〔「くそぅ……目がいてぇ……ゴミでも入ったかな」
 目が痛い。とにかく痛い。埃だらけの倉庫に居たせいかもしれないが。
 涙を浮かべてごしごしと目を擦る事に手一杯の俺の横にはロボットがたっている。俺を尻目に、ソレは淡々と仕事をこなしていた。
 タップしてスワイプ。ドラッグ&ドロップ。
 人間用に作られた機械は、自らをコネクトして操作することができない。だからこうして、人間の視覚のためにデザインされた画面を、打ち続ける。
 無意味なローディングバーが残り時間を表示させている。それを横から見て、頷いた。
「今日はこんなもんだろうな……お疲れさん、ミレストーニャ」
「私は機械です。疲労の概念は存在しません」
「言葉のあや、だ。仕事が終わったら同僚にはそう言うモンなんだよ」
「──不固有用法語として記録しました」
 お疲れさま、とは仕事によって損耗した人間の功績を労る言葉だ。
 同僚。同じ場所で働く者。そこに機械であるこの子が定義されている。人はそれを笑う。それを訝る。
「それでは、本日の業務を終了して自己メンテナンスに入らせていただきます」
 礼をして彼女は端末を所定の位置に戻した。カシャン、と鳴る小気味良い接続音が、俺のある用件を記憶の隅から引っ張り出す。
 俺は呼び止める。
「……あっ、ちょいと待ってくれ」
ミレストーニャは制止した。駆動を止め、再び俺の椅子へと向き直る。
「ご用件は」
「仕事じゃねぇんだわ。まぁ、楽に構えてくれ……よっ、と」
 乱雑に物が詰め込まれたリュックに腕を差し入れた。その『物』を取り出すと、粗悪品のペラペラな鞄はくしゃっと折れて萎んだ。
 紙製の本を六冊手渡す。
 一つは言葉の意味を調べる時に使われる、辞書。残りは、物語。
 持っていろという命令だと認識したのか、その本を腕に載せたまま次の指示を待っている。首を傾げもせず、虚ろに此方を見たままだ。
「それ、お前にやるよ」
 意味を図りかねているようだった。薄唇が緩慢に開かれる。
「記録せよ、との事でしょうか」
「記録……んーまぁ間違っちゃいないけど」
 紙の本。スキャンするのに時間を多く要する、前時代的な媒体である。既に電子書籍として保存されたものであるが、俺にはどうしても「この」本を読んでほしい理由があった。
「恐れながら、この六点の業務関係外書籍はデータ要領を圧迫します。お返しいたします」
しかし撃沈。何処までも、「コレ」は合理的で困る。俺は苦笑した。椅子を回し背を向けて、再度語りかける。
「じゃあ話を変えるぞ。ミレストーニャ、お前は「人間」か?」
 人間、その定義を再確認。無機質に呟く声。
 百科事典を優に越える「物質的」知識が詰まっているコレは、おそらくこう定義する事だろう──。
《人=霊長類ヒト族ヒト亜族ヒト属の、生物。哺乳綱。学名ホモ・サピエンス。》
 予想通り。拒否の意を示すため、コレは首を横に振った。右の口の端を引き上げて笑い、辞書以外の本を置くように指示する。この調子だと上手くいけば巻かれてくれるかもしれない。
「じゃあその辞書ではどうだ。お前は『人間』か?」
 素直に紙の辞書を、開く。機械的な動きの指で、だが器用に紙のページをパラパラとめくり進めていく。
 一一五六ページの下段に、それは書かれていた。
 それを目でなぞり始めたタイミングで、瞼を閉じた。この項目は何回も、何回も読み直した。心の支えにすらなった文章は、もはや空で読み直すことさえできるほどだった。
《人間=他の人間と共に何らかの関わりを持ちながら社会を構成し、なにほどかの寄与をすることが期待されるもの。》
 俺の言わんとしている事が、多少は理解できただろう。コレは顔をあげた。
「少尉は、私の知っている「人間」の定義に合致します」
 二度首を縦に振る。
「よって、この文中の「人間」を少尉に置き換えて精査した結果、私も『人間』である、と認識されるようです」
 あまりにも荒唐無稽であり、破綻した倫理観である。しかし確かに、私の事を『人間』と定義する価値観も全く存在しないというわけではなかった。データベースはその微細な人間の意図を汲むという一点において、この辞書に微細な遅れをとっていた。
 勿論、人間お得意の詭弁の範疇であることに間違いはないのだが。
「──ですが少尉、やはり紙の辞書を扱うべき理由が不明です」
 コレも誰に似たか強情である。この書籍はデータベースからダウンロードすることができる。文書ファイルの方が容量は小さくなる、と説明された。
 額の汗を拭い、俺はハッキリと首を横に振った。頭のいいコレなら、少なくともその意味くらいは理解してくれることであろう。
 少々強引になってしまうが、それも仕方ない。そうしなければならないのだ。
「ま、取りあえず『人間』らしく手で捲りながら読んでみるこった。──その本たちはちぃと手強いぜ?」
 置いた本たちを段ボール箱に詰め、正面の足元に差し出してやる。素直に、ミレストーニャはその箱を持ち上げた。細腕はそれを持ちあげてなお、平然と制止していた。
「了解しました」
「おう、そんじゃ、ホントにお疲れさん」
「それでは、本日の業務を終了して自己メンテナンスに入らせていただきます」
無機質なアナウンス。礼。退室。

