林檎
つまるところ、私は毎日を「彼」とともに過ごしていた。
「彼」は気付いた時にはそこにいた。ここでの「彼」とは特定の男性ではなく、ある1枚の皿のことを指す。「彼」は何の変哲もないガラス製の平らな皿だが、ただ1つだけ、最大の特徴として、林檎を形どった体をしていた。
「彼」といつどのように出会ったのかは覚えていない。どこかの小洒落た骨董屋で買ったのか、それとも量販店の棚に並んでいたのか、はたまた誰かに貰ったのか。何にせよ、私が持っていたのは「彼」がそこに存在していたという事実だけだ。
「彼」が何故「彼」なのかも同じように説明はできない。「彼」がそこにいた時から、1寸の疑いもなく、明らかに「彼」は「彼」であり、そうとしか呼び得ないのだ。
私の1日は大抵同じように始まり、そして同じように終わる。
朝起きて朝食を摂り、リンゴを剥いて「彼」の上に並べる--これが始まり。大学でぼんやりと講義を聴いて映画研究会に顔を出し(研究会と言っても暇な映画好きが暇なときに映画を観るだけの集まりだ)、スーパーのレジ打ちのバイト帰りに八百屋でリンゴを買う。家に帰って30分だけテレビを眺め、電気を消して布団に潜ってまた振り出しに戻る。
社会に生きる大多数の人がそうであるように、私も毎日をルーティンワークとして消化し続けている。
噛み締めも味わいもせずに飲み込まれていった日々は、果たして私の養分となっているのだろうか。
その日も私はいつものように朝を迎えた。冷蔵庫からリンゴを取り出し、指を突き刺すような冷たい水でその赤い果実を丁寧に洗う。水滴が安っぽい蛍光灯の光を反射して輝くのを見て、何となく満足した。リンゴは綺麗に12等分して「彼」の上に並べた。
透明な「彼」の上に整然と並んだ果実たちはその白くみずみずしい体全体で存在を主張しながら私に呼びかける。「食べて」「わたしを食べて」
そしてその甘酸っぱい体液を私の口いっぱいに迸らせるのだ。
その日が特別な日であったというわけではないが、いつもと少し違うことが3つあった。
まず1つめに、朝食を食べている最中に箸の先が折れた。つるつるとした臙脂色の上に、白い小さな花が散りばめられたお気に入りのその箸は、長さが不揃いになっただけで途端にがらくたのように感じられた。
2つめ、3時間の授業が終わってさあ帰ろうというとき、「彼」に家へ来ないかと誘われた。ここでの「彼」は赤く滑らかな果物を模した皿ではなく、同じ赤を皮膚の下に隠した生身の人間だ。
「この前の監督のさ、新しい映画」
彼は私と同じ映画研究会に所属していて、何となく感じが合うため割と親しくしていた。
「芋焼酎、いいやつ」
文を作らずに会話をするのが彼の常だ。この前観た映画と同じ監督の新作を観ないか、上等の芋焼酎もあるぞ--脳内で口語訳する。こだわって買ったらしい50インチの液晶テレビがある彼の家で映画を観るのは珍しくなかったし、特に断る理由もなかったのでそのまま彼の家へ向かった。
いつもと同じようにソファに並んで座り、いつもと同じように映画を観て、いつもと違ったのは上等の芋焼酎を少し飲みすぎていたのと--
「え、」
ひやりと、内腿に触れる冷たい感触。物語の終盤、パンを頬張る少女を見つめ、思ったよりつまらなかったな、なんてぼんやりと考えていた思考が勢いよく引き戻された。
彼の息遣いはいつもより3割ほど荒く、私の研ぎ澄まされた聴覚は唾を飲み込む小さな音も逃さなかった。
「--私、帰る」
言うなりコートと鞄を抱えて立ち上がり、振り返らずに部屋を出た。彼は追っては来なかった。エンドロールはまだ流れていなかったのを思い出して、少しだけもったいなく思った。
そして、3つめ。帰りにいつもの八百屋に寄った。店先には空の編みかごが並んでいるだけで、果物も野菜も見当たらなかった。
「店をね、閉めることにしたんです」
見上げると店主のお婆さんが皺だらけの顔をこちらに向けていた。あ、そうなんですね。思うと同時にそのまま言葉に出る。「あ、そうなんですね」
「ごめんなさいねえ、急な話で」
いえ、と軽く頭を下げ、立ち去ろうとしたところに重ねて声が投げかけられた。
「いつもリンゴ買ってくれて、ありがとうね」
お婆さんはただいつもと同じように、人形のように座って笑っていた。
そのあとそのまま帰る気にはなれなくて、バイト先のスーパーに寄ってリンゴを1つ買った。何度か同じシフトに入ったパートのおばさんに向かって愛想笑いを浮かべ、家に帰る。その日はテレビの電源は付けず、軽くシャワーを浴びて10時半に寝た。
そしてまた日常が始まるはずだった。いつもと同じ朝、私は朝食を摂り、冷蔵庫からリンゴを、食器棚から「彼」を取り出した。
あ、と思った時には遅かった。私の手から滑り落ちた「彼」は重力に従って下へ下へと落ちて--その身を細かく割ってしまった。
「彼」の破片は朝の薄い光を反射して輝き、俺はここにいるぞと、精一杯声の限りに主張していた。
私は割れた「彼」のわりあい小さな欠片を人差し指と親指で摘み、口に含んだ。舌の上で転がし、そのまま嚥下する。鋭く透明な欠片は喉の奥に小さな痛みを残してわたしの中へ深く深く落ちていった。
「彼」はこのまま私の中を傷つけながら落ちていくのだろうか。それならそれでいいと思った。アダムとエバに食べられた知識の果実は彼らの血となり肉となり、彼らに知識を与えた。私に食べられた「彼」が私に与えるのは、私の体内で永遠に消えない傷だ。
「食べて」「わたしを食べて」あの声はもしくは「彼」の声だったのかもしれない。きっとそうだ。だって彼は林檎なのだ。林檎であるはずの「彼」は「彼」を食べてほしいに決まっているのだ。
割れてしまった透明な林檎の横で、なおも存在し続ける赤いリンゴを手に取った。そのまま齧ると、甘く酸っぱいその果汁はいつもと同じように私の口を満たした。スーパーで買ったリンゴには八百屋のそれとの違いは見つけられなかった。
「彼」の破片と甘いリンゴはぐるぐる混ざってひとつになって、私の中へと溶けていく。「彼」に付けられた傷から流れるはずの血液は、赤い赤い林檎の色だ。
喉に残るヒリヒリした痛みはどんどん強くなっている気がして、このまま私を残らず食べ尽くしてしまうのだろうかと、そう思った。
林檎