冬の錯夢(さくむ)
第一章 過去と現在が交錯する
午前0時の時報がラジオからこぼれた。カーテンの隙間から、街並みの灯が白く濁った窓に映し出されている。赤々と燃えるストーブの上で「シュー、シュー」と白い水蒸気を吐き出す音が聞えた。すると語り掛けるように深夜放送のDJが、BGMにのせて「テーマポエム」を朗読し始めた。
「午前0時のスペースゼロ、今夜もあなたを時空の旅へとお招きしましょう。満点に輝く夜空の星が、音楽の調べによせて、そっとあなたを包みこみ語り掛けます。過去が、現在が、そして未来の旅が、時間を超えてあなたをお招きいたします。愛を語り合う恋人のように、そっとやさしく呟いてご覧なさい。ほら、もうあなたは時の空間に佇む旅人です。もう一度呟きを「もう一人の自分に」。
一人の女性が、コートの襟を立てうつむき加減に、薄暗い街灯に照らされながら歩いて来る姿が見えてきた。ふと辺りを見渡すと、しんと静まりかえった街中に私は立っていた。
「何時だろう」と左腕を持ち上げ、見慣れた腕時計を見ようとしたが見当たらない。ポケットの中を探してみたが無駄だった。どこに忘れたのだろうかと過去の記憶をたどってみたが、全く頭の中に呼び起こすことが出来ない。何か重くのしかかったものが頭の中に覆い被さり過去の記憶を塞いでいるように思えた。なんだかすっきりしない気持ちではあったが、不思議にも気に留める思いにもならない。まるで全ての感覚を失ったかのように、自分の身体も心も捕まえることが出来ない奇妙な幻覚を感じていた。ふと空を見上げると、空は晴れ渡っているのに、星が見えない、まるで闇の世界へ引きずり込まれていくようだった。
ふと目線を下ろすと、先ほどは遠くにいた若い女性がすぐ目の前に姿を現わしてきた。
「今晩は」突然彼女は、私に軽く会釈をしながら言葉を発した。その顔には薄ら笑いを浮かべながら親しそうに話し掛けてくる。「やっと逢えましたね。何度も電話をお掛けしたのですが、お留守のようでしたね。もう会ってくださらないのかと不安な思いでした」私は驚いた。と同時に自分の身体を退いたつもりだったが、自分の足は動こうとしなかった。
「何を言ってるんだこの女は。人違いだ、今まで見たことも逢ったこともない筈だ」と心の中で叫んだ。「失礼ですが私はあなたを存じ上げません。人違いではありませんか」丁寧に自分の主張を促してみた。すると彼女は嘲り笑うように言った。「冗談はよしてください、それとも私をからかってらっしゃるの。もしかして、あなたは今夜こうして私と出会ったことを快く思ってらっしゃらなくて、自分を否定しようと考えておられるのかしら」
彼女の顔にはすでに笑みはなく、食いつくかのような真面目な目付きで私を睨んでいる。
私は怒りを覚え、顔をしかめながら彼女を睨み返した。
「冗談を言っているのはあなたの方でしょう。私は本当にあなたに逢った覚えなどない。今夜初めて見る顔だ」私は少し興奮気味に自分の主張を押し通そうとした。すると彼女は、ショルダーバッグの中からある品物を私の目の前に突き出してきた。
「この腕時計に見覚えがないとおっしゃるのかしら」私は差し出された腕時計に不意を食らったようにあわてて声を発した。
「どうしてその時計を」彼女は勝ち誇ったかのように少し声を上げて笑った。
「ほらご覧なさい。これでもしらばっくれるおつもり?」
「どうしてそれをあなたが持っておられるのですか。確かにその時計は私のものです。しかし何と言われても私はあなたを知らない。一体あなたと私はどういう拘わりを持っているとおっしゃるのですか」
私は静かに彼女に問いかけると同時に自分自身にも同じように問い返してみた。すると彼女は、まだしらを切るつもりかと猜疑心に満ちた目付きで私を睨んでいる。
