕は自分の耳に音が入ってくるのを待った。
「駄目か。」
僕はボリュ-ムを一杯まで上げた。聞こえない。雑音さえ聞こえない。しかしCDは動いているのだ。ディスプレイの表示はすでに一分以上が経過した事を示している。僕はヘッドホンを外すとCDを止めた。機械の故障? 不良品のCD? いや違う。
「音も消えたんだ。」
僕はプレ-ヤ-からCDを抜くとケ-スに入れて元に戻した。他ので試してみるまでもないだろう。それは店内の静けさが一つの証拠だ。いつもなら必ず音楽が店内に流れている。やる前から結果は分かっていたはずだ。
「でもこれじゃ、商売にならない。」
その通りだ。全ての音が消えたのなら音楽関係の職業は全く成り立たない事になる。映像についても同じだ。それでは街の機能が保たれているとは言えないのではないか。それとももっと他に理由があるのだろうか。さっき、注文すればハンバーガーが出てきたように、僕が望めば音楽が聞こえるのだろうか。だが、もしそうなら試聴のCDをセットした段階で、音楽を聴きたいという僕の意志は明確に示されているはずだ。なのに何も聞こえなかった。とすると何故だろう。僕は不吉な予感を感じた。事態はもっと悪くなりつつあるのではないのだろうか。生き残っている街の機能さえも死につつあるのでは…
「いや。」
僕は首を振った。いいじゃないか、音楽くらい聞こえなくたって。自分の音、自分の立てる音は聞こえてるんだ。どうしても聞きたくなったら楽器でも買って自分で演奏すればいいんだ。聞こえない音、消えてしまった人の事をあれこれ考えても、元に戻る訳でもない。だったら諦めて、もっと別の楽しみを見つけ出そう。僕は階段を降りて書籍売場に戻った。
「どうしようかな。」
何か本でも買って行こうか。今晩はラジオもカセットも聞けないから寂しい夜になりそうだ。しかし、僕の口座にはそんな余裕はないはずだった。それにどうしても必要な本以外は古本屋で買うか、図書館で借りる事にしているんだ。その習慣を崩す事もあるまい。僕はそのまま店を出た。ドアを開けると、また夏の眩しい陽射しが戻ってきた。僕は歩いた。誰も居ない街。僕の歩く靴音だけが聞こえる。
「遠いなあ。」
単調な道のりほど辛いものはない。通行人や自動車の騒音は、あれで結構いい刺激になっていたのかも知れない。視線を足元に落とすと僕の影帽子が歩いている。今はこれだけが僕の話し相手なのだ。僕はしばらくそれを見つめながら歩いていた。僕と同じペ-ス、僕と同じ仕草。これほど僕と息がピッタリ合った同伴者は他には見つけられないだろう。まるで得がたい親友だ。今までいつも一緒に居たのにどうして気付かなかったんだろう。僕は彼には見向きもせず、いつも誰かを探していたんだ。街の雑踏の中、放課後の講義室、下らない飲み会、そんな場所でいつも自分の同伴者を求めていた。しかし一人も見つからなかったじゃないか。影帽子は、むしろ彼等の方だったのだ。僕の同伴者はこんな時でも一緒に居てくれる。いつも付いて来てくれる。僕は自分の親友を見つめた。僕の跡を追うその健気な姿。僕は声を掛けた。
「次はどこへ行く?」
不意に彼の姿が吸い込まれるように消えてしまった。立ち止まって空を見上げると太陽が雲に隠れていた。僕はため息をついて、また歩き始めた。遠くの道端に何か見えてくる。
「バス停か。」
この道はバス路線だったのだ。丁度足が疲れてきた頃だし、一休みも兼ねて時刻表を見る。僕の行く方面と思われるバスは十分程の待ち時間だ。言ってみようか。
「僕は××行きのバスに乗りたい。」
要求を叶えさせる気はなかった。何となく言ってみただけ。ファーストフード店での成功と本屋での失敗が僕を懐疑的にさせていた。僕は何も走っていない道路の向こうをじっと見つめた。バスは来るのだろうか。生きている機能と死んでいる機能の違いは何だろう。それとも街の機能は全て死につつある途中なのだろうか。鞄をバス停の足元に置いて、僕自身もしゃがみこむ。時計を見る。まもなくバスがやってくる時間だ。まもなく…
「来た!」
来た。バスが来たのだ。何も走っていない道路の上を何の音もなく、静かにバスがやって来た。僕は慌てて立ち上がった。バスは僕の前に止まると静かにドアを開けた。僕は鞄をかかえて乗り込んだ。バスは音もなく発進した。
「運転手は?」
もちろん乗っていない。ハンドルも無いのだ。だが、だからと言って何の不思議があるだろう。誰も居なくても機械でお金を引き出せる。自動販売機で飲み物が買える。それは今までの日常で当たり前の様に起こっていた事だ。自販機の中に人を探そうとしたら、笑われるだろう。それと同じだ。自販機の中に人が居ないのなら、バスに運転手が乗ってないからと言って何の不思議もない。
「無理があるな。」
自分の考え方がおかしいのは自分自身も分かっていた。しかし、これは紛れもなく今、目の前で起こっている事実なのだ。この事実を容認するにはこれくらいの考え方もまた必要なのだった。そして何かの理由付けで、ある程度自分を納得させなければ、僕の不安は消えないのだ。
バスは音もなく進んで行く。エンジン音も聞こえず、停留所案内の車内放送もない。全くの静寂だった。僕は窓の外をぼんやり眺めていた。
「そろそろだろうか。」
僕は滅多にバスに乗らないので、自分がどの停留所で降りればいいかよく分からなかった。しかし窓の外に広がる風景はもう見慣れた町並みだった。ここからなら僕の下宿まで歩いても知れているだろう。僕は手を伸ばして降車ボタンを押した。もちろん何の音も聞こえない。たとえ僕が関与する音でも、機械が発する音は全て消えてしまっているのだ。僕は窓を叩いてみた。
『ドン。』
低い音が聞こえる。直接空気を震わせる音は聞こえるのだ。僕は考えてみた。なぜ機械が作る音は聞こえないんだろう。壊れているのだろうか。しかし音が出ない事を除けば、それ以外の機能は全て正常なのだから、壊れているとは考えにくい。何か別の理由があるのだ。僕が直接作る音は聞こえる。そして人を除けば僕が直接見る景色も見えている。聞こえないのは、見えないのは…
「ある装置を通した感覚。」
一つの考え方が僕の中に浮んだ。僕が感覚できないのは故障し得る装置が作る感覚なのだ。つまり人工で作られた物を媒介して、僕の感覚に訴えようとする装置の機能が死んでいるのだ。もし人が消えただけなら、テレビの映像は人は映さないにしても、風景や景色は映していいはずだ。実際、僕の目には人以外の光景はきちんと映っているのだから。音もそうだ。人の声が聞こえないのは仕方ないにしても、それ以外の音は聞こえていいはずなのにそれが出来ないのは、僕自身の直接の経験ではないからだ。つまり僕には直接感覚する事しか許されていないのだ。
「でも、」
音に関しては本当にそうだったろうか。今はもう車のエンジン音もしない。それはエンジン音はエンジンが作る音で、僕が作る音ではないからだ。しかし、構内の会館の前の自動販売機は音を立てた。ガチャリという音、缶の落ちる音。あの時は間違いなく機械の音がしていた。僕は身震いした。やはり事態は進行中なのだろうか。音も映像もまだ消えつつある途中なのだろうか。そして街の機能も…
「あ、」
急にバスが止まってドアが開いた。停留所に着いたのだ。僕は慌てて椅子から立ち上がると出口へ急いだ。料金表にはたった一つの数字だけが表示されている。僕は立ったまま財布を取り出して小銭を探した。ジャラジャラ音がする。僕が作る音だからだ。
「待てよ、」
料金箱に小銭を入れようとして躊躇した。入れてもいいのだろうか。ハンバーガーの時はお金を置かずにそのまま出て来たのだから、今回も払ってはいけないのでは…いや、それなら現金の意味がなくなる。全ての支払いが口座決済なら、現金は必要ないはずだ。しかし、僕の手元には現金は消えずに残っている。未だに現金があるのだから現金決済も可能なはずだ。
僕は小銭を料金箱に入れた。その音は聞こえなかった。小銭の立てる音は聞こえないのだ。僕は財布を振った。ジャラジャラと音がする。なんて気紛れな現象なんだろう。
財布を仕舞いながらステップを降りて外に出る。大丈夫、何も起こらない。どうやら現金決済もOKの様だ。でも念の為、後日通帳記入して引き落とされていない事を確かめておこう。
僕が外に出ると音もなくドアが閉まった。バスは再び走り始める。僕はその後姿を見守った。バスの姿がだんだん小さくなって行く。そしてふっと消えてしまった。僕の顔が少し緩んだ。進行中。それでいいじゃないか。僕が生きて行ければいいんだ。音も映像も全て消えればいいさ。もともとそんな物は嘘っぱちだったんだから。これからは僕が直接見て、僕が直接作る音だけを信じて生きて行けばいい。僕は下宿に向かって歩き始めた。
「静かだなあ。」
僕は下宿の近くにある川に架かる橋の上に立っていた。ここから僕の下宿までは目と鼻の先だ。しかし下宿に帰る気にはなれない。暑いからだ。夏の午後の僕の部屋は、まさに勺熱地獄。だから部屋が涼しくなるまで時間を潰す事にしたのだ。
今、立っている橋は歩行者専用の橋だ。僕のお気に入りの橋。だが車が消えてしまった今、この橋の意味はもうない。全ての橋、全ての道路が歩行者、いや、僕専用になってしまった。
僕は川を見下ろした。水の流れる音がする。人工物の作る音は聞こえないが、自然の作る音は聞こえるのだ。その川の音は、音に飢えていた僕に新鮮な感覚を与えてくれた。今、この時ほど川を流れて行く水の奏でるこの音を有難く感じた事はなかっただろう。僕は聞き惚れていた。自然は僕を見捨ててはいなかったのだ。しかしそう感じながら僕はもう一つの事にも気が付いていた。居なくなったのは人間だけではなかった。動物もまた居なくなっているのだ。それは川鳥が一匹も見当たらない事からも明らかだ。注意してみると、雀も鳩も烏も居ない。きっと動物園に行ってももぬけの殻だろう。
「僕以外の生き物が一切居なくなってしまったんだ。」
そうつぶやいても、僕には何の悲しみも湧いてこなかった。取り立てて動物好きという事もなかったし、親しい友達も居なかった。休みの日なぞはずっと下宿に籠って、一度も声を発しない日さえあったのだから。
僕は川の水面を眺めながら今日一日の事を思い返していた。僕以外の生き物が居なくなった日。これは僕一人だけに起こった現象なのだろうか。それとも他の人たち一人一人にも起こっているのだろうか。それは僕には分からない事だった。
