きっとふたりは水の底
プロローグ
古い平屋の縁側に、影ふたつ。
濡れた庭を背景にして、女はしずしず、伏せた目許の睫毛を揺らす。
軒先から滴る雨粒を真似て、ちょん、と手のひらに指先を落とす。人に不慣れな動物に触れるときも、きっとそうして恐々と指を伸ばしては、接触と同時に引っ込める仕草をするものだ。わたしはそれと似た動きをしてから、じっくりと待ってくれている大きい手に、今度こそ自分の指を滑らせた。
紫陽花の葉が、梅雨の雫の重みに耐えかねてぴょんと跳ねるように。観念して乗せられたさして綺麗でもないわたしの手を、彼は千切りとってしまいそうな力で一度だけ抱き締めてくれた。ん、と眉間を窄めると、すぐに雄々しい力が抜けていき、指の付け根から爪の形や色を、丹念に眺めていく。
上目遣いがちろりとこちらを射抜くたび、仕掛けられた罠に飛び込んだうさぎの気持ちを味わった。手足にがちりと食い込んだ刃の、容赦の無さがその瞳にもある。瞳の大きな眼が、視線に仕留められて震える憐れなわたしを映しては、意味深にくちびるを吊り上げるので余計心臓に悪いったらない。
うるさく加速する鼓動を鎮めるために、湿気た土のにおいを吸い込む。「今日はよく降りますね」と何気なく話しかけると、この小雨がよく似合う涼やかな声が「優しい降り方をしているね」と答えた。
やがて、雨に混じってさりさりと擦れる音が鳴り出した。
鉛の筆が、紙に黒い曲線を描いている。手の甲の傾斜を昇り、付け根の中手骨頭を通って、関節のしわを細かく書き込む。平面世界に現れるわたしは見事に可憐な形をしているので、美しすぎるのではないかしら、と首を捻った。
縁側に、役目を終えたスケッチが一枚、また一枚と散らばる。
花占いをした後の、花弁が散ったアスファルトによく似た光景だ。そのどれもに模写されているのはわたし。手であったり、素足であったり、後ろ姿であったり。こうして一枚ずつ、彼の手と脳に着実に刻まれていくのだと思うと、原型に忠実な新しいわたしの彫像が作られているかのような──煎じ詰めれば、男の手により創造し直された女となったかのような──蟲惑的な悦びを見出さずにはいられないのだった。
また、雨の景色に視線を移す。しとしと、さあさあ。雨は止まない。
「水の底にいるみたい」
呟くと、鉛筆を操る手がぴたりと動かなくなる。
「水槽の中に、ふたりきりだ」
言いながら、彼は笑った。
博物館にて
雨上がりの空は薄墨の色で、水溜りに世界を溶かしている。
境界線のぼやけたそこに、さながら世界侵略の大怪獣みたいに靴底を落とすのが好きで、わたしはよく、靴下や服の裾に泥が跳ねても構わずに、怪獣の波紋を起こして歩いたものだった。
その日もちょうど、浮気心をひけらかすような天候をしていた。外に出たのは気まぐれで、前の晩にも降っていた雨が、道路の窪みに濁った泥水を溜めていたりして、じめじめとした風が肌に張り付いてきた。
梅雨空が泣き出しそうな六月の中旬、日曜日。時刻は午後四時。湿気のない涼感を求めてふらりと迷い込んだのは、未踏の地に眠る古代遺跡だ。オープンしたばかりの頃は、博物館という施設そのものが小さな田舎町では珍しいものだから、家族連れや文化資料を目当てにする老人たちで館内は賑わっていたのだけれど、今となっては活気もなく、森閑と静まり返っている。
入館料は三百円。口調や目つきに眠気が表れている受付の年配女性に料金を支払って、天井の高い建物の中にひっそりと埋もれ、身を浸す。他の誰ともすれ違うことなく、冷たい光を放つ陳列棚のガラスケースをいくつも通り過ぎて、リノリウムを遠慮がちに歩きながらとある絵画の御前に立つ。
縦に高い三十号のキャンバスに、段差に左足をかけ前屈みになった娘の肖像が描かれている。わたしは絵心もなければ芸術世界の知識も乏しいのだけれど、右足に絡みつく深い緑のいばらと、それを引き千切って傷だらけになりながら一歩を踏み出す左足、棘で傷ついた足を庇うようにして伸ばされた両腕の鮮やかな肌の色、何より娘の凛々しさと苦痛が同居する表情は、今にも額縁に手をかけこちら側に侵略しそうな迫力を感じさせた。
題して「それでも歩く」だそうな。娘の双眸に滾る不屈の闘志を見れば、成る程説得力のあるタイトルだ。このような、見ている者さえも圧倒する屈強な魂を、果たしてわたしは持ち得るのだろうか。そんなふうに心ゆくまで惹き込まれていたとき、遠くから駆け足が近づいてきた。四時半の閉館に向けて職員が館内を見回りしているのかもしれない。
ところがリノリウムを蹴る足音は、微かな息切れを乗せてわたしの横に並んだ。
「ああ……」とその人は魂の震えを吐息に乗せていた。
横目で様子を窺うと、髪や背広の肩をしっとりと濡らしたサラリーマン風の青年が、感極まるといった具合の表情をして絵画に夢中になっていた。頬を緩ませ、前髪から矢継ぎ早に滴る雫が鼻筋から顎へと伝っていくのにもまるで頓着せずに、ひたむきな眼差しを注いでいる。
そしてその姿から、とうとう梅雨空が泣き虫を発揮したのだと知った。折り畳み傘を忍ばせて正解だったわ、なんて自分の采配を自賛する。できれば閉館までに雨脚が弱まることを祈りつつ、鞄からハンカチを取り出す。
若い男性だ。おそらくわたしより二つか三つは年少ではと思われたが、人の年齢を見積もるのが不得意なのであまり自信はない。それはともかく、彼はどこか世界観の違う人物に思えた。スーツの着こなしは甲冑を着込んだ騎士のようであり、真っ直ぐ伸びる背と足は姫君をリードする王子様のそれのよう。田舎者の佇まいとは程遠い。ならば唐突に現れた彼が何者なのかと手前勝手な推量をした結果、この人は地元の人間ではないのでは、とわりとそれらしい予想に辿り着いたのだった。
となると、見ず知らずの異性──しかもどこか近寄りがたく、それでいて現実味の薄い幻想的な存在感を放つ人物だ──に「ハンカチをどうぞ」とはなかなか言い出せない。こうした場合、いったいどうした行動に出ればベストなのか。水気もなく乾いている目許や手を拭うには不自然で、しかしながら取り出してしまった以上は用途に添った行動をするべきだ。薄い布地では大した援軍にもなれまいが、わたしは意を決した。
「あの、よろしかったら」
青年は、ちらりとこちらを見て、ここによもや自分以外の人間がいるなどとは思いもしなかった、とでも言いたげに眼を見開いた。きっと、この絵画の中央から右と左で、二人は分かたれていた。わたしたちの平行世界は、ハンカチが境界線を越えたことによりようやく溶け合い、融合したのだ。
「どうもありがとう」と彼は微笑んで言った。眉尻が下がり、寂しさをほんのりと滲ませ、ずいぶんと柔らかい笑い方をするので、こちらもつられて笑みが浮かぶ。そして受け取ったハンカチで額や頬をひたひたと拭きながら、「素晴らしい絵ですね」と言った。
この場にいるのはわたしたち二人だけなので、相槌を打つのはわたしの役目だったのだろう。現に、彼は返事を待つようにこちらを見たので、慌てて差し障りのない言葉を探した。
「この絵をご覧になりに?」
「はい。休暇を取りました」
「まあ、わざわざ……お住まいは遠いのですか?」
「東京です。結構な遠出でしょう?」
東京から秋田までとなると、新幹線に飛び乗っても到着まで約四時間といったところか。さらに乗り換え、二時間かけてようやくこの町が見えてくる。日帰りの移動は相当な強行軍になるため、この人のように休暇を取って観光がてら訪れるのがもっとも効率的である。
そうまでしてこの絵を求める理由があるのも、不思議でならなかった。この郷土博物館は、地元の工芸品や郷土史を取り扱い、絵画は地元出身者の画家が手がけた作品や、大型施設から引き取って劣化を修復したものなどを展示している。しかし、こうしてずらりと並んでいる作品たちを丁寧に眺めたとしても、地元の人間であるわたしでさえ、作家の名前はほぼ初見だ。「どこそこの中学校に展示されていた緞帳の原画ですよ」なんてパンフレットの説明文を熟読しても首を傾げてしまう。学校に飾られている絵と作者名をいちいち覚えていたりはしない。
それはともかく、いばらを千切る娘の強靭な精神は、東京を飛び出すほどの情熱を若者の心に湧かせたのだ。不夜城の輝きと、山深くの遺跡。どちらにより魅力を感じるのかは個人の好みによるだろう。田舎で暮らす人間が都会に憧れを抱くように、その逆もまた、往々にしてあるのかもしれなかった。
娘の肖像に視線を戻す。
「生命力に溢れた絵だと思います」と言う。事実、この絵からは、逆境や苦境に挫けず、生き足掻こうという気概が伝わってくる。「評論ができるほど精通しているわけではありませんが、どこか、こう、必死なのも悪くはないよと、彼女に教えられているみたい」
「ああ、確かに。今にも語りかけそうな表情をしている」
「人生とは、なんて振り返ってみたくなりますね。例えば昔、小学生くらい。こうして必死に徒競走をしてみたことはあったかしら、なんて」
「あったんですか?」
「残念ながら。運動会は苦行以外の何ものでもありませんでした」
彼は笑った。笑ってくれたので、勇気の要る行いも、報われた気がした。
止まりかけのオルゴールみたいに、ぽつりぽつりと間の空いた会話をしていたら、いつの間にか時刻は四時二十五分。職員と思しき初老の男性に「そろそろ閉館です」とタイムリミットを告げられて、どちらからともなく絵画を後にした。
「あの、もう一度お会いできませんか?」
雨上がりの湿ったアスファルトにひたりと足を乗せたとき、それこそ幻想に身を投じてしまったのだと錯覚を起こした。振り返ると、ハンカチを手に微苦笑を浮かべる彼がおり、むしろそのまま返していただいても構わないのにと声に出しかけたところで、なぜか呑み込む。人の出会いとは、車窓からの景色と概ね同様で、記憶に焼き付くよりも素早く通り過ぎていくものだった筈だが。はてさて、どうしたことだろう。
この人が立つ駅に、降りてみたくなってしまった。
月曜は休館日だ。
なので、もう一度と約束をしたのは翌々日の火曜日。雨季は消滅したとでも言うのか、それともせっかちな夏がほの暗い梅雨を追い出してしまったのか、約束の日はからりとした好天で、帽子のつばの下から覗くお日様がしたり顔をしていた。「そうらみろ、お膳立てもばっちりだろう?」なんてお節介じみた台詞まで聴こえそう。