「そう、そこまでおっしゃるのならお話しましょうか」彼女は半ばあきらめた風に寂しげな笑みを口元に浮かべながら歩き出した。
「どこか落ち着ける場所でお話しましょう」
「えっ」と私は声を上げて辺りを見渡してみたが、すでに街中はひっそりと静まり返って営業している店など一軒も見当たらない。かすかに風の音が聞えてくるように思えた。しかし、彼女は気に留める様子もなくかすかに鳴り響く風の音に誘い込まれるように闇の中へと歩き始めた。私はそんな彼女の後を追うことを躊躇したが、身体は勝手に引き込まれるように追いかけていくのだった。
どのくらい歩いたのか、どこを歩いたのか記憶はなかった。相変わらず空には星が見えない。気付くと大きな建物の前に立っていた。辺りを見渡してみたが、この建物の他には何も見当たらない。よく見るとこの建物は白い壁塗りの古びた館だった。白い館が暗黒の世界でより一層浮き立っているように見えた。
彼女は建物の扉を開き入って行った。私も後を追うように入っていみると薄暗い照明が店内をかすかに照らしていた。あたりに数人の人影が見えるのだが、ぼんやりとしてはっきりしない。いつの間にか運ばれてきたコーヒーを彼女は口にしながら「目覚めにいかがかしら」と私にすすめる。何気なくカップを手に取ってみたが感覚がないのと、口に入り込でからの味覚も感じなかった。
「少しは落ち着いたかしら。もう一度だけ伺いますが、あなたは本当に私を知らないとおっしゃるのですね」
「知らないものは知らない」私は強い口調で答えた。
「それじゃあ仕方がありません、あなたとのお話をしていきましょう」
と彼女は言いかけて、先ほど差し出してきた私の腕時計をテーブルの上に置いた。
どうぞと彼女は押し付けるようにテーブルの上を滑らして私の前に持ってきた。私は少し戸惑いながら手にした。その瞬間私の目に時計の針が12時を指しているのがかすかな記憶となって働いた。こんな時間に自分は何故あんな場所にいたのだろう、そして彼女は一体。しかし過去の記憶は一向に呼び戻すことが出来ない。首をひねったり、頭を叩いている私に不可解な目付きで彼女が問いかけてきた。
「どうかなさって、こんなこと口にすると怒られるかもしれませんが、あなたは記憶喪失にでもなられたのでしょうか」「そんな馬鹿な」と私は大声で叫んだ。
「それじゃあ一つ二つ質問させていただいてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」と私は強い口調で言いのけた。私は一瞬不安を覚えたが、彼女への反発心が湧きあがった。
「簡単なことからですが、あなたの名前と年齢をお聞かせください」彼女はまるで罪人に対して尋問を行う裁判官のような口調で問いかけてきた。
「坂下恒平、25才」言い終えて、少し口元が緩んだ。「どうですか、何か間違っていますか」と自信に満ちた口調で投げつけた。
彼女は少し押され気味になった立場に困惑の表情を見せたが、なおも一層強い口調で問いかけてきた。
「それでは今あなたが手にしている時計を何故私が持っていたか、お解りになりますか。私が先日呼び出した時に忘れて行ったということを。あなたは私と逢っていたことを否定なされますが、その品物が事実を証明する一つでもあります」
彼女は少しうなだれるように静かに目を閉じた。私はそんな彼女に、一種の哀れみを覚えたが、それ以上に彼女との関係をはっっきりと知りたいという焦燥心に駆られた。
「私は、今過去の記憶というものがはっきりと掴めません。ですからこの腕時計が、どこで忘れたのか思い出せないのです。あなたの言ってることが嘘だとは言いません、あなたが事実をおっしゃっているという事を信じないわけでもありません。それでもう少し、具体的に私とあなたの関係をお話願えませんか」
