熒惑の少女

・熒惑(ケイコク)とは

1. 火星の異称
2. まどわすこと



「私、火星人なの」
そう呟いては熒惑に微笑んだ彼女は
もう、何処にもいない---…

序章

20XX年。
人類の文明は飛躍的な進化を遂げ宇宙惑星探査を続けた結果、過去火星に人間と等しい生命体。所謂「火星人」が存在していたことが判明。
更に研究を進め、火星人は現在の地球よりも遥かに進んだ文明を築き上げていたことを我々地球人は知った。


「でも現在の火星に生命体は…」
「ええ。見つかっていないわ」
「それはつまり……火星人は……」

「大昔に何らかの理由で絶滅してしまった」


絶滅の理由としては、宇宙の突然変異による惑星の環境変化が最も有力な説とされている。
生命体が活動できない現在のような環境下になってしまったことで、火星人は滅びていくしかなかったのだろう。


「(しかし…)」

地球人よりも遥かに高度な文明を繁栄させていた火星人が移住計画を考えなかったのだろうか。
近くにこれ程までに豊かな惑星があることを、彼等が知らない筈がない。
火星人より化学も知能もずっと劣っている地球人でさえ、この惑星が滅びるその時は別の惑星に移住するべきだとしてるのだ。


「もしかすると、」


火星人は、


「滅びていないのかもしれない--ー……」


「…え?」
「もし火星人が地球への移住に成功していたら?」
「教授…あれを信じているのですか?」


5年前、200年以上前にあるイギリス人男性が書いたと思われるメモが発見された。
その冒頭は一文の告白ではじまる。


``私は、火星人です``


その後には何故自らを火星人だと思うのか、彼なりに導き出した火星人の特徴などが事細かに記されていた。
このメモを書籍化した単行本は現在世界中で発売される程のベストセラーとなっている。


「こんなもの出版社の手に掛かればいくらでも情報操作できます。実際に発見されたメモ張とこの本の内容が同じなんていう証拠もありませんし…」
「でも事実、他にも自分のことを火星人だと思っている人は沢山いるわ」


大きな無地のトートバッグをひっくり返すと、バサバサと10冊以上の本が流れ落ちた。
どれも、自分は火星人。少なくともこの惑星の人間ではないと主張している内容の書籍だった。


「私たちだって今まで何百人とそんな人たちに会ってきたじゃない」
「それはそうですが…」


そう。
確かに今はまだ謎だ。

しかし全ての真実は、誰かが何処かでその謎に気付くことから始まる。



「私は今ここに、火星人の地球移住計画の遂行とその成功説を提案します―――…」



こうしてこの説を追及し続けた末、やがて賛同者も増えていき徐々に謎も解明され始めていった。


「もしも火星人の末裔が地球に住んでいるのなら、その体内には未知なる火星人のDNAが存在する筈です」
「今よりもっともっと多くの被検体が必要ね」


いや、多くではない。
この謎を本当の意味で解き明かすには、今地球上にいる全ての人類を検査しなければならないのだ。
今やこの研究は世界中の注目の的。
果たして自分は地球人なのか、火星人なのか。自ら調べてくれという人まで現れた。


「(果たして、)」

「(これは正しい選択なのかしら)」


地球人はただ、純粋に知りたかったのだ。

自分たちが何者なのかを。

「ケイ」



柔らかい春の日差しに包まれた世界の狭間に、凛とした姿で立っている彼女のその名前をそっと口にした。

綺麗に、
丁寧に、
穏やかに、

そして誰よりも優しく。



声に反応した彼女は、その特徴的なミルクティー色のふわふわとした髪を小さく揺らしながらゆっくりと振り向く。
そのふとした瞬間に、彼女の髪から爽やかなシャンプーの香りが鼻腔をくすぐって、俺はようやく彼女が目の前に居る幸福を知った。



『なに?』


ひらひらと二人の間を舞う桜の花びらの隙間から、色素の薄いブラウンがかった瞳が真っ直ぐに俺を見つめる。
嘘を知らない、何処までも澄んでいて透き通った硝子のような瞳だった。


「………何でもない」
『ふふ、何それ』


頬を染めて柔らかく微笑む彼女が無意識に髪をそっと耳に掛ける仕草は、恥ずかしい時の癖だった。
普段他人が居る場では滅多にしないこの癖を、俺と二人きりの時彼女はよく見せてくれた。



「もう帰ろ」
『うん、待たせてごめんね』
「いいよ。気にしてない」



何でもないようにさらりとその華奢な手を攫って門へ歩き始めると、嬉しそうに彼女もちょこちょこと俺の横を歩き始める。
ほんのりと暖かい日差しに風も控えめで、今日はどうしようもなく良い天気だ。



校門を出て、校舎沿いに植えられた桜の下を春に囲まれながら歩調を彼女に合わせて歩く。
彼女は昔から桜が好きで、少し遠回りだが春の間は専らこの帰宅ルートが二人の定番だった。


今日も本来ならとっくに下校時間は過ぎているが、彼女がもう少し中庭の桜を一人で見ておきたいから待っていてくれと言ったので、俺は律儀に校門の前で待っていたのだ。どうも彼女に頼まれると断れない。

チラリと横目で彼女を見ると、頭上に広がる桜を見上げながら鼻歌交じりに繋いだ手をぶらぶらさせ軽快に歩いている。
何がそんなに嬉しいのか相変わらず呑気なその姿に、上手く飼われている自分がなんだか笑えた。


「外泊も明日で終わり、か」
『うん。今回は少し短かったね』


清々しい程あっけらかんとした声でそう答える彼女を、眩く、遠く感じた。
俺にとっては明日から世界の景色が180度変わってしまうような大事件でも、それは彼女にとって代わり映え無く続く日常。

分かっていても、彼女のその冷静な素振りに俺と彼女の間にはどうしても越えられない溝があることを改めて実感し、深い部分がまた傷付いていてじくじくと痛みを伴った。


「次はいつ外に出られるんだ?」
『んー…私には分からないけど研究次第、かな』
「そっか…」
『大丈夫。またすぐ出られるよ』



これまで幾度となく繰り返してきたこの会話も、毎年似たような姿で咲いては散る事しか出来ない桜も、結局黙って手を握る事しか出来ない俺も。全部全部春に抱かれ混ざり合っては温暖な空気に甘え、今日もだらだらと呼吸をしているだけのちっぽけで、くだらない、ただの弱い存在だった。