不意に、僕の頭の中に、僕が何気なく過ごしてきた昨日までの自分が思い浮かんできた。僕は人の中で暮してきた。それは確かだ。けれどもそれは本当だったんだろうか。あるいはそれらは僕が勝手に作り出したものではなかったのだろうか。街には通行人が在るはずだという思い込みから、店の中には店員が居るものだという思い込みから、バスには運転手が乗っているものだという思い込みから、学内には学生が溢れているものだという思い込みから…そんな様々な思い込みが僕に幻想を見せていたのではないのだろうか。もともとこの世界には僕一人しか居なかったのではないのか。僕が勝手に描いた街を僕が勝手に信じ込んでいたに過ぎないのではないのか。そして居もしない人間に向かって喋り、居もしない人間と握手をし、喧嘩をし、酒を飲み、居もしない講師の話を聞いて自分が賢くなったと思い込んでいたに過ぎないのではないだろうか。それらは全て自分の一人芝居だったのでは…
「ふふ。」
僕は笑った。考える事なら何でも出来る。どんな荒唐無稽な事も。けれどもそれを証明する手立ては何も無い。考える事、それ自体が僕の自己満足に過ぎないのだ。
「それに、別の見方をすれば、」
街は変っていないとも言える。本当は昨日と同じ街なのかも知れない。昨日までの街。人が溢れていた街。しかしそれは今の街と何ら変る事はない。
人さえも街の風景の一つに過ぎなかったのだ。街は常に形を変えている。昨日まであったビルも今日には壊されている。空き地だった場所に店が出来ている。見た事もない車が走っている。変った洋服を着た若者が歩いている。そしてそれらは僕の意志とはまるで関係なく行われていた。それが僕の街だったのだ。通行人も店員も学生もそれは全て街の一部なのだ。だからそれらが姿を消したとしても驚く事はない。昨日まであったビルが姿を消したのと同様に彼等も姿を消した、ただそれだけの事。変化をしているという点では昨日とは何も変わっていないのだ。
街の一部である彼等は僕には何の意味も持っていなかった。居ても居なくても同じだった。だから消えたのだ。ゴミを持って行ってくれるおじさん、道路を舗装している工事の人、定食を作っているおばさん。彼等と僕と一体どんな関係があったのだろう。名前も顔も知らない。彼等の生活、彼等の家族、彼等の住まい、彼等の仕事。一人一人が彼等の人生を過ごしていた。だが僕にとってはそれは全く無縁なのだ。地面の中の蟻がどの様な生活をしているか僕には全く無縁な様に、彼等も僕とは無縁だった。僕に必要だったのは、そんな生身の彼等ではなく、ただ街の中で彼等が果たしている役割だけ…
「だから消えたんだ、役割だけを残して。」
そしてそれらはまさに僕たちが努力してきた事ではなかったか。僕たちはいつもお互い希薄であろうとした。関係を持たないようにしようとしてきた。店員と顔を合わさずに済むように自動販売機を作り出し、上辺だけで話せるように敬語を作り出し、近所の人と知り合いにならずに済むように、金を出して管理会社に任せてしまった。声は電話越し、映像はテレビを通して、音楽はスピ-カ-から、注文はお葉書で、引き落としは口座から、殺し合いはディスプレイの中で、それらは全部現実、でも存在しない。
人と人の交わりを断つ、それが僕たちが目指して来た事なら、今のこの街はまさに理想郷だ。誰とも会わず誰とも話さず暮らしていける街。こんな住みやすい場所が他にあるだろうか。自分の事だけを考えて生きて行けばいいのだから…
「そして、家族も、」
そうだ、家族さえ僕が作り出した幻影に過ぎなかったのかも知れない。人間には必ず母と父が居るという常識が作り出した幻影…
「ああ、本当に静かだなあ。」
僕は橋から自分の街を眺めた。昨日までと同じく、永遠に変化を続けて行く街。明日も変化する事を止めはしない街。常に姿を変える行為を繰り返す街。その変化に合わせて生きてきた僕。それはいつまでも同じだ。
「さあ、帰るか、街の中へ。明日はどんな変化を見せてくれるんだろう。」
僕はもう一度水面に目をやった。川の音はまだ聞こえる。単調な繰り返しの様で決して同じではない川の水の流れる音…川の水の流れる姿…自然さえも変化を止めることはない…僕は足元の鞄を拾い上げると、橋の上を歩き始めた。まだ変化し続けている街に向かって…
街 第二章
僕は自転車のペダルを踏み続けた。東の空が白み始めている。
「まったく、あの目覚ましは、」
自転車の上で悪態をつく。朝、かけておいた目覚ましが鳴らなかったのだ。だが悪態をついた後で、すぐ気が付いた。鳴らなくて当然なのだ、人工物の作る音は消えているのだから。僕は苦笑いしながら、自転車を漕ぎ続けた。
昨晩、僕は迷っていた。明朝の新聞配達はどうしよう。行こうか、それとも行かなくてもいいのか。どうせ販売所に行っても誰も居ないだろうし、それを読む人も居ないのだ。それなのに新聞を配り続けるなんて少し馬鹿げている。けれども事はそう単純ではない。人は確かに居なくなったが街の機能は生きているのだ。つまり生きて行くにはお金が要る。お金を得るには働かなくてはならない。どんなに無意味な仕事でも、働いていればお金は貰えるはずだ。それは昨日僕の通帳にバイト料が振り込まれていた事からも明らかだ。もし、バイトに行かなければお金は振り込まれないだろう。するとこの街では生きて行けない。
「やはり行くべきだ。」
結論は直ぐに出た。加えて僕は新聞にも興味があった。誰も居なくなった事が記事になっているかも知れないからだ。あの後、下宿に帰って試しにラジオをつけてみた。予想通り、どの周波数に合わせても何も聞こえなかった。雑音さえ聞こえない。僕は情報に飢えていたのだ。世間で何が起こっているのか知りたくて仕方なかった。情報はそれを得た人を安心させる力を持つ。たとえそれが全くの出鱈目でも、だ。新聞なら何かの情報が得られるはずだ、そう思うとわくわくして昨晩は配達が待ち遠しくて仕方なかった。それなのに今朝も遅刻だ。
「あまり遅刻ばかりしていると、首になるかも知れないな。」
それは恐ろしい事だった。職を失えばたちまち暮らして行けなくなる。新しい仕事を探そうにも、誰も居ないこの街でそんな事は不可能だ。どうやって見つければいいのか見当もつかない。とにかく、たとえどんなに無意味な仕事でも、このバイトにしがみついているしかないのだ。
僕は一所懸命ペダルを踏んだ。大通りを抜ける。いつもと同じN町の町並み。販売所が見えてくる。ちらりと時計を見た。四時四十分。それほど遅くはない。ブレ-キをかけて自転車を止め、スタンドを立てて戸を開ける。
「おはようございます。」
販売所の中には無論誰も居ない。昨日の朝と同じ風景。ただ違うのは僕の仕事が残されている事だ。新聞紙はまだビニ-ル袋に入ったままだし、挟み込むチラシも積まれたままだ。中に入って作業台の前に立ち、新聞に目をやる。
「やっぱりな。」
僕はビニ-ル袋を破りながら少しがっかりした。袋の中の新聞紙は真っ白だったのだ。いや、新聞紙だから薄灰色とでも言うべきだろうか。その上には何も書かれていなかった。文字も写真も図柄も。印刷する前の紙その物だった。十分予想できた事とは言え、やはり僕は落胆していた。
しかし、がっかりしていても始まらない。僕はすぐに頭を切り換える。袋から新聞紙の束を取り出し、一部づつチラシを挟み始める。作業をしながら、僕は少し落込んでいる自分を自分の思考で慰める。考えてみれば新聞なんて下らない物じゃないか。あんな記事を読んでどうなるって言うんだい。本当にあった事かどうかも分からず、盲目的に信じ込んで怒ったり感心したりして、そして読んだ後から忘れていく。自分の目で見、自分の耳で聞いた事だけが真実なんだ。それ以外は全て嘘だ。新聞なんて読まない方がいいんじゃないか。
「このチラシだって、」
広告だってそうだ。有名人を使ったり、購買欲を煽る文句で人の心を惑わす広告。それが頭の中に染み込んでいるから、店先に行けばろくに検討もせずに買ってしまう。それは良い物だと思い込まされてしまっているのだ。今までよくこんな物を読んでいたものだ…
僕は心の中でつぶやき続けた。このつぶやきが僕の落胆を誤魔化すための愚かな論理に過ぎない事は分かっていたが、こんな異常な事態に直面している今の僕には、それもまた必要な偽りだった。それに全くの空論とも言えまい。ある面では真実だ。
「ふ-。」
チラシを全て挟み終えた後は昨日と同じだ。荷造りして自転車に積み込み出発する。僕はカゴに入っている新聞を見た。何も書いてない新聞を誰も居ない家に配る。無意味だ。しかしそれは今までもそうだったのだ。僕の配った新聞がどう読まれどう使われるか、そんな事は僕には関係の無い事だった。読まれずに捨てられてもそれも関係の無い事だ。どんなに無意味な仕事でも行う事に意味があった。金を貰い街で生きて行くためには仕事の意味は関係ない。住民に素晴らしい情報を提供しようという使命感なぞさらさらない。金が欲しいから、この街で生きて行きたいから、やっていただけの事だ。僕は自転車に跨ると再びペダルに力を入れた。道端に駐まっている動かない車が、弱い朝日を浴びて残骸の様に見えた。
「ただいま。」
配達を終えた僕は、そう言いながら販売所の戸を開けた。言い終わっておかしく感じた。誰も居ないのに、挨拶? それももう、一つの癖になってしまっているのだ。作業場の電気は消えている。ふと、僕は感じた。何かが違う。
「なんだろう。」
分からなかった。けれども何かが違うような気がする。電気が消えているからそう思っただけだろうか。僕は首を振ると配達の後片付けをし、自分の割り当ての新聞を一部持って外に出た。何も書いてない新聞を貰って行くのも変な話だが、ちり紙交換に出すという目的もあるのだ。ちり紙交換屋さんがどの様な形でやって来るかは不明だが、街の機能が生きている以上、いずれやって来るに違いない。僕は静かな夜明けの街に自転車を走らせた。
「気持ちいいなあ。」
僕は町並みを抜けて大通りの真ん中を走っている。車は一台も走っていないし、走って来る心配も無いのだからこの道路は僕の貸切みたいなものだ。僕は街の中をぐんぐん走る。と、また先程の違和感が僕を襲った。何かが違うのだ。何が違うんだろう。
「変だな。」
でも僕はあまり気に止めなかった。人間が消えてまだ二日目だ。変な気分になるのも仕方ないだろう。初めて度の違う眼鏡を掛けた時の様に、やがては慣れてしまう種類の事だ。それよりもこの快適さを楽しもう。車道を一人で専有している僕。どんな施設もサ-ビスも全て僕一人に向けられている。街の究極の形がここにある。全ての人間に、今の僕くらいに各個人の街への専有率を高められた街があったら立派なものだ。だがここにそれがある。僕の街だ。自分の義務さえ果たせばそれで十分。あとは全てが僕の思いのままだ。
僕は橋を渡った。下宿に向かう路地に入る。走りながら考えるのはもちろん食べる事。今日の朝食は何にしようかな。昨日は納豆だったから今日はレトルト、中華丼にするかな。スピ-ドを落として僕は走る。ああ、銭湯が見えてきた。昨晩、僕はあそこに一人で入ったんだ。僕は思い出した。
「あれは気持ちが悪かった。」