彼女は閉じていた瞼をゆっくりと開け、少し間をおいて喋り始めた。
「あなたは私のことを記憶にないとおっしゃられるわけですから、私がどういう人間かご存じないでしょう」私はうなずいた。「それでは、私のことからお話しましょう。私の名前は山本百合子、23才で化粧品会社の企画部で働いています。新潟から出てきて5年が経ちます。もちろん独身で一人暮らしです。ざっとした素姓はこんなところですが、あなたとの関係をお話しないといけませんね」
「あなたと出逢ったのは3年前、私が短大を卒業して今の会社に就職をしてすぐのことです。新宿のカラオケクラブで、私達新入社員の歓迎会の二次会であなたと出逢ったのです。偶然の出逢いなのでしょうが、私には糸で操られた運命のように思いました。たまたま私達の先輩とあなたが知り合いであったことが。そして先輩を介して私達は付き合い始めて3年が経とうとしています」まるで彼女は失恋話を打ち明けるような哀しげな表情で語った。「まだあなたはおとぼけになるつもりですか?」
第二章 現実と虚像が交錯する
彼女は少し顔をこわばらせ、じっと私を見ている。
「ということは、私とあなたは恋人同士なわけですね」
「あなたが私の恋人」私は独り言のように呟いた。「しかし」と言いかけて口を閉じた。
何とかして自分の過去を呼び戻そうとしても私の頭の中には、彼女の言葉を信じるものは何一つ出てこない。
彼女は「するとそれ以上にもう一つ重大な約束があることもご存じないでしょうね」と一語一語かみしめるようにゆっくりと私の真意を探るように問いかけてきた。
私は今までと少し違った彼女の様子に脅えるようにおそるおそる尋ねた。「どういう約束ですか」
彼女は少し戸惑った仕草を見せたが、心を決めたのか姿勢を改め私に静かな視線を送ってきた。
「結婚です。結婚の約束です」「えっ」私はこの言葉に思わず叫んだ。息をかみ殺すようにうわずった口調で言葉を出した。「本当にそんな約束をしているのですか、私には信じられない」
彼女は、一瞬私の驚きに身をそらしたが、冷静に言ってのけた。「事実です。嘘でも作り話でもありません。先日あなたがその時計を忘れていった日に私達は交わしたのです、永遠の愛を」
「そんな馬鹿な」吐き捨てるように私は声を出した。「そんな馬鹿なことがあるもんか」ともう一度心の中で叫んだ。
しばらく二人は黙り込み、お互いに視線をそらした。ふとどこからか音楽が鳴り響き、私の心をかき乱し、何がなんだかわからなくなってきた。
するとふっとけたたましい音楽が鳴り止み、どこからか声が聞えてきた。
「午前0時のスペースゼロ、今夜はこのあたりで」
山本百合子が目の前に座っている。辺りには数人のサラリーマン達が昼休みを利用してランチを食べている。彼女から電話があったのは2日前のことだった。
どうしても会って話しをしなければならないことがあると言って、この喫茶店で待ち合う約束をしていた。
時計の針は12時を過ぎていた。恒平は汗ばんだ腕時計を外しテーブル上に置いた。「何だい用って」ぶっきらぼうに尋ねた。
「最近あなたは私を遠ざけているようね」「何を言ってるんだ、どうしてそんなことが君にわかるんだ」
「だって電話してもほとんど留守だし、たまに出たって忙しいとか言って会ってくれないじゃありませんか。以前はこんなことはなかったわ、いくら忙しくても都合をつけてくれたじゃないですか」彼女は肩を少し震わせ涙ぐんでいる。
