selfish journey

 あなたの中の私は
随分昔に、消しゴムで消されている事でしょう・・・
 私の中のあなたは
今もなお、消された紙を透かしてなぞってしまう存在なのです・・・



~mとの約束~  

 mは言った「夢を叶えて戻って来るまで待っている」と・・・
それは15年前の寒い夜の事・・・

16歳の春・・・

生まれ変わった自分。素晴らしい未来の訪れを疑わなかったあの頃、あの季節・・・。

もうじき17歳で高校1年生の私は、気恥ずかしさと達成感で、JRのホームで立っていた。叔母の家から2度目の受験をした私は、実家に戻る為、叔母の家と実家との中間地点にある高校を受験した。その為、地元から同じ高校へ通う友人も無く、たった1人でJRに乗っていた。心細いながら気楽な気持ちで・・・新たな環境、期待で胸が膨らんでいた・・・。
JR通学というのは大抵乗り場が決まる。いつも同じ顔ぶれ、名前も知らないのに居ないと、なぜか心配になったりしてしまう・・・。とても背が高く、瞳が綺麗なm。彼も沢山の友達と共に、私と同じ場所に居た。もうその頃から私は彼だけを見ていた・・・。

奇跡・・・

ある朝、彼は友人と離れ、なぜか私の乗る、乗車口に1人立っていた。その頃私もその位置に立つ事が多く、必然的に2人で立つ事になったのだ。彼は私より1つ前の駅で乗り、1つ前の駅で降りる。彼の降りる駅に近付いた。降りる寸前に彼から1通の手紙を受け取った。私の中で忌まわしい1年前の出来事、イジメや嫌がらせが頭を過ぎった。反面いつも目で追っていたあの人からの手紙・・・喜びで胸が一杯になり、駅に着きすぐに開封。そこには“駅で待っている”と何ともシンプルで、どうにでも取れる内容が書かれていた。
帰りの汽車も大抵同じ時間帯になる事が多い為、その日の帰りもやはり同じ。彼が私の駅で降りる。彼は友人と目配せをしながら私に近付いて来た。「付き合って下さい。返事はいつでも良いです。」16年間まともに男性と付き合った事も無かった私が、一目ぼれの君に告白をされたのである・・・。正に奇跡の瞬間!

子供の頃から両親不仲、4歳下の妹は身体が弱く、預けられる寂しさと、イライラしがちな母から罵声を浴びせられながら我慢を強いられ、少しでも親に褒めてもらいたい、見てもらいたい・・・と、勉強、バスケに打ち込み、親のステイタスの為に、有名女子中学を受験し入学した挙句、13歳下に弟が生まれた事がきっかけとなり、心のバランスが崩れ、思春期食指不振症で入院。ただ母の愛が欲しかった・・・優しい言葉が欲しかった・・・。それも叶わず、両親が精神病院への入院を相談する始末・・。見かねた叔母がそんな私を引き取り、自分の子供と一緒に1年間面倒を見てくれたのである。
公立中学では想像以上のいじめ、叔父、従兄妹への引け目で、勉強に打ち込むしかない日々を過ごしていた。私立中学を辞めた負い目もあった。意地でも公立の高校に受かる必要もあった。その一身で頑張った甲斐があり、晴れて16歳で高校へ通い始めたのである・・。
彼からの告白は神様からのご褒美にも感じられたのである・・。翌日彼も私の駅で降りた。彼への答えは「私で良かったら・・・」そうして憧れの君と青春真っ只中の丸5年を共にし始めたのである。
彼は私と同じ歳の高校2年生。驚く事に私の友人と付き合っていた人物。共通の友人も多く居た。世間は狭い・・・。彼は口数が少なく、友人を大切にする人で、もっぱらデートは、お祭り、花火大会などのみ。寂しさを感じ、彼にとっての自分の存在が解らなくなる日々を送っていた。人間モテる時期が必ず1度は訪れるらしく、その当時、同じ高校の皆が憧れる先輩、学年1のモテ男もなぜか私に告白をしてくれた。よそ見、浮気心、別れを繰り返し、彼を傷つけ、それでも彼の元へ戻った私・・・。交換ノートも始めた、お弁当を作って渡したりもした。その度にお互いの関係が深まり、付き合って2年が過ぎた頃、やっと彼の目を見られる様になった。

