雨降りしかば

第一章 芹生小町

 見覚えのない駅のホームに僕は立っていた。
 線路の数や電光掲示板、ホームに設置されたベンチや自動販売機の数など、どれをとっても僕が乗り降りしたことのある駅のどれとも合致しない風景の場所に僕はいた。線路の数は二つ。上り用のものと下り用のものが一本ずつ並んだ線路を二つのホームで挟み込む構造をした駅である。つまりは乗り換えの行われない駅だ。改札口がホームから見えない位置に設置されてあるようで、恐らく階段やエスカレーターを下った先にあるのだろう。周囲を見回しながらそんなことを描写してみたものの、これ以上特筆することの出来ない普通の駅だった。
 とは言ってもやはり見覚えはない。あくまで予想ではあるけれども、僕の家の最寄り駅で運行しているどの電車に乗っても、今自分がいるこの場所に来ることは出来ないのではないか、そんな考えさえも抱いてしまうほどにピンとくるものがなく、人が自分しかいないことだけが異常だった。
 そこまで考えてようやく気が付いた。
 ああ―、これは夢なんだ、と。
 どうしてすぐにその考えに至ることが出来なかったのかは定かではないが、改めて思い返してみると当たり前のことなのである。ここに来るまでの記憶が僕にはない。全く記憶のないままにとある駅のホームに立っている状況など、普通に考えてあり得ない。そう、夢の中などでなければ。こんな明るい時間帯の駅のホームに人間が自分以外一人もいないなんて、ありえていい訳がない。
この駅のホームどころかこの世界には自分一人しか存在していないのではないかとまで思わせてしまう空気がここにはあった。。そんなあまりにも異様な状況に段々と恐怖を感じるようになってきていた。早くこの世界から抜け出したい。この夢から目覚めて日常に戻りたい。しかし、どうすればこの夢は終わるのか。先程から瞼を閉じるという行為を何度も繰り返し行っているのだが、開いても瞳に映る景色は変わらない。ここが駅であるならばいつかは電車がやってくるはずなのだが、ここに着いてからというもの一向にその気配を感じない。電車に乗ることが出来れば状況は変わるかもしれないというのに。
「とりあえず動いてみるか。」
このまま電車を待っているだけではらちが明かない。電車に乗るのは諦めてこの駅から出る方向性で行動を進めよう。
「雨は好き?」
ひとまず線路から離れようと後ろを振り返った瞬間、背後から声が聞こえた。先程まで僕が向いていた方向、線路や反対方向へ進む電車がくるであろうホームがある方向だ。とりあえず声の主を確かめるために僕は、顔だけを声がする方へ向けた。
 すると先程まではそこに誰もいなかったはずなのに、僕がいるホームとは反対側のホームに人影があった。声色から声の主は少女だと予想していたが、見える影はとても小さくて今にも風に吹かれてどこかへ飛んで行ってしまいそうだ。小学校の低学年、いやもしかしたら小学校に入学する前の幼稚園か保育園に通っているであろうと思わせるとても小さな女の子だ。
「雨は好き?」
自分のことを見つめたまま、何の返事もしない僕に対して少女はもう一度問いかけてくる。一言一句変わることはなく、先程と全く同じ言葉で。
「僕は―」
問いかけに答えようと、口を開いたのと同時に視界が一瞬だけ暗闇に飲み込まれる。ほんの一瞬の暗闇から抜けると視界が今度は無機質な白に支配される。今度はどんな風景が見えるのだろうか。しかし、その無機質な白には見覚えがあった。毎日目にする色だ。ああ、これは僕の部屋の天井だ。僕が普段生活をする部屋の天井、僕にとって一日の始まりと終わりの色。
 僕は夢から目覚めた。

 目を覚ましてから十分間くらい天井を見つめていた。天井という真っ白なキャンバスに先程まで見ていた夢の情景を描くためであった。いや、それは嘘だ。ちょっと言ってみたかっただけだ。天井を見つめていたことは確かだが、情景を描いていたのは頭の中だけである。僕の目にプロジェクターの機能は備わっていない。備える予定もない。でも欲しいよね、自分の目にプロジェクターの機能。自分が頭に思い描いている内容を他人にも見せることが出来るなんて素敵だと思う。自分が見た映像を言葉だけであれやこれやと説明する必要がなくなるのだ。百聞は一見に如かず、である。ああ、でもやっぱり駄目だ。頭の中の恥ずかしい考えとかも見られる可能性があるのか。それは耐えられない。何せ僕は思春期真っただ中の中学二年生である。僕の脳内は馬鹿なことからアホなことまで…あんなことからこんなことまで他人に見られた日には僕の人生終わりだ。破滅まで真っ逆さまの直行便である。この妄想だって見られちゃうかもしれないのである。いやあ、馬鹿だなあ、僕ってやつは。馬鹿なことしか考えない。まあ、朝からぼうっと考え事をする原因の一つは夢を見たからなのであるが、もう一つ大きなものがある。それは昨晩にアラームをセットしておいた目覚まし時計が、未だに黙秘を続けていることである。外は雨が降っていて、窓から光が漏れていないから時刻は予想できないが、彼が黙秘を続けている以上、今すぐに布団を飛び出す必要性はないはずだという考えのもとに、僕の脳は瞼以外に行動命令を下してないのである。脳は朝からフル回転、頑張り屋さんだ。もっとまともな労働環境を与えてやりたいものだが、いかんせん勉学に関して高鳴る胸を持ち合わせていない。さて、そろそろ体を動かす命令をお願いしよう。
 当然といえば当然のことなのであるが、脳はすっかり覚醒していたのであれる。ただ、いかんせん体が重たい。なんとか上体を起こして、枕元に置いてある目覚まし時計で現在の時刻を確認する。六時五十七分、セットしておいたアラームの設定時間の三分前である。昨日までの僕なら布団を被って二度寝を始める時刻であるが、今朝においてそれは許されない。もっと正確に言えば今朝からは、である。学生に許された長期休暇の一つである夏休み、それは昨日までで終わってしまったのである。夏休みは良かった。どれだけ夜更かしをしようとも、どれだけ惰眠を貪ろうとも誰も咎めることをしないのである。流石に夕方近くまで寝ていた日には母親に呆れられた。僕も自分で自分に呆れた。面倒な課題は多々あったものの、それらを終えてしまえば、時間に縛られることなく自由な日々を過ごせた夏休み。長い期間だと思っていたけれど、終わってしまえばあっという間の時間であった。遊んで、勉強して、遊んで、勉強して、遊んで、遊んで、遊んで…、気が付いたときには夏休み最終日を迎え、嫌々ながら翌日の登校の準備をしたりなんてしていると、日は沈み、それから夕食を済ませたり、風呂に浸かったりなんてしていると眠らなければいけない時間になっていた。ああ、億劫だ。どうか、あの日々に戻してくれ。来年は中学の三年生になる身とあっては、来年の夏休みに充足感なんて望めたものじゃない。きっと周囲が作り出す受験のムードに、平均的な学力しか備えていない僕のような小市民は流されるがままなのである。それでも、何かの間違いで学力的に身の丈以上の学校に入学することが決まれば、周りの空気に上手く流されてしまう僕の小市民っぷりに恥じらいを覚えながらも、もろ手を挙げて喜ぶことだろう。もっとも国語に関していえば学年でもトップクラス、とまでは行かないものの、それなりの成績を保持し続けているため、高校受験に際して憂慮すべきことはない。ただし、数学と英語は目も当てられない。それが僕の現状である。
 夏休みが終わってしまったことに今さら文句を垂れてしまっても仕方がない。二階にある自室を出て、階段を下って一階に向かう。他人はどうだか知らないが、僕は朝起きて最初に顔を洗う。階段を下りるという行動をする時点で、脳も体もほとんど目覚めているのだが、最後の仕上げとして顔面に冷水を浴びせるのだ。それから本格的に僕の一日が始まる。
「おはよう」
リビングに入って母がお決まりの朝の挨拶をしてきたので「おはよう」と返した。自分から発せられた声が思いのほか、気だるげに思えたのに少し驚いたが、まあそんなものだろう。昨日の夜は結局何時に寝たんだっけな。
 リビングを抜け洗面所へと向かう。洗面台の前に立ち、鏡に映る自分を見る。頭の右側の髪が少しだけ寝癖で跳ねている。手ぐしで直せる程度のものだ。目に隈はないが、目やにが左右どちらともにこびりついている。指先でそっとそれを取り払う。さて、そろそろ顔を洗おう。右手で蛇口を手前に倒し、流れ出す冷水に両掌を差し出す。掌にあふれるくらい水が溜まったら、それを自分の顔全体に当たるようにぶつける。その行動を二、三回繰り返して、タオルで顔を拭う。それからふうっと息をしてリビングに戻る。ここまで済ませることが出来れば、後は簡単だ。朝食を取り、歯を磨いて、着替えを行う。家を出るまでの一連の行動は休日でも平日でも変わらない。長い夏休みを経ているとは言え、問題はない。
「さて、がんばるか」


 僕が暮らすこの町の名前は習柄(ならえ)という。大きく分けると習柄駅を中心とした市街地、多くの人々が暮らす住宅街、工場やダムなどが点在している山間部の三つのエリアで構成されている。市街地といっても下から見上げた時にてっぺんが見えないようなビルが乱立しているわけではなく、せいぜい十階建てがいいところだ。普段利用しているデパートの高さがその程度だったと記憶している。そして、そのデパートよりも高い建物はない。習柄の多くの人々が利用するそのデパートは全国ネットで放送されているテレビ番組で紹介されているような洒落た店はないけれど、不便さのようなものは感じたことがない。衣食住に関する大抵のものはそこで揃えることが出来る。ないものは駅周辺で探すか、電車に乗って隣の市にでもいけばいい。そちらの方がここよりずっと栄えているのだから、手に入れられるものが多いだろう。僕自身は電車に乗ることなんてほとんどないし、乗ったとしても隣の市に行くことは全くと言っていいほどないけれど。
 ここまで述べておいてなんだが、そんな情報はどうでもいい。駅があって、デパートがあって、住宅街があって、山がある。そんな特徴を持った土地なんて探せばいくらでもあるような気がする。ここまでの断片的な情報だけではこの習柄という町は普通の町である。だが、習柄は普通の町ではない。習柄の町を習柄たらしめている特徴が一つだけある。その特徴というのが

 『一年中、雨が止むことなく降り続いている』

ということだ。この習柄では三百六十五日、朝から晩まで雨がずっと降り続いている。外出の際には傘やレインブーツなどの雨具を用意するのは当たり前で、公共の交通機関が非常に発達している。その中で特に発達しているのがバスだ。幼稚園に保育園、小学校に中学校、それぞれ全て自身が保有するバスがあり、朝と夕方にはそれぞれの園名や校名を冠したバスが町中を行き交う姿を見られる。その代わりといってはなんだが自転車やバイクなどを道で目にすることはなく、この町においてそれらの文化は衰退の一途を辿っている。バイクは当然のことだが、僕は自転車に乗ったことがない。というか見たこともない。だから乗ることが出来ない。まあ、乗る必要はないんだけどさ。僕がこの世に生を受けてから、この町で雨が止んだことはなく、自転車があっても使えないのである。
 この止まない雨は二十年ぐらい前からずっと続いているそうなので、僕らのような未成年の世代にとっては自転車は幻のような存在なのだ。不便だと思われるかもしれないし、僕自身もそうなんだろうな、と思う。でも僕はここにいる。この雨の止まない習柄という町で生きている。中崎(なかさき)悠翔(はると)(なかさきはると)、性別は男。現在十三歳の中学二年生。至って普通の子供である。

 家を出てから五分ほど歩くとバス停がある。このバス停には中学校方面へと向かうバスがやってくるのだが、朝の時間帯は行き先が中学校だけに限定されている。中学校よりも先にある山の方面に行く際には朝の九時以降にこのバス停にやってこなければならない。七時と八時台は完全に中学生専用のバスと化しているのである。つまり八時半の始業に遅刻したくなければ、その時間帯にやって来る数本のうちのどれかに乗らなければならないのだ。もしも最後のバスに間に合わなければ、雨の中を自分の足で歩くか自家用車を用いらなければならない。そのおかげか我が習柄中学校では他の町の中学校よりも、遅刻する学生の数が圧倒的に少ないのだと担任の先生が言っていた。しかし、そもそもうちの学校は全体の生徒数自体がよそと比べて少ないので、割合としてはどうなのかは僕の知る所ではない。
 バス停に到着して二分ほどして一台のバスが来た。バスの行き先表示が『習柄中学校』になっていることを一応確認してから、バスに乗り込む。ちなみに乗車運賃は支払う必要がない。見えないところでどんな風にどれだけの金額のお金が動いているか分からないが、学生たちからお金の徴収は行われずとも、バスは滞りなく機能している。乗り込む際に学生証のカードを所定の位置にタッチするだけで、他には何もする必要がない。
 バスに乗り込んで座席の空いているところはないものかとバスの後方に目をやると、進行方向に向かって右側、後ろから三列目の席に見知った顔があった。その人物はバスに乗り込んでくる人を観察していたようで僕とすぐに目が合った。そいつの隣が空いていることを願いながら、そちらに歩みを進めた。
楠巳(くすみ)、おはよう」
「おはよう、久しぶりだね」
「隣、座ってもいいかな?」
「いいよ」
了承を得ることが出来たので、僕は座席に腰を落ち着かせる。このバスの座席の柔らかい感覚も久しぶりだ。
 楠巳柚愛(ゆあ)(くすみゆあ)、(確か、こんな漢字だったはず)というのが、この隣に座る少女の名前である。僕と仲がいい友達(向こうもそう思ってくれてるはず)の一人である。女子バスケットボール部に所属している関係で女子にしては髪が非常に短い。横髪は耳がぎりぎり隠れるほどしかなく、後ろも結ぶことが出来ないほどに短い。習柄中学校の女子は基本的に髪を結んでいるので、楠巳はその点において珍しいと言っていいだろう。身長は僕と比べて大差がなく、やや僕の方が上回っている。僕は背が高い方ではないけれど、楠巳が女子の中では背が高い方に含まれるため、差がほとんどない。僕の背が低いわけではない。彼女が高いのである。また楠巳は細い。ちゃんとご飯を食べているのか、バスケをしていて倒れたりしないのか、そもそもまともに運動できるのか心配になるほどである。本人曰くスタイルがいいというのは女子としては嬉しいけれど、スポーツをやる身としては肉をつけたい、だそうだ。外見の説明はここまでにして、内面の説明をすると楠巳という人間はいいやつである。何を見て、とかどこらへんが、とか聞かれると咄嗟に答えることは何故だかできない。それでもあえて表現するなら、楠巳と一緒にいてとても気持ちが楽になる。本当の友達ってそういうものなんじゃないのかな?理由なんてはっきりなくても一緒にいる。それが友達だ。うーん、違うな。楠巳と仲がいい理由を見つけられないからってかっこつけた言葉で濁してしまった。ごめんよ、楠巳、と心の中で何となく謝っておくことにする。
 もう一度言う、楠巳柚愛はいいやつである。そんな楠巳と僕はいつ頃からかは忘れたけれど友達同士という関係である。僕みたいな偏屈で何を考えているか分かりにくい人間と友好関係を築いてくれているのである。あ、楠巳が何となくいいやつだと思ってしまうのはこういうところに起因しているのかもしれない。まあ、それはさておき。僕は学校に仲のいい人間は数人いるが、一番に思いつくのは楠巳か同じクラスの北外(きたぞと)(きたぞと)という男だろう。楠巳とは家が学校から見ると同じ方角(らしい)なので、登下校を共にすることが多い。それだけでなく校内でもふと気が付けば楠巳と共に行動していることが多い気がする。それほど僕と楠巳は仲がいい。楠巳は僕のことをどんな風に思っているのか実のところ全く知らないが、まあ悪くは思われてはいないと思う。そう思いたい。
「夏休みは楽しかった?」
楠巳が僕に尋ねてきた。これが夏休み明け、友達との初めての会話の始まりであった。
「まあ、それなりに、かな。楠巳は?」
「私は部活ばっかりだったからね、楽しかったけどもう少し遊びたかったな。」
「そっかあ…、バスケ部はすごいよな。」
楠巳が所属する女子バスケ部は校内で最も力が入れられている運動部である。数年前に優秀な指導者が来て、それから大会で優秀な成績を収めるようになった。それを知った校長先生が全校生徒で試合の応援に行こうなどと言い出すほどに校内全体で女子バスケ部を応援する流れが出来ている。ちなみに僕が所属するバドミントン部は部員数が他に比べて少なく、運動部では唯一男女で部が分かれていない。バドミントン部以外の生徒から応援されることなく、のんびりと楽しむ部活動である。夏休み中も一応活動はあっていたが、週に一、二回という趣味みたいな程度だった。
「私もバドミントン部に入れば良かったかな。楽しそう。」
「んー、でも楠巳はバスケ上手いからな。バドミントンなんかやったらもったいないよ。」
「私より上手い人たくさんいるけどなあ。」
「そうなのか?まあ、楠巳にはバドミントンよりバスケの方が似合ってる気がするよ。何となくだけど。」
「そう?言われてみれば確かに中崎はバドミントン部っぽいかもね。」
ほう、バドミントン部っぽいのか僕は。その評価は少し嬉しい。まあ、実際に所属してるからそのイメージは強いんだろうけどさ。僕が楠巳に抱くイメージについても然りである。
 それから僕と楠巳は学校に着くまで他愛のない話をし続けた。夏休みの課題の話、今日から学校生活が始まるという話、夏休みにあった面白かったテレビ番組の話など、どれもそれなりの盛り上がりを見せたと思う。
「あ、学校見えてきたね。」
次は何の話をしようかなと考え始めた時に学校の校門が見えて、楠巳との会話は終わりを迎えた。
 車内の窓から見える校門や校舎は夏休み前や夏休みに部活動をした時と何ら変わった様子はなく、いつも通り雨に濡れたままでたたずんでいた。バスは校門をくぐり抜けると学校の昇降口までゆっくりと進んでいく。それから昇降口前で停車して、乗客である僕たち学生を降ろすのだ。昇降口前には屋根が付いたスペースがあり、バス一台分よりやや大きく作られているため、雨に濡れることなく校内まで入ることが出来る。まあ、そもそも僕たちが着ている制服は防水だか撥水だかの加工が施されているし、僕が今履いている学校指定の外靴も黒いビニールみたいな素材で作られていて、雨に濡れることを悩むことはない。それに加えての昇降口前の屋根付きのバス停車場である。至れり尽くせりの恵まれた環境に僕らはいるらしい。いるらしい、というのは昔はそんなことはなく、これも担任から聞いた話だからである。自分の学生時代は雨の日だと制服やら靴やらがびしょびしょに濡れてしまって憂鬱になったもんだ、などと昔語りをしてたっけな。そんな話を今この町で暮らす僕らにされても何と言っていいかわからない。まあ、僕らは恵まれているんだな、と心のどこかで思ったりしなくもないけれど。そうそう、校内に入ってすぐの所には、開けられた穴に傘を差し込めば濡れた傘の水気を吸い取ってくれる便利なもの(正式名称は不明)も複数あるので、これまた恵まれた環境にいるらしいことを実感させてくれる。
 昇降口にはわらわらと人がうごめいていて、部活に来ていた頃とは違う雰囲気、新しい学期が始まる空気を少し感じることが出来た。この昇降口では三学年全ての生徒が靴の履き替えを行うため、他の多くの生徒と登校時刻が重なってしまうと、下駄箱の前でしばらく順番待ちをしなければいけない状況になる。特に学校行の最終バスに乗って来ると昇降口が人で溢れ返り、前が見えなくなるほどだ。しかし、今朝は早起きしたおかげで、少し早い時間帯のバスに乗ることが出来たので、昇降口にいる学生の数はまばらである。僕は二年二組の、楠巳は三組の自分の上靴が入った下駄箱に向かい、履いている外靴と履き替えた。
 こういう時にいつも思うことなのだが、夏休みのように長い間、下駄箱を利用していなくても(僕の場合、たまに部活があるとき利用していたが)、自分の下駄箱がある位置はしっかり覚えているものだなと。前にこの下駄箱を利用した日から二週間ほど空いている気がする。というか改めて思うと、それほど僕が所属するバドミントン部は活動していない事実は少し嘆かわしく思う。バスケ部と比べるとふぬけている気がする…。まあ、うちの部はそんなものか。小学生低学年の頃、長期間学校に来てなくても下駄箱の位置を記憶している僕は記憶力があるってことなのかなと考えたことがあった。しかし、周りの人間も迷うことなく自分の下駄箱に向かうのを見て、ちょっぴり残念な思いをしたことがあった。記憶力があることには違いはないのだろうが、決して特別な存在ではないんだなと。
 そんなくだらないことを思い出していると楠巳がこちらをじっと見つめていた。靴を履き替えてもなお次の行動に移ろうとしない僕を見て「教室に行かないの?」とでも言いたげな目をしていた。考え事をしてぼーっとしてしまうのは僕の悪い癖だ。それも比較的中身のない内容で。今朝もやってたしな。
「教室に行かないの?」
ん、予想していたセリフと一言一句変わらない言葉が飛んできた。
「行くよ」
と答えてゆっくり歩きだす。もしかしたら僕は人の心が読める能力を持った特別な人間なのかもしれない。…なんてね。目は口程に物を言うという言葉を実際に体験したというだけの話だ。僕はおしなべて普通の人間なのさ。


 習柄中学校は三学年三クラスずつの計九クラスが存在している。昇降口を通り抜けてすぐ、つまり一階部分には三年生の三つの教室が並んでいる。順番は昇降口に近い方から一組、二組、三組となっている。その三つの教室の一つ真上の階には二年生の教室が同じように一組、二組、三組と並んでいる。更にその一つ上の階についても同様である。上級生になればなるほど階段を上り下りする数が減り、登下校が楽になっていくのである。階段を上り下りするのはそこまで苦というほどでもないのだが、正直階段を使わなくてもいい三年生がうらやましい。このままいけば半年後にはその立場になれるとはいえ、意識すると羨望の気持ちが強くなる。手に届きそうになってきたからこそそういう気持ちが強くなってきたのかもしれない。でも。三年生か。最上級生であり受験生、あんまりなりたくないかもな。もう少し気楽に過ごしたいよなあ、本当。
 二階への階段を上りきって約二か月ぶりに自分の教室へと向かう。僕は二組で楠巳は三組なので、二組の教室の前に着いて楠巳と別れた。「またね」と小さく言った楠巳に手を軽く振り、そっと笑顔を見せることで楠巳への返事とすることにした。楠巳の後ろ姿は何だかりりしく見えて、数秒の間だったけど時間を忘れて見つめていた。見目麗しく、優れた人間性を持つ彼女と僕はなぜ友達なのだろうか。
 僕が教室に入ったのは始業開始二十七分前だった。教室の中にはまだ生徒が少ししかおらず、数えてみると僕以外には六人しかいなかった。僕は自分の席である今しがた通ってきた廊下側とは反対側、グラウンドに面した窓側から数えて二列目の一番後ろの位置に向かった。ちなみに教室の机は外側の二列は四席、中央の二列は五席の計二十六席分ある。そこへ向かう途中ですれ違うクラスの面々に「よう」とか「久しぶり」とか簡単な挨拶をした。まだここにいる数人だけではあるが、みんな元気そうだし、何というか変わっている奴がいなくて良かった。みんな夏休み前の頃と変わらずここにいる。二か月くらいでそんなに変わらないか。僕だけが考えることかもしれないが、こういう時に他人には変わっていてほしくない。ケガや体調不良なんかはもちろんのこと、髪を切るなどのイメージチェンジも何となく嫌だ。うーん、何でだろう。理由はあるとは思うが上手く言葉に出来ない。
 自分の席に座って右隣の席に目をやる。早い時間帯であるから、その席の主はまだこの教室にいない。普段から早く来るような人物ではないので特に驚きはない。いつも通りの日常的なことである。その席の主は北外達馬という。楠巳と同じく昔から馴染みのある人物で学校の中で最も仲の良い男友達である。ちなみに女友達ではもちろん楠巳だ。北外はちょっと抜けた所があるが、常に全力で生きていて憎めないやつ。運動神経が抜群で、特に僕も所属しているバドミントン部では部内でトップの実力を持っていて、試合で負けたのを見たことがない。僕の実力はというと目も当てられない、とまではいかないものの大変下手くそである。ただ羽根突きみたいにポーンとシャトルを返すことに楽しさを感じ、その現状に満足している。それで精一杯なのかもしれない。スマッシュなどの技を習得する日はいつになるやら。
 そんな北外と教室で話すことが学校生活の基本となっているので、彼がいないと僕は一人で過ごすことが多い。他のクラスメイトと話すことがないわけではないが、僕から話しかけることはない。持参した本を読んだり、その日の授業の予習として教科書をパラパラとめくったりして休み時間を過ごしている。しかし、今日は夏休み明けで気が抜けていたのか、読みたい本を持ってくるのを忘れたし、授業がないから予習などない。北外がすぐに来てくれれば良いのだが、いつ来るか分からない。
 さて、何をしようかと思いを巡らせようとした時、ふとバスの中での楠巳との会話を思い出した。


「夏休みは楽しかった?」

「まあ、それなりに、かな。楠巳は?」


 それは楠巳との最初の会話であった。僕は楠巳の「楽しかった?」という問いに対して「それなりに」と返した。正直なところ夏休みは楽しかった。でも、夏休みはちゃんと楽しかったはずなのに僕はそれなりに、と言ってしまった。彼女に対して嘘をついたのである。なぜ、そんな嘘を言ってしまったのかというと、それは僕の変な性格が出てしまったせいなのである。
 僕という人間は他人と価値観が違ってしまうことが怖い。人一倍怖い。僕は夏休みを満足に楽しんだが、他人からすると僕の夏休みはつまらないものだったのかもしれない、などと考える。僕が感じたものを他人が全く同じように感じてくれるとは限らないのである。そこで、「それなりに」という表現を加えることで、「楽しかったけどまだまだ楽しくできた」とか、「やりたいことがあったんだ」とかいう思いを暗に含ませて、僕は僕の感じたことの全てを肯定しない。僕が感じた夏休みの楽しかったことの全てを否定されるようなことがあってはいけない。だから「それなりに」とか言って逃げ道を作る。もしも、僕の感じた楽しかった夏休みを誰かに否定されたなら、「だから、それなりに楽しかった、なんだよ」というのである。「君が否定したように僕も思う。その点で満足いかなかったからそれなりという表現をしたのだ」と。
 他人には少し分かりづらい話なのかもしれない。僕の周りの人間―楠巳や北外はこんな卑屈で屈折した人間ではないように思う。だから多分彼らに話しても理解されないと思う。二人にこんな話をして、変に思われたくない。嫌われたりしたくない。
 かなり厄介で面倒なこの性格は日常生活で頻繁に顔をのぞかせる。映画とかドラマの感想、食べ物の味などを友人などと話す際にも、この性格を発揮するのである。