洗い場の鏡に映った自分を見た時だ。鏡には自分の姿が映ったのだ。僕は昔から鏡を見るのが嫌いだった。鏡の中の自分は対象物に成り下がるからだ。それはもう明らかに物だ。そしてその対象物を認識するのもまた自分なのだ。同時に二つの役割を演じているこの矛盾が、僕を鏡嫌いにさせた。
昨晩、洗い場で見た僕の姿はいつにも増して物だった。久しぶりに見る動く生き物。生きている人間。だがそれは自分とは全く別な物に見えた。自分には関係のない物に見えた。あるいは鏡に映る自分の姿さえも僕は信じられなくなっていたのだろうか。
しかしそれ以外は楽しかった。何をしても許された。大声で歌を歌っても、泳いでも。もちろん湯舟の中で石鹸を使ったり、女湯を覗くような事はしない。明らかに違法な事に対しては、また頭に衝撃を食らわされる恐れがあるからだ。治安の面からもこの街はきちんと作用しているはずなのだ。
「今日は日曜だからお昼から入ろうかな。」
僕は銭湯の入口に目をやった。日曜は正午から営業しているのだ。銭湯の戸口の横には営業案内と書かれた板が、
「え、」
僕は自転車を止めた。ないのだ。営業案内がないのだ。銭湯を開いている時間と料金を書いた板が、いや、板はあった。ないのはその上に書かれた文字だ。板の上には何も書かれていない。
「馬鹿な、」
僕は自転車に跨ったまま周りを見回した。同じだった。電柱に書かれているはずの町名、広告、近くの食堂の看板。全てから文字と絵が消えていた。
「これだったのか。」
どうして気付かなかったのだろう。今朝から感じていた違和感はこれだったのだ。
この街から文字と絵が消え去った? こんな単純な事にすぐに気付かないなんて、どうかしている。いや、もしかしたら一度に消えたのではなく、徐々に消えているのかも知れない。だから気付かなかったのでは…だとすれば、まだ消え残っている字や絵があるかも…
僕は急いで自転車に座り直すとペダルを踏み込んで走り出した。神社の大きな木が見えてくる。角を曲るとすぐに僕の下宿だ。自転車を降りて門を開け中に入ると、スタンドを立てるのももどかしく、新聞を持って急いで自分の部屋に戻る。戸を開けて最初に目に入ったのが部屋の隅に積み上げてある新聞紙だ。
「消えてる。」
新聞紙は全て無地になっていた。僕が積み上げておいた古新聞は、日に焼けて黄ばんだ、ただの古紙になっている。
「本は…」
僕は手に持っていた今日の新聞をコタツの上に放り投げると、本棚を見た。全ての本から背表紙のタイトルが消えていた。その中の一冊を抜き取った。表紙は真っ白だ。中を調べる。同じだ。何も書いてない。白い紙が何枚も綴じてあるだけ。絵も文字も何もかも完全に消えていた。
「一体、どうして、」
僕は諦め切れずに本棚の本を次々に抜き取り、中を調べて行った。しかし同じだった。小説も教養書も週刊誌も全てが白紙になっている。文字、絵、写真、それら全てが僕の前から完全に消え去ったのだ。僕は座り込んだ。
「人間の次は、文字が、」
信じられない出来事だった。もし全ての文字が消えたのであれば、街の中の生活なぞ考えられないだろう。物を買うにも値段が分からないし、バスの時刻だって分からない。それともそんなものが要らないほど、僕の要望が聞き入れられるのだろうか。商品は僕の希望する値段で売られ、バスは僕が乗りたい時刻に来るとでも…
「ありえない。」
そこまでこの街は甘くはないだろう。僕がこの商品はただにしてくれと思ったら、無料で手に入る事になる。僕のために文字が消えたのではないのだ。それじゃあどうして消えたのだろう。どうして?
「どうして?」
これは考えなくてはいけない。人が消えた理由、それは分からなくても構わなかった。人が居なくてもこの街で生きて行けそうだったからだ。しかし文字や絵が消えてはこの上なく不便だ。音は既に消えているから、これで情報を伝達する手段が完全に消えてしまった事になる。情報無しにこの街で生きて行けるのだろうか。
僕は座り込んだ。これからどうしよう。理由を考えると言っても何か手掛かりはあるのだろうか。いずれにしても今日も街を歩かなくてはならないようだ。少なくとも食料、これを手に入れられる事を確認しなくては。食料さえあれば何とか生きて行ける。と、空腹を感じてきた。
「よし、御飯にしよう。」
さっそく朝食の支度に取り掛かる。いつもと同じく炊飯器に米を入れ、水を入れ、スイッチを押す。ランプが赤く点いた。
「よかった。」
電気は来ているようだ。僕は少し安心してスプ-ンを挟み込むと、即席中華飯の素を取り出した。箱は全くの無地。中の袋も真っ白になっている。僕はそれを炊飯器の蓋の上に乗せた。これで終わりだ。後は炊き上がるのを待つだけ。
急に手持ち無沙汰になってしまった。いつもならここで新聞を読むところだが、今日はそれも出来ない。僕はもう一度本棚に近寄ると、一冊づつ中を確認して行く事にした。無駄であろう事は分かっていたが、それでもそうせずにはいられなかった。
「それにしても、自分の持ち物にまで影響が及ぶなんて、」
腹立たしい限りだ。自分の所有権が侵害されているのだから、これでは正しい街のあり方とは言えないだろう。しかるべき機関に訴えたいくらいだ。僕は一冊づつ本を見ながら、怒りが込み上げてきて仕方なかった。苦しい経済状況と闘いながらやっと手に入れた本もあるのだ。それがこうも簡単に台無しにされてしまうとは、一体なぜ?
僕は怒りを感じながら、同時に、やはり不安も感じずにはいられなかった。街。今まではきちんと機能していたと思っていた街。しかしそうではなかったのだ。街の機能はやはり少しづつ死んでいるのかも知れない。そして街にとって僕はどうでもいい存在なのかも知れない。でなければこんな事が起こるはずがない。これから一体…
「あ、」
僕の手が止まった。両目は開いたその本に釘付けになった。
「消えてない。」
その本のそのペ-ジは消えていなかった。いや、消え残っている部分があったと言うべきか。ペ-ジの所々に文字が残っている。
「これは、、、ドイツ語。」
独語の本だった。僕は第二外国語は露語を取ったのだが、周りが皆独語をやるので先輩に頼んで古い入門書を譲ってもらったのだ。その本の中に独語の文字が、まるで無秩序にバラバラと残っている。
「どうしてだろう。」
僕は何が書いてあるのか読もうとした。しかし分からなかった。もともと独学で始めているから、知っている単語も少ない。しかも消え残っている文字は僕の知らない単語ばかりなのだ。僕は本を閉じると、それを大事に持ってこたつ机の前にゆっくり座った。もう一度パラパラと見ていくと、他のペ-ジにも文字は残っている。しかしやはり僕の知らない単語ばかりだった。僕はそれらの文字を眺め続けた。挿絵は一つも残っていない。残っているのは文字だけ。
「何か意味があるんだろうか。」
僕の目が一つの単語に集中した。どこかで見た事がある単語だった。恐らく一度覚えた単語かも知れない。独語は英語によく似ているから、その類推からも思い出せそうだった。
「なんだったかな、」
僕は頭の隅にある記憶をたどって行った。確か、この単語は…不意に僕の中にある言葉が浮かんだ。そうだ、この単語は、
「あ、」
信じられない事が起こった。僕が単語の意味を思い出した瞬間、その単語は消えてしまったのだ。僕は自分の目を疑った。確かに今までその単語は見えていた。しかしもう無いのだ。消えてしまったのだ。
「なぜ?」
僕は単語が書かれていた位置を指で擦った。紙のざらざらした触感が伝わってくる。単語が消えた理由、それは一つしか考えられない。僕がその単語の意味を理解したからだ。何が書いてあるか分かったからだ。
「でも、どうして、」
そこまで僕に情報を拒絶する理由は何だろう。僕は空ろな目で残っている単語の文字を眺めた。独語のアルファベットが並んでいる。僕はその文字を一つづつ見て行った。S。僕の頭文字だ。
「まるで、蛇みたいだな。」
するとSの文字が消えた。僕の目は別の文字を捕らえた。J。僕の頭の中に釣針の印象が現れた。すると、Jの文字が消えた。僕の顔にふっと笑いが浮かんだ。なるほど、意味だけでなく印象さえも僕を拒否するのか。確かにこれらの文字にしても誰かがデザインした文字なのだから一つの図と言える。図から受ける印象も一つの情報なのだ。僕は本を閉じると立ち上がって、講義に持って行く僕の鞄を手に取った。その中からノ-トを取り出す。
「これは大丈夫だ。」
ノ-トの表紙の印刷の文字や図柄は完全に消えていた。しかし僕が書いた文字は残っている。中を開いてみても同じだ。僕が書いた数式や図はきちんと残っているのだ。
「自分の書いた物は消えないんだ。」
僕はもう一度こたつの前に座った。
この事実をどう説明すればいいのだろう。全ての文字と絵が消えたのではないのだ。自分が書いた物は残っている。自分以外の他人が書いた物が消えたのだ。しかし僕に情報と印象を与えないのなら、他人が書いた物でも残っている。
「情報を得ず、印象も感じずに生きて行け、という事なのだろうか。」
自分の書いた物には情報は在り得ない。自分から自分に発する情報なぞ無意味だろう。それは単なる記憶の回復だ。忘却した時にだけ意味を持つ。思い出すという行為と新しい情報を得るという行為は違うはずだ。その違いゆえに、僕の書いた物は消えずに残っているのだろう。
僕は立ち上がって机の上の筆立てから鉛筆を一本取り出すと、こたつの上に置いたままの灰色の新聞紙の上に「の」という文字を書いてみた。消えない。その文字は書かれたままだ。僕はその文字をじっと見つめた。すると、それが「の」という文字だという事が信じられなくなってきた。今、それを「の」だと発音している人間は僕しか居ないんだ。なぜこんな丸っこい図を「の」なんて発音していたんだろう。
その「の」の後に、僕は「り」と書いてみた。「のり」 しかし無論僕には信じられなかった。どうしてこの図がお寿司に巻いてあるあの黒い物体を指すのか、なぜこの「のり」という図が紙を貼り付ける時に使うどろどろの液体を指すのか。それを証拠立ててくれるものはあるのだろうか。
そして僕の思考は一体どうなっているのだろう。文字と声が消え去った今、僕のこの頭の中の思考は一体どの様に行われているのだろう。この思考は言葉なのだろうか。僕の頭の中で繰り広げられているこの言葉。言葉だとすればそれは日本語なのだろうか。日本語だと言える根拠はあるだろうか。日本語とは何だったのだろう。言葉とは何だったのだろう。思考は必ず言葉で行われなくてはいけなかったのだろうか。
僕はもう一度独語の本を開いた。ぼんやりした目でぺ-ジを見る。文字が消えてしまった余白。そこにはかつて何か書いてあったのだ。何も考えずに眺めてみよう。意味を取る事も印象を受け取る事もやめて…するとペ-ジに何かが浮かんできた。