それまでの私は、恥ずかしさと、彼には自分がふさわしく無い、と言う想いから、彼への遠慮、何処か遠い存在に感じていて、目を見て話をする事すら出来なかったのである。花火大会の帰りに送ってくれた彼は私の自宅前で始めてキスをしてくれた。硬直して、舞い上がり、その後は何も手に付かなかった事を記憶している・・・。
それからの彼は、私の両親の信頼も厚く(友人が遊びに来るだけでイヤな顔をしていたあの母がお気に入りの)、切っても切れない大切な存在となって行く。あるクリスマスは、母と彼と私でススキノのピアノバーへ行き、母が「私を宜しく・・」と言い残し、2人きりに・・・。18歳にして始めて彼と一夜を共にした・・・。
彼は毎年、私の為に一生懸命アルバイトをして、プレゼント、素敵なホテルの1室を用意してくれた。誕生日、記念日には薔薇の花束をくれた。薔薇の花束が10束になったら結婚を約束していた・・・。
免許を取ってからは、色々な所に連れて行ってくれた。お正月は恒例の初日の出を見る為に襟裳岬。函館、小樽、時にはスウェーデンヒルズに流れ星を見に行き、UFOに遭遇した事も・・(誰に話しても信じてもらえない為、是非mと再度確認したい)定番は大倉山で気が付くと夜が明けていた。深夜ファーストフード店でアルバイトをしていた私を、心配して迎えに来てくれる事もしばしば・・・しかしアルバイト仲間で友人が想いを寄せていた男の子に告白され(勿論私は友情とmが大事!丁重にお断りしたが)、送ってもらった現場を目撃されたり、mはとても友達を大切にする人・・約束があれば私は早くに送り届けられる・・寂しさと家に帰る不安、両親への不信感で、1人ドライブ・・・・。
mに心配をかけ不信感を抱かせていた事もあったであろう・・・。しかし彼が私の横に居るのは当たり前で、彼が居なくては生きては行けない私。愛おしくかけがえの無いm・・・・。いつも彼は私を守ってくれた・・・。

高校卒業後、彼は専門学校へ。それを追う様に私も翌年専門学校へ。進学校だった為、皆が受験勉強をしている最中、彼と学校をサボり、北大植物園で昼寝をしていた私には、勉強について行ける訳も無く、ただ流れで専門学校行きを決めたのである。
その頃私は、名前を改名した。祖母の付けてくれた名前は、よく男性に間違われる事があった。画数も良くない事から、その決意をした。mと幸せになれる画数に・・・。家裁でもスムーズに受け入れられ、新たなスタートを切り始めた。mは変わらず、時間のある時は学校へ迎えに来てくれ、1人暮らしを始めた私の家に頻繁に泊ってくれる様になった。いつも守られていた・・。そんな幸せな生活がいつまでも続く事を疑う事も無く私は過ごしていた・・。「おまえよりも可愛い子は沢山居る。でもおまえが良いんだ・・」何度も耳にした彼の口癖だった・・・。

 
パースへの憧れ・・・

専門学校という所はお金のかかる企画が多い。取分け、勉強にも将来にも興味も無く過ごしていた私だが、夏期研修の西オーストラリア、パースへの旅行は注目していた。女子中在学中、地理の教師が「海外旅行をした事の無い人」という質問を私達に投げかけた。(13歳で海外旅行には余り行かないであろう・・・という認識は甘かった)私を含め、極数人のみしか手を挙げなかった事を覚えている・・。その後、慌てて私と母でお正月のハワイへ行った事も忘れられない・・・。その思いも有り、是非“世界で最も美しい街”、パースへ行きたいと思っていた。その当時景気が良かった我が家では、私の海外旅行もそう大変なはなしではなく、2週間のパースステイへと旅立ったのである。それが私とmとの運命に大きな溝を作るきっかけとなるとも知らずに・・・。

私のホームステイ先はブラウン家。レンガ加工の仕事をするダット。ニュージーランドマオイ族のマム、2人の子供達ナタリー、シモーヌ、ウイリアムの可愛い3姉弟が私を暖かく迎えいれてくれた。ブラウン家でオーストラリアの風習を学び、過ごし、今ではオーストラリアの私の家族。キングスパークからスワンリバーを望む夜景は決して派手ではなく、素朴で暖かな光を私に照らしてくれた・・。自然と涙が頬を濡らしていた・・。
パースから帰った私は、パースの虜になっていた。“また帰りたい”と・・・。
 そんな中mは就職の時期に・・・。彼は私の為に内定した東京の就職を蹴り、地元に残ってくれていた。しかし私は、彼に内緒で夜のアルバイト。パースへ帰る為の費用を貯めようとしていた。彼に嘘をつき・・・。
その当時はバブル絶頂期でススキノもとても賑やかだった。私は高級クラブでバイトを始めた。今まで全く接点の無い人々・・。お金の価値も変わって行った。mとの穏やかな日々も色あせ、目的も見失う程、そのリッチできらびやかな世界に吸い込まれていったのである。mと会う回数も減り、次第に彼への深い思いも薄れて行った・・。彼と何度も別れ話を繰り返し、最終的には彼の車から降り、助手席のドアを閉め、私から別れを選択してしまった・・・。

