月の女王

 鏡の中の私は、完璧な笑顔を浮かべていた。疲れも不安も、微塵にも感じさせない。
 家を出るとき、いつも私は自分が女優になった気分になる。与えられた役割をこなし、人の期待に応えてみせる。

 数か月前、私は上司に呼ばれ、退職した課長の代理を命じられた。
――今の仕事も引き続きお願いすることになるから大変だろうけれど。後任が来るまでの間、頑張ってくれるかな。
 予想される仕事の量に、私は一瞬身をこわばらせた。しかし私の反応を窺うように返事を待っている上司には悟られないように、すべてを心の中の深い穴に隠して、笑顔を見せた。私に任せてください、と。
 それから、同僚や先輩が帰宅していく中、午前0時近くまで残業をする日が続いた。後任の課長は一向に決まる気配はなかった。実は人件費の削減のため課長はリストラに合い、当然のことながら新しい採用をする予定はない……同僚たちはそう噂していた。
 騙されたと感じなかったわけではない。しかし私は、自分の役目を完璧にこなそうと思ったのだ。いつものように。
 初めて彼からメールが届いたのは、そんな深夜の残業中のことだった。闇の王と名乗るその人物からのメールには、闇の精霊を呼び出す儀式の方法を知ったことや、その儀式が成功した暁には自分は世界の王になるのだという、妄想のようなことが綴られていた。私はからかうつもりで、闇の王に返信した。月の女王と名乗った私に、彼は怪しむ様子もなく、さらにメールを送ってきた。それ以来、残業の間に彼とメールを交換するのが日課になっていた。そして、あの夜を迎えた。
 あの日、闇の王のメールには、これから儀式を行う、そして、この世のすべてを支配する力を手にいれたら、私を迎えに来てくれるとあった。
 私はそれを見た瞬間、彼の言葉を信じたのだった。儀式だのすべてを支配する力だのはどうでもよかった。私を迎えに来てくれる。こうして夜中まで一人ぼっちで会社にいる私を、ここから連れ出してくれるという言葉を。
 私は泣いていた。嬉しかったのか、自分の一部にひびが入って涙が出てきたのかは分からない。やがて気持ちが落ち着くと、彼に自分の住所を教えた。そして、私は家に帰り、朝、数日間休む旨を電話で告げた。
 私は闇の王を待ち続けた。私の留守に彼が来てはいけないので、食べ物を買っておいた。いつ彼が来てもいいように、私はなるべくトイレを控え、風呂にも入らずに、彼を待ち続けた。闇の支配者にふさわしく、日の光を避けてやってくるかもしれないと思い、夜も眠らずに彼を待ち続けた。
 やがて五日が過ぎ、食べるものがなくなった。しかし不思議と空腹は感じなかった。眠気も感じなかった。
 七日が過ぎても彼は迎えに来なかった。私は膝を抱えて座ったまま、闇の王を待ち続けた。
 九日が過ぎても、闇の王はやって来ない。私はあと一日だけ待ってみようと思った。それで来なければ諦めよう。また元の生活に戻ろうと決意した。
 そして、十日が過ぎた。

 鏡の中の私は、完璧な笑顔を浮かべていた。疲れも不安も、微塵にも感じさせない。
 闇の王は、迎えに来てくれなかった。きっと私を置いて行ってしまったのだろう。私は会社に行くために、家を出た。十日ぶりに日の光を浴びた。
 通行人が私を見ている。みんな不思議な顔をしている。あれはそう、驚きの顔だ。悲鳴を上げている女性もいた。何をそんなに驚いているのだろう。
 何かが焦げる匂いがした。私の体から煙が上がっているのだ。燃えているというより、崩れてきたというのが正しい。私は思い出していた。闇の王の眷属は、日の光の下に出ることはできないことを。
 私は地面に倒れた。私の体のほとんどはすでに灰になり、意識も薄らいでいく。しかし私は幸せだった。こうして日の光の下で崩れていくことが、私は闇の王の縁者となった証だったから。
 そう。彼は迎えに来てくれていたのだ。そして私は、彼の待つ闇の世界へ……。

月の女王

月の女王

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-02

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