「あ、」
元通りの文字と絵だった。それがうっすらと見えてきたのだ。僕の頭はその中に知っている単語を幾つも見出した。そして無意識の内にその意味を受け取ろうとした。だが、頭の中のその働きが始まった瞬間、文字と絵は再び白い紙の中に消えて行った。僕の目はまた空ろになった。
「ふうー。」
僕にはだんだんと分かってきた。もう一度文字と絵を復活させる事は可能だ。しかしそれは僕が全ての文字と単語の意味を忘れ、絵や写真から一切の印象を受けなくなった時に可能なのだ。それは文字や絵に限った事ではないだろう。音にしてもそうだし、恐らく人間にしてもそうなのだ。僕が一切を忘れ去り、人を見ても人と思わず、声を聞いても何の反応も起こさず、空気の様に全く周りを気にせずに居られるようになった時、消え去った物は初めて姿を現すのだ。しかし、そんな出現にどんな意味があると言うのだろうか。何の印象も受けないのなら存在しないのと同じ事ではないか。つまり、何をしても僕はもうこのまま一人なのだ。一人しか居ないのなら文字も言葉も必要ない。自分で決めればいいのだ。
僕は仰向けに倒れると天井をぼんやり眺めた。天井は僕に何の印象も与えないように真っ平の茶色だ。頭を起こして服を見るとTシャツは真っ白、その下のトレ-ニングパンツも真っ青だ。僕はふふんと笑った。なるほど僕がどこに住もうが何を着ようが、もうどうでもいいって訳だ。この分だとそのうち色も消えてしまって、真っ白のカレ-や真っ白の墨汁ってのも出現するのかも知れないな。いや、それでもまだ白い色が残っている。白色も消えた時、僕の目に残るのはどんな色なんだろう。
そして今はまだ残っている僕の周りの人工物。茶碗やこたつや畳や天井…それらを見て僕が何かの印象を受けたらどうなるんだ。物それ自身も消えてしまうって事だろうか。そうなったらもちろん生きて行けない。
「炊けたかな。」
急に朝食の事が気になった。寝転んだまま目をやると、炊飯器は盛んに湯気を立てている。ブクブクしているあぶくの音は聞こえず、蓋とその上に置いた中華飯の袋が無音で持ち上がっていた。僕は起き上がった。
「あー。」
大声で叫んでみた。聞こえる。自分の声は聞こえるんだ。もう一度鉛筆を取って紙に書いてみる。やはり消えない。と、あるアイディアが思い浮かんだ。鉛筆によって自分の文字が記録に残せるのなら、自分の声も残せるはずだ。僕は立ち上がってもう一度机の前に立った。そして生のカセットテ-プを探し出すと、ラジカセに入れた。このラジカセはマイクが装備されているから、これで声を出せば僕の声が録音されるはずだ。それに自然の音は保持されているのだから、もしかしたら僕には聞こえない別の音も録音されるかも知れない。
昨日のCDの失敗が頭を掠めたが、あれは他人の声、他人の立てた人工の音だからだ。声はもちろんだが、音にも情報は含まれる。騒音に怒って人殺しをする人も居るのだから、騒音には人に腹立たしさを誘発させる情報が含まれていると言えるだろう。だから昨日は声も音も雑音も何も聞こえなかったのだ。しかし自分の声なら聞こえていいはずだ。僕はどきどきしながらRECのボタンを押した。カセットが回り出す。もう、声を出していいかな。
「お-い、お-い、聞こえるかい。」
もう少しましな事を言いたいものだが、いざとなるとなかなか言えないものだ。ついでに手拍子も打ってみる。自分の立てる音は聞こえているから、これも声と一緒に録音されるはずだ。STOPを押してカセットを止めると巻戻してPLAYを押す。カセットが音もなく回り続ける。ボリュ-ムはもちろん最大である。
「…駄目か。」
けれども何も聞こえて来ないのは昨日と同じだ。雑音も聞こえない。僕はSTOPを押してカセットを止めると、こたつの前に座り直した。音は駄目なのだろうか。それとも機械に通すという行為が駄目なのだろうか。僕は考えた。僕に情報を拒否するという観点から考えると、たとえ自分の作った音や声でも録音する事でそれに新しい情報が付加される、そのために僕には聞こえなくなってしまう、と考えられないだろうか。ではその付加される情報とは何だろう。例えば、この音はきちんと録音され、きちんと再生されているのだろうか。いやそうではない。機械を作った技術者たちの設計理念で、音は何らかの変調を伴って再生され僕の耳に入ってくるに違いない。その結果、自分の声をいい声だと思ったり、変な声だと思ったりしてしまうかも知れない。それはもう元のままの音や声ではなく、技術者が意図した情報に汚れた音や声なのだ。だから僕には聞こえないのだ。
「じゃあ、鉛筆はなぜいいんだろう。」
鉛筆もやはり人工の道具と言えるのではないか。それを介して書かれた文字はなぜ消えないのだろうか。再び考えなくてはならない。
僕は立ち上がって机の上から筆立てを取ってくると、色々な筆記具で試してみた。ボ-ルペン、ジャ-プペン、サインペン。全て書ける。やかんに手を突っ込んで指を濡らして、新聞紙の上に書いてみた。もちろん書ける。物を書くのは声を出すのと同じくらい直接的な行動なのだろうか。僕が与えた情報しか含んでいないという事だろうか。もっと、間接的に、例えば僕の書いた文字を写真に写すと、その時には何も写らなくなるのかも知れない。写真機は持っていないのですぐには出来ないが、やってみる価値はあるだろう。僕は炊飯器を見た。
「そろそろ食べるか。」
僕の頭はひどく疲れていた。こんな時は何か食べるに限る。いつもと同じ様に丼に御飯を盛る。丼も真っ白だ。今日はその上に中華飯をかける。出てきた中身を見て僕は少し驚いた。中華飯の具は全て単色で、折り紙で作った野菜の様だった。口に入れると舌ざわりも歯ごたえも風味までもが均一だ。味は塩味がするがそれだけ。旨味も何もない。もし目隠しをされて口に放り込まれても、何を食べているか分からないだろう。食べ物も例外ではなかったのだ。しかし空腹感だけは確かに満たされる。
そうして満腹感が広がってくると、僕は昨日からの事が、なんだかどうでもいい事の様に思われてきた。自分一人で大騒ぎしているけど、なんだい、たかが文字と絵が消えただけの事じゃないか。だいたい江戸時代だって読み書きが出来る庶民なんかそうは居なかったのに、無事に天寿を全うしてるじゃないか。絵と文字がなくなったくらいで死にやしないさ。僕は御飯をかきこみながら、心の中でそう言い放った。問題がそれほど単純でない事は十分承知してはいたが。
「あ-あ。」
食べ終わると何もする事がない。日曜は朝寝ではなく昼寝をする習慣で、いつもなら本を読んだりラジオを聞いたり音楽を聞いたりするのだが、今朝は全て不可能だ。街に出るにしてもまだ時間が早いから、二十四時間営業以外はどこも開いてないだろう。となると寝るしかない。僕はもう難しい事を考えるのはやめて、仰向けになって寝た。
目を開けると単調な天井があった。見慣れない光景。一瞬、ここはどこだろうと考えたが、すぐに思い出した。左腕を顔の前に持ってくる。
「何時だろう。」
左腕にはめた腕時計を見て僕は苦笑いをした。僕のデジタル時計の表示板は真っ白だったのだ。文字と絵が消えてしまった以上、それは当たり前の事だ。これで僕は時刻も失ってしまった。でも、短針と長針を持つ時計なら文字盤に数字が無くても、その角度で時刻が分からないだろうか。いや、同じ事だろう。「現在の時刻」という情報が僕にもたらされる訳が無い。それに元々時刻は人工物だ。人間が居ないのならその必要も無い。
僕は起き上がった。開いている窓から僅かに見える空は灰色だ。この街に相応しい空の色。
「今日の街はどうなっているんだろう。」
僕は起き上がると部屋を出た。静まり返った下宿の階段を降り、玄関の戸を開け外に出た。下宿の外は素晴らしい光景だった。目前にある神社は単色のおもちゃのお家になっていたが、境内にある大きな木は元のままだった。複雑な構成の幹と緑の葉。それは以前と全く変わらなかった。消えたのはあくまで人工の絵や色だけなのだ。今朝の中華飯の具の野菜も人の手が加わった瞬間、その自然を失ったのだろう。全くの自然なら今もまだそのままだ。
「自然は僕を見捨てていないんだ。」
僕はゆっくり歩き出した。空の色も風の匂いも道端の草もそのままだ。それは確かに僕の心を慰めてくれた。しかし僕が住んでいるのはあくまで街なのだ。空や木や花が元のままでも、生きて行く事は出来ない。
僕は下宿の近辺の入り組んだ路地を歩きながら、今日はどうしようか考えた。と、僕の頭に今朝のアイディアが蘇ってきた。僕の文字を写真に撮ったらどうなるかという疑問。音は確かに録音出来なかった。文字や絵も再生不可能なのか、やってみる価値はあるだろう。僕はひとまず大学に寄って行く事に決めた。学生実験室にはポラロイドカメラがあるから、すぐに結果も分かるはずだ。そう決めるとなんだか元気が出てきた。
古い家が立て込んだ路地を歩く。毎日の僕の通学路。けれども家々はもう積み木の家だ。それは単色で何の模様も無い、木造か鉄筋か何で出来ているのか、その材質さえ判別できない物体だった。けれどもこうして歩いている僕は何の変化も感じなかった。丸太のような橋を渡り、真っ黒の舗装道路を歩いても、僕は別段平気だった。人の建造物がどうなろうと、それは僕には関係の無い事だ。いや、人の家だけではない。道路、橋、公園、そんな公共物でさえ僕たちは無関心。全て誰かにお任せで、作る時も壊す時も文句一つ言わなかった。今更、偉そうな事を言える立場でもない。
曇空の下、大学の門をくぐる。すぐに僕たちの学部がある。入口は開いていたが建物の中は真っ暗だ。階段を上って僕たちの科へ行き、さらに廊下を歩いて一番奥の学生実験室の中へ入った。電灯のスイッチを入れて灯りを点けたあと、実験に使うポラロイドカメラを探す。今時、ポラロイドを使っているのはこの実験室くらいだろう。やたら古い機材が多くて、部屋の隅には乾板写真機まで転がっている。もっとも、その方が勉強の為には好都合なのだろう。デジタルカメラでは写真の原理なぞ学び様もないだろうから。
カメラが見つかるとフィルムをセットして、紙に鉛筆で字を書く。その紙を机に置いてカメラのシャッタ-を押す。写っているだろうか。僕は印画紙を引き抜くと、どきどきしながら待った。しばらく待ってシールをめくってみる。
「やはり、」
印画紙は真っ黒だった。字はおろか紙も机も、光さえも写っていない。やはりそうなのだ。人工の物を通すと写らないのだ。現在あるそのままの状態でなくては、たとえ僕が書いた文字であっても存在を許されないのだ。音の時と同様、写真にすると、また別の情報が付加されるという事なのだろう。僕は少しがっかりしたが、すぐにまた別の実験を思いついた。僕の声、僕の書いた字は再生できなかった。では僕の姿はどうなのだろう?