この手を離してしまえば彼女また奴等の元へ行ってしまう。
分かっていた本当のことなんて始めから。


「(彼女はとっくにこの手を離れているのに、俺は…まだ…)」



絡めた脆弱な指先に少しだけ力を入れると、返事をするかのように彼女がしっかりと手を握り返してきたので、たちまち俺は何処にも行けなくなってしまった。俺にとって彼女が居ない世界は何度季節が巡り何度春が訪れようとも受け入れられない、非日常だった。


ほのかに春風が吹いて彼女の髪を柔らかに撫ぜていく。
露わになった彼女の細く真っ白な首元に浮かぶ滲んだ001の羅列が目に入って、ごろごろと目頭が刺激された。



今頃彼女の身体に埋め込まれたマイクロチップで位置情報を特定確認され、何処かに潜む監視員が俺と手を繋いで帰路に着く姿を観察し、逐一様子を研究所に報告していることだろう。
彼女はこの惑星の最重要人物として、24時間365日厳重な管理体制の元に置かれていた。


「(そう、彼女は)」


彼女は彼女が彼女であるから、気高く、美しく、そして人を寄せ付け、注目され、丁重に扱われ、身の回りの何もかもを保障され、


監視され、
研究され、



そしてこの星で



「(この星で、たった独りだ)」


いつの間にか目の前に現れた横断歩道が、桜並木が此処で終わることを示す。
向かいの路上には彼女を迎えに来た黒塗りの高級車が、赤いハザードランプを点滅させ止まっていた。こちらが来たのを確認したのか車内からスーツ姿の男性が二人降りてきて軽く会釈したので俺も小さく返した。



また隣を見ると彼女は俺の知らない虚ろな瞳で、此処ではない何処かをじっと見つめていた。


彼女は今、どんなことを考えているのだろう。
何を見て何を感じ、誰を想っているのだろう。

手を繋いで一緒に歩いている筈なのにもう既に彼女は此処居ないようで、なんだか怖かった。



『…今日はもうさようなら、だから』



彼女そうぽつりと呟いて立ち止まる。
俺も立ち止まる。


桜だけが何も知らない顔をして、儚く散っていた。


『だからね』


桜は、どうしてピンク色なのだろうか。
それは、桜の木の下には死体が埋まっていて赤い血を吸うことで白い花びらを染めているから。



彼女のその美しい瞳で見つめられるのなら、それでも良いと今は思えた。


ねえ、俺はいっそのことお前になりたいよ。
誰かの終わりをその身に受け入れ、新しい美しさに変えてしまえるのなら。



『桜、しっかり見ておきたかったの』


そう言ってまた、何処か困ったような顔で熒惑に微笑んだ彼女の双眸に映っていたのは、麗しく舞う桜ではなく。



『忘れないように』



今にも泣き出しそうな顔でその中に立っているちっぽけで弱い。ただの。


ただの、
地球人だった

『------ナツ』


愛おしいその声に、
腫れぼったい瞼をそっと開く。


これは恐らく、昔の記憶。



『ナツ、ナツ』


小さく肩を揺すられ座ったまま振り向くと、幼き日の彼女が眉を顰め怪訝そうな顔で俺を見つめていた。

俺は寝起きの舌足らずな状態で、気だるげに答える。



「…なに」
『先生の話、聞いてた?』


彼女はほの白い肌にぽっかりと埋め込まれた双眸を、俺に向ける。
硝子玉のように輝く、清廉で純粋な彼女のその瞳が俺はその頃から好きだった。


そんな小恥ずかしい感情を誤魔化すように、俺はただただ彼女の瞳を見つめ返す。



『………。』
「………。」
『………いや、見つめ返すんじゃなくて』
「あ、ごめんつい」



呆れたように溜息をついてぷくりと頬を膨らませた彼女。



『ほら、ちゃんと先生の話を聞いて』



肩を掴まれ半ば強制的にぐるりと前を向くよう仕向けられる。たとえ幼くともその頃から彼女に柔く飼われていた俺は、ただ従順に彼女の言う通り前を向き椅子に座り直した。


日本も対象国に加盟、一斉調査、血液採取、DNA鑑定、近頃生活の中でよく耳にする単語が何となく鼓膜を通り過ぎていく。
とは言え端から聞く気など持ち合わせていない俺は、頬杖をついて視線をぼんやりと窓の外に移した。



空には雲一つ無い澄み切った青が、今日も穏やかに地球を覆っている。



『---ですので、本日はアメリア本部から教授をお招きしています』
「(あー…面倒くさ)」



何も知らない俺は、心の中でそんな一言を呟く。
真昼の空に浮かぶ月は、その蒼白な姿から彼女の陶器のように滑らかな肌を連想させた。



この時の俺は全く理解していなかった。


日常が、非日常に。
安寧は、絶望に。



あれだけうざったらしくだらだらと続いた無意味で変化のない、なんてことない日々があんな簡単に崩壊するなんて。
信じることも疑うこともせず、ただ流れる時を受け入れのうのうと生きていた。

それは気付いていなかっただけで始めからずっと存在していたのに。


そう

それは、突然目の前に現れた。




『どうもこんにちは、人間の皆様』



「、」

空気が、凍った。



教壇から教室中に響き渡ったその声は、先程まで話をしていた滑舌の鈍い担任の声でも、年老いた校長の嗄れ声でも、ましてや穏やかな彼女の声でもない。


誰だ。
この声は一体。


誰のものだ。



『私は、世界宇宙航空研究開発センター本部火星探査室から来ました』


言葉の抑揚も温度も感じられない、機械音のように冷たく不愛想な知らない声。

恐る恐る顔を上げると、無理矢理張り付けたような不気味な笑みを浮かべる女性と目が合った。



『日本も研究対象国として連盟に加盟したのは、当然知っていますね』


無機質なマネキンのようにスラリとした出で立ちで白衣を羽織ったその人は、冷酷な凍てついた漆黒の瞳で俺達``人間``を見下ろし。



そしてはっきりとこう言った。



『今から貴方達全員を検査します』


誰かが静かに息を呑む気配がして、俺はやっと事態の大きさを理解する。
いつの間にか、背後から感じる彼女の息遣いも消えていた。



人間は、地球が青く丸みを帯びた球体であること意外を知らない。
そもそも殆どの人間が、地球の青き姿を自分の瞳に映した事が無い。


だけど、それ以上に自分自身の事を知らなかった。



自分達が

何処からやって来たのか、
何者なのか。

その頃の大人達は何故だかやたらその答えを知りたがっていた。



疑問を感じる間も無く男女別で名を呼ばれ、順番に別室へ促される。
言われるがまま項垂れた顔で腕を差し出すクラスメイトは、全く知らない別人のような顔をしていた。



「(彼女も、居るのだろうか)」


今頃何処かの教室で彼等と同じように寂しそうな廃れた顔をして....



