至福の刻 前編
この話の主人公は作者、私自身です。
この現実の出来事が、今は自分自身の事だとは思えません。
でも忘れる事もできないのです。
今年は、とても寒い日が続いている。冷たい空気の中ちらほらと雪が舞い、肩を窄めながら足早に行き交う人々。
金曜日の午後二時。働く人たちにとっては忙しいはずの時間、足早になるのは寒さのせいだけではない。
そんな中、奈緒は暖かく広々とした美しいリビングルームで、二匹の愛犬と寛いでいた。専業主婦は気楽なものである。
これも当たり前の光景かもしれない。
裕福な家庭で、子供達も社会人となり、平日の昼間は、時間を持て余している。気が向けば友人とランチに出かけ、旦那の愚痴の溢し合い。
欲しいものがあればショッピングに出かけて行く。
小遣い稼ぎのパチンコで、家でゆっくり寛ぐ時間はないようだが、じっとしていられない彼女の性格がそうさせているのである。
今の彼女しか知らなければ、幸せな女だと誰もが羨むであろう。最近リフォームしたばかりのキッチンとリビング、浴室やトイレまで、彼女の理想通りに仕上がっている。
イタリア製のソファーは、愛犬たちに占領されているが、それもまた、何とも幸せな光景である。
彼女は夫に愛されている。彼女の生活を見れば誰もがそう思うであろう。
いや、確かに彼女は夫に愛されていて、それを自分自身も実感し、満足している。
奈緒には四人の子供がいる。しっかり者の二七歳になる長女美咲、マザコンと言われるほど母親と仲の良い二四歳になる双子の息子直哉と祐哉、
それに彼女と一番気の合う二三歳の次女奈美恵。四人とも高校卒業後、それぞれに選んだしっかりとした職業に就き、真面目に働いている。
学生時代は心配する事も多少はあったであろうが、彼女を困らせる事もなく、この時代には珍しい、会話の絶えない、仲の良い親子である。
今奈緒にとって大変なことと言えば、朝早く起きて、子供たちに弁当を作り持たせる事と、家族だけでも六人分の夕食を毎日作らなければならないのに、
それぞれの彼氏や彼女、それに友達まで頻繁に連れてくる為、まるで学生寮のような食事の量を作り、食べさせている事くらいで、
彼女にとっては大変なうちに入らないであろう。嬉しそうな表情の母と子供たち、夫も優しい笑顔で見つめている。
訪れた友人たちも、頻繁に来る彼女や彼氏も、みんな楽しそうに、大きな笑い声が深夜まで絶えない。
そんな家庭は今の世の中めったに見ないのではないだろうか。
だが、こんな絵に書いたような家庭を彼女は簡単に手に入れたわけではない。奈緒が自分の命をかけて、自分を犠牲にして手に入れたものだった。
愛する四人の子供たちのために・・・。
優しく温厚な夫。奈緒の我儘も困った顔をしながらも全て許している。
貸しビルをいくつも所有しており、その収入で裕福な暮らしをしている。趣味は柴犬のブリージングで、ドックショーに出陳する事である。
趣味と呼ぶには少し大がかり過ぎて、三十頭以上もの柴犬を、自宅から車で十分程の土地に犬舎を建てそこで飼育、繁殖をしている。
仕事に出かける必要のない夫は朝夕犬たちの世話に通っているが、頭数が多い為、ひとりでは手が回らず、毎日奈緒も手伝いに行く。
元々犬好きの彼女に犬たちも懐いて、夫の言う事は聞かない犬も、彼女の一声でおとなしくなるのは、不思議な彼女の力のせいだろうか？
自宅マンションで室内犬として飼っているのも雌の柴犬で、サクラとサチと名付けて、我が子のように可愛がっている。
こんな趣味を持つ夫修司は奈緒より十歳年上のせいか、性格や生きてきた環境の違いからか、奈緒の父親のようだ。奈緒と修司が知り合ったのは、十年前。
そう、修司は四人の子供たちの父親ではないのである。一見仲の良い裕福な家庭に見えるこの家族が一緒に暮らし始めたのは、六年前の事だった。
奈緒は一九歳の時、高校生の頃から付き合っていた清志と結婚した。
長女美咲が既に奈緒のお腹にいたが、清志は一七歳の時から、高校を中退して父親と同じ、鳶職の仕事をしていて、かなりの収入があり、親子三人食べて行く事は出来たが、
まだ若かった為、奈緒の実家に同居して、結婚生活は始まった。
奈緒の実家は平凡なサラリーマンの父と仲居の仕事をしている母、高校生の妹と弟の五人家族。
清志は平凡ながら暖かい家族にすぐに馴染み、美咲が生まれるととても子煩悩な父親になった。元暴走族の清志だったが、とても情のある男だった。
困っている人を見ると放っておけないような、優しい一面もあり、容姿もモデル並みであった。
奈緒は結婚前に清志の浮気に悩まされた事が、何度もあり、一番奈緒が傷ついたのは奈緒の中学時代からの親友が、清志の家に泊まりに来ていた事を知った時だった。
そんな事があっても、乗り越えて結婚し、美咲が生まれ、奈緒は自分の実家で清志も一緒に暮らしている事に幸せを感じていた。
奈緒にとって一番幸せな時だったのかもしれない。
美咲が一歳になった頃、三人で実家の近くの市営住宅に引っ越しをした。
奈緒の両親はとても淋しそうだったが、歩いて十分くらいの場所、まさにスープの冷めない距離での三人だけの新しい生活は本当の意味で新婚生活だった。
贅沢さえしなければ、何とか食べて行く事も出来たが、清志の父親も出来る限りの援助をしてくれたため、奈緒は美咲の子育てに専念する事が出来たが、
美咲はとてもおとなしい手のかからない子だった。
それから二年後双子の直哉と祐哉が生まれた。
一卵性双生児が生まれたのは清志の家計の遺伝だったらしいが、奈緒は子供はひとりでもいいと思っていたので、戸惑った。
だが生まれて来た直哉と裕也を見て可愛くないはずもなかった。
二二歳で三人の母親になった奈緒、近くに住む実家に遊びに行く事はあっても、親に頼ることはなかった。
奈緒の実家は決して裕福ではなかったので、両親は共働きしていた為、頼りたくても頼る事が出来なかったのだ。
双子の直哉と祐哉が生まれる時も、夫の清志が仕事を休み、美咲の面倒を見て、ひとりで出産した。
奈緒はまだ若かったので、内心母親に甘えたかったが、何も言えずに我慢していた。
そうやって少しずつ彼女は、精神的に強くなっていったのであろう。
それと三人の子供を産み、とても強い母性本能が芽生えていたから、「母は強し…」という言葉通り、強くなっていった。