カメラにタイマ-を取り付けて三脚に立てる。セットするとすぐに離れてカメラに向かってポ-ズ。シャッタ-の音はしないから、頃合を見てカメラに近付き、印画紙を引き抜く。少し待って恐る恐るめくってみる。僕の姿は、
「…ないか。」
やはりなかった。鏡には映る僕の姿もカメラには写らない。カメラにとって僕は存在していないのだ。となれば、僕の存在を認識できるのは僕自身だけ、と言う事になる。だが、それで僕は存在していると言えるのだろうか。神様が自分は神様だと自分で証明しているようなものだ。
「本当に消えたのは周りなのだろうか。」
僕の頭にそんな考えが浮かんだ。消えたのは本当は僕自身の方だったのではないのか。消えた僕から見ると周りが消えてしまったように見えるだけで、本当は僕だけが消えて、その他は元のまま…
「いや、」
それは考えても仕方のない事だ。他人の目から見える景色を僕が想像するのは無意味だ。僕はやはり僕自身の認識を元にして思考するしかないだろう。
手に持った印画紙を捨てると電灯を消して、実験室を出た。実験は空振りに終わったが、それもある程度予測出来た事、ただ確かめたかっただけなんだ。自分の足音だけが響く暗い廊下を歩く。階段を降りて外に出る。
曇空の構内。僕は自分の足を見た。規則正しく動く二本の足。今、僕が見る事の出来る唯一の動く生き物。いつもならそこにあるはずの僕の影法師、僕の唯一の同伴者は今は居ない。空を見上げると一面の雲、以前と同じく色も模様も複雑だ。街の上に浮かんでいるとは言え、やはり雲は自然の一部なのだ。その曇り空を見上げながら、僕は口癖のようになっている中也の「秋の日」の詩の一節を口ずさんでいた。
泣きも いでなん 空の 潤み
昔の 馬の 蹄の 音よ …
今にも降り出しそうな曇空を見ていると、いつもこの詩が頭に浮かぶ。すると不思議な事に雲の向こうから馬の蹄の音が聞こえてくる。それは遠い昔に戦場を駆け巡る騎馬武者たちの騒めき…野性の馬が草原を疾走する時に轟く地響き…僕の頭にはそんなイメ-ジが湧いては消えて行く。曇空は曇空のまま、けれどもそこに別の物を見、ありもしない音を聞く事が出来るのは人間だけだろう。そして曇空はまだそのままある。僕がイメ-ジを受け取っても消えずにそこにある。それは空も雲も自然の物だからだろうか。
「自然の物。」
考えてみればそうだ。消えたものは一体何だったろう。人間、文字、絵、みんな人間に関係したものばかりだ。僕以外の人間に関したもの。そして僕に情報を与えるもの。そうなのだ。人間の手が加えられると全て何らかの情報が付加される。絵や音はもちろん、自然の風景を写真に撮った物、自然の音を録音した物にさえ著作権が存在するという事は、それらにはある情報が付加されているという事なのだ。
そして今、それらは全て僕の前から消えてしまった。絵や写真や音楽や文章で、他人が僕に伝えようとしていた情報は全て消えてしまったのだ。僕が受け取れるのは自分で直接得る情報だけ。
「…でも、」
あるいはそれで良かったのではないだろうか。これまで僕が真実だと思っていたものは本当に真実だったのだろうか。僕は付加された情報に塗れた事柄を真実だと受け取っていたのではないのだろうか。例えば「南極は寒い」という文章。「氷ばかりの南極」の写真。「風の吹き荒ぶ」音。これらの情報によって僕は南極は一年中寒く辛い場所だと思っていた。でも本当にそうだろうか。夏の日光浴は結構暖かいかも知れないし、本当に辛い所ならペンギンなんか住む訳がない。
例えば「あの人は親切だ。」という文章を読んだだけで、その人は常に親切だと決めつけてはいなかっただろうか。全て人間の与える情報は実体とは無関係にそれだけで存在する。寒い地域の写真一枚で、寒い地域が存在し、「××さんは親切だ。」という文章だけで親切な××さんが存在する。実体とは無関係に、だ。
僕がこれまで自分の目や耳や肌を通さず、間接的に見てきた、聞いてきた物は全て人工物だった。そしてそれをそのまま信じて生きてきたのだ、その真偽を確かめる事もせずに。今、それが僕の前から消え去ったのなら、それはむしろ喜ばしい事ではないか。常に真実だけを感知して生きていけるのだから。
「その通りだ。」
僕はこの自分の考えに酔い痴れてしまった。しかしそんな時ほど注意深くしなくていけない。何か見落した点はないだろうか。
「…動物は?」
そうだ、僕の前から消えたのは、僕に贋の情報を与えうるものだけではなかった。動物も居なくなっている。動物もまた人間に関係していると言えるのだろうか。僕は首をひねった。動物は人間とは違うだろう。全く独立していると言ってもいいかも知れない。すると僕の考え方はおかしいのだろうか。と言って、すぐにこの仮説を捨てる気にはなれなかった。
「街の動物。」
こう考えたらどうだろう。街の動物もまた街の風景の一つなのだ。猫、犬、鳩、烏、ネズミ、ゴキブリ、彼等もまた街に無くてはならない存在だったのだ。公園には鳩。朝のお散歩は犬。夏には薮蚊。人間がこう在るべきだという思い込みから存在させられていたのだとしたらどうだろう。
「すると、人間がこう在るべきではないと思っているものは、どこかに存在しているのだろうか。」
そうかも知れない。本当に野性の、自然の動物なら、どこかに居る可能性はある。道端の雑草は今でも消えずに残っているのだから。街から離れたずっと遠くのどこかに、きっと…
その考えは僕の孤独を少し癒してくれた。ただ同時に僕は、もっと別の、もっと重要な事柄にも気付いていた。
「人間に関係しているのに消えていない物もある。」
僕の考えが正しいのなら、人の手の加えられた物、延いては人工物は全て消えるずだ。しかし建物も道路も、生物である街路樹さえもまだ残っている。それは何故なのだろう。僕はそれらからもイメージを受け取る事が出来る、なのに消えていない。消えた物と消えていない物との違いはなんだろう…
それとも、まだ”途中”なだけなのだろうか。緩慢に徐々に消えつつあるのだろうか。とすれば、最終的には街自身さえ…
僕はそれを考えると暗澹たる気持ちになった。が、すぐに気分を切り換えた。取り敢えず、今、僕に一番必要なのは食料だ。それが手に入るかどうか、これが重要なんだ。それさえ確認できればもう何が消えようが恐いものなしだ。
「ス-パ-に行ってみるか。」
そしておいしい物をたくさん買って来よう。日曜日の食事は少し贅沢にしているんだ。なんなら外食したっていい。昨日、バスから降りた後、郵便局に寄って再びお金を預け直してきたから、口座残高の心配はない。
僕は門をくぐって外に出た。のんびりと歩く。市場は今日は休みなので大通りに出る道を行く。曇空で少し蒸し蒸しするけど、それ以外はいい日曜日だ。僕は少し浮き浮きしていた。今の僕の楽しみはもう食べる事しかなかった。あとは寝る事と、こうして歩く事くらいか。昔の人はどうやって暇を潰していたんだろう。
ほどなく僕は大通りに出た。そこには店が幾つも並んでいる。その並びを見て僕は不吉な気持ちに襲われた。店が全て単色の折り紙細工の様な、のっぺりとした建物になっているのは仕方ないとしても、それらの店がみんな閉まっているのだ。日曜日には必ず開いているこの通りの店が、なぜか閉まっている。
僕の中に嫌な予感が広がり出した。さっきまでの浮き浮きした気分は吹き飛んでいた。僕は駆け出した。どんどん走ってス-パ-の前に着く。通りの店と同じだ。閉まっている。そこには文字も模様も何も無い白い建物が立っているだけっだ。僕は自分の世界が崩れて行くような気がした。今日閉じているのなら、他の日は当然閉じているはずだ。それはこの街で品物の入手は不可能ですと宣言されたのと同じ事だ。僕はまた走り出した。二十四時間営業のファーストフード店はどうだろう。しかしそこも同じだ。何のきらびやかさもない、ただの建物が立っているだけ。入り口は開いてはいない。
「食料は、手に入らないのか。」
僕は落胆した。これでは街では生きて行けない。食物が手に入らなくてはどんなに物に溢れていても…
だが、食料。それは一体何だったのだろう。考えてみれば僕が食べていた物とは何だったのか、僕自身説明出来るのだろうか。野菜でも果物でも店に持ち込まれれば、もうそれはテレビや扇風機と同じ人工物だった。餌だったのだ。籠の中で暮らす小鳥に与えるように、街が僕たちに与える餌。それが今までこの街で僕が手に入れて来た食料だったのだ。
街で暮らす事を唯一と考えていた僕。しかしそれは間違いではなかったのか。僕の前から消え去った物は、僕に恩恵と便利さを与えていたのではなく、むしろ弊害と混乱を与えていたのではないのだろうか。絵や、文字や、快適な暮し、しかしそれが僕の何の役に立っていたのだろう。絵や文字は僕に下らない事をたくさん教え込んだ。それによって得られる喜びはみんな嘘だった。街の中で生きて行くためには多くの犠牲があった。無意味な労働に従事して、金を稼ぎ出さねば生きて行けないのだ。生きて行くために皆辛抱してそれを続ける。何も書いていない白紙の新聞を、誰も住んでいない家に配達するよりも、もっと無意味な労働に我慢して…
「あ、」
不意に僕の前にあった店が消えた。跡には茶色い空き地が残っている。僕は歩き出した。消えて当然だ。そんな建造物は僕にはもう不必要だからだ。七階建ての大型ス-パ-も消えていた。バス停も消えていた。街路樹も消えていた。アスファルトも消えて地面が剥き出しになっている。雑草さえ生えていない。これこそが街の真実の姿だった。
「砂漠よりもひどい、不毛の土地。」
僕はどうしてこんな所に愛着を感じていたんだろう。何もない土地。人間はどうしてこんな場所を作ったんだろう。僕は思った。今まで僕が住んでいた街。でもそんな街より、どこかずっと遠くの草原の方がずっと住みやすいのではないか。
そこには危険な猛獣がいる。でもこの街にだって雄叫びをあげて走り回る危険な車が人を殺している。あんなものに殺されるくらいなら、猛獣に喰われて死ぬ方がよっぽどいい死に方だ。猛獣の子供たちの飢えを満たして死んで行くんだから。