少しずつ、少しずつ、命を削るように注射器へ血が吸い込まれていく度、そんな彼女の悲愴感漂う横顔が脳裏にちらつき嫌に目眩がして、俺は片手で顔を覆った。こんな小さな針引き抜いて今すぐ彼女の元へ走り出して行きたい衝動を、閉じた瞼の裏で斑模様がちかちかと踏切ランプのように駄目だと警告していた。



教授と紹介されていた女性の言葉が、胸の奥底のひんやりとした場所へ静かに降り積もって沈殿し冷え固まっていた。

微笑を浮かべるその紅く端麗な唇から放たれた、慢心に満ち満ちた力強い言葉が。



「(何者でも構わないのに)」


『貴方は、地球人なのか』


「(俺は俺で、彼女は彼女で)」


『はたまた火星人なのか』


「(二人、今この地球で生きている)」


『私が、解明してみせるわ』


「(ただそれだけでいいのに)」


それ以上、何も必要ない筈なのに。


-------ー---ー
------ー



後日。
国から配られた検査結果用紙には、訳の分からない項目がずらりと並び基準も不明な数字が記載され、大半の人間が最後に短く。

【結果:地球人】

とだけ記されていた。


しかし彼女の元に届いた検査結果用紙には、ご丁寧に全ての数値が異常を示すかのように赤文字で印刷され、そして最後には。


【結果:火星人】


と万年筆で殴り書きされた文字が、黒々と浮かび上がっていた。


『ごめんね、ナツ………』



彼女がたった一言謝罪の言葉を口にしたのは、とっくに結末を見据えていたからなのだろうか。

二人きりになった教室で、窓の外に沈む夕日と死に行く今日を静かに見つめながら、そう呟いた彼女があの時どんな顔をしていたのか。


今となってはもう、誰にも分からない。

3

『なあ、なつー』
「煩い帰れ」
『え、おま、ちょっと待ていきなり目潰し!?』



せっかく呼ばれたので振り向きざまに間髪を容れず両目に指を突き立てると、焦りながらも俊敏な動きでさらりと攻撃を躱すハク。

チ、と最大級の舌打ちをプレゼントすると「わーこわーい」なんて言いながらへらへらと受け流された。俺はお前が怖い。


そういえばこいつは運動神経と絶望的な単細胞だけが取り柄だった、とぼんやり思い出し安堵したと同時に酷く落胆する。

目潰しも舌打ちも効果を成さない相手に、一体どう太刀打ちすればいいんだ。



『目潰しはんたーい』
「鬱陶しい」
『暴言はんたーい』
「病院の予約は明日でいいか」
『病院はんたーい』

「.....」


何なんだこいつは。


深い溜息をついて頭を抱える俺の様子など全く気にしない様子で、緩くパーマがかった自身の前髪をちょいちょいと触りながらハクは言った。


『にゃーん』
「日本語で言え」


そう言うと、ハクは悪戯をした無邪気な子供のようにニヤついた笑みを浮かべ。


『サボろうぜ』


とだけ言ったかと思えばポケットに軽く手を突っ込み何故か演歌を口遊みながら、ふらりと教室を出て行った。


「…………。」


相変わらず猫背なその後ろ姿は、飄々とした性格に似合わず何処か静寂としていて。

男にしては随分と華奢なものだった。



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『ナツ、五星って知ってるか?』


天体望遠鏡を覗くと、ハクはこんな風に突然話し始めるのが常だった。それは決まって突飛な話で。

俺は、ベッドにもたれかけて読んでいた天文雑誌から顔を上げる。



「ごせい?」
『そう。五惑星の中国での古い言い方なんだって』



どんな時も二人で遊ぶ場所は大抵俺の部屋。
そして昼夜構わずこの望遠鏡での天体観測。

これは、ハクと知り合った小学生の時から変わらない暗黙の了解。


気が付いた頃には此処で二人、宇宙を眺めるのが当たり前だった。



『水星は辰星、金星は太白星、木星は歳星、土星は鎮星.......』



五星を呪文のように唱えながらハクはピントを合わせていく。

お小遣いやらバイト代やらをお互いに持ち寄り購入した一台の天体望遠鏡は、ちっぽけで何も知らない俺達にどんな惑星でも捉えて見せてくれた。


『それから

--------火星の熒惑』


天体惑星に関する大量の書籍が無造作に散らばった、この部屋を満たす乾いた空気にハクの凛とした声が響く。
明らかに学校とは違う雰囲気を孕んだその清澄な声が、何となく彼女の瞳を彷彿とさせた。