「それは君の思い過ごしだよ。ここんところ決算期で忙しんだ、本当だよ。今日だって残業なんだ。だからもう少しすればまた会えるさ。僕のことも考えてくれなくっちゃ。まさかそれだけのことで呼び出したんじゃないだろうね、ほんとは今だって会社にいなきゃならないんだ、処理しないといけない書類が山ほどあるんだから」
涙ぐんでいる彼女をなぐさめようともしないで、愚痴っぽく言い放した。
「そう、それじゃあ少し経てばまた会ってくださるのね」白いハンカチで目を押さえながら、小さく震えた声で彼女は言った。
「ああ、まあそういうことになるかな」「今日はそれだけかい、じゃあ急ぐから失敬するよ」と言い放って席を立とうとすると、彼女が「待ってまだ話しがあるの」彼女は何か訴えるような目で私を制した。百合子の声に周囲の男たちの視線が自分達に注がれてくるのが恒平には恥ずかしかった。と同時に慌てずゆっくりともう一度席に着いた。
「そんな大声を出して、みっともないじゃないか」「で、何んだいほかに話しって」
苛立たしそうに催促する口調で問いただした。
百合子は少し間をおいて「できたの」と呟くような声で言った。
「えっ、何だい。聞えないよ」すると「できたのよ子供が」今度は少し大きな声で言ったが、周りには聞えないほどの声だった。
「何だって!」今度は恒平が大声をあげた。一斉に周りの視線が二人に集まった。今度は百合子が恒平を制するように「落ち着いて」彼女自身自分に言い聞かせるように恒平を押さえつけようとした。
恒平はしばらくの間黙り込み、どうすればいいのか、どうすれば自分をこの突然襲いかかっきた暗闇の状況から救い出すことができるのか。考えれば考えるほど心は大きく乱れ、言葉が出てこない。
「やっぱりあなたは私のことを愛してなかったのね」百合子は絶望的な声を出した。
今にも発狂しそうに大きく肩を震わせ拳を震わせて恒平を睨みつけている。
一気に彼女の目から悲しみの涙があふれ出した。声には出さず、身体全体から湧きあがるいい知れない悲しみ、哀れみ、絶望の淵に突き落とされていく裏切りへの憎悪、何もかもが崩れ落ちていく。
その衝撃におののき、脅え、錯乱状態に陥っていく彼女の虚しい反逆を生み出すかのように溢れだす涙は止めどなく彼女の頬をぬらした。
「何ケ月だい?」弱々しくぼそぼそと声に出した。百合子は答えようとしない。
恒平の言葉の意図が何を言おうとしているのか彼女にはわかるからだ。
再度恒平は尋ねた。「堕ろせるんだろう」
何もかもが崩れおちた。悲しみの雷鳴が響きが渡り、絶望の彼方へ追い込んでいく。彼女は崩れ落ちるように、膝の上に身体をのしかけるようにして泣き叫んだ。
恒平はたじろいだ。「何だってこの俺が」自分でも泣きたい思いである。どうしろ、ではなくどうすれば今の自分を救えるのか。すると「虚像だ。今の自分は自分ではなく別の自分なんだ。別の自分がやっていることだ」恒平の錯乱した頭の中に、この場から逃げ出す本当の自分がいた。
「今の僕には君を幸せにする自信もなければ保障もない。だから君を幸せにできる確信が持てるまでしばらく待ってくれないか」「別に逃げるわけじゃない、しばらくの時間が欲しいだけだ。ただ残念だが今の僕には子供は要らない、また僕達が一緒に歩いていく道を歩き始めるまで待ってくれないか。
必ずその時がくる、きっとくるから」「約束するよこの場で」と恒平は虚像の自分が交わした言葉を納得させるよう彼女をなだめながら店を出た。
あれから三週間が経った。百合子からの連絡はない、「今の仕事が片づいたら連絡するから」言ったまま日々が過ぎていった。仕事も少しづつ落ち着き、帰宅する時間も早くなってきた。自分のマンションに近付くと、ふと百合子が立っていなかと不安を抱く日もあった。嘘で取り繕った平穏の日々が過ぎていた。先日会社で、決算期を終えると恒例の人事異動に伴う「異動希望用紙」が配布された。