美咲はとてもおとなしい子だったが、一気にふたりの男の子が増えたのだから、今までのようには行かなかった。
直哉と祐哉は臆病な子どもで、すぐに泣き出してしまい、いつも奈緒に甘えた。ふたり同時に抱きかかえて、あやす事も度々あった。
奈緒は神経質な気質ではなく、どちらかと言えば、楽天的な方である。だが、直哉と祐哉が八カ月になる頃、また妊娠している事がわかった。
その時はさすがの奈緒ももうひとり子供を産み、育てていく事は無理だと悩んだ。
その四人目の子を中絶しようとも考えたが、三人の子供たちを見ているとお腹の子だけを産まない事に、罪の意識を覚えた。
それに妊娠に気付いたのも遅かったので、簡単に中絶出来る時期を過ぎていた。奈緒はお腹の子も産んで育てていく事に決めた。
悩んでいたのは子育てが大変だという理由だけではなかった。奈緒はまだ子供が美咲ひとりの頃、清志の義理の姉から勧められて化粧品の訪問販売の仕事を始めていた。
直哉と祐哉が生まれてから全く売り上げを上げる事が出来なくなり、在庫を抱えていた為、大した額ではなかったが、借金が出来てしまっていた。
その上直哉と祐哉は、母乳だけでは育てられず、ミルク代だけでも大変だった。
そんな状況での妊娠だった為、悩んでいたのだった。それでも何とか安く出産出来る病院を探して、奈美恵を産んだ。
奈美恵はまるで状況を分かっているかのように、手のかからない子だった。夜中に泣く事も全くなく、奈緒はそんな奈美恵の寝顔を見て、悩んでいた自分を責めた。
そして必ずこの子たちを立派に育てようと誓った。
何人いても自分の子供は可愛いもので、奈緒は四人とも平等に手をかけて育てていた。それは一番大切なことだと思っていたから・・・。
だが奈美恵が一歳になるのを機に四人を保育園に預けて働く事に決めた。清志と同じ鳶の仕事、つまり建築現場で働く事にしたのだ。
清志の会社のパートとして雇ってもらえば、現場の親方は清志の父だった事もあり、優遇されるからである。
子供が四人もいれば、休まなくてはならない事も少なくない。熱を出したりすれば保育園は休ませなければならないからだ。
男ばかりの建築現場で働く事に、少しは抵抗があったし、重労働で体はきつかったが、奈緒は苦にならなかった。
実際、子供が四人の六人家族の家計は苦しくなっていて、奈緒の収入があれば随分楽になる。奈緒は子供たちにだけは、みじめな思いをさせたくなかった。
子供たちは保育園にすぐに馴染み、奈緒は四人の子供を保育園に預けた後現場に向かう。
現場は車で一時間以上もかかる所もあったが、親方である清志の父が遅くなっても大目に見てくれていた事で、成り立っていた。
奈緒は初めての仕事で、何も分からずに働き始めたが、だんだん建物が出来上がっていく工程に興味を持つようになり、家に帰ると夫の清志に質問攻めだった。
清志も悪い気はしない様子で、奈緒の質問にきちんと答える。現場での清志は凛として、男らしく奈緒は誇らしかった。
子供がある程度大きくなるまでと思い、始めた鳶見習いの仕事だったが、負けず嫌いの奈緒は、二年、三年と続けて行くうちに男並みの仕事を任されるようになっていた。
必要な資格を取り、機械を動かし、高所での作業も清志や他の鳶の男たちと一緒にこなした。
会社の上司が現場を見に来る事もあったが、奈緒の仕事ぶりを見て感心して帰るほどだった。体は汚れ、くたくたになる毎日だったが、奈緒はこの仕事が好きだったのだろう。
結局二四歳から始めて十年間この仕事を続けた。さすがの奈緒も三十五歳になると体力の限界を感じて辞めることにしたのだった。
この頃子供たちは、美咲が高校入学、直哉と祐哉は中学入学、奈美恵が小学六年になっていた。美咲は相変わらずおとなしい娘のまま成長し、
直哉と祐哉と奈美恵は小学校低学年からソフトボールのチームに所属しとても活躍した。奈緒に一番似ている奈美恵はやはり男勝り、三兄弟で有名になっていた。
そこでも奈緒は子供を支えた。チームの保護者会での役員、練習や試合の付き添い、他の子供たちの親は夫婦揃って協力していたが、
清志が非協力的だった分、奈緒がひとりで仕事が終わると毎日のように見に行った。
休日は試合が入るため、朝四時頃に起きて、弁当持参で着いて行ったく。奈緒は全く体を休める時がなかったが、子供たちをいつも見ていたかったのだ。
大切な時を見ていたかっただけだった。時には親子で嬉し涙を流し、時には子供の悔し涙に言葉をかける事も出来ず一緒に泣いた。
そのひとつひとつの出来事を、その一瞬の出来事をいつも見ていられる事が奈緒にとっての幸せだったのだろう。
団体の中で子供たちもそうだったが、奈緒もまとめる立場に立ちチームの行事にも精一杯協力していた。
朝の集合時間に遅刻しないために、炬燵に正座したままで眠った日も度々あり、誰もが一度や二度は遅れてくる中で、奈緒は一度も遅れる事はなかった。
自分の身なりもきちんと整えて、化粧もちゃんとして、いつも元気に振る舞う奈緒に他の子供たちもみんな懐いていた。
奈緒はそんな子供たちも可愛く思い、自分の子供の事だけでなくチームの子供全員の世話をする。いつも笑顔で・・・。
無償で指導してくれる監督やコーチ達にも小さな事にも気を配り感謝の気持ちを表した。
人にやらされるのではなく、奈緒が自らそうしたかったのは、心から感謝していたからだろう。
最後までやり遂げた子供たちと共に、奈緒もチームを卒団したが、直哉と祐哉は中学になると、中学校の部活動ではなく硬式野球のクラブチームに入部したいと言い出した。
そこに入部するには毎月万単位の費用がかかる。奈緒はその頃、建築の仕事を辞めて洋服の配送のパートをしていた。以前と比べて収入も少ない。
ふたり同時にクラブチームに入団するのは相当家計に響くのはわかっていた。だが奈緒はどうしても子供がやりたい事をさせてやりたかった。
小学生の時のたくさんのすばらしい思い出もある。もっとすばらしい思い出を増やし、たくさんの経験をさせたかった。苦しい事も子供たちの糧になる。
きっと将来このチームで野球をさせてよかったと思う時が来ると信じ、無理をして入団させた。
始めから練習着やユニホーム、グローブやバットにスパイクと想像以上の費用がかかったが仕方がない必要なものは全て揃えてやった。
