千代姉ちゃん

 当然のことだが、健一が物心つくころには、そばに姉の千代子がいた。
 健一が思い出せる一番古い記憶は、千代子に命じられて縁側から飛び降り、ひざ小僧をすりむいて大泣きしたことだった。もっとも、それが何歳だったのか、誰の家の縁側だったのか、おぼろげにしか思い出せない。
 千代子はとても気が強かった。近所に千代子より年長の子供がいなかったため、健一が小学校に上がる頃には、自然といわゆるガキ大将的なポジションになっていた。休みの日には近所の子供を集め、いろんな遊びを取り仕切っていた。どんな遊びでも、号令をかけるのは千代子の役目だった。近所のおばさんたちは、姉と弟逆の方が良かったのでは、とヒソヒソ話していた。
 近所だけでなく、学校でも千代子は目立つ存在だった。かけっこでは負けたことがなく、球技も得意だった。勉強もよくできた。何より、自分の意見をズバズバ言うので、男子からも一目置かれていた。先生たちからも、健一は「千代ちゃんの弟」と呼ばれていた。
 一方、健一は大人しかった。運動は大の苦手だった。鉄棒にぶら下がっても、1ミリも体を持ち上げられなかった。勉強はできなくはないのだが、先生に指されてもモゴモゴと口ごもるばかりで、できないのといっしょだった。
 そんなある日、健一は千代子に「自転車の補助輪、外すよ」と言われたのである。健一が補助輪付きの自転車を買ってもらって、一年近くたっていた。
「ムリだよう」
 健一は泣きそうな声で抗議したが、千代子は聞き入れなかった。
「ダメよ。補助輪付けてたら、いつまでもホントに乗れるようになんないわ」
「ぼくはいいよ。ずっと補助輪付きの自転車で」
 千代子は下唇を噛んでいたが、すでに用意はしていたらしく、黙って六角レンチで補助輪を外し始めた。
「やめてよう。ぼくはお姉ちゃんみたいにできないよう」
 すると、千代子は健一をキッとにらんだ。
「あたしみたいじゃなくていいの。健ちゃんは健ちゃんなんだから」
 千代子の言葉よりも、うっすら涙がにじんだその目を見て、健一は覚悟を決めた。
「わかった。でも、後ろをつかまえててよ」
「大丈夫よ。ちゃんとつかまえてるから」
 だが、補助輪を外した自転車に乗って走り出した直後、不安になった健一が振り向くと、千代子はすでに手を離していた。
「わーっ」
 すぐにバランスを崩して健一の自転車は倒れた。
「振り向いちゃダメじゃない」
 そう言いながら、千代子は自転車を起こしてくれた。
「だって、手を離すんだもん」
 健一が半ベソで抗議すると、千代子は「わかったわ。今度は離さないから」と請け合った。
 だが、数メートル進んだところで健一が振り向くと、千代子は手を離していた。
「わーっ」
 そんなことを数度繰り返すうち、健一は座り込んでしまった。ほとんど泣き出す寸前の顔をしている。
「もう、イヤだ。ぼくにはできっこない。補助輪を元に戻してよ」
 健一が驚いたことに、千代子はニッと笑った。
「大丈夫。昨日の健ちゃんは補助輪がないと自転車に乗れなかった。でも、今日は少し乗れたわ。明日はもっと乗れるようになると思う」
 だが、健一はイヤイヤをする幼児のように首を振った。
「ムリだよ。ぼくはお姉ちゃんじゃないもん」
 すると、千代子はちょっと悲しい顔になった。
「当たり前じゃない。健ちゃんは健ちゃんよ。でも、昨日の健ちゃんと今日の健ちゃんは違うわ。昨日の健ちゃんに負けないで」
 その日はそれで解放されたが、翌日も同じ練習をさせられた。今度は十メートルぐらい進めるようになった。そしてまた、その次の日も。
 結局、五日目にはなんとか乗れるようになり、一週間後には、どうして今まで乗れなかったんだろうと思うほどになった。
「ありがとう、千代ねえちゃん」
 健一がそう言ったときには、千代子はもう近所の別の子供に自転車を教えるのに夢中で、「別に、いいよ」とそっけない返事だった。
(おわり)

千代姉ちゃん

千代姉ちゃん

当然のことだが、健一が物心つくころには、そばに姉の千代子がいた。健一が思い出せる一番古い記憶は、千代子に命じられて縁側から飛び降り、ひざ小僧をすりむいて大泣きしたことだった。もっとも、それが何歳だったのか、誰の家の縁側だったのか......

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-03

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