雨季といえば、ブラジルは日本の真逆である南半球に位置し、十一月から四月が夏であるという。その夏が雨季であり、有名なカーニバルなども、まとまった雨に降られることもあってか、情熱と情緒が煮込まれた風物詩となっているようだ。
ところが、こと傘となると日本とは事情が違うのだからブラジルも興味深い。日本人は、朝になると天気予報を横目に朝食を済ませる。「午後から雨が降るでしょう」そんな予報をお天気お姉さんが読み上げようものなら、濡れ鼠になどなってたまるかと傘を持って出勤する。ブラジルはそうではないらしい。天気が崩れるとしてもだいたいは日中で、日が高いうちは屋内にいるのだから、傘なんてわざわざ持ち歩かなくてもいいじゃない、いざとなれば雨宿りをすればいいじゃないといったふうにして実に楽観的なのである。
わたしも、今日ばかりは洋傘を持ち歩く習慣のない、陽気なブラジル人の心持ちを真似てみたくなったけれど、やはり日本人の性はなかなか抜けないものだ。天気予報を念入りにチェックし、結局折り畳み傘が手放せなかった。お国柄とは、その国土に在住してこそ移り、表出する性質だ。東北の田舎町で暮らしている限り、わたしは外出先で雨に降られることを懸念する日本人女性でしかないのだろう。
さて、郷土博物館は、一昨日の閉館直前と何ら変わりない空気を醸している。
受付の女性も同じ顔であり、遺跡の番人は今日も黙々と入館料を受け取る。その変わらない仕事ぶりに内心敬礼し、寝息を立てている内部へと侵入すると、平日だというのに珍しく家族連れがいた。小さなお子さんを抱いているお母さんと、荷物を持つお父さんの三人である。遊びたい盛りであるだろう子どもは、母の腕の中で短い足をひょこひょこ動かしているけれど、これといって騒いだりもしない。玄関ホールで道順を相談する両親の声は退屈なようで、わたしを捕捉したどんぐり目は、好奇心に満ちた幼い肉食獣のあれだった。こっそり手だけ振り返しておく。
例の絵画の部屋へ入ると、既に彼はそこに立っていた。
後ろ姿は一昨日と同じである。うなじにかかるまばらな襟足は、主人にしがみつく猫の爪のように細やかで、深い濃紺の服地は彼をより洗練された人物として演出する。オフィスビル、高級住宅地、繁華街といった都心のイメージがそのまま背広を着て歩いているみたいに見える。事実あの人は東京の人間であるから、連想もあながち外れではないのだが。
「こんにちは」と挨拶をしたら、振り返った彼はにこりと笑った。となりに並ぶとひょろりと背が高くて、「あれっ、こんなにキリンみたいな人だったかしら?」と疑問が湧き出る。貸していたハンカチを受け取るついでに、まじまじと穴が開くほど彼を観察してみたら、雨に濡れていた日曜日よりも目に留まる点が多々あった。瞳の大きな眼、下がり気味の眉、少し癖があって毛先が遊んでいる髪。それから、あまり焼けていない肌と、ごつごつといかめしい腕時計。ピントがずれてふわふわと滲んでいた容貌は、ひとつずつ、先の細いペンでなぞられて、繊細な輪郭を浮き彫りにする。
田園風景に立つにはあまりに垢抜けて、合成写真のモデルのようだった。オフィスビルが立ち並ぶ、コンクリートのクレバスで日々生活している人間ならば、こういった齟齬も生じるものなのかもしれない。
「ご親切に、どうもありがとうございました」と彼は頭を垂れた。下げる、というよりは垂れるという表現が相応しい、のったりとした動きだ。それがますます、眼下に向かって角度を傾けていくキリンによく似ていたもので、このときからわたしの中で彼の愛称が「キリンさん」に決定した。
「絵がお好きなのですか?」
日常とは一線を画す面会において、立ち入った質問は控えるべきとわたしの品性が脳の端で言う。支障のない範囲、という前提を踏まえて言葉を探ると、なんともつまらない、有り体な切り口しか探し出せなかった。
「たぶん、格別この絵が好ましいんです」
こちらの緊張を見抜いているのか、キリンさんの応答はとても柔らかい。そっと寄り添って語りかける、ある種慈母然とした響きに、わたしは聞き入る。
「二年前、この絵を名古屋の展覧会で見かけました」
「名古屋……」
「出張先で、偶々、息抜きに立ち寄ったらこの絵がありました。ちょうど、僕もいろいろ行き詰まっているときで……一目見て、寝起きに冷や水を飲んで、目が冴え冴えとするみたいな、そんな心持ちになりました」
「示唆に富む絵ですものね」
絵画の少女の行動は至ってシンプルだ。題されるがままに、段差に足をかけ前に進もうとしているだけ。だがこれを、例えば己の人生に置き換えてみるとするなら、どうだろう。人生は常になだらかであるとは限らない。不安定な足場や、乗り越えるために幾十幾百の煩悶を重ねなければならないときもあるだろう。だから絵画の少女は額縁のあちら側からわたしたちに説いている。「こんな足でも歩くんだよ」と。そんな解釈も可能ではないだろうか。
「悩みを見透かされた、と思いました」キリンさんの瞳が細くなり、澄んだレンズに絵画が映り込む。「お前は何をもたもたしているんだ、と背中を叩かれたのかもしれない。タイトルを見たら、余計、そんなふうに感じました」
不撓不屈の娘は、期せずして若者の光明となったのだ。もし自分も、そこまで深く感慨を抱く何ものかに出会えたのなら、ふとした衝動と熱望に揺さぶられ、北の果てだろうと南の無人島だろうと、我先にと飛び出して行くのかもしれない。
それにしても、とわたしも絵画を見やる。
「名古屋にあったなんて、意外でした。この絵、わたしよりも長旅をしているんですね」
「旅行とか、なさらないので?」
「あまり。移動にかける時間と費用を計算しただけで、白目を剥いてしまいます」
「成る程、堅実な方だ」
「お上手ですね。こなれてらっしゃるみたい」
「えっ、それは困ったな……」
苦笑いに困惑が混じり、わたしは「冗談です」と言い添えた。
しかし、お上手というよりは、人を和ませる妙技を持つ男性なのだと感じたのは事実だった。涼しげな声がその印象をより強調するのだろうか。キリンさんの声は、なんだかとても耳心地が好いのである。耳たぶからじんわりと管を濡らし、やがて散っていく。後味を残さずに、わずかな芳香だけが抜けていく、上質な清酒を髣髴とさせた。
舌の上で遊ばせる余裕もないまま、すっきりと消えていく余韻が惜しまれて、わたしにしては珍しく、たくさんの言葉を重ねた。キリンさんが柔和な笑みを湛え、他愛無い会話に応じてくれることに調子付き、柄にもなく、不器用な口がよく回った。
火曜日はずっと晴れていた。心配性で、つい折り畳み傘を持ってきたことも話題に挙げたら、こちらの梅雨は涼しいですねとキリンさんが言うので、おそらくそこから、都会と田舎の違いを並べるのが、楽しくなった。空気の匂い、店舗の規模、料理の味、人の歩く速度。エスカレーターでは止まるのか、歩くのかなんて些細な話題に事欠かず、その日だけでは時間が足りなくて、わたしから「またお会いできませんか」と二度目の約束を取り付けた。次に待ち合わせたのは木曜日だ。木曜は雨、金曜も雨、そして日曜日もざあざあ降りの雨。こんなに強く降る日でも、ブラジル人は傘を差さないのかしらと不思議がっていたら、キリンさんが疑問を解消してくださった。
「ブラジルでは、雨雲を見つけたら傘売りのおじさんが現れるそうです」
「傘売りですか?」
「どこからかひょっこりやって来て、両手いっぱいの折り畳み傘を、道行く人たちにどんどん売り捌いていく。だから、急な雨でも彼らは慌てない」
「へえ……お詳しいんですね。ブラジルにも、ご旅行に行かれたことが?」
「いえ、誰かからの受け売り。誰だったかなあ……」
「まあ」
そこで正直に種明かしをするのが、彼の人柄なのだろう。可笑しくて笑っていたら、額縁の中の娘も、険しい表情をそのときだけは和らげたように、わたしには見えた。
月曜は休館日。
なので、また火曜日に待ち合わせたら、絵の前に立つキリンさんは焦げ茶色のボストンバッグを担いでいた。出張を終えて地元に戻るサラリーマンの装いそのものだ。一週間のうちに、お会いしたのは四日ばかり。短い逢瀬だったな、とこみ上げてくる寂しさにはふたをして、となりに立つ。
すると、キリンさんは意外なことを語り始めた。
「え、家出……?」
「そう。僕、家出をしているんです。休暇を取ったのは、本当なんだけど」
ばつが悪そうに頬を掻いているけれど、わたしといえば、予想の斜め上をいくカミングアウントに開いた口が塞がらない。いかにも誠実そうで、博識で、言葉の選び方ひとつにも品のある男性が、出奔中だなんて考えに及ぶ筈がなかった。
しかし、単なるレジャーにしては違和感があった。キリンさんは、観光を楽しむにしてはあまりにかっちりとし過ぎた恰好をしている。この町は、自慢できる観光名所が少なく、そこを巡るとしても、スーツに革靴では動きづらいだろう。そしてこの四日間、彼の服装は変化がない。着の身着の儘は誇張でも、旅を決意した一時間後にはろくな荷物も持たずに新幹線に乗り込んだのではないだろうか。
もちろん、それはわたしの勝手な想像だ。ボストンバッグにはたくさんの着替えと小物が詰められているのかもしれないし、例え軽量であったとしても、宿泊先のアメニティーグッズで間に合わせる算段であったのかもしれない。スーツばかり着ているのは、高校生が学生服を着るみたいに、彼にとって普段着に等しいのかも──ほら、想像するだけなら、こんなにも容易い。
けれど、想像とはまた違った、勘のようなひらめきもまた、わたしにはあった。
「まだ、お帰りにならないのですね」と、ほとんど確信を含んだ言い方をすると、キリンさんの目が驚きを湛えてこれでもかと見開かれた。どうしてわかったのか、と眼差しが問いかけている。
大した仕掛けがあるわけでもない。
埃ひとつ落ちていないリノリウムを、眼球で斜めにうろうろと掃いて、失礼にならないようにと躊躇う気持ちを調整しながら、その眼差しに応えた。
「何か事情があるのだとして……」と前置きをしてから、「解決の糸口を掴めているのだとしたら、もっとそれらしい素振りがあっても良かったのではないか、と思ったんです。でも、そんな様子は見受けられませんでした」
「よく、見てますね」
「ずっとここで二人きりでいたら、自然と気がついてしまうこともありますよ」
「はは。まあ、確かに」