だが・・・やはりあまかった。
毎月毎月想像以上のお金がかかる。だんだん額も増えて行く。奈緒の家計は火の車だった。借金も増えて行く。だがそんな理由で辞めさせたくはない。
まだ二年以上もこの状態が続くというのに。そう悩んでいるある日
奈緒が仕事から帰り集合ポストを開けると、薄いピンクの小さなチラシが一番上にあるのが目に入った。
「出張コンパニオン募集 年齢 四五歳まで」
奈緒には大体どんな仕事かはわかっていた。だがこの現状を乗り切るためには仕方がないのかもしれない。自分に出来るならやるしかない。
そう思った奈緒は、すぐに電話をかけた。電話に出たのは優しい口調の女性だった。その女性に翌日面接に来るように指示された。
もちろん清志には言えない。何年も前から奈緒は清志を頼らなくなっていた。
子供たちの事にも全く協力しない事や、お金がない時も奈緒がひとりで何とかしてきた事の積み重ねで、当てにしなくなっていた。
さすがに足を踏み入れた事のない世界に入ろうとしている恐怖で、その夜はなかなか寝付けなかった。
子供たちのため、この歳になって雇ってもらえるのであればありがたい。ずっと繰り返しそう自分に言い聞かせた。本当は震えが来るほど怖かった、泣き出したかった。
だがこの仕事をする事以外には何も稼ぐ方法が思いつかない。
この日ピンクのチラシがポストに入っていた、しかも目に付くように一番上にあった事はこの仕事をするべきだという何かの知らせなのだろう。
もしかするといい方向に展開していくきっかけになるかもしれない。すべてをプラスにして考えるしかなかった。
そうやって心を少しずつ落ち着かせながら奈緒はやっと浅い眠りに着いた。翌日寝不足のままパートの仕事を終えた奈緒は、昨日指示されたファミレスへ向かった。
都心の混雑したファミレスでの面接というのが唯一の救いだった。少し早めに着いた奈緒は、店内を見回したが、待っているように見える人はいない。
とりあえず「もうひとり着ます。」と言いひとりで席について待っていた。
どんな人が現れるのか、この場所で面接は終わるのか、雇ってもらえるのか、色々な不安が頭の中で入り乱れる。
度胸は据わっているはずの奈緒だが、心臓の音が隣に聞こえるのではないかと、心配するほどだった。
ほんの少しの短い時間であったが、とても長く待っているように感じていた。
五分程待っていると、白髪交じりの小柄で優しそうな男性が現れた。
「佐々木さん？」と聞かれ、「はい。」と答えると、男性は奈緒の前に座った。
本名を名乗る必要のない仕事だと考えた奈緒は当時活躍していたプロ野球選手の名字を名乗っていた。
何処にでもいる、普通のおじさんだ。奈緒はその外見に少しホッとした。
笑顔で口調もとても優しく、簡単に自己紹介を済ませて、すぐに本題に入る。
出張コンパニオンの仕事内容、報酬等を、詳しく説明された。
まず、主張コンパニオンとは、お客さんがホテルや自宅から店に電話をかけて、女の子を呼ぶ。
好みの女の子のタイプを指定する客もいれば、新人がいいと言う客もいる。だが指名する客が一番多い。
店の電話応対の仕事をしている優しい声の女性が、誰を行かせるかを判断して女の子に連絡を取る。
店にも待機する部屋を用意してあるが、他の女の事顔を合わせたくなければ、近くでひとり待機していても構わない。
どちらにしても電話番の女性から携帯に電話が入れば、指定された場所にすぐに向かう。交通手段は店の送迎か、自分で移動するかどちらか。
送迎も有料なので、自分で移動した場合の交通費も自己負担。指定された場所について客に自分でいいかどうか了解を得て、何分のコースにするかを確かめたら、店に電話を入
れる。そこから時間を店が計り、十分前に電話をかけてくれる。延長したいと客が言えば延長料金が発生する。
仕事が終わり部屋を出たら、「今出ました」とまた電話をする。
システムはこのような段取りで行われるのだが、問題の仕事内容は、少し言い難そうに男性は小声で話し始めた。
出張コンパニオンと簡単に言っても、店によって仕事内容が大幅に違うようだった。裸で客の相手をするのは、大体同じだが、どこまでやればいいのかと言うところだ。
この店は無制限だった。
もちろん違法だが、暗黙の事らしく、どの店もやっている事。その代わり料金設定が高くなっている。
その料金で、客はどこまでやれるのかを判断して店を選んでいるようだ。男性はそれでも大丈夫か奈緒に確かめた。
奈緒は始めからそのつもりで面接に来ていた。逆に何のテクニックも知識もない普通の主婦の奈緒にとっては、その方が楽だった。
それを男性に伝えると、男性は微笑んで話を続けた。後は報酬の事だけ・・・
七〇分コースで客は二万円支払い、その六割が自分の取り分、店に四割を渡す。
九〇分コースなら、二万五千円客が支払い、自分は一万五千円。延長は三〇分一万円で六千円は自分の取り分。
店の近くであれば、自分の車の中で待機してもいい。そのまま自分で運転し指定された場所に行けばいい。
入れる日には何時から何時まで入れるかを、毎回連絡し、最後にその日の店の取り分を届ければ行く度に現金収入になる。こんなに都合のいい副業はない。
どのくらいの仕事が入るのかわからなかったが、男性も「是非働いてほしい。」と奈緒を気に入ったようだったので、翌日から出勤する約束をした。
夫に対してもだが、子供たちに対して切りつけられるように良心が咎めた。
その日家に帰った奈緒は、子供たちを直視することは出来なかった。
だが、「やるしかないんだ。」と自分を奮い立たせ続けた。
一日どれぐらいの稼ぎになるのか見当も付かなかったが、落ち着くまで頑張ればいい。もしかするとこれでどん底から抜け出せるかもしれないのだから。
繰り返し、繰り返し、そう自分に言い聞かせた。
翌日はパートの仕事のない日だった。何もなかったかのように振る舞い、いつものように夫と子供たちを送り出した。
意味もなくバタバタと狭い家の中を走り回りながら、洗濯や掃除を済ませると、恐る恐る店に電話を入れた。
まだ午前一〇時を過ぎたばかりだったが、やはり優しい声の女性が電話に出た。
「昨日面接していただいた佐々木ですけど・・・」と切り出すと、
