よわむし

よわむし

 平太が柳橋の船宿「舟久」の勝手口から、岡持を片手に下げて表へまわり、女将に声をかけて帰ろうとしたところ、中から「平坊、おい、坊主」と声をかける者があった。
 あの声は伯父の歳三のものだった。
 まだ幾軒も配達が残っているのだ。平太は額や首筋からじっとりと汗が吹き出てくるのを感じながら、どうしようかと迷った。七月の暑い昼下がりで、往来では頭がくらくらするような陽射しが照りつけていた。
「平太さん、お寄りなさいな」
 と、入り口の戸を開けて取っ付きの部屋に座って話しこんでいた女将のおしなも振り向いて、そう声をかけてきた。
「……でも、わたしはまだ他へもまわらなければなりませんので」
 そう言ってから「じゃあ、これで」とぐずぐずした口調で言って帰ろうとすると、部屋の中から「わたしなんていうから誰かと思うじゃねえか」と言いながらまさしく伯父の歳三が立ってきて姿を現し、「……お、しばらく見ないうちにずいぶんとでかくなったな」と言った。
「ほんとだぜ。平坊、おまえ、ずいぶんと様子が良くなったな。見違えたぜ」
「……あの、ほんとにまだこれからまわる所が」
「いいじゃないの、平太さん。歳三さんもこう言ってるんだから。すこしお上がんなさいな。ちょうどさっきそこを通りかかった水売りから買った白玉があるから、あんたも食べておいきな」
 おしなからも続けてそう言われ、やむを得ず平太は舟久の畳の上へ上がり込むことになった。
 先程から表の間の方から男と女の話し声が聞こえていて、後から若い娘の「きゃっきゃっ」という笑い声が加わってきたので、平太は暑くて上気した顔がさらにのぼせあがるのを感じて、届け物の料理を渡して帳面に受け取りの署名をもらったら、早々に帰ろうと思っていたのだ。しかしまさかそこにいたのが伯父の歳三だとは思わなかった。
 平太は歳三が好きではなかった。目尻の下がった、やや頬の赤い顔も嫌いだったし、笑うときに「へっへっ」という声で笑うのも下品な感じがして嫌だった。
 歳三は亡くなった平太の父親の実の兄だったが、家を継ぐことは許されず、代わりに平太の父が家を継いだのであるが、そう決まってからも職を転々とし、家族うちからも「冷や飯食い」と揶揄されていたのを平太も知っていた。
 上がってみると、やはり歳三が商売道具を広げており、女将だけでなく若い娘が二人、歳三が持ってきた小間物類──櫛や簪、紅や白粉などを手に取ってはしゃぎ声を上げている最中だった。
 船宿は男女の別なく遊客がよく訪れる場所であるため、女物の小間物を担いで声をかけると、意外と小商いができた。歳三は大きな商売は苦手だったが、こまめに様々な場所を回って顔をつなぐことで生計を立てているようだった。
 二人の娘は、平太が頭から被り物の手拭いを取って部屋に入ると一瞬彼の顔をじっと見つめ、それから二人で顔を見合わせてくすくすと笑った。二人とも平太の知らない顔でこぎれいな身なりをしており、歳のころは平太よりも一、二歳年上に見えた。
 平太は彼女らから見たおのれの姿を想像してみた──お仕着せの粗末な物を着て、前髪姿で、首からは帳面を、帯からは矢立てをぶら下げている──誰から見ても商家の丁稚姿だ。平太は背中に冷や汗をかき、頭のてっぺんから首元まで赤面するのを感じた。
 娘の一人が歳三になにか尋ね、歳三は娘に答えていた。
「そうだよ、こっちの白粉のほうがちょっと値は張るがね、でも確実にべっぴんに見えること間違いなしだ。おっと、もっともお安ちゃんならなんにもつけなくったって、充分にべっぴんだがね」
 すでにお互い顔なじみなのであろう、そう言って歳三は目尻を下げて「へっへっへっ」と笑ってみせた。
「平太さん、この暑いなかをご苦労さんだったね」
 そう言っておしなが、砂糖を溶かした冷たい水に白玉を入れたものを出してくれたけれども、平太は二人の娘たちの前でそれをどんな顔をして食べたらよいのか分からず、部屋の隅のほうでかしこまったなりで座り込んだ。
「お安ちゃん、この小僧さんはなかなか男前だろう。なんたってわたしの甥っ子だからね」
 歳三がそう言うと、お安と呼ばれた娘は平太の顔をしばしじっと見つめ、「おじさんの甥っ子って、ほんとう」と言い、平太が肩をすくめてうつむくと、「やあねえ、担いだらだめよ、おじさん」と言って、華やいだ笑い声を上げた。
 そう言われても歳三はにやにやと笑うだけで、おしなは微笑みながらそんな歳三にうちわを使ってやっていたが、すぐに「あら、ほんとうの話よ」と言った。
 平太は消え入るような気持ちでいた。このにやけ顔のぐうたら男の親族であること自体が不愉快だし、ましてそれを同じ年格好の娘たちの前で明かされるというのは何にもまして恥ずかしいことのように思えた。
「平太さん、あんた近頃ますますおとっつぁんに似てきたわ。あんたのおとっつぁんは、そりゃもうもてて大変だったのよ」
 おしながそう言うと、「ほんとだぜ、平坊。おれに似てるだけじゃなくって、色男だった親父に似てるってんだから、悪い気もしねえだろ」と歳三も相槌をうった。
 平太がおそるおそるお安と呼ばれた娘のほうをちらと盗み見ると、お安はくりっとした眼でこちらをじっと見ており、彼はあわてて視線を下に戻した。身なりからするとこの娘たちは、表通りに店を張るどこかの商家の娘たちのように見える。今日はおそらく親たちとともに川遊びにでも来たのだろう──ということは、自分とは身分が違うということだ。彼の脳裏にはこちらを見つめるお安の眼差しと、それから赤い唇とが、まるで焼き付けたように残った。しかし平太がふと「この娘とおいとちゃんと、どっちがきれいだろうか」と考えると、たったいま残像として残ったお安という名の娘の顔をかき消すように、切れ長の眼とやはり赤い唇のおいとの顔が鮮やかに眼前に現れた。
 平太の父の家は木挽町に代々店をかまえた小間物屋であった。芝居小屋三座の役者との関わりも深かったし、柳橋や辰巳の芸者衆にもひいき客があり、堅調に商売を続けていた。そして平太の実父である長五郎の代になるとますます売上を伸ばすようになった──というのも、長男である歳三は風采も上がらないうえに何をやらせても上手くなかったが、長五郎は幼少時代から頭もよければ人当たりもよく、おまけに女形ができそうなくらいの美男だったので、しぜんと客が向うから次々と増えていったのである。その証拠に、先代が若隠居をしたのちに彼の代になってからは、店の者が商品を風呂敷で背負って売りに出向く必要がやがてなくなり、木挽町の店売りだけで商売が充分に成り立つようになっていった。
 そんな長五郎が辰巳芸者で店の馴染み客でもあったつねを嫁に迎えたときは、周囲の誰もが心配をした。けれどもそんな心配をよそに店の商売は順調に進み、やがて二人の間に待望の長男である平太が生まれてからは、商売上手なばかりでなく夫婦仲も良いため、彼らを心配したのは杞憂であったかと周囲の誰もが思った。
 しかしこの幸福に見えた家庭は平太が九つのとき、長五郎の突然の死を契機にあっけなく崩壊した。つねには人物的な魅力はたっぷりあったが、店を切り盛りするような実務の才がなかったらしい。やがて木挽町の店の屋台骨がぐらぐらと崩れ始めた。隠居していた先代が何年振りかで仕事に復帰し、商売のてこ入れをしようとしたが、流行ものを商う商売だけに仕入れも販売もうまくいかず、むしろ損失が増えるばかりとなってしまった。
 その間、後家になったつねの良人として歳三を迎えて、そうして店をたて直そうという話も持ち上がった。歳三は独身のままであったし、だいいちに本来は彼がこの家の長男なのである。しかしこの話は──つねも乗り気ではなかったが──なぜか歳三がなんのかんのと理由を付けては断ったためにやがて立ち消えとなり、もともと生活が派手であったつねが若い役者を情夫にして遊び暮らすようになると、店はあっという間に潰れてしまった。
 その後木挽町の店の土地や建物は借金の抵当に取られてしまい、平太の祖父母にあたる先代の夫妻もすぐに亡くなり、つねは情夫とどこかへ逐電してしまったため、残されたひとりっ子の平太は、現在の奉公先である初音の馬場近くの仕出し料理屋の梅本に丁稚として引き取られた。
 この間、歳三は別の商売を手がけてはやめ、手がけてはやめ、ということを繰り返してきたが、いよいよ店が駄目だということを聞くと店に舞い戻り、わずかに残った商品をかき集め、それを元手にして一人で風呂敷を担いでの売り歩きを始めたのである。それからもう六年が経とうとしている。
「あら、おじさん、それはなに」
 と、お安とともにいた小柄なほうの娘が、そう歳三に尋ねていた。すると歳三は皺の多くなった目もとを細めて「──ああ、これかい」と答えた。
「これはね、匂い袋というんだ」
 それは、古布とおぼしき縮緬のきれいなきれで作られた小さな巾着だった。
「この中にね、伽羅が入っているんだ、ほんのかけらだがね。でも良い香りがするもんだよ。ほら、嗅いでごらん」
 勧められるままに二人の娘たちは代わりばんこにその匂いを嗅いだ。と、とたんに二人とも眼を輝かして喜んだ。
「……ああ、いい匂い。それにこれ、とってもきれいな布ね。幾らぐらいするものなの、おじさん」
 娘たちのうっとりとする声と様子は、うつむいてようやく白玉を食べ始めていた平太の注意を引きつけた。
 上目遣いに見ると、先ほどから簪や白粉を見ていたときよりも明らかに彼女らは頬を輝かせ、飽きずに匂いを嗅いだりきれを眺めたりを繰り返していた。平太にはそのちっぽけな巾着のどこにそんな魅力があるのかさっぱり分からなかったため、いっそう二人の様子は印象に残った。
「──値段かえ。むむ、こいつは中味が良いからね」
「高いの」
「二朱だ」
 二人は「あーあ」と言うなり、手にしていた匂い袋を歳三の前へと戻した。
「じゃあ駄目ね……高くってとても自分では買えないわ」
 すると二人のがっかりした様子を見ていたおしなが、うちわを使う手を止め、「不思議なものね」と横から口を入れた。
「あたしにも覚えがあるよ。女ってものは時代が変わっても、おんなじようなものを欲しがるもんさね──あたしもお前さんたちくらいの歳の頃に人から匂い袋を貰って、大事にしていたことがあったっけ。なにに役立つわけでもないのにねぇ」
 そう言っておしなは「うふふ」と思い出し笑いをした。
「自分で買えなくったって、そのうちに誰か良い人が現れて、お前さんたちにくれるから待ってるといいわよ」
「ほんとかしら、おばさん」
「ほんとさね、お前さんたちくらい器量よしだったら間違いないよ」
 そう言いながらおしなはちらりと平太に目配せをしてみせたので、平太はどきりとして、口にしていた白玉を、まるで硬いものでもあるかのような顔をして飲み込んだ。
  そうしてしばしの間沈黙があった。平太は娘たち二人の視線を感じながら、この場に飛び込んでしまったことをいよいよ後悔していた。悪いことには真夏の陽の盛りで、舟久の軒先にぶら下がった風鈴すら、ちりんとも音を立てなかった。
「……そうと、梅本さんとこのおいとちゃんは幾つになったえ」
「──わたしよりも一つ下ですから、今年十五です」
「そうかい、じゃあずいぶんと娘さんらしく、きれいになったろうねぇ」
 平太はその場で、「はい」と言うかわりにまたも赤面してしまった。そして弁解するかのように、
「お嬢さんですから」とぽつりと言った。
 おいとは平太の奉公先の梅本のひとり娘であり、平太自身はそこに丁稚として奉公をしている身分であるため、立場的にはあくまでも「お嬢さん」と「奉公人」という関係でしかなかった。
 梅本の女将であり、かつまた一人でこの料理屋を切り盛りしている花枝は、十歳でこの家に奉公人として来た平太と、実の娘であるおいとの二人を分けへだてなくかわいがってくれた。梅本で働く者は幾人かいたが、子飼いの奉公人はいちばん年下の平太ひとりであったし、彼だけはその他の奉公人とは扱いがすこし違うように思われた。二人は花枝からまるで兄妹であるかのように扱われてきたのである。それがなぜなのかは平太にも分からなかった。
 ただ最近になって平太はとみに身分の違いについて意識するようになってきた。べつにそれは花枝の扱いが変わったというのではなく、彼自身が成長するにつれ、出自の違いを自ら意識するようになってきたということのようであった。
「お嬢さんか……」
 そう言ってから、一服つけていた歳三がさらに何か言いたそうな顔をしたので、平太は「──じゃあ、おいらはこれで」と言って、そそくさと立ち上がった。
「……白玉をご馳走になりました。受け取りはさっきもう裏でもらいましたので」
「あら、もうちっと休んでいけばいいのにさ」
「そうだぜ、平坊、せっかく久し振りに会ったんだ。昼飯くらいはおごってやるから、もうちっと付き合えよ」
 二人が引き止めるのを振り切って、平太は「──すいません、これで失礼します」と言って急いで舟久を後にした。
 後ろでは「なんだよう、せっかく久し振りに会ったのに」「年頃なのよ、察しておやりよ、歳三さん」などと言う声が聞こえた。おいとが話題に出てしまうと、とても平気な顔をして話などできなかった。ただふと「あのお安ちゃんて娘はきれいな子だったな」と思い、岡持をぶら下げたまま振り返ると、当然お安の姿は舟久の入り口にはなく、代わりに壁際に櫓を数本立てかけたその脇に、花をきれいに咲かせた行灯仕立ての朝顔の鉢が、いくつも並んでいるのが見えた。
 おいらは何を期待したんだろう、そう思って平太は舌打ちをした。
「可愛い娘を見たからって、目移りするなんて男らしくないぞ」
 心の中で、自分自身の声がそう言っていた。
 平太がいったん梅本に戻ると、板前見習いの文次にこっぴどく叱られた。
「この馬鹿やろう、こんな時間までどこをほっつき歩いてやがったんだ。こっちはもう料理を仕上げて待ってるんだ。おめえが出前に行ったのは柳橋の舟久だぞ。亀戸まで行ったわけじゃあるめえ。どれだけ待たせりゃあ気が済むんだ」
「すみません、あにさん、すぐに行きますんで堪忍して下さい」
「次の出前はもう伊平に行かせたよ。この暑いなかを、出来上がったものをいつまでも置いておくわけにもいかねえからな。おめえはその後の神田の相模屋に行ってくんな」
 ──やっぱり舟久に上がり込むんじゃあなかった。いまさらそう後悔しても始まらなかった。
 伊平が代わりに出前に行ったとなると、あとで恩を着せられるのは目に見えていた。
 伊平は今年十八になる板前見習いだったが、梅本の板前である吾助からはあまり気に入られておらず、皮剥きや洗いもの以外の仕事はほとんど任せてもらえなかった。自分ではいっぱしの仕事ができるような口を利いていたが、およそ根気というものがない性分のために、二つ年下の平太とさして変わらない仕事しかやらせてもらえなかった。
 貸し座敷を営む神田の相模屋は梅本の上得意先なので、こちらも絶対に待たせるわけにはいかなかった。平太はお仕着せの着物に襷をかけてから、配達の弁当箱がぎっしり入ったけんどんをふたつ、担ぎ棒の両側に下げて表へ出た。本来は歳も体格も平太よりは上である伊平が行くはずだったものなので、痩せた平太の肩には担ぎ棒はずいぶんと重く食い込んだ。
 暑い盛りの時刻であるため、往来では出歩く人も少なかった。午前のうちは白玉売りや金魚売りの声が聞かれたが、今はものを売って歩く者の声も聞かれない。
 平太は陽が照りつけて埃の立つ表通りの神田川沿いの道をさけて、玉池稲荷の近くを通って和泉橋を渡って神田へ入った。そうして商家が軒を連ねる佐久間町へ入ったところで、手拭いで額や首筋の汗をぬぐい、担ぎ棒を右から左へと担ぎ直した。さっきからしきりに汗が眼に入るのと、荷物が重いのとでやりきれなかった。
 頭の中では、さっき言葉を交わしたお安という娘の顔がしきりにちらついて離れなかった。こちらをじっと見つめたときの目、上気した頬、鹿の子絞りの赤い下着の襟元からのぞいた白い首筋。それに、なんの匂いだろう、ふとした瞬間にやわらかな匂いが香り立つような気がした。それでどぎまぎしてしまったのだ。
 娘のことを思い出すたびに、ほかでは体験した事のないような高揚感に包まれると同時に、自分がずいぶんと不潔になったような罪悪感を感じた。
 平太がたどり着くと、表に柄杓で水を撒いていた相模屋の番頭は、思いのほか愛想良く迎えてくれた。
「ああ、この暑い中をご苦労さんだったね。ちょうどいいところへ来てくれた。今日は浄瑠璃の浚いの会があってね、いまちょうど午前の会が終わったところだったんだ」
 裏口へ回ってから中へ入ると、なるほど階上の座敷では三味線の音はしないかわりに、ざわざわとした話し声が聞こえていた。ここには伊平に付いて二度ばかり来たことがあった。番頭は四十少し手前に見える話し好きそうな人物であったが、平太のことはあまり記憶にないと見え、
「小僧さん、重かったろう──そういやあ、お前さんはいつもの人じゃあないね。いつも配達に来るのは、ええと、あれはなんという名前の人だったっけねえ」
 と、けんどんから弁当箱を取り出しながら言った。
「いつも配達にくるのは、伊平あにさんだと思います」
「そうか、伊平さんか。こう言っちゃあなんだが、あの人はものぐさでいけないね。ちょいと中を改めさせてもらうよ──うん、小僧さん、あんたのほうがよほど丁寧だ。伊平さんの持ってくるのは、こう、中味が片側に少し寄っちまっていることが多いんだ。梅本さんとは長いつきあいだから、あまり文句は言いたくないんだがね」
 弁当を大きな盆四つに移し替え、平太の差し出した帳面に受け取りの署名をしたのち、番頭は「ちょいと待ってくれるかい」と言い、帳場のほうへいったん引っ込んだのち、再び戻ると平太の手に何か握らせた。
「ほら、少ないけど、持ってお行き」
 見ると、十文銭が二つ手のひらに乗っていた。
「そんな……貰えません」
「いいんだよ、それで蕎麦でもお上がり」
 ちょうどそこへ階上から声がかかり、番頭は「はい、ただいま」と答えて忙しそうに階段を上っていった。別れ際には、「この次の配達もお前さんが来ておくれ」と平太に声をかけてくれた。
 二十文ではたしかに蕎麦を一杯食えば終わりだが、丁稚の身分では給銀は現金ではもらえないので、こうしてもらえる駄賃は、正直ありがたかった。前髪姿の平太が配達に行くと、たまにこんなふうに駄賃がもらえる。まったく使わないので、こうした金額が五百文ほどたまっていた。五百文というと二朱である。「二朱かぁ」と呟きながら、平太は軽くなったけんどんを担ぎ棒にかけ直して往来へ出た。そして歩き始めてすぐに、ある考えに思いいたってつと足を止めた。
 ──さっき、歳三伯父は匂い袋の価を、たしか二朱だって答えてたな。
 平太は先ほどの舟久での二人の娘の様子を思い出していた。あれを買っておいとちゃんにあげたら、おいとちゃんは喜ぶだろうか。そう思いながら帰り道を歩くと、もう暑さは気にもならなかった。
 彼はこれまでに、誰かに贈りものをするなどということは考えたこともなかった。でももしあの匂い袋をおいとにあげたら  彼女が喜ぶのは間違いなかった。おいとの可愛らしい唇がほころび、そのあいだから小さな前歯が覘くのが眼に浮かぶようだった。彼女を喜ばせたい、というよりも、彼女のその笑顔を見たい、という気持ちが平太の胸の中で抑えがたいほどに大きく膨らんできた。
 しかし歳三伯父に頼み事をするのは気が進まなかった。どこかよそのところで、同じようなものを手に入れられないだろうか。そう思いながら歩いているうちに、以前に配達に行ったことがある神田須田町の裏通りに、櫛や簪などを商う小さな店があったのを思い出した。大きな店なら大通り沿いにいくらでもある。そうした大店に入る勇気はないけれども、あの店なら入れるような気がした。
 平太は和泉橋の方へは戻らずに、上流側の筋違御門をくぐって神田川を渡り、かんかん照りのなか、火除け地の広場を横切って須田町まで歩いた。また寄り道をすることで文次からどやしつけられることなど考えもしなかった。そしてうろ覚えだった店の場所を尋ねてしばらく迷い歩いたのち、ようやっと目当ての店にたどり着いた。