恒平は現在本社勤務であるが「名古屋支店」と書き込んで提出した。本社勤務のものが、わざわざ支店勤務を希望するものは滅多にいない、本社勤務のものは「部署」の異動を希望するぐらいが数人いる程度だった。ある日人事担当者からお呼びがかかり、希望する異動の真意を確認された。その時自分の直感では希望が叶うと思った。
「あと1ヶ月だ、1ヶ月の辛抱で俺は以前の自分を取り戻せる」恒平は一人部屋の中で微笑んだ、これが彼の実像だった。
第三章 未来と現在が交錯する
「午前0時のスペースゼロ、今宵もあなたを時空の旅へ」ラジオからいつもの声が流れた。
かすかな足音ががだんだんと近付いてくる。見知らぬ女性が、恐ろしく殺気めいた形相で迫ってくる。
私はとっさに身を翻し、背を向けて走り出そうとする。だが必死に動かしているのに私の足は、宙に浮いたように、バタバタと空しく喘いでいるだけで一向に前に進まない。進むどころか反対に、後ろへ引き戻されていくようであった。
彼女の恐ろしげな顔が、どんどん迫ってくる。私は振り返りながらそれでも必死に足を動かそうとする。
ふと遠くに、かすかな灯がぼんやりと見えた。私はその光りに向かって走った。脅えきった恐怖心がすがるような思いで、よろめきながら走り続けた。暗闇の中をただひたすらに、闇雲にその光りに向かって足を動かせていた。
すると突然目の前が明るい光りに包まれた。立ちつくす私の耳にどこからか赤ん坊の泣き声が聞えてきた。その泣き声は大きな渦を巻くように私の頭の中をかき乱した。
ふと横を見ると先ほどの女性が、赤ん坊をあやしながら私を見て微笑んだ。「可愛いでしょう、ほらあなたそっくり」と言って私の顔に赤ん坊を押し付けてくる。
「何をする、私を誰だかわかっているのか」私は訳の分からないこの状況に怒りを発した。
すると彼女は「何を言っているの、あなたの子供じゃないの」「ほら、この人があなたのパパよ」彼女は私の言葉には気にもとめず赤ん坊とじゃれ合っている。
「冗談はよしてくれ、私には子供などいやしない人違いだ」と私は強い口調で言い放った。
「冗談?おかしなことをおっしゃるのねあなたは。あなたはれっきとしたこの子の父親なのよ。ほらご覧なさいよ、目も鼻も口もあなたそっくり」彼女は再び赤ん坊を我私の顔に近づけようとする。
「冗談じゃない、あなたもこの赤ん坊も私は知らない。この子の父親が僕だって?そんなこと信じられるわけがないだろう」その言葉に彼女の表情は一変して鋭い目付きで私に叫んだ。
「何を今更おっしゃるの、私はあなたの妻で、この子はあなたと私にできた愛の結晶よ。それをあなたは否定なさるの、信じたくないの」と激しい口調で私に喰ってかっかってきた。彼女はしばらく私を睨み付けたまま私の言葉を待っているようだった。
「私の言ってることは冗談でも嘘でもない、あなたもこの赤ん坊もここで初めて見た。私は結婚などしていないし彼女もいない。人違いに決まっている」と言うのが精一杯だった。
どうやらここは病院のようだった。細長く薄暗い廊下が続いているが、突き当りが見えない。その先は真っ暗で地獄への階段でも待ち受けているかのように、不気味な様相である。
薄ぼんやりとした待合室に、二人いや三人だけがいる。少しづつ平静さを取り戻した恒平は「ここは病院ですか」と言葉を発した。
「そうよ、3日前にこの子が生まれたところ、私たちが祝福をうけ、私たちに授かった記念の場所よ」彼女は気持ちよく眠っている赤ん坊を眺めながら静かに語った。
「ちょっと待ってください。さっきから何度も同じようなことを聞きますが、私はあなたの言ってることが全く理解できない」