「面白い」と思った映画を「つまらない」と言われるのが怖い。

だから「それなりに面白い」と言い、君と同じように「つまらない」と思ったりもした、と同調する。

「おいしい」と思った食事を「おいしくない」と言われるのが怖い。

 だから「それなりにおいしい」と言い、君と同じように「おいしくない」と思ったものもあった、と真似をする。

 僕には昔からこういう所がある。分かってはいてもやってしまう。自分に嘘をついて他人に合わせる。きっと楠巳や北外はこんなことしない。彼らは自分自身の意見や主義主張を確固としたものとして常に持っているように思う。自分が感じたことを素直に出して、周りの意見や空気に惑わされない。無意識の内に僕は二人のそういう部分に惹かれているのかもしれない。
 楠巳や北外がこんな僕の内面を知ったら僕のことを嫌いになるかもしれない。嫌われたくない。特に楠巳には嫌われたくない。



「なあ、うちのクラスに転校生が来るっぽいぞ」
クラスメイトの話し声が聞こえてきたので、そこで考えるのを一端止めて、声がする方に耳を傾けた。
「さっき、見覚えのない女子とうちの担任が職員室前で何か話してるの見たんだよ」
ふむ、確かにその状況から考えられるのは転校生に違いない。転校生が来る。それも女子。この二年二組は男子が十三人、女子が十二人の計二十五人で構成されているクラスなので、その女子がうちのクラスに来るとなると、男女同数十三人の計二十六人になる。うむ、バランスがいい。転校生が来ると知って、最初にそんなことを思うのはおかしいとは思うが、その時はそう思った。変な奴だよな僕。
 それにしても転校生とは珍しいものだ。この雨が降り続く習柄町は非常に暮らしにくい町である。昔から住んでいる、もしくは引っ越してきても住むのに慣れてしまえばそれほど困ることもないが、この町にはないもの、この町では不可能なことを考え出せば枚挙に暇がない。この町にいては手に入らないもの、叶えることが出来ないことを求めてこの町を去る人間は多い。僕自身はこの町から離れようと思ったことは特にない。僕の両親がこの町に関して文句など言っていた記憶はないので、両親もこの町から離れる気はないのだと思う。誰が言っていたか覚えていないが、この町で暮らす人々は雨が止まなくなる以前からいて離れない人や仕事場が習柄や習柄の近辺にある人、または土地の安さなどを求める人なんかがいるそうである。
 そういう訳でこの習柄に引っ越してくる人の数ははっきり言って少ない。つまり転校生はとても珍しいのである。新しく来る転校生は一体どんな理由でこの町に来たのだろうか。個人のプライバシーに関わりそうなことなのでわざわざ本人に尋ねるようなことはしないと思う。そもそも会話をする機会があるかも分からない。前述のとおり僕から人に話しかけることは基本的にないし、ましてや僕は異性と接することが得意ではない。楠巳は極めて例外である。転校生は女子とのことなので、なおさら話しかけるようなことはない。転校生から話しかけられるようなことでもない限り、恐らく僕はその転校生と会話をすることはないだろうと思う。この時はそう思っていた。。
 とまあ、そんなこんなで考え事をしていると始業開始一分前になっていた。しかし、北外の姿はまだなかった。北外以外のクラスメイトは全員既に教室内にいるように見受けられる。この時間になるとバスを利用して登校する学生は教室に入っていなければおかしい。まだ来ていない北外はバスに乗り遅れて自らの足で登校しているか、バスには上手く乗れたが、学校に到着してから校内のどこかしらで油を売っているかである。通常なら体調不良などによる欠席なんかも考えられるが、僕の記憶が正しければ北外は風邪を引いたことがないやつなので、それはあり得ない。僕の予想としては正解はバスに乗り遅れた、だと思う。というかそっちのほうが面白い。夏休み明け早々に遅刻する奴を見たい。北外はどんな風に教室に入ってくるのだろう。そしてどんな風に担任に怒られるのだろう。それを考えただけで思わず笑みがこぼれた。さて、北外はいつここに到着するのか。時計を見ると動く秒針が間もなくチャイムが鳴る時刻を示そうとしていた、その瞬間―、

ガラアッ

「ギリギリセーフッ!」

教室の扉が勢いよく開け放たれた音と、教室に入ってきた男の声が一気に教室中に響き渡り、その後、一瞬の沈黙が訪れ

キーンコーンカーンコーン

といつもと変わることのないチャイムの音が鳴り響いた。教室に入ってきた男とはもちろん北外達馬、その人である。髪の毛や制服、傘にそれぞれに水滴を滴らせながら、一歩一歩教室の奥へと進んでいく。傘を使った形跡があるのに髪などが濡れているのは走って登校してきて傘があまり意味をなさなかったのだろうと思った。そして学校に到着してからも傘の水気をとる余裕もないほどに急いでここまでやってきたのだろう。
「よう、悠翔」
北外は僕のことを下の名前の悠翔と呼ぶ。
「遅刻するかと思ったぞ、北外」
対して僕は北外のことを苗字で呼ぶ。仲が良いとはいえ下の名前で呼ぶのってなんかくすぐったいじゃん。
「沼っちがまだ来てなくて助かったぜ。いつもならもう教室にいる時間なんだけどな」
沼っちとは我らが二年二組を受け持つ教師、沼隈渉のことである。生徒からは親しみを込めて沼っちという愛称で呼ばれていることが多い。僕は呼んでいない。なんか恥ずかしいじゃん。
「多分、うちに転校生来るらしいからその対応とかでまだ来てないんじゃないかな?」
「なに、転校生が来るのか!それは珍しい!」
と北外は驚きの表情を見せながら
「ならその転校生に感謝しなきゃな。おかげで遅刻がばれ…いや、遅刻ギリギリに駆け込んだことが沼っちにばれずに済んだわけだ」
「まあ、そういうことになるな」
転校生への感謝を示すというのは面白いと思った。北外のこういう発想をするところは一緒にいて退屈しないものだ。それに「ギリギリセーフ」と叫んでおきながら、遅刻したかもという疑念が北外の中に残っているらしいのが感じられたのも面白かった。ただ、件の転校生のおかげで夏休み明け初日に遅刻という不名誉を見事免れそうなので北外は安堵しているようだった。遅刻する姿を見たかった僕としてはちょっぴり残念だったけれどね。まあ、友達の不幸を願うのはどうかと思うので胸に秘めておくことにした。ひねくれてるなあ、僕ってやつは。
「みんなおはよう、席についてくれー」
開きっぱなしになっていた扉から、沼隈渉先生が挨拶と共に教室に入ってきた。ちなみに担当科目は国語、三十代独身である。沼隈先生を見てクラスのみんなはどこか落ち着かない様子でソワソワしていた。みんな転校生の存在が気になっていたのだろう。なぜ分かったかって?かくいう僕も同じだったからさ。隣の北外も落ち着かない様子に見えるが、遅刻せずに済んだ事実にまだ浮かれているのが治まってないみたいだ。まあ、北外も転校生に全く関心がないとは思わなかったが。
「みんな揃っているようで何よりだ。今日は体育館で始業式、それが終わってこの教室に帰ってきてからホームルームだ。」
始業式が始まのはこの後すぐなので、先生は挨拶を少なくして、今日の日程の確認をした。休み明けなんてやることいつもと同じようなものだから確認いらないとは思うけど、しっかりやるんだなあと思った。
「…で、そのホームルームの時にこれから一緒に過ごす新しい仲間を紹介するから温かく迎えてくれ。」
先生が最後まで言い終わらないう内にクラス中から歓声が沸き上がった。新しい仲間、という単語が聞こえてきた瞬間にみんな先生の話を聴かなくなったように思う。誰かは分からないが、歓声に交じって口笛の音も聞こえてきて、ちょっとしたお祭り騒ぎになってしまっていた。ハイタッチとかする必要ないだろうに。転校生、みんなにとってそういう存在なんだな。僕もはしゃぎたい気持ちがなかった訳ではないけれど、僕はそういう人間じゃないからな。ここで騒いだら僕のアイデンティティが崩壊してしまう。
 先生は落ち着いた様子を見せてはいるが、口元が綻んでいるのを僕は見逃さなかった。先生も嬉しいんだな、なんて。
「まあまあ。みんな落ち着け。落ち着けって言っても落ち着かないかもしれないが落ち着け。まずは始業式だ。いつまでも夏休み気分でいないで、切り替えろよ。」
とみんなに告げたところでようやく騒ぎは落ち着きを見せ始めた。近くの人同士でヒソヒソ話す程度で、口笛やハイタッチはもうない。指示をすぐに実行できるなんて優秀な生徒たちであった。もしくは先生が優秀なのか。生徒たちが落ち着いたのを確認してから先生が「ところで」と切り出して喋り始めた。
「教室の入口付近が濡れてたんだが…誰か知らないか?」
その先生の言葉にクラスのみんなの視線が一点に集まる。僕の右隣の座席に位置する少年、北外達馬にみんな注目する。当の本人は先生の話を聴いておらず、眠たそうに非常に大きなあくびをしていた。
「北外…お前か?」
「ふぁあ…なにが?」
「教室の入口に水滴をまき散らしたのはお前だな。」
「…え、いや違いますよ。なんで俺疑われてるんですか、証拠とかないでしょうに。」
平然と返答してみせる北外。僕の目が見間違えてなければ、彼の目は泳いでいたのだが…。
「証拠も何もお前びしょびしょだろうが。さては、また遅刻したなお前。」
「いやいや、遅刻はしてないですって!ぎりぎり間に合いましたって!…ん?」
北外の表情は固まり、血の気が引いているように見えた。やってしまった、という感じだったろうか。全身が濡れているという事実はどうしても隠しようがないし、「遅刻は」と言ってしまったものだから、それ以外の犯行は認めてしまうことになる。なぜ一回否定したのか、北外。嘘ついてもすぐにばれるだろうに。
「さ、みんな廊下に出て体育館に行こう。ただし北外はその前に俺の所に来い。」
残念だったな北外。こっちから見えなくてもお天道様は見てるってことなのかもな。お天道様、なんてこの町で言うのはおかしいか。


 始業式は沼隈先生の言った通り体育館で行われた。体育館は教室がある校舎から昇降口とはほぼ点対称の位置にある渡り廊下から特別教室などがある棟を通り抜けた先にある。バスケットボールやバドミントンなどに利用するコートが二面分の大きさ、それとステージがある。そこに全校生徒と先生たちが集まり、教頭先生司会進行のもとに式は行われた。校長先生、生活指導担当の先生、生徒会長の三人が交替で壇上に上がり、それぞれ長い長い話を聴かせてくれた。あまりにも長い話だったので、校長先生と生活指導担当の先生の話は何を一番に伝えたいのか分からず、内容を思い出そうとしても思い出すことが出来ない。どうせいつまでも休み気分でいるな、とかそういう類の話だと思う。休み明けなんかそればかりだ。中学二年生にしてその手の話は正直、聞き飽きた。これから何度聞くことになるのだろうか。まあ、必要なことではあるんだろうけどさ。平和主義で、日々平常心を心がけている僕には関係ないのである。授業期間中でも休み中でも浮ついた態度とったり、はしゃいだりすることはないので安心してください先生方。それから生徒会長の話はというと、本人とちょっとした顔見知りのためか自然と話を聞いていて内容を少し覚えている。
「夏休み明けでも変わらずあなたたちの元気な姿を目にすることが出来て感無量だ」
とか
「私の生徒会長の任期の終わりを告げる足音が聞こえてくる気がして寂しいものです」
だとか言っていた。壇上に上がる姿や話をする時の身振り手振りがとても物腰柔らかな立ち居振る舞いで、話す内容も美しく非常に丁寧な言葉遣いをするものだから、生徒会長はとても人気があるらしい。生徒だけならまだしも先生たちも虜になっているという話を聞く。更にはこういう正式な場だけでなく、日常生活でも同じように中学生のそれとは思えない大人の雰囲気をまとってみせるものだからファンは増える一方なのである。女子の間では生徒会長に心を射抜かれてファンクラブなるものが結成されているだとかいう眉唾物の話さえ耳にする。僕自身、会長と接したことは何度かあるが、僕がひねくれているせいなのか、他の人たちみたいに惹かれるようなことはない。丁寧な話し方とか日常会話で用いられてると正直面倒くさい。僕の方が後輩なんだから敬語とか使わずにフランクに話してくれればいいのに。全教科のテストで満点を取ったことがあるとか、学校に通う生徒の名前と顔を一致させて全員分記憶しているだとかいう噂も流れるほど生徒会長は傑出している。噂の真偽はどうだか知らないが。
 そんな生徒会長の話が終わると、式のプログラムは校歌斉唱に移った。斉唱、とはいうものの全員歌っていないのが事実である。人前で歌うことの恥ずかしさ、真面目に式に取り組んでいることへの馬鹿らしさのようなもの、早く式が終わってほしいという願い、生徒たちの胸中にあるものは様々であり、それぞれの理由で体育館全体に校歌を歌う声が響き渡るようなことはない。耳をすませば…は言い過ぎか。けれど聞こえてくる歌声は非常に小さかった。確実に斉唱には程足りないほどの声量であった。僕は歌詞がうろ覚えと言うことに加えて、歌おうとしない周囲の空気に合わせて、歌わなかったり小声で歌ったりしてその場を乗り切った。始業式というものははっきり言って苦手である。
 始業式を終えてから、僕は北外と会話をしながら教室に帰還することにした。式が始まる前に沼隈先生に怒られた北外はその愚痴をひたすらこぼし、それに対して僕が相槌を打って会話を成り立たせた。ちなみに北外は寝坊して目的のバスに乗り遅れたため、自らの足のみで登校することを選び、あのような結果になったのだそうだ。ひとしきり愚痴をこぼし終えると、教室に到着したのでそこからは教室中のみんなが話題に取り上げていた転校生について僕たちも話すことにした。
「転校生って女子って話だったよな?」
「そうらしいね。どんな子だろう」
「かわいいといいけどなあ!」
僕は外見ではなく、内面について気になったのだが北外には伝わらなかった。まあ、伝わらないか。
「…まあ、かわいいほうがいいよね。それより話しやすい感じの人だといいなあ」
「確かに。悠翔の言う通りそれも大事だな」
北外は僕のことを下の名前で呼ぶ。そもそも思い返してみると北外から「中崎」と苗字で呼ばれた記憶がない。北外は僕と違って誰とでも仲良く出来るようなやつなので友達のことを下の名前で呼ぶことが多い気がする。いや、下の名前で呼ぶことが誰とでも仲良くなるための秘訣なのかもしれない。そう考えると、僕はいつも一緒にいる北外のことですら苗字で呼んでいるので、色んな奴と仲良くなることができないのだ、という仮説が立てられる。ただし、その仮説を実証する予定は今のところない。僕は別に誰とでも仲良くすることを強く望んでいるわけではないのだ。色んな友達がいっぱいいることよりも、数が少なくてもいいから一生付き合えるような友達をつくることが僕の密かな決め事であったりする。つまりは広く浅くの関係より、狭く深くの関係である。量より質という話である。友達に対して質とか誤解しか招きそうにない表現なので口には決して出さない。ここだけにしておこう。十三歳、中学二年生にして他人の選り好みとはとことんひねくれ者である。こんな奴が僕の周りにいたら、友人関係を築くなんてこっちから願い下げである。
「さあ、ホームルーム始めるぞー」
先生が教室に帰ってきた。転校生は一緒ではないようだ。教室の外で待機でもしているのかな?
「あれ?転校生いないぞ」
北外のその呟きに呼応するように、教室のあちこちからざわざわと声が聞こえ始めた。クラスのみんなも僕や北外と同じことを思っているようだった。当然か。そんな様子を感じ取ったであろう沼隈先生がニヤニヤし始める。
「みんな落ち着け…ってさっきも注意したっけ。気になってる転校生はこれから紹介するからな」
その発言を聞いてみんなの高揚感と緊張感が一気に高まる。それから視線が先生の顔と教室前方の入口とを交互に行き渡る。
「さっきも言ったが、温かく迎え入れてやるんだぞ」
先生はそう言って入口の扉の方へ向かった。扉に手をかけ、横にスライドさせて自分の顔が出る分だけの隙間を扉を開いて何かをし始めた。恐らく転校生と話をしていたのだろう。内容はもう教室に呼んでもいいかの確認だったのかな?
 少ししてから先生の顔が教室に戻ってきて、それから扉を大きく開ける。そうして大きく開け放たれた扉の先から少女がゆっくりと入ってきた。その少女の身長はとても低く、背中の中腹辺りまで長く伸びた髪が印象的だった。あとは彼女の顔の左側の髪が一部分、編み込まれていたのがいいなと思った。髪の色は真っ黒かと思って見ていると、光の角度によって少し明るい茶色に見えることがあるようだ。そんな髪と雪のように白く見える肌とのコントラストが印象的だった。きれいだと思った。いや、美しいといった方が適切なのかもしれない。僕の席からはその時は遠目なので顔の造りまでははっきりと分からなかったが、全体的な印象としては人形のようかわいらしく、触れてしまえば壊れてしまいそう(は言い過ぎか?)なほどに儚げな少女であった。それが僕の彼女に対する第一印象だった。
 僕は思わず目を奪われていた…気がする。いくら僕がひねくれ者とはいえ、転校生が初めて登校した時に、その転校生を見ないままでいられるほどのひねくれ者ではなかったということだ。なんて言ってみるけど、彼女に見とれていたことは事実であった。今思い返してみると、転校生の登場にみんなざわついていたような気がしないでもないが、僕の耳には入っていなかった。黒板前へと歩み寄る姿、足を止めて僕らの方に顔を向ける姿、緊張しているのか小さく息を吐く姿、一つ一つの所作から何故だか目が離せなくなっていた。
「さあ、自己紹介してくれ」
先生に促され転校生の少女はゆっくりと唇を動かし始める。先生は少女に声をかけた後、少女の名前を書くために、黒板へと向かい白いチョークを手にする。
芹生(せりう)(せりう)小町です。よろしくお願いします。」
小さな声だったけど、何とか聴き取れた。「芹生」という苗字は初めて聞くものだった。珍しい名前だと思う。自己紹介を終えた彼女は先生から案内された席に向かった。席の位置は僕の席から見て、右斜め後ろである。北外の後ろでもある
。彼女…芹生さんが席に着くまでの間、僕はずっと彼女から目を離すことが出来なかった。
 芹生さんの紹介が終わってからは先生がひたすら話すだけのホームルームだった。二学期の今後の予定―定期試験の日程や文化祭、生徒会選挙などの大きな行事、また明日からの細かな動きとして、学校中の掃除をするらしい。明日まで授業は行われないようなので気楽な学校生活である。


 「北外、濡れた廊下ちゃんときれいにしとけよ」
ホームルームが終わって帰宅をしようと帰り支度をしていたところに、沼隈先生が教室後方の僕たちの席までわざわざ声をかけに来た。先生が最初こちらに向かってきた時は何事かと少し身構えたが、話を聞いてみれば何のことはない。今朝の登校時に北外が起こした過ちを彼自身に償わせようというのだ。始業式早々から不幸だなあ、と思いながら北外に別れを告げて教室を後にしようとした。しようとしたができなかった。
「一人じゃ大変だろうから、手伝ってやれ中崎」
そう言われて渋々承諾し、僕も残ることになったのだった。まったく…不幸だなあ。そもそも、北外が残るように言われた時点で、友達のために残ろうという発想が一瞬も生まれなかった僕は非常に薄情な奴ではある。微塵でも頭によぎっていれば、僕も残るように言われた瞬間に不幸だな、なんて感情は生まれなかったかもしれないのである。とことん僕は駄目な奴なのである。まあ、言い訳をさせてもらえるなら、僕と北外は帰る方向が真逆なので残っていたところで、帰宅時間を共に過ごすということはないという事実がある。所詮、言い訳程度のみじめな理由であることは、僕自身当然分かってはいる。早く帰りたい理由がある訳でもないし、北外を待ちたくない理由もない。ただ、何となく帰ろうとした矢先に頼みごとをされて、これからの予定を崩された、思い描いていた帰宅へのビジョンが変えられたということが何となく不愉快だったのだ。
「悪いな、俺のせいで」
そんな風なことを考えていたのが顔に出ていたのかは分からなかったが、廊下の掃除を始めてから北外がそう言って僕に詫びを入れてきた。
「ま、しょうがないことだよ」
これも本心である。居残りを命じられた瞬間は、これからの行動に茶々を入れられた気がして不愉快に感じたのも事実であるが、そんな気持ちはすぐにどこかへ行っていたのであった。一人で帰ろうとしかけたのも事実ではある。けれど、北外という数少ない友人のために残ることもやぶさかじゃなかったりする僕もいるのである。こんなこともあるよな。それが掃除を始めた時の僕の素直な感情だった。
「そっか、ありがとな」
そう言って北外は気恥ずかしそうに少し笑ってみせたのだった。
 居残り掃除は、三十分ほどで終えることが出来た。お互い愚痴を言い合わずに黙々と掃除に取り掛かっていれば、もう少し早く終わっていたかもしれなかったが、後悔しても仕方がないことだ。掃除に使った雑巾などの道具を片付けてから、僕たち以外、誰もいない二年二組の教室を後にした。教室を出てから、隣の一組の横を通りながら昇降口に向かった。その際、横目で一組の教室を見たが当然のようにそこにも誰も残っていなかった。少なくともこの階には僕たち二人しか人間がいないようで、とても静かな空間だった。
 一階に着いてから、出入口の方を見るとそこに見覚えのある人影があった。後ろ姿でも分かる華奢な体、背中の中腹まで伸びた黒い髪、時折見える小さくて白い肌の横顔、今日うちのクラスに来た転校生、芹生小町だった。彼女はバスが来るのを待つため、降車場付近できょろきょろと辺りを見回していた。しかし、待ってもバスは来ない。始業式の日のように昼頃に学校が終わる日は、バスが運行するのは登校時刻に合わせた時間帯のみであり、帰宅時間にバスが来ることはない。通常通り授業が行われる期間になれば、帰宅時間もバスは運行するのだが彼女はそれを知らなかったのだ。
「あの子バス来ないの知らねえみたいだな」
北外も気づいた。彼女の周りには誰もおらず、この昇降口には出口の先に芹生さんが一人、昇降口から下駄箱を抜けた階段の所に僕ら二人がいるだけだった。この状況で芹生さんを助けられそうなのは僕と北外しかいない、という訳である。さて、どうしたものか。はっきり言ってほぼ初対面の女子に話しかける度胸が僕にはなかった。北外にはあるかもしれないが、状況を把握してからすぐに動こうとしない辺り、彼にも何かしらの事情があるようだった。いや、僕に関しては事情、という単語を用いてしまうほど大げさなものではなかったんだけど。
「二人とも何してんの?」
そんな僕たちに背後から声をかける人物がいた。
「まだ学校にいたんだね、楠巳」
その人物は楠巳柚愛だった。
「部活のミーティングがあってさ。あ、北外久しぶり」
学校に残っていた理由を端的に説明してくれた。そして久しぶりに会う友人に挨拶も忘れずに済ませた。ミーティングとはいえ長い休み明けの初日から部活動があるなんて大変だな。あ、でもバスケ部って夏休みも活動日多かったみたいだから本人にしてみればどうってことないのかもしれない。
「おう、久しぶり」
「で、何してんの?」
「あの転校生の子がさ、今日は帰りのバス来ないの知らないみたいんだよね」
僕が楠巳に現在置かれている状況を説明した。もちろん(って言っちゃダメな気はする)芹生さんに話しかけることが出来ずに立ちすくんでいることは伝えずに。度胸がないとかいう理由で話しかけられないなんて知られたらみっともないじゃんか。
「で、話しかける勇気がなくて、困ってるところに私が来た、って感じかな?」
隠しても意味はなかった。それどころか隠そうとしたことも楠巳にばれた可能性があるので、余計にみっともなかった。
「いやさ、転校初日の女子にいきなり話しかけられるほどの度胸?そういうのねぇよ」
楠巳に対してすぐさま北外が弁明を入れる。それに僕も乗っかって頷くことにした。これで僕と北外は同志である。僕に関していえば転校初日だろうが転校初日じゃなかろうが女子に自分から話しかけること出来ないというのはこの際置いておいて。
「また俺って体でかいからさ。あの子怖がらせちゃうかもしれないかもしれないだろ?その点、悠翔なら大丈夫だと思ったんだけど…。こいつチキンだからなあ」
北外め、言ってくれるじゃないか。いや、全くもってその通りなんだけどさ。どうやら味方だと思っていたのは僕だけだったようだ。
「うん、僕じゃあ無理だ」
何の反応もしないわけにはいかないので同意をしておいた。抗議をしない辺りが僕が駄目な奴ということの証である。
「しょうがないなあ…、私が行ってくるよ」
楠巳がため息をつきながら僕らの横を通り抜けて、芹生さんのもとまで小走りで向かって行った。僕、楠巳に嫌われたかなあ…。楠巳に声をかけられた瞬間、芹生さんは少し驚いた様子を見せたが、楠巳と話していくうちに警戒心が薄れていくのが遠目からでも分かった。二人はそれから何度か言葉を交わしたように見せた後、ふいに二人同時に僕らの方を見た。それから楠巳は手招きしてして、こちらにくるようにと促してきた。さっきの一件もあり、楠巳は虫の居所が悪そうに見えたので、僕らは急いで二人のもとまで走った。
「何でしょうか、楠巳様」
北外が楠巳を咄嗟に様付けで呼ぶ。ご機嫌取りなのか、それともただ単にふざけてみせているのか。
「いや、様とかやめて」
楠巳のお気には召さなかったらしい。危ない危ない、ちょっと前の反省も忘れて北外に乗っかって僕もふざけてしまう所だった。「何なりとお申し付けを」とか言っちゃうところだった。これ以上楠巳に嫌われるようなことは避けねばならないというのに。
 僕たち男子二人が登場したことになのか、今の北外と楠巳のやり取りを見てなのか、それともあるいはその両方か。芹生さんはすっかり怯えてしまっていて、体の半分が楠巳の背後に隠れる形になっている。
「えっと…、私の後ろに隠れなくても大丈夫だよ。芹生ちゃん」
「そう…?」
楠巳に少し背中を押されながら、芹生さんが姿を見せた。こうして近くで見ると芹生さんはやっぱり小柄だ。横に楠巳がいるせいもあるかもしれないけれど、小学生と言われても納得するくらいには小柄で細身で童顔である。
「なにじっと見つめてんの中崎」
「あ、いや何でもない」
自分でも気づかぬうちに前のめりになる勢いで芹生さんのことを見つめていた。そりゃあ楠巳に注意されるよな。せっかく出てきた芹生さんをまた怖がらせて楠巳の陰に隠れさせてしまう所だった。
「ごめん、芹生さん」
「…私の名前知ってるんですか?」
そう言われて気が付いた。僕の方は自分のクラスに来た転校生である芹生さんのことを一方的に認識していた。けれど、芹生さんからしたら僕はクラスの多くの内の一人である。先程の自己紹介などのやり取りの内に僕一人を認識するのは無理な話である。たとえ席が近いところであるとはいえ、だ。
「えっと、同じクラスなんだ。中崎です。よろしく」
「同じく北外っていいます!」
僕の自己紹介に北外が乗っかってきた。
「芹生です…って知ってますよね。よろしくお願いします。」
芹生さんは丁寧な言葉遣いで話した。まあ初対面なんてそんなものか。僕も「です」とか言ってたしな。これから仲良くなるようなことがあればくだけた話し方にもなるだろう。仲良くなる機会がこれから訪れるかは不明である。お先真っ暗である。
「あ、私は楠巳柚愛って名前だよ。よろしくね。」
楠巳は芹生さんに自己紹介をせずにここまで会話をしていたらしかった。僕なんかじゃ無理だけど楠巳はそれをやってのけていた。みんなが自己紹介を終えてからは楠巳が状況を説明してくれた。 彼女によれば、芹生さんは学校からどのバスに乗れば、自分の家の方向に帰れることは分かるらしい。けれど、どのバス停で降りればいいかは曖昧で、当然ながら学校から自宅まで徒歩で帰る道のりは全く知らないとのことだった。降りるべきバス停に関しては、覚えている番号のバスに乗って、一つ一つバス停を見ていけば分かるだろうという考えのもとで目標のバスを待っていたら、あまりにも来ないので不安になっているところに楠巳が話しかけてくれたのだそうだ。
「で、そのバスっていうのが、偶然私がいつも乗るバスと同じバスだったから、一緒に帰ることにするね」
楠巳がそこまで言ったのを聞いて、僕はほっと胸をなでおろした。北外もそうだったと思う。これで僕は安心してそれぞれ帰宅の途につける。そう思った。
 僕と北外の家は反対の方角にあるので、北外とはこの昇降口でお別れだな、なんてことを思いながら、帰って何をしようか考えていた。一人で帰る北外のことを思うと胸が痛んだ気がしたが、三人揃えばいつも通りの構図である。僕と楠巳は二人で、北外は一人で帰る、これまで何度も経験してきた放課後の一場面である。今日もいつも通りの変わらない日常の光景だとその時の僕は思っていたのである。
「ってことで一緒に芹生さんの家を見つける旅に出ようか中崎。」
「え…?ああ、そっか、そうだよなあ」
「何、中崎嫌なの?まさか一人で帰ろうとしてたの?」
「い、いや…そういうわけじゃないけど…」
図星だと言わんばかりにしどろもどろに喋る僕を見て、楠巳はにらみつけるような目をしていた。「一人で帰ろう」とは思っていなかったものの、芹生さんをほったらかしにしようとしたことには変わりなかったので、何も言い返せないままでいた。
「そんじゃあ行こう」
黙ったままでいた僕にそれだけを言うと、ぱっと芹生さんの方を向いてしまった。にらみつけるような目はもうしていなかったけれど、不機嫌な様子には見えた。それからしばらくは楠巳が僕の方を見ることはなかったもんな。
「また明日ね、北外」
楠巳は北外にそう告げて、芹生さんと歩き出した。僕も「またな」とだけ残して、二人の少し後ろに付いて行った。芹生さんが帰宅できない問題に、僕はまだ付き合わなければならなくなったのだった。