「はーい。もう入れますか？」と少し声のトーンが高くなった。
「はい、今からそちらの方に車で向かいます。」と答えると
「わかりましたぁ。着いたらまた電話くださいねぇ。」ととても優しかった。
こんな時間から仕事があるのか疑問ではあったが、とりあえず店の近くで車を止められる場所を見つけて、連絡を入れた。
すると、驚いた事にもう仕事が入っていた。
車まで十分程で行ける距離のラブホテルに行くよう指示された。ドキドキしながら車で待機しているよりはよかったと、奈緒は思いながらも、ハンドルを握る手は震えていた。
パートの仕事で通り慣れている都心にあるホテル。まだ午前十時半過ぎの平日。少し分かりにくい裏通りではあるが、人目は気になるはずの時間。
だが奈緒の心中はそれどころではなく、それでも奈緒の運転する車は、躊躇する事もなく吸い込まれるように、ホテルの駐車場へ入って行った。
車を降りる彼女の顔は、既に覚悟が出来ているのか、放心状態なのか何の表情もなくいつもの母親の優しさも、仕事中の厳しさも友人の前で見せる笑顔も、全て消えていた。
指定された部屋へ入る為にフロントを呼び出し、客の了解を得て部屋のロックは解除される。重いドアを開けて奈緒は部屋へ入った。
中にいたのは、父親と同じくらいの歳の、作業服を着た小柄な男性。人の良さそうな優しい笑顔だった事に、ほんの少しではあるが奈緒は救われた。
「私でよろしいでしょうか？」と聞くと「もちろん！」と奈緒を気に行った様子で男は答えた。
キャンセルされる事もあると聞かされていた奈緒はホッとして、店に連絡を入れた。初めての仕事の初めての客。この男は新人が入ると必ず呼んでいるようで、浮かれている。
こんな時間に、コンパニオンを呼び遊んでいる男性が、果たしてどれ程いるのかは、わからない。
だが、初日から待機する時間も全くないまま、仕事が入るという事は、多くはないだろうが、少なくもないのかもしれない。
奈緒は緊張と良心の痛みに耐えながらも、どこか冷静に、そんな事を考えていた。
客は風呂の湯も溜めて、待っていた様子で、すぐに一緒に風呂に入るように言われた。
この仕事はそうするのが当たり前の事なんだろう、いや、どちらにしても客の言う通りにしなくてはならないのだと、奈緒は素直に福を脱ぎ、客の後から浴室に入った。
明々と照らされる照明の下、初めて会った男性の前で子供を産み崩れてしまっている裸体をいやらしい目つきで見つめているだろう、
奈緒はそう思うと下を向いたまま耐えるしかなく、何をすればいいのかさえも、分からない。
だが何をする必要もなく、客は奈緒の体をシャワーで流すとボディーソープを掌に取り奈緒の体を触り始めた。後ろからも前からも、撫で回した。
客は奈緒の掌にもソープをつけると、自分の体を洗わせ感じていた。ふたりの体を洗い流すと客は、一緒に浴槽に入らせ色んな体制をさせた。
この時の奈緒はもう言われるまま、されるがままになるしかなかった。この場所に来るまでの葛藤から解放され抜け殻のようになっていた。
頭の中は真っ白で、楽になれたようにも思えた。
どのくらいの時間が経過しているのか、間隔を失っていた。浴室を出るとダブルベットへ連れられて行く。
客はかなり前からの常連で、店から初出勤の素人だと聞いていたが、本当に素人が来るとは思っていなかった。
今まで何度も騙されてきたのだろう。奈緒が本当に素人だとすぐに分かり、優しくリードした。
もう初老の客にとって、奈緒は若くて初々しかったのかもしれない。奈緒の体の全ての部分に時間も気にせず愛撫を続けた。
途中で、奈緒の携帯に店から十分前の連絡が入ると、客は延長させるほど奈緒に夢中になっていた。
延長した三十分はあっという間に過ぎ、初仕事は終わった。別れ際、客に携帯番号を聞かれたが何とか上手く交して部屋を出た。
自分の車に乗り店に部屋を出た事を電話で知らせると、もう次の仕事が入っている事を告げられた。
行為自体激しいわけではなかったが、始めと終わりに二度も風呂に入ったせいか、体はひどく疲れていた。
だが、客から受け取った金額は、延長料も含めて三万円。一万八千円は自分が貰える。
奈緒はふっ切れていた。仕事を入れてもらえるのだから、ありがたいとも思った。そして指示された次の場所へ向かった。
次の客は全く違うタイプの男だったが、行為自体似たような物で、同じようにあっという間に時間は経過して、終わるとまたすぐに三人目の客の待つ場所へ向かう。
この日だけで奈緒は三人の客の相手をして、自分の取り分だけでも五万円を夕方五時までに稼ぎ一日目を終えた。
普通の主婦に戻り、すぐに家に帰らなければならなかったが、それまで気が張っていたせいか、車に乗り込んだ途端全身の力が抜け運転席に座ったまま目を閉じると
そのまま動けなくなっていた。今まで経験した事のない脱力感を感じていた。
やはり楽ではないという事を実感したが、一日で、しかも空いている時間だけで、五万円も稼げる仕事なのだから我慢するしかないと思っていた。
一〇分程目を閉じて眠りに落ちそうになりながらそんな事を考えた。だが帰らなければならない。家に着くまでの三〇分の間にいつもの母親の顔に戻らなければ・・・。
そう自分に言い聞かせ気合を入れる為か車内に流れる歌を大声で歌いながら、目を大きく見開き力一杯ハンドルを握りしめ家まで帰った。
家には長女の美咲だけが帰って来ていた。直哉と祐哉は野球、奈美恵はソフトボールを毎日遅くまで頑張っている。美咲に笑顔で、
「ただいま」と言うと美咲もいつもの笑顔で「おかえり」と答えた。
奈緒は美咲に気付かれないように、バタバタと夕食の支度をしながら、洗濯物を取り込む。
いつもなら野球やソフトボールの練習に顔を出す時間だったがさすがにこの日は行く気にはなれず、ただじっとしてもいられず無駄に動き回っていた。
夫の清志が帰ってくる時間、気付かれるはずはないと思いながらも自分の鼓動が全身に響いているように感じていた。
「ただいま」 清志が帰って来た。
「おかえり」 奈緒は台所から返した。必死でいつも通りを装う。普段から無口な清志は特に何も話さず着替えを済ませるとテレビの前で寛いでいる。
夕食が出来上がった頃奈美恵に続き直哉と祐哉も帰って来たが、もう奈緒の心中は落ち着いていつもの奈緒と何も変わらないように見えた。