 店は間口二間半の小さなもので、店の雰囲気は、平太の記憶の中の様子よりもだいぶくたびれたふうに見えた。入り口の軒下には女物の櫛をかたどった看板が縦にぶら下がっており、そこにかすれた墨書きで「くし、かんざし、かざりもの」と書かれていた。
 普段ならけっして入りはしなかったろう。でもこのとき平太は迷わずに入り口にけんどんと担ぎ棒を置き、手拭いで額や首筋の汗をぬぐい、襷を取ると薄暗い店内へとすっと入っていった。
 店の奥には、やぶにらみの痩せた五十ほどの男が一人で座ってい、平太が入ってくるのを見ると「いらっしゃい」とも言わず、ひと呼吸置いてから「何かご用かね」とひとこと言った。
 なんと答えたらよいのか分からず、平太は急いで品物を見るふりをした。店の中には櫛、簪、こうがい、口紅など様々な品物が並べてあったが、想像していたよりも種類も数も少なかった。ひょっとすると、店頭には少しの品物しか並べずに、客と会話したのちに店の主が奥から希望の品物を出してくるのかも知れない。それともここは問屋なのだろうか。匂い袋とおぼしきものはまったく見当たらなかった。平太はおそるおそる、並べてある櫛の中で、いちばん価の安そうに見えるもの──べっ甲でもなければ塗物でもない、木地のままに見えるものを試しに手に取ってみた。しかし値段が書いてないので幾らなのかまったく分からない。彼は額から汗が吹き出てくるのを感じた。
「誰かに頼まれて来たのかね」
 いつの間にか先ほどの男が平太の背後に立っていた。
「あ、あの……探しているものがあるんです」
「なにかね」
「に、匂い袋です──今日はお金は持っていませんが、あの……」
「おっかさんにでも頼まれて来なすったのかね。それともまさか、お前さん自身が買おうというんじゃあないだろうね」
 そう言われて、平太は進退窮まった心持ちになり、「すみません、また来ます」と言って後ずさりしながら店を出た。そしてこっけいなほどに狼狽しながら帰り支度をしているところに、突然「おい」と言って後ろから肩を叩かれたので、飛び上がらんばかりにびっくりして勢いよく振り返った。
 するとそこに立っていたのは歳三伯父だった。
「何年も会わなかったと思ったら、今日はふしぎと幾度もおまえと会うなあ」
 そう言ってから平太の格好を見、それから改めて歳三は周囲を見回した。
「それにしても平坊……おまえ、こんなところで何をやってるんだ。まさかこの店に弁当を届けに来たわけでもあるめえ」
「お、おいら急いでるんで」
 そう言って帰り支度もそこそこに、荷を担いで発とうとする平太の肩を、歳三は両手でしっかりと捕まえた。
「おっと、もう逃がさねえぞ。今日はせっかく出会ったんだ、おれが一緒に梅本に行って断わってやるから、一緒に昼飯でも食おうじゃないか」
 そこへ二人のやり取りを先ほどから眺めていた店の主が、「なんだい歳三さん、この小僧さんはお前さんの知り人だったのかえ」と言った。さっきまでとは別人のようなにこやかな表情だった。
 同業者だけあって、ここの店の主とは以前からの知り合いであったのだろう、歳三はくだけた口調でこう答えた。
「知り人もなにも、三文字屋さん、こいつはおれの甥っ子よ」
「へええ、そうかい──いやね、さっきふらっと店に入ってきて、何か探している様子だったからちょいと声をかけたんだが」
「三文字屋さんの店の中に……へえ、この平坊がねぇ」
 平太はこれ以上黙って二人のやり取りを聞いていることができずに、
「伯父さん、出ようよ」と懇願するような口調で言った。
 梅本へと向って並んで歩きながら、歳三は平太にしきりと話しかけてきた。梅本での暮らしぶりや働きぶりはどうか。きちんと食わせてもらっているか。親方や兄き分からいじめられていやしないか。母親とはたまに行き来をしているのか。平太はそれらの質問にはいいかげんに答えながら、なぜ自分はこの伯父のことをこんなにうとましく思っているのかと考えていた。
 手掛けていた仕事に行き詰まって食うに困ると、歳三は木挽町の家に戻ってきた。そんなふうに歳三がたまにやって来るのを、ごく幼い頃の平太は喜んでいたような気もする。それがいつの頃からだろうか、平太はこの伯父のにやけた笑い顔や、酔った時の酒臭い息などを不愉快に感じるようになったのだ。
 記憶をたどるまでもなく、歳三と並んで歩いていると、幼い頃の両親のこんなやり取りが思い出された。
 ──またかねの無心に来たんですよ、あなた。今年に入ってからもう二度目ですよ。
 ──そんなことを言うもんじゃあないよ、おつね。兄きだって一生懸命やってるんだ。それにここは兄きの実家だ。実家がかねの工面をしてやるのは当然じゃないか。
 ──それでもこう度々帰ってこられると、近所の噂にもなるじゃありませんか。
 ──近所ではなんと言っているんだ。
 ──あそこの惣領は「冷や飯食いだ」って。口さがない近所の女たちにまでそう噂されているんですよ。
 ──お前はそれをただ黙って聞いているのか。兄きはおれの血を分けた実の兄だぞ。お前はそんなことを言われても平気でいるのか。
 こんな風にしていつもの口げんかが始まるのである。子どもの目から見ても平太の両親は普段はとても夫婦仲が良かったので、こうなるととてもいたたまれない心持ちになった。
「伯父さんがくるといつも両親のけんかが始まる。伯父さんはいい人のように見えるけれども、ようするに冷や飯食いというものらしい」
 平太が大きくなるにつれ、どうやらそんなふうに心境が変化していったようだ。
 歳三伯父は梅本に着くと、女将の花枝はちょうど留守にしていたために板前の吾助に断わりを入れ、自分は荷を背負ったまま、平太を近所の一膳飯屋に連れていった。その店は梅本から五町と離れていない裏通りにある店だったが、平太は一度も入ったことのない店であった。入り口には薄汚れた提灯が下がっていて、そこに「いちぜんめし」と書いてある。縄のれんをくぐって店内に入ると、たたきの床に飯台が六つ、その回りには粗末な腰掛けが三つか四つずつ並べてあるようだった。夜にはいわゆる居酒屋になるらしい、いまの時間でも酒を飲んでいる様子の客が二組ほどいた。
 歳三伯父はこの店にはよく来るのであろう、慣れた様子で注文取りの前掛け姿の若い女に声をかけ、「奥は空いてるかい」と言った。
「あら歳三さん、お久し振り。奥なら空いてますよ──この若いお連れさんはどなた」
「むむ、内緒だ」
 おどけた調子でそう言ったなり、歳三は奥の畳敷きの部屋までずんずん入っていった。
「奥」とはいうものの、六畳の部屋を染みだらけの屏風で間仕切って、座卓をそれぞれの場所にひとつ置いただけの、お世辞にもきれいとは言いがたい薄暗い部屋だった。歳三伯父は何でも好きなものを頼め、と言ったけれども平太にはよく分からないので、けっきょく歳三が適当に見つくろって注文をした。
 出てきた料理は鱸かなにかの切り身を焼いたものや茄子の煮浸しなどであったが、平太はどれもあまり旨いとは思わず、少し固くなった蜆肉飯をようよう一膳食べた。普段出されている梅本の賄いのほうがよほど旨いと思った。しかし歳三は「そら、遠慮せずに食え。どうだ、旨いか」などと上機嫌な様子であった。
 食っている最中の歳三は口をくちゃくちゃと音をさせていて、目の前で見ていて平太は胸が悪くなるような気分になった。やがて飯をひととおり食べ終えると、歳三は胸元をくつろげて団扇であおぎながら、
「ところで平坊、さっきはなんで三文字屋なんぞにいたんだ」
 と言った。
「なんでもないさ」と言おうとして、伯父の顔を見ると、すこしにやけた表情をしている。あきらかに「あらかた見当はついているぜ」という顔つきだった。
「当ててやろうか、おまえ──好きな娘が出来たんだろ」
 そう図星を当てられて、平太はなんともいえない表情で伯父の顔を見上げた。
 考えてみると、これまでそんなふうに意識的には考えたことはなかった。──そうか、おいらはおいとちゃんのことが好きなのか。今までは、たんにおいとを喜ばせたい、そう思っていただけのように考えていたけれども、ようするにそれはおいとを好いているということなのだ。すると歳三はいかにも得意げな顔つきでにやりと笑った。
「べつに恥ずかしがるようなことじゃあないぞ。お前の歳だったら当然のことだろう。お前ももう十六になったんだからな……そうだったな、十六になったんだよな」
「……はい」
「まさかお前さっきのお安ちゃんに惚れちまったんじゃないだろうな」
「まさか、違うよ」
 にわかに身を乗り出していた歳三は「そうか」と言って、もとのくつろいだ様子に戻った。──いっそ歳三に頼んでみようか。買うためのかねはあるんだ。なにも敬遠することもないさ、そう平太は考え、「……ねえ、伯父さん」と言った。
「さっきの匂い袋だけど、おいらにもう一度見せてもらってもいいかい」
「なんだ、あれが欲しかったのか。それならそうと、さっさとおれに言えばいいものを」
 そう言いながら歳三は風呂敷をひらいて、座卓の上に匂い袋を三つ出して並べた。
「さあ、このうちのどれを選ぶかで、お前が振られるかどうか決まるぞ」
 歳三伯父はおどけた調子でそう言ったけれども、平太はどれを買うつもりかはじめから決めていた。
「これを……」
 と言って平太が手に取ったのは、さきほどお安と呼ばれていた娘がためつすがめつ見ていたものだった。歳三はさもありなんといった顔で頷いて、それ以外の二つはさっさと納めてしまった。
「伯父さん、これの価は……さっき二朱だって言ってたね。おいら今はおかねは持っていないけれど、梅本に帰れば貯めたおかねがあるんだ。だから後でもう一度おいらと一緒に──」
「やるよ」
「え」
「と言いたいところだけれど、ただでやるんじゃあお前も気分が良くなかろう。そこでだ、ええと……お前今たもとか巾着に幾ら持ってる。幾らかは小銭くらいはあるだろう」
 たもとには、先ほど神田の相模屋でもらった二十文が入っていた。
「たもとには二十文しかないけれど、梅本に帰れば……」
「よし、いいからそいつを出しな。ほんとならただでやりたいところなんだ。おらぁな、甥っ子のお前が女に惚れる歳になったのが嬉しいんだ。でもただでもらったものを女にやるってのは、男としては気分も良くねえだろう。だからな、その匂い袋はお前に二十文で売ってやろうっていうんだ」
「でも、たった二十文で買うわけには……」
「いいんだよ、商売人が売ったと言ったからには、そいつはもうお前のものだ、目障りだからそいつをしまって、かわりにさっさと二十文をここへ出しな。よし、今日は前祝いだ、一杯飲むとするか」
 と言うが早いか、歳三は「おうい」と店内に声をかけた。やがてやって来た先ほどの注文取りの若い女に「冷やでいいから酒を持ってきてくれ」と注文をしながら、歳三は顔にまるでいたずらを思いついた子どものような笑みを浮かべて、いかにも上機嫌そうな様子でいた。平太が言われたとおりにたもとから二十文を座卓の上に出すと、歳三は右手を振って、匂い袋を「さっさとしまえ」という身振りをした。
「ただな、平坊、あとでおれにうまくいったかどうかを報告するんだぞ。お前がそれを誰にやるつもりでいるかなんて、そんな野暮なことは聞かねえから。ただうまくいったかどうかだけ、おれに教えてくれ。ああそうだ、それから、その匂い袋をやるときにな、文をつけろ。女ってものは文に弱いもんなんだ。それにな、その文を書く紙だって、掛取りの帳面のきれっ端みたいなもんじゃあ駄目だ。ちゃんとした紙に書かなくちゃあいけねえ。それからな……」
 そこへちょうどさっきの女が酒を持ってきた。
「あら、歳三さん、ずいぶんご機嫌なようね。こんな真っ昼間っからお酒だなんて、柄でもない。なにかいいことでもあったのかしら」
「いいこともなにも、実はな──」と歳三が自分のことを話し始めてしまいそうなのを見て、平太は「伯父さん、ありがとう。おいらこれで帰るよ」と言って、あわてて座を立った。
「昼飯をおごってくれてありがとう。それにこの匂い袋のことも、恩に着るよ」
 そう言って、平太は逃げるようにして歳三のもとを後にした。
 梅本までの帰りみち、平太のたもとには、先ほどまでの二十文のかわりに、これまで嗅いだことのないような匂いのする小さなものが入っていた。平太は道すがらたまにその小さなものを取り出しては眺め、匂いを嗅いでみた。これをあげた時のおいとの様子を想像すると、彼は自分がいままでと違った存在にでもなったような心持ちになった。
 梅本に帰り着くと、仕事がひと段落した時刻であったため、板前の吾助も文次もどこかに出かけていておらず、裏口の戸の前で、伊平がひとりでしゃがみ込んで空豆の殻を剥いていた。暑いせいか、伊平はもろ肌脱ぎになっていて、いなせな様子で右の肩には豆絞りの手拭いをのせていた。
「よう、おかえり」
 伊平は帰ってきた平太をちらと見ると、白い歯を見せてそう言った。
「なんでも久し振りに伯父さんに会ったそうだな。うまいものでも食わせてもらったのか」
「うん、まあ……」
 そう言葉をにごして、平太は早く伊平のもとを離れようと思った。伊平が機嫌の良い様子でいるときは決まって面倒なことを言い出すときであったし、それに彼は妙に感のいいところがあったので、たもとに入っている匂い袋のことを気付かれそうで嫌だった。
「すみません、伊平あにい、すぐに戻ってきて手伝います」
 そう言ってその場を去ろうとした平太に、伊平は「なに、こんな仕事はおれ一人でたくさんだよ」と言ってにっこりと笑顔を見せた。平太にはその後に「──そのかわりに」という言葉が続きそうな気がしたけれども、伊平はすぐに下を向いて殻剥きの仕事に戻った。
 けれども平太の予感はやはり的中した。
 平太はいったん自分の部屋──もともとは女中部屋かなにかだったのだろう、階段を上がってすぐの、二階の薄暗い北向きの四畳半の部屋──に戻って、自分の服や持ち物が納めてある行李の隅に、匂い袋をしまった。そうして裏口に戻ると、開けっ放しの戸の前で、さっき見た姿勢のままで伊平はまだ空豆の殻をむいている様子だった。それにかすかに鼻唄をうたっていた。
 平太には、むこうを向いている伊平の表情が手に取るように分かった。
 伊平は一見すると柔和で優しげな顔立ちに見える。人をひきつける大きな眼を持っていて、鼻筋が通っていて、薄い唇の中にはきれいな並びの白い歯がある。けれども唇の片側だけを持ち上げて「へっ」と薄笑いをしてみせる時の伊平の表情は、とても酷薄なものに見えた。いまこちらに向けている伊平の後ろ姿は、平太よりはだいぶ逞しくみえる肩や二の腕の印象もあいまって、とても威圧感をともなって見えた。
「あにさん、手伝います」
 すると伊平はくるりと振り向いて、「いや、こっちは一人でたくさんだ」と言い、
「それよりも、板場の笊に新里芋の山があるんだ。あれを料理するのに、洗って下ごしらえをしておいてほしいそうだから、そっちを頼むよ」
 そう言ってから、ふと思い出したような口調で、「さっきおめえの代わりに行った第六天裏の山乃屋でな、おらあ冷や汗をかいたぜ」と続けた。
「なんでもおめえが前回弁当を届けたときに、中味が寄っちまっていたらしいんだ」
 平太は驚いて、思わず眼を大きく見開いた。
「──でも番頭さんがいうにはな、こんなことは滅多にないことだから、こんなことを言ったなんて平太さんには絶対に言わないでおいておくれと、こうなんだ。だからおれも、それはきっと前回だけのことで、普段はけっしてそんなことはないから堪忍してやって下さいって謝っておいたぜ」
 平太は下を向きながら、顔が真っ赤になるのを感じた。そんなはずはない、自分はどんなに肩が痛んでも、弁当の中味が偏るような運びかたはしない。それだけは自信を持っていえる。伊平の言っていることは嘘に違いない。そう思い、怒りに両手が震えているのが分かった。けれども伊平は、平太の様子には構わずにこう続けた。
「山乃屋の番頭さんが、わたしがこんなことを言ったなんて、けっして平太さんには洩らさないでおくれって、おれにくどく念を押したのを忘れねえでくれよ。おめえはこれからもきちんと仕事をしさえすりゃあいいんだし、前回のおめえのし損じはおれがもう謝っておいたんだから、おれの顔を潰さねえでくれよ」
 そう言われて、平太は開いた口が塞がらなかった。そうなのだ、この伊平という男はこういう男なのだ。自分のいい加減さは棚に上げておいて、拵えごとをしてでも恩を売る。そうして、その見返りを平気で要求するのだ。けれども今日はじっさいのところ伊平には借りがあるのだから、何も言い返すことはできなかった。
「まあ、くよくよするなよ」
 そう言って伊平は立ち上がり、両手で平太の肩を叩いた。すると彼の首元から厚い胸にかけて汗が幾筋か流れおち、汗の匂いが一瞬むっと匂った。
「そのかわりと言っちゃあなんだが」
 そう言って、伊平は平太の肩を掴んだまま、口を耳元に寄せてきた。すると今度は伊平の髪の油の匂いがつよく香り、平太は頭が痺れたようになった。
「ひとつ頼まれてくんねえ。こいつを今日中にお嬢さんに渡してもらいてえんだ」
 そう言って伊平が平太の手に握らせたのは、結び文だった。
 平太が手もとを見て、渡されたのが結び文であることに気付き、それが何を意味するのかを理解したとたん、彼の頭の中は文字通りまっ白になった。こんなことが起ころうとは夢にも思わなかった。
 伊平は今年十八で、おいとは十五である。おいとのことをたまにからかいこそすれ、普段の伊平はおいとに対しては、奉公人がその家のお嬢さんに対してとる態度以外の態度など見せたこともなかった。それに梅本の裏木戸には伊平と同年輩かあるいは少し年上に見える女が尋ねてくることも珍しくはなかったため、まさか伊平がおいとに対して関心を持っているなど考えたこともなかった。
「どうなんだ、渡してくれるのか。それとも嫌か」
 伊平は平太に顔をぐっと近付けて、平太の目を真っ直ぐにのぞき込みながら言った。
「嫌なら無理にとは言わねえよ。それなら自分で渡すまでだ」
 そう言った時の伊平は目をすっと細めて、いかにも険のある目付きであった。
 ──どうしよう。もちろん、心情的には不愉快この上ないことだ。でも、ここで断わったところで、伊平はきっとおいとに直接文を手渡すに相違ない。伊平にとってみればおそらくぞうさもないことなのだろうから。そう考えて、
「……渡すよ」
 とかすれた声で平太は答えた。
 伊平は平太の心の動きを知ってか知らずか、「そうか、良かった。じゃあおめえに頼むぜ。なにしろ、おれがお嬢さんに文を渡してるところなんざ目立ってしょうがねえからな」
 そして頭の中が痺れたままになっている平太の肩をぽんぽんと叩いて、
「恩に着るぜ、平太先生よ」と言った。
 この中にどのようなことが書き記されているのかは分からない、でももしこの文をおいとに渡してしまったら──そうしたら彼女を喜ばせるのは、おそらく自分ではなくなってしまうのだろう、それもたぶん、永遠に。そう考えて、平太は生まれて初めて強烈な嫉妬の感情を体験した。自分が果たすはずの役割を、よりによって伊平に奪われてしまうなんて、とても堪え難いことだった。
 しかしもしかりにこの文を渡さなかったら──伊平からどんな仕打ちを受けるか知れたものではない。おそらく陰険なやり方で、自分を虐め抜くであろう。自分はそれに堪えられるだろうか……こちらも、とても堪え難いことのように思われた。
 言われたとおりに板場で里芋の下ごしらえをやりながら、平太の心のなかは、この二つの考えのあいだで揺れ続けた。指先が細かく震えてしようがなかった。左のたもとには伊平の結び文が入りっ放しになっている。彼には左のたもとが重しでも入っているかのようにとても重く感じられた。とにもかくにも、この文の内容を知りたかった。
 そうして半刻もせずに、板前の吾助と文次が帰ってきた。
 文次は平太の背後を通り過ぎるとき、ちらりと平太の様子を一瞥し、「なんだ、その剥きかたは」と言った。