 学校から自宅までの距離は徒歩だとおよそ四十分かかるのだが、四十分間ただ歩くというのは正直辛いものがある。しかも、今日は雨の中を、であった。ただ、幸いなことには豪雨という訳ではなかったので、比較的歩きやすかった。授業のないここ数日間だけ辛抱すれば、またいつも通りバスで登下校出来るのだと自分に言い聞かせながら歩いた。
 歩く時に、当然の話ではあるのだが、走る車には気を付けなければならない。いくら服や靴に濡れにくい加工が施されてあるとはいえ、走る車が巻き上げる水しぶきを被るのはいい気分がしないので、ご免被りたい。そう言えばそんな靴の話を帰り道に楠巳と芹生さんがしていたっけな。
「女の子はみんなかわいい靴履いてるよね。レインブーツっていうのかな?」
「確かにレインブーツ履いてる子多いね。まあこんな町だからね」
教室では大人しそうに見えた芹生さんだが、楠巳とすぐに打ち解けることが出来たようで、ファッションの話で盛り上がっていた。
 ここ習柄町ではレインブーツを筆頭に雨具の生産が盛んであるそうだ。何でもこの町出身の人物が習柄町に住む人々の思いに応えるために、雨具生産の会社を起こし、工場を建て、雨に悩む人々を救ったのだという。その会社は今では習柄町だけでなく、全国規模で展開するようになったという話だ。会社の名前は忘れたけど、アメフラシがデザインされた「カサブランカ」という名前のシリーズの雨具が有名で、持っていない人はこの町にはいないらしい。かくいう僕も普段用いている傘がそれだ。また僕らが通う習柄中学校ではその会社が制作する防水加工の質の良い制服を採用しており、非常にお世話になっている。会社側としても学校と言う安定した売り上げを見込める上客とあって、持ちつ持たれつの関係であるのだとか。そういうことがあって、校則に「靴は白や黒などを基調とした目立たないものとする。ただし、『カサブランカ』の雨具ならどんなデザインでも可」という文言が記載されている。『カサブランカ』のデザインは多種多様なので、自由と言っても過言ではないほどの緩やかな校則である。そんなことがあって我が校では過去に『カサブランカ』ではない校則違反のレインブーツを履いてきた生徒がいたことがあった、という話を耳にすることが度々ある。その生徒の処分に関して話す人によって内容には差異があり、酷い物では「違反をした生徒は退学になった」とされている。常識的に考えれば、そんなことで退学処分になるとは思わないし、そのようになった生徒がいたというような話を実際に聞いたこともない。沼隈先生がそんな信憑性のない話を基に「試験で一点も取れなければ、使っている雨具を没収する。そして「カサブランカ」以外の雨具を渡す。だから退学したくなければ点を取れよ」なんてことを言ったりする。まあ、一点も取れないなんてことは普通に試験を受けていればありえないし、仮にそうなったとしても、そんなことにはならないとは思うけれど、先生は試験の度にそう言うのである。最初は面白い話だと思ったけれど最近は聞き飽きてしまったな。
 そんな風に噂話になったりネタにされている校則ではあるけれど、退学はおろか何かしらの処罰を受けたという話は聞かないので、実にあってないような校則である。僕を含めた男子のほとんどはそのシリーズの校内で指定されていて安く買うことが出来るシンプルなシューズタイプのものを愛用している。楠巳を含めた女子の大半や男子のごく一部、おしゃれに関心の高い者は自ら店に行って購入した同シリーズを愛用している。
「良ければ今度一緒に買いに行かない?駅前のデパートに行けば色んなのあるから選びたい放題だよ!」
「うん、行ってみたい」
楠巳は会社の宣伝担当でも務めてるのかな?と思ったが、楠巳自身それほど履いてるレインブーツがお気に入りなのであろう。いいものはみんなで共有するべきだよね、うん。それに加えて楠巳は世話好きな面があるからな。たまたま会った他のクラスの転校生の女の子とこうもすぐに遊びに行く約束を取り付けるとは、僕には到底不可能な所業である。楠巳は本当にいいやつだ。仮に相手が男子の転校生だったとして僕にそのようなことが出来ただろうか、いやできない。
 何とも微笑ましい光景だった。学校からの帰り道に女子二人が一緒に買い物に行く話を楽しそうにしている光景。平和な日常だ。芹生さんが学校では見られなかった笑顔をそこでは見せていた。ちなみに僕はこの二人の会話に参加することなく後ろに付いて歩いて二人の後ろ姿を眺めていた。校舎を出てからずっと。決して変態の類という
訳ではないことをここに記しておく。三人横に並んで道に広がるのは色々と邪魔になるし、僕のようなファッションに疎い人間は会話に入るべきではないのだ。ガールズトークにボーイが混ざるなんて無粋な真似はしない。決してしないのだ。
「ねえ、聞いてる?中崎」
黙って後ろを歩く僕に楠巳が話しかけてきた。と、その時の僕は思ったのだが、少し前から僕に話を振っていたらしかった。しかし、その時の僕は話を全く聞いていなかったので、気付かずにボーッとしていた。ボーッとしていたので、ふと楠巳の顔を見ながら「ずっと一緒にいたのに楠巳の顔を見るのは久しぶりだな」なんてことを考えていると「おい中崎」と強い口調で言われた。ちなみに彼女の顔を見たのは具体的に言うなら二十分ぶりくらいだったかな。二人の会話に自分から混ざる気は毛頭なかったけれど、振られたようなら仕方がない。そう思い話に参加しようとしたが、話を全く聞いていなかったので、どうすればいいか分からなかった。話を聞いていなかったと言うのは何となくはばかられたので、どうしたものかと一瞬悩んだが、そこは僕であった。深く考えることなく、何とか乗り切れるだろうと思い、話に加わることにしたのだった。
「あーはいはい、聞いてたよ」
と咄嗟に答えてみせた。もちろん、嘘であった。こんなので乗り切れると思った自分を殴りたい。
「その反応は嘘でしょ。ずっと話しかけてたのに反応ないんだから、聞いてるわけないじゃん。それとも聞いてて無視してたのかな?」
嘘はあっさりばれた。それどころか無実の罪まで着せられそうになった。そんな非道を行う訳はなかったが、楠巳には何かと見透かされてしまってばかりである。困ったものだ。よくもまあ乗り切れるとか思ったものだ。最初から素直に「聞いてなかった」と言えば良かったのに。僕のこういうところは直したいと常々思っている。嘘をつくなんてしちゃ駄目だよな。
「ごめんなさい、聞いてませんでした」
素直に謝っておいた。嘘に嘘を重ねて面倒なことになるのは避けるべきだと思った。面倒ごとを嫌う、平穏大好きな僕なのであった。だったら最初から嘘をつくなよな、僕。
「よろしい、よく素直に謝ってくれました。それではもう一度、話してあげましょう」
楠巳の対応は物凄く上の立場からの発言だった。まあ、僕が下の立場であることは明白であるとはいえ露骨すぎやしないか。まあ、人の話を聴くのは当然であるから、不平を口にはしなかった。全部悪いのは僕である。
 それにしても、まさに女王様とでも呼ぶにふさわしい感じがした楠巳の言葉選びだった。先程、北外に楠巳様と呼ばれた時には嫌がってたはずなんだけどな。おかしいな?楠巳はどうしてほしいんだろう?と思ったので、
「お願いします、楠巳様」
と返したら「いや、だから様、はやめてってば」と怒られてしまった。
 ますます分からなくなった。これが女心と秋の空というやつか。本当に分からないものだ、女心ってやつは。楠巳に直接尋ねて教えてくれるとありがたかったんだけど、それは無理だったろうな。女心について学校の授業で取り扱ってくれたりしないものか。もし、そうなったら僕は他のどの科目よりも積極的に取り組むことだろう。…言うは易しである。
 秋の空に関していえば、この町では変わりやすいどころか変わらないから何も不便はない。雨は変わることなく降り続く。弱まったり強まったりすることはあるが、空模様としては代わり映えしない。毎日雨模様のこの習柄町である。女心と秋の空、リズムとか語感は好きなんだけど、この町では通用しないから、別の物を考えなければならない。もしくは意味の方を変えてしまうか。女心と秋の空…相反する二つの物を並べて表現する時とかに用いることが出来なくもなさそうだ。いい例えは今のところ思いつかないけどね。
「中崎、日曜日空いてる?」
楠巳様…もとい、楠巳が僕にそんなことを聞いてきた。
「空いてるけど…どうして?」
僕が休日に予定があることはまずない。その日に予定があるかどうかを尋ねるのではなく、これから先予定のある休日はあるかを尋ねた方が早い気がする。いや、さすがにそれは言い過ぎか。なんてそんなことを考えながら、楠巳が僕に予定を尋ねた意図を深く考えることをせずに返答したのが、今にして思えばまずかった。
「じゃあ、私たちと一緒に買い物行こう」
「え、買い物…?」
「そう、買い物。芹生ちゃんの靴とか買いにね。行くでしょ?」
確かに、二人がそんな話をしていた。芹生さんのためにレインブーツを買いに行くんだったかな?けれど、僕が付いていく必要はないだろうに。女子二人で買い物に行く方が色々と効率よくやれるだろう。男一人が混ざったところで邪魔にしかならない。なのに、なぜ僕を誘うのか。きっぱり断ってやろう。そう結論を出して、楠巳の方を真っすぐに見つめ言ってやった。
「もちろん…、行くよ」
こうして僕は日曜日、女子二人と一緒に買い物をしに出かけることになった。なってしまった。そもそも人と買い物に行くということ自体苦手なのに、ましてや女子と一緒とは…どうしたものか。まあ、楠巳の機嫌をそれ以上悪くしないためには受け入れるしかなかったよね。

 それからどれくらい歩いただろうか。五分から十分くらいのものだと思う。学校を三人で出発してから三十分ほど経った頃のことである。芹生さんが辺りを見回しながら
「この道は今朝通ったの覚えてる。家の近くだと思う…多分」
と言ったのだ。それを聞いた僕は安心した。恐らく楠巳もそうだったに違いない。学校を出たときは手掛かりが少なくて、無事にたどり着けるのか、もしかしたら方向がまるで逆だったりしないか、などと頭を幾度も過ったものだったが、全て杞憂に終わった。この三人での不思議な旅路も終わりを迎えようとしていたのだった。
 後はここから最寄りのバス停を一つ二つと巡っていけば、芹生さんが今朝乗車したバス停が見つかるはずなので、そこまで辿り着ければ、そこからは彼女一人でも帰ることが出来るだろう。もう心配はいらなかった。ただ一つ気掛かりなことがあったのは、その時僕等がいた場所から一番近いバス停は僕が普段、登校時に利用しているものと同じということだった。僕の家と芹生さんの家からの最寄りのバス停が同じ…まあ、あり得ない話ではないか、なんてのんきに考えていた。
「中崎の家と近かったりするのかな?」
僕がその時考えていたように、楠巳も同じことを思ったようで、そんなことを言っていた。
「でも、最近引っ越してきた家とかあったかなあ、知らないや」
と返しておいた。僕と楠巳を置き去りにしながら、芹生さんは前へ前へと進んで行っていた。これまで迷子のようなものだったのだ。自分が進むべき道が見つかり足取りが軽くなるのは当然のことである。その芹生さんがふと立ち止まった。見るとそこはバス停だった。僕が普段利用するバス停、今朝も利用したそれであった。芹生さんはバス停の名前とか、時刻表だとかを見てここを今朝利用したかどうか確認していたのだろう。一通り見回して、僕らが追いついたことを確認すると
「二人とも見つかったよ。朝使ったのこのバス停だ。」
と笑顔を見せながら言った。それを聞いた楠巳が
「ここって、中崎と同じとこだよね?ってことは二人は家近いんだね」
と言ってきたので「みたいだね」とだけ返した。それを聞いた楠巳はふう、と小さく息をついて
「じゃあ、ここで私は離脱かな。後は二人で帰れるでしょ」
と言った。その言い方が少し寂しげに聞こえた気がしたのは気のせいかな。
「ありがとう、楠巳ちゃん。おかげで何とかなりそう」
「僕からも、ありがとう、だな。楠巳がいなかったらこう上手くいってなかったと思う。」
もしも、楠巳がいなかったらあの時僕は何も出来なかっただろう。一人立ちすくむ芹生さんに声をかけることなく、一人で帰宅していた。それから後悔するようなことになっていたかもしれない、あの時声をかけておけば良かったと。そう思ったから、芹生さんに続けて僕も楠巳にお礼を言った。楠巳は
「大したことじゃないよ」
と少しはにかみながら言っていた。それから「でも」と続けて、
「私がいなくても、中崎なら…何とかしたと思うけどね」
とそんなことを言った。僕はその言葉に疑問を抱きながら何もいうことが出来ないまま、別れを告げて去っていく楠巳に黙って手を振ることしか出来なかった。
 買い被らないでくれ、楠巳。僕は正真正銘のダメ人間なんだよ。君みたいに立派に振る舞うことが僕に出来るわけないだろう。
 バス停からの道のりは芹生さんの記憶にしたがって、迷うことなく進むことが出来た。バス停からすぐ近くの横道に入って住宅が並んだ道を進んでいく。
 先に言っておくと、ここからの話は僕の間抜けぶりを露呈してしまう話だから、あまり残したくはないと思う。間抜けなのは生まれてこの方そうだとは思うのだが、今日のこの瞬間ほど自分が間抜けだと思ったことはない。全くお恥ずかしい限りの話である。まあ、反省の意と後々見返した時に笑い話となっていることへの淡い願いを込めて残しておくことにする。
 「あ、あそこだ」
そう言って芹生さんが一つの家を指し示した。十メートル先程にある黒い屋根の一戸建て。二階建て、小さめの駐車スペース、申し訳程度の花壇。
僕はその家に見覚えがあった。というか見覚えがないはずがなかった。
 確か、父に昔聞いた話だ。僕が今暮らしている家がある場所にはその昔、大きな一軒家が建っていたのだそうだ。そこに住んでいた家主は高齢の夫婦で、ある日自分の子供たちと暮らすことになったから、住んでいた家を引き払った。長年暮らしていた家は取り壊されて、その大きく空いた土地には新しく元あった家より小さめの一軒家が二軒並べて建てられた。その二軒は同じ設計者が考案し、同じ業者に建設をされた。使われた木材の種類に家の作りや部屋数。果ては配色に至るまでそっくりに造られた二つの家はまるで、双子のようだった。一点だけ、設計者の遊び心が加えられたのは、その二軒が鏡写しのようになっていることである。片方の家には浴室が東側にあり、もう片方の家には西側に浴室がある。その家に暮らす住人にとっては何のことはない遊び心であったが、道行く人々は二軒の家を通る際に、二軒の間に一度立ち止まって二軒の左右対称ぶりにちょっとした感動を覚えるのだとか。
 つまり、である。芹生さんが自宅だと認識したものに僕が見覚えあるのはそういうことなのである。
 芹生さんが僕と同じ家であるわけがない。

 僕が住む家は左右対称をなす二軒の家の片方である。

 「あのー、芹生さん…?」
「ん?なあに?」
事実に気が付いた僕は顔から火がでる程恥ずかしかった。紅潮しているであろう顔を見られたくなくて、少しうつむきながら目を横に向けて、手で
顔を覆い隠した。そんな状況でも伝えない訳にはいかない。
「…………なり、なんだ」
「え?なに?」
全身が熱があるみたいに熱くて、動悸が激しくて声をまともに出せていなかった。
「隣なんだ…。僕の家…」
今度はちゃんと言えた。それでも、芹生さんはあんまり分かっていない風だったのが、少し辛かったけど、その後何とか分かって貰えた。


 僕と芹生さんはご近所さんどころか、隣同士という関係だった。お互いの家が判明したところで、僕は無事に芹生さんを家に送り届けるという任務を終えた。楠巳に無事報告が出来る、と思ったのだが、そこで新たな問題が発生したのだった。お互い自宅に帰ろうとしたところ、芹生さんが
「えっと、ちょっといいですか?」
と僕の傍までやってきた。
「何かあった?」
「家の鍵が…なくて…」
彼女が自宅の玄関の鍵を忘れていた。
「え…っと、じゃあひとまずうちに入る?」
そう言って誘うと、彼女は言葉を発することなく、こくんと頷いた。狸か何か小動物みたいだった。ん、これは失礼に当たるのかな?まあ、その時の僕はそう思った。
 仕方なく、僕の家で時間を潰すことにして、その際に色々と彼女と話をして色々と分かったことがあった。話を聞いて分かったことは彼女のことだけでなく、僕が非常に間抜けだということも分かった。
 芹生さんがこの習柄町に引っ越してきたのは一週間ほど前のことであるらしい。一週間ほど前の昼頃に前の家にあった荷物を持ってきて、隣人への挨拶などをしたそうだ。そして僕はそれに全く気付かなかったのである。気付かなかった理由はもちろんある。すぐに隣の家で慌ただしそうに荷物を運び入れる様子などに気付かないほど間抜けだったわけではない。さっきからさんざん間抜けだと自らを評しているが、さすがにそこまでではない。なんと僕はその日に限って珍しいことに外出していたのだ。確か北外とデパートに映画を観に行った日がその日だったと思う。そう、北外から誘われて僕はその日外出していたのである。だから、その日に隣人が引っ越して来たことに僕は気付かなかった。
 だがしかし、それからおよそ一週間僕は隣人に全く気付かず過ごしていたのだ。家に引きこもっていたとはいえ鈍いにも程がある。親から隣人が越してくる話を聞いていたのも忘れていたし、恐らく越してきたその日も話をしていた気がしないでもないが、僕は母の話が全く耳に届いていなかったようで、僕は隣人が来たことを認識していなかったのであった。本当に間抜けな話である。  事前に、隣人が引っ越してきたことを知っていれば、その隣人の名前や家族構成など知れていたかもしれない。「芹生」という名字は珍しいし、僕と同年代の子供が住んでいることなど母は嬉々として話したがるだろう。それを僕がちゃんと聞いていれば、覚えていれば今日の一連の芹生さんとの放課後の時間は問題なく過ごせていたのである。楠巳に迷惑をかけることなく、昇降口で立ちすくむ芹生さんに、僕が声をかけて隣同士だから一緒に帰ろう、と言って二人で迷うことなく帰れていただろう。いや、それどころか教室で芹生さんに声をかけていれば、彼女を昇降口で待たせることなくスムーズに帰れていたかもしれない。もっと言うなら、北外と共にやらされた教室の清掃に一緒に下校する芹生さんも加わってくれて、楽に済ませることが出来た可能性だってある。
 僕一人の間抜けっぷりのせいで、北外と楠巳に迷惑をかけてしまった。なんてやつだ僕は。恥ずかしすぎて、申し訳なさ過ぎて穴があったら今すぐ入りたいと強く思った。芹生さんの母親が帰宅して、芹生さんが家に入れるようになるまで僕は我慢した。芹生さんを見送って、「また明日」と別れを言うまで僕は我慢した。それから走って階段の上って、自室に全力で逃げ込んだ。穴はないし、わざわざ掘るわけにもいかないので、制服のまま布団に飛び込んでじたばたともだえたのだった。それで、僕の間抜けさがなくなるわけではなかったが、そうすることしか僕には出来なかった。


 国語の授業内容は小説や評論などの現代文、古文と漢文を合わせた古典の二つに分けることが出来る。古典に関して学校のみんなは「昔のことを学ぶ理由がわからない」とか「勉強しても使うことがない」と言って、古典の学習を敬遠しがちである。僕は普段から物語などを読むことが好きなので、授業中でも物語の世界に浸れるというのは何ともお得感がある。授業だと深く読み込むことが出来て普段の読書とは違った楽しみ方が出来るのも嬉しい。僕は古典の中でも特に古文が好きだ。この国の話であるとはいえ、遠い昔の物語。まるで別世界のファンタジーのような話。古典という一ジャンルとして小説を楽しむ感覚で授業に臨んでいる。
 ある古文の授業の時だ。物語だか日記だかの文中に『雨ふりしかば』という言葉が出てきた。現代語訳すれば「雨が降り続けるならば」となる。そこから後に続く文章を読んでみると、雨に対して風流を感じていたらしい。昔の貴族が雨には雨の良いところがあるんだよ、といったニュアンスのことを述べていた。雨が降り続けるのが当たり前ではない世界ならではの言葉だ。

雨が時々しか降らない世界?

