手作りキケン
近所の公園で時々、「手作り市」というのをやっている。雑貨から衣類に食品と品揃えは豊富で、遅い時間帯に行くと食品系の人気店はすでに完売だったりして、買う側もかなり気合を入れて訪れているらしい。
その一方、手作りへの拒否反応もけっこう耳にする。特に「踏み絵」の印象が強いのが手作りスイーツだ。お菓子作りの好きな人が同僚や知人に配ったりするが、これをもらって素直に喜べるかというと、そうでもないという。
ただの素人が、どんな衛生状態かわからない場所で作ったから、と嫌がる人も少なくない。私が聞いた話では、内祝いにもらった手作りのパウンドケーキにカビが生えていた、というのがあったけれど、ここまで極端だといっそ清々しい。客観的な衛生状態よりも、イメージとしての「キレイかどうか」の方が、人の心を惑わせる。
また、「手作り」は誰が作ったのかはっきりしているが、場合によっては、これが拒絶反応を生んだりもする。「太郎くんママのケーキ」や「山田主任のクッキー」がこっそりゴミ箱送りになるのは、スイーツの出来もさることながら、「太郎くんママ」と「山田主任」の人柄もその一因ではないかと思われる。
このように、素人による手作りは色々と微妙だが、手作り市への出店者はレベルが高い。こちらはさしずめ「プロの手作り」というべきだろう。しかし私にとって、手作り雑貨はけっこう遠い存在である。理由はその値段。意外とお高いのだ。
このバッグけっこう可愛い、と値札を見て、「なんちゅう強気な価格設定!」と驚いたりする。とはいえ、作る立場を考えると、その価格は制作に要した材料、労力、時間などを換算したものであり、それだけの値打ちを持つ歴とした作品である。
残念ながら私は裕福ではないので、生活コストをあれこれ考えて引き下がる事が多い。手作り品の難しいところである。
ある時、友人とそんな話をしていたら、価格交渉をしたことがある、という答えが返ってきた。フリーマーケットではなく、手作り市で値切るとは大胆な、と思ったが、別に悪い行いではない。商取引の基本である。
彼女が見ていたのは木製のスプーンやフォークを売る店で、優しい感じのデザインが気に入ったのだという。ただ、値段がかなり高い。じっと手にして悩んでいると、店頭にいた女性が「いかがですか?」と声をかけてきた。
「すごく気に入ったんですけど、値段が…少しだけ勉強していただけませんか?」
率直にそうお願いすると、女性は険しい表情になり、「それはちょっと」と、店の奥に視線を投げた。つられてそちらを見ると、真面目そうな青年が一人、黙々と木を削っている。
「彼が、彼が一生懸命作ったんですよ!」
友人はすみません、と頭を下げて、スプーンは買わずに帰ったという。
手作り、という言葉に含まれる要素の一つがこの「一生懸命」かもしれない。しかし一生懸命が評価されるのは家族か、よほど親しい間柄に限られる。お金をやりとりする場でこれを持ち出されては、身も蓋もない。ところが、親しい間でも一生懸命が役に立たなかったケースがある。
学生時代の話だが、同級生が彼氏に手編みのセーターを贈った。それこそ、不慣れな手つきで、一生懸命に編み上げたものだ。しかしそのセーターは、彼氏の母親によってきれいに編み直されるという最悪の運命をたどった。
この場合、罪を問うべきは母親ではなく、彼氏の方だろう。母の魔の手からセーターを死守できなかっただけでなく、その事を彼女に告げてしまえる鈍感さ。少なくとも笑い話にはなっていなかったと記憶する。
このように、背景が濃いのも手作りの特徴だ。それが「心をこめる」ということにつながり、だからこそ、印刷したものより、手書きのカードをもらう方が嬉しかったりするのだ。
しかし「一生懸命」と「心をこめる」は、顔は似ていても性格の全く違う兄弟だ。前者のベクトルは自分がその行為を全うすることだけに集中しているが、後者はまず相手を念頭に置く。もしかするとセーターを編み直した母親は、息子の彼女の「私、こんなに頑張ったよ」を敏感に嗅ぎとったのかもしれない。
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