「これじゃあ食う方よりも捨てる方が多くなっちまうだろうよ。おめえは里芋の皮もまんぞくに剥けねえのか」
「すみません、あにさん」
「このばか野郎、いいから面でも洗ってこい」
 そう言われて平太が板場を出るとき、伊平は米を研ぎながら知らん顔をしていた。
 平太はふらふらと裏の水場へと向ったが、ふと思い直して雪隠に入った。戸を開けて中へ入るときには、周囲を見渡して誰も見ている者はないか、さりげなく確認をした。そして中でしゃがみ込むと、たもとから先程の結び文を取り出し、指先が震えるので苦労をしながら、そっと文を開いてみた。そこには、
「とても大事なことを話す必要ができたので、明日の午後、八ツの鐘が鳴ったら裏木戸脇の垣根のところへきてください」
 という意味のことが仮名文字で書かれていた。
 これではなんのことか分からない。きっと、呼び出すこと自体が目的なので、用件はあえてぼかしてあるのだろう。そのくらいのことは平太の頭でもぼんやりとは理解できた。しかしこの文は、さっき歳三伯父が──文を書く紙は、帳面のきれっ端みてえな紙じゃあ駄目だ──と言っていた、その正解はきっとこんなふうなのだろうと思うような、きちんとした紙にきれいな文字で書かれた文だった。
 指先はもう震えなかった。そのかわり体中の血の気が抜けたような心持ちになった。伊平あにいにこんなきれいな字が書けるとは知らなかった。それとも誰かに書いてもらったのだろうか。きっと、そうに違いない。けどどっちにしても、これは渡してはいけない。これを渡したら、全てが滅茶苦茶になってしまう、そう思った。
 いつから平太はおいとを意識するようになったのだろう。平太がはじめて梅本へやって来たときに、おいとがどんなふうだったのか、彼にはもう思い出すことができなかった。もともと口数の少ないほうで、幼い頃はまったく目立たない娘だった。一緒に暮らすようになってからも、始めの頃は平太のことを名前で呼ぶことができずに、「ねえ」とか「あのさ」というふうに呼びかけていた。それが一年近く経ってからようやく「平あんちゃん」と呼ぶようになったのだ。
 おいとが平太の記憶に残るようになったのはそれからだった。「あんちゃん」と呼ばれて、九歳までひとりっ子で育った平太はなんだかこそばゆいような気分になった。「平あんちゃん」と自分を呼ぶおいとの顔を改めて見ると、白い顔にまるで刃物で切ってできたような一重の切れ長な眼の中に、とてもきれいな黒い瞳があった。その瞳はまるで川面に陽の光が反射でもしているように、きらきらと光って見えた。
「ねえ、あんちゃんの好きなものはなに」
 と、あるとき出し抜けに聞いてきたことがあった。「え」と言ったきり何も答えることができずに口ごもっていたら、瞳をきらきらと輝かせながらしばらく平太の顔を見守っていたのち、「分からないの。駄目ねえ」と言った。
「それにね、こういうときは、女にも同じことを聞くもんよ」
「あ、そうか。じゃあ、おいとちゃんの好きなものはなんだい」
 するとおいとは唇をつんと尖らせて、「そうねえ」と思案するような素振りを見せた。一人前の女のつもりでいるのだ。くすくすと笑い出しそうになる平太の顔を、時々思わせぶりな目付きで見上げて、明らかにその瞬間を楽しんでいる様子であった。きっと、平太の好きなものなど実はどうでもよく、この思わせぶりな態度を楽しむことが目的だったのだろう。季節はやはりちょうど夏だった。おいとの額や鼻の頭には玉の汗が浮かんでいて、まだ小さかったために二人の姿は垣根にすっぽりと隠れていた。
「当ててごらんなさい」
 やがておいとはそう言って家に戻ってしまった。
 その後でおいとと二人で、花枝に切ってもらった西瓜を食ったことを覚えている。平太は西瓜を食べながら、ときおりおいとの顔をちらちらと見たけれども、彼女は先ほどのやり取りなど忘れてしまったかのようにしていた。
 それからしばらくの間は、ふとした時に「おいとちゃんの好きなものってなんだろう」と考えるようになった。どうしたら他人を喜ばせることができるのだろう、そんなことを初めて考えるようになったきっかけは、あの出来事だったのかもしれない。
 また二年ほど前、三人で朝飯を食っていたときに、会話の中で平太のことを「あんちゃん」とか「平あんちゃん」と呼んでいたおいとを、花枝がふと箸を置いてたしなめたことがあった。
「お前ももう大きいのだから、そんなふうに呼ぶのはお止めなさい。これからは、きちんと平太さんとお呼びなさい」
 言われたおいとはしばしぽかんとしていたし、平太もなぜ突然に花枝がそんなことを言い出したのか分からなかった。やがておいとは少し不満そうな顔で「はい」と答えた。それからは彼女は平太のことを「平太さん」と呼ぶようになったけれども、このことを契機に彼女の彼に対する態度はしだいに変化し、以前のような親しげな──場合によっては馴れ馴れしい──態度は見せなくなった。平太はこのことを寂しくも感じたし、同時に彼女を妹のようにではなく、一人の異性として意識するようにもなった。
 それまでは二人は背の高さもあまり変わらなかったのが、ちょうどこの頃から平太の背が伸び始め、今ではおいとよりも頭ひとつぶん平太のほうが背が高くなった。またそれまでは二人で仲良く寺子屋に通っていたものを、平太は店の仕事の手伝いに一日の時間の多くを取られるようになったし、おいとは三味線や踊りを習いにゆくことの方が多くなった。
 そんなふうにして、二人は同じ屋根の下で寝起きし続けながらも、別々の生活時間を過ごすようになっていったのである。
 雪隠から戻った平太は文次あにいから言いつけられるままに里芋をふかしたり、茄子の湯剥きをしたりといった作業をしたけれども、しくじり続きで何度もどやしつけられた。平太の頭の中は、伊平から預かった文をどうしたらいいのかということでいっぱいだった。しかし良い思案はなにも浮かばなかった。七ツ半頃には花枝もおいとも帰ってきたし、時間はどんどん過ぎてゆくのになすすべは何もなかった。
 仕事が終わり、やがて通いの職人である吾助と文次、伊平の三人が帰るときになっても状況は何も変わらなかった。伊平は帰りがけに洗い場で鍋や釜を洗っていた平太の後ろから肩をそっと叩き、「じゃあ、頼んだぜ」と囁くのを忘れなかった。
「それじゃ後はよろしくお願いします」
 吾助がそう花枝に挨拶をして帰ったあと、平太は気まずい気分で夕飯を食べた。本来なら主である花枝とその娘であるおいとが、丁稚の平太と同席で食事する義理などないのだけれど、花枝はずっと三人で食事をする習慣を崩そうとはしなかった。
 箱膳に平太が自分で用意した菜に箸を伸ばしながら──花枝とおいとの分はいつも吾助が用意した──平太はまともに二人の顔を見ることができなかった。まして口を利くこともできなかった。もっとも最近はおいとも必要がないかぎり、あまり平太に話しかけないようになってはいたのであるが。しかしやがて、それまで黙って食事をしていた花枝がふと微笑みながら、「──そういえば、平太さん」と声をかけてきた。
「あなた、今日は舟久さんではたいそうもてたそうじゃないの」
 そんな話をさっそくどこで聞いてきたのであろうか。平太が思わずおいとの顔を見ると、彼女は知らん顔をして魚をつついていた。
「花房町の三桝屋さんのところの娘さんがあなたのことを気に入ったって話を聞いたわよ」
 三桝屋なる店がなに屋なのかさえ平太は知らなかった。
「三桝屋の娘さんといえば、そういえばおいとが踊りの師匠のところで一緒だったわね」
 そう言われて初めておいとはまともに顔を上げた。
「だれのこと」
「名はなんと言ったかしら……そう、たしかお安さんと言ったわね」
「ああ、お安姉さんのこと。べつに親しく話したりはしないけれど。きれいなひとよ」
 そう言っておいとは平太と花枝の顔を見くらべた。
「なんの話。お安姉さんがどうしたの」
「今日は平太さんが舟久さんでもてたって話よ」
「ふうん」
 何か別のことでも考えていたのか、おいとは途中まであまり話を聞いていなかったらしい。話題がそこで途切れると、ふたたび彼女は黙って食事を続けた。
 以前はこんなふうではなかった。普段は大人しいが、しゃべり始めると止めどなくしゃべり続けるので、よく母親から注意されていたものだ。それが最近は、食事のときでも何のときでもむっつりと黙っていることが多くなった。
 平太はあらためて、下を向いているおいとのほうを素早く盗み見した。歳も違うが、おいとには昼間会ったお安のような女っぽい媚はない。身体も細いし少し猫背なので、いわゆる色っぽさなどは感じない。けれどもなぜなのだろう、おいとの姿──とくにその顔立ちは何度見ても厭きない魅力があった。
 夕食後、一階の洗い場で平太が三人分の食器を洗っていると、斜めうしろに人の立つ気配がしたので花枝が何か言いにきたのかと思って振り返ると、そこに居たのはおいとだった。
「……平太さん、昼間、お安姉さんからなんて言われたの」
「べつに……なにも言われやあしないよ」
「ふうん」
 おいとはそう言ったなり、じっと平太の顔を見つめた。
 おいとは何を聞きにきたのだろう。少しばかりどきどきしながら、平太がおいとの視線を避けるように背を向けて洗い物を続けていると、彼女は黙ったまま、立っていたその位置にしゃがみ込んだらしかった。
 日中もひどい暑さであったが、今日は日が沈んでもむし暑く、洗い物をしながらも平太は胸の辺りにじっとりと汗をかいているのを感じた。そしてふと、今がいい機会だと感じた。頭の中で「じゃあ頼んだぜ」という伊平の声がし、追いつめられたような気分で、ここで覚悟を決めるしかないことを悟った。
 平太は手拭いで手を拭き、襷をとっておいとを見た。彼女はしゃがんだ姿勢のまま、何を考えているのか、うつむきかげんに両手で頬杖をついていた。たたきに立っている平太からは、一段上がった板の間にしゃがんでいるおいとの顔が正面からよく見えた。暗がりの中で、彼女の白い顔はぼうと光っているように見えた。
「おいとちゃん、ちょっと」
 そう言ってから平太はつばをごくりと飲んだ。「──渡したいものがあるんだけれど」
 そうして左のたもとを探ると、あるはずの伊平から預かった結び文が見当たらない。
 あわてて右のたもとも探ったけれども、そこにもない。そしてすぐに、さっき食事前にいったん部屋に戻り、文を行李の中に押し込んだことを思い出した。
「なあに」
 おいとはけげんそうな目付きでこちらを見守っている。平太は「ちょっとおいらの部屋まで来てくれるかい」と言うと、おいとは素直に、階段を上がってすぐの二階の平太の部屋の前まで黙って付いてきた。
「そこでちょっと待っててくれるかい」
 そう言って平太はひとり部屋の中へ入り、行灯に火を入れると行李を開けた。すると微かにふわっと良い香りが匂いたち、真っ先に目に飛び込んできたのは伊平の結び文などではなく、昼過ぎに歳三伯父から譲ってもらった赤い匂い袋だった。
 ──いまおいらがおいとちゃんに手渡すべきなのは、この匂い袋のほうなんじゃあないのか。そんな問いが頭をかすめた。なら伊平の文はどうするのか。考える間もなく、おいとがすぐ後ろに立って、「なあに、どうしたの」と言って平太の肩ごしにのぞき込んできた。
「渡すものってなあに」
 振り返ろうとしたら、おいとの顔が自分の顔の真横にあった。自分の息が彼女の首筋にかかりそうなくらいに間近だった。「これなんだけど──」動揺しながらそう言って手に取ったのは、匂い袋のほうだった。ほとんど何も考える余裕もなく、無意識に手が動いていた。
「──今日おいらの伯父さんに会ってね、偶然見つけて譲ってもらったものなんだけど、これをおいとちゃんにあげたら喜ぶかな、と思って」
 何度もどもりながらようやっとそう言った。そして両手で匂い袋を差し出すと、おいとも両手でそれを受け取り、お互いの手がそっと触れ合った。
「嗅いでごらん」
 そう言われると、彼女は急にいたずらっぽい表情になり、笑い顔のまま、平太の方を見つめながら匂い袋に鼻を近付けた。小鼻を少しひくつかせたあと、おいとはさらに顔を輝かせた。行灯の灯りひとつの暗がりの中で、それはまるで白い花が咲いたように見えた。「なあに、これ」
「匂い袋っていうんだ」
 するとおいとはもう一度鼻を近付けて、「ああ……良い匂い」と溜息のように言った。
「あげるよ」
「ほんとう」
「うん」
「ありがとう、平あんちゃん」
 そう言ってから、おいとは再びふとけげんな表情になり、「でも、どうして」と問うた。
「……そういうことは聞くもんじゃないよ」
 そう言いながら、平太は心の中で少しばかり誇らしげな気分になっていた。
 おいとはしばし平太の顔を見つめたのち、「そうか……そうね」と小さな声で言った。
 ふたたび笑顔を見せたおいとの顔を見て、平太はこれまで感じたことのないような幸福感に包まれた。あとで伊平からどんな嫌がらせを受けるか分からなかったけれども、いまこの瞬間はそんなことはどうでもよかった。おいらとおいとはいま初めて二人だけの秘密を共有したのだ。
 おいとは匂い袋を襟元に大事そうにしまい込み、もう一度「ありがとう、あんちゃん。あたし、大事にするわ」と言ってから、くるりと振り向いて平太の部屋を歩み去ろうとした。その姿を見送りながら、平太はあっと思って「おいとちゃん」と呼びかけた。
「なあに」
「明日は家にいるのかい」
 おいとはほぼ一日おきに習い事の稽古に通っている。今日はどこへ行ったのか知らないけれども、順当に行けば明日は家にいるかもしれないのだ。
「明日は踊りの稽古にいくわ」
 そうおいとは答えた、「明後日の都合が悪くなったから、明日来てくれってお師匠さんから言われてるの」
「そうかい」
 平太はほっと胸を撫で下ろした。
「でもなんで」
「いいや、なんでもないよ。おやすみ」
「おやすみなさい」
 おいとは少し微笑んで去っていった。これでひと安心だった。伊平あにいはきっと彼女が明日は家にいるものと踏んで文を用意したのだろうが、これでは約束のしようもないのだ。彼はおいとが去ったほうをしばらく凝視していたが、やがて彼女が久し振りに自分のことを「平あんちゃん」と呼んだことに気がついた。
 その夜、彼は──風の通らない狭い部屋で、むし暑く寝苦しい夜だったにもかかわらず──久方ぶりに熟睡することができた。「あんちゃん」と自分を呼んだおいとの声を、横たわってからも幾度も反すうした。
 彼はまだ幼い頃に梅本に来てからというもの、心の中で居心地の悪さをずっと感じ続けてきた。
 ──自分はしょせん奉公人であり、ここには自分の居場所はないのだ。
 ずっとそう思ってきたのだ。この思いはけっして消すことのできない染みのように、平太の心の中に陰を落とし続けてきた。
 けれども今夜はそんなふうには微塵も感じなかった。おいらとおいとちゃんとの間には、いまや新しい結びつきが生まれたのだ。その思いは、彼の心のなかの引け目を打ち消すのに余りあるものだった。
 翌朝まだ暗いうちに目覚めた平太は、昨夜の幸福感がまだ続いているのを、布団の中でしばしのあいだ楽しんだ。なんの夢を見たのか覚えていなかったけれども、ひとたび起きると眠気はすっきりと取れていた。
 廊下の奥の西南の角の部屋で寝起きしている花枝とおいとを起こさないようにそっと布団を片付けてから、平太は一階に下りて毎朝の習慣──まずは火を熾し、ひとまず三人分の米を研いでから朝飯の支度をし、それが終わったら、前日のうちに聞かされていた昼の注文の人数分の米を研ぐ──を手早くこなした。だいたい仕事の分の米を研いでいるあたりで納豆売りや八百屋が回ってきたし、また同じ頃に花枝とおいとも起き出してくるのだ。
「おはよう、平太さん、今朝はまた一段と早いのね」
 そう花枝から褒められて、平太はいい気分だった。朝飯の最中も平太はときおりおいとと視線を交わし、お互いに忍び笑いをした。もうあの結び文のことで思い煩う必要はないのだ。伊平にはなんと言うか考えてあった。そして件の文はさっき米を炊くときに焚き付けと一緒に燃してしまっていた。
 朝飯を食い終えて、平太が板場に入る頃には吾助ら三人も仕事にやってきた。伊平は鼬のようにすっと平太のところへ来て、「どうだ、渡してくれたか」と耳元で囁いた。
「ああ、渡したよ」
 と彼はひと言だけ答えた。おいとが今日稽古に行くことはあえて言わないことに決めていた。あらかじめ教えてしまったら、伊平はなにか策を講ずるかもしれない。それでは元も子もない。それにだいたい、自分は伊平の結び文の内容については何も知らないのだから。
 やがて板場が忙しくなり、女将の花枝も店の表で来客の応対などで忙しく立ち働くようになった頃、おいとが振り袖姿で表口から出かけるのがちらりと見えた。踊りの稽古にゆくのできれいな着物姿だった。伊平もそれに気付いたらしく、口を開いて見送っているのが分かった。
 ──いい気味だ。そう思って平太は心の中でほくそ笑んだ。これで伊平は自分の申し出をすっぽかされたと思うだろう。これでいいのだ。伊平がこちらにしきりに視線を送ってきても、平太は気付かないふりをしつづけた。日が高くなってくるにつれてじりじりと気温も上がってきて、野菜の皮剥きや魚の鱗とりをしながらも、平太は額の汗を幾度も拭いた。
 やがて吾助が花枝から呼ばれて表へ行ったときを見計らって、伊平が再び平太のもとへやって来て、「おい、本当に渡してくれたんだろうな」と棘のある口調で訊いてきた。
「渡したよ」
 伊平は文次がこちらを見ていないかを気にしながら、
「今日は稽古の日なのか」
 と小声で尋ねた。
「おいら知らないよ」
「昨日が稽古の日だったろう。続けて今日も稽古なのか」
 平太は真面目な表情で伊平に向き直り、「おいら、何も聞いてないよ」と答えた。するとそこへ文次から「おい、伊平、なにやってんだ」と声がかかり、伊平はあわてて自分の持ち場へ戻っていった。
 平太は首から下げた手拭いで額や首筋の汗を拭きながら、そんな伊平の姿を見やった。何もかもがうまくいっているような気がした。今日も舟久から弁当の注文が入っていたし、同じく柳橋の茶屋から朝のうちに大口の注文を受けていたので、午前はみなが忙しく立ち働いて過ごした。
 そして注文の料理をすべてつくり終え、柳橋の茶屋へは文次と伊平が、舟久には平太が配達に行くことになった。伊平が憂鬱そうな表情でたすきをかけて支度するのを横目で確認しながら、平太は伊平が自分のことを疑ってはいないこと、そしておそらくはおいとからすっぽかされたと感じているであろうことを確信した。
 平太もたすき掛けに頬かむりの姿で梅本を出ると、往来は今日もじりじりと陽が照りつけていた。しかし舟久は目と鼻の先だし、今日は荷も軽いので足取りも軽やかだった。西両国の広小路の見世物小屋からはさかんに客を呼び込む声が聞こえ、うろんな人物がうろついているために普段ならこの辺りを通るのは少し怖い気がしたけれども、今日は気にもならなかった。
「お暑うございます」
 と声をかけて舟久の裏口から入り、女将のおしなと二言三言ことばを交わしながらも、今日はなんだか自分がずいぶんと大人になったような気分がしていた。そもそも伊平のような女ったらしとおいとが仲良くなったりするはずがないのだ。あれこれ心配するのは馬鹿げたことのような気になってきていた。
 平太が梅本に帰ると、先に発っていった文次と伊平はまだ帰ってきていなかった。親方の吾助がひとり板場の隅で一服つけていたので、「あにい達はまだですか」と尋ねると、
「昼の配達は一件だけだから、どこかで飯でも食って帰ってくるそうだ」と答えた。
 けっきょくその日の昼は、平太が給仕をしながら花枝と平太の二人が食事をし、吾助は家に帰って飯を食うのだと言っていったん帰ってしまった。
 飯を食べてあと片付けが終わると、八ツの頃まですることもなくなるので、平太は自分の部屋に戻って昼寝をした。女将と自分以外には人気がないので、とても静かな昼下がりだった。