そんな世界は僕…いや、僕ら習柄中学校の学生にとってはファンタジーだ。授業中そんなことを考えていた。

 僕らには「雨が降り続けるならば」という仮定が必要ない。降り続けることが当たり前なのだから、仮定なんて必要ない。
 僕はこの町が嫌いじゃない、むしろ好きだ。習柄の人々が逞しく生きているのがその理由の一つだろう。レインコートなどの雨具の生産が盛んであること、バスの交通網が発達していることなど環境に合わせて人々は上手く生活している。また、雨の力をプラスに変えるために町内には水力発電の施設がある。小さなダムをフルに活用させて、多大な電気を手にしている。習柄町では農作物が栽培できないので、余った電気を他の地方に渡す代わりに様々な農作物をもらっている。そうやって昔と変わらない食卓を作り出しているのだとか。こういうところに人間の強さを感じるのだ。
 それでもこの町を良く思っていない大人たちもいる。他の人達の努力を嘲笑うかのように町を去る者も少なくない。その気持ちが僕には分からない。理解できない。僕にとっての「世界」とはこの町が全てなんだ。今あるこの「世界」なんだ。僕にはそれが当たり前なんだ。雨が降っているのが当たり前なんだ。

 雨ふりしかば―口にすることはないだろう。



 窓を打ち付ける雨の音で、目が覚めた。
 今日も昨日に続けて夢を見たような気がしないでもないが、全く思い出せない。昨日と似た内容だった気もするし、幽霊か何かに追いかけられような怖い夢立ったような気もする。睡眠時にはレム睡眠とかノンレム睡眠とかいう状態を行ったりきたりしているというのをを聞いたことはあるが、どちらの時に夢を見ているのかとか、深い眠りに落ちているのかなどの内容までは知らない。今度、調べてみようと思った。そう言えば夢と言えば「夢診断」なるものがあるというのもきいたことがある。なんでも見た夢の内容でその人の求めているものだとか、心理状態みたいなものがわかるのだとかいう話だ。夢診断についても調べてみたいから、今度図書館に行ってみようかな。


 三月三日の桃の節句や五月五日の端午の節句は誰しも耳にしたことがあるのではないかと思う。かくいう僕もこれまで生きてきて何度かその日を意識したことがある。と言っても雛人形を飾るだとか、鯉のぼりを吊るすだとかいう程度の認識しかなかった。そんなある時、ふと詳しく調べてみようと思った僕がいたのである。一度気になりだすと止まらなくなるという性格を存分に発揮しまくった当時の僕はとことんまで調べ尽くしたのであった。
 最初は桃の節句と端午の節句についてだけ知ることが出来ればいいかな、と考えていたのだが、調べ始めてすぐにあることが目に付いた。僕が気になった二つの節句というのは、「五節句」というものの一部であるということだった。五、ということは他に三つの節句があるということだ。僕が普段耳にしていたものは、ほんの片鱗にすぎなかったのである。当時の僕は「五節句」の全て、当時の僕が知らなかった他の三つが気になったので、「五節句」について調べた。ただいかんせん、現在の僕は調べた内容の大半を忘れてしまっている。覚えている範囲で思い出してみることにする。
 一月七日は「尽日の節句」。一年の健康を祈って春の七草を食べる日。
 三月三日は「桃(上巳)の節句」。雛人形などを飾る日。女の子を祝う日。
 五月五日は「端午の節句」。鯉のぼりを吊るしたり、鎧武者の人形を飾ったりする日。
 七月七日は「七夕の節句」。笹に願い事を書いた短冊を吊るす日。いわゆる一年に一度彦星と織姫が出会う七夕の日である。
 九月九日は「重陽の節句」。菊の花を飾り付けたりする日。
 ものすごくざっくりとしたものである。今もう一度調べれば詳細まで分かるのであろうが、レポートを書いているとかいうわけではないので、今はこんな物で充分だろう。それに内容として大きく間違っているようなことはないはずだ。
 当時、調べ終わって僕が抱いた感想は「なんだ、ほとんど知ってるものだったな」というものだった。十数年生きた僕からすれば、節句の名前は知らなくても普通に生活していれば、一度は聞いたことがある内容のものばかりであった。ただ一つ全く知らなかったのが九月九日の「重陽の節句」である。名前自体も聞いたことがないし、その内容にもピンとくるものがない。恐らく僕以外の人でも同じことだと思う。これまで九月九日に、今日が九月九日だから何かをしよう、と思って何かをした人はほとんどいないのではないかと思う。少なくとも、僕の周りではない。
 九月九日、何の変哲もない日。日々繰り返される毎日の中のひとかけら。でも、僕にとっては違う。九月九日、僕がこの世に生を受けた日付なのである。つまりは僕の誕生日である。

 十四年前の今日、何時何分何秒かは分からないが、その日のある時間、僕は産声を上げた。中崎家の長男として僕は誕生した。両親にとって現状、僕は最初で最後の子供である。そう、僕は一人っ子なのである。大空を翔る鳥のように悠々と育ってほしい、そんな願いが込められて「悠翔」と名付けられた。というのは嘘である。僕が勝手に考えた嘘っぱちである。本当の所は僕も知らない。でも、多分似たような気持ちだとは思う。まあ、仮にそうだったとしたら、両親に対してちょっと申し訳ない。僕はどちらかというと内気だから鳥のように広い世界を見たりはしない。新しいことにチャレンジすることは基本的にない。悠々とではなく、粛々と日々を過ごしているといった感じだ。「悠翔」という名前は僕よりも北外に相応しいのではないかと思う。いつもどこか余裕や落ち着きを感じさせる雰囲気を持っているし、北外が将来したいこととぴったり合っている気がする。
 以前、北外と将来の夢だとかいつかやりたいことだとかについて話をしたことがある。北外は「夢、っていうと特にないけど」と前置きをしてから、「海外とか色んなところに行ってみてー、とは思うよ」と自分がやりたいことについて話してくれた。夢が具体的にないのは僕と同じだが、北外にはやりたいことがあるのだ。僕にはそんなものない。ただ、日々を楽しく生きることが出来ればそれでいい。特に欲することなんてない。などど言ってしまうと、僕のものも望みだと見なすことが出来なくもないかもしれないが、北外のものと比べると、どうも弱く感じてしまう。自分がそういう強い望みを持っていないことを恥だとかは思わないが、北外のことを羨ましく思ったりはする。なぜなら、その話をしていた時の北外の表情が輝いていたからだ。具体的な国の名前を出しながらこの国ではこんなことをしたい、あの国であんなことをしたいと語る彼の瞳がキラキラしていて、それに溢れんばかりの笑顔が重なって表情全体が輝いて見えた。彼にはその望みを叶えた自分の姿や風景がイメージできているのだろう。僕はどうにもそういうイメージが出来ない。海外どころか、この町から出て何かをしているイメージをすることすら僕にはできない。この町以外の場所で時間を費やしている自分が、この町以外の場所で生活している自分が僕にはイメージ出来ない。僕にとっての世界とはこの町で完結してしまっているのである。家事全般が出来ない、自分で働いて稼いでないという大前提はあるとはいえ、大人になった自分が想像できない。子供なのだから当たり前と言えば当たり前の話なのかもしれないが。周りのみんなは北外のようにやりたいこととかあるのかな。明確な夢があって努力をしているような人は多くはいないと思う。中学生なんてそんなものだと思う。そう思いたい。とりあえず楠巳や芹生さんに尋ねてみたい。二人は夢とかやりたいこととかあるのかを。もしかしたら話を聞いて僕だって何かを見つけられるかもしれない。参考になるといいなあ。乾や生徒会長の能都先輩には聞かなくてもいいと思う。その二人は僕とタイプが違いすぎる人間だから話を聞いても参考にはならなさそうだ。特に能都先輩なんかは「世界中の全ての人を幸せにしたい」とか言い出しかねない。そんな発言他の誰かが言っても冗談にしかとられないと思うが、先輩なら本気で言うし、本気でやろうと思えば実現可能な気がする。だから、僕の参考にはならないだろう。夢の大きさが、スケールが違いすぎる。ああ、でもそう考えると興味自体はあるから、今度先輩に会ったら聞いてみよう。

 誕生日の日の朝、いつも通りに家を出て、僕はバス停に向かっていた。バス停に着いたまでは良かったものの、そこから僕の悪癖である馬鹿な思考…妄想といった方が正しいか。それが止まらなくなった。脳内の海をただただ漂っていた。ただ、が三つ続いた。三コンボだ。現実という陸上に上がってきた頃には、もう遅かった。僕はバスを一台見送ってしまったのであった。バスが行ってしまったことに気づいてから、僕は呆然として持っていた傘を危うく落としかけそうになったが、それは何とかちゃんと握り直すことで防げた。夢について考えることは大いに結構だと自分で思うが、けれどそれで目の前のバスを見送るなんて…それにしても、バスの運転手や乗客は僕を見てどう思ってのだろう。バス停にいて、目的のバスが来たはずなのに乗らない僕を見て不思議に思っただろう。恥ずかしすぎる話だ。
「中崎君、おはよう」
そう言って、その時現れたのが芹生さんだった。
僕のみっともない姿を見られていやしないだろうか、と不安になったがそれは杞憂に終わった。
「中崎君も今のバス間に合わなかったんだね」
遠くにあるもう影しかみえないようなバスの後ろ姿を見ながら彼女はそう言ったのだ。芹生さんは僕がバスに乗り遅れたたのではなく、考え事をしていて乗れなかったことに気づいていなかった。良かった。
「まあ、次のバスでも間に合うからゆっくり待つさ」
動揺を悟られないように、気持ちを無理矢理落ち着かせながら、平静を装って僕はそう返した。

 「夢、かあ…。うーん、わかんないなあ」
芹生さんと一緒にバス停で待って、次に来たバスに乗り込んでから僕はそれまで考えていたことを早速、芹生さんに話した。
「やりたいことなら…まあ、うん…」
どうやらやりたいことはあるらしいのだが、話してはくれなかった。まあ、プライベートに関わってくることかもしれないし、出会ってすぐのクラスメイトにするほど軽い話でもないか。それ以上深く僕は追及することはしなかった。
「それにしてもこの町って本当に雨が止まないんだね。って言ってもまだ一週間くらいだけど…」
「そっか習柄に遊びに来たこととかもなかったんだっけ。やっぱ不思議だよね」
とその時僕は返したんだけど、普通はこんな所にわざわざ遊びには来ないか。習柄の外から来た人に出会うのは初めてだったから、こういう感想を聞くのは新鮮でなんだか面白かった。あと、芹生さんがこの町に来てからもう一週間も経っていたのか。何で隣なのに僕は気づかなかったのだろうか。つくづく間抜けである。
「まあ、色々と不便かもしれないけど、慣れればなんてことないよ」
「そう?ちょっと心配だったけど、なら大丈夫かなあ」
素直な子だな、と僕は思った。出会ってすぐの僕のこんな言葉をあっさり信じるなんて。いや、別に僕が嘘をついてるわけじゃないんだけどさ。そんなあっさり解消できる悩みでもないと思うんだけど。えっと…、僕の場合だと急に雨が降らない町に、いわゆる世間一般であるところの普通の町に引っ越すことになって、そんなにすぐ順応出来る自信が僕にはない。晴れた日にレインブーツ履いて、傘を持って出かけてしまいそうだ。日によって天気が変わるというのに不安を覚える。そういうときのために折りたたみ傘というものがあるらしいけど、もちろん僕は使ったことがない。毎日雨が降ってるんだから必要ないもんな。それでも僕の場合は外の町に行っても不便、ということはなさそうだけど…。芹生さんの場合は大変だと思った。本当になんでこの町に来たんだろう?
「芹生さんは…」
そこまでが声に出て、後は続かなかった。芹生さんがこの町に来た理由を聞くことは、何となくはばかられた。まあ、昨日と同じでプライベートに関わることで、もしかしたら非常にデリケートな問題かもしれないからだった。例えば両親が離婚して家族が離れて暮らすことになった、とか。そうだっとしたら、彼女に言うべき言葉が見つからない。どんな顔をすればいいか分からない。そんなことを考えて僕は質問をするのを途中であきらめた。
「なあに?」
「いや、ごめん。なんでもない」
「そう?」
何でも言ってくれていいのに、といった表情できょとんとした顔を見せる芹生さんに僕の胸に何かが刺さるような痛みが走った。僕は悪い奴だ。自分のことを語ろうとしないくせに、人のことばかり聞きたがっている。自分の内に踏み込ませないようにしているくせに、人の内にはずけずけと踏み込もうとする。一度、気になると止まらなくなるこの性格何とかしなきゃいけないな。芹生さん、ごめん。
「まあ、もし困ったこととかあったら、楠巳とかを頼るといいさ」
「中崎君は?頼っちゃまずいの?」
「…僕は駄目なやつだからね。あてにしない方がいい」
「そんなことない気がするけどなあ」
僕の何を知っているのだろう。知り合って一日くらいしか経ってないんだけど。ダメなところとか知られたい訳じゃないけどさ。芹生さんは人を信じやすくて、いい子なんだなと思った。いつか誰かに騙されたり、裏切られたりしないか心配だな。
「そんなことあるのさ」
何となく深い意味があるように、一人ごちてみた。僕も僕で出会ってすぐの芹生さんの心配するなんて何様なんだろうか。
 また芹生さんは不思議そうな顔をして僕を見る。僕は面倒な奴だな。一応自覚はあるつもりだ。治す気がないのが問題なんだ。
 窓には相変わらず水滴が流れていて、バスもいつもと変わることなく道を走り続けていた。

 「おっす、悠翔。それにせり…、えっとせりさんも」
教室に着くと昨日とは違って北外が遅刻することなく、僕よりも早く学校に来ていた。いや、正確には昨日も遅刻はしてないんだっけか。遅刻していないことを自慢でもしたいのか何だか嬉しそうな顔を見せていた。あと、芹生さんの名前を覚えていなかった。
「芹生さん、な」
「うん。芹生です、よろしくね北外君」
改めて挨拶をしながら僕と芹生さんはそれぞれの席に着いた。芹生さんはちゃんと名前覚えていた。しっかりしろよ、北外。
「にしても今日は早いんだな」
「よし、芹生さん…な。覚えた。ま、出来る男ってとこを見せとかなきゃな」
北外は得意げな顔を見せたが、遅刻をしないことはそんな誇れることでもないだろうに。特にこの学校だと遅刻しないのが当たり前だぞ。僕より早く学校に着いたことがそんなに嬉しかったようだった。バスの一本遅い奴に乗ったからこんな時間になったんだ。まあ、それらを口に出す気にはならなかったので、
「いやあ、さすがだなあ北外は、僕なんかには到底真似できっこないや。すごいなあ」
と一応褒めておいた。気持ちがこもっていない雑な褒め方にはなってしまったが。
「おう、なんたって朝の七時には学校には着いてたからな!」
「いや、本当に真似できないな!何考えてんだよ、お前…」
「いや、今日は早く来よう、早く来ようと思ってたら、五時とかに目が覚めてそっから家にいると何かソワソワしちゃってよ」
「馬鹿だな、お前」
バス一本早めたくらいじゃ全然北外に勝てなかった。僕自身、自分が馬鹿な人間だとは思っているが、さすがにこんなことはしない。北外は相当な馬鹿である。だけど、多分見ていて面白い馬鹿であるように思う。いつも北外には笑わせてもらっている。ちなみに僕は見ていても面白くない馬鹿だと思う。誰かにそういうことを言われたわけではない。客観的に自分を評価して、そういう風に思うのだ。
「人に向かって馬鹿とは相変わらず失礼なやつだな。ま、そうなんだけどな」
「いや、否定しないのかよ」
「ああ、否定しない」
北外は馬鹿ではあるが、器の大きな男である。だから、友達が多いのだろう。僕は器の小さい男であるから…つまりは、そういうことなのである。
 芹生さんは僕と北外の会話を聞きながら時折笑っていた。北外が馬鹿な奴ということしか内容のない話だったが、笑ってもらえて何よりだ。それにしても昨日は気づかなかったけど、これから芹生さんがこうして近くの席にいるということは、僕と北外のこうした馬鹿な話を聞かれてしまうということだ。芹生さんが来るまでは特に周りを気にすることなく馬鹿話を繰り広げていたのだが、芹生さんに聞かれてしまうとなると抵抗がある。これまで気にしてないのもおかしな話かもしれないが、何となく芹生さんに聞かれるのは恥ずかしい。馬鹿な話ばかりしてる馬鹿な奴だと思われたくない。自分で自分のことを馬鹿呼ばわりしておきながら、他人に馬鹿呼ばわりされるのは嫌だとかいう勝手な奴なのだ、僕という奴は。ほらな、なんともまあ器が小さい。最初の印象くらいはいい人だと思われていたい。いや、最初の印象というなら昨日で既に終わっているのか?それで今朝芹生さんにいい人だ(正しくは駄目なやつではない)と評されたではないか。なら、僕の目論見…と言うほどでもないか。それは一応の成功を見たわけである。けれど、そう評された時の僕は、芹生さんを否定していた。全く自分でも自分が何を考えているのか分からない。天の邪鬼という奴なのだろうか。いや、もしかしたら僕は照れ隠しだったのかもしれない。人に褒めたりしてもらえることなんてないから。少しでも芹生さんに受け入れてもらえそうなので、ほっとしたのかもしれない。そう考えると、尚更僕は馬鹿な人間だと思われたくない。いずればれてしまう日が来るとしても。少しでもいい印象を持ってもらいたい。こんな僕みたいな馬鹿で、天の邪鬼で、偏屈で、小心者で、みっともない人間が君の近くにいることを出来ることなら知られたくはない。


 今日も学校では授業が行われなかった。担任曰く、
「休み明けでいきなり授業あるのはきついだろうから、ないだろう」
とのことだった。
「新学期始まって、学校に来れるような生活リズムをつくってもらうためにこの二日間があるんだよ」
とも言っていたっけな。担任の言うことは分からないでもなかった。夏休みの気の抜けた状態では、朝から夕方まで授業があると一日生き抜ける気はしない。何事にもメリハリが必要だとは思うが、メリハリに差がありすぎるのも考え物である。メリハリにもリハビリが必要だという話である。別に上手くないか。ただ、納得がいかないのは今日が金曜日だということだ。折角リハビリで学校に通うためにリズムを戻しつつあるというのに、そこから二日間の休みを挟むのである。これでは夏休みのぐうたら生活に逆戻りである。そんなことをするなら昨日と今日の二日間を休みにして、夏休みを増やしてくれたっていいじゃないか。
「なんでそんなことになってるかは知らん。国だとか町の偉い人に聞いてみてくれ」
僕と同じ感想を持ったクラスの面々が担任に抗議の意を示したところ、担任はそんなことを言って逃げた。まあ、そうするしかないんだろうけど。ちなみに僕は心の中で思っただけで、公に意を示すようなことはせずに黙って椅子に座っていた。
 そんなこんなで、今日も授業は行われずに、僕らは掃除を行った。昨日の時点で今日何をするか聞かされてはいたが、改めて向き合うことになると面倒だった。掃除…何でこんなことをしなければいけないのか。普段、利用している場所を綺麗ににするのならまだ分かる。ホコリが転がってるような場所でずっと勉強なんてしたくはない。ゴミが舞っているような場所で食事をしたくない。汚すのは自分たち、綺麗にするのも自分たち。それでいい。だから教室の掃除なら許せるのだが、理科室などの特別教室や職員室の掃除なども僕らがやらなきゃいけないのは腑に落ちない。なぜ、僕らが汚していない場所まで綺麗にしなくてはならないのか。僕らは召使いじゃないぞ。とまでは思わないが、いまいち納得がいっていなかった。それに加えて、今日の掃除は一味違った。夏休み期間中は召使い…じゃなくて、僕ら学生がいなかったため掃除は全く行われなかった。誰も学校に来ないのであればそれで良いのだが、夏休み中でも部活動は行われた。その際、教室を含めた学校中のありとあらゆる場所や箇所が使用され、蹂躙され、弄ばれた。その結果、至る所で転がるホコリや舞い踊るゴミが確認され、約二時間にも及ぶ僕らの清掃が実施される運びとなったのである。本当は逃げ出したい気持ちがあったが、やらないわけにはいかなかったので、僕は掃除に取りかかった。ちなみに僕の掃除の担当場所は教室とその前の廊下であった。席が近いという理由と比較的やりやすい掃除内容だという判断理由で、芹生さんも一緒に僕らのグループに加わって教室の掃除に取りかかることになった。最初に掃除に邪魔な机などを教室の後ろに寄せたりした。それから僕は芹生さんと一緒に教室を出て廊下の掃除に移ることにした。僕と芹生さん以外のメンバーがいれば教室掃除は十分なはずだ。
「お、そういえばハルも廊下の担当だったな」
廊下に出てすぐに僕はある人物に声をかけられた。
「久しぶりだな、乾」
隣のクラスの乾亮助だった。夏に三年の先輩たちが引退してからバドミントン部の部長になった男である。
 昨日は会っていなかったので、夏休み明け初めての乾だった。乾亮助、僕の数少ない友人の一人で隣の一組に在籍している。成績優秀、品行方正、容姿端麗、運動神経抜群、才色兼備の完璧超人。それが乾亮助という男である。そんなことを本人に向かって言うと、「そんなことはない、ただ器用貧乏なだけだよ」と謙遜してみせるところも彼の魅力の一つである。まあ、確かに学業の成績を見てみると、学年一位だとかいう突出した結果を出しているわけではない。優秀であることに変わりはないが、テストの総合点で比べたりすると、楠巳の方が上を行く結果となる。けれど、容姿に関して言えば器用貧乏とかないだろう。もしかしたら、不器用な僕が知らないだけで、彼ほどの器用さを身につければ、容姿にまで影響が及ぶのかもしれない。自分で言っておきながら、到底信じがたい話である。
 そうして、彼と接した者はみな乾に惹かれ、憧れ、彼は学年中の人気者の座を勝ち得ている。本人に勝ち取ったなどという気持ちはないのだろうと思う。だって、それが乾亮助の自然体であり、アイデンティティであるからだ。
「そちらは見ない顔だけど、その子が転校生の子かな?確か二組に来たんだよね、転校生」
「ああ、そうだよ。芹生さん、こいつは乾。バドミントン部の部長やってる」
乾の素性を知らない芹生さんが警戒心みたいなものをにじませているような気がしたので、簡単に紹介をしておいた。バドミントン部の部長と紹介されたから安心するというわけでもないだろうが、咄嗟に出てきた乾の紹介文はそれだった。警戒心が解けるかは分からなかったが、そう紹介するしかなかった。多分、他のクラスである乾が転校生である自分がすぐにばれたことに芹生さんは不思議なんだろう。この学校に転校生が来るっていうのは本当に珍しいことなので、すぐに噂になるし、クラスが少ないからすぐに広まる。こんな学校でごめんよ、芹生さん。それにしても、見覚えがないって言う理由で芹生さんを転校生だと見抜く乾がすごいと思った。みんなの顔を記憶しているのかよ、乾は。僕は自分のクラスで精一杯なんだけど。僕がおかしい可能性もなくはないけど。生徒会長の能都先輩といい、この乾、それに楠巳もか。僕の周りには優秀な人間が多いな。
「芹生小町です。えっと乾…君?よろしくね」
「ご丁寧にどうも。そう、乾です。にしても、もっといい紹介をしてくれよ、ハル」
乾に怒られた。芹生さんに気を遣うことでいっぱいいっぱいだったからな。別に芹生さんが乾にいい印象を抱こうが抱かなかろうが僕には関係ない。乾なら他人が無理矢理いい評価をしなくても、その身から溢れるいい人パワーで仲間を増やしていくのである。そうして乾の周りにはいつだって誰かがいるのである。僕とは違う世界の人間なのである。あ、芹生さんが乾の虜になったらどうしよう…。いや、芹生さんは別に僕のものというわけではないので、選んだり虜になったりするのは彼女の自由である。僕は何を言ってんだ。
「僕は君みたいな非常に優秀な人間を形容するに相応しい言葉を持ち合わせてなくてね、ごめんよ」
「いや、そこまで褒めなくても…いや、褒めてるのかこれ?相変わらずネガティブなやつだなあ。まあ、お前らしいけど」
乾曰く、僕という人間はネガティブとのことだ。僕の発言に対して彼のその言葉が適切かは分からないが、ネガティブな人間であることは確かなので
「そうだね、これが僕だ」
とだけ返しておいた。
「…まあいいや。今度、部活でミーティングするからな、詳細は連絡する」
それで、お互い掃除に取りかかって会話は終わった。乾と仲が悪いわけではないのだが、こうして振り返ってみると、仲が悪い、というより僕が一方的に嫌っているように見えてしまう。そんなことはない。ただ、ちょっと苦手なだけである。


 「中崎君ってバドミントン部なんだね」
今日も芹生さんと帰宅をした。楠巳は部活動があって、一緒ではなかった。まさかの二人きりであった。
 僕がバトミントン部に入っていることを彼女に話した記憶はなかったので、掃除時間の時の乾との会話でそう分かったのだろう。
「うん、上手くはないけどね」
謙遜ではなく事実である。部長の乾や運動神経抜群の北外と比べると僕は下手くそである。
「楽しい?きつくない?」
「それなりに楽しいよ。他の部活ほど真剣にやる部じゃないからそれほどきつくもないし」
「そっかー。バドミントン部いいね」
「芹生さんは前の学校で何部だったの?」
「…私は何も入ってなかったよ。帰宅部、ってやつだね」
一瞬、芹生さんの表情が曇った気がした。傘で顔が見づらいから気のせいかもしれなかった。曇るのは空だけでいいのにな。
「バドミントンはしたことある?」
「…ないなあ。バドミントンどころかスポーツやったことないんだよね…」
今度は表情だけでなく、声や発言の内容からも何だか浮かない様子なのが分かった。こういう話題はまずいのかな?さて、どうしたものか。
「…芹生さんは何かやってみたい部活とかある?うちの学校って運動部は少ないけど、文化系の部活はよその学校より多いみたいだから、もしかしたらやってみたい部活何かあるかもしれないよ」
雨が止まないこの町ではグラウンドを使った運動が出来ないので、それに該当する部活はうちの学校には存在しない。それどころか、体育の授業が屋内で行われるものしかない。そのため、本来屋外で行う体育の授業の時間分は、内容が屋内のものに切り替わったり、他の科目分に充てられたししているのだとか。そうして、国語や数学などの授業の進むペースが早くなり、全体の授業日数が減り、夏休みが他の学校よりも数日分長いらしいのだとか。
「うーん、今度探してみようかな。何かいいのがあるといいけど。どんなのがあるかな?」
曇っていた表情は少し晴れたようだった。良かった。
「書道部、手芸部…あとは放送部とか。他は…思い出せないや。楠巳にでも聞いてくれ」
「また楠巳さん、なんだね」
今度は表情こそ笑ってはいたものの、不機嫌そうに見えた。僕何かしたっけ?また、というのは朝のことを言っているんだろうけど。
「楠巳ならたくさん知ってると思う。今度会うときに話をしてみたらいいよ。それか、メールとかで…」
そこまで言って僕は気づいた。芹生さんってまだ誰とも連絡先交換してないんじゃないか。昨日は芹生さん携帯電話を忘れたって言ってたし、誰かとそういうことをしているのを見た覚えがない。僕自身、してないしな。
「そうだ、芹生さん。連絡先の交換しよう」
今思えば、この時の僕は非常に優秀であった。馬鹿で卑屈でひねくれ者で、ネガティブで、女子とまともに会話をしない僕が見せた奇跡の所業であった。冷静に考えると連絡先の交換なんて勇気のあることを僕から言い出すなんて、僕の歴史上において珍事である。冷静に考えなかったから、そういうことができたのかもしれない。もしも、断られたりしたら…なんてことを考えると、二度と行えない。それほど僕にとっては大事件なのであった。でも、
「うん、交換したい」
そう笑顔で彼女が答えてくれて本当に良かった。報われた。言うことが出来て良かった。二人して道の邪魔にならないように端に寄って、お互い携帯電話を取り出した。僕が自分の電話の電話番号とメールアドレスを表示して、彼女が登録をした。彼女の連絡先は後で、僕の携帯電話に連絡することで登録することにした。傘を持ったまま携帯電話を扱うことは普段しないので、少し難しかったけど、何かやりきったという感じがした。彼女も嬉しそうにしていたので僕も感無量だった。
「それじゃあ、後でメールするね」
その笑顔を見て僕の心臓が高鳴ったのが分かった。全身の血液が沸騰するように熱く脈打っている、というのはこういうことなのかと思った。今まで読んできた本の中にそういう表現があったような気がするがいまいち理解できないままに読み進めていた。まさか、こうして実際に体験することになるとは思わなかった。普段女子と接することがない僕だから、免疫だとか耐性だとかいう物が僕には備わっていないということがあるのだろうが、芹生さんの笑顔に僕はものすごくドキドキさせられていた。北外の笑顔を見てもきっとこうはならないだろう。ただ笑ってくれた、それだけの単純なことで心を乱されてる僕はもしかしたらみっともないのかもしれない、もしかしたら恥ずかしい奴なのかもしれない。
「うん、その時に楠巳の連絡先教えるよ」
そう必死に平常心を保って答えた。
 もしかしたら恋、なのかもしれなかった。なんてな。生まれて十四年、人を好きになるという経験したことがなかったから、正確には分からないし、分かる物でもないのかもしれない。でも出会って一日や二日でこうも人を好きになってもいいのだろうか。一目惚れ、というやつなら納得はいくのか?
 事実、芹生小町という一人の人間に、一人の女の子に僕は色々と乱されている気がする。分からない。人を好きになるってなんなんだろう?そのうち分かる物なのだろうか。
 連絡先を教え終わってからは、他愛のない話をしながら、帰り道を歩いた。どんなことを話したのかいまいち覚えていない。頭の仲の芹生さんのことでいっぱいで、目の前の芹生さんに上手く構ってあげられなかった。気がつけば二人とも家の前にいて、
「じゃあね、中崎君」
「ああ、それじゃあ」
あっさりと別れの挨拶をした。僕はそそくさと家の中に逃げ込んで、そそくさと自分の部屋まで駆けていった。芹生さんと別れたあとも心臓は激しく動いていた。