* * *

「おはようございます」
 日光と同じ成分で作られた太陽光ライトが、顔に向けて照射される。探照灯のような眩む光に、思わず腕で顔を庇う。
 それと同時に少尉の私室の電気が自動的に調節され、明るさが『快晴・朝』の値に達した所で変化を止める。これがこの子の定義する「快適な朝」というものらしい。
 俺は顔を歪めた。のそのそと片足ずつ布団から出る。欠伸を一つ。立ち上がる。
「お前ホントに容赦ねぇよな……」
「サービスに不備・要望などがございましたら、カスタマーセンターがお聞きします」
 真顔でコールセンターへ接続しようとするので、慌ててそれを止める。おかげで目はハッキリと冴えてしまった。
「違う違う、不備じゃねぇのよ……おっさんもう年なのよ……」
 年。年齢。年齢、また個人によって、快適な明るさが違うとデータは示した。
「次回からは照射するライトを5ルクスほど低下させます」
 照射は、されるらしい。
 身支度をする間、コレには特にやることがない。ステーションにある掃除ロボットとサンセベリアの間に移動し、静止する。
 その後ろ姿を、ぼうっと見ていた。暫く見ていると彼女が急に振り返ったので、俺は慌てて目を反らした。特に用件はない。
 櫛で髪を整えた後、俺は問う。
「どうよミレストーニャ、キマってるか?」
 四十代渾身のどや顔は、だがしかし、鋭く両断されてしまう。それは数値によってである。
「衛生管理局の定める清潔度チェックとの合率は約78%です」
 ノーコメントの上に清潔度が低いと仰る。なかなか手厳しい。その理由は、
「爪を切ってください。ケガ、細菌の繁殖を招く恐れがあります」
……とのことだった。
「そうかい」
 生返事をした。どうせ判るまい。
 靴を履いている間に、コレは照明器具の電源を落とす。窓にロックをかける。手で確認などする必要もない。コレは常に、完璧に仕事をこなす。
「行くか」
「本日の業務を開始いたします」
 また一日が始まる。〕

* * *

(いつも通りの、そうだ、昔と、寸分違わない一日が……)