『火星の赤色が人心を惑わす星。って意味で熒惑らしいぜ』
「何でそんな中国での呼び名なんて知ってんの」


ここには勿論、ハクの天才的な頭の悪さと絶望的な校内成績の事実を含む。

発言のニュアンスを汲んで、ハクがまたあの反対運動を勃発させるかと構えた。



が、
ハクは天体望遠鏡から顔を上げ。



『妹に教えてもらった』

と言って珍しく純朴にはにかんで見せ、また望遠鏡を覗き込んだ。



ピント調節に熱中しお得意の演歌を口遊む陽気な後ろ姿とは裏腹に、やはり身体は以前よりもずっと痩せ細っていて。

ハクが教室からわざわざ俺を誘い出した理由が何となく脳裏に浮かび、それはやがてゆらゆらと体中を魚の如く泳いだ。



俺は何も言わず黙って視線を雑誌に戻す。

今月もまた、酷く陳腐な内容の火星特集ページばかりだった。


「(そうか、妹に…)」

過去俺に彼女が居たように、ハクには妹が居た。


同じ人間として、同じ腹から産まれ、同じ地球に生き、同じ酸素を吸い、同じ小学校に通い、同じ日に同じ検査を受け、そして妹はケイと同じ、周りとは違う結果を告げられた。



名前は既に持っていて。
1つで充分なのに、充分だったのに。


熒惑の人間、という新たな名前を乱暴に投げ付けられ持て余し元の名前を捨てざるを得なかったか弱い命。

それは確かに壮大な宇宙から見れば、システムの中の一部分でしかない小さな小さな存在だろう。


しかしそれはハクにとって海より空より星より宇宙より火星より、遥かに大きな命とたった一つの存在だった。



『お、見えた』



ハクの妹は人間の中でも極めて稀な火星遺伝子を体内に宿しているらしく、厳しい管理体制の元外泊は愚か面会すら滅多に許されない生活を強いられてきた。

それはケイと殆ど同じか、時にはそれ以上のことも。


「(なのにどうして、)」


名を奪われ存在を失い、もう容易に見ることも触れることも出来ない。
溢れ出す後ろ向きの感情はこの広い地球を彷徨って、いつしか帰り場所すら分からなくなっていった。


「(ハクはこんなにも)」


日が暮れて、抜け出した高校のチャイム音が遠くから流れて来た。
下校中の学生達の笑い声。ほのかな晩御飯の香り。宵の明星。月。夜。自転する地球。365。24。

嗚呼、今日が終わる。



“彼女達”の居ない今日が。



「(ボロボロなままで)」


『ほら、ナツも見てみろよ』


「(笑っていられるのだろう)」



ハク、俺はあの日からお前も居なくなってしまったような気がしているよ。



『綺麗な火星が見えるから』



もういいだろう。
お願いだから帰ってきてくれ。

『次の方、どうぞ』


壁を隔てて聞こえてきたくぐもった声に促され扉を開けると、湿った空気と混ざり合う病院独特のツンとした薬品の香りが鼻腔に流れ込んでくる。
入室したと同時に本人確認を済まし、さっさとチェック欄に印を入れると、看護師らしき女性はそそくさと何処かへ行ってしまった。


仕方なしにポツンと置かれた丸椅子に腰を掛け、何となく辺りを見渡すとだんだんと此処での思い出がぼんやりと脳裏に蘇ってきた。どうにもこの世には、思い出さないだけで忘れてしまった訳ではない事ばかりだ。


「(久しぶりだな…しばらく来てなかったから)」


一人きりになった途端都会の喧騒から切り離された静寂が、狭く小さな診察室を支配する。


窓硝子から差し込んだ室内を照らす柔らかい日差しは執拗に眠気を誘い、俺は一つだけ欠伸をした。
彼女は今頃、何をしているだろう。



『前回の予約をすっぽかしておいて、随分と呑気なものだ』



何処からかそんな声が聞こえ、くすくすと笑いながら先生が診察に入って来た。


悠長に珈琲を飲みながらゆったりと深く椅子に座り込んだ先生は、ごつごつとした硬い指先でカルテをぺらぺらと捲り、サイズのまるで合っていない不格好な眼鏡を掛け直した。相変わらず医者なのに何故か白衣が似合っていない。



「その日は…」

ほんの数秒ありとあらゆる彼女への影響を考えたが、先生に隠していてもどうせ見透かされるので素直に言うことにした。



「急遽ケイの外出許可が1日だけ下りたんです」
『何度申請しても却下されたと言っていたあれか』
「もう駄目かと思いましたが、何とか今年も桜を見せてあげられました」

そう言うと先生は伸びっぱなしの髭を片手で触りながらにやりと笑って。



『そうか。俺はケイちゃんに負けたか』

と揶揄うように言った。



先生は俺の担当医。

詳しいことは知らないが、知り合いや家族など親しい間柄の人間が施設に送られることで生じる精神的なストレスを緩和する為、政府が秘密裏に派遣している国家公務員で、優秀な精神科医だという話はいつか聞いたことがある。が、それもあくまで噂程度のもので実際どうなのかは多少疑問が残る人だった。と言うのも先生は。


『なんだじっと見つめて。お前も飲むか?』
「いえ、大丈夫です(ブラック飲めねえし)」
『そうか、お子様にブラックは早いか』
「…………。」
『ハハハ、お前さんは分かり易いな』


先生は先生というよりも、近所のお喋りなおじさんと言う方がしっくりくる人だ。


派遣先の病院に行っても御構い無しに昼寝をし院長に叱られ、空き時間には待合室のお婆ちゃん達と茶会を開催し看護師に叱られ、診察よりも大事な話だとか言って貯まり切ったポイントカードの自慢を雄弁に語り始める。夏には釣堀に付き合わされ、冬には蜜柑を箱買いするからと荷物持ちに付き合わされる。


呆れるだろう。普通は。
現に此処の看護師達は、先生の自由過ぎる行動にもはや何も口出ししない。又それが暗黙のルールになっているように見えた。しかし先生は周りから押し付けられた評価など全く気にしない人だった。先生の自由さと、自由を自由にできる強さは、俺には羨ましく尊敬に値した。



『ナツ、火星とは何だ』
「え」



あまりに唐突で一瞬戸惑ったが、先生からのこうした問い掛けはよくあることなので、丁寧に答えた。
試すように俺を覗き込む先生のくすんだ瞳は、彼女のそれとは違っていた。



「太陽系惑星の一つです」
『では惑星とは何だ』

「恒星の周りを公転する天体です」
『では恒星とは何だ』

「自ら光輝く天体です」
『では衛星とは何だ』

「惑星の周りを公転する天体です」
『惑星、恒星、衛星…』



そんな如何にも掴みどころのない先生でも、長い付き合いの中で俺が知り得たことはいくつかあった。
先生にはシンという名前の息子がいる。俺と同じ歳の息子が。



『この三つのどれかに自分を当て嵌めるとして、』
『果たしてお前はどれだ?』



シン君の姿は写真でしか見たことはない。その写真も幼い頃のもので現在の姿は知らない。
シン君は偶然にも俺と同じ年に地球人として生まれ、地球人として地球に住んでいた。



検査結果でも、シン君が地球人であることは明白であり歴然たる事実だった。



「俺は…」


検査では、最新の医療技術を駆使し厳しい身体検査が行われた。
その為、図らずも通常の健康診断等では発見出来なかった病が新たに見つかる事も、少なくなかったのだ。


シン君は検査後、病が発覚し施設に閉じ込められ二度とその場から逃げられない身体になった。
病院と言う名の、隔離施設。治療という名の、闘病生活。



シン君には彼女のような僅かな外泊すら存在しない。それはシン君にとって死に直結する行為だから。

プライバシーを完全無視した徹底的な管理体制の元にある、彼女とシン君。
研究という体で他人に探られ暴かれる彼女の体と、治癒という体であらゆる管を繋がれ機器の力で生かされている彼の体、どちらがより自由なのだろう。どれ程頭を抱え悩み尽くしても、俺には分からなかった。そんなこと分かりたくもなかった。



