月下、君に寄す


「月が綺麗ですね」
 そう、口をついて出た。
 拍を置かずに、背後から言葉が返される。
「根拠の無いことを言うな」
 意地の悪いことを言うひともあったものだと思う。突き放すような、それでいて笑みを含んだ声音だ。俺はベランダの囲いに背を預け、部屋の中の彼女へと向き直る。
「美的感覚に根拠? 無粋だよ」
 手元のグラスを回しながらそう答えれば、彼女は開け放した窓の向こうで可笑しそうに笑う。
「だからこそだ。私がそう思うとも限らない」
「じゃあ、お酒が美味しいですね」
「ああ、全くだな」
 満足げに呟いて、彼女はグラスを傾ける。何とはなしに、俺は夜空を見上げてみた。
 澄んだ空気を照らす月は、ただ綺麗だった。
 彼女と俺が初めて会ったのは、もう随分前のことになる。彼女は高校に上がったばかりで、俺に至ってはまだ小学六年生だった。
 諸々の事情と状況により精神的に追い詰められていた俺は、その日初めて学校をさぼった。そうして向かった近所の公園で、偶然出会ったのが彼女である。無言の視線の応酬の末、先に折れたのは俺だった。子供らしく取り繕った第一声を、冷たく一蹴されたのをよく覚えている。そのまま何となく会話は続き、その日は一日、彼女とそこで喋って過ごした。
 それからしばらくして、俺の抱えた事情絡みで、彼女を巻き込んでの一騒動があった。より正確に言えば、俺が彼女を巻き込んだのだ。彼女のある種無謀な活躍のお蔭で、その騒動は俺の中学受験の取りやめと言う形で幕を下ろす。結果として俺は、重圧の一つから解放されたのだった。
 それ以来、何となく俺が付きまとう形で、そして彼女がそれを成行き容認する形で、この微妙な交友関係は続いている。
 彼女は現在、中堅国立大学の四回生である。
 俺は彼女と同じ公立の中・高を出て、同じ大学の一回生となった。
 学年の差が一つ縮まったのは、彼女の考えなしの留学によるものだ。考えなしというのは留学そのものに関しての話ではない。それによって、俺が同時期に同じ大学に通える期間を作ってしまったという意味である。
 彼女はどうもその点を失念していたようで、留学から帰った彼女にその失態を指摘すると、しまったという顔で硬直した。常に冷静沈着な彼女の焦り顔は、なかなかどうして見物であった。
「風流だね、月見酒っていうのも」
「良く言うよ、未成年」
 窓辺に自ら設えた特等席で、彼女が応える。アウトドア用の椅子は立派なもので、背凭れも肘掛も付いていた。わざわざ階下の彼女の部屋から、彼女自ら持ち込んだものである。女性が持ち運ぶのに重すぎるということはないだろうが、大きさの面では持て余しそうだ。
言ってくれれば運んだのにと俺は言ったが、こういうのは自分でやるから良いのだと、彼女はご満悦の様子であった。
「未成年って関係ある?」
 俺の疑問を彼女は鼻先で笑い飛ばす。
「酒の味も覚えたての若造が、調子に乗って粋がるなという意味だ」
 自分の歳を棚に上げて、彼女が言った。
 彼女と二人で酒盛りをするのは、今回が初めてのことではない。俺が大学に入って一人暮らしをするようになり、自己責任で酒を飲むようになってから、既に何度も杯を交わしている。彼女は外で飲むのも嫌いなら、他人を自室に上げるのも嫌いで、宴会場は大抵俺の部屋であった。
 彼女は最初、俺と飲むのをかなり渋った。俺が言い出したとは言え、未成年に飲ませるという状況が相当嫌だったらしい。記念すべき初の酒盛りは、俺が何やかんやと理由を付けてせがみ倒して、ようやくビールを一本だけという有り様だった。しかも缶ビールを、二人で一本だ。過保護と言うにも程がある。
 しかし、それで味を占めたらしい彼女は、その後は手ずからアルコールを持参するようになった。ビールがワインになり、ワインが蒸留酒になるまで、三ヶ月とかからなかった。
「それにだ。月見酒なんて言うには、こいつは些か西洋かぶれに過ぎるだろう」
 彼女がグラスを振って言う。氷が揺れて、からからと音がした。
「そうかもね」
 俺は手元のグラスを見た。水が注がれ淡くなった琥珀色に、薫り高い月が揺れる。口当たりの良いアイリッシュウイスキーは、最近の彼女のお気に入りだ。
 晩酌に付き合うとは言え俺はまだ酒慣れしておらず、基本的には酒に強くもないらしい。長丁場の伴をする時は、水割りの氷が解け始めるのを待って飲むこともしばしばだった。
 対して彼女は体質なのか、浴びるように酒を飲んでもほとんど酔わない。彼女が飲むのは大抵がストレートかロックと決まっているが、どんなに杯を重ねた所で、精々が多少機嫌が良くなる程度のことだった。
 ただ、普段は仏頂面も少なくない彼女が、酒が入ると良く笑う。
「月見酒か。こんな日が来るとはな」
 彼女がそう含み笑った。グラスのロックアイスがからん、と透明な音を立てる。
冴えた晩秋の夜風は、当たるにはもう肌寒い。しかし部屋の中、ジャケットを羽織ってくつろぐ彼女には、ちょうど良い酔い覚ましだろう。
「こんな日?」
 窓枠の向こうの彼女に問いを投げる。彼女はこちらを一瞥すると、ふっと小さく噴き出した。
「だって思い出してもみろよ。最初はお前、小六だったんだぞ? 小生意気なガキだと思ったね。そのガキと酒を酌み交わす日が来ようとは、まさか夢にも思っていなかった」
 可笑しくて敵わないと、彼女は楽しげに肩を揺らす。育ての親ででもあるかのような口振りだ。その保護者然とした態度が気に食わずに、俺は眉間に皺を寄せた。
「アンタはいつまで俺をガキ扱いすりゃ気が済むの。四つしか違わないんだよ? 一年留学した程度で詰められたのが良い証拠じゃない」
 彼女は一瞬顔を強ばらせるが、瞬時に何事も無かったかのように取り繕った。彼女と余程親しい人間でなければ、きっと気付きもしないだろう。
「健気な後輩へのせめてもの恩情だ。有り難く受け取っておけ」
「良く言うよ」
 このひとのこういう所は、尊敬に値するが嫌いである。嫌いと言うより煩わしい。
 やれやれと、俺は彼女から視線を逸らして言う。
「大体、たった四歳なんてさぁ。世間に出れば四歳差の上司部下も、友人も夫婦もいるでしょう。大した差とは思わないけど」
 言いながら宙を彷徨った視線は、結局手元のグラスに落ち着いた。こういう時に手に持つものがあると都合が良い。溶け行く氷が揺れている。
部屋の中から、短く小さな溜め息が聞こえた。
「だったらどうして就職しなかった。世間とは随分違う場所だぜ、大学――『学校』ってのは」
 そこに責めるような響きは無かった。だから小さな棘を感じたのは、俺に後ろ暗いところがあったからだろう。
 俺は何と言うべきか逡巡し、出した結論を口にすべきかともう一考してから、結局は思ったことをそのまま告げた。
「意味無いでしょう。肝心のアンタが居ないんだから」
 返事は返って来なかった。
 その代わり、彼女はからん、とグラスを鳴らす。
「夏目漱石」
「え?」
 唐突な呟きに顔を上げる。彼女はこちらを見ていなかった。
 自分のグラスに視線を落とし、彼女は続ける。
「夏目漱石が『 I love you 』を『月が綺麗ですね』と訳したという、その出典は何処にも無い」
 昔から、月は人を狂わせると言う。それなのに、こんなに月の綺麗な夜でさえ、このひとは何処までも理知的だ。
 俺は一つ息を吐いた。溜め息であり、苦笑だった。
「だから、良いんじゃない」
 彼女曰く根拠のないという、この感情にはちょうど良い。
 この手の事を、言葉にし始めたのはいつからだっただろう。それを告げてどうしたいのか、もう良く分からなくなってしまった。ただ最初から、「私死んでもいいわ」なんてお寒い言葉を返して欲しい訳ではなかった。
 そもそも俺が伝えたかったのは、「我君を愛す」なんて陳腐な台詞ではなかったように思う。
 ただ、こうしてずっと、一緒に酒を飲んで、笑っていたいと。
 そんな単純な感情を、彼女に認めて貰いたかった、ただそれだけ――の、ような。
 けれど、そんなのは結局何でも一緒だった。
 俺の言葉はいつまで経っても、受け取られるどころか届きすらしないのだから。
 直球を投げれば茶化し返され、趣向を凝らせば技巧の面でケチを付けられ、時には鮮やかなまでに受け流される。星に願いを掛ける方が、まだ望みもあるというものだ。
 知っている癖に。手に取るように分かっている癖に。
 近付けば、きっちり近づいただけ距離を取る。それ以上逃げようともしなければ、突き放そうともしないのだ。
 否定もしない。代わりに、肯定だけは絶対にしない。
 そんな態度を取られたら、俺にはもう打つ手が無い。それすら彼女は承知の上だ。
 本当に、性質が悪い。
「それにさ」
 俺は呟いて、天を仰ぐ。見上げた月は思った以上に遠かった。
「あんなに綺麗な月なんだ、他意を持たせるなんてそれこそ無粋だよ」
 ふ、と息を吐く声がした。顔を向けると、彼女と目が合った。笑っていた。
「お前にしては苦しい言い訳だ」
 彼女はくつくつと喉の奥で笑う。それに合わせて、からからと氷が音を立てる。
 俺はそんな彼女をただ眺めていた。心中は量りかねたが、何だか楽しげであった。
 ひとしきり笑うと、彼女は一つ大きく息を吐いて、背凭れに体を預けた。
「ああ、でも」
 彼女は満足そうに、穏やかに目を細める。
「もしも死ぬなら、こんな月の綺麗な夜が良いな」