 俺は、『兵器』だ。
 戦争はもう随分昔に全自動化され、戦闘用のAIが無人機を操るだけのものになった。より強いAI、より強い兵器を生み出せる技術力が、有れば是。無ければ死。合理的なシステムである。
 陥落を防ぐため、兵器に指示を出す基幹のシステム群・サーバ群は本拠地で厳重に管理されている。
 それによって起こるのが、「タイムラグ」である。
 たったコンマ数秒、長くても5秒にも満たない。その時間で、命運が分かれる。回避が0.3秒遅れた、結果墜ちた、ではお話にならないのだ。
敵の位置データを解析機からリアルタイムで受け取り、対策を考え、行動パターンを切り替える……というのは、あまりにも「遅すぎる」。大国では尚更である。戦地と本拠地には距離があり、指示の伝令はかなりのラグを生む。
 そこで、俺らだ。俺らが前線から──

* * *

 〔俺が本を渡し続けて、一週間が過ぎた。
 ミレストーニャは律儀に、一日で全てを読みきるようにしている。急がなくていいんだぞ、と言ってみたことはあったが、一蹴されてしまったような気がする。よく覚えてない。
 さて変化は、というと、特にない。
「つれねぇなぁ……」
「申し訳ございません」
 カッチリ、毎日と同じ角度で頭を下げながら、ミレストーニャは機微のない声でそう言った。手をひらひらさせたが、伝わってるんだか、伝わってないんだか。
 ミレストーニャは普通のヒューマノイドとは違う。特別だ。
 少し盛ったノリで言ったが、その真意はむしろ逆である。この子は、有り体に言えば「ジャンク品」なのだ。家庭用のヒューマノイドに無理矢理型落ちの業務用AIを組み込み、なんとか機能させている。
 そうでもしてまで、この子を使う。使い続ける。その事に意義がある。
「何かねぇのか?登場人物が何をやっているか分からないー、とかよ」
「不明点ですか」
「そうとも言う」
 ミレストーニャは机上から一冊の本を抜いた。タイトルだけは有名な、新古典時代の文学だ。日記形式で物語が進行していき、主人公の状態が移ろっていく様子が特徴的に描かれている小説だ。序盤とクライマックスには、意図的な誤字や脱字がある。それが読みにくいのだろうと、考えた。
 しかしミレストーニャは期待を裏切り、頁を中盤まで飛ばした。やはりコレの考えることはよく分からない。
 ある頁でピタリと手を止め、真っ直ぐ左端あたりの文章を指差した。
「これは具体的に何をしているのでしょうか。脈絡から掴めないのですが」
 俺はたじろいだ。同時に頭を抱えた。
「いや、あのなミレストーニャ、年頃の娘っこには言いにくい事ってもんが」
「開発者の女性に質問したところ、怒られました」
「だろうな!!」
 そうか、そう来たか。確かに分からないだろう。詩的メタファーは人間様の得意分野だ。家庭用なら未だしも、業務用AIが理解できるはずなどない──!
 俺が心のなかで倫理やその他モロモロと格闘していると、ミレストーニャは本当に律儀に考察まで語ってくれた。それがトドメになるとも知らずに。
「前後の文から彼と彼女が親しい人間関係を持っていることまでは理解しました。その後、何の脈絡もなくこの文が差し込まれています。」
「ああ、うん、あのな、」
 どうしよう。いやホントにどうしよう。
