20151003-蜘蛛
一.変身
とある関東の夏の夜のことだった。僕は一日の仕事が終わり、アパートでクーラーの冷たい風にあたりながらコンビニ弁当でお腹を満たし、のんびりとパソコンで遊んでいた。
このアパートの裏手は小さい山が連なって少し登るだけでも涼しい風が吹きつける、そんな場所にあった。また、細い道路をはさんでアパートの向かいにはお寺があり、少しの墓が人々の生活を見守っていて、寺の入り口の丘には一輪の真っ赤な彼岸花が、花言葉にもあるように、誰かの死を悲しんで転生を願っていたのかも知れない。
そんな夏の夜。突然一匹の蜘蛛が糸をたらしてキーボードに降りてきた。潰すこともできず困っていると、その一センチばかりの蜘蛛がキーボードの上でアルファベットをなぞり始めた。僕はあわててそれを読んだ。
「…たしは、ささぶねしずく」
「えっ!」
「しずく、しんだ」
笹船雫は元同期生。僕は卒業して、雫は修士課程へ進んだ。そして今年で二年目。普通に何ごともなく研究を続けていると思っていた。それが、死んだ? 信じられない。
僕は研究所の名簿を引っ張り出して、急いで大学の研究室に電話をした。院生が出て質問すると、確かに雫は三か月前に交通事故で死んだと言った。
放心状態で電話を置き、振り返ると、蜘蛛はまだキーボードの上にいた。信じられないことだが本当のようだ。聞きたいことはたくさんあったが、まずこれから聞いた。
「どうして、蜘蛛になったの?」
「わからない」
「……」
僕は夢を見ているのだろうか。まじまじと彼女を見る。彼女は見つめられて少し照れたようにも、そして蜘蛛になってしまって悲しんでもいるようにも見えた。だから、もうそれ以上聞けなかったから、僕は質問を変えた。
「どうして僕の所へ?」
「わかってくれると、おもって」
確かに、今の僕はすんなり受け入れる。彼女と話したことは数える程だったけれど、きっと誰かに聞いたのだろう。僕は以前、二度夢に見たのだ。母方のおばあさんが亡くなった時の母が泣いている姿と、従兄が亡くなった時のお別れを言う彼の姿を。
「確かに僕は、この状況を受け入れてしまう。下手な奴の所へ行くと、潰されかねないからね」
「ほんと、よかった」
「しかし、よく来たねえ」
「くろうした」
「そうだろうね。風が吹く日に、蜘蛛の糸に乗って来たんだろう?」
「ええ」
そう言えば、手足に無数の傷があり、疲れ切っているようだ。
「身体の傷大丈夫? なにか付けようか?」
「それより、みず」
僕はペットボトルのフタを取り、そこへたっぷりとミネラルウォーターを注いだ。
彼女はフタのふちによじ登ると口を着けて飲みはじめた。蜘蛛の飲む量は少なくてよく分からなかったけれど、彼女は満足したようで顔を上げてニッコリとほほ笑んだように見えた。
「どう、美味しかった?」
「うん」
さっきから、しゃべり方が片言なのは、きっとなぞるのが大変だからだろう。しかし、最小限の言葉で意思を伝えるのは、たやすくない。それだけ、知能があることが分かる。よくもまあ、こんな小さな脳みそで。僕は、いくら転生したからと言って、以前と同じような彼女の言葉に、涙が出そうになった。
「そ、そうだ、お腹減ってない?」
「……」
しまった、いけないことを聞いた。彼女は下を向いてしまった。
「くものす」
「そうか……」
シンミリしてしまった。彼女は蜘蛛の巣にかかった獲物を捕獲して食べているのだろう。そう思うと吐き気がしたが、気を取り直して明るく言った。
「他に欲しい物は?」
「ない。ありがと」
彼女はキーボードをなぞることに疲れたのか、それとも長旅で疲れたのか、ねる、と言って僕の作った机の上のベッドで眠りについた。
彼女の寝顔を見ていると、昔の顔がダブって見えた。目をこすりカーテンを開けて夜の空を見上げると、まあるいお月さまが雲間から見えた。僕は、彼女に再会できたことに感謝して、静かに月に手を合わせた。
二.同棲生活
彼女が現れるのは決まって夕方。それまで何をしているかは、分からないし、聞けもしない。僕が夕食を食べ終わってくつろぐ時間になると、彼女は決まってキーボード上にあらわれた。
「わたしを、すき?」
「ああ、好きだよ」
「どこが?」
「いつも楽しそうにしている顔、誰の悪口も言わない性格、なにごとにも真剣に取り組む姿勢、みんな好きだよ!」