これが本当の別れ、大切な人を失った瞬間だった・・・。

それからの私はバイトに明け暮れた。20歳も上のゼネコンマンとの不倫。角界の人気力士との交際。父は、彼やその力士仲間と写した写真を常に持ち歩き、会う人会う人に見せていた事を、全く会話の無い親子関係上、後に母から聞いた・・。
彼は巡業の際に来店。全く興味が無かった私は誰かも知らずに接客。気に入って頂いたらしく、次の日行われた巡業の支度部屋に招き入れてくれ、ちゃんこも一緒にご馳走になった。2歳上で、とても苦労をして今の地位、名誉を築き上げた彼に尊敬の念を抱いていた。函館、青森、五所川原巡業に動向した。当時は携帯も普及しておらず、大変苦労を強いられながらの同行だった。場所が始まると、近くの神社で夜な夜な御百度を踏んだ。たまにかかってくる電話の為に、夜のバイトを辞め、昼間の仕事に転職もした。美容部員の世界は一見華やかだったが、女の世界は見ているよりも地味で、厳しく、辛いものだった。しかし仲間、良い先輩に恵まれ楽しく仕事をしていた。逢いたいとなれば、翌日、千歳から飛んで新宿で待ち合わせ。変装をすると以外にばれない。交通費と言い数十万手渡され、食事、そして映画を見て、普通のカップルと同じ様にデートを重ねた。翌年2月までは・・。

 しかし私の中には、常に満たされない何かと、mの事を忘れられない切なさが葛藤していた。一体何をしているのだろう・・・。自問自答の日々。勇気を振り絞り、mを呼び出した。そして全ての思いを打ち明けた・・。しかし奇跡は起きなかった・・・。「おまえは俺よりも夢を選んだ。それなのに夢も果たさず何故今更・・・夢を叶えて戻って来いよ・・その時は待っている・・・」mはそう言った。優しい嘘・・・。

2月のある午後、テレビを付けて、彼が角界入りのきっかけとなった、尊敬すべき偉大な人物のお嬢様との婚約を知った。昨日電話で話したばかり・・・信じられない・・・・。彼から翌日電話が有り、雪祭り最中に飛んで来てくれた。駅前のホテルの1室を借り釈明会見。何故か母が同席していた。母は彼に慰謝料を求めた。通帳に記された400万円という何とも中途半端な額で私の思いは封印された・・・。


パースへの旅立ち・・・・

「おまえが夢を叶えて戻って来るまで待っている」その言葉が頭から離れない、そして予期せぬ失恋の痛手・・・これは神様からの罰。そして神様に試されているのだ・・・。私はやっとパースへ行く決意を固め、その年の7月、パースへと渡った。
ブラウン家ではなく、木こりの家にステイをし、ミルナーという英会話学校へ通った。木こりの家は貧しく、湿った離れを貸してもらい生活。豆の缶詰とポテトチップスの夕食。ブラウン家とは大きく違っていた・・・。ミルナーにはタイ、スイス、日本の留学生が多く、特にスイス人の女の子は日本人男性好みの可愛らしい子ばかり。
私はその学校でメリーとスージーというかけがえの無い友人と巡り逢った。メリーは大阪出身。スージーは名古屋出身。私ハニーは札幌出身。ステイ先を出て3人でシェアを始めた。毎日が変化に富み、ダイビングのライセンスを取ったり、マーケットに買い物に行ったり、近くのワイナリーに行ったり、お互いの生い立ちを語り明かしたり・・・。
今覚えばとても贅沢な時間を過ごした時期である・・。怖い物知らずの私は、日本食レストランに“日本食の作り方教えます”の張り紙をして、出張教室も開いた。たまにブラウン家も訪ねた。