「……そして章が終わり、次の章では翌日の朝になっています。普通に考えれば睡眠行動をとっている筈なのですが、それであれば『あれやこれやして』と複数の動詞を」
「それ以上はやめろ、頼む、俺捕まっちゃうから」
 冷や汗が全身から吹き出し始めた辺りで、俺の指示に従ってミレストーニャは本を畳んだ。傍目には齢14程の女の子である。確実にポリスメンのお世話になってしまう。一応妻帯の身なのだ。いろいろとまずい。
「それは気にしなくていい、大筋には影響しないから」
「そうですか」
 俺は素直に引き下がってくれたことに心から安堵した。話題を変えなくては。これ以上は心臓に悪い。
 息を整えて、何とか、次の言葉を口にする。
「ほ、他には、何かねぇか……?」
 あまりにも情けない声だったが、彼女は勿論気にしない。認識できれば良いのだ。
「本についてですか」
「じゃなくてもいい」
 これは意外な質問だ。普段通りなら、そんな事を聞く筈はない。俺は急に嬉しくなった。自称するのもアレだが、単純な人間だ、自分は。
 年甲斐もなく浮き立ちながら質問を待っていると、ミレストーニャは、初めて……少し間を置いてから、喋り始めた。
「少尉、あなたの現在の階級は『大尉』だと記憶しています。混乱を招いてまで『少尉』と呼ぶように設定している理由は何でしょうか」
「!!」
ついに、「疑問」を口にした。嬉しかった。今すぐ立ち上がって手を取りブラボーと叫びたい。全身が沸き立った。
 ……だが同時に悔しかった。汗が、有りもしない風に触れて冷えこんだ。部屋の灯りが冷たくなった。急に部屋が広く思えた。
 全て因果応報。全て自分のエゴとしか言えないソレに、俺は口ごもった。
「……理由、あぁ、理由か」
 口を開いて、閉じる。喉が張り付いていた。水を飲む。まだ乾いている。
 彼女はじっとこちらを見つめている。俺が悩んでいる。その状態で、かなり長い時間が過ぎた。キン、と無音が耳に響いてくる。
 突如として俺の顔に影が落ちた。眼前にミレストーニャが立っている。
「どうぞ」
 いつのまにか、手にタオルを持っている。それを俺に向かって差し出した。戸惑いながら受けとると、彼女は一歩下がって普段の位置に戻った。
「……あ?」
 こんな行動は見たことがない。そもそもなぜタオルなのだろうか。あまりにも『不合理』な状況に、俺は首を傾けた。
「表情から、基準値を越える【疲労】を検知しました。本によると、「疲労」に関連する言葉を発した人の約2割はこうしてタオルを差し出されています」
 コレは相変わらず、表情を変えないままだ。声にも抑揚はない。勿論、そこに感情は介在しない。ただ「データ」として本の出来事の傾向を学び、それを「人間らしい行動」だと認識して実行しただけだ。そんなことは分かっている。
 それでも涙が溢れてきた。無理矢理口の端をつり上げて、タオルを受け取った。
「【悲しい】のですか」
「嬉しいんだよ」
 あぁ、こんな気分になったのは久しぶりだ。息を吹き返したような、久々に昔に戻ったような──。
「俺、頑張るよ……」
 返事はなかった。その沈黙が、俺の心を癒していった。煩いほどの無音に感謝した。
 ちなみに、ミレストーニャがただ業務を終了して居なくなっただけだと気づいたのはずいぶん後の事だった。俺は一人、部屋の隅で落胆した。
  