 「芹生小町です。
  これからよろしくね」
という文面とその下に電話番号が記してあった。芹生さんからの初めてのメールだった。シンプルだけど、どこか芹生さんだということを思わせるような文だった。でも、そんなことを思うのは僕だけなのかもしれないかもとも思った。
「こちらこそよろしくお願いします」
と返信をした。こんな感じで芹生さんから返信とかあるのかな?僕だったら連絡先のやり取りを終えたことに満足して会話を続けようとはしないかな。などと考え事をしていたら僕の携帯電話が反応をした。メールが来た時の反応である。返信早いなと思いながら携帯電話を操作すると、メールの送り主は芹生さんではなく、楠巳だった。
「誕生日おめでとう!
 直接言いたかったんだけど、
 今日会えなかったから…
 メールでごめんね」
と記してあった。驚いた。思っていた人物とは別の人物からメールが来た、ということもそうだが、楠巳が僕の誕生日を覚えていたということにも驚いた。それに覚えていてこうしてわざわざ連絡をしてくるあたり、さすがである。だから思ったことをそのままに、素直に返すことにした。
「わざわざ、メールありがとう。
 覚えてくれてて嬉しい」
という文章を打っているときに思い出した。芹生さんに楠巳の連絡先を教えなきゃいけない、なら楠巳に一度確認を取らなきゃいけない、と。
「ところで、話は変わるけど、
 芹生さんに楠巳の連絡先を教えても大丈夫?」
という文章をその前に打っていたお礼の下につけた。それからメールの送信ボタンを押した。芹生さんとメールでのやり取りを続けようとした訳ではなかったので、彼女からメールが来るかは分からなかった。もし来たら、楠巳からの返事を待って、それから返そうと思った。返信を待つ間、昼食の準備をすることにした。準備と言ってもカップ麺にお湯を入れるだけであった。棚にストックしてあるいくつかのカップ麺から、今日はスタンダードな醤油系のものを取り出す。夏休みの間はよくカップ麺を食べていたが、来週からは学校で給食を食べられるので、カップ麺はしばしの間、お役御免となる。休日は母親が家にいれば、何か用意してくれるから、それで済む。携帯電話を腰のポケットにしまい、カップ麺にお湯を入れるために、下の階に向かった。カップ麺にお湯を入れ、冷蔵庫から取り出した麦茶をグラスに注ぐ。右手にお湯の入ったカップ麺を、左手にお茶の入ったグラスを持って自室へと戻る。自室の椅子に腰掛ける頃には、カップ麺は食べ頃になっている。昨日と全く同じと言っていいほどに、自分の一連の流れるような振る舞いに惚れ惚れしたり、ちょっと悲しくなったりした。こんなことが効率よく出来ても活かす場面がない。カップ麺から漏れ出してくる醤油スープの香ばしい匂いを嗅ぎながら、携帯電話を取り出した。画面を見ると楠巳からメールが来ていた。
「いえいえ。
 今度の私の誕生日祝うの忘れないでね。
 それと連絡先教えるの問題ないよー」
楠巳から無事了承を得ることが出来た。これで、あとは僕が芹生さんに楠巳の連絡先を教えれば、僕に課せられたミッションは終了であった。少し麺がふやけてしまうかもしれないが、しょうがない。先にミッションを遂行しよう。まずは楠巳に返信である。
「ありがとう。頑張って覚えておくけど、忘れたらごめん」
楠巳の誕生日を忘れる危険があるので、先に謝っておく。何かしらの保険となればいいのだが。次に芹生さんにメールである。こういう気の小ささを出してしまうのも僕である。
「楠巳の連絡先です。
 忘れずにメールしてやってね」
メールを送る、というのと誕生日を祝うという内容に違いはあるものの、自分が出来そうにないことを平気で人にお願いするのもどうかと思ったが、気づいたときには送信ボタンを押していた。まあ、僕は人一倍忘れやすい人間だから…ということにしておこう。すっかり熱々ではなくなってしまったカップ麺のふたを開け、麺をすする。麺がいつもより柔らかくなっていたが、気になるというほどではなかった。三口ほどすすったところで、芹生さんからメールが返ってきた。
「ありがとう!」
その言葉を見て、僕は自分に課せられたミッションが完了したことを実感した。一仕事(大したことはない)を終えた僕はようやく、カップ麺を食べることに集中する事が出来た。少し冷めかかってはいたものの、何だかいつもよりおいしく感じた。ふぅ、と息をつき今更ながら、食べる前に手を合わせるのを忘れていた。
「いただきます」
かかった手間や時間は手料理なんかに劣るだろうが、カップ麺には、完成までには色んな人が関わって手間や時間がかけられている。開発だとか製造だとか、販売だとか、僕が知る由もない世界を経て、カップ麺をこうして僕は食すことが出来ている。それらに関わっているであろう人々のことを何となく思い浮かべながら、食事の始まりの挨拶をした。外から聞こえてくる雨の音にかき消されるほどの声量ではあったが、届くべき人の所に感謝の気持ちが届くことを願った。もちろん届く訳はないし、届いたところでどうなるという話でもないのだが。こういうのは気持ちが大切なんだ、そうだろう?

 昼食を食べ終えてからは、昔から部屋にある漫画をベッドに寝転がりながら読んで過ごした。何度も読んだことのあるものではあるが、早起きして学校に行ったというだけで、何となくいつもと違った気分で読むことが出来ている。一仕事終えた後のご褒美みたいなものだろうか。漫画を楽しんでいるこの時間が非常に有意義であるかのように錯覚していた。休日の昼間にだらだらと過ごしていたあの時の僕を叱ってやりたくなった。ただ、何十人もの僕を相手にしなくてはならないので、思うだけにしておいた。

 コンコン

 窓の方向、ベッドに寝転がる僕の足下の傍にある出窓から何かがぶつかるような音がした。雨が窓を叩く音にしては、はっきりとした音だった。まるで、扉をノックしたときのような一定のリズムを刻んだ明瞭な音だった。

 コンコン

 もう一度聞こえてきた。やはりノックのように聞こえた。けれど、僕の部屋は二階にある。窓の外はベランダなどないから、通常のようにノックをするのであれば、長い梯子などを使うか、空中にフワフワと浮かぶかしなければならない。当然、後者は有り得ない。では、前者か。梯子を立てかけるスペースがないため、それも無理だ。なにせすぐ隣には芹生さんの家がある。

 コンコン

 確か、母親だか芹生さんだかが言っていた。僕の家と芹生さんの家は鏡写しのような作りになっていると。つまり、芹生さんの家に面した側の僕の部屋の窓の向こうには芹生さんの家の窓があるのである。ということは恐らく芹生さんが自分の家の部屋の窓から、どうにかして、僕の部屋の窓を叩いているのである。急に窓を叩くとかやめてくれよ、こっちは結構びっくりしたんだぞ。
 これ以上叩かれても困るので、僕は窓を開けることにした。そしてちょっと文句を言ってやろうと思った。

 ガラガラッ

 いらだちが募っていた分、少し勢いよく窓を開けた。そして、開けた先に予想通りにそこには芹生さんの姿があった。ただ予想外だったのは、芹生さんの様子だ。傘を片手に、今まさにもう一度窓を叩こうと、肘を曲げて突き刺す構えを取っていた。
 はっきりいって怖かった。あとほんの一瞬、窓を開けるのが遅れていれば、僕が窓を開けた瞬間に、傘が僕の体のどこかしらに刺さる結果になっていたかもしれなかった。家にいてこんな危険な目に遭いそうになるとは思わなかった。僕もまだまだであった。たとえ、自宅であっても油断してはならないということだ。いや、そんなわけあるか、馬鹿か。
 それにしても芹生さんには本当に色々と乱されてばかりである。
「あの…芹生さん?」
「えっと、窓があって…多分中崎君の部屋だろうなと思って、それで…はい」
「急に窓叩かれてびっくりしたんだけど」
あまり強く言うつもりはなかったが、その時僕が発した言葉には少し怒気がこもっていた。
「あ…、ご、ごめんなさい」
僕の言葉を聞いて、自分がしたことに罪悪感を覚え始めたようで、声が消え入りそうになっていた。
「えっと、まあ、これからは気をつけて窓を叩いてくれ。」
と言ってはみたものの、別に窓を叩く必要はないなと思った。気をつけて窓を開けるっていうのもよく分からなかったし。ともかくその時の僕は突然の出来事に冷静さを保てていなかったのだと思う。そういうことにしておいてくれ。
「その…、軽い気持ちで、やっちゃいました。ごめんなさい」
「まあ、その気持ちは分からないでもないけど…。なんかこうやって窓越しに会話するの面白くなってきたし」
 芹生さんが素直に謝ってくれたということが一つ、
 僕が女子に甘くなってしまうということが一つ、
 あと、ちょっと怒ってるように見せ過ぎてしまったかな、という申し訳なさみたいなものがあったことが一つ、
 さっきまで突然の事態に怒りの気持ちがあったはずだが、話している内にいつの間にかどこかへ消えさってしまっていた。怒るどころか今の状況を楽しみつつあった。落ち着いて状況が見られるようになった分、顔に時折ぶつかる雨粒にいらだちを覚えなくもなかったが、それほど気にするものでもなかった。
「その…本当にごめん、なさい」
「ん、まあもう謝らなくても大丈夫だよ」
その時の僕はもう怒っていなかったけど、彼女はもう一度謝った。それも先ほどより深刻そうに、より申し訳なさそうに。途切れ途切れに言葉を紡ぐものだから、彼女の顔に当たる雨粒が涙に見えてきて、こちらこそ申し訳なかった。泣かせるつもりは全くなかったというのに。
「これからは安全に相手を呼び出せて、顔が濡れないように会話が出来る方法考えなきゃいけないね」
出来うるかぎりの笑顔でそう言った。彼女が笑顔を取り戻してくれることを願いながらそう言った。
「ありがとう、中崎君。これからは気をつけます…」
普段通りの笑顔とまではいかなかったけれど、彼女は少しほっとした表情を見せてくれた。その顔をみて僕も胸をなで下ろした。
「その部屋は芹生さんの部屋なの?」
「うん、そう。…この出窓おしゃれでいいよね」
「うん、僕もそう思うよ」
言葉を交わしていく内に、少しづつ彼女は笑顔を見せるようになっていった。それから少しの間、ゆっくりと会話をした。雨が降るのも気にせずに窓越しで僕らは話を続けた。
「中崎君がいい人で良かった。…これからも仲良くしてほしい、です…」
会話を終える時に、最後彼女は言葉を少し詰まらせながらそう言った。
「僕みたいなので良ければ、ね」
別に彼女と仲良くすることに不満はないので、考えることなく僕はそんな風に答えた。まあ、今日みたいに不可解な行動をされたらどうだかわからないけどね。
 いや、「考えることなく」はおかしいか。確かにその時の僕は彼女と仲良くすることに関して何も考えてはいなかったのだが、それは他のことについて考えていたからなのだ。
 芹生さんは僕を「いい人」だと評した。芹生さんにとって僕のどこら辺をしていい人だと評するに至るかは分からないけれど、僕が僕を評価するなら、僕が自己を評価するなら決して「いい人」にはならない。
 ごめんね、芹生さん。僕は「いい人」なんかじゃあないんだよ。見誤らないでくれ、お願いだから。



 夢を見た。昨日、いやおととい見た夢ではある駅のホームに立っていた僕だったが、今日は全く違っていた。二日続けて同じ夢を見るような経験はしたことがないので、今日の夢が別の舞台でどれだけ繰り広げられようと、別におかしな話ではない。そもそも昨日見た夢の内容は全く覚えていないので、二日続けてなのか、三日続けてなのか判断を下すのは不可能である。
 そんな今日の夢の舞台はとある学校の教室だった。室内の前後に大きな黒板があって、その間の床には机と椅子がある程度均等に並んでいた。その他にも黒板消しやチョーク、掃除用具が入っているであろうロッカーなど、この部屋を教室たらしめている物が至る所に確認できた。ただ以前見た夢同様にこれまた見覚えのない場所だった。まず分かることは、僕が現在通っている習柄中学校の教室ではないということだった。僕が現在多くの時間を過ごしている二年二組の教室にあるものは一つもここにはない。かと言って、一年生の時の教室でもない。それどころか、ここは中学校の教室ではない気さえする。僕は他の中学校の教室に行ったことがあるわけではないけれど、ここは何だか雰囲気が違う。僕はある机の上に座っているのだが、心なしか小さく感じる。当然、机だけでなく椅子もそうなのである。そのことに気づいて、辺りを見回してみると、またあることに気づいた。掲示板にある時間割の表の中に「数学」という科目がなかった。中学生ではどこでも当たり前に学ぶべき一つの科目であり、僕が苦手としている科目の一つである。そんな「数学」の代わりに表にあったのは、「算数」だった。「算数」という科目は僕は小学校まで習っていた。津々浦々、老若男女がそうだったと思う。「老」に関しては少し不安なところがあるが、多分そうだと思う。そして、その「算数」が中学校に入ってからはなぜだか「数学」へと名前を変えた。入学した頃は名称が変わって、それを学ぶ自分は一つ大人になった気がしたし、授業内容自体それほど難しいものではなかったので、どちらかと好意的な印象を持っていた。いつからか、上手く問題を解くことが出来なくなり、学んでも面白くないものだと思い、自ら進んで学ぶことをしなくなった。「算数」ならそれなりに高得点取れていたと思うんだけどな。ということで今回の夢の舞台はどこかの小学校の教室のようだった。駅といい小学校といい、見覚えのある風景ならまだしも、見覚えのない場所が出てくるとこれからの行動に不安が大いに生じてしまう。実際に行ったこともなければ、テレビや漫画で見た風景のどれとも似通っていないこの風景を僕はどうやって作り出したのだろう。僕が思い出そうとしても、思い出せないくらいに脳の隅の隅に追いやられていて、夢を見るときだけ隅から引っ張り出してくるのだろうか。脳ってのは、よくもまあこんなことをやらかすものなのか。
 ここから何か動きはないのか、教室にいても誰かが入ってくることなど起こらなくて寂しくなってきて、加えて少し恐怖の気持ちも出てきた。どうやら待っているだけではダメみたいだと思い、自分から動くことにしてみた。乗っていた机から下りて、教室の出口へと向かうことにした。扉の前について、扉に手をかけようと、右手を伸ばした瞬間、

 ガラッ

手が扉に触れる前に、扉が開いた。
「あ、ここにいたんだ」
目の前に突然現れた少女はどこか聞き覚えのある声で、そう言った。すごく明るくてかわいらしい女の子の声。声色や背丈の感じからすると、扉の先にいたのは、この前の夢にもいた少女のようだった。こうして改めて近くで見ると本当に小さな少女だった。駅で見たときは不思議な気がしたのだが、それは場所のせいだったのか。この小さな少女が駅で一人でいると、それはおかしい。周りに親などの保護者がいなかったから、しっくりこなかった。この小さな少女は本来こういう小学校にいるべきなのだ。ただ、夢の中という条件があるならば、「駅で一人きりの小さな少女」と「学校で一人きりの小さな少女」では前者の方がそれらしいといえばそれらしいか。
「今日も会えたね、嬉しいな」
今日の少女は前と比べて楽しそうにしていた。少女はここにいる僕のことを認識しているようだったので、一応はこの夢は続き、ということなのだろう。
「今日はどんなお話しようかなー」
ここにいる少女を僕はこういう所にいるべきだと評したのだが、そもそも僕はこの少女を現実では知らないので、僕の夢の中にいるというのはおかしな話だと思った。けれど、この少女は僕と少女自身がこの夢の中で出会うことに理解を覚えていた。当たり前のように接していたのだった。
「もっとたくさん会えたらいいんだけどなー。それなら何を話すかいちいち考えたりしなくてもいいんだろうけど」
小さな少女が言った言葉はこうしてはっきりと覚えていた。けれど、その都度返事をしたであろう僕の言葉は全く思い出せなかった。何度試してみても、思い出せるのは教室の風景と少女の笑顔でだけだった。そして、少女の顔を思い出す度に僕は、この少女がどことなく芹生さんに似ていると思った。顔の全体的な雰囲気に少し彼女の面影が残っているような気がした。幼い頃の、今より少し無邪気な子供だった頃の芹生さん。
 そう考えればそうとしか見えなくなってきた。でも、幼い頃の芹生さんが僕の夢の中に出てくる理由が分からない。もしかしたら、昔に僕と芹生さんは出会っていたのかもしれない。僕が覚えていないだけで。でも、そんな物語みたいなことがあるのか?勘違いの可能性もある。今度芹生さんに会ったときに顔をしっかり見ておこう。そしたら何か分かるかもしれない。思い出すかもしれない。
「またね」
そこで、僕は目を覚ました。


 昨日と打って変わる、なんてことはなく今日も雨模様の朝、いや昼の始まりだった。僕が目を覚ましたのは十一時を過ぎた頃だった。午前中ではあるものの、朝とはよべないこの時刻。学校に行かなくてもいい土曜日ではあるとはいえ、さすがに眠りすぎた。これじゃあ、朝ご飯と昼ご飯が一緒になるな。なんてことを考えながら布団をどかして、ベッドを下りた。父は仕事だと言っていたし、母は昼頃から用事があると言っていたはずなので、僕は家に一人きりだった。寝ぼけ眼をこすりながら、ひとまず一階へと下りることにした。こういう日には母がリビングの机の上に書き置きをしてくれていることがほとんどなので、それを確認するためだった。

「友達と会ったり、買い物に行ったりしてきます。
帰りは夕方頃になります。冷蔵庫の中の物とか自由に食べていいよ」

夕方頃まで僕はこの家に一人というわけだ。それまで、この家の主は僕で何をするにも僕の好き勝手振る舞えるというわけだ。さて、まずは空腹を満たすか。腹が減っては戦は出来ないというからな。冷蔵庫の中の物という物全てを食い漁るところから、僕の時代を始めてやろう。
 というのはさすがに冗談であった。食い漁ってやるほどの食い気も根気も僕にはなかった。食い漁ることを初めとした好き勝手な振る舞いなんてしようものなら即刻勘当されて、路頭に迷うこと間違いなしである。もしくは病院に連れて行かれるかだろう。そんな馬鹿みたいな冗談を考えながら、腹八分になるくらいまで、冷蔵庫にあった昨日の夕食の残りのおかずなどを食べた。家に自分一人しかいないから、特に気遣うことなく馬鹿なことにばかり考えを巡らせていた。というか、巡らせるだけでなく口に出していた。周りに人が居なくて良かった。馬鹿な独り言をぶつぶつと呟く姿はきっと変人に見えたことだろう。盗聴器とか仕掛けられたりしてないよね?
 それからは普段出来ないこと、行うのが難しいことの一つである、録画してあるテレビ番組の消化をすることにした。僕の部屋にテレビ自体はあるのだが、電波を受信しないテレビゲーム専用のものと化しているため、両親が観たい番組の裏でやっているものや、時間帯の関係で観れないものを、録画しておいて休日に消化するのである。我が家のテレビのリモコンは父、母、僕の順で扱うことが出来るので、基本的には父が観たい番組が流れていることが多い。そのため、僕が観たい番組が父や母と重なることがない限り、テレビで僕の希望通りの物が流れることはないのだ。録画する番組のジャンルはアニメやバラエティ番組が多い。それ以外だと連続ドラマの類だろうか。連続ドラマは僕自身あまり視聴することはないのだが、周りの会話に少しでも付いていく為には必要なのである。特に楠巳なんかはそういうものが特にお気に入りなようで、バスの中でしきりに話したがるので、困り物だった。そうやって彼女が必死に薦めてくるものを、全く観ないという訳にもいかないので、録画をしてでも視聴をするようになった。以前は仕方なく、と言う感じだった僕も今では、同じ時期に始まる連続ドラマの内の一、二本は彼女に勧められる前から観るようになった。まあ、楠巳はほとんど観ているらしいが。僕は録画してある番組の中から、連続ドラマを優先的に消化していった。高校を舞台にした青春がテーマのもの、楠巳に薦められ独身女性と年下男の恋愛を描いたもの。とても有意義な休日の過ごし方だと思った。まあ、普段の僕は部屋に引きこもって漫画や小説を読むしかしていないため、それと比べると、という話である。録画番組の消化というのも家に引きこもっているという点では同じであるが、楠巳という他人のことを考えてる時点ではいくらか前向きな気はする。…あくまで僕個人の意見である。
 録画番組の消化を終える頃には母が帰宅していた。最後の番組を消化し終わった僕は部屋へと向かって、翌日の予定などすっかり忘れて夕飯の時間までだらだらと過ごした。予定に関して僕が思い出したのは、夕食を終えて携帯電話に届いていたメッセージの通知に気づいてからであった。

「ごめんなさい、今って時間ありますか?」

それは芹生さんからのものだった。改まった感じの文章に不審な気持ちを抱きながらも、返信をすることにした。メッセージが届いた時刻を見ると、十分ほど前だから芹生さんが言う「今」の誤差の範囲内だろう。

「今は大丈夫だよ。何かあった?」

と返すと、すぐに返信があった。

「明日着ていく服で何がいいか分からなくて…。相談に乗ってもらえませんか?」

女子が着ていく服の相談だと…。なぜ僕に聞くんだ。僕はファッションについて詳しい人間ではない。自慢ではないが、いわゆるおしゃれな格好を僕はしたことがない。それなのに、男子ならまだしも女子の服装の相談など無理な話だった。楠巳にでも聞けばいいのにな、それも明日とか急な話だ、明日どこに何しに行くか知らないけれど…。なんてことを考えながらメールの返信をどうするべきか悩んでいた。
 そこまで考えて、僕はようやく明日の予定を思い出したのだった。
「あ、明日一緒に買い物行く日か。楠巳に誘われてたの忘れてた」
たった二日前のことを僕はすっかり忘れていたのだった。あまり乗り気ではなかったとはいえ、面と向かって誘いを受けて、了承の返事をしてしまった手前、今更断るわけにも行くまい。なぜ、僕に服の相談をしてきたのかは皆目検討もつかなかったが、予定を思い出させてくれたことは、芹生さんのお手柄だ。スタンディングオベーションものである。そう思った僕は、彼女に協力することにした。

「別に構わないけど…、どうすればいいんだろう?」

しかし、どのようにすればいいかはわからなかったので、素直に尋ねてみた。僕が予定を忘れていたことは悟られないように自然な文章を作った。この時は予定をすっぽかさなくて良かったという安心の気持ちが強く、今にして思えば相談に乗るのがなぜ僕であるのかという悩みを忘れることなく、尋ねておけば良かったと後悔した。

「良かった!ありがとう。それじゃあ、窓からこっちの方見てもらってもいい?」

そのメッセージが来てから、僕は深く考えることなどせずに閉めていたカーテンを開き、窓の向こうを見た。そこには制服ではない(当たり前である)芹生さんが部屋の窓を開けた状態で立っていた。雨が降り込んだりはしないのだろうか心配になった。少し見えづらかったため、僕も自室の窓を開けて見ることにした。雨は小降りでこれなら降り込む心配はなさそうだった。芹生さんは腰より少し下辺りまで続く白の長袖のワンピースのようなものにデニム生地の長いパンツを履いていた。ワンピースのようなものは、この距離でははっきりとは分からなかったが、花のようなデザインが裾の部分などに施されてあるようで、かわいらしいものだった。

「おかしくない…かな?」

芹生さんの服をじっと見つめていると、彼女からメールが届いた。ただ見られているだけでは不安になったのだろう。けれど、声を届けるには身を乗り出さなければならないだろうから、彼女はメールで聞くことを選んだらしかった。折角着ていくかもしれない服が濡れたりするのは嫌だろうし。