そうだ。僕は雫を好きだった。そして、彼女もたぶんそうだったろう。しかし、お互いに一人っ子だから、分かれる結末がよういに想像できて、話しかけることも避けていたんだ。つらい思い出がよみがえる。
だが、もうそんなことは気にしないでいいんだ。僕は声高らかに、大好きな雫の目を見て言った。
「でも、いまは、からだがない」
「身体なくても好きだよ。今でも君の顔を思い浮かべることができる」
「ありがと」
このとき、僕は思ってしまった。雫に人間の身体があれば、今ここで抱きしめたのに。だが、それは同時に別れを意味する。僕はこのときほど運命というものを恨んだことはなかった。
「ねえ、オカリナは?」
「オカリナ? ああ、今でも吹いてるよ。じゃ一曲」
僕は少ない持ち曲の一つ。中島みゆきの『糸』を吹いた。彼女はそれを前足にあごを乗せて聞いている。僕が吹き終る約四分間、彼女は目をつむって静かに聞いていた。
「きもちいいおと」
「ありがとう」
そうして僕は小曲を二~三曲弾いた。僕が吹き終わると、彼女はしばらくの間余韻(よいん)にひたっていた。そして、むっくり起き上がるとキーボードをなぞり出した。
「おかえし」
そう言って、彼女は少し間を置いてなにか書き始めた。
「いとしいひと
かなしまないで
こんどは きっと にんげんに うまれかわるから
だから まっていてね いとしいひとよ」
彼女は、こんな詩を書いた。これが何を言ってるか、何となく分かった。これは彼女自身のことをいっているだ。動物から人間へと輪廻転生する、そんな詩だ。
これが彼女の夢なのか、近い将来の現実なのかは分からない。けれど、今度生まれ変わる時はきっと人間になって欲しいと思った。それが叶うかどうかは、ひどく難しいように思えるのだが。
三.終焉
季節は、薄寒い秋になっていた。吹きつける北風が僕のアパートにもすぐに冬がやってくることを告げている。僕は温かい上着を一枚羽織った。
彼女も寒さのためか元気がなくじっとしている。だが、彼女に着せる服はどこにもない。僕は、もうそろそろ暖房器具を出さなくては思い、どれがいいのか聞いてみた。
「寒いね。石油ストーブがいい? それとも、ファンヒーターがいい?」
「ちがうの」
僕は次の言葉を待った。台所で規則正しく水のたれる音がする。ポターン、ポターンと。
「あかちゃんが、できた」
「えっ!」
それは俺の子じゃ……、ないことは確かだ。一体誰の?
「くものこ」
言葉が出なかった。人間の意識を持ったまま産卵すると言うのか?
だが自然の掟には逆らえない。きっと彼女はたくさん子供を生んで子孫繁栄に貢献するだろう。僕はそれを、かたわらで見ているしかないのか? 目の前が真っ暗になった。
不意に、彼女は言った。
「ころして」
「えっ!」
「わたしをころして」
「何言ってんだよ! そんなことできる訳ないじゃないか!」
「もう、たえられない」
「……」
「こどもをうんだら、じゅみょう」
そうなのか? 彼女はどちらにしろ死んでしまうのか?
ただでさえ蜘蛛に生まれ変わり、精神的にも参っているだろうに。その上蜘蛛の子供ができたなんて。僕ならきっと発狂してしまうだろう。そして、子供を産んだら寿命が尽きるというなら……。
彼女のお腹を見ると今にも生まれそうになっている。もうそんなには時間がない。
僕は決断を下さざる負えなかった。
「分かった。終わりにしよう」
「ありがと」
それから僕は机の上に、彼女を潰して殺す準備をした。
最後に彼女は僕の目を見てしっかりと言った。
「たのしかった。ありがとう。さようなら」
そして、彼女は白いハンカチの上に身をおいた。
僕は目には涙があふれそうになっていた。だが、ここで止めたからと言って、なにも解決しない。よけいに状況は悪くなるのだ。僕は再び決心をして二度まばたきして涙を流すと、震える右手を左手でささえて、一気に力を込め親指を下におろした――。
僕がこの手で殺したんだ。この指が……。涙は中々とまらなかった。
彼女は、こうなることを知っていた。だから、僕が後を追わないようにあの詩を書いたんだ。それが彼女にできる、精いっぱいの優しさだったのだろう。蜘蛛から人間に生まれ変わるなんて、そんなこと、できやしないのに。
それでも僕は、彼女がいつか人間に生まれ変わるのを待っている。それは、お父さんと子供の関係かもしれない。いや、出会っても気付かないかもしれない。それでも、楽しみにずっと待っている。
(終わり)
20151003-蜘蛛