ダットはバーズウットというパースで有名なカジノホテルの仕事を紹介してくれた。「おまえは家族だ。オーストラリア人と結婚しなさい」私に暖かな愛情を注いでくれた。しかし私は常にmを意識して生活していた・・・。

泥棒にあったり、車が壊れたり・・・。メリーとは寝袋を持ち、オーストラリアの西半分を旅して回った。パースからインディアンパシフィックでアデレードへ、札幌に何処と無く似たアデレードからアリススプリングス。エアーズロックに登り、そこからダーウィン、ブルームへ。ダーウィンでは気球に乗り、ブルームではサンセットをバックにラクダに乗った。私の大切な人と是非行きたい思い出の場所・・・。
メリーとスージーが帰国してからも私はパースに残った。ゴルフやテニスのスクールへ通い、幼稚園で子供達のお世話をしたり、日本語学校で先生の助手をさせて頂いたり・・・とっても有意義な時間が過ぎた。

その当時、女子中時代の友人がデビューをして、日本でかなり有名になっている事を知った。性格が似ていたのか何かとライバル視をしていた友人。校長室で校則違反の、段カット合同断髪式。ヤマハに行けば、歌謡学院に通い。バスケットをやれば、バレーを始める・・・。私が学校を辞めた後も、わざわざ叔母の家を訪ねてくれた友人・・・。ただただ凄い!おめでとう・・・。私の人生は何?目標は?流れに身を任せ、mへの意地で夢を叶えただけなのでは・・・。私は帰国する事にした。

帰りは格安チケットを取り、マレーシア、シンガポール、ソウルを1人旅する計画。安いホテルをとり、ビクビクしながらの旅。
マレーシアではやはり女の1人旅、タクシーで料金を倍近く支払った。シンガポールでは観光バスツアーでドイツ人夫婦と友達になり、ラッフルズホテルの中を見学、マーライオンの前で1人観光客・・・。
ソウルでは韓国語やハングル文字に不安が有り、日系ホテルに宿泊をした。
そこのフロントスタップ、ベルボーイが流暢な日本語で部屋に電話をして来た。「観光案内を致します」とんでもない!丁重にお断りしたにも関わらず、ベルボーイが私の外出に同行して、冷麺の美味しい店に案内してくれると言う。余りにしつこいのと、地元の人お勧めの店が気になり、お店に案内してもらった。流石!美味しかった!しかしその後も彼は私の後を付いて来る。怖くなりホテルに戻ると、今度は強引に部屋に入って来た。「一緒に寝ましょう・・・」ふざけるな~!小柄なその人を精一杯の力で追い出した。しかしその晩は恐ろしくて眠れなかった・・。翌日もフロントスタッフからの電話攻撃。もうやめて~!ホテルの支配人を呼んだ。彼は土下座で謝罪をし、2名をクビにすると・・・。そこまでしなくても・・・。と内心思いながらも少しホットした私は、ルームサービスやら、冷蔵庫の中のドリンクやらを飲食し、1日を過ごした。しかし翌日チェックアウトの際、驚く事にしっかり請求されたのだ!信じられない!女1人旅を馬鹿にして!
数年後、高校時代の親友と本当に彼らがクビになったかを確かめるべく、再びソウルへ行ったが、既に名前も顔も覚えておらず・・女1人旅珍道中・・・。今覚えば貴重な体験となった・・。

帰国後・・・

帰国後、私はまずmに逢いたかった。目的の達成感と、mが居なくても大丈夫だったという自信が付いていた。待ち合わせ・・・。優しいmは来てくれた。何とmは大手旅行会社に勤めていた。凄い!私も頑張ったけれど、あなたも頑張っていたのね!けれどどうしても、もう1度私と・・・の言葉を発する勇気の無いまま、「パースでの思い出を自叙伝に描くね、そしたら読んでね!」と強がりを言うのが精一杯で、近況報告会は終了した・・・。

その後私はまた美容部員に戻り、厳しい先輩に扱かれながらも順調に生活、その百貨店扱いの8歳年上の男性と飲み会で知り合い、全くmとタイプの異なる彼にmの相談をしたりしていた。実家から逃げたい・・・そんな思いで、その後その彼と一緒に住み始めた。まるで私の父だった・・・。
私は女ばかりの職場から心機一転男性の多い職場、男性対応の仕事に転職をした。元々接客業が好きだった為、女性同士の陰湿なイジメもなくなり伸び伸び働ける様になった。仕事の面白さを感じていた時期である。