「おかしくないよ。あとは足下とか濡れるかもしれないから、今着てるそれが濡れても構わないものなら大丈夫だよ」
送ったメールの文章の後半部分は、この町で暮らす先輩である僕から後輩である芹生さんへの少しばかりのアドバイスだった。というか服装の善し悪しだとか、こうしたほうがいいとかアドバイス出来るほどのファッションセンスを僕は備えていない。
 メールを送信してから、彼女が見て分かるように僕はオッケーという合図をした。それを見て芹生さんは笑ってくれた。これで、彼女の悩みは無事解消するものかな?と思ったら、ところがどっこい更にメールが送られてきた。

「じゃあ、他のパターンも見てもらっていい?」

え、他のパターン?僕は驚きを隠せなかった。断ってしまいたいところだったが、一度は許してしまったため、逃げにくかった。

「いいよ。こんな僕でよければね」

奇しくも、昨日と似たようなセリフを吐いてしまった。相変わらず自己評価の低い僕である。加えて、つくづく僕は小心者だった。
 それから僕は時間にしておよそ一時間。五、六個のパターンのコーディネートを見せられて、その都度それっぽい感想を言って、その場を何とか乗り切った。安請け合いなんてするもんじゃない、それが今日僕が学んだことだった。



 今日も夢を見た。けれど内容は覚えてない。あの小さな少女は今日も登場したような気がした。その時に改めてその少女と芹生さんを頭の中で並べて比較してみたが、似ているような気はしたが、何となく別人のような気がした。どこが、とは具体的に挙げられないのだが、どこがが違った。まあ、そもそも幼い頃に芹生小町なる少女に僕が出会った記憶はないので当然といえば当然であった。
 ただ、そうなると夢の中に出てくるあの小さな少女は一体何者なのだろうか。幼い頃の芹生さんではない。芹生さんではないからといって楠巳というわけでもないだろう。女の子であることは確かなので、北外や乾ではないことは確実である。現実で僕が出会ってきた誰かではなければ、果たして何者なのか。テレビに出ている子役などでもあんな少女はいなかった気がするし。だとしたら僕の妄想の産物なのか?自分で考えておきながらそれは非常に気持ちが悪い話である。夢の中の小さな少女のことをこうも考えている時点で十二分に気持ちは悪いのだが。それにしても分からない。まあ、なるようになるかな。そのうち夢に出てこなくなって、その少女のことなんてすっかり忘れてしまうのだろう。なにせ僕は忘れっぽい人間なのだから。二日前に約束したことでさえ忘れてしまうような人間なのである。その少女には少し悪い気がしなくもないが、いつか忘れてしまうのである。ごめんよ、名も知らぬ少女。君という存在を忘れてしまうだろうということをすっかり忘れてしまう前に謝罪をしておく。事前に謝っておくなんて、今日も相変わらずの小心者っぷりである。

 日曜日。昨日に続く休日であったが、今朝は惰眠を貪ることなく、目覚まし時計をセットして朝七時に起きることが出来た。万人が万人、朝と呼ぶ時刻である。昨日とはまるで別人のような朝を迎えることが出来て、僕の心はその時は晴れやかであったように思う。けれどもちろん、空はいつも通り晴れやかではなかった。今日の待ち合わせは正午に習柄駅の改札口前。習柄駅までは最寄りのバス停からバスを使って約一時間。つまり家を十一時までに出れば待ち合わせの時間に間に合う計算だった。では、なぜそんなにも早く起きたのか。それには当然理由があった。昨晩楠巳から

「明日もしも遅刻したりしたら、何かおごってもらうからね」

という連絡が来ていた。そうなると遅刻するわけにはいかない。北外とは違う、僕に限って遅刻など万に一つもありはしないだろうが、小心者で用心深い僕である。芹生さんのファッションショーを終えて、そのメールを確認した僕は早い時間に目覚まし時計をセットして、それからいつもより早い時間に床に入ったのだった。
 非常に眠気はあったものの、無事に早起きをすることが出来た僕は、それから順調に身支度を整え、出かける用意が出来たのは当初の予定の二時間前の朝九時頃だった。余裕を持って行動をするために家を出よう、トラブルが起きる可能性はゼロではない。早く向こうに着いてもコンビニなどで時間を潰せば大丈夫、などと考えていた時に携帯電話が反応した。ズボンのポケットから携帯電話を取り出し、画面を見る。

「今さらで申し訳ないんだけど…、駅まで一緒に行こう?」

それは芹生さんからのメールだった。考えてみれば、隣同士に住んでいるから、当然最寄りのバス停は同じである。駅前に一緒に待ち合わせをしているのであれば、一緒に行くのが普通である。
 けれど、全くそこまで考えが及んでいなかった。なのでもちろん、芹生さんへの返事はオーケーである。問題は何時頃に一緒に家を出るかであった。その時、僕は全ての準備を済ませていて、今すぐに出ようと言われても全く問題はなかった。だが、

「ありがとう。それじゃあ、十時半頃にここを出る感じで間に合うよね?」

芹生さんにそう言われてしまった。もちろん、出発するタイミングとして問題なく間に合う時刻であった。交通事故にでも遭わない限り、それで問題はなかった。あまりにも早く出発しようとしていた僕がおかしいのである。だから、僕がそこで拒否するわけにはいかなかったので、

「うん、それで大丈夫。間に合う時間だよ」
と返した。「準備ができたら、メールするね」という返信を確認した僕は、出発まで一時間半ほどの自由時間を漫画を読みながら過ごすことにした。早起きは三文の得、なんて言葉があるけれど、今日の僕にそんな得するようなことが起こるのだろうか。その時点では全くそんな気はしなかった。


 コンコン

 突如背後の方から音がした。それは聞き覚えのある僕の部屋の窓を叩く音だった。
「また芹生さんか…。」
まあ、恐らく今日は安全に窓を叩いてくれてるはずだとは思った。窓の向こう側で待っているであろう彼女に反応する前に、一度携帯電話を確認した。彼女からこちらに連絡はなかった。時刻は十時二十分、出発予定時刻より少し早い時間だった。漫画を読むのに意外と没頭してしまっていた。
「メールじゃなくて窓…、何かあったのかな?」
彼女は「準備ができたら、メールをする」と言っていた。もしかしたら、昨晩に続いてモデル一人、観客一人のファッションショーが開催されるのかな?と少し身構えた。正直もうあれはうんざりだった。
 何の用事だろうかと思いながら、窓を開けて芹生さんの家を見やると、彼女は笑いながらこっちを見て立っていた。今回は何を使って窓を叩いたのだろう。音の違いが分からなかったからまた傘かもしれなかったが、安全に叩いてくれるのなら僕の身に危険が及ぶことはないだろう。
「準備できたから行こう!」
「メールするって言ってたじゃん!」
彼女の思いがけない行動に僕は思わずつっこみをしてしまった。彼女がきょとんとした顔を見せたので、それからは僕は深く考えることをやめて、
「…じゃあ、行こうか」
大人しく出かけることにした。いつもニコニコしていて明るい感じなのに、あまりにも脆いところがあったり、こうして抜けているところがあったりと、お隣さんの僕は彼女に振り回されっぱなしだった。


 習柄町には少し大きめの川がある。そこを境に駅がある都会のような街並みと静かな住宅街とで分かれている。必ずしもそうであるというわけではないが、そうなっている場所が多い。学校は住宅街の方向にあるから、今日の目的地である駅前に行くにはいつもと逆の方向のバスに乗って行かなければならない。
 バスに乗って、楠巳の家があるであろう辺りを横目に、住宅街をを抜けたら川とそこに架かる橋が見える。橋を越えてから道が細くなるため、バスは速度を少しゆるめて道を走っていく。何度も信号に引っかかりながらも、ゆっくりゆっくり進んでいく。隣に座る芹生さんは窓から見える風景のお店やビルなどの建物などを目で追いかけながら、楽しそうに見ていた。街並みの風景など何も珍しいものでもないだろうに、彼女は子供みたいに窓に張り付きそうになりながら、必死に見つめていたようだった。
「何か気になるものでもあった?」
「うーん、これっていうのはないんだけど、何となく素敵だなあって思いながら見てた」
「そっか」
彼女は何が楽しくて、何が好きで外を見ているか分からなかったけど、自分が暮らす町を素敵だと言ってもらえて僕は嬉しかった。そしてちょっと恥ずかしかった。でも、それを表に出さずに照れ隠しをするのが僕である。別に僕が治めてるってわけでもないし、こっちの駅側に来ることはあまりないんだけどね。
「あとは、歩いてる人たちの傘とかレインブーツがカラフルなのがいいなあ」
「やっぱり他の町とか…芹生さんが住んでた所とかと比べると、バリエーション豊富だったりするのかな?」
「うん、多分そうだと思う」
「へえ、そうなんだ。今日買う時の欲しいデザインとか決まってたりするの?」
「えっとね、傘は透明なのがいいなあっては思ってる。靴は色々見てみてからかなって感じ」
「いいのが見つかるといいね」
「うん!」
今日も芹生さんの笑顔はキラキラ輝いていた。僕みたいな陰気な人間にはそれこそ眩しすぎるくらいに。普段、眩しいなんて感じることはないから、貴重な体験であった。実は僕が暗めな性格してるのはこの町が原因だったりして。まあ、そんなことないか。

 特に遅れることなどなくバスは定刻通り、駅前に到着した。途中から車内にいっぱいになった乗客はみんな、この駅前で降りていく。座席に座っていた僕と芹生さんは、他の人が降りるのをゆっくり待って降りることにした。待ち合わせの時間までは三十分ほどあるから、慌てて降りる必要はなかった。
 待つ間ふと外を見ると駅に向かう人混み、駅へと続く歩道橋の辺りにいる人々の中に楠巳が見えた。同じバスには乗っていなかったはずなので、一つ早いバスに乗っていたようだ。僕らでも充分早かったのに、楠巳はそれよりも少しばかり早かった。まあ、当初の僕の予定だと今頃はコンビニで立ち読みでもして、時間を持て余していただろうから、それほどではないがな、なんて内心勝ち誇ってみた。
 あらかた乗客が降り終えたのを見て、僕らも席を立ちバスを降りた。学校の時みたいに無料というわけにはいかないので、もちろん運賃は払った。バスを降りて、傍にある歩道橋を上って駅に向かう人々の後についていった。駅前の広場に着いてからは隣接したデパートに入っていく人々、電車に乗るために改札口へと向かう人々などに分かれた。僕らの待ち合わせ場所はこの広場なので、あちこちに歩いていく人の流れには乗らずに周囲を見渡しながらゆっくり歩いた。先ほど見た楠巳の影が本人である確証はその時なかったので、彼女を探しながら歩いた。もし本人だったなら既にこの広場に到着しているはずだと思ったので、その場で立ち止まっている人に注目して探すことにした。
 そうすると広場の奥の方、てっぺんに時計がある柱の下に楠巳はいた。その時の楠巳は手鏡を片手に身だしなみをチェックしていて、僕らが視線の先にいることに気が付くと恥ずかしそうに慌てて手鏡を持っていたバッグの中にしまった。
「おはよう、楠巳」
「おはよう、楠巳ちゃん」
「おはよう二人とも、…来るの早くない?」
「楠巳こそ早いよ。…あー、ごめんな。身だしなみ整えてたみたい、だな」
「まあ家出るときに整えたから大丈夫、さっきのはこう、最終確認みたいな感じだから、大丈夫、気にしないで」
単語で区切って喋る楠巳は少し動揺しているように見えた。まあ、あまり他人に見られたくはないものだよな。ほんとにごめんよ。
「まあ、何かおごってくれる…、なら許してあげなくもないかなー」
「あー、まあいいぞ」
遅刻しておごるのが嫌だったから、早起きしたのに結局おごる羽目になるのは少ししゃくだったが、小さい男だと思われたりしても困るのでそう答えた。
「え、おごってくれんの?言ってみるもんだなあ。そんじゃあ、よろしく」
どうやら冗談半分だったらしい。もしかしたら遅刻したらって場合も冗談だったのかもしれなかった。まあ、こんなことで腹立てても面倒だし、素直に従おう。男に二言はないよ。
「服とかはさすがにおごってくれたりしないよね…?」
「いや、さすがにそれは無理。ジュースとかで」
いくら器の大きな僕でもそれは無理な話だ。そもそもそんなお金がない。金欠だから今日の買い物で僕は何も買う予定はなかった。そこら辺分かって欲しいな。分かるわけないけど。
「ま、そうだよね。そんじゃ、あとでよろしく」
挨拶もそこそこにそれから僕らは動き出した。今日買う予定のものは、芹生さんの雨具だったので、駅に隣接したデパートの中にある「カサブランカ」の店に向かうことになった。


 「カサブランカ」はこの習柄町発祥のブランドである。そして、この駅のデパートは町で一番人が訪れる場所である。そのため、デパートに入っている「カサブランカ」の店は非常に広い。敷地面積というのだろうか、その名称が正しいのかは分からないが、このデパート内において最も敷地面積を占めている店が「カサブランカ」である。なにせ三階と四階のフロアは全て「カサブランカ」の店舗となっているからだ。三階は傘、四階はレインブーツやカッパなどといった感じで分かれている。
 まずは傘が見たい、という芹生さんの要望を受け、僕らは三階の「カサブランカ」に向かった。フロア内は中央のレジを中心にメンズとレディース半分半分に分かれていて、そこから普通の雨傘、折りたたみ傘、晴雨兼用の傘など様々な用途の物で分けられていた。もちろん、デザインも様々であった。
「中崎は自分の見なくていいの?」
「特に新しいの欲しいとかはないし、お金もない」
ということで、少し抵抗はあるものの、二人と一緒にレディースの傘が並ぶエリアに付いて行くことにした。このエリアに全く男性がいないわけではなかったが、いる男性は僕以外は若いカップルや夫婦にしか見えないつがいの片割れであった。僕もデートでここに来るような日が果たして来るのだろうか、などと考えながら、二人の買い物の様子を見ていた。ここからしばらくの間、僕は無言であった。
「晴雨兼用じゃなくてもいいよね?デザイン色々ないからいいの見つかんないと思うんだよね」
「うん、普通のでいい、いや普通のがいいなあ」
「よし、じゃあ普通のやつから探そう。何か色とかデザインとか希望ある?」
「透明なやつがいいな。デザインは…なんかかわいい模様のやつなら」
「透明なのでいいの?透明じゃない方が色々デザインあると思うんだけどな」
「うん、透明なのがいい。その中から好きなの選ぶよ」
「そっか、じゃあビニール傘が並んでる所があったはずだからそっちに行こう」
そんな感じで買う傘の方向性を決めてから、二人はすいすいと人の間を抜けながら目的地へと向かった。あんまり距離が離れてしまうと、男一人でレディースのエリアをうろついているおかしな奴に見られかねないので、置いていかれないように後を追った。ビニール傘のエリアで立ち止まった二人に追いついた頃、二人は一本一本傘を吟味していたようで、遅れてたどり着いた僕のことが視界に入っていなかった。水玉が散りばめられたもの、ハートが散りばめられたもの、五線譜のようなものが引かれたものなど様々なデザインのものがあった。そこから色違いや、傘の大きさ、柄のデザインなどを含めるとビニール傘だけで何十種類もあるように思えた。やはり品揃えに関してさすがだと思った。普段の生活で全く問題なく使用出来ているから、機能性に関しては言わずもがなである。いつの間にか会社の人間みたいなコメントをする僕である。
「これと、これとどっちかで迷うなあ~」
そう言って芹生さんが手に取ったものは、猫のシルエットがデザインされたものと、夜空を思わせる星や月がデザインされたものだった。
「うーん、どっちもいい感じだねー」
楠巳にとっても甲乙つけがたいものらしかった。確かにどちらもかわいらしい感じだとは思った。何となくだけど、どちらも芹生さんにはぴったり合うような気がした。
「よし、ここは中崎に決めてもらおう」
「え、何で」
後ろから傍観を決め込んでいた僕だったが、突然表舞台に引っ張り出された。
「こうして買い物に付いて来てくれたんだから、少しは芹生ちゃんの力になってよ」
そう言われては確かにそうだ、返す言葉がない。なぜだか女子二人の買い物に付き合わされた形となってしまってはいたが、このまま何もしないままでは僕がいる必要性を示すことができない。
 だが、人がこれから使うことになる物を僕の一存で決めてしまっていいものだろうか。そうだ、僕がそんなことしてはいけない。楠巳が勝手に言い出したことだ。芹生さんは望んでいないかもしれない。
「中崎君、お願いします」
葛藤の末に芹生さん自身の気持ちを問いただそうとしたところで、彼女からお願いをされてしまった。
「僕なんかが決めていいのか?芹生さん」
「うん、お願いしたい」
困ったことになった。そんな責任あるようなことを僕に頼まないで欲しかった。もしも、僕が選んだ物を買ってから後悔するようなことにはなってほしくなかった。たとえ、僕に責任はないなどと言われたとしても僕は責任を感じてしまう。一生その後悔に悩まされてしまうかもしれない。
 僕に向けられた芹生さんのまっすぐな目を見つめ返しながら僕は苦肉の策としてある一つの提案をした。
「それじゃあさ、僕が目をつぶるから芹生さんはその間に持ってる傘を右手、左手それぞれ好きな方に持ち替えてくれ。そしたら僕が目を閉じたまま右か左かを選ぶから…それで選んだ方にするっていうのはどう?」
僕にのしかかるかもしれない責任を少しでも回避するため、僕はこの提案をした。きっと、少しは責任を負うことにはなるだろうが、こうすれば傘を選ぶ際に、影響するのは僕と芹生さんの二人になる。責任の重さは僕一人が決断するよりずっと軽いものになるはずだ。
「うん、それでいいよ。ちょっと面白そう」
良かった、芹生さんは承諾してくれた。これで一安心だ。小心者の僕の逃げの一手であったというのに。
「うーん、出来れば選んで欲しかったんだけどね」
そんなことを少し寂しそうに言う芹生さんには申し訳なかったが、仕方がない。僕はやっぱり小さな男だから。
「じゃあ、目を閉じて中崎」
楠巳に促され僕はそっと目を閉じた。右か左か僕は直感で言おうと考えながら、芹生さんの合図を待った。
「よし、中崎君どっち?」
「…右」
そう言って僕はゆっくりと目を開けた。僕が言った右、彼女から見て左の手にある傘のデザインを確認した。それは淡い黄色をした月と星が並んだ夜空のデザインの物だった。
「じゃあ、これ買ってくるね。」
その選択が正しかったのか分からない。もしかしたらどちらの選択も正しかったのかもしれないし、芹生さんが出した二つの時点で、正しくはなかった可能性もある。
 けれど、僕が目を開けたときの彼女は笑っていた。片方の傘を元の位置に戻して、残ったもう片方をぎゅっと握りしめてレジに向かおうとする彼女は笑っていた。正しくはないのかもしれない。後から悔やむようなことになるかもしれない。もっと別のデザインのものが良かったと彼女は思うかもしれない。でも、その時笑ってくれた彼女がいたことは間違いようのない事実だ。それだけで僕は満足だった。あとから責められたりするようなことになったとしても構わないと思った。まあ、多分芹生さんは誰かを責めたりしないような気はどこかでしてはいた。
 無事に傘を購入し終えた僕たちは続いて真上の四階でレインブーツを探すことにした。レインブーツに関しては芹生さんは特に希望はなく、また楠巳の「制服とかさっき買った傘と合う感じの物にしよう」という案に乗って傘ほど時間をかけることなく好みの物を見つけることが出来たようだった。
 僕は芹生さんが傘に続けて透明なレインブーツがいいとか言い出すのではないかと思ったりもしたのだが、そんなことはなく表が落ち着いた茶色で、裏地にチェック模様が入った少し大人っぽい感じの物を選んでいた。これは彼女自身が選んだものだった。
 まあ、透明な靴なんか履く奴を見たことがないし、そもそも天下の「カサブランカ」ブランドといえどそんな物は取り扱ってないだろうな。仮にそんなものがあっても買う人はいないだろう。
 一通りの買い物を終えた僕らはそれから、五階にある喫茶店で休むことにした。少し歩き疲れた足を休めるため、買った品物の整理をするためだった。といっても、その時点で物を買っていたのは芹生さんだけだったから、荷物を抱えていたのは彼女だけだったけれど、一人荷物を抱える芹生さんを見て、楠巳がこの休憩を提案したのだった。
 店の中は僕らと同じように買い物途中の休憩に立ち寄ったような人々で溢れかえっていたが、一つだけ四人席が空いていたので、僕らはそこに座った。僕は冷たいカフェオレを、楠巳は冷たいレモンティー、芹生さんはオレンジジュースを注文した。その時の僕は早起きをしたせいか小腹が空いていたので、サンドイッチの一つでも食べようかなと考えていたのだが、二人がそんな雰囲気ではなかったので、一人だけ何かを食べることがはばかられ、結局飲み物だけを頼んだ。
「これで最低限必要な物買えたね」
「うん、ありがとう楠巳ちゃん。中崎君もありがとう」
「僕は特に何もしてないよ。…で、これから何するの?」
「そうそう、そのことなんだけどさ。これから私と芹生ちゃん二人で別行動とっていいかな?」
「まあ別に構わないけど…。僕は好きにしていいのか?」
「私たちは服とか見たいからね。さすがにそこまで中崎付き合わせるの悪いし。あ、でも自由だからって帰るのはなしだから」
「さすがに帰ったりはしないよ」
「どうだか」
楠巳の僕に対する評価が低かった。まあ、立派な人間じゃないから高くはないだろうけど、そんなことすると思われてるのかなあ、心外だ。軽い冗談だったんだろうけど、そんなことまで考えてしまう。
「まあ、本屋でもうろついてるよ。何かあったら連絡してくれ」
「りょーかい」


 喫茶店を出てから僕らは分かれて行動を開始した。このデパートに服を売る店は多く並んでいるが、二人はまず五階から見ると言って、僕に「また後で」と言い残すやいなや、服が並んでいる店の方へと歩き出して行った。
 一人になった僕は楠巳に告げた言葉通り本屋へと向かうために、上の階に上がることにした。本屋は八階にあるからエレベーターで一気に上がっても良かったのだが、急いでいるわけではなかったし、エスカレーターでゆっくり上がっていくのが僕は好きなので、八階までエスカレーターで上がることにした。
 八階には本屋や楽器店、雑貨屋などが並んでいて、このデパート内で僕はこのフロアに立ち寄ることが多い。本屋に用があることが多いからそうなるのだが、何となく雰囲気が好きなので、ふらふら歩くだけで何かしらの発見があって面白い。雑貨屋に並んでいる商品を見るのとか楽しいと思う。
 今日は特に本屋で購入したい物があるというわけではなかったが、一部の本は立ち読みできるものがあるので、それに目を通して時間を潰すことにした。僕が読む本は大体バドミントンの教則本のようなものばかりである。漫画雑誌なんかは立ち読みできないように封がしてあるので、読めないのが少し残念である。それ以外だと興味があるのはこの町周辺の情報誌くらいだろう。いつもはそんなジャンルの本に一通り目を通すのだが、今日は違った。本屋へ向かう途中にあることを思い出した。
 寝ているときに見る夢の内容について少し調べようと思っていたことを思い出したのだ。普段忘れっぽい僕であるがこの時はふと思い出せた。
 本屋に到着してすぐにそれに関係がありそうな本が並んでいるエリアを物色してみたが、ぱっと見た感じで分かりやすそうな本がなく、試しに一冊手に取ってぱらぱらとめくってみたものの、どれもこれも僕が探しているようなものは見つからなかった。夢に出てくる登場人物は周りにいる人間や、有名人や創作物のキャラクターであることが前提であるようで、それを踏まえた上での「この状況ならあなたの精神はこんな状態だ」みたいな風に書いてある物ばかりだった。僕みたいに見知らぬ人物が何度も出てくるようなことはどうやら一般的ではないらしかった。
 それでも、何となく夢に関連した本を色々と見ていると、気が付けば二人と別れてから二時間ほど経っていた。女子の買い物は長くかかるという話は聞いたことがあったが、こんなにもかかるものかと思いながら、次に何をしようかと考えながら携帯電話の画面とにらめっこしていたら、楠巳から連絡がきた。

「こっちの買い物終わったから合流しよう。
 本屋にいるならそっちに行くよ」

ちょうどいいタイミングだった。本を読むのが一段落したところだったから、心残りなく本屋を後にすることが出来るな、と思いながら

「じゃあ、本屋で待ってる」

と返信をして、こっていた首と肩を軽くマッサージした。立ち読み自体は好きだが、体に負担がかかるのが困り物である。
「お待たせ、中崎」
返信をしてから程なくして二人は本屋にやってきた。二人とも別れる前より荷物が倍くらいに増えていた。いや、楠巳はゼロだったから倍というのはおかしいな。
「もしかして、ずっとここで本読んでたの?」
二人がやってきてからも、僕が肩を揉むのをみて、楠巳が尋ねてきた。
「そうだね、ずっと読んでたよ」
「そんなに読む本とかあるの?」
「まあ、色々とね」
「…やらしいのとか?」
「そんなのは読んでない」
僕を何だと思ってるんだ、全く。そういうものはこのタイミングで読むものじゃないだろう。
「…それより、色々と買ったんだな。持つの大変そうだ」
別れる前は芹生さんだけが荷物を持っていたのに、この時は二人とも両手にたくさんの袋を下げていた。何をそんなに買ったのだろうかと思っていると
「あ、そうそう」
と言って楠巳が手にした袋を右手に移し替え始めた。そして左手に残った最後の一個を僕に向かって差し出してきた。
「これ中崎にプレゼント」
「え、プレゼント?」
急にどうしたのだろうと思った。楠巳から何かプレゼントを貰うようなことをした覚えはなかった。疑問に思いながら受け取ると
「うん、誕生日おめでとう」
と言われた。そうか誕生日プレゼントか。僕の中で誕生日は既に終わったものだったから、プレゼントを貰えるなんて思っていなかった。それに楠巳は当日に祝いのメールをくれていたものだったから、こうしてプレゼントまで貰えるとは思わなかった。
「おお…、そっか、プレゼントかあ」
驚いたものだったから、上手く言葉を発することが出来ずに、お礼が言えなかった。このプレゼントの中身を確かめて良いものか、そのことを楠巳に聞いたほうがいいものか、いやそれよりお礼言えてない、などと考えていると楠巳が
「私から、だけじゃないよ」
と言ったのを聞いて、僕は芹生さんを見た。芹生さんの手には先ほどの楠巳と同様に一つの袋だけが左手にあって、渡す準備が出来ていた。
「誕生日おめでとう、中崎君」
「おお…、あ、ありがとう」
この時も僕は動揺していたのだが、何とかお礼を言えた。そのタイミングで「楠巳もありがとな」とやっとお礼を言うことが出来た。
 僕は二人から誕生日プレゼントを貰った。プレゼントを渡せたからなのか、受け取った僕が言葉を詰まらせていたからなのかは分からなかったが、二人は笑っていた。動揺していた僕の顔があまりにも変になっていたから、ということもあったかもしれない。しょうがないだろ、こんなタイミングで祝ってもらえるなんて思ってなかったんだから。長い付き合いの楠巳はまだしも会ってから数日しか経ってない芹生さんからもプレゼントを貰えるなんて、思わなかった。なんだか申し訳ない気もしてきた。
 たまたま先日誕生日を迎えたというだけである。普通に生きていたら誰しもが迎えることが出来るものである。僕が二日前に誕生日を迎えていたことを教えたのは楠巳だとは思うが、いつの間に一緒にプレゼントを渡そうという話でもしたのだろうか。僕だったらそういう話をされたとしても、出会って数日の友達にプレゼントを渡さないだろうなあ、なんてことを思わず口から漏らすと
「その、色々とお礼も兼ねて、って感じ、です」
なんてことを芹生さんは言っていた。色々、というのは転校初日に家まで案内したことと、今日の買い物に付き合ったこと、だろうか。それならどちらも楠巳がいなければ僕は何もしていなかったと思う。というか前者がなければ後者はありえない。前者があったからこその後者といえる。そう考えると僕はお礼を言われるようなことはしていなかった。