「今日は大きい鞄を持ってきているから、チェックアウトを済ませてお帰りになられるのか、と最初は思ったのですけれど……家出をしている、と仰るので。ああ、きっと、まだ何か、すっきりとした心持ちになれていないのだろうな、と根拠のない推量をしてみただけです。当たってます?」
「概ね。名探偵ですね」
キリンさんは大袈裟に手を打ち鳴らした。
「お恥ずかしい話ですが……仕事のミスが続いたんです。それで父と揉めて……まあ、よくある親子喧嘩の延長かな。父が経営している会社に勤めているから、方針で意見が食い違ったりすると、どうしても衝突は避けられない。今回はそれで少し、溝が深くなってしまったから、休暇ついでに初めての家出を敢行しました」
カルビのついでに牛タンを注文しました、くらいの軽妙さで彼は言う。
「昨晩、父から連絡があって。馬鹿なことをしていないで、さっさと戻って来いと言うんです。時間を無駄にするくらいなら、仕事に戻れと。理不尽でしょう?」
「まあ……はっきりと申し上げるのなら、理不尽です」
よく知りもしない人様の親御さんに対し、なんて物言いだろう。けれどキリンさんは、「それで良い」と肯定するかのように小さく頷く。共感を得られて嬉しがっていたのか、相槌として申し分なかったのか、わたしには判断できない。
「なので、誰が帰ってやるもんか、と反抗することにしました。どのみち、休暇は月末までの予定です。ホテルをはしごして、とことん失踪してやるつもりです」
「宿泊代、嵩むでしょうに……」
「構いません、僕の貯金ですから。あの、それで、ご挨拶がてらに失礼かとは思ったのですが、市内にあるビジネスホテルをいくつか教えてもらえないかと……」
このとき、わたしはぼうっとキリンさんを見上げていた。彼の整った面立ちを食い入るように見つめ、会話の半分も耳に入ってはいなかった。妙案が浮かんでしまったからだ。ただしそれは、出会って四日五日の見知らぬ異性に持ちかける提案としては、健全ではなかった。
「あの、もしご迷惑でなければ──」まるで、秘密基地の在り処をこそりと耳打ちする幼子に立ち返ったつもりになって、きょろきょろと居もしない人の気配に注意を払ってから、大胆な計画を囁いた。「──うちの離れを使いませんか? あるのは机と布団と、灰皿くらいのもので部屋も小さいですが。寝泊りするだけでしたら、身を隠すのにもちょうどいい場所です」
キリンさんが、ぽかんと口を開ける。
「だめ、でしょうか」
「あっ、いや、駄目というか……ずいぶんと、豪快だなあって」
困惑している様子がありありと表れていて、わたしは頷いた。
「バラエティ番組で、田舎に泊まろうっていう企画をしていたりするでしょう? あれみたいなものだと思ってください。テレビみたいに、実際に泊めるかどうかは地域性ではなくて人柄だと思っていますが、まあ、あれと同じです」
「しかし、ご家族は……」
「わたし、一人暮らしですから」
離れのある一軒家に一人で暮らしていることにもまた、キリンさんは驚いていた。未婚だと告げればもっと驚いてくれるのかもしれない。だが、裏の事情は存外単純である。
「元は祖父母の家なのです」と言うと、彼は察したようだった。
わたしは今、亡くなった祖父母の家を預かっている。平屋造りの母屋と、祖父が趣味で建てたという離れが一棟。手広すぎて掃除が行き届かないくらいなので、一人きりでは隙間風が余計寒々しい。昭和の時代を生き抜いた家で、あちこち傷んでいるが風情はある。夏は暑く冬は寒いとなかなか手厳しい環境も、わたしはわりと気に入っていた。
特に離れなど隠棲するにはうってつけだ。こちらは祖父が定年退職後に建てたそうで外観もまだ新しい。実際、祖父の友人や親類は寝泊りに利用していたとかで、来客用の着替えも一通り常備されている。キリンさんのように、宿泊用品を持たずして家を飛び出した場合でも、何の問題もなくお過ごしいただけるというわけだ。
「どうでしょう?」
ともう一度意思確認をする。下から上へ、顔を覗き込む。
キリンさんは長い指を顎に添えながら、ぱたん、と読みかけの本を閉じるみたいに瞼を下ろした。わたしは鞄の紐を握る手に力をこめながら、相手が答えを出すのを、じっと待っていた。
程なく目を開いたキリンさんは、おそらくは、彼にしてみれば不審者以外の何者でもないだろうわたしからの、期待と弱気が入り混じった眼差しを受けながら、それでも優しく笑って言った。
「わかりました。じゃあ、お世話になろうかな」
「本当ですか」
嬉しい、と飛び上がる気持ちで手を叩く。
「良かった、実はちょっとだけ打算もあったんです」
「打算?」
「こういうことを言うと、薄情だって軽蔑されてしまうかしら」
不思議がるキリンさんを、ちょいちょいと手招きする。高いところからぐうんと頭が傾いてきて、少しだけ近くなった彼の形の良い耳に、口を寄せた。
「三百円が浮きます」
金魚とキリン
市街地から車で約四十分。隣県に伸びる国道を真っ直ぐ北へ走る途中、山の麓の集落に、祖父母の家はある。
二人が相次いで亡くなり(伴侶を追い求めるように、ひと月と間を空けずに息を引き取ったのだ)親族会議の場で危うく未解決になりかけた議題が、この家の管理をどうするかだった。わたしの母を含む祖父の子どもたちはそれぞれ家庭を持ち、一戸建てで生活している。では孫はといえば、五人のうち三人が上京し、残り二人は地元だが、未婚で時間に余裕があるのはわたしくらいのものだった。白羽の矢が立つとしたら、まあ妥当であっただろう。
取り壊して土地を売ろう、と言い出したのは定年間近の叔父だった。
葬儀の日だった。
「もうずいぶん傷んでるし、リフォームするにしても買い手がつかなきゃ意味ないだろう。だったら一度取り壊して、更地にしてしまったほうが管理もし易いし、じいさんばあさんも未練がなくて肩の荷が下りるんじゃないかね」
傷んでいる。買い手がつかない。管理がし易い。
そこまでは、わたしも大人しい孫のふりをしていられた。
しかし、未練がなくて肩の荷が下りる、ときたもんだ。温厚な母が口角を盛大に引き攣らせ、祖母に懐いていた従弟も舌打ち混じりに腰を浮かせたので、それらを横目にサッと手を挙げたのは沈黙を貫いていたわたしだ。取り壊すか否かで親族の意見が割れる中、ざわついていた大広間は、お葬式の最中のごとく、しんと音が消えた。
「わたしが住みます」と、端的に宣べ伝えた。
こちこちと、ボンボン時計が規則正しく時を刻んでいる。それはお坊さんが鳴らす木魚のようであり、爆発までをカウントする時限装置のようでもある。目を丸くする両親、顎が外れそうなほどがっぱりと口を開いた叔父、遺影の二人は柔らかく微笑んで、とにかくその瞬間の室内には情報量が多すぎた。
「責任を持って管理します。お金が必要でしたら払います」
三十年、折り目正しく両親の後ろに控えている物静かな孫でしかなかったわたしは、身にまとった重苦しい喪服ごと皮を脱ぎ捨てたつもりになって、初めて親族に対し異論を唱えたのである。ろくな反抗期もなかった娘の、初めて目にする剥き出しの牙を前に、父も母も鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、結局、わたしの主張はすんなり通ってしまったのだった。
わたしは大人しいふりが上手な孫だった。けれど、お愛想が上手な孫だって、祖父母への感謝や愛情はそれなりに持ち合わせがあって、それらを思い出ごと重機で掻き回されるのかと思うと、名乗り出ずにはいられなかった。結婚しておらず、ある程度自由も利く。これ以上ない人材、妥当な人選だ。
機密性が高く、雪国の大敵である厳寒にも強い。オール電化、おすすめは太陽光発電──そんな宣伝文句の建売住宅の足元にも及ばぬおんぼろ家も、愛着があれば壁の染みまで愛おしい。かくしてわたしは、三十路にして初めての自立と、それに伴い祖父母が暮らしていた一軒家を預かることになった。
それがよもや、こんな形で役立つ日がこようとは。
「部屋数は少ないので、すぐに覚えられると思います。スリッパどうぞ」
木製の玄関ドアは、横滑りでがらがらと結構大きな音を立てる。キリンさんにしてみれば三和土調の広い土間玄関と民家の調和が新鮮であるらしく、並べたスリッパには目もくれず、秘密基地に侵入した幼いエージェントと化していた。
「なんだか、秘湯の宿みたいですね」
先進都市に住んでいる人間ならではの感想は、言い得て妙である。
一昔前の、昭和時代を髣髴とさせる、横長の木造平屋建て。玄関に入ってすぐ目の前を直線状の長い廊下が走り、左手に居間と台所、洗面所。右手に客間と個室が二つ。外観も内装もレトロだが、トイレと浴室だけは三年前に改築済みで、設備もそれなりに充実していたりする。水洗でなかった頃に比べたら、一部のみやたら革新的だ。
それでも、母屋を横断する廊下は当時のままであり、歩けばぎいぎい板が鳴いて、冬なんてあまりにも寒くて、雪原のど真ん中に裸足で放り投げられたかのような冷えを体験できる。その分夏は涼しくて、床に直接ごろんと寝転がってしまうと、いつの間にか居眠りをしてしまっている、なんてよくある話。
不便だが、のどかだ。車の走行音も、星空をくすませるネオンも、すべてが遠い。キリンさんの言う「秘湯の宿」という例えは、的を得ている。
「残念ながら、秘湯ほどロマンはありませんが。中、案内しますね」
と言って、わたしは順繰りに母屋を案内した。
正直な話、浮かれている。
わたし以外の別の誰かが、スリッパを履いて家の中を闊歩しているというだけでもイレギュラーだ。キリンさんは話のひとつひとつにきちんと耳を傾け、相談にも応じてくれた。時に笑い、顔を突き合わせて唸り、ああでもないこうでもないと言葉を交わしていくうちに、祖父母が亡くなってから色褪せてしまった景色が、キリンさんという新風に吹かれてたちまち鮮やかに蘇っていた。
粗方の話し合いを居間で終え、一人では飲み切れなかったポットの麦茶が空になる頃、わたしは座卓の上に鍵を置いた。招き猫の根付がぶら下がるそれは、この家を預かって以来、掃除以外の目的で立ち入る機会のない離れの鍵である。
「これをどうぞ。昨日掃除をしたばかりなので、中はそのまま使える筈です」
「どうもありがとう、恩に着ます」
「着るほどのことでもありません。あっ、でも離れにある着替えは、もしかしたらキリンさんには少し小さいかもしれませんので、本当に着れないかも……」
「そんなに?」
「キリンさんみたいに大きな人、あまり見かけませんよ」