その後もたまにmには逢ってもらっていた。かなり迷惑であろうに、mは応じてくれた・・。逢う度募る想い・・。どうしても彼が好きで、忘れる事の出来ない事実。別れて5年以上経っても、こんなに1人の人を忘れる事の出来ない刹那さ・・。いっその事、昔通った女子中の修道院に入り、シスターにでもなろうかしら・・。あるときは「遊びでも構わない・・・お願いだから私を傍に居させて下さい・・・」とプライドも何もかもかなぐり捨てmに懇願・・・。「おまえとは遊びは無理だ・・・」。またある時私は、どうしても自分の気持ちが抑えられず、「朝まで一緒に居て欲しい・・」と懇願した。mは、その時私の要求を呑んでくれた。幸せな反面、mの気持ちが私に全く無い事を肌身に感じた・・・。とても惨めだった・・。私はもうどうしたら良いのだろう・・・。
一緒に住んでいた父とも感じられていた彼に全ての事情を打ち明け、私はmの実家近くの6畳程のボロアパートにすぐに引越しをした。少しでも近くに居たい・・・。ただそれだけ・・・それだけが唯一、許された私の出来る事・・・。その頃mは転勤で北見に居たが、私にも仕事が有り、さすがに北見には引っ越せない。mの実家近くで、一生1人でいる事を決意した。mの幸せを近くで見守りたかった・・・。それだけで良かった・・・。

私の哀れな姿を見ていた友人達は、口をそろえて、“らしくない”と言った。高校時代の親友、専門学校時代の親友、美容部員時代の親友。皆が心配してくれた・・・。沢山の出会いの場を与えてくれた。毎晩寝ずに遊び歩き、仕事へ行った。でもどうにも出来ない想い・・・。親友の1人が、忘れる為に、mの誕生日にパーティーを開催する事を提案してくれた。花の4人組!私の親友で有りながら、全く面識の無い3人が私の為に人肌脱いでくれたのだ!有難い・・・。もう今日を最後にmとは会わない・・・。忘れよう・・・。mは友人を1人連れて来てくれた。既に彼氏でもないのに、友人達に紹介するのが気恥ずかしかった・・・。mが横に座るとタバコのタイミングが判る。さっと火を出す私・・・今日でもう会えない・・・寂しさが込み上げて来る。mが私の家の前まで(mの実家近くなのに)車で送ってくれた。いつもなら、もう少し一緒にいて欲しい・・・と懇願する自分を押し殺し、mの車を降りた。さようなら・・・。本当にさようなら・・・。本当に今まで有難う・・・。11年前の事である・・・。

その後、父代わりの彼が部屋を明け渡してくれ、私は以前のマンションに戻った。mを忘れて1人で生きて行く為の、新たな幕開け!がむしゃらに仕事をし、がむしゃらに資格マニアとなり、(今となっては全く使い道のない資格)自立への道を突き進む私・・・。仕事上、さまざまな年齢の男性客をターゲットとしていた為、お客様であろうと、付き合いが長くなると情も湧く。まるで兄、弟、先輩、父・・・。お客様の悩みを聞き進める仕事で在りながら、私の方が相談に乗ってもらったり、励ましてもらったり・・・そんな事もしばしばだった。

結婚・・・出産・・・

全くもって意識もせず、全くもってタイプでもない人・・・弟くらいにしか思っていなかった。それが今の主人・・・。彼には私の友人を紹介したり、彼女のハートをゲットする手ほどきをしたり、全く恋愛の対象外、まあ恋愛をする気もその頃の私には無かったのだが・・・。彼の借金をなぜか私が返済したり、全く駄目駄目な弟・・・。しかし天然系でとても癒される存在だった・・・。始めての2人だけのデートは焼肉屋!喫茶店でお茶など飲んだ事すらない人・・・信じられない~!しかも気が付いたら私の家に住んでいた・・・。そんな中、全く結婚の意志の無い私の元に、旭川の主人の義母が訪ねて来た。結婚の意志の確認だった。仕事も充実し、当時の生活に満足をしていた私には結婚という言葉は重過ぎた。翌年まで時間の猶予もらうことにした・・・。そうして翌年4月に入籍をした。

結婚翌年5月に私の待望の子供が生まれた。妊娠出来ないかもしれない・・・そう宣告されていた割にはすぐに妊娠。大きなお腹で8ヶ月まで仕事をしていたが、1年の産休を取りはじめた・・・。当時5年近く両親との連絡を取り合っておらず、結婚も出産も事後に妹と弟から知らされていた。