 夢の中で、平太は母親に叱られていた。
 幼い頃とても人見知りだった平太は、ちょっとしたお使いものでも嫌がる子どもだった。そんな平太のことを、母親のおつねはよく「まったくこの子ときたら、よわむしで困ったものね」とぼやいていた。父親の長五郎が生きていた頃は、「まあそう言うな、おつね。平太だってそのうちに変わるさ」と言ってくれていた。
 けれども父が死んでからというもの、母親の態度は目に見えて刺々しくなってゆき、
「ほんとにあんたはよわむしだね」
 という言葉にも遠慮会釈というものがなくなった。
 ある時、見知らぬ男が店──その時はまだ木挽町に店があったのだ──にやって来て、真っ昼間からおつねと二人で酒を飲んだあと、いざ帰るという時に「どら、平坊、駄賃をやろうから、そこいらで辻駕籠を拾ってきてくれないか」と言った。役者のように優し気な顔をした男だった。亡くなった父親に似ていなくもなかったけれども、何かが決定的に違っていた。平太がためらっていると、
「平坊はだめよ、半之助さん。この子に頼んでも無理ってものよ」
「そうは言っても、もう十歳になるんだろう。大丈夫さ」
 平太は二人のやり取りを聞きながら、往来で駕籠かきを呼び止めるところを想像してみた。駕籠かきといえばたいていは屈強な体つきをしていて、二の腕に彫り物をし、真冬をのぞけば年中ふんどし一丁で辻待ちをしているのが普通だった。自分にはとても声などかけられそうもない。そう思ってもじもじしている平太に、酔ったおつねは、
「よわむしだね、あんたは本当に。てんで、からっきし意気地ってものがないんだ。いったい誰に似たんだろうね」
 と眼もとを赤くして言った。それから「ほら、お行き」と犬でも追い払うように言われても、平太は動くことができなかった。
 ──違う、おいらはよわむしなんかじゃない。
 心の中では、必死にそう言っていた。でもそれが言葉にならない。
 ──違う、違うよ、おいらはよわむしなんかじゃないよ。
 誰にも伝えることができない叫び声を、平太は幾度も発し続けた。自分では声に出しているつもりでいるのに、まったく伝わらない。母親と男とは、平太のことなどもう意に介していない様子で楽しげにふたたび酒を飲んでいる。
 ──違う、違うよ。
 そこで目が覚めた。
 昼寝をしていて、うなされていたのだ。びっしょりと盗汗(ねあせ)をかいていた。夢を見ながら泣いたせいで、眼尻からこめかみにかけて涙が乾いた跡があるのが自分でも分かった。さっきまで最高の気分でいたのに、なぜあんな夢を見たのだろう。すると廊下の奥の花枝の部屋のほうで、花枝とおいとが話している声が聞こえた。いまの自分はあの頃の自分とは違う、いまの自分にはおいとという存在があるのだ。そう思って、ふいに平太は気がついた。なぜ、おいとの声がするのだろうか。
 思わず部屋を飛び出ると、戸を開けるのに大きな音がしたためか、奥の部屋でもおいとが戸を開けてひょいと姿を現した。平太が何歩か彼女のほうに駆け寄って、「おいとちゃん、今日は稽古だったんじゃないのかい」と問うと、
「お師匠さんがね、ちょっと風邪気味だったから、今日は早く帰ってきたのよ」
 と答えた。
「そうかい」
 何気ない口調で答えたつもりでいたけれども、おいとは彼のあわてた様子に気付いて、「どうしたの」と逆に心配そうな調子で聞いてきた。
「泣いてたの」
「……ちょっと悪い夢を見ただけさ。なんでもないよ」
「そう」
 それからおいとは微笑んで、振り袖の帯の上のところ──襟元の合わせのところに差し入れていた匂い袋をちらりと平太に見せてからまたもとのようにしまい、両手でそこをそっとを押さえてみせた。
 それは、平太が初めて見るおいとの女っぽい仕草だった。
 どきりとした平太はぎこちなく笑い、自分の部屋へと戻った。大丈夫だろうか。おいとが帰ってきてしまったのは、計算外だった。いまなん刻だろう。それに伊平はもう帰ってきているだろうか。
 ようはしたで伊平とおいとが顔を合わせなければいいのだ。そう思って平太はそっと階下へおりてみた。すると吾助の姿は見えなかったが、文次は板場で包丁を研いでいた。ということは伊平も帰ってきているのだ。思わず平太は駆け足で裏口から外へ飛び出した。 彼が昼寝をしている間に空模様も変わってしまったらしい。空はまだ明るい部分と、鉛色の雲に覆われている部分とでまだらになっていた。空気はたっぷりと湿り気を帯びていてむし暑く、いつ降り出してもおかしくないように見えた。
 平太は自分の姿がむこうから見えないようにと気を配りながら、立ち木の陰に隠れて垣根のほうをうかがった。すると、門の近くで立葵がきれいに黄色の花を咲かせているその脇で、伊平が着物の裾を片端折りにして立っているのが見えた。手拭いを肩に乗せ、手には切り出しのようなものを持っていて、しきりに何か木切れのようなものを削っていた。しかしその行為に夢中になっているわけではなく、ときおり周囲をきょろきょろと見回している様を見ても、誰かがやってくるのを待っているのは明らかだった。
 平太は姿を隠して、どうすれば良いのかを必死で考えた。泣きたい気分だった。おいとと伊平は、平太が寝ている間に待ち合わせの約束でもしたのだろうか。もしそうだとしたら、もうなすすべはないのだろうか。考えているうちに、ちょうど遠雷のように石町の鐘が空に響き、八ツになったことが知れた。
 ──もしおいとと伊平が約束をしていなかったとしたら。
 なんとかおいとを外に出さないようにしなければいけない。そう思って裏口の戸の前まで戻ってふと見ると、板場の上がりかまちのところにおいとのものらしき駒下駄が脱いであるのが見えた。平太がそれに気付くのと、おいとが階段を下りてきて平太の前に姿を現すのとが同時だった。
「おいとちゃん」
 そこから言葉が続かなかった。しかし「──どこへ行くの」とあとに続くはずの無言の問いに答えるように、
「ちょっとおっかさんに頼まれて、お使いものにね」
 と屈託のないようすでおいとは答えた。
「おいらが代わりにいってこようか」
 上ずった声でそう言いながら脇のほうに目を走らせると、文次はまだ包丁を研いでいたが、彼が見ると文次もぎょろりと平太の顔を見た。──止めなければいけない。そう思うのだけれど、文次がこちらを見ているのがとても気になった。
 平太の様子が少しおかしいのに気が付いたのか、おいとは訝しげな表情で「いいわ」と答えた。
「あたしが頼まれたんだし、それに平太さんは仕事が始まるでしょ」
 そう言われると平太はそれ以上何も言えず、彼女が裏口から出て行くのを見送るほかなかった。そしてすぐに、そとで「あら、伊平さん」という声を聞いた。
 ──なぜ少々強引にでもおいとを引き止めなかったのか。
 平太はおのれの勇気のなさに唇を噛んだ。
「おい、平太」
 振り返ると、文次がこちらを見ていた。
「そこのたらいに蜆が入ってるだろう。もう砂抜きも終わったろうから、剥き身にしてくれ」
 普段ならまだもう少しのんびりしていられる時刻だ。「はい」と答えながらも、おいとが去ったほうをちらちら見ている平太に、文次はするどい口調で「ぼやぼやすんなよ」と言った。平太はなすすべなく、四半刻ほどもかけて言いつけられた作業をするほかなかった。その間そとからは何の声も聞かれなかったし、伊平もおいとも帰ってくる様子はなかった。
 やがて作業もひと段落したために、平太は外へたらいの水を捨てにいくのを口実に表へ出た。すると小雨がぱらつき出したなか、さっき伊平が立っていたその場所で、伊平が立ったままおいとを抱いているのが見えた。平太はあわてて二人からは見えないよう椎の木の陰に隠れた。
 ──そんな馬鹿な。
 伊平はこちらにやや背を向ける姿勢でいたし、おいとの顔はまったく見えなかったが、あきらかにさっき見たばかりの彼女の振り袖が、腕をまわした伊平の袖の下に見えた。
 何かの宣告を受けたかのように、平太はしばしその場所に立ち尽くした。あり得ないことだった。
 するとにわかに雨足が強くなり、上空で雷が鳴り始めた。裏口の戸の中から文次がぬっと姿を現し、「ばかに暗くなったと思ったら、降ってきやあがったな」と言った。
 そこへおいとが小走りで戻ってきて、平太と顔を合わせるとどきりとした表情を見せ、
すぐに目を背けて「傘を」とひとこと言って中へ入っていった。
 ──自分の目に間違いはなかった。
 あの表情がその証拠だ。おいとと伊平が抱き合っていた。おいらはこの目でそれを見てしまったんだ。
「おい、平太。中へ入れ」
 文次にそう声をかけられても、平太は動くことができなかった。
 そこへ伊平が、雨避けに手拭いで頬かむりをしたなりで戻ってきた。
「お、平の字じゃねえか」
 きっとわざと時間をずらして戻ったのだろう。口惜しい、というよりも、何も考えることができなかった。ぼんやりとした眼で下を向いている平太に、伊平はなおも何か言おうとしたが、「おい、二人ともさっさと中へへえれ」と文次が強い口調で言ったために、彼は軽く舌打ちをして先に中へ入っていった。
 雨はいよいよ強くなり、表は日暮れのように暗くなった。ちょうどそこへ傘を差して吾助が戻ってきて、雨に濡れている平太を見ると、「おい、びしょ濡れになっちまうぞ」と言って平太の肩を抱いて中へ入った。その後平太も仕事に加わったけれども、頭の中では先ほど見た伊平らの姿が焼き付いて離れず、吾助らに言われるままにただ手を動かすだけだった。
「ちぇっ、こんなに暗くなっちまっちゃあ仕事にならねえな」
 文次がぼやくとおり、外では雷がしじゅうごろごろいっていて、家の中は宵の刻のように薄暗くなってしまった。それでも今日は夕方に配達がないので気が楽だった。明日の昼前に向島のほうまで届けなければいけない弁当の注文がたくさん入っていたため、吾助をはじめ全員が薄暗いなか黙々と働き続けた。平太も菜を洗って切り、水にさらしたりといった下ごしらえのほか、盆の供え物につかう瓜や茄子の牛馬を作ったりしていた。
 やがて一刻も経つと西日が顔を出すようになって、夕立ちもひとまずは収まった様子となった。文次が戸を開けて外をのぞいてから、「止んだようですぜ」と吾助に声をかけた。
 吾助も表の様子を見て、「しかしこの分じゃあ──」と言った。
「明日も夕立ちになるだろうな」
「雷三日と言いますからねぇ」
「明日は早いとこ仕事に取りかかって、早めに配達まで済ませたほうがいいだろうな。そうでねえと、向島からの帰りにざっと降られるかもしれねえ」
「そうですね」
「よし、今日はもう仕事はやめだ。そのかわり明日は早くから仕事に取りかかるぜ」
 そう言って吾助も文次もさっさと帰り支度にかかった。
 ──伊平はいったいなんの話をしたのだろうか。
 これまで伊平とおいとが親しげに話をしているところなど平太は見たこともないのだ。それがいきなり抱き合うなんて考えられない。
 また平太にはおいとが何を考えているのかがまったく分からなくなってしまった。彼はおいとが昼過ぎに、匂い袋を自分にちらと見せたときの表情や仕草を思い出して、そのすぐ後に伊平と抱き合っていたことがまったく理解できなかった。いったい同じ人物にこの二つの行動が続けてできるものなのだろうか。
 吾助と文次は花枝に挨拶に行ったあと、さっさと帰り支度をしていた。
 平太は雨上がりに夕日が差してきているなかを、下駄を履いて表へ出た。地面がぬかるんでいるために慎重に歩きながら、垣根のほうに行ってみた。立葵の黄色い花は夕立ちの強い雨を受けてみなしなだれていた。ここで、さっきおいとは伊平と抱き合っていたのだ。
 と、彼は足もとに落ちている何かにふいに注意を引かれた。雨に濡れて半ば泥に埋もれていたのは、平太が昨夜おいとにあげたばかりの匂い袋だった。
 そのことに気がついても、平太はしばらく身じろぎもせず黙って足もとを見つめ続けた。様々な感情が喉元にこみ上げてきて、浮かんできた涙で赤い匂い袋がにじんで見えた。きっと、この世の中で起こることすべてがいんちきなのだ。そんな気がした。それなのに心の中で何かを信じ続けるなどというのは、馬鹿げたことなのだろうか。足もとに落ちているのは、まるで自分自身の心のようだった。それが雨に濡れて泥を被っているのを見るのは、とても恥ずかしいことのように思えた。
 平太は下駄の歯で足もとの地面を蹴って掘り返した。ふだんは固くしまっている場所であったけれども、ぬかるんでいるために簡単に小さな穴を掘ることができた。そうして彼は落ちていた匂い袋をやはり下駄の歯で穴の中に蹴り込み、また泥を被せて、何もなかったかのように埋めてしまった。くやしくってくやしくって、じっとしていることができなかった。彼は目の前にあった立葵の花びらにふいに手を伸ばし、むしっては地面に投げつけ、むしっては地面に投げつけを繰り返した。そこへ、
「おい、平太」
 と背後から伊平が声をかけてきた。
「ちょっと話があるから面をかしな」
 そう言われても、怖くはなかった。ただひたすらに口惜しくって、拳をぎゅっと握りしめながら伊平のあとを付いていった。
 伊平は平太を近くの稲荷まで連れてゆき、赤い鳥居をくぐって中に入り、杉の木の陰に平太を引っぱり込んでから、自分の身体で道からは見えないように蓋をした。
「平太先生よ、おめえ、昨日おれに文を渡すって約束したよな」
 平太は黙って伊平の腹の辺りを見つめた。
「今日おいとに聞いたら、そんなものは渡されてねえって言ってたぜ。こいつはどういうわけだ。説明してもらおうじゃあねえか」
 こいつの腹を思いっきり殴ったらどうだろう。目方はだいぶこっちのほうが軽いけれども、背はさほど変わりはしないのだ。平太は相手が倒れて苦しんでいるさまを想像した。
「おい、なんとか言ったらどうなんだ。約束を反故にするのは男らしくねえとは思わねえのかよ」
「うるさい」
 と平太はひとこと言って相手の顔を見返した。伊平は目をぐっと細めていて、唇の端をぐいと曲げて「──うるせえとはご挨拶だな」と言った。平太は一瞬気おくれがするのを感じた。
「てめえが約束を反故にしたってえのに、うるせえとはどういうこった」
 すると平太の中で何かがはじけ、伊平の腹を殴りつけていた。自分では思いっきり殴ったつもりでいたけれども、伊平は「おお、いてえ」とにやけ顔で言いながら、平太の腕をつかんで、いとも簡単に背中のほうへとねじり上げた。
「こいつはどういう風の吹きまわしだ、平太先生よ」
 伊平はいかにも面白そうに声を上げて笑いながらそう言った。
「ええ、なんで俺がおめえに殴られなけりゃあならねえんだい」
 平太はどうにも身動きができなくなったのを感じて、おのれの力のなさを痛感した。
「お前なんか」
 と言って泣き出しそうになってしまったのを堪えるために、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「……お前なんか、どうせおいとちゃんのことを好きでもなんでもないんだろう。それなのに……」
「だから文を渡さなかったっていうのか」
 平太が暴れているために、伊平も息をやや荒くしてそう訊いてきた。
「すっかり兄き気取りってわけか」
「うるさい」
 と今度は声の限りに叫んだ。
「うるせえのはそっちのようだぜ」
 と言って、伊平は左手で平太の口を押さえ、それから「ははあ」とさも面白そうに声を上げ、平太の耳元に口を近寄せて囁いた。
「おめえ、おいとに惚れてるな」
 一瞬、平太の動きが止まった。
「そうか、そうだな。こいつは気が付かなかったぜ。へええ、お前がおいとに惚れてるとはねぇ。おめえも色気づいたもんだな」
 そう言って、伊平は左手で平太の股間をぐいとつかみ、平太は「あっ」と言って身体をくの字に折り曲げた。
 ──なんていやらしい奴だろう。こいつ、殺してやりたい。初めてそう思い、
「お前なんか、ただの下衆野郎だ。お前なんか、お前みたいなただの女ったらしがいつまでも大手を振って表を歩けると思ったら大間違いだぞ。そのうちお前みたいな奴は──」
 とそこまで叫んだところで、伊平がふいに平太の腕をつき放して、かわりに「ぱん」と大きな音が鳴るほどの平手打ちを食らわせた。
「うるせえぞ、平の字」
 それから平太の胸ぐらをつかんでねじり上げ、低い声でこう言った。
「おめえがおいとに惚れるのは勝手だけどよ、おめえはおいとには惚れちゃあいけねえってことを忘れてるんじゃあねえのか」
 平太の動きが完全に止まって、「どういうことだい」と言った。
「まさか、知らねえんじゃねえだろうな。おめえがおいとの本当の兄きだってことを」
「え」
 と言ったきり、平太は今の今まで怒りに震えていたことさえも忘れて、真顔で伊平の顔を見つめた。
「知らなかったのか」
「知らないよ。だいたいおいらがおいとちゃんの兄きなわけが……」
 と途中まで言って、考えてみるとこれが初めて聞く話でもないことに思いいたった。今までも聞いたことはあったのだ。例えば笑い話のなかで。または「この二人は、まるで本当の兄妹のようねぇ」という言葉で始まる他人からの話のなかで。しかし冗談だとばかり思っていたのだ。それに、一度はおいと自身から聞いたことさえあった、「平あんちゃんは、あたしの本当のあんちゃんかもよ」と。
「本当に知らなかったっていうんなら、ずいぶんとうっかりした話だぜ。だってよ、いままで不思議に思ったこたあなかったのかよ、ただの丁稚の身分のおめえが、どうして女将さんやお嬢さんと一緒に飯を食ったりできるのか」
 言われてみれば、たしかにそのとおりだった。それに、考えてみれば自分はおいとの父親が誰なのか知らないのだ。
「おめでてえ野郎だぜ。これは親方も、文次あにいも、みんな知ってる噂だぜ」
 あきれたような顔をして、吐き捨てるような口調で伊平はそう言った。
 その夜、夕飯のときに平太はほとんどひと言も口を利かなかった。
 夕飯の前にも、精霊棚の飾り付けや供え物の準備をしながら、平太が終始むっつりと黙っていたうえに、おいとまでもが平太と視線を合わせないようにしているのに気が付いていたため、花枝は夜になってから平太の部屋へとやって来て、「なにかあったのかい」と尋ねた。
「今日はずっと沈んでいるようだけど、何か気になることがあるんなら、わたしに話しておくれよ」
「ご心配かけてすみません」
 平太は正座をしてうつむいた。
「おいととけんかでもしたの」
 そう聞かれてもただ黙っている平太を見て花枝は、
「わたしはね、あんたのことは自分の子同然だと思っているんだ。あんたを引き取ったときっから、その気持ちが変わったことはないんだよ。あんたはおっかさんのもとを離れて暮らしているだろう、だから、ここにいるときはわたしがあんたのおっかさんのつもりでいるんだよ。だから、遠慮なんてすることはないんだよ。なんでも話しておくれ」
 花枝の表情はしんけんそのものだった。あらためて平太が花枝の顔を見ると、まるで本当の母親が息子に話をしているように感じられた。平太は自分の実の母親のことを頭に思い浮かべた。逐電してから二年ほど行方をくらませたあと、おつねはずっと本所に身を落ち着けていた。けれどもその後も男の出入りが絶えず、平太が薮入りで盆と正月に帰るたび、よそよそしい態度しか取ることができない母親だった。いっそあんな母親よりも、いま目の前にいる花枝のほうが、自分の母親であってくれたなら。
「おっかさん」
 と、彼は花枝に呼びかけていた。花枝はその呼びかけを聞いて、少しどきりとした様子を見せた。
「……おいとちゃんのおとっつぁんは、誰ですか」
「え」
 予期していなかった問いに、花枝は今度ははっきりとたじろいだ様子を見せた。花枝の目から見ても、行灯の明かりにぼんやりと照らされて、こちらを見つめる平太の顔は憔悴し切った者のように見えた。
「おいとの父親は、早くに死んじまったんだよ。だから、おいとは父親の顔を知らないのさ。それにもちろん、その人はあんたも知らない人だよ」
「長五郎──おいらのおとっつぁんじゃあないんですか」
「誰がそんなことを」
