海鳥
恐らく、しばらく見ることのない景色に対して掬った物語。
邂逅の海岸石
その砂浜は、随分と人が来ていないんだろう、流木や貝殻で溢れていた。
ただ燦々と降り注ぐ陽光と、どこまでも静かな波の音がこの空間を支配していた。
端から端まで歩くのにどれくらいの時間がかかるだろうか。
波が届くか届かないかぐらい位置から、向こうの崖下まで歩いてみる。
その途中で、ボトルメッセージを拾った。
コルクを開けて中の紙を取り出すと、日本語で文章が綴られていた。女性の文字だろうか。細い線で丁寧に描かれている。
“このメッセージを拾った人へ”
もしも外国に流れてついたらと考えて、英語で書こうとしたんですが、やめました。よくよく考えてみれば、私は英語はできませんでした。
もしもこれを拾った人が外国の方でしたらごめんなさい。
さて、何を書こうかと今悩んでおります。なので、こういうことをしようと思った経緯について書いてみようと思います。
今年で私、24歳なんです。
短大を出て就職して4年が経つんですが…悩んでいます。
仕事を辞めてやりたいことをやるべきか、このまま続けるか。
もしもこれを拾った人が私よりも年上で、人生経験豊富な方であればわかると思うんですが、本来この悩みは、悩むべき悩みではないんです。
もしも同じような悩みを抱えた人がいるとすれば、みんな答えは知っているんです。ただ行動できないだけ。きっとそうなんですよね。
ここで1枚目は終わり。2枚目に入る。
なんていうんでしょうね。
私が思うに『安定を捨てきれない』
これが1番、生きていく上で必要であり、不必要だと思うんです。
慎重に生きようなんて気はさらさらないのに、いつの間にか安定に逃げている自分がいる。
今やるべきことをやれない。違うんです。本当はやらないだけ。
行動してしまえば良い話なんですが、その一歩を踏み出すのがこの上なく難しい。悔しいです。
もっと言うと、勇気がないのかもしれないです。
泥沼を渡って向こう岸まで行けるのか、途中で沈んでしまうんじゃないか、そういう不安が静かに囁くんです。
『やめときなよ』
なんて。ここまで分かっていて行動できないのは、私がやっぱり弱い人だからなんですよね。
こうして便箋に書いたら終わり。また変わらない日常の始まり。
なんだか勇気が湧いて来ました。私、これからも頑張ります。
空白を二行残して手紙は終わっていた。
この人は今何歳になっていて、無事一歩を踏み出せただろうか。
そんなことを考えながらまた歩き出した。
数十分、波を何度か足に浴びながら歩いた。
よく見えなかった崖下には小さな洞窟のような場所があった。
来た覚えも見たこともないその場所を、懐かしいと思った。
過去の糸を手繰るように中に入っていった。
中を進んで行くにつれて記憶が徐々に復活して行くような気がした。
普通は数十秒単位で感じるデジャブの延長戦。数分間に及ぶデジャブが終わる頃には、記憶の底にたどり着いていた。
13歳の夏。家族で出かけたあの海岸。昔はちょっとしたゆうっめいなスポットだった。少し遠くには観覧車が見える公園があった気がする。
あの時は綺麗だった海で泳いでいると、1人の女の子に出会った。身長と喋り方だけが同年代だと感じさせるその子は、友達が欲しいといった。
それから何かしらの会話があって、友達になった。
数時間一生懸命遊んだ気がする。貝殻探し、テトラポットの上で海鳥観察、波打ち際を散歩。
そして見つけたあの洞窟。「中に入ろう」とその子が言った気がする。
そして見つけたこの場所。何でもない洞窟の底。昔は小さな泉が湧いていましたと主張している窪みに、綺麗な海岸石が4つ。その意思に貝殻で名前を書いた。自分の名前と、あの子の名前。
そうか。君は、そんな名前だったんだね。
テトラポットの上で
正方形のコンクリートが十字に組まれた珍しいテトラポットが海に向けてまっすぐ一直線に積まれていた。
誰がこんなことをしたんだろうか。そばを歩くヤドカリらしきものを見ながら思った。