「(先生はもしかすると)」

自由になれないシン君の分まで、わざと自由に生きているように振舞っているのかもしれない。



「俺は多分、惑星です」

『どうしてそう思う』



不治の病に侵された幼き日のシン君が、病室の窓から静かに独り夜空を眺める姿を収めた一枚の写真。それを見つめる先生の横顔には、子供が去り残った枯れ葉だけが木枯らしに吹かれる秋の公園のような、俺の全く知らない寂しさが浮かんでいた。



「惑星の惑は音読み、訓読みでは惑うと読みます。つまり惑星とは、広い宇宙で道を見失い狼狽えふらふらと彷徨っている星」


シン君は今どうなっているのだろう。
それを知っているのは、先生だけだ。


あの日から

俺は〈地球人〉
彼女は〈火星人〉

そしてシン君を----ー



「そして何より惑星は、」



シン君を〈病人〉と世界は呼んだ。


「自ら輝くことのできない星だからです」



-----------ー
-----

『そうか…よく分かったよ』

そう言ってほんの少しだけ何処か寂しそうに微笑んだ先生は、何も言わずに俺のカルテへ判を押し診察を終わらせた。

「ケイ」
『っ』


コンクリートに反響してくぐもった俺の声に反応した彼女は、ハッとしたように見開いた目をこちらに向けた。



此処は面会室。
灰色の壁に囲まれた閉塞的な世界の中で唯一、彼女の瞳だけが射し込んだ僅かな光を吸収し、宝石のようにキラキラと輝いている。


その煌めく瞳に誘われて、俺は二人の間を隔てる摺り硝子へそっと指先を這わせた。

嗚呼、この透明がいっそ水だったのなら俺は喜んでその水底へ手を伸ばすのに。彼女に届くよう、もっともっと。



『どうしたの?』

硝子越しに彼女がふわりと微笑む。


それだけで、心中に巣食う憎悪も悲しみもどうしようもない虚無感も、それらを探し駆けた夜も、全てが吹き飛んでどうでもよくなった。



『...ナツ?』



その名呼んでおきながら、思考が堂々巡りしてしまい中々言葉を見つけられないでいた俺を察したケイは、節の目立つ華奢なその指先を俺の指先と重ね、より一層穏やかな声で。



『話して』

と言った。



「…昨日ハクと久々話をして」
『ハク君、元気?』

言葉にせず小さく首を横に振ると、彼女は表情を曇らせた。


「近頃学校にも来てないらしい」
『…え…どうして…』
『多分、妹のことだと思うけど聞いても答えてくれないんだ』

『あっちーアイス食いてー』
「ハク、遅れてんだから早く歩けって」
『何で今から灼熱の体育館で終業式なんだよ…』
「点呼始まるから早く自分のクラス行け」
『ほーい』


衣替えされた真っ白いシャツを着たハクは襟元をわざとらしくパタパタさせ、欠伸をしながら退屈そうに自分のクラスの列へ歩いて行った。なんで遅刻しているのにあの態度ができるんだあいつは。


生ぬるく固い体育館の床に膝を抱えて座り込み、行儀よく敷き詰められたとんでもない数の人間を、教師達が目を細めて数えていく。


ハクと一緒に遅刻した俺もしれっとクラス列の最後尾へ合流し、何食わぬ顔でその一員に加わった。どうやら遅刻はバレていないようだ。


〈えーそれでは、只今より終業式を始めます〉


明日には忘れてしまいそうな予定通りのつまらない終業式が行われていく中、俺は主に彼女のことを考えたり、窓の外に見える入道雲を観察したり、天井に張られた金網に挟まっているバレーボールを数えたりしていた。



「(嗚呼、あそこに挟まっているバレーボールは...)」

確かハクが体育のバレーボールで放った、特大レシーブだ。



嗄れた校長の声と喧しい蝉の声は上手い具合にハーモニーを奏でその場に鳴り響き、頭上には真っ黒い遮光カーテンが夏風に揺れていた。



「(多分、此処には地球人しか居ない)」

それも地球人の中でもまだまだマシな人間。



綺麗な制服を着て、自宅から平然と通学し、教養を学び、憂鬱な部分はあるけれど明日からの夏休みが多少は嬉しく思える。又それらを当たり前に感じ取れる。

俺もそうだ。だって、俺も彼らと同じように。
こうして此処に今座っているんだから。


彼女とは違う。
それは少なからず俺自身も例外ではなかった。



〈この後は夏休み前恒例の検査があります〉
〈年齢性別関係なく、年に二回検査を受けることは地球人の義務です〉



彼女が施設に行ってからも、相変わらず検査は定期的に行われていた。


一度や二度の検査では地球人だと判定を受けていた者でも、何度か繰り返し検査することで巧妙に組み込まれていた遺伝子が、実は火星人のものだったと判明する場合もあるらしい。

実際高校に入って既に4人が新たに火星人遺伝子を持つ者として、施設行になった。



〈呼ばれたクラスから男女別に、移動を開始して下さい〉



どうやら終業式は終わったようで、皆立ち上がってゾロゾロと検査室へ移動していく。

ふとハクのクラスに目を向けると、順番が早かったのか既に体育館には居なかった。



もう、項垂れる者も異議を唱える者もいつの間にかこの世界には居なくなった。隠していてもいつかバレるし、反抗しても何かが劇的に変わる訳でもない。
火星人が存在していることが公になった以上、共存していく道を探っていくしかない事に、皆気付き始めていた。


ならいっそのこと知らないふりして流れのままに、気の済むまでこのくだらない探偵ごっこに付き合ってやればいい。なるようになるだろう。

とどのつまり、自分が何者かなんて自分さえ知っていれば、あとは誰にどう言われようが構わないのだから。



「(あるいは、所詮俺達はその程度の命なのか....)」


直に自分のクラスが呼ばれ、周りのクラスメイトが移動を始めたので俺も後を追うようにゆっくりと立ち上がる。

昨夜のテレビ番組の内容で盛り上がりながらだらだらと目の前を歩くクラスメイトの腕をふと見ると、治りかけていた筈の注射痕から微かに赤い血が滲んでいた。
前回の検査で付いたそれは、消える気配が無い。治る前にまた次の検査が始まる。いつまで経っても同じことを繰り返していた。きっとみんなそうだろう。