「丈が足りていないのなら、足が長いんだと格好良く言い訳できるんだけどな。ああ、それよりも……」と彼は根付をぷらぷら遊ばせながら尋ねる。「きりんさん、というのは、僕のこと?」
わたしは己の失態にはたと気づいて、頬に熱が集中していくのを止められなかった。
ひとことも彼に許可を得ていない呼称なのに、うっかり口に出してしまったのだ。穴があったら入りたいとはまさにこれかと痛感し、「すみません……」と蚊の鳴くような声で詫びた。実は、なんて事情を語っても恥に恥を重ねているだけな気がして、何度も謝罪を挟みながらようやく会話が途切れたタイミングで、キリンさんが小さく噴き出した。
「何もそんなに必死にならなくても」
「だ、だって」
安直だと思ったんです、背が高いから「キリン」なんて。小学生の頃、同じ理由でそうあだ名がつけられた女の子がいたけれど、彼女はよくこんなふうに反論していた。「キリンは首が長いんだから、似てるのはあたしじゃなくてろくろ首の筈でしょ? あたしはどちらかといえばぬりかべよ」
その言い分もどうかと思う、と言ったら、キリンさんはまた噴き出した。
「まあ、確かに僕はろくろ首よりはぬりかべかもしれないけど、妖怪よりは動物でいたいかな」
「じゃあ、キリンさんと呼んでも構いませんか?」
「もちろん。では、僕からもお願いがあるんですが」
「はい」
どんと来い、と気合をこめて構える。折った膝の上に握りこぶしを二つ置いて、きりりと見据えたら、彼はまたまた噴き出したので、いよいよわたしも文句を言わずにはおれまいと頬を膨らませた。しかし、わたしの行動はすべて裏目に出るというか、この人にしてみると笑いのつぼのようなものを刺激するだけらしく、大した抗議にもならなかった。
キリンさんは涙の滲んだ目尻を拭いながら言った。
「ですます調を改めてもいいでしょうか? 息抜きするのに、堅苦しすぎてもどうかと思って」
「ああ……それは、はい、はい。構いません」
「良かった。馴れ馴れしくなったら申し訳ない」
不満に思うことがあればと彼が言うので、わたしはこくりと首を傾げた。
この人から与えられる言葉の数々は、どれも小ぬか雨に似ている。春先の、細かく静かな雨。不快も不満も遠いイメージだ。
わたしはただ、彼に熱烈な興味を抱いているだけだった。
出奔男を匿う生活がスタートし、まずキリンさんに伝えておかなければならなかったのは、「梅雨時は網戸に蛙がへばりつくので開け閉めには注意してくださいね」である。
これが夏真っ盛りになれば蝉に交代していたりして、暢気にみんみん鳴きやがるわけだ。女は三人寄れば姦しいとは言うけれど、蝉は一匹でその数倍騒々しいのだから、どうせ鳴くのなら朝方に目覚ましの役割を果たしていただきたいものだ。だが、奴らの脅威は鳴き声だけに留まらず、飛行中であれば羽音と外観のインパクトで恐怖感が倍増だ。「虫は飛ぶもんだ」とは母の言であるが、そのひとことで納得し冷静に対応できやしない。つまるところ、わたしは虫が大の苦手だった。
ちなみに蛙も苦手だ。雪国育ちの田舎娘だって、ウインタースポーツは不得意だし土いじりが好きでなかったりもする。わたしはその最たる人間である。
「梅雨が明けるのはもう少し先だろうから、会えるとしたら雨蛙かな」とキリンさんはのんびりと言う。なんだかその余裕が癪に障ったので、ふふんと威張り散らす高飛車なお嬢様のつもりになって、「晴れたらトノサマバッタが部屋に入ってきちゃうんですよ。噛まれたら痛いんですから、夜は気をつけてくださいね」と脅かしてみた。だがやはり、キリンさんは驚くでも慄くでもなく、「忍者だね」と笑って見せた。成る程、昨年のわたしは床下から切っ先で突かれた殿様であったらしい。遺憾である。
キリンさんの起床時間は朝の六時半。
庭の飛び石を歩いてやって来る彼は、母屋に入る前に外で煙草を吸う。無地のTシャツとジーンズで、朝ぼらけに紛れている。スーツを着ているときよりかは、人の世界に寄せた存在感を主張しているものの、両手の親指と人差し指でファインダーを模して彼を切り取ってしまうと、そこにはあの、いばらを千切る娘にそっくりな、絵画的な青年がぽつんと立っている。
わたしに気づいた彼が「おはよう」と挨拶をする。
朝露を滴らせる若木のようだ。真っ直ぐ天に向かって伸び、枝葉は華奢で瑞々しい。長い指に挟まっているのは、煌々とする火種を宿したフィルターで、自然の気配と文明の産物のコントラストが絶妙な空気を漂わせる。だが、都合の良い妄想や幻想ではない。実在する人物だ。同じ庭の土を踏み、挨拶をして、ささやかな感動に浸りながら空に上る煙を目で追った。
生憎、天気予報では先週末から連日傘マークがついており、週間予報は概ねそのとおりとなった。初日、二日目、そして三日目と、朝から晩までさあさあと降り続けた。ただし豪雨ではないので、情緒ある雨模様であることは、客人を招いている上で大変ありがたい話であった。
「昨日は庭の紫陽花の葉っぱにかたつむりがいたよ」
「珍しいですか?」
「まさか、東京にだってかたつむりくらいいるとも。公園とか、池のそばとか。コンクリート塀の上を、小指の先くらいの小さな子が這っていたりするときもある」
「見慣れているわりには、楽しそうですね」
「珍しくはないけど、雨が降っているから、その分土のにおいを強く感じるんだ。濡れたアスファルト、喫煙室の空調、デスクの上のコーヒー。どれも生活感はあるけれど、機械的で味気ない。だけどここは土のにおいが身近にあって、生き物同士が自然体で寄り添ってる」
「蛙にバッタに、かたつむり?」
「紫陽花も」
悠然と彼は言う。
「オフィスビルのジャングルにいると、どうしたってここは、ああ、作り物なんだって気疲れしてしまうときもある。僕は東京生まれの東京育ちだし、コンクリートが当たり前の世界で生きてきたのにね、どうしてだか、ときどき無性に土のにおいが懐かい」
「だから楽しいんですね」
「そうだろうね。すごく楽しい」
定番となった、朝一番のコーヒーを飲んで、彼は頷く。
「盆地だから山も近くて、きっと、空も近い。歩けばすぐそこに、広大な水田があって、稲の水平線が引かれている。柔らかい畦道を歩いていると、稲の隙間から蛙の鳴き声が聴こえたりするだろう?」
「あめんぼが水の上を歩いていたり、田んぼの中で野鳥がくつろいでいたりします」
「僕が住んでいるマンションの徒歩圏内は、コンビニと駅がある。アスファルトは硬くて、風もからから。殺伐としていて、ちっとも鮮度がないんだ」
「二十四時間営業の店が徒歩三分の場所にあるのなら、手間のかかる田園より余程利便性が高いと思うのですけれど、そうではないのかしら」
「無駄な贅沢をしている、と思うときはあるかな」
「無駄ですか?」
意外な言葉を聞いて、わたしは首を傾げた。
キリンさんは寂しげに笑う。
「痒いところにすぐ手が届くのは理想的だけど、あまりに便利だとね、人は考えるのを止めてしまうんだ」
「考えるのを、止める……」
「機械は生活を便利にした、将来はもっと便利になるだろう。しかし、用心しなくては人間が機械に使われるようになってしまう──」
「エジソンですね」
「そう」
かの発明家は、生活が便利になる一方で、怠慢とゆとりが人間を退化させる危険性を説いた。車椅子に乗り続け、己の足を使わなくなった人間の筋力が衰えてしまうように。豊かな物資に依存し続け、「賄う」という思考を放棄し、人間の能力そのものが低下してしまうように。
エジソンは遥か昔にそう提言しているのにも関わらず、現代社会では、人間とテクノロジーのパワーバランスの熟慮より、目の前の生産性を重要視する傾向がある。発明家の危惧が現実となりつつあるのだ。
「海が万物の起源であるのなら、土は生き物たちの基盤だ」
キリンさんの表情はやや厳しかった。
「けど、便利な人工物にばかり囲まれて暮らしていると、自分は何も考えずに突っ立って、排気臭い空気を吸っているだけなんじゃないかって、不安に駆られる。それじゃあ、まるで抜け殻みたいだろ?」
「虚しい生き方かもしれません」
「そうだね。だからここにいると、ああ、生きてるって、実感する」
と締め括り、今度はのどかに笑った。
わたしのように、生まれてからこの年になるまで地方で生活していると、どうしても、羨望しがちになるものだ。おしゃれなカフェや、ムードのある酒場、軒並み連ねる数多の専門店に、無数に走る地下鉄。都会の女性はとても華やかで、全身を宝石でコーディネートしているみたいに輝いている。豊かな生活を送り、毎日が楽しいのだろうな、とある種の偏見すら抱く。
けれど、外側が豪華でも、その土地で生活する人たちの心が隅から隅まで満たされているとは限らない。キリンさんは、満たされていない。
そしてきっとわたしも、満たされていない。
「……さ、すっかり遅くなってしまいましたから。朝食にしましょう」視界の端にちらついているメランコリックな靄から今ばかりは意識を外し、エプロンの裾をなびかせて立ち上がる。生地の艶やかな赤色を見ていたら、野菜室に保存しているミニトマトを連想したので、今朝はサラダもいいかもしれない。
すると、コーヒーを飲み終えたキリンさんが「あの……」と呼んだ。振り返ったわたしは、平時であれば上から落ちてくる視線が、このときは下からぐっと食い込んでくる感覚に動揺した。顔に出さなかったのは、半ば意地である。
「きみを何て呼んだらいいのか、ずっと考えていて」
「わたしですか……?」
「自分は名乗らないで、都合良くあだ名で通しているくせに、きみの名前だけ教えてもらうのは筋違いじゃないかなと思ったら、こんな方法しか思いつかなかったんだけど」
「何でしょうか?」
キリンさんは、空になったマグカップを一瞥してから、
「金魚さん」
と言った。
見上げてくる大真面目な瞳の中に、ぐわりと体温を上げて恥じらう自分が映り込んでいる。「赤いエプロンをしているだろう? 裾がふよふよ躍って、金魚の尾びれみたいだなあってずっと思ってた。水槽の中で、さぞ綺麗に舞うんだろうなって」と、とんでもない追い討ちを仕掛けてくる。待ってください、待って、待って。
ミニトマトを脳裏に描いた自分がやけに子どもじみているようで、年甲斐もなく赤面の至りである。わたしはもじもじと前掛けを握り、やっとこさ、
「でっ、出目金よりは、和金のほうが、いいです……」