 と言いかけて、花枝はあまりにしんけんな平太の表情を見て、あとを続けることができなかった。
 平太は狼狽している花枝の表情を見て、自分の問いが当たっていることを確信した。
 ──そうだ、間違いない、おいらのおとっつぁんと、おいとちゃんのおとっつぁんは、同じだ。ということは、おいらとおいとは、異腹の兄妹だということだ。だからこそ、女将さんは十歳のときにおいらを引き取ってくれ、そうして自分の子同然にかわいがってくれてきたのだ。
 ──でもそれだけだろうか。
 それだけの理由で、他人が生んだ子を、我が子同然にかわいがったりするものだろうか。むしろ父親は誰であれ、我が子だからこそかわいいと思う、それが母親の情というものなんじゃあないのだろうか。
 すると今度は、この人が自分の本当のおっかさんなのでは、という問いが胸をよぎった。
 おつねは美人ではあったが、母親らしいところなどほとんどなかった。見栄っ張りで、ときに冷酷だと思うような態度を平気でとった。しかし花枝は女将という立場にありながら、平太を叱りつけたことなど一度もなかった。ただの一度も。この人がおいらのおっかさんであってくれたなら──考えてみれば、そんなふうに思ったのは一度や二度じゃあない。
 でももし本当にそうであったなら、自分とおいとは同腹の兄妹ということになってしまう。馬鹿馬鹿しいといったんは思ったものの、ふとその可能性はないだろうかとも考えた。そうしたら自分とおいとは完全に兄妹であることになってしまう。でももしそうだとしたら──おっかさんが昔っから自分に冷たかったことも説明がつくし、逆に花枝が自分をあっさり引き取ってくれたこと、そしていまもとても優しく接してくれることの説明もつく。平太には、いまや何がほんとうで何が嘘なのか、まったく分からなくなってしまった。
 ──自分は誰なのだろう。誰の子なんだろう。
 平太は文字通り頭がいっぱいになり、両手で顔をおおった。もう何も考えることができなかった。
 花枝はそんな平太の様子をいたわし気な様子でずっと見つめていたが、すっと膝を進めて平太を両腕でそっと抱いた。
「よけいな事を考える必要はないんだよ」
 そう言って花枝は平太の顔をのぞき込むようにして、顔を覆っていた平太の両手を優しく引き離した。「──わたしに言えるのはそれだけだ。ごめんよ」
 平太は思いつめた表情で花枝の顔を見つめた。
「あんた……ずいぶんと疲れた顔をしているね。何があったかは知らないけれど、とにかくしばらくは思い悩むのはやめにおし。ちょうど明後日は薮入りだから、久し振りにおっかさんの顔を見て、ゆっくりとしてくるといいよ」
 花枝とのやり取りを通じて、平太の頭の中で、雲が晴れてさっと日が差すように、全てがはっきりとしつつあるような気がしていた。けれどもそれはつかもうとすると、すっと目の前からいなくなってしまうようだった。
 その夜は、奥の花枝やおいとが寝起きしている部屋もひっそりと静まりかえっていた。布団の上に横たわって、暗闇のなかで考えていると、自分が十歳のときからここで丁稚奉公をしていて、何が救いになってきていたのかがよく分かった。おいとの存在があったからこそ、自分はいろいろなことにも我慢してくることができたのだ。でもそのおいとにとって、自分がどんな存在であるかが、今日はっきりと分かってしまった。
 あの匂い袋は、おいとがわざと捨てたのではないのかもしれない。でもそうでないとしても、抱き合っていたことで落ちてしまったのだろう。そう考えるとよけいに切なかった。あの匂い袋のように、穴を掘って自分自身をも埋めてしまいたいと思った。この場からきれいさっぱりといなくなってしまうことができたら、どんなに楽だろうかと。
 平太は闇のなかで仰向いたまま、両手で顔をおおった。矢継ぎ早に様々な思考がわき上がってきて、彼の心は波間に浮かぶ小舟のようにそのなかで翻弄された。自分で自分をかわいそうだなどとは考えたくはなかったけれども、大切に育てられてきた少年時代のことがしきりに思い出され、その頃とあまりにも変わってしまった現在の境遇のことを考えると切なくって、生きているのが嫌になった。朝目覚めたら違う自分になっていたらどんなにいいだろう。あるいは眠ったまま目覚めることがなかったとしたら……そんなことを考えているうちに、やがて眠りに落ちてしまった。夢の中には幾度もおいとが出てきて、そのたびごとに目が覚めた。夢の中では、おいとはただ彼に微笑みかけるばかりであった。
 翌日は、昨日の午後がどしゃ降りになったことなど嘘のように、朝からきれいに晴れ上がっていた。いつもまだ暗いうちから起きるのが習慣であったのに、この日の平太は明け方までまんじりともしなかったせいで寝坊をしてしまい、あわてて一階へ下りると、花枝がすでに朝飯の準備を終えたところだった。
「すみません、女将さん」
「なに、いいんだよ、たまにはね」
 花枝はそう言ってから少し間をおいて、
「いつもお前さんに任せっきりだったからね。たまにはこういうのもいいもんだ」と、照れたような顔をして言った。
 そうして朝飯を食うときになっても、おいとが下りてこないようなので、平太がそわそわしていると、花枝は「おいとはなんだか具合が悪いようでまだ寝てるんだよ。一緒に食べられなくって堪忍しておくれ」と言ったけれども、平太もおいとの顔を見るのは辛かったので、むしろありがたかった。
 きのう言っていたとおり、吾助と文次はいつもよりも早くやってきていた。今日の昼の注文は量も多かったため、朝飯を食い終えてからは平太だけでなく、花枝も支度を手伝った。やがて皆からは半刻ほども遅れて伊平がやって来ると、めずらしく吾助が大きな声で、
「てめえ、いまなん刻だと思ってるんだ」
 と叱りつけた。
「きのうおれがなんて言ったか覚えてねえのか。やる気がねえんなら、帰ってもらったっていいんだぜ」
 伊平は身を小さくして「すみません、親方」と言って謝った。
 しかし平太はそんなやり取りを見ても、伊平のことをいい気味だとは思わなかった。むしろ諦めきったような心持ちになっていたので、ただ黙々と、吾助や文次から言いつけられるままに支度をした。
 今日の昼に届ける弁当は、いつもの昼と夜に入る注文を合わせたよりもさらに多い量だった。向島の貸し座敷を貸し切って、何か宴会でもあるらしい。それとも、今日の料理には肉も魚もいっさい使わなかったので、宴会ではなく迎え盆のなにかの会食だろうか。昨日の午後にある程度は下準備もしてあったので、今朝はほぼ料理の仕上げと、あとは詰め合わせの作業だった。
 やがて予定どおりの刻限には支度も整ったため、弁当をけんどんに詰めて届けることとなった。量が多かったために、この日は文次、伊平、平太の三人ばかりでなく、親方の吾助も含めて総出で出かけることになった。
 全員がすぐに身支度を終え、平太も尻端折りにたすきがけ、頭には手拭いで頬かむりをしたなりで出発をした。なにしろ四ツ半までには先方に届けなければならないのだ。舟で行けば簡単だがそういうわけにもいかない。初音の馬場から向島まで(かち)で行くには、浅草御門を通って雷門までゆき、吾妻橋を渡ってゆくのが一般的だが、この道筋だと人通りが多いため、一行は両国橋を渡って、大川沿いの道をひたすら北上することにした。
 四ツの鐘が鳴る前には出発したが、この日も朝から強い陽射しが照りつけていて、西両国の広小路の辺りもすでに陽炎が立っているように見えた。それでも薦張りの見世物小屋が立ち並ぶ広小路を抜けて両国橋の上に立つと、川風が吹き抜けるのでいくらかは涼しかった。橋の上から眺めると、小型の帆船や荷足舟、猪牙舟のほかに、この時刻でも屋形船がいくつも川面に浮かんでいて、絃歌の音が風に乗って聞こえてきた。橋の上から眺めると、まるで別世界の出来事のような気がした。
 橋を渡ってからは、左手はすぐに川で、右手は延々と武家屋敷がつづく単調な道だった。しっくいを塗った塀が長くつづく大きな武家屋敷を差して、吾助が「松平伯耆守さま」「松平右京亮さま」などと教えてくれたけれども、平太の眼にはみな同じように見えたので興もなかったが、櫛形につづく御米蔵の入り江の様子や、大川の両岸を渡し船が行き来する様子を見ながら、ふさいでいた平太の心もすこし晴れてくるようだった。
 一行は途中休みもしないかわりに、ゆっくりとただ歩き続けた。やがて吾妻橋を過ぎる頃に、しんがりを歩いていた吾助が、前を歩く平太に「もうすぐだぜ」と言った。
 源森橋を渡って、右手に広大な水戸家の下屋敷が広がるあたりまでくると、風景が変わってきた。左手の大川の対岸には河岸が続いているので艀がいくつも見え、またそこに舟が幾艘も繋留されているのも見えた。そして遠目に見ても、なんの鳥かは分からないけれども、海鳥らしき白い鳥が舟の上にとまっていたり、岸の上を鳶が旋回したりしていたりするのが見受けられた。
 やがて水戸家の下屋敷を過ぎると、目の前には田んぼが広がってきた。先頭を歩いていた文次が立ち止って路傍に荷を降ろしたので、みなも立ち止って顔や首筋の汗を拭った。吾助が三谷堀に架かる今戸橋のほうへ顎をしゃくり、「しばらくこっちにも来てねえな」と言い、文次が「なか(新吉原)ですかい」と答えた。
(かかあ)持ちになると、どうも腰が重くなっていけねえ」
「あっしもしばらくご無沙汰でさぁ」
 二人のそんなやり取りを聞きながら、平太はひとり対岸の瓦焼場から立ちのぼる煙を眺めていた。
 やがて吾助が仰向いて「暑くなってきやがったな」と言うと、文次が「三囲と長命寺を過ぎればすぐですね」と答え、行く手のほうを眺めやった。
 ここまで来ると人通りもまばらで、右手に目を転ずると、木々の間から見える稲の上をしきりに燕が低く飛び交っていて、田んぼの向うでは雲雀が鳴く声が途切れることなくずっと聞こえていた。平太はそんな周囲の風景をぼんやりと眺めていたが、そう言えばここいらに来るのは初めてではないことに気付いた。風景になんとなく見覚えがあるうえに、三囲神社や長命寺という名を聞くのが初めてではないことを思い出したのだ。
 いつ来たのだろうか。
 そうだ、あれはまだおとっつぁんが生きていた頃のことだった。亡くなる二三年前の頃のような気がするので、おいらが六つか七つの頃のことだろう。歩いていった記憶もないので、舟で行ったのではないだろうか。
 そこで吾助に、「親方、柳橋あたりから向島へは、舟で行けますか」と尋ねてみた。吾助は「ああ」と答えてから、先ほど文次と話していた今戸橋を指差して、
「あすこまで猪牙で行って、今戸の渡しで三囲まで渡してもらえばいい。もっと先に寺島の渡しもあるがな」
「どうしてだ」
 と文次が問うたので、平太は、「今日初めて来たとばかり思っていたんですが、幼い頃にこっちに来た事があるのを思い出したんです」と答えた。
「三囲や長命寺という名前に聞き覚えがあったもので」
「そうかい、おおかた花見にでも来たんだろう。ここの土手っぷちは桜がきれいだからな」
 いまは夏の盛りで周囲は緑が濃いけれども、なるほど土手沿いの道はたしかに桜の木が並木状にずっと植えられていた。しかしそう文次に言われて記憶をたどると、土手沿いを花見をしたというよりも、もっと鄙びた風景の中で、花の咲いた木々の間を走りまわった記憶があった。まわりにはまったく緑はなかったし、寒々しい景色の中だったので、あれは桜ではなく、梅の花だったような気がした。
「……ここいらに、梅の花の名所はありますか、親方。どうも桜じゃなくって、梅の花見に来たような気がするんですが」
「だったら新梅屋敷まで足を伸ばしたんだろう。今日行く貸し座敷のもう少しさきで、白鬚神社の奥だな──おめえのおとっつぁんは羽振りも良かったが役者や芸者衆とも付き合いがあったようだから、毎年向島に梅見に出かけたとしても不思議はねえ」
「おとっつぁんのことを知ってるんですか」
「直接は知らねえよ。女将さんから聞いて知ってるだけのこった」
 直接は知らないまでも、親方の吾助の口から自分のおとっつぁんのことが話題に上るのは、なんだかとても不思議な気がした。
 あの頃は、いちばん幸せな頃だった。おとっつぁんもおっかさんもとても優しくって、「平坊、寒くはないかい」などとあれこれ世話を焼いてくれた。皆で花見を楽しんだあと、供に付いてきた下女が筵を敷いて支度をしてくれたところへ皆で座り込んで、持参してきた弁当を食べたのだ。おっかさんは周囲の花見に来た人々の中でも一番きれいに見えたし、おとっつぁんのぱりっとした羽織姿もとても様子が良かった。花見客の中で、自分は鼻高々だったのだ。寒かったのであのあと皆は茶店で甘酒を買って飲み、自分は子ども扱いで買ってもらえず、ぐずったので代わりに焼いた団子を買ってもらったのだった。
 思い出し始めると、今まできれいさっぱり忘れていたことが、つぎからつぎへと思い出された。楽しかった思い出なのに、なぜすっかり忘れてしまっていたのか不思議だった。
 しかしそんな平太をよそに、吾助が「さあ、行くとするか」と言って荷物を担いだので、平太も荷を担いで文次や伊平のあとに付いて発っていった。
 立ち話をした場所からは、目的地の屋敷まではすぐだった。「ここいらは有名な料理屋も多いんだぜ」と文次が教えてくれたけれども、貸し座敷を営む目当ての屋敷も田舎屋ふうな造りではあったが立派な構えで、もし平太ひとりだったら気後れしてしまいそうだった。
 先方の女将ふうの女とのやり取りは全て吾助がしたため、平太は言いつけられた場所に料理を出すだけですんだ。見ていると大勢の女中が忙しそうに立ち働いていて、酒屋も配達にやって来て、ずいぶん大人数の会食があるようだった。ただ彼らは配達が終わればあとは帰るだけなので、空になって軽くなったけんどんを担ぎ棒にかけて出るときには、今までむっつりと黙っていた伊平も「やれやれ、あとは帰るだけだ」と、せいせいしたといった表情で呟いた。
 すでに日は高くなってきていて、見上げるとほぼ真上に太陽があったが、雲がうっすらとかかっていて、陽射しは弱く、いつの間にか西のほうの空には灰色と黒のまだらの雲がわき出しているのが見えた。とても蒸し暑かった。
 歩き始めてすぐに、文次が伊平に「見ろよ、真っ昼間っから、いいご身分だぜ」と言い、顎をしゃくってみせたので、つられて平太もそちらをふいと見た。
 平太らが歩いている道は両側に並木状に欅や桜の樹が植えてあって、ところどころそれが切れている。その切れたところに寺の門があったり、料理屋や茶屋の入り口があったりするのだが、道の向うの文次が顎をしゃくってみせたあたりもちょうど並木が切れていて、折しも見るからに素人ではない風情の仇っぽい雰囲気の女が、どこかの商家の若旦那ふうの男の腕を抱き込むようにしながら、そこへ入っていくところだったのだ。
「うらやましい景色ですね、ちぇっ、おれもあやかりてえもんだ」
 伊平がそう言った。
「馬鹿、おめえにゃあ十年早えってもんだぜ」
 文次と伊平のそんなやり取りを聞いていても、平太には何のことやらさっぱりわからなかったが、その後も平太は歩きながらなんとなくそちらを眺めながら歩いていって、やがて並木の切れる入り口の辺りまで歩いてきたので、見るとはなしに中をひょいと覗いてみた。
 茶屋と言っても、敷地の入り口に幟が立っているだけなので一見するとよくは分からない。しかし入り口に立って見ると奥のほうに庇を長く張り出した平屋の建物が立っていて、その庇の下には床几を並べているのでそれと分かる。しかしそこに座っている客はごくわずかだった。
 その中の一人の女客に平太の眼が止まった。
 さっきの二人連れの女よりはさらに年増の女が、こちらに横顔を向けて腰掛けに座り、扇子を使っているのが見えた。ちょうどそこへ頭を丸めた僧侶か医者ふうの中年の男が平太の横を通り過ぎて、まっすぐにその女のもとへと歩んでいった。そして二人がふたことみこと言葉を交わすのが聞こえ、すぐに中へと入っていった。奥の方には別棟で幾つも建物が続いているようだった。横顔を一瞬見ただけだし、二人が言葉を交わしていたときには男の背が邪魔になって女の姿はまったく見えなかったのだが、敷松葉と紅葉の模様の帷子を着たその女の横顔と姿は、母親のおつねによく似ていた。
 まさか、と思ったけれども、二人の姿はすでに建物の中に入ってしまっていた。
 ──おっかさん。
 と、平太は心のなかで呟いた。胸がどきどきした。
 平太が立ち止っていたので、先を歩いていた吾助が戻ってきて、「どうした」と声をかけてきた。
「……あすこはなんですか」
「お前のような年若いものに教えるのもなんだが、あすこは出会い茶屋といって、お忍びの関係の男と女が密会につかうようなところなんだ。だからおめえには関係のねえところさ。そんなことよりさっさと(あゆ)びねえ。ぼやぼやしてると、昨日みてえにざっと降ってくるぜ」
 言われてみればたしかにどんどん空が暗くなってきていた。吾助に促されるままに平太もすぐに歩き始めたけれども、平太の頭の中は別のことでいっぱいだった。
 ──出会い茶屋。そうか、だからさっき伊平が「おれもあやかりてえ」などと言っていたのだ。あれは本当におっかさんだっただろうか。遠目にしか見ていないので、顔はよく見てはいない。けれども座っているときのあの姿は、おっかさんにそっくりだった。平太のなかで、「間違いない」という声と、「いや、他人のそら似だろう」という声が交錯した。間違いであってほしかった。
 それからしばらくの間は、胸がどきどきした状態はもとに戻らなかった。
 梅本にたどり着くまでの間、けっきょく雨は降らずにすんだ。ただし時おり雷はごろごろいっていたので、両国橋を渡るときは、みな少し急ぎ足に通り過ぎた。
 帰ってから吾助が花枝に午後の注文について尋ねると、今日はもう注文はないのでみな帰ってよいという声が聞こえ、伊平が「ひょう、ありがてえ」と言っていた。
 明日明後日は薮入りで仕事自体も入らないために、平太は宿下がりになり、通いの職人である吾助ら三人も休みとなる。見ると文次と伊平は、普段は怒り怒られの関係であるのに、いまは浮かれた調子でどこへ遊びに行くかなどと話をしている。「遊びに」とはむろん新吉原か岡場所へ、ということなのだろう。平太はそんな二人の会話を胸が悪くなるような思いで聞いていた。
 やがて吾助ら三人が帰ったあとに、板場の掃除をしていた平太に、花枝が声をかけてきた。
「平太さん、悪いけど、一刻ばかり留守番を頼んでもいいかしら」
 見ると花枝は紺地に鹿の子絞りで裾模様を散らしたきれいな着物姿で、
「ちょいと顔を出す義理の寄り合いがあって。じきに帰れるとは思うんだけど」
 と言っていた。
「どうぞ、行ってらっしゃい」
 と平太が答えると、花枝は「本来なら……」と済まなそうな顔で続けた。
「今日はもう仕事もないんだから、お前さんにも実家に帰ってもらってもいいところなんだけど、すまないね」
「いいえ、いいんです。どのみち今日は帰らないつもりでいましたから」
 花枝は平太の表情に何かを読み取ったらしく、しばしの間彼の顔をじっと見つめた。平太もまたそのことに気付き、にっこりと笑ってみせた。
「いえ、もともと明日帰るつもりでいたんです。ですから留守の間のことは気にせずに出かけてきて下さい」
「……そうかい、それならいいんだけどね」
 そう言って花枝は傘を手に、下駄を履いて出かけていった。
 平太は家の中が静まりかえってから、ほっと溜息をついた。一人になりたかったのだ。短い間にいろいろなことがあったので、混乱していた。おいとに渡した匂い袋のこと。おいとの父親が自分のおとっつぁんであるかもしれないこと。それからおっかさんのこと。
 おっかさんは、自分が宿下がりで帰っても、いつもよそよそしい態度でしか迎えてくれない。これで母親といえるのだろうか、と幾度思ったか分からない。一年に二度しか帰らないのに、自分で料理を作ってくれたことなどただの一度もないのだ。買ってきたもので済ませるか、あるいは平太が二人分を作っていた。