* * *
 
 数か月が過ぎた。彼女はもっと細かに体を動かす機能をつけ直してほしいと「要望」してきた。俺は嬉々として、彼女を改造に出し、結果、財布が随分と軽くなった。
 半年過ぎた。訓練を終えて部屋を出てくると、ミレストーニャが見知らぬ女性に頭を撫でられていた。雑談ができるようになったのだろうか。
    
 そして一年が、過ぎた、らしい。ミレストーニャがそう言ってきた。
「そうか、一年になるのか」
「年を取りましたね」
「それを言うな。悲しくなる」
 今や見事に会話してのける彼女は、この建物の中でちょっとした有名ロボットだった。見ため年齢相応に着飾り、友達なるものまで出来たらしい。もちろん本物の人間だった。
 感情はあるのか解らないが、いつもミレストーニャは終始笑顔でその話をしてくれる。それを聞くのが、最近の楽しみだ。
 かなり前に渡す本は尽きてしまった為、最近の彼女は紙の図書を扱う施設に通っている。この間、図書カードのポイントが満タンになったとかで栞を貰ってきた。使えばいいのに、と思うのだが、「女の子は宝物を自分だけが知る場所に隠す傾向にあるようです」とのことで彼女は一度もそれを使っていない。女心を身に付けられてから、俺でも気持ちが分からないことが増えてしまった。
「なんで笑うんですか」
 だって、なぁ、面白いじゃないか。まさかこんなに上手く行くと思ってなかったんだよ。まるで、こんなの、夢が叶ったみたいじゃないか。
 俺は改めて笑いかけた。彼女も笑った。
 そこで、放送のチャイムが鳴った。画面もないのに、二人して顔をあげ、それが如何にも人間らしく、可笑しくて、また笑った。
『九時から順次、班ごとに移動を開始します。該当される方々は、エントランスホールにお集まりください。繰り返します──』
 時刻は八時五十六分。そろそろ部屋を発つ時間だ。
「忘れ物はないですか」
「多分な」
 靴を履いたところで、ふと、思い出す。俺は玄関で振り返った。
「なあ」
「何ですか」
「どうよ、ミレストーニャ、キマってるか?」
 彼女も合点がいったらしく、少し目を細めた。
「ばっちり、ですよ」
「そうかい」
 窓が閉まり、電気が消える。俺がドアを開けると、廊下は出発する人でごった返していた。彼女はそれをキョロキョロと見て、部屋のなかに引っ込んだ。
「しばらくお別れですね」
「業務がなくて遊べるからってあんまり遅くまで出歩くんじゃねぇぞ?」
「分かってますよ、小さい子どもじゃないんですから」
 ミレストーニャは、お辞儀ではなく、手を振った。俺も手を振り返した。あどけない、そんな言葉の似合う笑顔だった。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」

 ドアの閉まる音がして、

俺は歩き出して──、

それから────?

*───
  
(……なんつー、事を、思い出すんだ)
 高熱で溶けた金属の臭いがする。天井の切れ目からは凍える風が吹き込み、末端から温度を奪っていく。チカッ、チカッ、と時折光が瞬いては通過していく──。
(あー、あれか、これ、走馬燈ってやつか)
 指を少し浮かせれば、救護を呼ぶボタンがあるのは解っていた。だが、それを押す気にはならなかった。
 自分の勘が、「もう助からない」と告げていた。確かな予感。ハッキリと見た最後の景色は、天井を貫いて降ってきたレーザーに両断された太股が宙を舞うところだ。アニメか何かのような、現実味のない画だった。
 色が混ざる。白い天井と、黒い雨雲が、マーブルになって、霧色になる。じきにそれも溶ける。
(ミレストーニャ)
 名前を反芻した瞬間、感覚のなくなった筈の指がピクリと跳ねた……気がした。もう、分からない。
(あぁ、彼女にも遺書を書いておけば良かった)
 きっと今の彼女になら読めるだろうから。そうしたら彼女はどんな顔をするのだろうか。彼女は怒ったりするのだろうか。悲しんだりするのだろうか。けっきょく、どちらも、見ることができなかった。
(遅いか)
 溶けていく。何もかもがなくなっていく。まどろむ。
 次第にひかりが消え、風のおとだけがする。
(ミレストーニャ、俺はやっと、おまえよりさきに死ねるんだな)
 ふっ、といきのおとをきいた。