にぎやかな六人揃っての夕食が始まった。毎日の当たり前の光景だが、この日の奈緒にとってはとても幸せな時間に思えた。
涙が出そうになるのを必死で堪えた。自分はこの幸せを、家族のこの笑顔を守らなければならないと改めて思いながら、コンパニオンの仕事を続けて行く覚悟を決めた。
貯金もなく、毎月生活費が足りず借金の支払いが遅れて督促の電話に怯え、時には光熱費が遅れて電気やガス、水道も止められる事もあった。
学校から帰った子供たちは電気が付かない水が出ない、そんな時どれほど心細かったか、どれほど惨めな気持ちだったかそんな思いはもう二度とさせない。
奈緒は強く心に誓った。今までも何とかしたいとずっと考えてはいても、手段が見付からなかったがコンパニオンさえ続けて行けばいいのだ。
奈緒にとって命よりも大切な子供たち、母親がそんな仕事をしていると知ったら軽蔑するであろうが、今はこの状況を何とかするしかない。
そう決めた奈緒はもう何の迷いもなくパートの日も、配達の仕事を早く切り上げ終わるとすぐに店へ向かうようになった。
平日の昼間でも、客は切れることなく、仕事が入らない日はなかった。パートの収入は一カ月十万程度、それを三日で稼ぐ事が出来るコンパニオンの仕事、楽ではない。
立ち上がれなくなるほどに激しい時もあれば、変わった性癖を持ち、強要される事もある。気に入られると、二度目からは指名され、指名料も加算される。
奈緒は日に日に慣れて行くが、疲労のせいか、食欲がなくなり待機している車内で食パンをかじるのがやっとだった。
平日はパートの仕事と、コンパニオンの仕事
子どもの学校が休みの日は、朝まだ暗いうちに起きて弁当を作り、野球の練習や試合に同行した。
野球はクラブチームだった為、練習でも車に子供たちを乗せて県外へ行く事が多く、奈緒は八人乗りのワゴン車に、
目一杯の子供を乗せ片道三時間以上も一人で運転する事もあった。
他の保護者の車は皆父親が運転する中、夫が居ながら全く協力してもらえない事も惨めだったが、直哉と祐哉がかわいそうでならなかった。
その分自分がふたりの事を、ずっと見守りたいと思うだけだった。
奈美恵も中学でバレーボールを始め、奈美恵の様子も時々見に行くようになったが、
運動には全く興味のない美咲は家で淋しい思いをしているだろうと美咲の事も気にしながらもどうしょうもなく、清志が休みの日は美咲の事は任せていた。
奈緒は全く体を休める暇もなかったが、健康には自信があり、自分が体を壊すなんてあるはずがないと思っていた。
確かに大きな病気はもちろん、風邪をひいた事もあまりなかったからだ。奈緒は自分が健康なのは、子供の頃裕福ではなかったが、
母親が働きながら、手を抜かずに三度の食事をきちんと作り食べさせてもらったからだと感謝していた。
だから自分も子供たちに同じように手を抜かずに、美味しい食事を作る。どんなにお金がなくても子供たちにはお腹いっぱいの食事をさせて来たのは、そんな思いからだった。
野球で汚れた練習着も、時間をかけて真っ白になるまで洗っていた。チームの誰よりも真っ白だった。
体が辛くないはずはなかった。それでも長い休みの一日が終わると、二つの仕事へ出掛ける毎日。
コンパニオンと比べると、少しの収入にしかならないパートの仕事を辞めなかったのは子供たちの母親として恥ずかしくない仕事だったから。
そして早くお金をためてコンパニオンを辞めたかったからであろう。
だがコンパニオンの仕事を初めてひと月が過ぎた頃、奈緒の体重は五キロも落ち顔色も優れず、目の下にはくっきりとくまが出来ていた。
食欲もなく日に日に体力もなくなっていた。夕食の買い物をするために、歩きまわる事さえも億劫になるほどだった。
それでもやらなければならない事は山程ある。奈緒は体の不調を誰にも言わず、いや誰にも気付かれないようにいつも通りを装っていた。
だんだん意識が遠くなっていく事にも、慣れっこになって、少しの間目を閉じていれば治ると思っていた。そんな状態が何日も続いていた。
寒いある日の夕方、また意識が遠くなったのであろう、奈緒は目を閉じた。だがその日は目を開ける事はなかった。
その時美咲は目を閉じている奈緒を見て、疲れて転寝をしているのだと声をかけずにいた。それから一時間以上経って、清志が仕事を終えて帰って来た。
清志は寝ている奈緒を見て、普通ではない事に気付き、奈緒を揺さぶって声をかけた。
「おい、大丈夫か？」奈緒は少しだけ目を開いたが、何も言わずにまた目を閉じてしまった。
清志はすぐに美咲とふたりで奈緒を抱えて車に乗せ病院へと向かった。診療時間ギリギリの病院にはまだ患者が待っていたが、
意識も朦朧としている奈緒はすぐに奥へ案内され、ベッドに寝かされた。その日の朝まで元気に振る舞っていた奈緒しかしらないふたり。
なぜこのような状態になったのか、説明する事すら出来ない。看護士が呼びかけると奈緒は目を開けたが、声も出せない様子で涙を浮かべていた。
体温も四二度、脈も心音も正常ではない。医師は奈緒を見て、すぐに解熱と水分補給の為の点滴を始め、清志に奈緒を入院させるように勧めた。
清志は美咲を先に家に帰して、点滴が終わるまでの一時間待合室で待ちながら、突然の事に戸惑っていた。
奈緒はなぜこのような状態になったのか。入院させる為の費用はあるのか。
清志は考えても、何もわからなかった。
だがこのような状態になる三日程前から、奈緒は高い熱が出ているにもかかわらず、野球チームの毎年恒例の見学会と言う行事で、
朝早くから炊き出しをして雪が舞うグランドで日が暮れるまで動き回っていた。
喉の痛みがひどく唾を飲み込むのも異常な痛みを感じていたが、大きな行事に母親の会の会長である奈緒は欠席するわけにはいかなかった。
責任感の強い奈緒は、たとえ周りが許したとしても休むはずもなかった。解熱剤を服用しただの風邪だと無理をして一日中動き回っていた。
翌日から、熱が下がらぬままパートの仕事には出勤したが、コンパニオンの方は休んでいた。
自分の事になると病院代も惜しみ自力で治そうとしていた奈緒だったが、限界だったのであろう。
家族も気が付かない程、我慢をしていつものように元気に見せていた笑顔。彼女を突き動かすその強さはどこからくるのであろう。