 本所の長屋に腰を落ち着けてから何年も経つが、未だに近所の人たちとも馴染まないため、平太も帰るときにはこっそりと出入りをしているのだ。近所の女たちからも、母親がどのような眼で見られているか、平太にもおおよそ見当はついていた。
 きっと今回も、帰ったらへっついの周りをきれいに片付けたり、散らばっている器物を洗ったり拭いたりするところから始めなければならないのに違いない。夕方に帰って、いきなりそんなことをやらなければならないなんてご免だった。帰るなら明日の日の高いうちがいい。そうすれば片付けものをしてから、菜っ葉や惣菜を買いに行くことだってできる。
 そんなことを考えながら一人で掃除をつづけていると、突然にどんという地響きの後にばりばりと大きな音で雷が鳴った。すると二階で「きゃっ」という短い悲鳴が聞こえた。
 静かだったから、出かけていて居ないとばかり思っていたら、二階においとがいたらしい。外へ出て見たら空は真っ暗で、ちょうど大粒の雨がばらばらと音を立てて降ってきた。それからは雷が立て続けに鳴り、外はあっという間に雨の音以外何も聞こえなくなるほどのどしゃ降りになった。平太はあわてて雨が吹き込みそうなところの雨戸を立てるために家の中を走りまわった。女将さんがどこへ行ったか分からないが、途中で降られていなければいいと思った。これでは傘もろくに差せないだろうし、それにこの降りでは雨が止むまでは帰ってこられないだろうと思った。
 そして最後に二階の一番奥の部屋へ行って、「おいとちゃん、雨戸を閉めたかい」と言おうと思ったところへ、身を縮めながら彼女のほうから部屋を出てきて、そこへちょうどまた雷が鳴り、おいとは「ひっ」と言って平太の胸に飛び込んできた。
 それはまったく予期しない出来事だった。
 平太のなかでは、初めての経験に戸惑いながらもわき上がってくる甘やかな気持ちと、自分にあんな思いをさせたのだから、少しぐらい怖い思いをすればいいのだ、という嗜虐的な気持ちの両方が、複雑に入り交じった。
「大丈夫だよ。ここへは落ちやしないよ」
「どうしてそんなことが分かるの、平あんちゃん、落ちるかもしれないじゃないの」
 この夕立ちのせいで日没後のように暗くなった廊下で、そう言って見上げたおいとの顔は、しんけんそのものだった。本当に怖いのだろう。暗がりの中でもおいとが身体を小刻みに震わせているのが分かったし、歯もがちがちと音を立てていた。
 ──どうしてそんなことが分かるの、平あんちゃん。
 そうおいとは言った。このひと言で、おいとが自分をどのような目で見ているのかが、わかるではないか。平太は「分かるさ、今までだって、落ちたことなんかないだろう」と言って、おいとの身体をそっと押しやった。高まっていたものが急に冷えてしまったような感覚があった。
「いっしょにいてよ。ねえ、いっしょにいてくれないの」
「いいよ」
 そう言うそばからまた雷がなり、おいとは身体を平太にくっつけてきた。
「そんなら下に行こうよ」
「どうして」
「だって、もしまぐれで屋根に落ちたとしても、二階にいるよりは一階にいたほうが安心なんじゃないかい」
「そうか、そうね」
 平太はおいとの手を取って階段まで引っぱっていったが、「暗くて見えないわ」と言っておいとが怖がったので、彼女の手をしっかりと握りながら、平太が先に下りてやった。そして板場の板の間とたたきの間の式台に二人で並んで腰掛けた。まだ雷はおさまっていなかったけれども、二階の部屋にいるよりは安心するらしくおいとの様子も少し落ち着いたように見えた。
「ねえ」
 とふいにおいとが話しかけてきた。
「……小さい頃にも、雷が鳴った時にこうやっていっしょに腰掛けたの覚えてる」
 覚えていなかった。
「いいや、覚えてないよ」
「平あんちゃんがここへ来たばっかりの頃に、やっぱり雷が鳴って、わたしが怖がったので、こうやってこの場所で、いっしょに並んで座ったのよ」
「ほんとかい。おいらは全然覚えてないよ」
「わたしも今の今まで忘れてたわ」
 それからしばらく二人とも口を利かなかった。平太はおいとのことをどう思ってよいのか分からずにいた。表では雨音が途切れることなく続いてい、この薄暗い中でおいとと自分が二人並んで坐っていることに、不思議と違和感はまったく感じなかった。
 するとふいにおいとが再び「ねえ」と話しかけてきた。
「なんだい」と答えて横を向くと、おいとがこちらをじっと見つめていた。
「わたしのこと、好き」
 どきりとして何も言えなかった。
「わたしのこと、怒ったりしない」
「……どうしてだい」
 どもりながらそう言うと、
「答えてよ、怒ったりしないかどうか」
 と、まるでおいと自身が怒ったような口調で言った。
「怒ったりしないよ」
 するとおいとはすっと下を向いて、右手で胸元に手を入れた。心の中で平太が「あ」と思う間もなく、何かを取り出して両の手で平太の目の前に何かを差し出した。薄暗い中で受け取ってよく見ると、それはあの匂い袋だった。
「あ」
 と今度は思わず声に出てしまった。
 するとおいとは突然に口をへの字にして涙をぽろぽろこぼしながら「ごめんなさい」と言い、それから両手で顔をおおった。あまりにも突然に泣き出したのでたじろぎながら、平太が「どうしたんだい」とようやっと言うと、おいとは嗚咽をしながら、
「……わたしね、あんちゃんからもらった次の日に、雨の中でそれを落としちゃったの。落としたのには夜になってから気が付いて、それで……それで今日いっしょうけんめい探したのよ……そしたら外の泥の中に埋まってて……ごめんなさい」
 平太の心の中で、まるで湯が湧き出てくるかのように何か熱いものがこみ上げてきて、彼はおいとに向き直り、両手で顔を覆ったままのおいとを抱き寄せた。
「……いいんだよ、そんなこと気にしないで」
「……だって、もう匂いがしなくなっちゃったのよ。それに泥だらけになっちゃって」
 平太はおいとがいっしょうけんめい匂い袋を探しているさまを思い浮かべた。自分はほぼ完全に匂い袋を泥の中に埋めてしまったから、彼女はよほど注意深く探したのに違いない。すると彼女がいとおしくてたまらなくなり、片手で匂い袋をぎゅっと握りしめながら、「いいんだよ」と何度も口にしていっそう強くおいとを抱きしめた。
「……わたし、いっしょうけんめい洗ったのよ。とってもきれいなきれでできてたのに、泥だらけにしちゃったから」
 平太の胸元で、くぐもった声でそう言いながら、おいともこちらに向き直って身を寄せてきた。そして顔を上げると、「ゆるしてくれる」
 と聞いてきた。
「ああ、そんなこと、気にもしてないよ」
 そう言ったときの平太は、全ての悩みが溶けて消えてしまったような心地でいた。
 ──自分が求めていたのは、これだったのだろうか。
 そんな思いが心をよぎった。
「ありがとう、あんちゃん」
 そう言っておいとは両腕を平太の背中に回し、平太を強く抱きしめた。すると、夏衣であるために、着物ごしにおいとの胸の丸みや体温がじかに伝わってきて、そのことに気づいて彼はたじろいだ。すると彼のなかで熱く高まってきていたものが、冷水を浴びせられたように感じられた。彼はおいとをしっかりと抱き寄せながらも、どうしたらよいのか分からずに「おいとちゃん」と呼びかけた。
「おいとちゃん」
「うん」
 と言ったきり、おいとは今度は右脚を平太の両足の間に滑り込ませてきた。暗がりの中で、裾のあいだからのぞいたおいとの白い脚は異様なほどに艶かしく、また荒い息づかいを聞いているうちに、これが本当に自分の知っているおいとだろうか、と思われた。
 やがておいとの脚が自分の股にぐっと押し付けられるのを感じると、平太ははっとしておいとを両手で押しのけた。
「どうしたの」
 と言ってこちらを見たときのおいとは、鬢の毛もやや乱れていて、まるで別人のように見えた。
「どうしたの」
 ふたたびおいとが問うた。
「べつに……どうもしやしないよ」
 そう言いながら、彼のなかでは動揺が頂点に達していた。
 少し乱れた髪。暗い中でぼうと光る白い顔。唇からは白い歯が少しのぞいていて、切れ長な眼は憂いを帯びているように見える。そして乱れた裾から見える白い脚。彼のなかでは目の前にあるものを求める欲求がこれ以上抑えがたいほどに膨らんでいるのに、頭の中ではこだまのように「違う、これは自分の知っているおいとじゃあない」という声が聞こえていた。
「わたしのこと、好きじゃないの」
「……好きだよ」
 と言いながら、これは誰だろうかと思った。
「だったらなぜ、嫌がるの」
「嫌がってないさ」
「嫌がってるわ」
 おいとは裾の乱れにいま気付いたというふうに、裾を直しながら坐り直した。そして、
「意気地なしね」
 と言った。
 その言葉を聞いて、平太の心の中で絶望的な気分がさっと広がっていった。それはみぞおちのあたりをぐっと押されるような感覚をともなっていた。いちばん聞きたくない言葉を、よりによっておいとの口から聞かされることになるなんて。いつもそうなのだ。自分らしく振舞おうとすると、誰かからそんなふうに決めつけられてしまうのだ。
 するといったんは膨れ上がっていた欲求は急速に萎えてしまい、彼はこの姿やこの言葉をどこかで聞いたことがあることにふと思いいたった。
 ──そうだ、この姿は知っている。この姿とこの台詞は、おっかさんにそっくりだ。
 なんということだろう。彼は全身から血の気が引いていくような気がした。そしてすぐに、過去に聞いた言葉を──記憶の底にしまい込んで蓋をしていた言葉を思い出した。
 ──ほんとにあんたはよわむしだね。まったく、誰に似たんだろうね。
 気付いたら、平太はくくくっと低い声で笑っていた。発作のような笑いを止めることができないのに、同時にいまにも泣き出しそうな顔になっているのが自分でも分かった。平太が急に笑い出したので、おいとも気味の悪そうな表情になって「どうしたの」と聞いてきた。
「おいとちゃん」
 と、しばらくして笑い止んだ平太は、真面目な顔をして話しかけた。
「おいとちゃんは、おいらのことをどう思ってるんだい」
「どうって、知ってるでしょ」
「はぐらかさないでおくれよ。兄きのようだって思ってるのかい。それともただの奉公人だと思ってるのかい」
「……知ってるでしょ」
 と、今度はとても小さな声で言った。さっきとは別人のような様子で、小さくなって目の前でぽつんと坐っているおいとを見ると、平太はずっと思っていたこと、そして誰にも訊くことができずにいた問いが口をついて出た。
「おいらと……おいとちゃんが本当の兄妹だっていうのは、ほんとなのかい」
「知ってるでしょ」
 これで三度目だ、と思いながら「知らないよ、だから訊いてるんだよ。おいとちゃんはほんとのことを知ってるのかい」
「わたしだって知らないわよ。ほんとはどうなのかなんて」
「おいら、ずっと知りたかったことなんだよ。だから、おいとちゃんが知ってることを話しておくれよ」
 そう言って、平太はおいとの両肩をおのが両手でつかんだ。
「ね」
「……わたしが聞いているのは、あんちゃんのおとっつぁんと、わたしのおとっつぁんが同じだってことよ」
 そう聞いて、平太は黙ってうなずいてみせた。
「──おっかさんは昔、平あんちゃんのおとっつぁんの想い人だったんだって。でも、身分が違うから夫婦にはなることができなくって、それで別れてしまったそうよ。それであんちゃんのおとっつぁんは、腹いせに両親の望まないような結婚をしたんだって」
「それがおいらのおっかさんだってことかい」
 おいとはこくりとうなずいてみせた。
「でもね、思いのほか二人の仲は上手くいったので、両親も安心したそうよ。ただ問題が二つあったって──ひとつは、すぐにできるかと思ったら二人の間になかなか子どもができなかったってこと。もうひとつは、もとの想い人との関係がじつは終わってはいなかったってこと」
 平太は驚きと好奇心を隠すこともできずに、先をうながした。
「それで」
「そしたら二人の間に子どもができたって。それでみな喜んだんだけど、生まれてみたら女の子だったんで、今度はがっかりしたそうよ」
「だって、そんなはずないじゃないか」
「そしたらおとっつぁんが言ったらしいの。実は自分には先に生まれた子がもう一人いるって。で、そっちのほうは男の子だって」
 あっと思って平太は息を呑んだ。
 外の雨は降りが強くなったり弱くなったりしていたが、いまは雷も鳴り止んで、雨の勢いも弱くなってきていた。閉め切っているために家の中はとても蒸し暑く、湿気った匂いがこもっていた。
 おいとはしばらく平太の顔をじっと見つめていたが、やがて再び話し始めた。
「……お武家や大店ではめずらしくはないことだそうよ。本妻に跡継ぎが生まれなくって、妾に男の子が生まれたときに、子どもを入れ替えるってことは──ねえ、あんちゃんはこの話を、本当に初めて聞くの」
「……ああ、初めて聞くし、想像したこともないよ、こんな……こんな話は」
 ──そうか、では、おっかさんは、おいらの本当のおっかさんじゃあなかったってことなのか。そうしておっかさんの本当の子どもは、目の前にいるおいとで、おいらの本当のおっかさんは……。
「おいとちゃんは、この話をいつ誰から聞いたんだい」
「忘れたわ、もうずいぶん前のことよ」
「それで……それで、平気なのかい」
「なに言ってるの。平気なわけないじゃない」
 うろたえている自分に対して、おいとはずいぶんと平然としているように見えた。しかしおいとはこんな話をずっと胸にしまってこれまで生きてきたのだ。さっき自分に対して見せた姿態といい、こんな話を自分に聞かせることといい、自分よりもおいとのほうが急に大人びて見えた。しかし、ここまで知っているのだとしたら、さっきおいとが見せた、あの誘うような態度はなんだったのか。平太の疑念は再びもとの場所に戻り、再度彼はおいとに尋ねた。
「……おいとちゃんは、おいらのことをどう思ってるんだい」
「……分からないわ」
「そんなのずるいじゃないか。さっきおいらにおんなじことを尋ねただろう」
「だって……分からないんだもの」
 ふいにおいとのことが憎らしくなり、平太は「おいら知ってるんだぜ」と言った。
「昨日の午後、伊平あにいとおいとちゃんが垣根のそばで抱き合ってたのをさ」
 すると下を向いていたおいとがつと顔を上げて平太を見た。その表情は、懐かしいような、と同時に胸を締め付けられるようなものだった。いつか子供の頃に、おいとが自分にこんな顔を見せたことがあったような気がした。
 けれどもおいとはすぐに下を向いて、小さな声で「……伊平さんはいい人よ。それにとっても、情の深い人よ」
「そんな……馬鹿馬鹿しい。伊平あにいが情の深い人だったら、鍋の底だって情が深いことにならぁ。冗談じゃないよ」
「そんなことを言うもんじゃないわ」
「だって、ほんとのことだぜ。伊平あにいは……ろくでなしだよ」
 思わず本心が出てしまった。たしかに伊平は、自分がこれまでに出会った中でも一番のろくでなしだと思った。あんな奴のどこがいいのだろうか。
「……そんなことを言うあんちゃんは嫌いよ」
 と、おいとは今度はまるで小さな子どもになったみたいに、下を向いたままか細い声で言った。
「おいとちゃんは、伊平あにいのことが好きなのかい」
「……分からないわ」
「分からないなんておかしいじゃないか、そしたら、おいとちゃんは好きでもない相手と抱き合ったりするのかい」
 平太がむきになってそう言うと、おいともきっとした表情で顔を上げ、
「だって、分からないものはしょうがないじゃない。それにだいたい、あんちゃんにそんなことを言われる筋合いはないわ」
 おいとの言葉にかっとなった平太は、われ知らず両手をぎゅっと握りしめた。右手で握りしめていたのは、おいとにあげた匂い袋だった。それを見て彼は重いため息をつき、少しかすれた声で「じゃあ誰が好きなんだい」と問うた。
 するとおいとは顔を上げて平太を見た。そして少女の頃そのまんまの表情で、
「おいとは、おいとのことを大事にしてくれる人が好きよ」
 と言った。
 その言葉は、染みとおるように彼の心に響いた。そうして平太が何も言えずにいるところへ、表戸の開く音が聞こえ、「たいへんな雨になったわねぇ」と言いながら花枝が帰ってきた。おいとはものも言わずに平太のもとを離れて階段を駆け上がってゆき、平太の手の中には匂い袋が残った。
「雨が小降りになったから急いで帰ってきたんだけど、家のほうは大丈夫だったかしら」
 そう言って裾まわりを気にしながら花枝は家の中に入ってきて、平太の顔を見るなり「どうしたの」と言った。
「なんでもありません」とどぎまぎしながら平太は答え、「止んだようなら、雨戸を開けます」と言って立っていった。
 雨はもうすっかり止んだようで外では鳥が鳴いており、雨戸を開けて空を見ると、西の空の際のところではもう雲が切れていて、西日が鮮やかな光を投げかけていた。その後、雨の吹き込んだところを拭いたりしながらも、平太の心の中では「おいとは──」と言った時のおいとの表情が何度も何度も思い起こされた。おいとにとっては、それがいちばん大事なことなのだ。そしてきっと、彼女はそれをずっと求めて生きてきたのだ。子どもの頃から、ずっと。そして自分は──。
 自分はただ、確かなことを知りたいだけだ、と思った。きっとこれまでは、本当のことを知るのが怖くって、避けてきたのかもしれない。でももう後戻りをすることはできないのだろう。だとしたら、これから先はどうしていったらいいのだろうか。それは分からないけれども、世の中が変わっても、また人と人との関係が変わってしまっても、けっして変わらないものがほしいと思った。
 翌朝平太はいつもよりもいくぶん早起きをして、いつもどおりに水を汲み、米を研ぎ、三人分の朝飯の用意をした。今日は仕事の分の米を研いだりする必要がないので、普段よりもだいぶ早く支度が済んでしまった。そしてこの日の朝飯は、三人揃ってはいたものの、とても静かなものだった。花枝も平太とおいとの顔をときおりじっと見守るだけで、とくにものを言うことはなかった。ただ、昨日二人の間になにかあったらしい、ということは気配で感じ取っているらしく思われた。
 朝飯を食べている最中も、また後片付けをしながらも、平太は心の中に穴が開いたような感覚をずっと感じていた。昨日の午後においととの間であんな経験をしたからなのだろうか。それともおいとからあんなことを聞かされたからだろうか。または今日は吾助も文次も、さらには伊平すらも姿を見せず、がらんとした板場を見ているせいなのだろうか。
 今日おっかさんに会ったら、本当のことを問いたださなければならないな、と平太は思っていた。そして梅本を出るまでには、おいとの口から聞いたことが真実なのかどうか、おっかさん当人から聞き出そうと決心した。
 平太の母親は、両国橋を渡ってすぐにある回向院の門前の、相生町というところの裏長屋に住んでいた。だから距離にすれば、梅本からは眼と鼻の先だった。それなのに薮入りの時しか帰らないのは、それはやはりそこまで帰りたいとは思わないからなのだった。だいたい、母親のおつねがいま住んでいるのは、平太から見れば縁もゆかりもない場所なのだ。
 四ツ前までに支度をした平太は、梅本の表口に立って頭を深く下げ、
「では女将さん、明日の晩までお暇をいただきます」
 と言って辞儀をした。今日は実家に帰る日なので、いつものお仕着せではなく、去年の夏に花枝が作ってくれた木綿の細い縞の着物姿だった。
「ゆっくりしておいで」
 そう言って花枝は平太に、いくらかの銭を包んだものを、そして「おっかさんに」と言って紙に包んだものを手渡してくれた。たぶん、手拭いかなにかが包んであるのだろう。顔を見ると、いつものままのおっとりした表情だった。けれども、「ありがとうございます」と言ってふたたび辞儀をした平太の顔を見るとふと表情を変え、
「大丈夫かい」と真顔で訊いてきた。