 それも全て、潰えた。〕
  
───*───

「お父さん?」
「うん、お父さん」
 私は墓標に手を合わせ、目を閉じた。
掃除の手伝いにわざわざ来てくれたサキも、隣に歩いて来て、手を鳴らした。暫しの沈黙が生まれる。
 昔ならこんなとき、何秒間こうしていればいいのか判断できなかった。今は、分かる。十分だと思ったら、やめればいいのだ。
 サキは尋ねた。
「それは、ニャー子を作った人のこと?」
「ううん」
 彼の脳に残っていた記憶は、私が強く希望して引き取ることにした。いつの日か、私の耐用年数が来たら、その時本当に彼が「死ぬ」ことになる。
「んー……でもアンタはその人に世話してもらってたんだよね?」
「それも違うかも」
「じゃあお父さんじゃないじゃん!」
 サキはあれこれと真剣に悩んでいるようだ。その様子に、私は思わず口を手で抑えて笑った。
 世話してもらってなどいない。私が、『世話をしていた』のだ。
 そして厳密に言えば、私は「ミレストーニャ」ですらない。彼の死んだあと、私はそれを聞かされた。
 花を瓶に挿しながら、ぽつりぽつりと語る。
「私の元の子がね、ミレストーニャって名前なの」
「元の子……って、まさか」
 私は笑った。理由は分からない。たくさんの人と笑うようになってから、ふとした時に笑顔を浮かべるようになった。
「そ、酷いよね、死んじゃった娘の名前をそのまま付けるなんて」
 私はトントン、と墓標の文字を指で打った。彼の名前の隣には、寄り添うように『ミレストーニャ』と刻まれている。私であって、私じゃない、私の名前が並んでいる。
 彼女は一瞬固まった。戸惑って、俯いた。
「……ごめん」
「ううん、聞いてくれてありがとう」
 私は一歩墓標から離れて、全体像を眺めた。くすみひとつ、くもりひとつない、九九パーセント完璧なお墓だ。お供え物にはコーラと煎餅が置いてある。遺言にそんな事を書く辺りが、とても彼らしい。
 吹きもしない風が、あればいいのに、と思った。備えの花はそこに、静かに有るだけだ。
「──それじゃ、帰ろっか。お掃除ありがとうね」
「ううん」
 二人で掃除用具を抱えて、戻っていく。
 私は決めた。父と同じように、人として生きる道に決めた。その道には、終わりがある。いずれ、終わりが来る。
 でもそれでいい。むしろそれがいい。部品を変え、直し直しして、元の部品がないまっさらな私になったら……きっと彼は悲しむと思うから。終わりのある道は、私をゆっくりゆっくり手招きしている。そういう幸せも、あっていいと思うのだ。
 墓の並びの端まで来て、振り返った。季節外れのお参りのせいで、一つだけ賑やかになった墓が目立って見える。
「それでは、本日の業務を終了して……あ、アイスを奢りに行きます」
「マジで!?やった!!ありがと!!」

 お父さん。
 あなたは今、幸せに私を見ていますか。
 ……それとも、やっぱり私は貴方にとって一介のヒューマノイドでしょうか。
勝手に娘の名前を名乗り続ける、それが許せないでしょうか。
 ごめんなさい。私には、分かりません。
 いずれ貴方の側に、行ける……かな。ダメかもしれません。
 でも、もし……もしも私も天国に行くことができたら、教えてください。
 ミレストーニャちゃんにも、会ってみたいです。会って、お話がしたい。一度は、謝りたい。そう思います──。
「ニャー子、雨降る前に急ごう!」
「うん」
 言いたいことが沢山あった。勿論、聞こえているはずもないだろう。オフラインの機械の声など、尚更。
 それでも言いたかった。おかしな事だろうか。
 上を見上げれば、おどろおどろしい色の雲が私を見下ろしている。急ぎ足も空しく、辺りには雫が降り注ぎ始めていた。サキは走って、先に行ってしまう。
 私はまだ、立ち尽くしていた。なぜか足が動かなかった。
 次第に大きくなっていく雨粒の一つや二つが、見開いたレンズに当たって跳ねる。跳ねる。跳ねる。雨水が目を模した機関に溜まって、合成皮膚の上を滑り落ちていく。
 今日があの日と同じ、雨で本当に良かった。

「こうして私も、涙を流せるから」

 遠くから、サキの呼び声がした。
 蜘蛛の糸のように艶やかな雨だけが、後に残った。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-05

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