点滴が終わる頃、奈緒は目を開けて、目の前にいる清志に何か言おうと口を開いた。
清志は心配そうに顔を近づけたが、奈緒は全く声が出なくなっていた。清志は入院するように医師に言われた事を伝えたが、奈緒は大きく首を横に振り、拒んだ。
清志は医師を何とか説得し、明日また連れてくる事を約束して連れて帰った。医師の診断は風邪ではなくウイルス感染による症状だった。
このまま放って置くと、肺炎や他の病気に二次感染し、死に至る事もあるとも言われた。
どうしても家に帰るのであれば、明朝また来院させ、診療時間が終わる頃に迎えに来るようにと。
これまで一度も病気をした事などない奈緒にとって初めての大病だった。おそらくその原因はコンパニオンの仕事であろう。
客に強要されれば、体のどんな部分でも口で舐めさせられる。客が菌を持っているかどうかなど確かめる術もない。
体も日に日に痩せて体力も落ちていた時の感染だった。
それから一週間、病院の行為に甘え昼間は処置室のベッドで何本も点滴や注射を受けた。
一か月前、五三キロあった奈緒の体重は四六キロになり、昔からふっくらしていて健康的だった彼女だったが、顔の表情にも生気がなく、別人のようになっていた。
子供たちも奈緒の変わり果てた形相を悲しそうな眼差しで見つめ、出来るだけ傍から離れなかった。
奈緒はそんな子供たちの様子に居た堪れなくなり、何度も涙を浮かべ自分を責めていた。
子供たちの為に、無我夢中で何も知らない世界に飛び込み、挙句の果てにこんなに子供たちに悲しい顔をさせてしまった。
だがこのまま辞めてしまえばまた家計は火の車。どうすればよいのだろう。一日中横になったままこれからの事を考えていた。
コンパニオンの店から、携帯電話に毎日のように着信がある。
良心的な病院のお陰で、徐々に熱も下がり声も出せるようになった奈緒はパートの仕事に出られるようになった。
またコンパニオンの店からの電話が鳴り、どうするかは決めていなかったが電話に出た。
すると奈緒が休んでいる間も指名の電話が毎日のように入り断り続けたと伝えられた。
そして、「また復帰してほしい」と・・・。
内心続けるしかないと思っていた奈緒は、その日、パートの仕事を終えるとまた店へ向かった。今度は病気にならない様に気を付ければいいと言い聞かせながら。
すぐに仕事が入り、急いで向かうと初めて会う坂田と名乗る客だった。体格がよく強面だが、優しい口調の五〇歳くらいの客だった。
行為は激しく病み上がりの奈緒にはとても辛かったが、終わると奈緒を休ませる為に時間を延長してくれた。
始めから九〇分で料金の高いコースだったにもかかわらず延長料金を惜しみもせず、奈緒の体を休ませる為だけにお金を払ってくれる客など初めてだった。
昼間から女を呼んで遊んでいる事には変わりないが、今までの客とは違う気がしていた。
その日から毎日坂田は奈緒を指名してくるようになった。毎日コンパニオンを呼ぶ客などそういるものではないだろう。
奈緒は戸惑いながらも、毎日彼の元へ向かった。
奈緒の事を余程気に入ったのであろう坂田は、毎日九〇分に加え延長し、時には五万円近い料金を支払った。
呼ばれる場所はホテルではなく、彼が自分専用に借りていると思われるマンションだった。
始めは無口だった彼も、日を重ねるごとに、いや体を重ねるごとに、色々な話をするようになっていった。
奈緒は「何故こんな仕事をしているの？」と彼に聞かれ、本当の事を全て話した。
家族にも友人にも誰にも言えない事を、始めて他人に話したのは、彼の事を何も知らず、また彼も奈緒の事は何も知らなかったから、出来たのかもしれない。
坂田は心から奈緒の話に同情した様子で、奈緒の話に聞き入っていた。
そして話が終わると、黙って彼は自分の名刺を出して、裏に携帯番号を書くと、奈緒に渡した。
不思議そうに見つめる奈緒に「もしよかったら、直接会わない？」と言いだした。
彼は店に支払っているくらいの料金はきちんと支払うが、店を通さずに直接会えば、全部奈緒のものになる。
そうすれば奈緒が楽になると、そう考えていたのだ。
客と直接会うことは禁じられていた。奈緒がすぐに答えられずに困った顔をしていると、
「気が向いたら非通知でいいから、電話して私はいつでもいいよ。」と言った。
「わかりました。」奈緒はそう答えると、彼のマンションを後にした。
決して強引ではない坂田の提案と、名刺に書かれた実名や会社名。彼は不動産会社の代表取締役。
奈緒には何も聞かずに、自分の身分を明かした彼の男らしさや誠実さに、奈緒の胸は熱くなっていた。だが彼に初めて会って、まだ二週間。
店に知られたらどうなるのだろう。
奈緒の気持ちは、色々な不安と楽になれるかもしれないと言う期待で揺れていた。
翌日の朝、まだ奈緒は悩んでいた。とりあえずいつものようにパートの仕事に出かけ、終わるまでの間ずっと考えた。
そして、パートを終えた奈緒は、自然と昨日の名刺をバックの中から取り出し、手書きの携帯番号をじっと見つめた。
実は彼女には言葉で言い表すには難しいが、人を見抜く力があった。今まで生きてきた中で養われたのか、生まれつき待っているものなのかはわからない。
だが、信じられる人とそうでない人くらい、すぐにわかっていた。
彼の言葉に、嘘は感じられなかった。ただ、彼と会っている時、次の仕事が入った事を知ると、彼は「行かせたくない。」と言葉に出した。
もしも電話をして会うようになれば、店に出勤するのは難しくなるだろう。
当然店を辞めれば、収入は少なくなる上に、客と直接会うようになって辞めたと感ずかれる事は間違いない。二度と店に戻る事も出来ないだろう。奈緒はその事で悩んでいた。
苦渋の選択だった。だが奈緒は考えた。
この客に会う前の事。ウイルスに感染した時の、意識もなくなるほどの苦痛。
その時の子供たちの不安な表情。復帰して初めの客だった彼に、心も体も、どれだけ救われただろうもしかすると彼は私を救ってくれる人なのかもしれない。
なんとなくそんな気がした奈緒は、悩んだ挙句、自分の感を信じて、彼に非通知で電話をかけた。
彼はまるで携帯を握りしめ、奈緒からの電話を待っていたかのように数秒で電話に出た。