しかしその小さな赤こそが、自分達を地球たらしめる確かな証拠だった。



火星人遺伝子特有の強力な治癒再生能力があれば、こんな痕が残ることはありえない。
そもそも彼女の血はこんな色じゃない。


その違いを、世界は許してはくれなかった。



「(ただ、針を刺した痕が小さく残っているだけなのに)」

地球人である烙印を押されているように、俺の目には写った。



視界がゆらり、夏と共に歪む。
座りっぱなしで痺れて真っ直ぐ歩けない脚がもどかしく、首筋を流れる汗は煩わしい。


夏休みだろうが何も変わらない。
勉強をしてバイトへ行き、彼女に会いに行く。ただそれだけだ。


嗚呼、

「(...彼女に会いたい)」


検査が終わり渡り廊下を一人歩いているとずっとずっと遠くの方で蝉が鳴いていた、するとカノンのように隣の蝉、また隣の蝉と声が重なり合ってやがて体中を包み込んでいく。

空には入道雲がぐんぐん伸びていて、まるで地球を覗き込んでいるようだった。


「地球って、本当は何色に見えるんだろう...」



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『申し訳ありませんが、面会申請された被検体は只今面会出来ません』

「また、ですか」

『検査の為しばらくは面会禁止です』

「......」



結局その夏、彼女と会えたのはたった一度きりだった。

『ナツが教えてくれたよね。ケイは螢惑のケイだ、って』


空には鴎が飛んでいて、海には魚が泳いでいた。

遠くからやって来た太陽の光を透かして、水面がきらきらと眩しく揺れている。


真夏の灼熱にも負けず自分の行くべき場所に向かって進み続ける生き物達全ての美しさを包み込んだ海の青も空の青も、水平線でいつしか一つの青になって俺とケイの前に迫っていた。


こうしてここに立っていると、ありあまるほど海が溢れているように見えるのに。
どうしてか海は、地球にしかないらしい。



「(本当に俺はこの水から生まれたのだろうか)」

形も境界線もない、ただ丸い球体を覆うこの青い存在から。


でもこの体に流れる遺伝子は確かに地球人のものだった。



穏やかな空間の中で、白く綺麗な彼女の横顔を静かに眺める。
彼女の髪と絡まり混ざり合いながら流れていく海風が、俺の心の隙間に吹き込んで鼓動を急かした。



『俺のナツは、季節の夏?』
「ううん違う。ナツは、日夏星のナツ」
『日夏星…』



もしも、
海が地球人を産んだというのなら。
彼女を産んだのは何処なのだろう。


「貴方をナツと名付けたのは、私のエゴだったのかもしれないね…」


伏目がちに囁くような声で彼女がそう言ったような気がしたけど、波の音に紛れてしまって聞き取れなかった。


目元に影を落とし少し俯き加減に佇む彼女の白い肌が、波打ち際に敷かれた砂浜のようにサラサラと風に攫われていく。
そのまま溶けて消えていきそうな彼女に、俺はもう抵抗もせず同じように夏に身を任せていた。

彼女の隣でならそれも良いと思えた。



「だって、あなたに火星の名前をつけるのは…」

彼女はそこまで口にして後は何も言わなかった。ただ、じっと海を見つめていた。


彼女の本当の名前はケイなんかじゃない。
俺が彼女に付けた名前がケイだっただけ。



俺達は、名前も感情も思い出も全部お互いがお互いから貰ったものばかりで出来ていた。


ケイには名前が無かったから、俺があげた。
俺には感情が無かったから、ケイがくれた。
二人には思い出がなかったから、二人で少しずつ積み重ねてきた。


そうやって俺もケイもこの惑星で生きていた。
その事実があれば後の内訳はどうでもいいことだった。


彼女の薄桃色の唇から小鳥のように清らかな声で呼ばれるなら、名前なんてなんでもよかったのかもしれない。



『俺はナツって名前、好きだよ』

「どうして」

『ケイと同じだから』



螢惑も、日夏星も、呼び方が違うだけで見つめた惑星は同じ。
だけど名前を同じにしようと、この境界線は飛び越えられなかった。彼女はそれをエゴと言ったのだろう。本当は聞こえていたし分かっていた。


だから飛び越えなくても一緒に居られる方法を、この地球でずっと探し続けていた。



「(でも、もう…)」


『みんな、画面を見てるね…』
「え?」
『まるで、私もナツも見えていないみたい。透明人間になったみたい』


そう言って彼女は、寂しそうに小さく笑ってアイスコーヒーを一口だけ飲んだ。
店内を見渡すとパソコン画面と見つめ合いながらタイピングする客、イヤホンを付けたまま携帯画面に話し掛け通話中の客、無表情で指先を器用に動かしゲーム画面を操作する客……相手の顔を瞳に映しながら話をしているのは、もう彼女と俺しかこの場には残っていなかった。


俺はそのことに、彼女に言われて今初めて気が付いた。



「(誰が傍に居て誰のことを見つめ何を思っているかだなんて、)」

まるでどうでもいい世界のようだ。


自分さえ自分を見失わずに理解していれば、何をされ何を言われても大概は許せてしまえるようになったのはいつからだろう。
許してしまった方が楽だと気付いたのはどの瞬間だろう。