「私がいなくても、中崎なら何とかしたと思うけどな」

初めて芹生さんに会って、帰り道の途中まで一緒に来てくれた楠巳が言ってくれた言葉を思い出した。その時も思ったことだが、楠巳は間違っている。僕みたいな人間が楠巳と同じように出来たとは思わない。楠巳がいなければ、その時芹生さんと話すようにはならなかったと思う。だからこうして一緒に買い物に来て、こうしてプレゼントを貰って誕生日を祝ってもらうことなんてなかったと思う。全て楠巳のおかげなのである。
「そっか…。二人ともありがとな、嬉しいよ」
貰った二つの小さな袋をぎゅっと強く握りしめた。僕は幸せ者だ。楠巳のおかげでこうして二人に祝ってもらえて、生きていて良かった…は大げさかもしれなかったが、とても幸せな日だと思った。今日という日を一生忘れないんじゃないかな、などとも思った。けれど、今日はそれだけでは終わらなかったのである。


 二人からプレゼントを貰って、もうこのデパートですることはなかったので帰ることにした。僕へのプレゼントを渡し終えて持つ袋が一つ減ったとはいえ、二人ともまだ多くの袋を手にしていた。持つのは大変そうだと思ったけど、二人ともとても満足そうな表情をしていた。楠巳が計画した今日の買い物は成功に終わったようだった。
 僕は貰っただけで、買い物はしてなかったけど僕も幸せだった。ちなみに二人とも服や靴下などを買ったと言っていた。二人が買った服などについて話をしているのを隣に並んで聞きながら歩いて、デパートの出入り口の近くまで来た時だ。
 出入り口の自動ドアは人間が三人横一列に並んで通るにはいっぱいいっぱいの幅であった。なので僕は後ろに下がろうと思った。手には大量の荷物があるし、それに目の前から人も来ていたから、その人を通すためには三人が並んでいては駄目だ。僕は歩くペースを緩めて二人の後ろに入ろうとした。
 けれど、僕がそうする前に僕のすぐ隣にいた芹生さんが、僕の服の袖を少し強めに引っ張りながら、ぱっと後ろに下がった。芹生さんがいなくなったスペースには芹生さんが僕を上手く引っ張ったことで上手く入り込んでので、これで自動ドアを難なく通り抜けることが出来るようにはなった。けれど、僕は芹生さんには引っ張られた意味が分からなかったので、芹生さんに意図を確認しようと後ろを振り返った。彼女は下を向いていて、まるで何かにおびえているようだった。今思えば、この時彼女は僕と楠巳を前にすることで、隠れていたのだった。その時の僕は縮こまる芹生さんを見て、どうしたものかと思ったが、その時横から
「雨女」
と声がした。僕の左にいる楠巳の方からではなく、右の方向からそれは聞こえた。
「え?」
咄嗟に放たれた言葉に僕は声の主がいるであろう方向を振り返りながらそう言うことしかできなかった。
 振り返った先には、一人の少女の後ろ姿しかなかった。ちゃんと見ていた訳ではなかったが、服装から判断するにその少女は、先ほど視線の先にいた出入り口付近ですれ違いそうになった少女だった。その少女はそれから一度だけちらりとこちらを見た。一瞬のことだから断定は出来ないけれど、その少女の目はどこか攻撃的に見えた。いらだっているようにも見えたし、蔑んでいるようにも見えた。正しい答えはわからないものの、決してそれは好意的なものだと思えなかった。
 その真意を、聞こえてきた言葉を言ったのは君なのかを、もしそうだとしたらどういう意味で、どういう理由でその言葉を言ったのかを問いただそうと足を後ろに向けようとしたら、また袖を強く引っ張られて上手くいかなかった。
「芹生さん?」
このままでは行動に移せないので、掴んだ手を一度離してもらおうと呼びかけてみた。
「…ごめんなさい。でも、今は…」
顔を上げて僕のことを見ることなく絞り出すような声で彼女はそう言った。どうしたらいいものかわからずに、僕は楠巳の方を見た。
「…バスそろそろ来るから行こっか」
何かを察したのか、それ以上関わることはしないことを選ぶようだった。僕の中にもやもやしたものが残ったが、楠巳がそう言うならとりあえずそうしよう、芹生さんもこれ以上どうしようもなさそうだと思って、僕らはゆっくりと前に歩き出した。
 歩き出してから、芹生さんはようやく僕の服の袖から手を離してくれたが表情は浮かないままだった。何か気の利いた言葉でも言うことが出来たら良かったのだろうが、その時の僕は思いつかなかった。そして今でも思いつかない。


 「前の学校でね、ちょっとあってね」

 「ごめんね」

 「でも、もう大丈夫だから」

 「ごめんね」

バスに乗ってから、しばらくして窓の外を見ながらぽつりぽつりと芹生さんは言った。僕と楠巳はそれをただ黙って聞いていた。大丈夫、という感じの声ではなかった。彼女の声は今にも泣き出しそうなものだった。いや、もしかしたら泣いていたのかもしれなかった。ずっと窓の外を見ていた彼女の顔を確かめることが出来なかったから、分からなかった。
 窓に張り付く雨粒が彼女の涙を暗示しているように見えた。市街地を抜け出して、今朝通ってきた橋にさしかかった時に、川を目で追うように芹生さんの顔が動いたような気はしたが、それ以外は全く動かなかった。彼女がいつの間にか眠りについていることに気付くまで、僕と楠巳は何も言えないまま、ただじっと見つめていることしか出来なかった。
「後でメールする。だからちゃんと携帯見ててね」
楠巳が不意にそう言った。今ここで言えないことなのだろうか、と思ったが気が付けばもうバスは楠巳の家の近くまで来ていて、何も聞けなかった。
「わかった」
「じゃあ、あとはちゃんと家まで送ってあげてね」
そう言い残して楠巳はバスを降りていった。
 

 結局芹生さんは僕が起こすまでずっと眠っていたようだった。楠巳がバスを後にしてからも僕は何をするでもなく、ただ芹生さんのことを見つめていただけだった。彼女の顔を見れば本当に眠っているか確認できたかもしれなかったが、しなかった。出来なかった。女の子の無防備な寝顔を見るということに抵抗があったのはもちろんではあるが、それ以上に涙を流したかもしれない彼女の顔を直視出来る自信がなかった。彼女の顔を見て何を言うべきなのか、何をしてあげるべきなのか僕には分からなかった。
「芹生さん、もう少しで着くよ」
芹生さんの肩を優しくトントンと叩きながら、そう言って僕は彼女を起こした。
「ありがとう…」
今にも消え入りそうなか細い声でお礼を口にしながら、窓側にもたれ掛かっていた頭を真っ直ぐに起こした。それからも僕らは会話をすることなく過ごし、目的のバス停への到着を待った。何かが抜けてしまったように、一点を見つめ続ける彼女に果たして、バスを降りて家までたどり着くことが出来るか僕は心配になった。ただ、家が隣同士だから、送り届けることが容易ではあるとは思った。実際、初めて出会ったその日に既に経験はしていたから。もしもの場合は彼女の部屋まで連れて行くことになるかもしれないな、などと考えていた。
 僕らが降りるべきバス停、聞き慣れたバス停の名前が次に停まるバス停だというアナウンスが車内に流れてから僕はすぐに降りることが出来るように運賃の準備をした。横目で芹生さんを見ると、彼女もがさごそと動き始めていた。荷物をきちんと持ち直したり、財布を取り出したりして、僕が声をかけるまでもなく、手を貸すまでもなく無事にバスを降りることが出来そうだった。それから間もなくして、バスはバス停に到着した。芹生さんは椅子から立ち上がるときにちょっとよろめいた以外には特に何の問題もなく、僕らはバスを降りることが出来た。そこで降りた乗客は僕らだけしかいなかった。バスが走り去ってから、その場に静寂が訪れたのを感じてから僕は芹生さんに声をかけた。
「…芹生さん、大丈夫?」
どんな声をかけたらいいか分からなくて、僕はそんな風にしか言えなかった。
 「何」が「大丈夫」なのか。

 どういう意味で僕はその言葉を口にしたのだろう。

 「元気がないみたいだけど、家まで帰れるのか」
ということなのか、

 「寝起きみたいだけど、普通に歩けるのか」
ということなのか、それとも

 「何か過去に嫌なこととかがあって、それにあの時デパートですれ違ったあの女の子が関係していて、今の君はそんな抜け殻みたいになっているけれど、僕が心配するようなことはないのか」
ということを聞きたかったのか、何もはっきりさせないままに僕は彼女にそう尋ねたのである。そんな曖昧な尋ね方をすれば、普通は答えることが出来ない。「何が?」と逆に尋ね返されるのがおちである。なのに彼女は
「うん、大丈夫。全然平気だよ」
そう言った。僕に笑顔を見せながら、明るい声でそう言った。その答えは僕が頭の中に浮かべたどの疑問に対しても間違ってはいないものだった。でも、そんなの納得行くわけがないじゃないか。納得が行かない、でも、だけど、僕には何が出来る?僕は何をするべきだ?
 僕は何も言い返せないまま、家に帰ることを選んだ。僕が何も言わないことに彼女も何かを言うことはなく、ただ黙って歩いた。彼女の家の前に着いて彼女が僕の方を見ることなく、
「じゃあね。今日はありがとう。」
そう言った。そのまま黙って歩いていき、家の玄関の扉を開けようとする彼女に
「うん。また明日、な」
と言うことしか出来なかった。何となく怖かった。彼女にこのまま会えなくなるような気がした。だから、明日も会えるようにという思いを込めて僕はそう言った。彼女からの返事はなかった。僕が言ったタイミングが遅かった。彼女は何も言うことなく、家へと吸い込まれて行った。僕の思いが伝わったかは分からない。でも、言葉は届いたはずだ。彼女の後ろ姿がなくなってからも僕は少しだけそのまま立ち止まっていた。何となく、そこから離れたくなかった。
 思い浮かぶのはバスを降りてからの僕の問いに対して見せた彼女の笑顔である。あの笑顔が嘘だったことは分かる。あの言葉が嘘だったことも分かる。きっと、僕が一番彼女に聞きたかったことを彼女が理解していたのだと思う。理解した上で、踏み込まれたくないのか、僕に心配をさせたくなかったのか、彼女は嘘の笑顔と嘘の言葉で僕を遠ざけたのだと思う。
 僕がもっと強い人間だったなら、僕がもっとかっこいい人間だったなら、僕は彼女に何か言ってあげられたかもしれない。何か出来たかもしれない。けれど、僕は弱い人間だから、何も出来なかった。彼女の嘘に対して僕は黙っていることしか出来なかった。僕は本当に駄目な人間だ。こんなに自分を嫌いになったことはない。そう思ったところで、すぐに変わることも出来ない。
 ごめん、芹生さん。明日、もし君に…いや、もし、なんてのはやめよう。
 明日君に会って、僕は何かを言うべきなんだ。君に会うときまでにちゃんと言葉を考えておくから、ちゃんと口にするから…

今日はごめん。

 心の中で彼女に謝って、僕はその場を後にして自宅へと帰った。

 自室から彼女の家を見たら、カーテンが閉まっていて、部屋にいるであろう彼女の様子を窺い知ることは出来なかった。そして、彼女の様子を確認するために携帯電話で連絡をすることをしなかった。何となくそんな気にならなかった。今日はそっとしてこう、そう思って僕は逃げた。

 帰宅してから少し時間が経って、楠巳からメールが届いた。内容はこんな感じだった。

 今日、楠巳と芹生さんの二人で買い物をしていた時に楠巳は少し不思議だと思ったそうだ。服を二人で見ていたのだが、芹生さんが選ぶ服に少し偏りがあったらしい。芹生さんが選んだ物はスカートのように比較的露出のあるもようなのばかりであったらしい。雨が降り続くこの習柄町であるから、露出があった方が楽ではある。足下など濡れた際にはタオルでさっと拭くだけで、事なきを得ることが出来るからである。その点を踏まえれば、スカートばかりを手に取る芹生さんは何もおかしなことなどない。ただ、何となくそんな芹生さんを見て楠巳は質問をした。
「どうしてスカートしか見ないの?」
パンツルックの物だってたくさんある。むしろそっちの方が多いくらい。足下が濡れるのが気になるなら大丈夫。さっき買ったレインブーツ履けば足下が濡れるのは防げるよ。だから一着くらい選んでもいいんじゃないか。そんな旨のことを告げたらしい。それに対して芹生さんは
「今日はもうお金使っちゃったから、そんなにいっぱいは買えないよ」
と微笑みながらそう言って、続けて少し寂しそうな顔をしながら
「スカート一着も持ってないから、今日はスカートだけ買うことに決めてるんだ」
と言ったのだそうだ。

 芹生小町は中学二年生の女子である。僕は同じ中学二年生とはいえ、男子であるから女子の常識だとか慣習めいたものだとか全てを把握しているわけではない。ただ、中学生の女子がスカートを一着も所持していないということはあるのだろうか。あまり好んでスカートを履かない女子がいるのは分かる。楠巳なんかがそのいい例であるように思う。彼女は昔からスカートを履くのが好きではないらしく、私服は大抵パンツルックの物である。
 けれど、一着も持っていないということはない。ひらひらしたのが苦手と確か言っていた楠巳は丈の短いホットパンツというのだろうか、その類のものを夏場の暑いときなんかには履くことが多いのだと確か言っていた。ましてや、芹生さんである。どこかクールでかわいいというよりは綺麗という言葉が合う楠巳ではなく、かわいらしい人形のような容姿をした芹生さんである。そんな彼女がスカートを持っていないというのは少し引っかかる物があった。それこそひらひらとした女の子らしい…という表現でいいのかは分からないがそんなスカートが似合うであろう芹生さんが持っていないというのは違和感を覚えずにはいられない。
 その時の楠巳は少し疑問に思ったものの、まあそんなこともあるかと気に留めなかったらしい。人の好みなど色々ある。もしくは過去に何かがあってスカートを履くことに抵抗を覚えるようになったとか色々あるのかもしれない。けれど、いずれにせよ明らかにする必要はないと考えた。何かしらの理由があって、固定の行動を取る他人を自分の身勝手な思いだとかで、ねじ曲げてやることはない。そんな風に思った。
 そんなことがあってからの、デパートを出る際の事件?である。楠巳は何か感じ取る物があったのだろう。こうして僕にメールを送ってきた。

 スカートを持っていない芹生さん。

 ある少女が言った「雨女」という言葉にどこか怯える芹生さん。

 この二つの疑問に何か関連があるとすれば、もちろん彼女の過去に何かがあったのだろうと思う。
 でも、それを僕は知らない。彼女の過去を僕は知ろうとしてきたことはなかった。

 そういえば彼女はなぜこの町に越してきたのだろうか?

 一年、三百六十五日雨が止むことなく降り続けるこの習柄という町になぜ芹生小町という少女、そしてその家族はやってきたのだろう。この町で暮らしていくのははっきりいって不便であると思う。昔からこの町で暮らしてきているのであれば、次第に慣れてきて不便だと思うことはないのかもしれない。
 けれど、芹生小町はつい最近、習柄の外からやってきた人間である。便利で暮らしやすいであろう外の町を捨ててわざわざこの町にやってくる理由がどれほどあるだろうか。仮に親の仕事の都合でこっちの方面に来なくてはいけなくなってしまったとしても、この習柄町を選ぶ必要はない気がする。習柄はそれほど大きな町ではないから、習柄のすぐ外、例えば習柄の隣にある彩槻市などを選べば、降り続く雨に悩むことはない。習柄の方が周囲の町に比べて土地が安いという事実はあるにしても、それだけで習柄に越してくるとはどうにも考えにくい。彩槻市もそれほど高くはないらしいし、総合的に見て確実に彩槻市の方が生活しやすい環境になっているはずだ。

 彼女の謎について解明するには彼女のことを知る必要があるのだろう。

 彼女に聞くしかないのだろう。

 聞くべきなのか、聞く必要があるのか。

 そもそも、その役目は僕じゃなくてもいいだろう…。

 僕はどうすればいいんだろう。

 僕は何をするべきなんだろう。

 僕に何が出来るというのだろう。

 今はただ、明日彼女の笑顔が見られることを信じて、眠ることしか出来ない。
 それでいいんだと言い聞かせながら眠ることしか出来ない。



 夢は見なかった。いつも迎える朝とどこか違う空気を感じた。現実と夢がごっちゃになってよく分からない気分の朝、という感じだった。今見ているこれは現実でいいんだよな?何度も自分に問いかけた。目に映る世界にあの夢の少女が出てくることなく時が過ぎていくのを感じて、現実だと認識した。そうなるようになってしまっていた。 今日も雨は降り続いていた。
 今朝も何となく、芹生さんに連絡をする気分にならなくて、一人で黙って登校することにした。
 もしかしたら、昨日のことなんかなかったように芹生さんは元通りになっていて、もう学校にいるかもしれない。それはそれで嬉しいことだ。
 逆に僕が芹生さんより先に教室に着いても、後から来た芹生さんが僕に対して、愚痴を言ってくる可能性だってある。それもそれで嬉しい話である。
 芹生さんに会えるならなんだっていい。
 いつもの笑顔を見せてくれるならなんだっていい。
 そうなればいい、そうなるだろう、と思いながら僕はバスに乗って学校に向かった。
 教室に着いて周りを見た。芹生さんの姿はなく、彼女の座席に荷物が置いてあることもなく、彼女はまだ来ていない様子だった。
 ならば待とう。彼女が来るのを。彼女が笑顔でこの教室にやって来るのを。
 けれど、彼女は来なかった。始業時間にやってきた沼隈先生が彼女の欠席を教えてくれるまで、僕は望みを捨てることなく待っていた。
 もしかしたら体調を崩したのかもしれない。ほら、見るからに体が強くなさそうななりをしているではないか。引っ越してきてから数日しか経っておらず、周囲の環境がめまぐるしく変わる中で、昨日も買い物に付き合わせてしまったから、疲労が溜まってしまったのだ。学校が終わったらメールの一つでもしてやろう。お見舞いに行けたらいいんだけど、体調を崩してすぐは行っても、もしかしたら眠ってしまっていて会えないかもしれない。たとえ眠っていなくても、休ませてやりたい。
 そんなことを考えながら一日を過ごした。授業の内容はもちろん頭に入っていない。まあ休み明け最初の授業だから、そんなに内容のある物ではないだろう。



 夢を見た、気はするが覚えていない。
 朝だというのに、外は今日も薄暗く窓は雨で濡れていた。
 今日もいつも通り、学校へ行った。
 芹生さんは今日も休みだった。二日続けて休むことなど特に珍しい話でもない。体調を崩しているならもう二、三日安静にするべきだ。
 彼女が聞けなかった授業の内容は僕がしっかり聞いて、いつもより少しだけ綺麗にノートに書き残して彼女に見せてあげよう。だって、僕と彼女の席はとても近い。それに僕は彼女の隣に住んでいるんだから。そういうことは僕がやるべきだろう。だから、いつもより少し頑張るんだ。そう言い聞かせて取り組んだ。
 あと、北外に怒られた。昨日バドミントン部のミーティングがあったらしいのだが、出席しなかったことを咎められたのである。事前に乾から連絡があったということだったので、携帯電話を確認すると確かにメールが届いていた。受信した日付を見るとなんと四日前だった。四日前と言えば金曜日である。確かその日は乾に会った日だったと思う。何か連絡すると乾が言っていたことを、北外に言われてから思い出した。乾からの連絡は確認していたはずなのだが、どうも当日になってミーティングの存在を僕は忘れていたらしい。
 どうして昨日僕にミーティングのことを直接言ってくれなかったのか、と北外に問いただしたら、

「声はかけた。そしたら先に行っててくれと言われたから待ってたけどお前は来なかった」

と言われてしまった。
 しかし、そんな記憶は僕にはなかった。
 何をしてるんだろうか、僕は。なんて薄情な奴なんだ。すぐさま僕は北外に素直に謝った。ごめん、僕が悪かった。これからは気をつける、と。それで何とかその場は乗り切れたが、北外は少し機嫌が悪そうだった。まあ、無理もないか。



 夢を見た。そのことを思い出したのは下校しているときのバスの中でだった。窓に伝わる滴が流れていくのを見た時に何となくこの映像見たなあと思っていると、今朝見た夢の映像がフラッシュバックのように映し出された。詳しい内容までは思い出せなかったが、いつものあの少女とバスに乗っていた。そんな映像だったと思う。
 今日も芹生さんが座るべきあの椅子には、誰も腰掛けることなく一日が過ぎていった。
 今日で三日連続だった。普通の風邪ならそろそろ症状が落ち着いてきた頃だろうか。そろそろお見舞いに顔を出したりしても大丈夫なんじゃないか、そんなことを考えながら、授業を話半分で聞いていた。これじゃあ、後から芹生さんに授業内容について質問されても答えることが出来ない。昨日の自分はどこへ行ってしまったのやら。
 分からない問題があったら楠巳に聞けば答えてくれるかな?…
 きっと答えてくれるだろう。楠巳は優しいから。
 芹生さんのお見舞いに行きたかったのだが、今日はバドミントン部の活動日だったから、そっちを優先した。数少ない週二回の活動日の内、月曜日に行われたミーティングは結果的にさぼったことになるので、今日は行かないわけにはいかなかった。これでも、部活内では最上級生である。同期や後輩にこれ以上醜態を晒すわけにはいかなかった。
 二日前のミーティングで伝えられたらしい内容通り、今日の活動はひたすら試合を行うものだった。時間の許す限り部員同士で様々な組み合わせを試しながら試合は行われた。
 僕は見事に三戦全敗という輝かしくない成績を残した。戦った相手は一年生二人と乾だったかな。試合内容の詳細は散々たる物であったから、ここでは割愛させてもらう。
 あとは、糸電話を作ろうと思った。芹生さんと窓越しで会話をするのに使えるかもしれないと思ったからだ。そのことに気付いたのは今日お風呂に入ろうと着ていた服を脱ごうとしたときに、糸がほつれているのを見て、ふと思い浮かんだのだ。
 我ながら妙案だと思う。糸電話ならば雨に濡れる心配がなく、ゆっくり会話をすることが出来るはずだ。その糸電話に鈴か何か音のする物を取り付けることが出来れば、窓を叩いて相手を呼び出す手間もかからないし、危険性もないのである。ネットで作り方、必要な材料などを確認してから今日は眠ることにしよう。
 早く芹生さんに教えてあげよう。早く彼女と糸電話を使って会話してみたい。心が躍る。ここ数日で久し振りに何となく充実した一日だと思った。
 今日も雨が降っていた。夢は見なかった。いつも通りの雨空を横目に、いつも通りに机に向かう。今日は色んなことがあった一日だった。

 今朝は学校に向かう時に一人ではなかった。といっても芹生さんがいたわけではなくて、僕の隣にいたのは楠巳だった。たまたま同じバスになったのだ。
「今日も芹生ちゃん休み…なのかな」

「お見舞い行かなきゃね」

「来週は学校来てくれるかな」

隣に座った僕に楠巳は色々と話しかけてきてくれたけれど、何となく返事をする気になれなくて、黙ったままでいた。
 今にして思えば申し訳なさでいっぱいになるし、最低な奴だと思うけれど、その時の僕は何かしらの反応を示すことが億劫に感じられたのだ。ごめん、楠巳。明日会ったら謝るよ。って楠巳には謝ってばかりだな、僕。
 学校に着いて、芹生さんが来ていないことを確認してからは一日中ぼうっとしたまま過ごした。北外も話しかけて来たことはあったが、僕がろくに反応しないのを見てからは何もしてこなくなった。僕は何をするでもなく、ぼんやりとしていた。動いたのは授業中の板書をノートにとる動きと、昼食時に箸を動かす時などであった。半ば無意識に、どこか機械的に動いていた、と表現するべき様子だったと思う。はっきりと覚えてない。
 しっかりと覚えているのは、午後のすべての授業が終わって、残すは帰りのホームルームだけとなった時からだった。ふと時計が指し示す時刻と、周りの様子を見て状況を把握した。いつの間にか一日が終わっていたという感じだった。授業を受けた記憶も、食事をした記憶もぼんやりとだけあって、確証は持てなかった。
 だから自分のノートを開いて書き込まれた内容を確認したり、腹部の重たさから胃袋が満たされているのを確認したりした。不思議な感覚だった。教室に入って自分の席に着いたところまでの記憶は確かにあった。それからの記憶は朧気な物しかなくて、夢でも見ていたのかなと思った。
 夢を見た記憶はない。けれど、夢から覚めたような、あの夢の少女に会ったような気がしていた。もしくは時間を飛び越えたでもしたのか。たった数時間の時間旅行とは何とも不便なものである。
 何となく自分の頬や体に触れて、ちゃんと僕という存在が今ここにあることを認識して、とりあえず安堵した。それから今後のことを思案した。このホームルームが終わったら、バスに乗って家に帰ろう。今日は部活がないし、それ以外に何か居残るような用事はない。帰宅したら芹生さんのお見舞いに行こう。そうだ、お見舞いに行かなきゃ。そう、決心した。
 そこから僕は脳を本格的に動かし始めた。普段活用し切れていない部分までも稼働させるように必死に色んなことを考えた。
 いきなりお見舞いに行ったら彼女は困るかもしれないから、事前にメールを送ろう。帰りのバスの中で送れば、帰り着く頃にはきっと彼女も心構えみたいなものが出来るだろう。何か持って行くべきだろうか。でも、今から用意するのは難しいし、何を持って行くべきなのか分からない。お菓子や果物?それともきれいな花?分からない。今回は諦めよう。
 そして、何も持って来れなかったことを話のネタにしよう。「ごめんね、何を持ってきたらいいか分からなかった。芹生さんの好きなものとか分からなくって」みたいな感じかな?上手くすれば芹生さんの好みとか聞き出せるかもしれない。我ながら打算的だと思った。少しみっともないとも思った。でも、こうしたシミュレーションでもしなければ人と上手く話をすることが出来る自身が持てないのだからしょうがない。
 ホームルームを終えて、僕は荷物を急いでまとめて足早に教室を後にした。北外に「今日はごめんな、じゃあ」とだけ告げて僕は走り出した。
 どうして今まで芹生さんに会おうとしていなかったのだろう。どうして彼女を避けたり、彼女から逃げるような生活をしていたのだろう。本当に僕は馬鹿で臆病者である。
 彼女に会うことを決めてから、彼女に会えると分かってから、僕の目に映る世界は色味を増したような気がした。