とりあえず上に登ってみると、だいぶ怖かった。でも子供の頃に戻ったみたいで少し楽しかった。
足をかけれそうな場所、手をつけそうな場所を慎重に選んで先に進んでみる。ゴツゴツしたコンクリートだったおかげか、崩れることも滑ることもなく、前に進めた。
3分ほど進むと、フジツボだらけの汚いテトラポットが目立つようになってきた。これが意味することは1つ。
潮が満ちると同時にここは海に浸かるのだ。
5分後。
あぁ、まさかこのタイミングで満ちてくるとは。
500mほどあるテトラポットの列の真ん中。270m地点で、膝下が海水に沈んだ。
12分後。
300m地点で腰が浸かり始めた。テトラポットも、フジツボットに進化している。
もうこれ以上は進めない。あー。何でこんなことをしてしまったんだろう。
まだフジツボに侵されていない箇所に腰を下ろした。なんて調度いいんだろうか。胸が海水に浸かった。
16分後。
いつの間にか海水の中。目を閉じて静かに座っていた。
フジツボットの下から出ているドス黒い腕が体に絡みついている。
離すものかとしっかりと掴んでいる。別にこちらとしても離れることはないから安心して欲しいのだけど、きっと信じられなくなったからフジツボットの下なんかにいるんだろう。
顔を出すことはないだろうな。手しか見れないんだろうな。
優しく手を重ねると、悍ましく揺らいだ。瞬時に首が閉まり力が入った。
口に溜めていた空気が抜けて海面に向かって泳いでいった。
それでもなお、優しく、優しく、手を撫でる。
怯えから戸惑いに変わって、震えがゆっくりと静まった。
“大丈夫だよ”
最後の酸素を使って海水に言葉を混ぜた。
その声が聞こえたかな。聞こえてなくてもいいけど、聞こえてたらいいな。
深い青に沈んだ
えいっ。
ぼちゃーん。
ブクブクブクー。
重い体が海水を吸ってさらに重くなっていく。
ジタバタすることのできない縛られた手足。
面で編まれた白装束。
深い深い青の底。いつの間にか解けた縄。脱げていた衣装。
生まれたままの姿で海底を漂っていると、線路を見つけた。
さらに奥、チョウチンアンコウが駅のホームらしき跡を照らしていた。
底に足をつけて歩いていくと、チョウチンアンコウがこちらをゆっくりと見て、またゆっくりと向き直った。とりあえず会釈した。
そのホームは、田舎の無人駅を彷彿とさせた。ベンチが1つだけちょこんと置いてあるだけ。そこに腰掛けて電車を待ってみることにした。
時間がどれだけ流れたかはわからない。群れで泳ぐ魚や、海流に操られている海藻を見ていたらすぐにやってきた。
電車には誰も乗っていなかった。乗っていたらびっくりして腰を抜かしていただろう。私が席に腰掛けると同時に、電車は走り出した。
暗い海の底だけど、所々にチョウチンアンコウがいて、辺りを仄かに照らしていた。魚にもやはり個性があるようで、強い灯りの子もいれば、静かな灯りの子もいた。この子たちは海底を照らすことが仕事なのだろうか。ずっとここにいるわけではなく、8時間で交代して、みたいなことを魚界でもやっているのだろうか。だとしたら人間社会と変わらないな。そんなことを考えていたら電車が止まった。ドアの上の長方形のモニターに、何やら言葉?のようなものが表示されたが、私には読めなかった。
音もなく開いたドア。乗り込んでくる魚たち。よかった。人は乗ってこなかった。
それからしばらく魚たちと電車に揺られて、駅のそばに佇む大きな沈没船の前で降りた。ここだけかなりの数のチョウチンアンコウに照らされて、まるで美術館のようだった。
泳いで中に入ると、あまりの広さに驚いた。しかも綺麗だった。割と。
この船が海に浮かんでいる時代を知らないが、浮かんでいてもこうだったのかもしれないと思わせるほど綺麗だった。もしかするとこの船は、最初から沈められるために作られているのかもしれない。な訳ないけど。