 平太は質問の真意がつかめぬままに「はい」と答え、梅本をあとにした。花枝の隣で、おいとはなんだかかしこまったような顔をして坐っていた。もう今までと同じ気持ちではこの二人を見ることはできないな、と平太は思った。
 相生町へは、両国橋を渡ってから竪川沿いの道を歩いてすぐなのだが、さすがに今日ばかりはおつねの住む長屋へはまっすぐには行かれず、途中の町地をぐずぐずと歩いては町家の軒にぶら下がった盆灯籠を眺めたり、家々の中から時おり聞こえる読経や鉦の音に耳を澄ませたりした。今日は七月の十五日なので、商売や仕事は休業にしているところがほとんどで、賑やかなのは両国橋のたもとだけで、いったん裏通りに入ると町なかはひっそりとしていた。
 それでもじきに長屋の木戸前まで着いてしまい、平太が入り口で立ち止っていると、ちょうど托鉢僧が読経をしながら通りから木戸前にやって来た。その姿を見ると、あたかも笠を被ったその僧侶に心の中を見透かされているような気がして、彼は不決断な様子でくるりと踵を返してもと来た道を戻ってしまった。
 そして平太は竪川に架かる一ツ目之橋の上に立って、ぼんやりと川面を眺めた。川の両側には河岸がずっと連なっていて、普段なら頻繁に舟が行き来し、荷の積み降ろしを忙しそうにしているところだが、今日は閑散としていて、岸辺には芥が浮かんでいるのが目立った。橋の上で振り返れば竪川はすぐに大川に流れ込んでいて、大川の対岸である西両国の向うには富士の山が見えた。昨日までに比べれば今日は暑さもいくぶん凌ぎやすかったけれども、こうして昼日中に橋の上でじっと立っていると、すぐに顔に汗が浮かんできた。
 あんなおっかさんでも、これまで「おっかさん」と呼んできた人が、もしかしたら本当のおっかさんではないかもしれないと思うと、いったいどんな顔をして会いに行ったらいいのか分からなかった。平太は自分のなかで決心が鈍ってゆくのを感じ、そしておのれの不甲斐なさに腹が立ってきた。そこへ後ろからぽんぽんと肩を叩かれたので振り返ると、そこに母親のおつねが立っていた。
「どうしたんだい、平坊。うちの中で待っていればいいのにさ」
 こうして思いがけずばったりとおっかさんと会ってしまって、彼は内心ほっとした。おつねは浴衣姿で、どうやら湯屋の帰りらしかった。
「あ、おっかさん」
「もううちへは寄ったんだろ」
「……いや、これからだよ」
「そうかい、そりゃちょうど良かった。おまえが半年振りに帰ってくるのに、汚いなりじゃなんだからね、湯屋に行ってきたところだよ」
 そう言って頭を傾げて髪に手をやる仕草を見ていると、昨日見たのがおっかさんだったのか、疑念が浮かんできた。女将の花枝とさほど歳は変わらないはずなのだが、おつねのほうがだいぶ老けて見えた。
 ──おっかさんも年を取ってきたんだな、と彼は初めて思った。
 長屋の木戸をくぐり、走りまわる幼い子どもやどぶ板をよけて歩きながら、二三人の長屋の住人の女房と行き会ったので、平太は自分から進んで挨拶をするようにした。
「あら、お常さん、今日は寂しくなくっていいわね」とか、
「平坊もずいぶん大きくなったのねえ」などと声をかけられても、おつねはおざなりな挨拶を返すだけだった。自分は本来はこんな裏長屋に住むような人ではない、と母親はいまだに思っているのだということが、そのつんとした態度ににじみ出ているので、平太は悲しい気持ちになった。しかし平太に対しては、おつねはいかにも楽しそうにしていた。歩きながらも平太を頭のてっぺんからつま先まで眺めて、「おまえ、また大きくなったんだねえ」などと、眼を細めて言った。
 風呂に入ってきれいにして待っていた、というわりには、戸障子をからりと開けて中へ入ると、想像していたとおりやはり部屋の中は乱雑な状態であった。流しには寿司の折りが二つ転がっていて、銚子や猪口、小鉢や皿などがそのまま放置してあったので、夕べあたりに誰かがここへ来て、飲み食いをしていったのだろう。
「ごめんよ、片付ける暇がなかったもんだからね」
 そんなおつねの言い訳を聞きながら、平太は軽く溜息をついた。
 部屋に上がっても、布団こそたたんであったけれども、枕屏風には小袖や帯がだらしなくかけてあったし、衣桁にはいったいいつ掛けたのか、いまは真夏であるのに羽織が掛けっ放しになっており、また煙草盆や煙管、箱膳などが部屋の真ん中にごろごろしていて、なんだかまるで男やもめの部屋のようであった。
「いいんだよ、平坊、わたしが自分で片付けるから」
 と口では言うものの、けっきょくはいつも平太が片付けるのだ。へっついがほこりを被っているところを見ると、もうしばらくはここで煮炊きなどしていないのだろう。「おっかさん、きちんとおまんまは食っているのかい」
 などと言いながら、平太は手早く部屋の片付けを始めた。
「この着物は箪笥にしまっていいんだね」
 小袖をたたんでしまうとき、平太はさりげなく引き出しの中に昨日見た敷松葉模様の帷子がないかどうか確認をした。家捜しをするみたいにすべての引き出しを開けるわけにもいかないので、一部しか見られなかったけれども、とりあえず昨日見た柄の着物はなさそうなので、平太は少しほっとした。
 そうして部屋の中がひととおりきれいになったところで、平太は畳の真ん中で両手をついて、「おっかさん、ただいま帰りました」と挨拶をした。そうして「これは女将さんからです」と言って包みを手渡しても、おつねは「ああ、そうかい」と気のない様子で、蝿帳の上にぽんと乗せるだけだった。
 そのあと二人は、昼飯におつねが湯屋の帰りに屋台で買ってきたらしい稲荷鮨を食べた。食べながらおつねは、ひとしきり平太の近況について尋ねたりしたあと、「おお、そうだ」と言ってもともと細い眼を大きく見開いて言葉を継いだ。
「きのう歳三さんがここへ来たんだよ。なんでもばったり柳橋の船宿で会って、久し振りで昼飯を一緒に食べてうれしかったって、にこにこしながら話していったよ」
「ここへ、伯父さんがかい」
「そうだよ、わたしがここにいるのは前から知ってるからね、たまに尋ねてきてくれるのさ──そういえば平坊、お前、好きな娘ができたそうだね」
 また歳三伯父がなんでもかんでもべらべら喋っていったのだ。平太は伯父が赤い顔をして喋っている様を想像して、うんざりした気持ちになった。
「相手は誰だい」
 おつねはにやにやしながら、好奇心丸出しといった顔でそう言った。そして平太が黙っていると、「いいじゃないか、わたしには聞かせとくれよ」と言って膝を進めてきた。そうしてふと表情を変えて、
「──まさか、おいとじゃないだろうね」と言った。
 一瞬言葉に詰まった平太を見て、おつねはすぐに、
「おいとはおよし。ほかの誰を好きになったってかまやしないけど、あの娘だけは駄目だよ」
 と言った。そうして彼女の顔からは、笑みはきれいになくなっていた。
「──どういうことだい」
 平太が尋ねても、おつねはにべもない口調で「もうこの話はしたくないね」と言ってそっぽを向いてしまった。
「どういう意味なのか聞かせておくれよ」
 と再び平太が聞いても、「暑くなってきたね。いっそ今日もひと雨あるといいんだけどね」などと言いながら団扇を使い始めて、まったく取りつく島もなくなってしまった。
 自分とおいとが兄妹だというのは、もう疑いようもないことなのだろう。その後おつねは話題を変えて、この間の七夕祭りのときに、近所の子らが竹の枝先に短冊や飾りを楽しそうに付けている様を見て、幼い頃のおまえを思い出したなどという話をした。平太の心の中ではいくつかの問いが繰り返し思い出されたものの、実際にはなかなか口にすることはできず、午後もおつねの当たり障りのない話題に答えたりしていてどんどんと時が過ぎてしまった。
 やがて七ツの鐘がなったのをしおに、平太は「そとへ行って何か買ってくるよ」と言って家を出た。なにしろ家の中には、米と味噌はかろうじてあったけれども、菜っ葉もなにもないのだ。今は盆中なので魚や肉を商う店はみな閉まっているけれども、八百屋くらいは開いているだろう、と思われた。
「せっかく久し振りに帰ったんだ、なにも家で何か作らなくったって、たまには外へ食べに行ったっていいんだよ」
 そうおつねは言ったけれども、店に入っては大事な話もしづらくなるので、「いや、いいんだよ」と言って平太は下駄を履いて表へ出た。
 ──おっかさんはすべて知っているんだ。これは間違いないことだろう。すくなくともあの表情は、おいとのおとっつぁんが誰なのかは知っている表情だった。
 近所の八百屋に行くと、ちょうどもう店じまいをしようとしているところで、幾度も平太が買い物にくるので彼のことを見知っている店の主は、「おや、おつねさんとこの」と言って手を止めてくれた。盆中で仕入れをしていないせいで少し古くなった菜っ葉などを付けで買い求め、竪川沿いの柳の木の下の床見世で天ぷらを何枚か買ってから長屋に帰ると、家の中で話し声がしていた。
 初めは近所の人が尋ねてきているのだろうくらいにしか思わなかったのが、戸障子の前に立って話し声を聞いているうちにそうでないことが分かった。家の中では、
「今日は薮入りで息子が帰ってくるんだから来ないでおくれって言ってあったろう」
「そうはいったってこちとら商売だ、はいそうですかいと待ってるわけにもいかねえよ」
 などと高声で言うのが聞こえた。
 やがて「二三日うちには必ず行くって親方に伝えといておくれ」というおつねの声がしたあとに、男が出てくる気配がしたので思わず平太が戸の脇へ身を避けると、派手な格子の着物を着て平ぐけを締め、雪駄履きのまだ若い男が勢いよく戸を開けて出てきて、平太をじろりと見た後にやりと笑い、それから足早に去っていった。明らかに人相の良くない男で、平太の目には女衒かやくざ者にしか見えなかった。
 胸をどきどきさせながら家に入ると、おつねは自身を団扇であおぎながら「あら、お帰り」と言った。あんな男の訪問の後なのにおつねが平然としているので、そのことにも平太は驚きながら、「いまの、誰だい」と問うた。
「ああ、なんでもないんだよ。心配いらないよ」
 そう言われても平太の目から見ると、いまの男から比べれば、例えば伊平などは小僧っ子にしか見えないくらい悪そうな男に見えたので、心配をせずにはいられなかった。と同時に、平太が問うてもいつもおつねは何をやって暮らしているのかを明かさないので、おっかさんはもしかすると今のような男の仲間として暮らしているのかしら、と疑念を抱かずにはいられなかった。
 すると、昨日見た女のことが再び思い出されて、思わず平太の口から、「おっかさん、昨日向島のほうへ行ったかい」という問いかけが出た。
 おつねは解せない表情をして、「昨日、向島へかい。行かないよ」と答えた。
 おつねの顔つきからして嘘は言っていないように思われたけれども、平太のなかでは今しがたの出来事がきっかけとなって、次々と疑念がわいてきた。「ねえ、おっかさん──」と、平太は唾を飲み込んでから言った。
「おっかさんは、ふだん何をして暮らしているんだい。どうやっておまんまを食っているんだい」
「そんなことはおまえが心配する必要はないよ」
「もしおいらに話せないことでなかったら、教えてくれないかい」
「話せないとはどういうことだい」
 おつねは明らかに機嫌の悪い顔になっていた。
「おまえに話せないことなんかないさ。ただおまえに心配をかけさせるのは嫌だから、言わないでいるだけだよ」
 平太は立ったまま、うつむいて自分の手を見た。
「……まさか、いまの男のような人の仲間に入っているんじゃあないだろうね」
「いまの──」と言いかけて、おつねはしばし言葉に詰まったあと、
「ふん、馬鹿馬鹿しい。おっかさんは何も後ろ暗いようなことはしちゃいないから、余計な心配はおやめ。だいたい、おまえに心配されなきゃいけないほどわたしは年は食っちゃいないよ」
 そう言ってから、おつねは横を向いてしまった。
 平太は、浴衣姿で、白粉もつけずに油っ気のない地味な髷を結った母親の姿を見つめながら、──ああ、おっかさんもこんなに年を取ってしまったんだな、と改めて思った。子どもの頃の記憶の中のおっかさんは、もっときれいだった。今のおっかさんは、もうすっかり落ちぶれてしまったように見える。そう思い、悲しいというよりも不快な感じがした。けれどもそんなことを感じながらも、口をついて出たのは別のことだった。
「ねえ、おっかさん、もし──」
 平太はごくりと唾を飲み込んでから、言葉をつづけた。
「怒らないで聞いてほしいんだけどね……おっかさんは、ほんとにおいらのおっかさんかい」
 くるりとおつねがこちらを振り向いた。
「おいら、おいとちゃんから聞いちまったんだ。むかし、梅本の女将さんと、おっかさんとの間で、子どもの取り替えをしたんだって。だから、おいとちゃんがおっかさんの子どもで、おいらは──」
「ちょいとお待ち」
 そう言っておつねは平太の言葉をさえぎった。
「冗談じゃあないよ、黙って聞いてりゃあ。そんなことを吹き込まれて、おまえはそれを信じてここへ帰ってきたっていうのかい。それを言ったのはおいとじゃあない、あれの母親がおいとにそう言わせたのさ。馬鹿馬鹿しいったらありゃあしないよ」
 おつねは顔を真っ赤にしてこちらに向き直った。
「そうさ、あの女が言いそうなことさね。そりゃあおまえを引き取ってくれた義理はあるよ。けど、それとこれとは別だよ、おまえを自分のものにするのに、こんな手の込んだことをしやあがって、馬鹿にするなってんだ」
 そうして蝿帳の上に置きっ放しになっていた紙包みをつかむと包みを引きちぎり、「こんなもの──」と高い声で言った。
「こんな手拭いなんかをおまえに持たせて殊勝らしい面をしたって、わたしはだまされやしないよ」
 そうしておつねは手拭いをへっついのほうへと放り投げた。手拭いは、へっついの上にまるで伸びてしまったみたいに張り付いた。
 平太は母親の行動をあっけに取られて見た。そしてすぐに、花枝が「おっかさんに」と言って包みを手渡してくれたときの様子を思い出し、たまらなく悲しい気持ちになった。また平太には、おつねが何にこんなに腹を立てているのかまったく理解できなかった。こんなふうな母親を見るのは初めてだったので、逆に「本当にこの人が自分のおっかさんなのだろうか」と改めて思った。花枝の思いやりのある態度とは雲泥の差だ。
「じゃあ聞くけど、おいとちゃんのおとっつぁんは、誰なんだい」
 そう問われて、今度はおつねが言葉に詰まった。
「おいらのおとっつぁんが、おいとのおとっつぁんなんじゃあないのかい。違うかい」
「誰から聞いたんだい」と、するどい口調でおつねが言った。
「誰からだっていいだろう、おいらは本当のことを知りたいだけだよ」
 思わず平太も語気が荒くなった。するとおつねも乱暴な口調で、
「──だったらどうだっていうのさ。うちの人がおいとの父親だったとして、それがどうだっていうんだい。もう済んじまったことだし、それにもうあの人だってもうとっくに死んじまったんだ。ぜんぶ過ぎたことをほじくり返して、それでなんになるっていうんだい」
 平太のなかで、何かが終わってしまったような感覚があった。ついに、おっかさんも認めてしまったんだな、と思った。少なくとも、これでおいとと自分は異母兄妹であることがはっきりしたのだ。
「おっかさんには過ぎたことかもしれないけど、おいらにとっては過ぎたことなんかじゃあないんだよ」
「どういうことだい」
 ──自分はもう心のよりどころを失ってしまったのだ、という声が聞こえた。明日からおいらはどこに帰ったらいいのだろう。自分にとっては、ここも、それから梅本も帰るべき場所だとは思えなくなってしまった。そしたらどこへ行ったらいいのだろう。
「……おっかさんはさっき、おいとだけはおよしって言ってたろう。あれは、おいととおいらが異母兄妹(きょうだい)だからなんだね」
 そう言ったきり立ったままうつむいている平太を見ながら、おつねは、
「そうか、やっぱりそうだったんだね、おまえの好きな娘ってのは、おいとのことだったんだね。あの女の娘が、おまえをたぶらかしたんだ。あの女のところにおまえを預けたのは、やっぱり間違いだったんだ」と言った。
 そう聞いて平太は猛烈に腹が立った。
「たぶらかしたとか、そんなことを言う資格はおっかさんにはありゃしないよ。それにさっきからあの女あの女っていうけど、女将さんはおいらに本当に良くしてくれているんだ。反対においらは、おっかさんから優しい言葉をかけてもらったことなんか一度もないよ。それにおいらを預けたなんて言ったけど、おいらが梅本に預けられたときには、おっかさんはどこにもいなかったじゃないか」
 おつねは半ば口を開いて平太を見た。それから目を吊り上げて、
「──そうさ、わたしにはおまえの母親面をする資格なんかないよ。けどねえ、あの人が死んじまって、一人じゃあおまえを育てられないって分かってから、わたしがどれだけ苦しんだか……わたしはあの女に頭を下げて頼んだんだよ、おまえを引き取っておくれって。はらわたを引きずり出される思いで言ったんだよ。それをなんだい、おまえまでがあの女の肩を持つようなことを言って……わたしにだって意地ってもんがあるんだ。頭を下げておまえをむこうに預けてからは、どれだけ暮らしに困ったって、梅本におまえの給銀を前借りに行くような真似はけっしてしたこたあないんだ。世の中をごらんよ、そういうことをする親なんていくらでもあるんだ。もし……もしおまえがあくまでも向うの肩を持つっていうんなら、もう二度とここへは来るんじゃないよ」
 そして平太の顔をじっと見て、思い出したように「おいとだけはおよしってわたしがどうして言ったか、じきにおまえにも分かるようになるよ。なにしろあの女の娘なんだ、きっと身を滅ぼすようになるからね、わたしが言ったことを覚えているといいよ」と付け足した。
 自分のおっかさんとはいえ、なぜここまで言われなければならないのか、平太は怒りのあまりに下を向いてぶるぶると震えた。
 何も言わずにいる平太を見て、おつねは「まさかおまえ、おいとともう関係しちまったんじゃないだろうね」と言った。
 平太はおつねの顔をじろりと見返した。母親を怒りの眼差しで見るのは、初めてのことだった。この人は、世の中をそんなふうにしか見ることができないのか、絶望的な気持ちでそう思った。
 黙ったままでいる平太を見て、おつねは口の端で笑い、横を向いて「わたしの考え過ぎだったようだね。おまえにそんな度胸があるわけないんだ。おまえは、昔っからよわむしだったからね」と言った。
 最後の言葉を聞き終わらないうちに、平太はなかば声にならない叫び声を上げて、母親に飛びかかっていた。「ちくしょう、ちくしょう」と続けざまに言いながら、眼をつむりながら夢中で、その細い頸を両手で絞めた。自分でも自分を止めることができなかった。耳の中で、自分自身の荒い呼吸だけが聞こえていた。それは、母親の身体がぐったりとして重くなるまで続いた。
 やがて目の前で眼を閉じて両手をだらりと垂らした母親を見て、平太は初めて自分がやったことに気付き、息を荒くして「おっかさん、おっかさん」と呼びかけた。自分の腕の中で身体を預けている母は、びっくりするほど小さく、また痩身であるにもかかわらず、ずいぶんと重く感じた。彼はおつねの身体を何度も何度も揺り動かし、頬を撫で、叩き、瞼を指でこじ開けようとし、なんとかして生き返らせようとしたけれども、おつねはぎゅっと眼をつむった表情のまま息をしなかった。
 なんということをしてしまったのだろう。
 平太は母親の身体を畳の上に横たわらせて、肩で息をしながらその姿を見守った。目の前で起こってしまったことが信じられず、しばらくの間彼は口を開いた表情のままただ立ち尽くした。
 やがて背後に気配を感じて振り向くと、入り口の戸障子が少しだけ開いていて、そこから誰かが中の様子をうかがっているのが見えた。彼は弾かれたように裸足のまま入り口とは逆側の障子を開けて外へ飛び出した。背後では「自身番を」と言っている声が聞こえたような気がした。平太はどぶ板を踏み抜かないようにしながら、あらん限りの早さで長屋の中を駆け抜け、両国橋のほうまで走っていった。