と搾り出した。
キリンさんはきょとんとしたのち、透明な声を立てて笑った。
金魚とキリン。
水陸両用の生活空間を用意しなければ共存できないなあ、なんてくだらない構想をしては、思い出し笑い。オレンジジュースをストローでぐるぐるかき混ぜると、まだ少し角が残る氷がグラスの中でぶつかって、涼感を演出する。からん、からん。
「ご機嫌だな」
注文した角煮定食の到着を待ち侘びる幼馴染が言う。少し不貞腐れているのは、ワンコインランチでは必ずこれと決めている五目あんかけが、今日に限って売り切れていたからだ。この居酒屋のランチメニューの中でも人気を博しているからか、昼時に駆け込まなければ食べ損ねることも多いらしい。ちなみに今日は出遅れて入店したので、彼は敗北者である。
「そういう秀くんは不機嫌ね」と、棘には棘を返す。つん、とおすまし顔をして、八つ当たりしてんじゃないわよと言外にたっぷりと抗議を含ませたら、彼は薄茶色の短髪をわしわしと掻き毟り、小声で「俺が悪かった」と答えた。
そりゃそうだ。待ち合わせに三十分遅刻したのは秀くんなのだ。
喫煙者は、手持ち無沙汰になるとすぐに吸いたがる。この幼馴染もそうで、慣れた手つきでワイシャツの胸ポケットからソフトケースを取り出した。さすが居酒屋なだけあり、この店は全席喫煙可能だ。わたしもこれといって文句を言わない。キリンさんも吸う人で、紫煙の行く末を眺めるのもにおいを嗅ぐのも苦ではない。
火を点けると、厚みのある煙がむわっと天井に向かい、設置されている業務用エアコンに逃げていく。くしゃくしゃのソフトケースを置いた秀くんが「それで?」と尋ねた。
「それでって、なあに?」
「お前ね……」
「ふふ、ごめんなさい。いじわるしただけ、怒らないで」
掘りごたつの中で、つま先をちょんちょん、と相手の脛に当てる。
「何も連絡ないのか?」と秀くんが問うので、わたしは曖昧に頷く。
「うーん、まあ……退職する前に別れてるしね」
「結婚目前だったんだろ? 無責任だな」
「良くも悪くも体裁を気にする人だったから。まわりの声には地獄耳みたいに反応するのに、となりにいる恋人の言葉にはまるで無反応なんですもの」
むしろ戸籍を汚さずに済んだのだから、万々歳だわよ。
けろりと言い放つと、秀くんが灰皿の縁でフィルターをとんとんと叩いた。
「先月まで死人みたいな顔してたやつの台詞とは思えないね」
「……そうだったかしら」
「そうだったよ」
今度はこちらが脛を小突かれる番だった。
半年前、わたしは彼と別れた。社内恋愛を経て、寿退社も目前かと思われた矢先の出来事だった。パート社員のわたしと、勤め先の上司では釣り合いが取れるとは思えないが、彼は構わないのだと熱烈に囁く日もあった。もとよりわたしはステータスに対し毛ほども関心がない。ただ、社内恋愛はまず伏せておくのが常識なので、なるべくお付き合いについては隠していた。それもそろそろピリオドを打とうか、と互いに意識し始めたとある日、事件が起きた。
同じくパート社員の女の子が度重なる受注ミスをし、ところがその失態を、あろうことかわたしにすべてなすりつけたのである。
社内でも相当な問題に発展した。当然、わたしは受注ミスなどしていなくて、何もかもが後輩の虚言であった。にも関わらず、社員たちは演技力に長けた女の涙にころりと騙され、「後輩のほうが若くて可愛いから」なんて知能の低い理由を持ち出し、わたしは自主退職に追い込まれた。
結婚はご破算になった。彼はわたしの言葉に耳を貸すことなく、同時に露見したわたしとの交際も「騙された」と言い訳をし始めたので、退職前にきっぱりとお別れをした。気分は常夏の海から、北極圏へ。あるいは端的に天国から地獄へ、と表現しても相違ない。
きっと、わたしの両足には太くて頑丈ないばらが巻きついていたことだろう。引き千切る気力も、一歩踏み出す勇気も、不信感を募らせた状態では到底振り絞れるものではなかった。事実、あの絵画とキリンさんに出会うまでの数ヶ月、わたしは土気色の顔を胴体に括りつけ、もしそこに断崖絶壁があればふらりと飛び降りていたかもしれないほどに、精神が磨耗していた。疲弊した心は今にも息を止めてしまいそうに弱ってしまった。
だが、そんなわたしにキリンさんが魔法をかけた。
キリンさんとの生活も今日で五日目。彼は、傘を差して散歩をするのが好きらしい。あちらの道におばあさんがいたので挨拶をしたよとか、脱走した飼い犬を追いかけてご主人が走っていたよとか、些細な日常風景を語って聞かせる。わたしは、穏やかな心で相槌を打つ。ある日は居間で、またある日は縁側で、膝の上に乗せた洗濯物を畳みながら。
瞼の裏にその光景を描く。ごく自然に、笑みがこぼれる。
彼から与えられる素朴な安らぎが、わたしを生き返らせてくれたのだ。
「ごめんね、秀くん。ひとつ嘘を吐いた」
熟練の女性店員さんにより運ばれた二人分の角煮定食に、手を合わせる。
割り箸をぱきんと割った秀くんが「なんだよ」と促す。
「本当はね、昨日、彼から電話があったわ」
「……は? なんて?」
「もう一度やり直そう、ですって。ふざけるなと思ったわ」
昨晩、夜の九時。
りん、りん、りん、とおばあちゃん自慢のレトロな黒電話が着信を告げた。
玄関に設置している電話台に急いで、「はい、もしもし──」応対すると、がっしりとした受話器のあちら側で告げられた名前は半年ぶりであり、酷く困惑した。戦慄した、と言っても過言ではない。
「お前は真面目だからな」
ごろりと転がる大きな角煮を頬張る秀くん。同い年なのだから彼も三十路だ。しかし、こうして食事をしている姿を前にすると、食べ物を詰めて膨らんだほっぺや、出汁の香りに誘われてすんすんとひくつく鼻など、仕草がいちいち幼い。
「男と付き合うにしても、結婚が上がりになきゃ駄目だろ。それに、一度冷めたら二度と興味を示さない。お前は昔からそうだった」
ご指摘痛み入る。
「そうね。直前まで大切にしていたおもちゃだって、興味がなくなればその場で捨ててしまっても平気だった」
「あの温度差に慣れないやつは、病気か何かかと思うくらい、あっさりしてる」
「病気かしら?」
「いんや。メリハリをつけられる性格ってこった。悪いことじゃねえよ」
さりげなく異性を褒められる彼の性格こそ、女性にしてみれば好ましい筈なのだが、悲しきかなこの男は三年前に恋人に浮気されて以来独身を貫いている。そのとき、後にも先にもないだろうというくらい酔い潰れたのは、苦い記憶として彼の半生に刻まれる予定らしい。
わたしは笑った。
「きっちりお断りして、二度とかけてくんなバカ野郎って、怒鳴っちゃった」
「へえ、お前がねえ」
「これでまた連絡してきたら勲章ものね。次は二秒で切ってやるけど」
憤然と受話器を叩きつけ、持て余した怒りのやり場もないままに、その場に寝転がった。ぼんやり天井を見上げているうち、目の中に水が溜まっていく。しかし、憤りはすんなり消えた。目尻からするりと涙がこぼれていったら、これまで何度嘆いても収まりのつかなかった悲痛も押し流され、憂鬱な靄が晴れた。わたしは理解した。
掛け違えたボタンを直すような、気安いお付き合いではなかった。
けれど、あの人はとっくに通り過ぎた景色の一部になったのだ、と。
「飯食おうなんて言い出すから、俺はてっきり──」わざわざ昼休みに職場から抜け出し、かっちりとしたスーツ姿で定食を食べる秀くんが言う。「──てっきり、傷心を拗らせて自殺でも企ててるのかと思ったよ」
「そこまでしおらしくしていられる性質ではないの」
わたしは箸でつまんだ一つ目の角煮を口に含み、とろける肉を堪能した。
「あら、美味しい」
実は、彼からの電話を終えたあとに、続く話がある。
「──陸に打ち上げられてしまったのかい」
行儀悪く廊下で大の字になるわたしの顔に、影が落ちる。
「尾びれが乾いてしまうよ、金魚さん」
覗く顔には慈愛が満ちている。わたしは彼に何ひとつ事情を語ってはいないけれど、まるで何もかもを承知の上で、そこにいてくれるようだった。もちろんそれはわたしの都合の良い妄想である。しかし、怒りで爆ぜる感情を持て余していたあの頃よりも、体が羽毛のように軽い。心も頑丈になったように思う。
「キリンさん」と呼ぶと、彼は小さく微笑みながらわたしの言葉を待つ。頼りなく何の力もないわたしが吐く拙いメッセージを、聞き届けようとしてくれる。
「わたし、結婚を考えていた人とお別れしました。半年前に」
「うん」
「キリンさんに会うまで、ずっと抜け殻でした。蝉が脱いだあとみたいに、からっぽだった」
「そうなんだ」
「ええ。寂しいとか、つらいとか、きっと人並みに思うところもあったのに、わたしはもっと薄情でした。彼と別れてから、何もなくなってしまった自分が惨めで、恥ずかしい生き物にしか思えなかったの。それが、お別れしたことよりも苦しかった」
血も涙もない冷徹な女だ。
別れた男を惜しまず、空虚な己を恥じてばかりいた。あの人に費やした時間、あの人の理想に近づこうとした努力の数々──あの人が主軸だった生活ががらりと一変し、それらが崩壊してしまうと、わたしには何も残らなかった。衝撃といったらない。わたしはただ、自分を着せ替えて遊んでいただけだ。彼の好みに合わせた物ばかり取り揃え、いざ別離が訪れれば、苛立ちと共に服を破棄する。脱いだ残骸を見下ろし唖然とする。
せいぜい、裸になった自分が、虚しい、とめそめそしているだけ。
時が経つにつれて冷静になれば、なんと、短絡的なことか。
「憑き物が落ちる、ってこういう感覚なのだわ」
「終わったことなら、そういうものさ。きっと」
「そう、おしまい。──おしまいに、なったんですね」
「平気?」
問いかける瞳をじっと見つめ返す。
わたしはすうっと肺に空気を招き入れ、大きく開いた口から逃がした。
「大丈夫です」
存外口調はしっかりとしている。
「女は、こんな痛みにも図太くいられるのですね」
「それは、図太さではなくきみの美徳なのだと思うよ」
「そうでしょうか?」
「虚勢ではない本当の強さは、手にするまでが難しい」
「あなたも?」
「僕は……うん、そうだな。金魚さんほど、潔くいられない」
ふと横に逸れた視線は、そこはかとない憂慮をまとわせる。男性の色香が同居し、いかにも不健康そうであるのに、小麦色の肌で外を駆け回る働き者の異性よりも、余程目を惹く。触れてしまうと、椿の花のようにぽとりと落ちてしまいかねない刹那的な儚さが、どうしようもなくわたしの興味をそそった。