主人はどうも私が強い人間だと思っているらしく、出産はたった独り・・・産後もたった独り・・・とても心細く、育児ノイローゼが始まった。お手本はマニュアル本のみ・・・。主人は全くもって私の状態を理解してくれない・・・。仕事を休んでいる不安。社会から取り残された気分・・・。

可愛いわが子もそんな私の気持ちをお見通し、とても神経質で泣いてばかりだった・・・。この頃から既に主人との歯車は狂い始めていた・・・。産休が明ける頃、保育園に通い始めた娘は、人見知りが激しく、園では鳴き通して、一切ミルクも取らない状態・・・。ついに風邪をこじらせ入院となってしまった・・・。その頃、両親との関わりも始まった。親になっても未だに理解できない両親の言動、行動・・・お金をかけてやったのに・・・が彼らの口癖・・・(お金じゃないよ!)。しかし産んでもらった事には感謝の念を抱いていた・・・。

折角私の為に優遇して、迎え入れてくれた職場を去る覚悟をした。娘の母は私だけ・・・。主人に協力を求めても叶わず、私に任せると・・・ただそれだけ・・・この時も私1人で判断するしかなかったのだ
・・・。

父が肺癌宣告をされ、肺の半分を切除する手術を行ったのもこの頃だった・・。人間的に弱い父に宣告する事は危険で、それだけは隠し通した。暇さえあれば、娘を連れて見舞いに行った・・・。その後、次女が誕生。長男が誕生。子供が増える度に賑やかになるものの、主人との歯車が益々狂い始めた・・。一緒に悩み、苦しみ、選び、理解し・・・と願う事は贅沢な事だった・・・。


 浮気・・・

長男誕生の年の夏、主人が若い女性と浮気している事実が発覚した・・・。もう絶望的・・・3度目の裏切りだった・・・。浮気はその時が始めてだが、私は既に主人を信用出来なくなっていた・・・。1週間、食べ物も喉を通らず、家事、育児もどうしていたか・・・今は記憶にない。その上、主人から離婚を切り出す始末・・・。3人の子供の父親の資格が無い!と言うと、私1人で出て行け!と・・・子供達は義母にみてもらう・・・と言う。私が産んだ子と何故離されなければならないの?何度こんな事を繰り返して来た事か・・・。その度に夫婦としての関係が崩れて行った・・・。誰を恨む事も出来ない・・・。私の選んだ人生だから・・・。

 破壊・・・

父は働く気力を無くし、借金の形の家も取られる寸前。母は私の家近くにアパートを借りた。父はアルツハイマーの祖母の面倒を見て、仕事も出来ない状態。私が週末祖母の世話に行った。色々含めて限界だった・・・。そんな時、偶然私の家近くのグループホームに空きが見つかった。私は叔母と話し合い、祖母をそこで見てもらう事にした。
 父は既に経済力も気力も地位も名誉も全てを失い、免許取り消しの状態の運転が判明し、前科もついた。運転が出来ないと仕事は出来ない・・・。祖母は幼い頃から私の面倒を見てくれていた。私が何とかするしかなかった・・・。グループホームに入居後、父は、勝手に決めたと言い私を恨み、祖母も、父と引き離されたと言い私を憎む、母は自分の大嫌いな祖母の面倒を見ている私を煙たがる。父からは嫌がらせ、腹いせの電話が、時も構わず、度々来る様になった・・・。私に甘えている・・・。もう全てが私の肩に圧し掛かる。何故?何故?・・・。ある日、激しい動悸が始まり、病院へ・・・うつ病と診断された・・・。つらい日は薬を飲んだ・・・。主人はそんな私に全く無関心・・・。苦しかった・・・。私の心の支えは3人の子供と、友人だけだった・・・。2歳間隔の3姉弟・・3人それぞれ性格も違う。鏡を見る間も無く毎日が過ぎる・・・。心の余裕も無いのに次々と問題も起きる・・・。家に閉じこもりたい状態でもそうも行かない。外では元気はつらつの逞しい母を演じる・・・。子育てのこの8年はあっという間の出来事だった。