「まだそんなことをおっしゃるの、よく私の顔をご覧なさい。私が嘘でもついているように見えますか。あなたが私を知らないなんて誰に聞いても笑われるのがおちだわ」
「もう何人もの友達がお祝いにこられたのよ。私うれしかったわ、みんなに祝福されて」そんな彼女を見ていると私が悪者のような罪悪感を覚えてくる。
しかしそんな思いより、私が彼女の夫であり、その赤ん坊の父親であるという最も不可解な状況にどう反論したら解決されるのか、私には答えが見つからなかった。
すると突然「坂下さん、坂下百合子さん、詰所までおこし下さい」というアナウンスが響きわたった。その声が流れ終えたと同時に、隣にいたはずの彼女の姿が消えてしまっていた。
「坂下百合子。百合子、坂下」「山本百合子!」私は思わず叫んだ。そんな馬鹿な、彼女とは半年前に別れたはずだ。今さら彼女が現れるはずがない。
過去の記憶がおぼろげながら思い出されてくる。しかしそれは昔の話だ。「嘘だ。彼女が私の妻だって?この赤ん坊が私の子供だって?嘘だ、嘘に決まっている。俺は悪夢でも見ているんだ!」
私は怯えきった声で叫び続けた。すると、置き去りにされた赤ん坊が大声で泣き叫んだ。赤ん坊の鳴き声と私の心の絶叫が大きな渦となって私の頭の中をかき乱した。
すると錯乱している私の頭の中に「午前0時のスペースゼロ、今宵はこのあたりで」という言葉が聞こえてきた。
目を開けると朝日がカーテン越しに明るさを増し始めていた。照らし出された光が、はっきりと部屋の中を映し出していた。その部屋には、いくつかのダンボール箱がまだ積み上げられたままだった。
「夢か」ぽつりと恒平はつぶやいた。あれから半年、平穏な毎日が続いた。新しい土地で、新しい職場の生活にも慣れてきた。百合子からの連絡も途絶えたままである。月日が経つにつれ、彼女のことも次第に頭の中から離れていった。しかし全く忘れ去ったわけでもなかった。
最終章 未来に向かって
そんな苦しみも消え去ろうとしていた月曜の朝だった。出勤の準備をしているとふと朝刊の見出しが目に入った。
「徴兵制いよいよ本格化議論。日本も軍国国家に!」最近やたらとこういった見出しが新聞紙面を賑わせていた。恒平はあまりマスコミを信用していなかった。事実を伝えるだけにおいてはその役割を果たしていたが、中には推測を交えた論評も数多かった。その中には偏った主張を断定するような記事もあった。
「日本が軍事国家か」最近の日本を取り巻く世界情勢を彼もそれなりには理解していた。だけど一気に軍事国家へ変貌するようなことなどまず有り得ないと考えている。
時間がないので新聞には目を通さずマンションのエレベーターに乗り込み、玄関先で眩しい朝日を浴びながら大きく息を吸い込んだ。10月の上旬になると朝夕の気温も下がり、頭の中に心地よい空気が入り込んでくる。駅までは軽い足取りで向かったが、いつもの満員電車にはいつまでたっても不快な時間であった。周りには自分と同じビジネスマン達が、今朝もそして明日もこの先何十年も、毎日満員電車に詰め込まれ職場へと向かっていくのである。無表情な顔つきには、自分の人生を諦めたかのように虚脱感を漂わせた年配のビジネスマンも数多く見える。家族のため生活のために、彼らは毎日自分という人間をなくして一人の労働者として電車に乗り込んでいくのだ。そんな重苦しい空気からホームに辿り着くと、少しばかりの解放感を味わうが、そこから職場までの道程も電車と同じようなものであった。恒平は時々「今日は会社と反対の方向へ歩いてみようか、遅刻しようが大したことじゃない、こんな退屈な毎日を過ごしているとつまらない自分になってしまう」平穏な日々を望んでいた彼には退屈な毎日に飽き、身勝手な感情が宿っていた。しかし結局はそんな思いを実行することもできないまま、また一日が終わっていく。