中を探索するのに、何分かかったか分からないけど、大体の部屋を見終えた。あとは大きなホールだけ。扉の横には二匹のチョウチンアンコウがいた。彼らはなんとも言えない目で私を見ていた。
『入ってもいいですか?』
声を出そうと試みたが、泡すら出ることはなく、口をパクパク動かしただけだった。しかし、それが通じたのかは分からないが、彼らは少しだけ右にずれてくれた。とりあえず会釈した。
ホールの扉に手をかけて、ゆっくりと開いた。
『あら?お客さんかしら』
その声にも驚いたが、この部屋の内装にも驚いた。この部屋だけはボロボロだった。まさに沈没船の中。この空間だけ魔法が解けてしまっていた。しかしながら魔法使いらしき人魚もいた。あべこべだ。
『あー、ごめんね。この部屋だけはこのままにしておきたくて。ほら、あまりにも整った部屋って少し居心地悪いじゃない?だから』
あ、よく喋るタイプの人魚か。
『あの、私の声、聞こえますか?』
『うん。声は聞こえないけど、何となくわかるよ』
『よかった!…ここはどこなんですか?』
『沈没船の中だよ』
それはそうか。
『じゃあ、あなたは誰ですか?』
『私は、人魚だよ』
そのままか。
『逆にあなたは?』
『私は…なんでしょうね。ちょっと前は人間でした』
『へぇー!すごい!よくこんなとこまで来れたね』
『全くですよね』
人魚さんも私も笑った。人魚さんの口から立ち上る泡が綺麗だった。
『どうしてここに住んでいるんですか?』
『誰も住んでなかったからかな。ボロボロで買い手もいなそうだったし、住み着くことにした』
『怖くない?夜とか』
『アンコウさんたちがいるから平気かな…。結構話すと面白いし』
アンコウって喋るんだ。
『このアンコウさんたちはどうしてここに?』
『派遣の仕事らしいよ』
『あー、仕事なんだ』
魚界も楽じゃないんだな。
『人間も仕事するの?』
『人間は仕事ばっかりだよ』
『人間も?!お互い大変だね』
『あ、人魚さんも働いてるんだ』
『もちろん!毎日大変だよ。休みとかあんまりないし』
『何の仕事?』
『イワシの整列と、送迎だよ。一体感を持たせる練習と、目的地までしっかりと列を組んで移動してもらうとか。そういう仕事をしてる』
『あー、あれか!見たことあるけど大変そう』
『大変なんてもんじゃないよ!いうこと聞かないイワシもいるし』
『あー、集団行動乱す奴がいるのって人も魚も一緒なんだね』
『あ、そっちも何だ。お互い大変だね』
『ねー』
人魚さんとのたわいのない話が永遠と続いた。
人の世界も魚の世界も忙しい。
どこの世界もそうなんだ。成長しきれば続くのは無限ループ。
1日のサイクルは自ずと決まっているんだ。
帰り際、人魚さんは私に小さな酸素をくれた。
『いろんな話が聞けて楽しかったよ。またいつか、来れたらきてよ』
“◯◯さん”
最後に名前を呼ばれた。名乗った覚えはないのに。
『うん。またいつかね』
“◯◯さん”
私も、知らないはずの彼女の名前を呼んだ。
自ら光を発する小さな酸素。
駅のホーム、小さなベンチに腰掛け、それを飲み込んだ。
そしてゆっくりと、目を閉じた。
海と空の境界線
あからさまな優しさ。
それに甘える虚しさ。
如何にもこうにも過ぎてく時間。
知らない土地に行く。或いは珍しいものを見る。
自然ときっていたシャッター。
好きだったこと。好きだったこと。
もうシャッターの音はしない。
ギターを弾く。歌をうたう。
曲を作る。詩を書く。
好きだったこと。好きだったこと。
やけに静かな部屋。
長方形の紙切れが支配する世界。
それに縛られて生きていく人。
一時の快楽。温もり。
永続的孤独。冷。
ファーストフードを胃にぶち込む。
煙草は一日3箱。
12時に胃は空っぽ。
15時の甘味料。
19時の誘惑。
21時の酩酊。
23時の置き去り。
0時の終末。
行く宛のない右手の手袋。
道路の真ん中で臓物をぶちまけている生き物。
交番に届くことのない3億円。
深い穴ぼこ。
“全てが一瞬だけ、どうでもよくなった”
海鳥
さよなら。