 そして橋の東詰までくると、ここを渡るとすぐに梅本であることに思いいたり、その考えから逃れるように北へと、昨日親方の吾助らと配達に行った向島方面へと走っていった。景色はどんどん後ろへ後ろへと過ぎてゆき、それと同時に全てを置き去りにして走っていけるような感覚が少しあったけれども、夕暮れ時の対岸に駒形堂が見えてくるあたりまで来ると、もう走れなくなった。
 後ろを振り返ると、誰も追いかけてくる者はいないようだった。岸辺では駒形の渡しの船頭が舟をもやっていて、立ち止ってしまった平太を、辻駕籠が追い越していった。おそろしく身体が熱いうえに、頭がずきずきと痛んだ。
 平太はもう走ることをあきらめ、道を逸れて大川の岸辺までふらふらと下りてゆき、水際近くまでくるとぺたりと座り込んだ。
 ──おいらはおっかさんを殺してしまった。
 心の中の声がそう言っているのが聞こえた。
 しかしここ数日の出来事はまるで夢の中での出来事のようで、本当のことのようには思われなかった。思い返すとすべての出来事が無関係のように思われるのに、それらが絡み合って、結末は信じられないものになってしまった。どうしてこうなったのか、自分でもまったく理解できなかった。でも現実に起こったことなのだ。いや、自分で起こしてしまったのだ。
 するとさっき見たばかりの、畳の上に横たわったおっかさんの姿が鮮明に思い出され、彼は頭を両手で抱えた。そんなつもりはまったくなかったのだ。今でも自分のしたことが信じられなかった。平太のなかで、今日のおっかさんとのやり取り、そして覚えている幼い頃のおっかさんとのやり取りが廻り灯籠のように不思議と鮮明に思い出された。
 おいとのおとっつぁんは、おいらのおとっつぁんだった。これは間違いない。けれど、さっきのおっかさんとのやり取りを思い返すと、おいとの言っていた、むかし子どもを取り替えたという話は誤りに違いないという気がした。だって、もしそうだとしたら、なぜおっかさんはおいらのことであんなに女将さんに対して感情的になったのか、またおいとが自分の子であったなら、なぜおいとのことをあんなにも悪しざまに言うのか理解できないではないか。
 だから、やっぱりおっかさんは、あんなひとだけれども、自分の実のおっかさんだったのだ。そして自分はその実の母親を、自らの手で殺してしまったのだ。
 平太は立ち上がって土手を上り、ふたたび歩き始めた。もう誰かに追いかけられているかなどは気にもならなかった。これからおのれの取るべき行動ははっきりしていると思った。
 あたりは夕闇がだんだんと濃くなってきていた。行き交う人も少なく、今日は大川に浮かぶ舟も少ないので、川面は黒々として静かだった。もうじき月が昇るのだろうな、と平太はぼんやりと思った。
 そして吾妻橋を対岸へとゆっくりと渡り始めた。もうだいぶ暗くなってきていたために、すれ違う人なども、平太が異様な表情をしていることも、また裸足で歩いていることにも気付かないようだった。やがて橋の真ん中まで歩いてくると、欄干に身体を預けて月の出を待った。なんとなく、月を見たいと思ったのだ。今日は十五夜だし、それに今日は夕立ちもなく空が晴れているので、きっときれいなお月様が見られるはずだ。
 ──もし、泥の中になかば埋まった匂い袋を見ることがなかったなら。
 ──またもし、女将さんが持たせてくれた手拭いを、おっかさんが放り投げたりしなかったなら。
 そうすれば、あんな結末にはならなかったかもしれない、と思った。
 ──それにあの決定的なひとことだ。ああ、おっかさんがあんな言葉さえ口にしなかったら。
 彼は、人のまごころが踏みにじられるのを見るのは、もうこれ以上耐えられないと思った。人に傷つけられたり、また人が誰かから傷つけられるのを見たりするのは、もう金輪際ごめんだと思った。そして、こんな世の中で生きてゆくのはもう嫌だと思った。
 平太は欄干に両肘を付いて、大川の下流側を見やった。いつもなら品川の方に漁り火が見えるはずなのだけれども、盆中なのでそれもない。川面はただ黒々としていて、ときおり猪牙舟などが行き来するのが見えるばかりであった。
 平太はふと思い出して左のたもとを探ると、あのあと再びおいとに渡す機会を失ってしまった匂い袋を取り出した。おいとは「もう匂いがしなくなっちゃった」と言っていたけれども、鼻を近付けると微かに匂いがした。しばらくきれの表面を指先で撫でたりしたあとで、川の中に放り投げようかとも思ったけれども、その後で自分も飛び込むのだったら同じことだと思い直した。
 そして溺れて死ぬのは苦しいのだろうなと考え、でも自分自身がおっかさんをあんな目に遭わせたのだから、そうして死ぬのも当然の報いだと思っていたら、
「平坊、おまえ、振られたらしいな」
 そう言って歳三伯父がいつの間にか真横に立っていた。
 平太は歳三の顔をまるで珍しいものでもみるように見た。歳三は平太に笑顔を向けていたけれども、明らかに作り笑いで、引きつったような不自然な表情だったし、おそらくここまで走ってきたためだろう、とても荒い息をしていた。そうして両手で平太の両肩をしっかりとつかんだ。
「──そうだろう、振られたんだろう。おれが言ったとおりに、文を付けなかったんだな、きっと。違うか」
 平太にはなぜ歳三がここにいるのか、また歳三が何をいっているのか分からず、ぽかんとした顔で伯父の顔を見つめた。しかしそれも一瞬のことで、すぐに彼は歳三の手を振り払って逃げ出そうとした。しかし歳三はそんな彼を「今度ばかりは離しゃあしねえぞ」と言いながら、後ろから抱きかかえるようにして離さなかった。
 平太は、なぜかは分からないけれども、とにかくここから、また歳三から逃れなければならないような気がして、必死に暴れて歳三の手を振りほどこうとした。しかし歳三は自分の体重をかけて平太をしっかりと押さえ込んでいたので、どうにも身動きが取れなかった。彼は言葉にならない奇声を発して抵抗をし続けた。まるで水に溺れている者が必死に水面に顔を出そうとしているようだった。しかしやがて歳三の「……じゃいねえぞ」という言葉を聞くと、彼の動きは緩慢になった。初めのほうは聞き取れなかったけれども、伯父が何かとても気になることを言っていたような気がしたのだ。
 すると歳三は背後から平太の耳に顔を寄せて、
「おっかさんは、死んじゃいねえぞ、平坊」
 そう囁くように、けれどもはっきりと聞き取れる強い口調で言った。
 平太は抵抗をやめ、振り向いて歳三の顔を見た。すると歳三は目顔でうなずいてみせた。
「……ほんとかい」
「ああ、おっかさんは、息が止まって伸びちまってただけだ。だから、おまえがここからどぶんと飛び込む必要なんかねえんだよ」
 ──おっかさんは死んじゃあいなかった。
 そう思うと平太は体中の力が抜け、その場にへなへなと座り込んでしまった。そうしておいおいと幼い子のように泣き出してしまった。
 ──おっかさんは死んじゃあいなかった。
 しばらくの間、平太は泣き止むことができなかった。そうして何も考えることができなかった。ただ、背後から自分を抱きかかえるような姿勢でしゃがみ込んでいる歳三の左腕につかまって、長い間泣き続けた。
 やがて平太の脳裏に浮かんできたのは、おいとから聞いた話をはなした時の目の吊り上がったおっかさんの顔や、一ツ目之橋の上でばったり会って「どうしたんだい、平坊」と言ったときの目尻にしわを寄せて微笑んだおっかさんの顔、そして目をつむって畳の上に横たわったおっかさんの顔だった。なんだかもうずいぶん前に見た光景のように感じられた。
 そして奇妙なことに、そのあとに平太の脳裏に浮かんだのは、垣根のそばで伊平と抱き合っていたときのおいとの振り袖と、泥の中に落ちていた匂い袋の赤い色、それから薄暗い板場で、少し乱れた髪で唇を半開きにし、潤んだ目でこちらを見上げたおいとの白い顔だった。
 ──おいとは、おいとを大事にしてくれる人が好きよ。
 という声が頭の中でまた聞こえた。けっきょく、おいとも自分と同じ悩みを抱えてこれまでを生きてきたのだ。自分は妾腹の生まれか、あるいは母親でない人に育てられているのだ、という二つの考えの間で揺れながら、ずっと寂しい思いをしてきたのだ。
 彼の心の中では、自分が望むものは永遠に手に入らないという思いが、乾いた地面に水を撒いて黒い染みが広がるようにさっと広がっていった。しかしそれと同時に、おいとのことが、これまでとはまったく違った心持ちでいとしく感じられた。
「……おじさん、おいとは、おいらの妹なんだろ」
 そう言って平太は手をひらいて、握りしめていた匂い袋に視線を落とした。すると歳三もまたそれを見、「そうか──」とぽつりと言った。
「おまえがそれをやろうとしていたのは、おいとだったんだな」
「……梅本の女将さんは、おとっつぁんの昔の想い人だったんだろ……おいら、昨日おいとちゃんからそう聞いたんだ。そういう関係があったから、おいらは梅本に引き取ってもらえたんだろ」
 がっくりと頭を垂れて下を見つめながらそう話す平太を見つめながら、歳三は咳払いをしてからこう言った。
「知らねえよ……いや、おれはそこらへんの事情についちゃあ、本当によくは知らねえんだ、だから滅多なことは言うまいよ。ただ悪いことは言わねえ、おいとだけは止めときな」
「──おっかさんもおんなじことを言ったよ」
 そう言って平太は顔を上げて歳三を見つめた。歳三は平太のあまりに思いつめた様子の表情に少したじろいだ。
「それだけじゃないぜ、おいら、それ以外にも、おいとちゃんからこんな話も聞いたんだ──むかし、おとっつぁんがまだ生きてた頃に、うちになかなか跡継ぎが生まれなかったもんだから、おっかさんの生んだ子と、梅本の女将さんが生んだ子を取り替えたって……だからおいらは本当はおっかさんの子じゃなくって、女将さんの子なんだって……伯父さん、教えてくれよ、ほんとうのとこはどうなんだい、おいらはいったい誰の子なんだい」
 歳三は平太の顔や、乱れた着物の裾、それから裸足の足などを見た。久し振りに会ったらずいぶん背が伸びていて、もう大人と変わらないくらいに大きくなったと思っていたけれども、首筋や着物の裾からのぞく脛などを見ると、まだ少年のように見えた。
 目を上げると、ちょうど満潮の時刻であり、大川は流れがほとんど止まったようにも見え、とても静かな様子で水を満々とたたえていた。
「励ましになるかならねえか分からねえけれども、ひとつこんな話をしてやろう。おれは二十歳のとき、この大川から身を投げようと思って橋の上をうろついたことがあるんだ」
 歳三は平太の表情を確かめるようにいったんそこで言葉を切ったあと、すぐにこう続けた。
「──もっともおれがうろうろしていたのはこの吾妻橋じゃねえ、下流の永代橋のほうだったがな。
 なんでおれが身を投げようなんて料簡を起こしたかっていうとだな──おれの名は歳三というが、昔は違う字を当てていたんだよ。おまえはこんな話は初耳だろうな。初めは、豊かな才能に恵まれるようにと、才能の才の字に蔵という字を当てていたんだ。
 ところが、幼い頃から何をやらせても上手くはできねえ。算術もできなけりゃあ、読み書きもどうにもならねえくらいに下手くそだ。なによりまずいのは、おまえのおとっつぁんの長五郎に、何をやっても敵わなかったことだ。長五郎は血を分けたおれの弟だ。その弟に、何をやっても敵わなかったんだ。これは子供ごころにも応えたぜ。風采ですら逆立ちしたって敵わなかったんだからな。
 けど長五郎はよくできた弟だったから、おれが決まりの悪い思いをしないですむように、いつも気を使ってくれていたよ。ほんとだぜ、おまえのおとっつぁんほどの人物にゃあおれはお目にかかったことがねえくれえだ。
 けど実はそのことが一番応えたのさ。だって、おれは誰を恨めばいいんだい。一番恨みたい奴が、いちばんにおれのことを考えてくれてたんだからな。
 おれは家業を継ぐ自信がなかったから、早々と家業は弟に任せることに決めて、いろんなことを試してみたもんだ。ところが情けねえくれえに、何をやっても上手くいかねえんだ。そうして、おれが二十歳になったときに、両親がおれを憐れんで、どうやら期待をかけ過ぎたことが原因のようだからってんで、名前負けしねえようにと、今の字に改名したんだよ」
 そこまで話して、歳三は顔を上げて昔を思い出す表情になった。
「……名を変えたその晩に、おれはもう死んじまおうって思ったんだ。だってよ、こんな思いをしてまでも、どうして生きなきゃならねえんだい。そう思って、死に場所を探していて、永代橋の上をうろうろしたって話さ」
 そこで歳三は平太に向って、にっこりと笑ってみせた。
「けど情けねえ話さ、死のうと思ったはいいが、いざ飛び込もうとすると、どうにもその勇気が出ねえ。そんなふうにおれが橋の上をうろうろしていたら、ふと気が付くと橋のたもとに一人のみすぼらしい身なりの年寄りがこっちをじっと見てることに気が付いたんだ。その男は、明らかにおれが飛び込むのを見てやろうと思って待ってたんだな。おれが気付いたのを知ると、向うへ行っちまったが、番小屋の陰から遠巻きにしてこっちをうかがってるのが分かるんだ。おれはそれを見て死ぬ気が失せちまった。見せ物じゃあねえや、こんちくしょうって思ったのさ。
 いまのおまえには笑えねえ話かもしれねえが、おれはそのときに悟ったんだな、きっと。おれが川へ飛び込んで死んだとしても、それを悲しんでくれる人もいるかもしれねえが、逆にその親爺のように面白がって見る奴もいる。ひとの生き死にや一生なんてものは、見方によっちゃあどうにでも変わっちまうもんなんだ。ある意味じゃあ、おれはその親爺がいたことで、くやしいから石にかじり付いてでも生きてやろうって思ったんだから、そいつに感謝してもいいくらいなのかもしれねえ。
 それからもおれはいろんなことに手を出しちゃあ失敗の連続だ、ここから先のことはおまえの子どもの頃を思い出してくれれば分かるだろう。おまえの親父のところへだって、幾度かねの無心に行ったかしれねえ。でもその度ごとに、今度こそはって思うんだぜ、今度こそは上手くやってみせるってな。けど結局は、今に至っても、おまえの親父のようには上手くはいかねえんだ、残念なことにな。今ではもう、成功しようなんて気はさらさら起こらねえくれえだよ」
 平太は子供のころに歳三が木挽町の店にやって来たときのことを思い出した。そうだ、おいらは幼い頃、たまに来ると自分を膝にのせ、「ほうら」と言って、まるで手品師のようにたもとから土産に飴などを出してくれ、いつも愉快な話を聞かせてくれるこの伯父が大好きだったのだ。
「──おれが楽に生きられるようになったのは、おまえの親父が亡くなってからのこった。それと同時に、おまえの親父が亡くなって初めて、おれは長五郎に感謝したもんだよ
……上手くは言えねえが、人ってものは、失ってみて初めて感謝するようにできてるらしいや。いまのおれは、誰も恨んじゃいねえし、それに自分の境遇を哀れだとも思っちゃいねえ」
 平太は歳三の話を聞いているうちに、子供のころに感じていた満ち足りた感覚を思い出していた。いつもそうだったわけではないにもせよ、自分の居場所がないなどとは考えもしなかった頃があったのだ。ほんの一瞬の間、彼はそのときの感覚をありありと思い出すことができた。
「──それからもうひとつおまえに教えてやれることがある。おまえはさっき、おいらは誰の子なのかって言ってたな。そいつを教えてやろう。
 おまえが生まれた次の日に、おれは木挽町の店に赤ん坊を見に行ったんだ、そうして生まれたばっかりのおまえをこの眼で見てるんだ。それからだって何度もおまえを見に行ってるし、それに、おれはおまえのおしめを替えたことすらあるんだぜ」
 そう言って歳三はじっと平太の目を見た。
「おれが言ってることが分かるか、平太。おれがおしめを替えたとき、赤ん坊にはちゃんと付いているもんが付いてたんだぜ。これで分かったろう、おまえは間違いなく、おっかさんの息子だよ。おいとのおとっつぁんが誰なのかはおれは知らねえ、けど少なくとも、おまえは間違いなく、おっかさんの息子だよ」
 この言葉を聞いて、ずっと緊張し続けていた平太の身体からは、ようやく力がすっと抜けた。おつねは自分の本当のおっかさんだった──そう聞いて、平太は自分でも驚くほどに安堵したのだ。そうしてほとんど初めて、目の前にいるこの伯父に感謝したい気持ちになり、小さな声で「……ありがとう、伯父さん」と言った。
 歳三はそれを聞くと相好を崩し、「おれが今日の午後に梅本へ行ったのは、ほんの偶然だったんだぜ──」と言った。
「そしたら女将さんが、宿下がりで実家に帰ったおまえの様子が気になってしようがないから、おれに見に行ってもらえまいかと言うんだ──自分ではおつねさんのところへは行かれないからってな。
 そうしていくつか用事を済ませたあとで、暮れ方に相生町の長屋へ行ってみたら、大変な騒ぎになってるじゃねえか。けど息を吹き返したおつねさんはおれの顔を見るなり、平太のことが心配だって言ったんだぜ」
 そう聞いて平太の眼からは再び涙があふれた。
「あの子のことが心配だ、あたしを殺したと思って、早まって身投げでもしやしまいか心配だから、あの子を探してきておくれってな。喉が潰れていたもんだから聞き取るのに苦労したけれども、おっかさんはそう言ってたんだぜ。
 なあ、平太、おまえのおっかさんは確かにあんな人だ。けど見方が変わるときだって来るかもしれねえよ。だから、今日のところは詫びを入れに行って、おまえの無事な姿を見せてやろうじゃねえか。今の今だって、おっかさんは心配で居ても立ってもいられねえんだぜ。親ってものは、どんな親だってそんなもんなんだ。そのあとは、なんなら今夜はおれのところへ泊まったっていい。とにかくも、おまえの無事な姿を見せに戻らなけりゃあいけねえよ」
 平太は黙ってうなずいた。そうしてまた右手で握っていた匂い袋をじっと見た。歳三はそんな平太の姿をいたわりのこもった目で見つめた。
「……そいつはおいとには渡せなかったのか」
「いや……いいんだよ」と平太は言った、「あげたけど、戻ってきちまったんだ。でも……いいんだよ」
 歳三はそのことについてはそれ以上何もいわずに、「よし、じゃあ行くとするか」と言って立ち上がった。
「長いことしゃがんでいたから、足が痺れちまったぜ。さあ、平坊、立てるか」
 平太は歳三の手をつかんで立ち上がろうとしたけれども、身体にほとんど力が入らず、よろけて尻餅をついてしまった。
「おいらも足が痺れちまったみたいだ」
 そう言って初めて笑顔を見せた平太に向って、歳三は目尻にしわを寄せて微笑んだ。
「足がちゃんと二本生えてるんだから、自分で歩いてくれなけりゃあ困るぜ。なにしろ本所までおまえをおぶっていくわけにもいかねえからな」
 そうして東の夜空に向って顎をしゃくってみせた。
「ほら見ねえ、きれいなお月さんが出たぜ」
 見ると、たしかに水戸家の下屋敷の上に大きな月が出ていて、屋敷の屋根瓦や樹々の梢が月の光に照らされているのが見えた。
「提灯も要らねえくらいだな」
 平太は欄干につかまって再び立ち上がると、歳三の肩に手をかけて橋の上を歩き出した。これからおっかさんの顔を見るのは辛かったし、会ってなんて言えばいいのかも分からなかった。
 これからさき、きっと自分が望むものはずっと手に入らないんだな、という考えは、まるで鐘が鳴るみたいに繰り返し繰り返し頭に浮かんだ。けど歳三伯父の言うとおり、それでも自分の足で歩いて行かなければならないのだ、そう平太は思った。

よわむし

よわむし

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-07

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