こころの体重計
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・重量等は架空のもので、実在のものとは関係ありません。
このところ、人と会うたびに「太ったんじゃない?」と言われてしまう。「久しぶり。おや、太ったんじゃない?」 「最近どうしたの? あれ、もしかして太ったんじゃない?」。来日間もない外国人が聞いたら、"Futottan-ja nai ?"を挨拶文の基本形だと勘違いしてしまうのではないかと思うくらい言われてしまう。
自分でも『そうじゃないかなあ』と感じることはあった。コートの袖が通りにくかったり、屈むたびにお腹がつかえたり。ジーンズのボタンがどうにも届かなかったり、ウエストポーチを使うたび、伸ばさなければいけなかったり。
でも、こうした都合の悪い事実に出遭うたびに、「体が固くなったなあ」とか「伸縮素材は違うなあ」とか「この季節は着ぶくれするなあ」とか。的を外したところに持っていって、済ませていた。済ませきれない事実を見せつけられる一月某日の木曜日まで、そうしていた。
■木曜日の晩
寝る前、眼鏡を洗おうと洗面所に向かった(このよく解らない習慣が、私の運命を変える)。レンズに残った水を切り、すっきりした視界で部屋に戻ろうとしたとき、右足の親指が、体重計のボタンをけった。カシャンと音が鳴って、長いこと洗面所の置物をしていたデジタル式体重計が、目を覚ました。足元で“0.0”の数字を赤くぼんやりと浮かばせて、荷重がかかるのを待っていた。
のってみた。体重計にというよりは、静かに光る"0.0"の誘いに乗ってみた。秤は98キログラムを示していた。
人生の終着駅の一つに立ってしまった感じだった。あとほんの少しの何かで、100キロになってしまう。重量で三ケタを使うといったら、もはやそれは人の重さではなく、モノの重さだ。これは危機だ。人生の危機だ。
刑事ドラマにみる『容疑者に撃たれた刑事』の足取りで、部屋へと戻る。足を一歩繰り出すたびに、「で・ぶ・で・ぶ・ 百・貫・で・ぶ」のはやし声が聞こえてくる。部屋にたどり着いたのはいいけれど、もそもそと着替えを済ませて布団に戻る元気くらいしか、残っていなかった。
目を閉じて考える。もとの体重に戻そう。目標70キロ。一日100グラム減らしたとして260日。200グラム減らしたとして130日。まずは食事、粗食に小食。腹八分と言わず六分。いや、四分、いやいや、二分半。栄養があるものを、よく噛んで食べよう。
それから、体を動かそう。まずは歩くところから。雨の日はナシにして、毎晩歩こう。駅向こうの公園、川沿いの遊歩道。変な人と間違われないようにしよう。おまわりさんに訊かれたら、正直に話そう。だめだったときは、交番で体重計を出してもらおう……。
■一念発起した金曜日の日記から
こんがりと焼いた食パンに目玉焼きを乗せて、朝食とする。お昼は、販売機で買ってきた缶コーヒーで済ます。仕事帰り、一つ手前で駅を降りて、三十五分をたっぷり歩く。一歩ごとに、あのいまいましい百貫でぶ囃子が聞こえてくる。何の因果か歩くリズムとぴたり合って、歩幅も自然と広くなる。
『夜な夜な川沿いの散歩道を歩く計画』を廃止案とする。おまわりさんどうのではなく、これだけで充分足が痛くなっていたから。夕食は、玉子かけごはん――というよりは、とき玉子のごはんあえ――に、みそ汁、おしんこ。就寝二十三時半。
■土曜日
一日二日節食しただけで、こうも清々しい朝を迎えられるとは思わなかった。体も軽く、無意識のうちに、昔しカンフー映画で観たナントカ拳の構えがでてしまう。
かねてより計画していた『森林公園散策計画』を実地に移したかったが、午前中をいつ来るとも判らぬ宅配便のために待機しなければならず、午後をいつ来るとも判らぬペンキ屋のために待機しなければならずで、結局(気が付いたらやっている『ナントカ拳の構え』を除けば)、いつもどおりのさして動かぬ土曜日を過ごして、夕刻を迎えた。
夕食――といよりは、もやは夕の栄養補給――後、これまでの成果を確かめようと、計量室(洗面所のこと)に向かう。スイッチを「おりゃ」と蹴り、『さてどうかな』とばかりにほくそえんでいる“0.0”の薄板の上に、足を乗せる。
私の目の前で起こったことは、八番目の『世界七不思議』になるだろう。体重計は、86キログラムを示していた。
確かに、ここ二日間、どうかなってしまうのではないかと思うくらい、節食に励んだ。だからといって、二日で12キログラム減は成果がありすぎる。一日数回のナントカ拳や、とき玉子のごはんあえが功を成したといったら、そうかもしれない。しかしその一方で、「とはいえ……」とよぎるものもある。部屋に戻ってノートを広げ、思い浮かんだことを、ひとつひとつ書いてみる。
(A) 初日の計量ミス。元々わたしの体重は88キロだった。0キロの調整がきちんとできていなかったため、体重計が98キロを示していた。
(B) 初日の計量ミス。元々わたしの体重は88キロだった。88を、98と読み間違えていた。
(C) 二日間の荒行のすえ、12キロの減量に成功した。
(D) 二日目の計量ミス。今のわたしの体重は96キロ。0キロの調整がきちんとできていなかったため、体重計が86キロを示した。
(E) 二日目の計量ミス。今のわたしの体重は96キロ。96を86と読み間違えた。
(F) 私の体重は88キロか86キロのいずれかだった。今は羽織っていないけど初日は着ていたドテラの重さが10キロないし12キロあり、合計98キロを示していた。
いくらなんでもFは無いか。こうした話が好きな人や計測機器に詳しい人に訊いたら、もっといろいろ出てくるかもしれない。
いずれにしてもミステリーだった。今の私の体重は、96キロなのか86キロなのか。もし96キロだとしたら、冬になるまでこの荒行を続けなければいけない。これが86キロだと、海の季節を迎えるころには元の体に戻っている。10キロの違いしかないが、気持ちはずっと楽になる。
もういちど秤に乗れば判るだろう。あ、いや、まった。それはよそう。86キロであろうと96キロであろうと、長い計画(プロジェクト)に違いはない。それにもしAかBだった場合――今の体重が86キロだった場合――、安どの息と一緒に気持ちがたるみ、それがそのまま頬やウエストのたるみになってしまうだろう。ソーセージでござれ、細切りポテトの油揚げでござれ、理由をつけては二口三口(ふたくちみくち)と放り込む不届き者になってしまうだろう。お皿が空っぽになるまで「これくらいは平気」を繰り返すような甲斐性なしになってしまうだろう。たいそうな言葉を並べては許容範囲を広げてゆく、そんな人間になってしまうだろう。
それではいけない。人生の終着駅に立ってしまったあの木曜の夜を思い出し、身を引き締めて……いや、身を引き締めるための、心を引き締めて、日々を送ろう。
いまの志を保とう。心の中では、私の体重は96キロだ。96キログラムを指しているのだ。心の体重計を確かとしていこう。
こころの体重計
著者メモ:久しぶりの掲載。横書きワープロ原稿。まだだいぶ言葉にトゲがある。なにより文章の流れが悪い。無理に推敲しないで、内容をそのままに、一から書き直したほうが良いのかもしれない。
20170302 三稿