 君がいないなら君を探せばいい。会いに行けばいい。


 君に聞きたいことがあるなら君に聞けばいい。

 数日間何もすることなく、怯えて縮こまっていた僕を笑ってやりたい。もしも僕が本当に時間旅行の能力を持った人間だったとしたら過去に戻って尻を蹴っ飛ばしてやろう。そんな馬鹿なことを考えながら僕は帰宅の途に着いたのだった。

 そんな馬鹿な僕がある事実に打ちのめされたのは家に帰り着いてからすぐのことだった。玄関の扉を開けて靴を脱ぐときに見慣れないものが一足並んでいることに気が付いた。それは見慣れない女性のものだった。首を傾げながらリビングに向かうとその持ち主の人物がいた。
「お帰りなさい、お邪魔させてもらってますね」
そこにいたのは芹生さんの母親だった。顔を合わせてすぐに僕の母親が教えてくれた。それに、芹生さんを学校に見送る姿を一度だけ見たことがあった。芹生さんと瓜二つの容姿をしていて、芹生さんが今のまま大人になったような姿をしていた。ただ一つ違う点があるとすれば、髪を結っているところだろうか。その一点が違うだけで、芹生さんとは違った大人の雰囲気を醸し出している気がしないでもない。
 そんな芹生さんの母親が僕の母親とコーヒーを飲みながら談笑していたようだった。ご近所付き合いの一環なのだろう。同じ歳の子を持つ親同士仲良くやれているようで、子供ながらに安心した。いや、何様なんだろうな、僕。
「どうも」
僕は初対面かつ大人の女性ということで会話を続けられる自信がなかったので、短く返答をしてその場は済ませようと思った。のだけれど
「それじゃあ、うちの子も帰ってきたのかな」
と彼女は言ったのである。
「え…」
思わず声に出してしまっていた。
 芹生さんが帰ってきた?なんだそのセリフは。まるで彼女が学校に行っていて、帰宅した僕を見て、同じ場所で同じ時間を過ごしたであろう自分の娘も帰宅したことを察したような発言はなんだ。
 そんなことがあり得るわけがないじゃないか。だって、彼女は、芹生さんは学校には来ていない。だから、帰宅するようなことはない。学校に来ていないということは家に居るはずだろう?この人は何を言っているんだろう?僕は訳が分からなくなった。
 僕の漏れ出した声が聞こえていたのかは分からないが、芹生さんの母親はきょとんとした顔をしていた。
「どうかしたの?」
立ちすくむ僕に声をかけてきたのは僕の母親の方だった。その声を聞いて、我に返った僕は「何でもない」と返し、自室に向かった。
 部屋に向かいながら、必死に考えた。芹生さんは今家にはいない。そして学校にも来ていない。ならば彼女はどこにいる?分からない。全く検討がつかなかった。そして、彼女がここ数日学校を休んでいるのは体調不良が原因ではないのでは、という考えが芽生えたのはその時が初めてだった。いや、芽生えてはいたものの、目を背けていたのだと信じたい。
 部屋に入って、鞄をベッドに放り投げ、それを潰さないように自らの体重全部をベッドに預けるように倒れ込んだ。その際にズボンのポケットにある携帯電話を潰す形になってしまって、少し痛かった。そして、思った。電話をかけたら芹生さんに繋がるだろうか。彼女は僕からの電話に出てくれるだろうか。
 思いついてから、即座に行動に移した。電話帳に登録してある彼女の名前を見つけて、そこから通話ボタンを押した。
 コール一回目、彼女は出ない。
 彼女が今どこにいるかは分からない。もしかしたら、僕が心配するようなことはなくて、学校には来たものの、体調が優れずに保健室で寝ていたかもしれない。でも、そうじゃなかったら…。
 コール二回目、コール音の後の沈黙が怖い。 
親に学校に行くと言って、全く別の場所に行っていたら、居場所を特定するのは不可能に近い。
 彼女がどういう場所に行くのか、僕には全く予想できない。彼女が学校以外のどこかにいて、それでいて何かの事故にでも巻き込まれていたりしたら、などと良くない考えを頭に巡らせながら、彼女の応答を待った。
 コール三回目、もうワンコール待ってみよう。
 三回目のコール音が鳴り終わり、次のコール音が鳴るまでの静寂に諦めを覚えかけたところで、ようやく声が聞こえてきた。
「…はい」
とても弱々しい声だった。彼女自身の声が小さいこともあるのだろうが、電波の状態が悪いのかノイズのようなものもあって、ひどく聞こえづらかった。
「芹生さん?良かった…。出ないかと思った…」
彼女が電話に出られる状況であること、電話に出てくれたことにひとまず安心した。ただ、寝起きの時みたいな、あまり生気が感じられるような状態ではないような気がした。
「今、どこにいるの?」
黙ったままでいる彼女に早速質問をぶつけた。
「…私…場所…?…言えないや。」
時折ザザという感じの音が邪魔をして彼女の声は聞こえづらかった。けれど、内容は分かった。分からないことが分かった。
「何言ってるんだ?どうして教えてくれないんだ」
少し語気を強めた。いや、自然と強くなっていた。芹生さんは何を考えてるんだ?全く訳が分からなくて困惑した。
「…めん。…んね」
微かに聞こえてくる彼女の声を聞き逃さないために、携帯電話の受話部分をしっかり耳に当ててみるが、やっぱりよく聞こえない。一言一句聞き漏らさないようにと集中していると
 ガチャン
と通話が切られた音に、僕は面食らった。自然と切れた訳ではないだろう。故意に切られたからにはかけ直しても、恐らく彼女は応答してくれないだろう。
「くそっ…」
右手に収まったままでいる携帯電話を強く握りしめ、考えた。果たして彼女はどこにいるのか。真っ暗な画面に映る自分の顔が醜いことに不快感を覚えながら、必死に考えた。
 彼女はこの町に来てまだ日が浅い。思い入れのある場所や、行きつけの場所などは恐らくないだろう。彼女が行ったことのある場所で思いつくものは、僕らが通っている中学校とこの前一緒に買い物に行ったデパートくらいのものだ。
 けれど、中学校には多分いないだろうと思った。教室にはいなかったし、保健室などにいたとしても丸一日いたとは考えにくい。それに学校にいるならば、焦る必要はない。屋内だから交通事故に遭う心配や何かの事件に巻き込まれるような心配はないだろう。そう思った。
 けれども、仮にそうだとしたら学校にいる理由が分からない。彼女が学校に来て教室に顔を見せないというのがどうしたってイメージできなかった。それは今にして思えば、そうあってほしいという願望の気持ちが強かったのだろう。その時はそのことを一ミリも考えもしなかったが、とにかく僕には彼女が学校にいるとは思えなかった。
 ならば、デパートか?わからない。でも、動かないわけにはいかない。ひとまずデパートまで向かって歩き回って探したり、もう一度連絡を取ってみたりしよう。
 そんなこと考えている時間がもったいない。急がなければ。僕は動き出した。
 握りっぱなしだった携帯電話をポケットに戻して、放り投げていた鞄から財布だけを取り出す。これだけあれば何とかなる。部屋を飛び出して、階段を駆け下りた。親に何か告げていった方がいいかと一瞬迷ったが、そんな時間も惜しいと思い、親たちに構うことなく先程まで使っていた傘を手に外に出た。
 雨は強く降っていて、弱まる気配を感じさせないような空模様だった。大通りまで着くと、ちょうどいいことに駅方面に向かうバスが到着するところだった。これに乗ってまずはデパートから探そう。そう決めて走り出した。
 何とか乗り込むことが出来たバスには僕と同じ習柄中学校の生徒が多く乗車していた。芹生さんがバスに乗ってどこかへ行くようなことも考慮して、一応探してみたがいなかった。他のバスに乗る可能性もあったが、少なくともそのバスにはいなかったのでその考えは後回しにすることにした。まあ、仮にそうだったとしたら僕はどう探せば良かったのだろうか。今度暇な時に検討してみよう。
 あと、もしかしたらと思って楠巳の姿も探してみたが、楠巳の姿もそのバスで見ることはなかった。もしも楠巳がいたら芹生さんのことを話そうと思ったのだが、上手くはいかないものだった。
 制服を着てはいるものの、鞄を持たずにこんなところからバスに乗り込んできた僕に対して、少しだけ視線が集まったような気はしたが、そんなことどうでも良かった。僕は走り出すバスの窓を伝って流れていく雨粒の動きを目で追いながら、芹生さんのことを思い浮かべていた。
 初めて彼女を見た時、可愛らしい女の子だと思った。そう僕が感じたのは彼女の顔立ちのせいもあったのかもしれないけれど、そんなことよりも僕は彼女が見せる笑顔にどこか惹かれるものがあったのだと思った。
 理由は分からない。けれど、僕は彼女の笑顔が好きだった。あの笑顔を太陽のような笑顔、とでも表現するのだろうか。太陽に関して僕はそんなに知っているというわけではないが、ともかく彼女の笑顔を見ていると何となく元気を貰えるような、そんな気がしていた。それでいて守りたくなるような優しい笑顔。妹、みたいな感じ…なんだろうか。自分で言っていてよく分からなかったが、何となくぴったり当てはまる気がしないでもなかった。僕の妹が芹生さん、芹生さんの兄が僕。そんな関係だったら楽しいだろう。
 そんな芹生さんが笑顔を見せなくなった。日曜日にデパートで一緒に買い物をしたその帰り道。笑うことがなくなって、口数も減って、そしてここ数日では顔すらも見せなくなった。さっき声を聞いたのも数日ぶりのことだった。久しぶりに聞く彼女の声は弱々しくて、とても彼女のそれだとは僕には思えなかった。彼女は何を思っているのだろう。彼女は何を考えているのだろう。バスの窓に寄りかかって、ぼうっと外を眺めながら彼女はあの時何を感じていたのだろう。雨粒を目で追いながら、川の流れが強いのを見つめながら…。
 その時に僕はようやく気付いたのだった。ちょうど外から見える川、そこにある市街地と住宅地とを分けるように架けられた橋をバスが渡ろうとしたその時のことであった。僕の頭の中にザザという音が、先程芹生さんと電話で話した時に聞こえたノイズのようなものーいや、川の流れの音が鮮明に流れてきた。
 彼女は川の傍にいるのではないかー?
 なぜ、あの時すぐに気が付かなかったのだろう。いや、今はそんなことはどうでもいい。今すぐに行かなければ。
 次のバスの停留所は、橋を渡りきったその先にあって、僕は他の乗客に「すいません」と言いながらバスの先頭に出て降りる備えをした。それから乗車運賃も急いで準備して、バスが停留所に到着してから脱兎のごとくバスを降りた。
 傘が開ききるのを待たず、雨で濡れた道を駆け出した。彼女がいるとすれば橋の下の雨が振り込んでこない場所だろうか。そこにいる可能性が高いだろう。
 この辺りの土地は昔から川の水位が高かったそうで、土手が濁流にのまれないように舗装してあったり、噂では流れが他の所へ向かっていくように工事がしてあるだとか、地下の方で貯水所の方まで繋がるような道が造られているだとかというものを聞いたことがある。
 それでも雨が降り続くこの町では川の勢いが弱まるようなことはあまりなく、今日みたいな豪雨の日には激しい濁流が見受けられた。人などが落ちないように柵がしてあるとはいえ、川の傍が危険であることに変わりはなく、舗装してある少々滑りやすい階段を転ばないよう気をつけながら、土手へと降りた。雨で視界が悪くて見えづらくて、それまで分からなかったが反対側の土手、習柄町の住宅街が多く並んでいるエリアの側の、橋の下に人影があるのが見えた。
 こちら側からでははっきりとは見えなかったが、その人影は習柄中学校の制服を着ている女の子に見えた。小柄な姿は芹生さんのように見えた。
「芹生さん!」
僕は叫んだ。そして、その芹生さんらしき人影は僕の方を見た。僕を見つめるその顔は違うことなく芹生さんだった。
「今からそっち側に行くから待ってろ!」
再び僕は駆け出した。傘は差していなかった。傘を差す暇があるなら、そんなことに手間をかけるなら、一歩でも前に踏み出す。そんな気持ちで僕は走っていた。
 顔に当たる雨粒は冷たかった。それに痛かった。時折目に入ってきて、何度も目をつぶった。それでも、構わず僕は走った。雨に濡れるという経験を普段しないから、僕は雨の冷たさを知らなかった。顔に当たるとこんなにも冷たくて、こんなにも痛くて、こんなにも人を悲しい気持ちにさせてしまうものなのか。
 僕は雨というものを知った気でいた。こんなことも知らないまま生きていたのだ。そんなことも知らない僕が彼女のことを分かっていた気でいたのか。なんて馬鹿な人間なんだ。
 橋を渡って、先程とは反対側の土手にたどり着いた。芹生さんは変わらずそこにいてくれた。
 僕は雨のことを知らないし、芹生さん、君のこともよく知らない。だって僕と芹生さんは知り合ってまだ一週間も経っていないんだから。ああ、そうだとも、まだ、これからなんだ。これからもっと彼女と仲良くなるんだ。そうだ、僕はー
「芹生さん、僕はー」
色んなことを思いながら、走ってここまで来た。

色んなことを思いながら、芹生さんの顔を見た。

息切れしかけた呼吸を落ち着かせながら、僕は言葉を紡いだ。

「僕は君と友達になりたい」
彼女を見つける前まではもっと別のことを言おうと思っていた。何で学校に来ないでこんなところにいるのだとか、日曜日から元気がない理由だとかを聞こうと思っていたのに、彼女を見つけて最初に出た言葉はそれだった。
 そんな言葉に彼女は最初は少しだけ戸惑った表情をしたけれど、笑みを見せながら言ってくれた。
「もう、私たちとっくに友達だよ?」

「少なくとも私はそう思ってる」
そう言いいながら苦笑いのような表情を見せる彼女を見て僕ははっとした。失敗した。言うべき言葉を間違えてしまった。けれど、

「…でも、嬉しい。ありがとう、中崎君」
彼女はそう言ってくれた。笑いながら言ってくれたのだ。あの日の帰り道バスの中で見せた悲しい笑顔とでもいうべきものではなく、本当の笑顔とでも呼ぶべき物がそこにはあった。
 繰り返し言うようだが、僕は馬鹿な人間なのである。
 芹生さんの言うとおりだ。一緒に登下校したり、授業がない休日に一緒に買い物に行ったりしておいて、僕と芹生さんが赤の他人同士なんて、そんなことがあるわけない。でも、その時の僕はなぜだかそんなことを言ってしまったのだ。そんな馬鹿な僕に芹生さんは笑って接してくれた。
「ありが…クシュン!」
何と返していいか分からないものの、ひとまずお礼を言おうとしてくしゃみが出た。何ともまあ、締まらない男だ。僕らしいみっともなさではある気はするが、悔やまれる事実である。


 それから芹生さんはゆっくりと僕に話をしてくれた。「この話を聞いても友達でいてくれると本当に嬉しいんだけどね」と前置きをした彼女は弱々しく笑っていた。
 芹生さんが、この習柄町に越してくる前の話である。その町は習柄とは違う至って何の特徴もない普通の町だったそうだ。
 晴れの日があれば、曇りの日もあって、雨の日もある。雨が降ればいつか止むし、晴れの日は傘を持たずに外出する事が出来る普通の町である。まあ、僕にとっての普通といえばこの雨が降り続く習柄町なんだけどさ。
 けれど、そんな町で暮らす芹生さんが普通の人とは少しだけ違っていた。
 ある日彼女はとある病にかかったのだ。正式な名称は彼女自身も知らないらしい。ただ、分かっていることは紫外線を浴びてはならないということだった。
 そのことが分かってから芹生さんは外出を控えるようになった。外出しなければならない時には肌を露出しないような服装をして、日傘を手にしなければならなくなったそうだ。
 最初は何とも思わず日々を過ごしていた。そういう人も世の中にはいるものだ。たまたま私がそうなってしまっただけのことだ。そう言い聞かせながら生活していた。
 しかし、次第に周りの人や学校の友達が肌を露出した涼しげな格好をしてる中で、理由があるとはいえ異なった格好をしなければならないということに対して抵抗感を覚えるようになった。
 そしていつしか、芹生さんは外出を控えるようになった。何でも晴れの日はもちろんのこと、曇りの日も日光に含まれる紫外線の量は多いらしく、芹生さんが外に出るのは雨が一日中降るような日、そのような日に飲み薬を飲むことや傘を差すことなどで、周りの人たちとほとんど差異のない日常生活を送っていた。そのため、学校に通う日数は他の生徒たちよりも格段に少なくなり、自宅で学習をする事が多くなったそうだ。
 そんな状況に学校の人間たちはあまりいい感情を持たなかったらしい。もしかしたら軽い気持ちだったのかもしれない。雨が降っていていらだちが募っていたのかもしれない。けれど、芹生さんのクラスメイトはある日、彼女に言ってしまったのである。

「雨女」

と。雨が降る日にしか登校しない彼女に告げられたその言葉はあまりにも強烈で、一人の中学生の女の子が到底耐えられるようなものではなかった。
 それから芹生さんは学校に全く行かなくなった。外出することすらしなくなったのである。
 家でふさぎ込むようになってしまった芹生さんを見て、芹生さんの母親は色々と手を尽くしてくれたそうだ。メンタルをケアするために病院に通わせたり、学校のみんなに理解をしてもらうために母親が学校に行って話をしてくれたりしたそうだ。けれど、どれも効果は得られずに芹生さんはずっと家から出ない状態が続いた。
 そんなある日、この雨が降り続く習柄町のことを小耳に挟んだ芹生さんの母親はすぐに引っ越しの手配をして、芹生さんを連れてこの町で暮らすようになった。
 この町で日々を過ごすようになって、初めは驚いたそうだ。耳にしていたとはいえ、本当に毎日雨が降り続くとは思っていなかったのだろう。毎日毎日空を見上げて、雨が降り注ぐのを確認しては感動したそうだ。そうして、そのうち芹生さんは少しづつ元気を取り戻していった。

「それでも、はじめは学校に通うの不安だったんだよ。でもね、話しているうちにみんなの雨との上手い付き合い方みたいなのを聞いて、不安がなくなっていったんだ」

「それに、中崎君も楠巳ちゃんもとても優しい人だったからね」

 そして、日曜日のことである。芹生さんが以前通っていた学校のクラスメイトが偶然、この町に遊びに来ていて、デパートの入り口で出会ってしまった。すれ違いざまに「雨女」と呼ばれたことで、芹生さんは忘れていた過去を、頭の奥にしまい込んでいた嫌な物を思い出してしまった。
 恐怖して、萎縮して、怯えてしまってどうにもならなくなった。一晩経ってからも恐怖をぬぐい去ることが出来ず、外に出られなくなった。
「今日は勇気を振り絞ってみたんだけどね…。やっぱり怖くなっちゃって、それで…」
少し、間を置いて「こんなとこに来ちゃったんだ」と申し訳なさそうに言った。
「もしかしたら、中崎君も…楠巳ちゃん、も…私のことを避けたら、二人に嫌われたりしたら…
って考えたら…怖くて、怖くて」
 嗚咽を漏らしながら、彼女は一つ一つ言葉を紡いだ。僕は芹生さんの話をじっと黙って聞いていた。何を言えばいいか分からずに、じっと彼女のことを見つめていた。僕なんかじゃ微塵も理解できないような、共感できないような日々を、彼女は送っていた。
 彼女は全てを話してくれたけれど、僕に何が出来るのだろう。何か僕に出来ることはあるのか。分からなかった、だから、
「芹生さん、僕には分からない」
素直に伝えることにした。
「その病気の辛さも、それが理由で外に出られない寂しさも、それが原因でクラスメイトにいい感情を持ってもらえない苦しさも分からない」

「でも」

「もしも、この町に来る前に僕が芹生さんの傍にいたなら、きっと、その…そんなことはしなかったと思う。芹生さんの悲しい顔とか僕は見たくない」

「僕と芹生さんは友達だ。君が僕の友達なら、僕は君の友達だ」
そう言って僕は彼女に手を差し伸べた。差し伸べた手を握ってほしいという明確な願いという物があったわけではなかったけれど、何となくその時はそうするべきだと思った。目の前で涙を流す彼女をそのまま放っておけなかった。
 芹生さんは溢れる涙を手で何度も拭って、顔を見上げて僕の方を向いた。
「…信じてもいい?」
「うん。それにきっと、楠巳も同じだよ。多分北外なんかも」
それを聞いた彼女はまた俯いて、涙を流し始めたようだったけれど、ゆっくりと僕の手を取ってくれた。彼女の手は雨で濡れた僕の手よりも少しだけ温かかくて、男の僕より少し小さくて、それでいて柔らかくて、不思議な感覚だった。
 ああ、これが芹生さんの手なんだ。これが女の子の手なんだ。僕の手とは違う白くて弱々しく見える手。無理だと分かってはいたけれど、この手を離したくないな、ずっと繋いでいられたらいいのに、なんてことを思ってしまったことを彼女に伝えることはきっとないだろう。

 それから僕らは家に帰った。何となくバスに乗る気にならなくて、歩いて帰ることになった。ちなみにその際、僕らは一つの傘に二人で入ることにした。いわゆる相合い傘というやつだ。離したくないと思った手を、帰る時に仕方なく離したところ、
「ここ掴んでてもいい?」
と言って彼女が僕の服の裾を掴んできた。断る理由はないし、むしろ嬉しい(けれど、もちろん恥ずかしい)状況で、非常に胸が高鳴った。
 それから僕は右手で傘を差し、彼女の左手は僕の服を引っ張る形で相合い傘をして、歩き出した。特に言葉を交わさないまま二人で黙って歩き続けた。時折、横目で彼女の今にも眠ってしまいそうな穏やかな表情を見て、安堵した。そしてドキドキもした。女の子と相合い傘なんて初体験だったから、しょうがない…よね?

 お互いの家に入る前に、今日芹生さんが学校をさぼったことは二人だけの秘密、という取り決めをしてから
「またね」
と別れを告げた。
 家に入ると、もう芹生さんの母親の姿はなくて、僕が濡れている理由を僕の母に問われたりしたけれど、芹生さんと約束したことを守るために本当のことは言わずに、ごまかして僕は自室に戻った。

 部屋で一人になって、僕はあることを考えた。
芹生さんが転校してきたとき、僕はなんでこの町に来たのだろうかと疑問に思った。こんな雨が降り続ける不便な町にわざわざ越してきた理由は何だろうか、と。
 その答えは、今日彼女に教えてもらった。彼女はとある病を抱えていた。それは雨が降る日には症状が軽くなるようなそんな病だと。毎日少しでも過ごしやすくするためには、この町はうってつけなのだと。
 つまり、雨が降り続くからこそ、彼女はこの町に来たということなのだった。雨が止まないなら、きっと楽しい日々が送れるだろうと。
 だから、もしもこの町で雨が止むようなことがあれば、彼女はこの町で暮らすべき理由がなくなってしまう。そうなったら、また彼女は転校するのだろうか、せっかく友達になれたのに遠くへ行ってしまうのだろうか。
 雨が止む、この習柄町でそんなことが起こるなんて、僕には全く想像できない。
 大丈夫、そんなことはない。僕は自分に言い聞かせた。だって、今までそんなこと一度もないのだから。雨が降り続ける限り、習柄町が今の習柄町であり続ける限り、芹生さんはきっとこの町にいてくれる。僕の友達でいてくれる。
 そこまで、考えて僕は気付いた。いつも、マイナス思考で、卑屈な僕がその時はなぜだか別の考え方をすることが出来たのだ。

 雨が止むようなことがあれば、彼女はいなくなるかもしれない。

 それは逆に言えば、雨が降り続けるならば、彼女はこの町から去ってしまうようなことはないのである。

 雨が降り続けるならば、

 そう、雨降りしかば、である。

 この雨が降り続く習柄、という町で「雨降りしかば」という仮定の話をすることはない、と言った過去の自分がいた。それは間違いだった。
「雨降りしかば、か」
自分が当然だと思っていたものが、ゆっくりと崩れ去っていくのを感じて、僕は思わず笑ってしまった。
 人生には分からないことがいっぱいあるんだなあ、と当たり前のことを改めて思いながら僕は眠ることにした。
 明日も雨が降っているかもしれないし、もしかしたら降らないなんてこともあるかもしれない。僕の願いとしてはもちろん、止まないことを願うばかりである。

 雨降りしかば、僕は嬉しい。

雨降りしかば

雨降りしかば

雨が止むことなく降り続く町「習柄(ならえ)」で暮らす中学生、中崎。その日々をつづった物語。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-31

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著作権法内での利用のみを許可します。

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