そこには危険な病気があるって、怪我をしても看病する施設がないって、それはこの街だって同じだ。全ての病気を治せる訳でもない。街特有の病気だってある。
そこは不便だって、そうだ、でもそれでいいんだ。スト-ブの熱さに慣れて太陽の暖かさを忘れてしまった。クーラーの冷風に慣れて、木陰の涼しさを忘れてしまった。不便がそれを思い出させてくれるなら、こんな有難い事はない。
僕は消えて行く街を歩いた。遠くに目をやると、僕の大学もすでにその姿を消していた。僕は歩いた。すでに消えてしまった物もあれば、いつまでも残っている物もある。それがどうしてかは、分からなかったし興味も無かった。僕は歩いた。下宿に戻ろうと思った。それがまだ残っているかどうかは自信が無かったが、歩くには目的地が必要だ。
僕の前から消えて行く物々。その中を歩きながら僕の頭は奇妙な考えに支配されていた。元々この世界は一つの物から出来ていたのではないのだろうか。一つの物とは小さな物だ。僕のイメ-ジの中にはテレビのブラウン管があった。あの虚像の世界。あの映像さえ各色たった一つの輝点から成り立っているだけなのだ。その輝点が走査線に沿って速く動く事で、あんな動きのある複雑な映像を作り出す。とすれば現実の世界もそれでいいではないか。たった一つの粒子。一種類ではない、たった一つの粒子なのだ。それが高速で動く事でこの世界の全ての現象を作り出してきたのだ。いや、動くという概念を超えて、それは宇宙空間全体に同時に存在できる粒子、量子の様に規格化する必要もなく、すべての位置で同時に存在確率が1になる粒子。
この世の現象も、あらゆる相互作用も、あらゆる物質も生物も、たった一つの粒子によって引き起こされたのだ。神ではない。ライプニッツのモナドでもない。唯一の粒子。テレビの様に一つの輝点で全ての映像を作り出す事が可能なら、一つの粒子で全ての現象を作り出す事も可能なはずだ。それは老荘のタオの様に全ての存在の根源、事物が区別される前の無限定な自然そのもの、タオ…
「タオン…」
僕たちはそうとも知らずに、自然の法則を見つけたと思ったり、凄い発明品を作ったと自慢したり、素晴らしい絵画を描いたりしたと思い込んでいたんだ。全ては一つの粒子、今、歩いているこの僕でさえ、タオンが宇宙を通過して行く時の一つの軌跡、その通過の跡に過ぎないのだ。足に触れるこの大地の感触さえ、タオンがその様な感覚を僕に与えるように、この宇宙を動いたと言うだけの事。
「タオン?」
僕はその粒子の名前をいつの間にかそう呼んでいた。けれども粒子の名前などもう何だっていい事だ。どうせ僕一人しか居ないんだ。全ての物は僕の好きなように呼べばいい。
「そして今、僕の前から街が消えて行くのは…」
簡単な事だ。テレビの走査が遅くなれば、映像は消えて行くだろう。それと同じ事だ。僕にとってはどのような映像も作らないように、タオンが存在しているだけの事なのだ。僕と自然物以外は消えるように存在しているのだ。その理由は分からない。けれども、街が消える前でさえその理由は分からなかったんだ。今、分からなくても不思議じゃない。道は川で跡切れていた。橋はもう消えていたのだ。僕は土手を降りた。川岸に出ると靴と靴下を脱ぎズボンをまくって川の中に入った。
僕はもう街に居られないのだ。いや、僕にとっては街その物がもう存在しないのだ。やはり消えたのは僕の方だったのだろうか。街を追い出されるのは僕なのだから。
浅い川を渡り終えると靴を履き直してまた歩き続ける。離れた場所に大きな木が一本、そしてその前に一軒の家が見える。僕の下宿だ。なぜ残っているんだろう。僕はその建物目指してゆっくり歩いた。門を開けて中に入る。住み慣れた家の中。懐かしい僕の部屋。どうする? まだ消えていないのならここに残ろうか。いや、それは意味がない。ここは住むには余りにも不便だ。これからは少なくとも自分の食料は自分で手に入れなければならないのだ。こんな空き地だらけの土地ではそれは難し過ぎる。
僕は押入の隅から緑色のリュックを取り出した。そしてその中に残りの米を全部入れると背負って部屋の外に出た。これだけ米があれば数週間はもつだろう。その間に食料を手に入れやすい土地を見付けだそう。急がなければ、このリュックも、やがては消えてしまうに違いない。いや、消えるのはリュックだけではない。僕の服も、僕の眼鏡も、そしてすっかり街の一部となっている僕自身さえ、やがては…
僕は震える心を抑えながら階段を降りると、玄関を開けて外に出た。その瞬間、下宿の建物は消えてしまった。目の前にあったはずの神社も消えている。僕の前には神社の境内に立っていた大木が一本残っているだけだった。その木はもう自然の木だった。今まで自分を捕らえていた神社から解放されたばかりの木。その姿を見て僕の心にほんの僅かだが勇気が湧いてきた。
「僕は行くよ。」
その時、風が吹いて来て大木の枝を揺らした。葉擦れの音を鳴らしながら、枝はまるで手を振る様に揺れた。僕は足元を見た。晴れた日にはいつも僕に付き従ってきた僕の黒い同伴者が、足踏みしながら待っている。空を見上げるといつの間にか雲が切れて太陽が顔を覗かせていた。僕はリュックの重さを背中に感じながら、何も無い地面の上を歩き始めた。
街 終章
海沿いを歩いていた。男は映らない目を持っていたので、自分に興味の無い物は映らなかった。男が歩いているのは波打ち際。波が寄せると男の足跡は直ぐに消えてしまう。足を濡らしながら男は歩いていた。
海水浴客はもう一人も居なかった。浜茶屋の主人は不思議そうに男を見つめた。男は砂浜に座り込むと、背負っていた緑色のリュックを肩から下ろした。
「なにを、しとる、」
開けたリュックを男は逆さまにして振った。わずかな米がバラバラと男の足の上にこぼれ落ちた。それだけだった。空のリュックを男の目はひどく寂しそうに見つめた。
主人は店を出ると男のそばに近づいた。
「腹が減っとるのか。」
主人は声を掛けたが、男は気が付かないようだった。返事はなかった。
空は曇って雨が降り出しそうだった。雲は見えていた。波の音も聞こえていた。遠くの海は荒れていた。
不意に、男がつぶやいた。
「さ、かな…」
「魚?」
主人は訝しげに男の顔を見た。ひどく色が悪く頬はこけていた。耳は貝殻だった。目はガラス玉だった。
「待っとれ。」
主人はそう言って浜茶屋に戻ると、残りの御飯でお握りを作った。魚は生憎無かった。代わりに売れ残りのおでんのハンペンを取り出すと、お握りと一緒に皿に乗せた。そうして再び浜茶屋を出ようとした時、
「おや、」
浜辺を見ると男の姿はもう無かった。主人は皿を置くと、浜辺に出た。男はどこにも居なかった。
「いったい、どこへ…」
浜辺に人影は無かった。男の足跡も、座り込んでいた跡も、波に消されてしまったのか、もう無かった。
主人は海に目をやった。沖に緑色の何かが浮いているのを見つけた。よくは分からないが男のリュックにも見えた。それはまるで最初から誰の物でもなかったかの様に波間を漂っていた。主人はしばらくそれを見つめていたが、やがてひとつの大きな波がその上に覆い被さり、それっきりそれは見えなくなった。皿の上のハンペンはまだ湯気を立てていた。
「本当におったのか、あの男は…」
砂浜はいつもと同じ、夏の終わりの寂しさだった。海の色は灰色だった。空は降り出しそうに暗かった。主人は首を傾げた……
街(完)
「街」に寄せて by白タヌキ師匠
「街」に寄せて
せいぼー氏はとても印象的な人である。驚くほどの博識と創造力、ユーモアと厳格さ、優しさと威厳を併せ持ち、なにものにも執着しないのに決して妥協もしない。僕は彼をせいぼーさんと呼ぶことにいささか抵抗を感じてしまう。だからここでは、S君と呼ぶことを勘弁してもらいたい。
ご存知の方もいるかもしれない。S君はかつて物理学を専攻する研究者だった。それも非常に優秀な研究者だった。まだ学生だった頃の彼が行ったいくつかの講義は、その理解の確かさと洞察の深さとによって際立っていた。僕はむしろ彼を指導する立場にいながらどれほど彼に教えられたか知れない。もし、S君があのまま研究者の道を続けていたら、彼は間違いなくその分野において世界的にも中核をなす研究者となっていたであろうと、僕は思っている。
しかし、S君は自らまったく異なる道を選んだ。それは彼自身が納得できないもの、しかし納得しなければ日々を過ごしていくことができないもの、その妥協を拒んだゆえの選択だった。それは当たり前の研究者としての選択よりもはるかに困難な選択だったと思う。しかし、彼はそれを選んだ。そのときの彼に、何の迷いも後悔もなかったことに僕は圧倒された。そして今に至っている。それを可能にしているのはS君の並外れた意志の力によるのだろう。かつて彼はよく酒を飲んだが、ある悲惨な出来事をきっかけに一切を酒を飲まないと決めた。その意志は未だに揺らいでいない。その強靭な意志の力があるからこそ、S君は小説を書き続けることができるのだろう。
僕は彼の小説が大好きだ。彼が何かを書いてくれるのをいつも楽しみに待っている。そして彼が作品を読ませてくれたら、必ず感想を伝えるようにしている。それは僕が彼に示すことが出来る唯一の感謝の表現だから。
S君から「街」の解説を依頼されたのだが、一人の読者に過ぎない僕には少々荷が重かった。だから、以前、初めて「街」を読んだとき、彼に送った個人的な感想文で勘弁してもらうことにする。文中でS君の素性を知る手がかりとなりそうな人名や地名は全て伏せてあるのでご安心ください。
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「街」に寄せて
最近、小川未明の「赤いろうそくと人魚」というお話を読みました。
とても怖いお話です。