キリンさんが思いついたように尋ねた。
「ねえ金魚さん、この家にお酒はある?」
「お酒ですか? 確か、まだ開けていない清酒が何本か……」
父が引っ越し祝いだと置いていった日本酒が、台所で眠っている。
すると彼は、にやりと笑った。屈託のない笑顔だ。
「もし飲めるなら、どう? これから」
「わたし、あまり強くありませんよ?」
「大丈夫。米どころの女性なんだから、たぶん僕より強いよ」
些か乱暴な解釈だ。でも、腹は立たない。
むしろ嬉しくて、頬が緩む。
「では、勝負ですね」
「うん、勝負しよう」
わたしは意気揚々と上体を起こした。腰を浮かせるより先に手が差し伸べられ、はっとして、指先から腕を伝い視線を上らせる。そこには、遥か上空から、地上に向けて首を倒すキリンさんがいた。手を乗せていいものか迷った。時間にして、おそらく五秒と少し。躊躇うといってもその程度で、にこりと笑ってから、彼の気遣いを受け入れた。
それでも歩く
「もう一度、あの絵を観に行きたいんだ」
七日目の朝、六曜入りのカレンダーと睨めっこをしていたら、朝食を済ませたキリンさんが言った。市街地へ向かう電車に乗り、そこから博物館方面に行くバスに乗り換え、と少々面倒な道順になるのだが、それ以上に厄介なのが本数だ。電車も、バスも、地方は利用者が少ないため年々数が減少している。僻地ともなると、一時間に一本走ればありがたいほうだ。
最悪タクシーを利用するのもひとつの方法だが、そうなると距離がある分料金が嵩む。いろいろと不便を強いることになる、と説明したら、キリンさんはどうということはないといった面持ちで微笑み、道順を大まかに書いたメモを片手に出かけて行った。
……見た目によらずアクティブな人なのだわ。
夕食を作る傍らぽつりと独り言を呟いても、返る言葉はどこからも聞こえてこない。これがまた、唐突な侘しさを産むのだ。何しろ、ここのところキリンさんとばかり顔を突き合わせて過ごしているので、一人きりでいる生活を失念しがちなのである。
あの絵を──「それでも歩く」と題されたあの少女に会いに行ったのだとしたら、彼はまだ、整理がつかずにいるのかもしれない。そして結論を出すべく、背中を叩いてもらいたがっているのかもしれない。わたしは隠れ家を提供することはできても、キリンさんの胸のうちに巣食っている苦悩を取り除く術を持たない。可能なら、彼がそうしてくれたように、わたしもまた、安らぎを与えられたらいいのにと頭の片隅で願望がもたげた。
いけない、と自制を繰り返す。
わたしは、甘えたがりの性格をしているほうだ。
三十のわたしは、二十歳のわたしより、少しは大人になっただろう。一人暮らしを始めてからは苦手な家事も人並みに熟すようになり、包丁で野菜を刻むのが上手くなった。コーヒーに入れる砂糖が三杯から二杯に減ったりもした。年を重ねるごとにどうしたって大人になって、不器用な情熱より器用な立ち回りを選択するようになった。
けれど、男がいくつになっても子どもだと揶揄されるのと同様に、女もまた、いくつになっても女でしかないのだ。頼もしい人がいたら寄りかかり、安心感を求めて縋ろうとする。わたしは甘えたがりだ。
だから、自制する。「あの人にこだわってはいけない」と己を叱責する。頭を振って雑念を追い払う。恩返しとお節介はまったくの別物だ。キリンさんが真に求めるもの、その認識を違えてしまうと、わたしたちは公平ではなくなる。
手際良く包丁を操る。とん、とん、とん。
玉ねぎをスライスし、トマトや、茹でたアスパラも、澱みない手つきで処理していく。
そして不意に思い至り、濡れた手を赤い前掛けで拭いながら居間に移動する。ボンボン時計の針が、そろそろ夕方の五時三十分を過ぎようか、というところに差し掛かっているのを見据え、自分の豊かな想像力を呪わずにはいられなかった。
──もし、このまま戻って来なければ。
そんなふうに考えてしまったのだ。
キリンさんは、わたしほど薄情な人間ではないだろう。東京へ帰るのなら、ひとこと伝えてから発つに違いない。そう信じたいだけなのかもしれない、都合の良い夢を見続けたいだけなのかもしれない。勝手な憶測をせず、今ここで、彼に貸していた離れを覗いてみればいい。だが、もし部屋の中が綺麗に片付いていたら、どうしよう。まるで、最初から誰もいなかったかのように、まっさらになっていたら。
味噌汁のために用意したお湯が吹きこぼれる音がして、我に返る。台所に戻りコンロの火を止めて、窓の向こうの曇り空に視線を移す。今日は朝からずっと雲が敷き詰められていて、いつ降り出してもおかしくない天候だ。
そういえば、キリンさんは傘を持っていない……。
「……雨だわ」
順調に夕飯を作り終え、時計が六時、七時、と告げていく。テーブルの上に並べた食事はラップの下でどんどん冷めて、八時、そして九時を過ぎた頃、転寝をしていたわたしは寝惚け眼を擦った。
梅雨の空は、泣いていた。
細かい砂が斜面を滑るような雨音と、次第に数を増やしていく雨粒。わたしはやおら立ち上がって、傘立てからそれを引き抜いて外へ向かった。
帰宅時間など知らない。彼は、わたしに何も伝えていない。
やはり離れを覗けばそこには彼の痕跡すら残されていないのかもしれない。
それでもわたしは諦めたくない。はやる気持ちを抑えながら夜道をサンダルで行く。こだわりや甘えは脇に寄せ、ただ、傘を届けてあげたくて。
ぱんっと開いた傘は紺色で、内側に星空の模様が描かれているので、ちょっとしたプラネタリウムが頭上に広がる。泥水をぱしゃぱしゃと跳ねさせ、人家が点在する山麓を進む。もともと極端に人通りが少ない集落だ。ましてや時刻は夜の九時、街灯もまばらで誰も歩きたがらない。だから、人影を見逃さぬよう目を凝らす。いつの間にか、ほんの少しだけ駆け足になっていた。
民家の灯りが遠ざかると、前方に川が跨っていた。錆びついた橋を渡り、国道に出て南下すれば、やがてもうひとつの集落に辿り着く。家々に囲まれるようにして古い駅舎があるのだけれど、そこまでの道のりがとにかく長い。徒歩にして片道約三十分。東京であれば、三、四駅分の距離だろうか。県内外へ出入りする大型トラックとも、何度かすれ違う。
あっという間に夜道の奥へと消えていくライト。後続車両が、立ち止まるわたしの横をぐんぐん走り抜け、雨以外の音がなくなったところで、わたしは眦を決して、また走り出した。
退屈な景色が続く。あるのは山脈と、麓からずらりと並ぶ水田と、それに沿う道ぐらいのものだ。田植えの時期より前なら、水田はまるで鏡面のようであっただろう。雨が降れば水面に無数の波紋を生み、晴れたら空と融合し、巨大な青のキャンバスとなる。
キリンさんはその風景を羨ましがっていた。こちらでは逆に、天空を突き刺す高層建築の大群には縁がない。自然と人工物の対比が、どこかしら釣り合いが取れていて面白いねと、彼は笑っていた。
いなくなるのだと骨身に染みて、ようやく腰を上げるだなんて都合が良すぎやしないだろうか。偶然の出会いと、微々たる交流だけの関係なのに、こんなわたしは不気味ではないだろうか。でも、キリンさんといると、ありふれた世界の中に無数の「特別」を探り当てることができる。無味乾燥な二十四時間が、とりわけ素晴らしい一四四〇分となる。
あなたがいるだけで、世界が変わる。
名を知ろうともしなかった、路傍の花すらまばゆく映る。知りたがる。
だから、まだまだ話し足りない。聞かせてほしい話がたくさんあるわ。
一方的な願いをこめて走る。運動不足が身に染みる。直線の道がこんなにも長く感じられるのは、わたしの体力が低下したからなのか、はたまた、彼の存在がお前の手など届かぬほど遠いのだぞと、この道のりをもって知らしめているからなのか。
息切れを起こし、ぜえぜえと呼吸を繰り返すうちに、わたしはしゃがみ込んでしまった。ぼうっと光る街灯の真下、傘を投げ出し、膝の上に顔を埋めて、「キリンさんのばか」と八つ当たりをする。半袖から伸びる腕には雨が落ち、水気を吸った髪が頬に張り付いてますます不快だ。
落ちた視線の先では、泥まみれになった足がとてもみすぼらしくて、大声を上げて泣きたくなってしまった。本当に泣いたりはしないけれど、こんなふうに、誰かを必死に追いかけた経験はなかったので、虚しさも一入だった。
「帰るのか帰らないのかぐらい、連絡をくれたっていいじゃない」泣き言を漏らしても、やはり虚しいだけだ。それでも止まらない。「どうせ、もうすぐ帰ってしまうんだもの。いなくなってしまうんだもの。だったらせめて、こんなふうに、急に離れたりしないでほしかった……」
酷いわがままだ。これだから、女は陰気で嫌なのだ。
どれくらい時間が過ぎたのだろう……。遠くで、水と土を踏む音がした。ぱしゃん、ぱしゃん、という音は、最初はゆっくり、徐々に間隔を狭めて近づいて、やがてわたしの目の前で止まった。何だろう? わたしはおもむろに顔を上げた。
キリンさんだった。
聞き分けのない子どもに手を焼いている父親みたいな顔つきをして、落ちている傘を拾う。そしてそれをわたしに被せて雨を凌ぎ、「金魚さんでも、風邪を引くよ」と咎める口ぶりをした。
続けて「どうしたの?」と尋ねる。微笑を含んだ穏やかな口調に胸がつまる。けれどぐちゃぐちゃになった顔をこれ以上見られたくなくて、両手で覆いながら答えた。
「もう、行ってしまったのかと思いました」
「東京に?」
「はい」
「そうか。不安にさせてしまったかな」
「少しだけ……置き去りにされてしまったのかしらって」
「うん、ごめん」
わたしは首を振る。
「いいんです、いいんです。わたし、わがままを言っています」
「でも、金魚さんは僕の恩人だから。だからね、ごめん」
帰ろう、とごく自然な動作で差し伸べられた手に掴まった。立ち上がる拍子によろけてしまって、キリンさんが受け止める。「大丈夫かい? おぶろうか?」と真面目な調子で言うけれどいくらなんでもそれは面白くて、全身に回っていた倦怠感が一気に抜けていった。
キリンさんは、もうすぐ帰る。
行って来ますと晴れやかな笑顔で玄関を出たら、二度と戻らない日が、目前に迫っている。
翌朝、六時半を過ぎてもキリンさんは起きて来なかった。
「今日の東北は広い範囲で晴れる見込みで、梅雨の貴重な晴れ間となるでしょう。日中の最高気温は二十五度を超えるところが多く、朝から非常に強い風が──」