「あのー佐々木ですけどぉ。」と小さな声で奈緒が切り出すと、彼は「今から会える？」と、いつもより少し高い声で優しく聞いた。
「はい。」と答えた奈緒は彼のマンションへと車を飛ばしながら、途中で店には体調が悪い事を理由に欠勤の電話を入れた。
この日は、店に出勤する時の息苦しさとは正反対の、ホッとした穏やかな気持ちだったせいか奈緒の顔は少し笑みがこぼれていた。
二〇分程で彼のマンションに着き、いつものようにコインパーキングに車を止めた奈緒は部屋のチャイムを鳴らした。
すぐに彼はドアを開けて奈緒を中に入れた。
「電話してくれてありがとう。」と彼は照れくさそうにいうと、奈緒の為に入れておいたコーヒーを差し出した。
先の事はまだわからない。だが今、この時間こんなに穏やかな気持ちでいられる事が嬉しかった。奈緒にとっては自分の為に入れてくれたコーヒーが、とても温かかった。
客にお金で買われ、物のように扱われた事が何度もあった。心はいつの間にか閉ざされ、冷たく何も感じなくなっていた。
彼はそんな奈緒をこの一時の時間だけでも、救ってくれる事には変わりはなかった。
「会いに来てよかった。」と奈緒はそう思っていた。彼が毎日奈緒を求めるのは、愛しているからではない。性欲が強く女の体を求めているだけだろう。
それでも、ずっと気を張っていた奈緒にとって、彼の優しさに時には安堵し身を委ねていたのも事実だった。
この日彼の部屋を出た後、今度は番号を通知して彼に電話をした。
「佐々木ですけど、これが私の番号です。」
彼は、電話をかけても迷惑にならない時間を聞き、その時間以外には絶対に連絡をしないと約束した。
奈緒は病気の後、今までになく気弱になっていたせいもあるだろうが、一日に何人もの客の相手をすることを長く続けて行く自信がなくなっていた。
彼と会わない日だけは店に出るつもりだった。
だが次の日、パートが終わる時間を見計らったかのように、早速坂田から連絡が入った。
店には行かずに、パートが終わったらすぐにマンションに来て欲しいと彼は言った。
約束通り、都合のいい時間にかかってきた電話だった。店に行かなくて済む事も嬉しかった奈緒は、また彼のマンションへ向かった。
彼の部屋に入ると、テーブルの上にたくさんの手料理が並んでいた。何種類もの野菜を丁寧にカットしたサラダやポタージュスープ。ピラフまで用意されていた。
いつも昼食を取らない奈緒に食べさせるために、彼自信が作ってくれたものだった。奈緒の電話を受けてから準備したのではない。
彼は、今日も奈緒がここへ来る事を信じて、手料理を作りながら待っていたのである。その手の込んだ数々の料理を見て、奈緒にはそれがすぐにわかった。
いつもは摂らない昼食だが、空腹でないわけではなく、店に出勤する気の重さから食欲がなくなっていたからだった。並べられた料理を早速奈緒は食べ始めた。
どれもおいしく優しい味付けで、彼の人柄が出ているように思えた。
顔も体型も、安岡力也に似ている坂田。話し方こそ優しいが、こんな細やかな料理を作るようにはとても見えない。
自分は食べずに奈緒が食べる様子を、嬉しそうに見つめている。
この後、坂田はいつものように激しく奈緒の体を求める事を考え、奈緒は食事を程々にして、「どれもおいしかったです。ありがとうございました。」と言い笑った。
そして手慣れた様子で片付けると、自ら浴室に向かった。夕食の支度までには帰らなければならない奈緒にはゆっくりしている時間はなかった。
坂田と直接会う時も、それは変わらなかった。彼からお金を受け取る以上、毎日でも彼に抱かれないわけにはいかない。
家庭を持っていながら、他の男性と不倫をしている主婦もいるだろう。だが、奈緒が坂田と直接会う事は、家庭と自分を守る為。それは奈緒の脳裏から離れる事はなかった。
それが坂田にもわかっていたから、奈緒の家庭生活の邪魔をするようなことは絶対にしなかった。
それからというもの、奈緒がパートに行く月曜、水曜、金曜の三日は、パートが終わってから、休みの火曜、木曜は奈緒が夫と子供を送り出すとすぐに、坂田は「会いたい。」
と電話をかけてくるようになった。夜もそうだが、土、日は息子たちの野球に同行していたる事を奈緒から聞いていた坂田は、絶対に電話をかけることはなかった。
そんな中、毎日のように店から電話が入ったが、体調不良を理由にして断り続けた。
坂田は奈緒より十歳年上、男盛りと言えばそうなのかもしれないが、彼の性欲と、体力には奈緒も驚いていた。
坂田は奈緒がパートの日は、終えるとそのまま坂田のマンションに直行した彼女を求め、朝から会う日は、彼は奈緒の家の近くまで高級車で迎えに行き、高速を飛ばして、美し
い海や山、奈緒の好きな花が咲き乱れる高原や水族館など、今まで行った事のないところへ連れて行った。
昼食はおしゃれなフレンチレストランや、懐石料理と今までの生活とはかけ離れた場所ばかりだった。車で出かけた日には行き先々のホテルに入る。
ある日いつものように迎えに来た坂田の車で向かったヨットハーバー。地元では、高額所得者のクルーザーが停泊していた。
その中の大型クルーザーに彼は奈緒を連れて乗り込んだ。坂田の所有する船だった。
はじめて見る船内には奈緒の住む市営住宅よりも大きなキッチンや、十人は座れる豪華なソファーシャワールームも完備されている。
その向こうのドアを開くとキングサイズのベットルームがある。坂田は船を操縦し、沖まで行くと停泊させて、奈緒に楽にしているように指示すると、
船内のキッチンで短時間の間にパスタとサラダを作り奈緒に食べさせた。その上奈緒の吸っているタバコまで買い置きしていた。
食事を終えるとこの日は船内のベッドで奈緒を抱いた。
毎日２万から三万円を奈緒に渡す坂田にどれ程の収入があるのかもわからないが、この船を所有し維持していくのにかかる費用は莫大であるはずである。
ただ坂田を信じた自分の感が、間違いではなかったと思い始めていた。
坂田がしてくれることに、奈緒は嬉しそうな表情を浮かべていたが、内心家族に対しての罪悪感でいっぱいだった。
美しい風景を見るたびに子供たちにも見せたいと思い、美味しいものを食べるたびに子供たちに食べさせたいと思う。
坂田のしてくれる事のひとつひとつに自分への愛情を感じ、ありがたいと思う気持でいっぱいではあったが、