S君も知っての通り、日本の昔話は子供向けにハッピーエンドに終わるようになっているものが沢山あります。僕の家にあった子供用の絵本では、さるかに合戦の猿も、かちかち山の狸も最後には自分の非を認め、許されて、以後みんなと仲良く暮らすという終わり方になっていて、読んだ後で僕は、まるで騙されたような気になってしまいました。あんなにも残忍な猿や狸が簡単に心を入れ換えるなんてことはとてもありえないし、たとえあったにしても、子がにやお爺さんがあんなにも快く彼らを許すなんてのはどう考えても不自然です。こんな具合に納得できないけれどさりとて、反論もしにくい、訳の解らない融和精神を押し付けられたら、逆にひねくれたくなってしまうのではないかと思い、この本は捨ててしまいました。
でも本当のお話は違うのですよね。母がにを騙して殺した猿は臼に押しつぶされて殺されますし、狸に至っては殺したお婆さんを煮てお爺さんに食べさせ、兎はその狸を痛めつけ、痛めつけした後に、溺死させる。彼らは決して許されないのです。こんなお話が昔の囲炉裏端で、静かな夜に語られるのを聞いたら、とても怖かったことだろうと思うのです。でも今では、猿も狸も許され、心を入れ換えて一緒に仲良く暮らしていくのですから、あまり印象に残らないように思えます。実際、いじめっ子は心を入れ換えてもいないのに殆ど常に許され、逆にいじめられた子供は、時として家族ともどもその住む町を離れざるをえなかったり、更には殺されてしまうことすらあります。もし、昔話をそのままの形で子供に伝えたならば、いじめは少しは減るのではないかと僕は思うのです。
「赤いろうそくと人魚」はお金のために鬼となった老夫婦を、そして人間を決して許さないという、とても強い意志がそのまま文章になったようなお話だと思います。本当の鬼は怒りのために町を滅ぼした人魚の方なのかもしれません。でもそれはあまりにも悲しい、それが故に恐ろしい鬼です。このお話は作者の小川未明が児童文学者であるということで、童話に分類されています。昔話が何の印象も残さないお話に変えられてしまった今となっては、彼の作品は数少ない本物の児童文学であると僕は思います。
小川未明と言えばかつてK市にいた頃、S君に紹介してもらった「金の輪」(という題名だったと思うのですが)というお話の作者だったと思います。あれも怖いお話でしたね。でもそうした本当に怖いお話を読んだとき、僕は自分の存在そのものを問いただされるような、そんな気がするのです。
S君の書く小説は僕にそれと全く同じ気持ちを起こさせます。もちろん、小川未明とも原型の昔話ともぜんぜんストーリーは違うのですが、どちらにも妥協がないのです。一切ごまかしがないのです。それは救いがないといってもいいのかも知れません。実際の生活の中で、自分や他人をごまかしたり、妥協したり、妥協させたり、目を向けたくないものから目を背けながら毎日を過ごしている僕に、S君のお話は「お前は何者だ。お前は何をしているのだ」と、問い詰めてくるのです。僕には答えがない。答えようとすると、思いつく言葉は全てごまかしで、口にする前から見透かされているのが判るのです。そして、結局何も言えないのです。S君のお話は、答えを知っていながらそれをはっきりとした言葉で言おうとしない、とてつもなく大きな存在のようなものを感じさせます。
「街」は今までのS君のお話の中でも格別怖いものです。「夢」も怖かったけどもっと怖い。怖いという表現は正しくありませんが、今は他にいい言葉が思いつきません。その怖さは、このお話が「夢」によってなされた問いを引き継ぎ、より鮮明に殆ど脅迫的なまでに、僕に答えを求めてくるからです。その問いは人間の中での自分の存在という、かつてそのために膨大な時間を費やした問いに他ならないのです。
僕はこの物語の中では「街のスケッチ2」が一番好きです。それはこの話がとても懐かしい想いにさせてくれるからです。どこかに愁いを漂わせた古都の街並を残すK市にいた頃、僕が強引にS君たちを誘って演劇を見に行ったことは、殆ど忘れていました。(あれは安部公房のなんという小説が原作だったかな。)読み進んでいくうちに、確かにあの劇の中でまだ演劇を始めて間がなさそうな役者が台詞を忘れてしまって、もう一人の達者な役者に助けられた場面があったことを思い出しました。それから、劇の後の映画(これは覚えている。イブ・モンタンが主演の「恐怖の報酬」だった。)の字幕がとても読みにくくて、誰かが寝てしまったことも(僕はMさんだったような気がしていたのですがS君だったのか)。ただ、S君があの時これほどまでに醒めた視点を持って演劇を見ていたとは思っていませんでした。
個人の行動を自分自身を主体とした何者かによって演出された劇での役としてとらえる視点は何時からS君の中に芽生えていたのでしょうか。この「街のスケッチ2」が最近書かれたものとはいえ、演出という視点はもう随分前からS君の中にあったのだと思うのです。以前S君がT市に旅行した時のことを手紙に書いてくれたことがありましたね。手紙の中でS君は操り人形にとても強い印象を受けて、いつかそれを題材に小説を書いてみたいと言っていました。でも、この「街のスケッチ2」を読むと、そうした自分の「本当の意志」とは違うものに操られる人間というモチーフはK市にいた頃からあって、たまたまT市で見た人形がS君自身にそのモチーフを再確認させる結果になったように思えます.。あるいはそれは小説のモチーフと言うよりS君自身の実感だったのではないかという気がします。何故なら、僕自身も常にそうした漠然とした印象のようなものを、いつも持ち続けていましたから、つまり自分がどうあればいいのか判然としないという不確かさです。確かに僕は自分のことを思うと、自分は常にこの次にどうすれば良かったのかと、頭の中の台本を必死にめくっている下手な役者のように思えてなりません。今では大分そんな気持ちは薄れましたが、かつて学生時代はいつもそうでした。だから僕はいつも本を読もうと努力していたのだと思います。そこに、答があるような気がして。
でもS君も知っている通り、本の中には答なんか無いのです。参考になることはいっぱい書いてありますけど、どれを選ぶか決めるのはやっぱり自分自身ですから。
誰もが、自分で台本を書きそれに基づいて演出を加え、自ら演じているのだとすれば、むしろ演じているからこそ、台本を読んでいない本来の自分の存在がどこかにあるはずですが、一体どこにいるのか。台詞を忘れて立ちすくんでしまった役者にS君が興奮とも言える感動を覚えたのが、本来の自分自身が垣間見えたからだとすると、本来の自分とは全く不用意な、外部からの刺激に対して何の備えもしていない、そんな存在なのでしょうか。
僕は2度目に耳パンを買って、店から出たときの記述が好きです.「人と知り合うということ、それはお互いの台本を見せあう事だ。そして人と仲良くなる事、それはお互いの脚本や演出が気に入るという事だ。それは全てにおいてそうだ。自分の台本を人に見せる事ほど勇気のいる事はない。」個人と個人の関係をこれほど象徴的に表現した文章を僕は他に知りません。そして、同時にこの文章は個人と個人の相関が、互いの台本どうしの相互作用によってのみ進行すれば、その関係はとても分かりやすいものとなることをも示唆しています。しかし、この満足感のようなものは個々の台本が全く独立であり、それがうまくかみ合ったときにのみ感じることが出来る、とても脆いものであることもまた、同時に示唆されています。すぐ後で台本が一つしかないという可能性、と言うより現実について書かれていることからも、その脆さがより漠然とした不安を伴って自覚できます。個々人が各台本を持っていながら、しかも台本は一つしかないとしたら、一人一人の台本は偶然や何ものかの気まぐれによっていくらでも翻弄されてしまう。
でも僕が本当にすごいと思うのは、ただ一つの台本しか存在しない場合が二つあること、つまり神とも言うべき得体の知れない存在による台本と、自分だけの存在による唯一の台本の二つを示し、その二つともが全く同じ段階で述べられていることです。決して神のような巨大な存在による台本が、自分の台本よりも上位であることはない。「『もし、ここに僕一人しか居なかったら…』僕の台本が全てであり唯一となる。」この文章の表すところは、「世界の中に自分が居るのか、自分が居るから世界があるのか」などという使い古された哲学の問題とは全く違う地平にあるものであることが、この物語の中の他のお話によって語られているのを見ることができます。そのことに気がついたとき、僕は軽い戦慄のようなものを覚えました。
この「街」という物語は最初に述べたようにとても怖いお話です。でもその怖さは、無数に存在する個々の台本という視点から、ただ一つの台本しかないという全く異なる、両極端の場合が導かれ、それが突き詰められたときに起こることが、とても詳細に描かれていることです。つまり、僕にとってこの「街のスケッチ2」は「街」という物語全体の中心にあって、この物語が提起する主題の導入となり、しかもその避けがたく行きつく先が日常の現象を通して、抽象的ではあれ明確に描き尽くされているお話なのです。「街のスケッチ2」がこの物語の中にあることによって、他のお話がとても現実的な意味合を持っているのです。別の言い方をすれば、もし「街のスケッチ2」がなければ「街のスケッチ1」と「街」は抽象的な心象風景の模写に留まっていたと思うのです。(そうだとしても十分説得力のある名作であることには変わりはありません。)
個人が他人との相互作用の中で不可避的に自ら台本を用意し、他人の台本や、より巨大な存在のようなものによる台本と相克、摩擦を繰り返しながら、自らに課した役回りを演じること、あるいは自分がそのシナリオ作成に全く関与できない台本の中で否応無く演じることが、社会という個々人の集合体の中で自らの個人としての存在を継続するための活動であるならば、もし、その台本を放棄したらどうなるか。僕は「街のスケッチ1」と「街」は、S君が示してくれたその問いに対する答なのだと思います。