世界に振り回され混ぜこぜにされ一括りに呼ばれることに違和感を覚えなくなった俺達の名前は、間違いなく地球人だった。


きっと大丈夫。
そう思い込む事で自分一人の心を守り、いつの間にかこの惑星は無自覚に崩壊していった。



『隣に居る一人の表情よりも、何処に居るかも分からない多数の意見が気になってしまう』

自ら選んでそうなった筈なのに、いつまで経っても、この胸は空虚のまま。



『なら、なんの為に』
『私達一緒に居るのかな』


彼女の少し憂いを含んだ声の振動に空気が震え、グラスの中の氷がカラン、と音を立てて溶けた。

どうしてそんな簡単に消えることが出来る?
消えた訳じゃない。液体になって蒸発して元の場所へ帰るだけ。


「…目に見えない大勢に拡散する為だけに、わざと誰かと一緒に居る人も居る」


彼女が施設に行ってしまった頃はそんな人間存在しなかった。
いつの間に地球はこうなってしまったんだろう。


彼女も同じ時間だけこの地球で生きて来た筈なのに、この惑星を縦横無尽に歩く人々との狭間に硬く広い壁が出来てしまっているように感じた。

なら行かなけばいい、壁の向こう側に俺だけは行かないよう努めればいい。



『…狡いね』
「、」

『私は誰に伝えるつもりもない。ただ、ナツの傍に居たいだけなのに…それすら叶わない』


彼女がグラスの底に氷が溶けて残った僅かな水を、静かに飲み干した。
俺はその様を、黙って見つめていた。


『狡いよね、そんなの』


彼女は俺の心に言い聞かせるようにそう繰り返す。
俺は彼女に届くように心の中で何度も繰り返した。

今わざわざ二人でこの場所に来て、此処に向かい合って座り話をしている意味を、俺だけは知っていたかった。


「(俺にはちゃんと見えているよ、ケイ)」
「(携帯画面の中ではない、目の前で生きているケイがこの瞳に映ってる)」

「(透明人間になって誰からも見えなくなったとしても、結局それが俺の全てだ)」



『ナツ、ちゃんと私を見つめて。そして忘れないでね』

彼女の瞳の色は、他の誰とも違う。


『私は画面の中でもなく、
面会室の硝子の向こうでもなく』


今、此処に。


『あなたの隣に居ることを』

未定


「一体何を基準にイレギュラーと言うのですか。多くの人かにとっては異質でも、当人にとっては生まれた時から持っている当たり前なのに」

『それはつまり、火星人からしてみれば地球人こそがイレギュラーだと言いたいのかしら』

「違いばかりに目くじらを立てていても、何も変わりません」

『違いを見出しその理由を考える。そうやって人間は進化してきた。何故違うか、どう違うのか、考え続ける。違いを考えることは未来を考えるということよ』

「………公表するしない、どちらにせよ地球上に住む全人類のDNA調査結果は出ました。あとは薬を完成させて、それで全て終わりにしてください」

『笑わせないで頂戴。火星人DNAがには我々の想像を遥かに超えた未知なる可能性が数多眠っていることを、この研究で確信した。こんな所で終わらせる訳がないでしょう』

「なら尚更、被検体は私一人で充分です。早く皆を解放して家に帰してあげて下さい」

『随分な自信ね。あなたには及ばずとも、彼等の体内には間違いなく火星人の血が流れている。研究所で収容し被検体として研究プログラムに参加している者達は、世界中から集めた特に濃く火星人遺伝子を引き継いでいる優秀な被検体ばかりよ。そう簡単に手放すことなんて出来ない』


「けれど、」


「結局``青き血``は流れていない」

『…っ』

「初めに言ったはずです。``青き血``を持つ者は、もう私一人しか残っていないと」



「過去、故郷である火星を捨て命からがら地球に辿り着いた火星人は、見知らぬ土地で不安に襲われながらも息を潜め必死に生きようとした…」

『その段階で既に地球へ渡った人数は極めて少数であり、地球人と結ばれて子を成すことで血を繋いだと推測される。その過程で、青き血も薄れ治癒能力も衰えてしまったのでしょう。馬鹿ね、生き残る為とは言え宝を自ら手放すなんて』

「地球人として地球で生きて行こうとした彼等の気持ちが何故分からないのですか。貴女が被検体と呼ぶ人々は皆、その意思を受け継ぐ者…地球人の血を流し地球人の心を持つ、立派な地球人です」

『では、このまま火星人は滅びる運命にあると?』

「地球で生きていくことを決心した時点で、火星人なんてとっくに滅びています」

『…そもそも火星人なんて始めから居ない、と言うのね』

「…ええ、…だって生き残った人々も結局は皆、今はこの惑星の水と空気に生かされているんですから……」

『…………。』


『……心さえあれば、』

「…え?」

『心さえあれば、我々は皆地球に住まう地球人。か……』

「…。」



『(教授、もっと早く知っていれば)』
『(私は何か変わったでしょうか)』

『(我々は何者でもない、ただの、心を持った人間だと)』



「もう一度言いますからよく聞いてください。所詮彼等を調べた所で得られる結果は見え透いています。何故なら、」


「貴方たちの言う``火星人``はもう、」
「私しか残っていないのだから」

未定

『帰りたいな……』



白い息を吐き出しながら、消え入りそうな細く絞まった声で彼女は呟いた。

たった5文字で済まされてしまったその小さな願いは、冬の澄んだ空気へゆるやかに溶け込みやがてまた酸素と共に鼻から入ると、肺に流れ蓄積され再びゆらゆらとこの体内を循環した。

そうして少しずつ薄く透けて見えるようになった脊髄が、凝り固まった肩甲骨を痛める。


丘の上から見えた、降り積もる雪に覆われる街は随分とひっそりしていて。

何だか知らない場所のようだった。


『私、知っていたの』



すぐ隣に立っている彼女の顔が見えなくて、見たくなくて。

無情にも俺は、ただ真っ直ぐに街を見つめ冬の中に立ち竦んでいた。
ただそうすることしか出来なかった。もうこれ以上何も失いたくなくて。


粉雪混じりの冬風が撫でていく彼女の柔らかな髪は、水分で翳む視界の端で静かに揺れていた。



此処が世界の終わり。
そんな予感がしていた。


『私、初めから知っていたの』

『自分が火星人だってこと』



誰が決めたのだろう。
何を決めたのだろう。

俺は誰で彼女は誰なのか。


その果てしない問の答えを誰かが知ろうと必死に手を伸ばした。
それは、純粋無垢な探求心だったのかもしれない。

皆がその手を引き先導し続けた。
それは、旺盛な好奇心だったのかもしれない。


だけどその先には何があっただろう。



寒い、寒い。
朝霧に包まれた深い森奥の湖。その水面に薄く張られた氷の上をそうっとそうっと歩くような不安定。

割れないよう、壊れないよう、滑らないよう、溺れないようにしながら見えない向こう岸へ歩き続ける綱渡りのような生活を、あの日からずっと続けてきた。


そうして辿り着いた終着点。
それは冷え切った静寂に包まれただそこに佇むだけの、誰も居なくなったこの街だった。



「(その先には、何もなかったんだ)」


分かっていた。

そう、この世界は始めから。



『あの日検査が行われるずっと前から、私は自分が火星人だと知っていた……』
「…………」



彼女はとっくに知っていた。自分が何者であるかを。
そして俺は彼女が知っていたことを、知っていた。

知っていたから。知りたくなかった。

知らないフリをしていた。



『ナツも、知ってたよね…』
「うん……」



幼い頃、彼女が転んで膝に傷を負ったことがあった。俺が慌てて駆け寄ると彼女の膝からは青の液体がじわじわと溢れ出していて………
二人は、何も言わずに黙って絆創膏を傷に被せた。まるでその青を隠すように。丁寧に。