朝のニュース番組で、愛嬌があると評判の若い女性アナウンサーが天気予報を読み上げている。それによると、今日は梅雨時では珍しい晴れ模様となるらしい。確かに、先週ぶりの青空が広がっている。渋滞を起こしていた雲は去り、スプレーを吹きつけたかのような淡い白雲が波打っている。オーストラリアの秘境──「白き天国」に似た空だ。
こんなにも気持ちの良い朝は、庭で吸う煙草も一段と美味しかろう。けれどもキリンさんは一向に現れず、七時、八時を回っても音沙汰がない。さすがにこれは様子がおかしいのではとわたしは危ぶみ始めた。昨日の今日で、深夜に抜け出し東京へとは考え難いが(電車が走っていないのだから)もしや、体調を崩しているのではないだろうか。
昨晩に引き続き、今朝の食事もすっかり冷めてしまった。
わたしはそわそわと、座卓の上で手を組み返る。時計の秒針がコチコチ鳴る音に敏感になって、たった五分も一時間のように長く感じられた。もう潮時だ、と立ち上がったのは九時になろうかという頃。あまり使いたくはなかったスペアの鍵をサイドボードの引き出しから取って、母屋を出た。
「部屋を覗かないでくれ」だなんて、鶴の恩返しみたいな懇願をされたわけではない。彼が離れでどんな暮らしをしているのか、はたまた、本当に機織りをしているのかもしれなくても、わたしは驚きはしないだろう。あの人はどこかしら浮世離れしていて、未だに、絵画の世界から現れた異邦人ではないかと疑っているくらいだ。
「キリンさん、キリンさん。起きていますか」
離れの外から声をかけてみた。
引き戸の向こうにはすぐ、四畳半の狭い和室がある。半畳ほどの座卓、手編みのくず入れ。押入れの中に布団が一式。玄関と差し向かいに窓がひとつと、とにかくコンパクトで、あらゆる無駄が省かれている。
──返答がない。
息を呑み、緊張で汗ばむ手を叱咤しながら、鍵を開けた。鶴の機織りを、そうとは知らず暴く老夫婦ではないというのに、いけないものを覗いてしまう予感がして、足が震えた。
シルバーの取っ手に指を引っ掛け、意を決して横に滑らせる。
続いて、玄関と部屋を仕切る障子をすうっと開いていく。中はカーテンを閉め切っているので、照明を落とした劇場のようだった。遮光カーテンを取り付けているため、日中でも夜に等しい暗闇を再現できるせいもあるだろう。手狭なので注意深く観察するまでもなく、すぐそこに寝転がっている塊が見えた。キリンさんだ。
わたしは、ごめんなさいと小声でお詫びしてから、彼のそばに膝をつく。
「キリンさん、キリンさん。大丈夫ですか」
細長い体を丸めて、猫みたいな体勢をして、布団を敷くでもなく眠っている。畳の目が肌を擦って、痛くはないのだろうか。フローリングより多少質感は優しいだろうけれど、わたしだって、ときどきそうして居眠りをして、腰が痛くなってしまうのに。
何度か肩を揺すぶったら唸り声がしたので、どうやら目が覚めたらしい。
と、そこで、わたしは室内の違和感を察知した。
白んでいる。
絨毯は敷いていない。けれど、白い。畳は通常のい草で、これもやはり白くはない。劣化で色褪せているが、白ではない。これは紙だ。学校や、事務作業で見慣れているA4用紙が散乱している。しかしこうも暗いと、何が書いてあるのか判別できない。
「キリンさん、ごめんなさい。窓を開けますね」と言い、わたしは移動した。
歩くと、裸足の下でかさりと感触があった。なるべく踏まぬよう、慎重になる。
彼の返答を待たずして、カーテンで空を切り、窓を開けて自然光と風を取り込む。すると、このタイミングを待ち構えていたのか、突風が轟と吼えて侵入してきた。レースのカーテンを天井近くまで舞い上げる強い風で──今朝のニュースを脳裏に過ぎらせながら──腕で顔を庇う。ばさばさと、背後で鳥の羽音がした。
振り返ると、キリンさんが、くあ、と欠伸をしていた。
その周囲で、鳥の羽根が散っていた。
いや、正しくは、紙が大量に吹き飛んでいたのだ。しかしそれらは、人をも軽々呑み込んでしまいそうな巨大な鳥が、飛び立つついでに散らかしていった羽根のようで、太陽の粒子を浴び、あまりに幻想的だった。
暴れん坊の突風がひとしきり騒いでお帰りになると、キリンさんが「金魚さん、おはよう」とのんびり挨拶をした。おはようという時間でもないのだけれど、キリンさんは至って健康そうで、今朝は単に寝坊したらしいということを知る。わたしは胸を撫で下ろし、「おそようですよ」と口を尖らせた。
左足に落ちた羽根を──紙を拾う。わたしは目を見開いた。
「……これは、キリンさんが?」
「うん、僕が描いた」
照れ臭そうに彼は頷いた。
スケッチだった。
たくさんの風景画。どれも見覚えのあるものばかり。わたしの家、となりの家。バリエーションが乏しい近所の自動販売機や、道端で話し込んでいる二人のおばあさん。いつの間にか住人がいなくなり、年々損傷が激しくなる空き家。水平線のような田んぼと、農作業をするおじいさん。
わたしは、美術のことはよく分からない。
だけれど、キリンさんの絵は、博物館に展示されているあの絵画のように衝撃をもたらした。鉛筆の濃淡が細やかな陰影を作り、人や、建物や、草木などのすべてに、今にも動き出しそうな生命力を感じる。温度がある。優しく叩かれたような気持ちになって、胸がきゅうっと痛んだ。
なんて、この人の生き写しみたいな、穏やかな絵なのだろう。
「僕は、東京で父が経営する会社に勤めているんだけど──」
キリンさんも立ち上がり、そっとわたしのとなりに立つ。
見上げると、寂しさをほんのり滲ませている彼と目が合う。
「それは、僕にしてみれば何の疑問もない、人生の生きがいなんだ。絵は、息抜き。たまにふと、がむしゃらにいろんなものをスケッチしてみたくはなるけれど、これを職にしようとまでは思わない。世の美大生に、にわかだって叱られてしまうかな」
「そんなことありません」
「ありがとう」
だけど、とキリンさんは一度区切って、ラフ画を手に取る。
「分からなくなった」
「分からない……?」
「父との口論が増えた。母は結婚当初から、良くも悪くも父に倣う人だったそうだから、父が正しいと言えばそれを疑わない。噛み付いている僕が、理解できないとも言う。けれど、両親や会社のために経営学を専攻して、その道に入るためだけに下積みを重ねてきたからこそ見えるビジョンがある。僕は現代人だから、どうしてもね、父のやり方は前時代的に思えて反発してしまう」
「だから、家出を?」
「埒が明かないと思ったんだ。子どもじみているかもしれないけど」
「子どもじみているだなんて」
「反発して、罵り合って、解決できないから家を飛び出す。ね、まるきり子どものやり口だ。我ながら短慮だったなって、反省してるんだよこれでも」
「キリンさんが罵るの……? なんだか、想像ができないわ」
「これでも男だからね。金魚さんの前では言えないような、口汚い言葉も知ってる」
それこそ深淵を覗きかねない。わたしは頬をぽっと赤くした。
「でも、決定打になったのは、経営方針じゃない」キリンさんは、さっと顔色を変えた。微笑みが失せ、眉間が僅かに溝を作り、怒りをただ静かに燻らせた。
「僕の息抜きを、父は「無駄」と吐き捨てた」
わたしは、瞬時にして記憶をさかのぼった。
この人がホテルをチェックアウトした日も、似たような話をしていた。
「ずっとね、僕の趣味を馬鹿にしていたんだ。こんな、一円の値打ちにもならないようなことに時間を使うくらいなら、売り上げを十万伸ばす企画書を書けってね」
「値打ち……」
「そう。父にしてみれば、絵は無価値だ。あの人にとって、投資と利益はイコールなんだ。だから、時間を投資しても利益還元のない絵なんて、道端の石ころも同然だ」
「でも、価値観は一人一人違うものだわ」
「父は、論理破綻もいいところだから。そんな理屈は通用しない」
「……頑固なんですね」
「ああ、頑固だ。融通が利かなくて、往生際が悪い。経営方針で、部下がいかに僕の意見を推していても、自分が「悪」だと思えば僕も所詮「悪」なんだよ」
「そんな、めちゃくちゃだわ」
「うん、めちゃくちゃだ。だからね、逃げてしまったんだ」
キリンさんは自嘲するように言い、ため息を吐く。
手中の紙を器用に折って、紙飛行機を作る。もったいない、と思ってしまった。あの翼の中には、彼が描いた世界が詰まっている。それを、どこへ飛ばしてしまおうというのか。遠くへ逃がしてしまうというのか。そんな、戯曲的な口上が浮かんだ。
キリンさんはただ、部屋の中でそれを放った。
出来が良かったのか、紙飛行機は橋を渡るように放物線を描いて、部屋の隅に降下した。キリンさんも、ああして帰っていくのだなと思った。この人は、自分を弱い人間であるかのように語って聞かせるけれど、決してそうではない。いばらを断ち切ろうともがき続けている。それのどこが弱い人間だというのだろう。
わたしにできることを模索した。
荒野で疲弊した彼が、金魚鉢の中に、救いを見出すために、できること。
「……キリンさん、行きましょう」思い立ったが吉日とは、先人も上手い言葉を遺したものである。わたしは、ぽかんとする彼の腕を引いた。「今日は良いお天気です、雨もきっと降りません、だから行きましょう」
「えっ、行くって」
「外へ行きましょう。紙はありますか? 描くものは?」
「あるけど、どうしたんだい?」
「だから。外へ行くんです、今すぐ」
時間が足りない。
今日は八日目。明後日には、彼は東京へ戻る。
「たくさんお描きになってください。わたしの場所、暮らしている世界。小さくて、痩せた土地で、ちっとも自慢できるところなんてないけれど。老いと衰えしかないようなこんな場所も、あなたがいるから、美しいと思えます」
「……うん」
「出会えて良かった。わたしは、あなたに救われました」
キリンさんがくしゃりと顔を歪ませる。
晴天を祝福しているのか、空の高いところで、鳥が鳴いた。
九日目の朝には、泣き虫な梅雨が帰ってきた。
ブラジル人は傘を差さない、という話をまた思い出した。陽気な彼らは傘を差さない、持ち歩かない。出先で雨に降られたら、どこからともなく現れた傘売りのおじさんが、手際良く折り畳み傘を売るんだ──