「街のスケッチ1」は自分と外界との関係に相互作用というものが無く、外界からの刺激が全く一方的に、自分に及ぼされた場合に起こりうることが明確に描かれています。誰一人としてお婆さんの存在に気をとめない無数の人の流れは、お婆さんの存在から何の作用も受けていない。もしそこに相互に交換する作用があるならば、人の流れに変化が生じるはずなのに。言うまでも無くこうした光景は珍しいものではありません。僕は平日はいつも片道1時間半往復3時間を電車の中で過ごしますが、荷物を抱えてやっとの思いで立っているようなお婆さんをよく目にします。そして近くに居る人、特に若い人がそのお婆さんに席を譲るのを見ることは、かなり稀です。また、電車の中で足を踏まれたり、ぶつけられたりして謝ってもらうことも、やはりかなり稀です。だから、僕が近くにいるお婆さんに席を譲るとき、僕は自分が異邦人になったような錯覚を感じますし、足を踏まれて謝られたときには、急に生き続けるための希望を得たような気になってしまいます。
「街のスケッチ1」は台本に基づいた相互作用の不在の一つの極限を描いたものでした。もし、個々人の間に相互作用が全く無ければ、個人の運動は何も遮るものがない中を運動している自由粒子のようになってしまうでしょう。何もその運動を遮ることなく、何もその運動に影響を及ぼさないとしたら、粒子は場の中で極限にまで加速されて高速で飛び廻り、しかも粒子間の個性を識別することは出来なくなってしまいます。S君が「街のスケッチ1」で描いた、人の流れがどんどん高速となりやがて光の帯となってしまう過程は、相互作用を拒否した自由粒子の集合体が行き着く状態であり、その粒子がたとえ人間であっても何の変わりもないことを教えてくれます。相互作用を受け付けない流れの中で、しかも場に逆らって動こうとしたら、あるいは留まっていようとしたら、間違いなくそれは、運動の経路を変えようとしない粒子の集合体に衝突され、貫かれ、そして砕かれてしまうことになります。「街のスケッチ1」はその過程をとても端的に描いていると思います。
流れにもみくちゃにされているお婆さんは現実によく目にすることが出来ます。それは虚しく残酷な現実の象徴的な反映であり、あまりにも絶望的な光景です。「街のスケッチ1」の中で唯一希望を感じさせてくれるのは、困った顔をして立ちすくむ一人の人間の存在です。それは「街」全体を通しても唯一、希望を感じさせる存在であり、その記述は短いながらも、他の部分にはない安心感のようなものがあります。それはその人間がこの「街」の中で、主体である「僕」を除いて、ただ一人、迷いと不安を伴いながらも自分の台本を持っている存在だからだと思います。僕はこの部分を読んだとき、自分自身がその人間でありたいと強く感じました。たとえ、微笑みかけたそのすぐ後で光の帯に貫かれて砕け散ってしまったとしても。
最後の記述は非常に現実的ですね。相互作用を受け付けない粒子の集合的な流れの中で立ちすくんだとき、個人に固有の台本などは流れの邪魔になる障害物に過ぎず、確実に削られていく。球体の意味するところは、方向性のない流れの中で抵抗が最小限にまで抑えられるということであり、そのためにこうした無作為の敵意に満ちた流れの中で存在することが出来る唯一の形態、それが球体という表現によって象徴的に現されていると感じました。もし球体という形を取らなければ、絶え間ない衝突の連続のためにやがて砕け散ってしまわざるを得ないでしょう。そしてさらに池の底に沈んでいく、しかも安堵を覚えながら。この部分の記述は僕にも安堵の気持ちを感じさせてくれました。それは絶え間のない衝突と軋轢から開放されたことによる安堵と同時に、絶望を受け入れた安堵でもあります。球体となったことは必ずしも彼の意志ではないのかも知れませんが、池の底に沈んで行ったことは確実に彼自身の意志であるとしか、僕には思えません。
球体となって池に沈んでしまうことは、相互作用を拒絶する台本どうしの軋轢に絶望し、それを避けるために、他人の台本に耳を傾けることをやめ、さらに摩擦の原因となる自らの台本を放棄してしまうことを象徴していると僕は感じました。「街のスケッチ2」で提起された問いの一つの答が、確かに「街のスケッチ1」に示されていると僕は思うのです。
「街のスケッチ1」が自分以外の人間が自分の台本を全く拒絶してしまった場合に、それでも台本を持ち続けるとどうなるのかという極限であるのに対し、「街」は自分自身が自分以外のありとあらゆる台本を拒絶した場合の極限を徹底して描いたものだと思います。
冒頭から、この「街」は漱石の「道草」のように漠然とした重苦しい不安が暗示されています。最初はさりげなく描かれた人気のなさが、少しづつ確実に異常な状況の様相を明らかにしていく過程は、読んでいてとても恐ろしいものでした。他人からの反応が全く返ってこない世界、これはS君自身が「街」の中で暗示したように、他人からの働きかけに対して全く反応できない「夢」に対する鏡の反対側の構図になっていますね。その意味で「街」と「夢」は相互作用が絶対的に不可能な状況の中でもがくという同じ状態の、異なる世界を現していることになるのでしょうか。この鏡面関係はあたかも同じ世界をシンメトリックに反転させただけのように、一歩鏡の境界線をまたぐだけで、もう一つの世界に何の不連続性もなく移行することができます。こうした実質的な境界がないということは、あらゆる場所において相互作用が不在であること、つまりどこまで行っても逃げ場がない無限地獄のような、気の遠くなるような絶望感を覚えさせてくれます。
しかし、僕は「夢」と「街」の間には一つの決定的な違いがある、つまり鏡面対称性が保存されていない点が一つあると思います。それは「夢」では自分の意志とは反する形で相互作用が途絶してしまったのに対し、「街」においては恐らく、明かに自分の意志で相互作用を放棄し、他の人間からの働きかけを拒絶していったことです。これは僕の考え違いかもしれませんが、どうしてもそう思えるのです。
S君が地に引きずり込むような恐ろしさで、人間的な働きかけが消滅していく過程を描いていくのを読みながら、僕はそれが何の意志によるものなのかを、S君の文章の中から読み取ろうとしました。いずれ、その意志を持った存在の正体が明かにされるだろうという、かすかな期待のようなものを持って読み続けました。機能としての街を確実に残しながら、その機能を作動させるはずの人間が全く存在しないこと、そして、最後まで意志を持った存在は「僕」以外には現れないこと、さらに「僕」が街に別れを告げる決意をした時、街そのものが消滅し始めたこと。ここまで読み進んだ時、僕はやっとおぼろげに気付きました。意志を持つものは「僕」しかいないこと、そして全ては「僕」の意志であることに。人気が無くなり、人からの働きかけが全く無くなったことは、「僕」が自らの意志で人からの働きかけを拒絶していったことに他ならない。自らの意志によるものであるからこそ、消滅は一度にではなく、徐々になされて行ったのだと思うのです。
これは「街」が「街のスケッチ2」で提起された問いに対する、「街のスケッチ1」とは対極にある回答であることを意味します。即ち、後者では自分以外の人間が自分との相互作用を拒絶したのに対し、前者では自分自身が他人からとの相互作用を、それが直接的なものであれ、間接的なものであれ、徹底して拒絶している。相互作用のない自分だけの台本、それは台本の放棄と何ら変わるところがありません。その結果、行きつく先は…、S君の冷徹な目はその帰結も的確に捉えています。「街」の終章は相互作用をするものとしての存在の消滅がいずれの場合も、恐らく自らの意志として不可避であることを、絶対的な説得力を持って僕に示してくれました。(S君自身はこの終章に満足していないようですが、僕は全体を通しての終章として、これ以上のものはないのではないかと思います。「海沿いを歩いていた。男は映らない目を持っていた…」この書き出しはとても印象的です。)
最後まで来て始めて理解されることがあります。それは最初の詩、「冬日挽歌」はこの物語のプロローグとして、あまりにもぴったりなのだということです。最初、何故、S君はこんなにも悲しい詩が書けるのだろうかと、僕は考え込んでしまいました。「気がつくと僕は消え失せていた」自分は消えてしまったのに、人々の喧騒と嘲笑は残るなんて、あまりにも悲しすぎます。ところが、このプロローグは全ての物語を経た後で、今度は逃れることの出来ない必然的な帰結となって、もう一度繰り返されます。「冬日挽歌」も「街のスケッチ1」もそして「街」も、それぞれ消滅したり、球体となって池の底に沈んだり、さらには映らない目と貝殻の耳を持った男となったりして、一つの結論を与えてくれます。台本を放棄したらどうなるのかということを。それは即ち、僕たちがこの社会に存在する限り、たとえ不確実なものであっても、台本を放棄しては自己の存在を継続させることが出来ないということを逆説的に言っているのでしょうか。にも関わらず、随所で自分の存在の消滅が自らの意志であることを暗示しているのは、何故なのでしょうか。
教えてくれませんか、S君。僕にはそれは「僕」のそして作者であるS君自身の、存在し続けることに対する強い意志の現われではないのかと、そう感じるのです。物語を貫く逆接の縦糸に直交している横軸としてのもう一つの逆説。限りない摩擦、軋轢、衝突、不安、迷い、悪意と相克そして絶望の連続の中で、それでも存在し続けるということ、その強固な意志がこの「街」という物語の根底にあるのではないのですか。
今度、会ったとき是非、教えてください。
街(02/03/30-02/05/19)