「(誰にも、言える筈がない)」


そんなこと出来る訳なかった。
例え他人になったとしても、嫌われたとしても、芝居でも、虚偽でも、敵でも味方でも、足りなくても、零れ落ちても、泣いても、孤独でも。



「(何を犠牲にしても…俺は…)」



そうして必死に守り続けてきた秘密もやがて暴かれ白日の下に晒され、遂に彼女は彼等の元へ連れ去られてしまった。


二人だけの記憶と秘密。
彼女は、始めから地球人ではなかったという真実。



何が間違っていたのだろうか。


間違っていたとしたら、
それは何処から間違っていて何を間違えたのだろう。
間違っていなかったとしたら、
それは何処が間違っていなかったと言えるのだろう。



『帰りたいって...私、馬鹿だよね』


何となく、隣で彼女がそんなことを言った気がした。
俺は聞き返すこともせず、引きちぎられるような耳の痛みにただじっと耐えていた。



『一体、何処へ帰ると言うの』


刹那、冷たく厳しい真冬の風が濡れた頬に吹き付ける。彼女は時々こうして、まるで風を操るようだった。



『この地球上に私の帰る場所なんて存在しない』


地球人でも、そんなものは存在しない。
だから皆長い間帰る場所を求め彷徨って、彷徨って、彷徨い続ける。

そうして彷徨い疲れ途方に暮れた頃、今立っている場所こそがずっと居場所だったことにぼんやりと気が付くのだ。



『そもそも、此処は始めから私の星ではなかった』


そうだ。此処は火星ではない。
どう考えても地球でしかない。

だから彼女は独りだった。

俺が隣に居ようとも。施設で背中を丸め一人蹲って居ようとも。何処にも繋がらない独りとして、いつまでも。



『だって私は、』



始めから、この青い惑星で独りぼっちの。



『火星人だから』

未定

『ナツ』

不意に彼女が俺の名を呼んだ。


綺麗に、
丁寧に、
穏やかに、

そして誰よりも優しく。


思えばこれが彼女の最後の言葉だった。
振り向くと彼女は困ったように笑っていた。

その美しく靡く髪を耳に掛け、最後に二粒残った雫のような曇りのない双眸を揺らして。



『大好きよ、ナツ』


嗚呼、
どうして今更そんなこと...



『私は貴方が例え何処の惑星に居たとしても、』


例えばそれは地球人でも。
例えばそれは火星人でも。

例えば、
例えばそれは、現状俺達が知りうる生命体の姿ではなかったとしても。



『同じように、貴方を愛せる私であり続けるわ』



午後の微睡みは何故、あんなにも心地良いのだろう。
永遠に二人、そうして居たかった。他には何も望まなかった。


誰でも良かった訳じゃない。
何でも良かった訳じゃない。


でも俺の望んだものは、彼女が彼女である限りこの地球上で叶うことは決してなかった。


『だからね』



まるで俺を窘めるように頬を撫でる、氷のように冷たい彼女の指先が酷く気持ち良くて、そっと目を閉じる。
自らの姿を自ら見ることのできない俺達の視覚情報が、何て無様なものなのかを思い知った。


嗚呼、今すぐでにも行かないで行かないで行かないで消えないで叫びたい、叫び散らして誰にも見つからない場所へ彼女を連れ去ってしまいたい。
だって今の彼女の心が、俺には痛い程分かってしまうから。



きっと、彼女に最後の台詞を言わせてしまったのは研究所じゃない。
ましてや運命でもない。出生の違いでも惑星の違いでもない。



それは、間違いなく。



「(きっと、俺だ)」



『だからね』


彼女が手を止める。
俺は静かに瞼を開ける。

雪だけが全てを受け入れ、切なく舞っていた。


雪は、どうして白いのだろうか。
それは、ありとあらゆる光を乱反射した末に待っている色が白だから。


彼女のその美しい姿を、包み込んでしまえるならそれでも良いと今は思えた。


ねえ、もしかすると俺とお前は似ているのかもしれないね。
全ての色を反射してみても結局誰の色にもなれなかった、俺とお前は。



『私達は此処で』


そう言ってまた、何処か困ったように熒惑に微笑んだ彼女の双眸に映っていたのは、踊るように舞う雪ではなく。



『サヨウナラ、だよ』



零れ出した心が頬を伝う顔で、その中に立っている。
ちっぽけで弱い。ただの。ただの。


ただの、
火星人に恋した地球人だった。




何よりも切ないこの状況で、その景色を彼女を綺麗だと思えた俺は薄情だろうか。
だんだんと視界が滲んで見えなくなっていく中、そんなことを考えていた。



雪の降る夜、彼女はそうしてこの惑星から姿を消した。



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翌日。
新薬の開発成功に伴い火星研究に一旦の終止符が打たれることが全世界に発表された。


〈研究協力者として施設へ監禁状態にあった被検体も、徐々に解放されるようです〉

独房のような暗く湿った何もないこの部屋に、アナウンサーの無機質な声が響き渡る。



最初から問うてなかったのだ。
自分達が、何者なのかなど。



もしかすると、最初は純粋な疑問だったのかもしれない。
研究を進めるうちに、少しずつ少しずつレールに歪みが生じ戻れなくなっていったのかもしれない。



だけど結果として、あれ程までに人類が熱を捧げた火星研究は、不治の病に犯された仲間を救う為の新薬開発研究の一部に過ぎなかった。


〈この新薬を服用すれば不治の病と呼ばれていた病気も、たった一錠で完璧な治癒が可能です〉
〈これにより、現在全世界でこの病に苦しんでいる約〇〇万人の人々の命が救われることになります〉


勿論その病名には聞き覚えがあった。それは出会った当初から、先生の息子さんの身体と先生の精神を蝕んでいた死の呪いという名の難病。
これで先生とその家族は病から解放される。ハクの妹も時間が経てばいずれ施設から解放され無事還るだろう。



「(でも)」

「(彼女はもう)」




彼女だけはもう。
地球に帰ることはない。

熒惑の少女

熒惑の少女

「私、火星人なの」 そう呟いては熒惑に彼女は微笑んだ--ー

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-08

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  1. 序章
  2. 3
  3. 未定
  4. 未定
  5. 未定