 2007年、やっと長男が今年から幼稚園に入園した。その春、ふとmとの約束を思い出したのだった・・・。


 2007年 ミラクル・・・・

 この自叙伝37歳までの出来事を書き綴る事にして、3枚程認めた時、私の今までの人生で最も大きな出来事はmとの出逢いだった事を改めて感じた。そしてふとPCでmの名前を検索してみた。まさかヒットするとは思わなかった・・・。2件のうちの1件は絶対にm!私の中で確信した。
その週末、mとの最後に同席してくれた親友の勧めで、彼女とmの働く場所へ行ってみる事にした。会ってどうなる訳でもなく、会って話す言葉も見つからない・・・。第一、本人かどうかも解らないのに・・・。しかし、一目で良い・・・mに会いたかった・・・。その日友人とランチを済ませ、その店を出たのが既に4時近かった・・・。mらしき人物の働く場所には着いたものの、大勢の人、まして広い館内の何処かに居たとしても、会える事はまず無いであろう雰囲気・・・。休みかも知れない。外出中かもしれない・・・。親友は呼び出す事を勧めたが、パソコンのヒットが奇跡ならば、ミラクルを期待したかった私は、会えなければそれも運命・・と考えていた。
フロントを見渡せるラウンジでお茶をする事にした私達は、そちらへ移動した。コーヒーが900円!ケーキバイキングが1500円ならケーキバイキング!やはり女は甘い物が好き!ケーキをチョイスし、コーヒーを取りに行き戻ろうとした時!フロント前を歩くmの姿・・・・。確信が現実と変わり、奇跡がまた起きたのだ・・・。しかもmは私達の居るラウンジまで上がって来たのだ・・・。どうやら、催しのPOPを配布している様で、私の正面で数分の間話をしていた・・・。11年会っていないm・・・。なのに、時間が止まっていたかの様にmは全くあの頃と変わらない・・。笑顔もしぐさもあの頃のまま・・。親友も変わらないmにすぐ気が付き、声をかけると言う。私はそれを断った・・。何を話せば良いの・・・?本当に逢えるなんて・・・・。心臓がドキドキ鼓動を立てていた・・・。その後mは仕事に戻って行った・・・。何とも不思議な1日・・・。
ミラクルの1日だった・・・。

  未来への希望・・・

娘2人はとてもオマセさんだ・・・「ママ・・好きな人が出来たらまたその人と結婚すれば~?カッコイイパパが良いなぁ~」5歳の娘の言うセリフ?パパは次々乗り換えられると思っているらしい・・・。3人の子供の為に後15年は何とか生活して行きたい・・・と考えていた。先日までは・・・。両親不仲の中で育った私は、いつもそれを見るのが辛かった・・・。子供達が寝た事を確認して話し合いをして来たつもりだったが、子供達は敏感に感じ取っていたのであろう・・・。
 今後どうなるかは解らない・・・。しかし、私自身が自立して行く時期に差し掛かった事は事実だ・・・。誰かに頼るのではなく・・・。自分自身を愛し、信じ、決して後悔しない人生を歩みたい・・。生き生きと心も身体も健康な私の姿を子供達に見せて行きたい・・・。

 
 mへ・・・

あなたは変わらない笑顔を見せてくれました。とっても幸せで充実した日々を送っているのでしょう・・・。
苦しめ、傷つけた人だったからこそ、どうしても忘れる事の出来ない存在なのか、前世からの縁なのかは解りません・・・。
でも・・・出逢ってくれて本当に有難う・・・。
21年の歳月も、これからの未来も、あなたは私にとってかけがえの無い大きな存在です。だから、またいつか何処かで出逢える事を楽しみにしています。
そして、あなたがいつまでもずっと幸せで有ります様に・・・。

 

 振り返り・・・

改めて人間は1人では生きて行けない・・・と感じている。私は周りの多くの人に助けられ今までやって来た事実を忘れていた様に思う。ただ、今後の人生を、素晴らしいものにする為にも、人に依存するのではなく、自分の力で、一歩一歩前進して行きたいと思う。私のペースで・・・。感謝の気持ちを忘れずに、そして自分に素直に、自分を愛し・・・。


奇跡は起きる。きっとこれからも・・・。

 そう信じて前を見て生きて行きましょ!