街中は心地よい季節に入り、恋人らしきアベックたちが微笑みながらすれ違っていく。そんな彼らを見ていると寂しさがふと胸の中に入り込んでくる。「幸せかい?」そんなひと言を彼らに投げかけてみたいが、心の中にやましさがあるのか皮肉な言葉にしかならない。「自分は裏切り者ではない、少し自分人間だったかもしれないが、本当の自分を守るため偽善者にはなりたくなかったのだ」と心の中でつぶやいた。
部屋に帰り、途中で買ってきた惣菜をテーブルの上に並べ一人で夕食を食べ始めた。テレビを付けると「ニュース討論」のような番組が流れた。日本の将来の展望を数人の専門家や評論家たちが、激しい討論を展開していた。
「日本はこのままでは軍事国家の道を必ず進んでしまう。国民の皆さんが一人一人意識を持ってこれを阻止しなければなりません。今こそ国民が立ち上がる時です」まだ若き評論家が鋭い目付きで熱く主張を説いていた。数人の討論者は賛同するものもいれば、反論するものもいた。だが恒平にはただの演出討論にしか見えなかった。無関心な政治と社会に何も心は動かされることはなかった。いつもの様にグラスにウイスキーを注ぎテレビのかわりにラジオを付けた。軽い音楽が心地よく流れてきた。平和な暮らしはみんなが望んでいる。もし戦争にでもなればこんな夜を過ごすことはできない。ただそんなことは起こらないだろうと誰しもが思っている。だれか自分の話を聞いてくれる相手はいないのか。一人で束縛されない自由な生活にふと空しさを覚えた。自分の将来はどうなっていくのだろう。グラスを何杯か飲み干し、とりとめのない思考が頭の中を駆けめぐった。
ふとラジオから声がこぼれた。「午前0時のスペースゼロ、今夜もあなたを時空の旅へとお招きしましょう」。
真っ暗な世界に私は立っていた、「ここはどこだ」辺りを見渡しても何も見えない、また闇夜の世界に入り込んでしまったのか。すると遠くから金属音にも似た足音が聞えてきた。「カツン、カツン」と少しづつこちらに近付いてくる。得体の知れない靴音に恐怖を覚え身構えた。すると突然軍服をまとった男が目の前に現われた。そして「君は国家のために働くべきだ。君のような堕落した人間は責任をとらなければならない。それは国民のためそして国家のために尽くさなければならないのだ」と言って私の左腕を強く握って連れていこうとする。私は必死になって男の腕を解き放そうともがいた。その時私の左ポケットから白い封筒がひらりと落ちた。男はその封筒が目に留まったようで一瞬力が緩んだ。その隙に私は力一杯の腕力で男の腕をふりほどき逃げ去ることができた。どのくらい走ったのかどこを走ったのか目の前に白い館が見えてきた。とにかく人のいる所に入らなければと扉をあけた。息がきれているのかきれていないのか自分でもわからない。入ってみると何となく以前見たような喫茶店だった。薄ぼんやりとした照明の中に空いた席を見つけて座った。しばらく胸の鼓動はおさまらなかったが、恐怖からの怯えは和らいでいった。ふと先ほど男と掴み合った際に落ちた封筒のことを思い出そうとした。「あの封書は何だっただろう、誰からのものだったろう」と自問自答してみたが何も思い出せない。
もどかしい思いでいると店内から静かな声が流れてきた。「午前0時のスペースゼロ、今宵はこのあたりで」
目を覚ました恒平は夢の続きを部屋の中で確認した。白い封筒、あれは確か山本百合子からの手紙だった。転勤が決まり引っ越しの身支度をしている最中にポストに投函されていた。「坂下恒平様」とやわらかい文字で、差出人には彼女の名前が書かれていた。恒平は作業を止め、すぐさま封筒を開いた。