 ――今宵はまた、随分と上機嫌であるようだ。
 安らかな笑みを浮かべる彼女を、ただ綺麗だと思った。

「……くたばっちまえ、アンタなんか。」
 言葉と共に、勢い良くグラスを煽る。氷の溶けた水割りは、味気は無いが飲みやすかった。
「また酷い事を言う。そんな後輩に育てた覚えは無いんだが」
 白々しい台詞だ。何だか俺まで面白くなって、つい笑ってしまう。
「酷いのはアンタだ。そんなに死にたいなら殺してやりますよ」
 どうせ共倒れが落ちだろうけれど。
 物騒な俺の台詞に彼女は笑い、遠慮するよ、と言った。
「今夜は死ぬには勿体ない。何せ、酒が美味しいからな」
 またそういうことを、と出かかった苦言は、喉の奥に引っ掛かって霧散した。代わりに俺の喉からは、くつくつという笑いが漏れる。
 何せ、月が綺麗で酒が美味い、その上彼女がそこにいるのだ。
 今夜の所はそれで良しとしておこう。
「ねえ」
 俺は彼女を呼ぶ。
「うん?」
「月が、綺麗だね」
 彼女は、静かに笑った。返事は無かった。

月下、君に寄す

月下、君に寄す

  • 小説
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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-07

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