奈緒にとって自分だけが、いい思いをしても心から喜べるはずもなく、罪悪感が増すばかりだった。
自分は食べなくてもいいから子供に食べさせたいと思うのが母親なのだろう。坂田の好意を受け入れるのは、全て報酬を受け取る為だった。
それがなくなければ、彼がどんなに奈緒に好意を示しても傾かなかったのではないだろうか・・・。
クルージングを終え、奈緒の家へ向かう車内で、坂田は奈緒にこう切り出した。
「毎月いくらあれば生活していける？」
生活だけではない借金の返済もしている奈緒にとって、収入は多ければ多いほど言いに決まっていた。だが坂田の言おうとしている事を察した奈緒は返答に困った。
すると坂田は、「月に二十万で駄目かな？」「それで、完全に店を辞めて、私の彼女になってもらえない？」と真剣な表情で奈緒に問いかけた。
坂田に会ってひと月が過ぎようとしていた。その間に五十万以上の金を奈緒の為に使っていた。
この状態を継続していくのは無理だが奈緒に夢中になっていた坂田は考えた末、奈緒にこう持ちかけたのだ。
その代わりに、子供の事でまとまった金が必要な時には援助すると付け加えた。
この時の奈緒は、坂田に心まで奪われていたわけではなかったが、もう店で働く自信はなくしていた。この提案を受けるしかないと考え、承諾した。
この日から奈緒は夫も子供もありながら、坂田の愛人となったのである。
坂田に対して、不安を抱くようなことは何ひとつなかったが、店に所属して働いているのと違い、ひとりの男と情事を重ねていくことになれば、もしも清志に気付かれた時に
は、生活の為だという言い訳は通用しなくなるだろう。絶対に気付かれてはいけないと、奈緒は改めてそう思っていた。
翌日坂田は、約束通りひと月分の金額を奈緒に手渡した。坂田との関係は今までと何らかわらなかったが、
彼は、ブランド品も高価な宝石も高級な服も持っていない奈緒を不憫に思ったのか、時々奈緒には到底買えるはずのないような財布や時計を奈緒に買い与え、
一緒に町へ出掛けようと誘い、靴や洋服を奈緒の為に選んだ。女なら誰でも、嬉しくないはずはないが、それを公に使えば、家族は不審に思うだろう。
坂田と会う時以外の奈緒は、いつもの安物しか身に付けられなかった。
だが、以前と比べて奈緒の気持ちは穏やかだった。家庭を壊すような事も、約束を破る事もしない坂田。この人に出会って本当によかった。
この人を信じた事は間違いではなかったと、日を重ねるごとに坂田への感謝の気持ちは大きくなり、少しずつ愛情に似た気持ちに変わっていくのを、感じていた。
十代で母となり、遊ぶ事も、贅沢をする事も知らないまま、切り詰めながらの生活も、汗だくになって働く事も、子供たちの笑顔さえあれば、苦痛ではなかった。
どんな時も大きな母の愛で子供たちを包み、守った。
自分に出来る事は、手を抜かずに全力でやり遂げ、いつの間にか十七年の時が経過していた。無我夢中の日々を送ってきたのだ。
いつのまにか夫にも頼らなくなっていた奈緒にとって、坂田と過ごす時間だけは、女で居られたのかもしれない。身も心も委ねられる唯一の存在が坂田だった。
だんだん坂田と過ごす時間も長くなり、夕食の時間には帰れない日も少なくはなかった。
奈緒は家族に夜のバイトを始めたと、嘘を付き、坂田と過ごす時間を増やした。
それでも、夕食の準備だけは欠かさなかったが、子供と過ごす時間は減って行った。淋しげな表情の坂田を残して帰れなくなっていたのだ。
それまでの彼は、奈緒が帰ると、飲み屋の女性を誘い、夕食を共にした後、同伴で飲みに行く毎日を送っていた。酒を飲む為ではなく、ただ淋しかったのかもしれない。
奈緒が夜まで一緒に居る日は、夜の繁華街へ奈緒を連れて行き、お気に入りの店でふたりだけの夕食を摂った後、顔馴染みのスナックやバーへ向かう。
店では奈緒の事を自分の妻だと自慢げに話す坂田に、奈緒は話を合わせ、妻を装っていた。
本当の妻を連れて、こんな風に飲みに行ったことなどない事は、店のママの驚いた表情を見て、すぐにわかった。
「まぁ、珍しいですね。奥様とご一緒なんて羨ましいわ。」と何処の店でも同じことを言われた。
そう言いながら、本当の夫婦でない事くらい、みんな分かっているだろうと奈緒は思っていた。
坂田はどんな時も優しく奈緒をエスコートし、彼女を見つめる眼差しは、誰が見ても長年連れ添った女に対するものではなかったからである。
一週間のうち、二日はこうして坂田と長い時間を過ごすようになった。
奈緒にとっては現実と、全く別の世界との二重生活になっていたが、夫も子供たちも、家族と過ごす時間は今までと何も変わらない彼女のしている事に誰も気が付かなかった。
坂田は約束通り、息子たちの野球の遠征費などで、特別な出費がある時は、援助した。
彼の援助で、何とか生活も出来るようになりふたりの息子は高校へ進学した。今まで負担になっていた野球のチームも最後までやり遂げ、卒団した。
息子たちは子供の頃から続けてきた野球だったが、華奢な体格でこれ以上続けても限界が来ると判断し、ふたりとも高校では野球部には入らない事を自分で決めていた。
息子たちの意思を尊重すると決めていた奈緒は、肩の荷が下り、内心ホッとしていた。
今まで息子たちは、何度もくじけそうになったが、途中で辞めることなく頑張ってきた。それは毎日見て来た奈緒にはよくわかっていた。
遊び盛りの子供の頃から、遊ぶ暇もなく練習に明け暮れ、試合で負けた時には涙を流したふたり。
彼らが大人になった時、野球を続けてきた事が為になったと思う時が来ると奈緒は信じていた。技術ではなく精神に通じる何かを得ているはずだと、信じていた。
人との関わりの中で、優しさや思いやりはもちろん努力をする根性と、我慢する強さを持った男になってほしいと願っていた。
夫の清志にはないものを、求めたのかもしれない。
それからは時間にも気分的にも余裕が出来て来た奈緒は、坂田の援助を受けながら、借金も少しずつ減っていき、以前とは比べものにならないくらい、
穏やかな気持ちで生活が出来るようになっていたその矢先、坂田から持ち掛けられた話。
それは坂田と出会った時働いていた店と同じ風俗の店を開店するという話だった。
至福の刻 前編