雨は、憂鬱だ。濡れると体が冷えて風邪を引く。洋服は水を吸い、靴の中だってびしょびしょ。鞄の中にお気に入りの本が入っていたりしたら、それもしわくちゃになってしまう。けれど、案外悪くないものだなと心変わりをするようになったのは、今年の梅雨が、三十年というわたしの年月を振り返ってみても、格別素晴らしい日々となったからだ。
それを噛み締めて、雨が降り注ぐ庭を縁側から眺めていたら、キリンさんが近づいてきて「きみが描きたい」と言った。是非を問うのではなく、願いを聞き届けてくれと言わんばかりの、強い語気と改まった態度が、わたしの体温を上げた。
断る理由はなかった。「わたしで良ければ」と、ダンスのお相手を承る淑女の心持ちになる。エプロンの端をつまんでそれらしく振舞うのも一興だっただろうか。
「きみに触れても構わない?」
その尋ね方は卑怯だ。
上向きで差し伸べられた手のひらは、既に何度か掴んでいるから、初めて触れ合うわけではない。けれど、触れたい、という明確な目的を前提とするのは初めてなので、途端に彼が未知の生物のように見えてしまって、くらりとめまいがした。感情がごちゃ混ぜになりながら、ちょん、と指先を落とす。穏やかな微笑みに促されて、弾けるみたいに躊躇ってしまった手を滑り込ませたら、力強い体温に強く引かれた。
温厚なキリンさんの、男の性を垣間見た。
獲物を罠に仕掛ける狩人の目つきになって、なのにすぐに気配を引っ込める。「今日はよく降りますね」と誤魔化しても、平然と応答する。自若として座して待つ、そんな人だとばかり思っていたけれど、本当はそうではないんだよと声には乗せず主張する。はっきりと口にしないのは、明日帰ってしまうからなのか。それとも、これはただの夢であり、空想であり──そもそも、わたしとキリンさんの出会いからこれまでは、誰かがめくるページの中の出来事であるのかもしれない。わたしたちは誰かが紡いだ物語の登場人物であり、呼吸のタイミングすら、作家の手により計算し尽くされているのかもしれない。
こんな話、馬鹿げていると笑われてしまうのだろうな。
けれど、すぐそこで、思いのままにわたしをスケッチしているキリンさんを見つめていると、こんなにも幸せであったことなどないと、泣いてしまいたくなる。世界中に存在する無数の奇跡をかき集めても、この人に出会えた以上の燦然とした幸いは、きっとない。
だからわたしは、ページで踊る道化でもいい。
そんなふうに、今は思う。
「もう一度、あの絵を観に行っただろう?」
とキリンさんが言った。わたしはすぐに頷いた。
「ええ」
「あの絵の少女が、どことなくだけど、きみに似ていた」
「わたしに?」
「うん。顔立ちや目つきがとかでなく、心に秘めた強さが、とても似ていると思った」
「それは──」言い澱み、自嘲する。「買い被りです。ただの弱虫だもの、わたし」
「けれどきみは前を向いた」
スケッチする手が止まる。
優しさをふんだんに湛えた声が降る。
「僕はきみを見て、逃げるのを止めた」
「ご両親から?」
「そう。まあ、最初のトライは惨敗だったんだけれどね。公衆電話から実家に連絡したら、大喧嘩になっちゃったよ」
「ああ、公衆電話は、ご家族に……」
「例え相手が親兄弟だとしても、気持ちを伝えることの難しさを改めて学んだ。打ちひしがれて、河川敷でぼんやりしていたら日が暮れてしまっていた。だからあの日は、きみを置き去りにしようなんて微塵も思っていなかったんだ。寂しくさせて本当にごめん」
「それはもう、いいですってば」
わたしは赤面した。
確信犯に違いない。キリンさんがくすくすと笑っている。
「じゃあ、お帰りになるのですね」と尋ねた。
これまで、核心に迫る問いも話題も避けていたけれど、わたしの心は、嵐など知らぬ爽やかな海そのままで、どんな秘密を打ち明けられても受け止めるだけの余裕があった。顎を引き、背筋がぴんと伸びて、だらしなくなっていた精神に張りが戻りつつあることを感じている。わたしは修復した。そしておそらく、キリンさんもまた、修復を終えるのだ。今、ここで。
彼はただひとこと、「帰るよ」と答えた。
それきり、どちらからともなく黙りこくり、地表をしとどに濡らす雨が、わたしたちを水底に閉じ込めていた。キリンさんの手はわたしを何枚も描いては廊下に散らかして、心ゆくまで──わたしをその長くて綺麗な手指に刻み込むかのようにして──鉛筆を動かし続けた。
わたしは果報者だ。完全に老いてしまう前の、美しい時を彼に記録してもらっている。彼の手に、眼に、脳に、わたしの輪郭と質感が焼きついて、感触と熱が皮膚からずっと奥へと、染み込んでいく。
昨日、どうして大判のスケッチブックではなく、A4のコピー用紙に描くのかと尋ねたら、彼は面白い返答をした。「自分は絵描きではなく、ただ趣味と息抜きを兼ねているだけだから、構えることなく気軽にやりたいんだ」と。キリンさんらしいなと笑った。それは一見、自身の絵に対するこだわりのようであり、その実、経営者の跡継ぎたる自分自身へのこだわりに過ぎなかった。彼の線引きは最初からはっきりとしていたのだ。
いばらは千切られた。
段差に足をかけ、乗り越えるための力も、充分蓄えた。
わたしは息を吸う。吐いて、吸ってを繰り返す。ああ、生きている。
尾びれをふよふよ遊ばせ、ぷっくりしたお腹を砂にくっつけて、脈動する命をのびやかに実感する。そして充足する。満たされて、自然と安堵が言葉となる。
「水の底にいるみたい」
長雨の恵みを賜る外を何気なく見渡していたら、心地良さから、ふつりとそんな感想が浮かんだ。キリンさんは手を止めて、わたしと、わたしが眺めやる外に視線を移してから、ふっと口端を吊り上げて言った。「水槽の中に、ふたりきりだ」
そう、この家は水槽だった。
金魚鉢では、キリンさんには狭すぎた。水族館並みの巨大な水槽を拵えなければならなかった。わたしは彼にここを提供したけれど、やはり、キリンは大きな動物で、荒野を生き抜く力強い生命だ。狭苦しい世界で、窮屈そうに体を丸めているよりも、のびのびと大地を駆けてほしい。
それに、キリンだから。首が長くて、水槽から飛び出してしまうもの。
思いついた比喩にくすりと笑う。「急に笑って、どうしたの?」疑問符を浮かべる彼に何でもないよと首を振り、今日の予定を尋ねた。彼はただ、こう答えた。
「きみを描いていたい」
焦げつく熱を抱く瞳。囚われる。
こんなときばかり、優しくない顔をするなんてずるい人だ。わたしは面映くなって、伏し目がちに頬を染めた。
「では、ずっとこうしていましょう」
日が暮れて、夜に隠れてしまうまで。
エピローグ
十日目も、空はどんよりとしている。幸い、降り出すことはなかったけれど、いつ気まぐれを起こすとも限らない。「もし必要なら売店で傘を買ってくださいね」と念を押すと、スーツを着たキリンさんは、世話を焼かれて嬉しがっているようだった。
こうなると、わたしは調子付くのである。
「忘れ物はありませんか? 忘れても、名前も住所も知らないんですから、届けようがありませんからね? しっかり確認してくださいね?」
「大丈夫大丈夫、もともとそんなに荷物がないから」
「またそう言って……家を出るときにペンケースを忘れていたじゃありませんか。いくらでも替えが利くからって、そんなにあっさり物を手放しちゃいけません」
「はい、はい。大丈夫」
むっと口をへの字にしたわたしを見るなり前屈して笑い出したので、人通りがあることも忘れてくどくどお説教をした。
関東方面へ出る新幹線を利用するには、県庁所在地まで移動する必要があるのだが、とにかく本数が少ない。一本逃せば、次は一時間ないし二時間後といった具合に無慈悲なタイムテーブルとなっている。東北の地を踏み、手始めにすかすかの時刻表と路線図を目にして、特に路線図については「こんなに隙間があるなんて思いもしなかった」と茫然自失に陥ったそうだ。
だが、彼の長い旅路も今日で幕を下ろす。
駅舎に放送が流れた。雑音に縁取られたアナウンスが、目的の電車が入ってくることを知らせる。あとは有人の改札を抜けてプラットホームに立つだけだ。わたしはそこまで見送るつもりはなく、駅舎の外で、こうして彼と向かい合っている。
「今日までありがとう」とキリンさんが言った。わたしは頭を振って、楽しかった旨を素直に伝える。事実、彼との生活は新鮮であり、発見の連続だった。眼差しはどれを取っても穏やかで、世界平和とはこんなにも簡単に手に入るのだと錯覚を起こしそうなほど、わたしの身の回りは安寧としていた。これを楽しくないと誰が言えようか。
「お元気で。お勤め、頑張ってくださいね」
「うん。金魚さんも、元気でね」
別れはあっさりしたものだ。
車両がけたたましくレールを擦り、怪物の咆哮を轟かせる。それを合図に「じゃあね」と片手を挙げたキリンさんが、ボストンバッグを肩に担いで駅舎の中へ去って行った。わたしはにこやかに手を振り、外からホームに目がけて駆け込んでいく乗客に流されることなく、ぼうっとそこに佇んだ。
本当に、あっさりしすぎている。
彼らしいな、と小さく噴き出してから駅舎を離れた。なるべく気持ちが明るいうちに、立ち去っておかねばならなかった。腹の中でぐつぐつと、魔女が煮込んでいる不気味な色をした何かが──浅ましい願望、執着。人目憚る女の野心みたいなものの集合体。それらが、今にも吹きこぼれてしまいそう。
革靴が地を蹴る音が急速に近づいてきた。乗り降りしていた乗客の誰かだと信じて疑わないわたしは振り返らなかったけれど、肩が乱暴に掴まれてぎょっとする。指が食い込んで、強い力で体が反転させられた。博物館で何度も見かけた背広が視界を過ぎる。
触れるだけのキスだ。
わたしは目玉を落としそうなくらい見開いて、どちらともつかない震えをくちびる越しに感じ取った。呼吸の仕方を忘れてしまうほど驚愕していると、駅舎から発車のアナウンスが流れてきた。
濃紺の服地が離れていく。
わたしは俯いて、一度だけ、煙草の苦味が残るくちびるをぐっと噛む。
けれどすぐに顔を上げて、ぎこちなく微笑んだ。
「いってらっしゃい」
胸板を押す。とん、と小さな力を加えただけで、彼は後退した。
キリンさんも、泣いているのか笑っているのか分からないぐしゃぐしゃの表情で、
「いってきます」
と応えた。
今度は、駆ける背中が最後尾に乗り込み、発車するまでを見届ける。彼はわたしを見なかった。車両はかたんかたんと機械の靴音を響かせながら、湿ったホームから荒野へと旅立った。
きっとふたりは水の底