 偶然の再会・・・
今でも、プリンセスプリンセスの「M」を聴くたびに胸が詰まる想い・・・・・
そんな昔の、美しく切ない、想い出・・・・・

偶然にも昨日mと再会をしてしまった・・・。
正確には、見かけただけなのだが・・・。
12年で2度目・・・。

今日からガソリンが騰がる・・・との事から、普段は行かないmの家近くのガソリンスタンドへ・・・。

ふと1台の白い軽自動車に目を向けると、昔はあまりデニムを好まなかった彼が、長い脚にデニム・・・・それに彼らしい茶色のブルゾン・・・。

彼は運転席の女性の為に、自ら、ガソリンを給油していた。
終わると、助手席に乗り込み、彼の合図と共に、去って行った・・・。

私の事など、当然気が付かないまま・・・。

たった2~3分の出来事・・・。
その間、私の頭は走馬灯の如く駆け巡り、異次元の世界に佇んでいた・・・。

Around40の私達は、出会いから約半世紀経ている訳で、彼は、昔のままの品の良さを残しつつ、昨年見かけた時よりも、良い意味で歳を重ねて見えた・・・。

隣の女性もまた、知的で清楚・・・落ち着いた、雰囲の有る、結婚目前のカップルの様に映った・・・。

昨夜は、その一瞬の出来事を何度も思い返し、頭では、彼の幸せに安堵しつつも、本心は複雑な心境・・・。

今あなたは本当に幸せですか?
幸せになってね・・・。


 行き詰まった2008年・・・
相変わらず・・・という言葉が懐かしい・・・。目まぐるしく、無意味な時を費やし、今日1日何の為に生きているのか・・・と自分に問いただすここ数日・・・。
両親がいつの間にか離婚をしていた・・・。
追い出された父は、生活保護を受け、脳梗塞による、脳血管性認知症も進んでいた・・・。
必然的に、祖母と父の世話は私に回って来る・・・。
弟は妹の居るアメリカに留学するらしく、母とももう何年も会ってはいない・・・。
妹も音沙汰無し・・・。父の妹(私が中学の時、お世話になっていた叔母)の旦那さんも、難病に犯され、つい先日、旅立った・・・。
そんな中、父を連れて、昔のお客さんの所を回り始め、少しでも認知症の進行を遅らせよう・・・と考えた。しかし、父は既に過去も昨日の事すらも、忘れかけていた・・・。祖母のアルツハイマーと差ほど変らない程、進行していた・・・。
まだ67歳・・・。
早すぎる・・・。
3人の子供達以上に手がかかり、私を罵倒し、もう本当に、居なくなって欲しい・・・と願う事もしばしば・・・。
私は、何の為に、存在しているのだろう・・・。
全てを投げ出し、楽になりたい・・・と考えながらも、今日も生きている・・・。


 2012年 みたび…  
 この2年間は、介護福祉士資格取得の為に、専門学校へ通った。
無謀とも思える挑戦だった・・・。
何とか無事に卒業し、資格を取得出来たのも、子供達や、友人の励ましのお陰である。感謝感謝・・・。
 父の介護経験を踏まえ、今後の人生において、自立した人間として生きて行く為にも、介護の分野を学ぶ事が私の生きがいとなっていた・・・。
 幸いにも夫は、丸4年単身赴任の為、日常的に顔を合わせる事も無く、お互い子供達の為のみに、役割を果たしている。
今は、それで良い。それが良い。
現状を維持してくれている夫に感謝・・・。
 虚しく思える時も、子供達の存在の大きさが私を救ってくれる。
私を必要としてくれる子供達に感謝・・・。
 
 
 5月から仕事に就く、その前に・・・
そう思ってfacebookに登録した。

みたびの奇跡・・・
またヒットしてしまった・・・
今の時代は、便利というか何というか・・


”mさん、覚えていますか?
パースでの出来事を自叙伝にまとめようと思いましたが、あなたの事が中心になってしまいました・・。
気がついて読んでくれると嬉しいです・・・。”

あなたの笑顔に負けない位、私も笑顔で生きて行きますね・・・。


~ 1986年に出逢ったmとの約束を思い出し、2007年から綴り始め、当時の想いもそのまま残しました・・・~

selfish journey

 20年も前の事を・・・と笑われるかもしれない・・・
しかし・・・

 北一ガラスで私が手にしたネックレスを、こっそり帰りの汽車でプレゼントしてくれた事・・・
 銀鱗荘に泊まる約束をしながら、山道を下った事・・・

全てが私の青春の宝物・・・

こんな私を理解し大切にしてくれた人が居た・・・
最も安らげる居場所があった・・・
そんな想い出がある私は、幸せであり、
今までもそして、これから先もずっと、そんな想い出に支えられて生きて行くであろう・・・

想い出の中のmに感謝・・・



 2013年2月28日
離婚届が受理された。

新たな人生の幕開け・・・

selfish journey

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-07-22

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted