ガムとキャンディー
「今日は何味のガム?」
亜由美の問いに、佐紀はぷっと頬を膨らませた。みるみるうちに紫色の丸が大きくなり、パチンと弾ける。彼女は唇にはりついたガムをむしゃむしゃと食べて、言った。
「ブルーベリー」
「本当だ。いい匂いがする」
「亜由美も食べる?」
「うん。有り難う」
佐紀と亜由美は夕暮れの川辺に隣り合って腰を下ろしている。川幅はそれなりに広くて、降水量があると水が溢れることもある。けれどこうして晴れ間が続いている限り、浅くて平和な川だ。二人は対岸に住んでいて、佐紀は川の向こう側にある真新しい学校に、亜由美はこちら側の古びた学校に通っている。二人は同じ年齢で、今年で中学二年生だ。彼女達は放課後ここで落合い話をする。連絡を取り合って集合するというよりは、自然と集うという表現が正しい。このような交流が始まったのはいつからだっただろう。
「ねえ佐紀。私たち、いつからこうして会ってるんだろう?」
「中学一年の秋かなあ」
「じゃ、佐紀に会ったのって去年? ずっと前からこうしていたみたい」
亜由美の言葉を聞いて、佐紀はクスクス笑った。
「不思議だね。私もそんな感じ」
亜由美は背中の鞄をドサリと地面に置いた。
「うわっ、亜由美の鞄、重そう」
「重いよー。教科書でしょ、ノートでしょ、筆記用具、明日は給食当番だから割烹着も洗わなくちゃいけない。それに空のお弁当……」
「私の鞄、持ってみて」
佐紀は亜由美に自分の鞄を手渡した。予想よりも軽い手ごたえに、亜由美の手が宙に浮いた。
「もしかして佐紀、教科書学校に全部置いてきてる?」
「そうでーす」
「宿題やる時困らないの?」
「うーん、別に」
「凄いなー、私ないと駄目なんだ。教室でたら全部忘れちゃうの。ノートに写したはずの言葉もちんぷんかんぷんだよ」
眉を八文字にする亜由美に、佐紀はいたずらっぽく笑いかけた。
「私も同じだよ」
「えー、佐紀って頭よさそうだからなあ」
亜由美はぱっと顔をあげて言った。
「ねえ佐紀、今度数学のテストあるって言ってたよね? 私もあるの。点数、見せ合いっこしない?」
「ええ? でも、そんなのヤボだよ」
「佐紀の天才ぶりを暴いてやるんだから」
「違うよぉ」
佐紀は包み紙にガムを吐き出し、ポケットに入れた。そして鞄を手に取り立ち上がった。
「私、帰ろうかな」
「そう。気をつけてね」
「うん。亜由美、明日もここ来る?」
「もちろん」
「そっか。私も来るから」
「ガム、何味か楽しみにしてる」
「ちょっと。亜由美はガム目当てで私に会ってるの?」
「冗談、冗談だよ」
佐紀はひらひらと片手を振って歩き出した。亜由美はその後ろ姿を見つめ、ぽつりと呟いた。
「いいなあ、セーラー服……」
翌日、亜由美はけたたましい目覚ましのベルで起きた。洗面所で顔を洗う。タオルを手に取り鏡を見ると、眠たげな目をした自分が映っていた。亜由美は顔をしかめる。
「どうして私の眉毛ってこう、太いのかなあ。サムライみたいに釣り上がっててさ。真っ赤な頬も嫌い。寒くなったら、ますます赤くなる。髪だってここだけはねてるし……。もし伸ばしたら悲惨なことになりそうだなあ」
そこで亜由美は佐紀の顔を思い浮かべる。
「佐紀はいいな。眉毛がまっすぐで、色素も薄くて、唇なんかきれいなピンク色。髪の毛も染めてないのに茶色がかってて、柔らかそうで、肩まで長くてさあ。男の子はきっと、佐紀みたいな女の子を好きになるんだろうな」
亜由美がじっと鏡を見つめていると、台所から母の声がした。
「早く支度しなさい。ご飯冷めちゃうよ」
「はあい」
亜由美は慌てて歯ブラシを口につっこんだ。
放課後、部活を終えた亜由美は、友人と別れた後、体操着のまま川原に向かった。そこには既に佐紀がいた。草むらに腰を下ろしている。
「おーい」
亜由美が呼びかけると、佐紀はぶらっと片手をあげた。亜由美はぶっきらぼうな佐紀の挨拶が好きだった。
「今日はオレンジ味だ」
「当たり」
佐紀は小さな箱をポケットから取り出し、亜由美の手にガムを三粒落とした。
「懐かしい。これ、小さい頃よく食べた」
「家の近くのスーパーで見つけたの」
口に放り込むとくしゅんと砕け、甘酸っぱい味が広がった。
「オレンジっていうより蜜柑味だね」
「うん」
二人は川を眺めた。川の向こうに帰宅途中の生徒がちらほらと見える。佐紀と同じ制服だ。かすかに声も聞こえてくる。涼しい風が足元の雑草を揺らす。
「私、この川好きだな」
「私も好き。亜由美は小さい頃からここに来てたんだもんね」
「うん。堤防が完成する前からね。花をつんだりした」
「へえ。あっちは川縁がニセアカシアの薮になってるから、散歩には向いてないんだよね」
佐紀は向こう側を指差した。背の高い木々が生い茂り、風にどうどうと唸っている。佐紀の首元の赤いスカーフも、羽のようにひらめいた。亜由美は体操服を着て佐紀の傍にいることがにわかに恥ずかしくなった。
「私、着替えてくればよかったなあ。こんな服装だと、典型的運動部って感じで恥ずかしい」
佐紀は笑った。
「だって亜由美、実際陸上部じゃない」
「そうだけどさあ。あっ、この服泥んこだ。どうして気づかなかったんだろう。ねえ佐紀、私、ジャージでいると男子みたいじゃない?」
亜由美の濃い睫毛にふちどられた目が、心配そうに見開かれた。佐紀はいつもよりさらに赤くなっている亜由美の頬をつついた。
「何気にしてんの。心配することないよ」
亜由美はその言葉を聞いて、体育座りの膝に顔をうずめた。
「私、佐紀が羨ましい」
「ええ? どうして? 私なんて今日、顔も洗わずに出てきちゃったよ。髪だってボサボサ……」
亜由美はきっと顔をあげた。
「それ聞いてもっと羨ましくなった! だって佐紀、そのままでもきれいなんだもん。私は佐紀みたいに髪さらさらじゃないし、頬も真っ赤だし、眉毛は男みたいだし、膝だっていつも転んでるから傷だらけだし……走るの速いし」
亜由美はちらりと佐紀を見た。佐紀は困っている。亜由美は自分がだだをこねていることに、チクリと罪悪感を感じた。佐紀は言った。
「いいじゃん、足速いの。私どんくさいから、体育苦手なんだ。それに私、亜由美が男みたいだなんて思ったことないけどな。誰かに言われたの?」
「そうじゃないけど……」
「じゃあ、気にし過ぎだ」
佐紀は亜由美の肩を軽く叩いた。
「ガムもう一つ食べる? 箱ごとあげちゃう」
「うん」
佐紀はニッと笑った。佐紀からオレンジの香りがした。私も同じ香りがするだろうか。亜由美はそっと息を吐いた。
日が暮れる頃、亜由美は佐紀と別れて家に帰った。
「おかえりなさい」
母が言った。台所には夕食のいい匂いが漂っている。鞄を下ろすと肩が一気に軽くなった。
「今日は部活、どうだったの」
「ひたすら走り込み。男子と同じ量やらされるんだもん。これじゃ私、高校に入る頃にはムキムキになっちゃうよ」
母はカレーライスを盛りつけた皿をテーブルに置き、微笑んだ。
「女の子は今のうち筋肉つけといた方がいいわよ。大人になったらスタイルのいい女性になれるから」
亜由美は溜め息をついた。
「大人だなんて……ずっと先のことじゃない。私は、今どう見られるかってことの方がよっぽど大切」
「いつかきっと分かるわ。十年なんてあっという間だから……」
「その台詞、いかにも年寄りくさーい。お母さん、老けたんじゃないの?」
「誰のせいかしら? ほら、お皿運ぶの手伝って」
亜由美は母の手からサラダの入ったボウルを受け取り、テーブルに置いた。
亜由美が食事を終えた頃、父が帰ってきた。
「あら、早かったのね」
「お帰りなさい」
「お母さん、亜由美、ただいま」
父はネクタイを緩めた。しかし、第一ボタンは締めたままだ。亜由美はうんざりして見つめる。優しい母とうって変わって、父ははっきりと物を言い、おまけに堅苦しいほど真面目だった。その証拠が第一ボタンだ。父は身だしなみが乱れることを嫌い、いつも一番上までボタンを締めていた。それは真夏日でも変わることはなかった。父は亜由美に生真面目を強要することはなかった。しかし亜由美は父を見ているだけで息苦しさを感じるのだった。父は私服のシャツに着替え、食卓に座った。亜由美は一番上のボタンに目をやった。やっぱり締まっている。家でくらい寛いだらいいのに、と亜由美は思った。父は言った。
「今日はどうだった。勉強は」
「うん、まあ」
「分からないところがあったら相談しなさい。お父さんが教えてやる」
「そうよ、亜由美。お父さんこの街で一番頭のいい大学出てるのよ。優秀なんだから」
「お前、そういうことを一々言うな」
母は嬉しそうに父の経歴を語っていたが、おもむろに話の矛先を亜由美に向けた。
「亜由美、お父さんにテスト見せなさい。今日、あったんでしょ」
「お母さん、どうしてそういうことだけ覚えてるの? この間はお弁当箱入れるの忘れたくせに」
亜由美はぶつくさ言いながら、父にテストを手渡した。父は無表情でそれを眺めていたが、ある部分にさしかかると、鋭く亜由美を見た。この顔で見つめられると逆らえない。
「亜由美、この部分はこの間教えたよな。理解できなかったら必ず質問するように言っただろう」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい。でも後で復習するぞ。食事が終わったらお前の部屋に行くから、予習していなさい」
「……はぁい」
亜由美は鞄を持って自分の部屋に向かった。
「頑張れ、亜由美」
後ろから陽気な母の声が聞こえた。
亜由美は教科書を眺めていた。ラインが引かれ、メモが書かれている。しかし自分がそうしたことを全く思い出せない。もちろん授業の内容も、だ。
「覚えているのは、前の席の愛ちゃんが私に話しかけてきて注意されたことと、窓の外の青空と、校庭でA組がバレーボールしてたこと……。背の高い男の子がサーブをはずして、同じチームの人に怒られてた。本当に困った顔をしてて、可哀想だったっけ……」
そこでノックの音がして、亜由美は咄嗟に姿勢を正した。静かに扉が開き、父が入ってくる。父の動作はいちいち静かだ。亜由美はまた息苦しさを感じた。父は部屋の隅に置かれていた椅子を亜由美の隣に持ってきて、腰かけた。亜由美は言った。
「お父さん、今日は少しでいいよ。疲れてるんでしょ」
父は腕組みをする。
「お父さんは亜由美の勉強が遅れていることの方が心配だ」
「そうですか……」
「何だそのぶーたれた顔は。さてはやる気がないな?」
「バレました?」
「さっさと教科書を開きなさい」
「開いてますぅ」
父は身を乗り出して数学の教科書に目を通した。
「どれ、この部分か。この間教えたはずだがな。どこが分からない」
まさか全部ですとは言えない。亜由美は口ごもった。
「ええと……」
父は問題を噛み砕いて教えるのが上手い。説明を聞いている時は亜由美も理解できたような気になるのだが、部屋から出た瞬間、何もかも忘れてしまうのだ。次の日教科書を開いた時にはもう、数式がただの記号の羅列にしか見えなくなっている。どぎまぎする亜由美を見て、父は眉間に皺をよせた。
「亜由美。部活に没頭するのはいいが、勉強を疎かにしてはいけないぞ。高校だって行きたいところがあるんだろう。夢を叶えるには、手段が必要なんだぞ。厳しいようだが、これが世の中のルールってもんだからな」
「うん……」
父の言っていることは正しいのかもしれない。しかし亜由美はそんな風に言われると、世の中がさもつまらない場所のように思え、残念な気持ちになるのだった。父は黙ってシャープペンをいじっている娘に微笑んだ。そしておもむろに言った。
「亜由美。この機会だし話をしよう。亜由美はどこの高校に行きたいんだ?」
「え……」
「そろそろ考えているかと思ってな。先生からも進路の話題が出る頃だろう」
確かにそうだ。この間のホームルームで、三年生になったら受験に向けて、面接の練習と模試が行われると説明を受けた。友達の間でも、どの高校の制服が可愛いとか、好きな先輩がどこへ行くから自分も行きたいとかいった話が交わされている。試験対策に塾に通いだした人もいる。しかし亜由美はそういう話題を振られても、曖昧に笑ってごまかしていた。自分がどうしたいのか分からなかったからだ。だから今日、改めて父に顔をのぞき込まれて、自分が一回り小さくなったような気持ちになった。
「何で黙っているんだ。亜由美は考えたことがないのか。将来を左右する大事な決断なんだぞ」
亜由美は机の下で拳を握った。手のひらが汗ばんでいる。亜由美はやっとの思いで言葉を搾り出した。
「お父さん。私、分からない。自分がどこに行きたいのか。何をしたいのか」
父はふいをつかれた顔をした。それから溜め息をついた。うんざりしたからついたというより、つい吐息が漏れたといった風だったが、緊張し切っていた亜由美の心には悲しく響いた。
「そうか。お父さんは、お前の年頃には将来の夢を決めていたがな」
それは、と亜由美は思った。お父さんが優秀だったから。私はお父さんほど頭がよくないから。お父さんが何度も勉強を教えてくれても、覚えられないから。クラスでも成績は下の方だし、友達とテストの点数を見せ合いっこしても、だいたい負けるし。私の取り柄は足の速さくらい。だけどそれも、推薦をとれる程の実力じゃない。私は一体何になればいいんだろう。亜由美は、自分に大人になる資格などないのかもしれないと思った。うつむいた亜由美に、父は声を和らげた。
「考え込むことはない。まだ時間はある。先生や友達と相談して、納得できる答えを見つけなさい。では勉強をしよう。シャープペンを取りなさい」
亜由美はペンを取った。手が震えた。次の瞬間、亜由美の目から涙が溢れた。
「どうした」
父は亜由美の肩を抱き、背中をさすった。
「何か悩みがあるのか。言ってみろ」
亜由美はただ泣きじゃくった。自分でもどうして泣いているのか分からなかった。
「進路の話をして不安になったんだな」
亜由美は泣きながら、父の見透かすような物言いに不条理ないら立ちを感じた。同時にそんな自分が情けなかった。何て子供じみたことをしているのだろう。
「今日は勉強はいい。休みなさい。この話はまた今度にしよう」
父はやってきた時と同じように、静かに部屋を出て行った。亜由美は布団にもぐってしばらく泣いていたが、いつの間にか眠ってしまった。
翌日、亜由美が腫れた目で台所に現れると、母はぎょっとした。
「どうしたの、亜由美。辛いことでもあった? それとも具合悪い?」
「何でもないよ、何でもないったら」
母の心配が過剰なものに思え、亜由美は恥ずかしさと煩わしさでいっぱいになった。亜由美はテーブルに力なくつっぷした。母はミルクをたっぷり入れた紅茶を出してくれた。
「これでも飲んで気分を落ち着けて。今日も部活あるんでしょ。頑張りなさい」
亜由美は照れくささでお礼も言えず、ブスッとした顔でそれを飲んだ。母は微笑ましく見守っていたが、亜由美は優しい家族に不器用な対応をすることしかできない自分に幻滅していた。
登校しても亜由美の気分は晴れなかった。家族に不機嫌な態度をしたことを悔やんでいたし、今まで目を背けていた進路の問題を突きつけられ、不安と向き合わざるをえなくなったからだ。放課後、体調が悪いから部活を休みたいと告げると、顧問は訝しんだ。
「顔色はいいようだけど……まあ、本人がそう言うのなら仕方ないわね。帰ってよし」
亜由美はほっと胸を撫で下ろし、冷や汗を拭きながら川原に向かった。草むらに腰を下ろすと心が安らいだ。今日は風が強く、雲が渦を巻いて移動している。
「生き物みたい」
亜由美が呟いたところで、後ろから佐紀の声がした。
「亜由美、今日早かったんだね。部活なかったの?」
「ううん。休んだの」
「珍しいね。体調悪いの?」
佐紀は鞄を置いて、亜由美の隣に腰掛けた。相変わらず中身は入っていないようで、筆記用具が踊る軽い音だけが聞こえた。
「亜由美、目が赤いんじゃない? 昨日泣いた?」
「もう、気づかなくていいことに気づくんだから」
「何かあったの?」
「佐紀はさあ……進路のこと、考えてる?」
佐紀は目を丸くした。予想外の質問をされた時の顔だった。亜由美はそれを見て安心した。
「なんだ、考えてないんだね」
「うん、全然。でもどうして?」
「昨日お父さんに、どこの高校に行きたいか聞かれてさ。私、何も答えられなかったの。だって自分がどの高校に行けば幸せになれるかなんて、どうやったら分かるの?」
亜由美の思い詰めた物言いに、佐紀は笑った。
「考え過ぎじゃない? 皆、せいぜい友達と同じところとか、推薦で行けるところならどこでもいいって思ってるよ」
亜由美は足元の草を無差別に引き抜いた。
「でも、お父さんは将来を左右する選択だって」
「亜由美のお父さん、真面目そうだからなぁ。もうちょっと気楽に考えなって」
亜由美は佐紀の諭すような口ぶりに顔を上げた。佐紀は対岸に視線をやっていた。短いスカートから白い太腿がすっと伸びていた。亜由美は自分の長いスカートに目を落とした。そこから日に焼けて引き締まったふくらはぎがのぞいていた。亜由美は履きつぶしたスニーカーの爪先を見つめて、言った。
「何だか、私ばっかり子供みたい」
「皆悩んでることだと思うよ」
「自分が恥ずかしいよ。うまく大人になれるか不安になってきちゃった」
それを聞いた佐紀は自嘲的な笑みを浮かべ、こう吐き捨てた。
「来年のことさえ分からないのに、進路なんて考えられるわけないじゃない」
亜由美は驚いて、言った。
「そんな口調、佐紀らしくないよ」
佐紀は落ち着かないようで、しきりにスカートの皺を伸ばしている。
「亜由美には私がどう見えてる?」
「えっと……。佐紀は、佐紀だよ」
思いも寄らぬ質問に亜由美がどぎまぎしていると、佐紀はにこっと笑った。
「そうだよね」
「どうしたの? そんなこと聞いて……」
「ううん。何でもない。亜由美、お菓子食べよう」
佐紀は鞄の中から、小さなドーナツがたくさん入った袋を取り出した。亜由美の表情が明るくなった。
「今日はガムじゃないんだね」
「帰り道のコンビニで買ったの。こんなに入ってるのに百五十円! 中学生の強い味方」
「ええっ。買い食いって校則で禁止されてるんじゃ……」
「亜由美って女侍みたいな顔してるくせに小心だよねえ」
「それを言うなら佐紀だって、清楚な顔してるくせに不良」
二人は顔を見合わせて笑った。ドーナツはまんべんなく砂糖がまぶされていて、とろけるように甘かった。
「大人になってからも美味しいと思うのかな」
亜由美がそう思ったのは、進路の話なんてしたからだろうか。
亜由美と愛は仲がいい。席が近いし、何よりも同じ陸上部だ。休み時間になると愛は振り返って亜由美の机に肘をつき、高い声で軽快に喋る。亜由美はもっぱら聞き役だ。
「ねえ、亜由美。アタシが片思いしてるヒロム先輩、電車で四十分もかかる高校に行っちゃうんだって。しかもそこ、超頭いいんだよ。あーあ、アタシきっと入れない。だって勉強苦手だし」
そこで愛は鞄から鏡を取り出すと、前髪の分け目を整え始めた。
「巻き髪が落ちてきちゃったよ。亜由美も髪長くすれば? きっと可愛いって」
「でも私、癖毛だから、毛先がぴょんぴょんはねちゃうよ」
「ストパかければ気にならないよ」
「ストパって幾らするの?」
「家庭用のやつなら三千円くらいで買えちゃうよ。後はワックスつけてツヤ出してさ」
「ワックスって手がべとべとになるから苦手……」
「やだなぁ、ストレートヘアーのお姉さんも、皆ワックスつけてるんだよ。じゃなきゃあんなにまとまらないから」
「えっ。そうだったの?」
「お姉ちゃんが言ってたもん」
愛は腕を組んで鼻息を荒くする。愛は年の離れた姉がいるせいかませている。先に恋愛に興味を持ったのも、お洒落に気を配りだしたのも彼女だ。愛は袖をまくったり、スカートを折り曲げたりと、様々な工夫を凝らして制服を着ている。そのせいで悪目立ちして、担任からよく注意されている。しかし目立つということは、男子にも注目されるということで、つまり愛はモテている。
「亜由美はもったいないなぁ。もうちょっとお洒落すりゃ、きっとモテるのに」
亜由美は苦笑いする。
「でも私、部活と勉強で精一杯で、恋なんてとても……」
「何勤勉な優等生みたいなこと言ってんのよ! 私たちピチピチの女子中生なのよ、女子中生!」
「気が早いなぁ、愛ちゃんは。恋愛なんて高校生からで十分だよ」
「今は中学生向け雑誌にもセックスの仕方が書いてある時代だよ」
「セッ」
その一言に男子の視線が一斉に集まった。亜由美の顔が真っ赤になる。
「ちょっと、愛ちゃん、やめてよぉ。皆が聞いてる前でそんな話」
「やだ、亜由美ったらウブなんだから」
「十四歳でウブも何もないでしょお」
愛は心なしか得意げだ。こういうことを男子の前でできてしまうのも、愛がモテる原因なのだ。
「皆、愛ちゃんと付き合うとそういうことができると思ってるんだ。私は自分がそんなことをしているところなんて想像できないよ……」
亜由美は火照った顔を教科書で隠した。
こんな調子だから、愛は部活動をしている時もやかましい。亜由美がストレッチをしている横から、ジャージをぺろりとめくってくる。幸い陸上部は男子と女子の練習場所が別々なので誰に見られるわけでもないのだが、恥ずかしいものは恥ずかしい。
「愛ちゃん!」
亜由美は露になった脇腹を必死で隠しながら顔を赤くする。それを見て愛はうひひと笑う。今度は短パンにも手が伸びてきて、亜由美は飛び退く。
「ギャッ! 愛ちゃん、スケベ! 愛ちゃんのパンツも見てやるから」
「おー、見なさい。今日のパンツは気合い入ってるんだから」
愛は尻をぺちぺちと叩いた。やり返そうにも愛は堂々としたもので、亜由美は悔しさに唸るしかない。そこに顧問の先生が割り込む。
「あんたたち、仲がいいのはいいけどね、さっさと練習始めなさい」
「はいはーい」
愛が気だるそうに顧問に着いていったので、亜由美は密かにほっとする。
「今日は百メートルのタイムを計りますからね」
愛は亜由美に舌打ちしてみせる。
「ゲッ。私、走り高跳びがよかったのに」
亜由美は苦笑いを返す。笛の合図で次々と生徒が走り出す。そんな中、亜由美は十四秒を記録した。愛は肩で息をして言う。
「亜由美、相変わらず速いなあー。このまま行けばボルト追い越せるんじゃない?」
「それ褒め言葉だとしても嬉しくないよ」
他の女子生徒からも声がかかる。
「亜由美先輩、かっこいいです。どれくらい走り込めば速くなれるんですか?」
「いやあ……多分、皆と同じくらいしか練習してないよ」
亜由美は心底困って頭をかいた。小学校時代から走るのが速く、体育の成績がよかったから陸上部に入ったというだけで、記録を出したいとか、大会に出たいとか、そういった志は一切ないのだ。愛がそんな亜由美を肘でつつく。
「やだなぁ、亜由美、もったいぶっちゃって。後輩を指導してあげなさいよ」
「でも私、本当に何も……」
「自信持ちなって。あんた後輩の間では人気あるんだよ。凛々しい眉毛の亜由美センパイ、カッコイイってね。こないだ廊下で聞いちゃったんだ、アタシ」
「私、そういうんじゃないから……」
「全く、意固地なんだからぁ」
亜由美は口元だけで笑った。私、可愛いって言われてみたい。亜由美は心の中で呟く。それから亜由美はコースを三度走った。走るのが気持ちよかったからではない。見えない何かを振り切りたかったのだ。
亜由美は半袖半ズボンという、秋にしては涼しげな格好で川原に行った。佐紀はもう座っていた。
「やっほ」
「亜由美。部活お疲れ」
「ありがと」
亜由美は首にかけたタオルで汗をぬぐう。
「寒くないの?」
「むしろ暑いよ。結構走ったから」
「ふーん。そういうもんかなぁ」
亜由美は佐紀の制服姿を見て、思ったことを口にした。
「そういえば佐紀、ここに来る時いつも制服だね」
「え?」
「六限目が体育だと、着替えるの面働くさいから、ジャージのまま帰ったりしない?」
「ああ……」
佐紀は口ごもった。視線が泳いでいる。亜由美は佐紀がなぜ動揺しているか分からなかったので、そのまま続けた。
「いつも着替えてくるなんて、佐紀も几帳面なとこあるんだね」
「……うん」
佐紀は曖昧に笑い、取り繕うようにガムを差し出した。今日はクールミントだ。噛むとミントの香りが広がり、口の中がスースーした。
「佐紀。青って食欲を削ぐ色だっていうけれど、お菓子は別だね」
「あ、確かに。マーブルチョコに青ってあったっけ?」
「あれ? どうだったかな……」
二人はしばらく川岸を見つめていた。佐紀は言った。
「私、川の流れる音を聞いているのが好き。不安な気持ちが和らいでいくから」
亜由美は激しくうなずいた。
「佐紀もそう思う? 私も。嫌なことがあった日もここに来ると、川が全部洗い流してくれるような気になるんだ」
佐紀がふきだした。
「亜由美って、意外とロマンチストだね」
「あれっ? 何で?」
亜由美は顔を赤くする。亜由美は膝の間に両手をはさみ自分の乙女めいた発言を悔いていたが、やがておずおずと言った。
「……佐紀でも不安になること、あるの?」
「あるよ、何言ってんの」
「だって佐紀、大人っぽいからさ。飄々としてるし」
「そんなことないよ。亜由美と同じだよ」
佐紀の顔から徐々に笑顔が消えた。
「同じ……」
佐紀は呟き、膝を抱えて背中を丸くした。
「亜由美。同じって何なのかなあ」
「え? どういうこと?」
「……ううん、何でもない」
亜由美は佐紀の姿に危うげなものを感じ、得体の知れない心細さに襲われた。佐紀と付き合ってから初めて味わう感情だった。
昼食の時間、愛と亜由美は机を付き合わせ弁当の包みを開いた。愛は言う。
「今日も総菜と冷凍食品。まあ、分かってたけどさ」
それから亜由美の方に身を乗り出し、目を輝かせた。
「わっ。やっぱ亜由美のお弁当、キレイだなぁ。亜由美のお母さん、凄いよね。毎回手作りしてくれるなんて」
亜由美はブロッコリーを咀嚼して、言った。
「そうなのかなあ。当たり前だから考えたこともなかったよ」
愛は椅子にふんぞり返り、説教臭く言う。
「贅沢だなー、早起きして、二人分のお弁当の具材を一から作るとこ、想像してごらんよ。どんだけ手間かかるか分かる?」
「うーん」
包丁を握ったこともない亜由美にはピンとこない。愛の家庭は両親が共働きのため、姉妹で分担して料理しているというから、何か思うところがあるのだろう。
「確かに冷凍食品は美味しくないけどさ。アタシ、親から弁当つめてもらえるだけ、感謝しなくちゃと思ってるよ」
「ふーん……」
亜由美は愛の垂れ目メイクが施された顔に大人びたものを感じ、思わず彼女の顔をまじまじと見つめた。愛は気付かずいつもの調子でまくしたてる。
「ねえねえそれよりもさ、昨日ヒロム先輩が……」
「愛ちゃん。もしヒロム先輩と結婚したらって考えたことある?」
亜由美は愛の言葉を遮り、以前から聞いてみたかった質問を投げかけた。愛の声が弾んだ。
「え? あるに決まってるでしょ? 朝はいってらっしゃいのちゅーから始まるの! んで、同じベットで眠るのよ。家具は全部白にして、一軒家に住んで、お花を植えて、子供は三人! あー、ヒロム先輩の顔を毎朝拝むことができるなんて幸せっ」
夢の世界に入ってしまった愛を、亜由美は苦笑いで呼び戻した。
「でもさあ愛ちゃん、誰かと一緒に暮らすって、働くって、子供産むって、どういう感じなのかな」
「へ?」
愛は不意打ちを食らい、真顔になった。
「出産は痛いって言うよねえー。でも、自分の子供が可愛いのは当たり前だし、好きな人とずうっと一緒にいられるなんて幸せじゃん?」
亜由美はあまりに純粋な愛の言葉に面食らいつつ、言った。
「でも、愛ちゃんは自分がお父さんやお母さんみたいになるとこ、想像できる?」
愛の表情が険しくなった。
「アタシはお父さんやお母さんみたいには、絶対にならない! 子供に寂しい思いなんかさせないし、毎日手作りのあったかい料理作ってあげるの!」
「う、うん……」
亜由美は愛の気迫に押され、黙り込んだ。愛は意気揚々と言った。
「それに働くなんてあり得ないよ、だってお金はヒロム先輩が稼いでくれるしぃ」
根拠のない自信に満ちあふれた発言に、亜由美は頭を垂れた。
「どうして愛ちゃんは自分の夢を信じられるの?」
愛はきょとんとした。
「え? そんな難しい話分かんないよ。でもディズニーのヒロインとか、少女漫画の主人公はだいたい幸せになってるし、そーゆーもんなんじゃないの? アタシたちは大人になったらキレイな女の人になって、運命の男の人と幸せになるんだよ」
愛はケロリと言い放つと、カサついたコロッケをぱくつき始めた。亜由美はしっかり下味のついた唐揚げを頬張りながら、愛の逞しさに感服した。
「私って考え過ぎなのかなあ……。でも自分がヒロインになれるなんてとても思えない。それに愛ちゃんの言った通りの人生を歩んだとして、私は幸せなのかしら……」
今日は顧問の先生が出張ということで、部活動は休みだった。愛は録り溜めていたテレビドラマを見ると言って、さっさと帰ってしまった。亜由美は河原へと繋がる住宅街を歩いている最中、ポケットに眠る髪留めのことを思った。亜由美の鞄には輪ゴムが一つ入っている。愛から貰ったものだ。亜由美の髪は短いので結う必要はないのだが、愛特有の「お洒落をして恋愛をしろ」理論から押し付けられたのだ。その時はうんざりしたものの、同じクラスの女子の髪に光る、色とりどりの髪飾りが気になっていたこともあって、今日まで捨てられずにいる。
亜由美はパイン味のガムを噛んでいる佐紀にこう切り出した。
「佐紀は、髪留め持ってる?」
「ん? 持ってないよ。私髪結うの嫌いだから」
「そう……そうだよね。髪留め持ってるのが女子の掟ってわけじゃないもんね」
亜由美の奇妙な発言に佐紀は笑った。
「どうしたの、真剣な顔して」
「私、髪を結いたいんだ」
「結えばいーじゃん」
佐紀はあっけらかんと言った。
「そんなに簡単な話じゃないんだよう」
「問答無用。亜由美、髪留め持ってるの?」
「あー、えっと、うん」
「じゃ、貸して。私が結ったげる」
「えーっ、えっ、恥ずかしいよ」
「もー、亜由美はすぐ恥ずかしがるんだから。ほれほれ、見せてみなさい」
亜由美はおずおずと淡い紫色の髪留めを差し出した。佐紀はゴムを日にかざした。プラスチックの宝石がキラキラと光る。
「へえ、きれいじゃん」
「私に似合うかなあ? ショートだけど……」
「まかせて、可愛くしてあげる」
佐紀はポケットからヘアピンを何本か取り出し、亜由美の前にひざまずき前髪を編み込み始めた。佐紀が髪をすくうと、冷たい指が額に当たった。何だか照れくさい感触だった。亜由美は佐紀の真剣な顔を盗み見ながら、こんなことを考えた。愛には屈託のない可愛らしさと、小悪魔的な魅力がある。佐紀には飾らない品の良さと清潔感があり、それもまた美しい。亜由美はどちらに転がることもできず、髪留めにすら怖じ気づいている自分が情けなかった。亜由美は意味もなく両手を揉んだ。
「ほら、できた」
佐紀は得意満面で両手を腰にあてた。亜由美は前髪に触れてみた。わずかにデコボコとした手触りがする。佐紀はぺしゃんこの鞄からシンプルな鏡を取り出すと、亜由美の前にかざした。亜由美の前髪は右から左へ丁寧に編み込まれ、その先をあの輪ゴムが留めていた。鞄の中に眠っていた髪留めが、佐紀の手によって花開いたようだった。亜由美は言葉を失ったが、やっとのことでお礼を言った。
「あ、有り難う」
「よかった。気に入らなかったんじゃないかってビクビクしてたよ」
「ううん、あの……自分のことこう言うのも変だけど、とても可愛い」
「でしょでしょ。亜由美はおでこ出した方が似合うと思ってたの」
「私、女の子みたい」
亜由美の間抜けな発言に、佐紀は頭をはたいた。
「あんたは髪結わなくても女でしょ」
亜由美は自分の凛々しい眉毛をなぞって、こう言った。
「あのね、佐紀。変な話になるけど。初めてブラつけた時、妙な気分になんなかった?」
佐紀は気恥ずかしさに視線を泳がせた。
「あー、うん。そうだったかも」
「でしょ。お洒落って、何かその時と似てるんだ。恥ずかしいようなくすぐったいような、だけど女子であるからには、やらなきゃいけないような気がするじゃない」
「分かるなぁ。実を言うと私、初めてブラ買いに行った時、泣いたんだ」
「ほんとに?」
佐紀は照れて笑った。
「中々つけられなかったなあ。大人になれたようで嬉しかったって言っていた子もいたけどさ、私はそうじゃなかった。自分が違う生き物になった気がして」
「そうそう。自分の体が変わっていくのって、不思議だよね」
亜由美は改めて鏡を見た。
「佐紀、私、変じゃないかな?」
「ううん、全然。ね、気に入ったなら学校でもこの髪型してみてよ。やり方教えたげるからさ」
佐紀は前髪をほどこうとしたが、亜由美は慌ててそれを止めた。
「待って。しばらくこのままがいい」
「うん、分かった」
佐紀は嬉しそうに笑った。亜由美は佐紀がこの体験を、自分のことのように喜んでくれているのが嬉しかった。
朝、亜由美が食卓に顔を出すと、父が新聞を広げていた。立ち尽くす亜由美に母が声をかける。
「亜由美、お早う」
「お早う。どうしてお父さんが? いつもならもう出勤してる時間なのに」
父は新聞から顔を上げ、にやりと笑った。
「今日は数学のテストだろう」
亜由美は盛大に溜め息をついた。
「お母さん、また話したのね」
母は鼻歌混じりに味噌汁をよそっている。どこ吹く風だ。
「確かにあの後、予習はしたけど……」
「何なら、今おさらいしてもいいんだぞ」
「やめておく。ご飯が喉を通らなくなるよ」
父はげんなりした顔でテーブルについた亜由美の背中をバンと叩いた。
「頑張れよ」
「はーい……それを言うためだけに遅く出勤することにしたの?」
「うん」
「もう……」
父は何事もなかったかのように背筋をピンと伸ばし、梅干しに箸を伸ばした。
ホームルームが済んでから、亜由美は愛に話しかけた。
「テスト勉強してきた?」
「えっ! 忘れてたぁ! やばい! ていうか教科書すら持ってきてない。亜由美、見せて、お願いします」
「えぇ? 仕方ないなあ……。でも私の教科書あてになんないよ」
「見ないよりマシ。ありがとー」
失礼な返答に亜由美はムッとした。そして、毎度のことながらちゃっかりしてる、と溜め息をつく。愛の両親はテストを見ない。点数も気にしていないようだ。亜由美は言った。
「愛ちゃんちはいいなあ。テストについてあーだこーだ言われなくてさ」
「うちの親、放任主義だからね」
「へえ。ねえ愛ちゃん、私たちってどうして勉強するの?」
「また始まったよ、亜由美の”どうして”が……」
愛はやれやれと頭をかいた。クルクルに巻いた髪が軽やかに揺れる。
「だから、アタシは難しい話は分かんないってば。しなきゃいけないからするんじゃないの? ギムキョーイクってやつ」
「お父さんは将来を手に入れるための手段だって言ってたんだ。だけどそれも味気ないような気がして……」
愛は唇に指を当てて考えていた。
「将来かぁ。確かにある程度勉強しときゃ、高校も選び放題だよね。見据えてベンキョーにせいを出す亜由美、マジでエライ。尊敬するよ」
愛は亜由美を讃えて拍手し、鏡を取り出してつけ睫毛の調子を整え出した。亜由美は愛が話を切り捨てる前に畳み掛けた。
「愛ちゃんは勉強することについて疑問を感じない?」
「うーん、よく分かんないなー。ていうか亜由美、肩こんないの?」
「え?」
愛はつけ睫毛を引きはがしながら、何でもないように言った。
「亜由美は自分の正しさに追い立てられてるみたい。いつも悩んでるじゃん。そんなに真面目だといつか疲れてバッタリ倒れちゃうんだからね」
愛の言葉に亜由美は絶句した。次の授業が始まり、愛が落書きを始めても、亜由美は空を見つめていた。それから机に突っ伏した。佐紀に会いたかった。
日が暮れるのが早くなってきた。川原についた頃には、辺りの風景は薄い青に包まれていた。佐紀はグレーのカーディガンを羽織り、冷たい風に身を縮めていた。佐紀は幽霊のように現れた亜由美の腑抜けた表情を見て、言った。
「亜由美、どうしたの? 最近、泣いたりウジウジしたり情緒不安定じゃん」
「そうなんだよぉ。今日も佐紀に会いたくてたまんなかった」
亜由美は佐紀に抱きついた。彼女のシャンプーの香りが広がる。
「わはは、どうしたどうした」
「分かんなくなっちゃった。恋愛も進路も自分のことも」
「おっ、悩める中学生ってか。亜由美、思春期してるゥ」
「もー、からかわないでよぉ」
亜由美は渋い顔をしていたが、佐紀が棒つきキャンディーを取り出すと口元が緩んだ。
「ちょーだい、ちょーだい」
「お菓子で元気になるなら大した悩みじゃないね」
亜由美は口を尖らせて佐紀の手から菓子をひったくった。乱暴に包み紙をはがして口に入れる。酸味のきいたレモン味だ。
「亜由美、あの髪型試さなかったの?」
「やってみたんだけどほどけちゃうんだよね……。佐紀みたいにうまくできなくて」
「この不器用めっ」
佐紀の屈託のない物言いがチクリと心を刺した。亜由美は少し意地悪をしたくなり、佐紀にこう切り出した。
「ね、佐紀。この間私が言ったこと覚えてる? テストの点数見せ合うって。今日だったんだよねぇ」
佐紀の目がワッと見開かれた。黒目が不安定に揺れている。亜由美はあれっと思ったが、構わず言った。
「佐紀もテスト、持ってるんでしょ。見せて見せて」
「今日は持ってないよ」
「さては見せたくなくて嘘言ってるね? 鞄の中もチェックさせて頂きます」
亜由美がふざけて鞄に手を伸ばすと、佐紀は突然立ち上がり、拳を握りしめて大声で怒鳴った。
「ないって言ってるでしょ!」
亜由美はぽかんと佐紀を見上げた。佐紀ははっとして口に手を当てた。指の隙き間からキャンディーの棒がぽろりと落ちた。亜由美はうつむいた。
「あ、あの。私、むりやり……」
「違うの」
亜由美は佐紀を見た。声が震えていたからだ。佐紀の目にみるみるうちに涙が盛り上がった。
「佐紀」
予想外の事態に亜由美は戸惑い、佐紀に手を伸ばそうとした。しかし佐紀は素早く身をひるがえした。
「ごめん」
佐紀は言い残し、全速力で駆け出した。突然の出来事に亜由美は後を追うこともできず、彼女の後ろ姿を呆然と見送った。彼女の姿がすっかり見えなくなった頃、下を見やると、佐紀の鞄が転がっていた。
「どうしよう」
しかし亜由美は佐紀の家も、連絡先も知らなかった。
結局、佐紀の鞄は持ち帰ることにした。しっかり持ってみても、嘘みたいに軽い。母は落ち込んだ様子の娘を心配したが、亜由美は何でもないの一点張りで部屋に閉じこもった。色々なことが織のように重なって、とても誰かと話す気分にはなれなかった。父が何か食べろと言ってヨーグルトをくれた。亜由美は二口だけ食べて、残りを冷蔵庫にしまった。けれどお腹も鳴らなかった。
次の日、雨が降っていた。朝のホームルームで担任の先生が言った。
「これから雨が降るにつれ、どんどん寒くなるでしょう。雨が雪に変わった瞬間、冬が始まるのです」
亜由美はぼんやりとそれを聞き、思った。雨が降るようになれば、川原の草むらに座ることができなくなる。佐紀と会う機会が減るかもしれない。亜由美があんまりぼうっとしているので、愛が心配して声をかけてきた。
「亜由美さん、今度は何でお悩み? まさか好きな人でもできた?」
「何でもない。私、ちょっと校内散歩してくる」
亜由美は愛の相手をする気になれず、席を立った。亜由美がふらふらと教室を出ると、後ろから「こりゃ重症だわ」という愛の声が聞こえた。亜由美は渡り廊下からグラウンドを見下ろしながら呟いた。
「私、佐紀を傷つけちゃったのかなぁ」
佐紀は、愛とは違う種類の友人だった。佐紀は何を話しても亜由美を軽蔑しなかった。また、お互い何も話さなくても、どこかで通じ合っているような気がしていた。一緒にいるだけでこんな気持ちになれる人は、佐紀の他にいなかった。亜由美は佐紀に謝ることを決めた。
亜由美は部活を休み、川原に走って行った。雨の中傘をさして、日が暮れるまで待ったが、佐紀はとうとう現れなかった。
「雨が降っていたからかもしれない」
亜由美は気を取り直した。実際に、雨が降るとすれ違うこともあったからだ。しかし晴れても同じことだった。佐紀は現れなかった。
一週間が過ぎた。亜由美は欠かさず川原に足を運んだが、やはり佐紀は姿を現さなかった。
「もしかして、私の顔、見たくないのかも……」
亜由美はとぼとぼと家に帰った。夕飯もそこそこに自室にこもり、布団にもぐって考えた。二人の連絡手段といえば、川原で顔を合わせることだった。今までは、川原に行けば当たり前のように佐紀がいた。しかしどちらかが行くのを止めれば、二人の関係は終わってしまうかもしれないのだ。亜由美の胸は痛んだ。
「そういえば私、佐紀の家がどんな風なのかも知らない。いつも私ばっかり喋って、佐紀は笑って聞いてくれてたんだ……」
亜由美はこのまま佐紀と別れるのは嫌だった。佐紀が自分を許してくれなくてもいい。ただ謝りたかった。何としてでも佐紀に会いたい。どうにかして家をつきとめられないだろうか。そこで思いついたのは、彼女の鞄の中を見ることだった。もしかして生徒手帳が入っているかもしれない。自宅の住所が書いてあるかもしれない。
「佐紀、ごめん」
亜由美はぺしゃんこの鞄の口を開けた。しかしそこには鞄の軽さを物語るものしか入っていなかった。レモン味のキャンディー、筆入れ、一冊のノート。たったそれだけだ。住所が書いてありそうなものは何も入っていない。気が抜けてベットにつっぷした時、ノートの表紙の文字が目に入った。佐紀の名前の横に、”二年三組”と書かれていた。亜由美は飛び起きた。
「佐紀のクラスの担任に鞄を届ければいいんだ。運がよかったら佐紀に会えるかも」
翌日、亜由美は部活動を休み対岸の中学校に向かった。顧問の先生からは「近頃よく部活を休むわね」と怪しまれたが、こちとら友情の危機なのだから構っていられない。亜由美は右手に佐紀のペシャンコ鞄をぶら下げて、真新しい校門をくぐった。知らない校舎を他校の制服で歩くというのは緊張するものだ。亜由美は自分がニワトリの群れに紛れた、一羽のヒヨコになったような気分になった。下校途中の生徒が教室から溢れ出し、亜由美に物珍しそうな視線を向けた。興味津々の囁き声が交差する。
「あれ、あの子ブレザーだ」
「何中?」
「ホラ、川の向こうの」
亜由美は顔に血が昇るのを感じた。生徒の波をかき分けてようやく職員室を探し当て、亜由美はその扉を叩いた。
「はぁーい」
年配の女性の声がした。思い切って扉を開ける。
「失礼しますッ」
緊張していたので、うわずった声が出た。職員の目が亜由美のブレザーに注がれた。見知らぬ生徒の訪問に明らかに困惑している様子だ。一番近くの椅子に座っていた女性が亜由美に問いかける。
「何のご用かしら?」
亜由美は更に真っ赤になりながら、出ない声をふりしぼって言った。あがり症なのである。
「えっと、二年三組の担任の先生はいますか」
「はい、ボクですけど」
奥に座っていた三十代半ばの男性が手を挙げた。よれよれのシャツにだらしなくネクタイをひっかけている。
「どうぞ中に」
先生が亜由美に手招きすると、他の教師は「後は任せた」といった風情で、一斉に作業を再開した。職員室はあっという間に紙とペンがこすれ合う音に埋め尽くされた。亜由美は男性に促されるまま、彼の机の横に置かれた古びたパイプ椅子に座った。男は胸に手を当て紳士に挨拶した。
「ボクは二年三組の担任の鈴木です」
亜由美はずいぶんくたびれた紳士だな、と思いつつ自己紹介をした。
「田中亜由美です」
「亜由美ちゃんね。で、他校の生徒がボクのクラスに何のご用かな」
「これ」
亜由美はおずおずと佐紀の鞄を差し出した。
「ん? これはうちの学校の鞄だね」
「はい。佐紀さんのです」
鈴木は顎に手を置いた。何か考えているようだ。
「麻生佐紀?」
「はい。この間私と遊んだ時に忘れていったんです。でも私、佐紀さんの家もラインも知らなくって、それでここに」
「なるほどね」
鈴木はうーんと唸った。亜由美は何かまずいことがあるのだろうかと身を縮ませる。鈴木は亜由美の様子を見て、朗らかに笑った。顔全体がふにゃりと崩れて、見ているこちらまで力が抜けてしまう。亜由美は鈴木のことを、憎めない人だと感じた。鈴木は言った。
「いやあ、ごめんごめん。佐紀が誰かと遊ぶなんて、想像もつかなかったもんだから、つい。亜由美ちゃんは佐紀と仲がいいんだね」
「え? はい」
「ふーん。佐紀はよく喋るかい?」
「うーんと、普通に」
「そうか、そうか」
鈴木はなぜだか嬉しそうだ。亜由美は、これは一体何の尋問なのだろうと思った。鈴木は続けた。
「佐紀とはよく遊ぶんだね? どれくらいの頻度で? どの時間帯に会うんだね?」
「えっと。毎日のように会ってました。といってもお互いの家ではなく、あの、川原でですけど」
「学校の前の?」
「はい。向こう側の堤防です」
「佐紀はそんなところまで足を伸ばしていたか。学区外なんだがなぁ、あいつめ」
亜由美はまずいことを言ったかなと思った。これで佐紀が怒られないといいのだが。
「会うのは夕方、私が学校を終えて川原に行くと、佐紀さんがいるといった感じで」
「ふーん。亜由美ちゃん。佐紀がいつから川原にいたか、分かるかな?」
「え。うーん。私はたいてい部活が終わってから顔を出すので、佐紀がいつ到着していたかは分からないです。私が早く着いた時は、後からひょこっと現れることもありましたけど、大半は先にいました。だから私、佐紀さんはきっと帰宅部なんだろうなぁって」
「まあ、確かに部活動には行ってないけどね」
亜由美は鈴木の煙に巻くような言い方にイライラしてきた。
「でも佐紀のことは鈴木先生の方がよく知ってるんじゃないですか? だって担任じゃないですか」
「ま、そうなんだけどね。佐紀はなかなか学校に来てくれないから」
「え?」
「聞いてない? 佐紀は学校に来てないんだよ。というよりも来れない。彼女は不登校だ」
亜由美は鈴木の目を見つめた。鈴木は相変わらずのほほんと笑っている。
「そんなこと、佐紀は一言も……」
「あ、そう。やっぱり話してなかったか」
亜由美は心の中で叫んだ。どうして言ってくれなかったの、佐紀。鈴木は机に散らかっているプリントを申し訳程度にまとめると、おもむろに立ち上がった。それから佐紀の鞄を指差し、亜由美に笑いかけた。
「よかったらコレ、佐紀の家に届けるの手伝ってくれないかな。ボクだけで行くと、扉開けてくれないんだ。車で送っていくからさ」
鈴木の車は煙草臭かった。鈴木は車に乗り込むや否や、亜由美が顔をしかめるのもお構いなしに、ぷかぷかと吸い始めた。鈴木は車を発進させ、ぼやいた。
「校内禁煙だっていうんだから参っちゃうよな。喫煙者には辛い時代になったもんだ。といっても君は、全フロア喫煙のショッピングモールや電車に慣れてる世代だよね。あ、煙草苦手だったか、ごめんね」
鈴木がようやく気がつき車窓を開けたので、亜由美はここぞとばかりに深呼吸した。鈴木は亜由美の失礼千万な態度にいやはやと頭をかいた。
「亜由美ちゃんのお父さん、煙草吸わないの?」
「吸いません」
「へえ。お酒は?」
「飲みません」
「真面目なお父さんだね」
「真面目なんです。良くも悪くも」
「うん、真面目な人間は生き辛い世の中だ」
したり顔の亜由美に、鈴木はプカリと煙を吐き出して答える。
「それにしたって喫煙者のどこが悪いっていうんだ? ねェ」
「はぁ」
「まったく、いつの時代もマジョリティのやつらって、エライ顔するんだよなぁ。ずっとマジョリティ側で育ってきた人間は、教師になる資格ないと思うね。人の痛みが分からんやつが多いから。って、こんなこと言ったら教員免許剥奪されるかなぁ」
亜由美は話の筋が分からず質問した。
「まじょりてぃって何ですか?」
「マイノリティって言葉を聞いたことはないかな。少数派って意味なんだけどね。マジョリティはその反対。多数派ってわけだね」
「へー」
亜由美はよく分からなかったので、適当に返事をした。鈴木はふにゃふにゃと笑った。
「君、興味なさそうに人の話聞くね」
「佐紀のことが気になって、それどころじゃないんですよ」
「はは。正直な子だな。正直なのは大切だよ。佐紀は君と違って意地っ張りだからな。彼女、ボクには正直になってくれないんだよ、困ったねぇ」
鈴木の車は緩やかな坂を登り、一件の家の前で止まった。
「さあ、ここだ」
二人は車から下りた。ドアを閉めると、車体がガタピシと揺れた。亜由美は帰りもこの車に乗らなければならないと思うと不安になった。鈴木は一体何年これに乗っているのだろう。そうこうしている間に鈴木はさっさと玄関に押し掛け、インターフォン越しに呼びかけていた。
「すみません。担任の鈴木ですが、誰かいらっしゃいます?」
家の中は静まり返っている。亜由美はその様子をハラハラして見守る。佐紀が出てこなかったらどうしよう。もし、このままずっと佐紀と会うことができなかったら。鈴木はさらに声をかける。
「佐紀、いるんだろ。忘れ物届けに来たぞ。君の鞄だ」
応答はない。
「亜由美ちゃんも一緒だぞ」
一拍おいて、二階でドアが開く音がした。亜由美と鈴木は顔を見合わせた。どたどたと階段を駆け下りる音がしたと思うと、勢いよくドアが開いた。そこには目を丸くした佐紀がいた。
「亜由美……」
「佐紀!」
「どうしてここに?」
佐紀は心から嬉しそうに笑った。亜由美も笑みを返そうとした途端、鈴木が口を挟んだ。
「やっとドアを開けてくれた。これも亜由美ちゃんのおかげだなぁ」
佐紀は鈴木を睨んだ。亜由美は佐紀をなだめる。
「佐紀、大丈夫だよ。悪い人じゃないから」
「ボクを要注意人物扱いか。悲しいね。ま、家にあがらせてもらうよ。少し話をしよう」
佐紀は鈴木の言葉にしぶしぶドアを開け、二人を家の中へ招き入れた。よく見てみると、佐紀はスウェット姿だった。心なしか瞼が腫れている。今まで眠っていたようだ。家の中は冷たく薄暗かった。どの部屋も広々としているが、生活感が全くない。亜由美は呟いた。
「ここが佐紀の家……」
佐紀が振り返る。
「大したことないでしょ」
「広いね」
「まぁね」
鈴木が言う。
「どこで話をしたらいいかな?」
佐紀は鈴木に冷たい声で言った。
「私の部屋にどうぞ。こっち」
「何でボクにはそんなに厳しいのかなァ」
階段を上がった先が佐紀の部屋だった。亜由美はドアノブに鍵を発見し、声をあげた。
「わ、鍵つきだ。佐紀、リッチな部屋に住んでるね」
「そんなんじゃないよ。どーぞ。散らかってるけど」
言葉通りだった。漫画やCDや本が散らばり、部屋の床を覆い隠していた。窓には遮光カーテンが引かれており、室内の暗さときたらまるで夜だった。鈴木が持ってきたであろうプリントが、くしゃくしゃになってゴミ箱につめこまれていた。鈴木はそれを見つけて世にも哀れな顔をした。テーブルの上には空になったコンビニ弁当と、お菓子の包み紙が積まれ、食べ物の臭いが籠っていた。佐紀は足で障害物をかき分け、小さなクッションを二つ放り投げた。
「亜由美、鈴木、そこに座って」
「担任を呼び捨てにするんじゃないよ」
鈴木は口調のわりに穏やかな顔で小さな空きスペースに腰を下ろした。亜由美も部屋の様相に圧倒されながら、こわごわと座った。佐紀の方はベットに座り、頭からフードのように毛布をかぶった。三人がそれぞれの場所に落ち着くと、亜由美は佐紀に頭を下げた。
「この間はごめん。私、佐紀のこと怒らせちゃった」
佐紀は突然の謝罪にぽかんとしていたが、微笑んだ。
「亜由美は悪くない。私が勝手に怒ったの。テストを見られたくなかったんじゃなくて、テストを受けなかったのがバレるのが怖かった。だっていずれ私が学校を休み続けていること、つまり不登校してることがバレてしまうから。……事情はもう、鈴木に聞いているんだよね」
亜由美は頷いた。
「だからいつも鞄がカラッポだったんだね」
佐紀は亜由美の手から鞄を受け取り、振った。筆記用具がぶつかり合うカラカラという音がする。
「そう。授業を受けないのなら、教科書なんていらないもの」
「私より先に川原に来てたのも、授業に出ていなかったからできたことだったんだね」
「うん。だけど私、学校に行くのを拒否していたわけじゃないんだ。毎朝、今日こそと思って家を出るの。でも、学校の前でUターンしちゃうんだ。けれど家に帰るのも忍びなくて、川原で時間を潰していたの。で、亜由美と落ち合う」
「私、佐紀が帰宅部だから、早く川原に着いてるんだと思ってた」
「一応吹奏楽部に所属してるんだ。一度も顔出したことないけどね」
亜由美は笑ったが、きちんと笑うことができているかどうか自信がなかった。鈴木が言った。
「学校の前まで来たら、ボクに電話しろって言ってるだろう。校門まで迎えに行くからさ」
佐紀は答えた。
「図ったようにスマホ忘れてきちゃうんだ。多分わざとだよね」
「あちゃあ。参ったな……」
鈴木は頭に手をやった。亜由美は言う。
「毎日会えるのが当たり前だったから、安心してたんだ。でもこの一週間、佐紀が川原に現れなくなって、聞いておけばよかったって凄く後悔したけど」
亜由美と佐紀はうつむいた。鈴木は二人の会話の成り行きを見守っている。
「でも佐紀、どうしてそんな大切なことを言ってくれなかったの。言ってくれていたら私、佐紀にテストの話なんてしなかったのに」
「私、亜由美に、普通に見られたかったの。この話はしないでおこうなんて、気遣いされたくなかった。でも、いつかボロがでるんじゃないかって怖かった」
「テストの話ができないことなんて、恥ずかしくも何ともないじゃない」
佐紀の声が小さくなった。
「そう思う?」
「うん」
鈴木が腰を上げた。
「ボクは煙草を吸わせてもらうよ。この家は喫煙可かな?」
佐紀はうなずいた。
「リビングに灰皿がある」
「そうか。じゃ、ちょっと失礼して」
鈴木が階段を下り、リビングのソファに座る音が聞こえた。二人きりにしてくれたのだろう。自分がいたら佐紀が正直に喋れないと思ったのだろうか。鈴木の気遣いに気づいているのかいないのか、佐紀は言う。
「朝起きる度、お母さんとお父さんに申し訳なくなるんだ。私は今のところただの子供だから、二人に恩返しをするとしても、いい子でいることくらいしかできないじゃない? なのに、それすらままならないの。ただあの建物に入って、皆と同じ格好をして、同じ行動するだけなのに、できないんだ。自分はおかしいんじゃないか、うまく大人になれないんじゃないかって不安になった」
亜由美は佐紀の隣に腰掛け、彼女を覆っていた毛布をはいだ。佐紀は顔をくしゃくしゃに歪めて、亜由美に抱きついた。亜由美は佐紀の頭を撫でた。嗅ぎなれたシャンプーの匂いがした。
「亜由美と一緒にいると安心できたんだ。普通に学校に行ってる子でも、私と同じように悩んでると思えたから。けれど朝になれば、同じことの繰り返し。惨めな自分に逆戻りするんだ。時々、髪を編み込んだりもしてみるの。特別にきれいに結えたから、今日こそは教室に入って皆に見せようと思うんだけど、駄目。……亜由美のところに鞄を置いてったのもね、忘れたんじゃない。どうでもよくなっちゃったんだ。あんなもの、いらないって思った。傍に置いておくだけで、行けない自分を思い出して苦しくなるから。……亜由美を怒鳴りつけた翌日、もう外に出るのも嫌になっちゃった。だって川原に行けないのなら、どこにも居場所なんてない。学校に行っても、友達一人もいないんだもん。亜由美だけが私の友達なの。亜由美に嫌われちゃうのが一番怖かった」
佐紀はわっと泣き出した。
「私、そんなことで佐紀を嫌いになったりしないよ」
「本当に?」
「本当だよ。それに、私だって佐紀と同じだよ」
「違うよ。だって亜由美は毎日学校に通っているし、友達だっているし、テストも受けてるし、家族ともうまくやれてるし」
「友達はいるけどお互い性格が違うから、噛み合ないこともしょっちゅうだよ。恋愛の話だって私、何も分からないし。周りはどんどん恋をして、お洒落して、何だか自分ばかりが子供なような気がしていたよ。毎日学校に行っていても、何が目的でそうしてるのか、今は全然分からなくなっているの。何で勉強をしなくちゃいけないのか、将来何になりたいのか、大人ってどうやったらなれるのか、身近な進路のことでさえ、私は何も分からない。お母さんは毎日ご飯を作ってくれるし、お父さんは頭が良くて、勉強を教えてくれるけど、親の期待に答えられなくて、心苦しくなる……」
「亜由美は正直だね。そういうところが羨ましかった。だから亜由美の相談乗ったつもりになって、優越感感じてたの。この子に私は頼りにされてるんだって。亜由美のかけがえのない友達でいる気分でいたの」
「本当のことだよ。佐紀は私の友達だよ」
「ずっと? 私が皆と同じじゃなくても?」
「同じって何なのかな? 佐紀が皆と違うんだったら、私も皆と違うんだ。だって私は恋を知らないし、髪留めをつけられないし、テストで十点とるし、進路だって決まってないし、料理だってできない。私は十四歳っていう基準からすれば、全然だめだめだよ」
「そんなこと……」
亜由美は佐紀を一層強く抱きしめた。
「あのね、うちのクラスに愛ちゃんっていう子がいるんだけど、彼女凄いんだ。髪の毛グルグルで、つけ睫毛してて、先生から注意されても直しもしないで、スカートだって一人だけパンツ見えそうなくらい短くてね、女子から色目使ってるって嫌われてるんだ。しかもいつか自分がお姫様になれると思ってる」
佐紀はあっけにとられた。
「すっごいね、その子」
「でしょ? 私たちと同じ十四歳なのに、何の後ろめたさもなしに学校に通ってるんだよ」
佐紀と亜由美は顔を見合わせて、同時にふきだした。
「すっごい、すっごーい。その子、強いね」
「でしょでしょ、持ち物だって全部テカテカのショッキングピンクなの。規則違反なのにそれを隠しもしないんだよ」
「ぎゃははは!」
久々に佐紀の笑顔を見て、亜由美は嬉しくなった。亜由美は言った。
「だけど愛ちゃんの本当に凄いところは、料理できて、モテモテで、親がお弁当に冷凍食品ばっかりつめても文句言わずに食べるところなんだ」
佐紀は鞄からレモンキャンディーを取り出して、口に放り込んだ。佐紀らしくなってきた、と亜由美は思った。
「カッコイイね。私、会ってみたい」
亜由美はうなずいた。
「うん。愛ちゃん、超カッコいいよ。佐紀ならすぐ友達になれるよ」
笑い声を聞きつけたのか、鈴木がぬっと顔を出した。
「話は済んだかな?」
「鈴木は何の話をしにきたわけ? 進路? 欠席日数? こないだ受けなかったテストの話? 帰りが遅い両親の……」
「いや、今日は短い話なんだ」
鈴木はヤニくさい人差し指を立てて言った。
「マイノリティを恐るるなかれ」
佐紀は首を傾げた。
「まいのりてぃ?」
「佐紀、君はきっと人の痛みが分かる人間になるだろう。マイノリティについては、ボクが帰ったらインターネットで調べなさい」
佐紀は舌を出した。
「なんのこっちゃ」
「それから君はハウスが好きなのかね」
鈴木は足元のCDを拾い上げパタパタと振った。
「うん。音楽は何でも聞くよ」
「じゃあ佐紀、知っているかな。ハウスを産んだはゲイの人達なんだよ」
「えっ。そうだったの?」
「人は何をもって普通かそうでないかを判断するのかな? 普通って、皆と同じって、一体何なのかな? そして、果たして普通であろうとするのは、自分のためになるのかな? 何もそればかりが人の価値ではないと思うぞ」
鈴木はにやりと笑って亜由美に手招きした。
「さ、ボクたちはそろそろ帰ろう。暗くなってきたからね。亜由美ちゃん、送るよ。佐紀、今度メシでも食おう、コンビニ弁当ばかりじゃ体に悪い。後、ぼかぁテクノが好きなんだ。今度CDを貸しにくるから、その時はドアを開けてくれよ」
鈴木は部屋を出て行った。後に続こうとする亜由美の手を、佐紀が握って引き止めた。
「亜由美」
亜由美が振り返ると佐紀はうつむいていた。猫っ毛の向こうで、桃色の唇がかすかに動いた。
「嘘ついて、ごめん」
亜由美が何も言わないので、佐紀はおずおずと顔を上げた。すると亜由美は佐紀の口から棒つき飴をかっぱらい、にやっと笑った。
「本当だよ、佐紀の意地っ張り! 第一の親友に相談しないなんて信じられない!」
佐紀はぽかんとしていたが、ほっとしたように笑った。
次の日、亜由美は目覚ましが鳴る前に起きた。台所から馴染みのあるいい匂いが漂ってくる。亜由美は弁当をつめている母の隣に並んだ。
「あら、お早う。随分早いのね」
「うん」
亜由美は母が弁当をうめてゆく様子を目で追っていた。
「なあに?」
「ううん」
「変な子ね。亜由美、プチトマトのヘタをとってくれる」
「はぁい」
母は突然手伝いだした娘を見て、訝しがりながら心なしか嬉しそうだった。弁当が仕上がる頃、父が起きてきた。今日も一番上のボタンをぴっちり留めている。父は亜由美に気がつくと、寝起きとは思えぬきびきびとした声で言った。
「お、早いじゃないか」
「お父さん、お早う」
「偉いぞ。毎日こうだといいんだけどな。社会人になった時、きっと役立つ」
亜由美はお父さんらしい、と思った。けれど考え込むことはしないで、父に言った。
「うん、でも、それはもう少し後になってから考えるよ」
亜由美は父に弁当を手渡した。
「そうか。それもそうだな」
父は静かに弁当を受け取った。
亜由美は重い鞄を背負い、教室に入った。既に大半のクラスメイトが席につき、それぞれの会話に花を咲かせている。亜由美は愛に声をかけた。
「愛ちゃん、おはよう」
「んあーい」
愛はつけ睫毛をつけている真っ最中だった。
「愛ちゃん。私ね、この間もらった髪留め、つけてみたよ」
愛は集中するあまり鼻の下を伸ばしながら言った。
「髪留め? そんなのあげたっけ?」
亜由美は面食らった。
「覚えてないの?」
「うーん、色んな人にあげてるからねェ」
「私、つけるかつけないかで真剣に悩んだのに、愛ちゃんて適当だねえ!」
「ん? あ、ようやくいい感じに盛れた。なんてつけまのノリって時々調子悪いんだろ。やんなっちゃうよ」
何を言っても右から左なので、亜由美は肩の力が抜けた。
「……もういいよ。それより、今度友達を紹介したいんだ」
愛はようやく鏡から顔を上げた。
「ふーん。どのクラスの子?」
「隣の中学の子」
「頭いい?」
「うーん、そうでもないかな」
「あそー。アタシそういう子のが好きだよ。面白ければなお、宜しい」
「愛ちゃんってわけもなく上から目線だよねえ」
「悪い?」
「ぜーんぜん。愛ちゃんらしいよ」
「でっしょー」
亜由美は心底呆れて、教科書の準備を始めた。
部活が終わった。亜由美はジャージのまま鞄を引っ掴み、川原への道のりを走った。吐く息が白い。冬が近いのだ。堤防に差し掛かると、セーラー服を着た華奢な後ろ姿が見えた。亜由美はぶらっと手を振ってみせる。
「佐紀ぃ」
佐紀は手を振りかえした。
「亜由美。お疲れ」
「お疲れー」
「走ってきたの? 急がなくたっていいのに。私は逃げないよ」
亜由美は佐紀の肩を強く叩く。
「しばらく姿を見せなかったくせに」
佐紀はてへへと頭をかいた。
今日の川は連日の雨で水かさが増している。水の音も心なしか力強い。佐紀は水面に視線を落として、呟いた。
「今日も行けなかったよ」
亜由美も言った。
「私も、進路決まらなかった」
川の向こうは相変わらず帰路につく生徒でにぎわっている。二人はその声に耳をすました。佐紀はスカートのポケットに手を入れた。
「ガム食べる?」
亜由美はまるで難しい問題でも聞いたかのように、片方の眉を上げる。
「何味?」
佐紀はもったいぶって言う。
「さー、何味でしょう。当ててごらんなされ」
佐紀がぷっと頬を膨らますと、鮮やかな青色が膨らんだ。
「ミント」
「はずれ。ラムネ味だよ」
佐紀は亜由美の手にクルミ程の大きなガムを乗せた。ずしりと重い。
「凄い。大きいビー玉みたい」
「でっしょお。噛みごたえあるんだ、これが」
亜由美は口を思いっきり開けて、青い玉を放り込んだ。二人は冬の空とよく似た色の風船ガムを、仲良くぷかぷか膨らました。頭上で金星が光っている。亜由美は言った。
「佐紀」
「何?」
「私、明日誕生日」
「へえ、十五歳だ。おめでとう」
「ありがとう」
佐紀は問いかける。
「何か変わった?」
「なーんにも」
「なーんにも、ね」
「うん、なーんにも」
亜由美は自分の顔を指差した。
「私の顔、変わった?」
「ううん。全然。いつもと同じに見える」
「でも、ちょっとずつ変わってくんだね」
「だけど、長い目で見れば、それも、なーんにもだよ」
「なーんにも、ね」
「そう、二人でいれば、なーんにも怖くない」
二人は顔を見合わせた。佐紀が風船ガムを思い切り膨らませると、それはパチンと破れた。佐紀はガムを包み紙に吐き出すと、新たなガムを口に放り込んだ。
ガムとキャンディー