その文面には「私は故郷の新潟に帰ります、そこでしばらくゆっくりと過ごすつもりです。あなたが名古屋に転勤されることを聞きました。寂しいですが、時が私もあなたもやさしく包み込んでくれるでしょう。お元気で、さようなら」と記してあった。恒平はその文面に驚かされた。あの彼女がこんなに簡単に引き下がってしまうとは。自分の身勝手さにあきれ、愛想を尽かしたのだろうか。思わぬ知らせに恒平は新しい旅立ちを祝福してくれたと思い、喜びをかみしめながらまた身支度を始めた記憶が蘇った。
彼女との結婚を考えなかったわけでもない、とりたたて嫌なところもなかった。ただ付き合い始めて3年が経ち、少しづつ色あせてくる、つまりが勝手な事だが飽きてしまったのも正直な気持ちである。二人で過ごす時間が最初の頃は貴重であり、楽しくてもっと一緒にいたいと思う。それは恋愛としてはごく当たり前で、そしてお互いを知っていくと気持ちや考え方も分かり合えるようになる。価値観であったり将来についても話してみたりする。
ただ、人間は同じであることに物足りなさを感じ、変化や刺激を求めていく。新しいものが徐々に陳腐化していくと、それまで好きだったところが急に嫌に見えてきたりする。些細な口論が大きな嫌悪の憎にまで広がってしまうこともある。自分の人生だから自分を犠牲にしてまで相手に合わそうとは思わない。
「恋愛と結婚は別だ」と言われるが、別に結婚だけのために人生を共にする相手を探そうとは思わない。恋愛をしてこの人がどれほど自分を認めてくれ、支えてくれるのか、そしてお互いを尊重し合えるのか、そうした時間をゆっくり確かめ合って結婚すれば良いと考えている。
恋愛のピークが結婚であるならば、もしその情熱が冷めてしまったらどうするのか。ただの同居人となり、親となり、一家を養うために自分を否定しながらも働いていくのか。人間とは切なく貪欲な生き物だと恒平は思った。
ただ時間は前にしか進まない、あるものは過去に、ないものが未来にあるかもしれない。確かに山本百合子は過去にもいるけれど、未来にも彼女はいるだろう。ただその彼女がどんな女性になっているかは分らない。それは彼女自身だけではなく、夫であったり子どもたちが彼女の未来を変えていくだろうと思う。
人は歳月を経ると変化していく、良くもあったり悪くもあったり。同じように見えているのは一部分だけで、お互いが変化しているのだから必ずどこかが変わっているはずである。恒平の心も変わっていくし、あれから百合子の心も変わっているかもしれない。もし彼女に出合うことがあったなら、二人はどんな顔をするだろうと恒平は考えた。
晴れ渡った10月のある日、恒平はいつもの様に会社に行き、いつもの様に仕事を片付け、いつもの様に帰路に向かう駅へと歩いていた。横断歩道の信号が赤になり立ち止まった。
通り過ぎる車の隙間から女性の姿が見えた。何台かの車が通り過ぎると歩道の信号は青になり、歩道は空白の広場となった。その瞬間、歩道の向い側にいた女性が私を見て微笑んだ。そして彼女は色白な赤ん坊を抱えながらゆっくりと私の方へと歩き出したのである。
「これは夢なんかじゃない」恒平は口元を緩めて一人つぶやいた。
そして彼女のもとへ我が子のもとへと歩き始めた。
冬の錯夢(さくむ)
この作品は約30年前に書いたものを少し手を加えて投稿しました。
基本的には原文のままですが、原文は曖昧に結論のないまま終わっていたので、
どう結末をつけると小説らしくなるか考えました。
やっぱり人間というものは、月日が経つと考え方が変わっていきます。